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                          日本海軍の諸問題ー日米戦争期を中心に
      

                                     はじめに


 昭和16年の日米交渉の時期に日本政府内で「和戦の決の最後的鍵鑰を握るもの 帝国海軍を措いて他に之を求め得ず」(16年6月5日、海軍第一委員会、第二委員会「現情勢下に於て帝国海軍の執るべき態度」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、昭和16年12月まで、朝雲新聞社、昭和13年、285頁])、「太平洋戦争の主役は、日米両国の海軍」(池田清『海軍と日本』中公新書、2007年、56頁)となった。


 日米戦争の敗因 日本が、日米戦争で敗れた理由については、周知の通りこれまで多くの指摘がなされている。「戦闘は過誤の連続である」(池田清『海軍と日本』29頁)とも言われるから、戦争で勝利するには、出来るだけ短期決戦で戦闘過誤を最小にとどめるのがベストだが、長期決戦を余儀なくされる場合には国力で過誤影響力を相手国より軽微にとどめることが不可欠になる。周知の通り、この海軍主軸の日米戦争は長期戦となって、基本的には国力差で破れた。これが日本敗北の基本的理由であるが、具体的な諸理由については多くのことが指摘されている。

 軍事にも通暁した最高司令官でもあった天皇もまた、この敗戦の具体的な諸原因として、陸海軍において、軍事の理論的・根本的問題点(@「兵法の研究が不充分であ」り、「己をしらば、百戦危うからずといふ根本原理を体得していなかった」事、A「余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視した事」)のみならず、具体的な戦闘組織面での問題点(B「陸海軍の不一致」、C軍に「常識ある主脳者の存在」せず、且「主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂下剋上の状態を招いた事」)(「昭和天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月号、122頁)まであげている。生物学者でもある天皇は、実に的確に日本軍隊の諸問題を見抜いている。

 基本的分析視点ー陸海軍相関論  これらの諸要因のうち、何が最も重要であったか。池田清氏は、「現代戦を有利に遂行するには、政略・戦略・戦術の統合調整、いわゆる強力な戦争指導が必要」であり、「太平洋戦争中の日本の戦争指導は、それぞれの馬が勝手な方向に突っ走ろうとして動きのとれない、政府・陸軍・海軍の三頭立ての馬車に似ている」(池田清『海軍と日本』48頁)と鋭く指摘している。こうした戦闘組織面での問題点が、軍事の理論的・根本的問題点を生み出していたのではないか。戦争指導面での問題点が、軍事科学的研究を曇らせ、長期戦での国力重要性の把握を妨げたのではないか。そこで、ここでは、天皇もまた敗戦理由の一つに挙げている「陸海軍の不一致」に関連して、陸海軍相関論(陸主海従論、海主陸従論)を踏まえた日本海軍史の観点から日本近代戦争の特徴を考察することを基本課題としている。

 その際、当時の陸海軍首脳陣の父・祖父は、明治維新時に生まれており、実は日米戦争は明治維新、特にペリー来航とも深く関わっていた事が考慮されよう。それは、ペリー来航・開港が、米国の太平洋貿易の拡大(米国資本綿業資本・機械資本の中国への製品輸出など通商の拡大、新たな対日貿易の開始)には必要ではあったのみならず、日本を植民地化危機に直面させて非常に深刻な影響を与えたからである。まず、この点の確認から始めよう。

 日米におけるペリー来航問題把握の相違 最初に、ペリー来航(1853年)の意義を日本側から見れば、それは、@輸出産業を促進し、幕藩体制流通機構を解体させ、諸物価を騰貴させ、民衆の生活困窮を促進させ、A日本が西欧列強帝国主義との対峙を促進させ、倒幕派と佐幕派との対立を深刻化させて戊辰戦争をもたらし倒幕を早めたのであった。だから、、特に旧朝敵の汚名をかぶった陸海軍首脳にとっては、ペリー来航は自らの海軍軍人としての展開の原点ともなるものであった。例えば、大正4年、男爵瓜生外吉海軍大将紹介で、高野五十六(後の山本五十六)が、米国人作家ウィラード・プライスと会談した際、@五十六は幼少時より「父親から毛むくじゃらの野蛮人の話を聞かされ」「アメリカを憎んでい」て、アメリカ人は、「文明開化を触発した『恩人』」ではなく、「文明を正義と単純に信じ込んでいる暴力の亡者」であり、A五十六が海軍を志望した理由は「ペリー提督のお礼参りがしたかった」(三輪公忠『隠されたペリーの「白旗」』[工藤美代子『山本五十六の生涯』幻冬舎、平成23年、357−9頁])からだと答えた。

 また、旧朝敵藩の出身ではないが、日米戦争継戦派指導者の井田正孝陸軍中佐は、「大東亜戦争・・の主因はアメリカの東洋進出の国策遂行」にあり、「ぺルリ艦隊を東洋に派遣し琉球列島などの中継地占領をも企だて」「米艦の浦賀強行入港」は「この国策遂行の一環」(西内雅・岩田正孝『雄誥』日本工業新聞社、昭和57年、3−6頁)だと指摘して、 日米対決の原点ともしている。筆者は、20年以上前に防衛庁戦史資料室で八・一八事件などを調査した際に、当時の陸軍幕僚の手記(例えば、陸軍大佐親泊朝省の手記)などを見たことがあるが、こうしたペリー来航理解は井田正孝以外にも見られることを確認している。

 次に、アメリカ人のペリー来航の評価をみると、概ね二つの評価がみられる。一つは、主流的な見解である。歴史家サミュエル・エリオット・モリソン元海軍少将は、「武力を行使せずして1人の命をも失うことなく、200年にわたり他国から隔絶されていた東洋の帝国、日本の門戸を世界に向けて開かせた中心人物として、歴史上にその名を不朽のものとした」(座本勝之訳『伝記 ペリー提督の日本開国』双葉社、2000年、255頁)とした。現在の米国海軍もまた、「ペリーの締結した神奈川条約はアメリカ合衆国と日本の間で重要な商業的な取引をもたらし、日本を他の西欧諸国に開放することに貢献して、最終的に日本の近代化をもたらした」( The Navy Department LibraryのHP)と積極的に評価する。そして、その日本近代化に対して、ペリーは、未開日本の閉ざされた扉をこじ開けて開放したが、それは結果的に「『日本帝国という魔性』を解き放した」(ウォルター・リップマン『アメリカの外交政策』[ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』170頁])ということになったとする。

 問題は、当時のアメリカの実態である。当時のアメリカでは、@米墨戦争(1846年から1848年)で「カリフォルニア地方は合衆国に委譲」され、「同地方の太平洋に臨む位置を見て、人々は商業企業の分野が広大せられたとの考えを抱かざるを得な」くなり、その勢いで、「もし東部アジアと西ヨーロッパ間の最短の道が(この蒸気船時代に)吾が国を横ぎるならば、吾が大陸が、少くとも或る程度まで、世界の街道となるに違ひないことは十分に明らかであ」り、A「特にカリフォルニアでの金発見で通商が触発されると、「西海岸とアジアとの直接交易の考は日常普通のことになった」(土屋喬雄・玉城肇訳『ぺルリ提督 日本遠征記』(一)岩波書店、昭和48年、206頁)のであった。こうしてアメリカの太平洋通商への関心が高まったが、当時の日本は、「産業技術の進歩」し「極めて勤勉で器用な人民であり」、ある製造業では「如何なる国民もそれを凌駕し得ない」水準にあり「商業経営者を誘惑する吸引力をもっている」にも拘わらず、オランダを除いて、欧米諸国には扉を閉ざしていた。この鎖国日本は「考へ深い人々の異常な興味の対象」であり、「キリスト教国」の「好奇心」の対象となっていた。ここに、アメリカ側に、日本の鎖国を破って最初の通商条約締結者となるのは、「各国民のうちで最も年若き国民」、つまりアメリカだという気運が生じてきたのである(同上書26頁)。日本の「地勢的な位置」や成長力がアメリカを引き付け、「上海から日本の東岸を抜け、アメリカ北西部に抜ける航路」によって「太平洋を運航するアメリカの船舶が安全に航行できれば、イギリスの世界制覇に対抗できる」(渡辺惣樹『日本開国』草思社、2009年、175頁)と思い始めた。1949年9月17日には、捕鯨業、米国産業の利益のためにニューヨーク法律家アーロン・パーマーは「改訂日本開国提案書」をクレイトン国務長官に提出し(渡辺同上書146−7頁)、1851年米国東インド艦隊のグリン艦長はパシフィックメール蒸気船会社に、「日本の港が太平洋を舞台にする彼らのビジネスの将来に極めて重要である」(渡辺同上書162頁)とした。

 当然、アメリカ人は、その時のアメリカ人を「侵略的民族であるとは思っていない」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』218頁)のである。「ほとんどのアメリカ人」は、「インディアンとの戦いは正当防衛であり、メキシコとの戦争はテキサス、ネヴァダ、アリゾナ、ユタ、ニューメキシコ、コロラドの大部分とカリフォルニアを獲得するための解放行動だったと信じている」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』238頁)のである。彼らによれば、そもそもアメリカは「全ての国民が平等で抑圧からの保護を受けられる」と言う精神で建国され、「アメリカこそが自由と民主主義にもとづく道徳世界を構築する重大責務を、神によって与えられた国」と思い込んでいたのである(渡辺惣樹『日本開国』草思社、2009年、125頁)。そして、モリソンは、「ペリーは米国海軍戦略家アルグレッド・T・マハンに先立ち、『国の防衛手段こそは国策の要で、米国が海外にその力を展開して、明白なる天命である領土拡大と啓発ができる唯一の力は海軍力である』と考えていた」(モリソン『伝記 ペリー提督の日本開国』15頁)とするのである。このように、アメリカ人は、そういう解放・防衛行動、さらには神意に沿う行動として、軍事力を背景とした領土拡大行動があるとし、ぺりー来航もまたそうした一環として積極的に評価するのである。

 もう一つの見解は、アメリカでは少数派であるが、このペリー来航をアメリカ帝国主義の一環とみるものである。例えば、GHQ労働諮問機関メンバーのヘレン・ミアーズは、幕末期アメリカの膨張が帝国主義的侵略だとする。ヘレンは、アメリカは「三百年の間に、インディアン、イギリス、メキシコ、スペインを打ち破り、フランスを脅かし、国家統一のため内戦を戦い、大陸の3002万238平方マイルを獲得して定着し」、さらに「国境を越えて進出し、ときには大陸の縁から7000マイルも外に出て大国と戦ったり、現地住民の反発を抑えて71万2836マイル(日本列島の5倍に相当する面積)の海外領土を得」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』218−9頁)ていたとするのである。アメリカはしたたかに領土を侵略し、領土を拡張していたのである。元ニューヨーク・タイムズ東京支社長ヘンリー・S・ストークスも、アメリカは、「領土を休むことなく拡げ、太平洋に面したサンディエゴ、サンフランシスコ、シアトル、ポートランドなどの新しい港を、つぎつぎと獲得し」、海洋国家揺籃期のアメリカは「飽くなき欲望に駆られて、交易を求め」、「侵略に次ぐ侵略」によって「膨張」し続けていたと指摘する(ヘンリー・S・ストークス、藤田裕行訳「ペリー襲来から真珠湾への道」[加瀬英明ら『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社、2012年、179−180頁])。

 こうしたアメリカの膨張的侵略主義を帝国主義的侵略と言わずしてなんと言おうか。この時期のアメリカ資本主義について、それを自由貿易段階の植民地主義と把握し、独占資本主義段階の植民地主義と異なって「緩和」されていたとする場合があるが、帝国主義にかわりはないということだ。しかも、民主主義の形態を取りつつも、黒人差別を初めとして人種差別をおこなっていた。アメリカ民主主義とは、僅かな貧者・弱者でも能力さえあれば富者や指導者にのし上げ、いかにも自由の国であるかのような体裁をつくろってはいたが、基本的には多くの富者がますます富者になり、儲かることならば戦争でも侵略でも大統領が最高司令官であるというシビリアン・コントロールのもとで巧みに民意を操作して自由に何でもやるシステムであった。これがアメリカ「民主主義」の実像である。

 元ニューヨーク・タイムズ紙東京支局長のヘンリー・S・ストークスの場合は、このアメリカ帝国主義の最初の日本「侵略」の実相を具体的に指摘する。因みに、このニューヨーク・タイムズ紙の前身のニューヨーク・デイリー・タイムズは後に賛成論に廻るが、1852年2月2日付記事では、@艦隊派遣は「日本に対する宣戦布告であり、憲法違反である」事、A漂流民救済は外交交渉によるべきであり、軍事力に頼るべきではない事、B「艦隊派遣が日本の主権を侵害する」事、Cペリー艦隊派遣は、「米国や世界が非難している」「アヘン戦争の悪例を想起」させることなどとし、「軍事的な行動によって日本民衆を米国嫌いにすることは目に見えている。米国が掲げてきた内政不干渉の立場がどうなったのか」と、ペリー艦隊訪日を批判していた(167ー8頁)。同紙は、米国は、ペリー艦隊派遣をを宣戦布告、憲法違反、日本の主権侵害だと鋭く批判していたのである。既に、幕末期にアメリカの対日宣戦布告がなされていたという指摘は如何に強調しても強調しすぎることはなかろう。もとより日本軍首脳は当時の米国内にこうした指摘があったことなどは知るよしもないが、防衛責任者の本能でペリー来航の軍事的性格を嗅ぎ取り、日米戦争の起点にペリー来航を把握したのは当然のことだとも言えよう。

 そのペリー来航から150年後、同紙記者ヘンリーもまた、ペリー艦隊の侵略性・不法性を具体的に批判するのである。つまり、彼は、2隻の蒸気船(「サスケハナ」、「ミシシッピ」)と2隻の帆船(「糧食や物資を運ぶ」)からなるペリー艦隊は、「アメリカ海軍の制服に身を包ん」だ「海賊集団」(ヘンリー・S・ストークス、藤田裕行訳「ペリー襲来から真珠湾への道」[加瀬前掲書171頁])であり、「星条旗をはためかしていたが、現実は黒い海賊旗を掲げ」、先端兵器のシェル・ガン(炸裂砲弾)を並べ(同上書172頁、212頁)、「国際法に照らして、日本に対して海賊行為を働」(同上書174頁)いて、「アジア最後の処女地を踏み荒らそう」(同上書173頁)として、日本を武力で「威嚇」したとするのである。特に、ミシシッピ号は「ペリーの指揮下でメキシコ戦争を戦」(同上書192頁)った侵略実績のある軍艦であった。実際、ペリーは、一方では「一文明国が他の文明国に対してとるべき儀礼的な態度を当然のこと」として微笑を浮かべつつ、他方で「アメリカ国旗の威厳を保つために当然払はるべきであると考へている自分の気持に、少しでも日本人が抵触したならば、当局者の行動並びに威嚇などは顧慮せずと決心し」、「事件の今後の発展」によって「武力に訴へての上陸」もありうるとし、「最悪の場合を予想して、艦隊に対して絶えず完全な準備をさせて置き、戦時中と全く同様に乗組員を徹底的に訓練」(土屋喬雄・玉城肇訳『ぺルリ提督 日本遠征記』二、192頁)していた。蒸気戦艦サスケハナ、ミシシッピ、帆走戦艦プリモス、サラトガ、32ポンド(3.8貫目)砲が全63門で、日本の3貫目以上32門ではこれに対応できず、「江戸湾の最大の砲台である千代が崎台場であっても3貫目以上の大砲は5門」(今津浩一『ペリー提督の機密報告書』ハイデンス、2007年[渡辺惣樹『日本開国』183頁])にすぎなかった。その上、最新兵器ペキサンス(炸裂弾)も搭載していた。歴戦の猛者ペリーは万全の軍事的威嚇の準備を整えて日本にやってきたのである。ペリーは儀礼と微笑の背後に、研ぎ澄まされた武力侵略の牙を巧みに隠して「侵略」行動を働こうとしていたのである。

 ヘンリーは、@幕末の日本人は、「キリスト教徒による暴虐な殺人と略奪が、アジアにおいて次々と続いたのを、知っていた」から、「ペリーの黒船艦隊が浦賀に出現した時に、江戸の衝撃が大き」(加瀬英明ら『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』212頁)く、A日本側は「国法に従って、長崎に回航してほしい」と嘆願しても、ペリーは不法にもこれを無視して、Bペリーは、「日本の神を蛮神として、そこにはまったく敬意を払うこと」なく、帝国主義「神」の使命を果していると正当化して、「そこが自分の領地であるかのように、傍若無人に侵入」し、「優れた文化を持っていた国」を「陵辱」(同上書174頁)し、蒙古襲来以来初めて日本に「侵略を蒙」(同上書173頁)らしめたとする。

 そして、ヘンリーは、@ペリーは、「日本に不幸な火種を植えつけ、西洋に対して長年にわたって燻り続けた敵愾心を、いだかせ」、この火種が1世紀後に真珠湾攻撃・香港(英国植民地攻撃として燃え上がり、A故にこれへの日本反撃について「日本を責めることはできない」のであり、ペリー艦隊が日本を陵辱しなければ「山本五十六大将が率いる連合艦隊が、真珠湾に決死の攻撃を加えることはなかった」(同上書174頁)とするのである。このアメリカ「少数派」意見は、日本軍首脳の意見を代弁すると言ってもよいくらいに、それに類似している。少なくとも、彼らは、日本軍首脳を単なる軍国主義者とか侵略主義者と見ていないということだ。

 このように、日米戦争時の日本軍首脳や一部アメリカ人は、既に幕末からアメリカ帝国主義の牙が日本に向けられていたとし、それ以後の日本軍事力・軍事工業の展開・充実は侵略的欧米の軍事力に対抗するものとみるのである。一方、アメリカはその日本帝国主義に対応しようとして侵略的行動をとったとしても、それは正当防衛だとするのである。だとすれば、日本軍首脳もまた「侵略的行動」をとったとしても、それは欧米帝国主義への当然の防衛でしかないと言うことになる。日本は、日清・日露戦争、第一次世界大戦で大国となるに及んで、今度は欧米帝国主義からアジアを解放するという大義名分(大東亜共栄圏)を掲げたのである。日本は、「西洋の原則というものは、国際法のうえであれ、人類の幸せを考える人道主義のうえであれ、現実には強い国々が弱い国を犠牲にして、自分たちの利益の増大を図るための術策にすぎないということ」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』265頁)を学習していったのである。開港で始まる欧米帝国主義とのせめぎあいの歴史の中で、日本は彼らの侵略を防衛するために弱者を征圧することを彼らから積極的に学んでしまったのである。日本は、周辺諸国との連帯による欧米帝国主義からの防衛ではなく、周辺諸国の征圧と「擬制」的アジア連帯の大義名分のもとに、欧米帝国主義と同じ道を歩みだしたということだ。昭和23年11月極東軍事裁判の判決は、周知の通り満州事変以後の日本帝国の国策を「一連の侵略行為」としたが、欧米列強の国策もまた日本以上に長い歴史をもつ侵略的植民地政策だということである。「大英帝国の世界的な解体のなかでの、アジアにおける植民地再編をめぐる日米英の角逐という視座から見直すとき、第一次世界大戦以降の日本が置かれた国際的立場はまことに複雑なものがあった」(池田清『海軍と日本』C頁)が、それはまさにペリー来航・開国に淵源しているということである。

 マッカーサー(因みに、父アーサー・マッカーサー・ジュニア中将は植民地フィリピンの初代軍政総督であり、ダグラス・マッカーサー自らもフィリピン高等弁務官であった)は、日本占領に当たって自らをペリーに重ねて、「ペリーが浦賀に黒船艦隊を率いて、来航した時に掲げた旗の現物を、アメリカ本土のアナポリスにある海軍兵学校から、その日一日だけの催しのために、わざわざ取り寄せ」、「サスケハナの投錨」した場所にミズーリ号を碇泊させ、「マッカーサーはアメリカ国民に対して、自分をペリーの再来であるかのように演じてみせた」(ヘンリー・S・ストークス「ペリー襲来から真珠湾への道」[加瀬前掲書199頁])のであった。それだけではない。二人は「資質的」に似通っていて、マッカーサーが「執務室や大使館からあまり外に姿を見せず威厳を保った」ことは、「ペリーが旗艦の司令官室に閉じこもったのとよく似ている」(モリソン『伝記 ペリー提督の日本開国』412頁)のである。これは、ペリーとマッカサーが、ともにアメリカ帝国主義の侵略魂の持ち主だったということを端的に示している。

 米軍の日本占領は、後述するが、実質的には新しい形の「アメリカ的な侵略」、つまり国際法的に合法的に「偽装」した不法「占領」形式をとった事実上の「日本侵略」(その頂点が沖縄「植民地化」)ではなかったかと思われるのである。それは、ペリーが「不法」に浦賀に強行入港し、不法に江戸湾を測量したのと同一線上にあるということである。終戦後の日米交渉において、軍事占領などを降服条件に含めることはもとより、相手国の占領費負担で独立国の法律・経済・思想・文化などを自国基準で「改革」することなどが妥当であったのか否か、それは実体では「侵略」行為ではなかったかということだ。それだけではない。それが、戦後60年も経ってなお、いまだに地元住民に不安を醸成しつつ独立国に厚顔無礼に巨大基地を構え続けている事の原点なのではないか。さらに、近年盛んに唱えられだしたグロバリゼーションもまた、「アメリカ再生策」としての「第二の植民地主義」(西川長夫『国境の越え方』平凡社、2001年、380頁)であることを考慮すれば、アメリカの侵略性は衰える所か、いまだに不変だということだ。こうしたアメリカ主導のグローバリゼーションのもとに、こうした終戦後日米交渉の「事実」が、鋭く学問的に問われなければならないということだ。現在、古代に没頭しつつ、この戦後史を熟成させており、これに関しても近々驚くべき事実が明らかにされるであろう。

 ここでは、この事の問題性・不法性が、立場を代えて、日米戦争で日本が勝利した場合を想定すれば、一目瞭然となろうことを指摘するにとどめておこう。つまり、日本が日米戦争でアメリカに勝利し、@英米民主主義の背後には「他国はどうなってもよいという利己主義」があり(大正7年近衛「英米本位の平和主義を排す」『日本及日本人』大正7年11月3日[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、119−120頁])、アメリカ「民主制」こそが侵略戦争の元凶だとして(つまり、「アメリカ民主制」とは軍事力を背景として、或いは金銭で購入する条約を締結して、領土を巧みに併合する侵略装置であり、具体的には、(a)解放・防衛の大義名分のもとに、「武力衝突の結果にもとづく条約」や「軍事力を背景にした外交交渉のみで合意された条約」で領土併合したり、「関係国との条約を無視した不法占拠」で併合し、(b)併合したい領土に共和国[例えばテキサス共和国<1836年 - 1845年>、カリフォルニア共和国<California Republic,1846年6月-同年7月。米墨戦争過程で米軍に占領され消滅し、米国勝利で、アメリカはカリフォルニアをメキシコから1500万ドルで狡猾に取得。1800年代から近年まで、ユーローク族、マイドゥ族など、「若干のカリフォルニア原住民」は「分離・独立」を提唱(R.H.ローウィ、青山道夫訳『国家の起源』社会思想社、昭和49年、14頁)>、ハワイ共和国<1893−1898年。明治14年にハワイ国王カラカウアは来日して、米帝国主義への国土併呑危機を訴えたり、第二次大戦後に元ハワイ王族がアメリカのハワイ併合の不当性を提訴した>]を造り上げ、「領土内の人々の民意」によるとして併合した)、その徹底的改変を米国に強制し、A新憲法に非武装規定を強引に押し込み、人種を差別する事やキリスト教を外国侵略肯定に利用する事を厳禁し、、軍需工業を全面禁止とし、これを受け入れなければ大統領を戦犯として刑に処すと恫喝し、B日本軍を非武装米国を守護するという大義名分のもとに米国要所に進駐させ、米国平和の守護軍たらしめ、米国発展の主因は日本軍による平和維持だと思いこませ、Cこの偽善的平和体制の宣伝者として米国国際関係「学者」・ブルジョア経済「学者」・マスコミらを厚く日本に招待して、特に利用価値のある者は皇居に招き、彼らの「優越感」をくすぐり、自尊心を満たしながら、巧みに日本軍の最新性・強大性を誇示して、「日本軍に守られている限り、米国の繁栄は確実と思い込ませ」、さらには「日本の巨大軍事力を米国の平和と繁栄に利用するのも方便だろう」などと諦めさせ、これを大学・マスコミ・議会で垂れながさせるとするならば、これはまさに日本による狡猾な「アメリカ侵略」以外の何物でもないということだ。ただし、歴史と文化のある日本の名誉のために付言すれば、日本は確固たる独立国にはこういう狡猾で恥さらしな侵略行為はしないということだ。


 旧朝敵諸藩という観点 だから、日本軍首脳にとっては、ペリー来航・開国さえなければ、欧米帝国主義との軋轢も無く、欧米帝国主義の弱肉強食の国際法やパワー・ポリティックスから弱小地域の侵略をも積極的に学習することもなく、当面する日米戦争などもなかったし、特に旧朝敵諸藩出身者の場合には戊辰戦争での旧朝敵という汚名を着せられることもなかったのである。彼らにとって、ペリー来航、開港、戊辰戦争は遠い過去ではなく、特に旧朝敵諸藩出身者の場合には自らの出身地の負わされた屈辱的な汚名と、日本に屈辱的な譲歩を要求してくる米国との緊張という二つの切実な現実問題の原点なのであった。後述するように、特に盛岡藩・米沢藩・仙台藩・長岡藩出身者は、薩閥海軍の制約が衰退してくると、じわりじわりと海軍大将など海軍首脳に進出していった。彼らは、戦争で負けることの悲惨さを既に戊辰戦争で十分味わっていたのである。にも拘わらず、彼らの中には負けることが分かっていても日米開戦を押しとどめることはできなかったのである。

 そこで、本稿は、旧朝敵諸藩という観点をも導入して、日米戦争を考察している。その事によって、艦艇主軸の「邀撃」作戦などの日本海軍固有の行動もはじめて理解されると思われる。例えば、長岡出身の山本五十六聨合艦隊司令長官に関しては、通説的な積極的評価のみならず、愚将論も少なからず提唱されている(中川八洋『山本五十六の大罪』弓立社、2008年、福井雄三『日米開戦の悲劇ージョセフ・グルーと軍国日本』PHP、2012年など)。しかし、いずれも、山本が担わされた日本海軍史上の歴史的・「画期的」・「根源的」役割を踏まえてなされているとは言えない。単なる枝葉末節の作戦のみで議論されているかであり、山本が担わされた「根源的」役割を踏まえつつ、にもかかわらず山本がその「根源的」役割を遂行できなかった理由が考察されていないのである。また、野中郁次郎氏は「山本のアイディアは画期的でしたが、それを明確に概念化し、理論化したうえで、体系化までできたかといえば、不十分だった。徹底してそれができなかった」とされるが、その理由を追及することなく、いとも簡単にそれは「日本人の弱さ」だと一般化してしまった(野中郁次郎「真珠湾攻撃はイノベーションだったか」[『山本五十六』山川出版社、2011年])。氏においても、当時の航空主兵論の実態(提唱者とその中身)の考察が欠落しているのみならず、「根源的」考察がドロップしていると言える。山本が旧朝敵長岡藩出身であったということを考慮する時、彼の「根源的」限界もまた初めて理解されると思われる。

 また、海軍首脳におうおうにして責任回避の動きがみれたが、これにもまた、旧朝敵諸藩出身ということに淵源する諸事情が絡んでいる場合があった。例えば、昭和16年10月6日陸海軍部局長会議で、海軍第一部長は、「船舶の損耗に就き戦争第一年に140万屯撃沈せられ」「南方戦争に自信なし」と言い、海軍軍務局長は、「比島をやらずにやる方法を考へ様ではないか」とした。10月7日午前8時、定例閣議前、陸相・海相が会談した際、東条陸相は、海軍の「戦争の勝利の自信」なし発言を質した。旧朝敵盛岡出身の及川古志郎海相は、「統帥部の自信は緒戦の作戦」を主としており、「二年三年となると果たしてどうなるかは、今研究中である」とした。そして、及川は、「この場限り」の話という条件のもとに、「これは政府の問題でもある。戦争の責任は政府にある」として、海軍に責任はないことだとして、責任回避論を展開した(「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、昭和16年12月まで、朝雲新聞社、昭和43年、509−511頁])。戦後、元陸軍中将佐藤賢了はこれを「海軍側は勇気に欠けズルかった」根拠にあげて、及川は「面子にこだわらず、海相の責任として戦争に関する信念を公式にはっきり述べるべきであった」(昭和44年12月6日元陸軍中将佐藤賢了と池田清とのの会談[池田清『海軍と日本』202頁])と批判する。佐藤批判をまつまでもなく、海上補給の維持は海軍の要務であり、海軍が二三年先の船運保護に自信がないなら、この戦争は負けるという厳然たる事実を自らの責任で堂々と述べるべきだったのである。それを、「責任は政府にあ」って海軍にはないなどとは、いみじくも公職につくものの弁ではない。

 さらに、同じく旧朝敵盛岡出身の海相米内光政は密かに終戦工作をしていたことは既に周知であるが、その終戦工作は徹底したものだったかというと必ずしもそうではない(拙稿「天皇の国体護持活動(1)ー終戦期」)。のみならず、米内は戦争責任追及を回避するために、「卑怯」な行為すら行なったのである。こうした終戦時の海相米内光政行動に関連して、諸書で、昭和20年8月15日明け方、阿南惟幾陸相が自刃を前に、「米内を斬れ」と告げたことが指摘されている事(例えば、高橋文彦『海軍一軍人の生涯』光人社、1998年、374頁)が留意されよう。この理由は謎とされているが、継戦派幕僚のクーデター回避という阿南の入閣主因と以後の一連の推移などを精細に踏まえれば、米内海相が大局的見地に立てずに、最終的局面で輔弼などという形式に拘泥して陸軍継戦派将校説得のための巡幸を台無しにしてしまった事が主因であることは一目瞭然となる。米内海相がこれに異を唱えなければ、天皇は陸軍省に出向き、8・15反乱は未然に防止できたからである。この杓子常軌な狭量な行動は、米内が、寧ろ陸軍8・15事件を惹起させて、海軍こそが継戦を主張する陸軍に抵抗して終戦を推進する存在だという印象を内外にあたえ、海軍が「朝敵」(つまり、「米敵」)とならぬように動いたともみられるということだ。この様に旧朝敵出身の海軍首脳には小心翼翼たる卑怯な責任回避の動きがあったのである。

  こうした海軍将官の責任回避論は、旧朝敵如何に拘らず見られたようだ。例えば、福岡生まれの潜水艦艦長・回天特攻作戦参謀の海軍中佐鳥巣建之助は、回天特攻を痛切に反省するどころか、@陸軍は「(日露)戦争の余勢をかって韓国を併合、ポーツマス条約の不満を爆発させ、東京騒擾事件をおこし」、「王道から横道へそれ始め」、A「第一次世界大戦が勃発すると、日本は漁夫の利をしめ、陸軍はもちろん政界も財界もマスコミも帝国主義的泥沼に足を突っ込みはじめ」、シベリア出兵は「陸軍の覇道主義を加速させ、さらにいまわしい堕落への道つく」り、「下克上、統帥権濫用が日常茶飯事とな」り「満州事変、日中戦争、太平洋戦争への道はもはや避けがたいもの」となり、Bこれは「日本にとって、不幸きわまる汚辱の歴史」であり、「猛毒におかされて変質を余儀なくされた姿」であり、故に「太平洋戦争の敗北は、日本を本然の姿にもどす解毒剤」(鳥巣建之助『太平洋戦争終戦の研究』文藝春秋、1993年、4頁)だったとするのである。鳥巣にとって、終戦は「天佑神助」であったというのである。これは誠に奇妙な海軍独善論だ。ならば、なぜ鳥巣ら海軍自らが体を張って陸軍横暴を抑えて、悲惨な戦争に突き進むことを抑制しなかったのか。陸軍「暴走」を黙認し、一部それに加担したのは、海軍ではなかったのか。こういう「陸軍への責任転嫁」による「海軍責任回避」発言は、本論でも見るように、薩長藩閥と旧朝敵などの対立に重層的に影響された、海軍と陸軍との長い対立・軋轢に広く由来しているのである。

 なお、旧朝敵藩ではないが、同様に幕藩体制存続を願った勢力として公議政体派諸藩がある。公議政体派は、福井藩(家門筆頭)主松平慶永、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信、薩摩藩主島津斉彬(薩摩藩上層は公儀政体派であり、当初は下級士族出自の討幕派は傍流だった。だから、斉彬異母兄の島津久光は廃藩置県断行した大久保利通・西郷隆盛を「自分を騙して、藩を廃止した」と恨み続けた)らに導かれた。該諸藩出身者は、薩摩を除き、明治維新後数年にして政府要職から一掃されて行った。旧朝敵諸藩出身者ほどの差別はなかったが、薩長藩閥政府のもとではl彼らの出世は決して楽ではなかった。そういう中で、薩閥海軍の衰退とともに、盛岡海軍・米沢海軍などとともに浮上したものの一つに福井海軍がある。

 福井から出た海軍大将として岡田啓介(海兵15期)、加藤寛治(海兵18期)、長谷川清(海兵31期)らがおり、同じ福井県の譜代10万石小浜藩出身の海軍大将には名和又八郎(海兵10期)がいる。海軍中将としては、東郷正路(海兵4期)、古川 テ三郎(海兵21期)、津田静枝(海兵31期)、井上継松(海兵32期)、渋谷隆太郎(海機18機)などがいて、福井海軍の層は浅くはなかった。これは、福井藩は艦船黒龍丸などを所有したり、松平春嶽(第16代越前福井藩主松平慶永)が勝海舟の神戸海軍操練所(文久3年年5月に設置)に5千両出資したりして、海防にも関心を持っていたことが一因であろう。例えば、岡田啓介の築地海軍兵学校入学(明治18年12月1)の動機は、従兄青山元親類の海軍大尉三上三郎(海援隊出身)から、「君のおじさんの青山悌二郎は、黒龍丸に乗っていて長崎でコロリで死んだが、今生きておれば海軍の相当の人だ、おじさんのようになれ」と勧められたことであった。明治21年1月には、元福井藩主松平家が伯爵から侯爵に昇爵した祝賀会で、海軍兵学校生岡田啓介は春嶽から直接に「将来日本は海軍の拡張をせなければならぬのだから大いにやれ」(岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』中央公論社、昭和62年、24−29頁)と激励されたりもした。

 この福井海軍は、岡田が首相に就任して、一つの頂点に達する。加藤寛治は、昭和9年7月1日「岡田総理祝賀会演説草稿」(「加藤寛治日記」[『海軍』542−3頁])で、@岡田首相の決意が、「春岳公之如く又た橋本左内先生(松平慶永側近)之如く新興日本の勃々たる向上精神を代表して挙国一致の力を以て外囲の荊棘を切り開き 黎明の日本を導くべく春岳公や左内先生の遺志の遂行大成に死力を御尽しにならんことを念願致す次第であり」、A「今日の国難を乗り切りますには左内先生の信念之如く忠実と尚武とを国家の棟とし 梁として 改造するより外ない」などとしている。佐幕藩出身の海軍首脳が、自らを出身藩の維新期「功労者」と重ね合わせ、昭和期日本が直面した対外危機は、明治維新期に直面した対外危機と同じだとして、現状の危機を乗り切ろうとして、かつて海軍を牛耳った薩閥に代わって海軍首脳の一部として登場してきたことが確認される。彼らにおいても、明治維新は決して遠い過去のことではなかったということだ。この岡田啓介は、周知の如く消極的ながら開戦に反対し、開戦後は米内らと終戦工作することになる。

 諸課題の設定 以上の如き、明治維新以来の米欧帝国主義の積極的侵略性、それからの防禦にに徹する日本海軍の首脳陣の薩閥から旧朝敵・佐幕諸藩出身者らへの移行などを考慮しつつ、本稿の基本課題を具体化すれば、日本陸海軍の展開の特徴や、日米戦争の日清戦争、日露戦争との相違や、言い古されている、長期戦での勝敗決定要因となった日米国力差、物量差の現実戦争への影響実相などを考察しつつ、@なぜ日清戦争・日露戦争では勝ったのに、日米戦争では敗北したのか、A日本には日米戦争で勝てる可能性はなかったのか、Bもし日米戦争勝利の可能性ある作戦があったとすれば、なぜ日本海軍はその作戦を選択・遂行しなかったのか、Cその勝利可能性の高い作戦の遂行が困難であり、対米戦争に敗北する可能性が高いにも拘わらず、つまり負けることが半ばわかっているにも拘わらず、なぜ開戦したのかなどを「はじめて根源的・総合的に、従って学問的」に解明するこということになろう。

 さらに、日本海軍固有の問題として、日米戦争時の日本海軍特攻作戦なども取り上げている。言うまでもなく、特攻作戦については、もっぱら青少年の純真の素晴らしさが強調されがちである。それが日本人の美徳だということが賞賛されがちである。だが、現実にはそれだけではない。そこには、日本海軍に固有な体質と、若者の純真を利用しようととする海軍上層部の企図があったはずである。

 この場合、そういう「死ね」という極限的な命令を起案し下す軍令部とそれを実際に下す現場指揮官との間には大きな違いがあったはずである。従来見落とされがちだったが、現場指揮官にも激しい心理的葛藤に直面したはずだ。同じ心をもつ人間が、人間である部下に死ねと命ずることは尋常ではないからだ。死ねと命ずる現場指揮官には、冷静な思考の働くもとでは、それがまともな心をもった人間の行為でないことは十分明白だからだ。まさに統率の外道なのである。現場指揮官は、箱館戦争での中牟田倉之助のように、自らも顔面に重傷を負いつつも海上に漂い水兵と同じ切迫した立場(拙著『華族総覧』講談社)、つまり「お前らだけを死なせない、俺も死ぬ」という切迫した境遇にあれば、死ねと命令することに何ら心理的葛藤の余裕などなかったろう。だが、まだ冷静な判断のきく陸上で、現場指揮官がそういう非人間的極限的命令を出す場合には、彼には激しい心理的葛藤があったはずなのである。特攻をめぐる地獄は、若者だけでなく、指揮官にもあったということである。


                                     一 陸軍・海軍の相関論

                                      @ 陸軍と海軍の相違 

 陸軍と海軍の相違について、軍令部作戦部の戦争指導班の新田善三郎海軍少佐は、第一に「戦争のやり方」の相違として、「海軍は軍艦の中で戦う。どんな報告、命令も、完備した艦内通信施設の中で一糸乱れず徹底する」が、「陸軍は野戦が主、通信の途絶えがちな場所で戦う。あらかじめ大方向を決め、あとは現地部隊の判断にまかせる。実際にそうでなければ戦えない」事、第二に教育学科の相違として、「海兵はいわば理科系の学校で、数学、物理、化学をまず教えた」が、陸軍では「士官学校はいわば人文系で、歴史とか漢文などに力を入れた」事、第三に精神教育の重視度の相違に関しては、「海軍は大和魂では戦争に勝てぬ」としたが、「陸軍は大和魂あってこそ戦いに勝つ、と教えた」(『昭和史の天皇』7、北方領土、昭和55年、275頁)事などを指摘する。

 第一の「戦争のやり方」の相違については、海軍は艦隊主軸の海上戦であるが、陸軍は歩兵主軸の野戦であるということにつきる。この結果、海軍では費用の大半が艦船の近代化に使用されたが、陸軍では軍費の多くが歩兵の圧倒的な数的優位の維持に使用され、開戦時の兵力では海軍32.3万人に対して陸軍は6倍余の210万人に及んだのであった(池田清『海軍と日本』135ー6頁)。

 そして、海軍の艦隊決戦が日清戦争、日露戦争での勝利に大きく貢献してくると、日本海軍は艦船主軸決戦の呪縛にますますとりつかれていった。この事は、海軍では、莫大な費用のかかる艦船による戦闘・決戦を中心とならしめ、新しい兵器(潜水艦・航空機)も戦艦中心作戦の補助にとどめさせることにしたのであった。すべての作戦が戦艦中心にたてられ、仮想敵国の戦艦能力との関連からこの戦艦戦闘作戦(邀撃作戦)が不可避なものとされ、海軍とは戦艦を中心とするものという教育と伝統が長く維持されて行き、戦艦以外の兵器の軽視、地味な情報収集(偵察・通信・後方支援など)の軽視、戦闘以外の職務の軽視などを余儀なくしていった。それは、巨額費用をかけて建造した艦船が動かなくなれば、「無用の長物」と批判される事態を随伴した。海軍では、艦船中心主義に徹すれば徹するほど、絶えずこの無用の長物という批判にさらされることになった。このことが、艦船中心主義の効用・意義の倦まざる確認・提唱を不可避とし、艦船無用論を促すものとして日本の運命を決する航空主兵論を海軍に受け入れさせることを頗る困難にしたのであった。

 さらに、こうした艦船主軸論、航空主兵論のいずれにして、大正期以降は艦船エネルギーが石炭から石油に移行し、飛行機・潜水艦が当初から石油エネルギーに依存していたにも拘らず、石油がほとんど国内で算出できないために、陸軍とは異なって、海軍の外国産石油依存を決定的にし、エネルギー面での不安定を抱え込んでしまった。石油がなければ、武装兵力としての海軍は、一挙に無用化するということである。これが、陸軍とは異なる、海軍固有の弱点ともなっていた。

 第二、第三の教育については、戦後、米内光政はアメリカ戦略爆撃調査団に、「根本的なものは、陸軍と海軍の教育方針の相違」にあり、陸軍は15歳から幼年学校で軍隊教育をはじめ」、「広い国際的な視野についての教育に欠け」、その結果、「陸軍将校は視野が馬車馬のように狭くなり、海軍士官ほど広い視野で物事を見ることができなくな」(宮野澄『最後の海軍大将 井上成美』文藝春秋、昭和57年、133頁)ったと指摘する。その米内光政元海相の秘書官実松譲海軍少佐は、陸軍では普仏戦争以後はフランス式からプロシア式に鞍替えしたが、海軍では「ジェントルマンをつくるイギリスを代表するイートン校の教育に似て」「戦争に強いやつをつくるというだけじゃな」く「人の上に立てる紳士をつくる」ために「海軍兵学校でも軍事学以外に普通学が非常に多かった」(『昭和史の天皇』22、日独伊の関係、読売新聞社、昭和56年、88頁)ことを指摘している。この点を正確に言えば、明治6年に来日した英国ダグラス使節団(A.L.ダグラス少佐以下、砲術・航海・機関・造船各科士官5人、下士官12人、水平16人の計34人)が、@「イギリス風の厳格なエリート教育」(「将校は貴族、水兵は貧民」というエリザベス王朝海軍の教育)を行い、A「実地教育を重視」したということになる(池田清『海軍と日本』148ー151頁)。ポッターの場合は、この英国エリート教育の問題点として、日本では、「英国海軍の伝統に従い、海軍士官は紳士であるべきだと強調」され、「多くの場合、単なる愛想の良さが紳士性だと誤解し、丁重な英国紳士の表情の背後に厳格な訓練がかくれていることを、理解しなかった」結果、「日本海軍はたくさんの温厚で教養高い司令官を養成したが、戦場用の闘将は極めて少な」(ポッター『山本五十六の生涯』23頁)いことになったことを指摘する。ただし、海軍に闘将が少なかったということは、海軍には旧朝敵出身者が少なくなかったことには関わりもあったようであるが、ポッターはこれに気づいていないようだ。

  これと関連して、高級指導者育成の軍大学が、陸軍と海軍では異なっていたということが留意される。陸軍は明治16年陸軍大学校を創設し、海軍は明治21年に英国海軍大佐ジョン・イングルスを招いて海軍大学を創設した。陸軍大学は参謀将校の育成や軍事研究などを主務としていたが、海軍大学は、「参謀将校の育成」というよりは、「海軍将校に高等の学術を教授する」高等術科学校を目的としていた。この結果、陸大入試は海大入試より難関であり、陸大卒業生(天保銭組)は海大卒業生より主要ポスト独占率が高かったが、海軍では大将のうち海大卒は6割に過ぎず(例えば、海軍大将加藤寛治、安保清種、野村吉三郎らは海大出身者ではなかった)、「海大卒でなくとも参謀将校や重要ポストへの道は開けており、陸大出身者ほどの特権は与えられていなかった」(池田清『海軍と日本』175−6頁)のである。海大出身者でなくとも、「軍政、軍令の枢機に参与した者は多かった」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』光人社、1997年、56頁)のである。海軍大学もまた、「温厚で教養高い司令官」の養成機関だったのである。

 しかし、「明治の日本海軍は徹頭徹尾イギリスを模範とし、軍艦などのハード面は積極的に取り入れ」たが、「思想や教育制度、作戦研究と実行のシステムといった、いわばソフト面は、第一次大戦後の新見(政一海軍少佐)さんの時代でも、まだ追いついていなかった」(新見政一「日本海軍に警鐘を鳴らし続けた中将」[戸高一成『聞き書き 日本海軍史』PHP研究所、2009年、118頁])とも言われる。昭和19年5月10日海軍嘱託矢部貞治東京帝大教授ら作成「陸海軍人気質の相違」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、朝雲新聞社、昭和54年、1−3頁)では、陸軍は「海軍のほとんど存在しないプロイセンの感化を受けた山縣・桂等によって育成」され「議会・政党・資本家等の政治勢力」を抑制したが、海軍は「海軍の重要性を知る自由主義的議会政治の国イギリスにその範をと」り、「海軍の技術を摂取するに急で、英海軍の背景をなすこのような政治的性格を看過」したとされる。だが、市民革命を経た市民社会の英国海軍と、市民革命を経験せず武士道精神の生き残った日本海軍という相違のもとで、「思想や教育制度、作戦研究と実行のシステム」などのソフト面では英国海軍には大きく遅れていたということである。

 第四に、「陸軍将校は下につく、海軍将校は上につく」と言われるように、海軍と陸軍では将校の下士官兵に対する関係が異なっていて、海軍では、将校は、二重の意味で、兵を直接指揮していなかったということである。

 陸軍では、全国に在郷軍人会という「強力な支援団体」があり、「膨大な兵力は全国主要都市に連隊単位で兵営を構え、しかも兵数の大部分が徴兵制度を通して国民と密接につなが」り、将校と兵との上下関係が緊密であった。しかし、海軍では、「小世帯のうえに、おおかたが艦船勤務で海上にあるか、ないしは横須賀、呉、佐世保などの限られた軍港都市」での生活に限られ、海軍将校は、「陸軍将校のように徴兵出身の大衆およびその家庭を通して日本の現状を知る機会があまりな」く「国民大衆から浮き上がり」、「政治性が育つ素地は最初から乏し」く、「世俗化した一種の貴族意識」をしつけられて、政治力が脆弱であった。それのみならず、海軍将校と下士官兵の関係が「はるかに隔絶した『身分制』の社会」であったのである(池田清『海軍と日本』136−155頁)。技術者集団としての海軍において、この熟練エンジニアたる下士官は、専門技術のみならず、「艦内のすべてに精通」し、特に先任下士官は兵には「絶対的存在」(池田清『海軍と日本』143−4頁)となって、兵の実質的指揮官は将校ではなく、下士官となったのである。

 その上、海軍の下士官兵は、陸軍におけるような「武器で武装した戦闘集団」ではなく、あくまで艦船を動かす技術集団だった。仮に、将校が下士官を説得して兵を陸上に動員したところで、陸上兵力としては役に立たなかったということである。確かに海軍には陸戦隊という陸上武装集団があったが、これは、反乱将校の指揮の及ぶものではなく、且つ地方に駐屯していたから、横須賀鎮守府陸戦隊を除けば、反乱事件当日に東京に動員しようにも容易ではなかった。それに対して、陸軍では、エリート部隊の近衛師団が東京中心地に駐屯しており、しかも少なからざる決起将校もこの近衛師団幹部を経験していたから、反乱将校が全陸軍の賛同、参加を望んで、自らの部下のみならず、このエリート部隊の指揮官を抱き込むことが出来れば、この近衛師団下士官兵を反乱軍の中核にすえることも可能であった。この点、海軍では、決起将校が仮に横須賀鎮守府の陸戦隊を糾合したとしても、近衛師団のような「象徴効果」はほとんどなかった。

 この結果、こうした陸海軍将校の相違が、陸軍の二・二六事件や八・一五事件で反乱将校が下士官兵を動員できたのに、海軍の五・一五事件では反乱将校が、下士官兵を動員できなかったという相違になって現れたとも言えよう。

 第五に、海軍と陸軍とでは死生観が異なっていたということが挙げられよう。いずれも軍人となった以上はいつでも死ぬ覚悟を余儀なくされる点では共通していたが、海軍では「板子一枚下は地獄」であり、艦上での日常は死と隣り合わせであり、敵艦に砲撃されれば撃沈され海の藻屑と消え去る運命にあったが、陸軍は仮に敵側に攻勢に出られて所属部隊が壊滅しても、ゲリラ化してしぶとく戦い続けることができたいうことである。陸上にあればこそ、陸軍では、「板子一枚下は地獄」という境遇からは免れたということだ。

 だから、こうして海軍では日常業務は死と隣り合わせという特殊任務であるために、当初から海軍では志願兵制度を採用しており、明治4年には、「沿岸漁夫の子弟にして十八歳以上二五歳以下の身体強健なる男子の志願者を、地方官において選出すべし」と各府県に布告していた。明治6年徴兵令が布告されると、海軍では明治16年以降「海軍の徴兵官の手をへて徴兵を採用するようになった」が、以後も海軍では志願兵が3−5割くらい占め続けた(池田清『海軍と日本』142−3頁)。

 こうした特殊任務のゆえに「徴兵=強制と志願」の並存する海軍体質においては、指導層においては、どうせ死ぬ運命ならば、犬死・無駄死にせずに、時には敵を噛み切ってから死ねと言い(例えば、明治2年箱館戦争に際して、朝陽丸艦将の佐賀藩士中牟田倉之助は、榎本側に撃沈された後も、海上に漂う水兵に、「敵の咽喉に噛みついて死ね」と怒鳴り散らした[拙著『華族総覧』講談社])、時には実戦さながらに死ぬ覚悟で必死に飛行技術を磨き上げ有用攻撃に備えよといい(例えば、昭和8年『加賀』の副長の大西瀧治郎中佐が「荒天の中での演習中に、みんな飛んで行って、死んでこい″と命令」[秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』光人社、1997年10頁])、或いは時には敵艦・敵機に体当りしてこれを損傷・撃滅・撃墜してから死ねとするなど、「有用」な死に方をせよという考えを生み易くし、他方、被指導層に一時的・短期的にはこうした考えをを受け入れやすくしたはずだ。実際、海軍では、特攻においてすら、戦果確認機が同行していたのである。

 もとより陸軍とても勇猛果敢に敵と戦い潔く誇り高く死ぬ事(その極致が玉砕)を厳しく教え込んだが、海軍ほどに「有用」な死に方をすることを考慮しなかったようである。だから、海軍将官の中には、犬死になるような玉砕があれば、それを瓦砕などと批判する者もでてくる筈である。

 こうした海軍固有の死生観が、海軍特攻という発想はもとより、海軍特攻では形式志願としつつも実質強制とする編成方式をとったり、特攻死者を軍神に祀ろうとしたことなどと関わりがあったと思われる。さらに、陸軍の艦船無用論の観点よりする海軍批判への対応という側面もあったが、海軍では戦果を誇大に宣伝したり、戦果を捏造する傾向にあったこともまた、こうした海軍体質に関わりがあったのではなかろうか。

 第六に、陸軍と海軍との重要な相違点は、各軍の建軍目的であろう。この陸軍・海軍の建軍目的は、時期・諸情勢によって相違してくるが、@概ね陸軍は内乱や反革命を鎮圧して国内統治・秩序を維持する事を目的にするのに対して、海軍は海洋に接している国家においてのみ必要となり、海からの侵略外国軍を防遏し国土・領海を保護する事を目的とし、A国家が海洋帝国主義的スローガンを標榜し始めると、海軍は侵略外国軍防禦にとどまらず、植民地や海洋利権を獲得・保護することを目的とするというものとなろう。

 日本の海軍は幕末期の欧米列強の脅威への防禦、つまり海防から始まっていて、専ら@をめざし、Aを積極的な目的とすることはなく、陸軍も自衛に必要以上に侵略して海外領土獲得を志向することはなかった。日露戦争までは、陸軍、海軍ともに欧米列強侵略の防止という建軍目的から仮想敵国が分裂することはなかったのである。しかし、日露戦争以後は、海軍の仮想敵国は太平洋強国の米国となってゆくのに対して、陸軍の仮想敵国は大陸強国の露国(及び中国)となって、海軍と陸軍の仮想敵国が大きく分裂してしまった。これが、海軍、陸軍が集中して敵国に対応することを困難にしてしまったが、陸軍の敵中国蒋介石政権を援助していたのは米国であり、かつまた陸軍の主敵ソ連を援助するのも米国であることを踏まえれば、実は陸軍の「根源的」敵国もまた海軍同様に米国だったのである。このように実は陸海軍の主敵は米国だったのであるが、当時の陸軍にはこれを見抜く者はいなかったということである。陸軍大佐石原莞爾は、確かに最終戦争は日本とアメリカとの間でなされると見ていたが(石原莞爾『最終戦争論』中央公論新社、2001年)、大正8年頃から「仏教の予想する世界戦争」(現在は仏滅後2430年。解脱時代500年、禅定時代500年、教学時代500年、芸術時代500年、現在は末法時代500年であり、「大戦争は今月から70年以内に片付」く)と30−50年以内に世界大戦が始まるという持論とが合致したことから「日蓮上人の信者」(『石原莞爾資料』原書房、昭和42年)となった。因みに、この将来主敵米国論を説いた石原は、陸軍本流から排除されてしまう。

 このように、海軍において、仮想敵国が清国・露国から「超大国」米国に移る過程は、薩閥海軍から非薩閥海軍への移行過程でもあった。薩閥海軍は日清・日露戦争では相当「攻撃性」を発揮したが、非薩閥海軍は「超大国」米国が新たな仮想敵国となるに及んで専ら「守勢」に徹し始め、サイレント・ネイビーとなり、それが旧朝敵・佐幕諸藩の「守勢」体質と合致したかになったということが留意される。

 Aの侵略的・積極的海軍の具体例として、貧しさゆえに資源を外国に求めた古代アテネ帝国の海軍、重商主義・資本主義のもとで一層の富を求めた近代イギリス帝国の海軍、主要資源が豊富な新興工業国として飽く無く貪欲に富を求めだした近現代アメリカの海軍があげられ、その危険性を帯びる例として恰もアメリカ以上に飽くなく強欲に富を追い求める最近の中国社会主義帝国の海軍があげられよう。ただし、こうした中国の海軍主導の対外軍事拡張は、多分に日米同盟への対抗という側面をも色濃くしており、故にこそアジアの一員である日本にとって中国は果して真の敵かどうかを客観的に慎重に見極めることが必要になろう。もともと侵略的な米国と防衛的な日本の日米安保条約は自家撞着の不平等条約であり、しかも中国共産主義は過渡的体制にすぎず、やがては中国もまた豊かな市民の成長で早晩一党独裁体制を是正してゆき、暫定的には経済発展で自由市場主義という価値観を共有するに至ることを見通して、仮に日本と中国が防衛同盟を締結し、これに韓国・ロシアが加われば、世界最強の地域防衛体制が構築されるということだ。

 さらに、この地域の中長期関係を展望する際に欠かすことの出来ない視点が、「近世おいては、中国は中華帝国として周辺諸国を「帝国」主義的に服属支配し、朝鮮はその中国の朝貢国であり、日本は『独立国』という関係であったが、近代における欧米帝国主義の東アジア進出によって、その日中韓三カ国関係がますます複雑に『歪曲』されていった」ということである。この歪曲の主責任が欧米列強にあることは明らかであるが、列強の半植民地化・植民地化への対応に日中韓各国に主体的力量の相違が生じ、日中韓相互の「共存と緊張・対立」関係が複雑に展開していったのである。だから、各国が列強に個別に対応できない己の脆弱さ、或いは三カ国を一つに平等に連帯させえなかった脆弱さ、これらに基づく複雑な<加害ー被害>関係の展開や各種謀略などを反省せずに、責任の所在を一方的に追求し非難しあってもあまり生産的ではなく、今後は二度と外部勢力に歪曲されないように将来を展望するということをしない限り、この地域での共存の展望はでてこないということだ。この地域の平和共存については、大所高所から長期的、多面的に柔軟に考えることが必要だということである。



                                      A 陸軍と海軍の相関 
 陸海軍対等 問題は、かかる相違ある陸軍と海軍の相関である。両者は「平等」なのか、陸主海従なのか、或は陸従海主なのかということである。これについては、日露戦時の明治37年、「英国では海軍が第一」だが、「他の国では陸軍」が第一であり、「有力な艦隊がいかに重要であっても、本来の戦いは陸で行われるものであり、艦隊は大体において陸軍の援助、保全の役をなすにすぎないことが、今では明らかになった」(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部下、岩波文庫、昭和37年、19頁)のであった。つまり、世界に植民地をもつ英国のみは陸軍より海軍が優位におかれていたが、海軍の役割はあくまでも、「陸軍の作戦を補佐して助ける女房役に徹することであ」り、「資源の確保と物流の運搬輸送、軍隊の動員と戦地への派遣、補給線の確保、そしてそれを達成するための手段としての敵艦隊との決戦」など「陸軍の戦いに奉仕するための行動」であり、「海軍はあくまで陸軍の側女であ」り、「いかなる戦争も基本は陸主海従である」(福井雄三同上書53頁)とされたのである。

 しかし、日本だけでは、この時期、仮想敵国清国が海種陸従ではなかったこともあって、薩長藩閥の調整作用によって陸軍と海軍は「両者対等」となってしまったのである。

 平時での軍令対等 慶応4年4月太政官七官の一つとして軍務官(海軍局、陸軍局)設置され、明治2年7月二官六省の一つとして兵部省が設けれらた。3年2月兵部省に海軍掛、陸軍掛が置かれ、3年10月2日に海軍は英国式、陸軍は仏国式を採用され、4年7月28日、兵部省官制改正で海軍部、陸軍部が設置された。5年2月28日、陸軍省(従来の参謀局を第六局として管轄。7年2月参謀局と改称)、海軍省が併設された(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』朝雲新聞社、昭和44年5頁、20頁)。

 明治11年12月5日、参謀局は陸軍省を離れ参謀本部として独立し(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』6頁)、一方海軍では、16年海軍軍事部(った軍令部の前身)を設置し、艦隊司令長官仁礼景範海軍少将が部長に就任し、仮想敵国清国に対する「海軍作戦計画の端緒」を開いた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』109−110頁)。

 明治19年3月陸軍の参謀本部条例を改正し、「海陸両軍共通とし 同本部中に陸軍部及海軍部を置き、本部長(陸軍将官)の下に次長二人(一人は陸軍将官一人は海軍将官)あり、陸海各部を担任するの制」とし、21年5月この参謀本部を廃止し、参軍官制を定め参軍(「帝国全軍の参謀長」、皇族の大将・中将)の下に陸軍参謀本部及び海軍参謀本部を置いた。しかし、結局、陸軍参謀部と海軍参謀部を統御する皇族将軍がいなかったし、陸軍優位に海軍が反発したのであろう、「実際上の不便」ありとして、22年3月これを廃止し、新たに参謀本部、海軍参謀部を置いた。参謀本部は「陸軍に於ける独立機関」で、参謀総長は「天皇に直隷し依然として帝国全軍の参謀長たる地位」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』6頁)であり、海軍参謀部は「海軍大臣の下に置」いた。

 だが、海軍の整備に伴い、海軍大臣仁禮景範、同次官伊藤雋吉はその参謀部の独立を要求し、山本権兵衛主事のもとに海軍参謀本部条例案などが検討され、25年11月18日に閣議に提出された。しかし、陸軍参謀総長有栖川宮熾仁は、「帝国全軍の大作戦に対し最高の参謀責任を有するものにして、陸軍のみに限局せられたるものに非ず、即ち国防用兵に関し、陛下の帷幄に参画するは現参謀本部一あるのみにして、決して二ある可らず。是を以て海軍参謀本部の設立には絶対反対する」とした。参謀次長は川上操六、陸軍大臣は大山巌である。これに対して、海軍は、「仮令参謀本部の現制が如何なるのにせよ、陸軍の規定にして海軍の管知すべきにあらず。海軍は軍の性質に鑑み別に見る所あり。海軍亦陸軍と齊しく、陛下御統帥の下に対立するものなれば、其参謀機関亦対立すべきを至当とす。敢て陸軍を凌駕せんとするの意にあらず、而して今回海軍参謀本部を設置せんと欲するは陸軍に倣い、其軍政庁たる本省と分離し参謀機関の独立を図らんとするに在るのみ」と反論した。しかし、これは入れられず、仁禮は辞職しようとした(以上、海軍省編『山本権兵衛と海軍』原書房、昭和41年、66−7頁)。

 結局、26年3月11日、西郷従道が新海相となり、5月20日、この海軍参謀本部設置案などは海軍軍令部の設置となって実現した。海軍軍令部は、@「出師、作戦、沿岸防禦の計画」、A「艦隊、軍隊の編制及び軍港要港に関する事項」、B「教育訓練の監視、諜報及び編纂に関する事項」を担当することとなった(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』6頁)。こうして、海軍軍令機関は、平時に限り陸軍の参謀本部と対等となった。30年11月軍令部条例改正され、軍令部所掌事項(@作戦計画、艦船の配備並びにその進退役務、A艦隊軍隊の編制、B軍港、要港、防禦港その他軍事上必要なる地点の選定並びにその防禦計画、C出師準備、演習検閲及び海運の計画、D運動法、通信法の制定、E外国軍事諜報、翻訳及び編纂)はより具体化された(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』7頁)。

 その上で、日清戦争前の明治26年5月に、「省部事務互渉規程」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』10頁)が決定された。そこでは、軍令部長と海相との連携について、第一項、軍令部長が海軍大臣の同意を得て上裁を得るもの(「軍艦の就役、解任、及役務の変更」)、第二項、海軍大臣が軍令部長に商議して上裁を得るもの(「在外人民の保護、密漁密商の監視、難破船漂流人の救助、水路測量、探検及教育訓練」)、第三項、軍令部長が海軍大臣に商議し上裁を得るもの(「軍機戦略に関し軍艦及軍隊の発差」)、第四項、十項、軍令部長が計画し、経費は海軍大臣に商議するもの(「演習の施行」、「演習及艦船役務、航海等の歳出」案)、第五項、九項、海軍大臣が起案し軍令部長に商議するもの(「教育訓練の学科教程及操法の創設変更」、「参謀将校の進退」)、第六項、八項、軍令部長が起案し海軍大臣に商議するもの(「沿岸防禦及出師」、「鎮守府要港部団隊の建制、定員」)、第七項、両部が互いに商議するもの(「艦船及砲銃弾薬、水雷並に其属具の創備、改廃、修理」など「兵力の伸縮」)などと定められた。これに関する限り、軍令部長と海相は対等であるかである。

 ただし、日本では、概して、「陸軍においては軍政、軍令がおおむね拮抗していたようであるのに対し、海軍においては軍政の軍令に対する比重が比較的大である傾向があった」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』5頁)のである。つまり、ドイツを手本とした陸軍では「参謀総長が統帥権を掌握していた」が、「イギリスを手本にした海軍では、伝統的に海軍大臣の優位性を尊重しており、軍令部長が統帥権の責任をもった後も、海軍大臣の方に、より多くの権限があった」(高橋文彦『海軍一軍人の生涯』光人社、1998年、158頁)のである。だから、海軍は、戦時には陸軍参謀総長が大本営の幕僚長として陸海軍軍令を統括したとしても、海軍では軍令部長より海軍大臣のほうが権限が強かったから、海軍には陸軍に対してそれほどの従属性は認められなかった。


                                    B 陸海軍調整弁としての藩閥ー日清・日露戦争 
 しかし、山本権兵衛の海軍独立策だけが、日本海軍をおかしくさせ、太平洋戦争を敗北に導いた一因ではなかろう。確かに日本は日清・日露戦争で勝利し、太平洋戦争で敗北したが、その敗北理由のみならず、開戦を忌避できなかった理由をも把握するには、軍令と軍政の関係、陸海軍関係のみならず、藩閥調整力もまた考慮する必要があろう。平時に藩閥は対立していても、戦時には藩閥は政治と軍事の関係を密にしたばかりか、陸海軍対立を深刻化させぬ作用をしたということである。

 国防海軍創設の藩閥調整 西郷従道と樺山資紀は、陸軍将軍の身分から海軍大臣(後には海軍大将)に就任して(明治17年、23年)、薩閥は海軍を掌握した。薩長藩閥は、明治政府は戊辰戦争で血を流して自分たちが造ったものであるから、薩長藩閥が明治政府を牛耳って当然だと言わんばかりに、政治、軍事の主導権を掌握したのである。曽我祐準は、明治20年代初期の軍部について、「陸海軍は藩閥の本管なり。・・陸海軍将官の五分の三は、薩長二藩の出身に帰し、陸軍佐官の4分の1は山口に、海軍佐官大半は鹿児島に占領され」(池田清『海軍と日本』156頁)たと指摘している。

 陸軍出身の海相西郷は山本に、「実は予も予てより貴下の立場を察し衷心同情に堪えず。一大佐の身を以て此衝に当る容易の事にあらずと雖も、暫らく君国の為め尽瘁せられんことを望む。予固より海軍の事に熟せずと雖も今や国家大局の上より現任を辱うし、一身を捧げて報効を期するの外又他念なし。故に外に対する責任は総て予之に当るべく、内部の事は貴下に一任するを以て十分努力せられたく、若し夫れ事の真相は知る人ぞ知る」とし、「兎に角に既に委員会を設けられたる上は之に懸くるの外なからん云々」と説得した(海軍省編『山本権兵衛と海軍』68−9頁)。山本は「大臣の意の在る所を諒し退席」した。

 当時、山県のもとには、山本が「海軍本省に在て種々の改革を企て、又何か術策を弄して事を誤るの虞ありと、何某等より頻りに告げ来」たり、「新聞紙などにも風説出」ていた。そこで、山県は山本との会見を望み、西郷を介して、山本と会って、陸軍・海軍の調整に着手した。山本は山県邸を訪問し、海軍の観点よりする国防論を説明した。山本は、まず、「(戊辰戦後)兵学の門に入り且つ海外にも遊び戦略、戦術の何物たるか 国防の如何なるものや、海国に於ける国防用兵の施設如何等に就き聊か研鑽する所あり」と、自らの海国国防研究を述べた。そして、山本は、山県の懸念に「遂一其事に就て反証を挙げて説明」した。山県は「能く其の真相を得たるを覚ゆ。然らば進んで今回改革せんとする制度の大要を承ることを得んか」と応じた。これを受けて、山本は、「五年前欧米各国視察の節 調査せる列国海軍制度の状態より、進んで現下の情勢に及び 我国従来の実験に徴し、将来に対する国防の大計に察し 今回更革整備を要すべき海軍制度諸案の綱領を説明し、此研究調査には多大の努力を払い其成案には数箇月を費やせる旨」(海軍省編『山本権兵衛と海軍』70頁)を大いに陳述した。山県は「之を聴て肯く所」あった。薩の新進海軍軍人が、長閥陸軍首脳の理解を得たのである。

 その後、山県は、内閣で山本を賞賛した。彼は、山本は巷間噂されているところによると「大奸物」と思っていたが、会談して見ると、「思慮綿密」で、「世の毀誉褒貶を顧みず、細事に拘泥せず」、「識見力 豊富」であると評価した。これを聞いて、「海軍廓清」を企図していた井上馨・井上毅は、西郷従道に山本会見を申し込んできた(海軍省編『山本権兵衛と海軍』70頁)。山本は井上馨宅を訪れ、来会した井上毅を加えて会談した。井上馨は、従来問題となった点などを山本に質問すると、山本は諸問題点につき「真相」を明かし、「諸案は時代に順応して是非共 今回実施を要するもの」だと説いた。ここに井上馨は「首肯」したが、井上毅は、「諸案中の字句に就き質問を発」し、山本は「条文中の字句の修正の如きは書記官の仕事」(海軍省編『山本権兵衛と海軍』71頁)と応じた。

 こうして、薩長の間で、山本海軍整備論が了解を得て、26年5月に閣議に提出され、以後「海軍提出諸案」は「続々裁可公布を見」ることになった。
 
 日清戦時陸海軍の藩閥調整 日清・日露戦争当時、政治が陸海軍の深刻対立なく軍事をリードできた理由は、@日清戦時に、陸軍の軍政(陸軍大臣大山巌陸軍大将[薩摩])と軍令(参謀総長有栖川宮熾仁親王陸軍大将、大本営陸軍上席参謀川上操六陸軍中将[薩摩]・陸軍参謀児玉源太郎陸軍少将[長州])、海軍の軍令(6代海軍軍令部長樺山資紀海軍中将[薩摩]、軍令部第二局長兼大本営参謀官の伊集院五郎大佐[薩摩])と軍政(海軍大臣西郷従道海軍大将[薩摩])、A日露戦争時に、陸軍の軍政(陸相寺内正毅陸軍大将[長州])と軍令(5代陸軍参謀総長山縣有朋陸軍大将[長州]、参謀次長児玉源太郎陸軍大将[長州])、海軍の軍政(海相山本権兵衛海軍大将[薩摩])と軍令(7代海軍軍令部長伊東祐亨海軍中将[薩摩]、軍令部次長伊集院五郎海軍少将[薩摩])において、事実上は長閥と薩閥の政治指導者が指導していたからであった。

 西郷従道のもとに日清戦争陸海軍調整にあたったのが、薩摩山本権兵衛であった。明治26年5月19日勅令第52号「戦時大本営条例」が定められ、「大本営にあって帷幄の業務に参与し帝国陸海軍の大作戦を計画するは参謀総長の任とす」して、「戦時における陸海両軍の軍令機関の一元的関係が定められた」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』12頁)。明治27年、海軍省主事山本大佐はこの陸主海従方針を無視するかのごとく、、@「形勢を察するや、西郷海軍大臣及中牟田海軍軍令部長に進言するに、時局に対する海軍各部の準備整頓と緩急事に処するの方策とを以てし」、A福州方面巡航中の常備艦隊(松島、千代田、高雄)司令長官海軍中将伊東祐亨には「清国艦隊等に軽挙事端を醸すが如き行動なからしむる様麾下を戒飭せられん」事を要望した(海軍省編『山本権兵衛と海軍』76頁)。これに対して、中牟田軍令部長は、清国艦隊司令長官丁汝昌は伊東艦隊を追跡していたので、「機先を制して彼艦隊を攻撃せしめては如何」(77頁)としていた。山本はこれを牽制し、西郷従道もこれに賛成し、中牟田を説得し、「中牟田子 遂に此議に賛」(77頁)した。24年6月7日、山本権兵衛は海軍大臣(当時は樺山資紀、26年3月から西郷従道が海相。同じ薩摩出身)官房主事に就任し、長州陸軍と調整しつつ、日本海軍を整備してゆく。西郷従道の海相就任に先立って、山本は、「海軍諸制度の改革整備」案を研究していて、海相再任した西郷従道に提出した。西郷は山本に、これを海軍制度調査委員(委員長は山県有朋、委員は内務大臣井上馨、文相井上毅、海相、陸相ら)に付すと言うと、山本は、「多く海軍に関係なき部外者を以て組織せられたる委員会に付し、其審議に待たれんとするが如き仰せを蒙る 如何のものにや、不肖の少しく首肯し兼ぬる所なり」と反駁した。この海軍制度調査委員は、「山本大佐の施爲を査察審覈せんとする」(海軍省編『山本権兵衛と海軍』原書房、昭和41年、67頁)事を目的としていたようで、山本は海軍整備が妨害されると懸念したのだ。

 明治27年日清戦争が起った際、前述の戦時大本営条例に基づき同年6月5日、参謀本部に大本営が設置された。8月4日これを宮中に移し、次いで9月13日広島に進められた。京都(28年4月)、東京(28年5月29日)を経て、29年4月1日閉鎖された(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』12頁)。この陸主海従方針のもとに、陸軍は、「派手にして其声を大にし川上参謀次長、児玉次官等盛んに其経綸を誇張」(海軍省編『山本権兵衛と海軍』77頁)した。しかし、西郷は、閣議にでても、「海軍は自分と中牟田と山本とで致しますから御安心ありたしとのみにて 多くを語らざりき」(79頁)という状態であった。こうして、海軍は地味であったのだが、日清戦争遂行に際して陸軍と海軍の調整は不可欠となり、これを山本が担うことになった。

 西郷は、一介の海軍大佐山本を閣議に出席させ、「出兵の事を議するの前、先ず以て海陸軍の万一の場合に処する考慮を確かめたし」として、陸軍中将川上参謀次長と意見交換させた。山本と川上操六とは「維新前より造士館に於て学窓を共にし戊辰の役にも齊しく戦兵」であり、「親友の間柄」なので、「此(閣議)席上に於ては友人同士の談話として其意を悉くさしむるこそ、却て要領を得べし」(『山本権兵衛と海軍』79頁)と考えたのである。薩閥内部での海軍(西郷、山本)と陸軍(川上)との調整だから、可能なのであった。

 山本が「陸軍の抱負」を質問すると、川上は「具さに陸軍の計画を説き、進んで其戦備を論じ、敵前上陸をも敢て行わんとするの態度」(『山本権兵衛と海軍』80頁)を示した。これに対して、山本は「陸軍には工兵隊の用ゆべきありや」と問い、川上が「勿論是れあり」と答えると、山本は「然らば我が九州呼子港より対州へ架橋し、対州より朝鮮釜山へ架橋し、即ち日本より朝鮮に行く道を作らば我陸軍を大陸に送るに何等の苦労もなからん」と提案した。山本はこれで「陸軍万能に走れるの感ある」川上を牽制したのである。戊辰戦争以来の「戦友」だから、海軍大佐と陸軍中将という相違を越えて議論できたのである。その上で、山本は、海軍の独自の役割について、@「大凡海国に在て兵を論ずる、其国土内の小運動に就ては、之を問わず、苟くも海を越えて対抗せんとするには先ず以て其海上権を制するを第一義と為す。故に如何に精鋭の陸軍を擁するも海外に対して之を用ゆる、必ずや海軍に倚て其海上の安全を得ざれば失敗に終るものたるを知るべし。是れ古来幾多の例蹤の證する所 載せて 史乗に歴々たり」、A軍艦は限りあるから、兵員輸送には使えず、軍艦は陸軍輸送船隊を護衛するべきであり、B「戦時に於ける海軍の任務は敵の海軍に対抗して海上権を把握するを最急務とし、進んで敵の領土に迫り之を制圧し、或は時に陸戦隊を揚陸し或は彼我陸軍対抗の場合、我が陸軍を掩護して 彼陸軍を攻撃し 其他敵地の占領に従事し、或は他外国と敵国との物資輸送を防遏し、我国と他外国との交通を掩護して彼陸軍を攻撃し、其他敵地の占領に従事し、或は他外国と敵国との物資輸送を防遏し我国と他外国との交通を円滑ならしむる等、直接間接に敵国に対して採るべき策は前進根拠地の施設にあり」(『山本権兵衛と海軍』80頁)、Cこの前進根拠地で「敵に備え 以て陸軍の出動に移り 茲に始めて其兵站の連絡を得べき」であり、D清国海軍は「隻数に於て我に三倍し、噸数亦遥に我に超越」するので、敵海軍の健在する方面に「陸軍を揚げて敵前上陸を企てん」とするのは、「暴虎馮河者の仮想」(『山本権兵衛と海軍』81頁)であり、E日清戦争に際しては、海陸軍は「一方に偏倚することなく 宜しく協力一致 以て齟齬違算なきを期せざる可らず」として、山本は「我が海軍亦既に計画ある」を説いたのであった(81頁)。

 これを聞いて、川上は、「肯く所」あって、山本に「参謀本部に来て貴説を話されんこと」を請うた。山本は「参謀本部行の如きは予の職任外」として拒絶したが、大山陸相、西郷海相、伊藤首相、山県枢府議長ら薩長首脳が山本に「参謀本部行を慫慂」(81頁)した。そこで、山本は軍令部第一局長角田秀松大佐を随行させて参謀本部(参謀総長熾仁、次長川上、各将校)訪問し、戦局に際し「海軍として採るべき政策及作戦準備其他の方略、就中海上権の獲得把握に関する事、並に海陸軍協同策応すべき要点等」、「海軍前進根拠地の選定に関する実地の調査及其防備施設の概要、陸軍揚陸地点の探求等」を説明した(『山本権兵衛と海軍』81頁)。因みに、角田は旧朝敵会津藩士であり、憎き薩摩閥海軍などで働くことには心中察する余りあるが、山本は、旧朝敵如何などに拘らず、聡明緻密な人材ならば、彼を重用したということである。

 軍令面においては、山本は、中牟田軍令部長の「寡黙」が「内閣及陸軍」を不安たらしめ、「今回大本営組織に於て参謀総長の下に併置する陸軍参謀(参謀次長)と海軍参謀(海軍軍令部長)との均衡上」から、特例をもって、川上中将、大山陸相の意見を入れて、中牟田軍令部長の更迭を西郷従道に提案し、中牟田は軍令部長を辞任し、樺山が新部長に就任した(『山本権兵衛と海軍』82頁)。山本は、佐賀海軍出身の中牟田を辞任させて、軍令部長に薩摩の樺山を登用して、陸海調整に一役かったのである。

 こうして、戦争遂行にあたって、山本権兵衛の尽力で、長州・薩摩の藩閥利害が調整され、陸軍・海軍の対立ががどうにか調整されたのであった。「小勢力の艦隊(戦艦を一つももたない。英国に注文中の戦艦富士・八島は間に合わず、三等巡洋艦のみ)」の日本側は「旺盛なる士気と卓越した戦術(単縦陣で自由に運動し、多数の舷側速射砲で各個に撃破)」によって、「優勢有力艦(甲鉄戦艦の定遠・鎮遠)の揃った清国海軍」に勝利した(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』111−2頁)。つまり、日本連合艦隊(伊東祐亨司令長官、12隻4万トン、平均速力16,3ノット)は、@単縦陣で「二ノットの差で、日本艦隊は往復しながら攻撃を反復」できたこと、A32,5センチカノン砲は操作が難しかったが、12、15センチ「速射砲の威力」が大きかったことから、清国連合艦隊(丁汝昌司令長官、14隻3.5万トン、平均速力14,3ノット。単横陣で南下)に勝利して(日本艦隊は、敵3隻撃沈、2隻擱坐、ドイツ製最新鋭2隻遁走)、「艦隊決戦による制海権の掌握こそ戦勝への第一歩であることを実証」(池田清『海軍と日本』9−10頁)したのであった。


 ルートヴィッヒ・リース こうした藩閥の陸海軍調整による戦争遂行に関して、当時のドイツ歴史家ルートヴィッヒ・リースは的確な考察をしている。彼によると、薩摩の大山巌は、@渡欧して「特に参謀本部の研究を徹底的におこない、帰国後は多年にわたり陸軍大臣や時には海軍大臣(?)も務め」、A「第二軍司令官に任じられたかれは、明治27年11月には旅順港を、明治28年2月には威海衛を占領」し、「艦隊と上陸軍との巧みな連繋プレーを編み出した」(ルートヴィッヒ・リース、原潔ら訳『天皇国家観』新人物往来社、昭和63年、57頁)とする。そして、「軍事作戦本部において海軍の代表者がすべて薩摩出身者で占められているのは決して偶然ではない」(ルートヴィッヒ・リース『天皇国家観』59頁)として、@伊東祐亭は「鴨緑江とか威海衛における連合艦隊司令長官として、その不朽の名声を日本史に刻み込ん」だとし、A樺山資紀は「わが国のカブリヴィ(Georg Leo von Caprivi。普仏戦争時には陸軍第十師団司令官、1883年艦隊司令官)のように、突然陸軍から海軍に移った人物」であり、「天皇の大本営では最年長で、山県侯爵でさえかれよりは一年年下」であったとし、B井上良馨は、伊東祐亭とは「刎頚の友」であり、こうして「伊東祐亭=樺山=井上という海軍大将三人組は、その名声と経験において日本海軍が誇る最高の逸材」(ルートヴィッヒ・リース『天皇国家観』60−61頁)だったとした。一介の海軍大佐山本権兵衛の位置づけはなされていないが、日清戦争における薩長藩閥の調整が概ね的確に語られていると言えよう。

 一方、「陸軍を代表する人物としては・・両元帥=山県(長州)・大山(薩摩)侯爵のほかにかれらに比肩するものはいないが、強いて次に続くものを挙げろといわれれば、63歳の陸軍大将野津道貫(薩摩)の名を挙げざるを得ない」(ルートヴィッヒ・リース『天皇国家観』61頁)とした。他にも、「明治27年、広島大本営で児玉(源太郎[長州])と伊集院(五郎[薩摩])は一緒であった」が、次の日露戦争時には「今また大本営で二人はそれぞれ陸海の総参謀長(参謀次長の誤り)として共同して事にあた」(ルートヴィッヒ・リース『天皇国家観』62頁)ることになる。陸軍でも、長閥優位のもとに薩閥がとりこまれ、陸海軍の対立がどうにか調整されていたのである。

 佐藤鉄太郎『帝国国防論』 日清戦争後、「この大本営条例は陸主海従であるとして海軍から強く改正が要望された」が、桂太郎陸相がこれに反対し、天皇に裁断を仰いだが、「裁断は下されなかった」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』12頁)のである。

 山本権兵衛は、31年5月14日に海軍中将、同年11月8日に海相となった。対露戦に備えて海軍増強が図られ、32年1月には海相山本権兵衛は陸主海従の戦時大本営条例の改正を提唱した。同じ薩摩出身の参謀総長川上操六はこれを批判したが、同年5月過労死した。同年10月26日、山本は帷幄上奏権で明治天皇に戦時大本営条例の改正を再提唱したが、天皇は決定を保留した。

 35年、山本海相は、「夙に国防の理義を闡明せんと欲し、英国は地形上日本国に類似したる島帝国なれば国防の経営も稍々之が軌を執るの必要もあるべし」(『山本権兵衛と海軍』132−3頁)という考えから、軍務局員海軍少佐佐藤鉄太郎を英国に派遣した。山本は、日露戦争に備えて、海軍国英国の例をもって、海軍増強を陸軍に了解させようとしたのである。

 35年11月佐藤鉄太郎は『帝国国防論』(国会図書館所蔵)を刊行した。ここでは、まず、「古往近来 世界の歴史は侵略争奪の事跡」であり、紀元前1496年より紀元1861年までの3357年間のうち平和は僅か227年間に過ぎず、「戦役は人類主要の賦分」であり、「人力を以て之を左右すること能はざる」ことを知る。戦役は「一種の欲望を貫徹」するためにおこるものであり、「戦役の根絶し難き」所以とした(『帝国国防論』[以下、書名は省略]1頁)。これは、戦争不可避論にたつ軍人らしい見方だ。だから、彼には戦争を根絶するにはどうするかという発想はなく、戦争は不可避だから、これに対処するには軍備拡充は必要不可欠だと主張することになる。

 佐藤は、欧米列強は「搏噬(はくぜい、つかみ捕らえて食らうこと、侵略簒奪)の余類のみ」(6頁)だが、日本の軍備目的は、侵略ではなく、「国体を悠久に保有して国光を四表に照耀」することだとした(3頁)。日本は、ローマ帝国以来の大陸主義、「征服主義の富強」ではなく、「天与の好地勢を利用し海上の勢力を皇張し」「自強の策」で「国利の増進を海上権力の暢達を求め」(8頁)ることだとした。要するに、日本の「軍備の目的」は他国侵略のための軍備拡張はではないというのである(10頁)。しかし、佐藤は、陸軍を他国に派遣するには海軍が不可欠として、日本海軍は陸軍侵略主義を支援するともし、「我 陸軍を海外に用ひんか為めには必ず先つ海上を管制し得へき海軍を備へ、敵の陸軍を我国土に受けさらん可為には必ず先つ海上を制し敵をして輸送を能はざらしむるを要す」(19頁)とした。日本海軍が強大になれば、敵軍は大軍を輸送できないので、「我国民は枕を高くして安眠し得き」(16頁)ともした。佐藤は、西欧侵略主義と比較して日本軍の国土防衛主務論を展開しつつ、日本陸軍の大陸経営(薩摩西郷隆盛征韓論以来の)にも与していることが留意される。

 では、佐藤は陸軍、海軍の規模をどのように見ていたか。佐藤は、「一国の軍備は其の地理的関係に従ひ 之を定め 其の常備軍の員数は其の国の位置と聯邦との関係とにより之を定むべきは、事実上欧州諸国の証明する所なり」とし、「是れ仏独墺伊及露の諸国か各大兵を配し防禦の勢を張らんと欲する所以」とした。そして、佐藤は、陸軍はドイツ60万人、フランス50万人だが、、英国は、「洋中に孤立せるを以て 必しも列国の定備兵を基準とし、之れと対戦し得へき陸軍を備ふるの要なく、海上を制し諸外国の来襲を予防するを以て足れりとなす」故に、陸軍は10万人にとどまるとする(67頁)。そして、「英人の説く所を通覧せば只管ら海軍を以て国防の実を挙げんと欲するは勿論、渠(指導者)等の脳裏には其の陸軍の拡張を主張する場合に於ても亦た決して国防の主幹として海軍を看るの念慮を脱すること能はざるを知るべし。然りといえども、是れ唯海島国国民たる英人に於て之を見るなり」(71頁)と、、島国英国の海主陸従を指摘した。

 佐藤は、海軍による国防の意義について、「海国国防の目的は敵をして我近海を制することなからしむるに在り、敵をして我沿岸を劫掠すること能はざらしむるにあり」と、敵の国内侵略防止を指摘した。これを歴史的事実で傍証するために、佐藤は、文永弘安の役など「我国史を閲するに敵を国内に受けたる事跡を察するに、一つとして悲絶惨絶ならざるはな」く、「敵兵我国上陸するに至らば、我国民の不幸果たして奈何ぞ」(87−8)とした。西欧海戦・占領史を見ると、「海島及海港の防御は海上の権力 我手中に存するときに於ては其の守備を全しふべしと雖も 我海権一たひ敵手に委するときは 終に其の有に帰すべき毫も疑を容れず」(153頁)ともした。

 そこで、佐藤は、帝国「国防の主幹たる海軍の実力を如何に定むべきか」に関して、@「帝国国防は海戦に勝利を得るにあらざれば之を全し難く、海岸の防御は優勢なる艦隊を有する場合にあらざれば其の功を奏すること能はず。而して敵を国内に受けて之を掃蕩せんとするは国防の本義に反す」(238頁)とし、A日本の地勢から国防力を算定すれば、「我帝国の国防は猶ほ西欧に於ける英国の如く海上を制するにあらざれば之れを全ふするに由なきを知」(239頁)り、B日本戦史の主要は陸戦であり、海戦はほとんどないが、「今や我帝国の地勢と軍備との関係を稽査し 海上を制するにあらざれば 我国防を全ふすること能はざるを知れり」(240頁)とした。

 ここに、佐藤は、「帝国国防の目的は防主自衛を旨とし、帝国の福利を増進し平和を維持するに在り。而して此目的を遂行せんか為には海権の与奪に関する軍備を第一に重要視し、主として之れか完整を努め 沿岸の防御は制海艦隊の勢力を顧慮し之を備ふべきは吾人の既に論ずる所の如」(266頁)きなので、「制海の軍備」を怠れば、「悲惨」なことになると警告する。。明治35年末の世界海軍力として、英国70万トン、仏国28万トン、露国22万トン、日本14.5万トン、米国 14.3万トン、独国13.9万トン、以国12.4万トンだが、以後、日本海軍力が低下してゆけば、「到底我国防を全ふするに足らざる」ことになると警告した(268頁)。そこで、「最も強大なる海軍を東洋に派遣し得べき露国を以て我軍備の最小限」として、露国が東洋に派遣しうる艦隊をも想定して、戦闘艦・装甲巡洋艦を増加させてゆくとする。(『帝国国防論』274頁)

 こうして、英国と比較しつつ、「島帝国の国防は海軍を主とせざる可らざる所以を論述」し、中世以来日本の国防は「陸主海従」であったが、これ以後露国海軍を仮想敵国に想定して、 「海主陸従の輿論」が勃興することになった(海軍省編『山本権兵衛と海軍』133頁)。

 この 「海主陸従の輿論」の勃興と相前後して、露国を仮想敵国として、既に30年8月から35年3月に戦艦(富士、八島、朝日、初瀬、三笠)、一等装甲巡洋艦(浅間、常盤、出雲、磐手など)が英国から到着して、「海軍の威容を一新」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』112頁)した。日本海軍は、「日清戦争の教訓を基に、挙国一致して財政的、技術的の困難を克服し、最も新鋭な海軍を建設」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』291頁)したのであった。

 戦時大本営条例の改正 日露関係緊迫してくると、陸海軍当局が協議し、明治36年12月28日戦時大本営条例を改正し、「参謀総長と海軍軍令部長とは大本営において全く同格とされた」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』12頁)のである。つまり、36年10月に長州出身の児玉源太郎が参謀総長になると、ロシア開戦を決意し、消極的な山本海相を「参謀本部が進める対露戦略」に引き入れるために、36年12月に陸主海従の戦時大本営条例を改正して、戦時においても海軍軍令機関は陸軍の参謀本部と対等となった(佐藤瑛『帝国海軍『失敗』の研究』芙蓉書房出版、2000年、22ー3頁)。37年日露戦争勃発に際して、同年2月11日宮中に大本営が開設された。

 こうして山本権兵衛が、陸主海従の国防方針を海主陸従に転換すべく画策し「陸軍から独立した別個の権力機構の創設を要求」(福井雄三『日米開戦の悲劇』52−3頁)し、海軍軍令部を参謀本部と対等にしたとされている。この点を正確に言えば、藩閥調整によって、日本では陸軍と海軍は平等関係を維持して、軍令面では既に平時には対等となっていたが、戦時でも平等になったということである。陸海軍の統帥部は分裂しても、薩長藩閥の調整で命令系統の分裂はしっかりと抑えられていたのである。既に児玉は「対露戦略はほぼ完成」していたから、海軍に統帥権を認めても、「混乱を招く余地は少な」くなっていたから、児玉は、海軍統帥権の独立を山本に譲歩て、「陸海軍の協同態勢」(佐藤瑛『帝国海軍『失敗』の研究』24頁)巧みに引き出したとしたのである。実際に、山本次に見るように、陸海軍の調整に尽力するのである。

 日露戦時陸海軍の藩閥調整 日清戦争時と同様に、日露戦時でも、薩摩の海軍中将山本権兵衛が、薩長藩閥を利用して、陸軍と海軍とのバランスを調整し、海軍の開戦態勢を整備していった。戦争指導の分裂を避けるため、36年に強力な指導性をもつ軍事参議院が設置され、陸軍からは大山巌、寺内正毅(特命で野津道貫、黒木為驕A奥保鞏)と海軍からは山本権兵衛、伊東祐亨(特命で井上良馨)が軍事参議官に任命された(池田清『海軍と日本』54頁)。

 明治37年1月12日朝の閣議で開戦決定(海軍省編『山本権兵衛と海軍』201頁)した上で、御前会議が開かれた。桂首相急病のため、山本海相が日露開戦の余儀なき事情を述べる。山本が御前会議を主導したのである。山本は、@「日露協商談判」開始以来、露国は極東軍備を増強してゆくことを踏まえ、「此の状態にして荏苒経過せんが 啻に其協約すべき条款に就て我国の忍び得べき程度にまで妥協を進ましくべきの望なきのみならず、満韓に於ける露国の暴慢なる挙措は底止する所なく其威力亦抜く可らざるに至らんことを虞る」とし、Aここに、「対露交渉を断絶し我国自衛上必要の行動を執るの已む可らざるの時機に到達せるを感ずる所以」とし、B「我陸海の軍備は今や其大部分の充実準備成りて何時にても発進の用意は整理せり」とし、まず海軍は、「二倍以上の勢力」をもつ敵に対して、「先ず在東洋の敵艦隊を撃滅」し、次いで「別の艦隊を送遣し来る場合には之を邀撃する」とし、陸軍についても、「我国に比し多数の軍団を有すと雖も其送兵は皆単線鉄道に由らざる可らざるを以て、我は彼の集団個々に対し之を撃滅するの方略を取り、即ち先ず満州に在る敵の陸軍を撃滅し、漸次戦勢を進」(『山本権兵衛と海軍』196頁)めるとした。陸軍の主目的まで指示したのである。

 これに対して、伊藤博文は、「只今山本大臣の申述べたる如く露国に対する交渉は誠に困難に陥」ったことは、露国の「失当」、「誠意なき」事によるから、「我国は自衛の爲め独立行動を執るの外に手段なし」(197頁)とし、山県有朋は「山本大臣の申述べた」ことを容認した。長州が、薩摩の山本采配を了解したのである。最後は、薩閥長老の松方正義が「山本大臣の申述べた」ことを容認し、日清戦時財政の経験を踏まえれば、「財政の調製は困難ならざるべ」(『山本権兵衛と海軍』198頁)しとした。

 だが、明治天皇はまだ開戦を認めず、露国の回答遷延に「尚お一度催促して見よ」とした。これに対して、井上馨は、「陛下に近づき『陛下ー開戦』と発言し、尚お語を継で何事か奏上せん」(海軍省編『山本権兵衛と海軍』199頁)とした。山本は、「会議は既に閉会を告げたり、退がれ」とした。山本の維新元勲をものともしない、断固たる態度がが看取されよう。

 2月3日露国艦隊がついに旅順を出港し、これを踏まえて、2月4日御前会議が開かれた。桂首相が出席していたが、開会劈頭山本海相が発言し、「彼艦隊は・・佐世保、竹敷を襲撃せん」かも知れないので、「即時海軍首脳部を集め取敢えず応急の措置を執」(『山本権兵衛と海軍』204頁)ったことを報告した。山本は、「按ずるに日露交渉久しきに亘りて 猶お未だ解決の曙光をだも見出すことを得ず、否寧ろ時局は益々険悪に傾き彼出師準備の進捗 今日の如くなるに想到し、茲に其艦隊の出動を見るに及びては戦機は既に熟せるものあり」とした。そこで、山本は、「佐世保鎮守府司令長官 及竹敷要港部司令官に対し、露国艦隊現るるに於ては我に敵対するものとして之を撃破」することに「御聴許を仰ぐ」とした。まさに山本は天皇に「海軍発進の大令を仰」ごうとしたのである(『山本権兵衛と海軍』205頁)。会議はこれで終了し、海軍発進の聴許を得た。

 御前会議の直後、山本主導のもとに、「自今陸海軍首脳部の軍事会議は陸軍参謀本部及海軍省大臣室の両所に於て交互に之を開き、陸海軍各須要当局者并に会同して之を為す」と、薩長藩閥によって陸海軍首脳の調整が提唱された。これに基づき、2月4日夜、第一回会同(海軍側ー山本海相、伊東軍令部長、伊集院同次長、陸軍側ー大山参謀総長、児玉同次長ら)が開かれ、山本は、@「大凡そ戦機の熟するや陸と海とを論ずるの要なし」だが、A「其初めて之を発するや 島帝国に在ては海陸の間 自から異なるものあるを見る。即ち樽俎(そんそ)折衝(宴会でなごやかに交渉し、うまく話を運ぶこと、つまり外交交渉)より自由行動(戦争)に移るの際 海軍は陸軍と異なり、倏忽(しゅつこつ、たちまち)として千里の外に策動し、以て機先を制するの挙に出でざる可らず」という海軍の陸軍と異なる特徴を指摘し、B「故に此間に於ける海軍の進退動作は最も慎重を要し、其方略亦極めて機微に属するや論なし。是を以て這囘(しゃかい) 時局の推移に攷(かんが)へ 万一の場合に処する為め 既に当該指揮官に対しては 予め密封命令を与え置き 電令一下 之を開封して 直に其行動に入るの用意を整えあり。是れ蓋し各位に於ても夙に察知せらるる所なるべ」きであり、この海軍密封命令は「海軍発動の機微」なので、ここでは説明できないとした(『山本権兵衛と海軍』206頁)。同じ薩摩の陸軍大将大山巌が「全然之に同意を表する」とした。さらに、山本は、「我国が自由行動を執るに決」した場合の「海軍発進の軍令」の時機・大綱を述べ、「陸軍側の同意を得た」(海軍省編『山本権兵衛と海軍』207頁)のであった。

 2月5日、山本海相、伊東軍令部長が参内し、天皇から「軍令の御裁可」を得て、これを東郷連合艦隊司令長官、片岡第三艦隊司令長官に伝達した(『山本権兵衛と海軍』207頁)。同日、小村寿太郎外務大臣の栗野全権公使宛訓令がなされ、@「貴官は本電信接手次第 左記の趣旨の署名覚書を『ラムスドルム伯』(外相)へ提出せられるべし」、A「韓国の独立及領土不全」は日本の安全に関わるのに、露国は「韓国に関する日本の提案」を拒絶し、露国が満州を占領し「満州領土保全の尊重」を拒否し、この結果、日本は「自衛の為」に行動せざるを得ぬこと、B交渉中に露国は「軍事的活動」をして、極東平和に露国同意を得られず、ここに日本政府は「帝国の既得権及政党利益を擁護」するため「独立の行動」をする」とした(『山本権兵衛と海軍』210−211頁)。宣戦布告である。

 満州軍総司令官を命じられた大山巌は、山本海相を訪問した。大山は、西郷従道なき今、頼めるのは「貴下」のみなので、「軍隊は唯進んでさえ居れば夫れにて宜ろしからんが 国家としては或る時と場合とを見て局を結ばねばならぬ」ので、講和の時機を見定めることをお願いするとした(『山本権兵衛と海軍』216−7頁)。同じ薩閥だから、陸軍首脳が海軍首脳に終戦時機の打ち合わせをすることができたのである。山本は、「終始彼我の対勢と戦局の進展とに留意し 之を逸せざることに努力すべし」と約束しつつ、満州は野津大将らに任せ、大山閣下は日本で「帷幄の枢機」に関わるべしと提言した。大山は、野津道貫らは「出先にて互に剛情を張り意見の一致せざること多々ある」ので、これを「纏める」のは自分の任務とした(『山本権兵衛と海軍』217頁)。陸軍内部の薩摩指導陣の調整にあたりたいというのである。


 エルヴィン・フォン・ベルツ 医学者ベルツは、日露戦争が母国ドイツの命運にも関わるとして、深い関心を示した。彼は、@「相変らず、陸軍と海軍のあいだの勢力争いが激しいようで、現在(明治37年10月30日ー筆者)、旅順の占領が非常な難関に遭遇している責任は、主として海軍のわがままによるそう」であり、A「それというのも、旅順での名声を海軍が一手に占めようと思ったからで、旅順の背後に軍隊を至急上陸させることを、陸軍側から督促することはできないというのであ」り、どうやら海軍は、最初のうち、単独でこの要塞を片付けてしまう予定だったらしい」が、B「それは、とんでもない誤算」であり、あげくのはては、どうしても軍隊を上陸させねばならないことになったときには、もう陣地ががすっかり固められていたので、日本は陸海軍とも、散々これに悩まされることになった」(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部下、岩波文庫、昭和37年、19頁)と、的確に考察していた。

 こうして陸軍・海軍には対立があったのだが、Aのようにその対立はある意味では海軍功名心をめざす「ポジティブ」なものでもあり、陸軍に従属されないために海軍が突出するという悲愴感溢れたものではなかった。それゆえに、この対立は結局なんとか調整されて、多大犠牲のもとでの陸軍の旅順要塞陥落によって、ロシア旅順艦隊は撃滅され、日本敗北となるような深刻対立にまでならなかったのである。

 次いで、日本連合艦隊は、明治38年5月27日にバルチック艦隊38隻と戦い、「勝敗は、戦闘が開始されて30分の間に主力艦の砲戦で決し」た。日本側は、水雷艇3隻を失ったのみで、ロシア側の戦艦6、巡洋艦4、駆逐艦4など19隻を撃沈し、戦艦2、海防艦2、駆逐艦1を捕獲した。勝因は、@日英同盟など「政略的な優位」、A山本権兵衛海相によって事前に周到に準備された戦備(「密度の濃い哨戒網」でいち早くバルチック艦隊発見、補給源の整備)と「巧妙な人事配置」(退職寸前の東郷の司令長官抜擢)などによるといわれる(池田清『海軍と日本』12ー6頁)。


 海軍の南進論 日露戦後、陸軍が対露大陸経営に積極化してゆくことに対して、海軍は「南方に目を向ける者が多」く、朝鮮など捨てて「貿易立国による日本民族の平和的な南方発展の構想」を提唱した。

 竹腰与三郎『南国記』(二西社、明治43年)は、「英国のためにしてやられ、日英同盟の名のもとに、ついに満韓経営にその全力を蕩尽せざるに至らしめらる。ある年月を経過すれば、日英の戦端は必ず免るべからず」と予言し、高橋節雄『筑波艦航海史記』(明治40年)、小栗孝三郎大佐『海軍趨勢』( 海軍通覽發行所、明治43年)、川島清治郎『国防海軍論』(嵩山房明治、44年)も、列国を刺激する武力を随伴することなく「貿易と植民によって南方に進出することこそ、日本民族の歴史的使命である」(池田清『海軍と日本』115−6頁)と提唱した。

 英国は、中国での植民地利益を確保すべく、日本を満州・朝鮮経営に押し込めたともいえる。だが、海軍は、陸軍の大陸経営に対抗して、対米邀撃作戦とも関連して、南方経営を目指し、第一次大戦後には元ドイツ統治南洋諸島の委任統治をまかされてゆく。


                                  C 藩閥衰滅と陸海対等論「独走」 
 .米国海主陸従策への海軍対応 確かに山本権兵衛が海軍を陸軍と同等としたために、「陸海系統をバラバラにしてしまった」(福井雄三同上書54頁)とも言われている。日露戦後、児玉源太郎は、陸海軍統帥の「分裂」を是正して、日露戦前の陸軍参謀本部の統合に戻そうとした(佐藤晃前掲書、26頁)。だが、新たに太平洋に進出してきた米国海軍増強の脅威を前に、山本がこれに賛同することなく、明治39年7月24日に児玉参謀総長は死去した。

