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1、2008年11月ー世界学問研究所規約にもとづく活動として、この「序論」部分のエッセンスが、出版事情厳しい折ながら良心的に刊行されているオピニオン誌『日本主義』(白陽社、2008年冬号、紀伊国屋・丸善など全国書店で販売)に「新学問論」として掲載されました。
あわせて御参照賜れば、幸いです。
2、2008年12月5日ー世界学問研究所規約にもとづく活動として、明治初年の汚職事件についてテレビの取材を受けました。
思えば、筆者が事件録の分野に最初に乗り出した『華族事件録』(新人物往来社、新潮社)は、主要新聞・雑誌などに取り上げられました。大きな反響があって、今でも恐縮しています。
富社会の問題性を照射する上で、『事件録』は最適であります。
3、2008年12月6日ー世界学問研究所規約に基づいて、「ブータンGNHの一考察ー仏教と権力との関連について」を最終推敲中であり、そのエッセンスを世界的な仏教経済の学術機関で報告する傍ら、近々このサイトで公開予定です。
第四代ブータン国王の提唱したGNH(Gross National Happiness)は国際的に注目され、GDPに疑問を抱いている人々などに大いに受け入れられています。
しかし、これが提唱された歴史的背景・仏教的理念などを理解する人は非常に少なく、ただGDPに代わる概念として引用・援用され、賞賛されているかです。某スタンフォード大学教授は、GNHを自由主義に対する規制主義ととらえる体たらくです。「自由と規制」というありきたりの視点でみますと、いかにも自由が規制よりも優れた思想にみえてきますが、経済的「自由」とは、「儲けるための欲望の自由」でしかないのであり、仏教哲学の欲望規制という高邁な理念にはほど遠いものです。やはりGNH概念は、仏教と権力の関係を抜きにしては語れないものですが、この点を触れた研究が少ないのが現状です。
そこで、ここで、ブータン仏教史や現在ブータンの直面する諸問題などをも踏まえて、GNHの意義と限界を明らかにしています。
4、2008年12月7日ー世界学問研究所規約に基づいて、既に数年前に作成していた「千代田郷土史」をここにリンクいたします。
千代田区駿河台・猿楽町には、実に個性的・理想的・自由主義的で反骨溢れる人々がおり、世界的なスケールで活躍された方もあって、私の人生の師となっております。近現代という限られた時期に、駿河台・猿楽町という狭い地域に、これだけ多くの素晴らしい人々が生まれ、或いは居住し、関わっていたということは極めてめずらしいことだ言ってよいでしょう。世界的にも例が少ないかもしれません。
自分の生まれ育った郷土の先輩・師から受けた薫陶への謝恩の念から、彼らの生涯の歴史を精魂込めて書き上げました。ご参照いただければ幸いです。
5、2009年1月20日ー世界学問研究所規約に基づいて、世界的学術機関「仏教経済研究所」で「ブータンGNHの一考察ー仏教と権力との関連について」を報告しました。
世界的に著名な仏教経済学者、仏教学者らから、貴重なご意見を頂きました。また、新聞論説委員氏から、実に鋭いご質問を受けました。的確な質問は、論旨・核心を明確化するので、とても有益です。
いずれ公開しますが、当分発表の手続きの時間がありません。関心のあるかたは、2月12日朝日新聞夕刊2面「窓 論説委員室から」に一部核心が紹介されていますので、ご参考にして頂ければ幸いです。
6、2009年2月5日ー世界学問研究所規約にもとづく活動として、「山城屋和助事件」、「尾去沢鉱山事件」に関して、NHK教育テレビ『歴史に好奇心』の教材執筆、番組出演に協力しました。
ノンフィクション作家朝倉喬司氏の総合案内で近代資本主義の「貨幣魔術」(権力の貨幣増発・乱発、経済的「悪徳」者の詐欺・マネーゲームなど)の一部を取り上げていて、近代の弊害を反省する上では非常に重要な番組です。