 日露戦後、「世界の有力海軍国は競ってこの戦訓(新鋭艦艇の優位性)に習い巨砲搭載の大艦建造に向かって一斉にスタートした」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』291頁)。明治40年帝国国防方針における「国防所要兵力」の初年度決定において、山本の政治力で戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻が認められた。日露戦争後、米国は「英国に次ぐ世界第二位の海軍を目標に建艦を続け」、露国は着々と対日軍備を整えだした。特に、米国は、明治31年以来、プエルトリコ、キューバ(保護国)、フィリピン、グァム、ハワイを占領保有し、「海軍充実の必要」に直面していた。34年セオドア・ルーズベルトが大統領に就任すると、「海主陸従主義を採る方針を定め、当時世界第二位の海軍国」ドイツを凌ぐため、明治37年、「パナマ運河の開鑿」と同時に、「比島、ハワイ、グァム、ミッドウェー等の軍事施設の建設」に着手し、明治40年、統合会議は、比島スビック湾の防備強化し、「日米開戦の場合、米艦隊の来援までの90日間、同基地を維持できる能力をもたせるべきである」と具申した。これに対して、米国陸軍は、「スピック湾の防備は困難で、全兵力をもってマニラ湾を防衛すべきである」と主張した。セオドア・ルーズヴェルト大統領は、こうして対立する陸海軍首脳部に「不信を表明」した。彼は、「比島をさしおき、ハワイ海軍基地の建設を促進」した。41年1月、ハワイ真珠湾に海軍基地、フィリピンに前進根拠地を建設した。41年10月18日、大統領は、「司令長官エヴァンス提督の率いる戦艦16隻を極東に回航し、横浜にも入港させ、その偉容を示して日米関係に反映させようとし」、「横浜において大歓迎を受け」(([防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、101頁)たのであった。以後、大正8年までに戦艦48隻を基幹として、6個艦隊(戦艦8隻と補助艦隊)を編制し、さらには、「英国を凌いで大海軍国たらん」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』291頁)とした。このように、日露戦後に新たな仮想敵国となった米国が「海主陸従」方針をとったとすれば、日本もそういう方向に舵をきらなければならなくなる。

 ここに、明治39年、日本は、「国防方針の対象」として米国を意識し始める。40年2月1日、陸海軍両統帥部が上奏、裁可された「帝国国防方針」・「帝国軍の用兵綱領」では、@「最も近く有り得べき敵国」は露国であり、A「他日激甚なる衝突を惹起」するありうる国は米国であり、「我海軍の作戦上最も重要視すべき」は米国海軍だとした。そして、「兵力の最低限」は戦艦8隻2万トン、装甲巡洋艦8隻1.8万トンとされた(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、103頁)。

 40年4月には、奥保鞏参謀総長(小倉出身ながら、日露戦争で長州陸軍を感服させる戦歴をあげた)、東郷平八郎軍令部長らは、「陸海軍を統一した国防方針、これに伴う国防所要兵力、用兵綱領を決定」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』61頁)した。つまり、@「帝国の国防は露、米、仏の順序を以て仮想敵国となし 主として之に備」へ、A陸軍は二十五師団(平時。戦時には50個師団)を編制し、B「海軍 最新式戦艦八隻、同装甲巡洋艦八隻を主力とし、これに相応する補助艦艇を付属」(63頁)し、いわゆる八八艦隊を編制し、C海軍用兵綱領で「海軍の対米作戦は東洋にある敵海上兵力を掃蕩し、西太平洋を統御して日本の交通路を確保し、しかるのち敵本国艦隊の進出を待ってこれを邀撃撃滅する」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』63頁)とした。明治41年)、「海軍は、はじめて米国を想定敵国として大演習を行ったよう」(103頁)だ。明治44年、陸海軍は、図演で、比島作戦を具体的に研究し、大正9年には海軍は「対日渡洋作戦に関する文書を米国から入手」し、「米海軍に備える軍備の充実及び作戦の研究」に積極化した。しかし、海軍は、対米兵備不足で、「西太平洋に邀撃」するのが精一杯であり、「進んで相手の致命傷をつく作戦の正統主義を貫くことなど、思いもよらないところ」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、104頁)であった。

 この陸軍、海軍の仮想敵国の分裂は、ロシアが陸主海従の大陸軍国であり、米国が海主陸従の新興海軍国であるという分裂に裏付けられてもいた。日露戦争の大功労者東郷平八郎軍令部長の采配のもとに、陸軍の仮想敵国の露国を一番、海軍の仮想敵国の米国を二番と順序をつけて調整しつつ、海軍は八八艦隊という大海軍編成を決めたのである。

 邀撃撃滅 このCの対米海軍の邀撃撃滅という受動的作戦が、以後、日本海軍の対米方針になった。日露戦後、日露戦争戦訓(疲れきった敵艦隊を迎え撃って艦隊決戦で勝敗を決める)を都合よく援用して、敵が攻めてきた時のみ、「先制と奇襲を前提としての『寡をもって衆を制する』という短期決戦」に出て、漸減邀撃するという戦略をたてたのである(池田清『海軍と日本』18頁)。つまり、日本海軍は、「日米両国の国力の相違から・・速戦即決主義を方針とするも、我から長途遠征して戦うに足る兵力を整備維持することは全く不可能に属し、渡洋来攻する敵艦隊を日本近海で邀撃撃滅する策を採るというのが作戦計画の骨子」となって、米国本土攻撃を当初から放棄したのであった。そして、日本海軍は、「艦隊主力を南西諸島方面に集結し、敵艦隊の来攻を待って小笠原諸島以西の海域に邀撃し、一挙に雌雄を決しよう」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』145−6頁)というのである。こうして、対米戦では、「わが海軍は、戦略的守勢を採り“逸をもって労を持つ”作戦方針により、来攻する米艦隊主力を邀撃撃滅して米国の戦意喪失を図る」(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』朝雲新聞社、昭和46年、4頁)という方針になったのである。

 昭和2年11月16日、築地の海大講演室で、末次信正作戦部長は第一次大戦後の状況を踏まえて、この邀撃作戦の問題点を初めて本格的に指摘した。つまり、彼は、大正8年以降の演習では「索敵、漸減、決戦」方法の問題点として、@「敵が予想のように、予想の海域に進んでくる」かどうか、Aこの方法で「有利な決戦」ができるのか、B分散して索敵する際に集結してくる敵に漸減されるおそれが多くないか、Cだが、集結して索敵すれば「勝算か期待できない」こと、D現在の方式では、軽快部隊・補助部隊と主力部隊とをどうすれば「もっとも有利に戦えるかを考える余裕がない」こと、E「艦艇の艤装」は「指揮官が戦機をつかむに必要な設備」を欠いていることなどを指摘したのである(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』昭和46年、68−70頁)。

 そして、「想定どおりの日米海戦を想定して行なわれる演習や図上演習でも、演習統監部がその審判や想定に手加減を加えなければ、結果は日本艦隊に不利な状況が多」く、「日本艦隊は米海軍の主力と遭遇する前に大半が撃沈されるか、燃料を消耗し、立ち往生する結果が確実に読みとられていた」(池田清『海軍と日本』56頁)のである。

 この様に、この邀撃作戦では、@「敵艦隊が主力を率いて早期に来攻するや否やは、一つに敵側に意志にかかるもの」であり、「速戦即決が可能であるか否かは、はなはだ疑問」(1『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』46頁)であり、Aしかも、この邀撃作戦はあくまで一時的・短期的作戦に過ぎず、国力差の拡大を反映した巨大敵艦隊が来攻した場合、とうてい日本海軍の太刀打ちできるものではなく、戦局は長期になるのである。この意味で、邀撃作戦とは、国力差拡大を阻止する作戦を放棄した「敗北」戦略だといえよう。そもそも、日本海軍には短期決戦作戦ばかりがあるだけで、敵国力の削減はもとより、日本国力維持ということへの長期的配慮はなく、敵米国の後方輸送を担う通商船舶破壊の意図もなければ、「我が輸送路を守る意図もなかった」(佐藤晃前掲書、47頁)のである。国力差拡大を阻止する作戦が取れない場合、日米戦争の勝敗ははじめから日本敗北と決していたから、日本側は決して米国とは開戦してはならないものとなるのである。当時の陸海軍の作戦部局では、異常に国力差が離れていて長期戦となる場合について、分析していなかったと言わざるをえない。


 藩閥衰滅と陸海対等論「独走」  しかし、陸軍少将田中義一、中将上原勇作らは、明治44年10月、孫文の辛亥革命で東アジア情勢が急変してくると、朝鮮半島の治安維持とロシアの南下に備えるため、駐韓常備軍二個師団の新設を要求し、ここに軍部拡張の主軸をめぐって陸海の争いが展開することになった。大正元年11月、陸軍大演習のために新橋駅を発たれる大正天皇を見送る際、西園寺首相は海軍が譲歩すれば陸軍も遠慮するという期待をこめて山本権兵衛海相に陸軍対策を尋ねた。だが、山本は首相に同じ薩の上原の解任を勧めた。以後、薩閥、長閥の駆け引きが展開し、枢密顧問官・高島鞆之助中将(薩摩)から勧告された上原は、増師案を撤回して自ら辞任する決心をしたが、山県有朋元帥(長州)の工作を受けて、増師案を再提唱する。紆余曲折を経て、周知の通り陸軍は後任の陸相を出さず、西園寺内閣は倒壊を余儀なくされ、大正元年12月第三次桂内閣が成立する。軍藩閥横暴への世論の憤激は、長州閥の首相桂太郎に向けられた。憲政擁護・閥族打破を標榜する在野政党と、これに同調した院外団、言論界、一般民衆の攻撃で、大正2年2月に第三次桂内閣は僅か53日で倒壊した。藩閥が、陸海軍対立の調整ができなくなってきたのである。

 これまでは藩閥が作用して、陸海系統はどうにか調整されてきた。だが、大正デモクラシーの高揚という時勢で藩閥が批判されだした。最後の長閥長老山県有朋(大正11年)、薩閥長老大山巌(大正5年)・ 松方正義(大正13年)の死去もあり、藩閥が政軍界からも衰退してゆくにつれて、陸海軍統帥・調整面で藩閥が調整能力を失っていったのである。のみならず、陸海軍に新たな重層的対立(陸軍内部の皇道派・統制派、海軍内部の艦艇派・条約派という内部対立を伴う陸軍・海軍の対立)すら生じていったのであった。

 まだ山県・松方が存命中だった大正9年には藩閥が辛うじて影響力を発揮していた事例として、「特別演習を皇太子殿下御統裁の件」があった。軍統帥権はあくまて天皇にあったが、健康上の理由で皇太子が統帥を行なうことに就いては、「山県、松方両元勲に御諮詢」し、藩閥元老の了解を得ようとしたのである。そこで、内山武官長が急遽上京し、「山県公邸に御使奉仕し、帰途在鎌倉の松方内大臣邸を訪ひ、午後6時帰邸」して、「聖上陛下に奉答」して、「該件直ちに御裁可あらせら」(四竈孝輔『侍従武官日記』芙蓉書房、昭和55年、243頁)れたのであった。しかし、両元老が死去し、藩閥の調整弁が消滅し始めると、ここに統帥権が大きく動き始めた。つまり、統帥権は、@政治と軍事の関係において、軍部に政治に対する優先権を与え、A海軍と陸軍との関係において、特に海軍に陸軍への対等関係維持の根拠を与え、陸海軍の間に抜き差しならない対立を醸成することになったのである。

 大正10年10月、近衛は国際連盟協会理事として、松山市公会堂で既にこの統帥権を行使する参謀本部批判演説をした。つまり、近衛は、@日本人は「十九、二十世紀の侵略を眺めて、始めは『人を見れば泥棒と思え』」と警戒していたが、「日露戦争に勝ってからは『人が泥棒をするんだから、己も泥棒をしてもよい』」と、軍部が支那・シベリアに対して欧米帝国主義と同じように考えるようになり、欧米の批判をうけたとし、A参謀本部改革が必要だと主張するのである。彼は、本来参謀本部は「国防、用兵の事を掌り、その職能は軍令事項に限られているのである」が、参謀総長は軍政、外交ににまで干渉し、かつ参謀総長は閣議・議会に責任を負わず、「立憲的な責任内閣制でありながら、別に政府があるようなものでいあわゆる二重政府」となり、外国から軍国主義と批判される所以であるので、参謀本部を「責任政治の組織内に組み入れることが絶対に必要」だと主張したのである(細川護貞「近衛公の生涯」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、127−8頁])。

 第一次大戦 大正3年8月第一次世界大戦が勃発し、日本は日英同盟で参戦した。3年11月、陸海軍協同して東洋の独逸根拠地青島を攻略し、更に海軍は独逸東洋艦隊を撃滅すべく艦隊を太平洋、印度洋へと進め、マーシャル、カロリン方面の独逸領植民地を占領し、地中海、南阿海域にまで艦艇を派遣」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』64頁)した。しかし、第一次大戦では、「日本として主力艦を中心とする艦隊決戦に臨むという機会はなかった」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』131頁)。

 第一次大戦中の諸海戦で最重要海戦は大正5年5月英独のジュットランド海戦であった。従来英艦隊は「艦隊の温存を重視した戦略」をとってきたが、「それでは長期戦となるおそれがあ」るので、「一気に艦隊の決戦により、局面の進展を図ろうとした」のであった。しかし、英艦隊は、「艦隊の展開や進撃の遅れから、独艦隊を逸し、これを撃滅することに失敗」した。結局、英国は艦隊決戦を十分に行なわなかったので、撃滅に失敗したとされ、「艦隊決戦主義思想の価値を十分に証明」([防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、44−5頁)したと受け取られた。世界の海軍は、「主役を演じたものは戦艦および巡洋戦艦の巨砲の威力」である事を確認し、日本海軍は「主力艦中心主義」を「一層明らかに再確認」したのであった。しかし、同時に、英独両国とも大型戦艦を数多く揃えて艦隊決戦をめざしたが、結局強力で高価な戦艦は低廉な武器(機雷、魚雷、潜水艦など)の攻撃に弱いことも明白となったのであった。所が、当時の保守的な海軍用兵家たちは、後者の低廉武器の開発を促進するのではなく、前者の戦艦能力の限界を克服し、一層の戦艦強大化・高性能化を目指したのであった。これが、日露戦争以来の日本艦隊派の戦艦志向をますます強めることになり、日本海軍は、「決戦主義に沿う艦隊運動と術力の練磨に、いよいよ精魂を傾ける」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、45頁)ことになった。

 一方、米国は、大正5年海軍拡張3カ年計画(戦艦10隻、巡洋戦艦6隻など156隻の建造)で、「対日優勢三割の現状を十割」にしようとし始めた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』144頁)。大正6年10月10日、勝田蔵相宛加藤友三郎「海軍軍備沿革」で、「英独海戦の教訓並に列強海軍の趨勢は兵力の中堅として倍々巡洋戦艦の真価を認め、各国相競ふて高速の巨艦を実現しつつあ」るが、日本海軍の現状は有力戦艦が不足しているので、大正8−12年度に6681万円で巡洋戦艦2隻の建造を提案した(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』133頁)。

 大正7年5月、大戦終焉を考慮し、参謀総長、海軍軍令部長が「補修改訂案」を策案した。それによると、「帝国の国防は露、米、支の順を以て仮想敵国となし 主として之に備ふ」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』65頁)と、第一位は露であり、第三位の敵を仏から支に変えた。日本軍の第一、第三位の敵国はいうまでもなく陸軍の仮想敵国であるから、敵の観点からは陸主海従である。最強にして最も可能性の高い仮想敵国は米国でありつつも、陸軍の仮想敵国が露国。中国とされたことから、海主陸従方針が公然と打ち出されることが控えられていた。国防兵力は、陸軍40個師団、海軍八八艦隊を基幹とする兵力(67頁)とした。「対露・対米・対支の海軍用兵綱領」の対米では、@「開戦初頭に陸海軍協同して、ルソン島を攻略し敵の海軍根拠地を覆滅し、爾後の邀撃作戦を容易ならしめ」、A「使用陸軍兵力は三コ師団を予定し、海軍の作戦は全艦隊を奄美大島付近に集中し、小笠原列島の線に敵主力の進攻方向により全力をあげて出撃する」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』67頁)と、ルソン島攻略では海軍は陸軍と協同するとした。

 大正7年6月29日、「帝国国防方針」・「帝国軍の用兵綱領」の第一次改訂が実施され、大正8年6月2日、加藤海相は原首相に、「海軍軍備充実に関する議」を提出し、『対米独七割」論のもとに、「八八艦隊を完成することは国防兵力に到達するに必要な第一歩であって、且つ最も穏健な手段であると信ずる」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』265−6頁、『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、104頁)とした。紆余曲折を経て、予算案が大正9年8月に成立し、「一躍して強大となった米海軍」に対抗するべく「主力艦中心の戦法」’『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』147頁)という「海軍多年の懸案」が解決した。しかし、この八八艦隊完成すれば、維持費に年6億円(年間予算15億円)もかかり、海軍上層部は「やがては行き詰ま」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』268頁)ると憂慮していた。

 ワシントン軍縮条約と陸軍・海軍 米国は、「英国の戦後疲弊の機に乗じて世界最大の海軍を建設しよう」としたが、「海軍軍備拡張に伴う軍費負担の過重に対する民間の不平が激しく、特に教会同盟、婦人連合会等の平和運動は軍備制限問題に気勢を添え、政界においては上院議員ボラーの提出した軍備縮小案が1920年(大正9年)5月上院を通過」したために、「米政府は太平洋及び極東問題、日英同盟の存続等の諸問題に関し、日英米間に何らかの了解成立を希望」した。ここに、「軍備制限必至」の国内世論に押されて、米英は、「第一次世界大戦の前後を通じて急膨張を続けている日本の海軍力を、相対的にある程度に制限すべき」方策をとろうとしたのである(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』293頁)。

 首席随員の海軍中将加藤寛治は、こうして力で押さえつけようとすることに対して批判的であった。彼は、大正10年5月24日の『日記』に、「日本国民が戦争に強きは武の精神に依る。故に大義名分正しからざる侵略戦には決して勝つを試みず。日本は侵略国にあらず、武の精神による国防のみ。故に列国が正義公道により極東に自由競争を欲して背后の兵力を廃するならば、日本も悦んで之に応ずるであろう」とし、「軍縮は吾人の最も歓迎する所」だが、「人を脅かしながら、協定しようと云ふのは強迫と屈従の他何物をも得べからず」とし、「海軍力を以て政策の具となすの思想を根絶するに至らんことを希望」すとした(「加藤寛治日記」[『海軍』続・現代史資料5、1994年、44−5頁])。

 艦隊決戦の場合、「防備軍は攻撃軍の50%増の兵力を持てば勝てるというのが、当時の海軍戦略の常識だった」ので、「英米側は主力艦の対日五割増しを主張し、日本は対英米七割を強調」(ポッター『山本五十六の生涯』25頁)した。「米英日を五、五、三の比率に抑え」ようとした「アメリカの原案」では、日本は米国が攻めてきたとき「防ぎ切れない」とみて、「日本の主張は七割」(豊田譲『悲劇の提督・南雲忠一中将』講談社、昭和48年、195頁)なのであった。日:米が7:10の場合、「米国の対日優位は43%」となり、この7%差は「戦闘ではしばしば勝利を敗北に変える可能性」があった。そこで、米国は英国と組んで、10:6(米国の対日優位は67%)を主張し(ポッター『山本五十六の生涯』25頁)、日本の対米優位の減殺を図った。

 結局、大正11年2月調印ワシントン条約で、日本は「主力艦、航空母艦の保有量を英、米各五に対し三の割合」とされた。米国は当初の目論見を実現したことになる。加藤寛治は、10年12月31日に「十年後の国際状態変化は知れず、此場合に変更する事あるべし。独露の海軍は如何になるも知れざるなり。5−5−3でも露の如何によりて」とし、欄外に「日米間に戦争起らぬと云ふ保証なき限り、米国案の如く妥協する能はず。乞ふ暫く政治問題に至り、之を先決してかかられたし」(51頁)と、不満を記していた。なぜ、全権大使加藤友三郎海軍大将はこれに反対しなかったのか。井手海軍次官宛加藤全権伝言によると、@「米国の世論は軍備拡張に反対するも一応其の必要を感ずる場合には何程でも遂行するの実力」あって、日本が八八艦隊を完成させれば、米国は「必ず更に新計画を立つる」は明らかであり、Aしかし「大正16年以降に於ては八八艦隊の補充計画を実行することすら困難」となり、これでは「日米間の海軍力の差は益々増加するも接近することは無く、日本は非常なる脅迫を受くる」ことになるので、B「米国提案の所謂、十、十、六は不満足なるも、But if 此の軍備制限案成立せざる場合を想像すれば、寧ろ十、十、六で我慢する結果に於て得策とすべからずや」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』297頁)とした。加藤は、これは「少しく意気地なき議論」としつつも、「止むを得ざる必要論」とした。

 やはり、残存兵力、目標兵力で断固平等を実現すべきであった。大正10年7月21日、国際連盟関係事項研究会は、「今回(ワシントン)協定の起因が各国を通じて製艦費の莫大なる負担を避けんとするの要求」なので、「英米との均衡を失せざる限り、八八艦隊の建造を固執するものにあら」ずとし、「帝国は米国に対し其の七割以上の海軍兵力を絶対に必要とする」とした。加藤と同じような主張をしつつ、他方で、同研究会は、「想定敵国と協定して国防に要する兵力を制限するが如きは、自主的国防の本義に悖る、万一我が国に不利なる協定を承認するの不得已至らば、帝国の国防を危殆ならしむ」という懸念を表明する。その上で、同研究会は、財政的利点と国防的不利を斟酌して、「不利よりも寧ろ利点に重きを置くを至当」とした(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』298頁)。

 本国政府の加藤全権宛訓令では、@「米国との親善関係を保持することは、帝国の特に重きを置くところなるをもって、本会議においても右関係をますます鞏固ならしむる結果をもたらすことに力を致すこと」、A「着手中の八八艦隊を標準」とするが、米英との親善を維持し、「太平洋における形勢に大なる変化を見ることなき限り、八八艦隊に固執せず、「情況に応じこれを低減する」こと、B「潜水艦は帝国国防上必須のものなるをもって、これが廃止には反対する」ことなどとされた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』299頁)。
 
 この結果、日本海軍は、「国防計画、用兵方策については大変革」を余儀なくされ(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』68頁)、大正12年2月第二次改訂がなされた。海軍は、ワシントン軍縮で、従来通り、陸軍に対して海主陸従を強く訴える口実を崩されたかというと、必ずしもそうではない。この国防方針は、「帝国は特に米、露、支の三国に対し警戒を要す、就中近き将来における帝国の国防は我と衝突の可能性最大にして且強大なる国力と兵備とを有する米国を目標とし、主として之に備ふ」と、米が仮想敵国筆頭になり、対米戦争対処が第一と具体的に付け加えられた。この国防方針を巡って、主敵一カ国に絞るべきとする海軍(国力上で複数国を考慮して国防整備することは困難なので、「必ず対一国の戦争に終始」すべし)と、数カ国敵配備を説く陸軍とは分かれたが、陸軍は海軍意向を次のように組み入れた。つまり、陸軍は、@「想定敵国のうち、海軍力の考慮を要するものは現在は米国一国に過ぎないから、対一国と対数国とを問わず対米準備そのもので足り且つ十分である」、A「当時は支、露、米の陸軍は幸いにして大なる脅威とならず、陸軍は対米作戦に応ずる若干の兵団を準備するとともに、対露作戦のほかに、支那大陸における所要要城の戡定に必要な兵力を整備すれば、対支問題から発展する対数国作戦にも一応堪え得べき目論みも樹て得る」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』72頁)と、楽観的見通しをした。

 さらに、この条約に「日本では国防軍備の危機とさえ感じ」、「世界列強海軍に新鋭艦種として八吋(インチ)砲搭載1万屯型の大型巡洋艦建造競争を起こす発端」となり、「条約制限外の艦艇とした補助艦艇建造の激しい競争」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』283頁)を誘発した。この条約は、「結果的にみれば各国の軍備をむしろ精鋭化させ、とくに日米両海軍間の敵対意識に拍車をかけ」(池田清『海軍と日本』68頁)たのである。つまり、日本は、国防兵力に関して、陸軍40個師団は不変だが、海軍は主力戦艦9隻、航空母艦3隻、大型巡洋艦12隻(24隻)以上を基幹とし、これに相応する補助艦艇(巡洋艦40隻、水雷戦隊、潜水戦隊旗艦とする巡洋艦16隻、駆逐艦144隻、潜水艦70隻)航空兵力を付属する兵力」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』72頁)と、ワシントン条約に制約されない補助艦・航空兵力などを充実させるとしたのである。つまり、日本は条約「許容」限度まで「海軍軍備を強化」しつつ、「条約外の軍備にも努力を払」(25頁)い、世界水準を15年引き離した高速駆逐艦、米国海軍が入手できなかった「装甲用の特殊鋼」を開発した(ポッター『山本五十六の生涯』26頁)。

 ただし、航空母艦の余力1隻を残し、補助航空母艦2隻は「当分建造しない」として、やはり従来通りの大艦巨砲主義にとらわれている。その結果、大正12年2月、従来通り艦船主軸の対米作戦について、「海軍の作戦は開戦の初期において東洋に在る敵艦隊を速に制圧し、陸軍と協力して東洋における敵根拠地を破壊奪取し、敵艦隊の主力東洋方面に来攻するに及び、その途上に邀撃撃破するを根本方針とすること」というのである。つまり、以前の単なる邀撃作戦は、「あらゆる方策を講じて主力決戦に先立ち敵艦艇を漸減し、その成果を拡大して決戦せんとする邀撃漸減作戦実施の構想が新たに加えられ、これが対米方針の基本方針」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』148頁)に修正されたのである。

 宮中某重大事件と藩閥 しかし、この頃、宮中某重大事件が最後の薩長藩閥対立の残滓を吹き飛ばすかの作用をした。大正7年1月14日に、内大臣松方正義の推薦で、旧君主の公爵島津忠義の第7女倶子と久邇宮邦彦王の長女良子が皇太子妃に内定した。9年5月7日、皇太子裕仁親王は成年式を迎え、6月10日久邇宮邦彦王の第一王女良子女王と婚約を結んだ。9年の皇族会議で久邇宮は主として皇室令改正に関して発言したが、その中には山県ら元老の専断を指摘する言葉が多く含まれていた。山県は久邇宮と薩摩の松方らが組むと長閥は危いと思い初めた折に、石黒忠悳(元軍医総監、貴族院議員で日本赤十字社社長)が、良子女王の母方の実家島津家に色盲の遺伝があると山県に反撃在量を与えた。大正9年5月15日、山県は松方、西園寺の両元老とこの件を会議し、二人とも山県に同意した。9年6月18日、山県は宮相波多野敬直の代わりに中村雄次郎(関東都督、陸軍中将)を宮相に登用し、天皇が病弱であるのに、劣性遺伝因子を持つ女性を未来の皇后とすることは大いに疑念があるとして、内大臣の松方正義と拮抗させ、久邇宮に迫って皇太子妃を辞退させようとした(豊田穣『西園寺公望』下巻、新潮社 、1985年、141ー3頁)。

 しかし、貞明皇后、元老の松方正義や西園寺公望は婚約破棄に反対を表明し、杉浦重剛、頭山満など国粋主義者が同調して反対宮家を襲撃するなどという流言が広まった。中村がこの動きを山県に伝えると、「宮家に万一の事があっては、先帝に対して申し訳が立たぬ」として、持論を撤回した。10年2月10日午後2時帰京すると原に会って重大変更を伝えた。中村は10日午後8時、「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし」と発表した。2月11日の各新聞は、この宮内省発表と共に、事件以来初めて「宮中某重大事件」記事を掲載した。中村宮相、石原健三次官、仙石政敬宗秩寮事務官、木村英俊久邇宮附事務官らの辞表提出と、山県が枢府議長と元老等一切の職を辞するであろうという観測記事をのせた(豊田穣『西園寺公望』下巻、新潮社 、1985年、148ー150頁)。世論は、「山県公に辞職を勧告し、松方内大臣の曠職(職務をおろそかにすること)を責め」(四竈孝輔『侍従武官日記』芙蓉書房、昭和55年、251頁)たのであった。この事件で山県はもとより松方の権威は失墜し、藩閥元老指導に大きな鉄槌がくだされた。なお、この年の末に山県は重病となり、11年1月31日には、「病愈々重く」なり、「松方侯其他二三枕頭に見舞はれ」、「松方侯が種々慰藉」すると、山県は「必ず恢復、侯と百遍も物語るの機あらんを期す」((四竈孝輔『侍従武官日記』芙蓉書房、昭和55年、297頁)と告げたという。風前の灯の藩閥が、最後の最後の「調整」をしたかである。だが、翌日山県は一足先に逝去した。
       
 こうして、日本では、藩閥によって世界大勢とは逆らって陸軍・海軍は対等となったが、藩閥衰退によってこの陸軍・海軍対等は極めて厄介なものとなり、海軍の独走が助長されるものとなってゆくのである。藩閥衰退に関して、近衛は、「薩閥が皇道派、長閥が統制派」となり、「皇道派が反共反ソであるに対し、統制派は社会主義的で支那事変に向った」と見、「二・二六事件の結果、皇道派が一掃されたので支那派、南方派たる統制派が国運をひきずるような結果になった」(細川護貞「近衛公の生涯」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、136−7頁])と見たが、重要な事は、薩閥・長閥は海軍・陸軍と利害を相互調整していたが、皇道派・統制派は陸軍内部の派閥であり、かつ「寄せ集め」であって閥族集団ではなく、対立こそすれ、調整能力がなかったのみならず、海軍との調整能力すらなかったということである。

 藩閥空白状況下で薩閥海軍はどうなったかに関して、ロンドン軍縮条約を契機に海軍省内部に派閥対立が生じてきたことを見ておこう。

 ロンドン軍縮条約と陸軍・海軍 昭和2年6月20日から8月4日、ジュネーヴでワシントン条約に規定されていない艦艇について、日米英の軍備制限会議が開かれたが、「妥協に至らず会議は中止」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』350頁)された。

 昭和2年10月15日軍備制限研究委員会(委員長は海軍軍令部次長野村吉三郎中将)が設置され、昭和3年9月24、25日野村が岡田啓介海相に研究結果を報告した。ここでは、@「帝国海軍軍備は米国海軍を主目標とし、併せて英国海軍にも対応しうるごとくす」、Bワシントン条約の制限に対応するために「地理的利益の善用、術力の向上」、「兵力の質を充実」、「特に補助艦兵力の巧みな利用」をはかること、C海軍の主務は「敵主力艦隊を撃滅すること」であり、そのための「軍備」を備えること、Dそのため「決戦時」を重視し、決戦時における日本側の優勢になること、E航空母艦は条約規定の「赤城、加賀」以外の二隻は時機を見て建造し、補助航空母艦は「当分建造せず」など、艦隊決戦を主眼としていた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』351−362頁)。だから、航空機が次第に発達し、昭和2年4月に海軍航空本部が設置され、赤城、加賀の有力航空母艦二隻が出現してからも、海軍航空は主として偵察捜索、対潜警戒に従事」するにとどまっていた。

 4年6月28日軍令部長加藤寛治は「軍備制限問題対策の件」(『海軍』続・現代史資料5、462−4頁)において、@「海軍軍縮問題に対する現下の気運は、本春寿府(ジュネーヴ)に開催の軍縮準備委員会に於ける米代表『ギブソン』氏の声明(「従来の艦種別制限」を維持しつつ、「主力艦、航空母艦以外の各艦種別間に一定百分比の融通を認むる修正」を認める事、海軍力比較基準として排水量以外に艦齢・備砲口径等も参酌する事、「積極的に大減縮」すべき事など)に端を発す」るものであり、従来「自案の主張に急」だった米国がフーヴァー大統領のもとで新たな軍縮政策をうちだした事、A英国でも労働党マクドナルド内閣登場で「軍縮問題に対する気運一層進」み、駐英アメリカ大使ドーズはマクドナルド首相と会談して、駐英松平大使の了解のもとに、6月18日に「今や主要海軍国は速に海軍軍縮協定に達する事を急務とする」ので、「従来委員に政治家と専門家とを交へたるため失敗」したことを反省してまず「各国は別々に専門家をして海軍力比較の物差を決定」し「妥協点」を見出すという声明を発表した事、B日本の方針は、A、「軍備制限は公正且合理的」であり、B、海軍軍備は「国家の自主独立を擁護」し、「生活必需資源」の海外依存の維持に必要なものである故に、補助艦に関しては「世界最大海軍に対し尠くとも七割程度の兵力」が必要であり、C、制限方法の主軸は「各国特殊の国情」「国家安全の平等」の方針のもとに「保有兵力量、比率及兵力の内容」の3点となること、C日本の現状は「比率に関し帝国は量的不平等を認むるの不得已る現状にあるも、国家自衛平等の主義に則り国防的平等を期せんとする」もので、「二十糎(せんち)砲搭載巡洋艦以上の大艦は特に比率を重視し、軽巡洋艦以下の小艦及潜水艦に於ては自主的所要量を主として考慮すべき」である事、D海軍力比較基準は「備砲口径、速力」などの基準は不合理なので、「排水量、若くは排水量に艦齢を加味せるもの」とすべきなどと主張した。所謂艦隊派の主張である。

 4年10月11日の幣原外相との会見では、加藤寛治はワシントン条約を批判し、陸軍とは異なる海軍特殊性を強調した。つまり、加藤は、@「再び華府会議の失敗」を繰り返さないことを「主旨」とすべき事、A「我海軍の補充計画は往年之八八計画之爲めに補助艦は非常に跛となり、主戦部隊のバランスを失せること甚しきもありたる処」に、ワシントン条約で「六割を強られ愈薄弱」となり、「爾後極力補助兵力の充実に努めしも、根が掛値なし主義の上に毎回議会之削除に遭ひ 今尚多大之不足を感じ」ている事、B平和的幣原外交を展開するにも、日本は米国が「畏敬」する物を備えていなければ「足下を見スカサレ」て、「米国の『ハイハンド』を予防」できないので、「最後の国防としても七割は実に絶対の数」である事を考慮すれば、ワシントン条約では「余りユトリのない初手をうった」と「後悔」している事、C「華府会議は立ちあがりが悪かった爲、終始彼の後手となった」から、今回は「予備階段で七割問題のカタを付る覚悟」である事、D「海軍は陸軍と事なり 一日一朝には出来ず。積年の教育に待たざる可らす。陸軍之如く人夫に鉄砲では出来ない」(「加藤寛治日記」[『海軍』続・現代史資料5、1994年]465頁)事などとした。

 昭和5年1月、ワシントン条約14条に「時勢及び技術の進展に応ずるため、条約効力発生後八年を経過した後、会議を開催する」とあったことに基づいて、ロンドンで軍縮会議が開かれた。昭和5年1月21日ロンドンで列強の補助艦制限をめざす軍縮会議が開催された。ロンドン海軍軍縮会議に際し、先のジュネーヴ会議では軍人を主としたため政治的妥協ができなかったことを踏えて、日本側首席全権は若槻禮次郎元総理、全権海軍大臣財部彪 (たからべ・たけし) 、斎藤博外務省情報局長、英国首席全権はマクドナルド首相、米国首席全権はスティムソン国務長官と、文官が首席となった。日本海軍は、三大原則(@補助艦 対米比率7割、A潜水艦 現有戦力維持(7万8千トン)、B大型巡洋艦 対米比率7割)に立脚して、ロンドン会議に臨んだが、海軍内部の条約派・艦隊派の対立が解消していたのではなかった。1月21日に、条約派の「岡田(啓介)大将(軍事参議官)」は艦隊派の加藤寛治軍令部長に「軍縮に関し自重を求む」と忠告した。しかし、加藤は、1月29日「牧野(伸顕)内大臣に軍縮所見を送」り、「警告」した。1月31日、「岡田大将、西園寺公及牧野内府と会見之始末を語る」が、加藤は「之は原田(熊雄)の細工にて三大原則の宣伝に過ぎざる事を忠告さし也」と批判した。この日、加藤は、日記欄外に、「倫敦会議一向に進捗せず、小問題に愚図付き『マク』の手腕疑はる」と記した。加藤は、2月5日、「倫敦2月5日付『スチムソン』新提案を為し、日本の70%を一蹴し60%に踏み付く。輿論激昂」(91頁)と記した。2月7日、「倫ドン『スチムソン』新提案を為し、日本の7(0)%を一蹴す。輿論激昂」すると、2月8日、加藤部長のもとに「末次(信正、中将。軍令部次長)来訪」し、ロンドン軍縮会議首席随員左近司政三中将へ「へ急電を報」じ、海軍の「決心を示」した(「加藤寛治日記」[『海軍』続・現代史資料5、1994年、90−91頁])。

 3月14日、若槻禮次郎、松平恒雄らの全権団による交渉の結果、@補助艦は対米比率6割9分7厘5毛、A潜水艦は日米同量 (5万8千トン)、B大型巡洋艦は対米比率6割で妥協した。こうして、確かに「主力艦である戦艦、空母はいぜんとして5−5−3だった」が、日本は、「軽巡、駆逐艦は70%、潜水艦は対米英同等の比率を獲得し、全体としては、ほぼ対米七割比を実現」(ポッター『山本五十六の生涯』26頁)したのであった。しかし、この「一応の成功」は、艦隊派らには「“屈辱に満ちた失敗”」であった。

 3月16日、加藤は「斎藤子の軟論 新聞に現はれ、大いに害あり」として、「寿府の報復と云ふ人あり。軍令部憤慨、反駁を用意」した。一方、軍縮派が動き出す。3月23日、「牧野内大臣、鈴木侍従長と会見」するが、加藤は「其軟化之甚しきに驚く。君側の為めにならぬ人物」と批判した。3月24日、午後4時、金子子爵が駐日米国大使キャッスルに会うと、「意外にも話は既に進み過ぎて協定纏る大確信に驚」いた。加藤は、これは「『キ』と幣原と内通ありしものならん」とした。3月30日夜 海軍政務次官(矢吹省三)が加藤を訪ね、「回訓の大勢を説き政府の所決を仄かし、予の自重を求」めたので、加藤は「責任ある回訓案を早く示せ」と返答すると、「彼れ 外務に注意すべしと答へ去」(「加藤寛治日記」[『海軍』93−94頁])った。

  海軍軍令部が独走しだしたのである。4月1日、軍令部は、「国防用兵の責任者として米提案を骨子とする数字は計画上 同意し難き旨 明言」した。艦隊派の末次は加藤軍令部長に「死諫を忠告し来」た。この日午後、浜口雄幸首相は条約を締結すべしという回訓案を天皇に上奏することになっていたので、その前に末次は加藤に締結反対を上奏させようとした。鈴木貫太郎侍従長、住山徳太郎侍従武官は「相談」して、「宮中の御都合で、一日延ばせぬか」と加藤に告げると、加藤はこれを了解した。岡田啓介は加藤に、「上奏案の終りに『なお今後考究します』と付足し、含蓄を残すように言いお」いたが、なお不安なので、大角を加藤に赴かせ「上奏案を内覧せしめ、字句修正を忠言」させたところ、「加藤は快く承諾」(『岡田日記』[宮野澄『最後の海軍大将井上成美』71頁])している。原田熊雄によると、加藤原案は「政府の軟弱外交を攻撃するやうな意味合いで、国防の重責に堪へないといふ風なことまで書いてあった」が、「大角中将は『不穏な文字を用ひることは絶対によくない』といってすっかり削らせ」(原田熊雄『西園寺公と政局』第一巻、岩波書店、昭和25年、37頁)たのであった。

 その結果、天皇も言う様に、「内容は政府の意見と、略一致したもので、至極穏健なもの」(『昭和天皇独白録』[『文藝春秋』平成2年12月、102頁])となった。岡田啓介らの画策もあって、加藤上奏は政府とほぼ同じ穏健なものとなったのである。しかし、当時宮内省御用掛として天皇に軍事学を進講していた末次信正軍令部次長が「進講の時、倫敦会議に対する軍令部の意見」は「軍縮に対する強硬な反対意見」であると伝えたのであった。宮中行為たる進講の際に内閣行為をしたことに対して、天皇は、「末次のこの行為は、宮中、府中を混同する怪しからぬこと」と批判した。

 4月6日、加藤は末次に「政治団体に交渉をもたざる様忠告」したが、この頃「海軍陰謀の風説」が流れていた。4月7日、小笠原長生(中将、予備)が軍令部に来て「東郷元帥(艦隊派)之決意を告げ、鈴木侍従長(条約派)の軟弱を憤慨」(「加藤寛治日記」[『海軍』94−95頁])した。

 4月11日午前、加藤が山本権兵衛伯を訪問して、「報告約二時間」すると、山本は「海軍内部の結束も完からずや」と詰ったが、その「詰言稍弱」いものであった。加藤は「斯る大事は歴史により顧みよ」とし、藩閥は「三国干渉(明治28年)の時は、到底戦へぬ、そこで次策の臥薪嘗胆に出し也」(「加藤寛治日記」[『海軍』95頁])とした。もはや藩閥なき山本権兵衛は過去の人物であった。


                                D 藩閥衰滅と陸軍・海軍内部派閥深刻化
 統帥権干犯問題・財部海相暗殺未遂 昭和5年4月21日、末次軍令部次長は山梨海軍次官に、「海軍軍令部はロンドン海軍条約中、補助艦に関する帝国の保有量が、帝国の国防上最少所要海軍兵力として、その内容充分ならざるものあるを以て本条約に同意することを得ず」(宮野澄『最後の海軍大将 井上成美』72頁)という覚書を手渡した。末次の策謀で、軍令部は明日調印予定のロンドン軍縮条約には反対であることを言明したのである。

 4月22日ロンドン軍縮条約が調印され、ワシントン条約の主力艦劣勢に加え、新たに「補助艦勢力においても総括対米7割(大巡は6割、潜水艦は52700トン)」に圧縮され、日本は「国防対策上著しい苦境に陥」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』75頁)ることになった。5年4月下旬に始まった帝国議会衆議院本会議で、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は、「ロンドン海軍軍縮条約は、軍令部が要求していた補助艦の対米比7割には満たない」、「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃しだした。野党は、海軍の統帥権侵犯を政府転覆手段に使い出したのである。4月25日幣原外相は貴族院で「この条約で満足である。国防には不安がない、といって海軍も喜んでいる」と発言し。山梨次官がこれでは海軍の条約反対派を刺激するとして訂正を申し入れたが、幣原は衆議院でも同じ発言を繰り返した(岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』中央公論社、1987年、82頁)。これは条約反対派を刺激した。4月26日、加藤軍令部長は「軍縮問題朝刊を賑はす」(「加藤寛治日記」[『海軍』続・現代史資料5、1994年、96頁])と日記に書いた。

 軍令部は政党の統帥権問題を閑却できなくなり、陸軍参謀本部と接触し始める。5月1日、「伏見宮より御召あり。統帥権問題に付 御下問。小笠原に電話、宮家に明二日伺候せしむ。之より接近大に努む。参謀長招待」した。5月2日、「軍令部対参謀長会議了」り、「上野に招待、盛会」であり、加藤が「挨拶」した。5月3日、伏見宮は立腹して岡田啓介を呼び出し、幣原演説を「もってのほか」とし、さらに鈴木侍従長が伏見宮に「兵力量はこんどのロンドン条約でさしつかえありません」と、軍令部長の如き発言をしたことを厳しく批判した(岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』中央公論社、昭和62年、82頁)。5月4日、「佐々木(皇訓会会員)、一条(実孝、公爵、大佐)、千坂」が来て、「統帥権に付語」った。5月5日、「統帥権に関し」、文書を「山本、東郷、殿下、岡田、斎藤に出」した。5月7日、池田長康(男爵、貴族院議員)は「微に入」り、「統帥権質問」をした。加藤寛治軍令部長は辞任を決めたが、「岡田大将 来」て「留任を勧」め、マスコミは軍縮派財部を批判し、日日、朝日の夕刊は、「財部に不利のみ」であった。5月9日、東京日日新聞の久富達夫記者は、「財部に付、第一頁全幅を費し、不利を詳述」し、「軍令部に秘すべし等の密電を掲」げた。世論の海軍批判が強まってきた。5月10日午後、南郷次郎少将(予備)、小笠原が加藤寛治を訪ね、熟談し、「海軍の形勢悪化」を告げた。5月11日、第三艦隊司令官の湯地秀生少将が来て、加藤寛治に「大声にて富士山に向ひ祈祷、軍令部長を護らせ玉へ、国家安泰と高唱」した。5月14日午后、加藤寛治は東郷元帥に「決心」を述べると、「財部が帰るまで待て」とさとされた。加藤が伏見宮に伺候して「同じく言上」すると、伏見宮は「止を不得べし」(「加藤寛治日記」[『海軍』97−98頁])と告げた。

 ロンドン条約反対派の軍令部参謀の草刈英治少佐も、条約内容を呑んだ財部海軍大臣を暗殺しようと考えた。しかし、5月20日、軍令部参謀草刈英治少佐は「自殺」(99頁)した。松本清張は、草刈は、自分が海軍大臣を暗殺することも「統帥権干犯」になるのではないかと悩んで決行ができず、東海道線の寝台車の中で自刃したとした(松本清張『昭和史発掘 5』「軍閥の暗闘」)。しかし、そうではあるまい。統帥権干犯者を処罰することが統帥権干犯になるなどはありえない論理である。それより、5月18日、統帥権干犯で「財部 下関にて短刀を突き付けられる」(99頁)事件がおきており、草刈はこうした財部暗殺雰囲気に目を覚まし、暗殺した場合に惹起する諸迷惑を冷静に気づいたというのが実情であろう。見事な自刃で財部に抗議するほうが迷惑をかけないのである。これを機に「黒潮会(海軍省記者クラブ)に局面展開」があり、「統帥権集中を告ぐ」(「加藤寛治日記」[『海軍』99頁])ことになった。なお、加藤は財部に、草刈は「実に立派な男だった」と告げると、財部は「世間」や「他の人に」そういうことを言うと「君の人格を疑われる」(原田熊雄『西園寺公と政局』第一巻、岩波書店、昭和25年、66頁)とたしなめられている。

 5月21日、原田熊雄は財部海相を訪ね、加藤との関係の説明を受けた。財部は「軍令部長といろいろ話してみた」が、「条約の成立に至るまでのすべての経過」については「最善の努力」をしたと評価しているが、「ただどうも統帥権問題、即ち軍令部無視、統帥権干犯といふ事実」だけは容認できないというのであり、これは「枢密院の平沼あたりに煽られているんじゃなういか」とした。ついで、原田は岡田啓介を訪ねると、岡田は、「加藤軍令部長は・・軍令部長の意見を無視したとか、つまり軍令部長の同意なくして国防に関する協定をしたといふことがいけないといふことらしい」と告げた。岡田は、加藤は「統帥権干犯という論法でこの御批准の不成立を計画している所謂陰謀家ののせられたいる」とした。その晩、原田は「いろいろ情報」を判断して、「結局加藤軍令部長も末次次長の休んでいる間は大変おとなしいが、末次が出て来るとまた喧しくなって来る」から、「結局末次が加藤軍令部長を操」り、その末次を操っているのは「枢密院の平沼あたり」(原田熊雄『西園寺公と政局』第一巻、61−3頁)とまとめている。

 こうした時運に直面して、財部は、「統帥問題に艱む」(5月22日)ようになった。5月23日、第一艦隊兼連合艦隊司令長官の山本英輔中将(艦隊派)が来て「妥協を申込」んだが、加藤が「輔翼の責任」で引責することに「驚き 問題なし」として帰る。5月28日、加藤寛治は財部と会見し、「第十二条(「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」)が軍務大臣と軍令部長の協同輔翼事項たる事を誓」(「加藤寛治日記」[『海軍』99頁])ったのであった。だが、肝腎の第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」での「誓い」はない。藩閥時代には薩長の利害調整で、「陸海軍の編制」などがなされてきたが、海軍、陸軍内部に派閥・対立が生じてきたので、統帥権などを持ち出してきて、ことさらに対立を誇張し始めたのである。
          
 5月29日、「軍事参議官の覚書」で、軍令部長加藤寛治は海軍大臣と「絶縁」した。軍事参議官が「参集」し、「大臣部長一致の問題を決」した。加藤は、「右至急に開かれ」たのは「財部の策動と見」た。5月30日午前、伏見宮が東郷元帥を訪問し、「兵力量の問題」については「覚書に付含を乞」(99頁)うた。同日午後、加藤寛治は伏見宮に呼ばれ、「財部の強行を聞か」(「加藤寛治日記」[『海軍』99−100頁])された。
   
 6月1日、末次が加藤のもとに来て、加藤部長「毒殺の計画を遠藤格(少将、予備)の秘報として報告」した。彼らは、「善後策を講」じ、「参謀本部と協同決行準備にかか」った。山本英輔中将が「覚書の妥協に奔走」しているという電話が加藤隆義より来る。加藤寛治軍令部長は加藤隆義に「明二日正午来部して待たれしと云」(100頁)った。6月2日、山本英輔、大角岑生(横須賀鎮守府司令長官)両中将が来て、「覚書の訂正を軍令部の要求通り仲裁、大臣を同意せし」め、「従来の慣行を尊重すと云ふ事にな」った。6月3日、天皇が「還御」して、参謀総長と会談した。伏見大将宮は、「統帥権に付 機を見て奏上の御決意」であり、「閑院殿下 御意見全く一致」(「加藤寛治日記」[『海軍』100頁])であった。

 6月10日海軍軍令部長加藤寛治大将は、「政府の今回の回訓決定は統帥部の同意を得ないで独断的に上奏したもので、天皇の統帥大権を犯すもの」として、昭和天皇に辞表を帷幄上奏した。天皇は、「加藤が海軍大臣の手を経ずに、辞表を出した事」は間違いとして、返事をせずに、財部海相に下げ渡した。天皇は、海軍省と軍令部が「意見が相反」していたので、財部が「断然軍令部長を交迭して終へばよかった」のに、「ぐづぐづしていたから事が紛糾した」(『昭和天皇独白録』[『文藝春秋』平成2年12月、103頁])と批判している。加藤は辞職し、谷口尚真海軍大将と交代し、艦隊派は海軍上層部から排除された。その上で、浜口雄幸総理はロンドン条約反対論を押え付け帝国議会で可決を得て、その後昭和天皇に上奏した。

 昭和天皇は既に7月23日に、ロンドン会議について軍事参議官会議に諮問し、@東郷元帥、伏見宮は強硬論を唱えたが、A政府が兵力欠陥を補充すると約束して、「ロンドン条約を承認する奉答文が作成」(池田清『海軍と日本』78頁)された。さらに、天皇は、前記浜口上奏を受けて、枢密院へ諮詢し、倉富勇三郎枢府議長の意に反し10月1日同院本会議で可決され、翌日昭和天皇はこれを裁可した。こうしてロンドン海軍軍縮条約は批准を実現した。

 以後、艦隊派は、この時の経験を通じて、軍令部権限の強化を企ててゆき、昭和8年大角人事で条約派を予備役に一掃してゆくことになる。だが、この統帥権干犯問題は、もっと深刻な問題の元凶になってゆく。浜口首相の狙撃(昭和5・11・14)、三月事件(昭和6・3)、10月事件(昭和6・10)、血盟団事件(昭和7・2−3)、五・一五事件(昭和7・5)、二・二六事件(昭和11年)は「いずれも、こうしたロンドン条約に由来する危機意識に血を沸かせた青年将校や民間志士たちによってひき起こされた」もので、「その斬奸の標的となった人々も、統帥権干犯の元凶と目された親英米派」(池田清『海軍と日本』82頁)だった。

 海軍の陸軍大陸政策への協力 海軍は、情報をもたぬまま、上海事件、満州国建国など陸軍の大陸政策を支援し、この「軍縮」時期、海軍は陸軍に協力したのであった。つまり、「膨大な特務機関」をかかえた陸軍とは異なり、海軍には情報機関が貧弱であり、かつ「日露戦争後の日本海軍は、想定敵国をアメリカに絞った関係から・・複雑なアジア大陸、とくに中国の内情等については認識が浅く、陸軍に情報を仰ぐだけ」(池田清『海軍と日本』88頁)の状態で、陸軍大陸政策に取り込まれていった。

 昭和6年9月18日に奉天郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道線路を爆破した柳条湖事件がおきると、9月22日午後、軍事参議官会議が開催され、「此際現状を推して、飽く迄国家本位に歩調を揃へ、武威を損せざる様 陸軍協力すべきに一致」し、条約派の財部彪も「不思議」に艦隊派の加藤寛治の「持論に賛」(「加藤寛治日記」[『海軍』144頁])した。

 7年1月18日、日蓮宗僧侶の日本人3人が上海三友實業社付近で襲撃され、1人が死亡した。陸軍は、満州事変で謀略で事件を捏造すれば中央を「引っ張れる」ということで、リットン調査団から国際的注目をそらすために上海公使館の武官補佐官田中隆吉陸軍少佐が僧侶襲撃事件を捏造して上海事件を起こしたのである(池田清『海軍と日本』88頁)。これに対し、日本人居留民がデモを行うとともに、1月20日に日本人青年が三友實業社を襲撃する。村井倉松総領事は呉鉄城上海市長に、事件への陳謝と加害者処罰などを要求した。これに対し、上海市長側は最終的に日本の要求を受け入れると、上海の多数の学生等市役所を襲い、日本人居留地に入った。1月22日「上海尖鋭化」して、「能登其他海軍増兵」して、第一遣外艦隊司令官塩沢幸一少将は、「最後通牒を発」(「加藤寛治日記」[『海軍』162−3頁])した。

 1月25日、平沼騏一郎枢密院副議長らが加藤寛治のもとに来る。荒木貞夫陸相邸で豊田貞次郎海軍少将(軍務局長)、東条英機陸軍大佐(参謀本部編制動員課長)が審議し、東条は「満州及上海を報告」し、「決意は海軍に在りと云ふも少しく曖昧」であった。安保より加藤に電話で、「奈良(武次、陸軍大将、侍従)武官長より内奏、御聞済の報あり」、「大角より本件を殿下及東郷元帥に報告頼まる」と告げた(「加藤寛治日記」[『海軍』162−3頁])。1月26日午餐後、加藤は「豊田上海問題を話」し、「大角(岑生海相)出省、閣議にて一水戦(第一水雷戦隊)と陸戦隊四百余名派遣を決し発令」した(「加藤寛治日記」[『海軍』163頁])。

 一方、上海では1月26日には中国当局は戒厳令を布告し、外国人住民に租界内への避難を勧告した。1月27日、各列国は、共同租界内を列国で警備することを決めた。1月28日、列国軍隊が租界内の担当区域に入り、日本陸戦隊2700人が北四川路及び虹江方面の警備に当った。1月28日、「上海陸戦隊、列国と協同配備に付 先方より砲撃を受け衝突、戦死8名、負傷数十名を出」した(「加藤寛治日記」[『海軍』163頁])。

 1月28日午後から夜にかけ、日本側は支那正規軍の広東19路軍と戦闘を展開した。軍事衝突発生を受けて、日本海軍は第3艦隊(参謀は大西瀧治郎中佐)の巡洋艦4隻、駆逐艦4隻、航空母艦2隻(加賀・鳳翔)及び陸戦隊約7千人を上海に派遣した。1月31日に到着し、英米政府は、「上海事件に対し・・抗議、亜細(亜)艦隊 急航」させてきた(「加藤寛治日記」[『海軍』163頁])。2月2日に、更に犬養毅内閣は金沢第9師団及び混成第24旅団の派遣を決定し、一方m「上海爆撃、英米昂奮」し、「事態窮迫を暗示」し、加藤寛治は「外相に卑見を送」(「加藤寛治日記」[『海軍』164頁])った。2月3日、「上海総攻撃」にたいする「英米調停案」(164頁)が来た。

 2月10日午後二時半、海相官邸に「伏見、梨本(宮守正王、大将、軍事参議官)両殿下、陸海軍参、元帥」ら陸海軍首脳が会合し、「大臣(海軍)、豊田(副武)、高橋(三吉軍令部次長)、小磯(国昭、陸軍中将、軍務局長)より報告」があり、「五時解散」したが、「大に人目を惹」(「加藤寛治日記」[『海軍』165頁])いた。

 2月15日午後、「軍参参集」し、「上海報告」を受けるが、「形勢混沌」し、一方「満州独立報ぜられ」、「四省巨頭奉天に集」(「加藤寛治日記」[『海軍』165頁])った。つまり、奉天に張景恵(黒竜江省省長)、臧式毅(奉天省長)、煕洽(吉林省長官公署の長官)、馬占山(黒竜江省実力者)の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織され、2月18日には該委員会が満洲の中国国民党政府からの独立を宣言した。これに対して、「国際聯盟、益 横紙破」り、「上海大に面倒とな」(2月17日「加藤寛治日記」[『海軍』166頁])ってくる。既に2月16日に国民党軍は第5軍を上海の作戦に派遣していた。。

 2月18日に日本側の第9師団長は、更なる軍事衝突を避けるために、19路軍が撤退すべきことを要求した。しかし、19路軍司令官がこれを拒否したため、2月20日に日本軍は総攻撃を開始した。日華両軍の戦闘は激烈を極めた。2月22日、末次信正海軍中将(第二艦隊司令長官)は、「佐世保にて、十九路と対抗之現方針を無謀と新聞に声明」し、「新聞悲観に傾」いた。一方、「陸軍捗取らず、野村(吉三郎、中将、第三艦隊司令長官)より増兵電 来」て、深更、「陸、外、海相会議」(「加藤寛治日記」[『海軍』166頁])が開かれた。2月23日、「臨時閣議増兵に決」し、「宇都宮師団3万、50隻」(「加藤寛治日記」[『海軍』166頁])増派となった。2月24日、「我政府対抗声明書を発表」(「加藤寛治日記」[『海軍』167頁])し、日本陸軍は上海派遣軍(司令官白川義則大将)を編成し上海へ派遣するとした。2月25日、白川義則上海軍司令官が軍令部に「暇乞に来」て「殿下(7年2月2日軍令部総長に就任した伏見宮)に拝謁」し、「上海総攻撃 大に発展」(「加藤寛治日記」[『海軍』167頁])することになった。2月26日、「上海軍 大成功、海軍飛行機 杭州を攻撃、空軍根拠地を殲滅」(「加藤寛治日記」[『海軍』167頁])した。3月1日に第11師団が国民党軍の背後に上陸すると、19路軍は退却を開始し、3月3日日本軍は戦闘中止を宣言した。

 3月8日午後、軍事参議官会議が開かれ、「今村(均)陸大佐(参謀本部付)の上海報告を聴取」した。今村は、「陸海協同の理想的なりしに感じて報謝す。殊に七了口の上陸に於て然り。阿部、大西両海軍参謀に謝する事大」(「加藤寛治日記」[『海軍』168頁])であった。

 こうして、この戦闘では、海軍は陸軍の大陸政策に協力し、第一次大戦後十年ぶりの航空作戦が推進され、海軍航空隊は戦果をあげ、国際的にも注目され、在上海の英国陸海軍クラブで大西らは英語で報告した(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』81頁)。しかし、海軍が主敵を米国に絞込み、陸軍と協力して主敵米国に立ち向かう準備をするべきであり、上海事件とか満州国独立とかに関わるべきではなかった。海軍は陸軍に、主敵対決の為には欧米列強と同列に支那を侵食するようなことを直ちにやめるべきであることを雄弁に説得すべきであった。「脱亜入欧」路線の誤りに気づき、正しい「脱欧入亜」路線に転換すべきであった。

 五・一五事件と陸軍・海軍 海軍青年将校らは、昭和6年柳条溝事件など大陸できな臭い動きがでてくる中、ワシントン及びロンドンでの軍縮会議(軍艦の規模など規制)で日本側が軍縮幅を欧米側に対して対等でないことや不景気・政財界腐敗などを強く批判し、昭和維新決行を唱えはじめた。7年5月15日午後5時半より同45分に渉り、陸海軍将校、士官候補生(陸)18名が手別けして「首相官邸、政友会本部、警視庁、牧野内府邸」を襲撃し、首相に重傷を負わせた(「加藤寛治日記」[『海軍』176頁])。陸海軍青年将校や農民同志の決起趣意書では、@「政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥」、「之を擁護して圧政日に長ずる官憲」、「軟弱外交と堕落せる教育」、「腐敗せる軍部」、「悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民労働者階級」、「群拠する口舌の徒」などで「日本は今や斯くの如き錯騒せる堕落の淵に死なんとしてゐる」と、「皇国日本の姿」と程遠い現実を批判し、A「国民よ、武器を執つて立」ちあがり、「天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!横暴極まる官憲を膺懲せよ!奸賊、特権階級を抹殺せよ!」と決起を説き、B「凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊」し、「諸君と共に昭和維新の炬火を点」じ、「陛下聖明の下、建国の青神帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用し 朗らかな維新日本を建設せよ」(『検察秘録 五・一五事件』角川書店、1990年)などが提唱された。

 軟弱外交・軍部への海軍青年将校の批判は、海軍首脳の艦隊派の主張とも相通じるものがあり、艦隊派の軍令部第二課長南雲忠一大佐は「五・一五事件の解決策」において、@「死刑又は無期は絶対に避け」「被告の至誠報国の精神を高揚」し、A「ロンドン条約に関連し、軟弱にして統帥権干犯の疑義を生ぜしむるに至った重要責任者に対して、適当なる処置をと」り、B「青年将校の念願は、要するに強力なる海軍を建設するにあり」(豊田譲『悲劇の提督・南雲忠一中将』講談社、昭和48年、211頁、宮野澄『最後の海軍大将井上成美』76頁)とした。

 軍事参議官加藤寛治は、「直に殿下(軍令部総長伏見宮)、元帥(東郷平八郎)、小笠原(長生、予備役海軍中将、艦隊派)に言上及報告」(「加藤寛治日記」[『海軍』176頁])んだ。加藤は、次期内閣の海相に艦隊派の末次信正海軍中将をつけようとした。5月16日午後、加藤は「紀尾井町(軍令部総長伏見宮邸)に参殿、後任海相に付申上」げると、伏見宮は「末次 御快諾」した。5月17日早朝、「千坂(智次郎、予備海軍中将)来り、末次推薦の相談を為し奔走す。小笠原来り、殿下、元帥の同意(保留は総理の意見と云ふ事)を得たりとて、末次の準備にかか」っている。小笠原より「末次準備宜し」と電話あり、加来止男海軍少佐(横須賀鎮守府参謀)らが来て 「末次推挙を高唱」(「加藤寛治日記」[『海軍』176−7頁])した。艦隊派、或いはそれに同調する連中が、末次擁立に動いていた。

 5月17日、立憲政友会は、後継総裁として鈴木喜三郎を選出したが、陸軍が政党内閣を拒否したため、調整の結果、西園寺は海軍大将齋藤實を推薦することになった。5月18日、加藤寛治に「北一輝電話」して、「陸相と鈴木(喜三郎、内務大臣)の妥協説にて陸部内 再 大動揺す」と告げた。警備司(令)部参謀が、「急を真崎に報」じた。5月19日早朝、加藤のもとに「真崎(甚三郎、陸軍中将)参謀次長来訪、大事を告」げてきたので、加藤は「小笠原と共に紀尾井町に行」った。小笠原は元帥邸に行き 元帥が伏見宮部長へ伺候した。陸軍の物情は「恟然、政友大に驚」き、「西園寺上京」(「加藤寛治日記」[『海軍』177頁])した。

 5月22日、加藤は東郷元帥が西園寺公望と会見するというので、「刑部を以て御留申上しも既に約束を電話にてしたる後なれば致し方なし」とされた。東郷は、「今や陛下之御心配之非常なる時 資格など考へては居られぬと思ふて約した」ということであった。午後西園寺は参内して、斉藤子爵を上奏奉答した。これには「朝野愕然」(「加藤寛治日記」[『海軍』177頁])とした。5月23日、組閣交渉の過程で「小笠原、末次の望なしと報」じてきた。5月26日斉藤内閣が組閣され、海相に岡田啓介海軍大将が就任し、陸相には皇道派の荒木貞夫が就任した。五一五事件には艦隊派の末次が陰で糸をひいていたという噂もあったが、結局、条約派の海相就任で海軍は一区切りつけたようだ。

 6月1日、清河純一(中将、予備)が久しぶりに加藤寛治のもとに来て、「海軍問題、主として人事と五・一五事件に対する千田(貞敏)中佐等の困惑を語」った。6月2日、村上貞一(秋山真之、山本権兵衛、斉藤実など海軍「偉人」の伝記作家)が加藤のもとに来て、「斉藤内閣組閣の内幕を語」り、海軍「前途悲観」した。次いで、町田進一郎大佐(扶桑艦長)が加藤寛治を訪ね、「五・一五事件に付 予及末次に累を及ぼさん事を憂ひ、伊藤利三郎大佐(海軍省電信課長)等大に立たんとす」と告げた。町田は「級会を立たしめて海軍革正を計らん」とした。6月5日、加藤寛治は、北一輝、久保九次(海軍大佐)と午餐する(「加藤寛治日記」[『海軍』178−9頁])。

 7月8日、岡田の海相就任祝賀会が東洋軒で開かれ、百六十余名が集まり、松平(康昌)侯爵(貴族院議員)が挨拶し、「大いに賑」(「加藤寛治日記」[『海軍』182頁])わった。

 大陸政策のための増強を画策する陸軍には、この海軍青年将校の決起は小さからざる衝撃であったであろう。陸軍青年将校は、最大の問題は主敵米国への海軍増強ではなく、主敵ソ連への陸軍増強であり、赤化による国体転覆だとし、これを阻止するために兵力動員をともなう「反乱」を行うことが想定された。海軍条約派の井上成美は、「五・一五事件で海軍に先を越された陸軍は、いつかは必ず事を起こす、こんど陸軍が事を起こせば必ず兵力を使うかも知れない。その場合、万が一にも海軍省が反乱軍に占拠されるような事があっては、単に海軍の名折れである許りでなく国内治安の点からも重大である。そのために海軍省を海軍の兵力で守る必要が起こり得る」(宮野澄『最後の海軍大将井上成美』77頁)とした。鈴木貫太郎海軍大将は、「暴徒を愛国者」として「一人も死刑に処せられる者もなかった」ことを批判し、これが「二・二六事件の起こる温床」(『鈴木貫太郎自伝』日本図書センター 、1997年 )になったとした。

 一方、近衛文麿貴族院副議長は、@「日本が進むべき道は世界がそうさせている。軍人が起とうと起つまいとその運命は決まっている」、つまり「英米を主調としての外交路線は、結局わが国に対する経済上の圧迫となり、そのはけ口を求めねばならなくなる」、Aそこで「政治家は軍人の手からその推進力を取り戻さねばならぬ、そのためには政治家が軍部の横暴を抑える事ばかりを考えず、政治家自らがこの運命の開拓を推し進めなければならない」と、無責任な中間内閣(この斉藤内閣など)出現に反対し、「軍人に責任を以て」組閣するか、政党内閣を主張した(細川護貞「近衛公の生涯」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、134頁])。しかし、結局、近衛内閣も含めて、「この中間内閣が日米開戦」まで続くことになる。

 海軍軍令部の強化 満州事変でみせた陸軍軍令機関ー参謀本部の軍政機関ー陸軍省への「優位」的働きに触発されて、艦隊派は海軍軍令機関ー軍令部の権限を強化して、海軍軍政機関ー海軍省への「優位」を確立し、作戦のみならず、兵力量・艦船建造量を決められるよう動き出した。

 昭和6年12月14日、千坂(智次郎、予備役海軍中将)が加藤寛治のもとを訪ね、「閑院様総長之件に付 海軍之処置相談」(「加藤寛治日記」[『海軍』154頁])している。12月23日に陸軍大将閑院宮載仁親王が陸軍参謀総長に就くと、12月24日、軍事参議官の伏見宮博恭海軍大将は大角海相に軍令部長就任の受諾を伝えた(同上書155頁)。昭和7年1月16日午前、「吉日」ということで、大角海相は伏見宮に伺候して、「正式に軍令部長御就任を願ひ、御内諾を得、直に東郷元帥に報告」した。そして、大角は「1月21日の解散後又は今月中遅くも紀元節前には御内奏、発表」と申上げた。東郷は、「谷口(尚真軍令部長)は病気と軍事行動一落着に付辞任再申、且つ殿下の御就任を歓迎せり」と述べた。加藤は伏見宮と元帥部に伺候して、「御話を伺ひ」(同上書161頁)祝意を述べた。1月29日、大角が加藤に、「宮殿下御任命を来月五日と定め、本日御允裁を経たり」(同上書163頁)と伝えた。

 昭和7年2月2日に海軍大将伏見宮博恭王親王が軍令部長に就任し、「全海軍 感喜」(「加藤寛治日記」[『海軍』164頁])した。そして、高橋三吉(海軍中将、艦隊派)が昭和7年2月に軍令部次長に就任すると、高橋は海軍省権限を少しずつ削減して軍令部権限を強化してゆく。一方、条約派は、7年5月に寺島健を海軍省軍務局長に据え、井上成美を軍務局第一課長に抜擢した。

 既に、ロンドン会議後、海軍の軍事参事官会同で、日清戦争前の明治26年5月決定「省部事務互渉規程」改正が検討され(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』8−9頁)、「将来とも従前どおり取り扱うべき旨」で意見一致し、「更に一層具体的に明確にした規程」が制定され、昭和5年7月2日内令157号で、「海軍兵力に関する事項は従来の慣行に依り、之を処理すべく、此の場合に於ては海軍大臣、海軍軍令部長間に意見一致しあるべきものとす」(8頁)とされていた。これを踏まえ、昭和8年3月には、高橋次長は軍令部長を通して大角海相に「軍令部令及省部互渉規程改正」商議を提出した。そこでは、@「統帥に関する事項の起案、伝達等の権限はすべて軍令部に移管すること」、A「警備、実施部隊の教育訓練、編制、兵科、将官及参謀の人事の起案権を軍令部に移管すること」など、海軍省が強いという「旧来の海軍の伝統や慣習を無視」(宮野澄『最後の海軍大将 井上成美』文藝春秋、昭和57年、81頁)したものであった。

 艦隊派の南雲忠一軍令部第二課長(海兵第36期)は、毎日の如く後輩の井上成美海軍省軍務局第一課長(海兵第37期)を訪ねて、凄まじい交渉をした。井上は、@「軍の特殊性に基」き「海軍大臣は統帥の一部に関することを掌り、それに関する輔弼の責任を持っている」こと、A「軍部大臣の掌理する統帥に関する国務は極めて深い専門的知識と経験とを必要とする」ので、「軍部大臣は是非共軍人でなければなら」ず、「軍令部が要求するような大臣の権限を大幅に縮小することは文官大臣論に有力な武器を与える」事、B憲法・法律上の責任を負わず、海軍大臣の監督権も及ばない軍令部長に「大きな権力をもたせることは、憲法政治の原則に反するし、また危険なこと」として、毎日のように「省部互渉規程改正案」の起草・捺印を要求する南雲を静かに見据えていた。南雲が「貴様みたいなものわかりの悪い奴は殺してやるっ!」と恫喝すれば、井上は「脅しにもならんことを口にするな!海軍大臣に反旗をひるがえすようなことはつつしめ!」と反駁した。南雲は、「天皇直属の軍令部の統帥権を確立し、強い海軍をつくろうとする」強い意志をもっていた。まるで、南雲らは五・一五事件の青年将校の如き存在であり、井上にとって彼等は「海軍部内に於ける反乱ともいえる不埒」(宮野澄『最後の海軍大将 井上成美』82−5頁)なことを行おうとしている存在であった。

 昭和8年8月9日、加藤寛治は軍令部長伏見宮の「御思召」で駒井重次(大蔵官僚・衆議院議員)の話を聴くが、「不慎傲慢 大事を托する底の人物にあらず、稍感心する話は門戸開放は日本語熟達之人に限る事」としている。留意するべきことは、この次に、加藤は日記に、「結論、日本海軍は陸軍を□(圧)す、之を見付ればこっちの□(勝)也」(「加藤寛治日記」[『海軍』185頁])と記している。これが、駒井の結論なのか、加藤・駒井の談話の結論なのかは不明であり、二箇所を欠字にした理由も不明である。これは、海軍が一時的に陸軍大陸政策に協力しつつも、根底では陸軍に負けてたまるかという積年の競争意識があったということを示している。

 8月下旬、高橋軍令部次長は、部長殿下代理と称して、改正案を大角海相に突きつけた。大角はこれに大きな修正を加えたので、高橋は伏見宮を動かした。伏見宮は大角を呼びつけ、「私が海軍大演習に出発するまでに片づけるように」などと命じた。大角はこれに屈し、藤田尚徳海軍次官、寺島健軍務局長の海軍省首脳もこれを了承した。9月中旬、寺島は井上に「軍令部案に近い内容」の「省部互渉規程」改正案を呑み、捺印してほしいと要請した。井上は辞任覚悟でこれを拒んだ。一方、大角は葉山御用邸の天皇に軍令部令改正案を上奏すると、天皇は「こういうことは、よく考えてからにせよ」として、これを認めなかった。しかし、9月20日、井上は軍務局第一課長から横須賀鎮守府付に左遷され(宮野澄『最後の海軍大将 井上成美』86−94頁)、最終的には伏見宮部長改正案が認められた。

 昭和8年10月1日内令294号「海軍省軍令部業務互渉規程」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』8−9頁)では、第二条「戦時にありて大本営を置かれざる間に於ける業務に関しては本規程の外 戦時大本営勤務令を準用す」、第三条「兵力量に関しては軍令部総長之を起案し、海軍大臣に商議の上 御裁定又は御内裁を仰ぐ」、第四ー六条、第十一条 軍令部総長の起案事項(艦船の派遣、艦隊の戦時編制・演習・海戦、艦隊の平時編制、戦時通信諸規定・暗号書など)、第七ー八条 海軍大臣の起案事項(第四条規程外の艦船派遣、「艦船の就役、役務の変更、艦艇の定籍」、「艦船部隊及学校の建制及定員の制定」、「参謀官の補職」、「教範、操式類」)、第十条、「兵力の充実、出師準備及国防用兵に関する重要なる諸施設に関しては軍令部総長、海軍大臣に商議す」、第十二ー十三条、海軍省・軍令部の協議・調査事項(兵力充実・出師準備などの経費、「兵力の伸縮」、「重要任務に関する報告」)など、軍令部総長の起案権限などが大幅に認められた。伏見宮は軍令部員一同に「我海軍更生の大改革なり」と訓示した。ここに、海軍軍令部は陸軍参謀本部と対等になったのである。ここに、山下源太郎軍令部長らの「軍令部を陸軍参謀本部なみにする」という悲願が実現したのである(豊田譲『悲劇の提督・南雲忠一中将』218頁)。

 ただし、厳密に言えば、軍令部が「海軍省関係各部と商議して立案し、允裁を仰ぐものが大部分」だから、「現実的には、数回の軍令部の改組後といえども」、軍令部が「独立してその権限を振るうことはありえなかった」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、朝雲新聞社、昭和54年、29頁)ということも留意される。10年2月6日、元軍務第一課長・比叡艦長井上成美大佐が海軍大学校教官高木惣吉中佐に、@軍令部改正について「統帥大権の確立といふ者」があるが、「統帥大権は昔から確立して居る」が「統帥権の解釈が非常に違」っていて「之が紛糾の原因となって居る」事、A「統帥権の海軍の解釈は・・決って居らない」が、「厳格に解釈すれば、私としては統帥権と云ふものの範囲は、所謂戦闘機関の進退活動といふものであ」り、統帥権は不羈独立しており、内閣・議会などの他からの干渉は許されない事(狭義統帥権)、Bしかし、「兵力を準備」する海軍省と「準備された兵力を活用」する軍令部とは切り離せず、兵力準備は「経費と密接なる関係」があり、法律的にも「兵力の準備、即ち武備、軍備の方面」は「海軍大臣の責任範囲」(高木惣吉「軍令部令改正の経緯」[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、29−30頁])であると語っているように、少なくとも海軍では、統帥権解釈が決まらず、特に海軍準備に巨額費用がかかることもあって、経費面では軍令部・海軍省は不即不離だった。さらに、井上成美は、「海軍省から多大の権限を取り込むことは適当でない」として海軍省にも一部統帥権を残すべき根拠として、「軍部大臣が軍隊の維持・管理等の行政事務ばかりでなく、統帥権の一部についても、輔翼の責を負うものである」としておけば、文官が軍部大臣になることはできなくなることをあげている(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、36頁)。

 一方、軍令部権限拡張を成し遂げた高橋は艦隊派らしからぬ態度をも示したりした。例えば、9月3日夕、石川信吾(中佐、軍令部第二班第三課、艦隊派)が加藤寛治のもとに来て、人事の「決心」を促した。石川は、小林躋造海軍中将(条約派)と堀悌吉海軍中将(条約派)が末次信正海軍中将(艦隊派)を排斥するという「井上成美(大佐、海軍大学校教官)の奇っ怪なる談」を報じた。9月5日、加藤は軍令部長伏見宮に岡野俊吉中佐を送り、「拝謁懇話申上度」として時日を伺った。伏見宮は「御諾」したが、「何人かの中傷なきや」などと「憂ふべき御態度」を示した。艦隊派の高橋三吉軍令部次長が「小林を推薦する傾」があり、加藤は「不可解」(「加藤寛治日記」[『海軍』188頁])とした。艦隊派は分裂していたようだ。その高橋は、11月定期異動で第2艦隊司令長官に転任した。

 しかし、8年9月から9年12月にかけて、艦隊派の圧力、伏見宮の威圧を受けて、大角海相は、条約派の谷口尚真大将(8年9月1日)、左近司政三(9年3月)・寺島健(9年3月)・堀悌吉(9年12月)ら中将を予備役に追いやった。これは艦隊派という対米強硬派が海軍良識派を排除したともいえるが、こういう陰湿な人事の最大の悪影響はこれからを担う海軍中堅・幹部に海軍に幻滅を覚えさせ、良識とやる気を失わせたということであったであろう。当時第二次ロンドン軍縮会議の海軍首席代表の海軍中将山本五十六は堀悌吉に、「海軍の前途は真に寒心の至り」、「かくのごとき人事が行わるる今日の海軍に対し、これが救済のため努力するも到底むつかしと思わる」、「爾来会商に対する張合もぬけ、身を殺しても海軍のためなどという意気ごみはなくなってしまった」(宮野澄『最後の海軍大将 井上成美』98−9頁)と書き送ったのであった。一般に「海軍一般の気風は社交的才能に富み、外国語を操り、洋食を喰ふに巧みにして政治的懸引にさへも長じ所謂利巧者多」かったと言われ、昭和8年頃の海軍首脳部も、「海軍の伝統的功利主義に終始」し、部下の信頼を得ず、海軍大臣は「歴史的国宝として万人の等しく尊敬愛慕する」東郷元帥を「自己の政策に・・利用」(昭和8年9月20日滝本信夫「五・一五事件と我海軍主脳部」[「加藤寛治日記」『海軍』473頁])するだけだといわれていた。要するに「小賢しい」連中が、艦隊派と条約派に分かれて、人材を潰しあっていて、大局にたって冷静に戦局を見通せる軍人を生み出しえなかったともいえよう。そして、それは、個別細分化に安住する学者の大怠慢によって、軍人らに根源的・総合的視野から日本、世界の過去・現在・未来を指し示す本物の学問が構築されていなかったことにもよっているということだ。


 無条約時代の陸軍・海軍 一方、ソ連の軍事力増大で、陸軍はソ連を警戒し、海軍とは異なって「米国、英国を敵とするを避け」た。昭和8年9月、荒木貞夫陸相は、外交・国防の五相会議で、仮想敵国をロシア一国に絞ろうとしたが、大角岑生海相は「来たるべき海軍無条約時代の危機を迎える海軍と外務との問題」を優先したため、「陸軍の企図は、その目的を達せずに終わった」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』75頁)のであった。

 9年6月第二次ロンドン会議予備交渉が始まり、英米は、「比率主義に固執」し、「国防の脆弱性が所要兵力量を決定するから、各国の兵力量に差があるのは当然」(池田清『海軍と日本』164頁)としたが、日本側は国防の安全は劣勢比率ではなく結局兵力の均等によるとして、「軍縮条約を不脅威、不侵略の精神によって改めたい」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』219頁)とした。6月8日、艦隊派の末次信正大将は、軍事参議官会議で、@満州問題と海軍軍縮は表裏の関係にあり、「満州をして今日あらしめたるは主として陸軍の功績努力に帰する」が、国際連盟抗議・米国恫喝を退け、「陸軍をして後顧の憂なからしめた」のは海軍の実力としているのだから、A「満州問題に国運を賭したる」以上は「国防上更に直接且深刻なる軍縮問題に対し一層真剣」となるとした。その他の海軍首脳も、軍縮条約に制約されぬ自主的軍事力をもつべしとしていた。11月、海軍省軍事普及部は、「国際情勢と海軍軍縮会議」において、現在「石油燃料の普遍的利用、機関、補給設備の進歩等は艦隊の渡洋作戦を容易ならしめ、航空機の進歩は優勢軍の捜索偵察上に至大の便益を与ふるに至った」ので、「今や、昔時に比し攻勢作戦を容易ならしめ、守勢作戦に不利なる結果を招来」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、108−110頁)していると、攻勢軍事力の必要を説いた。

 10年1月まで交渉を続けたが、軍縮会議は不調に終わった。さらに、9年12月、国際連盟ジュネーヴ一般軍縮会議(7年2月ー9年6月)で妥協点を見出しえなかったことから、日本はワシントン条約廃棄を決意した。軍部は、@軍令部の建造費試算では、「ワシントン条約を満たすための代艦計画」と、「自主的軍備に踏みきる場合」と大差ないこと、A満州経営による経済力増加で「多少の軍備拡張競争は、いとわない」事、B「国防の安全のため他に良案をうる見通しがな」かったことから、軍縮条約離脱にふみきったのである(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、112頁)。10年12月、英国提唱で第二次ロンドン会議が開催され、日米英独伊で軍縮問題を討議したが、妥結に至らず、11年1月日本は会議を脱退した。この結果、12年1月、列強諸国は軍備無条約時代に突入した。

 この過程で「米国は陰に陽に日本の立場を困難」にしていた。つまり、@米国は「自らは海軍軍備が不十分であるとして、大統領は昭和8年6月経済恐慌から脱出するため昭和8年、産業復興費による建艦三年計画を承認し、昭和9年3月ビンソン法(新造艦100隻に及ぶ建艦と、飛行機の大量増勢計画)を議会で承認させ、着々と異常とも言える海軍軍備拡張にスタートし」(76−7頁)、対日優位を確定し、A「昭和7年5月以降、策敵艦隊(元来、大西洋駐留部隊)をも太平洋岸に駐留させ日本の対支政策を牽制」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』77頁)し、B昭和9年9月26日ルーズベルト大統領は、ハル国務長官、スタンドレー海軍作戦部長らと極東政策につき協議し、ス部長は、「もし米国があくまで門戸開放政策、九カ国条約・不戦条約等を履行しようとするなら、海軍は所要の兵力を保持する要がある」が、「もしそうでないなら、米国は極東における貿易を断念して、挑戦を受ける前に引き下がるべきである」と主張したが、列席者一同は、「いまここで軍隊の使用を断念するようなことがあれば、日本のいっそうの侵略を許すものととられるであろう」として、政治主導で海軍兵維持の必要性を再認識し(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、110頁)、C「10年8月末には中立法を制定して、アジア及び欧州の戦争に誘い込まれることを拒否する態度」を示し、11年から独日の行動抑制に活用し、D昭和11年には海軍拡張予算を成立させた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』539頁)。この結果、日本は、こうした米国の軍備増強を抑制する歯止めを解除したことになり、米国の顕著な軍備増強を促すことになった。

 ロンドン予備交渉の一全権山本五十六少将が、「これからの軍縮は、攻撃兵器を制限しなければならん、との考えから航空母艦の全廃を提案して人々をおどろかせた」(岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』中央公論社、昭和62年、93頁)というが、これは優勢化する米国海軍力を牽制しようという意図からでたものであろう。

 仮想敵国をめぐる陸軍・海軍 軍縮無条約時代を迎えるに際しても、陸軍と海軍の間に仮想敵国をめぐって抜き差しならぬ対立が続いていた。

 昭和11年の二・二六事件の後始末終了後から、陸軍は、「『国防国策大綱』の確立に全力を入れ海軍と協議」したが、海軍は「国策大綱」を立案していた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』78頁)。11年3月10日、海軍は陸軍に「すみやかに確固たる国策を確立し、国家の総意をこれに帰一して国家百年の計に邁進する必要のあることを申し入れた」が、一致を見ることはなかった。しかし、海軍は、12年以降の無条約時代を考慮し、「この際、国防方針、用兵綱領の改訂を行うべきである」と主張し、陸軍もこれを容れて国防方針・用兵綱領を改訂した(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』78頁)。昭和11年3月19日永野修身大将は、軍務局第一課長の委員会設置提案(「内外の緊迫せる新事態」に対応して「確乎たる国策」樹立のため三委員会設置)を承認した。第一委員会は「帝国の国策並に之が実現に必要なる海軍政策の具体案を研究、調査、立案す」、第二委員会は「帝国海軍の内容充実及能率化に必要なる諸制度及定員改正の具体案を研究、調査、立案す」、第三委員会は「財政計画を検討し且海軍予算の経済化に対する具体案を研究、調査、立案す」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、117頁)とした。

 しかし、11年4月24日西尾参謀次長は、@海軍の陸軍大陸政策への懸念(「海軍にては陸軍の大陸政策に危惧を感じ居らるるやの話あれども、陸軍にても戦争は不利なれば避け度・・関東軍としても進んで戦争を開始するの意なし」)、A海軍への陸軍支援要望(「沿海州の作戦には海軍の援助を望む 飛行機の爆撃及び黒竜江よりの協力願えるや」)、B海軍仮想的敵国への陸軍懸念(陸軍は対ソ戦を想定しているが、「対蘇に対米加る場合には比島の兵力は控置し在るも情況により比島作戦困難のことあらん」、「英、米を併せ敵とするは勝算なし」)、C海軍の対米戦への疑問(「攻防方針の海軍兵力にて西太平洋に来る米艦隊に大丈夫なるや」)を表明した(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』80−1頁)。

 以後も仮想敵国をめぐり陸海軍は対立し、日本軍は主敵を決めきれないで居た。この調整をする指導者もいなかった。11年5月1日三相会議が開かれ、寺内陸相は、「国防方針に『目標として露国、米国に差等なし』と云ふは不可解」「先づ露なら露を始末する為に力を第一に尽すこと至当ならずや」と主張すると、永野海相は、「境を接する露が危険にて、離れ居る米が然らずと云ふことなし」、米露いずれが危険かは「決し難」いので、「此点両統帥部の決論に委して可なり」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』81頁)とした。敵が一国に絞り込まれないということは、国力にとり過重以外の何物でもなく、特に米国海軍が拡張されるにつけ、日米海軍力の差がますます広がり、海軍としては早く主敵を米国に設定したかった。

 11年5月11日、天皇は「新に対英作戦を加へたるは何故なりや」と下問すると、閑院宮参謀総長は「英国は近時香港、新嘉玻の増備に急にして、国際情勢亦穏かならざるに付 万一に備へん為に加へたり」とし、伏見宮軍令部総長は「海軍としては対英作戦は極力避くべきものと考へあり。其の理由は対蘇戦となれば、米国敵に加はるべく、対米戦には蘇国敵に加はるべし。之に更に英国を敵に加へれば到底勝ち目なし。又対英戦となれば、支は元より米、蘇が敵に加はる算多し。故に此の如き情勢は外交に依り極力避くるの要あり」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』82頁)とした。

 11年5月13日、海軍軍令部総長は天皇に兵力数値では勝算ありと上奏するが、海軍の勝算は軍事科学的根拠に欠け、一定しない。天皇は「国防方針に示す兵力は相当大なるが、財政との関係如何」を下問すると、軍令部総長は「国力の許す限り出来る丈け本方針の兵力を整備せんとす。財政を無視して無理を云ふ意にあらず。前所要兵力に比し建造費噸当りの高価なる駆逐艦、潜水艦を減じ、噸当りの廉なる主力艦、航空母艦を増しあれば全経費としては前所要兵力より増加なし」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』82頁)とした。

 天皇が「海軍兵力の整備不充分ならば如何」と下問すると、軍令部総長は「其の程度に依ります。甚しければ軍令部総長の責任を負ひ得ざることもありませうが、然し一旦 陛下開戦と決せらるれば 上下一致与へられたる兵力を以て全力を尽し、御奉公申上げんこと申上る迄も無之。唯だ勝目の程は如何か分りませぬ。国防方針の兵力に近きものなれば勝目は十分あります」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』82頁−3)と答えた。

 天皇が「新聞報に依れば英、米にて大に建艦を行ふ如し。之に対しては如何」と下問すると、軍令部総長は、@米英にはない大砲などを主力艦に装備することを研究中であること(「英、米にては主力艦を始め大拡張を行ふ様でありますが、我国は一々之に応ずることを致しませずとも無条約なれば、日本伝統の特徴ある軍備を以て他国の有せざる大口径砲、重装甲の主力艦[原筆者注・・戦艦大和、武蔵・・]とか重雷装艦[原筆者注・・一艦で40本同時に発射可能な巡洋艦を平時極秘裡に準備・・]とか種々特徴を有し、敵の現有兵力を以て応じ得ざる艦を造れば、よろしく折角研究中であります」)、A仮想敵国露国の弱・強如何により海主陸従から海陸対等にすべきであり(「尚御下問御座りませんが、大正時代八八艦隊整備に当り、海軍に対し陸軍より譲りてはと申す者あるやに聞き及びますが、其は情況大に異なりますので、彼の時には露国全く崩壊し居り、陸軍の目標小なりしなり」。しかし、「現在にては米、露の目標に軽重無し、之に由り陸海軍同程度に整備の要あり」)、B今後海軍費は増加の必要あること(「曾て御下問に無条約とならば、条約時より約四千万円増加と申上しは建艦費に有之。此外に維持費も加はり、又現在は航空兵力を増す必要切なれば、全海軍費としては相当に増し、八億或は其以上になると考へます。其は先のことであります」)などを答えた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』83頁)。@を補足すれば、戦艦大和は、「総合戦闘力において名実ともに世界最優秀戦艦」として、昭和9年東京帝大総長・予備役中将平賀譲相談役のもとに「着想研究が開始」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』482頁)されたものであった。平賀には、到底航空機時代の到来を予見する力を持ち合わせていなかった。

 この頃の改訂の要点は、@主敵は二つ、副敵は二つ(国防方針「帝国の国防は、帝国国防の本義にかんがみ、我と衝突の可能性大にして且つ強大なる国力、殊に武備を有する米国、露国を目標とし、併せて支那、英国に備」える)、A兵力については、陸軍は「戦争初期における所要兵力」は50師団を基幹とし、航空兵力は140中隊、在満兵力6個師団とし、海軍は、外戦部隊(@主力艦12隻、航空母艦10隻、巡洋艦28隻、A水雷戦隊6隊[旗艦6隻・駆逐艦96隻]、潜水戦隊7隊[旗艦7隻、潜水艦70隻])、内戦部隊(航空機、艦齢超過艦など)に「充当すべき常設基地航空兵力」は65隊とするとした(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』83頁)。しかし、これでは、到底、主敵、副敵に対応できる兵力ではないし、兵力を根底とする国力の差異がおさえられていない。主敵を米国と露国の二つだとしても、米国「国力」は突出して大きいことがおさえられていない。これに対して、参謀本部は従来の「米・露・・」の順を「露・米・・」に入れ替えることを主張した。だが、軍令部第一課長福留繁は、「元来想定敵国に差等をつけ」たり「陸軍の露とか海軍の米とか云」うのは誤りとし、帝国・国軍の仮想敵国とすべきとした。討議の結果、「想定敵国記載の順序は、原案どおりとなったが、本書は、軍事費は国会で決められているから、想定敵国は「統帥部の『国防方針』だけで決定できる問題ではない」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、119頁)とする。

 昭和11年6月3日帝国国防方針の第三次改訂が裁可され、6月30日、参謀本部は「国防国策大綱」を作成し、以後陸海軍は調整して「国策大綱」を立案し、8月7日に五相会議で「国策の基準」として決定した(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、122頁)。
 
 二・二六事件と陸軍・海軍 昭和11年2月26日早朝、横浜鎮守府参謀長の井上成美海軍少将が懸念した通り、陸軍青年将校が、下士官94人、兵士3058人を動員して、五・一五事件に比べるべくもない大規模な反乱事件を起こした。首相岡田啓介、宮内大臣斉藤実、侍従長鈴木貫太郎ら海軍大将が襲撃され、後二者は殺害された。

 井上は電話報告を受けると、直ちに鎮守府で幕僚会議を開催し、「砲術参謀を自動車で東京へ実情実視に急派、水兵に十人の海軍省急派、緊急呼集、特別陸戦隊用意、『那珂』急遽出港準備、麾下各部自衛警戒」などを迅速に指示した(井上『思い出の記』続編[宮野澄『井上成美』110頁])。それに比べて、当時の海相大角が「皇道派に迎合しがち」であったので、海軍省の対応は「極めて歯切れが悪かった」(宮野澄『井上成美』110頁)のであった。だから、迫水久常書記官長が大角岑生海相に岡田首相が首相官邸でまだ存命していることを告げて、救出するために陸戦隊出動を要請すると、大角は「陸海軍の戦争にな」ることを恐れて、「その話は聞かなかったことにしておくよ」(岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』中央公論社、昭和62年、176頁)といって立ち去った。

 軍令部も井上らを牽制していた。午前9時、特別陸戦隊を乗せた木曽が横須賀港をを出港しようとしていた矢先、軍令部は「警備派兵については所定の手続きが必要である。横須賀鎮守府が独断で派兵してはならない。所定の手続きが完了するまで出港は見合すように」と訓令してきた。井上は、「海軍の威容」を東京市民にいち早く示し、安心させたかっただけに、この軍令部の対応を鋭く批判した。元来軍令部は「静かに専ら作戦、国防の構想をねって研究する所」で、「平時の突発事件などを急速にさばく様には出来ておらず、訓練もされていない」から、「今度の様な場合にはテキパキと急速な処置が出来ないのは当然」とした。それに比べて、海軍省は、大臣・次官は本省付近に官舎を持ち、副官は本省構内に官舎を与えられ、「何時でも急に応じうる様な態勢が出来て」(宮野澄『井上成美』114頁)いると評価していた。

 当初、戒厳司令部は決起軍を「皇軍」と呼んでいたが、井上は躊躇無く「国賊」として、「激突した場合には発砲も辞せず」と指示していた。井上は、米内光政長官らと横須賀鎮守府にあって、冷静に事件に対応した(宮野澄『井上成美』115頁)。山本五十六中将が知人に語った所によると、彼も「陸軍の出方によっては、海軍は陸軍と一戦交えるのを辞さない」(工藤美代子『山本五十六の生涯』242頁)覚悟であった。

 二・二六事件を引き起こした皇道派が反ソ・反共を掲げ、国体護持・天皇親政を標榜し、事件鎮圧後に弱体化したのに対して、統制派が指導的軍部勢力として登場し、日ソ不可侵条約の締結を推進し合法的な形で欧米の列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指して軍備大拡張が開始され、ここに陸軍と海軍の主敵がようやく米国に一致し始めることになった。しかし、その海軍では、11年3月9日、広田弘毅内閣が組閣されると、永野修身海相のもとに井上は海軍省・軍令部出仕となり、11年12月、米内が連合艦隊司令長官、山本五十六(昭和10年12月2日海軍航空本部長)が海軍次官になった。

 一方、11月には日独防共協定が締結」され、陸軍中央部・関東軍は「長城戦を越えて中国東北部に勢力を扶植しようと策動し、日中関係を慢性的に緊張させ」、「中国官民の抗日運動を中・南支まで拡大させ、成都、漢口、また上海で日中両国間にしばしば紛争を引き起こした」が、「現地にある海軍部隊(第三艦隊・司令長官及川古志郎中将)としては、日本人居留民の保護や、既得権の局地的保護のため、なし崩し的に介入させられ」ることになった(池田清『海軍と日本』95−6頁)。

 海軍の対支政策 海軍は、陸軍が重視する対支作戦に対して「和平」的方針をうちだした。

 昭和12年2月3日付軍令部第一部長直属の横井忠雄大佐「対支方策検討に関する意見」において、欧米列強の圧力を打破するために、「日支提携 真に東洋を東洋人の天地たらしむるを急務とする」とした。2月5日、軍令部次長島田繁太郎中将は、「対支政策」案で、「大局上の見地に基き日支国交を改善し公正なる国交を計り支那をして一意英米蘇に走らしめず 我に親ましめ 我と経済関係を増進し、共栄以て東洋平和を図らしむ」とした。

3月5日、この方針で「海軍としての決定案」が決められ、@「日・中の共存共栄を目標とする経済的、文化的融和提携を図ることを基本方針」とし、A「南京政権に対しては、是々非々の態度をもって臨み、われとの友好を図る者の態度をもって臨み」、B「北支には日・満・支三カ国の友好的特殊地域を設けることを構想」した。

 これは、後に「『対支実行策』及び『北支指導方策』にそのまま盛りこまれる」が、12年5月20日、北支警備の第十戦隊司令官下村正助少将は、「全国に漲れる澎湃たる抗日の大浪は、之を阻止せんとするも既に至難の業」であり「日支単独の国交調整は殆んど見込みなし」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、156−8頁)と報告している。実際、盧溝橋事件の勃発とともに、海軍の和平的対支政策は大きく後退してゆく。

 盧溝橋事件と陸軍・海軍 12年2月2日に林銑十郎内閣が組閣されると、米内が海相となり、同年6月第一次近衛内閣が組閣されると、 10月20日に井上成美が海軍省軍務局長に登用され、山本は次官留任となって、「ここに世にいう米内、山本、井上の名トリオ」(宮野澄『井上成美』114頁)が誕生し58たともいわれる。だが、これは偶然に予備役に出されずに残った旧朝敵(盛岡、長岡、仙台)凡庸トリオが登場したと称すべきであった。

 昭和12年7月盧溝橋事件が発生すると、7月9日閣議で、杉山元陸相は「出兵を提議」したが、米内海相は「これに反対し、成るべく事件を拡大せず、速かに局地的にこれが解決を図るべき」と主張した。11日五相会議で、陸相が「五千五百の天津軍と、平津地方における我居留民を皆殺しにするに忍びず」と強く出兵を要請したので、米内は「渋々ながら之に同意」した。米内は、「近来支那における抗日侮日の熾烈」を踏まえて「誤れる認識を以てその解決に当らば事件の拡大は火を見るよりも明らか」ということを懸念していた。だから、米内は、「飽くまで事件不拡大、現地解決を強調し、なほ動員役といへども、派兵の必要なきに至らば直ちに之を中止せん」とし、陸相に「動員後派兵の必要なきに至りたる場合に如何にこれを処置するや。過ぐる上海事変においては第十四師団の如き実例もあり、此度に斯の如きことを繰返すが如きことこれなきや」と問い質した。陸相は「絶対に斯の如きことはなさず」と言明した。7月16日米内海相は近衛首相に、「一体首相は陸軍のやり方を如何に考へられるや。余は頗る憂慮に堪へざるを覚ゆ」(緒方竹虎『一軍人の生涯』文芸春秋新社、1955年[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、174−7頁] )と、陸軍への懸念を表明した。

 12年8月9日海軍中尉らが上海保安隊員に殺害されると、8月11日、伏見軍令部総長は米内海相に、「上海付近の防備状態及保安隊の現状」は停戦協定精神に違反し、大山中尉事件もあり、「今や陸兵を上海に派遣して治安維持を図るを要する時機に達せり」とすると、米内は「停戦協定蹂躙の確証な」く、「直に攻撃するは大義名分立たず」としつつ、「我が居留民に危害を及ぼすが如き事態に至らば直に出兵すべし」(「大東亜戦争海軍戦史秘史乙草案」[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、211頁])と答えた。

 8月12日豊田軍務局長は軍令部第一部長近藤信竹少将に、「あくまで不拡大方針を堅持して譲ら」なかった。8月13日陣地構築中の上海特別陸戦隊と中国軍の間で小衝突がおこり、上海陸戦隊は「全軍を戦闘配置」につけ、夜「戦闘は全線に広が」った。閣議は上海派兵を決定、「兵力・時機は両統帥部に一任」した。一方、蒋介石は総攻撃を指令した。8月14日、閣議は深夜に及び、米内は、「斯くなる上は事態不拡大主義は消滅し、北支事変は日支事変となりたし」と発言した。広田外相は「不拡大」を主張したが、米内はこれを論駁した。米内は杉山陸相に、「日支全面作戦となりし上は南京を打つが当然なり。兵力行使上の事はあらんも、主義として斯くあらずや」と強攻策を催促した。畑は「参謀本部と良く話すべきも対蘇の考慮もあり、多数兵力は用い得ず」(戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、212−4頁)とした。
 
 8月18日、軍令部総長が戦況を上奏した後、天皇は、「今度の事変は北支のみなりしが、上海にも事起り 将来は或は又青島にも事起るやも知れず、あちこちと拡大する事は万事困ることになる。何とか早く目的を達し事態収拾の要あり。北支上海両面でなく一先づ一方に主力を注ぎ、打撃を与へた上、平和条件を出すか、先方より出さす。作戦上如何にするが可なるか」と質問した。軍令部総長伏見宮は、「此事は海陸両方に関係ある事なれば、今直に速答は出来申さず」としつつも、「一日も速に収む事が必要にして、財政上の負担大にして、陸軍の五年計画、海軍の第三次計画にも影響あるのみならず、経済上に妨害多し。支那より償金の取れる当てもなく、長引く事は不利」とした。そして、「中支那方面にては、海軍は江岸、沿岸にて助力し航空兵力によりて協力するも、主体は陸軍作戦なれば、陸軍の考を篤と承知して研究致べし」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、219頁)と、海軍の陸軍作戦支援を話した。

 一方、近衛首相は、従来戦時大本営令があったが、支那事変では統帥権独立で軍は首相に関与させずに進軍したため、事変でも大本営を設置でき首相も関与できるようなるような大本営の設立を推進した([防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、37頁)。しかし、昭和12年9月12日、米内海相、山本五十六次官は原田熊雄に、@参謀本部は「道理のないこと」を「大本営で決まった」と称して「陸軍省なり海軍省なりを圧迫する」と批判し、A参謀本部の大本営設置論は「陰謀」(「原田日記」第六巻)とした。11月4日、軍令部次長島田繁太郎中将は、「11月3日陸軍省案(参謀本部主務者同意と称す)を海軍省に申来る。此案は大本営の統帥機関なるを無視したる とてつもなき案にて、寧ろ政治指導に利用の下心見ゆ」(島田繁太郎大将備忘録」[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、242頁])と批判した。しかし、11月17日大本営令が裁可され、11月20日、皇居内に、戦時のみならず事変に際しても設置されるようになった。そして、大本営のみならず、「大本営と政府との連絡統一のため『大本営政府連絡会議』」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、242−3頁)も設置された。

 だが、現実には政府と大本営、陸軍と海軍の対立が反映され、陸軍、海軍が最高司令官天皇の統帥権を根拠に夫々が別個の主張をしたため、大本営では陸海軍が鳩首凝議して統合的な勝利戦略をたてて遂行することができなかった。複合的対立の中で政略や国務が陸海軍に「追随」して「おおかたの最高政策が決定」(池田清『海軍と日本』49頁)されたのである。日露戦争時の軍事参議院は存続していたが、藩閥衰退した状況下で、もはや軍事参議院は陸軍・海軍対立を緩和することはできなくなっていた。軍事参議院は、「退役直前の陸海大将たちの名誉的閑職の場」(池田清『海軍と日本』51頁)に化していた。
 
 こうして、海軍は、陸軍との対立の火種を抱えつつ、十分な情報をもたぬまま陸軍の中国政策に巻きこまれていった。

 海軍の対支戦線拡大加担 13年1月16日「蒋介石を相手にせず」という近衛声明に米内海相が安易に同調し、日中関係打開の道をとざした(池田清『海軍と日本』99−103頁)。2月16日「戦線不拡大を基本方針とする御前会議」を開催したが、3月1日参謀本部第二課長が河辺から稲田正純中佐に代わると、「戦線不拡大方針は漸次崩され」、4月7日徐州作戦の大命が発せられた(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、259頁)。

 11月25日、武漢三鎮・広東占領した後、海軍の岡軍務局第一課長・高木惣吉臨時調査課長・軍務局第一課課員ら6人は、水交社で陸軍の田中軍事課長・影佐軍務課長ら6人が会合した。陸軍は、「数年内に日ソ必戦の情勢にあるのは「陸軍の常識」とし、「海軍の軍備は、英・米のいずれを目標とするものであるか」と問うと、海軍側は、@英米ソに対して「適当」な海軍・陸軍軍備を整備し、日本側から宣戦せず、Aその間に「日満支の『ブロック』を確立して愈我が経済力を優大ならしめ、 啻に軍備のみならず戦争に対する国の総力を大ならしめ、益蘇英米等をして手出しを為し能はざらしむる態勢に導けば、敢て日蘇戦を必要とせざるにあらずや」とした。しかし、陸軍は、「それは言うべくして不可能であり、日ソ必戦の情勢は宿命的である」と反論した。そこで、海軍は、@「情勢判断の相違」だから「是以上論議するも無駄」とし、A「英国が過去百年に亘り執り来れるやり方」(数十年の準備期でインドを取り、インド経営の目途がたってからマレーを取り、「漸進的に確実なる基礎を固めつつ国家的膨張を成就」)を学ぶべきと主張した(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、277頁)。

 満州経営に関しても、米内海相は列強帝国主義的把握をしてゆく。14年8月21日、日独伊協定強化問題に関して、米内海相は板垣陸相に、@既に英国は中国に「最大の権益」を有するので、「ソ英を一所にして、これを相手とする日独伊の攻守同盟の如きは、絶対に不可」であり、むしろ「英を利用して支那問題の解決を計るべき」であり、A「支那における列国の機会均等、門戸開放」の原則を破れば「米は英と結ぶ公算 大」であり、「危険此上もな」く、Bもし英国が「日本を敵」とすれば、日本の金融界は益々不利」となり、「米国の金融界は、今日なお英の波に乗りあるを以て、尚更米国に期待し得ざることとな」り、「防共協定強化の逆効果として、英米より経済的圧迫を被るが如き破目に陥」かねず、B日本は、「列国との協調」下での日支貿易の利益をもって「事実上・・領有」している満州の「基礎を強化」すべきであり、独伊と結んでも何の利益もなしとする。しかし、陸相答弁は「要領を得ず、議論はただ循環するのみ」であった(緒方竹虎『一軍人の生涯』[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、283−9頁])。

 木戸幸一はかかる海軍に対して、@陸軍は多数兵力を中国に派出していたために「手綱は引き切れな」くなり、A海軍はこの陸軍とは「戦ってくれない」から「期待はあまりしなかった」し、B米内という人物は、「一応は意見を主張するけど、それで相手がきかなきゃ、あいつはバカだって顔でそのままにし」て、「自己の所信を貫徹するってことはな」く、「そういう点では政治家じゃなかった」。その結果、「現在の海軍力では戦争をしてもらっては困るということもはっきり言おうとしない」し、総じて海軍には「国の前途とか国策ってものを考えるハダ合いってものは・・ない」(木戸幸一回想[『昭和史の天皇』21、226−7頁<『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、289ー290頁>])と、批判している。

 昭和15年、漢口には、山口多聞海軍少将の第一連合航空隊、寺岡謹平少将の第三連合航空隊、大西少将の第二連合航空隊が進駐していた。3人とも海兵同期である。護衛戦闘機の九六式艦戦は速力・空中戦闘力はすぐれていたが、漢口ー重慶(往復2000キロ)の航続能力は足りなかった。その結果、海軍中攻隊の出撃は護衛機なしで行なわれ、犠牲者は増えるばかりであった。おりしも零戦(昭和12年海軍が三菱飛行機製作所に開発を指令)が誕生し、高度4千m、時速5百km、航続距離5時間(増加タンク付ければ6時間)という高性能を持っていた。

 15年7月、大西・山口の間で激論が生じている。大西が、「あと一週間もすれば、十二試艦戦(零戦)が来る」から、「犠牲の多い中攻隊の裸出撃を、急いでや」る必要はないと主張した。これに対して、山口は、「戦争の目的をたっするためには、敵に立ちなおる余裕をあたえてはならない。犠牲を恐れていては逆に戦機を逸する」と、これに反対した(93頁)。結局、山口が折れて、一週間待つことになった。15年7月中旬、十二試艦戦6機が漢口に到着し、続いて進藤三郎大尉に指揮された十二試艦戦15機が空輸されてきた(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』93−4頁)。

 この様に、日米戦争で一定の役割を演じる海軍首脳が、すでに陸軍の始めた日中戦争で航空作戦で戦歴を積み重ねていたのである。


                                 E 対米作戦をめぐる陸軍・海軍
  三国軍事同盟と陸軍・海軍 陸軍は、日中事変の早期解決、対ソ牽制などのために、日独伊軍事同盟を検討し、12年11月に日独伊三国親善の夕べを開いたり、12年8月にヒトラーユーゲントを迎えた。陸軍の積極的同盟締結論に対して、海軍はこれは英仏のみならずソ連。米国も敵にまわすとして強く反対した。近衛内閣当時の13年8月21日、星ヶ岡茶寮で米内海相は板垣征四郎陸相の要望で会合するが、米内は、@「英国は現在のところ、支那問題以外に日本と衝突するが如きな」いので、英国に日本の真意(対支和平主義、「排他独善の意志を有」さざること)を理解させれば、日英関係は「徐々に好転」しており、「独伊と結びたりとて支那問題の解決に何の貢献する所」もないこと、Aもし独伊と結んで支那に対応すれば、米国は黙視せず、英と結んで日本に向かってくることなどから、「ソ連を一緒にして、これを相手とする日独伊の攻守同盟の如きは絶対に不可なり」(米内メモ[宮野澄『井上成美』132頁])とした。

 当時の海軍軍務局第一課長岡敬純大佐や神重徳中佐らは枢軸論に賛成だったが、軍務局長井上成美が彼らを抑え込んでいた(井上成美「海軍の下克上」[宮野澄『井上成美』127頁])。しかし、14年になると、右翼が連日海軍省におしかけ、米内海相、山本次官、井上局長を「国賊!腰抜け!イヌ!」などと罵り、暗殺が企てられた(宮野澄『井上成美』131頁)。いざという時に備えて、海軍省は横須賀鎮守府」から陸戦隊1個小隊を省内に常駐させていた。

 しかし、彼らはいささかも怯むことはなかった。井上成美は黒潮会記者に、「過去をふり返ってみると海軍が陸軍に追随した時の政策は、ことどとく失敗している。海軍は海軍の主張を貫くべきなのだ。大体、二・二六事件を起こしたような陸軍と仲良くするのは強盗と手を握るようなものだ」と本音を語っている。だが、主敵米国と戦って勝てる作戦をこそ共に立案すべきであって、国家の大事を前に陸軍を「強盗」呼ばわりする事などは問題外である。まことに度量が狭いと言わざるをえない。さらに、井上は、「陸軍が脱線をくり返すかぎり、国を救うものは海軍を措いて外にはない」(宮野澄『井上成美』132頁)とまでうぬぼれるようでは、何をかいわんやである。井上が、このように陸軍の横暴などを意図的に強調するのは、海軍の陸軍への従属危機があって、それを跳ね除けようとするからであろう。

 14年7月には、山本五十六海軍次官は同盟記者小山武夫に、「陸軍のバカどもにも困ったものだ。南も討て、北も討つべしなんて騒ぎ立てるが、いったいだれが戦うのか。海軍は広い太平洋で戦わねばならん。が、五・五・三の比率でやって来た海軍力でアメリカを向こうに回して戦う場合、三で五をどうして破るか。しかも対米戦となれば英の五が当然アメリカ側に加わる。つまり十対三の戦いだ。戦いの帰趨は明白ではないか。こんな簡単な算術の問題が奴らには分からんのだから困りものよ」(前坂俊之「一身の栄辱生死あに論ずる閑あらんや」[『山本五十六』山川出版社、2011年])と、陸軍を批判した。特に強硬な山本は右翼らのテロの対象となり、山本暗殺計画の情報が流布した。
 
 米内、山本らは、日本は欧米帝国主義とくみするべきでないことを論拠に日独伊三国軍事同盟に反対するべきであったのであり、日米戦争を誘発する事を論拠として日独伊三国軍事同盟に反対するべきではなかったということだ。アジア侵略国米国と戦争して勝てる見込みがあれば、日本はアジア解放のためにアジア諸国と連帯して断固米国を主敵として戦うべきであったのである。そして、当面は米国に勝つ見込みがないなら、断固臥薪嘗胆し、アジア諸国と連帯して中長期で「戦わずして米国に勝つ」路線に踏み出すべきであった。

 14年1月5日に平沼内閣が組閣され、14年8月に日独伊三国防共協定(ソ連を仮想敵とする)違反の独ソ不可侵条約が締結されると、ここに総辞職を余儀なくされた。14年8月30日、阿部信行内閣が組閣され、「日独伊軍事同盟締結び動く力」(宮野澄『井上成美』139頁)が米内海相は軍事参議官、山本次官は連合艦隊司令長官、井上軍務局長は支那方面艦隊参謀長に転出させた。阿部は、天皇意志を踏まえ、親米の野村吉三郎海軍大将を外相に据え、欧州戦争に中立的態度を維持しようとしたが、僅か4ヶ月で総辞職した。次いで、15年1月、米内内閣が成立し、天皇意志をを受けて、三国軍事同盟に反対し続けた。しかし、15年5月にフランスがドイツに屈服して、陸軍とドイツがたくみに海軍説得工作を始めてきた。

 15年7月第二次近衛内閣が成立し、近衛首相は、前年の三国同盟は「『ソ』聯邦を対象としたる」ものだったが、今度のは「英米を対象とする点に於て根本的に性質が異るのである」とし、15年7月第二次内閣組閣の際には「国内に於ける反英米熱と日独伊三国同盟締結の要望が、正に沸騰点に達したる時であった」とする。そして、近衛は、三国同盟の「目標」は、@「アメリカの参戦を防止し戦禍の拡大を防ぐ」事、A「対ソ親善関係の確立」であるが、@Aついては「大に議論」があり、「締結直前の御前会議」で、米国は「反省するどころか、却て大に硬化」して「日米国交の調整は一層困難となり、遂には日米戦争不可避の形勢となるべし」という意見もでたとした。しかし、松岡外相は、対米関係悪化を防ぐ手段は「『スターマー』の言の如く唯毅然たる態度をとる」(「三国同盟について」[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、92頁])しかないと主張したぼであった。甘い独断であった。近衛はこの三国同盟のおかげで16年12月まで米国は対日戦争を控えたとするが、そうではあるまい。国民の厭戦動向、欧州と日本の二つに戦場をもつことの負担などが、米国に対日開戦を躊躇させていたのであろう。

 9月7日ドイツ外相リッペントロップの特使としてスターマーが来日した。スターマーは松岡洋右外相に、「いまさら日本の参戦をかれこれいわぬ。もし三国同盟ができたら、ソ連にはたらきかけ、日ソ親善関係にドイツは"正直な仲介人”の役をつとめる」、「日独が力を合わせて対ソ親善をはかり、その余勢をかって米国の参戦を防止し、日華事変をも解決しよう」(高木惣吉『太平洋戦争と陸海軍の抗争』経済往来社、1967年)と提案した。既に松岡外相はこの趣旨を吉田善吾海相に説いていた。天皇によれば、松岡は、「米国には国民の半数に及ぶ独乙種がいるから」「日独同盟を結んでも米国は立たぬ」と説き、「吉田は之を真に受け」「だまされた」としている。米国は三国同盟を牽制するべく、後述の通り軍備増強に着手してくると、吉田を苦境に追いやり、「心配の余り強度の神経衰弱にかかり」(『昭和天皇独白録』『文藝春秋』平成2年12月、111頁)辞任した。

 15年9月15日に海相に就任した及川古志郎としては、「前任の吉田が賛成した以上、賛成せざるを得なかった」(『昭和天皇独白録』)ように誘導されたようだ。及川海相は、「政党は解散」して「一路枢軸強化の新体制」に向かい、「欧州方面の情勢の急速な展開」もあり、「就任早々であり、問題の本質や従来の経緯について、十分な予備知識をもっていなかった」のである。この結果、9月6日、四相会談で、三国同盟に原則的同意を与えた(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、97頁)。だが、吉田は疑問を抱いて煩悶しており、賛成はしなくなっていたようだ。だが、松岡が及川海相に説明し、吉田も同意したとか述べた所、及川は、@ドイツは日本の欧州戦線参加を要望せず、日本以上にアメリカ参戦防止の決意であり、A同盟締結後も「参戦の決定は日本が自主的に行」い、B日ソ関係は「できるだけ友好的了解の増進につとめる」という日独了解事項を受け入れ、もはや海軍は三国同盟締結に「反対せる理由」を失ったのであった(及川供述[宮野澄『井上成美』142頁])。

 9月15日、「既に基本的には、同盟に反対しない態度」を表明してきた及川海相が、海軍首脳を「その線に統一」するために。海軍大臣官邸で三国同盟に対する会議を催した。海軍首脳部は、@「内心は反対ながら、政治の大勢が、これを是として推すところ、これに従わなければならないと考えた点では共通」であり、A海軍反対で内閣総辞職した場合、海軍には「政治的収拾の力」がなく、かつ三国同盟が必ずしも対米戦争になるものではないともしていた(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、104−8頁)。しかし、山本連合艦隊司令長官は、「私が次官を勤めていた当時の企画院の物動計画によれば、その八割までが英米勢力圏の資材でまかなわれることになっていたが、今回三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失うはずであるが、その不足を補うため、どういう物動計画の切り替えをやられたか」(宮野澄『井上成美』144頁)と質問した。しかし、及川はこれに具体的に答えることなく、「いろいろご意見もおありでしょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は三国同盟に御賛成ねがいたい」というだけであった。自動的参戦条項が削除されており、これ以上海軍としては反対する根拠がなかった。これで、陸軍に恩をきせて、海軍は予算が確保しやすくなるという生臭い理由もあったであろう。
 
 9月16日、臨時閣議は、「三国同盟を結ぶ以外、事態改善の見通しはない」ことを確認し、内奏した。天皇は、@「いろいろきいてみると、今日の場合已むを得まいと思ふ。アメリカに対して、もう打つ手がないといふならば致し方あるまい』が、A「海軍大学の図上作戦では、いつも対米戦争は負けるのが常である、といふことをきいたが、大丈夫だらうか」と疑念を表明した。天皇は「国力の事情を聞くため、大蔵大臣河田烈、企画院総裁星野直樹を召された」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、109頁)

 9月19日三国同盟に関して、大本営政府連絡会議、御前会議が開催された。伏見宮軍令部総長は、@「日米戦が生起した場合、長期戦となる公算が大きく国力持久の見通し、特に油の補充に関する政府の見解をただし」、総理は「軍需については、相当長期に耐えうる見込みである」と答え、A「油については、確実な取得の方法についての説明は得られず、軍令部総長は、平和的手段による蘭印からの購入を希望」した。枢密院議長原嘉道は、「三国同盟は、米国の対日圧迫をかえって強化させる一方、日本側に鉄・石油の取得に関する確実な方策がないことに不安を表明」した。伏見宮は、条件付(日米戦争回避、平和的な南方進出、排英米言動の規制、海軍戦備・軍備の強化)で賛成を表明した(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、111頁)。

 9月26日枢密院で可決され、9月27日ベルリン総統官邸で三国同盟が調印された。この時、近衛は、三国同盟はソ連と結び、「英米に対する我国の地歩を強固」にし、支那事変処理に有効のみならず、対英米戦をも回避するものなので、「三国同盟の締結は当時の国際情勢の下に於ては止むを得ない妥当の政策であった」とした。しかし、近衛は、独ソ戦開戦で日独ソ連繋が困難となり、16年夏には「危険なる政策」になったので、方向転換して「日米接近の必要」が生じたが、陸軍は「尚独乙との同盟に執着し、余の心血を濺(そそ)ぎたる日米交渉に対し種々の横槍的注文を発し、遂に太平洋の破局をもたらした」と、後悔することになった(「三国同盟について」[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、118頁])。

 一方、海軍病院入院中に三国同盟成立を知った吉田善吾前海相は、辞任後僅か3週間未満で海軍が承認するとは「陸軍、外務の一部策謀者の間に陰謀的計画を進められたるものならむ」(「吉田善吾手記」[宮野澄『井上成美』147頁])と疑っている。井上成美は支那方面艦隊参謀長として日本には不在だったし、まだ海軍首脳にはなっていなかったが、後に井上は、「独は不徳千万な侵略戦争をやっている連中であるという大事なことを考えもせぬ。のんきというか、おめでたい」(井上『思い出の記』続編[宮野澄『井上成美』145頁])と批判した。

 
 仮想敵国をめぐる陸軍・海軍 既述の通り、日露戦後、海軍の主要仮想敵国はほぼ一貫して米国であった。それに対して、陸軍では、露国を最大の仮想敵国として、米国・英国をそれに次ぐ仮想敵国と見ていた。以下、昭和12年以降の陸軍の仮想敵国と海軍との軋轢をみておこう。

 陸軍は、当時戦闘行為に従事していた支那を当面の敵としつつ、昭和12年作戦計画で、仮想敵国を米国、露国、支那、英国とする場合の作戦、及び前記二国以上を敵とする場合の作戦を立てている(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、昭和16年12月まで、朝雲新聞社、昭和13年、11頁)。昭和13年作戦計画で、直前に支那事変が起こり、臨機の計画を準備し、陸軍は、海軍と「従来の対一国作戦は実情に合しないので、支那に対する作戦中第三国が参戦する場合に二国作戦を基本として計画を立案するよう」に協議した。しかし、これは「一国作戦を基本とする」海軍主張とは合わず、13年3月30日、陸軍は参謀本部限りの案として、「支那に対する作戦中露国が参戦せる場合に就き記述す。支那及露国以外の国に対する作戦は概ね昭和12年度帝国陸軍作戦計画に拠る」として、暫定的な「昭和13年度帝国陸軍作戦計画」を立案した。しかし、支那事変が拡大し、短期終結の見込みがなくなり、「海軍も陸軍の意見に同調し」、昭和13年9月5日に「支那に対する作戦」中で露国、米国、英国一国、或いは二国余が参戦した場合の作戦計画を立案した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、11ー2頁)。

 昭和14年度帝国陸軍作戦計画(14年2月27日策定)では、前年度計画と同じものが策定され、昭和15年度帝国陸軍作戦計画(欧州戦争勃発3カ月後の14年12月14日允裁)では、前年度計画に仏が加えられ、「支那に対する作戦」中で露国、米国、英国・仏国、或いは二国から四国余が参戦した場合の作戦計画を立案した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、12頁)。このうち昭和15年度の陸軍の対露作戦計画を策定し、参謀総長は天皇にこれを上奏し、仮想敵国はロシアであり、極東では国境築城、兵力増強(平時30師団45万人、飛行機2千、戦時60師団、飛行機4千機)している。なお、付随的に昭和15年度の陸軍の対米作戦計画も策定されるが、@支那作戦を継続させつつ「東洋における米軍の根拠を覆滅」し、A海軍は陸軍と協同し、速やかにルソン島を攻略し、付近要地を占領し、B台湾軍はバタン群島の要地を占領し、C「壬支隊は海軍艦艇に搭乗し海軍に協力して」グァムを奇襲、占領するとし(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、17−19頁)、米国本土の上陸・占領の計画は一切なかった。

 米国の対日戦争計画  一方、米国では、ワシントン会議後、大正13(1924)年9月、オレンジ計画が「最終的」にまとめられ、昭和3(1928)年「若干の修正」が行なわれた。この間(1913−1920年)、「日本より中国に親近感を持つ」フランクリン・ルーズベルトは海軍次官(ウィルソン大統領)として、「日本が、米国にとって最大の敵であるとする米海軍の信念に同意」して、対日戦争計画に関わっていたのである。

 昭和8(1933)年3月7日、ルーズベルト大統領は、「ありうべき対日戦の構想につき、軍部と意見の交換を行な」い、「短期戦には不利でも、最終的には勝利を収めうる」ことを確信した。つまり、彼は、日本は、「最初、ハワイ及びアリューシャン方面の行動から、しだいに包囲網をしぼ」られ、「封鎖による飢餓」に追い詰められて、3−5年で屈服すると見ていた(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、105−6頁)。

 昭和7(1932)年満州国成立、昭和9(1934)年比島独立法案が成立すると、米国陸軍は、「西太平洋において、日本と戦う危険をおかすべきではなく、比島の防衛・救援、あるいはそれを奪回するための高価な作戦は、やめるべきであるという意見」を強め、海軍と激論となった。一方、日本海軍は、昭和10年度作戦計画の検討で、「米海軍の西方進出が、早急に行なわれたとき、比島攻略の余裕が得られるか否か、疑問」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、106頁)としており、比島をめぐる作戦で米国陸軍と、日本海軍との間で相反する予測がなされている。

 昭和10(1935)年春、米海軍は、太平洋海域において、リーブス大将指揮のもとに「マニラから琉球への進攻」を企てる大演習を実施」した。ここでは、米国海軍は、@第一段演習(サンディエゴから真珠湾に向かう)で「日本潜水艦のため重大な損害を受け」、A第二段作戦(マニラ[真珠湾をこれに見立てる]から琉球[ミッドウェーをこれに見立てる]進攻)において、「日本の潜水艦・駆逐艦、ついで優速を利用した主力艦の『T字型戦法』により一掃」されるとした。この結果、米海軍は、オレンジ計画を改正すべきとした。米国陸軍は、「フィリピンを防衛することができず、米国は、ハワイ、パナマ、アラスカの戦略的三角地域に退くべきである」と上申したが、海軍はフィリピン防衛を主張した。この時は、米国海軍・陸軍はかなり悲観的な見通しをたてて、対策に齟齬を見せていた。しかし、昭和13年、陸軍もフィリピン防衛に同意し、海軍との齟齬を是正した(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、106頁)。

 昭和13年2月、オレンジ計画は、昭和9年比島独立法案成立、昭和10年日支事変等の新情勢に応じ、新オレンジ計画となる。ここで、海軍は「20%の兵力増強」を要請していた。さらに、13年初め、アジア艦隊司令長官ヤーネル大将はル大統領に、「対日戦には、米国は、英・仏・露・蘭と協定し、世界の鉄・石炭・石油の90%を押え、日本を封鎖することにより絞め殺すことができる」旨の作戦構想を提出していた(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、294−5頁)。

 13年10月6日、グルー大使は「長文の抗議書」を日本に提出し、@日満間の外国貿易は「厳重な制限」があり、A日本の北支為替管理は米国貿易は「日本官憲の意のまま」になりかねず、B中国新政権の関税改正は「専断的で、日本のみを利し」、C北支における電信電話通信の独占的管理会社などは「米国市民から機会均等を剥奪」し、D在支米国市民は「日本官憲によって居住・往来・貿易等についても制限を受け」、E故に「日本は米国民の中国における差別待遇を撤廃すべき」とした。これに対して有田外相は、@「権益の日本独占の事実はなく、米国の権益は、十分に尊重してきた」が、A「軍事行動の都合上、時として支障を生ずることのあるのは了承されたし」と弁明したが、グルーは「忍耐にも限度がある」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、292−3頁)と反論した。

 13年11月、統合会議は計画委員会(会議を補佐)に、「日独伊が統合し、モンロー主義の破壊と日本の比島攻撃が同時に行なわれる場合にとるべき戦略過程の研究と見積り」の作成を命じた(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、102頁)。

 15年頃には、統合会議は太平洋横断攻勢作戦計画を策定した。ここでは、@「開戦初期フィリピンやグァムは日本軍によって攻略されるから、島伝いによる一連の水陸両用作戦によって、・・これを奪回」し、A単独対日戦の「オレンジ計画」とは別に、同盟国での対日戦の「レインボー計画」を策定し、B日本展開状況による3作戦(a日本が台湾以南に進出していない場合、米艦隊は主力をマニラ湾に進め、陸軍を西部太平洋地区に進出させ、日本の南進を阻止、b日本が台湾以南に進出し蘭印作戦を展開する場合、米国は極東部隊で反撃を行なう、c日本が蘭印を支配し、フィリピン攻略をする場合、「連合作戦の利は失われ、対日単独作戦」の出る)になるとされた(『米国陸軍公刊戦史』[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、19−20頁])。まだ、日本本土上陸作戦まで策定されてはいないが、太平洋横断攻勢作戦には日本本土攻略も想定せざるを得ぬものとなろう。

 三国同盟成立で、米国の対日方針は強硬化した。15年10月1日、グルー大使は、もはや日本は「過去に私が知っていた日本ではな」く、「力の表示と、必要ならばそれを行使する意図あることの表示だけが、合衆国の将来の安全とここに上げた成果の獲得に、効果的に貢献する」(『滞日十年』下巻、63−9頁)とした。15年11月スターク作戦部長は主要幹部に、@「米国の行動を西半球の防衛に限定する」、A「日本を第一目標とし、大西洋への関心を第二とする」、B「両戦場へ均等の勢力を維持する」、C「大西洋への強力な攻勢をとり、太平洋は防勢とする」を提示した。これに対して、陸軍は、大西洋への攻勢を第二にすることには反対であり、「戦争とならない限度において英国を支援すること」を主張した。12月21日、国務・陸軍・海軍各長官は大統領に、@「陸海軍の急速増強」し、A意図的な対日戦争は回避しつつも、B対日戦となった場合でも大西洋戦争を主とすることなどを進言し、統合会議に提出した(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、134頁)。

 米国は日本牽制のために中国の軍事的支援を積極化した。15年10月30日、米国は中国に対して1億ドル借款を行ない、100機の飛行機を引き渡し、航空士・航空術教官の中国渡航を許可した。11月3日ルーズベルト大統領が3選され、11月30日中国通貨の安定のため、重慶政府に対し、さらに5千万ドル借款が容認された(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、136頁)。

 16年初めには、英米幕僚会議(ABC)によってレインボー計画第五が「拡大整備」された。16年1月16日、大統領は、@ハワイ艦隊で太平洋での防勢を保持し、A米アジア艦隊司令長官はフィリピン基地保持如何、退却時の新基地の「専権的決定権」を保持し、B海軍は「日本都市の爆撃の可能性を考慮」し、C「海軍は英国への海上護衛を準備」し、D「陸軍は十分な準備が整うまでいかなる攻撃行動もとるべからず」、Eラテンアメリカをナチスドイツから護るために精鋭部隊を充当し、F英国への物資補給を継続することなどを命令した。16年1月29日ー3月27日、英米両国の幕僚会議開催し、「会議の成果」はル大統領、チ首相に提出した。報告書では、「太平洋艦隊の分担する任務としては、ハワイ、フィリピン、グァム、ウェーキ等を防衛するとともに、マレー方面に対する日本の圧力を排除し、かつ、日本の海上交通を破壊するため、マーシャル、カロリン諸島まで潜水艦作戦を行なう」とされた。ル大統領、チ首相は「正式には承認」しなかったが、関係者は「これを前提として諸計画を進め」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、136頁)た。米国は対日戦の具体化に着手したのである。


                                   F 南方作戦計画をめぐる陸軍・海軍 
 満州事変以後、「日本の安価な製品は、世界に販路を広げ、殊に蘭領東印度においては、日本からの輸入が、時には一位を占め、オランダ本国をしのぐ有様であり、輸出についても、常に4−5位を下らなかった」ので、蘭印当局は、「対日片貿易を防ぎ、対本国関係を緊密化すること」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、朝雲新聞社、昭和54年12頁)を課題としていた。そこで、昭和8年以来、日蘭両国は繰り返し会談を行ない、貿易不均衡を是正しようとし、12年4月9日、石沢・ハルト協定(蘭印物産の日本への輸出の増進、日本製品の輸入の適正化)を締結した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、12頁)。しかし、昭和14年度の貿易(日本から蘭印への輸出1億3780万円、蘭印から日本の輸出7160万円)は、蘭印の6620万の大幅輸入超過であった(『朝日新聞』昭和15年6月30日付社説[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、12頁])。14年秋欧州戦争勃発で、蘭印は「欧州方面への供給を優先的に行なう態勢」を整え、「石油・ゴム・屑鉄・錫など軍需用品」の輸出許可制をとった。「日米通商関係が不安定」なだけに、日本には対蘭印貿易の重要性が高まった。

  昭和15年春夏の米英の対日戦略 15年春 米国が太平洋で対日攻撃作戦をとることになっている「レインボー二」作戦の完成を急いだ。5月7日、太平洋艦隊は無期限にハワイに常駐し、6月17日、フランス敗退、英国敗勢のもとに、米国は対日「レインボー四」を策定し、「西半球全体の防衛に米軍部隊を使用」するので、「大西洋の情勢が米海軍の主力部隊を対日攻勢作戦に充当することを許すまで、太平洋方面においては戦略防衛を採る」とした。
  
 この日、陸軍戦争計画部長ストロング准将は、@「太平洋においては純然たる防勢的な立場を採る」事、A「西半球防衛のために、直ちに行動する」事などを提案した。同時に、この日、日本軍が真珠湾かパナマ運河を攻撃する可能性ががるという報道が伝えられ、マーシャル参謀総長は「ハワイとパナマ運河地帯の陸軍部隊」に警告を発した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、74−5頁)。しかし、ルーズベルト大統領は、「英国艦隊をドイツの手中に渡してはならない」という英国支援方針を打ち出した。

 こうした東西情勢を踏まえて、米国は、「近いうちに極東、おそらく蘭印またはフィリピンに対する日本の新しい進出に直面するかもしれないが、大西洋における一層大きな危険を考慮した場合、太平洋における作戦は最小限にとどめるべきである」と判断した。そして、米国は、「日本は独逸の勝利が明らかになるまで、米国または英国に対し、公然たる軍事行動には出ない」根拠があったので、「英国に対する援助の継続」、「日本との重大な敵対行動の危険を避けること」を行なった。このように、「世界情勢激変」の15年5−10月に、「日米ともにその衝突を回避」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、75頁)しようとした。というより、日本は終始、対米避戦であった。以下、この点を確認してみよう。

 海軍の蘭印政策 15年4月20日軍令部第三部は、「和蘭本国が中立を侵犯せらるる場合の蘭印対策」を作成した。そこでは、@「好機を捕捉して南方発展の素地を強化すべき」だが、「蘭印の処理のために、支那事変の処理に支障を来たすことのないように注意すべきこと」A米英が蘭印問題を機として、「帝国の存立を脅威」すれば、「対米(英)開戦の最悪の場合を決意」すること(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、14頁)とされた。

 15年4月14日、蘭印の帰属問題について、朝日新聞(15年4月14日付[(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、14頁)14頁])は、@「蘭印が英国の保護」ないし「管轄」となるか、A「蘭政府が蘭印に逃避する」か、B「蘭印が米の保護を依頼する」かなどの観測があると報じた。4月15日、閣議は蘭印方針を定め、有田外相は、「欧州の戦局が、オランダに波及して、蘭印の現状を変更するような事態となることは、東亜の平和と安定のため好もしからざるもとであり、日本として深甚なる関心を有する」((防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、14頁)14−5頁)と表明した。4月18日、外務省情報部長は、@「オランダ政府は、石射公使及びバブスト公使を通じ、日本政府の態度に謝意を表し」、A「オランダは他国の保護を求めた事実はなく、また、将来欧州戦局が、いかに進展しようとも依頼することは欲しない」旨を外務省に伝えたことを発表した((防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、14頁)16頁)。

 4月17日、ハル国務長官は、米国の蘭印方針について、@米国は蘭印資源に依存しているから、現状変更は「全太平洋地域の安定と平和に有害な影響を与える」事、A1908年日米交換文書で「太平洋地域における現状維持」を定めている事、B平和国家は条約変更の必要が生じた場合には「合法的方法」によることとし(昭和15年4月19日付朝日新聞[(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、15頁])、日本の蘭印への優越を牽制した。

 5月15日から21日、軍令部は、「日米戦争の場合の戦備、戦争の経過に伴う彼我戦力の推移、わが国の持久戦能力等を研究の目的とする図演」を実施した。その結果、軍令部は、@「日本の抗堪力は、おおむね一ヵ年半、甘くみても二ヵ年であるが、対米戦は持久戦となるおそれが大きく、開戦後一年で、兵力比は、十対五程度になる」と判定され、A「南方からの資源輸送の困難性、米国からの対日全面禁輸を受けた場合の対策」にも言及し、「四、五ヶ月以内に南方武力行使を行なわなければ主として燃料の関係上戦争遂行ができなくなる」とした。吉田海軍大臣は、軍令部からこの報告を受けて、「蘭印に於ける資源要地を占領するも、海上交通線の確保困難にして、資源を持ち来ること不能ならずや。然りとせば蘭印攻略は意味なきにあらずや」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、25頁)とした。

 5月30日には、グルー大使は、英国大使情報として、「蘭印の情勢に関連して、日本の海軍部隊がパラオに派遣されたこと、及び日本は蘭印に対し強力な経済的要求を行なうことを考慮中である」旨を報告した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、21頁)。

 陸軍の蘭印作戦・対米作戦希薄 参謀本部が初めて蘭印作戦を取り上げたのは、海軍より遅れ、15年5月下旬のことであった。5月10日に、独軍がオランダ首都ヘーグを占領し、独空軍は英国・仏国を空襲し、5月17日にはベルギーのブリュッセルを占領し、5月26日には英国遠征軍・同盟軍34万人がダンケルク周辺から英国本土への撤退を開始した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、16頁)。こうした欧州戦況の激変を踏まえて、陸軍も動き出したのである。

 この時に、陸軍省軍事課長岩畔豪雄大佐が参謀本部作戦課長岡田重一大佐に、「参謀本部は南方地域攻略のための作戦計画を作っているか」と尋ねたのであった。翌朝、岡田は作戦課参謀を集め、「南方を手に入れるべきか」をも議論した。5分2弱が南進論、5分3強が反対論であった。南進論者は、「南方地域をわが勢力下に収めて十分国力を充実したうえで、腰を入れて根本的に支那事変を解決すべきである」とした。しかし、反対論者は、「いかに苦しくとも百方手段を尽して支那事変を解決すべきである。これをいい加減にしておいて、新しい戦争をしようというのは、危険きわまる国力、兵力の分散である」とした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、47頁)。 

 一方、15年5月25日、有田外相は、バブスト駐日蘭公使に、鉱油100万トン(12年87万トン、13年67万トン、14年57万トン)、ボーキサイト20万トン、ニッケル鉱15万トン、屑鉄10万トンなど13資源の対日輸出の確約を迫った。6月6日、在ロンドンのオランダ政府は、「いずれも従来の実績以上」だとして、確約はさけた。5月30日、グルー大使は有田外相に、@ドイツ勝利しても「日本に安全や繁栄をもたらさないこと」、A米国と提携して貿易拡大し、福祉増大すべきことを提唱し、日本側の動きを牽制した。6月11日、バブスト公使はグルー大使に、「日本外務省は、海軍から、蘭印における新油田の開発権を得るよう要請されている」旨を伝えた(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、22−25頁)。

 15年6月18日、参謀本部の部長会議では、仏印問題で「慎重論が大勢を占めた」のであった。同日、四相(米内光政首相、畑俊六陸相、吉田善吾海相、有田八郎外相)会議で対仏印施策大綱が決定され、陸海軍大臣は、仏国に「援蒋行為に対する申し入れをし・・不承諾の場合には実力を行使する」とした。6月20日にアンリー大使は軍事専門家の仏印派遣を承認し、6月25日に西原一策陸軍少将が仏印派遣監視委員長に任命され、陸軍23人、海軍7人が派遣された(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、76頁)。

 7月3日、大本営陸軍部で「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定し、@「支那事変処理に関しては特に第三国の援蒋行為を絶滅する等凡ゆる手段を尽して速に重慶政権の屈服を策」し、A米国に対しては「我より求めて摩擦を多からしむるは之を避くるも 帝国の必要とする施策遂行に伴ふ自然的悪化は敢て之を辞せざるものと」し、B対南方武力行使は、「内外諸般の情勢」、とくに「支那事変処理の状況」、「欧州情勢」、「我戦争準備」などを考慮して実施するが、極力英国に限り、米国は避け、Cそのために、戦時態勢の強化、対米依存経済の脱却、国民精神高揚を実現するとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、48−50頁)。

 西原一策少将は特務機関長となり、7月5日、「日本政府に於て仏印の領土保全を認められるに於ては、仏印は日本と攻守同盟を締結し、蒋介石に対して協同戦線を張るの用意あり。すみやかに日本政府より提議されんことを望む」とした。7月9日、西原機関長はカトルー総督と会談し、「日本軍の駐兵」を打診したが、カトルーは「対英米関係にも種々の問題が生ずる」として反対した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、77頁)。7月27日、大本営政府連絡会議で時局処理要綱が採択され、「仏印に対しては援蒋行為遮断の徹底を期すると共に速に我軍の補給担任、軍隊通過及飛行場使用等を容認せしめ 且帝国の必要なる資源の獲得に努む。状況により武力を行使することあり」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、82頁)とされた。陸軍は、こうして7月から南方作戦準備を進めてきたが、「作戦的には南方総合作戦計画ないままに」、「主としてマレー作戦の準備を進め、戦争指導的には対米戦争を強く意識することなく南方要域の占領を計画」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、145−6頁)したのであった。

 海軍の要望・修正 15年7月4日、陸軍は海軍に時局処理要綱を説明した。まず、参謀本部第八課長白井茂樹大佐は、「立案の趣旨」として、英米ブロック経済に対応して、日本は英米依存経済から脱却するために、「先手を打って南方に地歩を固め」るべしとした。次に、参謀本部第二課長岡田重一大佐は、陸軍案の内容として、@「ソ連を打つために南方を確保」し、A支那事変処理未了のまま「南方問題の解決」に乗り出すとした。海軍はこれに賛同したが、軍令部第一部(戦争指導)大野竹二大佐は「支那を捨て南方を取ろうとするその限度と確信の程に疑問がある」とした。軍令部第一部長宇垣纏少将は、「南方が大事である」ことには同意するが、「支那事変を中途半端にごまかすのは、よろしくない」とした。陸軍は、「対英一戦を期待し、多分に英米可分の情勢を設想」し、米国を敵にすることを避けたが、英米は不可分なのである。だから、海軍は、「英米不可分を情勢判断の基調とし、対米長期戦には自信がなかった」のである。海軍は、「支那事変が終了すると否やとにかかわらず、対米戦争を堵するような南進はやらない腹構えであった」のである。陸軍も海軍も、大国米国を敵に廻すことを忌避する点では同じだった。7月9日までにこの趣旨で大本営海軍部案が決定され、陸軍参謀本部に提示され、この方針のもとに7月17日に陸海軍の成案を得た(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、51−2頁)。

 7月22日第二次近衛内閣の成立した。15年9月18日原田熊雄が高木惣吉大佐を通じて海軍次官豊田貞次郎に語った所では、@「陸軍が、近衛を「カツギ」だした趣意は、日独伊軍事同盟の成立と、右翼系刑余者を恩赦又は大赦によって解放すること」であり、A「近衛が新体制を言いだしたのは、国務と統帥との調和にあ」り、「統帥権の独立は尊重するが、その運用面では、総理にも発言権を認めさせ、実質上、国務の下に統帥を置くことを考慮した」のであった(高木少将資料「政界諸情報」1/2[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、49頁])。

 7月26日基本国策要綱(八紘一宇の建国精神で「大東亜の新秩序」を建設)が閣議決定され、8月1日公表された。8月1日松岡洋右外相が記者団に、「日本の外交方針は『皇道の大精神』にのっとり、まず『日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図る』ことにあり、その範囲は『仏印・蘭印その他を包含』して確立されるべき、自給自足の『東亜安定圏』のことだとの見解を記者団に示した」(栄沢幸二『「大東亜共栄圏」の思想』講談社、1995年、14頁)のであった。外相松岡は、「泥沼化した日中戦争の局面をヨーロッパ情勢を利用しつつ、南進によって打開しようとする雰囲気」の中で、従来の東亜新秩序(昭和13年11月3日、第一次近衛内閣は「帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を意味すべき新秩序の建設に在り」とする、東亜新秩序声明を発表)に代わって、この大東亜共栄圏という用語を初めて使用し、「日本の南方侵略を合理化」しようとした(小林英夫『大東亜共栄圏』岩波書店、1988年、18頁)。

 一方、水交社で陸軍首脳(澤田茂参謀次長、富永恭次参謀本部第一部長、阿南惟幾陸軍次官、武藤章軍務局長)と海軍首脳(近藤信竹軍令部次長、宇垣纏軍令部第一部長、住山徳太郎海軍次官、阿部勝雄軍務局長)が「時局処理要綱」について懇談した。陸軍が海軍に対米開戦の覚悟を尋ねると、海軍軍令部次長近藤は、「海軍がこれを引き受ける」とした。最後に、7月27日大本営政府連絡会議で国策として採択することを申し合わせた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、53頁)。

 海軍は、15年7月3日処理要綱の陸軍部分を修正して、7月27日大本営政府連絡会議で「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定した。海軍は、陸軍とは異なって、南進より支那事変解決を優先し、対英一国戦は対米戦に拡大すると見ていて、この観点で処理要綱を修正した。つまり、海軍は、@「支那事変処理に関しては特に第三国の援蒋行為を絶滅する等凡ゆる手段を尽して速に重慶政権の屈服を策す」(これは不変)、A米国に対しては「公正なる主張と厳然たる態度を持し」(ここは修正)「帝国の必要とする施策遂行に伴ふ自然的悪化は敢て之を辞せざるものとす」、B対南方武力行使は、に「支那事変処理の状況」のみを(ここを修正)考慮して実施するが、「対南方面問題解決の為 武力を行使することあり」と対米開戦の余地を残し、Cそのために、強力政治の実行などを行なうとするが、「対英米依存経済の脱却」は捨象された(58−9頁)。これを審議する過程で、松岡外相が「自分は絶好の機会には武力を用いざるべからず」とすると、近藤軍令部次長は、「第三国と事を構えることは、すなわち米国を対手とすることであって、海軍力が主となるものである。海軍としては武力に関する限り心配なし。但し長期持久の場合、国力がこれに応じ得るかが問題である」と答えた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、58−62頁)。海軍は対米戦争については、短期ならば勝利に自信があるとしたが、長期では国力に不安があるとしたのである。これが、当時の海軍の対米戦見通しである。15年9月14日、外相、陸相、参謀次長、海相、軍令部次長らの連絡会議でも、近藤軍令部次長が、@「海軍は対米の開戦準備完成して居らず来年4月になれば完成する・・速戦即決ならば勝利を得る見込がある」が、長期戦となると勝利は「非常に困難」となる事、A「アメリカはドンドン建艦をやり比率の差が今後益々大きくなり、日本到底追付かず、其意味からいえば今日戦争としては一番有利だ」(『杉山メモ』上、原書房、昭和42年、34−5頁[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、101頁])とした。こうした海軍の対米戦での長期不利・短期有利の判断が、以後ずっと海軍首脳を悩ませてゆく。

 このように、ここでは、「特に武力行使に関する問題は、今後の欧州戦局や支那事変など世界情勢の推移に伴い大きく変化する浮動性をもっていた」ので、海軍は「これを国策として決定的なものにすることに難色」を示した。海軍は、対英戦争、対米戦争を「辞せないような重大問題」を御前会議で決定するのは時期尚早とした。しかし、陸軍の富永第一部長は、「御前会議に付議しないとしても、直ちに上奏のうえ、允裁を仰ぐべき」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、62頁)とした。

 そこで、7月27日連絡会議を開いた。宇垣軍令部第一部長は部下に、「会議の雲行きはよくなかった。陸海両統帥部の気持ちがしっくりしておらぬ。陸軍側の国力に対する認識が不足している」と、陸海軍齟齬の現状を語った。東条陸相も吉田海相に、「本日の連絡会議では陸海軍に食い違いがあったようだが、今後はかかることのないように十分打ち合わせを行ない、意見を一致させておくよう部下に注意しておいた」と告げた。終了後、陸海軍の両統帥部長は天皇に、「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を上奏した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、63−4頁)。陸海軍で違いをもったまま、上奏したのである。天応はこの現状に懸念を抱いた。

 天皇の懸念 7月29日、天皇は両総長・次長にこの要綱に関して質問した。天皇は参謀総長に、「南進に際し、陸軍の現軍備計画を縮減できるか」と下問すると、総長は「縮減できませぬ」と答えた。

 天皇は、伏見宮軍令部総長に、「これで日米戦争となることも予期せられるが、海軍は日本海海戦のような成果を収め得る自信があるか」と下問すると、総長は、「海戦一般原則」(参謀本部・軍令部関係資料「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱に関する綴り」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、63頁])を答えるにとどまった。澤田参謀次長によると、総長は「海軍はそれほどの自信はありません」(大野竹二の回想[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、63頁])と答えたようだ。すると、天皇は、「海軍がこう云うが陸軍はどうか。参謀次長答えよ」と促した。近藤軍令部次長は、7月22日態度表明(海軍が引き受けるという)とは違って、「この要綱は独逸がどの程度の成果を収めるかが問題でありまして、独逸の対英作戦が成功した際にはこの案のように行なわれるものであります」と答えた。天皇は、「陸軍は好機があれば、その際は南方進出を図るという考えか」と尋ねた。陸軍側は「そのとおりでございます」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、63頁)と返答した。

 以上の質疑応答を通して、天皇は、「陸軍が遮二無二南方進出を行なうことを・・心配」して、侍従武官長蓮沼蕃にこの旨を伝えた。蓮沼は近藤軍令部次長を訪ねて、天皇の懸念を伝えた。すると、近藤は、「日本の国力は支那事変に投入されて余力が乏しい。自力で南方解決などは考えていない。あくまで他人の褌(独逸の優勢)で角力をとるつもりでおる」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、63頁)と答えた。
 
 こうして、参謀本部の南進積極論・松岡外相と海軍との間には「冷やかな対立」があったのである。

 米国経済圧迫と南方資源重視論 米国は、日米通商航海条約破棄(昭和15年1月26日に日米通商条約は失効)に続いて、「英国支援のために必要とする武器・軍需品の輸送を推進」し、「物資の日本への流出を制限し、あるいは停止」するために、7月2日国防法で、@武器・軍需品・戦争器材、A非常時戦略物資、B航空機部品・装置・付属品などを許可制にした。ただし、「日本が、自給自足の道を東亜共栄圏に求める」ことを懸念したハル国務長官・グルー駐日大使らの要請で、「日本が最も必要とする品目、石油及び屑鉄」は許可制対象から外していた。7月11日、グルー米国大使は有田外相に、ハル国務長官の日米通商方針(「日本が武力や威嚇によって、アジアに特殊権益を確保することをやめない限り、いかなる新たな通商協定をも結ぶ意思のないこと、日本が蘭印に要求している、重要生産物の最低量を取得する権利は、米国として認めがたいこと」)を伝え、「米国は、平素、蘭印とは日本以上の商品取引を行なっていたので(1937年の蘭印対米貿易は15.8%、対日11.6%)、蘭印に対しては、貿易上対等の権利を保有する」と主張した。グルー大使は、これで日本は対米態度を硬化させ、枢軸側においやることを懸念して、「米国が日本に対して、新経済協定を提案する」事を本国政府に具申した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、33−4頁)。しかし、本国政府はこのグルー具申を受け入れることはなかった。

 7月25日、米国政府は石油、屑鉄を輸出許可品目に追加し、ここに石油・屑鉄の禁輸は時間の問題となった。そこで、「南方資源を取得して米英依存経済から脱却し、自給自足態勢を整備すること」が、「自存自衛上不可欠の要請」となった。しかし、陸軍の南進論は「観念的、政治的」であり、あくまで対露作戦、支那事変対策が中心となるべきだったが、「時局処理要綱」にも制約されて、陸軍は南方処理にも着手しなければならぬとし、進攻地域を「北部仏印進駐、次いで対仏印、泰施策や南部仏印」と、拡大し始めた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、64−5頁)。
 
 15年8月15日、参謀本部は、まず瀬島龍三大尉の一案を手がかりとして「対南方総合帝国陸軍作戦計画」を立案した。ここでは、@「蘭印を占領するとともに、英帝国の主要なる根拠を覆滅し、長期にわたる戦争持久を容易に」し、「対米戦争は回避するに努めるが・・その準備に遺憾なきを期する」、A「蘭印と英国馬来の各要地を攻略する」、B「馬来作戦間好機においてビスマルク諸島(海軍根拠地トラックの側背擁護の地)の要地を攻略する」、C「対米戦争が避け得なくなれば、一軍をもってすみやかに比島を、また一支隊でグァム島を攻略する」、D「作戦の前提」として、「対ソ関係は良好で、おおむね関東軍の現兵力で安全を確保し得」、「支那事変に対しては長期持久態勢を採り、おおむね現戦面を維持」し、「海軍は米、英、蘭海軍に対し、これを撃破して近海の制空、制海権を確保し得る」こととであり、E「作戦の終末点」は「印度支那半島、馬来、蘭印、最大限の場合においても西太平洋地域」としされた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、67ー9頁)。

 8月16日、水交社で陸軍は「対南方総合帝国陸軍作戦計画」を示して海軍の意見を尋ねた。この陸軍案では敵を英蘭二国にしていたが、海軍はあくまで対英戦が対米戦と連動しているとして敵は蘭一国にするべきと主張した。海軍は、「独逸が英本土に上陸し、英国が大敗を喫するような場合には英蘭分離の可能性があり、そのような好機においてのみ蘭印を攻略する」という持論を繰り返した。海軍は、対米戦に自信がないので、英国を巻き込みたくなかったのである。参謀本部作戦課長の岡田大佐は、海軍と協議して、海軍に同調し、「蘭一国を立て前としてまず蘭印を攻略するが、英蘭分離不可能の場合には機を失せず 戦争相手を英国に拡大するという趣旨」に賛同した。しかし、陸軍省軍事課長岩畔大佐はこれに反対しており、陸軍では英国勢力打倒論が根強かった(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、70頁)。

 海軍の出師準備 既に15年8月2日、海相官邸で、海軍省・軍令部や艦政本部長・海軍航空本部長らは「出帥準備を発動した場合における艦船、兵器、器材の整備、人員、物資の充足などの見通しに関する説明並びに対策」に関して打ち合わせた。ここで、軍需局長御宿好中将が、石油禁輸の場合、2年目から原油400万トンが新規に必要となり、艦政本部長豊田副武は、輸入途絶すれば、現存物資の持続力は1年間であり、以後は「足も手も出ぬ」とした。航空本部長豊田貞次郎中将は、列国の航空機生産能力は、米1万機・英1.2万機、独4.2万機・伊0.4万機・日0.24万機と、日本は最下位とした(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、62−3頁)。この会議の終わりに、吉田善吾海相(佐賀)は、@「日本海軍は米国に対し一年しか戦い得ない。米国は持久戦に出るだろう。また日本が英国に対すれば対日封鎖をやるだろう」、A「国策の運用に関し、海軍は固い決意が必要である。ひきずられてはならない。陸軍に対して海軍の方針を明確に言わねばならぬ。腹を打ちあけ、釘をさして置くことが必要である。一年間の持久力で戦争に飛び込むのは無謀である」、B「英国に対する態度は軽率であってはならぬ」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、71−2頁)とした。

 8月6日、軍令部第一課長中沢佑大佐・同第四課長橋本象造大佐は軍令部に、上記会合の結論に基づき、「物動計画の改訂」とともに、陸軍への統制(@「陸軍の大量の石油買付けのため、米国が航空揮発油の輸出を禁止したこと」、A「憲兵が在日英人をスパイ容疑で検挙したこと」、B「海外からの船舶の引揚げを、船会社に慫慂したこと」で、「陸軍が、既に対英戦争に踏み切ったかのように見られる」事をおそれ、こういう行為の統制を求めたのである)を要請した。同日、近藤軍令部次長は沢田参謀次長にこの旨を申し入れた。この頃、近藤次長は沢田次長に、「対米戦争に自信はないと明言はしないが、長期戦がむずかしい、戦争はいやだ」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、64頁)と告げていた。
 
 8月15日、吉田海相は「不本意ながら出師準備第一着作業の実施」に同意した。8月24日、伏見宮軍令部総長は、「戦備を促進」するとともに、「支那事変対処の戦時編成を増強し、準備のおおむね完成する十一月中旬をもって、新編制(潜水艦部隊の第六艦隊を新編して連合艦隊に追加、航空戦隊3、水雷戦隊1、巡洋艦12、潜水母艦3、聨合航空隊3の増強)に移ること」を上奏した。そして、伏見宮は、@これが完成しても「本格的作戦には尚不十分」なので、「猥りに之が行使を企図致す次第では御座いませぬ」事、Aだからこの戦備が内外に「流布」されることは「大なる不利」なので、これは「大演習作業として取扱ひ度い」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、64頁)とした。しかし、「それに要する物資の取得ははなはだ困難」であった。軍令部研究では、「応急戦備を実行し、これを一年間維持するためには、石油200百万トン、鋼材80万トンを要するに対し、昭和15年度の物動配当額は、それぞれ114万トン及び51万トンにすぎない有様であった」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、139頁)のである。

 8月25日、吉田海相は阿部軍務局長に、「最近陸軍の動向は、南方問題(蘭印特使の要望、シンガポール攻略申入れ等)や国内問題等内外百般のことに狂奔的で、この趨勢は憂慮にたえない。海軍としてはこれに対応して国策の指導を誤らしめないよう努力する要ある」などを話すと、阿部は「然らば明日官邸にて首脳を集めるから、大臣より直接話していただきたい」(『元海軍大将吉田善吾談話収録』財団法人水交会、昭和31年[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、69−70頁])と進言した。

 8月26日、海軍当事者の会議で、吉田海相は、「陸海両統帥部の意見不一致」で「陸海両相の間に『時局処理要綱』の解釈上 意見のひらきがある」と指摘した。そこで、軍令部は「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱に関する覚」を作成し、翌日、参謀本部と打ち合わせをした。この時に示した海軍の基本的態度は、@「南方問題解決の主眼点」は「自給権の確立」「戦略態勢の強化」であり、それが「大東亜の建設」「支那事変の処理」に関わり、A「南方発展」は海軍持論であり、強い熱意をもつが、帝国国力を考慮すれば「平和的手段に依り目的を達成」することが上策であり、B「南方問題解決の為武力行使すべき時機」は、止むを得ない時機(米英の対日脅威が日本の物資取得・存立を脅かす場合)と好機(米の欧州参戦、英の敗勢明瞭となり、東洋での交戦余力が小さくなった場合)との二つがあり、C対米英戦争開始につおては、物資は「従来英米依存の態勢に在りし」故に「英米を向こうに廻して戦ふ場合の戦争持久力」が問題であり、「戦備の慎重を要すること」が緊要であり、D「蘭印施策の主眼とする所は、物資を確保する」ことなので、対英米開戦は「成し得る限り」避けるが、E対米開戦の場合、速戦主義なら勝てるが、持久戦では自信がないので、「此の為に外交、国内諸般の情勢を速に確立すべきを要」し、F「米の軍備拡張」に対応するために、「成し得る限り速に国家の総力を挙げて軍備の拡充に邁進」し、Gこのままでは軍備拡張する米国に「戦はずして屈」するので、今後は「国家の力を対米軍備に集中」し、Hこの時期に対南方武力行使すれば「英米等を刺戟」し英米軍備増強を促すから、「極めて慎重なる考慮」が必要であり、I日独伊提携強化は「主義としては賛成」だが、「帝国は巍然として独自の世界観に基き進退し、苟も焦燥媚態あるべからず」(67−9頁)とした。三国同盟にについては、海軍はまだ消極的であり、「政策を原則論の立場から転換せしめるほどの強力な意志統一はなされなかった」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、70頁)のである。海軍には持久戦力はなく、国力を対米戦に集中すべきとはしたが、具体的戦略・作戦は欠落していた。

 8月27日、吉田海相の提唱で、海軍首脳の南方作戦に関する打ち合わせを行なった。吉田は、@「東条陸相との会談において、『時局処理要綱』の解釈について陸海軍の間に大幅の差異があることが判明」し、A「陸軍は政策指導の考えが強く、越軌の行動をなす傾向がある。このまま放置していたならば国家としてゆゆしい大事に立ち至るかも知れない。急速に処置する必要がある。なお日独伊の政治的結束は米国を刺激するだろう」とした。吉田は軍令部事務当局に、時局処理要綱の解釈に関する陸海軍相違は、「軍令部と参謀本部との間の意見不一致にも起因」しているので、「両統帥部間で更に話し合いを行なうよう」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、71−2頁)に要望した。

 8月28日、軍令部事務当局は、覚書を参謀本部に申し入れた。ここでは、@「対南武力行使」の余儀ない場合と、米が全面的禁輸断行し、或いは米英圧迫が「太平洋の現状変更」する場合があり、A時局処理要綱の精神は「支那事変の解決と南方問題の解決とを共に重視」するなどとした。9月11日、参謀本部事務当局は軍令部事務当局に、「覚書的なものを交換する必要はない」と回答し、@「蘭印を攻略するときは英領馬来を覆滅」し、A「支那事変が不幸にして長期化するような場合には南方にチャンスを求むべ」しとした。8月29日、吉田海相の提唱で、海軍首脳の「南方に対する懇談」会を開催したが、「重要案件には触れなかった」のである。結局、北部仏印、南部仏印などについて、陸海軍は一致することはなかった(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、72−3頁)。

 9月16日、豊田海軍次官は星野企画院総裁・河田蔵相に、「海軍軍備を優先する必要がある」旨を説いた。9月19日、伏見宮軍令部総長は御前会議で、「同主旨」を発言した。9月26日、及川海相は閣議に「海軍出師準備急速整備に必要なる経費、物資、労力の確保充当並に工業其の他各種施設の利用に関する件請議」を提出した。東条陸相は「陸軍新軍備に大なる支障を及ぼさざる限りに於て海軍軍備を優先的に行ふ」と、条件付でこれを承認した。10月8日、海軍省は出師準備第一着作業の予算粗案を作成したが、陸軍省・大蔵省との交渉は難航した。11月15日、及川海相は計画倒れになることを懸念して、背水の陣で「出師準備実施に関する上表」を行なった。海軍省は、軍務局から出師準備、軍需工業動員及び運輸・港務・通信などの部局を分離して、新に兵備局を設置した。12月10日、3−4半期の物動計画の改定が閣議決定され、12月27日には4−4半期の物動計画の改定が閣議決定された。12月12日、海軍は、「三国条約に依り転換せられたる国策に基づく海軍国防政策を活発に遂行する為 常務機関の事務連絡及相互支援に資すべき中枢機関」として、軍務局・兵備局・軍令部の課長以上をもって「海軍国防政策委員会」(委員長は軍務局長、@第一委員[軍務局第一課長・同第二課長・軍令部第一課長、同第一部甲部員]は「戦争指導の方針的事項」担当、A第二委員は「国防政策遂行上の経費や物資」担当、B第三委員は「国防政策の基礎となる研究」担当、C第四委員は「情報」担当)設置の及川海相決済を得た(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、139−141頁)。日米長期戦は無理としつつも、開戦決定ではないが、出師準備がこうして着々なされていったのである。

 仏印問題をめぐる陸軍・海軍とフランス 陸軍内部には、仏印問題には@参謀本部第一部長、作戦課は、「仏印問題を解決するためには仏印に進駐しなければならない」と主張し、参謀本部首脳、第二部長、陸軍省は、「威圧を加えつつ協力協定を成立させ、平和的進駐を行なおう」と主張した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、82−3頁)。

 8月1日、松岡洋右外相はアンリー仏大使に、「仏印が東亜新秩序建設及び支那事変の処理促進のため、政治的、軍事的ならびに経済的に、さらに広汎な協力に同意するよう」にと申し入れ、原則同意だが、他の列強との関係もあって受容しがたいとした(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、74頁)。8月7日、グルー米大使は日本に、これに抗議した。次いで、8月15日、アンリー大使は本国政府回答として、「日本政府が印度支那に対する仏国の主権とその領土保全を正式に承認せよ」としてきた。日本側は、「主権及び領土保全を尊重することを確約」したが、フランス側は、「日本の威圧に屈したとの感を与えぬように条文を要求」した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、84−5頁)。8月25日、アンリー大使は外務次官心得大橋忠一に「日本側要求を事実上承認し、軍事的事項については・・現地交渉を行なうことを約束」(「仏領問題経緯」其の二[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、75頁])した。8月26日、ハル国務長官は仏ヴィシー政府に、「そのような屈服を信じがたい」と抗議した。仏政府は、「日本軍は通過するだけであって、仏印を軍事占領するものではない」("Hull Memo"T、 p.903)と答えた。8月30日松岡・アンリー協定が締結され、「軍隊通過、飛行場使用」が認められた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、84−5頁)。

 15年9月2日、参謀総長の名で現地指導権をもつ参謀本部第一部長富永恭次少将は、「速に北部仏領印度支那攻略の準備を完了すべし」と発令した。しかし、9月3日、陸海両統帥部次長は西原少将(西原機関長)に、「兵力進駐に関しては大命に依るものなるに付 為念」(87頁)と、武力発動を牽制した。9月4日、「西原・マルタン(在印度支那の仏陸軍司令官)協定」が調印され、「日本軍の行動区域をルージュ河以北の地域に制限」した。9月5日、大本営は、「平和進駐の大命」を発した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、86−8頁)。

 しかし、9月5日陸軍の越境事件がおこり、「仏印にある英・米・支各外交官の支援または牽制」でマルタンは現地交渉中止を申し出た。8月30日、9月4日、海軍は仏印進駐を「東京及び現地における取決めに従い、平和的に行なうこと」を主張した(77頁)。しかし、9月13日、陸海軍第一部長、軍務局長は、@「越境については遺憾」だが、「根本原因が仏印側の遷延策にあることを抗議」し、A大橋・アンリー約言に基づき、9月22日以降友好的に進駐し、仏印軍が抵抗すれば武力を行使する事などを通告するとした(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、76ー7頁)。しかし、9月14日天皇は北部仏印進駐を裁可しなかったが、木戸内大臣が「徒に遷延せば英米の策動は益々熾烈」となるから、裁可されたいと助言して(『木戸幸一日記』下巻、15年9月14日)、天皇は「過早な発砲を禁ずるよう」と注文をつけて許した(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、77頁)。

 9月23日、仏印国境で日仏両軍が衝突し、25日フランス軍が降服した。西村兵団は23日以来、「上陸ー中止ー上陸ー中止ー上陸と繰り返し、部隊の精神は半ば混乱状態」に陥った。一方、海軍中央部は、「仏印軍が武力抵抗の場合にも海軍は協力を見合すという処置を採った」のである。これは「陸海軍協同作戦史上かつて例を見ない」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、79−80頁)ものであった。9月29日、仏印派遣機関長の更迭が行なわれ、西原少将の後任には澄田?四郎陸軍少将が発令された。北部仏印進駐混乱の責を負って、富永第一部長、岡田作戦課長、高月、荒尾両中佐が更迭され、10月3日には参謀総長が更迭された(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、102−7頁)。

 10月7日、水交社で、陸海軍統帥部はこの進駐を協議して、佐藤賢了南支那方面軍参謀副長は、護衛隊引上げは「武士道から見て海軍としてどう考えられるか」と詰問した。海軍は、「若し仏印側が攻撃して来れば、何時でもこれに応ずる用意はひそかに整えていた」と釈明した。陸軍側は、「指揮の統一、ないし参謀本部と軍令部の合体論」を提起したが、海軍は反対した(『陸軍開戦経緯』2、150頁[80頁])。既にこの時期に、仏印を巡って陸海軍の不一致が現実に生じており、陸軍から参謀本部・軍令部の統一論が提起されていたことは留意されよう。

 「支那事変処理要綱」 15年11月13日、御前会議で「支那事変処理要綱」が決定された。第一項で、昭和15年末までに「政戦両略の凡有手段を尽して極力重慶政権の抗戦意思を衰滅せしめ 速に之か屈伏せしめ速に之か屈伏を図る」こととした。第二項で、「昭和15年末に至るも重慶政権との間に和平成立せざるに於ては情勢の如何に拘らず 長期戦方略への転移を敢行し 飽く迄も重慶政権の屈伏を期す」とした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、200頁)。

 11月14日、参謀総長はこれを支那派遣軍総参謀長と南支那方面軍参謀長に伝達し、これに基づいて「具体的研究を行なうこと」を指示した。ここで、南方問題処理が捨象されたのは、海軍が「南方処理は結局対米戦となる」とみていたからである。11月20日頃から、参謀本部第一部は、「大東亜(支那事変、南方問題、北方問題)長期戦争指導」の構想をもっていた。12月15日、参謀本部第一部第二課主任井本熊男少佐は田中新一部長に「大東亜持久戦争指導要綱」、「対支持久作戦指導要綱」を提出した。12月26日、東条陸相、杉山総長は、すみやかな「支那事変解決」のために「南方のみを考えず、支那と北方問題を主とする」ことを申し合わせている(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、200−9頁)。

 海軍の南方作戦に対する見解 15年11月26−28日、海軍大学校において、山本五十六連合艦隊司令長官が統裁官とし、「蘭印攻略作戦から始まって対米英戦に発展する」状況に関する図演が行なわれた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、141頁)。

 軍令部の作戦構想の基調は、「多年にわたって研究された主敵対米一国作戦の場合の年度作戦計画に準拠する西部太平洋の制海権確保と、米主力艦隊来攻に対する邀撃作戦とを主軸とし、これに長期持久態勢確立のため、南方資源要域攻略作戦を加えたもの」であった。当時、陸軍は「太平洋作戦の研究が日浅く、且つわが海軍の実力を過大に胸算していた」。図演終了後に、山本長官は伏見宮軍令部総長に、「米の戦備が余程後れ又英の対独作戦が著しく不利ならざるり蘭印作戦に着手すれば早期対米開戦必至となり、英は追随し結局蘭印作戦半途に於て対蘭、米、英 数カ国作戦に発展するの算 極めて大なる故に 尠くも其覚悟と充分なる戦備とを以てするに非れば南方作戦に着手すべからず」とした。そして、「右の如き情況を覚悟して尚ほ開戦の已むなしとすれば 寧ろ最初より対米作戦を決意し 比島攻略を先にし 以て作戦線の短縮、作戦実施の確実を図るに如かず」とした。元来、「蘭印作戦は其資源獲得にあり、之を平和手段にて解決し得ざるは 米英の『バック』あれば也。若し米英が到底立たずと見れば 蘭印は我要求に聴従する筈なり。故に蘭印との開戦已むなき情勢となるは 即ち米英蘭数カ国作戦となるべきは当然也」とした。さらに、対米開戦となった場合、「海軍は全力邀撃作戦に指向を要する」ので、陸軍は、「対蘭印作戦の外 対英米作戦に於ても 作戦地 上陸後は海軍の助力を待たず 独力四囲の敵航空兵力に対抗し 出来得れば 之を圧倒し得ること」とした。また、「蘭印作戦は即ち対米英作戦の公算 大に付 彼の資源収得を早期に当て込むが如き物動計画は極めて危険なり」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、142−4頁)とした。

 この図演では、兵力は「尚不足」し、飛行機、潜水艦が「相当不足」した(143頁)。最後に、南方作戦は、「国運を賭しての戦争」となり、「頗る長期戦となる」ので、「用兵の大義名分」を明かし、「作戦目的及手段を簡明直截」にし、「陸軍は精選し中央協定は明確」にするように留意すべきとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、143−4頁)。

 15年11月及川海相宛山本「戦備意見書」、及びその要旨たる16年1月7日山本「戦備に関する覚」によると、山本五十六長官は、@対米戦は必至である事(「海軍特に聨合艦隊としては対米英必戦を覚悟して戦備に訓練に将又作戦計画に邁進すべき時機に到達せる物と信ず」)、A戦備充足・航空兵力増強が必要である事(「戦備に関しては茲に聨合艦隊の意向を中央に移しあれば、夫々全力を挙げて之か整備に努力せられつつあるものと信ず」と、非常に弱い指摘となっている。さらに「不敗の態勢を維持するに必要欠くべからざる」航空兵力についても、「機材と人員とを問はず 之で満足とは決して行かぬ筈に付 あらゆる機会に之が増産方を激励促進あり度」と要望するだけである)、B短期決戦方針(図演結果は「ヂリ貧」で「懸念せらるる情勢」となるが、「一旦開戦と決したる以上 如此経過は断じて之を避くる可からず」であり、「開戦劈頭敵主力艦隊を猛爆撃破して米国海軍及米国民をして救ふべからざる程度に其の志気を沮喪せしむること」が「第一に遂行」すべきこと)、C真珠湾攻撃論(開戦劈頭にとるべきことは、「勝敗を第一日に於て決するの覚悟」で真珠湾の敵主力を「徹底的に撃破」)、Dフィリピン・シンガポール作戦は真珠湾作戦と「概ね日を同じくして決行」する事等を主張していた(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、144−6頁)。真珠湾作戦は、長期戦不利なので、短期決戦で勝敗を決する作戦として提起されている。しかし、ハワイ奇襲作戦の勝利で日米戦争の決着がつくなどと考えたとすれば、戦争の勝敗を見通せない「冒険主義者」の「戯言」以外の何物でもない。戦争の「プロ」だからこそ大局を見れずに、誤判断をしたともいえる。

 15年12月10日付島田支那方面艦隊司令長官宛山本私信(「山本、古賀両元帥書簡」其の一[141−4頁])においても、山本五十六は、@対米戦覚悟が必至である事(「A(アメリカ)の戦備が余程後れ又E(イギリス)の対独作戦が著しく不利ならざる限り、H(蘭印)作戦に着手すれば早期対A開戦必至となり、E亦追随し結局H作戦半途に於て、対H、A、E数ヶ国作戦に発展するの算極めて大なる故、少くも其覚悟とを以てするに非ざれば対南方作戦に着手すべからず」)、A対米短期決戦策の策定が必要である事(「資源獲得」を目的とするH作戦で「開戦の已むなしとすれば、寧ろ最初より対A作戦を決意し、比島攻略を先にし以て作戦線の短期作戦実施の確実を図るに如かず」)、B「今次図演は各兵力を100%に使用し尚不足を感ず、実戦には一層なり、飛行機及び潜(水艦)は特に相当不足なり」、C南方作戦は「支那作戦等と異り、真に興廃の岐るる処、国運を賭しての戦争となり且頗る長期戦となるべきを以て」、「用兵の大義名分」の明確化、陸軍との「中央協定」に「疑義」なき事が必要とした。要するに、「蘭印に石油を求める」には、「対英米攻撃を先行するほかない」ということであった(戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、142−4頁)。山本が、対米長期戦は不利なので、対米短期戦で決着することを主張したいたことを考慮すれば、対米戦を随伴する南方長期作戦を抱え込むことは到底国力の限度を越えたものであり、「用兵の大義名分」の明確化、陸軍との「中央協定」に「疑義」なき事などで対処できるものではなかったのである。

 陸軍の対米戦 陸軍としては「対米作戦の計画準備は進めていたが、それは予備的な構想からで、最初から本格的に対米戦争に取り組むという気構えのもの」ではなく、南方作戦準備は「以上のような主要戦争相手国に対する浮動の要素を含みながら進められていった」のである。従って、それは戦争計画に基づかない作戦準備であった。だから、陸軍は、対米戦争を意識することなく、南方作戦を独自にたてていった。参謀本部作戦班長服部卓四郎中佐(15年10月10日着任)は、「参謀本部としての蘭印の石油を獲得するのを主なる目的とする南方処理の綜合的企画」を課題としていた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、144頁)。

 11月27日、参謀本部戦争指導班の種村佐孝少佐は種村に、「支那事変処理要綱上奏の際、南方問題に関しては、なるべくすみやかなる時機に解決案を検討のうえ、上奏致す旨を申上げている。この処理に関して切り出してもらいたい」と要望した。服部は、「方策の決定は後にして、まず南方武力行使の準備をしてはどうか」と提案した。種村は、海軍とは異なる陸軍独自の南方作戦を主張、「支那事変処理要綱起案に当たり、南方武力行使を決意すべきを前提としたが、海軍側の反対により、本要綱から南方処理に関する根本方針を決意しなければならない」(1『戦史叢書 大本営陸軍部』2、45頁)とした。そこで、服部は、陸軍省に蘭印、泰施策、航空基地などを説明することを提案し、了解を得た。

 12月4日、9日、種村らは陸軍省に説明すると、陸軍省軍務局は「泰、仏印に対し武力を行使して作戦基地を設定する決意を定めることは不可能だが、陸軍独自でなし得る限度の準備を進めることには同意する」と回答した。ここに、南方問題は、海軍抜きで「陸軍独自の考えで進め」ることになった。一方、海軍も独自に考えを進め、11月15日に出師準備第一作業を発動した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、145頁)。

 16年1月16日、大本営陸軍部会議(陸軍省と参謀本部の会議)で、大東亜長期戦争指導要綱と対支長期作戦指導計画を採択した。杉山参謀総長が提案理由を述べ、田中第一部長が説明し、陸軍省の意見に基づいて修正したとした。陸軍の大勢は「依然英米可分の考えをもっており」、田中部長は、@日米戦争開戦の危険は「相当大なる」ものだが、「昭和16年内に本格的戦争に入るものとは想定して」おらず、A南方作戦は5カ月で「一応概成」し、その後に「北方へ兵力を転用でき」、Bソ連は対日戦準備に3,4カ月かかり、「二正面作戦の準備はできていない」ので、南方作戦を開始しても、「政略上の運用に誤りがなければ、北方ソ連の出方に対処」でき、C日満支を「骨幹」とする大東亜共栄圏は、「第一段階として仏印、泰を共栄圏内に編入」し、徐々に拡大するとした。しかし、これは、「戦争指導力の弱体、陸海軍の対立」から国策として御前会議で決定することはなく、あくまで「陸軍部内の『覚』」に過ぎなかった(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、207−8頁)。

 一方、対支長期作戦指導計画では、16年秋までに「支那事変の一決」を図るとしつつ、それで解決しない場合、「16年秋以降長期持久戦態勢に転移し、数年後において在支50万体制を確立」するとした。1月18日、杉山はこれを上奏し、裁可を得た(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、209−210頁)。

 こうして、日米開戦の前提ともいうべき、支那事変対策、仏印進駐の作戦に既に陸軍と海軍との間に相違が見られたのであった。


                                       E 航空機をめぐる陸海軍相関

                                      @ 日本海軍航空の展開 

 航空攻撃機の研究 海軍の航空研究提言は明治42年から見られた。明治42年山本英輔少佐は、「欧米各国の陸海軍は、これ(航空機)が戦力化を目指して力を注いでいる」事態を視察して、海軍中央当局に、「わが海軍も速やかに研究に着手すべきである」と建言した。42年7月陸海軍は「臨時軍用気球研究会」設置して、「軍事の要求に適する気球及飛行機を設計試作」(1頁)をしはじめた。45年6月には、「海上作戦に適する飛行機を重視する海軍」は、「気球を重視する傾向が強い陸軍」に同調できず、研究予算配分問題を理由に、新たに「海軍航空術研究委員会」を設置し、「海上作戦に適する飛行機を重点として、その実用化を急」ぎ、横須賀軍港内の追浜に水上機飛行場をもうけた(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍航空概史』朝雲新聞社、昭和51年、1−2頁)。
 
 大正3年9月5日から11月7日、「まだ爆弾や爆撃照準器はなく」、「手製の照準機で照準して、爆弾をつるした索をナイフで切って投下」する初歩的レベルで、のべ50機が、青島「港内及び陸上の偵察、爆撃を行い、飛行機ならではの戦果をあげ、大いに作戦に寄与」(『戦史叢書 海軍航空概史』3頁)した。一方、「陸軍も飛行機5機、係留気球1個を参加させ、9月21日から作戦を開始し、延べ76機が飛行」(『戦史叢書 海軍航空概史』4頁)した。

 この戦績により、「飛行機の用兵的価値が一般に認識」(『戦史叢書 海軍航空概史』4頁)され、大正3年中島知久平機関大尉は「大正三年度航空術研究費予算配分に関する希望」において、「将来飛行機が海軍の主兵となる」と提唱し、戦艦主兵主義を否定した。だが、まだ飛行機は幼稚であり、これは却下された(『戦史叢書 海軍航空概史』47頁)。つまり、「海軍が主戦場とする広大な海洋上において、果たしてどの程度航空機が戦力を発揮できるようになるかは、まだ未知数」であった。また「技術の進歩はまだ不十分であり、洋上作戦に十分協力できる航続力のある飛行機は出現するに至らなかった」のである。そういう中、「英海軍は、最も有効な手段として航空母艦に着目し、旧式艦を空母に改装し始めたが、ついに戦争終結までには完成しなかった」(『戦史叢書 海軍航空概史』4頁)が、大正4年、日本海軍は、この英国海軍空母に関心を持ち、空母の研究を開始した。

 海軍は、空母のみならず、「これに搭載する艦上機にも着目し始め」(『戦史叢書 海軍航空概史』18頁)た。大正4年中島知久平機関大尉(海機15期)は「ベンツ130馬力を装備した二座水偵を試作」したが、失敗した(『戦史叢書 海軍航空概史』17頁)。大正5年 飛行隊3隊で、「航空」を一兵種として軍備計画に加え、(横須賀に)航空隊を開設」した。第一次大戦後の7年には、馬越喜七大尉はイスパノ200馬力装備の二座水偵を試作し、兵器に採用され、以後7年間で280機が製造された(『戦史叢書 海軍航空概史』17頁)。この7年には飛行隊8隊が結成され、9年には17隊に拡大(4頁)し、「海戦要務令」に初めて航空隊戦闘項目(@敵情偵察、A敵主力及び空母攻撃、B敵航空兵力撃攘、C敵潜捜索攻撃、D主隊の前路警戒、魚雷、機雷等監視、E敵の運動監視、射撃効果発揚協力、F支隊に協力)を加えた(『戦史叢書 海軍航空概史』25頁)。

 こうして空母、艦載飛行機の研究が始まったが、第一次世界大戦中にはまだ「戦場のアクセサリー」に過ぎなかった。だが、艦爆実験で「軍艦を沈める威力」が確認される、大正7年に日本海軍は「航空母艦の建造計画を決定」し、「世界に先駆け」空母鳳翔を建造した(中田整一解説[『淵田美津雄自叙伝』講談社文庫、2010年、76頁])。大正8年最初の空母鳳翔を起工、9年翔鶴ほか一隻の建造を計画した。鳳翔は種々改善して、14年に使用可能になった(『戦史叢書 海軍航空概史』5頁)。

 空軍独立問題 英国では、大正5年、「航空行政を統合する航空省を新設」し、7年に空軍独立し、以後、「欧州では空軍独立を行う国が増して」(『戦史叢書 海軍航空概史』73頁)きた。

 大正9年9月、陸軍大臣が海軍大臣に、「空軍独立又は陸海軍航空戦力統合発揮について、陸海軍の協同研究を申し入れ」た。10月、「陸海軍航空委員会」設立され、「空軍組織の利害」も研究された。海軍は、@「わが国は、欧州と戦略態勢が大きく異なっており、海軍の主作戦場は太平洋上であり、陸軍は大陸方面で、両者の間には航空機に要求する性能に大きな相違がある」、A「空軍統一は数の整備については大きな利点が認められるが、まだ海軍作戦に応じうる航続力の大きな航空機も開発できておらず、兵力も所要数をはるかに下回っているから、これが警備が緊急第一であるとし、空軍独立、統合は時期尚早を唱え」、B「英国が陸海軍機の要求性能にわが国ほど差のないのに、空軍が独立したため、海軍が苦しんでいる」とした。一方、陸軍も「時期尚早の意見が強」(『戦史叢書 海軍航空概史』73頁)かった。

 大正11年、陸海軍大臣は、「空軍独立不承認の覚書」を交換し、空軍独立を見送った(『戦史叢書 海軍航空概史』74頁)。

 センピル・ミッションと海軍航空展開 一方、艦載機については、大正8年陸軍は仏国からフォール・ミッションを招いて講習を受け、海軍の一部もこれに参加し、10年海軍は英国からミッション(団長センピル大佐)を招いた。センピルは、第一次大戦の殊勲で28歳で大佐になった「英空軍の至宝」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』光人社、1997年、44頁)であった。

 センピル・ミッション(Sempill Mission)は、広範な航空部門を網羅した本格的なもので、水上機しか持たなかった海軍航空部門には艦上機は新鮮な驚きであった。つまり、それは、@副長メーヤス中佐、飛行部長兼操縦主任ファウラー少佐、兵器部長ユルドリッジ少佐、整備主任アトキンソン少佐、飛行艇主任ブラックレー少佐、水上機主任ブライアン大尉、落下傘主任オードリース少佐ら豊富な教官団からなり、A「アブロ式陸上練習機、グロスター式スパロー・ホーク型艦上戦闘機、バーナル式パンサー型艦上偵察機、ブラックバーン式スイフト型・ソッピース式クックー型艦上雷撃機、ヴィッカース式ヴァイキング型・スーパーマリン式シール型水陸両用艇、ショート式F5号型飛行艇など最新飛行機を持ち込んだのであった(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』45頁)。これに対応して、日本海軍は、臨時海軍航空術講習部(部長は田尻唯二少将、講習員は大尉9人、准士官6人ら)を編成した(同上書45頁)。

 霞ヶ浦では「艦上機の操縦と射撃、写真偵察、爆撃、雷撃、気象研究が指導」され、横須賀航空隊では「水上機の操縦と飛行船と気球の講習」がなされた(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』45−6頁)。センピル少佐の訓練は厳しく、「まだ幼稚であったわが子のように教育した」のである。英国教官は、「宙返り反転する戦法」、「機関銃で舞い飛ぶ標的を撃墜する」戦法、「艦上機が急降下して浮標を雷撃する法」、「照準爆撃などの高等飛行術」などを伝習させ、「小学生」レベルの海軍航空隊を「高校卒業程度」にまで成長させ、「『飛ぶこと』だけが目的であったわが飛行将兵の訓練」を「『戦うこと』に一転」させたのであった(同上書48−9頁)。

 こうして、センピル・ミッションは、各種航空術、整備術、航空用兵など「臨時海軍航空術講習」を実施し、「航空部隊戦力化の基礎」を伝え、日本海軍航空はこの講習で「揺籃期を脱して」、以後の「躍進の第一歩を固め得た」(『戦史叢書 海軍航空概史』5頁)のであった。大正12年6月、「初めて航空訓練に関する規則を制定」(『戦史叢書 海軍航空概史』13頁)し、「センピル・ミッションの来日により、海軍は技術、術科、用兵に関し、最新の知識を得」て、「海軍航空は、いよいよ偵察の域を脱して攻撃にも使用しうる段階に達した」(『戦史叢書 海軍航空概史』26頁)のであった。

 第一次大戦後、各国は「廃艦を利用して爆弾の対艦船威力を確認する実験」を行ない、「航空万能」論もでてきた。英国は、「戦後直ちに全航空兵力を統一した空軍独立に踏み切」り、日本でも、「陸軍から空軍独立論が出された」が、「海軍は、わが国のおかれた戦略態勢などを考慮してこれに同調しなかった」(『戦史叢書 海軍航空概史』5頁)のである。
  
 大正11年ワシントン条約に基づく海軍所要兵力は、空母の用兵上の価値」を評価して、「主力艦とともに空母も対米六割に制限」し、「主要艦9隻、空母3隻、重巡12隻以上を基幹とし、これに相応する補助艦艇、航空兵力を付属する兵力」と決められた。日本海軍が「受けた空母の制限は、8.1万屯、単純屯数2、7万屯(1万屯未満は制限外)」であった。

 大正11年12月、センピル使節団の空母デッキの建造技術の指導のもとに、日本のみならず世界で海軍最初の制式空母「鳳翔」(9200トン、速力25ノット、搭載機24)が竣工した(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』60頁)。12年2月中旬、海軍は賞金5万円で飛行甲板から発進し、着艦するパイロットを募集した。東郷平八郎以下多数の提督の見学する中、三菱内燃機関に雇われていた元空軍大尉ジョルダンが応募し、見事成功し、賞金を得た。次いで、元センピル教師団の飛行艦主任ブラックレー少佐が十式艦上戦闘機で離着陸し、彼の高弟吉良俊一大尉が指名され、彼は二度目に成功した(同上書60頁)。以後、「霞ヶ浦では、猛烈な着艦訓練が行なわれ」、大正12年末には亀井凱夫・馬場篤麿中尉が着艦に成功し、13年第4回目実験では10名が大型機で成功した。

 その後、赤城(大正9年戦艦として起工したが、14年空母として進水)・加賀(大正9年戦艦として起工したが、昭和3年空母として進水)を空母に改装、この制限内空母のほかになお「2、7万屯1隻分の余裕」があり、海軍は大型空母1隻建造を要求したが、財政的に実現されなかった(『戦史叢書 海軍航空概史』26頁)。赤城・加賀の進水時頃には、頃には「飛行甲板からの発進、着艦は茶飯事」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』62頁)となっていた。

 こうして「日本海軍は主力艦の劣勢を補うため補助艦艇の充実に努め」、大正末期、まだまだ軍艦が「海軍の表街道」ではあったが、一部航空機威力を察知した人々が「これからは航空だよ、逸材はどしどし航空に行かなくちゃ」(大正15年矢矧艦長)という激励を若き海軍士官に投げかけるようになっていた(中田整一『淵田美津雄自叙伝』41頁)。大正13年に海軍兵学校を卒業した淵田美津雄もそうした激励を受けた一人であった。

 空母艦隊編成と兵術思想進歩 昭和3年4月1日、日本海軍は、空母赤城・鳳翔と駆逐艦4隻で第一航空艦隊を編成し第一艦隊に付属せしめ、航空母艦を「本格的に艦隊で使用」し始めた。以後、昭和8年まで、空母は「索敵、偵察、敵主力部隊の攻撃(雷撃機による魚雷攻撃)、友軍主力部隊の上空掩護等」を任務とし、艦隊の「全くの補助艦隊」にとどまりつつも、新しい兵術思想を培養していった。

 その新しい兵術思想とは何か。当時、「弾着観測に飛行機を使用するようになってから、主砲の命中率は、画期的に上昇」したので、戦闘機が「決戦上空の制空権を獲得」することが重要となる。日本海軍では、上述の六割海軍の欠陥を「補助部隊の水雷攻撃等によって穴埋めしようとした」ので、日本海軍は「母艦搭載機の重点を攻撃機(急降下爆撃機、雷撃機)におき、防御的な戦闘機を副次的に取り扱った」のである。

 これに対して、米海軍は、「圧倒的優勢な戦艦群」を「無疵のまま日本の戦艦群にぶつければ・・N2法則(ランチェスター法則)が働いて、勝利はおのずから転がり込んで」くるとして、安住していた。従って、アメリカでは、「会敵まで味方の主力や母艦を守り、決戦になれば戦場上空の制空権を獲得するために、戦闘機に重点をおいた機数の配分を行なえばいい」ということになった。そして、「飛行機で煙幕をは」り、「優勢な戦闘機をもって制空権を獲得していれば、敵の弾着観測機の活動は封じられ」、「アメリカ艦隊の一方的な射撃」となるとしていた。つまり、アメリカ側は、艦隊戦闘が主であり、航空機は補助としていたのである。

 だが、日本航空関係者は、このアメリカ戦法の鍵は、「一にかかって制空権を掌握しているか、いなかにあ」り、制空権が「勝敗を決する」と見ていた。この制空権掌握について、アメリカ海軍は「優勢なる戦闘機隊」に依存したが、昭和7、8年頃、日本海軍は「緒戦における攻撃目標を戦艦から航空母艦に転換」し「敵の根拠地を、飛行機もろとも葬」ろうとした。こうして兵術思想の進歩状況(主目標を空母に変更、第一航空艦隊・第十一航空艦隊の編成、母艦群を分散配備から集中配備に転換)から見れば、日本がアメリカより先んじていたのである(源田実『真珠湾作戦回顧録』38−43頁)。

 航空整備拡充新計画 昭和5年10月7日海相は「海軍主要兵力整備内容充実」(条約量の艦艇建造、「条約の制限を受けない航空整備を拡充」)という新計画を首相に提出した(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』400頁)。「ロンドン条約を契機」として、期せずして、海軍航空軍備が、「航空機製造技術の進歩発達並びに用兵上の技術研究の進歩と技術の向上とが相俟って、にわかに重きをなすようにな」ってきたのである。ロンドン条約によって艦艇兵力が制約を受けたので、「将来の国防の欠陥に対処するためには航空兵力の画期的増強に踏み切る必要を痛感」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』450頁)したのである。第59回帝国議会(昭和5年12月ー6年3月)に提出の昭和6年度予定経費説明書中の「航空隊設備費要求の部」によると、@航空隊14隊増勢の経費4495万円余(単価は艦上戦闘機6,2万円、艦上攻撃機・水上偵察機10.5万、中型飛行艇43万円余、大型飛行艇104万円余)、A増設(横須賀、館山、九州の大村)、新設(東京湾、大湊、広[中国地方]、九州方面)である(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』412−3頁)。淵田美津雄中尉は、「補助艦勢力の筆頭と目されていた1万トン8インチ巡洋艦」などは「愚にもつかない」戦力だと批判して、「その分を全部航空母艦の建造に振り向けたらどんなものだろう」としていた(中田整一『淵田美津雄自叙伝』56頁)。もちろん、まだまだ日本海軍首脳部の頭は艦艇主力主義でこりかたまっていたが、この淵田意見が多くの海軍首脳部にも共有されていれば、日本海軍の航空母艦勢力は世界有数となっていたであろう。

 なお、昭和5年の「軍令部調製口述覚書」には、「米艦隊東洋進出途上における邀撃作戦」「敵主力艦隊撃滅戦」とともに、「敵のわが帝都または商工業要地に対する空襲、奇襲等に対する防禦作戦」と、東京空襲対策が言及されている(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』149頁)。日本海軍は、米国海軍の空襲をを見通していたのだが、ここに及んでも、日本海軍は、米国の空襲能力阻止の為の米本土空襲が一切触れられていない。

 昭和7年軍令部は、「米国海軍は1932年(昭和7年)を期して1000機を完成しようとし」、「東洋方面派遣可能機約600機をくだらず、近き将来約1、200機に達する見込み」と判断して、これに対処しようとした(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』450頁)。昭和7年4月1日には「航空技術の総合的研究機関」として海軍航空廠が設置された(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』451頁)。

 昭和7年、海軍航空本部技術部長の山本五十六少将は、国産・全金属・単葉の三原則による「国産機の『試作三ヶ年計画』」を決定した(中田整一『淵田美津雄自叙伝』82頁)。海軍航空本部(昭和2年設置)の強力な行政指導と新設海軍航空廠の技術指導のもとに、「民間会社の航空機および航空エンジンの試作統制を行い、効率的に高性能の航空機の研究開発が推し進められ」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』83頁)、航空機国産化が推進された。既に山本五十六、大西瀧治郎や淵田美津雄ら航空主力論者は、仮想敵国アメリカとは、軍艦ではなく、飛行機によって戦うという太平洋戦略を打ち立てていた。

 昭和7年には艦上爆撃機が初めて採用され、昭和7、8年頃、「航空兵術の術力向上並びに航空機の性能一段と増進」し、「艦船に対する有力な攻撃兵力として、航空機の価値が急速に認識され」た(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』174−5頁)。特に、7年1月上海事変に際しては、日本海軍は第3艦隊の巡洋艦4隻、駆逐艦4隻、航空母艦2隻(加賀・鳳翔)及び陸戦隊約7千人を上海に派遣し、最初の航空機攻撃を行い、陸軍とも協調行動をとった。

 航空兵力増勢計画 昭和8年6月14日、海軍軍令部長谷口尚真は、「艦船建造補充及航空兵力増勢計画」の「第三 航空兵力増勢計画」で、@「航空母艦及飛行機搭載艦は平時より戦時所要搭乗員の全部を保有し得る如く充実す」、A「陸上航空隊は準航空母艦、特設艦船及航空隊に就き戦時急速整備を必要とするものに対し、概ね戦時所要搭乗員を保有し得る如く既成立航空隊の繰上げ、既設航空隊の内容充実を行ふ外、新規増勢を行ふ」、B「急速養成搭乗員に依る外 航空予備員を充実」することなどを打ち出した(427頁)。そこで、軍令部は政府に、@「ロンドン条約による兵力量の不足を補填するための一対策として新たに航空隊16隊を増勢」、A「ロンドン条約の有無に関せず米国海軍航空軍備の拡充及び航空機の発達にかんがみ航空隊12隊を充実」などを要求し、前者については14隊、後者については8隊が認められた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』451頁)

 昭和8年頃、@空母鳳翔、赤城、加賀のほか、艦上機母艦龍驤が竣工し、「海上航空兵力は主要な攻撃的作戦単位として重視」され、A「主力艦、巡洋艦等の搭載機は弾着観測、策敵、触接等に不可欠な兵力として重用」され、B計画中の大鯨、給油艦2隻の戦時航空母艦への急速改装など、「いよいよ航空機重視の様相を顕著にする趨勢」にあった。航空隊も、既設17隊、計画22隊など39隊になる(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』435頁)。

 昭和9年蒼龍型航空母艦(15900トン)2隻竣工で「海上航空兵力もようやく実質的に整いはじめ」、魚雷の「夜間発射、黎明発射も実施」で「艦上機による雷撃は軌道に乗」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』175頁)った。10年、「急降下爆撃の命中精度を増大し、攻撃威力を著しく増加」したが、まだ航空機は「主力部隊(艦隊ー筆者)の砲戦に策応」していた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』174−7頁)。

 ロンドン軍縮予備交渉 5ヵ年期限のロンドン軍縮条約は昭和10年で満了するが、1年前の9年に軍縮予備交渉を協議することになっていた。予備交渉の日本海軍首席代表山本五十六らは、山本は米国経由でロンドンに向ったが、山本在米中、「米空軍育ての親」ウィリアム・ミッチェル少将は、「米国の戦略はとくに太平洋において日本と戦うことを前提として策定されるべきであり、日本との戦いは避けられない」と声明した。これに対して、山本は、在米中に、「日米関係の観察については、私はミッチェル将軍とその角度を異にする。私はいまだかつて米国を潜在的敵国と考えたこともなく、日本の海軍戦略には日米戦争の可能性は含まれていない」と論評。多くの米国市民はミッチェルより山本の方が「健全な常識の持ち主」(ポッター『山本五十六の生涯』27頁)とした。

 9年10月16日、山本は、英国サザンプトンに到着すると、山本らは、ロンドン会議で、「ワシントン条約や、ロンドン条約は、不平等だから日本は廃棄の意志だけれど、軍縮には賛成だから、改めて総トン主義で平等な条約を結びたい」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』57頁)と提案した。「日本はもはや“比率システム”に従う意思はない。この点で、わが政府に譲歩の意思はない」と語った。アメリカ側が、「ワシントン会議当時には、五・五・三でよかったものが、どうして日本は今度はそれでは困るといい出すのか」と質問すると、山本五十六は、「航空機の発達や艦船の洋上補給技術の進歩などを詳細に挙げて、時代が変わり海洋の距離が縮ま」り、「現在では、近海においてすらこの比率では兵術的均衡が取れなくなったから」(工藤美代子『山本五十六の生涯』206頁)と答えた。しかし、「兵力の共通最大限度規定という日本案」は受け入れられそうもなかった。

 山本は、「つねに微笑を忘れず、礼儀正しい態度」で「各国代表の尊敬を集め」、「終始一貫、日本政府の訓令を守って、<5−5−3>延長に反対」した。山本は、「もし日本にアジアでのフリー・ハンドを認めるなら、全世界の軍縮計画に同意する用意がある」として、全主力艦、空母の廃棄を提案した。山本は、「われわれは、あらゆる兵器の中で最も強力なのは空母だと考えている。もし、われわれが一国の他国にたいする脅威を減少したいと望むならば、まず第一にこの最も危険な兵器を除去するのが、論理の必然というものである」と主張したが、この「革命的な意見を理解した代表は、誰一人いなかった」(ポッター『山本五十六の生涯』28頁)のである。当時まだ勢力の強い艦隊派が、米英が受け入れるはずのない提案を山本に行なわせて、「無条約状態にもっていこうとする雰囲気」(工藤美代子『山本五十六の生涯』197頁)もあったようだ。

 英国は無条約になった場合、「アメリカの海軍力が強大になりすぎるのを案じ」、日本とともにアメリカを牽制しようとした。そこで、英国側が「打開策を打ち出そう」としたが、米国側が「とにかく冷淡であり、無条約となってもかまわないという態度」であり、「12月20日には、いつ会談を再開するかを約束もしないまま代表団全員がアメリカに帰ってしまった」のであった。それでも「イギリスと日本の間でさらに非公式の交渉は続」き、「なんとか譲歩できるところは譲歩しても、アメリカと妥協できないかと五十六はねばった」が、「その間に日本では五十六に対する不信感を露骨に示す強硬派の声がさらに大きくなっていた」(工藤美代子『山本五十六の生涯』211−2頁)のであった。

 これには、航空主兵論者の淵田美津雄は「狂気の沙汰」と「ひっくり返るほど」驚いた。彼は、「軍備そのものは、戦えるものでなくては、軍備は戦わざるを以て上乗とするという軍備第一課の目的は達成出来ないことも鉄則」だから、「なんという幼稚なことをいう日本海軍だろうか」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』57−8頁)としたのである。

 淵田は、「古来、専守防禦で勝てたためしはな」く、戦艦などの「骨董的存在」は廃止しても構わないが、「航空母艦を廃止しようなんて、まさに狂気の沙汰」とした。当時の海軍首脳は、「まだ誰も航空母艦が、やがて海上権力の王座につく主力である」とは思っていなかったが、淵田は、「既にして、航空威力躍進の趨勢に鑑み、海軍の主力は航空母艦に移るとの先見の洞察を抱いていた」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』58頁)のである。

 マンモス戦艦建造 このロンドン予備交渉は「不調に終わり、翌年のロンドン本会議も決裂」し、「世界は再び無条約時代となり、建艦競争へと突入」した。「アメリカは、それ見たことかと厖大な建艦計画をし」、「日本としては、とても量ではついていけないから、質でこいとばかりに」4隻の「時流をぬきんでるマンモス戦艦建造」のB計画に着手し、11年7月にまず大和・武蔵建造に着手した(中田整一『淵田美津雄自叙伝』58頁)。

 当時、大西瀧治郎大佐は淵田ら航空主力論の若手のリーダーの一人はあった。その大西は、軍令部が大和・武蔵建造を決定する直前の10年、戦備担当の軍令部第二部長古賀峯一少将に、「空母をつくれ。大和、武蔵の一方を廃して、その規模も5万トン以下にすれば、空母3隻ができる」と、この戦艦建造中止を申し入れていた(中田解説[中田整一『淵田美津雄自叙伝』84頁])。山本五十六も、大和・武蔵などの巨艦は「床の間の掛け軸」にすぎないと批判した。そして、山本進言で、新型高速空母翔鶴・瑞鶴建造がきまったが、米国海軍幹部と同様日本海軍幹部も空母は「あくまで戦艦の補助的役割」と見ていて、「空母を最強力兵器とみなす」考えに共鳴する者は少なかった(ポッター『山本五十六の生涯』32頁)。


                                    A 海軍航空主軸への転換困難 

                                             a 海軍主導の作戦国策
 国策大綱 11年6月3日、天皇は「国防方針と国防所要兵力および用兵の大綱」を裁可され、「帝国海軍の軍備も、制限軍備から自主軍備へと急速に進展し始めた」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』107頁)のであった。6月30日、「海軍軍備充実拡張の基礎を得んがために海軍側から働きかけ」、「陸軍の政務関係を除外」して、海軍陸軍作戦関係者の間で「国策大綱」が決定し、8月7日には、広田首相、寺内寿一陸相、永野終身海相、有田八郎外相、馬場^一蔵相の間で「国策大綱」が決定された(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』106頁)