金融論では、一般に貨幣の利便性とか役割しか述べないものですが、貨幣は権力者が「富国」手段として創出したものです。貨幣は権力者の富に結びつき、やがて資本主義のもとで一般庶民にも手の届く錬金術になってゆきます。金融は経済的「悪徳」者が一般庶民も巻き込んで、全世界を席巻し、その果てには現在の金融危機をもたらしました。デリバティブ理論などにノーベル経済学賞を与えた「経済学の欺瞞性」には真剣に反省し、さらには今後もこの資本主義体制でいいのかどうか根源的な問いを発しなければなりません。節欲を説く仏教系の大学までもが金融投資で大きな損失を被ったり、学問とは無縁な元財務省官僚側が「政府紙幣」発行論を提唱するような時代です。一般庶民が金融被害を被る可能性は、限りなく大きい見てよいでしょう。そういう意味では、この番組は時機にかなった好番組です。
なお、政府紙幣とは、経済の内在的必要に基づいて貨幣を発行するのではなく、権力が戦争・恐慌などの非常時を口実に乱発する怖れのあるものです。なぜ中央銀行ができたのか、政府紙幣の乱発が如何なる物価騰貴を招いたのかの歴史を知っていれば、政府紙幣の弊害は一目瞭然です。日本では、戊辰戦争の時に太政官金札が乱発されインフレを招いて以後、小額政府紙幣を除いて一切政府紙幣が発行されなかったのは、政府紙幣を発行すれば、その弊害(内在的貨幣流通の攪乱による日本銀行券の価値低下、物価騰貴。権力の紙幣乱発の発端になる)は大きいからです。仮に一時的に「景気回復」しても、「経済外」的に強権発行したゆえに、一般庶民に与える弊害は極めて深刻だからです。これまた権力の「貨幣魔術」の一つです。
「山城屋和助事件」については、NHK教育テレビ『歴史に好奇心』の教材では紙幅制約でエッセンスのみしか書けませんでしたが、良心的オピニオン誌『日本主義』春号(丸善、紀伊国屋など全国で発売中)には詳細を述べています。
7、2009年3月13日ー世界学問研究所規約にもとづく活動として、志ある編集長と会談しました。「本物の学問とはなんですか」というので、「富(経済学、経営学、国際経済学、貿易、など)と権力(財政学、法律学、政治学、外交など)がなくなっても、生き残っている中に本物の学問があるでしょう」と答えました。
そして、さきほど古本屋(私にとって神保町古本屋は近接図書館の一部です。ただし、利用頻度はアマゾンが高いです。神保町古書店ネット検索では見つからない本も、アマゾンではほぼ確実に見つかります)で購入したばかりの元東大教授岩崎武雄『哲学のすすめ』(講談社現代叢書、昭和41年)を取り出して、「学問性とはなにか」について「客観性を要求するもの」とあるのを引用しつつ、「これでは、学問論を構築できません」とだけ答えておきました。
学問に限らず、編集もまた志ある人々によって担われるものです。
「自然社会論」のエッセンスの雑誌掲載などについて話し合いました。掲載されましたらば、報告します。
8、2009年3月14日現在、世界学問研究所規約に基づいて、世界的学術機関たる仏教経済研究所の機関誌『仏教経済研究』2008年に掲載した「仏教経済学 労働編」の続編として、並行して『仏教経済学 流通編、分配編』の推敲を手がけています。
これまで仏教経済学=自然経済学とみてきましたが、流通・分配過程では、仏教経済学と自然経済学とに違いがでてくることが明らかになりました。
仏教は、自然社会の精神を少なからず取りれていますので、労働=生産過程では仏教経済学と自然経済学との間に大きな相違はありませんでしたが、結局、仏教は「富社会の宗教」であるために、富の存在を認める仏教経済学と、その存在を批判、否定する自然経済学との間に相違がでてくるようです。これまた、発表、掲載の際には、ここで公表します。
なお、仏教が「富社会の宗教」であるということは、単に仏教が利潤を認めるということを意味するのみならず、仏教が「親権力的」であることを意味します。これが重要です。これは2009年正月仏教経済研究所で報告したところでもありますが、余り仏教側ではこれを正面切って問題にはしません。以前、ある高僧はこれを認め、特に仏教の戦争協力の反省を口にされました。ですが、戦争協力もさることながら、仏教が、時の世俗権力とともに、荘園領主、封建領主として人々を搾取してきた「親権力的」だったことを真剣に反省すべきでしょう。