 制空権下の艦隊決戦 昭和11年6月国防所要海軍兵力(主力艦12隻、航空母艦10隻、巡洋艦28隻、駆逐艦96隻[水雷戦隊6隊]、潜水艦70隻[潜水戦隊7隊])を決定した。ここに「軍備計画上 新たな転機」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』475頁)を迎えた。11年には、敵航空母艦の「著しい発達」と艦上爆撃機の登場によって、日本海軍の「攻撃の第一目標」は、「敵主戦部隊」から「敵航空母艦に変更」され、ここに「先制空襲によってまず敵航空母艦の攻撃力を封殺し、制空権下の艦隊決戦を行なうという思想」が強く発展したのである(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』178−9頁)。

 11年11月海軍大学校「対米作戦用兵に関する研究」では、「開戦前、敵主力艦艇特に航空母艦が真珠湾に在泊する場合は、敵の不意に乗じ、わが航空母艦航空機および大型並びに中型飛行艇による急襲をもって開戦するの着意あるを要す」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』165頁)など、真珠湾奇襲などを検討して居る。ただし、国力差への着眼はない。

 米国海軍拡張計画 日本海軍の得た米国海軍規模情報は、昭和9年ビンソン法で補助艦102隻を建造し、昭和11年主力艦2隻の代艦建造に着手し、昭和13年第二次ビンソン法で海軍増勢(条約海軍の2割増勢、主力艦3隻、航空母艦2隻などの建造で保有主力艦24隻、航空母艦8隻、巡洋艦48隻など190万トン余。航空軍備として第一線機3000機整備)が決定し、航空母艦・飛行機も増産されてきた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』475頁)。こうした米国の昭和12年度計画および第二次ビンソン計画に基づく兵力増強は、「日本海軍のB計画(昭和12年度補充計画、大和・武蔵など66隻建造)に比すれば約四倍に相当する膨大なもの」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』539頁)であった。日本海軍の一大脅威であった。

 そして、昭和14年12月2日、周知の通り、ルーズベルト政権は、対日禁輸物資に航空機の生産に不可欠の資源(アルミ二ウム、マグネシウム、モリブデン)を追加し、6日には航空用ガソリンのプラント・専門的情報を追加し、日本航空機産業を締め上げようとした。

 しかも、15年7月米国「両洋艦隊法」は前記規模をさらに上回る海軍増強をめざした。つまり、米国海軍は、「艦艇だけでも一挙に七割を増強」し、航空機では1.5万機という「天文学的数字」(53ー4頁)での増強を企図するものであった。日本海軍はE計画で対応しようとしたが、とうてい「わが国力では実行の確実な目途はつけえなかった」(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書ハワイ作戦』朝雲新聞社、昭和42年、54頁)のであった。

 水面下の「日米航空戦」 しかも、既に昭和11年にルーズベルト政権は、援蒋政策で「日本を踏み潰そう」として、日本空爆で初めて「日本に敵対する政策」を打ち出した。こうした米国の東京空襲の恫喝は、実は既に昭和5年からなされているのである。即ち、昭和5年2月18日、キャッスル駐日米国大使(昭和4年12月にロンドン軍縮会議促進のためにフーヴァー大統領が任命)は、「東京空襲の米海軍企図に付 幣原(喜重郎、外務大臣)に語」(「加藤寛治日記」[『海軍』92頁])っているのである。

 ルーズベルト大統領は、単なる空爆恫喝ではなく、空爆計画立案に着手したことになる。ルーズベルトは、もともと「日本に対しても、好意をいだいていなかった」(加瀬英明ら『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』68頁)といわれるが、それは彼の母が、「清朝末期に、中国とのアヘン貿易によって巨富を築いた」デラノ家の出身で、少女時代に香港に滞在し親中的であったことによろう(加瀬英明、ヘンリー・S・ストークス『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社、2012年、18頁)。中国貿易で巨富を築いた一家の一員として、かつアメリカの対中利益を保護する大統領として、ルーズベルトは中国利権を維持しようとして対日方針で強硬だったのである。

 同年7月20日、蒋介石政権の航空委員会は、中国共産党軍掃討のため、退役寸前のクレア・シェンノート米国陸軍航空隊大尉を高給で雇った。12年7月中国共産党の挑発で盧溝橋事件がおきても、「アメリカは中立国であったために、政府として交戦国を直接援けることはできなかった」ので、大統領親友トミー・コルコランに「民間の『中国援助事務所』を設立させて、蒋介石政権が日本と戦うために必要とする巨額の資金を提供」した。シェンノートは、大佐として中華民国空軍航空参謀長に就任した。シェンノートはルーズベルト大統領に、「蒋介石政権に、戦闘機とアメリカ陸軍航空隊のパイロットを『義勇兵』(米軍籍を離れるが、契約期間が終了すれば、米軍籍に復帰する)として提供する案」を提出し、ルーズベルトに承認され、「極秘の大統領令」が発せられた。

 同年8月、中国共産党策略で第二次上海事件が勃発すると、ルーズベルト大統領は「中立法(1935年制定)を中国に適用しない」と表明した。当時の中国は多数のキリスト教宣教師を受け入れ「多くの国民が、中国がアメリカの勢力圏のなかにある」として見ていた。同年10月、ルーズベルト大統領は中立法から一歩踏み出して、ある国々(日本、ドイツ、イタリア)は「国際的な無政府状態」を惹起していると非難する演説をした。これに対して、多くの上院議員はこの演説を非難し、6平和団体は大統領は「アメリカを戦争に導こうとしている」と批判した。

 13年中国機が九州に飛来し、反戦ビラ散布した。参謀本部第四課(国内防衛担当)が参謀総長に、@「中国機の来襲は少数機、夜間という悪条件であったものの、現防空体制では来襲機の捕捉がきわめて困難であ」り、A「相手国に補充、補給の能力があり、また空襲の企画があれば、わが制空の間隙を縫い空襲の実施が可能である」(加瀬英明ら同上書20−30頁)と意見を具申した。当時、蒋介石国民党軍が、米国補給を受けて対日行動を展開していたことは日本軍では周知であり、故に補給の重要性には海軍も気づいていたはずである。水面下では日米航空戦が展開されていたのである。ただ、海軍は艦隊決戦を主軸においていたから、補給の観点など留意しなかっただけである。補給の重要性を知らなかったわけではない。補給の重要性を知っていても、艦隊決戦を何よりも最優先する海軍体質だったのである。

 昭和15年12月8日、財務長官モーゲンソーはルーズベルト大統領に、「中国に長距離爆撃機を供給して、日本を爆撃するべきだと提案したところ、大統領が私に、『中国が日本を爆撃するなら、それは結構なことだ』と、語った」のであった。12月10日、モーゲンソーは国務長官ハルに、「アメリカの航空兵が中国空軍に偽装して、日本本土を爆撃する案を説明する」と、ハルは「蒋介石に東京を空襲するという条件をつけて、長距離爆撃機を提供する用意がある」(モーゲンソー『備忘録』[加瀬英明ら同上書34頁])と応じた。そこで、モーゲンソー、ハル、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官は、「日本本土空襲のために、ボーイングB17大型爆撃機(航続距離3300キロ)を使用すること」を検討した。

 16年5月9日カリー大統領補佐官(中国問題担当。1941年1月大統領特使として中国訪問)が大統領に「JB(Japan Bombardment)−355計画」(日本爆撃計画。陸海軍合同委員会が作成)を提出した。5月15日、ルーズベルト大統領は陸海軍に、「蒋介石政権に(「機体に青天白日マークを塗って中国軍機」に偽装し、アメリカ人義勇兵フライング・タイガーズの操縦予定の)爆撃機を供与して、(東京、横浜、大阪、京都、神戸を爆撃する)『JB−355計画』を具体化するように」と公式に命じた。日本爆撃の目的は、「(日本の)兵器および経済体制を維持するために必要な生産施設を根絶するために、日本の民需、軍需工場を壊滅する」ことであった。7月18日、陸海軍省両長官が大統領に日本本土爆撃作戦計画書を提出し、即日承認し、重慶駐在の軍事使節団か重慶米大使館武官のいずれに指揮させるか検討せよと指示した。10月1日まで150機の長距離爆撃機、350機の戦闘機を蒋介石政権に供与予定だったが、欧州戦線緊迫化で大型爆撃機を英国に供与したために、この日本爆撃計画は実施されなかった(加瀬英明ら同上書46−9頁)。


                                       b 山本五十六の航空主兵論

 長岡精神 山本五十六は、明治17年4月元長岡藩士高野貞吉の六男として生まれ、大正4年旧君主牧野忠篤推薦で元長岡藩家老山本家名跡を継いだ。長岡では「子供たちに学問をさせ、中央へ出て賊軍の汚名を晴らすような活躍をさせる」ことが、「長岡の主だった人たちにとっての暗黙の了解事項」(工藤美代子『山本五十六の生涯』幻冬舎文庫、平成23年、34頁)であり、山本五十六もこの例にもれなかった。

 昭和9年には山本五十六はロンドン軍縮会議予備交渉の日本代表に任命され、同郷の後輩反町英一海軍少尉に、「私は河井継之助先生が小千谷談判に赴かれ、天下の和平を談笑の間に決せられんとした、あの精神を以て今回の使命に従う決心だ」(199頁)と語る。山本もまた、多くの長岡出身者と同様に河合継之助を敬服していた。しかし、その河井とは、新政府軍と奥羽越同盟軍との和睦嘆願を却下され、「官軍への徹底抗戦を決意し、およそ勝ち目のない悲惨な戦闘へとまっしぐらに突き進んだ」(199−201頁)人物だった。

 山本の航空主兵思想 明治34年9月に海軍兵学校に次席で合格し、37年11月14日に海兵32期生の11番で卒業した(工藤美代子『山本五十六の生涯』46−54頁)。38年5月27日、バルチック艦隊との海戦で山本五十六は腕を負傷したが、奇跡的に腕切断を免れた。

 大正8年4月、論理的表現力と語学力を買われて、さらに語学力を磨くために米国ハーバード大学に留学した。山本は、「軍艦は石油で動く」から、「米国の石油産業」に関心を集中し、ついで「メキシコの石油の研究を志し、自費でメキシコ旅行を試みた」(ジョン・D・ポッター、児島襄訳『山本五十六の生涯』恒文社、1997年、20頁)のであった。山本の石油研究は「専門家の域に達し、のちに米国の石油実業家からその知識を買われて就職の勧誘をうけたほどだ」(ポッター『山本五十六の生涯』21頁)であった。

 さらに、山本は、「当時としては驚くべき先見」として、「飛行機に強い関心をはら」い、「飛行機を新しい兵器として注目」した。当時アメリカでは、パイロットのユージン・エリーが「戦艦『バーミンガム』前甲板の仮設プラットホームから発艦を行ない、さらにその後、戦艦『ペンシルバニア』の後甲板に着陸」したが、まだ米国ではこれは「たんなる曲乗り飛行とみなされ」(21頁)ていた。しかし、山本は、「エリー飛行士の実験を曲乗りとは見ずに、将来の海戦の重要な要素と見抜いて、そのデータを念入りに収集」(ポッター『山本五十六の生涯』21頁)した。

 大正12年にはワシントン会議後の情勢視察の為に、英仏独伊米などに出張し、国際視野を広げ始め、航空兵力の重要性に着目していった。

 霞ヶ浦航空隊 第一次大戦後の大正13年に、山本五十六大佐は霞ヶ浦航空隊に勤務した。当時の海軍航空隊は、「英国のセンピル飛行団によって訓練が開始された事情もあり、搭乗員の長髪は当然のこととみなされ」、「特権意識の象徴」となっていた。そこで、山本は、「断固として丸坊主を実行」(ポッター『山本五十六の生涯』22頁)した。そして、山本は、「勘に頼る操縦から脱皮させようとして、普遍的な訓練方式を導入」(平塚柾緒「アメリカで見えた日本の将来」[『山本五十六』山川出版社、2011年])したのである。
 
 昭和3年3月に山本大佐は水雷学校教官小沢治三郎中佐の依頼で講演し、「航空は近き将来海上の主兵となる」、「対米作戦は守勢をとるのは不可でハワイを攻めるような積極作戦を採るべきである」と提唱した。山本は、「対米戦に勝算を見い出しうるものは航空兵力の整備のほか方法はないとして、その画期的進歩をはか」(『戦史叢書ハワイ作戦』73頁)ろうとし、海軍持論の邀撃作戦を批判したのである。これは、航空主兵の観点から、従来の海軍の対米守戦の邀撃作戦を真っ向から批判する画期的意見であった。

 海軍航空指導 昭和3年12月山本大佐は空母赤城艦長となり、4年11月少将に昇任した。以後も、山本は、5年9月海軍航空本部出仕、同年12月海軍航空本部技術部長、8年10月第一航空戦隊司令官と海軍航空畑を歩んだ。

 中でも昭和5年の海軍航空本部技術部長就任は航空主兵史上で画期的な意義をもっていた。山本部長は、「航空部隊を海軍の主戦力」にしようと、「当時極度に未発達だった日本の航空工業に着目し、国産品第一主義を唱えて、民間航空会社を激励」(ポッター『山本五十六の生涯』26−7頁)した。つまり、山本は、昭和5年に、「発動機、機体ともに日本人が設計製造した九0式艦上戦闘機」を「初めて正式採用」し、昭和6年には、「英米の艦上機(160−170ノット)より速力で絶対に優勢」であれば「他の諸性能は若干劣勢になっても差し支えない」として、高スピード艦上戦闘機の製造を指示した。そして、山本は技術部員の佐波次郎中佐に、「空母は艦上機を行動させるための道具であるから、飛行機を母艦に合わせて設計するのは誤りで、母艦を飛行機の性能に合わせて設計、改造すべきである。新戦闘機が二百ノットを出したら、母艦は改造させるから、ただちにこの方向で研究せよ」(平塚柾緒「アメリカで見えた日本の将来」[『山本五十六』山川出版社、2011年])とした。ここで、重要な事は、山本は、基地航空ではなく、あくまで海軍航空を基軸に考えていたということである。戦後、佐波は「この一言でわが海軍が列強海軍に先駆して、低翼単葉機を採用し、爾来太平洋戦争中期まで他の追従を許さず、また、艦上機は陸上機に劣るとの今までの観念を打破」(池田清『日本の海軍』下[平塚柾緒「アメリカで見えた日本の将来」<『山本五十六』山川出版社、2011年>])したのであった。

 前述の通り、昭和7年には、海軍航空本部技術部長の山本五十六少将は「国産機の『試作三ヶ年計画』」を決定し、航空機国産化を推進した。昭和8年2月、日本最初の「低翼単葉片持翼」をもつ三菱製「試作七試艦上戦闘機」が完成し、これが「八試特偵、九六式艦戦、九六式陸攻に受け継がれ」た。山本本部長が採用した九六式艦戦は、速力230ノットで、零戦登場までの「花形戦闘機」よ」(平塚柾緒「アメリカで見えた日本の将来」[『山本五十六』山川出版社、2011年])となった。

 9年11月には山本は海軍航空トップの海軍中将に進んだ。山本は名実共に航空主兵の有力指導者の一人となった。「戦艦廃止、航空主兵」の出始めた昭和9年には、山本は部下の質問に、「航空機が海上の主兵となり得るかどうかは、もはや論議する必要はない。要は早くその能力を実行で示すことである。そうすれば戦艦至上主義者も転向しなければならなくなる」(『戦史叢書ハワイ作戦』73−4頁)と答えた。航空主兵論はもはや確固不動の考え方だと断言したのである。

 しかし、当時の海軍は、艦隊派が優勢であり、昭和9年12月には所謂大角人事で山本親友の海軍中将堀悌吉は予備役に追いやれた。昭和10年2月12日に山本五十六はロンドン軍縮会議から東京に到着すると、彼を「閑職に追いやる動きが、海軍の中にあった」ようで、それに嫌気して10年中に長岡に4回も帰郷している。10年5月1日付愛人河合千代子宛書簡で、山本は、「倫敦において全精神を傾倒した会議も 日を経るにしたがひ 世俗の一般はともかく海軍部内の人々すら これに対してあまりに無関心を装ふを見るとき 自分はただ道具に使はれたに過ぎぬやうな気がして 誠に不愉快でもあり、また自分のつまらなさも自覚し 実は東京に勤務しておるのが寂しくて寂しくて且不愉快でたまらない」(阿川弘之『山本五十六』[工藤美代子『山本五十六の生涯』232−3頁])と不満を吐露している。

 技術部長などとして海軍航空畑で地歩を築きだしていたことが評価されたのであろう、10年12月に山本は海軍航空本部長に任命された。いったんは海軍退職を決めた山本五十六は、この航空本部長就任で再び海軍に打ち込むことになり、山本は高木惣吉に、「航空本部長ならば一生でも勤めあげたい」(工藤美代子『山本五十六の生涯』236頁)と密かにもらしたのであった。山本は、米国に4−5年遅れていた「航空関係の技術」に「異常な進歩」を達成し、「優秀機続出の基礎」を構築した。こうして、山本は、「総合的に航空兵力の整備育成に努めわが海軍航空を世界一流の域に到達」(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書ハワイ作戦』73頁)させたのである。山本らは、「太平洋を制圧しようと思えば南洋信託領を基地とする長距離飛行機が必要」として、「二千ポンドの爆弾または魚雷」を積み8千マイルを飛ぶ九七式飛行艇、長距離を飛行する九六式陸上攻撃機、「二年間にわたって完全に太平洋の空を支配」した零式艦上戦闘機を開発した(ジョン・D・ポッター、児島譲訳『太平洋の提督』恒文社、1997年、32−3頁)。

 航空主兵論の台頭 「戦艦廃止論が一層盛んになってきた」昭和11、2年には、航空本部長山本は「若き航空関係者」に、「戦艦も実用的な価値は少ない」が、「まだ国際的には海軍力の象徴と考えられている」から、「しばらく戦艦廃止論は我慢せよ」(「角田求士大尉 戦後の回想」[『戦史叢書ハワイ作戦』74頁])と訓示した。海軍主流の艦隊派の反撃をうけたためか、山本は若い航空主兵論者に我慢を呼びかけだしたのである。実際、当時の日本海軍の主力艦10隻主砲96門(8百ー千キロ砲弾)であり、これらが1分間1発で射撃すれば、30分で2880発を打ち込み、命中率5%ですら敵主力艦10隻撃沈できる。しかし、これを水兵爆撃機でやれば、命中率10%で、攻撃機1600機、大型空母30隻が3−4時間も攻撃に従事しなければならぬことになる(源田実『真珠湾作戦回顧録』71頁)。こういう考えでは、戦艦主兵思想が中心とならざるをえないのである。

 しかし、山本自らは、海軍上層部には戦艦無用、航空機有用を強く主張した。例えば、山本は軍令部第二部長古賀峯一に、「将来の飛行機の攻撃力は非常に威力を増大し、砲戦が行なわれる前に飛行機の攻撃により撃破せられるから、今後の戦闘には戦艦は無用の長物になる」(工藤美代子『山本五十六の生涯』239頁)から、「『大和』級戦艦建造について再検討するよう」(「戸塚道太郎 戦後の回想」[『戦史叢書ハワイ作戦』74頁])に促した。当時まだ飛行機が戦艦を撃沈したことはなかったから、山本も彼らを説得することはできなかった。

 そこで、昭和15年度、山本連合艦隊司令長官は「大飛行隊による航空攻撃」を実施し、「戦艦などは到底航空機に対抗できない」事を関係者に痛感させた(『戦史叢書ハワイ作戦』74頁)。山本は、「もはや戦艦の時代は去り 航空兵力が海上の主兵となり、従って戦争方式も変化した」と判断し、小沢治三郎第一航空戦隊司令官(昭和14年11月就任)に、「今後は従来のような艦隊決戦は起こらないだろう」(『小沢治三郎少将 戦後の回想』[『戦史叢書ハワイ作戦』74頁])と語り続けた。

 昭和15年秋の三国軍事同盟締結後に日米戦争可能性が強まると、山本は中央に陸攻、零式(零式艦上戦闘機)各千機の急速整備を正式に要求した(『黒島亀人大佐 戦後の回想』[『戦史叢書ハワイ作戦』74頁])。昭和16年8月には、パイロットを3500人から1万5千人に増やす計画が承認された(工藤美代子『山本五十六の生涯』400頁)。さらに、山本は、新たに連合艦隊での「航空機の用法に重点」をおいた「月月火水木金金の猛訓練」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』106頁)を行なった。山本五十六にとって、航空戦が主軸となるから、パイロット急速育成は不可避であった。

 山本の対米戦「矛盾」 しかし、昭和15年頃、山本の「根底」に航空主兵思想があり、艦隊決戦は過去のことであり、今後の海軍決戦主役の航空機増産を主張しても、「実際の場合には現有兵力に合った作戦を計画せざるを得ないので、これに徹底できない悩みがあった」(『戦史叢書ハワイ作戦』73頁)のである。

 山本は、11年11月海軍次官、13年4月兼海軍航空本部長を経て、14年8月連合艦隊司令長官に就任した。長岡市民は、この山本の長官就任を歓喜で迎えた。長岡で、反町栄一(長岡出身の海軍士官)は、「流離困憊に反論して立ちあがった長岡の武士、かくして生まれ出た海の司令官」と叫んだ。ここには「戊辰の役で敗れ、賊軍と蔑まれ、苦労を重ねた旧長岡藩の人々の思いがこもっている」(工藤美代子『山本五十六の生涯』317頁)のである。

 山本長官は、一方では、「現状ではわが海軍は米海軍に対して勝算少なく、たとえ戦闘で勝利を得ても長期戦となり、結局は戦争に敗れるであろう。従って米国と戦うべきでなく、対米戦に進展する公算のある国策は採るべきでない」とした。しかし、「航空軍備を充実すれば、対米総力戦の初期だけには勝算を見い出し得る」(『戦史叢書ハワイ作戦』75−6頁)ともし、「連合艦隊の訓練を航空第一主義に改めた」(ポッター『山本五十六の生涯』37頁)りもしていて、対米戦に一貫性がない。長期的観点では対米避戦としつつも、短期的には対米緒戦勝利としていて、不徹底なのである。短期のみならず、長期での徹底した対米「勝利戦略」がないのである。その結果、山本は、航空の重要性を提唱しながらも、現実には「航空兵力の増強は遅々たるもの」があり、15年1月現在海軍航空部隊のパイロットはわずか3500人」であり、開戦目前の16年8月にパイロット1万5千人増員計画が承認されたにすぎなかった(ポッター『山本五十六の生涯』39−40頁)。

 なぜ、山本は不徹底なのか。山本は、ハワイ作戦優先の観点より、南方作戦や邀撃作戦を批判したが、その批判は徹底していたか。

 南方作戦批判 海軍は、「喉から手の出るほど石油」が欲しかったが、山本は、「蘭印に武力を行使すれば対米戦に進展する公算が大きい」として、北部仏印進駐(15年9月23日)、日独伊三国同盟(15年9月27日)、蘭印侵攻には強く反対した。

 蘭印での石油交渉の行き詰まりで、「海軍部内にも、この際蘭印に対し武力を行使しても石油問題を解決すべき」という者も登場してきた。そこで、昭和15年11月末、山本は、海軍大学校で蘭印武力行使の図上演習を行い、「この作戦により物動方面、兵力方面に亘り不足の程度」(支那方面艦隊司令長官島田繁太郎宛山本五十六書簡[『戦史叢書ハワイ作戦』76頁])を具体的に示して、これを抑えようとした。

 山本は、@「米艦隊主力の来攻をみるときは南方作戦中の決戦兵力を、その邀撃に振り向ける必要を生じ南方作戦は停頓を招」き、Aさらに「南方作戦では相当の兵力を消耗することが予想されるので、南方作戦を終わり消耗した兵力を回復し、邀撃作戦配備を完了するまでの相当の長期間、是非とも敵有力部隊の来攻を阻止しておく必要を痛感」し、B「その間敵航空母艦によるわが本土空襲の危険を強く懸念」(『戦史叢書ハワイ作戦』80頁)した。しかし、南方作戦それ自体の縮小、中止までは主張しなかった。

 国力観点よりの邀撃作戦批判 山本は、「(伝統的に)海軍が採っている邀撃作戦構想では到底戦争の勝敗を決定づけるような戦果は期待できず、その後に来る長期戦でジリ貧になり 遂に手を挙げざるを得なくなる」し、「航空の発達した今日では、邀撃艦隊決戦などの生起はまず考えられない」と判断した(『戦史叢書ハワイ作戦』78頁)。極めて適格な判断である。

 彼は、「国力、軍事力等に大きな懸隔のあるわが国としては、開戦初頭から積極的作戦を行なって先手を取り続け常に敵を守勢に終始させるよりほか、勝ち目を見い出しえない」とみていたようだが、「具体的にどうしたらよいか、適切な方策は考え付かなかった」(78頁)のである。山本は、「昭和15年度の聨合艦隊訓練の重点を航空作戦に置くとともに、その思想を織り込んだ戦策を改訂」し、連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐に「戦略場面の戦策」起案を命じた。

 昭和15年2月11日、黒島はこれを脱稿し、「連合艦隊戦策」として長官決済を得た。そこでは、まず、「好機を狙い空母部隊を挺進させ、敵艦隊に対し奇襲攻撃を行なう」と、本土かハワイかは不明だが、空母部隊艦載機による奇襲空爆を提唱している。ついで、「基地航空兵力を有力なる決戦兵力として、南洋群島に展開させ統一使用」し、「邀撃決戦海面にマーシャル北方海面を含め」、「前線航空戦の推移と島嶼航空基地の攻防戦をめぐって、艦隊決戦が起こりうるものとして全般作戦を案画する」(「黒島亀人大佐 戦後の回想」[79頁])と、西太平洋の基地航空兵力による邀撃作戦が具体的に述べられている。

 連合艦隊は、この空母奇襲作戦を主とし、航空邀撃作戦を副とする連合艦隊戦策を軍令部に提出したが、当然ながら軍令部はこれに反対した(『戦史叢書ハワイ作戦』79頁)。しかし、山本は、これにめげずに、邀撃作戦の問題点を具体的に指摘して、この撤回をはかることはしなかった。邀撃作戦の具体的な批判を欠いたまま、空母空襲作戦の実施のみを主張してゆくのである。

 敵地空襲ーハワイ奇襲作戦 15年3月、山本は、「統一指揮による大飛行機隊の昼間雷撃訓練の見事な攻撃ぶり」を目撃して、傍らの福留参謀長に「飛行機でハワイをたたけないものか」(「福島繁少将 戦後の回想」[『戦史叢書ハワイ作戦』79頁])と洩らした。

 15年5月7日、米国は東太平洋で大規模な演習を行った後、太平洋艦隊のハワイ常駐を発表した。15年夏、政府は「対米戦に進展必至と判断されるような強腰の政策」を決定したので、山本もこれに応じて「対米作戦構想」を案出した。しかし、「唯一の方策である航空母艦をもって開戦劈頭ハワイにある米艦隊主力に対し奇襲する案は、あまりにも危険性が大きく、投機的すぎる」と思われていて、山本もこれを「決断しかねていた」(『戦史叢書ハワイ作戦』80頁)のである。

 16年10月24日付島田海相宛書簡(『戦史叢書ハワイ作戦』81頁)で、山本は、@「種々考慮研究」の結果、「結局開戦劈頭有力なる航空部隊を以て敵本営に斬込み 彼をして物心共に起ち難き迄の痛撃を加ふるの外 無しと考ふるに立至りたる次第」であり、A「敵将キメルの性格」、「最近の米海軍の思想」を観察すると、米海軍は「必ずしも漸進正攻法のみに依るものとは思はれず」、しかも、「我南方作戦中の皇土本土の防衛術力」を考慮すると、「真に寒心に耐えざるもの」があり、「万一敵機東京大阪を急襲」した場合、「国論(衆愚の)は果して海軍に対し何というべきか」と懸念を表明した。ここで、山本は日米戦争を日露戦争と比較しており、「日露戦争を回想すれば想 半ばに過ぐるものあり」としている。国民世論などを気にする前に、明確な戦果をあげることだけを考えればいいのだが、本筋以外に気を使いすぎている、

 そして、山本は、軍令部の一部が、「劈頭航空戦」は「結局一支作戦に過ぎず」、しかも「成否半々の大賭博」だとして、「之に航空艦隊の全力を傾注するが如きは以ての外なり」と批判したことに対して、日支戦争は「四年疲労の余」を受け「米英支同時作戦に加ふるに対露をも考慮に入れ」ねばならず、「欧亜作戦の数倍の地域に亘り持久作戦を以て自主自営十数年の久しきに堪へん」とするは「非常な無理ある次第」と批判する。しかし、「大勢に押されて立上らざるを得ず」とすれば、艦隊責任者としては「尋常一様の作戦」では「見込立たず」として、「桶狭間とひよどり越と川中島」を合わせ行なう「羽目」に追い込まれたとした。真珠湾奇襲それ自体は「桶狭間とひよどり越」ということであろうが、似ていることは奇襲ということだけであり、戦争規模・目的などは比較の対象に葉ならない。比喩が適切ではない。

 さらに、山本は、航空隊参加の「此作戦は非常に危険困難」であり(敵の)「全滅を期せざるべからず」とし、自ら連合艦隊長官から航空艦隊長官に転じ「直率戦隊のみにて実施せん」と決意しているともした。これは、「小生の技倆不熟」のために「正攻的順次作戦に自信なき窮余の策」ともした。堂々と正攻法で真珠湾作戦を展開し、その余勢で米国本土空爆を行なうべきだったが、真珠湾奇襲では米国本土追撃など想いもよらなかったということであろう。敵米国力差削減には本土空襲しかなかったが、山本は海軍主流の邀撃作戦からする強い批判を受けて、ハワイ奇襲に矮小化せざるを得なかったということである。後述の淵田美津雄が連合艦隊司令官であったならば、ハワイ島空爆、米国西海岸空爆を成功裡に敢行したことであろう。ハワイ州都のホノルルは、カリフォルニア州サンフランシスコへ3850キロメートルだから、ハワイ占領して、日本航空基地にして、空母を活用すれば、十分空襲可能であった。

 なお、16年頃、山本長官は3、4人の幕僚らと雑談している際、当時米国陸軍2個師団半ぐらいがハワイに駐屯していたが、「ハワイ空襲と関連してハワイ攻略はできないか」と提示した。その理由として、山本は、「ハワイには米海軍軍人の半分ぐらいがいるが、養成するのに長年月かかる海軍軍人をここで捕虜とすれば、さすがの米国でも海軍の勢力回復は困難となるだろう」(『戦史叢書ハワイ作戦』93頁)とした。しかし、ここを拠点に米国本土空爆という発想まではなかったようだ。また、昭和16年1月24日付笹川良一宛書簡で、山本五十六は、「日米開戦に至らば己が目ざすところ素よりグァム比律賓にあらず、将又布哇桑港にあらず、実に華府街頭白亜館上の盟ならざるべからず、当時の為政家 果して此本腰の覚悟と自信ありや」(工藤美代子『山本五十六の生涯』361頁)とした。だが、山本は、右翼の笹川ではなく、軍令部・政治家にこれしか対米戦争で勝利する途はないことをを堂々と提唱すべきではなかったか。

 総力戦把握 では、山本は日米国力差をどう見て、総力戦をいかに画策していたのか。

 堀悌吉中将は、『五峯録』(『戦史叢書ハワイ作戦』82頁)で、山本五十六が、「資源、経済力、工業力」が「決定的要素」である「近代の国家総力戦」に関連して、「日米両国間には比較の出来ない程の差等」があり、特に「航空兵力はその量、質及生産力に於て絶大の懸隔」があり、これは「致命的」としていたとする。そこで、山本は、「苟も対米戦争をやるならば、まず劈頭に敵主力を屠って彼我のバランスを破り、充分のハンディキャップをつける以外に、わが作戦の施しようがない」とした。この点では、山本の真珠湾攻撃の基本的意図は的確であったのだ。しかし、問題は、山本が部下に米国太平洋軍の撃滅を徹底させて居らず、かつ次なる米本土空爆までは打ち出せないでいたということである。

 つまり、昭和15年11月下旬に山本連合艦隊指令長官が及川古志郎海相に対米軍備を口頭で進言し、16年1月7日に書簡で「軍備に関する意見」(『戦史叢書ハワイ作戦』82−5頁)では、「海軍殊に連合艦隊としては対米英必戦を覚悟して」、戦備・訓練・作戦計画に「真剣に邁進」する時期に突入したとして、まず、戦備について、既に海軍中央は「全力を挙げて之が整備に努力」していると思うが、開戦となれば、「尚ほ種々の細かき新要求も出」ようから「充分に考慮あり度」とし、特に「航空兵力はその機材と人員」が不十分だから、「あらゆる機会に之が増産方を激励相成度」しとした。訓練に関しては、従来の訓練は「邀撃決戦の場合を対象とする各隊の任務に関する」「正常基本の事項」であったが、「実際問題として日米開戦の場合」には艦隊決戦は起こらない故に、各部隊の戦闘における指揮官の臨機応変な対応の訓練が欠けているので、「平素等閑に付され勝なる幾多の事項に対し 時局柄 真剣に訓練の要」あるとし、艦隊、戦隊、「一艦一隊」が「各場面に於て其の戦闘力を極度に発揮」できるように「不断の検討」をすることが必要だとした。

 「作戦方針」については、従来の作戦方針研究は「正常堂々たる邀撃大主作戦」を対象としてきたが、これまでの「屡次図演」では、「帝国海軍は未だ一回の大勝を得たることなく」、「此の儘推移すれば恐くヂリ貧に陥る」と懸念しつつ「演習中止となるを恒例」としていた。だから、「苟も一旦開戦と決したる以上」はこのジリ貧を避けるべきとする。そこで、山本は、「日米戦争に於て我の第一に遂行せざるべからざる要項」は「開戦劈頭 敵主力艦隊を猛撃撃破して米国海軍及米国民をして救ふ可からざる程度に其の志気を沮喪せしむること」だと主張した。だが、山本は、敵主力艦隊の撃破のみを考慮すればよいのに、日本国民の世論とか米国民士気など、政治的配慮をしすぎている。

 「開戦劈頭に於て採るべき作戦計画」では、山本は、日露戦争の教訓(開戦劈頭に「敵主力艦隊急襲の好機」があったのに、水雷部隊の士気不十分で、旅順港の閉塞作業は不徹底)を踏まえて、日米開戦では「勝敗は第一日に於て決するの覚悟」あるべしとする。しかし、一日で勝敗を決することはできないのであり、緒戦で勝利し、その勢いで米本国の総力打撃作戦にかかるべきであった。一日で決するなどとは、不徹底と言わざるをえない。では、山本は、いかなる「作戦実施の要領」を抱いていたかというと、@「敵主力の大部分」が在泊の場合には飛行機隊で「徹底的に撃破」し「同港を閉塞」し、A敵主力が真珠湾以外に在泊の場合には、「之に準ず」とし、B「敵主力 若し早期に布哇を出撃来攻するが如き場合には決戦部隊を挙て之を邀撃し一挙に之を邀撃」するとした。これが成功すれば、フィリピン以南の「雑兵力」は「士気沮喪 到底 勇戦敢闘に堪へざる」とした。しかし、真珠湾攻撃で日本側被害が大きい場合、「敵は一挙に帝国本土の急襲を行ひ 帝都其の他の大都市を焼尽するの策」にでるやもしれないので、「南方作戦に仮令成功を収むるとも我海軍は輿論の激攻を浴び」るともした。山本は輿論動向を気にしすぎていて、米国領攻撃の根源的意義を把握しきれていないのである。

 最後に、山本は、連合艦隊指令長官を辞任して航空艦隊司令長官となって「攻撃部隊を直率」したいとした。

 昭和16年9月、東京での長岡中学同窓会で、山本は、@「米国人は正義感が強く闘争心と冒険心が旺盛」で「とくに科学に基礎をおいて学問の上から割りだしての実行力は、恐るべき者がある」事、A「(日本は)工業力の点ではまったく(米国と)比較になら」ず、「石油だけを採ってみても、日本は絶対に米国と戦うべきではない」(ポッター『山本五十六の生涯』40頁)事とした。日米開戦の作戦をたてている最中にも、山本は国力差から日米開戦を避けるべきだとしていたのである。

 山本の不徹底「航空主兵」論 なぜ、山本は航空主兵論の提唱と実行・推進が不徹底だったのか。これには、「五十六の内面には非常に情緒的で、やさしい部分」があり、「武人としての衣」(工藤美代子『山本五十六の生涯』310−1頁)と矛盾しているといった、山本個人の内部的要因とともに、山本が置かれていた複雑な状況も考慮されねばならないだろう。

 山本権兵衛の艦隊増強の「海主陸従」論の主要な敵は陸軍であり、それは権兵衛の断固たる徹底した態度と、薩閥支持、長閥理解で実現を見ることが出来た。しかし、山本五十六に始まる航空主兵論に基づく「海主陸従」の敵は、陸軍のみではなく、海軍内部、航空主兵内部にもあった。つまり、艦艇制限を目指すワシントン・ロンドン軍縮条約で海軍主軸は艦艇であるという世界的認識があり、かつ海軍内部で艦隊派と条約派の対立が醸成され、艦隊派が強固な勢力を形成していて、これが航空主兵論に強く反対し、後々まで海軍戦闘主軸が艦艇から航空機に変化するという趨勢の把握を鈍化させ遅延させたのである。さらに、航空主兵論でも、後述の通り、基地航空による西太平洋邀撃派(大西瀧治郎・井上成美ら)と米国本土空襲を含む航空母艦派(山本五十六、淵田美津雄ら)があったために、海軍内部に強い反対を重層的に抱えることになったということである。この結果、海軍航空を戦闘主力にすることの反対は、陸軍のみではな、海軍内部の艦隊派からおこり、米国本土空襲という日米国力差根源の破壊をめざす航空母艦派は、基地航空による西太平洋邀撃派の反対に直面することになったのである。

 だからこそ、山本五十六は、@あくまで航空主兵論、しかも米国本土空襲を含む航空母艦論を徹底し、今後の海軍主軸は艦船ではなく、航空母艦と艦載機であることを提唱しつつ、A特に戦艦はもはや海軍兵力の主軸ではなく、その限りでは無用ではあり、新たに大型戦艦などは建造すべきではないが、既存の戦艦は駆逐艦・巡洋艦などとともに空母護衛艦船という新しい使命を帯びて再編されるのであり、戦艦・駆逐艦乗員は直ちに冗員となって失職するのではないことなどを粘り強く提唱するべきであった。当然戦艦無用論には海軍首脳の間に支持者・理解者を得られることは至難ではあったが、山本は安易な妥協を一切許すべきではなかった。山本は、しぶとく実験と理論で航空爆撃威力を海軍首脳に説き、日米国力差を打破して日本をアメリカに勝利させる方法とは、軍主軸を航空母艦と艦載機に迅速に再編すること以外にはないことを具体的に唱えるべきであったのだ。

 さらに、山本らは、海軍兵学校に航空科を新設し、海軍教育課程で必ず航空も必修とするなどして、航空重要性を海軍内部に知らしめることに積極的であるべきだったということになろう。というのは、「海軍の主役が軍艦で、少数精鋭主義が通用した時代の所産」として兵科第一主義がとられ、大正4年制定「軍令承行令」で明確に「軍令は兵科将校」が承行し、兵科将校不在時には「機関科将校」が軍令を承行するとし、軍医・主計・技術士官には指揮権はあたえられなかったからである。この結果、「総体的に昭和期の兵学校出身者が偏狭で包容力に乏し」いものとなり、、日米開戦直前から始まった大学・高専出身の海軍将校はこの兵科出身将校を「ホンチャン」(池田清『海軍と日本』160−3頁)と蔑称することになっていた。海軍兵学校に航空科を併設して、この弊害化した兵科第一主義に風穴を開ける必要があったのである。航空主兵に通暁した山本にはこの義務があったということだ。

 もし山本がこの実現を徹底的にめざしつつも、軍首脳に容れられなければ、一転、日米開戦に反対し、断乎臥薪嘗胆すべきだった。東条の言うごとく開戦せずに日本が二等国、三等国に一時的なったとしても、国民に多大な犠牲を強いて敗戦して五等国になるよりははるかにましであり、アジア諸国と連帯して中長期的に戦わずしてアメリカ帝国主義にうち勝った方がはるかによかったのである。個別専門研究に安住していた「学者」どもは、「国民」危急存亡にあって、根源を踏まえた綜合的学問をもって、このことを指し示すべきであったにもかかわらず、これを怠った戦争責任は極めて大きいといわざるを得ないのである。


                                     c 大西瀧治郎の航空主兵論

 海軍航空一筋 大西は、兵庫県氷上郡芦田村の「大きな旧家」の生まれで、@柏原中学時代に日露戦争勃発し海軍がバルチック艦隊を撃滅し、A中学の二年先輩で広瀬武夫中佐崇拝者の富田貴一(後に海軍大佐)に感化されて、海軍をめざし、中学4年時に海軍兵学校を受験し、20番で合格した(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』光人社、1997年、19ー23頁)。明治45年海兵第40期として卒業し、同期に宇垣纏・左近允尚正・醍醐忠重・寺岡謹平・福留繁・ 山口多聞(父は松江藩士)らがいた。

 この大西は、山本五十六の8期後輩になるが、大正4年12月1日水上機母艦「若宮」に乗組み、5年4月1日横須賀海軍航空隊(航空技術委員会を発展的に解消)付となって以来、海軍航空一筋に軍歴を歩み、「海軍航空は小生の生命」(副官福元秀盛少佐宛書簡[秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』19頁])と言うほどに山本五十六に次ぐ海軍航空主兵論者になる。山本の違いを挙げれば、大正8年1月から9年10月まで英国に留学して英国空軍に詳しく、以後日本海軍航空教育などに従事し(大正1010年8月6日に横須賀海軍航空隊付になって以降、横須賀海軍航空船隊長心得、横須賀海軍航空隊教官・霞ヶ浦航空隊教官兼任、鳳翔飛行長、横須賀海軍航空隊副長兼教頭、海軍航空本部教育部長などを歴任)、 昭和12年以降には日中戦争の航空作戦に関わり(中攻機に同乗して南京方面渡洋爆撃を視察したり[昭和12年8月21日]、第二連合航空隊[中支]の司令官になったりして[14年10月19日]、第一連合航空隊の司令官に補され[15年11月1日]、引きつづき支那作戦に従事している)、かつ露骨な闘志の持ち主だったということであろう。

 大西らの航空主兵主義 大西は、依然として艦隊派が海軍で跋扈して、航空の重要性が理解されぬ状況にあって、海軍航空の重要性を提唱してゆく。

 昭和10年、横須賀航空隊の教頭大西瀧治郎大佐の主宰する兵術研究会の一課題は、「母艦の集中配備か分散配備か」であった。海軍大学校出身の一教官は「兵力は集中して使用しなければ効果があがらない。集中配備(当時の母艦は2隻のみだが)で、先制攻撃をやらなければならない」と主張したが、大西は、「お前たちは原則ばかりたてにとるが・・先制の方が集中よりはるかに重要」と批判した。大西は、源田実によれば「海大出など足元に及ばない大兵術家」であり、「飛行機の性能も増し、また、いわゆる急降下爆撃という新しい爆撃法が採用されるに及んで、爆弾の命中率が画期的に向上したため、脆弱な防御力の母艦を集中使用するのは不得策という意見が大勢を制」し、大西の分散論が優勢になった。昭和11、12年には、海軍大学での図上演習で、航空母艦の分散配備論が「圧倒的」(源田実『真珠湾作戦回顧録』45−6頁)となった。

 昭和11年2月頃、大西瀧治郎大佐が、海軍大学の講堂で、航空用兵の演説を行なった。源田実少佐の記憶によれば、大西は、「海軍の主兵は大砲ということになっているが、果してそうであろうか」と疑問を呈し、飛行機・魚雷は敵を着実に攻撃するが、「ひとり鉄砲屋に至っては、年にわずか5発か6発の弾を射って、当たった当たった」と「威張っているが」、これこそが「海軍の弱点」ではないかとした(源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫、1998年65頁)。まだ大西は「航空主兵論を唱えたわけではない」が、この発言は若年将校の「心の中にかくされている何ものかをゆさぶる性質」のものであった。

 大西は、こういう話をほかでも展開し、この頃から航空主兵論が「海軍航空の各方面」で唱えられだした。その画期が11年4月1日に大西が航空本部教育部長に就任したことであった。この頃から「航空至上、戦艦無用論」を強く主張し始める。当時の大艦巨砲主義者、反航空論者の主張の一つとして、「航空機はなるほど偉大な威力を持っているが、多くの演習の結果は、彼我航空隊は、たいがい攻撃しあって、両方ともだおれになるのが通例である。したがって、最後の決戦は、残存した水上部隊によって戦われることになる」というのがあった。軍令部、艦隊の首脳にも、未だに「この考えを抱く者が少なくなかった」のである。図演で、「日米両軍の航空部隊は、おたがいに相殺して全滅し、残った水上部隊の決戦では、数がものをいって、日本軍が敗れた」のである。ここに居合わせた大西は、「なるほど航空部隊は相殺した。しかし、かりに日本軍がこの演習に使用した航空兵力の倍の兵力を準備していたならば、結果はどうなったと、諸官は思われるか」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』130頁)と、問題提起した。だが、誰も答えることはできなかった。

 昭和11年の連合艦隊演習では、「主力艦隊が青島を出撃して五十分もたたない間に、(内地の基地攻撃隊の)航空機の大編隊がおそいかかり、『長門』『陸奥』以下の戦艦群は、虚をつかれて大敗をこうむった」のであった。その夜の研究会で、木更津空飛行隊長新田少佐や柴田少佐らは連合艦隊司令長官高橋三吉大将らに、戦艦無用論を「真剣に開陳」した。しかし、取り上げてはもらえなかったが、「大西のほかにも、『戦艦無用論』は若手飛行将校のあいだにも、その主義、主張が、この時代に定着しつつあった」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』131頁)のである。

 昭和11年7月に大和・武蔵の建造決定すると、大西大佐は軍令部に日参して、軍令部第二部長古賀峯一に、「大和のような戦艦を新造するのは、自動車の時代に八頭立ての馬車をつくるようなものだ」、「それでは租税を納める国民に申し訳が立たない」と詰め寄った。古賀が、「大国の皇室ともなれば新しい馬車の一台は必要だろう」と反論すると、大西は、大和か武蔵の一方を廃止すれば「空母が三隻できる」(工藤美代子『山本五十六の生涯』237−8頁、秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』132頁)と主張した。また、大西は、「独断で海軍航空関係者を集め、戦艦第一主義から航空主兵主義への転換をせま」(森四朗『特攻とは何か』文藝春秋、2006年、34頁)り、国力との関連から、巨額経費を要する戦艦より基地飛行部隊に軸心を移すべきとも提唱した(森本忠夫『特攻』文芸春秋、1992年、61−3頁)。しかし、この主張はことごとく大艦巨砲主義の艦隊派に却下された。

 なお、航空優位論者の山本五十六航空本部長は「大西ほど激しくはな」く、大和設計図作成者の福田啓二技術大佐に「そんな軍艦の設計ばかりしていると、まもなく失業するよ」と揶揄する程度であった。大西は、旧朝敵出身でないこともあってか、大西以上に強硬な航空主兵論者だったのである。

 これにめげることなく、12年6月には、大西は空中兵力威力研究会を設置した。当時の海軍大学(2年間。大尉進級後に1年間の海上・航空勤務で受験資格をもつ。受験者数百人。3回まで受験。5月筆記試験を経て、兵術と精神力の論文試験で60人に絞り込む。8月東京で口頭試問。12月入学)の航空専攻の14人(35期7人、36期7人)が連帯して、「マンモス戦艦無用論を叫び、B計画を改めて、航空母艦の建造へと切り換え」るべきと提唱していた。この研究会は、こうした当時の若手の淵田美津雄らの大艦巨砲主義批判・航空主兵主義急先鋒の機運をも反映していた(中田整一『淵田美津雄自叙伝』59−60頁)。

 空中兵力威力研究会が結成されると、毎水曜日に淵田らは、東京水交社で例会を開催した。彼ら「航空に関する若手エキスパート」はここで活発に意見を表明したが、若気の余り、「世界の三馬鹿、戦艦大和に、万里の長城、ピラミッド」などと叫んだ。その結果、僅か3回で、「大和、武蔵の建造に御執心」の海軍上層部は「諸士横議」を口実に「私的研究会として解散を命」じた。まさに海軍上層は、淵田らに耳をかさず、「日本海海戦の亡霊に祟られ、大艦巨砲による海上権力史論の夢を追いつづけていた」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』60−1頁)のであった。ただし、12年6月海軍大学校教官山縣正郷大佐は「将来之海軍軍備」で、@「将来軍備の重点は航空である」としつつ、A5−10年間は軍備過渡期であり、この間は「依然現型式の水上部隊を保持し、これに航空軍備を織り込み整備すべきである」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、245頁)と主張していたように、急激にではなく、上層部を納得させつつ漸減的に行なうという柔軟さも必要だった。

 『航空軍備に関する研究』  昭和12年7月、大西瀧次郎は、『航空軍備に関する研究』(戦史叢書『ハワイ作戦』昭和42年、513−533頁)で、いずれ飛行機優勢となり、艦隊は、「制海権保障の権力たることを得」ないので、海軍の任務の「絶対条件」は「強大なる基地航空兵力の整備」による「西太平洋に於ける制海権の維持」だとした。

 第一章緒言一「研究の態度」では、@科学技術進歩を軍備に取りれることが「勝ち易きに勝つ所以」であり、先輩が「帝国海軍をして兎に角世界の進歩の尖端を行くの優位」を維持してきたとし(513頁)、これを踏まえ、大西は、「吾人に課せられたる」課題は「航空兵力の再認識」と「之に基く海軍々備形態の再検討」だとし(514頁)、A「航空の進歩」は「急激」であり、「航空が其の重要々素を占むる戦争方式」の「変更」が必要だが、「海軍々事当事者」の航空知識、航空戦力の認識は遅れているので、今後の軍備計画には「航空威力の将来性」を考慮すべきであるとし、Bこれは「航空兵力の将来性に関する航空本部の思想を代表」し、「空軍独立」という「重大懸案」問題にも一石を投じるものであり、C「空中兵力威力研究会」でも現在研究中だが、これは「航空本部に於て抱懐せる思想に具体的根拠を付与」するものとした。

 二「研究の成果」(一)航空研究成果の要旨では、@基地用大型飛行機の整備は国防上「緊要」であり、A空母を含む艦艇は、基地用大型飛行機主体の航空兵力の「威力圏内」では「制海権保障の権力」たりえず、B「西太平洋に於ける制海権の維持」には、「彼我水上艦船の比率」は「殆んど問題とならず」、基地航空兵力が「絶対条件」(515頁)だとした。(三)「航空兵力の隷属問題」解決策の研究の成果では、@「統一空軍式の空軍独立」には反対し、A「純正空軍式兵力の全部を海軍に隷属」させるが、B「国土防空」は「全部を陸軍の単一統制下に置く」とした。大西は、海軍セクショナリズム維持のため、「制海権」防空は海軍、国土防空は陸軍と分担し、統一的航空省設置には反対した。

 第二章「航空の発達と軍備」一「航空兵力の将来」では、@かつては「補助兵力」でしかなかった航空機は「艦隊決戦或は攻城野戦」に従事し、「航空兵力を有せざる海陸軍は殆んど無能」となり、将来は「純正空軍時代」を招来し、A「航空兵力の任務に依る区分」、「之等の航空機を海陸空軍に如何に分属」するかは各国「国情」によるとし、B空母搭載飛行機は「艦隊の編組、戦略、戦術」を根底より変更させることはないが、基地航空機(「大航続距離、大速力、大攻撃力を有する大型機」)は「画期的の兵術革新を招来」(517頁)するとした。

 同二章の二「将来に於ける海軍々備の形態」では、「艦船に大なる執着を有する海軍軍人を納得せしめ得ざる」ことだが、飛行機爆撃・雷撃の艦隊破壊力の効果・命中精度を考慮すると、制海権を「握るもの」は「優勢なる艦隊」ではなく、「強大なる航空兵力」だとする。これは「「職を航空に奉ずる者の偏狭自負」(519頁)ではない。大西が基地航空を重視する理由は、「優秀なる性能を具備する大型機」それ自体が「立派なる艦艇」であり、「主力艦の主砲の破壊力に等しき爆弾又は最新魚雷を有し 且水上艦艇の十倍に近き速力を以て行動し得る有力なる艦艇」(519頁)とみていたからである。まさに、大西は、大型機という「新艦艇の出現」が「従来の海軍艦艇の地位に一大動揺を招来」したとする。

 大西は「航空万能の夢に酔ひて戦艦無能論を叫ぶに非ず」としつつも、@将来は艦隊決戦のみでは「戦勝を保証」できず、A西太平洋の制海権維持には基地航空兵力が不可欠とする(520頁)。大西が、大型機による基地航空を重視するのは、従来の邀撃作戦を踏襲して、西太平洋制海権維持を帝国海軍の任務とするからである。そして、将来、「在来の我海軍任務の主要部は純正空軍を以て有効且つ経済的に達成」すれば、「海軍の任務は大いに軽減」され、現在より「著しく小なる」海軍兵力で足りると主張する。

 同二章の三「将来に於ける陸軍々備の形態」では、大西は、陸軍任務は、侵攻軍を防禦し敵国領土を侵攻し「敵国をして屈服」させることとする(521頁)。大西は、空軍による敵国空襲を指摘しつつも、これは陸軍任務ではないとするー「敵国政治経済工業の枢要都市、局地を空襲する純正空軍式作戦」は、「航空の進歩に伴ひ創造せられんとする新戦争方式」。だが、「其の空襲目標が地上なるの故を以て直に之を陸軍作戦の一部」とみなすことはできないとする(521頁)。陸軍の「並行作戦」があって、この純正空軍式兵力の作戦が成果をあげるとする。そして、大西は、陸軍に配慮してか、「強大なる純正空軍式兵力」を保有しても、陸軍を「著しく縮減すること困難なるべし」とした。

 同二章の四「純正空軍」では、「純正空軍式航空兵力の用途」は「空襲」であり、@「陸方面に於いては政略的見地より敵国政治経済の中枢都市を 又戦略的見地より軍需工業の中枢を 又航空戦術的見地より敵純性空軍基地を空襲」し、「要する場合は敵陸軍の後方兵站線、重要施設、航空基地等を攻撃し陸軍作戦に協同」し、A「海方面に於ては攻撃威力圏内に在る敵艦艇及海軍施設に対し単独作戦し 或は艦隊と協同作戦す 又其の威力圏内海域を清掃し 或は敵の海上交通を破壊し制海権の掌握行使に関し海軍艦船と其の任を分担するに在り」(521頁)とした。このように航空兵力の特質は、「其の威力圏内に於ては海陸を問はず 所要の地点に随時其の攻撃力を集中発揮し得る」ことだとする。

 日本では、「大陸作戦、南方作戦、太平洋作戦の其の何れに対して純正空軍式作戦」を遂行するには、「攻撃力」が大で「行動力」が「優大」なる飛行機が不足しているので、「海陸軍作戦に直接協同すべき航空軍備の整備」に急であり、ソ連、米国、支那の「積極的軍備」に刺戟され「大型機充実の必要」が提唱されつつあるが、この大型機活用作戦を「積極的に適用せんとする思想」は不徹底だとする。そこで、とりあえず「中型陸上攻撃機或は中型飛行艇」を平時千機保有すれば(この維持費2億5千万ー3億円)、戦時2千機「活躍せしめ得べ」しと提言する。そして、「敵が此の種 戦争方式を採用」すれば、日本も「純正空軍式軍備を急速に整備する要 切実」とした(522頁)。大西は、航空機空爆の効果を指摘し、太平洋作戦に言及してはいたが、結局、米国本土空爆を提唱するまでは至らない。

 同二章の五「国土防空」では、@「戦闘機、高射砲等所謂防空機関に依る防空の実質的効果」は「極めて貧弱」であるから、これは「気休にとどめ」、A積極的方法として、「強大なる純正空軍を整備し 開戦初頭より敵国空軍基地、航空工業機関に対し 徹底的に攻撃を実施し 敵をして純正空軍式作戦の実施(空襲ー筆者)を不可能ならし」め、B消極的方法としては、「国家諸般の中枢機関」の分散、「対空警戒網、防火防毒設備、灯火官制施設」の平時から「完備」、国民の「防空演習」などを実施するとした(522頁)。

 第三章「航空兵力の隷属」一「本研究に当り留意すべき事項」では、@「陸海軍と対立すべき空軍の創設は我が国に於ては憲法の改正によるべき重大事項なるを以て之が研究は特に慎重なるを要」し、Aそこで「海軍或は陸軍なる立場を離れ 国防乃至国軍なる大乗的見地に立ちて大方針を確立」する「気宇」が必要であり、B「軍政の大変革」には長期を要し、C「航空の軍事的地位」の15年間の「向上」を「出来得る限り具体的に検討」し「更改制定」に着手し、D日本「独自の国情」を基調として「虚心坦懐に国防の大局より観測」し、E「作戦戦備の見地」と「国家的見地」より新航空制度を制定するなどとした(522−3頁)。

 二「空軍独立問題の概念」では、「一国の航空兵力隷属の様式」には、@統一空軍制(空軍省・航空省が「一国の全航空兵力」を保有・養成・運用)、A分属空軍制(海軍・陸軍がそれぞれ航空兵力を保有・養成・運用)、B独立空軍制(海陸軍の航空兵力とは別に、大型機で空襲を遂行する空軍があり、両者協力する)、C純正空軍制(海陸軍の航空兵力とは別に、大型機で「敵国を屈服」するために空襲を遂行する空軍があり、両者協力しない。陸軍・海軍・空軍の三者鼎存)、D併合空軍制(海陸軍は航空兵力をもち、大型機は海陸軍航空兵力に「併合」して保有・運用)の五つがあるとした(524頁)。

 三「統一空軍制」の「結論」として、大西は、@「我国の地理的対勢に基く戦争方式の要求に合致せざるのみならず、海上作戦上海軍が航空兵力に要求する所を満たし得ざる」ことから、統一空軍制導入には反対し、Aつまり、日本では、「海軍は広袤(ぼう)数千浬に亘る太平洋を作戦舞台」とし、「陸軍は東亜大陸に於ける野戦を主任務」とし、「純正空軍式兵力は支那、蘇連の主要都市 重要施設を作戦の対照(ママ)」とし、「相互に転用し得る」ほかには「三者交互に兵力転用の範囲 大ならず」(524−5頁)とする。ここでは、米国は空襲対象外になっていることが留意される。

 四「独立空軍制及純正空軍制」では、@独立空軍制は空軍のみ大型機を所有し、敵国空襲し、純正空軍制は海軍・陸軍が独力で航空作戦を展開し、A独立空軍制の「主眼点」は、「成るべく大なる航空兵力を空軍として 海陸を通ずる中正の立場にあらしめ 之を強化整備し 且つ軍備の重複を避け 経済的国防を行」なうが、純正空軍制は、海陸軍の航空兵力と大型機空軍は協力しないから、独立空軍制の「本目的に背反」しており、B故に「現実問題として研究の価値あるは独立空軍制あるのみ」(526頁)とする。

 大正期の空軍独立問題が見送られたことは前述したが、昭和10年にドイツは、「再軍備、空軍独立」を宣言した。陸軍は、これに刺激され、「部内に空軍独立論」が再燃し、「海軍側にこれを勧誘」してきた。しかし、「海軍側は依然反対」(『戦史叢書 海軍航空概史』74頁)した。例えば、横須賀航空隊での「陸軍航空の中堅将校」との交渉において、海軍側は「空軍独立は、その首脳に陸軍出身者がつくことが必要と思われるので、独立した空軍は陸軍型のものとなり、海上作戦に不安がある」としたり、「陸軍航空部隊の気風が海軍に入ると、海軍航空の戦力が低下するから遠慮する」と主張した。11年5月には、陸海両大学校長宛海軍大学校教官加来止男中佐・陸軍大学校教官青木喬「独立空軍建設に関する意見書」では、「陸海軍作戦実施上 直属を必要とする航空部隊は陸海軍に残し、純空軍的作戦を行う大型機を主体とし、国土防空に任ずる部隊(防空戦闘機)を加えて新たに独立空軍を作り、陸海空三軍を統制する最高統帥機関を常設する」(『戦史叢書 海軍航空概史』75頁)と唱えられた。陸軍が海軍に誘いをかけたのであろうが、「当時の国力、技術力、工業力の実情では到底実現は望み得ない論」(『戦史叢書 海軍航空概史』75頁)であった。それでも、11年10月、陸軍「ドイツ航空視察団」は、「ドイツに準じて空軍を独立させるべき」と報告した(75頁)。しかし、12年7月、海軍航空本部「航空軍備に関する研究」では、「空軍を独立させた場合、その指導層には陸軍出身者が多く、これが指導権を握って陸軍の用兵思想(陸戦協力を主とし、陸戦場付近の制空権のみを重視するとみられていた)に基づく空軍となることが予想された。そうなった場合には、海軍は、海上作戦に必要な航空兵力の弱体化は免れ得ないとみていた(『戦史叢書 海軍航空概史』75頁)。大西の空軍独立論にも、こうした海軍の反対論が投影されていたようだが、将来的には空軍独立は不可避としていた。彼の所論を以下、見てみよう。

 まず、大西は独立空軍制を研究し、五「独立空軍制と海軍」で、@「現在国軍として海軍艦船の遂行しつつある任務の主要なる部分は将来純正空軍式兵力が之を担任するに至るべきは明らか」であり、これは「艦船兵力と純正空軍式兵力とは密接不離の関係」あるというより「異形同質のものと称する」が適当とし、艦船兵力は「陸方面作戦に積極的に加入し得ざる」が、純正空軍式兵力は海のみならず陸でも威力を発揮するので、両者は「同一の者に隷属」する必要があり、A10−20年後に海軍が変化して「補助兵力として適度の艦船兵力を保有する空軍」となれば、「本問題は自然消滅」(526頁)するとした。つまり、艦船が航空兵器の補助兵力となれば、海軍は自動的に空軍になるとしたのである。実際に、大西は、昭和17年2月海軍航空本部に異動し、3月総務部長に栄転し、5月に国策研究会主催の講演会で、「戦艦は即刻たたきこわし、その材料で空軍をつくってもらいたい。海軍は空軍となるべきである」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』129頁)としている。

 さらに、六「独立空軍制と陸軍」では、@「陸方面作戦に於て純正空軍式作戦として行ふ空襲」と「陸軍作戦に間接的協同の目的を以て行ふ空襲」とは「実際問題」として「明確に区別」しがたいこと、Aただし、「攻撃時の航続力1000浬(1800粁[km])以上の飛行機」は「純正空軍式作戦用飛行機」とみなしうるし、海軍航空基地から400浬圏外の攻撃も「純正空軍式兵力の任務」とみなすこと、B従って「遠距離攻撃用飛行機は陸軍独自の兵力として整備せず」という違いがあるのみであること、C純正空軍式作戦と陸軍作戦は、「陸方面」では「密接なる関係を有する」(「純正空軍式兵力は陸軍作戦に直接関係なき敵国の政治、経済、工業の中枢を対照として作戦」)が、「海上作戦に於ける艦船兵力と純正空軍方式との関係」(「制海権保全の単一任務を両者にて分担」)に比べれば「格段の相違」がある事、D陸軍としては「陸方面作戦に必要とする純正空軍式兵力の全部を陸軍自体に保有するを可」し、「純正空軍式兵力の特性」は「其の威力を随時海陸を問はず 随所に集中発揮し得る能力を全幅発揚する為 之を陸軍より分離すること」はできないとする(527−8頁)。大西は、陸軍の純正空軍式兵力に理解をしめしている。

 七「国土防空と海陸軍」では、国土防衛は、空軍省・航空省設置の場合はこれに委ね、空軍省・航空省を新設しない場合には「在郷軍人、連隊区、学校配属将校」をもって「民衆及民治的行政機関」と「緊密なる接触」をもつ陸軍の統括が適切であるとする(528頁)。

 八「空軍独立と国防費」では、@「純正空軍式航空兵力は其の隷属の如何に拘らず 之を急速整備することは絶対に必要」であり、A「その結果 国防費の膨張を招来するは已むを得ざるところ」であるが、Bしかし、「陸海軍共に絶大の努力を払ひ」、必要度の低い軍備を縮小して「其の節約経費」を「純正空軍式兵力の整備」に充当し、具体的に、海軍では潜水艦を除く「各種艦種」の節減であり、陸軍では「強大なる純正空軍兵力の陸方面に対する猛烈果敢なる作戦が間接直接に陸軍作戦に甚大なる影響を及ぼす」事を考慮して陸軍兵力を節減することになるとする。純正空軍式航空兵力の整備には既存陸海軍の経費節減が不可避になるというのである。

 大西は、海軍側の抵抗を予想して、「純正空軍式兵力を海軍より分離し空軍として独立せしむる場合」、海軍は「本来の任務遂行上に大なる不安を感じ 艦船兵力を縮減すること極めて困難」となり、「或は海軍固有の兵力として純正空軍兵力に準ずる機種を整備」すれば、「経済的国防の本旨に副はざる結果」となるとする(529頁)。

 九「空軍独立と人的問題」では陸海軍の対立という問題が一番とする。大西は、「海陸軍の寄り合ひ世帯式の機関」では「内克く和合し外克く其の機能を発揮したる事例 殆んど無」いから、「将来海陸軍共に反省自戒し此の点大いに改善の要あ」ると指摘する。そして、「純正空軍式兵力は海軍」、「国土防空は陸軍」というように、海軍・陸軍の一方に「全責任を課して責任の所在を明確にし 之に全幅の信頼を置くの優れる場合」があるする(530頁)。

 以上を踏まえて、第三章十「結論」では、@現在の日本航空勢力は、海軍航空勢力と陸軍航空勢力という「純然たる分属空軍制」だが、「航空機能力増大」趨勢を考慮すると、「純正空軍式作戦及航空兵力の海陸空三方面への転用」の考慮と「航空兵力隷属に関する全面的検討」を必要とする時機に到達したとしつつ、A現在の分属空軍制では、「制度の根底に徹底を欠」き「海陸軍相互間に転用すべき航空兵力の種類数量共に明らかなら」ないが、現実には、「海軍航空兵力の一部は陸軍作戦に協同」しているが、「陸軍航空兵力に対し海軍作戦への協力は殆んど期待し得」ず、B結論は、今後15年ぐらいは日本の地理に適応しない「空軍の独立」はするべきではないこと、将来海軍の空軍化がすすめば海軍が「陸方面に於ける純正空軍式作戦任務」を兼行させること、陸軍が国土防空統制を担当すること、統一空軍制、空軍省・航空省設置は有利なようだが、「其の論拠」は薄弱であるなどとした(530頁)。

 最後の「第四章 航空省問題」でこれを明らかにするとする。まず、一「航空省問題の概念」では、空軍省は軍事航空のみを担当し、航空省は軍事航空、民事航空を管掌するが、「民事航空内容の貧弱なる現状に於ては軍用航空機材に関する事項を除外しては一省を創設する理由成立せず」(531頁)とした。大西は、現在日本で主張されている航空省案は、「航空機材に関する事項及民事航空を主体」とし、航空実兵力を除外するものだとした。

 二「航空機材に関する統制」では、航空省設置目的は、「民事航空の画期的発展」をはりつつ、航空機材統制が主目的であり、現在航空機材研究は海軍、陸軍、帝大、各飛行機会社が担っていて、航空省設置すると、これらの重複が回避されるが、海軍航空廠と海軍航空実施部隊との「緊密な関係」が失せて、「海軍航空は機材的に大なる不利不便」(532頁)となる。そこで、大西は、あくまで海軍航空を基軸にせよとし、「海軍航空を副次的とする他の諸国の海軍航空は貧弱にして問題とするに足らざる」とする。

 同章の三「結論」(533頁)では、大西は空軍独立、航空省創設の必要なしとする。つまり、彼は、「差当り航空局を強化し海陸軍之を支援し民事航空の発達を計り、中央航空研究機関を整備し 根底ある航空工業技術の向上進歩に資せしめ 又陸海軍航空強調委員会の如き協調機関を利用し着実に所要の統制を行ひ 協調の実を挙ぐべきもの」とした。

 以上、彼は、飛行機の重要性に着目し、航空機発達に基づく海軍軍備の変容、陸軍・海軍の分担、航空機空爆重要性、空軍独立問題・航空省設置問題について論じたが、大西はあくまで基地航空軍を重視しており、まだ空母の重要性の認識には至ってはいない。大西は、大型基地航空機で西太平洋制海権を確保できれば、ワシントン条約以来の日米英間の艦艇保有比率は問題とならなくなり、艦艇建造の財政問題から解き放たれると見た。そして、日本では、「海軍は広袤(ぼう)数千浬に亘る太平洋を作戦舞台」とし、「陸軍は東亜大陸に於ける野戦を主任務」とするという日本の地理的特徴を踏まえて、日本では空軍独立は適切ではないとした。だが、この先駆的研究は、「『大鑑巨砲主義』を信奉する視野狭窄の海軍中央の正統派”の軍人たち(軍令部軍務局)によって、こともあろうに怪文書”とまでされる烙印を押され、航空本部によって回収される始末となった」(森本忠夫『特攻』文芸春秋、1992年、29頁)のである。もしこれを支持する海軍首脳、理解する陸軍首脳がいて、これが閣議・御前会議まで上っていったとすれば、日米戦争では日本航空兵力は飛躍的・主導的位置を占めていたことであろう。


                               d 航空増勢の計画・実施

 海軍の軍備充実計画 昭和12年7月支那事変勃発以来、海軍は、「大陸作戦の様相にかんがみ軍備充実上の陸軍優先」を容認してきた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』598頁)。その一方で、昭和13年、海軍省、軍令部は、「米国海軍最近の二大軍備計画」を検討して、@「艦艇兵力においては、少なくとも米国の一計画に匹敵し」、A「航空兵力においては、できる限り米海軍航空兵力と同等兵力にすることを目途とする方針のもとに」、新軍備計画を立案した(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』540頁)。12年10月25日、軍令部総長は海相に「支那事変に関連する第二次戦備促進に関する件商議」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』783頁)をし、「日支抗争に・・対応善処せんが為 此の際一層海軍軍備の充実を図ること極めて緊要」とした。陸軍に理解を示すのみならず、支那事変に対処するための、海軍軍備充実を説いたのである。

 軍令部は、13年5月第二次ビンソン計画が米国議会通過の報を受け、この新軍備計画の実行を一年繰り上げて、明治14年度とした。13年6月、軍令部次長が海軍次官にこの軍備計画の実行能否について協議した(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』540頁)。13年9月、軍令部総長が海軍大臣に閣議への請願を請い、同年9月22日、海軍省は閣議に「昭和十四年度海軍軍備充実計画請議書」を提出した。そこでは、@蘇英米仏は「欧州に於ける不安なる国際情勢に鑑み、東洋に使用し得べき海軍兵力十分ならざるものある」ので、「我が国力の進展に不安を感」じ、「蒋政権を援助」し、A特に英米は「近年頓に海軍軍備の拡充に努めつつある」ので、日本が海軍軍備を怠れば、「やがて列強は其の新鋭にして強大なる武力を背景として圧迫し来る」は明らかであり、B「斯くては支那事変の戦果を全うする所以に非ざる」とし、外圧排除の海軍戦備がなければ「支那事変聖戦の意義を徹底し、東亜の和平を確立」できずとし、C「米国は華府、倫敦両条約に基く所謂条約海軍の完成も略近きにある処 支那事変に刺戟せられ、本年更に新『ヴィンソン』拡張案に基き既定兵力量に対し二割の増勢及航空機3千機計画を確立し、其の実行に着手」し、Dゆえに「若し帝国にして速に新計画を樹立し之が実行を策することを怠らんか、我が海軍力の劣勢は愈其の度を増し、昭和18年末には米国に対し主力艦及補助艦に於て各三十余万噸、航空兵力に於て各千数百機の劣勢に達すべく、斯くては我が国策遂行上にも重大なる支障を生ずるのみならず、延ては戦争誘発の危機をも招来するの虞なきを保し難きを以て・・不脅威の自主的軍備計画を策定するを喫緊の要務とす」と、日中戦争を推進する陸軍との関連に配慮して、艦艇83隻・289千トン(12億円余)の増産、航空隊75隊(4億円)の増置を要請した(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』540−1頁)。

 後者の航空増勢は、「既往二十数年にわたり建設し得た海軍航空兵力」を僅か5年間で倍増しようとするものである。これは「生産能力の限界を越えた前例のない大拡張」であったが、支那事変に伴う増産に乗じて、「いまだ幼稚の域を脱しない日本の航空機生産能力を躍進」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』581頁)させようとした。

 航空母艦隊の整備 昭和14年4月10日海軍次官宛軍令部次長「航空機搭載標準変更に関する協議」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』183頁)で、軍令部は航空母艦隊を任務基準に、「機動航空部隊として敵航空母艦攻撃を主任務とする航空母艦」、「前進部隊に所属して夜戦および決戦期に敵主力艦攻撃を主任務とする航空母艦群」、「終始主力部隊付近にあって主として対空対潜警戒、対空防禦を専務とする空母」に分類した。もちろん航空機による 米国本土空襲は一切考慮されていない。

 昭和14年6月19日軍令部総長・海相宛連合艦隊司令長官「主力部隊配属航空母艦に関する意見書」では、海軍のアウトレンジ戦法のために「飛行機観測の要求は絶対」となり、「大集団をもって殺到する敵航空部隊の攻撃」に「有力な防空戦闘機隊」が必要であるとされた(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』179−182頁)。ここにおいて、敵艦隊との決戦に航空母艦を利用するというのである。遅きに失したというべきだ。

 昭和14年9月勃第二次欧州戦争が勃発すると、米国は「万策を尽くして英仏側を援助」し、日本には強硬化した。14年12月、航空揮発油製造技術の対日輸出を禁止した(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』593頁)。

 15年4月、米国海軍は大演習でハワイ方面に進出中の艦隊主力を同方面に常駐配備し、米英蘭豪支による対日包囲陣を強化していった。日本が日独伊三国の結合で南方進出をはかると、「ますます米英側の対日態度」を硬化させた。これに対して、 昭和15年6月9日第一航空戦隊司令官小沢治三郎海軍少将「航空艦隊編制に関する意見」で、「全航空部隊の統一指揮」のために航空艦隊設置を提唱した(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』185−6頁)。

 空母の攻撃戦法 昭和14、5年頃、「軍縮条約失効後 竣工の新鋭航空母艦 蒼竜、飛龍の戦力加入 及び『瑞鶴、翔鶴』の竣工を近く迎えよう」とし、ここに「艦隊主力決戦前に空母部隊の全力をあげて敵空母艦部隊に攻撃を加え、余力をもって敵戦艦部隊を攻撃、これを撃滅するに航空兵力をもってする決戦の構想がにわかに高まってきた」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』164頁)のであった。この結果、「爾後の戦闘は航空撃滅戦の成果並びに戦況に応じ、終末戦の様相」を呈し、「永年培ってきた漸減作戦、特に夜戦の成果に多大の期待を懸けてきた決戦前夜の夜戦を省くことを意味し、漸減作戦の目的を大半喪失することとなる兵術思想の大変革」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』164−5頁)でもあった。

 昭和15年10月に源田実は英国から帰国し、横須賀航空隊で「級友の薗川亀郎少佐」から、「攻撃隊の攻撃が大編隊群の同時協同攻撃でなければならない」ことは明らかだが、敵に察知されずに(故に電波誘導はできない)、「どうして百機以上にも及ぶ大飛行機隊を洋上の一点で集合せしめるか」(源田実『真珠湾作戦回顧録』50頁)が問題になると告げられた。母艦は100海里の距離を保って分散配備する際に、各母艦から発進する飛行機をどの一点で集合させるかが問題となっていたのである。源田は「母艦を一か所に集めればよい」(57頁)と思いついた。源田は、この集中配備には、欠点(敵に発見された場合の壊滅被害)もあるが、長所(上空の直衛機を増やせること)があるとしたのである(源田実『真珠湾作戦回顧録』58−9頁)。こうして、空母の航空機攻撃法が着々と推進され、空母集中配備法は真珠湾作戦で採用され、ミッドウェーで敗北するまで続くことになった。

 しかし、15年には、@「航空基地の建設を始め前進基地としての建設も実質的に緒に着き、昭和15年には邀撃哨戒線を東経160度線まで東方に進め」、A「中型陸上攻撃機および大艇、中艇の整備増勢により基地航空威力の傘のもとにおける艦隊決戦の思想が起こり、漸次その思想も固まってき」て、B「特に陸上攻撃機の進歩発達と太平洋地域の航空基地の整備は、この思想の発展を促進するものであった」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』162頁)が、ついぞ、空母か艦隊充実による米国本土空襲の戦略が起案されることはなかった。
 
 米国海軍大拡張への日本対応 15年6月18日、米国下院海軍委員会は、スターク海軍作戦部長が「最近、独が仏艦隊を取得した上、米国に進攻するという風評」などから、これに対応するために提案した海軍拡張案(両洋艦隊法[大西・太平両洋に同時に攻勢をとりうることをねらう]、戦艦8隻、空母8隻など206−227隻132万トン余増強[現有170万トンに対し、約7割増強]、飛行機15000機、経費46億ドル)を満場一致で可決した。軍令部は、これでは日本海軍は決定的に不利になるとして、「これに対抗すべき軍備の研究」に着手した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、31−2頁)。

 スターク・プランの海軍大拡張計画に衝撃を受け、日本海軍はE計画(戦艦4を含む197隻)を起案研究し、「無制限軍備競争の深みに突入」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』594頁)していった。「従来、帝国海軍の軍備方針は、国防方針に則り対米7割の兵力量を保持することを目標とし、長期にわたってこれが持続」されてきた。対米7割の根拠は、「攻めるに足らず、守るに足る軍隊」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』595頁)を目指していた。これは、「進攻軍は守勢軍に対し五割以上の優勢を保持することが必要である」という列国海軍の兵衛原則に立脚していた。敵国の10割海軍でも「四割三分のみの優勢率では不十分」であったから、「相互不脅威のバランスが成立」していた。

 だが、「米国側の相次ぐ海軍軍備拡充計画の樹立は、帝国海軍の対米七割の保持方針を絶望させたばかりでなく、月日の経過とともに六割以下の兵力量に転落することが当然予想されるに至った」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』595頁)のである。14年末の日本海軍「軍備方針」が修正され、@「近い将来、戦艦比率は対米5割またはそれ以下になることが予見されたので、量的保持は一応断念し、『大和、武蔵』のような超強大戦艦を出現させ、個艦威力の懸絶をもって対抗」し、A航空母艦は、「近い将来わが方の量的比率は急速に低下する趨勢にあるので、これまた保有屯数比率に拘泥することなく、隻数を同数とする方針を堅持すること」とし、補助策として「高速大型優秀商船」を「特設航空母艦」に改造し、B巡洋艦については「対米比率7割は当分維持できる見込みであ」り、C駆逐艦はすぐに「兵力比の大懸隔を生ずるものと予察」し、D潜水艦は「艦隊決戦における洋上補助兵力」であったが、隻数は不足しており、特殊潜航艇で補完し、E第二次ビンソン計画までは航空機数は対米均等であったが、第三次ビンソン案の6千機計画には対応策はなく、かつ「支那事変による消耗補充」に追われて、「機数比率の保持をますます困難ならしめ」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』596頁)た。航空機数では、日本海軍は米国海軍に遅れをとることになったのである。


                                  e 井上の『新軍備計画論』
 艦隊中心拡充策の批判 おりしも、15年10月1日に、井上成美中将は海軍航空本部長に就任した。航空本部長井上は、こうした米国海軍拡張に対抗した日本海軍拡充計画(D計画など)について、@「これは明治、大正の軍備」であり、「ただアメリカが戦艦何隻持つから日本はその八割、空母何隻もつからその八割必要という考え方で、アメリカの軍備に追従して、各種艦艇をその何割かに持ってゆくだけの月並みの計画」であり、「いったんアメリカと戦争になったら、どんないくさをすることになるのか、何で勝つのか、何がどれほど必要なのか、その計画がない」こと、A「日本のような国は特徴あり、創意豊かな軍備を持つべき」であり、「自主性もない、特異性もない」「こんな杜撰な計画に厖大な国費を費やし得るほど日本は金持ちではな」く、B「かりにこの計画通りの軍備ができたとしても、こんなことではアメリカには勝てぬ」(宮野澄『井上成美』155頁)と批判した。井上は、新戦法に重心を移すことなく、従来通りの大鑑巨砲主義と、米国海軍力の7、8割という量的比率で安住する態度を批判したのである。

 この批判について、軍令部第二部長(軍備主務)の高木武雄少将が、第五次軍備改革計画案(D計画)を否定して「どうしろというのですか」と詰問してきた。井上は、「それでよく軍備主務がつとまるな、よく勉強しろ!」と叱責しつつ、頭を下げて教えを請う高木に、「海軍の空軍化について勉強しろということだ」(宮野澄『井上成美』159頁)と説明した。では、井上の「海軍の空軍化」とはどういうものなのか。

 『新軍備計画論』 16(1941)年1月30日には、井上は『新軍備計画論』(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書ハワイ作戦』朝雲新聞社、昭和42年、43−8頁)をまとめて及川海相に提出した。

 ここで、井上は、まず、「総論」の一「海軍軍備計画は根本的に改訂を要す」で、@「軍令部説明軍備計画を見るに其の考へ方は戦艦、巡洋艦、駆逐艦其の他の各艦種及航空兵力に就き対米比率の或る一定水準の保守を目途と為し居るやに見へ、口には質を以て量の不足を補ふと云ふも 其の行き方は単に個艦能力の優を求め 之に依り 勝てそうに考へ居る迄」であり、しかも「其の口に云ふ質の考へ方も 其の内容を突き詰むるときは結局大砲口径の大、搭載数の大等を狙はんとするものにして 矢張り量的競争に過ぎず。海軍軍備全体としての質的の考へ方 甚 少きが如く感ぜられ」、A「帝国は其の国力に於て英米と飽く迄 建艦競争を行はんとすれば、遂に彼に屈服する」は明瞭なので、「嚢に軍縮条約を破棄せる際の帝国の決心は彼と量的の建艦競争を行はんとせしに非ず、軍備の自主性を求めんとしたるに外なら」ないが、しかし、「軍縮条約廃棄の際 海軍が多大の希望を懸け 国民に迄声明せし自主的軍備は何処かに置き忘れたるの観あり。殊に航空機、潜水艦の異常の発達は戦争の方式に大なる変革を来たしつつあり」、Bさらに、「支那問題、東亜共栄圏の問題等帝国の地位、東亜の情勢にも大なる変化ある今日、吾人は徒らに米に対する量的競争のみを目途とすることを止め、一旦日米開戦の暁 日米戦争は如何なる形態を採るや。吾は如何なる作戦を実施すべきや 帝国を不敗の地位に置く方策如何等を根本的に考案し独自の見解に立ち 新なる着想の下に新軍備計画を樹立するの要 切なり」とし、C「今後艦隊決戦本位の建議は之を止め 新形態の軍備に邁進するの要あること勿論なり」(43頁)とした。最近の「航空機、潜水艦の異常の発達」によって従来の艦隊決戦本位は退けるべきとしたのである。

 「総論」二「日米戦争の形態」では、井上は「日本が米国を破り彼を屈服することは不可能」とし、米国は、@「日本全国土の占領も可能」で、A「首都の占領も可能」であり、B「作戦軍の殲滅も可能」であり、C「海上封鎖による海上交通制圧による物資窮乏に導き得る可能性大」であり、D「海上封鎖も技術的に不可能に非ず」という優勢にあるとした(44頁)。日本は、「旧時に於ては戦術的に対米決戦に敗れざるの兵力を保有する事に依り・・弱点の手当は完全に行はれ 帝国の国防の安泰を期し得た」が、現在は「潜水艦及航空機の発達は海防上の大革命を来し、旧時代の海戦の思想のみを以ては何事も之を律するを得ざる」ものとなっていると指摘する。
  
 さらに、井上は、「対米戦争の場合の戦争形態」の「荒筋」として、@「米国は多数の潜水艦を日本近海及日本の生命交通線に活動せしめ航空機と協同し 根強く日本の海上交通破壊戦を行ひ 日本の物資封鎖の挙に出づべ」き故に、日本はフィリピンなど西太平洋の米国領を攻略し「航空基地を逆に我に利用」するべしとし、A日本は米国領侵攻に「多数の潜水艦及航空機」を動員し、「米は時に好機を見て日本本土の空襲を企図すべ」きなので、日本は西太平洋の米国領土を攻略すれば「米国航空機の西太平洋に於ける活動は大いに制限を受け」るとし、「艦隊決戦の如きは米艦隊長官が非常に無智無謀ならざる限り生起の公算なし」とし、井上は西太平洋の「領土攻略戦」が「日米戦争の主作戦」になり、B日本がフィリピンなど「西太平洋の米領土を全部攻略することに依り 戦の大勢は決せられ 帝国は西太平洋の事実上の王者たり得べ」く、C日本は「多数の潜水艦」をハワイ・米本国に配し「彼の海上交通破壊戦を行ふと共に 彼の水上兵力に対し機会ある毎に突撃を加」へ、D従って、日米戦争は「以上の情況」で「持久戦の性質を帯び」、「吾にも新しき手なく彼にも新しき手なく、平凡なる経過を辿るべし」(44−5頁)とした。井上は、日米戦は西太平洋米国領攻略戦が主軸となり、米本国から西太平洋米国領への補給線破壊も重要になるとした。だが、その米国補給の根源たる米国本土の空爆までは言及していない。

 このように、井上は、西太平洋の諸島の攻略を日米戦争の主作戦として、米国本土での戦力・国力著増に言及すらせず、この結果、日米戦争は日本のジリ貧ではなく、相互に「平凡なる経過をたどる」などという甘い見通しを行なった。そして、日本は「先づ不敗の地位に置き持久戦に耐へ得る丈の準備を為し置く事」が「緊要」であり、「速戦即決の如きは云ふべくして行はれず」とした。米国国力の前に日本が「不敗の地位」を築き持久戦にもちこむなど困難であり、、井上は日本がジリ貧になるを見通すことはできなかった。

 三「帝国の海軍軍備整備の要点」では、@日本海軍は日満支連絡線、西太平洋海面交通線などの「海上補給路」を確保する「航空機、潜水艦及機動水上部隊」を整備すること、Aこの場合、この補給路は敵潜水艦・航空機で脅かされるので、日本は米国がこの日本の「弱点」に「作戦重点を置く公算」が大きいことを「大いに重視」すること、B「艦隊決戦の如きは生起することな」いので、日本は敵艦隊が西太平洋に侵入させないように「潜水艦及航空機」を整備すること、C以上、日本海軍に必要な戦備は、艦隊ではなく、「航空兵力」「潜水艦」「『コンボイ』用軽水上艦艇」、「有力なる機動水上兵力(空母基幹兵力ー筆者)」で備えること、D日本海軍は「米水上艦艇攻撃及補給戦破壊の目的」で「米本国沿海迄行動せしむべき潜水艦を整備」すること、E日本海軍は西太平洋の米国航空基地を攻略するために従来の艦隊決戦兵力戦備ではなく、「攻略作戦用兵力」を備えること、Fよって、日本海軍は「優勢なる航空兵力、潜水艦及機動水上兵力」の保有が不可欠であり、特に「航空兵力の優大と潜水艦勢力の優大」は「絶対必要条件」であること、G日本海軍は「西太平洋の制海権」確保が必要であり、「潜水艦及飛行機の発達せる今日」では、潜水艦のゆえに「絶対的」制海権はなく、飛行機のゆえに「制空なくして制海なきこと」を指摘し、H「近時基地用飛行機の発達に依り海上に活動する航空機の主体は陸上飛行機及飛行艇となりし今日」、「水上艦艇なくとも単独に航空兵力のみ」で求められることを踏まえて、日本は「制海の前提として西太平洋の制空権を確保する」ことが必要だとする(46−8頁)。井上は、日米戦争の主軸たる西太平洋での日米攻防が、艦隊ではなく、航空機・潜水艦となることを具体的にあきらかにした。

 四「結論」では、軍令部の軍備計画は、「旧態依然」たるものであり、最近の航空機発達を取り入れておらず、「帝国海軍々備には重大なる欠陥」あるとする。井上は、「軍備計画は先づ以て帝国を不敗の地に置く事を考へ 次で如何なる戦をなして 敵に勝つやを考へ 其の戦の方式に必要なる兵力を整備する」とした(48頁)。戦史叢書は、「この意見に示された用兵思想は、邀撃作戦、艦隊戦隊思想であった当事者にとっては、あまりに大きな差違があったためか、受け入れられなかった」(49頁)としているが、井上は、艦隊決戦の邀撃作戦を飛行機・潜水艦決戦の邀撃作戦に転換しただけであり、邀撃作戦では旧態依然たるものだったのである。

 確かに空母は脆弱であるが、大正10年頃の「屯当り単価」によれば、航空母艦(1万2500トン)が575円であるのに、戦艦(4万1千トン)909円、巡洋戦艦(4万1千トン)913円、大型巡洋艦(8千トン)1005円、大型駆逐艦(1350トン)1636円、大型潜水艦2750円である。一隻あたりの建造「金額」は、航空母艦が275万円なのに、戦艦は3724万円、巡洋戦艦3742万円、大型巡洋艦803万円、大型駆逐艦220万円である(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』268頁)。航空母艦ははるかに安いのである。もとより脆弱な空母護衛のために、戦闘機搭載した空母護衛艦隊が編成され、追加経費がかかるが、大艦巨砲艦隊の製造・維持費よりは安上がりであったろう。

 にも拘らず、井上は、この空母航空兵力よりも、基地航空兵力を第一に重要としている。これは、井上が、迎撃主戦力を艦隊から基地航空兵力に変えただけで、基本的には海軍伝統の邀撃戦法を継承しているからである。米軍を迎え撃つ基地航空を最優先にして、敵本国への空襲を一切断念している。だが、後述の通り、日本の国力の十数倍の米国が、日本の迎撃戦力の数十倍で攻撃してきた場合、日本海軍が陸軍と協力して対応できるとでも思っているのであろうか。奥羽越列藩同盟に加わった諸藩の東北魂、会津魂で敵を粉砕できるとでも思っているのであろうか。日本が米国に勝つ戦法は、長期の邀撃戦法ではなく、空母を活用した短期の本格的空襲戦法なのである。

 この井上成美の『新軍備計画論』は、あくまで海軍のD軍備計画への批判が主であり、大西瀧治郎『航空軍備に関する研究』のような深さと体系をもつものではない。確かに両者はともに基地航空主軸の西太平洋で敵米国を邀撃することの重視ではほぼ一致しつつも、むしろ航空主兵論としては、大西『航空軍備に関する研究』を大きく後退させるものであった。

 米本土攻撃論の欠如 この米本土攻撃に関して、山本五十六は、後述の如くイ号潜水艦で水上攻撃機晴嵐3機を運び敵本土攻撃を行おうとはしていた。だが、これでは規模が小さすぎるし、敵国総力の削減への寄与は弱いのである。彼は、米本土空爆の本格的手段を思いつかず、得意の「奇襲」戦法でやろうとしているのだが、こういう奇襲戦法では却って逆効果である。さらに、米本土攻撃に関連して、前述の通り飛行機の重要性を指摘した大西瀧次郎は、「山本の奇襲戦法に批判的」であり、「米国と戦争をするためには、ワシントンまで攻め込んで“城下の盟”をさせるだけの覚悟がいる。日本にその力はない。米国との戦争は避けるべきだった」(森四朗『特攻とは何か』文藝春秋、2006年、35頁)としている。

 米国は日本がまさか長い太平洋を渡って空襲をしかけてくるはずはないと安心しているから、この油断をついて、@迅速にハワイを帝国主義国米国から解放して、ハワイ政府と基地借用条約を結び、ハワイを米本土空襲の中継基地とし、Aそこから大空母艦隊により反撃を許さぬくらいの米国本土空爆を本格化し、持続し、徹底的に米国本土の石油施設・軍事工場などを破壊する正攻法こそが重要なのである。つまり、「富と権力」という戦争システムの変革が究極的最善策であり、当面は臥薪嘗胆して戦わずして米国に勝つのが時宜的最善策だが、もし日本がアジア諸国を欧米帝国主義から独立させ、ハワイをハワイ人民、アメリカをアメリカ・インディアンに取り戻させるために戦うのならば、真珠湾奇襲のような日米国力差の縮小に寄与しない戦法ではなく、アジア人民の支援のもとに、大空母艦隊による米本土の工業施設・石油製造所の徹底的空爆による日米国力差の縮小・逆転 にひたすら努めるほかはないのである。これしか日本が米国に勝つ道はないのである。これがあらゆる観点で実施困難ならば、臥薪嘗胆、日米開戦などは断じておこなってはならないのである。井上の航空基地拠点作戦、山本の奇襲米国襲撃などは、勝てる対米作戦ではないのである。こういう敗北主義的作戦ならば、一切日米開戦などはすべきではなかった。井上にしても山本にしても、対米避戦の腹が断固すわっていないから、ずるずると日米開戦に巻き込まれていったのである。

 海軍艦隊派からの反撃 こうして彼らが航空機を重視する過程で、彼等は、陸軍と異なる海軍の固有性はどうなるかという問題に絶えず直面したのであった。航空機兵力を主軸にアメリカに勝てる作戦を提唱する場合、主なる敵は、まずは陸軍ではなく、保守的海軍首脳にあったのである。井上が海軍の重要性を提唱するだけで、これまで海軍を破壊する「破壊主義者」」とか、自分の帰属する航空部門振興をはかる「セクショナリズム」と非難されていたのである。だから、井上が及川に『新軍備計画論』を提出した際、「これは自分の海軍に対する遺書」であり、「海軍という所がバカバカしい社会」なので「これで海軍をやめます」(宮野澄『井上成美』163頁)と告げざるを得なかった。山本権兵衛には西郷従道海軍大将、大山巌陸軍大将という薩閥の庇護と、山県有朋陸軍大将ら長閥の理解があったが、航空機重要提唱者には軍首脳の庇護も理解もなく、彼はまさに「孤立無援」なのであった。井上、大西にすれば、自分等にも軍首脳の庇護と理解があれば、山本のように閣議でも御前会議でも新たなレベルでの「海主陸従」論を堂々と雄弁に展開できたということになるかもしれない。しかし、「孤立無援」の彼等としては、航空機重要性の主張が本気であることを海軍内に示すには、職を賭すということぐらいしか方便がなかったのかもしれない。因みに、この井上の『新軍備計画論』は、「機密第798号文書として扱われ、原本を含めて六部のタイプ印書がつくられ海軍省の倉庫にしまい込まれ」(宮野澄『井上成美』163頁)たのであった。

 当時の陸軍は航空用兵において「仮想敵を中国やソ連とする、地上作戦に対する協力にその重点」を置いていて、「東西南北各約一万粁(キロメートル)」をカバーすることは「無理」(森本忠夫『特攻』79頁)であり、さらに陸軍九七式戦闘機の性能は海軍零戦の性能に劣っていた。ここに海軍航空隊は固有の大きな役割の展開を期待された。当時の海軍には、艦艇による伝統的な邀撃体制のうえに東西南北の広大海域をカバーする能力はなかったから、海軍航空機を活用した新戦法が大いに期待される根拠があった。それは、上述の如く、新たなレベルでの「海主陸従」論の提唱となる可能性も大いにあった。しかし、結局、保守的な海軍首脳は、陸軍に代わって広大領域をカバーできないとして、従来通り陸軍とは異なる海軍の固有性を艦艇の役割で追い求めようとしたのである。彼らは、艦艇あっての海軍であり、艦艇あってこそ海軍は陸軍に対して対等性を主張できるとしたのであろう。当時の海軍首脳は、海軍は、陸軍に従属されぬために、従来通り大艦巨砲主義に立脚せざるをえず、航空機主義には立脚できないから、その航空機損耗補填などにも考慮は働かなかったのであろう。この点に関連して、『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』(770頁)は、「この陸海軍関係の調節には企画院はもとより、陸海軍両当局においてもあらゆる苦心を払ったのであるが、根本的には陸主海従か、または海主陸従かの国力配分を合理的に案画しうる適正な国策の決定が必須の要件として要望されたにもかかわらず、これが決定を断行する力を欠き、ただ時局進展のまにまに陸海軍の政治力関係を中心として、それぞれ当面の戦力造成に軍備担当者が日夜追い回される状況となっていたのが実相であろう」と指摘している。

 昭和16年春、軍令部は海軍省にD計画案を「下協議の形式」で打診した(599頁)。海軍省は、@昭和17−25年の9年間の艦艇整備に44億円が必要になり、A航空軍備は艦艇に比べ短期で20億円で整備でき、Bこれに伴い生産能力拡充用施設19億円、教育機関用設備5億円の計24億円が必要となり、Cさらに「要員、資材」の確保をめぐって「陸軍をして譲歩せしめることが絶対要件」とした(601頁)。16年、米国の両洋艦隊法案に衝撃をうけて日本海軍は海軍再拡充に着手し、16年9月21日、軍令部総長は海相にD及びEの両軍備計画を正式に商議した。この時の「航空兵力増勢」は、陸上戦闘機44隊、戦闘兼爆撃機26隊、陸上偵察機4隊、陸上攻撃機50隊、水上戦闘機22隊、水上爆撃機18隊など232隊(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』605−6頁)であった。


                                     f 淵田の航空母艦主力論

 淵田の海軍首脳批判 大西瀧治郎、井上成美らは航空主力論者であったが、かれらは航空母艦は脆弱だとして、基地航空勢力論者にとどまっていた。そうした日本海軍航空勢力の中にあって、一貫して航空母艦主力論を提唱していたのは、淵田美津雄であった。淵田は、彼らをも含めて、「太平洋の各地域においては、日本の提督たちは、もうひとつという勝負度胸がない」、「日本海軍の上層部は皆老いて、外に出ては凡将振りを発揮するし、内にいては因循姑息でエポック・メーキングの作戦様想の変化について行けない」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』287−8頁)と、その軟弱さ、「腰が抜けている」状況を鋭く批判していた。

 昭和14年11月1日、「航空母艦主力論」者の淵田少佐は赤城飛行隊長(第一航空戦隊)に任命された。淵田は、連合艦隊司令長官山本五十六中将に関して、「航空のよき理解者」ではあったが、大和・武蔵が艦隊に編入されることを想定し、「艦隊決戦の主力が航空母艦に移り、戦艦群はその支援兵力に成り下がっている」ということの認識では「まだ生ぬるい」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』62頁)と批判的であった。山本は、航空母艦主力論では徹底していないとするのである。

 14年当時の海軍主流の空母観は依然として空母は「補助艦」というものであり、故に「空母の用法は、単艦ごとの分散配備を建前として、策敵が主任務であり、航空攻撃も行うけれど、それは敵艦隊来攻途上の漸減作戦において、味方潜水艦部隊に協力するといった程度の期待」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』63頁)にとどまった。

 母艦航空兵力の集団攻撃 そうした中で、「水雷出身」の第一航空戦隊司令長官小沢治三郎少将が、淵田の最大理解・支援者となった。山本はもとより、大西瀧治郎・井上成美は淵田の理解者・支援者ではなかった。小沢は淵田に、「母艦航空兵力こそ艦隊決戦の主力」であり、精鋭パイロットではなく「航空はマス」(「母艦航空兵力の集団攻撃」)とした。これは淵田の持論(中田整一『淵田美津雄自叙伝』63頁)そのものであった。この小沢司令官が「集団攻撃になかなか熱心」で、淵田らに「機会を捉えては方々に渡りをつけて、時には陸上航空部隊の中攻隊と組ませたり、また時には内戦部隊の水上機隊とも組ませたり」した。

 当時、脆弱な空母をまもるために空母分散使用が当然とされていたが、淵田は、空母集団使用の方が、航空機「集団」攻撃の威力が発揮しやくなり、且つ「対空直衛機の数も増加出来」る利点があるとした。そこで、淵田は小沢長官に、赤城・加賀(第一航空戦隊)、蒼龍・飛龍(第二航空戦隊)で「一ヶ航空戦隊」を編成し、「空母四隻の集中使用によって、母艦航空兵力の集団攻撃」を提唱した(中田整一『淵田美津雄自叙伝』65頁)。

 15年6月9日に小沢第一航空戦隊司令官は吉田善吾海相に「航空艦隊編成」を建言し、具体的に、@「海戦に於て航空威力を最大に発揮」するためには、「平時から一指揮官の下に全航空部隊を統一指揮」して、「全航空攻撃力を集中」する事、A「速かに連合艦隊内に航空艦隊を編成して、全航空母艦をこれに編入し、国際情勢の逼迫にも鑑み、訓練を急がなければならない」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』66頁)事を提案した。これは実現され、真珠湾攻撃の空中攻撃隊は淵田の統一指揮に委ねられ、真珠湾奇襲艦隊は史上初の「空母主力」艦隊になった。

 真珠湾奇襲作戦批判 淵田は、「真珠湾を叩こうというほどの雄渾な作戦」の指導者の山本五十六長官が、真珠湾奇襲後は「旗艦大和に座乗のまま、南雲機動部隊の空母六隻を基幹とし、戦艦群全力をもって、その護衛に当らせる一大機動艦隊を率いて、太平洋に打って出て、アメリカの軍備がまだ最低で震えているときに乗じて、速戦即決、ハワイはもとより、アメリカ本土の西海岸を叩きまわって、アメリカ国民の戦意を喪失せしむるほどの、更に雄渾な作戦構想が湧いて来なかった」のは「不思議」だとした。彼は、日本海軍は、真珠湾についで、アメリカ本土空襲に着手すべきだったとするのである。アメリカは、「二年」計画で「天文学的数字の厖大な軍備増強計画」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』208−9頁)をたてていたから、淵田はまさにそうなるまえに第二段攻撃でアメリカ本土空襲を本格化すべきであったとするのである。淵田は、井上成美が想起だにせず、大西瀧治郎が断念し、山本が晴嵐数機で恐る恐る企てていた米国本土攻撃を断乎提唱していたのである。

 16年12月10日新聞によると、「サンフランシスコ、ニューヨークには、我が空軍飛来の虚報におびえ灯火管制をし、白亜館にはバリケードを築き、機関銃を並べている由」(工藤美代子『山本五十六の生涯』386頁)とあり、日本海軍航空隊の米本土空爆は当然予想された現実危機であった。キンメル長官は、@「日本空母部隊は、そのマーシャル群島基地で燃料、弾薬を補給し、再び真珠湾を攻撃しにくるのではないか」、A「あるいはすでに高速戦艦に護衛された上陸部隊の輸送船団がオアフ島、または他のハワイ諸島の島に接近しているのではないか」、Bいや日本は「サンフランシスコまたはパナマ運河攻撃も、不可能ではあるまい」(ポッター『山本五十六の生涯』97−8頁)とした。スターク作戦部長もキンメルに、「日本はミッドウェー、ハワイ諸島を占領して、オアフ島に迫るものと予想する」、「ミッドウェーは占領されるだろう。ついでにグァム、フィリピンも防ぎきれないだろう。だが、ジョンストン、パルミラ、サモア諸島は、いかなる犠牲をはらっても守り抜かねばならない」(ポッター『山本五十六の生涯』97−8頁)と通報した。にも拘らず、日本空母の米国本土空襲などを、日本海軍軍令部は回避し、或いは初めから問題としなかったのである。

 戦後、アメリカ戦略爆撃調査団長オフスチイ少将が淵田に、「わたしたちは、あなたの真珠湾空襲を研究していたのですがね、実によく出来ています。計画といい、実施といい、間然するところはありません。日本がずっとこのような作戦で、四年間を終始していたとしたら、今日私たちの方があなたの前に呼び出される立場になっていたでしょうね」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』431頁)と告げている。淵田は、対米戦争で勝利する唯一の方法に気づいていたということだ。戦後、淵田が、トルーマン前大統領、アイゼンハウアー大統領、二ミッツ、スプールアンス前太平洋艦隊司令長官などに会えたのも、彼らが淵田を真珠湾作戦の綿密な指揮官として「敵ながら天晴れ」と評価していたからである。

 淵田の人間力 なお、淵田は、「二百年もの長い間、白人制覇の下にあえぎ苦しんで来た東亜の諸民族を解放する聖戦」(中田整一『淵田美津雄自叙伝』428頁)と標榜しているが、彼の純粋さ、一徹さを考慮するとき、ここには帝国主義的な資源搾取意図はなかったとみてよいだろう。現実には、多くの軍部指導者らは、満州や東南アジアの資源搾取によって対米国力増加、日本自立化をめざしたが、それは決して行なってはならないことであった。他人の褌で相撲をとるようなことは決しておこなってはならなかった。アジア諸国民が平等な関係で連帯して欧米帝国主義に対決するべきであったのだ。しかし、当時には、そういうことをしてはならないことを根源的・総合的に解き明かす学問がなかったということだ。詳細は不明だが、純粋一徹の淵田にはそういう学問に相通じる眼差しがあり、そういうアジア対等論を当然のこととしていたように思われる。だからこそ、その「生一本で純粋」な淵田は、聖書の「主よ、彼らを憐れみ給え、為すことを知らざるなり」という所に覚醒して、戦後牧師になって、「聖書」によって「軍人勅諭」と「戦陣訓」の呪縛から自らを解放して、戦争の愚かさを説いて、平和を訴えたのであった。確かに淵田は真になすべきことを知らなかったのであるが、だが、こういう無知だが純粋で生一本の淵田に、戦争の愚かさと平和の尊さを根源で説く綜合的な学問を学ぶ機会があれば、愚かな日米戦争などに加担することはなかったのである。戦後に淵田は聖書に導かれて、戦争の愚かさを説いて、平和を訴えたが、実際には聖書を持って戦争に参加したものがいたように、聖書それ自体は戦争を抑えることには成功していなかった。この点は仏教も同じであり、戦後に戦時中の仏教の戦争協力が厳しく自己批判された。やはり、それは宗教の仕事などではなく、学問の仕事なのである。その意味で、怠慢な学者どもの戦争責任は極めて大きいといわざるを得ない。

                                  g 石原莞爾の航空主兵論

 石原莞爾は陸軍軍人であるが、昭和初期から日米戦争必至論の中で簡単な航空主兵論を提唱していたので、ここでは補完的に取り上げておこう。

 航空主兵論 石原莞爾少佐は、昭和初期に「軍事上より観たる日米戦争」(『石原莞爾資料』原書房、昭和42年48−9頁)を著し、@「日米戦争は必至の運命」であり、「日米戦争は先づ持久戦争 次て決戦戦争」、A日米持久戦争は「支那問題」(「平和なき支那を救ふは日本の使命」)が原因となり、日米決戦戦争は「東西両文明の最後的選手たる日米の争覇戦」、B日米決戦戦争の性質は、「飛行機による神速なる決戦にして未曾有の悲惨なる状態を願出すべく 人類最後の大戦争」とした。

 石原は「現在及将来に於ける日本の国防」(『石原莞爾資料』原書房、64−8頁)では、将来の「吾等の最大目標たる世界戦争」で「最も重要なる攻撃兵器」は「飛行機」だとした。石原もまた第一次大戦での飛行機の役割に注目したようだ。

 対米戦略としての領土拡張 石原は、昭和6年4月「欧州戦史講和」の結論で、次の世界大戦は、「西洋文明の選手権を握」った米国と、「漸次東洋文明の選手権を握らんとする」日本との間に起こるとし、「我国刻下の最大急務は・・対米戦争計画」樹立だとする。米国は突出した生産力で、日本が東洋覇権を掌握する前に「世界戦争」をしかけること、日本が米国に勝利する道は東洋を欧米帝国主義から解放して、東洋一丸となってあたる以外にはないことなどを欠落している。確かに、石原は、「文化力」と東洋諸国指導力と「露国の侵入、米英の圧迫」への「威力」を持つべしとするが、その方法は帝国主義的(「朝鮮支那の指導」、「満蒙・・を我領土」とすること)であるとした(『石原莞爾資料』原書房、69頁)。

 また、石原は、昭和6年4月「満蒙問題解決の為の戦争計画大綱」(対米戦争計画大綱)を著し、戦争目的は、「満蒙を我領土とするなす」事、「西太平洋制海権の確保」(1「フイリピン」「ガム」を我領土とす。止むを得ざれば「フイリピン」を独立せしむ、2「成し得れば『ハワイ』を我領土とするか、或は之か防備を撤去せしむ)と、満蒙のみならず、米国植民地フィリピン、グァム、ハワイまでも領有するべきとする。

 昭和7年6月5日「満州経略方針」では、「満州経略の目的は 我国防の安固を期すると共に 対アングロサクソン世界争覇戦争の為 支那本部富源開発の準備を整ふるに在り」(『石原莞爾資料』原書房、99頁)とした。

 次に、「米国のみを敵とすることに努む」ように「戦争指導方針」をとること、そのために、(1)「支那本部には成るべく兵を用いるを避け 威嚇により支那の排日及参戦を防止す」、(2)支那問題が解決し難い場合には「一挙に南京を攻略し 中支那以北の要点を占領す」、(3)英国には「諒解」を得るが「止むなき時は断乎として英国をも敵とすることを辞せず」、(4)「極力露国との親善関係を継続」するが、止む無き時は開戦、(5)「欧州諸国とは親善関係に立ち 英露を牽制す」、(6)国内では「戒厳令下に於て重要なる内部改造を断行す」、(7)「世界の封鎖」に直面した場合には「国内及占領地を範囲とする計画経済を実行」し、敵機空襲で「著しく不安」となれば「政治経済施設を逐次大陸に移す」場合もあるとした。

 最後に、軍部の任務として、@陸軍は、「満蒙の占領及統治」、「対支戦争」、「対露戦争」、海軍と協力してフイリピン・ガム・ハワイ・香港・シンガポールを統治し、A海軍は、西太平洋制海権を獲得する事(1敵亜細亜艦隊の撃滅、2敵主力艦隊の東航に際しては其撃滅、3陸軍と協力して敵海軍根拠地の奪取)などとした。ここでも、海軍の米国本土攻撃には言及されていない(『石原莞爾資料』原書房、70−3頁)。昭和15年11月18日「所謂総力戦に就て」(『石原莞爾資料』原書房、430−1頁)においても、@「戦争は元来凡て其時代に於ける総力戦なり」、「但近時文明の急速なる進歩と共に真に国家総力の綜合的運用を可能ならしめ、従て戦勝の為 絶対的条件となるに至れり」、A戦争指導機関、国防計画、「政治と統帥」が述べられ、敵国総力削減は一切言及されていない。

 東亜同盟論 石原は、昭和10年参謀本部課長になり、世界最終戦争論にたって「重要産業五ヵ年計画」を作成し、「日本と満州国が一体となっての総力戦体制の確立」を企図した。さらに、石原は日米両国の「世界最終戦争」に備えるため、10年間は米国とは戦わないという「十年不戦論」を提唱した。

 昭和12年盧溝橋事件が起きると、満蒙一体化のために戦線不拡大を主張し、参謀本部作戦部長から関東軍参謀副長に左遷された。中華民族運動の成長に注目し、日本が中国を指導するのではなく、日中提携による東亜連盟結成を目指す和平推進論を唱えた。東亜同盟論は、日中提携を基軸とした「アジア諸民族の提携」であり、「日本と中華民国と満州国が『国防の共同、経済の一体化、政治の独立』によって手を結び、連帯関係を築」くというものであった。尾崎秀実も指摘するように、こうした東亜同盟論の根底には、「日本が武力をもって・・解決し得るものでな」い「抗日統一戦線の根幹たるべき国共両党の結合」や、「蒋介石政権の海外に有する準備金の問題や外国の経済的支援のみ」で解決はできぬ法幣問題があり、「実に民族経済の問題」があったのである(『中央公論』1939(昭和14)年1月号[『大東亜共栄圏の時代』政治・経済研究会、株式会社エス・ビー・ビー、2006年、533頁])。

 14年10月近衛首相の「東亜新秩序」声明を背景に、石原は東亜連盟協会を設立した。同協会は、「東亜連盟論に基づいた日中和平促進の運動を展開」したが、16年、近衛内閣は、「東亜同盟論は皇国の主権を危くするおそれがある」として、東亜連盟論主張を禁止した。16年、石原は第十六師団長で予備役になると、「世界最終戦争」を公言して東亜連盟運動に専念したため、東条内閣から「盛んに圧力を加えられ」、東亜連盟協会は思想団体の東亜連盟同志会に改組された。

 石原は、日本が唯一「必敗」を免れるには「蒋介石と和睦して支那事変を解決し」(日支和平)、次に東亜諸民族を糾合して「東亜連盟」を成立させ、東亜が一丸となって英米に対抗し、アジア民族解放戦争にすることであると主張した(『大東亜共栄圏の時代』政治・経済研究会、株式会社エス・ビー・ビー、2006年、129ー130頁)。日本陸軍は、こうした対米「必勝」戦略をとらずに、末梢的な南方・北方作戦に傾注することになったのである。



                                       B 日米国力差の問題 
 日清・日露戦争と日米戦争との相違 日清戦争、日露戦争と日米戦争との決定的相違は、敵国との国力差である。

 前二者の場合では、確かに国土面積は中国・露国は日本よりはるかに大きかったが、両国ともに深刻な国内問題を抱えており、国力差もまた決定的ではなく(日露戦時頃のGDP比では、ロシアは日本の約3倍[アンガス・マディソン 著、金森久雄 監訳『世界経済の成長史 1820−1992年』東洋経済新報社、2000年])、局地戦・奇襲戦・精神力が戦局を大きく左右したが、後者では余りに国力差が大きすぎた。前二者において一貫していたことは、「如何にして寡をもって衆に勝つか」であり、「『先制』と『奇襲』をもって勝ち易きに勝つという用兵上の思想が確固不動のものとして根深く底流」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』109頁)し、これが一定度奏功していた。石原莞爾が、「現在及将来に於ける日本の国防」(『石原莞爾資料』原書房、64−8頁)で、日露戦争は「僥倖的成功」であると把握したように、日露戦争勝利にはそういう「僥倖」があった。

 しかし、後者の場合、日米国力差を打ち消すべく、精神論が過度に強調されつつも、ほとんど奏功しなかったということである。後者の精神論の例は枚挙にいとまないが、国力差を冷静に把握していた者ですら精神論をぶっていた例を挙げれば、16年10月9日「長門」図演前の艦上で山本五十六長官は、「帝国は日ならず米英蘭等数ヶ国に対し積極的に武力を発動して自存自衛の活路を求める」ほかないので、「聨合艦隊の責務は正に絶大」となるとしつつ、戦勝は不容易だが、「必勝の兵力」が「遠謀深慮画策」を密にし、「忠誠の一念」で「勇猛果断」に当れば「何物か成らざらんや」(『戦史叢書 ハワイ作戦』189頁)とした。

 日米の国力差と戦備損耗補填力 多くの工業国が資源を輸入に依存したのに対して、アメリカとは、「国内に主要資源」と移民による廉価な多数の労働者をもつ「例外」的な工業国であった(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』141頁)。アメリカは、1890年代には工業製品の生産においてイギリスを凌駕し、急速に国力を増加させていった。

 戦後の米戦略爆撃調査団「総括報告」書は、開戦時の「日本の潜在工業力はわが国のほぼ10%であった。研究と設計技術はまったくの模倣ではないにせよ、新しい分野で信頼性の高い装備を開発する能力は低かった。レーダーと通信設備は貧弱だった。艦船ないし護衛艦を十分建造することはできなかった。飛行場らしい飛行場をつくるだけの建設機材ももっていなかった。石油は常時不足していた。対空施設は旧式のものだった。国民のために十分な防空施設をつくる経済力はなかった。」(ヘレン・ミアーズ、伊藤延司訳『アメリカの鏡・日本』(Mirror for Americans: JAPAN)株式会社アイネックス、1995年、95頁)と指摘した。

 日米開戦頃の敵米国GNPは、日本の12.7倍(昭和16年)、14.3倍(17年)、16.6倍(18年)、18.1倍(19年)(森本忠夫『特攻』文芸春秋、1992年、48頁)と、圧倒的なのである。米国は、開戦後に戦争特需でGNPを著増させてすらいるのである。米国は、戦争は不況を克服し、儲かるものだと思ったはずだ。アメリカは戦争のうま味を知ってしまった。

 日米関係険悪化した1941(昭和16年)年11月の軍事予算は日本9億8千万ドル、米国70億ドル、1944−45年の軍事予算は日本90億ドル、米国970億ドル(ヘレン・ミアーズ、伊藤延司訳『アメリカの鏡・日本』130頁)と、軍事予算でも米国は日本の十倍である。開戦直前の日米海軍力は、日本の艦艇数237隻、100万トン余に対して、米国の艦艇数は354隻、143万トン余であり、開戦時の陸海航空機数5088機に対して、米国の陸海航空機数は19、433機と、決定的相違ではないが(同上書、55−6頁)、この日米国力の圧倒的差は、局地戦、奇襲戦での日本の勝利くらいでは、日本になんら有利な戦局をもたらすものではなかった。

 しかし、こうした日米国力差は、以後において日本の損耗補填力を弱め、ますます日米戦力差を乖離させてゆく作用をするのである。この事を分かりやすく補足すれば、もしこのまま戦争に突入すれば、熟練パイロットが敵戦闘機を次々と打ち落としても、続々と新性能の戦闘機が補充され、熟練砲術士が敵艦を次々と撃沈しても、続々と新性能の艦船が補充されるにも拘らず、日本側は損耗戦備を補充されず、ただひたすらにじり貧に陥るということだ。佐藤晃(陸軍士官学校61期)も言うように、「『墜しても墜しても、沈めても沈めても』敵は次々に新手を投入」してくるので、「遂には刀折れ矢尽きて敗北せざるをえ」(佐藤晃『帝国海軍「失敗」の研究 』芙蓉書房出版、2000年、11頁)ぬという状況である。

 日本軍の損耗補給悪化例を二三挙げれば、@「連日激戦を重ねた南東方面海軍作戦期当初の昭和17年秋ころにはその(飛行機)消耗率が年95%にも達し、兵力の増強整備に甚大な影響を生ずるに至り、整備計画達成は困難の見通しとな」(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備』(2)開戦以後、朝雲新聞社、昭和50年42頁)り、A昭和17年8月、ガ島激戦では「兵力大消耗戦が繰り返され」、「敵の制空下における兵力軍需品等の輸送補給が勝敗を左右する重大問題とな」り、軍令部は「昭和17年10月新型輸送用潜水艦11隻を、更に昭和18年2月新型駆逐艦42隻を急遽建造することにした」(『戦史叢書 海軍軍戦備』(2)開戦以後、49頁)が、既に時機を失し、B敵潜水艦による船舶被害が増大して、「昭和17年9月ころまで月5万トン程度であった船舶の被害が同年10月以降20万トン内外に達し、憂慮に堪えない情況とな」(『戦史叢書 海軍軍戦備』(2)開戦以後、66頁)り、C18年「ソロモン東部ニューギニア方面の戦況は日に日に苦戦に陥り兵力消耗は著しく大となり」、「彼我の物的国力の相違、科学技術の懸隔は顕著に現れ始め戦局の前途は重大かつ深刻」(『戦史叢書 海軍軍戦備』(2)開戦以後、117頁)となるなどである。重要なことは、こうしたことは開戦前から分かっていたということだ。

 16年10月31日、海相が軍令部総長に行った「軍戦備の実行見通し」(821頁)では、@普通鋼鋼材は、16年135万トン、17年度145万トン必要だが、実際には16年海軍配当額は95万2千トン、17年以降は「毎年百万屯以上」の期待は「至難」となり、戦時中の「資材供給及消費」は戦況に左右され「最悪の場合」には「供給激減、而も被害甚大」となって「軍備拡充の実行極めて困難となることあるべし」とし、航空機生産補充は、「第一年三千機、第二年四千機、第三年五千機」の予定だが、実際は「至難」であり、「第一年一割、第二年後二割の生産減」になるとし、A航空機燃料に関しても、陸海軍の航空揮発油は「年平均60万竏(キロ)」だが、「被害による消耗」は「第一年十万竏、第二年五万竏、第三年2万竏」と仮定し、「生産額第一年7万竏、第二年33万竏、第三年54万竏」と見込み、「戦争中の保有量は戦争開始第一年後48万竏、第二年後16万竏、第三年後8万竏」となり、「各基地等に分散準備する等陸海軍併せて約20万竏」が「実際上使用不可能」となり、この結果、「戦争開始第二年の終期以後に於ては、相当不安なる情況となるべき見透しなる」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』821−2頁)としていた。損耗補給は頗る頼りなかったことは、当初から海軍も把握していたのだ。だったら、なぜ開戦したのか。

  総力戦計画の一ポイント これほどかけ離れた敵国に勝てる見込みある戦略など、はたしてあったのか。この国力差のもとでは、海軍得意の局地戦図上演習などほとんど意味も無く、実際、前述の如く、「屡次図演」ではいつも日本側のジリ貧に終わっていた。これでは「戦争の勝敗はやってみないとわからない」、「必ず危地に勝機、起死回生はある」などというレベルの見通しは成り立たないということだ。「戰といふものは、計畫通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がつていく」、「意外裡の要素」(昭和16年8月27、8日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』での東条英機首相発言)があるなどの余地は全くないのである。まともにやっても勝てないということだ。

 佐藤鉄太郎の次に登場した海軍戦術家秋山真之は、「戦術の要素、戦闘力の要素として攻撃力、防御力、運動力、通信力の特質、戦闘単位として各種艦艇の個艦性態及びそれらの将来発達に対する見通し、艦隊の編制並びに編制方法の利害得失」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』125頁)を論じるにとどまり、戦力・戦備の水準や損耗補充力などに関わる国力・生産力の相違について言及することはなかった(『秋山真之戦術論集』戸高一成編、中央公論新社、平成17年)。秋山においても、大艦巨砲主義の海軍戦術にとどまっているのである。

 よく第一次大戦後に総力戦になったといわれるが、古今東西、総力戦でなかった戦争などはなかったのであり、第一次大戦後に総力戦が問題になったのは、国力の低い側が国力の高い側に戦争をしかける場合、国力の低い側は人員・資源・金融などを総合的に有機的に使うことで対処することが不可欠になってきたからである。しかし、この総力戦立案者もまた、戦争特需効果やその効果に与かれぬ側の損耗補填力の著減などについての観点などを欠落させていた。

 例えば、企画院(物資の合理的運用のために昭和12年5月設置)のもとに昭和15年8月16日に総力戦研究所設置が閣議決定された。その前文で、@「近代戦ハ武力戦ノ外思想、政略、経済等ノ各分野ニ亘ル全面的国家総力戦ニシテ第二次欧州大戦ハ本特質ヲ如実ニ展開シ支那事変ノ現段階モ亦カカル様相ヲ呈シツツアリ」、A「皇国力有史以来ノ歴史的一大転機ニ際会シ庶政百般ニ亘リ根本的刷新ヲ加ヘ 万難ヲ排シテ国防国家体制ヲ確立センカ為ニハ総力戦ニ関スル基本的研究ヲ行フト共ニ之カ実施ノ衝ニ当ルベキ者ノ教育訓練ヲ行フコト必要ニシテ此ノ事タルヤ延テ政戦両略ノ一致並ニ官吏再訓練ニ貢献スルコト少カラスト認メラル」、B「依テ左記要領ニヨリ総力戦研究所ヲ設置シ総力戦態勢整備ノ礎石タラシムルコト現下喫緊ノ要務タリ」とした。目的の第一項で、「総力戦研究所ハ国家総力戦ニ関スル基本的調査研究ヲ行フト共ニ総力戦実施ノ衝ニ当ルベキ者ノ教育訓練ヲ行フヲ以テ目的トスルコト」とされ、武力戦・経済戦・外交戦などの研究にとどまり、敵国総力の削減・破壊問題は一切言及されていない。昭和16年7月12日、所長飯村穣陸軍中将は研究生に、日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習計画を命じた。周知の通り、7、8月、研究生たちは、敵国総力の削減に言及することなく、国内の兵器増産、食糧・燃料の確保など基に分析し敗戦不可避の結論を導き出したが、これは、当時の日米国力差を踏まえれば、誰にでもわかることだ。

 実は総力戦計画において、最重要課題は、自国資源の合理的運用計画などではなく、相手国総力の徹底的破壊計画なのである。この点、陸軍中将石原莞爾は、「戦争の様相は航空機の発達によって一変」し、「軍隊と軍隊とが衝突する以前に、あるいはこれと並行して相手国の政治、経済、生産の中心地帯に対し猛烈な爆撃が行われ」、「その結果はある場合には戦争の勝敗を決する」(石原「国防政治論」[田中隆吉『敗因をつく』中公文庫、77頁])と、空襲の重大結果を指摘していた。しかし、陸海軍首脳は、「未だ寡聞にして爆撃によって敗れたる国家あるを聞かぬ」とし、或いは「無敵海軍の存在する限り、わが本土には、一機といえども敵の侵入は許さない。防空演習の実施は、帝国海軍を侮辱するもの」(平出海軍大佐)など、敵国への空襲、日本への空襲にはほとんど関心を示していなかった。

 だが、日本の対米戦争での最重要課題とは、陸海軍一致の下に密かに編成する巨大空母艦隊の徹底的空爆により敵国国力を著しく減殺して、この日米国力差の乖離に歯止めをかけ、持続的空爆で逆転し、戦争特需経済でGNPが著増する見通しを立てることなのである。戦後に米戦略爆撃調査団「総括報告」書は、「日本の初期の戦略は、限定目標の戦争を考えたものであった。日本の能力はわれわれの基本的補給力への攻撃を可能にするものではなかった」(ヘレン・ミアーズ、伊藤延司訳『アメリカの鏡・日本』(Mirror for Americans: JAPAN)株式会社アイネックス、1995年、95頁)としたが、もしこれに絞り込んで、大艦巨砲主義を放棄して、極秘に空母艦隊のみを数十編成すれば、まだ大艦巨砲主義に固執する米軍に空母艦隊への対応能力はないから、充分「基本的補給力への攻撃」の可能性はあった。敵の補給力を徹底的に叩き潰し、日本の補給力を高め、数年間で逆転させる可能性があったのである。補給の根源を叩き潰せば、太平洋の米軍はジリ貧に追い込まれてゆく。

 日本は、自国資源、さらには次述の取らぬ狸の皮算用で南方資源を含めた資源の合理的運用計画の研究で総力戦研究は事たれりとしてしまい、こうした敵国総力削減の戦略を練り上げることを怠ったのである。米国が、開戦数年前から日本空襲の作戦を立案し日本国力削減を企てていたのに比べて、日本は総力戦研究ではるかに立ち遅れていたのである。日本は、こうした敵国国力削減の見通しも覚悟もなければ、開戦などは絶対にすべきではなかった。この見通しが立たぬ限り、日本及びアジアの勝利などはさらさら覚束ないのであり、ここは開戦せずにひとまず臥薪嘗胆すべきだったということである。しかし、後述の通り、こうした臥薪嘗胆案も検討されたが、これは、戦機を失わせ、屈辱的な対米屈伏をもたらすとして、放棄されたのであった。

  南方資源の搾取方針 当時、日本の国力不足をアジア資源の掌握によって補完するとする意見が優勢であり、これでは日本はアジア侵略者の欧米帝国主義者にとってかわるだけであった。

 例えば、16年11月20日、連絡会議決定「南方占領地行政実施要領」が制定された。ここでは、、第二要領で、@「作戦に支障なき限り占領軍は重要国防資源の獲得及開発を促進」し、A「占領軍は貿易及為替管理を施行し石油、護謨、錫、タングステン、キナ等の特殊重要資源の対敵流出を防止」し、B「国防資源取得と占領軍の現地自活の為 民生に及ぼさざるを得ざる重圧は之を忍ばしめ」て、「宣撫上の要求は右目的に反せざる限度に止むるもの」とし、C「資源の取得及開発に関する企画及統制は差当り企画院を中心とする中央機関において之を行ふ」事とされた。独立方針に関しても、「米英蘭国人に対する取扱は軍政実施に協力せしむる如く指導するも 之に応ぜざるものは退去 其の他適宜の措置を講」じ、原住土民に対しては「皇軍に対する信倚観念を助長」するように指導し、「其の独立運動は過早に誘発せしむることを避くる」事された(「大本営政府連絡会議決定綴」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、昭和16年12月まで、朝雲新聞社、昭和13年、648−9頁])。

 11月25日、大本営陸軍部は、この「南方占領地行政実施要領」に基づいて、「南方作戦に伴ふ占領地統治要綱」を制定した。「資源の開発取得」に関しては、@戦争遂行優先「戦争遂行に必要なる重要国防資源の開発取得を促進」し「帝国の戦争遂行能力の培養を図るを主眼とす」、A「重要資源の取得は軍指導の下に民間業者をして之に当らしむ」、B「押収せる工場、事業場中 必要なるものは差当り軍に於て之を管理するも成るべく 速に民間業者の経営に委するものとす」、C中央物動計画「作戦軍の現地に於て開発又は取得したる重要国防資源は之を中央の物動計画に織り込」み、「作戦軍の現地自活に必要なるものも右配分計画に基き現地に充当するを原則とす」、D「物資の対日輸送は軍に於て極力 之を援助し 且軍は其の徴傭船を全幅活用するに努」める事とされた。

 また、民族では、@邦人「各地既往邦人は軍の統制下に統治及開発指導に協力せしむ」、A「在住華僑に対しては蒋政権より離反し 我施策に協力同調せしむる如く指導するも 之に応ぜざるものは速に退去せしむ」、B「原住民の独立運動は過早に誘発せしむることを避け各地の特異性に基き漸を逐ひ 我一貫せる方針の下に統制指導す」として、植民地解放と同時に独立国家樹立に着手しないことを明示した。これに関連して、八宣伝では、「原住民族に対しては先づ皇軍に対する信倚観念を助長」するように指導し、「逐次東亜解放の真義を徹底し 我か作戦施策に協力せしめ資源の確保、敵性白人勢力の駆逐等に利用を考慮す」とされた(「大陸指綴」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、650−2頁])。

 この南方統治の実態をインドネシアでの日本人支配層の実態から確認しておけば、「日本人がオランダ人の残した高級官舎に住み、バブ(下婢)やジョンゴス(下男)に傅かれ、現地上流階級の娘を妾とし、舗装道路の上をこれもオランダ人の遺産であるアメリカ製の高級車を乗り回していた」(東門容『ムルデカ』鳳出版、1975年[小林英夫『大東亜共栄圏』岩波書店、1988年、41頁])というものだった。日本人支配者は以前のオランダ支配者と同じなのであり、「南方軍政にかんするかぎり、日本は占領前の統治機構を大きく変えることはできず、全体としてもろい基盤のうえにその支配機構をつくりあげた」(小林英夫『大東亜共栄圏』岩波書店、1988年、43頁)のであった。

 しかし、日本軍は「植民地解放軍」に徹するべきであり、日本はアジア資源を欧米帝国主義の収奪から解放するために適正価格で購入し、アジアの自立的展開に配慮しなければならなかった。安易に欧米帝国主義のアジア資源収奪の轍を踏んではならなかった。結局、大東亜共栄圏の思想は植民地解放の思想とはなりえず、「明治以来の対外膨張主義の、昭和のファシズム期における現れ」となり、「アジアの諸民族・諸国家の従属化ないし満州国化を、アジアの諸民族の欧米帝国主義列強の支配からの解放という名目のもとに、美化・正当化するイデオロギー」(栄沢幸二『「大東亜共栄圏」の思想』講談社、1995年213頁)という側面を色濃くすることになった。


 陸軍の「総力」潤色 16年3月25、26日陸軍省戦備課長の岡田菊三郎大佐は参謀本部首脳に、16年4月に対南方武力行使する場合、@「帝国の物的国力は対米英長期戦の遂行に対し不安があ」り、第二年末までは「敵の進撃を撃滅」できるが、その頃には「液体燃料に懸念が生ずる虞れ」が生まれ、かつ「戦局持久するに従い経済抗堪力が動揺」し、A対米開戦にこれらの「不安」を除くため、「対南方作戦を迅速に終了」して「蘭印資源」を破壊されずに「好情態」で確保し、船舶問題では「作戦と経済との調和に深い考慮」し、かつ「対ソ戦を起こさぬこと」、「国内態勢の安定」をはかるとした。それに対して、対南方武力行使しない場合、「英米と経済断交に至ら」なければ2年後から少しずつ国力は増加するが、「経済断交に逢う」場合には「国力、戦力」は減少し、いずれにおいても「数年間にわたり帝国の国力の飛躍的向上や軍備の本格的拡充は共に実行しがたい」とした。

 だから岡田は南方作戦には消極的であり、「帝国はすみやかに対蘭印交渉を促進して、東亜自給圏の確立に邁進するとともに、無益の英米刺激を避け、最後まで米英ブロックの資源により国力を培養しつつ、あらゆる事態に即応し得る準備を整えることが肝要である」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、216−7頁)とした。日本の国力を維持するには、対英米協調による英米資源が不可欠としていたのである。

 従って、東条英機首相ら陸軍が日米開戦を決意するに当って、日本国力の誇大化、アメリカ国力の矮小化があった。このことを、当時の陸軍少将田中隆吉(昭和15年12月に陸軍省兵務局長、16年6月に陸軍中野学校長兼任)の批判的考察などから確認しておこう。

 16年10月18日東条内閣組閣後の陸相官邸での宴会で、東条は、「国力が足らぬというなら仕方がない。しかし戦えるものなら断乎としてやる」(田中隆吉『敗因をつく』中公文庫、68頁)と豪語した。しかし、兵務局長として田中は、国民の開戦などへの動向を調査していたので、「緒戦」優勢に浮かれる陸軍省を批判した。開戦直前、東条首相は「在郷の陸軍大将」を陸軍省に招待して、「陸軍軍備の状態と欧州情勢の説明」をし、「ドイツの対ソ作戦がすでに失敗の段階に入りつつある」にも拘らず、ソ連敗北、ドイツ勝利、英米の戦意喪失を強調した(田中同上書、72−3頁)。東条が「断乎としてやる」とした根拠は、日本の国力ではなく、このドイツ国力への過信にあったのである。日本の国力不足を、危殆に瀕しつつあったドイツ国力で補完しようとした。

 しかも、東条首相らは、@「食糧は仏印、シャム、ビルマの米と満州の大豆を充つれば余裕綽綽たり」とし、A「銅の不足はフィリピンの銅をもって補い得るとし、B「マレーにおけるゴム、錫、蘭印におけるキニーネの独占は、わが需要を充し得るまでに止まらず、進んで英米の死命を制するに足る」とし、C「蘭印の石油は二年後においてはわが軍需のみならず、民需をも充して剰りある」(田中同上書、74頁)と見通して、アジア資源の収奪で日本国力不足を補完しようとすらしたのである。これとても、戦況悪化すれば、覚束なくなるものである。まさに、陸軍首脳らの日本国力判定は、「開戦を正当化せんがための無知と虚偽との累積」であり、「砂上の楼閣」(田中同上書、76頁)にすぎないものだった。

 16年11月4日軍事参議院会議で「帝国国策遂行要領中 国防用兵に関する件」では、永野総長は、「彼我戦力の表情から見て速やかに開戦する」とし(209頁)、杉山参謀総長は、「時日の経過は第一に日米軍備の比率はますます不利となり、特に航空兵力の懸隔は急速に増大する」(『戦史叢書ハワイ作戦』210頁)とした。また、永野総長は、「対米戦争でわれの最も苦痛とするところは敵の本拠を衝き得ない」(『戦史叢書ハワイ作戦』朝雲新聞社、昭和42年、210頁)ことだと、米国本土空襲・攻撃を初めから断念している。

 この軍事参議院会議で、東条陸相は、@「長期戦となる公算は八分」だが、「米主力艦隊の撃滅」・「米の対日戦意喪失」・「海上交通破壊戦で英国の死命を制」することによって「短期戦争終末も不可能ではない」とし、A永野総長が言うように「二年後の戦局の見通しもつけられない」のに、東条が「開戦を決意した理由」とは、「二年後の状況は油を不足し米国の準備は整い、特に航空兵力はいちじるしくわれと懸隔し、南方要地は難攻不落の状態となり、わが南方作戦は難しくな」り、「米が積極的に出ればわれは屈服のほかはな」く、「昔の小日本に戻ることとなり、わが光輝ある歴史を汚す」(211頁)ということである。また、東条は、「この御前会議の最後の挨拶」で、開戦しなければ、「二年後に油がなくなる。船が動かず、南西太平洋の防備強化、米艦隊の増加、支那事変未完等を考える」と、「臥薪嘗胆」しても「二、三年を過ごせば三等国となる心配がある」(『戦史叢書ハワイ作戦』210−1頁)とした。当時の陸海軍首脳の日米国力差は、開戦が遅れると、ますます開くばかりでありという認識にとどまり、日米国力差を削減しようという発想がなかった。

 開戦当日の16年12月8日、田中は木村兵太郎陸軍次官に、「国民は今熱狂しているので、あたかも挙国一致のような外観を呈しているが、必ずしも内心この戦争には賛成でないものもある。ことに上層部とインテリ階級の者は概ねそうだ。これでは下手をすると恐ろしいことになる」(田中同上書、70頁)と警告した。

 開戦は極秘にされ、「確実に知っていたのものは軍務局だけ」であり、田中兵務局長も企画院第一部長秋永月三陸軍少将すら知らなかった。12月9日、田中は陸軍省内の部下に、「この戦争は独ソ戦争の帰趨が決するまでは始めてはならない戦争であった。もし万一ドイツが負けるようなことがあったら、(米国戦力は日本のみに投入されー筆者)日本は亡ぶ」(田中同上書、71頁)と告げた。

 東条首相の周囲からは、田中のような批判者は離れ、国力や戦局への楽観論者のみが集まることになった。例えば、16年1月谷情報局総裁は「アメリカは近く崩壊するだろう」(地方長官会議で)と発言し、同年3月下旬星野直樹書記官長は田中兵務局長に「情報によるとアメリカは鉄道が少くて物資の輸送に困って」いるが、「船舶は一千万トンあるかなしか」なので、「アメリカの膨大な物量も、輸送機関がこれでは戦力化できぬ」が、「日本はこれからドシドシ南方資源を戦力化するから力をますばかりだ」とした。同年3下旬鈴木貞一企画院総裁は田中に、「今や日本は西南太平洋に無数の有力な根拠地を得た。いかにアメリカの海軍が優勢となっても、根拠地のない以上、大なる海上兵力の進攻は不可能に近い。したがって日本は絶対に不敗だ」(田中同上書、84頁)と、日本の補給力脆弱性を無視して豪語した。根拠のない砂上楼閣論である。

 こうした「空論」は「精神論」と裏腹の関係があり、これに対して、田中は「ある日の局長会議」で、@「大東亜戦争勃発以来、すべての指導者は口を開けば、精神力をもって勝つというが、私はこの戦争は生産力の戦争であ」り、A「戦争長期にわたれば、各国ともに軍隊の資質は低下し、最後にはいずれも甲乙なきに至るを常とする」ので、「長期戦の勝敗を決するものは、主として物量の大小であ」り、B「わが国はただ今より生産力、特に飛行機の画期的増産を図るにあらざれば、前途必ずしも楽観を許さぬ」から、「精神『セイシン』を生産『セイサン』に転換せよ」(田中同上書、85−6頁)と主張した。

 さらに、田中は、情報局が「アメリカの呼号する生産の数字は天文学的数字」と宣伝しだしたことに対して、「陸軍部内でも稀に見る公正にして冷静な判断の持ち主」と称されていた参謀本部第二部の岡本清福少将にこの真偽を問いただした。すると、岡本は、@アメリカの生産統計には「約三割の掛け値」があり、「第三年度より漸次低下」するので、A「わが国が今より生産力の拡充に努むれば、第三年度には少なくとも3万機の生産は可能であろうから、ドイツが敗れざる限り、第三年度以降は伯仲の兵力をもって戦い得る」(田中同上書、86頁)と主張した。陸軍の「良心」ですら、こうした根拠なき楽観論を提唱していたということであり、それ以上の「良心」である田中隆吉は陸軍内部では「稀有」の存在だったといえよう。

 17年9月22日、田中は東条首相に兵務局長辞表を提出し、@「日本はこのままでは戦うも戦わざるも亡びるから、死中に活路を求めるために已むを得ず断行され」、「米英が戦意を喪失するまで戦わねばなら」ず、「果てしのない長期戦」になり、A「この長期戦を完遂するためには、将来必ず行われるべき敵の空襲に対する防禦施設を出来るだけ完全ならしめなければなら」ぬとする点で、空襲防禦を軽視する東条首相とは考えが異なり、今後「閣下の戦争指導を妨害」しかねないとして、辞任を申し出たのである(田中同上書、82頁)。


                             D 航空作戦重要性をめぐる陸軍・海軍 
 開戦前の軍備対立 昭和16年6月頃、軍令部が参謀本部に、D計画案(16年5月決定の海軍拡充案)の了解を求めた。しかし、11月頃、陸軍側は、@「陸軍は海軍の本軍備計画により人員取得上の制限は受けぬ」、A「物資配分について別途協議する」、B「海軍の本軍備計画により陸軍の新軍備は影響は受けぬ」という条件付で了解した。この結果、海軍は、「陸軍の右留保条件を契機として軍需生産の全般にわたり、陸海軍の対立抗争は事ごとに激化するに至った」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』598頁)のであった。当時の海軍には山本権兵衛のように、海主陸従、航空機作戦の重要性を陸軍に堂々と説ける人物が居なかった。

 航空機増産をめぐる対立 18年、艦載決戦至上主義の海軍、大陸での地上戦至上主義の陸軍が、航空機の重要性に気づき「日本の航空機生産にやっと拍車がかかっ」(森本忠夫『特攻』70頁)てきた。陸軍は、当初は制空権を「地上作戦協力の手段」と考えていたが、18年後期になって、「航空作戦指導の本旨は制空権を獲得して全軍戦捷の根基を確立するに在り」(森本忠夫『特攻』81頁)として、海軍と一致して、統合作戦を展開する必要を認識したのであった。しかし、実現するには遅きに失したというべきだ。

 18年9月、航空機増産のために、藤原銀次郎を査察使に航空機工場を査察させ、「航空機生産を巡って、もし陸軍と海軍が生産を一元化し、原材料や施設や労務を巡る従来の陸海軍の分取り合戦による無駄を排除するなら、年間4万5千機の航空機生産は可能であって、この場合、もし、小型機の比率を増加させれば、5万機の生産も可能」と主張した。当時、多くの工場でアルミ屑を「再製会社の手を経て弁当箱や鍋、薬缶等に流用され、闇商人の懐を肥やして」いたので、藤原はこのアルミ屑を保存・再生し、飛行機増産を説いたのである(森本忠夫『特攻』72頁)。

 18年9月27日大本営政府連絡会議で、商工大臣、企画院総裁が軍需品生産目標(飛行機4万機、アルミニウム21万トンなど)の実行の至難について説明した。その際、陸軍は飛行機2万5千機、海軍は3万機を要望したが、生産目標4万機とされたことから、「爾後陸海軍間においてその配分に関し激烈な抗争の展開が予想」(『戦史叢書 海軍軍戦備』(2)開戦以後、89頁)された。実際、18年9月30日御前会議で、「昭和十九年度の航空機生産計画4万機以上、アルミニウム21万トン以上の目標が決定」されたが、以後、「航空機とアルミニウムの配分を巡って惹起した陸海軍の対立」(森本忠夫『特攻』73頁)は調整されるどころか、拡大した。海軍は2万6千機をめざし、陸軍は3万1千機をめざしてくると、海軍は、飛行機生産目標を藤原目標の4万5千機とするならば、「海軍は2万6千機、陸軍は1万6千機にせよ」と強硬に主張し、「陸海軍の対立はいよいよ激化」した。「海軍は、物事の決着をつけるため軍令部総長による天皇への上奏を計り、これに対抗して陸軍は内閣総辞職をちらつかせると言った有様」であった。

 航空兵器総局による対立調整 18年11月、大西は陸軍と連携するために、軍需省発足とともに航空兵器総局を創設して、陸軍中将遠藤三郎を長官にすえ、自らは「配下の総務局長」になった。遠藤は昭和12年以来陸軍航空兵科に転じて以来陸軍航空畑を歩み、開戦時には「菅原道大中将の率いる第三飛行集団」の爆撃部隊指揮官としてマレー戦線、ジャワ攻略戦で大功を立てた陸軍航空の功労者であった(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』154頁)。それでも大西の個性が強烈だったためか、陸軍部内では、「航空にシロウトの長官をロボットにして総務局長が指導権を握るだろうと噂された」のであった。だが、大西は「海、陸と対立する場合」には、遠藤をたて、「しごく円満にことを処理」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』154頁)し、大西は「見事に女房役としての仕事に終始」(遠藤三郎『日中十五年戦争と私』[森四朗『特攻とは何か』文藝春秋、2006年、36頁])した。

 本土空襲激化を避けるため、「遠藤ー大西コンビが最初に働きかけたのはサイパンの奪回作戦」だったが、東条首相兼参謀総長は、これを倒閣運動の一環と見て、遠藤を比島の陸軍第四航空軍司令官、大西を一航艦長官にしようとした。7月22日、小磯内閣が成立し、米内が海相に就任し、米内は大西を軍令部次長にしようとしたが、「陸軍の猛反対」で頓挫し、「遠藤ー大西の軍需省コンビ」はそのままとなった(森四朗『特攻とは何か』37頁)。

 しかし、大西の指導力では、もはや海軍と陸軍とが一致して統合的航空政策を推進することはできなかった

 佐藤賢了陸軍省軍務局長の陸海空三位一体論 19年2月10日御前会議で、「陸海軍合計の総生産機数を観念的に嵩上げすることで、海軍二万五千百三十機、陸軍二万七千百二十機、合計五万二千二百五十機」と、陸軍飛行機数を増やした。佐藤賢了陸軍省軍務局長は、この日の御前会議での陸軍、海軍の対立について、@永野軍令部総長は、洋上で「敵艦隊を捕捉し、高速回避の目標に爆弾、魚雷を命中させるには海軍航空でなければできない」と主張すれば、杉山参謀総長は「それでは海軍に航空機を全部あげたら、この戦勢を挽回できるか」と反問し、永野は確約できないとし、東条陸相とも衝突し、しばし陸軍・海軍は「互いに是とする戦略思想に基づく論議に終始」し、A「昨年絶対国防圏の連絡会議の際、軍令部総長は『・・(マーシャル諸島に)敵が来攻した場合はわれに有利な海上決戦生起の算が大であり、この機会に聨合艦隊は全力をもって邀撃撃砕する』」と発言しておきながら、マーシャル諸島に敵が来攻した際に「聨合艦隊どころか飛行機さえ出なかった」と批判し、「聨合艦隊全力をもって日本海大海戦のような洋上決戦をすることは今や夢」であり、「敵の上陸を待って、泊地及び水際でこれを撃滅するほかに方法」はなく、もはや洋上決戦など「全くできないのが現実」であり、「陸上基地を枢軸として陸海空の三位一体の戦闘こそ、今や残された唯一の戦闘法」であり、「最早太平洋の主人公は海軍ではありません」(戦史叢書『大本営海軍部・聨合艦隊』5、221−2頁[74頁])と、太平洋戦争での陸主海従の立場を打ち出した。

 陸軍の佐藤は基地航空を主軸とした「陸海空の三位一体の戦闘」を説いたのである。これは従来の海主陸従を否定し、陸主海従に転換させるものであり、、海軍首脳が恐れていた事態だともいえよう。

 海軍特攻とは、日本海軍がジリ貧化してゆくなかで、こうした陸軍の陸主海従押し付けを撥ね退ける手段でもあったのである。


                                        E 開戦頃の陸海軍主脳 
 軍首脳陣の出自 藩閥衰退が陸軍・海軍に新たな重層的対立をもたらしつつも、日米開戦時頃の重臣・海軍首脳(岡田啓介[徳川家門筆頭福井藩出身、海兵第15期、海大2期]、鈴木貫太郎[戊辰戦時に削地処分を受けた譜代関宿藩、海兵14期、海大1期]、米内光政[旧朝敵盛岡藩、海兵29期、海大12期]、及川古志郎[長岡古志郡生まれ、盛岡中学卒業、海兵31期.、海大13期]、嶋田繁太郎[旧幕臣、海兵32期、海大13期]、山本五十六[旧朝敵長岡藩、海兵32期、海大14期]、豊田副武[譜代杵築藩、海兵33期、海大15期]、南雲忠一[旧朝敵米沢藩、海兵36期、海大18期]、井上成美[旧朝敵仙台藩、海兵37期、海大22期]など)や、陸軍首脳(杉山元[譜代小倉藩、陸士12期、陸大22期]、畑俊六[旧朝敵会津、陸士12期、陸大22期]、梅津美治郎[譜代中津藩、陸士15期、陸大23期]、板垣征四郎[旧朝敵盛岡、陸士16期、陸大28期]、東条英機[旧朝敵盛岡藩、陸士17期、陸大27期]など)には、薩長藩閥軍隊のもとでは到底出世などは望めないと諦めていた旧朝敵・佐幕出身者が少なくなかったことも留意されよう。日米開戦時頃の軍首脳陣の出自を見ると、日清戦争、日露戦争時の陸軍・海軍首脳の出自とは大きく変貌したのである。

 陸軍大将・首相となった東条英機の父東条英教は、陸軍切っての俊才と言われつつも、旧朝敵盛岡藩出身ということで陸軍中将で退役となっていたように、旧朝敵諸藩出身者が大将になることは容易ではなかったのである。彼らの昇進には、涙ぐましい忍耐と努力に基づく軍隊処世術が求められていたのである。


 旧朝敵出身者の限界 旧朝敵出身者にとって、政府要人になることは、国家に奉公するだけでなく、長年の郷土の恥を雪ぐことにもなるから、旧朝敵出身の政府要人は絶えず二つの課題を背負うことになった。彼らは、一方では国家のために「私」部分を抑え込み(滅私)、他方では問題言動で郷土期待を裏切らないようにとひたすら慎重になるのである(抑制)。その結果、彼らの日常行動は、大人しい鈍重寡黙な傾向を示し、期せずしてそれが敵を作らずに軍人界・政界で生き残りやすくさせることになったと言えるかもしれない。換言すれば、旧朝敵で長官・大臣・首相に上り詰めるものは、一言居士ではなく、表面では優柔で大人しい穏やかな人物となりがちだということである。例えば、米内光政は「あの(山本権兵衛のような)雄弁も、迫力も、政治的炯眼もたしかに持ち合わせていなかった。人を説破したり、会議の空気を逆転させたりする技巧と表現を備えていなかった」(工藤美代子『山本五十六の生涯』幻冬舎文庫、平成23年、262頁)といわれ、これは山本五十六にもある程度あてはまった。

 この結果、彼らは、藩閥出自者とは違って、「度量」と「余裕」なく大局的見地に立てず、軍学校・大学校の経歴を藩閥にとって代わる一昇級基準としがちとなる。こういう彼らには、藩閥が作り上げた陸海対等を陸主海従に向けて調整したり、開戦・継戦はもとより終戦の見通しを事前に打ち合わせたりすることなど到底望むべくもなかったであろう。

 例えば、昭和14年9月14日、木戸幸一は高木惣吉臨時調査課長に、@「陸海軍がも少し一致して貰はざれば国家は一寸も進退できず」、A日本へのプレシャーは「今日より大なるはな」いが、「国力の限度」を弁えず、「良く国力の限度を弁へ 戦争中も現地側より和平を要求」した「明治の元勲」大山・山県とは異なり、「今日の軍首脳は政治の幼稚園生」であるとした(高木惣吉少将資料「政界諸情報」[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、338−340頁])。また、昭和16年11月29日重臣会議で、米内光政は「石油の問題を採り上げて、戦争するのは面白くない、然らばと云って、如何にして戦争を終結するかと云ふことに付て、確たる意見もない」とし、岡田啓介も「米内と同意見」(「昭和天皇独白録」[『文藝春秋』平成二年十二月号、119頁])とする体たらくであった。山本権兵衛とは違って、何とも頼りない海軍首脳なのである。それは、強力な指導者に基づく勝利のためのリアリズム戦争論(軍事科学・合理性に立脚した戦争論)などより、敗者の戦争哲学・戦争論(楠公精神・七生報国、さらには会津魂)がでやすい温床とすらなったのであった。終戦時に米内海相が阿南真意を読み取れず、非情にも足を引っ張った狭量さは、こうしたことをも背景にしていたのであろう。

 同時に、当時の政治家には、藩閥政治家のように軍部を抑える力がなかったことも留意されよう。例えば、昭和15年7月参謀本部第二課長の河辺虎四郎少将は、@「大戦争の実行は国務と統帥とは不可分であり、従ってその根本は文武の最高首脳がはっきりと決めて允裁を仰ぐべきものであり、単に統帥部の意の儘に仕方がないから、ついて来るといふのでは不可ぬのであ」り、A「仰せの如く作戦行動の本質特に成果の大を求むれば、求むるだけ無理を押さなければならぬと思ひますが、その戦略上の所謂『無理』をよく理解してその押し易きやうにすると同時に、大局上之れ以上絶対に不可といふ点をしっかりと見分けて、統帥部を圧するだけの政治家が大切である」(「河辺虎四郎少将回想録」[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<1>、237頁])と、政治家には統帥部を圧する政治力が必要だとしていたが、周知のように当時の政治家にこういう政治力はなかった。
 
 東北諸藩の「負けじ魂」 この会津魂とはなにか。それは、東北諸藩が薩長軍に立ち向かった精神の一つであり、圧倒的な戦力の敵に現実には負けても、精神を輝かせ、忠義を貫けば、それこそが真の勝利であるとする精神論であった。昭和19年秋、フィリピンで大西瀧治郎が特攻を打ち出す際にこの会津魂が持ち出されている。つまり、同国パンパン河原で、毎日新聞記者後藤基治は大西瀧治郎に、特攻隊で「戦争に勝てるのか」と質問すると、大西は、「戦いの大局は、勝てないまでも」、会津藩「最期」の時すら白虎隊がでたように、「祖国の滅亡にさいして青年の総決起があってもいいじゃないか」とした。大西は、「戦争は負けるかも知れん。だが、日本民族は残る」としたのである(森四朗『特攻とは何か』文藝春秋、2006年、301−2頁)。こうした会津魂のみならず、東北各藩には各藩固有の魂があった。例えば、長岡出身の山本五十六が海軍次官になると、長岡歌人は、「朝敵の長岡の名をすすがんと 身を海軍に投ぜしか彼」(322頁)と歌った。山本には「旧長岡藩の負けじ魂」(工藤美代子『山本五十六の生涯』338頁)が流れていた。

 このように、この旧朝敵となった東北諸藩の「負けじ魂」とは、各藩固有の特徴をもちつつ、強大な権力・軍事力から彼らの藩・郷土を守るために結束したものという共通点を帯びていた。しかし、それは、東北が、大和朝廷の東征以来、強大権力の征圧の危機にさらされてきたように、権力中枢江戸・京都を襲撃して征圧するのではなく、あくまでふりかかる火の粉を打ち払うのがせいぜいなものに関わる精神だった。それは、勝つことを主とする勝負魂とは程遠いものであった。負けるのが分かっている戦を支える精神なのであった。その精神が70年後に、今度は日本海軍の邀撃作戦、さらには日本軍の楠公精神、本土決戦、滅私攻撃精神などとしてよみがえってしまった。 それのみならず旧盛岡出身米内らの和平工作にもまた、こうした限界が現れていた。

 旧盛岡出身米内らの和平工作 終戦時において、周知の如く米内らは和平工作に従事していた。しかし、彼のの煮え切らない独善的態度は海軍内部からも批判されていた。例えば、元在欧軍事委員会委員長の海軍大将野村直邦(薩摩出身)は、海軍首脳がダレス機関の和平提案に乗ってこなかったことに対して、「当時の海軍で、ハックやダレスのことを知っていたのはわたしだけであったのだから、軍令部や、海軍省にしても、相談ぐらいしてくれたらよかったのに、悪い習慣で、何も知らぬくせに、二者で勝手に決めてしまう独善のシステムがいけなかった」(野村直邦談[『昭和史の天皇』2、読売新聞、369頁])と批判した。ダレスはポツダム会談前に日米和平を煮詰めておきたかったが、豊田軍令部総長、米内海相は「日本の戦意を打診するバロン・デュセエ(観測気球)」か「戦意破摧の謀略」と独断的に見て、「条約に調印できる大将級をよこすなら飛行機まで用意しよう、といっているのに、それをつかまなかったのは、海軍首脳部の明らかなミス」(野村直邦談[『昭和史の天皇』2、読売新聞、367−370頁])と批判するのである。因みに、この煮えきれない米内和平工作を批判した野村直邦は薩摩出身である。

 高木惣吉もまた接触継続を米内に願いでたが、米内はこれを容れず、「ダレス工作を見すて」たと批判している。米内は、肝心な所で、大局的な立場にたてないということだ。

 海軍首脳部の老齢化 その上、こうした海軍首脳部においては、老齢化という問題もあった。昔から第一線の指揮官は、「少将40歳、大将50歳が理想」とされてきて、日露戦時の指揮官は40−50代だったが、「日露戦争後は人事が停滞し、海軍指導部の老化現象が始ま」り、日米戦争開戦時には日露戦時より「五ないし八年老齢化」(海軍省人事局長中沢佑中将)していた。

 こうした海軍指導部老齢化は、「ハンモック・ナンバーによる進級制度や、兵学校など海軍諸学校出身者を大佐まで在職させる慣例などによる人事停滞の結果」であり、優柔で大人しい穏やかな旧朝敵出身者が海軍首脳陣の小さからざる比重をしめることをもたらしたのである。それに比べて、アメリカ海軍は、「一般には少将までしか昇進させず」、それ以上の中将・大将は能力本位で重要任務を遂行する場合のみ任命して「人材の自由な活用を図った」(池田清『海軍と日本』178頁)のであった。


                                            二 海軍の固有弱点
 鉄をめぐる陸海対立 藩閥という調整弁を失った陸海軍は、鉄と石油をめぐって対立を深めてゆくことになる。

 まず、鉄から見れば、鉄がなければ、陸海軍は武器を装備できないから、陸海軍が競って鉄の確保をはかったのは言うまでもない。鉄をめぐる陸海軍の激しい争いについて、企画院嘱託田中申一は、@企画院では製鉄量を陸海軍に通知し、「これを陸軍と海軍でお分けください」としたが、陸海軍が欲しいのは「鉄の製品」であり、「そこで陸海軍は原料を製品にするために、それぞれ工場に先回り」して製造を命じ、Aこの結果、八幡製鉄所の配分をめぐって「陸海軍のけんか」となり、「陸海軍がお互いに・・醜い争いをして、小さな下請け工場の果てまで押えにかか」ったと回顧している(『昭和史の天皇』17、読売新聞社、昭和56年、355−6頁)。

 太平洋戦争が激化すると、鉄など航空機資材の配分のみならず「船舶徴用の問題」で、「陸海のいがみ合いは深刻」化した。18年4月19日、蓮沼蕃侍従武官長は木戸幸一内大臣を訪ねて、「物動関係にて鉄の配分につき陸海軍の間に確執ある模様なり」(『木戸幸一日記』下巻、1023頁)と報告している。昭和19年、海軍は、18年ソロモン航空戦消耗戦のにがい経験から、「資材・生産・消耗の現状からみて、全海軍を空軍本位に再編成するか、少なくとも海空軍重点主義に移すべき」と主張し、昭和19年2月10日、陸海首脳(東条陸相、島田海相、杉山参謀総長、永野軍令部総長)は、資材運輸船の確保など「航空資材問題をめぐって激論」した(池田清『海軍と日本』130頁)。

 軍需省航空兵器総局長官(18年9月ー終戦)遠藤三郎中将は、「(前線将兵の苦闘をそっちのけにして)太平洋戦争はアメリカと戦っているのか、陸軍と海軍が戦争しているのが分からないほど」(池田清『海軍と日本』52頁)だったと指摘するくらい、陸軍、海軍の対立は激化していた。陸海軍は、「前線(への補給)をそっちのけにして」、海軍は陸軍を「横暴」「謀略的」、陸軍は海軍を「りこう者」「便乗主義」「大勢順応」と批判しあっていたのである(池田清『海軍と日本』130頁)。

 石油の致命的重要性 問題は、次の石油である。大正期の軍艦燃料機関は石炭・石油の混焼缶、ないしは混焼缶+重油専焼缶であったが、大正8年12月に竣工した二等駆逐艦「樅」(常備排水量850トン)や昭和期に竣工した大和・武蔵などは重油専焼缶だけであった(岩間 敏「戦争と石油(5)ー 世界最初の「戦略石油備蓄」『石油・天然ガスレビュー』45巻2号、2011年3月)。当時、各国海軍共通の課題は石炭から重油への切替えであり、日本でも昭和期の軍艦は石油依存度を増してゆくのみならず、海軍においてますます重要性を高める飛行機は石油専焼であるから、石油がなければ、明らかに海軍艦船は宝の持ち腐れ、無用の長物になる。

 こうして艦船性能向上のために石油専焼艦に転換することは、日本海軍は自国でほとんど生産できない燃料源に依存するという大きなリスクを自ら抱え込むことになった。世界大勢を根源的・総合的に把握する学問がない中、海軍が石油依存度をますます強めたことが、海軍首脳部を絶えず悩まし脅かし続けることになったのである。海軍兵学校でも石油をテーマとする講義がなされるくらい、海軍にとって石油は最重要問題となってきたのである。例えば、海軍兵学校では後藤機関大尉が「石油」テーマの講義を開き、「日本海軍の石油の備蓄は、対米戦で一年半しかもたない」(斉藤一好『一海軍士官の太平洋戦争』高文研、2001年、4頁)としていた。また、戦艦長門運用長の小代正少佐も斉藤一好らに、「日本海軍には石油が不足しているので、石油をふんだんに使った大規模の演習ができないから」、「日本海軍は米海軍と比較して、戦術的には優れているが、戦略的には劣っている」(4頁)と断言した。前述の通り山本五十六が滞米中に米国各地の油田を精力的に調査した理由の一つも、こうした危機感にあったのである。

 では、日本海軍はどれぐらいの石油を備蓄していたのか。当時日本の貯油量は「最高の機密事項」(企画院嘱託田中申一談[『昭和史の天皇』17、読売新聞社、昭和56年、282頁])であったが、開戦当時の日本の貯油量は650万トン前後(杉本健『海軍の昭和史』文藝春秋、1982年、311頁)、810万トン(米国戦略爆撃団調査報告)、840万トン(企画院)、970万トン(軍令部)とされていた(前掲岩間 敏「戦争と石油(5)ー 世界最初の「戦略石油備蓄」)。これは、「アメリカのテキサスの優良な石油井戸一本の年間生産高」(企画庁調査官小金義照談[『昭和史の天皇』17、読売新聞社、昭和56年、282頁])、昭和16年米国原油生産量(日産60万トン)の僅か二週間分(前掲岩間 敏「戦争と石油(5)ー 世界最初の「戦略石油備蓄」)に過ぎなかったのである。これでは中長期に戦争はできない。

 だから、日米交渉が暗礁に乗り上げ、石油問題が深刻化してくると、海軍は異常に突出しだした。これまで石油が原因で日米開戦はできないとしていたが、逆にそれなるが故に日米開戦を急ぐべきだと言い出したのである。一方、陸軍は、石油リスクと海軍無用論を鋭くついてくるのであり、もはやそれを受け止める度量を失った海軍はこの陸軍批判をかわすために、日米開戦、さらには特攻作戦などに踏み出してゆくことになる。海軍が、それは負け戦になるから、開戦すべきでないことを必死に陸軍に説き、陸軍もそれを受け入れる度量と科学があれば、確実に日米開戦は避けられたのである。だが、もはや陸軍、海軍にはそういう度量と科学を持ち合わせた指導者がいなかったということである。そういうことを陸軍、海軍、さらには政治の指導者に指し示す学問もまたなかったのである。平泉史学(平泉渉東京帝大史学科教授の史観)とか、学問などとは程遠いものしかなかったということだ。


                              三 対米避戦論の対米開戦論への転換 

                                    1 第二次近衛内閣と陸海軍
 
                                  @ 海軍における対英米作戦の硬軟
 日支戦争の負担 15年3月、日支事変はすでに2年8ヵ月を経過し、国費は浪費され、厭戦の声は天下に瀰漫しはじめていた。15年3月30日、参謀総長、陸軍大臣、局長・部長らの会議で、「十五年中に終戦外交が成功しない場合には、陸軍は十六年初頭から自発的に撤兵を開始し、昭和十八年中には上海付近および蒙疆の一角を残して全部の撤兵を完了する」ことを決定した。しかし、4月、独逸の破竹進撃は開始され、日本陸軍は、「ドイツ軍の英本土への上陸は近く、イギリスの降伏も時間の問題であると盲信」し、この決定を破棄した。「バスに乗り遅れるな」という合言葉とともに、「親独への道を突進」(鳥巣建之助『太平洋戦争終戦の研究』文藝春秋、1993年、28−9頁)し始めた。

 この熱にうかされた陸軍、右翼、マスコミなどは、海軍大将の米内首相への批判を強めた。陸軍は畑陸相を辞任させ、かわりを出さぬという常套手段を使って、米内内閣を倒閣させた。15年7月22日、第二次近衛内閣が成立すると、「あっという間に日独伊三国同盟が締結され、仏印への進駐、日中戦争徹底遂行という反米英への道」を驀進し始めた。近衛は「独をもって毒を制す」として、陸軍に「多少受けのよい」松岡洋右を外相に据えた(細川護貞「私の履歴書」[鳥巣建之助『太平洋戦争終戦の研究』文藝春秋、1993年、29頁])

 海軍首脳の優柔不断 15年11月15日、及川海相は「出師準備第一作業」を発令し、大本営直轄の第四艦隊は連合艦隊に編入され、第六部隊(潜水艦部隊)が新設された。陸軍関係者はこれで「事実上の対英米戦争体制」(陸軍関係者の戦後談[125頁])に突入したとするが、海軍の出師準備には「陸軍の動員とは比較にならぬほど長期間を必要」とされており、海軍はまだ対英米戦争を決定したわけではなかった(池田清『海軍と日本』125−7頁)。「商船を徴傭して特設空母に改装したり、漁船や商船を特設掃海艇にしたりして、平時にない特設海軍力をつくるだしたり、しまっておいた大砲弾薬を部隊に配付したり、前線に運んだり、あらゆる戦争準備をすること」(富岡定俊『開戦と終戦』毎日新聞社、昭和43年、64−5頁)であり、あくまで戦時編制発令前までに完了するものというに過ぎなかった(井澤忠「日本海軍の後方支援に関する史的検証−出師準備計画及び作戦準備を中心として−」[防衛省防衛研究所戦史部編『 戦史研究年報』14、2011年3月])。

 16年1月大本営政府連絡会議は、対仏武力行使を決定した。4月日ソ中立条約を締結しつつ、日米交渉が開始された。16年5月頃から、サイレント・ネイビーの日本海軍が、明確に強硬に開戦論を唱えだした。このサイレント・ネイビーとは、原則的には邀撃作戦に基因し、大正海軍の大御所加藤友三郎(父は元広島藩士)の不戦海軍論(「国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なり」)という「海軍リベラリズムの象徴」(池田清『海軍と日本』133頁。これは斉藤実[仙台藩]、岡田啓介[福井藩]、米内光政[盛岡藩]、鈴木貫太郎に引き継がれた)の反映ともいうべきものであった。この頃、、ドイツ(兵力1000万ー1200万人、航空機1.5万ー3万機、潜水艦200隻)は英本土上陸作戦を呼号し、対ソ関係も緊張し、英国は「直ちに降伏」するとか「ソ連は三ヶ月位で制せられる」という声がベルリンから流れてきたのである。

 この前後から軍令部の永野修身総長、近藤信竹次長らが、さかんに開戦決意への強硬意見を述べ、いつまでもサイレント・ネイビーにとどまっていては、「陸軍や観念右派から海軍無用論の声が起きぬでもない」(杉本健『海軍の昭和史』文藝春秋、1982年、203ー4頁)と主張しだしたのである。藩閥の調整弁が作用していれば、陸軍・海軍首脳の間で、双方の役割分担がなされたろうが、もはや全国各地出身の将軍や幕僚にはそういう調整能力はなく、陸軍が海軍の弱点を鋭くついて、海軍無用論、軍令部不要論を激しく主張する可能性は十分あった。実際に、終戦前には陸軍幕僚がこれを提唱しはじめたのであった。

 16年6月5日、海軍第一委員会(15年12月、海軍次官沢本頼雄中将、軍務局長岡敬純少将、軍務局第一課長高田利種大佐、同第二課長石川信吾や対米強硬派が中心となって設置。開戦した場合、伏見宮軍令部総長を通して責任が追及されないように、「宮様の替え玉」として第一委員会を作ったともいわれる[戸高一成の発言<沢地久枝ら『日本海軍はなぜ誤ったか』岩波書店、2011年、42頁>])は「現情勢下において帝国海軍のとるべき態度」で、「和戦の決の最終的鍵鑰(けんやく)を握るものは帝国海軍」であるから、「直ちに戦争決意(対米を含む)を明定し、強気をもって諸般の対策に臨むを要す」(池田清『海軍と日本』124頁)と報告した。

  平出英夫海軍大佐 この海軍強硬派の突出の象徴が、昭和16年5月27日海軍記念日特別番組で報道課長平出英夫海軍大佐(駐伊武官から東京に戻ったばかり)のラジオ演説「海戦の精神」であった。平出大佐は、@米国の対英援助の結果は、状況如何によっては、事実上米国開戦に発展し、日独伊三国同盟の関係で、我々としては、米国参戦は対岸の火災視するわけには行かず、直ちに日本に影響をもって来る事、A帝国海軍は紛々たる輿論に超越して、その軍備の拡充と戦力の充実とに精進している事、Bその整備の状態は、まさに帝国有史以来のものであり、必要なる基地は、今や完全なる防備を施し終って、軽々しく我々に挑戦するものあらば、これを一挙に粉砕せんとする姿勢にある事、C今日の世界情勢から、日本が参戦することなし、と断言することは誰にもできない事(杉本健『海軍の昭和史』文藝春秋、1982年、194頁)など、世界大戦への日本参戦を主張したのであった。海軍の開戦論である。さらに「われに艦艇5百余、海鷲4千余あり、必殺戦法わが海軍にあり」という大風呂敷まで広げた。翌29日午後、朝日新聞記者杉本健は航空本部長井上成美中将のもとにでかけ、「海軍は、ほんとに五百隻も4千機もあるんですか」と問うと、井上はそれは「なんでもかんでも集める」ならということであり、実際には「無い」とした。この平出放送は、強硬派の「水先案内人」の役割を果たそうとししたものであり、以後、「戦争へ傾斜して行こうとする開戦グループの姿勢が、霞ヶ関に目立つように固められて行く」(杉本健『海軍の昭和史』207ー9頁)のであった。

 では、肝腎の石油はどう確保するのか。平出はこれに一切言及せずに大風呂敷を広げたのだが、開戦した場合の石油確保問題については、覚束無いながらも開戦するべしという意見と、南方の油田を確保すればいいという意見があった。

 富岡定俊海軍大佐 前者の一人として、軍令部第一課長富岡定俊(松代藩海防隊隊長富岡定知の孫であり、父定恭は海軍中将であり、三代に渡る海軍一家の男爵家[拙著『華族総覧』講談社、参照])がいる。彼は同第二課長田口太郎に語っているように、@「戦争をやっても勝ち目はない。しかし、日米会談をさきにのばしていたら油がなくなる。計算したら十七年三月ごろになって、会談決裂ということにでもなったら、もはや油の点で、軍艦も飛行機も動かない」、A「そうなると国内は混乱し、収拾がつかなくなって、最悪の場合は内乱ぐらい起こるかもしれない」、B「アメリカは日本の油の手持ちを見越して会談を引きのばし、対日戦争準備をしている。もしそれなら、いまのうちに機先を制するほかない。もしうまくいかずに負けても、必ず日本民族は立ち直るはずだ。そのときの心の糧として、ここで戦争をやろうじゃないか。座して敗れるより、戦って敗れた方が長い目で見た将来の勝利に結びつく」(『昭和史の天皇』7、北方領土、昭和55年、266頁)としたのである。

 戦後、富岡は、「この戦争は、敵に大損害を与えて、勢力の均衡をかちとり、そこで妥協点を見出し、日本が再び起ちうる余力を残したところで講和する、というのが、私たちのはじめからの考え」であり、しかも、「ドイツも非常に勝っている」ので「講和のキッカケはその間にでるだろう」(『開戦と終戦』毎日新聞社、1968年)と語っている。富岡は、アメリカには勝てないが、立派に負けて日本民族の精神を見せつけ、ドイツ頼みの対米講和に持ち込むという楽観的見通しであった。日本は、そういう甘い見通しのもとに開戦したのであった。こうした富岡の楽観戦争観は、「日露戦争を最後とする古典的戦争観」である「条件的講和の制限戦争観」の「反映」(池田清『海軍と日本』57頁)であった。それ以前の近代戦争は、戦局の行方がはっきりするまで戦い、頃合を見て第三国に和平仲介を頼むなどして「講和会議」に持ち込み、互いに条件を決めて和解してきた。日露戦争の戦争終結もまさにしれだった。アメリカ帝国主義の研ぎ澄まされた牙を見抜けずに、まさか米国が1943年1月カサブランカ会談で無条件降伏などは思いだにせず、甘い見通しに立っていたのである。

 なお、富岡は、Aで石油枯渇すると、内乱が起こるとしているが、内容が不明である。石油枯渇すると、石油依存度の最も高い海軍が無用の長物視されて、陸軍に従属されることに対して、海軍が陸軍に「内乱」を起こすということなら、ありうるであろう。だから、そうなる前に、敗けてもいいから、機先を制して、日米開戦しようと主張したのである。後述の通り、富岡は伝統的な漸減邀撃作戦の観点から山本五十六の奇襲戦法には反対したが、米国側に追い立てられ、機先を制して、海軍「独立性」維持のための日米開戦には賛成する点では相違はなかったのである。しかし、海軍が「座して敗れるより、戦って敗れた方が長い目で見た将来の勝利」などという「非常識」な論点で日米戦争をはじめるなどは言語道断というほかはない。確かに当時の学者の大怠慢で個別研究の殻に安住し、金融などの「専門家」が総力戦に関与するものまで出て、総合的・根源的に把握する学問がなかったから致し方なかったといえばそれまでである。だが、アメリカの「日本先制攻撃の罠」にはめ込まれることなく、堂々と「座して敗れて」臥薪嘗胆、アジア諸国と連帯して、戦わずして米国に勝つぐらいの長期的見通しをもてないようなものが、国民生命に多大な犠牲を強いる行為を軽々にするなということだ。

 この石油問題は天皇も懸念していたところであった。16年8月26日午後、城は天皇から「燃料資源事項問合せの為め」、自ら「(海軍省)軍需局及軍令部に行き」、その上で「侍従長に燃料事情 御説明」した。侍従長は、「従来海軍出身の首相あり乍ら、燃料問題解決出来ざりしは残念なり、国の進路は慎重なるべしとの御意見」を述べた。天皇は石油について悲観的見通しを持っていたようだ。だから、8月27日夕方、天皇が「夕餐」の「御相伴」をした徳川、岡部、城に、「gasolineの話」などをしたのであった。なお、9月1日には、「gasoline制限」のため、「送迎用海軍省自動車、取止めとな」(城英一郎『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社、1982年、90ー92頁)っている。軍需用石油を確保するには、非軍需石油の使用を節減・中止するしかないのである。

 宇垣纏海軍少将 聨合艦隊参謀長宇垣纏もまた、南方石油の確保という観点などなく、国力差などにも躊躇せず、迅速な日米開戦を説いていた。もとより、宇垣にも、これが「無理な戦争」だという認識はあった。彼は、「如何せ無理な戦争なのだから。之を一々気にしていては、今度の戦は成り立つまい。押し切りの手と、応変の腕だ。そして、死力を尽すのだ」(16年11月24日の項[宇垣『戦藻録』20頁])としていた。陸軍の考え方に近い。実際、宇垣は陸軍の受けが良く、陸軍首脳との交流も厚い。

 16年10月16日、宇垣は、日米国交調整に譲歩することは、日中戦争で「四年有半かかって十五万の生霊と、百数十億の戦費を費やした事変其物の成果を皆無ならしめ、東亜共栄圏の確立等は昔の夢とあきらめねばならぬ」(宇垣纏『戦藻録』原書房、昭和43年、3頁)とした。10月22日、米国も「真面目に考へたら、我等と戦ふの愚は充分了解出来る筈だ」が、米国には「六十日にして、或は九十にして、日本を参らせ得る等考ふる徒輩が多く」て、「まだまだ話にはなるまい」とする。聨合艦隊参謀長宇垣は、「さう云ふ奴等に一泡吹かせるのが帝国の為であり、また愚図愚図しない方が有利」(『戦藻録』6頁)とする。10月28日、「果して彼(米国)に戦ふの自信ありや否や、只参れとぞ云はんのみなるべき」(『戦藻録』8頁)とした。かなり積極的である。

 10月29日、福留繁軍令部第一部長は宇垣宛書簡で、「未だ首相の意図は一言も表示し居らざるを以て、如何なる結論に到達すべきや予断の限りにあらざるも、実施部隊に在りては、最悪の事態を予期し只管其の準備に邁進致し被下度」とした。宇垣は、「引下りて我要求を緩和するか、戦を決意するか以外に方法なし。荏苒日を空うするは、彼の術中に陥るものなり。開戦を決意し諸事を進め、而して其の腹にて交渉せば、案外に彼も我も追従すべし。今日残された手は夫れ以外にあらず。彼にして翻意する処無くんば、即ち武力発動のみ也」(『戦藻録』9頁)と、積極開戦の姿勢を示した。

 石川信吾海軍大佐 後者の一人として、艦政本部出仕兼軍務局第二課長の石川信吾大佐がいる。石川は「主戦論の雄」となったが、「その基調の一つ」は、「石油資源」を確保するための「南方進出政策」にあったのである。

 16年6月5日、第一委員会の中心人物石川信吾軍務局第二課長は海相・総長らに「現情勢下に於て帝国海軍の執るべき態度」を起案し、勝利戦略無く、海軍開戦決意を無謀に主張した。ここでは、@「帝国の自存自衛上我慢し得る限界」を明示し、「右限界を超ゆる場合の武力行使に関しては明確なる決意を顕示し、且之に伴ふ準備を完整」する事、A米の「欧州問題介入」を「希望」するので、三国枢軸を強化する事、B「南方武力行使の制限をうけ」ないこと、「支那事変終息」に介入を受けないことを条件に日米交渉の成立を希望すること、C石油供給禁止・ゴムやニッケルなどの全面禁輸・仏印と泰が日本の自衛軍事協力を拒否した場合などには蘭印において日本が武力行使すること、D「帝国海軍は皇国安危の重大事局に際し、帝国の諸施策に動揺を来さしめざる為 直に戦争決意を明定し、強気を以て諸般の対策に臨むを要す」とした。これは、独伊不敗を前提にし、「独の勢力を過信した者」の「無謀」にも「一方的に限定したシナリオ」であった(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、323−5頁)。海相・総長らの印があるが、これは「決済印」ではなく、「閲覧印」でしかない。

 17年6月には、彼は、南西方面艦隊参謀副長(スラバヤ)に就任し、石油確保をはかった。だが、敵国の潜水艦が石油輸送船を攻撃すれば、本国への石油補給は容易ではなくなる。富岡が南方石油資源の確保に言及しなかった理由は、彼はこれを見通していたからではないか。

 17年に杉本健朝日新聞記者がラバウルで石川参謀副長に今後の戦局不安を示唆すると、石川は「独逸がどこかでソ連をひと叩きしたら、戦争の工合も有利に転換する」(杉本健『海軍の昭和史』311−3頁)と、外国任せの戦局見通しを述べている。そのドイツの戦勢にも暗雲が垂れ込みはじめていた。南方石油の確保が容易でないことは、当初より分かっていたことではなかったか。これまた無謀な開戦論であった。

                                  A 松岡外相の対米避戦・対ソ開戦 

 松岡の対米避戦 16年1月13日畑俊六軍事参議官の「堀内謙介前駐米大使の米国事情」によれば、米国の対日参戦は時機の問題となっている。つまり、堀内は、@「米国は、別に宣戦することなく参戦すべし」、A米国は三国同盟締結に「吃驚」したが、目下は米国から「戦端を開く」ことはなく、「十分準備を整へ日本の出方を見」つつ、「ヂリヂリ油の禁輸、絹の禁輸入等日本を苦しむるの策をとるべし」、B「対米楽観は禁物」、C「米は極東における英の代理者となり其財産管理人たらん」とするので「容易の援蒋政策を改めざるべし」と見ていた。さらに、1月21日、松岡外相は、第76議会で、「米国が、東は中部大西洋を、西は支那大陸、南は蘭印をその国防の第一線であるかのように振舞うことは、『神を畏れる敬虔の念をもって深く反省』」すべきとし、「日本の大東亜共栄圏建設の真意に理解を示し、その西太平洋における優先権を認め、なお、日本に対する経済的圧迫をやめるべきだ」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、174−5頁)と主張した。

 既に16年1月16日、ハル国務長官は、「米国の武器貸与法の討議」に関連して、「日本に西太平洋全域制圧の企図あり」としたように、米国は日本による太平洋利権侵害・喪失を現実の危機と受け止めていた。太平洋利権をめぐって、日本と米国の対立は深刻化してきたのである。1月22日、ハル長官は松岡演説に対して、「米国は、だれにも脅威を与えず、どこへも侵入せず、また、だれをも包囲したことがない。米国は、国境を広げ、覇権を求める意志がない」と反駁した。1月26日、松岡外相は、「ハル国務長官の言説は甚だ考へも間違っているが、措辞もまた乱暴極まるものである」と批判した。1月27日、グルー大使は本国に、「駐日ペルー公使からの日本を含む多くの筋から得た情報として、有事、日本はパールハーバーに対し大挙奇襲攻撃の計画あり」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、175頁)と報じた。

 16年1月23日、松岡外相はこうした米国の「誤解」を解き、対日参戦方針を修正しようとして、野村大使を訪米させた。その際、松岡外相の与えた訓令とは、@現状では米国の欧州参戦、対日開戦となり、「政界戦争」の大惨禍を被り「現代文明の没落」となること、A自衛のみならず「全人類の為」に三国同盟の如く「英米以外の国」と「連結協力」して「対日開戦又は欧州参戦を予防」する必要があること、B日本は「大東亜圏に自給自足の道を講ずる」必要があるから、これに反対する米国を説得し、米国も参入できる事というものだった(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、152頁)。

 陸海軍の混迷 16年2月15日山本長官は及川海相に、「対仏印・泰施策要綱」の決定は、最悪の事態生起の可能性さえ覚悟の上であろうが」、「米の態度が最早単なる恫喝と見得ざる点並に英の海峡植民地方面の軍事的動向の真剣なる点等」から判断して、「若し仏印に対する我方要求が拒否さられ、武力行使に出でざるべからざる如き場合にありては、之が端緒となりて事態は意外に早く急転直下の勢を示すに至る場合なしとせざること」とした。2月末、島田支那方面艦隊司令長官は海相らに、@「対米の腹、成べく穏便、彼より無理無体の申入には断然拒排」、A「対蘭印の腹、武力は使用すべからず」、B「日独の関係、米国英側に参戦の場合極力日本の参戦は避ける」などとした。これに対して、「中央当局」は、@「米国と戦争して我に何等の利なし。故に独の希望あるも我より進て開戦の意無し」、A「蘭印等南方に武力を用ひ進出することは行はす、此際は自重し、英米との衝突を避く」などと回答した。16年2月20日頃、「南方に派遣された海軍部隊は・・漸次内地に帰投しつつあった」(戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、181−3頁)

 「大本営陸海軍部は、南方に対する武力の行使につき、互いに意見が対立」していた。15年12月10日、参謀本部は、「決意なき下に準備を進むるを前提」として南方戦争指導要綱を起案した。海軍から南方戦争指導要綱を提案させようとする。16年2月10日、軍令部第一部長大野大佐は15年11月末山本長官図演成果を踏まえて、@「対南方武力行使即対米開戦」であり、「英米分離は不可能」である事、A「武力行使する場合」とは「米海軍極東に進出し帝国国防危殆に陥る場合」であることを明記することを参謀本部に答えた。2月17日、大野大佐は、「これを文書」にして、「対米戦の準備を促進する必要があること」を強調した。陸軍は、海軍は「対米一戦の決意はな」く「ただ軍備拡充のための対米一戦論」を標榜しているにすぎないとした(戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、183頁)。

 2月24日、塚田攻参謀次長は近藤信竹軍令部次長に真意を尋ねると、近藤は「(対)南方施策に伴う武力行使を意中に発言したるものにして、当面の仏印泰施策に伴ふ武力行使に対する海軍の腹に変化なきを強調」したが、陸相・外相は「海軍の無節操」と批判した。参謀次長は近藤次長に、「南方施策要綱海軍案」の提示を要請したが、近藤は「案が出来ぬ」「上層部明確なる意図を示さず」と言う。これには、塚田は、「無責任も甚し、海軍には当面の戦争指導計画なきや、真に腹がまとまらざるや、政治的謀略なりや、物を取る為に国策をぼやかさんとするなりや、全く真意を捕捉し得ず」(『大本営機密戦争日誌』[戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、183−4頁])とした。海軍は、陸軍主導の仏印泰施策には消極的であった。

 3月11日、米国大統領は、共和党から「気の狂った帝国主義の政策」「侵略戦争の手段」と批判されていた「武器貸与法」に署名し発効させた。3月中旬、米英参謀会議(ABC)が「ほぼその作業を終了しようとしていた」。米国の欧州戦参加はきっかけまちであった。当時の「国際関係は、正当防衛の意識で働いており、緊張の相互作用(エスカレーション)が強まっていた」(戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、185頁)のである。

 3月20日、軍令部第一部長直属小野田捨次郎中佐は大本営陸軍部に、@「海軍は好機に投ずる武力行使を考慮しあらず」、A「海軍は対南方武力行使 即対米武力行使 絶対』とする事、B「今や米の圧迫現実に差迫りたるものとして対米武力行使を決意」すべきだが、「海軍に其の決意なし」、Cしかし、海軍は、武力行使決意はないが、「準備」は必要であり、「物、金をと」らねばならぬ事と報告した(『大本営機密戦争日誌』[戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、184頁])。前述の通り、海軍は出師準備はするが、開戦決定はしないというのである。これでは、陸軍は納得できない。
 
 4月17日陸海軍は「従来の陸海軍の意見を総合調整」して、15年7月27日連絡会議決定「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」に比べて、「自存自衛のための武力行使をうたう」「対南方施策要綱」を概定し、6月6日決定した。この決定過程で、前述の通り南方進出積極論者の石川信吾海軍軍務局第二課長は、「軍事基地設定の件のみを提議し『シンガポール』をやらぬと云ふが如き施策要綱は止めよ」、これでは「海軍は外務・政府に対し恥しい」と反対した。石川は、「対南方施策は止めて、更に其の上におひかぶさるやつを造るべし」と主張したのだが、大本営は「南方のみで半年を要した」のに「大きなやつは一年もかかっても尚成立せざるべし」と批判した(戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、185−7頁)。


 日米諒解案  周知の通り、野村駐米大使とは別に、民間ルートでも日米交渉が推進された。井川忠雄(産業組合中央金庫理事、元大蔵省駐米財務官、妻は米国人)は、友人のクーン・ロエブ商会のストローズが紹介したカソリック海外伝道教会会長ウォルシュ司教・同教会事務総長ドラウト神父に、@米大統領が日中紛争を仲介する事、A「独国に対する物資補給を拒否」するなどして「枢軸同盟を無効にする」事、B「太平洋諸国の現状凍結」する事、C日本はこれ以上の「政治的、軍事的侵略を行なわない」事、D「財政・経済上の協定」で「友好関係」を維持する事などと提案したのである。対日強硬論者のホーンベック国務省顧問はこれを批判して、日本側が「枢軸加盟の取り消し、あるいは軍事的、政治的侵略行為の中止」など「ひとつでも実行」して「具体的証拠」を示せば、彼らと会談しようとした。彼はハル国務長官に、@「全権代表」の法的性格などが不明、A中国問題は「英独関係」と同じであり、米国仲介の解決はありえないのではないか、「賢明」といえるか、B日本との協定は枢軸体制離脱となって「米国にとって現実的であるか」、C「正当な権利と秩序ある手続き」か「力と闘争」のいずれで「日米両国の問題点」に取り組むか、D「日本が一方的に起こした問題」は「自分自身で、合法的かつ順序正しい手続き」で解決すべきではないか、E日本の「名実を備えた権威」は軍部指導者にあり、「日本とのいかなる協定もこれら軍部の指導者の満足するものでなけれなばら」ないなど、問題点を指摘した。ホーンベックは、「日本とはむしろ一戦を交えることも、ひとつの選択であることを暗示」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、237−8頁)したのである。

 3月7日ホーンベック顧問はハル国務長官に、@日本は南方進出準備は不十分、支那情勢の「併合」は不十分、日ソ関係は疑問符、日独関係信頼は不十分、A米国「至急の問題」は、「(@)日本に希望を持たせつつ、しかも、確証を与えず推測に止めさせ、(A)われわれが日本人の考え方や実際の意図につきあらゆることを見つけていくこと」と提言した(241頁)。 一方、同日、井川らを斡旋したフランク・ウォーカー郵政長官はハルに、@「日本の要人達は『ル』大統領及びハル長官を信任しているが、しかし、自らの外務省を信頼せず、日米協定が結ばれれば外相を交代させる計画である」、A「閣内内閣と陸海軍指導者は、枢軸への積極的参加を撤回する方式を決定した」、B野村大使は「このような重要問題」を知らないことを伝えていた(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、241ー2頁)。

 一方、野村も日米交渉を開始した。3月8日野村はカールトン・ホテルにハル国務長官を訪問し、「通商航海条約の廃棄問題を重視し」、それは「いたく人心を刺戟する」(240頁)とした。ハルは、「ヒトラーに共鳴する日本の東亜新秩序も、要するに武力による大東亜の制覇であると見られている」とした。野村は、「日本の求めるところは、善隣友好、経済提携、防共協定の三点であり、中国に対し平等主義をもって臨んでいるが、現在作戦中である以上、占領地の経済が計画的、統制的となるのは免れ難い」とした。ハルは、「仏印は門戸開放の要があり、泰に対しても善隣友好を趣旨とする」とのべると、これには「一向反駁」せずに、「日本のシンガポール、蘭印方面への進出、東亜における武力の制覇等に関し憂慮の様子」を示した。野村は、「シンガポール・蘭印には事情已むを得ざることなき限り武力進出をなすことはない。日本の蘭印に望む所も要するに経済的である」とし、「米国が経済圧迫を強化する以上、日本は、油を他に求める必要がある」と弁明した。ハルは、今後も公式・非公式に話を続け、「新聞記者を避くる為大統領官邸の裏道」を通って「大統領との会見」を世話してもよいとした(241頁)。こうした「ハル長官の消極的でしかも何らかの希望を持たせるような態度と話し方」は、前日の「両人の覚書の影響」によろう(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、240−2頁)。

 3月14日野村はハル・ルーズベルト大統領と第二回会談をもった。ルーズベルト大統領は「三国同盟が米国世論を著しく刺戟している」「日本がこのような協定を結んで、いかなる福利があるのか」と問うと、野村は「米国が通商停止や輸出入制限によって日本を三国同盟に押しやった」と答えた。ルーズベルトが、「独伊はスエズに、一方、日本はシンガポール・蘭印・印度洋へ手を伸ばそうとしている」から、「三国同盟は米国人を狼狽させ」たと指摘すると、野村は「日本は南進しないと信じる」と答えた。ハルは「今後の重大問題を討議する予備交渉として、何を、いかにして、いつ行なうべきかの提案は、日本側の発動と責任による」とした(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、243−4頁)。

 3月17日、井川・ウォーカー郵政長官・ドラウト神父らは「原則的協定草案」を作成し、ハル国務長官に提出し、翌18日、この協定を「正式な軌道に乗せる」ことを提案した。4月2日、この「原則的協定草案」をもとに「日米協定草案」が起草され、岩畔大佐・井川・ドラウトはこれを土台に「日米諒解案」が作成された。後にこの「日米諒解案」作成に若杉公使・陸軍武官磯田三郎少将・海軍武官横山一郎大佐らも加わった。4月8日、「多角的な態度」の原則案から「はなはだしく狭」く後退した第一次試案が完成し、ドラウト神父はウォーカー郵政長官を介してハル長官に提出した。ハル長官は、極東専門家と協議して、「そのほとんどすべての条項が、日本の熱烈な帝国主義者の欲する」ものだと批判した。日米交渉とは、日米両帝国主義の利害調整なのであった。岩畔大佐手記によれば、@欧州戦について、米国は日米が英独戦争を調停することには反対であり、岩畔は三国同盟脱落を説くことに反対し、A米国が海軍で船団護衛することに触れることはタブーであり、B支那事変に対して、米側は「事変終結後も、軍隊の駐屯を認めさせようする日本の態度」に反対し、岩畔は「米軍の天津駐屯、パナマ運河の租借等」をあげて反駁し、C米国は「日本商船の借上げを要求」したが、岩畔は大西洋では「独海軍の攻撃」にさらされるので「これの使用は太平洋方面に限定する」べしとし、D日ソ戦争の場合、ドラウト神父は「米国は日本を援助する」としたが、岩畔は「そこに、日本の三国同盟からの離脱をねらう謀略の背景を嗅ぎ」、無視した(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、245ー8頁)。

 4月11日・14日、ホーンベック顧問以下国務省が作成した「日米諒解案」では、「岩畔大佐の主張は、おおむね葬られ」た。そして、「ホ」顧問は、@「日本は日露戦争以来大国とみなされてはいるが、比較的にいえばけっしてそうではな」く、A「日本に南進を思いとどまらせようと思えば、南進が米国の武力による抵抗にあうことを、日本人に印象づける必要がある」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、248頁)とした。

 4月14日野村・ハル会談で、ハルは、日米諒解案には、「数ヶ所に反対の点はある」が、「修正されれば賛成できるものもある」と柔軟姿勢を示し、野村に「提案事項についてどの程度知っていられるのか、これを会談の第一歩として公式にとりあげる希望を持っている」のかを尋ねた(248−9頁)。野村は、政府には確認していないが、「政府もまたそれを望むに違いない」として、「その計画については全部を知っており、会談の基礎として提示したい」とした。野村は、「米国艦隊の南太平洋巡航、各地への海軍将校の派遣等に関し抗議し、船団護衛に対する不安を表明」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、249頁)した。

 4月15日野村は本国政府に、@米国は三国同盟で「日米戦争を真剣に考慮」し始めたこと、A米国は日ソ中立条約で日本南進が武力的になると見て、英・蘭印との協調を急いでいること、B艦隊主力は太平洋に集中されること、C米国は対中国援助で日本南進を牽制するだろう事、D米国国家動員は動き出して「長期戦の準備」をしている事などを報告したが、日米諒解案は報じなかった(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、249ー250頁)。

 4月16日野村がハルを訪問し、アメリカ優位の会談原則を提示した。ハルは、@「日本政府が真実国交安定の計画を進める意志と能力をもっているか」を確認したいと切り出し、A日本は武力征服・占領地の放棄の意志があるか、B「米国政府が主張して来た国家間の関係を適正ならしめるための諸原則を、本当に採用する意志があるのか」を問うた上で、四原則(@「すべての国の領土の保全と主権の尊重」、A「他国の国内問題に対する不干渉の原則の支持」、B「通商上の機会均等を含む平等の原則の支持」、C「平和的手段による場合を除き、太平洋における現状の不侵害」)を提示した。そして、ハルは、日本政府がこの四原則を受容し、非公式の「日米諒解案」を承認すれば、その日米諒解案を基礎に交渉するとした(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、250頁)。これに対して、野村は、「平等性の原則」の討議を提案するが、ハルはこれに同意できないなら、交渉はできないとした。

 4月17日野村は本国宛電信で、「宗教界及び金融界の民間人による発案」である日米諒解案(全文は別便で報告)に言及しつつも、米国四原則については報告しなかった。4月18日、近衛首相が連絡懇談会でこれを披露すると、松岡外相の意向に配慮して、「外相の帰朝迄研究」して「帰朝後 態度を決定すること」になり、「外相に成るべく早く帰朝する様電報する」ことになった(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、230頁、252頁)。

 陸軍では、武藤軍務局長らは「支那事変解決の機会が得られるとして、『日米諒解案』を歓迎」した。海軍では、及川海相・永野総長は「国交改善の機会」として賛成した。4月21日、陸海軍省部局部長は水交社に会合して「野村大使の提案に対する意見」を調整した。彼らは米国の意図(「帝国現下の弱点に乗じ我が南方積極的進出を封ずると共に、自己の対英援助を強化し、且之により三国同盟を弱化し、以て米国自体の内外施策の窮状打破乃至方向転換を図りつつ、今後軍備の充実と共に世界の指導権を把握せんとするに在るべし」)を認めつつ、この際「米国の企図を逆用し本提案の趣旨を採り、以て支那事変完遂及国力の恢復整備を図」るとし、@「日支事変の目的たる大東亜共栄圏の確立」という「聖戦目的の完遂に障碍を与へざること」、A三国同盟を守って「帝国の国際信義を毀損せざること」、B太平洋の「国際情勢の変転」に対処するために「帝国国防を拘束せられざること」などを考慮するとした(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、朝雲新聞社、昭和54年、261−4頁)。
 
 四原則を知らずに、日米諒解案のみを見て、日本側は忍耐して所思をつらねこうとしている。4月21日、近衛が天皇に「会議の顛末」を奏上すると、天皇は「米国大統領があれ迄突込みたる話を為したるは寧ろ意外とも云ふべき(だ)が、こう云ふ風になって来たのも考へ様によれば我国が独伊と同盟を結んだかたらとも云へる。総ては忍耐だね。我慢だね」(『木戸幸一日記』下巻、870頁[267頁])と楽観してしまった。

 一方、4月22日には「日米諒解案」を知らない松岡外相が欧州・ソ連から帰国した。既に4月21日、水交社で省部局部長会議を開催し、陸軍・海軍部から、「帝国亦此機を捉へ 右米国の企図を逆用して本提案の趣旨を採り 以て支那事変完遂及国力の恢復整備を図り、更に進んで世界平和樹立に大なる発言権を把握すること必要なり」という意見書を提出していた(細川護貞「近衛公の生涯」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、198頁])。

 4月22日、近衛は直接米国案を松岡に見せようと、立川飛行場に出迎えたが、官邸に入る前に、松岡が皇居遥拝のために二重橋前でおりたため、この機会はなかった。22日午後9時半官邸で連絡会議が開かれ、松岡外相は「滔々として訪欧の気焔を上げ、問題が米国問題に移るや昂奮の色を示して、独乙との信義の問題を特に強調し、又本提案は米国の悪意に出たるものと解する」として、「日本に散々働かせながら戦争(第一次大戦)が済んだら」破棄した石井・ランシング協定の例を挙げ、「この問題は二週間考へさせてくれ」と求めた。同22日、「松岡外相の胸中にあったのは、スタインハート駐ソ米大使を介する松岡構想の展開であって、『日米諒解案』のようにまわりくどい方法ではなかった」から、松岡外相が帰朝してから、「日米国交改善の努力は、様相を一変」し始めた。大橋外務次官が日米諒解案を説明すると、松岡外相は「非常な不機嫌」になった(近衛文麿『失われし政治』 朝日新聞社、1946年、65−6頁)。同22日夜9時20分、松岡外相は連絡協議会に出席して、モスクワで、松岡は米大使に、「蒋に和平勧告を提議する」ことを提案したことなどを説明した。陸海軍は、「『日米諒解案』に対する意見及び同修正案を外相に手渡し、研究を依頼」した。やがて、陸海軍は、支那事変解決のための対米交渉を期待して、「松岡外相に対する反感」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、268−270頁)が高まった。23日、鈴木企画院総裁が近衛首相を訪ね、「陸海軍首脳部の松岡外相の態度に対する反感」を伝え、「今回の話は外務大臣が之に反対ならば、外務大臣を更迭しても断行すべきである」と主張した。近衛は、「外相の複雑なる性行を説いて暫らくその言ふ所に任せて置くことの上策なる」(細川護貞「近衛公の生涯」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、198−9頁])事を説いた。4月24日、松岡は肺結核を口実に「一時休養」に入った。松岡は、「病床にあって、米国の原案と陸海外事務当局の作った修正案をつぶさに検討し、修正を加え」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、273頁)た。

 松岡の日米中立条約案 5月3日、連絡懇談会が開催され、「外相調整の修正案を検討、大体承認、即刻之を米国側に伝達すべし」という意見が大勢を占めた。しかし、松岡は、「之が提出を留保し先づ米国に対し中立条約を提議すべし」と主張し、近衛は「扱方は、外相に一任」した。散会後、松岡は野村駐米大使に、中間回答(独指導者は勝利に自信、米国参戦は戦争長期化させ文明没落をもたらすこと、日本は同盟国独伊を毀損できないこと)、日米中立条約の二通を訓電した。5月7日、野村大使はハル国務長官に、中立条約を打診したが、ハルは「諒解案成立」前にこういうことを「全然問題」としなかった。ハルは、外相試案を考慮せず、「速かなる交渉開始方を督促」したのであった(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、198−201頁])。5月7日、野村は松岡に、@日米交渉は迅速さが重要であること、A日米諒解案を抜きにして日米中立条約締結はありえぬと見ていること、Bハル長官は「諒解案に於ても両国の為若干修正を利とする点を認むる」と語った事、C現在は「腹のさぐり合ひ等を許すの時機」ではなく「我国の大局より見て此の際大なる『ステイツマンシップ』を発揮し、両国国交恢復の為に大決心を為すの時機」である事などと報告した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、277−8頁)。

 松岡外相のもとで「事態は漸く紛糾複雑の度を加へて来るにつれ、関係閣僚の動きも活発になって来た」のである。松岡外相は、5月8日天皇に拝謁し、「米国参戦の場合は、日本は当然独伊側に立たざるべからず、然る時は日米国交調整も総て画餅に帰する」(近衛『失はれし政治』71頁[280−1頁])と上奏した。5月9日には近衛を訪問し、「米国参戦の可能性大なるについては、其際は、日本は当然立たざるべからず、然る時は 日米国交調整も総て画餅に帰することとなり、何れにせよ米国問題に専念するの余り独伊に対する信義に悖る如きことありては、骸骨を乞ひ奉るより致方無し」とした。9日夜、近衛は荻窪邸で極秘に陸海両相を招き、「真意捕捉し難き外相の態度に対する善処方に付き懇談、且米国参戦の場合に於ける我国の態度及独乙から反対若しくは修正の意思表示がありたる場合の困難なる処置方法等に関しては今後緊密なる連絡をとるべきこと」(細川護貞「近衛公の生涯」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、202−3頁])を打ち合わせた。こうして松岡は独伊との信義優先を説いたが、この5月8日、野村は「詳細な情勢報告書」を提出し、@「新聞通信機関」はルーズベルトの「操縦」するものとなり、ルーズベルトの「独裁的傾向益々顕著」となり、「日米国交調整案は大統領直裁事項」であり、A「米国人の大部就中大統領等が抱く世界観」は「今次大戦を『トータリテリアン』と『デモクラシー』との争」と見て、独側は「必ず崩壊」するとみているから、「英独和平調停」などありえない事、B米国は日独を同時敵とするのは不利なので、「危険度より少き日本」とは国交調整はするが、「米国が日独両国を現実の敵として戦ふ場合の為太平洋方面にて自強の策を取り 数年後完成すべき大海軍及大空軍を以て対日決戦を試むべき意向なるが如し」である事とした(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、279頁)。こうした対米観は、日米交渉の必要性と、早期開戦の必要性を同時に促す一因となった。戦争と平和は「紙一重」の関係であった。

 5月9日、松岡は野村に、情勢分析に同意しつつも、「同盟国との関係、日『ソ』関係、東亜一般の情勢及国内事情」を「慎重考慮」する必要があるとした。しかし、陸海両相は松岡に、「独の返事を待つことなく速やかに、かねて研究ずみの『日米諒解案』の修正案を野村大使の送達するよう」に要請した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、281頁)。