この「仏教の親権力性」はいくつかの謎に接近するヒントにもなります。豪族戦乱状況と仏教統治ということについては、大乗仏教国のチベット(法王支配)とブータン(シャプドゥーンのもとに聖界を監督するジェ−・ケンポ[宗教の長]、俗界を監督するドゥック・デシ[政治の長。摂政、任期3年。1651年−1907年、まで55人就任。君主制確立した1907年廃止])が大いに参考になります。つまり、仏教による国家統治の形態を考える場合、法王が直接統治するか(チベット的形態)、法王のもとに聖俗代表者を通して統治するか(1907年までのブータン)、世俗国王(或いは頂点)が法王を「序列的に従属」させるか、自ら法王となって転輪聖王(アショカ王[前304−232年]から現ブータン国王まで、この実例あり)という存在になるかであります。
この観点から「聖徳太子」、「法隆寺」の謎に迫ると、多くの貴重な示唆が与えられます。ここでは、簡単に述べておけば、遠山美津夫『なぜ聖徳太子は天皇になれなかったか』(角川ソフ
ィア文庫、2000年)、豊田有恒『聖徳太子の悲劇ーなぜ天皇になれなかったか』(祥伝社、1992年)と考える発想から離れて、「なぜ厩戸皇子は大王にならなかったのか」、仏教王国の権力形態(従来の久米邦武、津田左右吉などの貴重な研究は史料批判をするのみで、権力構造分析が欠落)とはいかなるものなのかと考えるべきだということを指摘するにとどめましょう。大王による豪族祭主権掌握を通しての神道的支配が行き詰まる中で、蘇我馬子、厩戸皇子が仏教による全国統治を実現しようとする場合、誰かを頂点の法王に据えて、法王が「臣下」の世俗大王らを通して全国豪族を支配するということが考えられたでしょう。
こうみると、厩戸皇子が菩薩、釈迦に擬せられたり、「上宮聖コ法王、または法主王」(厩戸皇子の伝記『上宮聖徳法王帝説』)と称されたり、「法興六年[法興年号の存在]十月 歳在丙辰 我法王大王[厩戸皇子] 与恵慈法師及葛城臣・・遥夷与村」(『伊予国風土記』中の「道後湯岡の碑文」)とあったり、日本最初の本格的寺院たる法興寺(飛鳥寺とも言われる。蘇我馬子が用明天皇に請願し、厩戸皇子に建立させる)を建立したり、斑鳩宮を造営し、そこに法隆寺(法とはダルマであり、転輪聖王の全国支配の手段)を建立したり、「国に二君なし」(十七条憲法の12項)と言った理由がよくわかってきます。かつ、後に法王支配ではなく、天皇支配が確定する過程で、仏教は律令制天皇のもとで利用する存在とされ(だから、法隆寺再建や、聖武天皇の東大寺建立、大仏造営などがなされた)、法王支配という「歪んだ」痕跡の修正(厩戸皇子は推古天皇の摂政的存在。法王を法皇としたこと[法王は大王の上にたちうるが<例えば、称徳天皇が道鏡を法王にして、同等かそれ以上にして、一時的中継ぎとして彼を天皇にしようとする事件がおこる>、法皇は律令制天皇制下の仏教界頂点。法王と法皇の相違は仏教王国権力構造論に立脚すれば一目瞭然です])がはかられたことも良く理解できます。
なお、津田史学方法論の問題点について、梅原猛氏は的確な指摘をされています。梅原氏は、「日本の古代史学において、多くの歴史家は津田左右吉の解釈の下にたっているが、私は津田左右吉の方法論は根本的に間違っていると思う」とし、「矛盾律を犯す者はすべて不合理とする」「形式論理」で、「悟性の立場」(『飛鳥とは何か』[『梅原猛著作集』第15巻、1982年、401頁])だと批判します。だからといって、梅原氏の「感性的」方法だけが正しいとするのも問題でしょう。「真理とは・・・肯定と否定の中間にある」(『神々の流竄』[『梅原猛著作集』第8巻、1981年、30頁])ものであれば、悟性的立場(史料批判)と感性的・宗教的立場の柔軟な駆使(形式的な総合とはいいません)が必要でしょう。
9、2009年3月30日、世界学問研究所規約に基づいて、今年中に世界的学術機関たる仏教経済研究所で「仏教経済学 流通篇」か、「厩戸皇子の仏教王国ー仏教と権力の関連」について報告します。