 5月10日、近衛は天皇に拝謁し、天皇は前日外相の奏上内容として、「米国が参戦すれば日本はシンガポールを撃たざるべからず、又米国が参戦すれば長期戦となる結果、独ソ衝突の場も予想される。その場合は日本は中立条約を棄て独乙側に立ち、イルクック位迄は行かねばならぬ」と告げた。近衛は天皇に、「外相の説明は最悪の場合に於ける一の構想に関するものたること、又仮に外相の考が然りとするも事の決定には軍統帥も参加し、閣議にも諮ることなれば御軫念に及ばざること」を申上げ、「当面第一の問題たる支那事変処理の為には米国を利用する以外に途なく、従って今回の米国の提案が絶好無二の機会なるが故に速やかに之を進行せしめん」事を奏上した。同時に、近衛は天皇に、@「支那事変処理の為には米国を利用する以外に途はなく、従って今回の米国の提案は絶好無二の機会なるが故に、速かに之を進行せしめんとする意図」、A日本修正案への独逸・米国の意見、日米諒解案成立後の米国参戦への国内意見対立などを「詳細」説明して、日米交渉の成立を最優先するべきであって、「自国の利益」を犠牲にしてまで「独逸に対する信義」を守る必要はないと上奏し、天皇はこれに「悉く賛意を表」した。近衛は木戸とも会談し、「訪欧後の外相は余りに議論が飛躍的になって、陛下の御信任を失」っている事、8日松岡上奏後に天皇までが木戸に「外相を取り代へては如何」と表明していた事などを話し合った(細川護貞「近衛公の生涯」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、203−4頁])。

 5月12日、首相、陸海軍の督促で、外相は「独乙よりの回答未着のまま、前日打電しありたる日本側修正案に依って交渉を開始すべき訓令」が発せられた。その直後にドイツ回答(米国が船舶「哨戒又は護送」を差し控えれば「米国提案を研究する用意ある」と返答されたいこと)が届いたが、「時既に遅」かった。
 
 日米両国での日米交渉 では、この日以降、松岡、野村は日米でどのような米国側と交渉をしたのか。

 5月12日、野村はハル長官を訪問し、「前日の案に若干の修正を加えたものを提示」した。ハルは、そこには「ほとんど協定の根拠とすべきものがない」ことを把握したが、これを拒否すれば、これまでの「長期にわたる努力を放棄すること」として、大統領に会見して、日本を三国同盟から脱退させるために「わずかの可能性」も追求すべきだとした。5月12日、松岡は独回答を待ちきれず、野村に交渉開始の訓令を発した。12日夜、オットー独大使、インデルリ伊大使が松岡に、「今次の米国の提案は、太平洋における事態の緩和をうたって、米国内反戦分子の危懼を除去しつつ、既定の参戦に邁進しようとする『ル』大統領の深謀遠慮」だとし、@米国の船団護送は「国際法違反の行為」であり、日本参戦に引き込むものであり、A米国がこの行為を控えたらば日米交渉するべきであるとした。大島駐独大使、堀切駐伊大使は「日米交渉は日本の両国に対する重大な不信行為である」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、282−4頁)とした。

 5月13日、松岡はハル長官に、日米交渉の前提は、@「米国が欧州戦争に参加しないこと」、A「米政府が蒋政権に対し対日直接和平交渉を開始するよう勧告すること」である旨を手交しようとした。しかし、野村は松岡に、「日本側修正案は、既に提示して先方の対案を待っている状態であり、いまこのような文書を提出することはかえって予算の成立を阻害するおそれがあるので、さしあたり、手交はさし控えたい」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、283頁)とした。 

 5月14日、松岡はグルー大使と会って、@「米国がコンボイを行なうことが戦争を誘発し」、A「大西洋その他の大洋に中立地帯を宣言することは、国際法違反である」、B「若し米国が蒋介石援助の船を護送するならば日本海軍は早速之を雷撃するだろう」し、グルーはC我々の「意見の一致は不可能だ」とし、D日本の武力南進で「英国が生命線から引き離されて崩壊」するのを拱手傍観するわけにはゆかぬとした。この14日、米国では、野村・ハル会談が行なわれ、野村は「米国のように他国からの侵略の虞のない国が、何故にこのような参戦熱にうかされているのか不可解である」とすると、ハルは「ヒトラーが英国を征服」すれば「多分公海を制圧し、最初の攻撃を南米に加える」とした。ハルは、英国救済は「単にデモクラシーの擁護ではなくして、米国自身の安全の為である」(野村吉三郎『米国に使して』55−6頁)ともした。松岡は「自分ほど深く米国人を知る者はいない」と自負していたが、グルー大使は、彼は独米戦争などで「米国を孤立しうるなどと、・・米国人の性格、気質を全く知っていない、これがかれの外相の地位にとどまることを不可能にする」(ハル国務長官宛グルー電信[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、285−290頁])とした。米国人の気質を知っていたとしても、それを踏まえた政策が適切か否かは別問題である。

 5月16日、ハル長官は野村大使に「非公式なオーラル・ステートメントと米国側の提案」を手渡し、@米国が「欧州戦争において英国その他の国に援助を与えることは、米国の自衛権の一部であるとみなしていること」を明言し、A日本は欧州戦争に対する日米協定(日本は三国同盟国が「侵略的攻撃」を受けた時のみ参戦し、米国は「自衛と国家の安全の見地」から欧州戦争に参戦)に基づき態度を決定するとして、三国同盟を有名無実化した。5月20日、野村(井川・岩畔も参加)とハル(ハミルトン極東部長・バレンタイン課長も参加)会談で、@「共産主義に対する共同防衛及び日本軍の中国からの撤退」が「蒋介石が受け入れ」られるものであることの確認、A「西南太平洋を含めた太平洋全体の現状維持の約束」の確認が問題となったが、日本側から、満足のゆく回答がえられなかった。5月21日、岩畔は「北支駐兵は、中国との和平の絶対条件であるという考え方」を変えようとしなかった。ハル長官は、「米国の立場上、南京条約・三国同盟・対共産主義方策等の用語」の使用は不可能であるとした。野村は「此の日は議論倒れ」に終わったというが、実は、三国同盟や中国問題で日米帝国主義国が国益を主張しはじめ、妥協の余地ないことを明らかにしはじめたということであろう。以後も、岩畔・井川はハルらに、「日米交渉から、三国同盟や中国問題を除外するよう提案」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、291−4頁)した。

 野村と松岡外相との「不調和」に近衛は辞職を仄めかした。5月18日海軍大佐高木惣吉調査課長は、松岡は野村の交渉に介入し、陸海相・木戸らは松岡辞任を説くが、松岡は「民衆の人気」があって辞任できず(高木「政界諸情報」2/2[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、295頁])、近衛は板挟みにあって辞任したいと思い始めているという情報を入手している。5月23日、首相、陸海軍首脳部は「多少は独伊に不義理をしても日米諒解を成立」させようとすることに対して、松岡外相は近衛首相に批判した。松岡・野村の不信感は深刻化した。軍令部特務班が入手した英国外務省宛ハリファックス駐米大使電信に「野村大がハル長官の前で、松岡外相を誹謗する発言をした」と書かれてあったことから、5月24日、松岡外相は野村大使に、野村はハルに、@日米諒解案は松岡以外の天皇・閣僚の支持を得られること、A「松岡外相の政策は日本に何等裨益する所なかりしのみならず、将来に向ても一の利益なくして徒に紛争を招来するの危険大なり」と発言したことを取り上げて、「常識上絶対に考へられざる」事と批判した(『日米外交雑纂』[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、300頁])。

 5月27日米大統領の「炉辺談話」で、@ヒトラーは「欧州のみならず、他の大陸全部の征服を志し」ているので、A英国・中国援助のために「資材や武器の供給を二倍にも四倍」にもし、B「枢軸国は制海権を獲得しない限り世界の征服を達成することはできない」とし、C「独裁者の西半球に対する攻撃」は米国の大脅威であり、じっと待つことは「自殺に等しい」から、「既に哨戒水域を北及び南大西洋に拡張」しておえい、Dこの故にル大統領は「米国が無制限国家非常時事態に直面する」ことを宣言した。ここでルが日本に言及しなかったのは、@「太平洋に在る米艦隊の大部分を大西洋に回航使用する為め」に、A三国同盟と絶縁すべきとする日本実業界方面の動きがあり、「日本に対して新宥和策を採るに決定した」としたからであった。これに対して、5月30日、松岡外相は主要在外公館に、「最近米国新聞中に日本が三国同盟に冷淡なりとの憶測記事を散見」するが、三国同盟は「我が国策の基調」とした(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、300−2頁)。

 5月28日第七回野村・ハル会談も、21日会談同様に「質疑と希望の表明」に終り、「具体的な成果」はなかったが、野村は、日清戦争の事前交渉で米国公使ダン・在北京公使デンビーの仲介がなされ、日露戦争のテオドル・ルーズベルト大統領の仲介の如き「橋渡し」を蒋介石との間になすことを希望した。しかし、松岡は、「日本の現在の地位は、日清・日露戦争当時とは天地の差異があり、ダン公使、ルーズヴェルト大統領への斡旋依頼を例にひくのはいかがなものか」と野村に疑問を呈した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、303−4頁)。

 5月31日バレンタイン参事官は日本大使館にハル国務長官使いとして「6月21日案に至る中間案(@「日米共同による欧州の平和恢復」の削除、A米国は欧州参戦は「自衛の精神」で決定、B「三国同盟の条文はその自衛戦に対して適用」されない事、C中国問題は「単なる橋渡し」ではなく、調停条件を明示すること)と称すべきもの」を持参した。しかし、これは「欧州戦共同調停問題、三国条約、支那問題、太平洋の経済問題等の点において日本側修正案より後退逆転した」対案であった(細川護貞「近衛公の生涯」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、208−211頁])。野村は、「内容が、到底日本側の受諾しがたいもの」と判断して、報告しなかった。野村は、ハル長官との交渉で「日本案に近づけられる」と甘い見通しを持っていたのである。6月2日、6日、15日、21日、22日、野村はハルと会談して、中間案の修正に努めた(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、311−2頁)。

 独ソ開戦後の日米交渉 6月21日、ハルは野村に、「『米国案』と呼ばれる提案及びオーラル・ステートメント」を手渡し、@独裁者ヒットラーは「ヨーロッパの十五箇国を征服」し、「更に他の国を征服」しようとしているから、「之に対して抵抗するのは自衛上当然」である事、A欧州大戦後には「無秩序と破産」が来るから「太平洋の平和を維持する必要」がある事(支那事変収拾、日本軍の防共駐兵反対)、Bにも拘らず「東京には責任者にして日米諒解を今のラインにてやることに反対」するものが多いとし、日本政府の「誠意」を示されたいとし、松岡外相の言動が「交渉上の障害」とされた。6月21日米国案は、「『五月三十一日中間案』と本質的にはなんら変わるところがなかった」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、314−5頁)のである。

 6月22日、野村は日本政府に、米国は三原則(@米国は「欧州戦に対する米の自衛権と三国同盟の関係」に関する日本側主張を認めず、A防共駐兵は「第三国の主権に関係」すると難色を示し、B米国の「商業上の無差別主義」は日本にも有利なものである事)に固執するが、日本は「第二及び第三については日支直接交渉の和平条件」として「米国の容喙を認めざる」ものであると、日米の原則的対立を指摘した。原則的対立の妥協には、一方の譲歩は不可欠となるが、いずれも譲歩の意図なく、腹のさぐりあいに終始せざるをえなくなる。野村は、「国交調整に対する大統領並に其の側近及びニューヨーク財界方面其の他より日本政府の政府を疑はしむる情報頻々として入手しある為、米側は何とかして日本政府の真意を確めんとしつつあるやうに解せられれる節多し」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、314−6頁)とした。

 6月22日、独ソ開戦すると、日米交渉は約1ヵ月遅延することになった。6月23日、松岡外相は、「即刻参内拝謁、他の閣僚に何ら諮る所なく『独ソ開戦せる今日日本も独乙と協力してソ聯を討つべきである。之が為には南方は一時手控かるを可とするも早晩は戦はねばならぬ。かくして結局日本はソ聯、米、英を同時に敵として戦ふこととなる』と奏上」した。松岡は、独伊に対しては信義が大事としていたが、ソ連に対しては信義などなく、結んだばかりの中立条約を破棄せよというのである。天皇は「甚だしく御驚き」、「即刻総理の許へ参り相談せよ」と命じた。同日夜松岡は近衛を訪ね、「陛下には単に外相一個の最悪の事態の見透を申上げたに過ぎず」という旨を報告した。松岡は、木戸や一般民間人らにもこの強硬論を提唱していたが、近衛が色々「突きつめた所」では、「先づソ聯を討つべし、米国とは戦争を回避すべきも米国参戦の暁は之とも戦はざるべからず」という主張だと把握した(213頁)。近衛は、政府としての態度を決するために、下記の通り、6月25日、26日、27日、28日、30日、7月1日と連絡会議を開催し、7月2日御前会議で「差当り何等行動を起さざる旨を決定」(細川護貞「近衛公の生涯」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、213−4頁])した。

 6月25日、政府大本営連絡懇談会で「南方施策促進に関する件」(仏印へ軍事基地・港湾施設を設定し、仏国政府・仏印当局がこれを認めなければ武力を発動する)を決定し、松岡外相は実行に際しては統帥部と十分連絡するとした(304ー5頁)。6月26日、連絡懇談会で、大本営陸海軍部策定の「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」が検討され、「支那事変処理」、「自存自衛の基礎を確立」するための南方進出、「情勢の推移に応じ北方問題を解決」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、309−310頁)するとした。この三者のいずれを優先するかは決められていない。これに対して、松岡外相はこれには「異見がある」と批判した。

 6月27日、連絡懇談会で、松岡外相は、「独ソ戦に直ちに参戦の決意をなし、まず北をやり、次いで南をやり、この間に支那事変を処理しよう」と主張した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、306頁)。同日夕、陸相官邸で陸海軍部局長会議が開かれ、この松岡提案が検討され、陸軍省軍務局長の武藤は、「帝国国策要綱」三に「密かに対ソ武力的準備を整へ」とあるのを、「武力行使決意と共に準備を開始す」と修正することを提案した。しかし、海軍省軍務局長は「全然不同意」を表明した。田中第一部長も不同意だったので、元通りの「帝国国策要綱」でゆくことになった。6月28日、松岡はこの説明を受けると、「南をやれば英米ソを相手として戦争をする」と懸念を表明した。東条陸相は、「南部仏印進駐・・は、慎重に慎重を重ねる必要がある」と譲歩して、国策要綱は採択された。松岡主張の独ソ戦参戦決意については、杉山参謀総長は「過早に参戦する」ことに反対し、永野軍令部総長は「絶対反対」を表明した。6月30日、連絡懇談会で、松岡は南部仏印進駐の延期を提唱し、及川海相は半年延期を述べたが、塚田陸軍参謀次長は杉山参謀総長に「断固進駐を敢行すべき」と主張した。杉山は永野軍令部総長と協議して、「断固進駐すべき旨」を表明した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、312−3頁)。近衛首相はこれに賛同すると、松岡はこれを承諾した。ここに、大本営海軍第一部長は支那方面艦隊・第二遣支艦隊両参謀長に、@第十五戦隊・第五水雷戦隊、第二・第十二・第十四・第二十三各航空戦隊等で南部仏印進駐を行なう事、A参加艦艇は7月16日集合を目途に作戦準備を行なうべきことなどを通知した。陸軍進駐部隊は、近衛師団を基幹とする第二十五軍が担当した。今回は、「北部仏印進駐時のような混乱を避けるため、陸海軍の中央協定が結ばれた(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、352−3頁)。こうして、日本は南部仏印進駐計画を決定し、米国は対日開戦作戦を加速させてゆくことになった。前日の6月29日、野村大使は本国政府に、@「三懸案についても至急なんらかの工夫をされた」い事、A「遷延は得策」ではないので「日米了解の成立は日本政府の希望する所なる旨」を米国に明示することを提言していたが(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、318頁)、進捗はしなかった。

 7月1日、臨時閣議は国策要綱を決定し、第37回連絡懇談会は対独通告(「極東の軍備を増強するとともに仏印に基地を獲得してソ英米を牽制し、独ソ戦介入に劣らない効果を発揮すること」)及び対ソ回答案(「独ソ戦に当惑しており、戦いが極東近接地帯以外に局限されることを希望すること」、「日ソ間の良好な関係を継続すること」)を決定した。日本側は、これに忙殺され、「米国政府の『六月二十一米国案』及び野村大使の交渉報告、意見具申」などは討議されなかった(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、353頁)。

 7月2日午前10時、御前会議(支那事変勃発後の5回目)が開催された。参謀総長は、@南部仏印進駐は「英米の勢力と重慶政権との連鎖を分断」することであり、A現状が独ソ戦には参戦しないが、独優勢となれば「武力を行使して北方問題を解決」し、「英米戦争に対処し得るに足る基本態勢の保持」に努めるとした。次いで、軍令部総長は、@「大東亜共栄圏内に於て自給自足の態勢を確立致しまする為に・・南方進出の歩を進め」、A「米国が参戦致しましたる場合には帝国は三国条約に基き行動」するが、「英米等に対する武力行使の時機及方法に就き・・自主的見地」で決定するとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、315−6頁)。

 原嘉道枢密院議長は、@仏印進駐は対英米戦惹起では重大なので、「特に慎重」にならねばならず、A対ソ戦は望ましいが、英米開戦は望まず、B仏印進駐すると、対英米戦が起こるのではないかなどを質問した。松岡外相は「米国が起たないとは云えない」とし、杉山参謀総長は「英米を刺激するは明らか」とした。松岡は、対米戦には「決意も準備もできていない」(矢部貞治『近衛文麿』下、弘文堂、1952年、327頁[358頁])として、武力行使よりは、支那事変、仏印・泰政策、独ソ戦などに外交交渉を行なう事を主張したのである。まさに松岡が言う通り、この時日本軍部は対米戦争の決意・準備もないまま対米戦方向に踏み出したのであり、況や対米勝利戦略など一切なかった。山本五十六の真珠湾奇襲作戦などは極めて冒険主義的であり、客観的勝利戦略などそこには一切含まれていなかった。原は、@対英米戦争は回避し、A早く対ソ戦を行ない、ソ連を「壊滅」させよとした。これは、御前会議で決定され、ゾルゲによってソ連に知らされていた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、317−8頁)。この御前会議決定事項は、「南部仏印進駐を具体化し」た事、「対ソ戦開始の可能性を含む」事で、陸軍には「画期的な国防政策の進展」であった(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、349頁)。

 松岡外相の「迷走」 7月4日、近衛は松岡に、@米ソを敵にすることは不可能なので、「北方問題解決する迄は南方に対しては武力行使をなさず。進んで米国との国交調整をなすべし」、A「米国と調整をなす結果 独乙の要求に対し満足を与ふる能はず」、B「海外物資獲得による国力増強」・「米ソの接近遮断」・「重慶との和平工作の急速なる促進」のために「米国との国交調整」は必要であり、B日米交渉は継続し、妥結を図る必要があると主張した。そして、最後に、「閣下の達観論よりすれば、日米の妥協不可能なるやも知れざるも、輔弼の重責を荷負へる身として拱手傍観する能はず。此際最善を尽し、多少の譲歩をなしてもその成立を帰さんとす」と述べた。7月5日、松岡は近衛に、「根本に於て総理と同感である。世間の風評は如何にあれ、自分は最も、米国問題に熱心だと考へる」と同意しつつも、「若し自分が障害となっているなら何時でも辞職する」(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、216−7頁])と言明した。

 7月5日「独ソ開戦その他で延び延びとなっていた日米問題検討も漸く再開の運びとな」り、連絡懇談会を開催し、6月22日に米国案を審議した。一方、米国でも、7月5日ハミルトン極東部長・バレンタイン参事官が野村大使を訪ねて、@「日本が、ソ連に対し開戦するという情報を得、確認」したいとし、A新聞切抜きを示して、「日本は二週間以内に南進を開始し、西貢(サイゴン)を占領し、泰国に航空基地を求め、一方ビルマ・ルートを爆撃するとともに他方シンガポール及び蘭印に進む準備を整え、これによって米海軍を太平洋に牽制し、ドイツに南京政府承認の代償を払う、とある報道の真偽」を問うた。野村は「未だ何等の情報に接して居ない」が、@「貴国が蒋介石を援けて財的援助をなし、飛行機、軍需品を送り、尚又パイロット等も遣る以上、日本が之に対抗する手段をとるのは必然已むを得ざること」であり、A豪州、蘭印、英領などでの「軍備の増強」は「軍事的には日本に対する包囲」であるが、B「日本人は戦争に対して飽迄慎重」なのに、米国人は「戦争を軽く見る風」がるとした。これを踏まえて、ハミルトン部長はハル長官に、「日本が侵略路線を変更」したものではないと報告した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、365−6頁)。

 7月8日、野村大使は日本政府に、「米側は、わが真意に疑惑を有している」ので、「わが方の回答が遷延しては、その疑惑を裏書きする」として、「懸案の三点(自衛権、駐兵問題、商業上の無差別主義)」について「何とか工夫を凝し」て米側と「繋ぎを失はざるやう致すべ」しと、第三回督促電を発した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、368ー9頁)。

 7月10日、野村は、米国は「相当の疑惑」を持っているので、回答が長引くと「日米国交は断絶に近き状態」となるので、自ら「帰朝報告」することを認可されたいとした。しかし、政府はこれを認めなかった。7月10日、野村は海相・総長に、「対日評価は一時緩和の徴ありし」が、「独ソ開戦前後より形勢逆転し対日和解無用論、又は日本と枢軸は不可分なるを以て全力を挙げて、ヒットラーに当り大西洋に臨むべしなどの強硬論すらあり」などと、「心境」を伝えた(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、369−370頁)。

 7月10日には、第38連絡懇談会が開催された。ここでは、「6月21日米国案」が検討され、松岡外相は「最初の案より悪い」から、野村大使の言うように「考え直して成立」させるのは難しいとした。具体的に、松岡は外交顧問斉藤良衛に詳細に説明させ、@重慶政府を容認して南京政府・日支基本政策を否認、A満州の否認、B中国治安駐兵の否認、C中国防共駐兵の否認、D米国は対支無差別待遇を主張、E米国は日本に「日中和平交渉の基本条件」を定め「東亜の指導権」を握ろうとしている事、F米国の欧州戦争参加は自衛権の発動である事、G米国は比島独立に消極的、Hハル・ステートメントは「ヒットラーと共に戦うことを主張する閣僚のいる政府とは協定できない」などと内閣改造を強要するかで、「保護国か属領に対する」態度だと批判した。次いで、松岡は、@野村にあのようなハル・ステートメントは受け取るべきでないと叱責した事、A米国案容認は「大東亜新秩序の建設を譲る」こと、B三国同盟は抹殺できぬこと、C日支事変に米国調停を望むことは「不届き」、D要するに「米国は日本の東亜の指導権を抹殺」しようとしていることなどから、野村が催促しても米国言い分を容認することは「絶対出来ない」とした(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、370−2頁)。

 7月12日、第39連絡懇談会で、「陸海軍共同の意見」として、@日本の欧州参戦は「条約上の義務と自衛」で決まる事、A支那問題には「近衛三原則を基準」とし、米国の「和平条件に対する介入は許さない」事、B必要な場合には太平洋での「武力行使を留保」すること、Cこれら以外は「米国案の趣旨」を容認するとした。松岡は、「ハル長官のオーラル・ステートメントは拒否し、対米交渉はこれ以上継続しない」と主張したが、杉山参謀総長は「対米断絶のような口吻を洩らすのは適当でない。交渉の余地を残すべきだ」と反対した。平沼内相は、@「八紘一宇の精神からいえば戦争はしない方がいい」こと、A「日本の現在の状態では、物を取り国力をつける必要あ」ることなどとした。松岡はこれに触発さてか、日米戦争は引っ込めて、「日米の提携は我輩若い時からの持論なり。絶望とは思ふが最後迄努力致しませう」とした。会議終了後、松岡外相は「陸海軍の意見」を基礎に日本側対案を作ることに同意し、武藤・岡両軍務局長、寺崎アメリカ局長、富田書記官長、斉藤顧問らによって「最終案」を作成した。しかし、陸海軍の「非常な督促」にも拘らず、松岡はこの成案を見ようとしなかった。ようやく、14日、松岡は斉藤説明を聞き、「外相の修正意見を織り込んだ最終案」が出来上がった。それは、@日米共同で欧州戦争終結に努力するという一項を復活、A三国条約の復活、B蒋介石政権に米国が和平勧告することを明記、C日支和平条件を削除、D太平洋全域を南西太平洋と改めた事で、「六月二十一案」とは異なっていた(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、372−4頁、近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、218頁])。

 松岡は、独伊大使と会見しつつ、病気と称して、この最終案への検討を保留し、「陸海軍を激昂」させ、「政局は愈々混迷」した。7月14日、「外相の最終案」が出来上がったが、松岡が「先づ『オーラル・ステートメント』拒否の訓電を発送し、その後二三日を経て此対案を発電すべし」と主張したので、陸海軍は「かくては先方の悪感情のみを助長して決裂に導く虞」があるとしてこれに反対し、「少なくとも両方を同時に発電すべし」とした。しかし、14日午後11時半、外相は独断で『オーラル・ステートメント』拒否の訓電を発した(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、219−220頁])。これを見たハル長官は、7月17日にオーラル・ステートメントを撤回した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、375頁)。

 15日、外相は坂本欧亜局長をして日本側最終案を独逸に内報しようとした。15日、外相欠席した閣議で、「外相の更迭か、内閣総辞職の何れかを断行する」ことが決められた。外相一人をやめさせた場合、松岡が「米国の『オーラル・ステートメント』は、日本内閣の改造を要求するものだと強調してい」たから、「深刻なる波紋を描く虞」ありとして、「戦時態勢強化といふ意味に於て総辞職を決行するを可とするの意見」もでた(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、219−220頁])。

 15日午後2時、近衛は葉山御用邸を訪ね、閣議決定を天皇に報告した所、天皇は「松岡だけをやめさせるわけにはゆかぬか」とした。近衛は、「慎重熟慮の上善処すべきも、唯このままに置くことの許されぬこと」を奉答した。木戸は「総辞職も止むを得ない」とした。16日午後、首相、内相、陸相、海相は目白別邸で協議し、内閣総辞職で一致した。病床の外相からは書記官長が辞表を取り、午後6時半、臨時閣議で辞表を取りまとめ、午後9時前葉山で辞表を捧呈した(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、220−1頁])。

 一方、米国では、7月4日ルーズベルト大統領はハル国務長官に命じ、近衛に対し、「日本が対ソ軍事行動を起こすべしとの噂は事実に反するとの確言を与へられまじきや」というメッセージを送った。7月8日、松岡外相はグルー大使に、「米国は真に欧州戦に参戦する意思なりや」と応酬した。7月16日、米国は日本政府に、「独乙に対する自衛権の発動は当然ないと断じ米国に拱手傍観せよといふ国は、武力侵略国と一味徒党と看做す」と批判してきた。これに対し、松岡は、「自衛権の無制限の濫用に対する反対」を表明して、米国を牽制した(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、214−5頁])。松岡外相の強硬態度で米国はかなり硬化していた。

                                      B 軍部の開戦迷走

 海軍の開戦逡巡 6月10日、陸海軍首脳が会談するが、南北進に「同意なるが如く不同意なるが如く」曖昧だった(『大本営機密戦争日誌』[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、327頁])。6月12日第30回連絡懇談会で、軍令部総長が武力南進を主張したが、松岡は「仏印が承知せず、米英はこれを軍事占領と見」ると反対した。参謀総長は海軍を支持し「最早手ぬるくやる必要なし」とした。しかし、松岡反対で結論は保留となった(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、329−330頁)。

 6月16日連絡懇談会で「南方施策促進」が検討され、外相は「独ソ情勢の緊迫せる今日、此の如き進駐は如何と再考する必要あり」とした。しかし、6月18日、松岡外相は大島駐独大使に、「独がヴィシイ政府に対し、日本の航空機及び艦艇のための基地を南部仏印に認めることを斡旋する」ことを訓令した(333頁)。それでも、松岡は「軍部の要望に対し抵抗を示し」た。6月21日、軍部は南方諸地域は「帝国の生命線」とし、放置すれば「英米の圧迫を反撥し得ざる所迄、相対的後退を余儀なくされる」と強調して、松岡はようやく「南方施策促進に関する件」を承認した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、332−4頁)。

 6月20日、陸軍、海軍は南進、北進で齟齬しだした。陸軍は「好機に乗じてやる」と言い、海軍は「やるかやらぬか当時の情勢に応じてやる」と言う。海軍は、「南方武力準備を完整し、北方武力準備は現状を基準として整ふ」(『大本営機密戦争日誌』防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、[336頁])とした。これでは、陸軍は海軍のやる気がわからないのである。陸軍参謀は、海軍の「本当の腹はやらぬのか、本当の腹はやるのだが作文に書くのはいやなのか」、「作文によればやるやらぬ不明の儘、北・南を準備せんとするにあるは是れ如何、国家には方向なかるべからず」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、337頁)とした。これは、陸軍が開戦決意のもとに戦争準備するのに、海軍は開戦決意なく戦争準備する事から起こった齟齬であった。

 陸海軍の対ソ動員令 既に16年4月13日に日ソ中立条約が締結されたが、6月22日独ソ開戦となり、「密かに対ソ武力的準備」がなされた。東条陸相は「ソ連を刺激しないように、差し当たり約10万を臨時召集の形式で動員」しようとした。7月1日、本土の要地防空部隊の臨時召集が発令され、7月3日、要塞高射砲部隊要員の臨時召集がなされた。大陸命第505号で、「北朝鮮の羅津と永興湾要塞の本準備及び北千島要塞と関釜連絡地区諸要塞の準戦備」が下令された(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、324−6頁)。ソ連を刺激しないように対ソ武力準備をするため、本格的動員はできなかった。

 しかし、田中新一第一部長が東条を説得して、7月5日、16コ師団基幹態勢に応ずる本格的動員(80万人)が決定した。7月7日、第一号動員で内地で25万人臨時召集して、関東軍は60万人となり、7月16日動員で25万人を加えることになっていた)。こうした陸軍の対ソ作戦に、海軍は「米国参戦の危険」があるとして、対ソ、対米の二正面作戦は「日本にとって致命的」とした。やがて南部仏印が緊迫して、対ソ作戦は重点を失って行った。7月2日御前会議決定の帝国国策要綱に基づき、7月3日、杉山参謀総長は「南部仏印進駐に関する準備命令の件」を上奏した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、328−331頁)。

 7月10日、永野軍令部総長は、「対蘇警戒に任せしむる」目的で第五艦隊を編成し、「仏領印度支那方面の警備」のために南遣艦隊を編成する事を上奏し、允裁された。7月25日、軽巡「木曽」「多摩」を基幹に第五艦隊が編成された。7月11日、福留軍令部第一部長は田中参謀本部第一部長に、「対ソ作戦の諸準備は、海軍としては大体8月末に完成する見込み」とし、「南部仏印進駐をやってみて大したことがなければ、北方解決にのりだすことについては海軍としても了承している」として、陸軍北方作戦に理解を示した。しかし、対米作戦に従事する海軍にとって、陸軍が対ソ作戦を重視することには懸念せざるをえなかった。翌12日、近藤軍令部次長は塚田参謀次長に、@「陸軍の動員のため・・海軍工場の工員を召集しないこと」、A「満州方面に対する陸軍戦備の充実は慎重に実施されたい」事などを要請している(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、347−8頁)。

 では、陸軍は、対ソ作戦発動の好機をどうみたか。7月15日、部長会議で、「対ソ武力行使の好機をいかにして判定し、捕捉するかについて討議」されたが、決定できなかった。参謀本部、第二部、関東軍は「武力発動の好機の看破に努め」たが、「(極東ソ連軍の)西送の状況(予想を下回る低調さ)も極東ソ連軍の弱体化」や「ソ連の軍事的政治的危機」が「なかなか期待のように現れてこなかった」ので、統帥部は「対ソ好機捕捉に焦慮」しだした。7月16日、参謀本部作戦課は、「関特演に伴う作戦について審議」を行ない、@「極東の状態はまず熟柿となるとは考えられない」のであり、A好機到来を前提とした関特演は準備だけはするが、B「予想外の状況が急速に発展した場合」を想定して推進するだけだとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、352−4頁)。

 陸軍の南北作戦迷走 7月7日米国のアイスランド進駐の行政協定がなされると、7月9日、田中第一部長はこれは「欧州戦争参入の序曲」であり、「日米交渉は全く絶望的」になったとし、「南北いずれを先にするか」が問題となった。北方の対ソ処理には、「短期終結の場合」と「長期持久の場合」があり、いずれになるかは「独ソ戦の推移」如何による(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、354−5頁)。

 南方作戦では、短期決戦が可能な「仏印、泰、ビルマを包括する第一段階」と「長期大持久戦」となる「マレー、蘭印、比島の攻略並びに対米英蘭戦を含む第二段階」があるとする。短期決戦が優先事項と成り、「短期決戦の見込みがある限り、まず対ソ処理を優先」し、「対ソ短期処理の見込みがなければ・・南方処理を第一段に着手する」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、355頁)とした。

 対ソ処理、南方処理について方針がでると、7月11日、連絡懇談会は、6月21日ハル長官の松岡外相排撃声明の検討に着手した。松岡は、ハル声明は「乱暴千万」と批判した。12日の会議でも、松岡は、これは「日本を保護国ないしは属領と同一視している」と批判し、「対米交渉はこれ以上継続できぬ」とした。しかし、杉山参謀総長は、仏印進駐、対ソのための関東軍戦備増強などの重大事態を控えているから、日米交渉「断絶」は不適当だとした。討議の結果、ハル声明は拒否し、「最初の日本案を堅持する」が、「交渉の余地を残」すとした。14日、松岡は、陸海軍の外務事務当局案(@「欧州戦争に対する帝国の態度は、条約上の義務と自衛によって決せられる」、A「支那問題に対しては近衛三原則を基準と」する、B必要な場合、太平洋で武力行使する)に同意せず、ドイツ大使などと会見し、近衛首相、陸海軍を激高させた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、355−6頁)。

 二つの冒険主義 こうして、当時の日本国民は、対米勝利戦略ないにも拘らず対米戦不可避化する戦備を推進するという矛盾した軍部(その最たるものが、山本五十六の冒険主義的な真珠湾攻撃作戦)と、三国同盟が対米戦を不可避としつつも独ソ大国との「均衡」で対米避戦を企てるという矛盾した冒険主義的な外相松岡という二つの「冒険主義」的企てを抱えることになったのである。後者の冒険主義的要素が排除されても、前者は残って却って肥大化することになろう。


                                          2 第三次近衛内閣と陸海軍

 第三次近衛内閣と陸海軍 7月16日、近衛は、内相、陸相、海相と協議し、松岡外相を更迭し、「対米交渉の促進」のために総辞職した。7月17日、及川海相は、留任交渉の際に、近衛首相に、@「新内閣は七月二日御前会議決定の『情勢の推移に伴ふ帝国国策』を堅持する事、A「右国策遂行の為必要とする対英米戦争の基本態勢は速やかに之を完整するの要あり」と口頭で申し入れた(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、380頁)。

 7月18日、第三次近衛内閣が成立し、外相には「米国問題に熱意を有し、且その発言権の大きな海軍」から海軍大将豊田貞次郎が就任した(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、221頁])。グルー大使は、「親米英的な豊田新外相を高く評価はしたが、日本の外交政策に急激な変更はない」と国務省に報告した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、380頁)。豊田海軍大将は、「商工大臣として物資問題を取扱った関係上、此際日本の衝突極力回避せねばならぬ」(近衛文麿『失はれし政治』97頁[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、381頁])という考えであった。だが、豊田外相の役割はもはや期待できなかった。時既に遅かったのである。

 7月18日親任式後の初閣議で、東条陸相は、「陸海軍大臣共同要望」を述べ、@陸海軍は7月2日御前会議決定に基づき「必要なる措置」を講じつつある事、Aゆえに政府全機関は一致して「戦時内閣の本領を発揮」し、「戦時体制の飛躍的鞏化を促進し、政戦一体の実を挙ぐる様協力煩はし度」とした。しかし、陸軍は、政府が三国同盟を破棄するのではないかと疑心暗鬼になり、21日第30回連絡会議(大本営強化のために初めて宮中で実施)で陸海軍は「従来方針を確実に遅滞なく実行する」ことを要望した。そして、南進政策について、杉山参謀総長は「準備の進捗状況及び関東軍の増強計画」を報告し、及川海相は「南方に派遣する艦隊の兵力」を説明した。永野軍令部総長は、@「米に対しては今は戦勝の算あるも、時を追うて此の公算は少なくなる。明年後半期は最早歯が立ちかねる。其後は益々悪くなる」から、「米は恐らく軍備の整ふ迄は問題を引きづり 之を整頓するならん」が、A「戦はずして済めば之に越した事はなし。然し到底衝突は避くべからずとせば時を経ると共に不利となる」と発言した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、381−2頁)。

 7月21日、陸海軍統帥部は新内閣に、@「国策の根幹」は「七月二日御前会議決定」の国策要綱であり、現在進行中の仏印進駐は既定方針通り実行し、A緊急作戦たる南方・北方作戦は遅滞無く実行し、B三国枢軸精神に背馳しないように日米交渉を推進することを申し入れた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、357−8頁)。

 仏印進駐と対ソ開戦断念 7月8日、関東軍作戦参謀今泉金吾少佐が上京して、@総兵力25コ師団が必要であり、A沿海州は14コ師団で捕捉殲滅できるが、B黒龍正面は9コ師団を使用しても自信がなく、C「総兵力20コ師団なれば東正面のみの攻勢になる」と報告した。作戦部は、短期解決のために東・北の二正面同時攻撃作戦には30コ師団、少なくとも25コ師団の兵力使用を主張した。しかし、関東軍は、「兵力を増加しても黒竜江の大河を渡河する北正面作戦には自信が持て」ず、まず「従来の作戦準備が完整している東正面で完勝を博し」、次いでハバロフスク占領に着手し、これに呼応して「北正面に対する作戦」を実施すべきとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、364頁)。

 7月9日、関東軍作戦課は参謀本部に、三江作戦(三江省方面からハバロフスクに向う作戦)の思想に基づき、一コ師団でもいいから仏山(ハバフロスクと黒河との中間)正面で黒竜江を渡河して全般作戦を容易にしたいと連絡してきた。7月29日、関東軍作戦主任参謀武居清太郎中佐は参謀本部に三江作戦を正式に具申してきたが、田中第一部長は、「この作戦の実現性についてはまだ十分な見通しはな」いとし、「関東軍参謀がたじろぎ始めた」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、364ー5頁)とも推定した。

 7月30日、関東軍参謀副長綾部橘樹少将は参謀本部に出頭して、三江作戦は「確実にできるとは断言しがたい」と報告した。これに対して、杉山参謀総長は、@「確実に勝てる作戦をや」り、「あやふやのところに手をだしてはならない」事、A8月対ソ開戦の準備で推進してきたが、独ソ戦は「わが希望のようには進ま」ず、モスクワ陥落は3、4週間後になりそうな事、B従って「八月上旬に開戦決意を確立することは無理」(367頁)である事などを指示した。「参謀本部内では、米国の強硬な態度(資産凍結)と独ソ戦況」を考慮して、「今年中に北方を撃つべしという論は逐次影をひそめてき」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、366−370頁)て、陸軍統帥部は関心を北方から「南方作戦準備」に向けてきた。

 7月30日、支那派遣軍総司令官畑俊六大将は、「支那事変処理を忘却し、我より進んで北方に事を構えんとするは、国民に対する公約を無視する結果となり、憂慮に堪えず」と意見具申した。7月31日、杉山参謀総長の上奏の際、天皇は「南部仏印進駐が、やはり米国の経済圧迫を受けることになったのではないか」と懸念を表明した。また、関東軍増強に関しても、「そんなことを続けていては、日本の立場はだんだん悪くなるばかりである。一方極東ソ連軍の西送もしなくなるのではないか。それでは困る。関東軍の動員は将来やめてはどうか」とした。杉山は、「今日まで関東軍は戦備不十分」で「ソ連が機先を制して攻撃に出る懸念もあり」、「この度の関東軍充実」は当然であり、この「戦備増強を背景」に外交交渉するべきだと説明した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、371−2頁)。この結果、対ソ開戦如何にかかわらず、関東軍は16コ師団に増備する方針を変えなかった。

 8月1日、杉山参謀総長は天皇に、ソ連から航空機での先制攻撃を受けた場合は、航空機で反撃し、地上攻撃の場合は大命を仰ぐとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、374頁)。8月2日、「東部国境方面軍のソ軍が無線封止を実施中」(後に「電波のデリンジャー現象」と判明[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、375頁])である報告を受け、陸軍中央部は「ソ連になんらかの特殊の企図があることの前兆」とも受け止めた。

 陸軍省部は、ソ連進攻には機敏に応戦し、「廟議はすみやかに開戦を決意する」措置案を作成したが、海軍は反対だった。海軍は、「もともと対ソ戦などもってのほか」と考えていたから、これは「開戦を決意させようとする陸軍の陰謀ではないか」と疑う者がいて、対ソ開戦については陸海軍ではまとまらなかった。8月6日、陸海軍の意見が一致し、@「紛争生起するも日ソ開戦に至らざる如く努め」、Aソ連進攻には機敏に応戦し、Bこれに伴う「帝国の態度」は廟議で決めることが定められた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、374−5頁)。

 仏印進駐と対米戦争急迫化 仏印進駐の時期が迫り、「南太平洋に人馬の動きがはげしくなるにつれ、米国政府の警戒と猜疑心は今や覆ふべからざる程に達」(近衛文麿『失はれし政治』97頁)してきた。対米戦争の急迫化で、対ソ戦は「影が薄く」なってきたのみならず(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、377頁)、対蘇友好すら考慮されてきた。

 7月19日、豊田外相はヴィシイ政府に、「軍の準備全く整ひ、進発の時期は仏側の諾否に拘らず24日と決定し」たと「事実上の最後通牒」を発した。7月21日、仏政府は駐仏加藤大使に「日本の要求を承認」した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、399−1頁)。

 7月22日野村電信で、「6月21日米国案に対する日本側『最終』案は、7月15日訓電されて居たに不拘、華府に於ては一には内閣更迭の為、二にはその内容が米国側に受入られないだろうとの危惧から未だ米国側に掲示していいない」事が判明した。これは、本国政府の内閣改造による日米交渉妥結にかける熱意が伝わっていないことを示していた。それどころか、「仏印進駐の時期迫り、南太平洋に人馬の動きがしげきなる」と、米国政府の「警戒と猜疑心」は高まっていった。7月21日、ウェルズ国務次官は若杉要公使に、「情報によれば日本は最近仏印を占領する模様なるも、かくては従来の会談は無用となる」と警告していた。7月23日、野村大使は本国政府に、「対日空気急変の原因は南進にあり」(『外交資料 日米交渉記録の部』124頁[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、391頁])と報告した。同23日、ウェルズは野村に会って、「従来米国は能ふ限りの忍耐を以て日本と会談し来ったが 今となっては最早会談の基礎は全て失はれ」たと申し入れた。米国では、「日本は枢軸側に対し日米国交調節は南進準備完成迄の謀略なりとの説明を与へたり」という説が支配的になっていた。野村大使はウェルズ国務次官に、仏印進駐は「米その他の必需物資を確保」し対日包囲から「自らを守る」ためだと弁明した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、391頁)。

 7月24日午前、ルーズベルト大統領は義勇協会委員会に、@「米国は、蘭印・マレー・仏印等から、ゴム・錫等の原料を求めなければならず、また、英仏はオーストラリア、ニュージーランド等から、肉類や穀物を輸入する必要がある」事、A「もし米国が日本に対する石油供給を停止したとしたら、日本は一年前に蘭印におしかけていって、既にこの地域での戦争はとっくに起っていた」が、「われわれ自身の利益のために、英国の防衛のため、また大きくは海洋の自由のために、南太平洋での戦争防止を期待して、日本に石油を供給」して二年間戦争防止に役立ったと演説した(ハーバート・ライス『真珠湾への道』209頁[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、399頁])。これまで禁油しなかったのは、対日開戦を引き延ばすためだったことになる。
 
 7月24日午後、野村はルーズベルト大統領に会い、@仏印進駐は「食糧物資の確保」の自衛行為であり、A平和的に進駐すると説明した。しかし、ルーズベルトは野村に、@「輿論が石油の禁輸をやかましく言ふに拘らず、之を抑へ来れるは太平洋平和の為なり」、A「若し仏印より兵を引き、各国にて瑞西の如く之が中立を保障」するならば、「尽力を惜しまず」とした。ルーズベルトは、「仏印問題が致命的の重大問題である」(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、222−4頁])と警告したのである。野村はこれでは石油禁輸がありうると見た(『外交資料 日米交渉記録の部』124−8頁[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、397−8頁])。

 7月25日、小林躋造海軍大将が永野総長を訪ねると、「顔色憔悴」し、永野は、6月20日付野村大使書簡について、「時機已に遅しで、今日の情勢では到底之を容れ得ぬ」、「其後一ヶ月の間に情勢は急転した」。そして、永野は、「米国は今切りに我国の周囲に軍備を増強し英・蘭・重慶と結んで包囲陣を形成せんとし」、「云ふ所を聞け、然らざれば(首を)締めるぞと云ふ肚である」から、「決然立って未完成の鉄鎖を切断するの外なく、外交交渉に依る妥結などは到底望み得ない」とした。小林は、「随所に瞥見せる応召風景を語り、如斯き民情を以てして大戦、しかも長期に亘る大戦を遂行し得ると思ふか」、「我国力は之に耐へ得ると思ふ」かと問うと、永野は「国民の疲労せることは自分も之を認める。しかし戦ふ以外に途はない。国民には辛棒して貰ふ」(小林躋造手記『耄録志』[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、405頁])とした。しかし、7月25日進駐部隊が三亜を出港し、28−9日、上陸開始し、8月8日上陸完了した(同上書394頁)。

 7月26日、米国では資産凍結令が声明され、日本では仏印進駐正式発表がなされた。これで日米会談決裂したかだが、日本政府は、7月24日米大統領の仏印提案を手がかりに日米会談の再開に尽力した。日米両帝国主義国の利権分配交渉はますます際どいものとなっていった。

 日本の対米臨戦態勢 7月27日、大本営政府連絡会議で「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定し、日本は独伊蘇と同盟して「米国を反省」させようとして、「独伊との政治的結束を強化し、対蘇国交の飛躍的調整を図る」(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、177頁])とした。

 7月29日陸海軍総帥部の「作戦及び戦争指導関係者」は、水交社で、「対英米戦の場合予想される一般的な経過及び問題点」を懇談した。そこでは、海軍は、「第一段作戦(比島・蘭印・馬来攻略)には現兵力で十分自信があり、艦隊決戦においても勝算は十分であるが、その決戦を強要する確実な手段がないこと、作戦の見地からすれば、開戦は早い方がよいこと」、「短期戦ですむか持久戦になるかは五対五であること」などを述べた(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、402頁)。

 7月30日、後述の通り、永野修身軍令部総長が上奏し、国力疲弊する前に「対米英戦を辞さず」とした。天皇が勝敗如何を尋ねると、永野は、「勝ち得るや否やも覺束なし」と答えた。あくまで永野は、国内では陸軍・右翼に押されて、国外ではドイツ優勢に触発され、止む無く開戦に同意したに過ぎず、本音では日本が勝てる自信などはなかった。

 8月1日、連絡会議では、鈴木企画院総裁は、「戦争遂行に関する物資動員上よりの要望」で、@欧州大戦勃発以後に自給態勢の阻害となり、独ソ開戦以後は「独伊からの物資及び技術の導入が不可能」になって「日本の経済事情は極めて不利」となり、A「英米にして蘭印其他南洋、南米方面を合せ、本格的経済断交を加へ来るに於ては、前記物資(ニッケル、石油などの重要物資)の輸入杜絶」となり、「武力を以て之か取得を企図」すると、南米・インド産のコバルト・白金・鉛・高級石綿・雲母などは入手至難となる、B南方制海権を確保しなければ、南方資源を運搬する船舶の損耗は造船能力を超過するから、「徒に国際政局の局部的波動を逐ひて武力戦を展開するは戒むべ」しとした([防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、407頁)。同1日、海軍省軍務局は、6月5日付第一委員会「石油及び船舶に関する見積り」を修正して、@第一、二、三年、各年間石油需要は540万竏、A供給は第一年80万竏(うち南方30万竏)、第二年334万竏(うち南方244万竏)、第三年667万竏(うち南方477万竏)と、南方供給が増大するとした([防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、452頁)。南方石油の供給増は不可欠であり、それには南方武力進出は不可避であった。

 8月2日、参謀本部第20班は、石油禁輸で日米「百年戦争」は避けがたくなったとし、陸軍省軍務課は、「対英米決意は強硬」で、「対英米戦争を決意すべき御前会議を提議」してきた(参謀本部第20班『大本営機密戦争日誌』[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、376頁])。田中第一部長も、「対ソ作戦よりも対米戦争の問題が、より急務として検討されるに至った」として、@「独ソ戦の推移と日米関係の新段階」は「日本の動向に重大な影響を与え」、「南進政策の強行は・・不動の国策」となり、「今や南北二正面戦争必至の判断の上に立」ち、A「北は、純国防上の見地において処理せられ」、「南は、国防上の見地に先だち進んで資源獲得の見地から処理し」、支那は「国防上の窮迫と資源獲得の点から善処」し、B「問題は上記の諸要因を包括した堅実且つ現実的な総合戦争計画を完成する」とした(田中新一中将「手記」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、376頁])。

 8月4日、大本営政府連絡会議で、「『ソ』が中立条約を厳守し、又極東に於て帝国に脅威を加へざるに於ては、中立条約を守ると云っても差支なし」と、対ソ戦回避を決定した。しかし、陸軍統帥部は、「海軍が南方に積極的で、北方への行動を抑制しようとする態度」には不満であった([防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、406頁)。

 8月15日、全面禁輸を受け、海軍は、「出師準備を促進する必要を認め、出師準備第二着作業の実施にふみき」り、「第一着作業と同じく、全面的な発動とせず、一部ずつ段階的に実施する方法をと」り、「その主要な作業は、約50万トンの船舶徴用」([防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、453頁)となった。

 周知の通り、16年8月27日、28日総力戦研究所の会議に、近衛首相、各大臣、鈴木貞一企画院総裁、福留繁軍令部作戦部長、陸海軍幕僚が出席し、研究生(各官庁の中堅幹部、陸海軍将校)の日米英戦争の模擬演習の綜合的結果として「対米英戦争は、日本の敗北で終わる」という事を聞いた(加瀬英明ら『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』57−8頁)。

  米国の対独日戦争準備 8月9−12日、ルーズベルト大統領、チャーチル英首相は、英米共同宣言(8月14日大西洋憲章)、対日警告案の審議のために、ニューファウンドランド南東部ブラセンシャ湾に停泊していた米オーガスタ艦、英プリンス・オブ・ウェールズ艦で会談した。対日警告案に関して、チャーチルは、「日本の南進を阻止するためには、日本に対しこれ以上南進したならば戦争になるという明確な警告を、英米蘭などが並行して発する」(ロバート・シャーウッド、村上 光彦訳『ルーズベルトとホプキンス』みすず書房、1957年[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、406頁])必要があるとした。だが、「国内世論の盛り上がりは十分でない」(8月12日下院で1票差で「選抜徴兵法の有効期間延長修正案を可決)ために、ルーズベルト大統領は「強力な警告には躊躇」(『陸軍開戦経緯』4、426頁[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、421頁])した。ルーズベルト大統領は、「それは私にまかせてもらいたい。私は三ヵ月間は日本人をあやすことができる」(ロバート・シャーウッド『ルーズベルトとホプキンス』)と語った。後3ヵ月日米交渉をした後に対日開戦に踏み切るというのである。

 8月15日『大本営機密戦争日誌』では、これは「英米の世界制覇、自由主義的現状維持に依る世界制覇」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、405頁)と看破した。 日本帝国主義は、これはまさに米英帝国主義列強の対外利害調整だとみたのであった。

 まず、米国の対独戦争準備を見れば、16年8月、米国は「選抜兵役法の適用と護国軍の召集」で「正規軍、予備軍及び護国軍と選抜兵役による兵員」は160万人に達した。しかし、「作戦資材の欠乏は急速な訓練を困難にし、部隊の戦力は低い」ものだった。7月に大統領は軍部に「国防産業計画を作成するために・・所要兵器の見積り」を要求した。9月に陸軍省は対独「勝利の計画」のための「戦略判断と軍の需要」を検討し、陸軍所要兵力量は215コ師団8,795,658人、うち陸軍航空隊は200万人に及んだ。しかし、「必要装備の欠乏のため、米野戦軍は明後年(1943年)7月1日以前には決定的な近代戦闘の準備はできないであろう」と結論された。作戦方針は、「当初は防勢を採る」が、しだいに「独逸を屈伏せしめ勝利を獲得する」まで攻勢に転じるとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、407頁)。

 次に、米国の対日戦略を見ると、15年までは米国は「太平洋方面では防勢を主とし、努めて広範な軍事行動に巻き込まれぬよう」に配慮していた。米国も、太平洋では対日作戦では、攻勢ではなく、守勢・防勢を主眼としていたのである。しかし、16年以降、米国は、@「日本軍を中国に釘づけに」し「中国を基地として日本本土を爆撃」しようと対支援助を強化し、A対日輸出を制限し、16年8月1日石油を禁輸とし、英蘭には極東植民地を保護する見返りに対日禁輸に同調させ、B16年7月26日フィリピンに極東米陸軍司令部を新設し、日米交渉悪化とともに増強され、C日本南進を断念させるべく、8月に米陸軍長官は戦闘機、最新の長距離爆撃機(B−17)をフィリピンに配置することを決め、D「ミッドウェー、ウェークを経由するもの」は危険であり、8月に米国陸軍の主張する南太平洋航空路決定が承認され、17年1月に完成が予定され、Eフィリピンの軍事強化には16年8月から17年3月までかかるので、「この間に日本が南進を決行する虞れがあ」り、F「ソ連を物的に援助し、独逸に対し持ちこたえさせるとともに、極東に確固たる地位を保持させることは、日本の南方進出の野望を牽制」する上で有益であり、16年8月2日にソ連と武器援助契約を締結した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、407ー9頁)。米国は、太平洋でも攻勢に転じ始めたのである。

 日米首脳会談構想 8月3日夜、近衛首相は陸海軍両大臣に、日米首脳会談を提案した。近衛首相は陸海両相に、「いよいよ大戦争に入る一歩手前の重大転機に直面し」、「打つべき手はすべてを打って、あとで後悔がないようにしたい」ので、「ルーズベルト大統領と直接話したい」と提案した。近衛としては、「尽すだけは尽し日本の真に公正公明な意図を世界に表明した後でなければ、戦争をするにしても国民の肚がきまらぬ」(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、226頁])とも考えていた近衛がここまで考えるということは、日米交渉は切羽詰った瀬戸際外交になってきたのである。海軍は「全面的賛意」したが、陸相は「三国同盟を基調とする帝国現在の外交を必然的に弱化」し「国内に相当の波紋を生ずる」として反対した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、415−7頁)。

 8月4日の連絡会議では、@仏印以上の進駐意思なく、支那事変解決後に撤兵すること、A比島中立の保障、B米国は南西太平洋の武装撤廃、C蘭印での日本の資源獲得に協力する事、D米国は日支直接商議の橋渡をなす事などの対米申入が決定された(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、225頁])。これを受けて、同4日、政府は野村に対米回答(日本政府は@仏印以上には進駐しない事、A比島中立の保障、B米国必要資源獲得に協力を確約し、米国政府は@南西太平洋での軍事措置中止、A日本の蘭印資源確保に協力、B正常な日米通商関係回復、C日中直接商議の橋渡し)を電信した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、414−5頁)。しかし、野村は既に限界に直面していた。そこで、8月4日野村大使は政府に、「自分の力にも限度があるので、・・内外の形勢に通ずる外務の先輩を一時出張させ、協力させるようとり計らわれたい」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、414頁)とした。

 8月5日、陸相は参謀総長に、首脳会談は「成功の見込みはな」く、「三国枢軸を弱化」してはならず、失敗しても継続して政局を担当することなどを伝えた。消極的・条件付賛成である。参謀本部はこれを支持した。しかし、杉山参謀総長は近衛首相に、「数年」ではなく「少なくも十数年」は「太平洋の安定を保障してくれ」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、376−7頁)と注文をつけた。また、陸軍は近衛に、「従来の日米会談に於ける我が主張を堅持」し、「首相自ら会談決裂後の対米戦争の陣頭に起つ」ことを条件にした(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、227頁])。

 また、参謀本部第一部長田中新一中将としては、@「これは重大な国際謀略に引っかか」り、「総理が行けば結局日本の主張は貫徹できず、さればとて戦争の決意はできず、遂に屈伏するのが結末だ」と懸念し、欧州戦争終了後に「日本は米英その他の袋たたきあう」のではないかとも心配し、A「軍令部総長がいうように、来年後半期以降はもはや米国相手に戦い得ないということになれば、問題はきわめて重大化し」、「一時的妥結のごときはきわめて危険」だと考えていた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、377頁)。

 8月6日、近衛は決意を天皇に伝えた。同6日、米国では、野村はハル長官に前記対米回答を示した。ハルはこれに「左したる関心を示さず」に、「其の後日本の次々の行動を見るに及んで深く失望せざるを得ず、日本が腕力による征服を捨てざる以上話をする余地なく、日本政府当局が米国の為すことを包囲政策と呼ぶ限り日本に期待を懸ける何物もなし」と、事実上対話拒否を告げた。野村は政府に、「最早殆ど如何なる説明を以てするも、帝国の意図は米国当路の者に通ぜしむること不可能なるが如く、且米国政府は如何なる事態にも対処する腹を極め居ること間違なく観取せられたり」(『外交資料 日米交渉記録の部』148−9頁[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、414頁])とした。

 8月7日、天皇は近衛を召して、「大統領との会見はすみやかに実現せよ」と述べた。同7日、野村は豊田外相に、「我方の進行次第に依りては更に何等かの強行手段に出づるに相違なく、事態収拾の途無きに至る惧あり」(『外交資料 日米交渉記録の部』150−2頁[防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、414頁])と報告した。同7日、近衛の指示を受けて、豊田外相は野村大使に、「危険なる状態を打破する唯一の途」は「日米責任者直接会見」だとし、米側に打診せよと訓令した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、419頁)。

 8月8日野村はハルにこれを申し入れたが、ハルは「日本側申入を以て大統領の提案に対する回答になっていない」とした上で、「首脳会見の新提案に対しては日本政策にして変更のない限り取次ぐ自信なし」とした(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、227頁])。

 8月13日、ハル長官は野村大使に、「在支米権益を列挙した抗議書」(228頁)を手交した。16日、ハルは野村に、「例によって『ミリタリー・ドミネーション』に対する反対を反復」して上で、「首脳者の会談に関しては態度稍軟化」し、「貴殿に於て充分の見込を持たるるならば『ホワイトハウス』に取次ぐも可なり」(228頁)とした。

 木戸幸一の臥薪嘗胆論 8月7日木戸幸一は天皇と会談後に、近衛総理に、「今日の情勢を単的に云へば、国力足らずして思ふことが出来ないと云ふことであって、表面の形は変って居るが、日清戦後の三国干渉の場合と同じ決意をする外はない」のであり、「今後十年を目標とし臥薪嘗胆の決心」し、「差当り日米国交の調整」をして、10年間で「重工業、工作機械工業の確立」・「人造石油工業の急速なる確立」・「遠洋船路船舶の大拡張」に「全力を挙ぐる」と、主張した(『木戸幸一日記』下巻、899−900頁)。木戸が天皇と会見後に、こうした臥薪嘗胆論を提示して居る所を見ると、これは天皇の意見でもあったろう。
 
 しかし、国力から臥薪嘗胆しかないにも拘らず、軍部は、あくまで、臥薪嘗胆か戦争かを二者択一の問題とし、前者の臥薪嘗胆を屈服的対米従属として、後者の戦争を不可避とした。これは海軍でも同様であった。8月10日、高木惣吉調査課長は岡敬純軍務局長に、@細川護貞総理秘書官に、「最後の決意を以て戦備と外交の二本建を以て進み、我が国家生存の最後戦を外交交渉により、一戦を辞せざるの覚悟をなすべし」と告げ、A松平康昌内大臣秘書官長には、「漫然今日の物資圧迫を受けたる儘推移すれば、日本は戦はずして屈服せざるべからず」「不決断なる躊躇は漸次不利の状態に移行する」と主張したと、報告した(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、409−410頁)。

 年内対ソ開戦の断念 8月初め、参謀本部第二部は参謀総長に、「本年中に独逸がソ連を屈伏させることは不可能であるばかりでなく、明年以後の推移も必ずしも独逸に有利ならない」(377頁)と、情勢判断を報告し、年内には「熟柿主義による対ソ開戦の好機は到来しないこと」が判明した。8月8日杉山参謀総長は、塚田参謀次長、田中第一部長に、@「北樺太の石油資源買収について速急に検討し、また人造石油の増産を促進」し、A「北方作戦は半年内に片付け」、「南方作戦は一年内に、対米戦を含めて大局を制」し、B「巨頭会談」という重大事態に、会談妥結・決裂の場合の対策を「至急検討」するとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、377−8頁)。

 しかし、8月9日、陸軍統帥部は、「七月二日に御前会議で国策の決定をみた当時」とは変化し、独ソ戦推移や米国の資産凍結などから「ソ連の屈伏を本年中に期待することはできない」として年内の北方作戦解決を断念し、来年以降は準備のみ続け、南方に専念し「十一月末を目標として対英米作戦準備を促進」するとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、378ー380頁)。

 南方作戦をめぐる陸軍・海軍の相違 前述の通り、15年秋から16年初春の時期には、陸軍は、「極力戦争相手を英国のみに局限」し「蘭印攻略のためまずマレーを攻略」し「南部仏印と泰に軍事基地を獲得」しようとするのに対して、海軍は「対英作戦は二義的」に考え陸軍に任せ米国の妨害を受けないように「米国の根拠地」「比島を攻略してこの方面から蘭印を攻略しよう」としてきた。つまり、この時期には、「英米可分か不可分かの問題が主因となって陸海軍の作戦構想に差異を生じていた」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、381−2頁)のである。

 16年春から初夏の時期には、日米交渉がなされつつ、陸軍は「支那事変の処理と対ソ作戦準備に専念」しつつ、シンガポール攻略に反対しマレー先攻案を説き、海軍は「英米不可分の信念と、対米戦重視の観念」から比島先攻案を主張した。つまり、この時期には、「英米不可分には陸海軍合意に達していた」(382頁)が、どこを先攻するかに相違があった。

 16年夏から初秋、「対南方作戦に当っては比島、マレー同時攻撃は必至」となったが、陸軍は、支那事変解決には英国牙城シンガポール・マレー攻撃と南方資源占領を重視したが「米戦力に対する関心が薄」かったが、海軍は、「陸軍からみれば必要以上に対米決戦思想を骨幹として構想を立て、8月下旬にはハワイ空襲を陸軍に通告」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、382−3頁)した。

 こうして、日本陸海軍は、米国本土ではなく、南方作戦を通して、対米決戦作戦を打ち立てていて、かろうじて海軍が米本土の西端ハワイ空襲を想到するにとどまり、陸軍は米本土西端の攻撃に参加する事を想到することはなかったのである。

 南方総合作戦 大本営陸軍部は、8月9日年内北方武力解決を断念し、南方総合作戦の検討に着手し(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、383頁)、8月13日「陸海軍作戦当局は南方総合作戦の図上研究」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、410頁)を行なった。

 8月13日、大本営陸軍部第二課南方作戦総合計画主任の岡村誠之中佐は、「南方作戦構想陸軍案」で、@16年12月に奇襲作戦を開始し、17年5月までに香港から蘭印の攻略を完成し、「自給態勢の確立」を図り、A南部仏印に軍事基地を完成し、タイ国軍事協力を強化し、B12月X日に南支軍は香港を攻略し、南海支隊はグァム島を攻略し、第五師団・近衛師団は速やかにシンガポールを攻略し、第16師団・第48師団は比島を攻略し、第18師団一部はボルネオを攻略し、第2・第48師団はジャワを攻略するとした(岡村戦後回想[385−6頁])。これに対して、海軍は、@陸軍がシンガポール攻略(「左回り作戦」)に力点を置いたのに対して、海軍は「米太平洋艦隊の来攻に対処する見地」から困難なマレー作戦ではなく、「まず比島攻略に綜合的重点を指向し、それに続いて蘭印を攻略して、最後に南北からシンガポールの息の根を止め」る(「右回り作戦」)としていた。これは「南方作戦の占領を考えていた陸軍と、主として対米戦争に勝ち抜くことに精魂を傾けていた海軍との、本質的な戦略構想の差異による」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、387−8頁)ものである。

 8月13日、田中第一部長は、陸海軍協同南方作戦の図上研究に対して、@南方作戦の航空作戦、米英の海空作戦の「判断」は「空疎」であり、A「動員の進捗」作戦は「緩慢」であり、B海軍の「比島攻略2カ月、蘭印攻略まで80−90日・・南泰準備3カ月」という作戦は「緩慢に過ぎ」、C「開戦は泰国問題たとえば英国の泰領侵犯のごときを契機」とし、D「開戦の理由にアジア民族解放の主張を強烈に織り込」み、E海軍右廻り構想では「マレー方面を放置することが長」いと批判し、F米軍の西太平洋進出で海軍の南方要域攻略作戦は二の次になり、G「総じて初期作戦の構想は余りに兵力分散となる虞れがあ」り、「南方要域攻略作戦の基本的構想において、なお陸海軍の間に根本的不一致が解消されていない」とし、「米海空軍の出様によっては、日本海軍は南方要域攻略作戦を中途半端にして、太平洋に東面しなければならない情勢に追い込まれることを考えておかねばならぬ」とした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、388−391頁)。このように、陸軍は、対米開戦について正面から考えていない。

 陸海軍は、「南方作戦の意義と困難性」を痛感しつつも、これはあくまで端役であって、陸軍主務は対ソ、海軍主務は対米であった。

 陸軍の開戦・終戦の検討 16年8月12日、参謀本部第二部長岡本は第一部長田中に、@南方作戦の「開始の決意」は決めておくべき時になり、A開戦について天皇「決意」を願うにしても、「戦争終末をいかにするか、その見通しが立たなくては問題にならん」から、「戦争終末については第一部において研究のこととは思うが、一層それを促進する必要があ」り、B「和戦の決定」は「石油のみの観点から・・だけでは不健全な国策の推進」だから、「国防安全の全般的視野」から検討すべきであり、C石油はイランや北樺太も検討し、D「日本の対米戦は世界戦争の一環として、独逸の活躍時に選択されなければなら」ず、E「対米忍耐」限度は、「全面禁輸、英軍の泰国侵入、米英のシンガポール強化、米の極東ソ領支援、米国の対欧実質参戦」などを「慎重に考察」し、F「米英の対支介入が、援蒋から進んで軍事作戦に発展することもあらかじめ考えておかなければならない」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、394−5頁)とした。

 まだ、陸軍の対米戦は、考慮の対象にとどまり、積極的に米国を主敵に設定することはしていない。

 対米攻勢をめぐる陸軍・海軍 にも拘らず、日本陸軍は、8月9日に、「年内の北方解決は断念し、南方に専念する方針を定め」たが、確たる対米作戦を立て得なかった。8月8日、大本営陸軍部第二十班(戦争指導担当)では、@「対英米方策を行かんにすべきや、対英米戦を決意すべきや、対英米屈伏すべきや、戦争をせず而も屈伏せず打開の道なきや」の問題で「苦悩連綿として尽きず」に、「二日間論議」し、A三国同盟に関しても、「対米大長期戦は避くべし」だが「三国枢軸離反、対米屈伏が今更出来るや」、或いは「対米長期戦争の勝目はなきも不敗の算はなきや」、「詔勅を仰ぎたる枢軸結成を今更離脱し得るや」、「実質的離脱はともかく表面的離脱は皇国の面子之を許すや」と混迷し、B或いは日本側の面子を維持しようとして、「皇国の面子を損せずして一時的に妥協し、日米戦争の発生を成るべく遅からしめる策 なきや」とし、Cドイツ攻勢に期待して、「独の対英攻撃 更に激化せらるる時期迄 米をおさへ 油を取る方法なきや」とし、Dいくつもの選択肢に確たる解答を見出せず、「正に国難到来なり 真に非常の秋」(『機密戦争日誌』[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、409ー410頁])となった。

 8月10日、11日にも、大本営陸軍部第二十班は、@「沈思苦悩の日 続」き、「一日の待機は一滴の油を消費す。一日の待機は一滴の血を多からしむ」と苦悶し、されど「対米百年戦争は避け度」としたり、A野村大使は「対米外交の余地」ありとし、駐英武官は「軽々に南方武力進出」するなと進言し、「藁をもつかむ一面の心理」、「悠久なる国家発展を祈念する心」、「断乎たる決意」などが「錯綜」して、「決心は確立するに至らず」(『機密戦争日誌』[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、410頁])とした。

 しかし、陸海軍は8月13日に南方総合作戦の図上研究、14、15日に兵棋演習を行なった(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、410頁)。既に8月12日、海軍は「昭和十六年度帝国海軍戦時編制」(陸軍の戦闘序列下令に相当)の允裁を得ていた。海軍は陸軍に、14日「海軍戦備促進に関する予定計画」を示し、15日「出師準備第二着作業の第一次」を発動すると伝えた。

 日米開戦をめぐる陸軍・海軍 日米開戦では海軍が先行していたが、海軍が開戦決定をせずに戦備充実に着手したので、陸軍とはかみ合わなかったため、陸軍は海軍に急に日米開戦決意を促すことになった。

 陸軍統帥部は、@日米開戦決意は「外交不調の場合には戦争に訴えるという国家意志を廟議において決定してから行なわれべき」とし、A日米開戦は「海軍の主導すべきもの」とし、「海軍側の態度決定を見るまでは、陸軍の意見を開示」することを控えた。8月16日、陸海軍部長局会議で海軍は「帝国国策遂行方針」を提示し、@「十月下旬を目途として戦争準備と外交を併進させ」、A「十月中旬に至るも外交の妥結を見ない場合には実力発動の措置を採る」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、410頁)と、海軍は戦争決意なく戦争準備を進めるとした。

 海軍では、艦船・航空機などの戦備準備が戦争決意に先行するために、こういうように戦争決意なく戦争準備を進めることになった。海軍では、「戦争準備」などの曖昧表現を使っているので、陸軍はこれに不満を覚える。大本営陸軍部第一部長田中新一は、「陸軍が最も重視している開戦決意がこの国策遂行方針では取り上げられていない。開戦決意なる国家意志決定のうえでなければ、最終的作戦準備を完遂し得ないという陸軍従来の主張、陸軍側の実情が全く無視されている」とし、「海軍側はその性質上、開戦決意なくしてその本格的作戦準備を完遂することは容易であり、更に作戦準備完整後、外交不調なるにかかわらず戦争とならぬ場合においては、遅滞なくその作戦準備を解除することも比較的軽易である」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、411頁)とした。

 8月14日大本営海軍部は陸軍部に、「八月、九月にそれぞれ30万屯の船舶を徴傭し、9月20日陸海軍作戦協定を実施し、10月15日までに対米英戦備を完了する」と通報したが、陸軍部は「このような戦争準備は国家としての戦争決意がなくては実施すべきでない」としていたから、これは陸軍部を驚かせた(414頁)。陸軍は、敵国アメリカの調査、勝利戦略(いくつもの作戦からなる)・諸作戦・諸戦術の検討なく、手続きで開戦を論じだした。海軍の戦争準備は「基地における単なる兵力と資材の充実」だから、外交不調ならば引き下がり、戦備撤収も「比較的容易」であるが、陸軍は「大兵力の動員」を行なうから、「広く国民の権利義務に影響を及ぼす」ので、まず戦争国策の決定、「政府の同意」を不可欠とし、いったん開戦決意すれば、「その決意のもとに戦争準備と外交とを併進させ、外交不調の場合においては開戦を決意する」としていた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、414頁)。

 8月19日、大本営陸軍部は杉山参謀総長に、「即時戦争決意を建前とする修文案」(「帝国国策遂行要領」)を提示し、了解を得て、午後陸軍省に提示された。しかし、陸軍省首脳部は「即時決意には・・難色」を示した。8月21日、陸軍省は参謀本部に、「決意せずに戦争準備を完成しようとする海軍案の作文を、努めて取り入れた案」を回答した。8月22日、参謀本部は4時間の部長会議で、「陸軍省案を多分に加味し、且つ対米英戦争決意を冒頭に明記した案」を採択した。23日、参謀本部は「外交要求を審議」し、「参謀本部案を最後的に決定」し、同日夜に陸軍省に提示した。特に塚田参謀次長は、「約一ヶ月にわたり苦悩を重ねた結果」、「牢固」たる「対米英戦決意」に達した。総長らは、この参謀本部案が「海軍と政府」に入れられず、「内閣の瓦解は必至」とした。そこで、参謀本部は、「未曾有の国難打開のため、対米英戦決意の必要な所以を各種の観点から強調した上奏案」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、412頁)を起草した。

 米大統領の対日警告 16年8月17日、チャーチルとの首脳会談から戻ったルーズヴェルトは、野村大使に、巨頭会談回答書、対日警告文を手渡した。巨頭会談回答書では、「原則的賛意」を表しつつ、「南部仏印進駐以来の日本の態度を改め、米国の示している原則により交渉を進め得る明らかなステートメントを提示されたい」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、412頁)とした。ルーズベルトは首脳会談開催の条件として、日本の平和の譲歩の実績を要求してきたのである。

 対日警告では、@「太平洋における秩序と正義と平和を維持すんとする米国の努力にかかわらず、日本政府は種々の地点において兵力を用い、遂に印度支那をも占領するに至った」こと、A「もし日本政府が依然武力を行使し、武力支配の政策を続けるならば、米国及び米国民の正当なる権益を護り、且つ米国の安全の保障を確保するため必要と認める一切の手段を講ずるほかなくなるであろう」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、413頁)とした。そして、最後に、7月中断した非公式会談再会の条件として、@日本の膨張主義活動の停止、A米国「プログラム」(ハル4原則)にそって「太平洋に関する平和的『プログラム』に乗り出すこと」(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、427頁)をあげた。

 8月18日、野村は本国政府に、「今や和戦の分岐点に臨みつつあり」とし、「独逸が赫々たる勝利を継続」しても「我単独、英米『ソ』支蘭印と戦ふ場合、我国力を消耗し、我方の希望するが如き結果を招致するとは思はれず」とした。日本政府は、この野村大使報告を受けても、「きびしい最後通告」とは受け取っていない(防衛庁戦史室『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、427−9頁)。陸軍省軍務局員石井秋穂陸軍中佐が武藤軍務局長宛報告書で、「アメリカのいわゆる平和的プログラム」は「結構な原則」だが、「これを認めれば、支那事変以来の我が努力の結晶が吹きとんでしまう」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、432頁)と述懐したように、陸軍はあくまで日中戦争の有利な結着に固執していた。

 8月20日、米国から帰国した岩畔豪雄大佐(日本大使館付武官補佐官)が連絡会議に招かれ、「従来の経緯、先方の事情」(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、230頁])を説明した。岩畔が「日米妥協の余地あり」と報告すると、「海軍若手連中 大いに憤慨」(『大本営機密戦争日誌』[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、432頁])した。前田稔軍令部第三部長は岩畔に、「今やABCDラインは着々完成に近づきつつあり。この状況を座視することは自滅を待つに等しい」(岩畔豪雄『私が参加した日米交渉』[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、432頁])とした。もはや、海軍中堅は、日米対戦必至の方向で動いていた。

 22日、参謀本部部長会議は巨頭会談回答書、対日警告文を検討し、@統帥部は「七月二日決定の国策、ことに南部仏印進駐問題を改変」することはしない事、A統帥部は日米巨頭会談の成果には期待しないが、この会談には「統帥部の強硬陣容」をおくるべき事、B統帥部は、巨頭会談開催しても、決裂可能性は7−8割であり、「和戦決定の時機がいよいよ迫ってこと」を痛感する事、C「万一妥結」する場合には、「少なくとも太平洋の安定が十数年続く」ものでなければならぬ事、D「部長会議の一般的観測」は「基本的の底流は重大破局に向って突進している」というものだったことなどとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、413頁)。

 26日、連絡会議で日本側回答(@「米国政府従来の態度も日本側より見る時は承服し難き」事、A「日本の南方及蘇聯に対する態度意図」、B平和プログラムは太平洋に適用され、「一国の自立上必須の要求」は平和に必要など)、大統領宛近衛メッセージが決定された。28日、野村はルーズベルト大統領にこの二文書を手交した。ルーズベルトは近衛メッセージを読み、「非常に立派なるものと大いに賞賛」し、会談に「可成り乗り気」になった。しかし、同夜ハル長官は野村に、「首脳者の会見は之を事前にまとまった話の『ラティフィケーション』(批准)をする形式にしたい」と提案し、「従来よりも明確に、支那問題、就中撤兵、及自衛権問題に関する日本政府の意嚮を承知することが先決問題であると強調」した(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、230ー1頁])。ハルは首脳会談してもまとまらなければ「真に憂慮すべき事態」になると、慎重な態度を示し、支那問題についても、「従来の話合ひだけでは駄目」としたのである(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、439頁)。

 この28日、近衛は側近に、@「国交調整に対する見通しは『五十・五十』」、A天皇の本意は「戦争を賭するは甚だしき冒険にして、皇祖皇宗に対し洵に重大なる責を感ずる」としているので、「全力を尽して御心に副ふ」次第とし、Bしかし、「漫然として時日を遷延し、『ヂリ貧』に陥りたる暁に、戦を強いらるることも亦最も警戒すべきこと」だから、開戦覚悟も必要とした(高木惣吉「政界諸情報』1/2[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、440頁])。29、30日、野村と上記ルーズベルト・ハル二会談の報告が日本にもたらされ、政府内では「楽観、悲観両様に分れ」た(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、230ー1頁])。

 8月30日、近衛は前田米蔵・水谷川忠麿らに、「陸海軍の何れよりも成算ありとの話を聞かず、自分としては陸海軍が完全に成算ありとの意見一致を見ざる以上、国交調節に全力を尽す他に道な」いともした(高木惣吉「政界諸情報』1/2[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、441頁])。ここに、近衛の日米首脳会談にかける理由があった。そこで、近衛は、「国務省の主張を重視し」、「六月二十一日の米国案と同建前の下に包括的な日本案を作」った。しかし、9月2日、外務省は、恒久的解決ではなく、「一時的応急措置」でもよいという若杉公使らの意見を反映して、「緊急重要なる問題」のみで、「従来の日米予備会談とは全然別の建前の下に非常に簡略化した案」を提起した。

 9月3日、連絡会議で、日本は、@仏印以上に進駐せず、A三国条約に対する日本の解釈は自主的に実施し、B日支協定に遵い撤兵し、C支那の英国利権は制限されず、D南西太平洋の「通商上の無差別待遇の原則」を樹立し、E正常な日米通商関係を回復することを「約諾」(レシプロケート)するとした。一方、米国では、ルーズベルトは野村に、@近衛メッセージに対して消極化し、「会見に同意する明確なる表現を避け」、会談前提として「基本原則に関する同意」が必要だとし、Aこれに付随した「オーラル・ステートメント」では、「今迄表面に出すことを避けていた四原則を明記」し、「この根本問題に対する日本政府の態度」を伺いたいとした。9月4日、これとは「根本的に食い違ふ」日本側提案が米国に伝達された。米国政府はこれを「日本の新たな方針に基く全く新な提案と見」(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、232ー6頁])て、結局、これは、米側に「誤解と混乱を招いたに過ぎなかった」(近衛『失はれた政治』116頁[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、432頁])のである。

 日本は、欧米帝国主義の戦争包囲網に取り込まれ、これを抜け出す方途を日米交渉・首脳会談に求めたが、陸軍が大陸利権を放棄しない限り、対米従属を強いられ、ジリ貧に追い込まれつつあると認識した。これでは、アジア諸国と連帯して、中長期で挽回するという柔軟さをもち得なかったのである。
                                      
  陸軍の開戦決意検討 一方、陸軍は着々と開戦準備を推進していた。

 後述の通り、この頃、海軍のハワイ作戦が登場し、8月22日、軍令部作戦当局は参謀本部作戦部に、対米英蘭作戦構想とハワイ空襲作戦を連絡してきた。軍令部が反対していたハワイ作戦を陸軍に通告したのは、「陸軍側がマレー作戦に対し、過度に空母や飛行機の協力を胸算するの封ずるため」だったようだ。これによると、@一は「比島に上陸」作戦、二はマレー上陸、四は「聨合艦隊司令長官の決意」に基づく「東面の問題」として、東太平洋問題は付随的に扱われ、A六の「艦隊主力の区分概要」で瀬戸内海、ハワイ、比島、マレー、香港への海軍艦船を配置するとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、416−7頁)。
 
 8月23日、参謀本部作戦課は、「南方作戦兵棋」を行ない、海軍軍令部と陸軍は南方作戦を主作戦として取り上げ(417頁)、ハワイ作戦は聨合艦隊の支作戦と見ていたようだ。南方作戦では、@「マレー、比島、蘭員の三コ軍を統轄するための方面軍」を設置し、A船舶の損耗(第1年80万トン、第2年60万トン、第3年70万トンの計210万トン)が造船(第1年50万トン、第2年60万トン、第3年70万トンの計180万トン)を下回り、B東条陸相から北方作戦のために南方作戦では「必要最小限の規模」になるとされた。こうして、陸軍は、南方作戦準備で「十一月初旬の開戦」に備えるべく「戦争決意の国家意志を確定」しようとしたが、海軍の作戦準備方法(開戦決意なくても開戦準備はできるという)によってこれが困難であり、「焦燥の念」にかられていた。

 この8月23日には、参謀本部は、部長会議で「帝国国策遂行要領」案を決定した。参謀次長においては「対米英戦争決意の意見 牢固たるものあり」、つまり「約一ヶ月に亘り苦悩を重ねたる結果、戦争決意に到達したるものの如く、次長の意志は極めて強固」であった。陸軍参謀本部は戦争決意を固めていたが、この案には政府・海軍の「一致」度は3分ぐらいであった(『大本営機密参謀日誌』[453頁])。

 8月25日、田中新一参謀本部第一部長は武藤章陸軍省軍務局長に、この「八月二十三日参謀本部決定の国策遂行要領」で省部意見を一定させ、「上奏案に対する陸軍省の意見」の提出を督促した。26日の第一部長、軍務局長会談で意見が一致した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、419頁)。この26日、海軍は「帝国国策遂行要領」案の改訂案を陸軍に示した。しかし、陸軍は、「(海軍に)対米英決意なきは勿論、対米英戦争準備の字句も抹殺、援蒋補給路遮断作戦準備と変更」(『大本営機密参謀日誌』[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、454頁])していた。実は、8月26日には、永野軍令部総長は、「「昭和16年度戦時編成」を目標として強化を進めていた編制も、いまや完成に近く、諸般の戦備も促進された」ので、上奏して裁可をえたのであった(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、455頁)。連絡会議があっても、陸軍、海軍の統帥が個別に実施されており、陸軍・海軍の開戦意思の疎通は円滑さを欠きぱなっしであった。

 8月27日、陸海軍局部長会議で、帝国国策遂行要領陸軍案に関して討議し、田中第一部長は「開戦決意を内包した戦争決意の確立」を主張した。しかし、海軍省軍務局長は、「N工作不成立の場合に於ても尚欧州情勢を見て開戦を決す」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、419−420頁)と、執拗に反対した。相変わらず、陸軍と海軍は不毛な開戦手続き論に終始している。

 8月28日にもこれが検討され、11月初頭が「武力発動の時期」ということでは一致した。だが、陸軍は「今日以降本格的に作戦準備を進めるには、適時開戦決意を必要」と主張したが、海軍は「対米外交不調の場合においても自動的に戦争決意となるべきではない」と反対した。この結果、「陸軍側は外交による事態の収拾はほとんど見込みがない」としたが、海軍は「この点をどうみているのか」が不明なのであった(田中新一中将「戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、420−1頁])。

 一方、同8月28日、田中新一参謀本部第一部長は、@「作戦準備の本格的発足」(9月初め)、「開戦決意」(9月末、10月末)、「その完了」(10月末)の時期の模索、Aこれと日米交渉との関係で、「N(ニューヨーク)工作放棄、開戦決意の重大時機において内閣瓦解の公算が多いにではないか」、「近衛内閣は結局対米開戦決意はなし得ないのではなかろうか」とし、開戦決意後は「N工作の継続を擬装し、戦争の先制奇襲に遺憾がないように」するなどとし、B南部仏印作戦準備、戦争決意、開戦決意の時機をさぐった。そして、田中は、「いよいよ事態は急迫し、国家は和戦の関頭に至」り、速やかに「新国策要綱の確立を御前会議において決定」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、昭和16年12月まで、朝雲新聞社、昭和13年、414−6頁)すべきとした。

 陸海軍開戦決意時機の確定 8月30日、陸海軍は「開戦決意の時機を十月上旬と確定」した。9月3日、連絡会議で軍令部総長が帝国国策遂行要領に関して、@現状では「帝国は各般の方面に於て特に物が減りつつあ」るが、「敵側は段々強くなりつつあ」るので、「今なれば戦勝の『チャンス』あ」り、A短期では「我近海に於て決戦をやり相当の勝算がある」が、長期の場合には「戦勝の成果を利用し長期戦に対応するが有利」であり、Bしかし「決戦なく長期戦となれば苦痛」であり、「特に物資が欠乏するので之を獲得せざれば長期戦は成立」しないので、「物資を取ることと戦略要点を取ることに依り、不敗の備をなすことが大切だ」とし、C結論として、国軍が「非常に窮境に陥らぬ立場に立つ」事、「開戦時機を我方で定め 先制を占むる外なし」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、421−3頁)とした。これが、海軍の持論ともいうべき早期開戦優勢論、長期戦窮境論である。

 次いで、参謀総長は、@10月下旬を「作戦準備完整の目途」としたのは「今直に決心をしても動員、船舶の徴傭、集中展開などをやれば此の時機迄かかる」事、A来年2月まではソ連への大作戦はできないので、「南の作戦は早くやる必要」がある事などを説明した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、424頁)。

 さらに、及川海相は作戦準備完整時機の10月上旬の修正意見を提出して、十月上旬頃でも要求貫徹の目途ない場合には「直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」という方針が決定された。開戦決意に関して、海軍は陸軍に譲歩しようとしたのである。田中陸軍中将は、「我が要求を貫徹し得ざる場合」を「我が要求を貫徹し得る目途なき場合」と修正したことによって、「開戦決意のための本国策要領」が「開戦決意の一歩前のものに変質」されたとした。海相としては、「わが要求が貫徹し得ないからといって、自動的にすぐ開戦決意とならぬよう、なんらかの条件をつけよう」(田中新一中将「戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、424頁])としたものだとした。

 帝国国策遂行要領と天皇懸念 帝国国策遂行要領は、「陸軍統帥部の戦局判断」(独伊が欧州新秩序をつくり、最悪の場合でも独伊が敗れることはないこと、日本も東亜で「持久不敗の態勢は保持し得る」こと、日米交渉は決裂し対英米戦争は不可避)のもとに(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、426頁)、9月5日に閣議決定された。

 9月5日、天皇は資料を検討した上で近衛首相を呼び出し、「これを見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げ」、「戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける」ので、明日の御前会議で両統帥部総長に問いただしたいとした。近衛は外交交渉が中心だと説明しつつ、天皇が統帥部に「質問の思召」あれば「御前会議にては場所柄如何かと考えられます」と、御前会議での天皇発言を不適切とした。そして、近衛は「今直に両総長を御召になりましては如何」と提案した所、天皇は「直に呼べ。なお総理大臣も陪席せよ」(『近衛文麿公手記』[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、429頁])と命じた。そこで、木戸内大臣が天皇に会い、「御下問に奉答、首相の奏上の通り両総長を御召相成度旨」(『木戸幸一日記』下巻、905頁)を答えた。こうして、午後6時に、近衛首相は、杉山参謀総長、永野軍令部総長を連れて天皇に謁見した。

 天皇が「本国策要領の趣旨はできるだけ外交の推進にあり、従って本分の一、二は置き換えられてよかるべきもの」と提案した。両総長は「そのとおり」と答えた。次いで、天皇は、「南方作戦は直ぐすむように考えるか。また予定どおり行くと考えているか」と下問した。杉山参謀総長は、@来年3月までは北方では大作戦はなく、その間に「南方要域攻略作戦を終了」し、A「海軍との協同研究の結果」、比島、マレー、蘭印の「要点占領」に五ヶ月かかると答弁した。天皇は「そのとおりいかぬこともあろう」と問いただした。杉山は、「作戦なれば予定どおり行かぬこともあります」が、「只今奉答の案は幾回にもわたり陸海協同研究の得た結論であります」とした。しかし、天皇は長引く支那事変の経験を踏まえて、「支那事変の初め、陸軍大臣として一緒に報告し、速戦即決を主張したが、果して如何。今に至るも事変は長く続いているではないか」と反論した。杉山は「まことに恐縮のほかありません」と答えた。

 永野軍令部総長は、@「時機を逸して数年の後に自滅するか、それとも今の内に国運を引き戻すか」を「手術」を例に説明し、A「まだ七、八分の見込みがあるうちに最後の決心をしなければなりませぬ。相当の心配はありますが、この大病を癒すには大決心をもって国難排除に決意するほかはありません」とした。永野の言う「手術」とは戦争である。では、天皇は、「絶対に勝つと言えるか」と質した。永野は、@「人の力」のみならず「天の力」もあり、「絶対とは申されません」が、「全力を尽して邁進する」とし、A対米交渉が妥結しても、平和が十年、二十年持続する必要があり、「一年や二年の平和では国民が失望落胆いたします」と答えた。天皇は「わかった」と了解した。

 この天皇了解を得て、両総長は、戦争はあくまでやむをえないものだとするのである。つまり、両総長は、「戦争を好むというのでは」なく、戦争不可避の場合に「対処するためのみのもの」が戦争だとした。近衛も「まず第一は外交交渉にあります」と付け加えた。これを聞いて、天皇は「わかった。承認しよう」(「田中新一少将業務日誌」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、430−1頁])とした。

 陸軍統帥部の日米戦争把握 9月6日、陸軍統帥部は御前会議準備資料で、@日本の「八紘一宇」の国是に基づく「東亜新秩序の建設」と、米国の「世界制覇と民主主義擁護」方針は「根本的に背馳」するので、日米戦争は「歴史的必然性」をもち、ここで米国に譲歩すれば、「帝国は米国の頤使に甘ん」じることになり、A対米英蘭戦争の目的は、「東亜に於ける米英蘭の勢力を駆逐」し、「帝国と南方諸邦との間に軍事、政治、経済に亘り密接不離なる結合関係」を樹立し、「大東亜に於ける共存共栄の新秩序を建設」することであり、B戦争見通しについては、対米長期戦は「甚だ困難」なので、南方作戦で大成果を挙げて英国を屈伏させ「長期自給の経済態勢を整備」し「米国世論の大転換」を画策し、終戦に導き、C米に支・ソが軍事的に結合し、D戦争準備を10下旬を目途とした理由は、「今より直ちに戦争準備に着手するも、動員、船の徴傭、艤装等を行ひ、且長遠なる海上輸送を以て、戦略要点に兵力の展開を完了する」からであり、E10月までの作戦準備は外交交渉と並行して隠密裏に「編成動員、集中展開、基地の設定等」を行ない、開戦決意後10月下旬までは「11月初めの武力発動を基準として一切の作戦準備を完整するもの」であり、G独ソ戦への甘い見通し(「独軍は十月末若は十一上旬頃迄に『ソ』野戦軍主力を撃滅」)を立て、H現在の「日本の譲歩のみを要求」する米国の一方的態度では、対米交渉が纏まることはないとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、427−9頁)。

 @の日米戦争の不可避性は、Dでも米国の海空軍は「飛躍的に向上」し、「時の経過と共に作戦的に益々困難の度を加」えるのみならず、「来年秋以後は米国海軍軍備の充実は帝国海軍力を凌駕して遂には戦はずして、米英に屈従せざるべからざるに至る」としている。つまり、今戦わないと、屈従するということが日米開戦理由であり、米国国力の実態把握、具体的な勝利戦略あってのものではないということである。負ければ、それ以上に「屈従」しかねないという観点が欠落している。Eなど作戦準備・開戦決意・武力発動などの手続き上の区別は全く無意味であり、机上の屁理屈以外の何物でもないのである。勝てるか否かこそが、まずは戦争の根本問題である。

 御前会議での天皇質問 9月6日午前10時、帝国国策遂行要領に関する御前会議が開催された(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、434−5頁)。
 
 近衛首相の冒頭説明で、「米、英、蘭」の対日策、独ソ戦長期化、米ソ対日連合戦線など国際情勢は緊迫し、このままでは日本国力は減衰し、英米との国力差はますます大きくなるので、「諸般の準備を完整」し、かつ「外交上の手段を尽して戦渦を未然に防ぐ」とし、外交交渉が頓挫すれば「自衛上最後の手段に訴ふる」ことはやむをえないとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、432頁)。
 
 まず軍令部総長が説明を行ない、従来通り、「今日何等為す処なく 荏苒日を過しますことは現下の帝国に取りて甚だ危険」なので、外交交渉失敗を想定して直的な「最善の準備」をする必要ありとしつつ、日本海軍には「進攻作戦を以て敵を屈し 其の戦意を放擲せしむるの手段を有しませず、且国内資源に乏しき為 長期戦は甚だ欲せざる処ではあります」が、長期戦に入った場合、「第一要件は開戦初頭 速に敵軍事上の要所及資源地を占領し 作戦上堅固なる態勢を整ふると共に其の勢力圏内より必要資材を獲得」することとした。この第一段作戦が「適当に完成」すれば、仮に「米の軍備が予定通 進」んでも、「帝国は南西太平洋に於ける戦略要点を既に確保」し「長期作戦の基礎を確立することが出来」るとした。ここでは、対米進攻作戦や補給線確保作戦が欠如し、長期作戦基礎の樹立など第一段作戦の過大評価・楽観視が見られる。

 次に参謀総長の説明で、「只今軍令部総長の説明には陸軍部としても全然同意」とした上で、「戦争準備と外交交渉」との関連について、@「急迫せる事態」に対応して無為に過ごせば「米英等の軍備」が増強され時機を失うので、対米英戦争に「自信」のあるうちに「戦略要点」に兵力展開完了する「戦争準備」完整時期を10月下旬とする事、A外交交渉で「最後的手段」を尽すことも重要なので戦備準備は外交交渉に影響を与えぬように慎重にする事、B外交交渉と並行して「十月上旬頃には開戦の決意」をする必要があること、C米ソ提携は当然だが、冬季には米ソの軍事提携発動の公算は少ないので、まず南方作戦に集中し、明春以後に北方作戦に従事すること、D「対南方戦争」となった場合には独伊に通告して、「日独伊三国は相協力して戦争目的の完遂を期す」事とした。

 鈴木企画院総裁は、@「帝国国力の源泉」は「要員及国民の精神力」とし、Aしかし問題は「英米及英勢力圏」に依存する「重要物資」貿易であり、支那事変以来自給力増加に努め、「昨年夏以来の日米間の不円滑」で「急激に米等よりの依存関係から離脱」する必要が強まり、Bこれを独ソとの経済関係で対処しようとしたが、「本年六月独蘇の開戦」でこれが不可能になり、Cここに、「帝国の国力の物的弾力性」は「帝国自体の生産力」、「満州、支那、仏印、泰の生産力」、「予ねて蓄積せる重要物資」となったが、「今日の如き英米の全面的経済断交状態」では国力弾発力が日増しに弱化し、D特に最重要資源の「液体燃料」は戦時規制しても来年6、7月頃には「貯蔵が皆無」となり、ここに「確乎たる経済基礎を確立安定」する事が必要になり、E武力発動でこの確立をはかれば、「現生産力の半ば程度に低下」するので、この生産力低下期間を短縮するために、「武力戦の成果を直に生産に活用」する必要があり、F南方諸地域の要地を領有すれば、二年目くらいから石油、ボーキサイト、ニッケル、ゴムなどを活用して自立を図るとした(「御前会議議事録」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、437−8頁])。米国経済封鎖による国力衰弱を打開するのは、開戦による南方資源の確保だとして、その補給線確保についての見通しは欠落していた。

 御前会議の最後に、原枢密院議長が「この案を見ると、外交よりむしろ戦争に重点がおかれる感あり。政府、統帥部の趣旨を明確に承りたし」と質問すると、及川海相が、外交交渉と戦争準備に軽重はないと答えたが、統帥部は沈黙した。ここに、天皇は、御前会議では異例にも、「ただ今の原枢相の質問は尤もと思う。これに対して統帥部が何等答えないのは甚だ遺憾である」として、明治天皇和歌(よもの海・・)を読み上げた。そして、「余は常にこの御製を評価して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと努めておるものである」とした。

 しばしの沈黙の後、永野軍令部総長は、「統帥部に対する御咎めは恐懼に堪えません」としつつ、統帥部が発言しなかったのは、「海軍大臣のお答え致したる通り 外交を主とし、万已むを得ざる場合 戦争に訴うるという趣旨」だと弁明した(「近衛文麿公手記 日米交渉の経緯」『朝日新聞』昭和20年12月[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、440頁])。杉山参謀総長は、原議長質問に起立しようとした時に及川海相が答え、これを聞いた原議長が「統帥部も及川大臣と同意見と解し質問打切る」としたので、発言しなかったと弁明した(参謀本部『御下問奉答綴』[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、441頁])。
 
 こうして、天皇は「帝国国策遂行要領」に強い不満を持っていたが、あくまで外交主・作戦従という条件のもとにこれを裁可した。近衛首相は、「もはや外交、作戦の並行ではな」く、「十月上旬という期限が重視されなくてもよい」ということになった。しかし、「『戦争決意』から『外交解決』への動きの間に生じた方針の食い違いが修正されず、政府と統帥部の施策が衝突し、遂に第三次近衛内閣を倒壊させ」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、441頁)た。9月4日ルーズヴェルト大統領のメッセージ(基本原則への日本の同意)と米国政府のオーラル・ステートメント(四原則への一致が首脳会談前提)、9月6日御前会議などを踏まえ、近衛は「いよいよ最後の段階」にきたとし、交渉ポイントは「四原則であり、具体的には支那問題中の駐兵問題、経済機会均等原則の問題、三国条約問題」となってきたとみた(「近衛文麿公手記 日米交渉の経緯」『朝日新聞』昭和20年12月[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、444頁])。

 陸軍の動員令 御前会議で帝国国策遂行要領が決定され、陸軍は動員令を発令しようとした。

 9月6日御前会議裁可に応じて、参謀総長は作戦計画、動員計画を天皇に上奏したが、天皇は外交優先として容易に納得しなかった(447頁)。そこで、参謀本部作戦課が作戦準備の原案を作成し、田中新一作戦部長、塚田攻参謀次長、杉山元参謀総長が加筆した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、454頁)。9月8日、参謀総長杉山元は「南方作戦全般に関する件」を上奏し、@「万全の外交交渉」に尽力するが、「最悪の場合」を想定して、南方に武力発動する場合を顧慮して海軍と合同研究し、A南方作戦の目的・使用兵力・攻略範囲を説明し、B攻略地域の敵兵力を述べ、C「南方作戦実行の時機」は「北方との関係」で決まるとし、D南方作戦の終末について比島、馬来、蘭印、英領ボルネオ、グァム、香港からビルマの占領で終了し、南方地域の統治は「鋭意研究」中で「支那の占領地処理に比し南方民族の特性上 占領地統治は比較的容易なるものと信じて居り」、石油資源開発・運輸も「海軍と協同して準備を進め」ており、「南方の主要なる軍事根拠を占拠し且つ重要資源地域を獲得」し「不敗の態勢」を樹立するとし、Eこのための作戦準備について兵力・諸施設・船舶徴用を述べ、F最後に、あくまでこれは作戦準備であり、作戦発起ではなく、「戦はずして帝国の主張を貫徹」するにこしたことはないとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、448ー453頁)。

 こうして、杉山は、あくまで外交交渉で解決するにこしたことはないが、外交失敗を想定した場合の作戦準備として詳細に計画を上奏したのである。

 9月9日、杉山参謀総長は、天皇の疑念をはらうべく、対米交渉に支障とならぬように「南方作戦準備の秘匿のための一切の手段」として欺瞞宣伝、新聞などを利用するとした。その上で、杉山は「第一次動員の実施」を上奏して、裁可を得て、9月10日多数の兵員の動員が下令され、以後10月8日まで6回の動員が発令された(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、454頁)。

 支那駐兵問題と陸軍 9月10日、米国側は9月4日案を最新案として、「従来の諒解案の範囲を不当に局限」するとし、特に支那問題の解決を回避しているとして、「最も峻烈」な調子で申入れをしてきた。米国側では「駐兵問題が、或時は名義形式は如何でもよしとの穏健論があるかと思ふと、翌日には絶対不動といふ強硬論が伝へられ」、一方、日本政府内でも「問題は何うしてもこの一点といふ感が強かった」(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、236ー8頁])のである。

 9月11日、野村は日本政府に、「交渉の最大の難点は、日本軍の中国からの撤退及び防共駐兵の問題であり、打開策としては、平和克復後二年以内に撤兵することで折り合うよう」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、472頁)に要望した。

 9月12日、野村大使が、「交渉の難点は・・在支日本軍撤兵及防共駐兵の問題」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、461頁)である旨の電信を発してきた。9月13日連絡会議で、日支和平基礎条件が決定され、@問題の駐兵問題に対しては、日支協力して共産主義には「共同防衛」に当り、支那事変解決すれば派遣軍は撤退し、A「日支両国の隣接的位置」を考慮すれば「経済上必然的に・・特殊緊密なる関係」が生ずるのは当然だとし、B三国同盟は「米国が検討中」というから首脳会談で決めるのが妥当であるとされた(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、239−240頁])。たが、近衛首相、豊田外相は巨頭会談実現のために駐兵問題をぼかして打電した。当然、米国はこの不明確な和平条件にはのってこなかったろうから、野村は「新しいものはな」いとして、始めから米国側にこれを提示しなかった(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、474−5頁)。そこで、外務省は、統帥部を除外して日米了解案をつくり、9月18日連絡会議で統帥部に認めさせようとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、473頁)。しかし、参謀総長、軍令部総長は即諾せずに、持ち帰った。

 9月11−24日、後述の通り、海軍がハワイ空襲の図演などするかたわら、陸軍統帥部作戦課は、作戦班、航空班、兵站班に分担して、9月「各方面の作戦計画を一貫した眼でながめて整理」し、9月17日南方作戦計画第一案の研究を行なった(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、482頁)。9月18日、大本営陸軍部は「帝国国策遂行要領」に基づいて、「情勢の推移に即応する作戦準備(第51師団を第23軍に編入など)の命令」を発した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、461頁)。9月20日、第54回連絡会議で、「日本国アメリカ合衆国間国交調整に関する了解案」を決定したが、「従来の日本の主張を整理」したにすぎなかった(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、476頁)。

 9月22日外務省、陸海軍は和平派の横山駐米海軍武官報告を接受した。横山は、米国の対日政策の硬軟方針を伝えてきた。即ち、彼は、@既に報告の通り、米国は「近く武力参戦の趨勢」であり、「両洋作戦を避くるため対日調整の得策なるは感ずべきも 絶対要件にあら」ず、「極東に於ける五国包囲陣の準備なれる今日、大西洋問題の為に日米交渉に於て譲歩することなかるべく」、一方、日本も「米の条件を満足せしむるにあらざれば 決裂をも辞せずとの態度(但し打切を急ぐ模様は見へず)を持しあり」、A米国は、「対日経済戦により日本は次第に其の困難を増し」、「米の戦備は益々充実しつつあ」るので、日米交渉遅延は「厭ふところにあらず」としており、故に米国は「日本が米の条件を入れる迄は交渉の遷延を策しつつある」と判断され、B日本は「交渉の成功を絶対的必要」とするならば、「対支駐兵を思ひ切り、速に妥結を計り資源消耗を最小限とするを可とす」るが、「もし駐兵問題に付 我方の譲歩不可能とすれば 交渉は早晩打ち切りの機会の到来を予期せざるべからず」とした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、478頁)。

 9月23日、野村大使はハル国務長官に、「わが方は云うべきことは既に云い尽した。東京においてもこれ以上云うべきことは何もない。三国同盟の関係についても、これ以上のことは両国首脳の会談に譲るほかはない。9月6日の提案は決して調子を下げたものではない」(外務省文書「日本外交関係雑纂」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、478−9頁])と説明した。米国側は「日本は一応全部撤兵し、改めて新協定によって一定地域に駐兵するといふ形式」と諒解していたが、日本側内示案では「現在の派遣兵の一部をそのまま駐兵し残りを撤兵する」となっていて、「話が違う」とした(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、241頁])。東京では、9月23日、豊田外相は寺崎アメリカ局長にドウーマン参事官に、「駐兵の理由を詳細に説明」させたが、米国側はこれをなかなか承服しなかった(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、242頁])

 9月24日、野村は本国外務省に、「今はまさに最後の五分であるから、訓令に従い最善の努力を致すべし」と、最終段階にあることを伝えた。統帥部は、日米巨頭会談開催の可能性は五分五分として、統帥部随員の塚田次長、武藤軍務局長、有末戦争指導班長らに秘密訓令を与える所であった(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、479頁)。

 陸軍の和戦決意期日申入れ 9月25日連絡会議で、参謀総長は、「対米政略戦の転機は遅くも10月15日には決する必要がある」と説明し、「とにかく早くやってくれ」と催促し、軍令部総長も「海軍側の見解」を補足説明した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、477頁)。しかし、豊田外相は「期限つきで 米国の回答を求めることは、最後通牒となり、適当でない」と反対した。これに対して、杉山参謀総長は、「交渉の結果、わずか数年間の小康を保ちうるにすぎないようではよろしくない、数十年間おだやかになるようなものでなければならぬ」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、481頁)と主張して、日米外交交渉の長期的成果を強調した。

 9月26日、参謀本部部長局会議で、岡本清福参謀本部第二部長は対ソ情勢判断をして、@来年6月頃には「米国からの補給」で40%程度に経済回復し、A工業力から来年6月頃までには90コ師団の維持が可能となり、B来年6月頃には「米国の援助」で25−30%に低下した国力が35−40%に回復するなどと、米国援助でソ連が国力、兵力を回復するとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、479頁)。ドイツは、対ソ短期戦に失敗し、長期戦になるとしたのであるが、特に陸軍統帥部はそのドイツの対ソ優勢に期待をつないでいた。
 
 9月27日、豊田外相はグルー大使に、「最後にとって置いた九月廿日決定の包括的諒解案」を提示し、ワシントンでも野村大使は平康東駐アメリカ大使館一等書記官をして国務省参事官バランタインにこの包括的諒解案を提示させた。しかし、米国側は、9月4日日本案を問題とし続けており、9月20日総合案に言及することなく、10月2日に、覚書を提出し、「日本の表明する平和政策、経済無差別の適用に制限が多過ぎること、又駐兵を日支和平の条件とすること」を非難した。米国側は、日本側は「四原則には同意し又広汎な保障を与へながら」、実際には「全体問題に於いては之と矛盾」し、「之を不当に制限」すると非難した(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、242−3頁])。

 9月28日、野村大使は、9月20日連絡会議決定の「日米了解案」(日本最終案)に対して、@「米は6月21日米側提案を基礎」としているから、「今更新提案は困る」事、A米の欧州大戦参戦の場合「日本の義務が拘制されていないのは困る」事、B「『故なく北方進出せず』を削除したのは難点」となる事、C「日支基本条約を基礎とする日支和平は困難であ」り、「特に駐兵問題により交渉が決裂に向かいつつある」事、D「太平洋の政治的安定」について「従来の主張と相違が大きいのは困る」事を連絡してきた。9月30日、杉山参謀総長は、部長会議で、「野村大使の意見によれば、もはや日米交渉は見込みがない」と述べた(503頁)。そこで、外相は野村大使に、「三国同盟の死文化をにおわし」、「日支和平の基礎条件は・・日華基本条約に準拠すること」を特に軽視するという修正電報を送った。だが、参謀本部はこれに賛成せず、10月2日連絡会議で豊田外相にこの二点(三国同盟の義務遂行、駐兵の必要性)は「米側にはっきりすべきである」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、503頁)とした。

 一方、10月2日、ハル国務長官は野村大使に、「原則事項についての了解がない首脳会議を婉曲に拒絶」し、@国家間の基本原則たる四原則の確認、A支那・仏印からの全面撤兵、B日支間特殊緊密関係の放棄、C三国条約の実質的骨抜きを要求するものであった(504頁)。これは「最後の通牒的な意義」をもった(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、513頁)。10月3日、野村は政府に、@「日米交渉は遂に『デッドロック』となれる感あるも、之を打開し得る機会は必ずしもなきにあらざるべし。先方の覚書にて猶其の余地を残しあり」、A重大懸案の支那駐兵問題について、全兵力撤退は不可能かもしれないが、「更に御検討相成様致し度し」とした(『外交資料 日米交渉記録の部』[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、490頁])。

 軍部は日米開戦に向けて動き始めていたが、和戦決意期日などの前に、対米戦勝利作戦、米国本土攻略作戦を立案するべきなのに、陸軍は対米作戦を矮小化させている。こうした動きのもとで、9月27日ー10月1日、近衛首相は鎌倉に静養し、鈴木企画院総裁・富田書記官長に総辞職をもらしたが、鈴木は木戸と打ち合わせ、「弱気をたしなめ、奮起をうながした」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、485頁)のであった。

 陸軍の開戦催促 陸軍中堅は、海軍が「優柔不断」で「二枚舌」的な態度をみせることに対しては、厳しく批判している。参謀本部戦争指導班『大本営機密戦争日誌』によると、陸軍中堅は、「海軍とくに海軍省首脳部の無節操 言語道断なり。女のごとき根性 断固排撃の要あり」とか、「分からぬものは海軍なり。海軍とはそもそもいかなるものなりや、憤激に堪えず。・・・まことに言語道断、海軍の無責任、不信、まさに国家を滅ぼすものは海軍なり」、「近衛総理 決心のつかざるは、一に海軍の態度煮え切らざるによる。海相明確に態度を表明せばすべては決す。可か否か、一に海相の一言によって決す。しかるに海相は不能といわず、能といわず、海軍には海軍あって国家あるを知らず。日露戦争前夜と何ら変わるところなし」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2)と批判している。

 10月4日連絡会議が開かれ、豊田外相は「アメリカとしては、徐々に日米間の好転を策するのではなかろうか」と発言した。しかし、東条陸相は、「米の真意は明らかに日本の屈伏を強いるもので、事はきわめて重大である。日本の対米交渉は従来の方針を堅持すべきか、譲歩譲歩で今後の見通しを立て得るか。対米回答電文はしばらくおき、慎重に研究する必要がある」と発言した。杉山参謀総長は、「陸相の意見に同意である」として、統帥部としては今後遷延遷延で引き延ばされては「南も北も中途半端となる」から、「わが目的を貫徹し得る目途がまだあるとみるのか、目途なきに至ったとみるのか、その根本的態度をすみやかに決定しなけれならない」とした。永野軍令部総長は、「もはやディスカッションをなすべき時ではない。早くやってもらいたい」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、504−5頁、『連絡会議議事録』其二[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、490頁])と催促した。

 10月5日陸軍省・参謀本部は、陸相官邸で部局長会議を開き、「討議の結果、外交交渉でわが目的を貫徹する目途はない」「すみやかに開戦決意の御前会議を奏請する必要がある」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、505頁)と結論した。

 陸海軍の開戦演習 10月に入ると、陸軍、海軍は開戦演習を行ない、海軍は「比島方面から東部ジャワに向かう」右回り作戦に力点を置き、陸軍は「泰、マレーを経てなるべくすみやかにシンガポールを攻略すること」に力点をおいた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、499頁)。いぜれも、米国本土攻略の根源的観点が欠落している。

 陸軍参謀本部は、塚田参謀次長を統裁官、田中第一部長を高級補助官とし、10月1日から5日まで陸軍大学校で兵棋演習を実施した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、479頁)。一方、10月4日から6日、海軍基地航空の第十一航空艦隊は、「開戦日を昭和十六年十二月七日」とし、「開戦劈頭の北部比島ルソンに対する航空機撃滅戦方策」の図演を行なった(488−9頁)。ここで、海軍は「先制航空戦」の観点から開戦日を予定より一ヶ月延ばした十二月七日としたのであった(490頁)。

 10月9日から13日、海軍は、山口県室積沖に碇泊中の連合艦隊旗艦長門で、開戦日は12月8日とする対英米蘭作戦(比島作戦、マレー作戦、蘭印作戦)図演を実施(496頁)。これと並行してハワイ空襲図演がおこなわれ、空母三隻(497頁)にとどまる「従属」的作戦であり、これに対して、「ハワイ
空襲は空母六隻の全力にするを要するという意見」が提出された(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、498頁)。

 海軍の陸軍牽制 近衛首相、及川海相は10月15日和戦決定には逡巡を示した。

 10月6日、海軍省・軍令部の首脳が協議し「撤兵問題の為 日米戦ふは愚の骨頂なり。外交により事態を解決すべし」(「富岡定俊中将戦後回想」[514頁])となり、海相が「それでは陸軍と喧嘩する気で争ふても良うございますか」と問うと、軍令部総長は「それはどうか」と、海相を牽制した。10月6日陸海軍部局長会議で、海軍が撤兵を陸軍に要求し、「意見対立」する(「大本営機密戦争日誌」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、506−7頁])。海軍は「駐兵に関し考慮せば(日米交渉の)目途あり」と言う。陸軍は、一昨日軍令部総長が目途なしとしたのに、目途ありとは、「分からぬものは海軍なり。憤激に堪えず」と批判した。このように、海軍と陸軍の間で、未だに撤兵問題などで議論して、対米戦争に共同対処する根源的作戦の討議をしていない。

 海軍第一部長は、「船舶の損耗に就き戦争第一年に140万屯撃沈せられ」「南方戦争に自信なし」と言う。そこで、海軍軍務局長は、「比島をやらずにやる方法を考へ様ではないか」とした。陸軍は「今頃何事ぞや。御前会議に於て御聖断下りたるものを海軍は勝手に変更せんとするものなりや」と非難した。 
 
 10月6日夜、東条陸相と杉山参謀総長は、陸軍方針(@日米交渉目途なし、A四原則非承認、B駐兵方針不変、C見込みあるならば交渉続行容認)を確定し、海軍に、@南方戦争に自信あるのか、A9月6日御前会議決定を変更するのかを確認するとした。そして、東条は杉山に、損耗など「海軍の新しい申し出が真ならば、この国策は危い基礎の上に立って作られたことにな」り、「我々四人の陸海軍長官は引責辞職しよう」と提案した(「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、507頁])。10月7日午前、海軍大佐石川信吾、大野竹二、小野田捨次郎が大本営に来て海軍第一部長船舶損耗の弁明に来て、「船舶損害140万屯はそういうこともあると云ふことを政府にも述べ、政府の覚悟を促すに在り」(「大本営機密戦争日誌」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、511頁])とした。

 10月7午前、大本営での陸軍参謀総長と軍令部長が会談して、10月15日開戦決定で調整した(「田中新一中将戦後手記」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、508頁])。永野軍令部総長は、「交渉に見込みはない」が、「交渉の目途があると外務側でみるなら交渉をやってもよい」が、「十月十五日は和戦決意の時だという考えは変えないのだから、交渉がずるずる延びて戦機を失うことは相成らぬ」ともした。杉山参謀総長は、「海軍側では戦争に自信がないということだが」と問いかけると、永野は、@軍令部としては「戦争に自信がない」ことはなく、「今なら算がある。先のことは勝敗は物心の総力で決せられる。もちろん国際情勢にもよる。戦争になれば持久戦争だ、勝敗は国民奮起の総力に関係する」とし、A海相のように「むづかしい、むづかしいと云っていては、軍備不要論も起きてこよう。力相当の防衛をやることが必要だ。和戦決定の期日は、海軍だけのことを考えれば少しぐらい延びても差し支えない」が、「陸海協同である限り双方の見地からみて戦機を逸しないようにしなければならない」から、この期日は重視しなければならぬとした。ただ、永野は「陸軍はどんどんやって行くようにみえるがどうか」と牽制すると、杉山は「いや・・慎重にやっている」とした。永野は、和戦期日決定は「語勢や美文ではない」から、「南部仏印に兵力を入れるのももう遠慮できないぞ」と、強く出た。杉山は「全然同感」とした。

 一方、10月7日午前8時、定例閣議前、陸相・海相が会談した。東条陸相は、@「和戦の決意」に関する陸海軍不一致は「亡国」になると懸念し、「国策遂行上における陸海軍の地位を確認」しようとして、A「米覚書に対する陸軍」の意見は、三国同盟離脱・四原則(大正11年締結の九カ国条約[門戸開放・機会均等・主権尊重]の再確立であり、大東亜共栄圏前提を否定)実行強要(日本聖戦を否定し、「日本の死活問題」)・駐兵否定(防共・権益保護・東亜安定のための満蒙駐兵は当然・義務)には反対であるから、日米交渉妥結の見込みはないとし、B改めて「十五日までの和戦決定」の尊重を主張した。これに対して、及川海相は、「米国の覚書には幅があ」り、「読みようによっては北方問題も自衛権で解決できる」から、「外交上の見込みはある」と反論し、十月十五日「目標」は「必ずしも限定的のものではない」とした。東条は、外交目途はなく四原則・駐兵否定は譲れないとした上で、第二の問題点として「九月六日御前会議」決定方針に対する海軍変心問題を取り上げた。及川は、「変わっていない」し、戦争決意にも「異論はない」とした。そこで、東条は、海軍の「戦争の勝利の自信」を質すると、及川は前述の通り、海軍に責任はないと、責任回避論を展開した。

 10月7日午前10時、閣議が始まり、河田烈蔵相は「国内の状況はまさに窮境にある」とし、村田省三逓相は「民需船は将来190万屯内外となり、今より半減する危険がある」と警告し、他の関係閣僚も「対米英はもちろん、南方、印度ともに行詰った」と発言し、戦争などは困難として、暗に開戦に反対した。これに対して、東条陸相は、「今は既に普通の経済ではない。外交もまた同じである。国内は今や米、英、独の巣窟と化している」から「戦い抜かねばならぬ時代である」(「田中新一中将戦後手記」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、511頁])と、鼓舞した。先に戦いありきなのである。陸軍はあくまで近衛の日米交渉譲歩に手続き的に反対し、南方作戦は確実な勝利作戦と前提して、その危うさ、必敗性に気づくこともなく、日本が勝利する根源的戦略・作戦などを議論することはしなかった。

 10月7日夜、東条は近衛首相と会談し、@近衛が大統領と会談すれば、折り合いがつくと思うので、「駐兵を緩和するよう何とか看板を変えることはできないか」と提案すると、東条は、「駐兵問題については絶対に譲歩いたしかねる」と反論し、A近衛が、日米交渉目途なき場合に「直ちに」開戦決意すとの御前会議決定の「直ちに」は実施困難なので再検討が必要と提案すると、東条は、「今まで戦争も作戦も含めて十二分に検討してきた」のに、「今重大疑念があるというなら、九月六日御前会議の重大責任となる」とし、B近衛が、「戦争の決意に心配があ」り、「作戦について十分の自信がもてない」とすると、東条は「九月六日の決定は政府と作戦当局である統帥部の共同責任でできた」ものだとし、C近衛が「戦争の大義名分」に考慮余地ありとすると、東条は、「対米戦では当初の奇襲作戦に多くの期待がかけられている」から、大義名分など考えて「戦機を失ってはならぬ」と批判し、D近衛が「軍人はとかく戦争をたやすく考える」と牽制すると、東条は見込みある外交交渉はやるべきだが、期限までに「和戦の決定」をしなければならぬとした(「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、512−3頁])。

 和戦決定期日の延期 開戦決定に関しては、陸軍・海軍の間のみならず、海軍の海軍省・軍令部の間でも不一致が生じてしまった。

 10月8日、近衛首相と及川、豊田、鈴木各相との個別会談、陸海両相会談がなされた。宮中の大本営では、杉山参謀総長と永野軍令部総長が懇談した。永野は、参謀本部は「軍令部と海軍省との意見が不一致で困る」としているが、海相は「まだ外交交渉の余地がある」とし、「時機が問題になっている」とする。軍令部としては、海相が外交交渉に余地あるとするなら、「成算をもってやってもらいたい」とした。杉山が「外交で目的が達成できると思うか」と問うと、永野は「むづかしい」と答えた。

 外交交渉が10月15日以上に延びることに対しては、杉山は反対し、永野は一ヶ月は困るが「四、五日」ぐらいならば「忍べる」とした。戦争長期化について、永野が「その結果はわからない。今海軍大臣が調査中だ」とした。最後の開戦決意については、杉山は「何もできない」と言う様では「国家は駄目」とし、永野は「近衛ではできない」(「田中新一中将戦後回想」[514−515頁])とした。

 10月9日、第58回連絡会議が開催され、近衛は「新たに生じた仏印問題(仏印に進出した日本軍の撤兵問題)」によって「急速に事態を絶望視」した。参謀総長は、交渉期限は「十月十五日より遅れては困る」と主張した。永野総長も、@「交渉を延ばされると作戦上困る」、A「交渉をやるならば必成の信念でやる」と言おうとしたが、及川海相に押しとめられた(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、496頁)。この会議でも「なんら結論をみることな」かった。

 この9日、木戸内大臣は近衛首相に、@「内外の諸情勢より判断するに、対米戦の結論は容易に逆睹(推測)し難く、再検討を要」し、A「政府は此際直に対米開戦を決意することなく」、B「寧ろ支那事変の完遂を第一義とすることを闡明し」、C「米国の経済圧迫を顧慮することなく、我国は自主的立場を堅持し」、D「十年乃至十五年の臥薪嘗胆を国民に宣明し、高度国防国家の樹立、国力の培養に専念努力すること」(『木戸幸一日記』下巻、912頁)など、日米戦争回避論を述べた。しかし、「米国務省には、日本の軍部による政治体制を打倒すべき基本の目標があ」り、「日本には、統帥部を中心とする強力な一戦意欲があ」(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、498頁)ったから、この木戸臥薪嘗胆論の実現には「支那事変の完遂」を標榜する以上は相当な困難があった。

 一方、同9日、野村大使はハル長官、ハミルトン極東部長らと会談し、その結論として、日本の譲歩がない限り、「首脳会談は『絶対見込なしと観測す』」とした(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、499頁)。

 10月11日午前、連絡会議が開かれ、杉山参謀総長は「和戦の決定について強く発言した」所、外相、海相はこれに呼応せず、無視した(「大本営機密戦争日誌」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、516頁])。10月11日午後、野村大使は、「米側は10月2日の覚書の線にそうわが方の譲歩を要求し、その譲歩がない限り首脳会談は絶対に見込みがない」と連絡してきた。この交渉目途なしを受けて、陸軍参謀本部は「翌十二日連絡会議を開き、開戦決意の断を主張しよう」とした。10月11日夜、富田書記官長は岡軍務局長に、明日の荻外荘会談で海軍が「戦争回避、交渉継続の意志」を明示しなければ「近衛公は辞職するかも知れない」とし、岡は近衛辞任で「必ず日米戦争に突入」するとして、二人は及川海相を訪ねた。及川は富田に、@戦争如何を決定するのは「政治家・政府」の仕事であり、戦争決定となれば「如何に不利でも戦うというのが軍の立て前」であり、A故に明日の会談では海相として「外交交渉を継続するかどうかを総理大臣の決定に委すということを表明』するので、近衛公が交渉継続」裁断をしてもらいたいと告げた(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、501ー2頁)。

 10月13日、若杉要公使はウェルズ国務次官に「日米問題全般につき懇談」したが、ウェルズは、「(大統領もハルも)懸案の三国問題さへ解決さへつけば 近衛首相との会見を希望し居ることに変りなし」と述べ、「十月二日の覚書に尽き居り 之以上の『クライフィケーション』(clarification、説明)は不必要なり」とした。さらに、若杉はウェルズに、「自己の抱懐する日米暫定協定の案につき先方の意嚮」を探ったところ、ウェルズは、「支那問題を含まない日米協定は『ハムレット』の出て来ない『ハムレット』劇に等しい」(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、243−4頁])と一蹴した。米国は10月2日覚書に固執し、日本側は9月20日案を維持していた。

 和戦決定最終会議 10月12日、近衛首相は荻窪の荻外荘で五相(陸海外相、企画院総裁)会談を開催し、和戦に関する最終会議を開催した。

 五相会談(荻外荘会談)に先立ち、及川海相は、澤本頼雄海軍次官・岡敬純海軍軍務局長・伊藤整一軍令部次長・福留繁第一部長と協議して、@内閣総辞職は「国内を混乱に陥れるおそれがあるので、海軍は一致結束、滅私奉公の誠を捧ぐべきこと」、A「いままでの経過をもっては、戦争の理由とするに足らず、外交交渉を更に進めて事態の真相を明らかにすること」など、交渉継続で一致した(『元海軍大将澤本頼雄氏手記』[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、496頁])。これを受けて、岡軍務局長は富田健治内閣書記官長に、@「海軍は交渉の破裂を欲しない」ので、「戦争をできるだけ回避したい」が、A「海軍としては表面に出してこれを云うことはできない」ので、「今日の会議においては海軍大臣から和戦の決は首相に一任するということを述べるはずになっておる」と打ち合わせていた(「近衛文麿公手記」『朝日新聞』昭和20年12月[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、516−7頁])。海軍は、こいうい小賢しい小細工ではなく、堂々と日本国力では長期戦では米国には勝てないことを発言すべきであった。

 会談では、豊田外相、近衛首相は、日米交渉は「妥結の余地」ありとした。これに対して、東条陸相は「日本は今日まで譲歩に譲歩」してきたが、米国に「妥協する意志」がないので「妥結の見込みなし」と主張した。予ねての打ち合わせ通り、及川海相は、和戦の決は「総理が判断してなすべきもの」であり、「若し外交でやり 戦争をやめるならばそれでもよろし」と発言した。しかし、東条は、@既に「陸軍は兵を動かしつつあ」るのでもはや「そう簡単にはゆかない」とし、A「日本では統帥は国務の圏外に在」り、「総理が決心しても統帥部との意見が合わなければ不可なり」とし、B故に「総理が決心しても陸軍大臣としては之に盲従は出来ない」とし、C軍は「御前会議決定」を「基準」にやっているとした。これに対して、豊田外相は、「御前会議決定は軽率だった」と発言した。当然、東条は、「そんなことは困る。重大な責任ぢゃったのだ」と反駁した。陸軍は、米国国力を科学的に分析することも、米国本土攻略作戦も南方資源運搬線保護作戦も立てずに、ただ南方作戦で援蒋ルートを遮断し、南方資源を確保すれば何とかなるという短期的・局所的見地から、動員令とか御前会議決定とかの目先の既成事実で開戦を主張したのである。

 だから、近衛が「戦争は一年二年の見込はあるが、三年、四年となると、自信はない」と長期戦への懸念を披瀝すると、東条は、その実態を究明することなく、「練りに練って」「各角度から責任者が研究し」て責任をもって「そんな問題は此前の御前会議の時に決って居る」と開き直った。近衛は、「戦争に私は自信な」く、「外交でやると言はざるを得ず」とした。東条は、@駐兵を取り止め「退却を基礎」とすれば「陸軍はガタガタにな」り、「支那事変の終末」ができなくなり、A「輿論も青年将校の指導もどうやればどうなるか位は知って居る」(「杉山メモ」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、517−8頁]、『大本営政府連絡会議議事録』[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、502−4頁])とし、暗にこれでは反乱を呼びかねないともした。陸軍の一部は、日米開戦決定の促進のために、和平派へのクーデターを計画し、或いはそれを以て和平派を恫喝しはじめたのである。

 開戦直前の陸軍中堅層には、「『自存自衛のためには、戦わずして屈することはできない』とする反米感情が絶頂に達しており、陸軍内の戦争推進勢力が対米慎重派に対して軍部クーデターを起こす可能性さえ憂慮される事態にあった」のである。永野軍令部総長は、「あそこまで引っ張って来て、事ここに至る。ここで戦争をしないで屈することは、日本に内乱が起こることを意味する。陸軍がクーデターを起こす。海軍にも勇ましいのがいたが、だいたいが自存自衛で、やむを得ねば戦うといった程度。そこで陸海軍が相撃つこととなり、陸軍が勝つだろう。国民も当時は無責任な勇ましさだった。陸海軍相撃ってから戦争になったら、まことにだらしのない、歴史に残る戦争になる。やはり一致して戦争せざるを得ない。自存自衛のため同意した」と回想している。富岡定俊作戦課長は、「米国に屈して、満州を放棄すると決めた時の事態は読めていた。陸軍がクーデターを起こし、天皇を満州に擁するという計画をつかんでいた」(『太平洋戦争と富岡定俊』[池田清『海軍と日本』132−3頁])とする。16年11月その天皇は、「若しあの時、私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云ふので、国内の輿論は必ず沸騰し、クーデターが起ったであらう」(『昭和天皇独白録』[『文藝春秋』平成2年12月、118−9頁])とした。実際、10月18日、東条は組閣に際して内相を兼任していたのは、「日米交渉が妥結した場合に、陸軍の一部が決起にはやって二二六事件のような反乱が起こるのではないかと、恐れ」ていたからであった(加瀬英明ら『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』70頁)。陸軍将校の反乱、これが陸軍が政府に開戦を迫る最後の切り札になった。ここに、荻外荘の会談は決裂した。

 10月13日、近衛は天皇に、「内閣の直面する危局」を詳細に上奏した。近衛は、木戸内府、豊田外相と熟議し、「他の点に於ては我要求を貫徹し得る見込充分であるが、撤兵に付ては名を捨て実を採る主旨を以て 形式は彼に譲るに非れば妥結の見込なし」ということで一致した(近衛文麿「第二次及第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」[『近衛日記』、246頁])。10月13日夕方、「政変のうわさ」が陸軍省に伝わり、東条は「近衛内閣の倒壊は必至」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、521頁)とみた。

 陸軍の倒閣行動 10月14日閣議前に、近衛・東条が会談した。近衛が、「今度の対米交渉で問題として残るのは駐兵だけ」だから、「名を捨てて実をとるという方便」で「一応撤兵の原則を立てる」ことにしたいとする。これに対して、東条は、「駐兵、撤兵問題は支那事変の心臓であり、また日米交渉の心臓でもあ」り、「譲歩は不可能である」とした。それでは戦争になるので、近衛が「戦争は心配だ」とすると、東条は、「あなたは自分の体(日本の現状ー筆者)を知り過ぎている」が、「相手の身体にも随分欠点はある」(「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、519−520頁])と反駁した。ならば、東条は、日本の欠点が米国の欠点を凌駕することを軍事科学的に検討したというのか。そうした痕跡はみられない。

 一方、海軍首脳は、閣議前に海相室に集まり、和戦を協議した。岡軍務局長は「開戦決意をなし強硬外交に出ることとせば」意見不一致を打開できないから、「本月一杯延期し、其の間交渉の重点を衝き、愈望なければ、又結果不明の時は断念す」とすると、及川海相は「総理一任主義にて進むべく」と主張した。結局「名案なく」、海相意思でゆくことに決定した(『岡敬純中将覚』[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、505頁])。

 閣議が始まると、東条は、@「国交調整は四月から六ヵ月間継続し、今や交渉は最後の関頭に来」ており、今後の交渉には「成功の確信」と「作戦準備を停める必要」があり、A既に陸軍は9月6日御前会議決定国策に基づき、10下旬を目途に「数十万の兵力の動員」をし「且つ支那、満州からも南方に兵力転用」をし、2百万トンの船舶徴傭をしてきたのに、いまだに和戦決定の見込みがたたず、「陸軍としては作戦準備を中止しなければならない」と発言した。だが、東条には作戦準備中止の意向はいささかもなかった。

 豊田外相は、「重点は撤兵であり、撤兵すれば交渉妥結の見込みはある」とした。しかし、東条は、「陸軍の作戦準備は御前会議の決定に基づき、外交を阻害しない限度で予定のとおり進」んでおり、「外交が遅れてい」て「外交が軍事を阻害している」と反駁した。海相が、作戦準備を「今後も続いてやるか」と問うと、東条は「計画に従ってやるほかはない」とした。さらに、東条は支那撤兵問題について、@「米国の主張にそのまま服したならば、支那事変の成果は壊滅に帰」し、「満州国の存立を危くし、更に朝鮮統治も動揺」し、A「支那事変は数十万の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷兵、数百万の軍隊と一億国民は戦場及び内地で辛苦と戦い、また既に数百億の国帑を費」してきたが、「列国の例にならわず寛容な態度で臨み」「帝国は聖戦目的にかんがみ非併合、無賠償」方針であり、「ただ駐兵によって事変の成果を結実させようとしているに過ぎ」ず、「巧妙な米国の圧迫に服してはならない」のであり、B「駐兵は心臓」であり、「駐兵を譲ることは、結局降伏に等し」く、「撤兵は敗北感を与え、軍の志気にも影響する」から、撤兵はできないのであると主張した(「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、519−520頁])。確かに、「巧妙な米国の圧迫に服してはならない」が、米戦争で勝利する戦略・作戦がなにもかかわらず、米国の狡猾な対日戦争に誘発されてもっと深刻な降伏を味わってはならないいのである、

 東条は強硬な態度を示して、「陸軍大臣が頑強だから交渉が停頓し」「陸相さえ譲れば交渉は成立する」と考えている閣僚に「引導を渡した」のであった。そして、木戸幸一は引き止めているが、東条は、近衛首相にも「引導を渡した」(参謀本部首脳宛東条陸相通知[『田中新一少将業務日誌』<『戦史叢書 大本営陸軍部』2、521頁>])のであった。

 14日午後2時半、東条陸相が木戸内大臣を訪ね、「陸軍の日米国交調整問題に関する意向を詳細説明」(『木戸幸一日記』下巻、915頁)した。

                                    3 東条内閣と日米開戦決定
 東条内閣組閣 10月14日夜、東条は企画院総裁の鈴木貞一中将を近衛邸に派遣し、後継首班について、東久邇宮稔彦陸軍大将を推薦した。まず、東条は、@海相の無責任(海相は戦争を欲しないが、それを陸相にぶつけず、首相に預けて「全部責任を総理に任せている」こと)を「遺憾」とし、Aこの海相無責任で9月6日御前会議決定が覆るので、陸海大臣、軍令部総長、参謀総長は「輔弼の責を充分に尽さなかった」ことになるので、「全部辞職」して「もう一度案を練り直す」べきとし、Bこうして「陸海軍を抑えてもう一度この案を練り直す」実力者は宮様以外にはいないので、東久邇宮を後継首班するよう尽力されたいとした(「近衛文麿公手記」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、521−2頁])。

 既に9月6日御前会議の翌朝、東久邇は東条陸相を自邸に呼んで、「アメリカが外交的に日本を締めつけ、短絡的な日本が自分の方から開戦するとのクレマンソーの予言通りに昨今の事態は進んでいる」と、 猛省を促した。それに対して、東条は、「戦は賭けであり、やってみなければわからない、五分五分である」と反論した。 にも拘らず、東条が東久邇を推したのは、「宮首相が「聖上の御意」に沿って戦争を回避するなら、それもよいと達観していた」(五百旗頭真 『日本の近代(6)』中央公論新社、2001年、88頁)からだとする見解がある。だが、既に動員令の出ている新しい事態を踏まえて、東条は東久邇の変心を期待するか、天皇意思に沿って日米開戦回避する事にした場合に想定される陸軍反乱抑制を期待したからであろう。

 10月15日午前9時半、企画院総裁鈴木中将が木戸内大臣を訪ね、東条意向として、「近衛首相にして翻意せざる限り政変は避け難」く、後任首相としては「聖上の御意を隔てなく拝承し得ること、陸海軍を纏め得ること」が必要であり、東久邇宮が最適である旨を伝えた(『木戸幸一日記』下巻、915頁)。

 10月16日、開戦内閣を東久邇宮に組閣させた場合、累を皇室に及ぼす虞あるとして、東久邇内閣は流産した。だが、近衛は、時局は一刻の猶予も許さぬとして、17日総辞職した。同17日午後重臣会議が開催され、後継首班候補に東条英機が選出され、午後4時半に組閣大命を拝受し、天皇は特に「陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ」と述べた。木戸内大臣は勅命で、東条、及川に、陸海軍協力の勅旨に考慮し、9月6日御前会議決定に「とらわれることなく」内外に対処せよという「白紙還元の御諚」を告げた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、523頁)。これを受けて、東条は、開戦内閣ではなく、和戦両様内閣を組閣し、18日誕生した。

 日米交渉の膠着化 10月16、17日、若杉公使はハル長官・ウェルズ次官と会談し、「此際日米間に何等かの合意を見ざるに於ては、勢の赴く所 予測を許さ」ないから、6月21日米案と9月25日日本案との調整可能な点を発見するように要求したが(『外交資料 日米交渉記録の部』368−375頁[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、521−2頁])、「三国同盟に関する自衛権の解釈」、「通商上の無差別待遇を中国を含め全太平洋地域に及ぼすこと」、「中国からの撤兵」では妥協は困難だった。10月21日、東郷外相は野村大使に、「我方は毅然たる態度を以て米側の反省を俟つ態勢に在り」、「九月二十五日我方案に対する米側の対案を至急求めら」れたいとした(『外交資料 日米交渉記録の部』381頁[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、522頁])。

 10月24日、若杉公使はウェルズ次官に、速やかに「我方9月25日案に対する米側の対策提示」をもとめた。すると、ウ次官は、10月15日大本営海軍報道課長平出英夫大佐が「皇国の興廃まさにこのときにあり、わが海軍が本来の任務につくときはいまである」と演説したことをあげて、「日本海軍が好戦的な声明をしている」と非難した。逆に、若杉公使は、上院議員ペッパー、海軍長官ノックスの「好戦的な演説」に抗議した(『外交資料 日米交渉記録の部』381ー3頁[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、522頁])。

 統帥部の対米強硬論 10月18日、陸軍省は参謀本部に、「国策を深く、且つ広く再検討すべき大御心にかんがみ、国策遂行要領再検討要目を提示し、研究を要望」(「大本営機密戦争日誌」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、524頁])した。

 陸軍統帥部は、海軍の逡巡を危惧して、塚田参謀次長を通して、伊藤軍令部次長に、「今後は海軍側としても、その所信を率直に表明」し、ここに「陸海軍協力のお言葉の趣旨にそうよう努べきこと」を相互に了承した。10月20、21日、参謀本部は部長会議を開いて国策遂行要領の再検討に着手し、陸軍省(海軍との協調から日米交渉を継続)とは異なって、「十月末日に至るも我要求を貫徹し得ざる場合には対米国交調整を断念し開戦を決意す」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、524−5頁)と結論した。

 陸軍も海軍も、統帥部(参謀本部、軍令部)が対米強硬論で協調し始めたのである。軍令部は、11月末から12月8日までの開戦時機を逸するのを恐れて、強硬先行しだした。

 10月21日、永野軍令部総長は杉山参謀総長に、@軍令部の「従来の決心」に「なんら変更していない」事、A譲歩すべきは譲歩するが、「用兵作戦に支障あることは断じて容認できない」事、B「九月六日御前会議決定の内容を変更する余地はない」事と、海軍省とは異なる方針を言明した。参謀本部は、これが「新海軍大臣との協議の結果によるものか」、「海軍統帥部限りのものか」、「永野大将の個人的発言に過ぎないものか」が不明瞭だったが、陸軍・海軍の軍令部門の意見が一致したことを歓迎した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、525頁)。

 10月22日、永野総長は杉山参謀総長に、@「作戦準備は今や本格的にや」り、外交観点より阻害されることは許されない事、A対米交渉に見込みなければ中止する事、B「対米屈従外交は不可」である事など、対米強硬意見を提示した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、525頁)。10月23日、新内閣と大本営との最初の連絡会議が開かれ、永野軍令部総長は「一時間に400屯の油を消耗しつつある。事は急である。急速にどちらかに定められたい」と、和戦いずれかへの迅速決定を促した。杉山参謀総長も、「既に一ヶ月引き延ばされた。研究に四日も五日もかけるのは宜しくない。早くやられたい」と、同調して強く催促した。軍令部では海軍・陸軍は同調していた(527頁)。しかし、東条は、天皇意思もあって、これに同調せず、「海軍、大蔵、外務など新大臣もあり、十分に検討して責任をとれるようにしたい」と、慎重な発言をした。

 以後、24日、25日(土曜日)、27日、28日、29日、30日、内閣と大本営との間で「国策遂行要領再検討に関する連絡会議」が開催された。ここでは、@「対米英蘭戦争に於ける初期及数年に亘る作戦的見透し如何」、A「今秋開戦するものとして北方に如何なる開戦的現象生ずるや」、B「対米英蘭戦争に伴ふ帝国の財政金融的持久力判断」、C「対米英蘭開戦に関し独伊に如何なる程度の協力を約諾せしめ得るや」、D「戦争発起を明年三月頃とせる場合」、E「対米英蘭開戦は重慶側の戦意に如何なる影響を与ふべきや」など、ソ連、英国に対する独優勢の前提に立って、対米英蘭戦争遂行を前提とした国策となっている(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、527ー9頁)。

 @の作戦見通しでは、「陸軍作戦」は南方作戦、「海軍作戦」は邀撃作戦などにとどまり、相変わらず肝心の敵国米国の本土攻撃による敵国国力削減には一切言及していない。まさに、ここでも触れているように、日本軍ははじめから「対米作戦は武力的屈敵手段なく長期戦となる覚悟」が必要だとし、その長期戦は「米の軍備拡張に対応し我海軍戦力を適当に維持し得るや」否やに懸かっているとした(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、528頁)。

 この長期戦に関して、10月24日連絡会議で、塚田参謀次長は、参謀本部第一部作成「対米英闘争に於ける初期及数年に亘る作戦的見透しに就て」を提出したが、ここでは、@「物的戦力」について、「「満州、支那並南方資源地域」において「官民一致協力して各種資源の開発運用に全幅の努力を捧」げて「自給自足可能」の「経済的不敗の態勢」を「概成」し、A東亜の軍事拠点を占拠し「英米本土と豪州其他の極東方面並印度洋、西太平洋方面の交通連絡を遮断し、敵の実勢力を漸減」し「帝国は戦略的にも不敗の態勢を確立するを得べ」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、532頁)しとした。

 また、長期的な海軍力に関して、海軍側は、南方資源確保が重要だとし、@「米国の建艦能力と航空兵力の増強力が最も重大な問題」だが、「南方の作戦は戦略要点を南方地域に確保しておれば、(豪州方面からの)来攻兵力に対して有利に戦うことができ」、「航空及び潜水艦の邀撃によって長期にわたって対抗することは可能であ」るが、Aそのためには「海軍力の絶えざる増強」が必要であり、「物の獲得が重要問題」とし、B「軍令部総長は南方要域確保のため、所要飛行機(爆撃機、戦闘機、海軍要地防衛の航空機が各千機)は・・常続補給される必要がある」(「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、530頁])とした。しかし、これは困難な前提であり、かつ米国海軍力・航空力の過小評価があり、海軍はこれでは敗北すると読み取ることすらできなかった。

 日米戦争推移の楽観的見通し 対米英闘争に対する「初期及数年に亘る作戦的見透し」に関しは、「十二月上旬開戦に踏み切れる」という統帥部意向のため「戦争遂行の見通しがあるということを強調する立前で、やや楽観的観測」(「高山信武戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、536頁])を反映させて、参謀本部第一部作戦課高山信武少佐が作成した。

 だから、参謀本部員高山回想によれば、@「戦争第二年以降 戦争が苦しくなることは当初から予想され」「物的戦力を扱う方面では開戦には不同意であった」が、「数次の検討の結果、陸軍省方面でも、別途の対策を講ずればどうにか打開できるということに変」り、A実は「この別途の対策に問題があ」り「それには不可能と思われるような因子が少なくなかった」が、しかし、陸軍省は「次第にその前提を忘れて可能ということに変っていった」のであり、Bまた、「米国の戦争能力の評価と独逸の戦争能力に対する期待などに誤算があった」(「高山信武戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、536頁])とした。

 この点、陸軍省も楽観的見通しをたて、以上の作戦見通しは、「対米英蘭戦争の山は初期の攻略戦五ヵ月にあり、昭和十七年度までは物的消耗は大きいが、十八年度から軽減し、一方整備力は逐年向上し、初期一両年の危機を脱すれば、逐次弾撥力を蓄積することにより支那の処理、北方の解決、所要に応じ豪州作戦などもできるようになろうという末広がりの数年にわたる作戦的見通しであ」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、537頁)った。

 しかし、@「海軍が対米英蘭戦争の第一、第二年は確算あるも、以後は不明である」としたのに、陸軍は独逸優勢という状況認識に依存して、これを無視して、「陸海軍の作戦的見通しに関する調整がなされて」おらず、A「海軍の判断を基礎にすれば南方持久作戦第三年以後の見通しは予断を許さないとみるのが正しく、十八年度以降消耗がかえって増加し、整備が逆に低下して持久戦争が末細りとなる危険があった」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、537頁)のである。

 陸海軍の作戦調整 まず、南方作戦に関して、マレー空襲など南方作戦の「成功の素因」は先制急襲にあったので、未明のハワイ空襲とほぼ同時に深夜のシンガポール空襲が必要であり、大本営陸軍部は「ハワイ空襲とマレー作戦の時刻の規正に関しては、陸海軍中央協定所定で、なんら差し支えない」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、543頁)とした。

 対支、対南、対ソ総合作戦に関しては、10月28日参謀本部第一部長田中は、「総合作戦計画検討の素案」として、@「在支占領地域が総合戦争指導のための基礎」であるが、対支戦争が「長期総合戦争における背後的地位」を占めるか否かについて「陸海軍の見解を調整」する必要があり、A陸軍にとり南方作戦は「一部」だが「資源的には決定的」なので、不調の場合、「陸軍としても兵力的に拡大していく危険」があり、B「対ソ作戦は陸軍としては結局総合戦争における決定的な意義」をもつが、南方戦争中は対ソ戦回避が必要であり、南方作戦一段落後は「米ソ提携の阻止」が必要であるとしたが、Cいずれを重点的に対処するかは「各種の場合」(「田中新一中将戦後回想」[555−6頁])があるとした。依然として。米本土攻撃を含む対米戦争の観点が完全に欠落している。『戦史叢書 大本営陸軍部』2(朝雲新聞社、昭和13年、556頁)も、「対米決戦に関する配慮のなかったことは注目すべき」としている。
 
 10月30日、連絡会議終了に当たり、東条首相は、二日に決定するべき課題(@戦争回避して臥薪嘗胆、A即時開戦、B戦争決意のもとに作戦準備・外交交渉の並行)の検討を命じた(559頁)。海相の態度は「曖昧」だが、軍令部総長は「戦争準備を行ない、外交は外交でやれ」とした。参謀総長・次長だけが「独り強硬論で、孤立無援」であった。陸相兼任の東条首相は、「参謀本部と同意見の主張をするよりも、総理として参謀本部と政府側との意見の折衷妥協を提議する」(「杉山メモ」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、559頁])事が多かった。

 10月31日、杉山参謀総長、塚田参謀次長、田中第一部長は、@軍令部と協調して「開戦決意案を採択」するが、A天皇「思召」を考慮し、和戦並行案に甘んじることもあり、Bその場合にも「戦争開始の決意」をし、外交打ち切り時期を11月13日(12月8日開戦に呼応)と明示し、C「近衛内閣の二の舞を演じない」ことが必要だとした(「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、559頁])。

 陸軍参謀本部、軍令部は「東条の変節」と指摘するものもいた(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、560頁)。

 開戦決定の連絡会議開催 11月1日午前7時半、連絡会議開催前に、東条首相・陸相は杉山参謀総長を訪ねて懇談し、東条は「戦争決意のもとに作戦準備・外交交渉の並行」路線を選択したいとすると、杉山は、これは「既に行き詰っている」のであり、「成算があるとみるか」と問いただした。さらに、杉山が「外交交渉がうまくいけば、準備した兵力は下げることになるのか」と問うと、東条は「そのとおりである」と答えた。これに対して、杉山が、@「外交妥結したとして、その実行(「対日物資の供給」など)を保障するものは」ないこと、A「一旦兵力を下げておいて更に再び兵を出すようなことになる虞れは十分にある」こと、B故に「対米国交調整を断念し、開戦の決意」をし、「それがため本格的戦争準備を十二月初頭を目途として完整する」べしと主張した。

 すると、東条は、@海相、蔵相、企画院総裁はこの路線に賛成であり、A結局「最後の決は陛下の御心によってきまる」が、「今のところでは開戦を決意することはお聞き届けにならぬ」とし、Bだが、統帥部に天皇を説得できる自信があるならば、「止めはしない」とした。東条は、天皇の和平意思に沿って、外交交渉の並行を主張したのである。杉山は、@即時開戦を天皇に「お願いすることの容易でないことはよく承知している」とし、A「万やむを得ない場合の案として第三案(「作戦準備・外交交渉の並行」案)を考えることも仕方ない」とし、B「問題は今後の対米交渉において更にわが条件を緩和することがないということ」だとした。東条は、最後の点で、「国民も承服しないだろうし、軍関係からみても不可能であろう」(「杉山メモ」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、560−2頁])と同調した。

 臥薪嘗胆案の検討 同日午前9時から16時間、以下の如く、国策をめぐる「最後の連絡会議」が開催された。東条が3案を提出すると、軍令部総長は、「外交交渉のみにより日米関係を調整する案」を提案し、蔵相は「北樺太の油田を買収して自存を全うする案」を提起した。この両案は「いずれも第一案(臥薪嘗胆案)に包含される」ものであり、これでは「日本の主張を限度以上に譲歩しなければならず」、「最も不利な臥薪嘗胆」案であった(「杉山メモ」「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、562−3頁])。

 そこで、第一案臥薪嘗胆を「日本が限度以上に譲歩して、日米関係を調整した場合の臥薪嘗胆」案と「外交交渉不調のまま現状で臥薪嘗胆する場合」の案にわけて検討に着手し、前者は「断じて採用すべきものではない」と即決された。後者に関しては、軍令部総長は「和戦の機は米国の掌中に握られ、日本の国防は非常に危険になる」、「対米戦争の戦機は正に今日にあ」り「この機を逸したならば開戦の機は米国の手に委ねられ、再び我に返らない」から、「最も下策」と批判した。しかし、軍令部は、「開戦の機は米国の手に委ねられ、再び我に返らない」という国防危機に陥っても徹底臥薪嘗胆論をとり続けた方が、開戦して敗北した場合の国家的損失よりははるかに良い事を真剣に考慮すべきであった。敗北が必至なのだとすれば、開戦などは絶対にするべきではなかったということだ。

 東郷外相は、日本が臥薪嘗胆に徹すれば「米国の軍備は進んでいるが、軍需生産はまだ拡充されていないので、米国から戦争を仕懸けてくることはない」し、また「欧州戦争後各国が連合して対日圧迫を加えて来ると考えるごときは、俗論で取るに足りない」から、「米国は直ちに日本を攻撃して来るものとは思われない」とした。だが、軍令部総長は、あくまでも、その時には「日本は手も足もでなくなる。戦わずして経済封鎖に屈する。その時はもはや戦う力はなくなるのだ」とした。

 これに対して、賀屋蔵相は、臥薪嘗胆しても二年後には対米戦で日本は「勝利の確算はない」のではないかと問うた。軍令部総長は、@「本来、軍令部としては日米戦争は極力避けたい」が、「今日となっては対米戦争もやむを得ないと覚悟せる次第であ」り、A「初期作戦には自信がある」が、「戦争は十中八、九は長期戦にな」り、「海軍勢力の保持増進、有形無形の国家総力、世界情勢の推移により決さられるもので予断を許さない」とした(「杉山メモ」「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、564−5頁])。しかし、図演では、「予断を許さない」ではなく、ジリ貧となって敗北するとなっていたのである。

 東郷外相は、独の英国屈伏には「疑問」があり、日本南方作戦への独協力は「大きな期待」は得られないし、「国民士気の問題、日米資源の差」などから、「長期戦の将来に幾多の疑問」があるとした。参謀総長は、南方作戦で援蒋ルート遮断され「抗戦」断念公算が大であり、対ソ作戦では「戦局上大きな考慮を要しない」とした。賀屋蔵相は、3年以後海軍が破れれば、「南方資源を確保することができなくなり、また支那は二年経過するも必ずしも息の根を断つことが困難」とした。しかし、軍令部総長は、三年以後負けるとはせず、あくまで「予断を許さない」とし、東条首相も「三年以降は不明ということに了解する」とした。軍令部総長は、戦争して勝つのは「今である。戦機はただ今日にある」として、臥薪嘗胆案を批判した。

 さらに、鈴木企画院総裁は、臥薪嘗胆の「国内生産の問題」として、@石油は枯渇し「人造石油でまかなう」ことは不可能であり、A「国内生産力は結局国内人心の緊張と挙国一致を前提」とするのに、「臥薪嘗胆案も単純な非戦論とみられ、一歩誤れば人心を弛緩させ、国論の分裂を招く危険がある」ことをあげ、「臥薪嘗胆案に伴う国防生産の拡大充実はなかなか容易ではない」(「杉山メモ」「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、565頁])とした。 こうして、臥薪嘗胆案は戦略的見地、国防経済的見地から批判されたが、敗戦被害の観点が考慮されることはなかった。

 外交交渉期限の調整 賀屋蔵相は、外交交渉がよいとした。しかし、参謀総長は、「過去の事実に照ら」せば外交交渉による調整は「ほとんど不可能」なので、前者案のように開戦決意がよいとした。参謀次長も外交交渉を断念して「国家興亡の分かれる」開戦を決意せよとした。しかし、東郷外相は、「二千六百年の歴史を有する日本の国運を賭する一大転機」だから、「なんとか最後の交渉をや」りたいとした。

 これに対して、参謀次長は、現在の重点は開戦決意と開戦期日を決定することであり、これを決めてから外交を実施するべしとした。軍令部次長は、海軍は、作戦発動期の11月20日までは外交を実施してもよいとした(「杉山メモ」「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、566頁])。参謀次長は、外交実施期限は11月13日だとした。

 統帥部が外交期日を限定する事に対して、東郷外相は、「成功の見込み」が外交に不可欠と反論した。参謀次長は、「作戦が外交によって妨害されては困る」のであり、外交から作戦に重点を「転換」する期日は11月13日だと主張した。東郷は11月13日では「あまりにひどい」と反論した。これに対して、参謀次長は、11月13日とは「作戦行動とみなされる活発な準備を開始する前日」だと強調した。

 首相、外相は、外交交渉期限を決めることに反対して、「外交と作戦とを並行してやるのであるから、外交が成功したら戦争発起を止めることを最後まで請け合ってくれねば困る」とした。だが、統帥部の両総長は、11月13日まで請合うが、以後は「統帥を危くする」ので責任を負えないとした(「杉山メモ」「田中新一中将戦後回想」[567頁])。この後、「外交打ち切りの日時」に関して統帥部と首相・外相・蔵相との間で激論となり、20分間の休憩に入った。この際、統帥部と首相・外相との話し合いで、外交交渉期限は11月30日にまで延ばされて、会議が再開された(567頁)。

 そこでも、東条は、「一日でも長く外交をやることはできないか」として、12月1日を外交期限とすることを提案した。参謀次長、海相は、あくまで11月30日夜12時までを譲ろうとはしなかった。結局、12月1日零時ということで決まった(「杉山メモ」「田中新一中将戦後回想」[567頁])。こうして、第二案を退け、和戦両様の第三案が、@「武力発動の時機を12月初頭として作戦準備を完整」し、A12月1日零時まで外交を続け、成功すれば武力発動を中止するとされた(「杉山メモ」「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、566−8頁])。

 東郷外相は、「作戦準備と外交とを並行」するにあたり、「成功の見込みのあるもの」として、@日米両国は仏印以外の東アジア・南太平洋地域に武力的進出を行なわない事、A日米両国は仏印での物資獲得を相互に協力する事、B米国は年百万トンの航空揮発油の対日供給を確約するという案を提案した。杉山参謀総長、塚田参謀次長は、「支那事変の処理を全く除外してあるので、たとえ交渉成立するも禍根を将来に残し」、かつ「米国から所要の油が入って来るか疑わしく、依然として日本は米国によって国防上の死命を制せられ、一時的には姑息な平和を得ても、やがては戦わなければならぬ」として、反対した。激論になり、再び、10分間の休憩となった。東条首相、武藤軍務局長は、陸軍統帥部に東郷提案に同意するよう説得した。そこで、陸軍統帥部は、Bは「資金凍結前の状態に復帰して石油の供給を確約する」と補訂し、C「日支間の和平成立を妨害しないよう米国側に要求する」を追加することで東郷案を受け入れた(「杉山メモ」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、568ー9頁])。

 これに対して、田中参謀本部第一部長は、@仮に米国がこれを受諾しても、和平は一時的であり、A「日本海軍の漸衰」と「欧州戦局の推移」を踏まえて、「対日高圧的態度」に出て、「結局は対米一戦か、あるいは支那事変放棄かに追い込まれる」と「深刻な責任感」にとらわれていた(「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、569頁])。

 臥薪嘗胆案の消去 最後に、臥薪嘗胆案・外交交渉案の二案の比較をして、臥薪嘗胆案の問題点(物資は「現代においては日清戦争後のようには成立しない」事、国民志気を沈滞させ「長年の臥薪嘗胆は不可能」な事、3年後には「和戦の機を米国に任せ、戦わずに屈する」事、「国際情勢の推移が我に有利になるかどうかは予断しえない」事、蒋政権が存続して「根本的な和平の公算は少ない」事)、「戦争決意のもとに作戦準備・外交交渉の並行」の問題点(南方物資取得で「自存を保全」しえる事、非常時局に直面し「挙国一致の態勢」を示すだろうが「戦争長期化」では「政府は特に精神作興の措置を必要」とする事、三年後の米国「優勢な主力海軍」との対決という危険があるが「南方要点」確保で「対応する策を講じ得る」事、独伊との連携を強化できるが「真に信頼し得るかどうかは常に警戒を必要とする」事、「封鎖の強化」で蒋政権を弱化させ「屈伏させ得る」事)を指摘した。

 いずれにするか「容易に決しなかった」が、「臥薪嘗胆案が成り立たないことに認識が一致」して、結局消去法で後者に決定した(「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、569ー570頁])。

 海軍は三年以降は戦争見通しは不明だとし、「一般に長期戦になっても大丈夫 戦争を引き受けるというものはな」く「誰もが戦争の前途に不安をもっていた」が、「現状維持の不可は明らかであ」り、「結局、やむにやまれず外交が決裂すれば戦争という結論に落ち着いた」のである。塚田参謀次長は、南方政策で資源を確保すれば、独伊の対英勝利公算、日本の支那屈伏やソ連屈伏の公算が大きくなり、「米国の国防資源にも打撃」をあたえ「英国が倒れれば米国も考えるだろう」(「杉山メモ」「田中新一中将戦後回想」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、572頁])とした。

 11月2日杉山総長は田中第一部長に、対米戦争は長期化し、対南方作戦は「長途且つ広範にわたって分散の状態」になるとして、この「分散諸部隊に対する補給」が必要とするが((田中新一少将業務日誌」[573頁]))、敵潜水艦・飛行機の妨害に対する具体策をもっていないのである。陸軍統帥部は戦機は今しかないとして開戦を決意したが、敵国国力にさらされる南方政策の核心的持久策が全く不明だったのである。この会議では、日米戦争に負けた場合の悲惨的状態を踏まえて、日米戦争に勝てるか否か、勝てる作戦とは何か、アジア諸国と真に連帯して欧米帝国主義に対決し勝利する方法があるのか、に焦点を絞って議論すべきであった。

 しかし、11月1日、大本営、政府の連絡会議で、「帝国国策遂行要領」が決定し、「危局」打開し、「自存自衛を完うし大東亜の新秩序」を建設するため「対米英蘭戦争を決意」し、開戦時機は12月初旬、対米交渉方針(従来案の緩和案か或いは東郷案で臨むとし、統一方針はない)、独伊提携強化、日泰提携強化などを打ち出した(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、570頁)。

 聨合艦隊としては、11月1日に、日米開戦の戦備成り、開戦時期を「月齢曜日の関係よき12月8日を可」とした。そして、「少々遅れてもやれぬと云ふ事無し。来年6月以降となるが如きは、最も不利とする処となり、との結論に達」(宇垣『戦藻録』10頁)した。11月2日夕方、福留軍令部一部長は聨合艦隊参謀長宇垣に、「陸海軍中央協定を、本月8日乃至10日東京にて実施するに交渉し、差支へ無きやの急電」を発した。宇垣は、「差支無き旨即刻回答」し、「之にて、愈々、腹の定まった事を想察し得」(宇垣『戦藻録』11頁)るとした。11月初旬には、「新聞紙上対米強硬論、極めて強」くなってきた。11月4日、宇垣は、「今や丁度宣伝の時機なり。少し鐘を鳴らし、太鼓をたたき、輿論を昂揚し、国民の覚悟を高むると共に、米の反省を確むべし。而して、愈々行かざれば、夫れからウンと調子を下げて、我屈服するやに見せよ。此の一月が間の政略両略こそ、極めて重要なるものはなし」(宇垣『戦藻録』11頁)とした。

 日米交渉決裂 11月17日、貴族院で、東条首相、及東郷外相の施政演説あり、「各々正しく我決意を直截的に述べ」た。宇垣は、「米、之にて反省せざれば、余程鈍感なるか、豎子(未熟者、日本)何の事ぞあらん、と見たる結果なるべし。蓋し、本演説は、目下の対米交渉に相当の影響を齎すべしと信ず」(『戦藻録』17頁)とした。しかし、日米交渉において、「彼(米)は仲々強硬」であった。

 一方、米国では、11月17日以降から来栖大使が日米会談に参加した。来栖はルーズベルト大統領に、「形勢の急迫にかんがみ交渉を急速に妥結させることの必要」を説き、「日米衝突が何人の利益にもならない」とし、「日本の平和的意図を強調し、駐兵問題についても日本の立場」を説明した。大統領は、「米国としては中国問題に対して干渉も斡旋もする意志はなく、単に紹介者になろうと欲しているだけである」と述べた。

 11月18日、ハル国務長官は、米国平和政策は「ヒトラー主義の脅威」とは両立し難いとし、「日本が独逸と提携している限り、日米関係の調整は至難であるから、まずこの根本的な困難を除去するのでなければ、日米間の話合いを進行させることは不可能である」とした。ここで、日本政府は野村大使に、甲案(従来案の修正案)妥結を断念し、乙案(東郷外相作成の大幅譲歩案)提示を訓令し、「これで米側の応諾を得ない限り交渉が決裂するも致し方ない」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、659−660頁)とした。これは、米国側が譲歩する余地ある日本の最後通牒である。

 11月20日、野村・来栖大使はハル国務長官に乙案を提示し、「現下の緊迫した情勢を緩和し幾分なりとも友好的な空気を回復するため提案する」とした。ハルは、三国同盟破棄しない状態では、援蒋中止は援英中止と同じだと、「大いに不満」を示した。それでも、ハル国務長官は、「大統領や軍首脳部と相談し、且つ英濠蘭支とも協議して三ヵ月間の暫定協定案(@相互に平和宣言する、A武力進出の放棄、B日本軍は南部仏印から北部仏印に撤退、C日米通商再開、D「平和と法規と秩序と正義の原則」で日本は蒋介石と交渉)を立案」した。いったんは米国も日本に妥協しようとしたのである。しかし、中国側はこれに猛反対し、チャーチル首相も中国を支持して、この米国の暫定協定案は日の目を見ることはなかった(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、660頁)。しかし、仮に日米間に暫定的「和平」案が成立したとしても、それはあくまで暫定的なものであり、依然として日米戦争の火種を残すものであった。

 日本では、11月20日、宇垣は、米国は「結局は我国力を下算し、我決意の程を知らざるに依る。解らなければ、ガンと行くより外に手はあり得ない」(『戦藻録』18頁)とした。譲歩を否定する海軍中将宇垣の強硬論は、陸軍の強硬論に近いものであった。

 しかも、11月26日朝、スチムソン陸軍長官がルーズベルト大統領に電話し、「日本軍隊の大船団が台湾の南方を南下中との情報を伝え」、大統領は激しく怒った。ルーズベルトは、「日本が全面的休戦ー中国からの全面的撤退ーを交渉しながら、インドシナにむけて遠征軍を送っているというのは、これは日本側の背信の証拠だ」(鳥巣建之助『太平洋戦争終戦の研究』文藝春秋、1993年、24頁)と判断し、ここにルーズベルトの対日開戦方針が固まった。この直後、大統領命令で、ハル長官は日米交渉を打ち切り、野村・来栖大使に所謂「ハル・ノート」を手交した。ここには、四原則の無条件承認、仏印及び支那からの全面撤兵、国民政府及び満州国の否認、三国同盟の死文化など、到底日本には受諾できなかった。これは、日本側が譲歩の余地ない米国の最後通牒であった。

 天皇の最後の躊躇 11月26日、天皇は木戸内大臣に、「日米会談につき御話あり。見透としては遺憾ながら最悪なる場面に逢着するにあらずやと恐れらるるところ、愈々最後の決意をなすに就ては尚一度広く重臣を会して意見を徴しては如何かと思ふ。就ては右の気持を東条に話て見たいと思ふが、どうであろうか」と下問した。木戸は天皇に、「今度御決意被遊は真に後へは引かれぬ最後の御決定でありますので、御不審の点其の他こうもして見よう、ああもして見ようと云ふ様な御気持がある様であれば、御遠慮なく仰せ頂き、御上としても後に省りて悔のない丈の御処置が願はしいと存じます。其の意味で御遠慮なく首相に御申付相成りまして宜しいと存じます」(『木戸幸一日記』下巻、925頁)と答えた。

 しかし、周知の通り、11月27日に米国最後通牒ともいうべきハル・ノートが届くいた。ハル・ノートは、日本の「顔」を「丸潰れ」にするものであり、軍部は「最早や致方はない、やる丈けだ」(16年11月28日の項[宇垣『戦藻録』21頁])と、最後の決意を固めた。和平の途を追求していた外交当局も、ここに和平努力を断念した。同日午後、連絡会議でこれを審議し、一同は「米国案の苛酷な内容に・・唖然」とし、「宣戦に関する事務手続順序に付て」「戦争遂行に伴ふ国論指導要綱」が決定された(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、662頁)。翌28日の閣議で、東郷外相は、「半年以上に亙る交渉経緯をすべて無視した、傍若無人の提案を為した」と非難した。東条、東郷はハル・ノートを上奏した。これで「形勢逆転」したが、午後原枢相が木戸内大臣を訪ねると、木戸は「対米問題につき懇談、尚、重臣の会合についても話」(『木戸幸一日記』下巻、926頁)した。

 11月29日午前9時半から午後1時まで、宮中で東条首相・主要閣僚と重臣(若槻礼次郎、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、林銑十郎、阿部信行、岡田啓介、米内光政)が「対米交渉を中心とする時局問題」について懇談した。政府側は、もはや「外交交渉の継続は此上見込なし」と説明した。岡田は、政府側の説明役の企画院総裁鈴木貞一は「うそばかり言う」と批判し、「もし戦争をはじめるとして一ヶ月の間にどれくらいの船舶の損耗があるかということなんか、十分の一くらいに割り引きしていう。ちゃんと資料を見ているわたしには、東条も相当に掛け値してものを言っているんだな、とわかっていた」のであった。重臣たちに問い詰められ、「政府も苦しい答弁をし、ずいぶん時間がかかった」が、「とにかく物資の補給能力の点で、アメリカと戦争などやれるものでないことは、はっきりし」(岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』中央公論社、昭和62年、212頁)たのであった。

 午後1時から天皇と陪食して、二時から学問所で天皇は「大変難しい時代になったね」と言って、重臣の意見を聴取し始めた。第25・28代首相若槻礼次郎は、「我国民は精神力に於ては心配なきも、物質の方面に於て果して長期戦に堪へ得るや否や、慎重に研究するの要あり。午前中政府の説明ありたるが、之を心配す」と、口を切った。

 第31代首相岡田啓介も、「物資の補給能力につき充分成算ありや甚だ心配なり。先刻来政府の説明ありたるも、未だ納得するに至らず」と、物資補給力、つまり国力に疑問を呈した。岡田の戦争論とは、「戦争というものは、日本がこのままでは国として立ってゆけないというときに、勝てるというはっきりした計算があって、はじめて起こすならともかく、見通しもあやふやなのに、ことさら軍備のある国を刺激するのはあぶないことだ」(岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』、209頁)というものであった。彼は、「もともと、日本には英米を相手に戦争するような国力のないことはわかっている。生産力だっておよびもつかないんだ。・・戦争は・・やってみたら先はなんとか道がひらけるだろうくらいの気持ではじめるべきではない。とことんまで考えて、勝てる見込みがつかぬ限り、避けなければならんことで、無理な戦争をしちゃいかん。」(同上書217頁)と考えていた。だから、岡田は、天皇の前でもっと強く戦争反対論を展開すべきであった。

 第37代首相米内光政は、「ヂリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に充分の御注意を願いたい」と、ヂリ貧回避の観点から開戦論を牽制した。第34・38・39代首相近衛文麿は、「外交交渉決裂するも直に戦争を訴ふるを要するや、此の儘の状態、即ち臥薪嘗胆の状態にて推移する中、又打開の途を見出す」と、既に消去されていた臥薪嘗胆を改めて主張した。第32代首相広田弘毅も、「今回危機に直面して直に戦争に突入するは如何なものや」と疑問を呈し、「仮りに不得止とするも、仮令打ち合ひたる後と雖も、常に細心の注意を以て機会を捉へて外交交渉にて解決の途をとるべき」と、あくまで外交交渉による打開を説いた。

 これに対して、陸軍出身の重臣は、開戦やむなしとした。第33代首相林詮十郎は、「大体政府が大本営と充分協力研究せられたる結論に信頼する外なし」とし、第36代首相阿部信行は、「政府の説明によれば外交交渉の継続は困難なるべく、今や真に重大なる関頭に立てるもの」とした。第35代首相平沼騏一郎は、既に4年の日支事変に従事している上に「更に長期の戦となれば困苦欠乏に堪へなけらばな」らぬとし、民心引締めを提唱した。

 こうした主戦論を受けて、若槻も「帝国の自存自衛の必要とあれば仮令敗戦を予見し得る場合と雖も国を焦土となしても立たなければなりません」と言い出した。さらに、「大東亜共栄圏の確立とか東亜の安定勢力」とかのように「理想を描いて国策を御進め」ることは、国力消耗させるので「危険」とした(『木戸幸一日記』下巻、926−7頁)。彼の場合、大東亜共栄圏を資源収奪による日本国力の補充とは見ずに、文字通りの理想論とみていたようだ。

 11月30日午後1時半、天皇は、海軍中佐高松宮、陸軍大尉三笠宮から「対米施策」などへの意見を聴した。高松宮は海軍軍人らしく消極的意見を述べたようだ。天皇は木戸内大臣に、「どうも海軍は手一杯で、出来るなれば日米の戦争は避けたい様な気持だが、一体どうなのだろうね」と尋ねてきた。木戸は、日米開戦決断は「一度聖断被遊るれば後へは引けぬ重大なもの」なので、「少しでも御不安があれば充分念には念を入れて御納得の行く様に被遊ねばいけない」(『木戸幸一日記』下巻、928頁)として、海相・軍令部総長を呼んで下問すべきとした。

 そこで、午後3時半、天皇は「対米戦争に主役を演ずる海軍作戦の見通しを更に確かめたい」として、永野軍令部総長、島田海相を召して「開戦に際しての海軍の所信」を質した(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書ハワイ作戦』302頁)。天皇が「いよいよ矢を放つことになるね。矢を放つとなれば長期戦になると思うが、予定どおりやれるか」と下問すると、永野総長は「大命一旦降下すれば予定どおり進撃いたします。わが機動部隊は単冠湾を出撃し、真珠湾の西方1800浬に迫っております」と答えた。島田海相は「人も物もすべて準備はできております。大命降下をお待ちしております。・・今度の戦争は石にかじりついても勝たねばならぬと考えております」と返答した。いずれも、天皇の長期戦への懸念に答える解答をせずに、目前の作戦進行と精神論ではぐらかした。無責任極まりない対応であった。続けて、天皇が「ドイツが戦争をやめるとどうなるか」と、ドイツ依存の開戦をつくと、島田海相は、「聖断を明日に控えて、陛下に御心配をかけてはまことに恐懼に堪えない」と判断して、「ドイツをあまり頼りにしておりません。ドイツが手を引いてもどうにかやってゆけると思います」(『戦史叢書ハワイ作戦』302頁)と答えた。天皇はこれを信じて、木戸内大臣に「予定の通り進むる様」に東条首相に伝えるように下命した(『木戸幸一日記』下巻、928頁)。

 開戦決定の御前会議 12月1日午後2時、御前会議が開催された。

 まず、東条首相が、@米国の対日条件(支那からの無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の死文化)は「帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず 遂には帝国の存立をも危殆に陥らし」め、外交交渉は決裂したこと、A米英蘭支の「経済的軍事的圧迫」の強化で日本国力は弱体化され「作戦上の要求は之以上時日の遷延を許」さないことから、「現下の危局を打開し 自存自衛を全うする為 米英蘭に対し 開戦の已むなきに」(「御前会議議事録」[665頁])至ったとした。支那事変以後4年も経過し、今また大戦争に突入することは天皇に恐懼の次第だが、支那事変前より戦力が向上し、「将兵の士気愈々旺盛」なので、ここで国内結束すれば「国難突破」を期すとした。

 東郷外相は、ハルノートを受諾すれば、「帝国の国際的地位は満州以前よりも更に低下し 我か存立も亦危殆に陥」るとした。永野軍令部総長は、陸海軍を代表して、「今や肇国以来の国難に際会致しまして陸海軍作戦部隊の全将兵は士気極めて旺盛でありまして、一死奉公の念に燃え大命一下 勇躍大任に赴かんとしつつあり」「此の点 特に御安心を願ひ度く存じます」と発言した。原嘉道枢密院議長も、@もし「頑迷無礼」な米国に譲歩し続ければ、「日清、日露の成果」、「満州事変の成果」を放棄し、「明治天皇御事蹟をも全く失ふ」ことになるから、開戦は止むを得ず、A緒戦では勝利するが、長期戦では「国内人心の安定」が不可欠であるとした。

 天皇は前日に海軍から精神論的な勝利見通しの説明をうけていたこともあり、「説明に対し一々うなずかれ」(「御前会議議事録」[『戦史叢書 大本営陸軍部』2、667−8頁])た。こうして、御前会議で、東郷外相、賀屋蔵相を含めて全員が11月1日連絡会議で行なった決定通りに、外交交渉の成り行きで、根源的な対米戦争の勝利戦略なしに、対米開戦を最終決定した(『木戸幸一日記』下巻、931頁)。

 日米開戦 この御前会議決定を受け、直ちに、参謀総長、軍令部総長は「作戦実施に関する大命」を上奏し、裁可された。12月2日、両総長は開戦日を12月8日と上奏し、裁可された。一方、ハワイ奇襲の海軍機動部隊は、「11月26日単冠湾を進発し、12月1日夕には180度線を越えて東進中で、8日払暁空襲開始の予定計画に基づいて一意ハワイに向かい航行中」(『戦史叢書 大本営陸軍部』2、671頁)であった。

 開戦を翌日に控えた12月7日、聨合艦隊参謀長宇垣纏は、この日、次の諸点で「開戦迄の経過手段」は「満点に近し」とする。つまり、宇垣は、@「一昨年以来鋭意戦備に努め、概ね完成したる事」、A対ソ・対支で「手を焼く」陸軍を「南進に一時的にも目覚め」させ、「海軍側が之を利用して対仏印対泰工作を進め」た事を指摘した(『戦藻録』31−2頁)。@は、対米奇襲戦備を「整備」しただけであり、持続的戦備の維持・補給に大問題あることを無視し、Aの指摘は、日米戦争が海主陸従でなされたことを自ら語ったものと言える。



                                    四 海軍作戦の「杜撰」さ 
 海軍作戦の杜撰さに関して、福井雄三氏は、@山本五十六は、「海軍が長年にわたりその頭脳を総力結集して練り上げた、伝統的な漸減邀撃作戦を無視し、自分の辞任をちらつかせながら横車を押し通し、軍令部の反対をおしきってハワイ作戦を強行」(『日米開戦の悲劇ージョセフ・グルーと軍国日本』PHP、2012年、88頁)し、A「ハワイ作戦では、空母は無傷、轟沈戦艦は浅瀬で早期修復可能、石油タンクは無傷、破壊戦闘機180機にとどまり、「前代未聞の大兵力を動員していながら、敵の上っ面をさっとひとなでしただけで引き上げ」、「日本にとって大失敗」(同上書、145頁。中川八洋『山本五十六の大罪』弓立社、2008年、73頁も参照)であり、B「その六ヶ月後にはミッドウェー作戦を強行して前代未聞の大敗北を喫し、日本の敗戦を一気に決定づけてしま」(同上書、88頁)い、C総じて「日本海軍上層部のずさんで無責任な作戦」(同上書、180頁)が続いたと指摘している。

 こうした日本海軍の作戦の「杜撰さ」の根源は、前述の通り、日米国力差を踏まえ根源たる米国本土生産力の破壊・減退を目指して、しっかり「腰を据え」た「勝てる戦争」作戦をはじめから放棄したことにあり、故に諸作戦が「勝てる戦争」作戦を放棄し根底において「腰の抜けた」杜撰作戦以外の何物でもなかったということである。

                                            @ 漸減邀撃作戦

 @の漸減邀撃作戦とは、前述の通り日露戦後以来の伝統的作戦であり、「戦略的には開戦と同時に比島攻略作戦を実施し、その極東に於ける根拠地を覆滅して反攻の基地を奪う」漸減作戦と、「艦隊としては、比島の救援もしくは回復に出撃して来る米国艦隊を北太平洋北西部に迎え」る邀撃作戦からなり、これで「一挙に雌雄を決するのを根本思想とし、米国艦隊渡洋進撃の途上潜水艦による追躡(ついじょう)攻撃を実施して、彼我の勢力比を我に有利に転換するのを一つの狙いとしたもの」(軍令部参謀内田成志「海軍作戦計画の全貌」『人物往来』昭和31年2月[平塚征緒編『目撃者が語る 太平洋戦争T』新人物往来社、1989年81頁])であった。しかし、前述の通り、邀撃作戦とは、もはやありえない従来通りの艦隊決戦を踏襲していて、始めから新型兵器たる航空機による米本土攻撃を断念し、国力差拡大を阻止する作戦を放棄し、座して巨大米軍の攻撃に晒されるという「腰の抜け」た「敗北」戦略だといえよう。それは「不敗」戦略ではなく、「必敗」戦略だということである。

 中には、「日本海軍は西部太平洋に敵を邀える守勢の態勢ではあるが、一度西部太平洋に敵を邀えては敢然として攻勢に出て敵を粉砕する積極作戦に転ずる」(軍令部第一部長・海軍中将福岡繁「開戦前夜の海軍作戦室」[『別冊知性』昭和31年8月<平塚征緒編『目撃者が語る 太平洋戦争T』新人物往来社、1989年、68頁>])という「攻勢防禦作戦」であったというものも居るが、あくまで敵本土攻撃は視野にない何とも頼りなき「攻勢」である。


                                           A 真珠湾奇襲作戦批判 
 
 ハワイ作戦計画起案 16年1月中旬、黒島亀人首席参謀は佐々木彰連合艦隊航空参謀に3案(@敵警戒が厳重な場合、「350浬ぐらいから、艦爆をもって敵航空母艦だけを攻撃」、A200浬まで突入し「全飛行機をもって攻撃する」、B「艦爆だけの片道攻撃を行ない潜水艦で搭乗員を収容する」)研究を命じた(『戦史叢書ハワイ作戦』92−3頁)。このAは第十一航空艦隊(基地航空部隊)参謀長の大西瀧治郎の考えであり、佐々木参謀はA案を見せられる。

 既に大西はハワイ空襲作戦に関与していたようだ。16年1月下旬には、山本長官はこの大西に、真珠湾奇襲作戦「腹案」(片道攻撃=一回だけの攻撃)を書き送って「作戦計画基礎案」立案を命じた(『戦史叢書ハワイ作戦』90頁)。山本にとって、大西は、「航空作戦に通暁」し、「作戦思想が自分にいちばん近」い人物であったのである。二人は、真珠湾奇襲の具体案について極秘会談をもった。その際、大西は「いくつかの難点をあげて、その成功に疑問を持ち、研究ののち、これを答申する旨を答え」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』108−9頁)た。

 16年2月初旬、大西は第一航空戦隊参謀源田実中佐を鹿屋航空基地に招いて山本書簡を示して(源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫、1998年、14頁)、「ハワイ奇襲作戦計画の基礎研究」を依頼した。源田は、@「戦果を徹底確実にするために片道攻撃によらず 往復反復攻撃と」し、A「まだ水中爆撃は命中率が不十分で、浅深度雷撃も早急には解決を望み得ない」ので、「艦爆による急降下爆撃を用い主目標を空母、副目標を戦艦」とし、B父島か厚岸を出発基地とし、C全空母は200哩までハワイに近づいて攻撃隊を発艦させるという案をたてた(『戦史叢書ハワイ作戦』91−2頁、源田実『真珠湾作戦回顧録』19−20頁)。

 16年4月上旬、大西はこの源田案を踏まえて、@「戦艦に対しては艦攻をもって水平爆撃によ」り、A出発基地を単冠湾とし、山本に提出した。これを見た山本は、水深関係で雷撃ができないなら、「空襲作戦は断念するよりほかはあるまい」とした。しかし、12m以下の浅沈度雷撃も不可能ではないと判断され、「戦艦に対し水平爆撃のほか雷撃をも併用する案」に改正した(『戦史叢書ハワイ作戦』92頁、秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』111頁も参照)。

 16年4月大西参謀長は山本長官指示で軍令部に出頭し、軍令部第一部長福留繁少将にハワイ作戦案(公式文書ではなく、私案)を提出した(『戦史叢書ハワイ作戦』93頁)。福留は第一部長の金庫に保管し、これを読んだ草鹿龍之介第一航空艦隊参謀長は、中身は「単に構想程度のもの」としている。

 後に、こうして山本長官が真珠湾作戦案起案を命じた参謀長大西瀧治郎は、「日米間では武力で米国を屈服させることができないから早期戦争終末を考え、長期戦想となることはできるだけ避けるようにする必要がある。そのためにも真珠湾攻撃のような米国を強く刺戟する作戦は避けるべきである」(吉岡忠一第一航空隊参謀の戦後回想[1戦史叢書ハワイ作戦』09頁])と、ハワイ奇襲作戦に批判的になった。

 邀撃作戦・南方作戦とハワイ作戦の連関 当時の軍令部は、第一段作戦(「東洋にある敵兵力を撃滅し、その根拠を覆滅し、南方資源要域を攻略して、不敗の態勢を概成」する作戦)に引き続き、「西太平洋の守勢を強化しながら、米艦隊主力に対する作戦を進め、これを撃滅して長期不敗の態勢を確立」する作戦を第二段作戦とし、「終局において敵の戦意を喪失させ、戦争の終末を図る作戦」を第三段作戦にするとしており(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』朝雲新聞社、昭和46年、1頁)、ハワイ奇襲作戦を主作戦とはみていなかった。

 「独ソ開戦の直前、聨合艦隊から佐々木参謀、第一航空艦隊から大石保首席参謀、源田航空参謀が軍令部に出頭し、神、佐藤、三代部員などと会談し、ハワイ奇襲作戦の採用を強く要望」した。神重徳部員は「軍令部第一部として同作戦について検討する」と言明したが、16年6月下旬、聨合艦隊参謀黒島が軍令部に出頭して、「年度作戦計画」を見ると、「従来の邀撃作戦構想」であり、ハワイ奇襲作戦は欠如していた(『戦史叢書ハワイ作戦』96頁)。軍令部は艦隊決戦を主軸とする邀撃作戦を主作戦としており、ハワイ作戦を主作戦とは見ようとしなかったのである。

 8月7日、聨合艦隊参謀黒島亀人、有馬高泰が軍令部を訪ね、「作戦計画について連絡」をした。彼らは軍令部に「対米英蘭作戦計画案」の内示を求めると、「依然ハワイ奇襲作戦が織り込まれていなかった」ので、「その採用を強硬に申し入れた」が、軍令部はこれを拒んだ。その結果、黒島参謀は富岡軍令部一課長と大激論することになった(『戦史叢書ハワイ作戦』97頁)。

 軍令部第一課の反対理由は、@「大兵力を使用し」、「二週間に近い航海日数を要」し、「本作戦成否の鍵となる企図秘匿については相当の困難が予想され」、敵が気づかなくても「厳重な飛行哨戒」が行なわれ「敵に発見され反撃を受け」かねず、「虎の子の兵力を失うかあるいは緒戦の重大時機に重要な兵力を無為の遊ばせ」かねず、「本作戦ははなはだ投機的なもの」であり、A洋上の燃料補給が困難であり、空襲時に敵艦隊が港内にいない可能性もあり、天候不良で空襲困難な場合も想定され、「ハワイ作戦は実行上不安の点が多く、成功の確算がたてられない」のであり、B港内水深は浅く雷撃は困難であり、水中爆撃は命中率が低く、急降下爆撃の打撃度は不十分であり、「空中攻撃の効果も充分に期待できるとはいえない」し、C南方作戦に航空母艦が必要なので、「ハワイ作戦のために母艦兵力を割く余裕はな」く、強行すれば「南方作戦を躓かせる虞」があり、Dさらに、「国交の緊張した開戦前に機動部隊を進出させるためその間にこれが発見された場合には日米交渉に決定的な影響をあたえる」可能性もあり、E真珠湾攻撃をしないと敵艦隊が日本に押し寄せるが、「一気に押し寄せるよりマーシャル諸島攻略に来る公算が大き」く、その結果「マーシャル諸島を攻略されても敵が更に準備して西進する時機の予想が容易となり、わが方が態勢を整えて邀撃するのにはかえって容易となり大局上不利はない」(『戦史叢書ハワイ作戦』98頁)とした。あくまで、軍令部は、邀撃作戦、南方作戦を主軸作戦とし、ハワイ作戦はこれを支える支作戦としたのである。

 この「外に出て敵と戦わずして内を固め、攻めてくれば邀撃する」という邀撃作戦は、奥羽越列藩同盟の戦略(会津・仙台・二本松は白河以北に薩長軍を入れず、米沢は庄内方面の薩長軍を排除し、長岡・米沢・庄内が北越方面の薩長に対応し、薩長軍の排除後に関東方面に出て、江戸城を制圧する)と非常によく似ている。政府軍、米軍が強大な軍事力で攻め込んでくれば、ジリ貧となってひとたまりもないことは一目瞭然なのに、奥羽越列藩同盟,、日本帝国政府はそれに気づいていないのである。

 この軍令部邀撃作戦に対して、黒島参謀は、聨合艦隊の意向を踏まえて、@「企図秘匿はきわめた大切であ」り、「万全を期する必要がある」が、「それぞれ方策があろうからそれほど心配せずともよ」いこと(仮に秘匿できずとも、敵に対応の暇与えず、兵力・技量で敵に優勢なる航空兵力で攻撃し圧伏すると答えるべきであった)、A本作戦には「予測し得ない要素」があり、「投機的」「冒険的」作戦であることは認めるが、「戦争に冒険は付きもので冒険を恐れては戦争はできあない」(これは、敵国との総力格差を縮減するための根源に対する作戦であり、「投機的」「冒険的」側面を余儀なくされても作戦の根源的的確さに裏付けられており、かつ熟練した航空パイロットによって勝勢を方向付けられた戦争でもあると答えるべきであった)、B「南方作戦だけを考えずに対米作戦全体として考える必要」があり、南方作戦では、「母艦がなくとも基地航空兵力と陸軍航空兵力とでもやれ」るのであり、仮に聨合艦隊を南方に振り向けたとしても、「南洋の中枢航空基地」トラックには「わずかに陸攻27機程度しか収容でき」ないから、「大部隊の急速マーシャル転進などはとても望み得ない」こと、C「南方作戦を成功させる前提としても米艦隊主力を空襲しておく必要がある」こと、南方作戦中に米艦隊が来攻した場合、「南方作戦を一時中止してこれを邀撃するといっても間に合わぬことが多い」こと、もし敵艦隊がマーシャル諸島を占拠し「多数の飛行艇を配備」された場合、日本の「奪回は困難」で「南洋諸島は次々に奪われてしまう」こと、この苦境を避けるためにも、航空母艦部隊で米艦隊をたたく必要があるとした(『戦史叢書ハワイ作戦』98−9頁)。聨合艦隊は、南方作戦成功のためにもハワイ作戦は必要だとしたのである。

 両者は結論に達せず、「結局互いに相手の主張を十分に考慮して作戦計画を練り直すこととし、9月中旬実施予定の聨合艦隊図上演習において更に詳細に研究のうえ改めて検討することになった」(『戦史叢書ハワイ作戦』99頁)のである。第一段作戦がこういう状況であるから、次の第二段作戦はどういうものになるかなどには具体的に言及することはなかった。第一段作戦が終了してから、第二段作戦を考えるというにとどまっていた。

 米海軍の「レインボー五号」作戦 日本が「蘭印(インドネシア)の石油地帯の占領」したことに対して米国海軍は「レインボー五号」作戦を起案した。この計画は、「開戦初期においてはフィリピンその他西太平洋の主要基地は、一応日本の手に渡す。その後準備をととのえてから、日本の基地を占領しながら西進し、六ヶ月ないし九ヶ月後に、フィリピンその他を奪回する。その間、南洋諸島およびフィリピン近海で日本艦隊との決戦を予想する、というもの」(43頁)である。米海軍は、日本海軍の邀撃作戦の対応作戦を立てていたのである。

 このように、日米海軍の戦略は、「陰陽相合致するもので、双方ともに、真珠湾は攻撃の対象外におかれて」おり、「もし山本長官が『レインボー五号』計画を察知していたら、あるいは真珠湾空襲は考えなかったかもしれないが、いずれにせよ、このように日米海軍首脳が類似した構想を抱いていた」のである。米海軍作戦当局者は、「その戦略が戦理にかなったものと信ずるが故に、当然、日本の提督たちも同様の論理に従うものと予想した」のである。ポッターは、これを「国運を左右する戦略といえども、やはり一種の常識的判断が支配し、なかなか新しいアイデアは生まれ難いという証例」としている。

 すると、常識では日米国力差でとうてい勝てない戦争にかつために、「ただ一人、山本長官は“非論理”的な見方をした」(ポッター『山本五十六の生涯』43頁)ことになる。

 軍令部のハワイ奇襲作戦採択 9月24日軍令部(福留第一部長、富岡第一課長、第一課員全員)と聨合艦隊(宇垣参謀長、黒島・佐々木参謀)、第一航空艦隊(参謀長草鹿・大石・源田参謀)が会合して、ハワイ作戦を検討した(『戦史叢書ハワイ作戦』105頁)。

 軍令部では、南方作戦を主軸とし、ハワイ作戦を批判した。例えば、神重徳軍令部第一課首席部員は、@常時哨戒は困難だから「奇襲成功の算は相当」あるが、A留意事項は、「補給の困難」、「失敗の場合の全作戦に及ぼす影響」、雷撃困難なこととした(『戦史叢書ハワイ作戦』106頁)。福留部長は、@「巧妙な奇襲は望みがたい」、A南方地域は「早く手に入れる」ことが必要であり、B「政略的には米艦隊はハワイにおる」が、「作戦準備としてその時機に本国に帰る公算も大きい」(『戦史叢書ハワイ作戦』107頁)とした。

 第一航空艦隊も「消極的、むしろ反対」(『戦史叢書ハワイ作戦』107頁)であった。参謀長草鹿は、11月20日開戦では「搭乗員訓練の余裕がない」とした。草鹿は、「米艦隊の渡洋作戦も補給が大問題でそう簡単には実行できない」から、「南方資源地域を確保」するため「全航空兵力を比島とマレー方面に注ぐ必要」(『戦史叢書ハワイ作戦』108頁)があるとした。草鹿は「機動部隊(第一艦隊)は全力をあげて、まずフィリピン作戦を開始、基地航空部隊である第十一航空艦隊や第二十四航空戦隊などは、みなマレー方面の作戦に当てて、シンガポール、ボルネオ、ジャワを占領し、それからここでふんどしを締め直して、第二段作戦である西太平洋上での対米決戦に入る」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』113ー4頁)と構想していたのである。そして、彼は、「真珠湾攻撃は敵のふところに飛び込むようなもので、国家の興廃をかける大戦争の第一戦に、かかる投機的危険を冒す作戦は採るべきでない」(『戦史叢書ハワイ作戦』109頁)としていた。

 大石参謀は、@「敵機の哨戒が300浬ならば航路選定は楽」だが、「400浬以上」ならば「苦しくなる」、A風速11m以上になると、洋上燃料補給は困難になるとした。ただし、源田は、@「敵艦隊ラハイナ泊地にある場合」には「雷撃で戦艦8隻」、最低でも4−6隻撃破、A「敵艦隊真珠湾在泊の場合」には、爆撃機81機で飛行場制圧、爆撃機54機で空母3隻撃沈、B「攻撃機全部に水平爆撃」をやらせれば、戦闘機5隻か、戦闘機2−3隻・空母3隻撃沈、C第一・第二航空戦隊は「攻撃には自信」(『戦史叢書ハワイ作戦』106頁)あるとした。

 そもそも第一航空艦隊司令長官南雲が反対であった。南雲は、「企図秘匿、燃料補給などの見地から実行上成算少なしと判断」して、真珠湾奇襲には反対していたのである(『戦史叢書ハワイ作戦』108頁)。機動部隊指揮官候補には小沢治三郎もいたが、昭和16年4月海軍大臣吉田善吾と連合艦隊司令長官山本五十六は年功序列でこの南雲を第一航空艦隊司令長官に任命していた。

 投機性というならば、敵米国との国力差の根源の破壊をめざさず、末節的な南方資源確保、邀撃作戦をとることほど危険で投機的なものはない。

 大西・草鹿の山本支持 9月29日、第一航空艦隊司令長官、参謀長、首席参謀、航空両参謀は、鹿屋基地に第十一航空艦隊司令部を訪問し、司令長官、参謀長と打ち合わせをする。その結果、全員、「ハワイ奇襲作戦は取り止めるべきである」と結論した。10月3日、両参謀長は山口県室積沖の旗艦陸奥の山本長官を訪ね、@大西参謀長が「比島の航空兵力はその後ますます増強されて、第十一航空艦隊の現兵力では、これに対処するのには不十分である。第一航空艦隊で比島航空突撃滅戦をやってもらいたい。ハワイ奇襲作戦の実施は再考のことに願いたい」(『戦史叢書ハワイ作戦』109頁)とした。山本は、聨合艦隊航空参謀佐々木彰に意見を問うと、佐々木は、「聨合艦隊作戦計画による第十一航空艦隊の兵力で比島作戦はおおむね支障がない」と答えた。

 草鹿第一航空艦隊参謀長は、「ハワイ奇襲作戦に反対する」と話した。これに対して、山本は、@「南方作戦中に東方から米艦隊に本土空襲をやられたらどうする。南方資源地域さえ手に入りさえすれば東京、大阪が焦土となってもよいというのか」、A「自分が聨合艦隊司令長官であるかぎり、ハワイ奇襲作戦は断行する決心」なので、「両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」とし、B自分がポーカー好きだからといって、「投機的だ、投機的だ」(『戦史叢書ハワイ作戦』110頁)と言うなとした。

 山本の強い決意を知り、大西は草鹿を説得し、「両者とも今後長官の趣旨に副うように努力する」ことを誓った。山本も草鹿を見送り、「これからは反対論を言わず僕の信念を実現するよう努力してくれ。ハワイ作戦実施のためには君の要望は何でも必ず実現するよう努力を惜しまぬ」と告げると、草鹿は感激して、以後山本信奉者となった(『戦史叢書ハワイ作戦』110頁)。

 10月5日有明海の第一航空艦隊旗艦加賀に戻ると、草鹿は南雲長官に報告し、大石・源田参謀に、「ハワイ奇襲作戦実行計画の完成を命じ」、7日午後、麾下司令官、幕僚、艦長、飛行長、飛行隊長を招集して「真珠湾攻撃計画を初めて発表」(『戦史叢書ハワイ作戦』110頁)した。

 世界最強空母艦隊 山本は「日露戦争劈頭の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は使用兵力不足による」(『戦史叢書ハワイ作戦』111頁)としていた。この日露戦争開戦劈頭の旅順港外事件とは、@「日露戦争で日本がロシアに勝つための条件」は、大陸への海上輸送の安全を確保するため「黄海の制海権を取る事が不可欠」であり、そのために「旅順港に集結するロシア太平洋艦隊主力を叩く」ことが必要となり、「軍令部は開戦通告直後、駆逐艦部隊をまず旅順口に突入させて先制奇襲する作戦をたて」、A開戦・国交断絶後に「駆逐艦部隊は突入」したが、東郷司令長官は「陸上の要塞砲」を恐れてすぐ引き返させ、Bやむなくボロ船を湾口に沈めて閉塞作戦を実行したが、これも失敗したとうことをさしている。山本五十六はこの奇襲攻撃に十分な兵力が投入されていれば成功したであろうと見たのである。そこで、山本は、この奇襲作戦の「マイナス面」に注目し、昭和16年1月、山本長官は及川海相に、これを「失敗の教訓」として真珠湾攻撃を成功させたいとし、「開戦劈頭のチャンス」を生かし、大兵力を結集して「戦いを一日にて決する覚悟で臨む」としたのである(相沢淳「海軍は英米協調だったのか」[『山本五十六』山川出版社、2011年]、源田実『真珠湾作戦回顧録』159ー163頁)。

 そこで、山本は、空母4隻(第一、第二航空戦隊)のみならず、9月末就役した第五航空戦隊「翔鶴」「瑞鶴」も「航続距離が長い」ので参加させたいとした。10月9日ー13日までの旗艦長門で聨合艦隊は図上演習を行ない、山本は、第一航空艦隊が第五航空戦隊参加を望んでいることを踏まえ、「実働部隊の要望する航空母艦兵力の実現には全力を尽くす」として、空母6隻案(旗艦「赤城」、「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞 鶴」)を決定した(『戦史叢書ハワイ作戦』112頁)。

 一方、軍令部は、第五航空戦隊の空母2隻は南方作戦に充当させるとしていた。10月16日、聨合艦隊司令部は草鹿参謀長を軍令部に赴かせ、「航空母艦6隻使用案の採用と給油艦の大至急配属」を交渉させた(『戦史叢書ハワイ作戦』113頁)。軍令部第一富岡課長らは、給油艦手配はすぐ承認したが、「南方作戦の兵力不足」を理由に空母6隻には強く反対した。

 10月19日、聨合艦隊司令部は、黒島参謀を軍令部に派遣して、「職を賭しても」「ハワイ作戦に空母全力をもって実施する」という山本長官の強い決意を伝えた。しかし、福留部長、富岡課長は、「空母全力使用は承認できない」と断った(『戦史叢書ハワイ作戦』113頁)。そこで、黒島は軍令部次長伊藤に「山本長官の不退転の決意」を伝えた。伊藤は永野総長と協議し、これを了解し、永野は黒島に「山本長官がそれほどまでに自信があるというのならば、総長として責任をもって御希望どおり実行する」(『戦史叢書ハワイ作戦』114頁)と伝え、ここに空母6隻使用が決定し、世界最強の空母艦隊が誕生することになった。

 11月10日か11日に、「真珠湾攻撃の術科面における最大の難関『浅海面の魚雷発射』が解決」した。11月17日午後には、佐伯湾に各艦が集合し、旗艦赤城で山本は主要幹部、搭乗員将校に「機動部隊出撃に際する訓示」を発し、「敵は、わが国開闢以来の強敵である。わが国は、未だかつて、これほどの豪のものと闘ったことはない。相手にとって毛頭不足はない」(源田実『真珠湾作戦回顧録』164−5頁)とした。

 山本の迷走 前述の通り、山本五十六は、日米長期戦ではジリ貧になるので、真珠湾奇襲攻撃で早期に終戦させるという方針だった。しかし、こうした真珠湾攻撃による短期決戦論が後退していた。

 上述のように、その真珠湾攻撃が大西瀧治郎から早期終戦の観点より不利な作戦として批判されていたのである。山本の意とは異なって、真珠湾作戦は早期終戦作戦とは異なるものになりはじめたようだ。実際に、16年9月12日、近衛文麿首相は山本長官に、「海軍の戦争に対する自信のほどを率直に聞きただした」いとすると、山本は、@海軍への不安は無用であり、「今度の戦争は長期『ゲリラ』戦となるべ」く「決死の戦」をなす積もりであり、A日米首脳の「洋上会談」が決裂しても「一抹の余裕を残して帰って貰」い、「然らば艦隊は其の瞬間より瞬間より行動を開始すべし」としたのである(『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、473頁)。山本は長期ゲリラ戦を標榜しているのである。

 9月29日、山本長官は永野総長に、@11月半ばに南進作戦の戦闘力は整備するが、邀撃作戦の準備はできないこと」、A戦闘機千機、中攻千機を要すること、B南方作戦は4ヵ月でかたづき、650機を消耗すべきこと、C「戦争は長期戦となり、艦船兵器は補充困難となるばかりでなく、国民生活が窮乏し、内地はともかく、満州・朝鮮・台湾に反乱が生ずるおそれがあり、『かかる成算小なる戦争は為すべきにあらず』」(「元海軍大将 澤本頼雄氏手記」昭和37年4月11日 [『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、484頁])などとと述べた。開戦派の岡敬純軍務局長は、この時の対米交渉・開戦決定・戦争回避の「山本大将の所見」について、@「対米交渉中止せば近衛総理は辞職すべし、其の対策如何、仲々時局の収拾困難なるべし」、A「戦争に導くことも困難は処々にありて、御上の御許しが最も困難なるべし」、B「対米交渉を中止し戦争をせずして立ち行く方策ありやなしや」などと記している。さらに、岡は、山本所見について、C「平戦何れにても国内的に非常なる局面となる、出来得る限り戦争を避け、国内の整頓強化を図ること肝要なり」、Dだから「対米調整は多少譲歩しても取纏むること必要なり。然らば帝国として尚譲り得るものありや、仏印に関する『ル』の提議に対し今日以上考慮し得る余地ありと思考す。又三国同盟に於てもまた然り」(『岡敬純中将覚』[『戦史叢書 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』<2>、483頁])とした。

 いかに世界最強の空母艦隊を編成しても、それは飽くまで長期戦での緒戦優位というものにすぎなくなってきたのである。これでは、日本のジリ貧は不可避であった。

 大本営海軍部のハワイ作戦支軸化 しかも、大本営海軍部は、ハワイ作戦を従来の邀撃作戦の一環に位置づけた。つまり、大海令第一号「対米英蘭戦争帝国海軍作戦方針」では、@帝国海軍作戦方針を「速に在東洋敵艦隊及航空兵力を撃滅し 南方要域を占領確保して 持久不敗の態勢を確立すると共に 敵艦隊を撃滅し 終局に於て敵の戦意を破摧するに在り」、Aその第一段作戦方針として、「第一航空艦隊を基幹とする部隊を以て開戦劈頭布哇所在敵艦隊を奇襲し其の勢力を減殺するに努む」(『戦史叢書ハワイ作戦』114頁)とした。

 しかし、@の在東洋米国艦隊・航空兵力撃滅がこそが対米戦争の基軸の第一歩となるとし、布哇作戦は南方作戦遂行の補完作戦と従的に把握している。実際、福留第一部長は、南方作戦が側背から米艦隊に攻略されぬように、その「最悪の事態を予防」するべく布哇作戦を行なったと把握している(福留『史観 真珠湾攻撃』自由アジア社 、1995年[『戦史叢書ハワイ作戦』114頁])。