「厩戸皇子(聖徳太子)の仏教王国構想」、「仏教経済学 流通篇」などは、世界人類の歴史・現在・未来を考える世界初の総合的根源的学問論『自然社会と富社会』の関連研究です。
前者は前回発表した「ブータンGNH の一考察ー仏教と権力との関連」の続編であり、、後者は前々回発表した「仏教経済学 労働篇」の続編(これは『仏教経済研究』に公表されてから、出版会社社長がわざわざ刊行をすすめに来訪)です。いずれを先に発表し、どちらを次回にするかは、まだ未定です。
こうした総合的・根源的学問構築と諸個別研究深化の相乗作用の中に真の学問力(これは「宇宙自然のうちに世界人類の過去・現在・未来を科学的・哲学的に見通す力」だといっておきましょう)が醸成されます。
10、2009年5月3日、世界学問研究所規約第三条第六項第二にもとづく活動として、このHPのうち「自然社会」の一部のエッセンスをオピニオン雑誌『日本主義』夏号(紀伊国屋などで販売中)に掲載しました。
なお、物理学者竹内均氏が「学問論」についてすぐれた指摘をしています。氏は、「私は『第三世代の学問』という考えを提案しています。第一世代の学問は博物学的であり、第二世代の学問は分析的でまた専門化している。これらに対する第三世代の学問の特徴は総合であり、そこでは一種の世界観がうちだされる。ここまでいかなくては、学問は学問たるに値しない、と私は思っている」(「個性的と科学的と」『梅原猛著作集』月報1、第8巻神々の流竄)というのです。分かることと実行することとは別ですが、新しい総合的学問の必要性が分かるだけでもえらいと思いますね。
そうです、「虚学」「偽学」が横行する現在、真の学問か否かをみるメルクマールの一つは、そこに「学問の総合化・根源化」を内在的に追究するものがあるか否かでしょう。これがあれば、学問的精神・緊張が自ずと横溢し、非学問を峻拒する批判力が漲るでしょう。
これは仏教経済研究所で発表したことでもありますが、私がこれまで調べたりした結果では、物理学者の中に「学問総合化」を提唱する人が少なくないということが指摘できます。これは、真の学問とは具体的に何かを力強く示唆しています。私は40年の諸研究従事の後にここにようやく気がついたのですが、これは回り道、無駄だったとは少しも思いません。仮にはじめから物理学だけを専攻していれば、物理学の総合的・根源的重要性の認識度が希薄であり、いざ総合しようにも必要知識が希薄だったろうと思うからです。総合的・根源的学問構築には、膨大な学問蓄積が必要だからです。
実際、物理学者で総合的学問の必要性を提唱する人は少なくありませんが、それを実行に移した人はほとんどいないでしょう。皆無かもしれません。これは、物理学だけやっていても「総合的・根源的学問」を構築することができないということでしょう。
では、なぜ「総合的・根源的学問」が必要なのかということを再確認しておきますれば、例えば経済学のように、個別学問研究は人類・社会に害悪を与えるからです。理由は明快にして簡単なのです。
11、200年5月28日、世界学問研究所規約第三条第六項第二にもとづいて、仏教経済に関しては世界的学術機関である仏教経済研究所の学会誌『仏教経済研究』2009年度号に「ブータンGNHの考察ー仏教と権力の関連について」を発表しましたので、興味のあるかたはご高覧いただければ幸いです。
仏教の持つ深遠な哲学は世界一であり、実に多くのことを教えられています。ですが、この仏教にもおかしなところがないわけではありません。道元はまずは信じよといいましたが、学者はそういうわけにはゆきません。疑うところから、学問営為の第一歩がはじまります。仏教のおかしなところの一つは仏教の「親権力性」です。それを「仏教と権力」として、ブータン仏教王国論、「聖徳太子飛鳥仏教王国論」などとしてとりあげているとろです。
「総合的・根源的学問」構築作業という大きな営みの相乗作用として、こうしたことと関連して、近々、富問題関連研究の本が刊行されるでしょうから、これもまた刊行されました暁にはここで報告いたしましょう。
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