 「長期不敗態勢」に関して、軍令部は、「米勢力を西太平洋から駆逐し、南方資源地域を入手確保」することだと見ていたが、山本は、「米艦隊の西太平洋進攻機動を不可能にすること」とみていた(『戦史叢書ハワイ作戦』115頁など)。対米戦争での勝利基軸に関しては、山本は、米国空襲による日米国力差の削減の方向にあると見たのに対して、軍令部は従来の邀撃作戦の一貫として付随的にみたのである。

 南方作戦による資源確保による国力増加は、欧米帝国主義にとってかわるだけにすぎず、対米国力差の抜本的対応にはならず、早晩米帝国主義の数倍の戦力の反撃でジリ貧化必至という危険を内包した作戦であった。

 ハワイ作戦での空母増強は、こうした南方作戦基軸化・ハワイ作戦支軸化のもとに容認されていったのである。だから、攻撃目標に関しては、敵艦隊が主であり、工廠・油槽施設は従とした。「兵力を二分して敵艦隊と工廠、油槽等施設を攻撃し、いずれも不徹底に終わる」よりも、「水上艦艇に集中してその確実徹底を期すべき」(180頁)とした。こうした軍令部側の動向に対して、黒島参謀は「工廠や油槽などの後方施設の戦略的価値の重要性は認めながらも、兵力の関係からこれを見逃さざるを得なかった」(『戦史叢書ハワイ作戦』180頁)とした。

 米国の真珠湾奇襲「想定外」視 昭和16年1月16日ハワイ駐在の米国海軍第二偵察飛行部隊司令官パトリック・ベリンジャー少将は軍令部長に、第二偵察部隊に新型機が不足し、搭乗員も少ないと報告した。数ヵ月後、サンディエゴの第一偵察飛行部隊がハワイに派遣されたが、ベリンジャー少将の不安は解消しなかった。同年3月、ベンジャミンは「真珠湾の防空指揮官」に任命され、3月31日に、ベンジャミンは、陸軍航空部隊司令官フレデリック・マーチン少将とともに、「ハワイ攻撃のさいの陸海軍航空部隊対応策」を作成した。二人は、「日本艦隊は<商船ルートが存在しない“無人航路”を経て襲ってくる>と判断」し、「未明、真珠湾北方350マイルで空襲部隊を発進させる」(ポッター『山本五十六の生涯』46頁)と想定した。

 二人は、日本の攻撃方法として、@「宣戦布告前の在ハワイ米艦艇にたいする潜水艦攻撃」、A「真珠湾の艦船、施設を含むオアフ島にたいする奇襲」、B「@およびAの併用」があると推定した。そして、「最も可能性が多いと見られるのは、母艦機による空襲」だとした。また、襲撃時刻について、@「未明攻撃は、米国側の反撃が少ないことが予想される反面、その後、一日中、追尾される不利がある」、A「薄暮攻撃の場合、その後は夜の闇にまぎれて逃げ易い」が、日中航行が発見される危険があると、一長一短があった。しかし、二人は、「米国は明白な敵対行動に遭遇しない限り、反撃にでることはない」から、敵の奇襲は「成功するだろう」(ポッター『山本五十六の生涯』47頁)とした。

 4月1日、軍令部長は全海軍司令官に、「過去の経験に照らすとき、枢軸諸国は土曜日または日曜日、あるいはその間の祝祭日にしばしば行動を開始する」と布告した(ポッター『山本五十六の生涯』47−8頁)。8月20日、ベリンジャー、マーチン報告書がワシントンに到着し、陸軍航空部隊荘司令官にマーチンは「われわれの最も可能性ある敵国“オレンジ”(日本)は、おそらく6隻の空母をオアフ島にさしむけるだろう。未明攻撃が、最も敵に有利な攻撃計画とみられる。また、敵は友好国船舶との遭遇をさけるため、北方からの近接をはかる可能性が最も強い」(ポッター『山本五十六の生涯』48頁)と、的確に日本真珠湾奇襲計画を見通していた。だが、このベンジャミン警告は生かされることはなかった。

 11月22日、日本政府「紫」暗号解読で、米国側は、野村吉三郎、来栖三郎は交渉望みなしとしたことを見極め、「ワシントンはフィリピン、マレー、またはボルネオにたいする日本軍の攻撃を予想」し、まだ真珠湾攻撃は「夢にも想像しなかった」のである(ポッター『山本五十六の生涯』70頁)。11月24日、キンメル太平洋艦隊司令長官は、日本陸海軍は「フィリピンまたはグァム島を含むいかなる地域にも、奇襲攻撃の可能性がある」と通知した。キンメルはこの奇襲対策について「幕僚と協議した」が、「戦争切迫感を抱く以外になにもすることはない」とした。しかし、ワシントンが予想した戦争は、真珠湾ではなく、西太平洋(マニラ、香港、シンガポール、バタビヤなど)だとした(ポッター『山本五十六の生涯』71−4頁)。

 11月26日、機密情報解読で日本機動部隊の真珠湾奇襲を知って、スターク海軍作戦はキンメル太平洋艦隊司令官に、「突然、空母『エンタープライズ』と『レキシントン』で、ウェーキ島とミッドウェー島へ、陸銀の戦闘機を運ぶよう」にと命じ、真珠湾には「第一次大戦からの旧型艦」のみが残ったのである(加瀬英明ら『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』83頁)。

 12月2日、日本陸海軍に武力発動が指令され、山本は南雲艦隊に「ニイタカヤマノボレ 1208」と打電した。当時の米海軍情報部は、「呼出し符号は一カ月前に変更されたばかり」なのに、「日本水上艦艇の呼出し符号は十二月一日午前零時四分からいっせいに変更」されたことは「さらに大作戦のための準備が進行中であること」を示していると見た。だが、その大作戦が真珠湾とは気づいていない。南雲艦隊のパイロットは、真珠湾にいる4隻の空母(ヨークタウン、ホーネット、レキシントン、エンタープライズ)との一戦に血をたぎらせた(ポッター『山本五十六の生涯』74ー5頁)。しかし、エンタープライズ、レキシントンは出港し、ホーネット、ヨークタウンは大西洋にいた。

 12月6日、日本時間午前5時半、南雲艦隊に「総員起こし」がかけられ、全員いっせいに部署についた。山本長官は連合艦隊全将兵に、「皇国の興廃 繋りて此の征戦に在り、粉骨砕身 各員其の任を全うせよ」とした。夜、ハワイ領事館から軍令部を通して最後の米艦情報(戦艦9、乙巡3、水上機母艦3、駆逐艦17、「空母及び重巡は全部出動あり」)が伝えられた。南雲は「第一目標の空母がいない」ことに、「作戦の意義は大幅に失われるのではないか、あるいは引き返したほうが良いのではあるまいか」(ポッター『山本五十六の生涯』76−7頁)と迷った。

 瀬戸内海に残った艦隊は、「米国側に探知されるのを承知」で、ハワイ攻撃部隊が日本に停泊し、「かつ中国方面の作戦準備中」かの如き偽電を発し続けた。これを傍受した米海軍情報部は、「毎日、日本艦隊は日本にいる」と、太平洋艦隊、ワシントンに報告した。しかし、太平洋艦隊情報将校レイトン大佐は、空母部隊の通信途絶に疑問を抱き、「空母部隊は無線封止をして行動中」ではないかとも懸念した。しかし、キンメル太平洋艦隊司令長官はこれを問題視しなかった(ポッター『山本五十六の生涯』68−9頁)。

 12月7日、午前3時特殊潜航艇で発進し、午前6時45分、駆逐艦ウォードが砲撃と爆雷攻撃で一隻を轟沈した。午前6時、日本空母から全飛行機が、発進した。米側の「太平洋艦隊は平時体制だった」が、「最もす早く、かつ米国史上に残る反応を示したのは、一年前、真珠湾の防備不足を強く指摘したパトリック・ベリンジャー少将」であり、彼は250キロ爆弾の炸裂音を聞くやいなや、「真珠湾に空襲、演習にあらず」と全世界に放送した。これを聞いたナックス海軍長官は、「そんなバカなッ。そりゃフィリピンのはずだ」(ポッター『山本五十六の生涯』79−85頁)と叫んだ。米海軍長官は、日本海軍の真珠湾奇襲はありえないと思い込んでいた。

 南雲、草鹿の第二撃回避の理由 連合艦隊司令部では、山本五十六に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言した。特に空中攻撃隊総指揮官の淵田が、とどめの第二波攻撃をしようとしたのに、これが抑えられた。既に飛行甲板では「第二次反復攻撃の準備が進められていた」が、草鹿龍之介参謀長は、「いまや真珠湾を叩いて、アメリカ太平洋艦隊を撃滅して作戦目的を達成した」から、「オイル・タンクだの、海軍工廠の修理施設などを攻撃するなんて、・・下司のあと知恵」として、第二波攻撃を中止したのであった(中田整一編『淵田美津雄自叙伝』162−3頁)。南雲長官は「引き返す」ことを命令し、淵田は「なにを阿保な」とこれを批判した。

 山本は「南雲長官がもっと積極的に連続攻撃をかけて」(『淵田美津雄自叙伝』176頁)おくべきだったとしたが、そういう「腰の据わらない」南雲を機動部隊指揮官に推薦したのは山本ではある。彼等には、「泥棒の逃げ足と小成に安んずる弊」(宇垣纏『戦藻録』)があったのである。噂にとどまるが、山本の親友堀悌吉が予備役編入された際、「その裏工作をした張本人が南雲だった」とされていた。南雲忠一は、艦隊派の米沢海軍(山下源太郎ら)を忠実に代表していたのである。長官付の従兵長近江兵治郎は、山本が「南雲の水雷屋が」と蔑視をこめて独り言をいうのを聞いていた(近江兵治郎『連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち』[工藤美代子『山本五十六の生涯』384頁])。だとすれば、なおさら、山本は南雲などを機動部隊指揮官などに任命するべきではなかった。しかし、だからこそ、軍令部とすれば、山本牽制のために南雲を機動艦隊司令官に任命したともいえよう。

 南雲らは、@「第一回攻撃により略所期の目的を達成」、A第二回攻撃は「強襲」となって「所期の戦果に比して犠牲著しく増大」、B「敵空母、大巡、潜水艦等の動静は不明」、C日本軍の索敵は250マイル以上は困難だから「敵の基地飛行圏内に長く停留するは不利」として、第二回攻撃を中止したといわれる(ポッター『山本五十六の生涯』90頁)。だが、こういう個別具体的理由もあったろうが、それ以上に南雲らはハワイ作戦を主作戦とはみていなかったということもあった。つまり、南雲、草鹿が第二撃を回避した理由は、軍令部の邀撃作戦・南方作戦主軸論から説明されるのである。防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』(345−6頁)は、南雲、草鹿が第二撃を回避したのは、「本作戦の目的を南方作戦の補助作業と解釈していたのがその決定の根本原因ではなかろうか」とする。「邀撃作戦構想を今次作戦計画の基調としていた海軍部は、本作戦を南方作戦の支作戦とみていたので、機動部隊を本作戦終了後、南方作戦の支援及び邀撃艦隊決戦における有力兵力であると認め、本作戦において兵力を損耗することを重大視」し、「本作戦は一撃で十分な戦果を収めたと認め、それ以上攻撃を強行して、ためにわが空母の損耗をきたすような作戦を行なうべきでないとしていた」(『戦史叢書ハワイ作戦351頁)のである。

 だから、連合艦隊が、「第二撃下令を強行しなかった代わりに、帰路ミッドウェー攻撃を行なうよう指令」した所、南雲、草鹿はこれを「天候不良を理由」としてこれを無視したのであった。草鹿は「決死の大作戦を終って、やっと帰途についたのに、こんな小さな島を序にやって来いとは何たる言い草だ。機動部隊を小僧の使い走りのように考えてもらっては困る」とし、南雲も「ようやく横綱を倒した」のに「帰りに、大根やねぎを買って来い」と言うに等しいと一蹴したのであった(豊田譲『悲劇の提督・南雲忠一中将』113頁)。日本海軍主流の艦隊派にとって、邀撃作戦こそが主軸作戦であって、糞みたいな小島の占領など問題外なのであった。この驕慢が、ミッドウェー敗北の背景になる。

 作戦・政略両面での失敗 山本五十六は米国太平洋艦隊「覆滅」をめざしたが(16年11月12日付機動部隊各指揮官宛山本司令長官訓示[中田整一『淵田美津雄自叙伝』118頁])、奇襲前日の偵察では、「ハワイ方面の敵兵力は戦艦8隻、空母2隻、甲巡約10隻、乙巡約6隻」で、「空母及び甲巡は全部出動中のものの如」(『淵田美津雄自叙伝』132頁)しというから、真珠湾停泊中の艦船を撃滅しても、太平洋艦隊撃滅にはならいということが事前にわかっていた。淵田は南雲長官に、戦艦4隻撃沈、戦艦4隻大破、「航空兵力は壊滅」(『淵田美津雄自叙伝』161頁)という戦果を報告したが、これでは太平洋艦隊覆滅にはならない。

 実際、「真珠湾の被害は、見かけよりも少なかった」のである。つまり、@「日本機が沈めた戦艦は、いずれも、旧式」であったから、これを契機に「米国は空母第一主義を促進」し、Aこれがなければ「太平洋艦隊は身動きできない」のに、南雲は「真珠湾軍港のすぐ近くに並んだタンクに満たされた450万バレルの石油を見過し」(ポッター『山本五十六の生涯』94頁)、米アジア艦隊司令長官トーマス・ハート大将は、第二次攻撃で「石油タンクを破壊したほうが、はるかに米国の反攻を遅らせることができた」(ポッター『山本五十六の生涯』102頁)と指摘し、B「最大の不運」は「三隻の米空母を逃した」ことであり、350機を搭載する南雲艦隊が、131機を持つに過ぎない空母レキシントン・エンタープライズに遭遇すれば、「簡単に米空母は太平洋の底に沈められた」(ポッター『山本五十六の生涯』95頁)ということであった。

 日本のパイロットも同様の批判をしたことに対して、南雲は「太平洋艦隊の主力を撃滅したし、軍事施設とくに飛行場は充分に破壊」し、「与えられた任務を遂行した」と弁明した。山本の幕僚は「南雲中将解任の意見」を具申したが、山本は「そんなことをすれば自尊心の強い中将は自決する」と反対した。この結果、「南雲中将の温存により、山本大将は彼自身と彼の艦隊の破滅への長い道を歩むことになった」(ポッター『山本五十六の生涯』100ー101頁)のである。

 軍令部第一部長福岡繁は、「真珠湾攻撃で、日本は作戦的には当面の目的を達した」(あくまで「当面」としてはいるが)が、「政略の面では敵国側を利益せしめた」(「この攻撃によってアメリカ全国民の対日徹底打倒の戦意をいっぺんに一致させ昂揚」させたことなど)という「大局的結論」を導けるとしたのである(軍令部第一部長・海軍中将福岡繁「開戦前夜の海軍作戦室」[『別冊知性』昭和31年8月<平塚征緒編『目撃者が語る 太平洋戦争T』新人物往来社、1989年、76−8頁>])。しかし、空母を轟沈できず温存させ、敵国太平洋艦隊に壊滅的打撃すら与えられず、作戦的にも失敗だったのみならず、アメリカ国民の対日士気を一挙に高揚させた点で政略的にも失敗だったということである。

 日露戦争以後、日本海軍の敵攻撃の徹底さが弱化し始めていた。日本海海戦では連合艦隊は「徹底的な追撃戦」をおこない、東郷平八郎連合艦隊司令長官は「徹底した攻撃」をした。明治38年4月27日死闘で「海戦の大勢」がきまっても、28日敗走するバルチック艦隊残存兵力(旗艦ニコライ一世号など)に日本主力部隊は砲撃を開始し、万国信号を上げ、秋山参謀が砲撃中止を助言した後も、東郷長官は「本当に降伏すッとなら、その艦を停止せにゃならん。現に敵はまだ前進しちょるじゃないか」として、敵艦隊が停止するまで砲撃をやめることはなかったのである。しかし、以後、こうした日本海軍の攻撃が不徹底性となり、淡白になってゆく。日本海軍は油槽船・商船や基地・石油タンクの爆撃などは「下司の戦法」とするようになるのである。これは、、守勢を主軸とする邀撃作戦と、そうした消極策のもとで「何事にもカッコよさを自負した海軍全体の、ひよわで自らの損失を恐れる悪しき『スマート』な体質と、長期の物量消耗戦としての大戦争、施設・資材ぐるみの総力戦を見通しえない近視眼的な戦争観」とに基因するものであった。この攻撃不徹底さは、この真珠湾攻撃のみならず、後述珊瑚海海戦での井上成美司令長官の敵艦追撃の中止を命令し、第一次ソロモン海戦(サボ島沖海戦)で日本艦隊は陸揚げ中の輸送船団を攻撃せずに引き揚げたことにも現れている(池田清『海軍と日本』42−48頁)。

 要するに、真珠湾襲撃は 米国空襲の第一歩の可能性をもちつつも、海軍邀撃派によって不徹底たらしめられ、敵国の国力に甚大な損害を与えることもなく、作戦・政略両面で失敗だったということである。仮に「当面」の作戦上の一定効果を認めたとしても、肝腎の空母は無傷であるのみならず、国力差の顕著な米国を対日戦で強く結束させた政略上の大失敗は、はるかにその一定効果を上回るということだ。米国側はこの米国民を対日戦に結束するために狡猾に非常識に日本先制攻撃を誘発させようとしていたのであり、日本海軍に日米国力差のもとでは不徹底な真珠湾奇襲などの勝敗如何は根幹的影響をもたないという大局を見通す常識力もなく、世界最強の空母艦隊を編成したにも拘らず、中途半端な作戦で日本国民の生命を危険にさらすなどは言語道断ということだ。
 
 太平洋艦隊撃滅再論 その結果、山本は真珠湾奇襲で太平洋艦隊撃滅は不徹底だったとして、改めてこの撃滅を主張することになった。

 昭和17年2月付書簡で、山本は、南方作戦の快進撃で海軍が長期不敗態勢確立したとみることを批判して、「そんな中途半端にて守勢など固まるものに無之」とし、敵艦隊を撃滅し尽くしてこそ不敗態勢が固まるとした(『戦史叢書ハワイ作戦』86頁)。ならば、真珠湾攻撃が南雲に撃滅方針を徹底させなかったのか。

 昭和17年5月頃、海軍中央は南方作戦終了で一段落と見て人事異動を開始すると、山本は、「まだ米航空母艦などが残っているので、現在は不敗態勢概成作戦の途中であるのに、戦力を落とす処置を採った」(「黒島亀人大佐 戦後の回想」[『戦史叢書ハワイ作戦』86頁])と憤慨した。昭和17年4月末、山本は、訓示で、「長期持久的守勢を採ることは聨合艦隊司令長官としてはできぬ。海軍は一方に攻勢を採り 敵に手痛い打撃を与うる要がある。敵の軍備力はわれの五ないし十倍である。これに対して、次々にたたいていかなければ、どうして長期戦ができようか。常に敵の痛いところに向って猛烈な攻撃を加えねばならない。しからざれば不敗の態勢などは持つことはできない」(『戦史叢書ハワイ作戦』87頁)とした。

 米国の山本憎悪 一方、アメリカでは、この真珠湾奇襲で山本五十六はアメリカ人の敵になり、彼への憎悪は熾烈になった。これに拍車をかけたのが米国人作家ウィラード・プライスの記事だった。

 大正4年、男爵瓜生外吉海軍大将紹介で、高野五十六が、プライスと会談した(三輪公忠『隠されたペリーの「白旗」』[工藤美代子『山本五十六の生涯』357−8頁])。五十六は幼少時から「父親から毛むくじゃらの野蛮人の話を聞かされ」「アメリカを憎んでい」て、五十六には、アメリカ人は、「文明開化を触発した『恩人』」ではなく、「文明を正義と単純に信じ込んでいる暴力の亡者」(工藤美代子『山本五十六の生涯』358頁)と映った。プライスが五十六に海軍志望の理由を尋ねると、五十六は「ペリー提督のお礼参りがしたかったまでさ」(359頁)と答えた。

 だから、プライスは、16年12月真珠湾奇襲の司令官が山本五十六だと知ると、瓜生邸での会見メモを取り出して、ハーバーズ・マガジンに「アメリカの第二の敵=山本」を発表したのであった。プライスは、冒頭に「恐らく、われわれにとって一番主要な個人としての敵は、アドルフ・ヒトラーの次には、面の皮は厚く、鉄砲玉頭で、心のなかは怨恨でいっぱいの山本五十六だろう」(工藤美代子『山本五十六の生涯』359−360頁)と記した。

 日本敗北を痛感した人々 日本国内が真珠湾奇襲「成功」で沸き立っている頃、既に日本敗北を痛切に予測した人々がいた。

 16年12月8日華族会館で近衛文麿は娘婿細川護貞に、「えらいことになった。僕は悲惨な敗北を実感する。こんな有様はぜいぜい二、三ヵ月だろう」(細川護貞「近衛公の生涯」[共同通信社編集『近衛日記』共同通信、昭和43年、150頁])と沈鬱な声で言った。やがて戦局悪化とともに、近衛は岡田啓介らと終戦工作に従事する。

 一方、スイスでは、16年12月末、フリードリヒ・ハック(在チューリッヒ)はドイツ駐在武官補佐官藤村義朗中佐に、「私が最も愛する日本海軍が、世界歴史のなかで、もっとも愚劣なことをした」とし、「真珠湾にたいして日本海軍が加えた・・痛恨の一撃」で「なにもかもが終り」、やがて「まず独伊が崩壊し、日本も滅亡する」(鳥巣建之助『太平洋戦争終戦の研究』文藝春秋、1993年、31頁)と慨嘆した。20年春以降、ハックは藤村を助けて日米和平工作に尽力することになる。


                                     B ミッドウェー作戦批判 

 米空母部隊の奇襲 17年1月中旬、山本は参謀長宇垣纏少将に第二段作戦計画の立案を命じた。しかし、17年2月1日、米空母部隊がマーシャル諸島を奇襲したが、「一撃だけで引き揚げ」、「敵の技量拙劣」などで「大した被害は受けなかった」。しかし、日本の飛行哨戒は「敵部隊を発見できなかった」ので、日本の「攻撃兵力の集中は間に合」わず、連合艦隊は、「敵の奇襲を受けながら有効な反撃ができなかったことを、地団太踏んでくやしがった」(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』朝雲新聞社、昭和46年、34−5頁)のであった。

 その後、2月20日米軍のラバウル奇襲、2月24日米軍のウェーク奇襲、3月4日日本に近い南鳥島の奇襲がなされ、各々は成功した。これで、聨合艦隊は、米国は、「日本軍は大した反撃力がない」と判断し、「次はわが本土に奇襲をかけてくるのではないか、と判断」した。連合艦隊は「まずセイロン島攻略作戦を行ない後方を安全したのち」にこの対応をしようとして、当面は放置した(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』34−8頁)。

 第二段作戦計画起案 連合艦隊参謀長宇垣は、「第一段作戦は、大体三月中旬を以て一応進攻作戦に関する限り之を終了」するので、17年1月初旬に、次の第二段作戦では、「豪州に進むか、印度に進むか、布哇攻略に出掛るや、乃至はソ連の出様を待ち好機之を打倒するや」などを検討し、「二月中位には計画樹立しあるを要」するので「参謀連に研究」させた。先任参謀は「此の儘放任せば、陸軍は対『ソ』開戦に持ち行く」ので、「何とか之(陸軍)を南に控置するを可とするが如き、前提」とした。そこでは、「必要以外に余りに手を拡げおく事は融通の利かざる結果に陥る故に 先づ自存上必要とする資源地域の獲得維持を其範囲と」し、また「布哇攻略」の「着手は艦隊決戦を前提としてかからざるべからず」(17年1月5日の項[宇垣『戦藻録』62頁])と、南方資源確保の優先、ハワイ攻略は艦隊決戦としていた。

 1月14日、宇垣は、「四日間の努力に依り作戦指導要綱を書き上げ」、「結論としては六月以降ミッドウェー、ジョンストン、パルミラを攻略し、航空勢力を前進せしめ、右概ね成れるの時機、決戦兵力、攻略部隊大挙して布哇に進出、之を攻略すると共に敵艦隊と決戦し之を撃滅するに帰着」(宇垣『戦藻録』62頁)した。しかし、これに対ソ対応に固執する陸軍が反対して具体化は「停滞」する。

 当時、連合艦隊幕僚は「この宇垣案に首をひね」り、ハワイ攻略前のミッドウェー攻略が容易でないとし、「ハワイ攻略」についても三つの疑問(@真珠湾奇襲は期待できないこと、A「ハワイ諸島の制海権を確保するほどの航空兵力はない」事、B「艦艇と陸上砲台との交戦では、艦艇側が著しく不利である」)を指摘した(ポッター『山本五十六の生涯』117頁)。そこで、首席参謀黒島亀人が、「英艦隊撃滅、セイロン島攻略という西進案」という代案を提出した。これに対し、軍令部作戦課長富岡定俊大佐は「オーストラリア北部攻略案」を提起した。

 こうして、第二段作戦の立案過程で、海軍内部で、連合艦隊首脳部案、連合艦隊司令部(幕僚)案、軍令部案の三つが対立することになったのである。ドウリットルの帝都空襲が起きると、これが「海軍首脳部に心理的影響を及ぼして」、遂に連合艦隊首脳部案に落ち着いた。首脳部案によって米太平洋艦隊を撃滅し帝都空襲の危険を取り除き、次で軍令部案に移る前提として、「ソロモン群島及西部ニューギニアを戡定し、モレスビーを奪取して豪州に睨みをきかせるという第二段作戦方針が決定された」(宇垣『戦藻録』102頁)のである。黒島らの連合艦隊司令部案は消えたことになる。

 一方、陸軍は、「ドイツのコーカサス侵入に呼応してソ連攻撃を考え」、「しかもビルマ平定作戦を実施中」だったので、これら海軍作戦に反対した。そこで、軍令部は、オーストラリア攻撃を「フィジー、サモア諸島攻略という米豪遮断作戦」に転換した。しかし、陸軍は兵力派遣を渋ったので、山本は、「ビルマ作戦支援もかねて、インド洋に英艦隊撃滅を求めることにし」、3月末南雲部隊(空母5隻、戦艦3隻、巡洋艦6隻、駆逐艦20隻)は西に向った。迎え撃つ英極東艦隊は旧式戦艦5、新型空母2、旧式空母1、重巡2、軽巡6、駆逐艦15であった(ポッター『山本五十六の生涯』118頁)。淵田隊の「真珠湾攻撃と同じ“ヒット・エンド・ラン”攻撃」でセイロン島の東岸ツリンコマリ軍港を空襲し、艦船・飛行場の艦載機を炎上させた(ポッター『山本五十六の生涯』122ー3頁)。

 この様に海軍は陸軍を支援した上で、山本は「第二段作戦」を、「ミッドウェー、アリューシャン攻略案」を決め、討ちもらした米空母を撃滅し、ハワイから1130マイルしか離れていないミッドウェーを「航空および潜水艦の前進基地」にしようとした(ポッター『山本五十六の生涯』123頁)。これは、17年10月予定のハワイ攻略作戦の「つなぎ」作戦でもあった(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』40頁)。

 3月11日付丹羽みち(新橋芸者)宛書簡で、山本は、「第一段作戦といふのは子供の時間でもうそろそろ終り 之から大人の時間となりますから こちらも居眠りからさめてそろそろやりますかね」(阿川弘之『山本五十六』[工藤美代子『山本五十六の生涯』412頁])と、「大人」の作戦としてミッドウェイ作戦を考え始めていた。

 軍令部のミッドウェー作戦案批判 17年4月2日、連合艦隊の参謀渡辺安次中佐が軍令部にミッドウェー作戦計画を提出した(杉本健『海軍の昭和史』文藝春秋、1982年307頁)。軍令部は、「真珠湾攻撃計画のとき以上に激し」く反対し、軍令部作戦参謀三代辰吉中佐は、@ハワイからの「水上の大型飛行機、および潜水艦の支援が容易」であること、A米国残存艦隊が出動するか疑問であること、Bミッドウェー攻略しても、敵奇襲対策は「わが国力の堪えうる」ものではないこと、Cミッドウェーなどの孤島の攻略は「米本土に与える脅威」「米国民の戦意に及ぼす影響」は期待でぃないことなどをあげ、「ニューカレドニア、フィジー、サモア攻略作戦を提唱」した(ポッター『山本五十六の生涯』124−5頁)。第一部長福留繁もまた、「FS(フィジーおよびサモア)作戦によって、サモア、ニューカレドニアの線を押え、マーシャル諸島の線を固めて、敵を迎え撃つ」(豊田譲『悲劇の提督・南雲忠一中将』229頁)とし、海軍伝統の邀撃作戦を主張した。

 ミッドウェー作戦に賛成したのは、第五艦隊長官細萱成子郎だけであった。「軍令部ばかりでなく、大半の艦隊長官が反対」していた。第四艦隊長官井上成美は、「ミッドウェーを占領しても、うちの艦隊は、とてもその兵站補給を完全に継続でき」ないとして、この作戦に反対した。連合艦隊参謀が井上説得に派遣されたが、井上は最後まで同意しなかった。

 軍令部は山本の計画を検討し、「必要資材の70%までは用意できるメドをたてた」(ポッター『山本五十六の生涯』125頁)が、連合艦隊参謀渡辺中佐らは納得できない。4月3日渡辺参謀が軍令部に出頭し説明した。だが、福留第一部長は、@「海軍部は、FS作戦を実施して米の南方路反攻を封じておいて、マーシャル諸島線にガッチリと邀撃配備を配備するのを、最も堅実な作戦」とし、Aミッドウェー作戦は「ハワイ奇襲と同一方向」にあり、「同じような要領の作戦を繰り返すことは、古来兵法の戒しむる」もので、実行すれば「相当の犠牲がある」(43頁)と反対した。三代第一課員は、@日本側はミッドウェー周辺での索敵能力が「はるかに劣っている」事、A不利な場合は米艦隊を誘出できないこと、B「占領後のミッドウェーの防衛はきわめて困難」であること、CFS(フィジー・サモア=南太平洋)作戦は敵誘出し易く基地航空協力が得やすいし、「攻略島嶼の防備や補給」はミッドウェーより容易であることとした(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』43−4頁)。

 渡辺参謀は、山本に電話し、山本の指示を仰いだ。山本は、「太平洋の全戦局を決定するものは米艦隊、とくにその機動部隊(撃滅)であ」り、「ミッドウェー攻略によって彼我の決戦が起これば、それこそ望むところ」であり、決戦がなければ、「ミッドウェーとアリューシャン西部要地の攻略によって、東方哨戒線の推進強化ができる」(ポッター『山本五十六の生涯』125−6頁)とした。渡辺は伊藤軍令部次長(連合艦隊参謀長でもある)に直接連合艦隊案を説明し、山本長官の強い意向を伝えた。4月5日「伊藤次長はこれを永野総長に伝え、福留第一部長を加え鳩首凝議のうえ、総長はFS作戦に修正を加え、聨合艦隊案を採択」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』44−5頁)したのであった。

 福留「第二段作戦発起に至る経緯」によると、邀撃作戦派は真珠湾作戦・ミッドウェー作戦を受けいれた理由とは、@邀撃作戦では、「決戦機会の主導権は敵に掌握」されているもとでの「決戦促進手段」は「作戦線をできるだけ前進」させることなので、「わが海軍は今次戦争開始時、邀撃作戦場をマリアナ諸島付近から、マーシャル諸島北西海面に移し」、さらにミッドウェー作戦で「間合いを一層つめて敵と接触の機会を促進」し、A故にミッドウェー作戦は、あくまで「敵艦隊の出撃を促進し、邀撃艦隊決戦を生起」させる「邀撃作戦達成の補助手段」に過ぎず、「ハワイ占領の脚場とする意図」に基づき、Bこうした「作戦」に山本長官が「十分な自信と成算」あるというので「同意」したというものである(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』45頁)。

 軍令部が参謀本部に行なった説明とは、ミッドウェー作戦とは、南太平洋作戦(FS作戦)の危険性(「北太平洋正面が敵に開放されるので、わが左側面の脅威が大きくなるばかりでなく、敵機動部隊による帝都空襲を許す虞れ」)を防止するものというもので、当然10月頃予定のハワイ攻略は「この際は大した話し合いはなかった」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』45−6頁)のであった。

 4月15日海軍「第二段作戦計画」が上奏裁可された。それは、@「印度洋に在る英国艦隊」を撃滅し、A「豪州方面艦隊」を撃滅しFS作戦を遂行し、B東正面には、「敵の奇襲作戦を困難ならしめる」ためにミッドウェーを攻略し、さらにアリューシャンを攻略し、C「印度洋方面作戦及豪州方面作戦概ね一段落せば、全力を東正面に指向し、米艦隊主力に対して決戦を強要し之を撃滅」するとした(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』51−2頁)。第一段作戦でもハワイ奇襲作戦が主作戦でなかったように、第二段作戦でもミッドウェー作戦は主作戦ではなかったのである。艦隊派の伝統的な邀撃作戦がしっかりと根底におかれていたのである。

 5月1日、第二艦隊司令長官近藤信竹中将は山本を訪ね、「敵は基地航空部隊を活用するだろうし、出てくる米機動部隊はまったくの無傷であり疲労もしていない、危険だろう」とした。山本は、「そういった点も含めてすでに計画は充分検討ずみである、変更の意向はない、それに奇襲が建前だから敗北の恐れはない」とした。近藤は、「ミッドウェー占領後の補給問題」を質問した。すると、連合艦隊参謀長宇垣纏は、「どうしても補給がつづかなくなれば、施設を徹底的に破壊して引き上げる」とした。近藤は「それではなんのためのミッドウェー攻略か」と首をかしげた(ポッター『山本五十六の生涯』159−160頁)。

 山本五十六は「ミッドウェイ島を攻略し、この距離の差を逆に有利に転じて、太平洋の米海軍勢力を封じ込めようと計」ることが持論であった。山本は、「ミッドウェーを攻撃すれば、必ずアメリカは全艦隊を挙げて出動する。そのときこそ真珠湾で討ちもらした空母群も含めて、アメリカの艦隊の息の根をとめることができるだろう」(ポッター『太平洋の提督』)としもしていた。特に山本は、ドゥーリットル空襲に衝撃を受けると、「持論のアリューシャンからミッドウェーを結ぶ南北の線上で敵機動部隊を撃滅する作戦を強く主張」(斉藤一好『一海軍士官の太平洋戦争』高文研、2001年、20頁)したのである。ミッドウェー作戦を練っていたある参謀は、朝日新聞記者の杉本健に、「敵は赤児の手をひねるようなものだヨ・・」と胸をはっていた(杉本健『海軍の昭和史』298頁)。

 また、山本は山口多聞第二航空戦隊司令官に、「ミッドウェーで米機隊撃滅に成功した場合は、東条首相に対米和平交渉を迫るつもり」(ポッター『山本五十六の生涯』156頁)ともらしたという。しかし、半年ー1年後の再生太平洋艦隊を踏まえて、米国は和平交渉にのってくるはずはなかった。

 空母艦隊方式の後退 当時の軍令部など海軍首脳は大艦巨砲主義者であった。福留軍令部第一部長は、空母は有力な補助兵力で、「海軍の主兵は依然戦艦である」(『史観真珠湾攻撃』自由アジア社、昭和30年)とした。軍令部第二課長田口太郎大佐(航空専攻)は、「主力艦(戦艦)の存在がその価値を失ひ、航空主兵となる」と主張したが、軍令部大勢は戦艦主義であり、この田口意見は「あまりに飛躍的」((『戦史叢書 ミッドウェー海戦』84頁)とたしなめられた。これが現実なのであった。

 17年4月28日、広島湾旗艦大和で、第一段作戦(真珠湾作戦)の研究会が開催された。第二航空戦隊司令官山口多聞少将が、「第一段作戦中の体験から、空母群を基幹とする機動艦隊こそ艦隊の決戦戦力」だから、現在の艦隊決戦方式を更めて、「空母群を基幹」とし「戦艦群、巡洋艦群、駆逐艦群」を「護衛警戒」の「第一、第二、第三艦隊」の新機動艦隊に再編するべしと説いた。当時の空母群は、正規空母7隻、特設空母(改装型の空母)3隻、改造中の特設空母4隻だったから、「当時日本海軍において、空母を基幹とする三個の機動艦隊を編制」できた。4月29日、山本五十六長官は各級指揮官に、@長期戦はできないから、「海軍は必ず一方に攻勢をとり、敵に手痛い打撃を与える必要がある」、A「敵の軍備力はわれの五ないし十倍である。これに対しては、つぎつぎに敵の痛いところに向かって、猛烈な攻撃を加えねばならない」、Bそのために、「軍備は重点主義に徹底して、これだけは敗けぬという」「海軍航空の威力」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』88頁)を構築しなければならないと訓示した。

 しかし、艦隊派の草加参謀長は、空母の「無線兵装」脆弱性(「高い無線マスト」が設置できないので、「無線機能は貧弱」)を指摘して、これに反対し、この空母艦隊構想はミッドウェイ海戦に登用されなかった。淵田は、ミッドウェイ作戦では、山本連合艦隊司令長官が「大和に座乗のまま」空母機動艦隊を指揮すべきとしたが、実際には、「ミッドウェイ作戦における部隊編制は、旧態のままの戦列で、山本大将は旗艦大和に座乗して、直率の戦艦部隊を依然として主力部隊と呼び、全兵力の後方三百浬にあって、全作戦を支援する」と誇称した。あくまで、淵田は、「戦艦部隊が、全作戦の支援に任じ」ることに疑問を呈した(中田整一『淵田美津雄自叙伝』220−1頁)。源田実も、山本長官指揮の主力戦艦群(23−5ノット)は機動部隊(27−34ノット)の後方300海里にあって機動部隊の支援などできないなど、「作戦部隊の編成は、戦艦主力の思想と、航空主兵の思想とを、機械的につなぎ合わせたものであって、兵術思想は筋の通ったものではなかった」(源田実『真珠湾作戦回顧録』83頁)と批判した。ミッドウェイ作戦は、海軍保守派によって、明らかに真珠湾襲撃時の空母艦隊主軸の作戦にくらべて大きく後退していたのである。

 また、空母部隊規模もまた、真珠湾当時と比べて後退していた。作戦参謀は、実戦体験をもつ翔鶴のパイロットを活用して、空母瑞鶴の参加を主張する者が少なくなかったが、山本は、「戦艦部隊(大和、武蔵)と南雲中将の空母部隊(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)」で充分とし(ポッター『山本五十六の生涯』159頁)、米国の目をそらすために空母2隻をアリューシャン作戦に充当した(ポッター『山本五十六の生涯』234頁)。これには山本の誤算があったようだ。山本は、空母ヨークタウンは珊瑚海海戦で轟沈されたと思っていたので、「太平洋艦隊に残る空母は二隻。全部出てきたとしても、南雲部隊は二対一の優勢」となって、日本側が「負けるわけがない」(ポッター『山本五十六の生涯』162頁)としたからである。

 もっと深刻な問題は、聨合艦隊内部でもミッドウェー作戦の主目的が異なっていたということだ。山本五十六らはが、「ミッドウェー作戦の主目的を米空母の捕捉撃滅においた」が、南雲機動艦隊司令長官らはミッドウェー作戦の主目的をッドウェー島の攻略においていた。これは、ドゥリットル空襲後も、軍令部は、「不確定な敵空母の出撃を期待する作戦を主目的に示すのは適当でないと判断し、ミッドウェー島の攻略、哨戒基地などの前進を主目的として示した」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』123頁)いたことに呼応していた。南雲、草鹿は軍令部の艦隊決戦を主軸とする邀撃論者なのであり、軍令部は山本聨合艦隊の航空主兵論を牽制するために送り込まれた如きものだった。南雲らには、初めから敵空母撃滅などは主目的ではなかったということだ。『戦史叢書 ミッドウェー海戦』(588頁)も、本作戦で「航空主兵の思想に徹せず、戦艦主兵の思想が大きく残って」いて、「海軍の兵術思想の転換が中途半端」であった事を日本敗因の一つにあげる。これに対して、「米海軍は、真珠湾における戦艦群の壊滅的損害によって、いち早く航空主兵の思想に転換」し、「優大な国力、工業力などもあって、日米両国間の航空軍備力には格段の差を生じつつあった」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』649頁)のである。
 
 さらに、戦艦の空母護衛が弱いという問題もあった。山本は、「戦艦部隊はミッドウェー、アリューシャンの中間に配置し、戦況の進展にともない、そのいずれにも支援できる体制をとるのが良策と考え」、戦艦部隊を空母から離れて配置したのであった。これに対して、連合艦隊参謀たちは、「南雲部隊が先頭に進み山本大将の主力部隊はその後方300マイルに位置する」ことは「空母部隊を裸状態にするものではないか」と疑問を抱き、第二航空隊司令官山口多聞少将は、「全部隊を空母、戦艦、駆逐艦編成の三つの機動部隊に組み変える提案をした」が、受け入れられなかった(ポッター『山本五十六の生涯』161ー2頁)。アメリカの軍事専門家の多くは、「山本部隊が南雲部隊と行動をともにしていたならば、その対空砲火で空母に襲いかかる米機を追っ払えたろうし、有利な全般指揮もできただろう」(ポッター『山本五十六の生涯』234−5頁)とする。『戦史叢書 ミッドウェー海戦』(588頁)も、山本長官が出撃し、「聨合艦隊旗艦が無線封止となったため適切な作戦指導を行ない得なかった」ことを日本敗因の一つにあげる。
 
 珊瑚海海戦 これは、「第一段作戦で占領した要地の外郭を占領拡大し、来るべき連合軍の強烈な反攻に対する防衛線を固めよう」として実施された。そこで、「珊瑚海に飛行哨戒の眼を拡げる為に飛行基地獲得を目的とすると共に将来ニューカレドニア、フィジー方面に進出し米豪遮断作戦を行う足がかりを得よう」とした。さらに、「引き続きポートモレスビー及ニューギニア南東部の要地占領を行う予定」(宇垣纏『戦藻録』111頁)だった。5月3日日本海軍はソロモン諸島南部のツラギを占領した。

 しかし、これは「米軍の戦略計画」と相容れぬものであった。マッカーサーは、「ニューギニア南東部及ポートモレスビー」は日本進出阻止の航空基地であり、「比島奪回作戦の発足点」なのであった。故に、米軍は「強烈な・・抵抗」(宇垣纏『戦藻録』111頁)をする。翌4日米空母機がここを奇襲した。7日、第五戦隊、五航戦を基幹とする日本海軍部隊は敵空母へ攻撃隊発進するが、「給油艦の誤認」であった。一方、ポートモレスビー攻略船団の直衛についていた小型空母祥鳳が、敵空母に撃沈された(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』95頁)。

 8日朝、「彼我二隻ずつの正規空母により、世界史上初めて空母同志の航空戦」が行なわれた(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』95頁)。日本側は敵空母サラトガ、ヨークタウンを撃沈したが(後にヨークタウンは撃破は訂正)、日本側空母翔鶴は被弾し、攻略作戦を中止した。14日、第五航空戦隊(司令官原忠一少将、空母翔鶴、瑞鶴。第四艦隊に編入)は、大激戦で、瑞鶴は搭乗員の40%、翔鶴は30%を失うなどを報告した(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』114頁)。この惨状に開戦以来の勝利に慣れた指揮官を混乱させ、第五航空戦隊の第二次攻撃可能機数はまだ戦闘機24機、艦爆7機、艦攻9機あったが、第四艦隊司令長官井上成美はポートモレスビー攻略を断念し、「機動部隊の攻撃行動を止め」る旨を命令した。第四艦隊は「祥鳳一艦の損失に依り全く敗戦思想に陥」(宇垣纏『戦藻録』114−5頁)った。そこで、宇垣聨合艦隊参謀長は第四艦隊参謀長に、「戦果の拡大 残敵の殲滅を計らざるべからず」と打電した。これによって、井上中将は、戦機を見れず、戦には弱いとされることになった。

 17日、翔鶴修理に3ヶ月を要することが判明し、連合艦隊は瑞鶴のみ「FS作戦に間に合うように戦力を回復するよう指導」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』114頁)した。5月24日、原忠一第五航戦司令官が宇垣を訪ね、「帰還報告」をした。原は、7日損害で「海軍を止めんと思」ったが、8日「漸く敵に損害を与え得たるも、我も亦傷つき、北上せよと云はるれば喜んで北上し、攻撃に行けと云はるれば行くと云ふ状況にて、戦果の拡大の事も頭にはありたるも、之を断行するの自信無かりし」と告げた(宇垣纏『戦藻録』119頁)。

 この海戦で、日本海軍は、「米正規空母二隻を撃沈破した」が、自らも「小型空母一隻沈没、正規空母一隻、搭載機約100機を失う損害を出し」、「この海戦に参加した正規空母二隻も、その戦力回復には約三ヶ月を要する見込み」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』648頁)となった。この「戦力回復中に、米空母の誘出撃滅、攻勢の持続などを目的としてミッドウェー作戦を行な」うことになる。しかも、当時五航戦は「一、二航戦に比し、格段と技量が劣っていると見られていた」のに、「珊瑚海海戦において大勝利を報じた」ため、一航艦は「妾の子でも勝てた」とし、米空母を過小評価することになった(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』125頁)。草鹿第1航空艦隊参謀長らは、「珊瑚海海戦で勝利を得た五航艦の伎倆からみて」、「一、二航戦の現戦力について、作戦上大した不安は感じていなかった」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』166頁)のである。海軍航空本部総務部長大西瀧治郎少将は、「戦争に勝って(米軍は空母レキシントン撃沈、日本軍は小空母祥鳳撃沈)戦略に負け(南方資源の確保の頓挫)」、「六対四で日本の辛勝」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』151頁)とみた。

 だが、珊瑚海海戦に関しては、日本は勝ったとか、辛勝したとかというレベルで見るべきではなかった。日本海軍は、この珊瑚海海戦から、空母の奇襲攻撃とは違い、正面からの空母航空戦では双方に甚大な被害がでるという教訓と、故にこそ損耗補給力たる国力、生産力が今後の勝敗を左右する決め手であることを改めて学ぶべきなのではあった。だが、差し迫ったミッドウェー作戦のためにその戦訓を生かすことなく、日本海軍はミッドウェー作戦に突入することになった。

 米国の日本空母撃滅執念ー日本海軍暗号解読 こうして、旧来の戦艦主導で、17年6月5−7日ミッドウェイ海戦が強行され、「世界史上空前の空母戦」(ポッター『山本五十六の生涯』267頁)が展開されたが、日本側の作戦は完全に裏をかかれた。米海軍は「日本海軍の暗号を解読」し、「米太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は、山本大将の予想に反して、すでに一ヶ月前に山本大将の計画を探知」(ポッター『山本五十六の生涯』167頁)していた。つまり、太平洋艦隊司令長官ニミッツは、既に4月末頃からの「日本軍暗号の断片的解読」から、「日本艦隊が近く太平洋正面でなんらかの大作戦を企図している兆候」を掌握していた。ニミッツは、「ミッドウェーの戦略的地位から同島が最も可能性が大きい」として、5月3日、同島を訪ねて、防備強化を打ち合わせた(562頁)。暗号解読が進むにつれて、日本軍「作戦の全貌」が浮かび上がり、AF進攻という言葉が多く出てきた。5月中旬、AFについて、ニミッツはミッドウェーと判断したが、ワシントンはハワイとみたり、陸軍航空部隊はサンフランシスコと見た。

 5月11日頃、ハワイ情報関係者はニミッツ承認を得て、ミッドウェー指揮官に「清水蒸留装置が故障」という平文無線を発信した所、2日後、日本軍暗号から「AF清水が欠乏」という部分が解読され、遂にAFがミッドウェーだと判明した。5月15日、ニミッツは「艦隊の侵略への対抗」布告を発し、ミッドウェー攻略への邀撃作戦の準備を急いだ。16日、ニミッツは、南太平洋に行動中の空母三隻に「大至急真珠湾に帰投する」ことを命じた。しかし、日本機動部隊の「適確な来攻時期はなかなか判断がつきかねていた」のである。5月26日まで、ハワイ情報隊は、「日本艦隊の進攻計画の全貌を明らかにした長文の電報」を傍受解読し、「各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期」や、「南雲部隊の空母は『瑞鶴』を含まない4隻で、その来攻時期は6月3日から5日の間、来攻方向はミッドウェーの北西からである」事などを明らかにした。しかし、ワシントンではこれを全幅信用せず、米本土西海岸進攻などの懸念を持っていたが、ニミッツは「日本軍がサンフランシスコなどを空襲するのに地上部隊を伴うはずはな」いとして、「断固として自己の主張を譲ら」なかった。だが、5月26日、日本軍は暗号を変更し、「情報隊はその解読ができなくな」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』561−3頁)った。

 こうして米側は、「すでに日本側の作戦兵力の概要、進行ルート、作戦開始概定日などはわかってい」て、「まず勝利の半ばを手中におさめ」(ポッター『山本五十六の生涯』167頁)ていた。そして、ニミッツら米軍指揮官は、「海戦の決定的要素は航空攻撃にあるという真珠湾の教訓」を生かして、「近づく南雲艦隊にありったけの飛行機を集中する決意を固めていた」(ポッター『山本五十六の生涯』173頁)のである。

 しかし、その情報によれば、日本艦隊は「米艦隊よりもはるかに巨大」なので、ニミッツは「気が重かった」のである。ニミッツは、アリューシャンには「ロバート・シオボールド少将指揮の巡洋艦5、駆逐艦14、潜水艦6」をあて、「ミッドウェーに可能な限りの戦力を注ぎ込むことにし」、空母3隻(ホーネット、エンタープライズ、ヨークタウン)、巡洋艦6隻、駆逐艦9隻を投入した。この三隻の空母が「日本艦隊を食い止める米国の全勢力」であり、「もし三隻の空母が戦いに敗れたら、ミッドウェーを失うばかりか、つぎはハワイを失い、さらに米本土西岸が山本大将の戦艦の砲火にさらされる」(ポッター『山本五十六の生涯』167−171頁)と思われた。

 5月28日には、米側は、「日本軍のミッドウェー攻撃計画がかなり正確に判」り、ニミッツ大将は「作戦計画29−42号」を発令した。そこでは、空母部隊は、「敵空母部隊の奇襲を期待しながらミッドウェー北東方海面を行動」し、「大消耗戦を行なって敵に最大限の損害を与える」とした。確実に日本空母を射止めよという米国海軍と、最後まで米国空母は出現しまいとしていた日本第一機動艦隊との間には、「やる気」の真剣度の相違が大きかった。

 つまり、南雲部隊は米側空母3隻が待ち伏せていることに気づかなかったし、そういう事態はないという先入観にとらわれていた。南雲中将は、「前途には待ち構える米空母は一隻もないと信」じ、6月2日南雲は「敵情判断」で、@「敵はわが企図を察知せず、少なくとも5日早朝までは発表されざるものと認む」、A「敵空母を基幹とする有力部隊、付近海面に大挙出動中と推定せず」、B「われは『ミッドウェー』を空襲し、基地航空兵力を壊滅し、上陸作戦に協力したる後、敵機動部隊もし反撃せば、これを撃滅すること可能なり」(ポッター『山本五十六の生涯』175−6頁)と、現実離れの判断をすることになった。

 一方、5月29日、スプルーアンス少将指揮下の第16任務部隊(空母エンタープライズ、ホーネット、巡洋艦6隻、駆逐艦9隻)は、真珠湾を出撃してミッドウェー北東方海面に向かい、翌31日、フレッチャー指揮下の第17任務部隊(空母ヨークタウン[短期修復]、巡洋艦2隻、駆逐艦6隻)が真珠湾を出撃して、スプルーアンス隊を追った。6月3日、両部隊は「予定会合付近で合同」し、6月4日、「哨戒機の船団発見の報を入手」したが、ニミッツ大将から「敵空母以外のものに攻撃を繰り返すな」と注意されていたから、日本軍空母をひたすら待った(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』390頁)。南雲と違って、米海軍の執念のこもった主目的は初めから日本空母撃沈であった。

 南雲艦隊の哨戒不備 「レーダーを装備していない第一機動部隊が、一刻も早く来襲機を発見する」には、「なるべく遠方に警戒艦を配すること」、「見張りの飛行機を四周に配して哨戒させること」の二つがあった。しかし、南雲は、「遠距離見張り機関を配せず、空母付近に集中している艦艇の視覚の見張りに頼っていた」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』430頁)のであった。

 5月26日第一機動部隊は赤城で「作戦計画の説明と作戦打ち合わせ」をした際、「索敵が不十分」という意見がだされた。索敵担当の吉岡忠一参謀は、@「敵艦隊が出現すること」をほとんど想定せず、A当時艦攻が索敵機だったので、「攻撃兵力が減る」ことをさけるために、十分な索敵を怠っていた(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』165頁)。

 「米国側の警戒は厳重」で「毎日夜明け前からミッドウェーのカタリナ飛行艇が飛び立ち」、6月2日夜、「二機の米偵察機が南雲部隊に近づ」き、赤城電信室が「米偵察機のものらしい電波」をキャッチし、さらに赤城見張り員が「夜空を流れる電灯の光」を発見したが、「南雲中将らは、見張り員は流星を見間違えたもの」と誤判断した。南雲は、珊瑚礁海戦の教訓(@「米国側が戦意に燃え」ていたこと、A「空母戦の勝利は、先制発見が最大の要素」である事)を学ばないのみならず、レーダーがないのに、哨戒機を頻繁に出して敵情探索することもせず、「戦場に向かう艦隊として」の「初歩的な注意」すら怠っていた。南雲は「無神経に近い不注意」で「ミッドウェー接近の途中、・・一機も索敵機を飛ばしていない」(ポッター『山本五十六の生涯』177−8頁)のである。

 6月3日頃大本営から「敵機動部隊らしいものがミッドウェー方面に行動中の兆候がある」という情報が入り、6月4日夜、聨合艦隊旗艦は「敵空母らしい呼出符号を付近に傍受」した。山本長官は黒島参謀に「一航艦に転電する必要はないか」と尋ねると、黒島は、「あて名に一航艦も入っており、当然受けておるだろうし、その搭載機の半数は艦船攻撃に備えているので、無線封止を破ってまで知らせる必要はなかろう」とした。後に、黒島は転電していれば、第一機動部隊は敵空母の存在に配慮したであろうとした。佐々木通信参謀は、「無線封止中でもあり、また一航艦は聨合艦隊より優秀な敵信班をもち、しかも敵に近いので、当然『赤城』もこれをとっているだろうから、とくに知らせる必要はあるまい」として、打電しないことにした(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』249−250頁)。しかし、南雲部隊はこれを傍受していなかった。

 6月4日午前2時45分、南雲部隊はミッドウェーの北西250マイルに到着し、赤城が全パイロット集合を命じた。南雲は、「いぜんとしてミッドウェー近海に米空軍はいないものと判断」していたが、米空母出現に備えて半数の飛行機は待機させた。しかし、南雲部隊の索敵は「不注意かつその場しのぎの傾向が強」く、悪天候や事故も重なって、米空母を発見できなかった。4隻の空母から108機が発進し、総指揮は中国戦線の経験者の友永丈一大尉であり、急降下爆撃隊36機の指揮官小川正一大尉、戦闘機36機の指揮官菅波政治大尉は「真珠湾空襲いらいのベテラン」であった。米軍索敵機は、日本飛行隊発進、空母の位置を探知し報告し、ただちにミッドウェー基地から爆撃機、戦闘機が飛び立った(ポッター『山本五十六の生涯』180−3頁)。

 6月4日午後4時30分、利根は敵機10機発見を報じ、赤城は艦戦3機を追跡させたが、敵機は逃亡し、南雲は「この敵機発見は誤認」とした。午後11時50分、第一機動部隊は「敵飛行機らしいもの」を2回発見したが、南雲は「測風気球の灯を誤認したもの」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』265頁)とした。南雲にとって、主目的はミッドウェー攻略であり、空母撃滅ではなかったし、敵空母艦隊はいないという先入観から、索敵機の敵機情報すら誤認としてしまったのである。

 6月5日現地時間4時30分(日本午前1時30分)、南雲機動部隊は、上空警戒機、ミッドウェー攻撃隊、対潜直衛機、索敵機を発進させた。6時34分にミッドウェー攻撃を開始し、7時にミッドウェー攻撃隊指揮官友永丈市大尉が第二次攻撃の要のありと報告してきた。

 兵装転換の迷走 南雲は、索敵機から米空母発見の報がなく、かつ米軍陸上機攻撃を目撃し、友永の第二次攻撃隊の必要の電信を受けて、6月5日現地時間7時15分に「第二次攻撃隊の任務を空母攻撃から飛行場攻撃に変更」し、第二次攻撃隊は魚雷を陸用爆弾に変えることを命じた(第一次兵装命令)。これが作戦をつまずかせる端緒となる。

 7時28分、索敵飛行中の利根機から、「一群の米艦艇」発見の報が入る。米機動部隊ならば、作業を即刻中止し、魚雷装填しなさねばならず、南雲は「艦種知らせ」と返電した。利根は「巡洋艦5隻、駆逐艦5隻」と報告してきたので、草鹿参謀長は南雲に空母はいないという返電を手渡した。基地攻撃方針は変更されなかった。しかし、利根機は「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う」と報告してきた。南雲部隊は驚愕した。南雲は、ならばなぜ艦載機が攻撃してこないのか、潜水部隊の報告がないのはなぜかと疑問を持っていると、利根機から「さらに巡洋艦らしきもの二隻見ゆ」と報告してきた。南雲は、「これだけの大兵力であれば、空母が含まれていることは容易に推測」できた頃、友永機が戻ってきた。南雲は、@「もし友永隊を収容するために空母の甲板をあければ、米機動部隊攻撃はおくれる」、A「それでは、直ちに攻撃隊を発進させるべきか」、B「戦闘機隊はヘンダーソン隊の迎撃にあたり、出撃には燃料爆薬の補給を必要とする」からこれを補給するべきかどうかを種々思案した。南雲は、「友永隊を収容し、爆弾を再び魚雷に変え、さらに戦闘機隊の補給も完了し、万全の準備をととのえた上での米機動部隊攻撃を決定」(ポッター『山本五十六の生涯』186ー8頁)した。そこで、南雲は、在空戦闘機の収容を発令し、甲板上の第二波攻撃隊を格納庫に納め、兵装を対艦魚雷に転換せよと命令した(第二次兵装命令)。

 しかし、緊急空母戦闘に際して、「戦む闘機の護衛がなくとも、なぜ直ちに急降下爆撃隊を発進させなかったのか?全面的な空母戦の場合、無援護の爆撃隊投入の危険は避けられない。現に米軍側は、無謀なまでの危険をおかして攻撃しているのである。それなのに、なぜ南雲中将はそうしないのか?」という疑問が生じた。第二航空戦隊司令官山口多聞少将は、「“一隻”の空母に警報を感じとっ」て、「すぐ行動に出る必要があると考え、『直ちに攻撃隊発進の必要ありと認む』と南雲中将に進言」した。

 だが、現地時間午前8時30分(日本時間は午前5時30分)、南雲は「戦闘機なしの攻撃は危険が大きすぎる。友永隊を無事収容したのち、全力をあげて米空母に一撃を加えよう」と決定した。4隻の空母の甲板では、「友永隊の着艦のために半ズボン姿の整備兵たちが雷爆撃機を格納甲板に下ろし」「格納甲板では、さらに魚雷を爆弾にとりかえ」た(ポッター『山本五十六の生涯』189−190頁)。南雲の空母使用法も拙劣であり、このように空母4隻を同時に装備取替え作業に従事させることなどは無防備そのもであり、そもそも「も二隻を攻撃用、二隻を防禦用にあてていたら、寄せくる米機の撃退は容易」だった(ポッター『山本五十六の生涯』236頁)。南雲艦隊の担当参謀だった源田実もまた、「敵の母艦が発見せられた時に、ミッドウェー攻撃隊の収容を中止し、たとえ陸上攻撃の装備をしていたとしても、控置してあった爆撃隊をすぐさま発進せしめていたならば、少なくとも互角の勝負はできたであろう」(源田実『真珠湾作戦回顧録』129頁)と指摘している。実際、後に一航艦司令部は、空母飛行隊の一部は「即時発進可能の状態にあらしむるを要す」るため「上空直衛機、対潜警戒機等の発着は一艦乃至二艦に限定し、他は全部攻撃に備ふるを要す」から、「『ミッドウェー』攻撃隊は激戦後燃料不充分の状態にて帰着せしも、之が収容は該状況に於ては後回しとし、已むを得ざれば之を不時着せしめ、搭乗員のみ救助するの手段に出づべかりしなり」(一航艦司令部所見[『戦史叢書 ミッドウェー海戦』411頁])と批判している。なお、この時の戦訓で、「のちの空母戦隊は三隻編成となり、そのうち一艦を防空の担任艦とする編制」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』431頁)となった。

 日本惨敗 一方、6月5日現地時間午前7時(日本時間は午前4時)、「ミッドウェー基地の海兵隊機の南雲部隊攻撃が開始されたとき、スプルーアンス少将は、まさに攻撃の時が至り、最良の地点(南雲部隊から150マイル)に到着したことを知」り、「いまから行けば、ちょうど友永隊が南雲部隊に着艦中の最も手薄なチャンスをねらえる」と判断して「雷撃機の発進」を命じた。ホーネットからは第八雷撃隊15機、爆撃機35機、戦闘機10機、エンタープライズから急降下爆撃機33機、雷撃機14機、戦闘機10機、計117機が発進した(ポッター『山本五十六の生涯』193頁)。

 日本空母から一番機発艦した際、米国空母エンタプライズ、ホーネットから「敵機来襲」してきた。 日本側は、「在空戦闘機の収容」を発令せず、攻撃機出撃まで上空警戒させておくべきだった。だが、空母や搭載機をまもる戦闘機は上空にはなく、低空に集まることになった。。現地時間6月5日午前10時5分(日本時間7時5分)、エンタープライズ隊は日本空母4隻を発見、指揮官は「南西方から接敵して近い空母二隻を目標に選」び、第六索敵爆撃機中隊を左空母、第六爆撃機中隊を右側空母に攻撃させようとしたが、第六爆撃機中隊には命令が達しなかった。現地時間10時22分(日本時間7時22分)、第6索敵爆撃機中隊と、第六爆撃機中隊の一部との25機が左空母(蒼龍)を奇襲し、「二発の至近弾と四発の命中弾で大火災」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』400頁)となった。第六爆撃機中隊の残りの5機が右空母赤城を攻撃し、三発の命中弾で大火災を起こさせた。旗艦が赤城から長良に移転した。

 さらに、米敵機は加賀を撃沈させた。4日現地時間午後10時50分、山本は、敵艦上機・陸上機の攻撃で加賀・蒼龍・赤城が炎上しているという南雲部隊次席指揮官阿部弘毅少将電報で「唇をかみしめ」、「即刻、南雲部隊救援に向かい、全戦闘の指揮をとるべき」ことになったが、ポッターは「本来なら作戦の最初から採るべきであり、ときは遅すぎた」(ポッター『山本五十六の生涯』219−220頁)とした。被弾当時、「各空母はまだ攻撃準備中で、一航艦の兵装復旧(現地時間7時45分[4時45分]、雷装へ)も完成して」おらず、「各空母では、艦爆や艦攻はほとんど全部が燃料を満載しており、飛行機には搭載を終わり、あるいは搭載中の魚雷や爆弾、さらに取りはずした爆弾などが付近にあり、艦内は最も悪い状況にあ」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』329頁)り、これが被害を悪化させた。

 珊瑚海海戦では空母対決は双方に大被害があったが、このミッドウェー海戦では米側には空母撃滅執念と幸運の勝因が重なった。つまり、「米空母部隊の攻撃は種々の錯誤が重な」り、雷撃機は全滅し、飛行機の損害は大きかったし(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』401頁)、米国の雷撃水準・水平爆撃水準・空戦水準は低く急降下爆撃精度も悪かったが(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』409−410頁)、「偶然にも雷撃機隊の最後の攻撃と爆撃隊の攻撃の時機が一致し、しかも三コ中隊の急降下爆撃下が運よくほとんど同時に攻撃するという幸運に恵まれ」、かつ誘爆連鎖で「日本軍空母部隊の空母四隻中三隻に大火災を起こさせる大戦果を収め」たのである(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』401頁)。この米国側の幸運を敷衍すれば、直衛零戦が低空で最後の米軍雷撃機攻撃を迎撃するために飛行中であり、空母上空は無防備状態であり、敵はこの間隙の幸運をつかむことが出来たということである。この幸運は、文字通りの幸運だったというより、米軍が意図的に雷撃機攻撃で零戦を上空から移動させ、その虚に乗じて一気に急降下爆撃を敢行するという作戦を立てていたという執念の女神のもたらしたものかもしれない。米軍は、日本空母を撃沈して、真珠湾攻撃への報復をはたし、低迷する戦局の転換に全精力を注いでいたということだ。

 生き残った飛龍から航空隊が出撃し、友永大尉は空母ヨークタウンに体当り、撃沈させた。だが、現地時間午後2時30分(日本時間11時30分)、フレッチャー指揮下のヨークタウンの索敵機は第四番目の日本空母飛龍を発見し、スプルーアンスもこの知らせを受けて、3時、「最大の兵力」で攻撃することを決意し、3時30分エンタープライズの爆撃機11機、ヨークタウンの爆撃機14機を発進させた(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』404頁)。現地時間午後4時58分(日本時間1時58分)、エンタープライズ攻撃機は空母、ヨークタウン攻撃機は戦艦を攻撃目標にした。エンタープライズ攻撃隊は空母の「見事な回避運動」で爆撃を命中させられなかったので、急遽ヨークタウン攻撃機が空母攻撃に加わり、3発命中させた(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』405頁)。

 飛龍も敵機攻撃で機能喪失し、ここに日本海軍は飛龍を放棄せざるをえなかった。5日午後5時55分、南雲から山本に飛龍放棄の知らせがあり、山本は「日本機動部隊は全滅」したことを知った。だが、山本はあきらめずに、残っている小型空母2隻(鳳翔・瑞鳳)とアリューシャンからかけつける空母2隻(龍驤、隼鷹)があり、飛龍が既に2隻撃破していたので、残る敵空母1隻を撃破しようとした。午後7時15分、山本は全軍に、「敵機動部隊は東方に退避中にして空母は概ね撃破」したと繕い、「当方面連合艦隊は敵を急追、撃滅すると共にミッドウェーを攻撃せんとす」とした。東京軍令部永野総長・伊藤次長らは憂慮し、空母4隻撃沈でも「日本海軍の勢力は、あらゆる艦種で米海軍をしのいでいる」(ポッター『山本五十六の生涯』221頁)として、これ以上の大打撃は優位を失わしめるとした。

 黒島亀人首席参謀らは「日中にミッドウェー島に接近し、艦砲射撃で施設を破壊する計画」を提案した。しかし、宇垣参謀長は、「軍艦と陸上要塞と戦っては、軍艦に勝ち目がないこと」、基地航空機・空母機攻撃や潜水艦攻撃で損害をだすとして、これに反対した。宇垣は「日本海軍には建造中のものを含めて8隻の空母がある」から、「戦闘のための戦闘で損害を増すよりも、もう一度体制を整備して次のチャンスをねらうべきだ」と主張した。一参謀が「お上にたいして申しわけがない」と叫ぶと、山本は「お上には、わたしがお詫び申しあげる」(227頁)として作戦中止を決意した。6日午前2時55分(日本時間5日午後11時55分)、「ミッドウェー攻略を中止す」と電命した(ポッター『山本五十六の生涯』226−7頁)。

 空母勢力の衰退 かくて「ミッドウェー海戦は日本側の敗退で終わ」り、「太平洋戦争の戦勢は逆転」してしまった(中田整一『淵田美津雄自叙伝』247−256頁)。日本側が「失った四隻の空母は、参加全艦隊トン数の43%」であり、「さらに大きな損失は、熟練パイロットと乗組員の大量の死亡」であり、結局、日本は空母・パイロットなど「戦闘能力の50%」を失ったのであった(ポッター『山本五十六の生涯』239頁)。つまり、日本側は、「米軍よりはるかに優勢」な大部隊をミッドウェーに派遣したが、空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍が沈没し、さらに重巡2隻が沈没・大破、駆逐艦2隻が中破、戦艦・駆逐艦・油槽船各1隻が小破となって、日本側は大被害を被ったのである。これに珊瑚海海戦被害を加えると、日本海軍は、空母攻撃空母4隻・小型空母1隻・正規空母1隻を失い、搭載機も400機も失ったことになる。その結果、日本海軍は、航空機不足、空母不足で「直ちに新攻勢作戦を企図することができなくなった」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』648頁)のであった。

 一方、米海軍は、「開戦以来日本海軍から受けていた攻勢を払いのけ、その豊富な軍備力と日増しに充実する戦力を発揮して、攻勢に転ずることを期待できる時間的余裕が得られた」のであった。ただし、日本海軍は、「近く攻撃に使用できる空母4隻を整備することができ、かつ搭乗員の士気は旺盛で、その技量も優秀であったので、なお優位にあ」り、従って、短期的には「わが方が万全の努力を尽くして、すみやかにその戦力を回復して、敵に先んじて攻勢を再開して先手を確保することができるか、米軍がそれより先に攻勢に転じ得て先手を奪回しうるかにあった」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』648−9頁)のである。

 海軍は「喪失した主力空母の欠を早急に補うとともに、さらにはその急速増勢を図」ろうとして、17年6月30日、海軍省は「航空母艦増勢実行に関する件」の海相決済を得た。そこでは、@飛鷹、大鯨、新田丸の空母「改装完了」を急ぐこと(630頁)、Aアルゼンチン丸、シャルンホルスト丸、千歳、千代田、ブラジル丸の18年度空母改装を「極力」促進すること、B110号艦は19年12月完成し空母改装すること、C飛龍型、130号艦(大鳳)は「建造計画中」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』629−630頁)とあった。

 大西の航空母艦整備論 しかし、大西瀧治郎航空本部総務部長はこの空母急増は「時機を失する」と批判して、「航空母艦整備方針に関する意見」を作成して、片桐英吉航空本部長はこれを提出したが(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』632頁)、既に時機を大きく失していたのである。大西は、冒頭「結論」で、「現計画の大部を本型補助空母に変更し、多数を超急速に整備」し、「今後実施予定の商船其の他の空母への改装に当りては本型補助空母に対する思想を成る可く適用」するとした(633頁)。そして、大西は、@「今や『ロケット』式徹甲爆弾は世界の常識」となるという「爆弾威力の進歩」、A急降下爆撃の「対空母命中度は米空母搭乗員の技量を以てするも1/3程度は予期」できるが、これを戦闘機で阻止することは困難であること、B「相対抗する空母が相互に攻撃を実施する場合・・結局相殺するを常態」とすることを「基礎観念」として指摘する。その上で、大西は、「空母の一部を緒戦期に於て敵側に配置し、之をして敵空母と刺し違へを覚悟し、成る可く早期に敵全空母の活動を先制封殺せしめ」た上で、「控置空母其の他全兵力を挙げて敵艦船兵力を徹底的に撃破」するとした。

 さらに、大西は、「空母を以てする海上交通破壊戦」は「今後に於ける海軍作戦中・・極めて有効」とした。また、大西は、空母3隻が兵装転換して急降下爆撃で撃沈されたことを踏まえて、空母単艦の攻撃は「普通一回」か「情況有利なる場合 二回」に過ぎず、「仮令着艦収容及艦上に於ける各種補給の速度等に関し 多少改善を行ふと雖も、単艦を以てする連続攻撃能力は望み難」いとした。そして、大西は、「従来は実戦の実情に適応せざる点に対し大なる努力を払ひ 為に空母の機構を複雑化し、又過重の爆弾燃料等を搭載し、其の結果空母の脆弱性を助長したる傾向」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』633−4頁)があったと反省した。

 その上で、大西は、改めて空母の「絶対優勢」(空母航空機の艦戦に対する絶対優勢、洋上戦闘における空母の艦戦に対する絶対優勢)と「極めて脆弱」なことを踏まえて、従来の「寡を以て衆を敗る方策」(個艦攻防力の増強、アウトレーンヂ戦法、搭乗員技量改善など)を批判的に反省して、個艦能力向上より「空母数を成る可く多数整備するは最大緊急事」とした。そこで、大西は、米国より「劣少」な「造艦能力」で「敵を凌駕する空母数を整備」するために、「空母を極度に簡単化し多量生産主義に徹底する」ことが不可欠とした(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』634頁)。

 また、大西は、国策研究会(矢次一夫主宰)で元大臣・予備役将官・貴衆両院議員らを相手に講演し、持論の「大空軍論」を展開した。大西は、@「緒戦の大勝は空軍の力であり、もはや、大艦巨砲主義は時代遅れであります。いまの海軍省は空軍省と改称し、水兵の帽子についているイカリのマークは、鷲のマークになおすべきである」とし、A「この大戦を勝ち抜くためには、空軍の増産こそ必勝の策であり、大増産のためには、製造中の6万トン級大戦艦を即刻、とりやめ、これを挙げて空軍の増産にふり向け」、B「書類ブローカーに過ぎぬ」「海軍大臣から、総理大臣と各大臣およびこれらに付随して動きまわる官僚」を「工場の中に叩きこみ」「戦時生産行政を徹底的に簡素化」するげきと主張した。聴衆は、「大西なればこその発言だと、感嘆、共鳴の拍手」をした。しかし、大西は海軍次官岡敬純(艦隊派)に呼ばれ、「えらい大演説をやったそうだが、困るな。以後は自重してくれ」(153頁)と注意された。このように、大西は、「事あるごとに航空至上主義を唱えていた」が、「大西に対する反感と抵抗ははげしく、大艦巨砲主義の怪物的戦艦は、依然として建造がつづけられていた」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』152−4頁)のであった。

  しかも、実際には、「空母の建造や改装は短期間に行なえるものではな」く、17年に改装空母3隻(飛鷹、冲鷹、龍鳳)ができたのみで、18年前期には竣工艦はなかった。日本空母艦隊は衰退し、米国空母艦隊に大きく水をあけられたのである。そして、ミッドウェー海戦で、アメリカは「『海軍航空力の優位を確保し・・・その結果、海軍力全体の優位』を確実にし」、「日本軍の軍事物資不足に加え、『お粗末な作戦指揮と戦術』(US Strategic Bombing Survey,Summary Report,pp.5-6)のおかげで、・・日本の海上輸送、兵員増強、補給の首を『締め上げ』始めて」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』102頁)ゆくのであった。

 南雲の敗戦責任 南雲は、責任を痛感して自決をしようとしたが、「自決を押しとどめられ」大和に戻って、山本に「泣いて非を詫び」(近江兵治郎『連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち』テイ・アイ・エス、2000年[工藤美代子『山本五十六の生涯』449頁])た。山本は南雲を「いたわ」った。この点を補足すれば、旧朝敵長岡出身の山本五十六が、旧朝敵米沢出身の南雲忠一を擁護したということであろう。

 ただし、元米沢藩士の場合には、@米沢藩は、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟したが、戦況不利となって、謝罪降伏すると、今度は庄内・会津征伐に藩兵を送るなどの変わり身の速さで、3.3万石減(庄内は4.7万石減)の14.7万石への削地ですみ、A二人の藩主上杉謙信(戦国大名で義を重んずる「越後の虎」「軍神」)・上杉鷹山(卓抜な民政事業と倹約で借財20万両を返済し,藩校興譲館を起した「中興の祖」)の影響が大きく、ほとんど朝敵汚名を晴らすというより尚武・質素倹約の精神の方が濃厚であり、B最後の藩主上杉茂憲は自費で英国に留学し、帰国後は、旧朝敵にもかかわらず、中途での変心を評価されてか、宮内省に入って、宮務に従事している。さらに、7年に朝敵榎本武揚が海軍中将になって、海軍には朝敵として差別されないという空気があり、かつ勝海舟との交流から宮島誠一郎が米沢海軍への流れを作り、具体的に小森沢長政海軍法務官(宮島誠一郎の弟)が米沢出身者(その最初の人物が山下源太郎)を海軍に誘ったと言われる。

 その結果、米沢は山下源太郎(彼のみ男爵)・黒井悌次郎・南雲忠一の3人の海軍大将、片桐英吉海軍中将らを生み出したが、彼らには会津・長岡らほど朝敵の汚名を雪ぐという意識は強くなかったようだ。山県系官僚の平田東助といい、海軍艦隊派の山下源太郎・南雲忠一といい、米沢士族は概して「体制的」であり(拙著『華族総覧』講談社、参照)、長岡ほどの旧朝敵意識は希薄であった。例えば、南雲忠一は、明治20年3月25日、元米沢藩下級士族(1石2人扶持)で上長井村村長南雲周蔵の次男として誕生し(豊田譲『悲劇の提督・南雲忠一中将』講談社、昭和48年、133頁)、長じて興譲館で学ぶが、そこでの教育は「質素倹約、質実剛健」「尚武」精神の「上杉藩の教育」であり(豊田譲『悲劇の提督・南雲忠一中将』142頁)、南雲は「上杉藩の士風を継ぐ、律儀な一軍人」(豊田譲『悲劇の提督・南雲忠一中将』374頁)となったと言われている。

  だが、立身すると、上杉武士は、尚武というより、堅実となる傾向があったようだ。南雲は「おれが戦い、そして負けたのだ。他人のせいにするのはようない。おれが責任を負うべきだ」と、「上杉武士の末裔らしく」(豊田譲『悲劇の提督・南雲忠一中将』267頁)考えたというが、こういう負けの美学ではなく、勝負の精神をこそ発揮すべきだったということだ。つまり、一旦戦争した以上、勝利こそ最大目標としなければならないということだ。ミッドウェー海戦に負けて、山本、南雲の二人は慰めあうのではなく、@まずは、連合艦隊司令長官山本は機動部隊司令長官南雲に、敵空母撃滅命令に忠実でなかったことを指摘し、Aその上で、共に勝負魂のない自らの身上と境遇をこそ深く自覚し反省するべきだったということである。

 空母改良・増産論 この海戦戦訓の一つとして、日本海軍は空母改良を検討していった。

 6月20日午後1時、大和で、草鹿1AF参謀長の主催で「過般の被害に基づく空母改良意見研究会」を開いた。「赤城、加賀、飛龍、蒼龍」の「生存者」が細密に「死生の境に於ける教訓」を述べた。21日午前8時にも、「将来建造の空母に関する問題」の研究を続行し、@「改造にせよ、新造にせよ、註文限り無く如何に精錬するも斯る空母の実現は容易ならず、今回の四艦何れも略同一の構造にして同様の状態にあり、而も本状態に最適の攻撃兵器を以てせられ、一様に火災艦内に拡大せる結果なり。此燐寸に等しき火災を防止する事、何よりの先決なり。之さへ可能ならば艦の運命に関するが如き結果とはならざるなり」、A「改装新造共 本点に主力を置くべし。教訓としては陳述する所 全く此点に集約し得べし」、Bしかし「敵にして雷撃を敢行する事 我の如く、或は徹甲爆弾の大型を使用するか、或は伊太利 独逸が已に使用し始めたるロケット爆弾を用ふる等の事あらば、本回の事を以て凡てなりとすべからず」(宇垣纏『戦藻録』151頁)とした。

 宇垣は、「今日に於て必要なるは数なり。・・只敵弾一個に依りて自艦の爆弾魚雷或は油類に引火し 大事に至らざる用意は最も肝要にして、此工夫を加へて現計画の建造はどしどし進むべきなり」(宇垣纏『戦藻録』151−2頁)とした。しかし、米国海軍はこの空母増産能力があったが、日本にはとてもかかる能力はなかった。7月18日、宇垣は、航空本部大西総務部長、片桐本部長に、「飛行機生産に関する事情」を聴取した上で、@「航空機の増給」、A「兵器の新考案、供給」、B「今後の戦争指導方針(対印作戦の実行)」を要望した(宇垣纏『戦藻録』157頁)。

 淵田らの山本批判 淵田は、この海戦で「一番みっともなかった」のは、「南雲長官の戦闘指導の失敗」よりも、「山本連合艦隊司令長官の全般作戦指導の凡将振り」とする。山本は、戦艦大和に座乗して主力部隊の戦艦群(大和・長門・陸奥・伊勢・日向・扶桑・山城)を率いて「全作戦の支援に任じ」ていたが、空母4隻壊滅とともに、敵空母2隻に追われて、「すたこらと逃げ帰」ったのであった。南雲ー山本の「逡巡」コンビが、真珠湾奇襲で手にした僥倖を自ら打ち砕き、日本海軍敗勢をはやめた。淵田は、この敗戦が「大艦巨砲組の日本海軍上層部を目ざめさせ」、空母主義の重要性を認識させ、「以禍為福」とするが(中田整一『淵田美津雄自叙伝』256−7頁)、遅きに失した。敵米国では日本空母軍をはるかに上回る空母軍(二ミッツ提督指揮の空母10隻)が建造され、 日本海軍は敗勢逆転のチャンスを完全に失った。

 若き聡明な海軍士官斎藤一好もまた、この敗因として、@日本海軍の驕り(図上演習で審判官が「両軍の損害を算定」すると、「わが軍の損害も甚大であり、これにひきつづく作戦が不可能」となったのに、審判長の宇垣纏少将が「日本のパイロットの技量は米軍のパイロットの技量と比較して三対一の差がある」として損害を再計算させ[斉藤一好『一海軍士官の太平洋戦争』19頁]、日本海軍は「慢心そのもの」だったこと)、A情報通信能力の弱さ(日本側作戦が傍受され、「米側の囮の偽電報にひっかかった」事[斉藤一好同上書、26−7頁])とともに、大艦巨砲主義の名残(空母とその護衛の巡洋戦艦・巡洋艦・駆逐艦が先頭を形成し、大和以下の戦艦部隊は後方にあって、空母群防禦体制が不充分。「防御に強い戦艦群は前方に配置」すべきであった事)をあげた。@の図演は、宇垣日記によると、5月25日午前8時半から始められている(宇垣纏『戦藻録』119頁)。もちろん、当時、斎藤は、正面切って連合艦隊司令長官山本を批判したのではなかったが、彼の批判の着眼点は的確である。聡明な斎藤は、山本長官を盲従、崇拝などは一切していなかった。だから、斎藤は、帰路、山本が腹痛を覚えたのは、「回虫による」のではなく、「敗北の痛手から神経性胃炎をおこしたもの」([斉藤一好同上書、28頁)と推測していた。


                                          C ガタルカナル作戦批判 
 ガ島の戦略的重要性 17年6月16日、山本らは、米軍がガ島を掌握すれば、「ソロモン諸島沿いに北上してラバウルに至る反攻ルートの基点となる」として、「米国とオーストラリアをつなぐ補給線にナイフ」をつきつけるべく、ガ島への日本前進航空基地建設に着手した。これに対して、ニミッツ提督は、「第一海兵師団(19000人)をガダルカナル島に派遣」を決定した(ポッター『山本五十六の生涯』241−2頁)。山本五十六は宇垣纏に、ガ島奪回できなければ、郷里へも帰れないと言った(工藤美代子『山本五十六の生涯』476頁)。山本はかなり追い詰められてガ島作戦を遂行した。

 第一次ソロモン戦争 6月9日午前1時30分、第八艦隊がガ島を攻撃し、ここに第一次ソロモン戦争(サボ島沖海戦)が展開し、「一方的な日本側の勝利」(で終わった。しかし、「ミッドウェー海戦以後、日本の提督たちの間には、極度の航空攻撃警戒心が芽生え」、「米空母の反撃を恐れて戦場離脱を急ぎすぎ」た。また、「日本海軍の伝統に従って、軍艦だけをねらい、輸送船を無視した」が、「これらの輸送船を沈めていたら、第一海兵師団は食糧、弾薬不足にみまわれ、容易に逆上陸した日本軍にせん滅されていたはず」(ポッター『山本五十六の生涯』246頁)なのである。

 第二次ソロモン戦争 以後、三週間の戦闘で、「米海軍は『エンタープライズ』『サラトガ』『ワスプ』の三空母を撃沈破され、ついに南太平洋で活躍できる空母はたった一隻、『ホーネット』だけ」になった。山本には「大艦隊、大兵力を一気に投入してガタルカナルの海兵隊を海中に追い落と」すチャンス到来であった。しかし、日本海軍の伝統的戦略思想は、艦隊殲滅が第一目標であり、艦隊がいなければ「陸上基地の攻撃は困難」(ポッター『山本五十六の生涯』24頁)というものであり、とどめさすことはできなかった、

 10月11日午後11時30分、サボ島沖夜戦(エスパランス岬海戦)で、日本側では駆逐艦吹雪・古鷹・夏雲・叢雲は撃沈、青葉は大破、衣笠は損害をうけたが、米側では、駆逐艦1隻撃沈、3隻大破にとどまった。10月13日、山本は高速戦艦2隻を派遣し、ヘンダーソン飛行場に918発砲弾を撃ち込んだ。ニミッツ提督はハルゼー部隊(戦艦2、駆逐艦23、空母2、巡洋艦6)を派遣し、山本は南雲部隊ら大部隊(空母4、戦艦4、重巡8、軽巡3、駆逐艦28、潜水艦12)派遣し、ミッドウェーのあだ討ちをはかった(ポッター『山本五十六の生涯』251−3頁)。

 10月26日夜明け、日米航空戦(南太平洋海戦)で、米側は空母1沈没、空母・戦艦・軽巡各1損傷、航空機74機が撃墜・撃破され、日本側は、空母2大破、航空機100機撃墜の損害をうけた(ポッター『山本五十六の生涯』253頁)。

 この海戦は、「南太平洋における日本海軍勢力の転回点とな」り、「南太平洋の制海、制空権は完全にハルゼー中将の手に握られ」、「日本空母部隊は再びソロモン海に姿を現わすこともなく、南雲中将にも機動部隊を率いて太平洋に出動する機会は与えられなかった」のである。日本軍は、ガ島確保をあきらめなかったが、「補給は次第に困難の度を増し、日本軍は1943年2月1日ガタルカナル撤退を開始」(ポッター『山本五十六の生涯』254−5頁)した。
 
 日本の敗北 米国は「レーダーという新兵器、圧倒的な兵力と火力」によって勝ったが、空母2隻、重巡5隻、軽巡3隻、駆逐艦14隻を失い、「その勝ち方が惨め」だった。ポッターによれば、6回の海戦のうち、「完全な勝利といえるのは『エスパラン岬海戦』」ぐらいで、3回は互角、2回は「明らかに敗北」だった。

 しかし、「ガ島戦は間違いなく日本軍とくに日本海軍の敗北」であり、日本側の艦艇損失は「米国側と同数の24隻」だから、「総合的にみれば、米国側は山本大将の連続決戦あるいは出血作戦にひっかかった」のであった。さらに、「米国側の修理造艦能力の優位は、日本側の損害を根深くさせ」(ポッター『山本五十六の生涯』255頁)たのであった。日本は「一大航空消耗戦に引き入れられ、ついに多数の優秀な搭乗員と飛行機を失うに至った」のであった。これで、日本海軍は、「ついに後手に回って、先手を回復することができなくなっ」た。この時にも、日本海軍は、「航空最重点の方針を決定し、航空兵力や空母の緊急増勢を最優先施策」としたが、相変わらず、「長年続けてきた戦艦主兵の思想」を容易に転換できぬまま、軍事的劣勢を深めて行った。これに対して、「米海軍は、真珠湾における戦艦群の壊滅的損害によって、いち早く航空主兵の思想に転換」し、「優大な国力、工業力などもあって、日米両国間の航空軍備力には格段の差を生じつつあった」(『戦史叢書 ミッドウェー海戦』649頁)のである。

 ポッターは、もし山本がこれに勝っていれば、「第二次大戦のすべては変わっていたはずである。たぶん、米空母を撃滅した山本大将は、やすやすとハワイを攻略し、米太平洋岸にせまっただろう」 (ポッター『山本五十六の生涯』266頁)とする。そうだろうか。日本側の勝利・優位は一時的であり、米本土攻撃の意図がなく、ほどなく再編米太平洋艦隊によって日本海軍は撃破されるであろう。

 作戦批判 連合艦隊航空参謀の淵田美津雄中佐は、小沢治三郎長官が率いた第三艦隊(空母翔鶴・瑞鶴とミッドウェイ生き残り)を、山本五十六が「ガタルカナルの消耗戦に、背に腹はかえられぬというのでつぎ込」み消耗させたと批判している。つまり、ガ島の基地航空隊の飛行機が減少するので、山本が翔鶴・瑞鶴の第三艦隊の飛行機を搭乗員ごと「ごっそりガダルカナル前線の陸上基地へ移してしま」い、「ハワイ以来の腕っぷしの強いのを、すっかり消耗」させることになったというのである。淵田は、これは「山本長官の失策の一つ」(『昭和史の天皇』11、捷一号作戦、昭和55年、336頁、中田整一『淵田美津雄自叙伝』258−9頁)と批判するのである。

 なぜ、山本はガ島作戦に追い詰められていたのか。それは、山本五十六は、17年末、軍需生産停滞する日本、軍需生産促進する米国、この日米国力差拡大の進展に益々悩み始めていたからである。17年10月目友人黒真澄宛書簡で、山本は、「日米両海軍は漸く本格戦期に入り、角力ならば丁度観頃と被存候。何しろ各種艦艇を次から次と失ひながら、ビクともせざる如き彼は、国力、国民気力に於て靱強と見て可然哉に被存候」(工藤美代子『山本五十六の生涯』482頁)とした。17年12月8日郷里反町栄一宛書簡では、山本は、「開戦以来一周年、敵は緒戦の小敗にビクともせず一意増産反撃に専心のところ我銃後軍需品増産の成績等は決して満足すべき状態にあらず、実に噴起躍進を要する事 切なるものあり」(工藤美代子『山本五十六の生涯』482−3頁)とした。18年1月目黒真澄宛書簡では、山本は、「今年こそは自慢じゃないが敵襲の本物(昨年のはオモチャの類だ)が度々有るのでせう。一度も空襲を受けずに増産も思ふ様に出来ぬ内地ならばツブして仕舞へといふ神意なるべく候」(工藤美代子『山本五十六の生涯』481頁)と、本土の軍需生産停滞を批判した。



                                              D 「杜撰」作戦 

作戦「杜撰」の内容 以上の「杜撰」な作戦に関しては、中川八洋氏は、日本海軍では、@「『海軍とは海上戦闘/艦隊決戦なり』の日露戦争時代のままのアナクロ的教育がなされており、“陸上攻撃こそ海軍の主たる任務”との、『現代海軍』の理論がまったく教育され」ず(中川八洋『山本五十六の大罪』167頁)、A「味方空母の護衛の研究を、ミッドウェー海戦の敗北後もやっておらず、・・空母護衛の基本陣形も知ら」ず(中川八洋同上書169頁)、B「戦争の帰趨は、第一次大戦の英独海軍間のジュットランド沖海戦を境に、『艦隊決戦』では決しない新時代に入ったことを」知らず、「太平洋を制するのは、太平洋の戦略的要衝の島々の争奪戦であることを自覚することがなかった」(中川八洋同上書174頁)ことを指摘している。

この@に関して、連合艦隊航空参謀の淵田美津雄中佐は、「海軍は開戦後二年ぐらいも『日本海海戦の亡霊』から抜けきれなかった。海軍の主力は艦船で、飛行機は補助兵力ぐらいにしか考えない」(『昭和史の天皇』11、捷一号作戦、昭和55年、335頁)と指摘している。飛行機と空母の重要性が「開戦後一週間ぐらいで、ハワイでもマレー沖でもすぐ実証」されたのに、海軍はは陸軍への対抗意識から、「長い間、日本海海戦で教えられてきているだけに、前からの惰性というのか、頭の切りかえができな」(『昭和史の天皇』11、336頁)かったのである。Aについて、航空主兵論で詳述したところである。

 Bについては、確かに太平洋の戦略的要衝の島々を要塞化するという意見もあり、前述の通り井上成美は戦略的島々を基地航空隊で不沈空母化することを提唱していた。だが、敵の根源を叩くことなく、島々を不沈空母化しようとしても、それは到底困難だったということである。

 さらに、海軍作戦の杜撰さを付言すれば、それは、戦場を離れた陸上の司令部で立案されていたということである。追い込まれた海軍上層部が実態を無視して「幻想」を抱き、、「悪あがき」していたということである。これに関して、鳥巣建之助は、特四内火艇は軍令部の「現実を無視した幻想」(鳥須建之助『回転特攻 担当参謀の回想』光人社、1995年、29−30頁)と批判し、回天特攻についても19年8月下旬第一次攻撃内示(士官乗員茶道の12−16基が10月末出撃)を「実情を無視した机上の空論」、軍令部の「おごり」、「目先の功」にとらわれた「短見」(同上書87−8頁)と批判している。

 作戦「杜撰」の根源 海軍作戦の「杜撰さ」の根源は、敵国国力を無視し、かつその削減を企図するものではなかったことによっている。

 その結果、海軍は、敵国国力削減に航空機を使用できなかったばかりでなく、敵国国力にもとづく前線補給力削減に潜水艦を使用することもできなかった。潜水艦艦長篠原茂夫少佐、井元少佐、板倉光馬少佐、山口一生少佐、鳥巣建之助らは兵員や軍需品の輸送に潜水艦を使用とする連合艦隊司令部を批判して、「潜水艦は戦略的な用法、すなわち、後方補給路遮断作戦に専用すべきであって、輸送任務などは即時中止すべき」(22頁)と主張した。19年3月5日には、第六艦隊水雷参謀の鳥巣は、潜水艦(開戦時60隻より多い70隻あったが、練習艦、訓練艦、休養艦等を引くと、「最前線で常時働けるのは10隻ないし15隻」)を「入れかわりたちかわり、敵の補給路攻撃に専念」することで「米軍の西への進攻をくいとめ、あるいはおくらせる」べきだと主張した。補充のきかない限定戦力では、勢いよく増殖する敵戦力に根源的に対抗できないが、鳥巣は潜水艦の本来的使用法を主張したのである。アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥も、「日本海軍は何を血迷ったか、陸軍の要望に従い、潜水艦を運搬艦として使用しはじめた。・・・古今の戦争史において、有力な武器がその潜在威力を少しも把握理解されずに使用されたという稀有の例」(鳥須建之助『回転特攻 担当参謀の回想』24−7頁)と批判した所以である。

 根源を踏まえた作戦を展開させることなく、ソロモン海戦敗北以後、山本五十六連合艦隊司令長官は追い込まれ、18年4月3日、山本は前線で直接指揮して士気を鼓舞しようとした。連合艦隊司令部は、「若し夫れ此の挙に於て満足なる成果を得ざるに於ては、当方面の今後到底勝算無かるべし」(宇垣纏『戦藻録』280頁)という悲壮な決意であった。しかし、もはや、司令官の前線視察による士気高揚などで、日本劣勢を挽回できるような状況ではなかった。周知の如く、敵に前線視察情報が探知され、4月18日に山本は死去し、参謀長宇垣は重傷を負った。

 以後、米軍は「圧倒的兵力と優秀な装備に物言わせてジリジリと押し進」み、「猛烈な砲爆撃」(宇垣纏『戦藻録』299ー300頁)を加え、日本軍はその反撃作戦を立案推進し、その度に兵力、兵器を失い、制空権・制海権を縮小させていった。こうして「杜撰」作戦は「ジリ貧」作戦に変化していったのである。

                                 

                                      五 海軍の被害隠蔽・戦果捏造体質
 海軍の被害隠蔽・戦果捏造体質も、こうした体質に由来していよう。 海軍には、もともと「独特の隠蔽体質からくる秘密主義と閉鎖主義と組織温存主義」(福井雄三前掲書54頁)があったのである。

 17年1月13日、軍令部総長奏上によると、「昨夕、帝国海軍潜水艦は布哇諸島西南に於て、米国航空母艦レキシントン型一隻轟沈せる由」(「小倉庫次侍従日記」[『文藝春秋』2007年4月、157頁])であったが、これは「まったくの誤報」であった。17年5月8日、「本夕、軍令部総長参上後、珊瑚海海戦の大戦果発表」(同上日記、162頁)されたが、実際には、米正規空母1隻撃沈、1隻中破で、日本側損害は軽空母1隻喪失、正規空母1隻中破であり、ほぼ互角であり、日本の大戦果ではなかった。17年6月ミッドウェイ海戦で、日本側は主力空母4隻を喪失したが、軍令部は2隻と上奏した。沈没艦船を見間違うということはありえないから、これは海軍の被害隠蔽体質を明らかに露呈したものである。 しかも、米国側は航空母艦1隻、駆逐艦1隻沈没にすぎないのに、空母2隻撃破と戦果を捏造して報告したのであった。海軍の被害隠蔽と戦果捏造は裏腹の関係だったのである。

 18年2月1日、レンネル島沖海戦では、大本営が、ほとんど戦果はなかったのに(重巡洋艦1隻沈没、駆逐艦1隻大破)、大戦果」(戦艦2隻、巡洋艦2隻撃沈、戦艦1隻、巡洋艦1隻中破、戦闘機3機撃墜)をあげたと発表した(「小倉庫次侍従日記」168頁)。18年11月17日、第五次ブーゲンビル島沖航空戦で、大本営は「大戦果」(撃沈は大型空母一隻、中型空母二隻、巡洋艦三隻、大型軍艦[艦種未詳]一隻)を発表したが(「小倉庫次侍従日記」173頁)、米国側には被害の記載はなかった。

 18年11月23日、大本営は、「敵米軍ギルバート諸島中の二島(タラマ、マキン)に上陸」(11月21日)し、「敵空母の轟沈、其の他大なる戦果を挙ぐ」と発表したが(「小倉庫次侍従日記」173頁)、24日にはマキン島、25日タラワ島で「バンザイ突撃」玉砕がなされている。

 こうした海軍の度重なる戦果捏造に陸軍も我慢できなくなった。19年10月頃の大本営連絡会議で、陸軍は、「海軍の従来の航空作戦に関する戦果が、どうも過大評価されている。われわれの統計からすると、海軍の報告はどうもあてにならない。正しい報告をしてくれなければ、正しい作戦はできない」と申し入れた。すると、海軍軍令部作戦部長の中沢祐少将が、「今までの戦果は、過大評価して報告が間違っていたことは認める。今後は絶対にそういうことのないようにする」とし、「今後は現地の報告を厳重審査したうえで、しかも軍令部としてはさらに少なめに見て、それを発表する」(『昭和史の天皇』12、レイテ決戦、昭和55年、369ー370頁)と同意した。海軍でも従来の戦果誇大発表を認めたのである。

 にも拘らず、周知の台湾沖航空戦の戦果の誇大発表となる。軍令部参謀が九州鹿屋基地で戦果をチェックし、軍令部で慎重審査して発表したにもかかわらず、大戦果が捏造されたのである(『昭和史の天皇』12、369ー370頁)。参謀本部第二課主任参謀の杉田一次大佐は「海軍が初めからウソをついて、われわれに隠していたとは思えない」と、甘い見方をするが、ここまで戦果を捏造するには海軍の構造上の問題によっているとしか思えないではないか。石油枯渇危機で海軍がいつでも無用の長物化して陸軍指揮下に編入されるのではないかという海軍特有の危機感が、このありもしない戦果の捏造となったのではないか。後に海軍は台湾沖航空戦で撃沈したはずの敵空母が健在であることに気づきはじめたにもかわらず、陸軍にこれを訂正報告することなく、その結果、陸軍のレイテ決戦悲劇をもたらす主因の一つになるのである。

 なお、この台湾沖海戦戦果「捏造」に関しては、淵田美津雄海軍中佐によれば、彼が第一航空艦隊首席参謀の時、大本営の命令で雷撃術を伝授していた「陸軍第一航空軍に属する大型機の二個飛行戦隊」が、台湾沖空戦で魚雷を携えて参加し、魚雷は発射できたが、戦果はなかった。しかし、僚機撃墜炎上を自分の発射した魚雷が命中したと誤認して、これを成果として打電報告し、「他の十数機もみなそのように打電」したので、陸軍司令部はそれらを集計して「敵空母十数隻を撃沈」と判断したとしている(中田整一『淵田美津雄自叙伝』266−7頁)。大本営陸軍部の情報参謀堀栄三は、あくまでこれを海軍の戦果報告としてこれへの疑義を大本営陸軍部の第二部長に報告している(『大本営参謀の情報戦記』[中田整一『淵田美津雄自叙伝』307頁])。真偽は不明だが、陸海軍の不一致が根底にあるということは事実のようだ。


                                  六 海軍の必死「有用」特攻作戦 
 以上の海軍首脳の由々しき作戦、態度、体質のもとに海軍特攻作戦を見るとき、その特攻作戦の本質が初めて根源的・総合的に従って学問的に明らかにされよう。

 海主陸従で日米戦争が開かれたが、昭和18年以降に日本戦勢の悪化で推移してゆく中で、日本海軍は、戦力・国力の根源たる米国本土の空爆を行なわずに、山本五十六・淵田美津雄らの航空母艦強化による敵国空爆の主作戦化に失敗し、かつ必敗を余儀なくされる旧態依然たる邀撃作戦のもとで、海軍主流の艦隊決戦や大西瀧治郎・井上成美らの基地航空決戦などの支作戦にも悉く破綻し、ここに艦船、飛行機、兵員を大きく損耗しつつも十分に補充され得ず、ジリ貧、下痢貧になっていったのであった。しかし、日本海軍はいまさら傍観して無用の存在となるわけにゆかず、下痢貧の危機の中で、「海主」という海軍指導権を維持するために、新たに「捨て鉢」な体当たり特攻作戦で「独走」してゆこうとするのである。日米開戦を主導した、連合艦隊司令長官大和五十六の懐刀たる聨合艦隊参謀の海軍大佐黒島亀人、「山本元帥のよき女房役」たる聨合艦隊参謀長(宇垣纏『戦藻録』原書房、昭和43年、3頁)の海軍少将宇垣纏や、第11航空艦隊参謀長大西瀧治郎らが、今度は軍令部に入ったり、航空艦隊司令長官になったりして、新たに特攻作戦を指導してゆくのである。

 重要なことは、海軍では体質的に死を賭した「有用」な攻撃が余儀なくされていたということである。それは、元来、海軍軍人は、一方では近代科学の生み出した総合作品とも言うべき艦船を合理的思考で操作しつつ、他方では「板子一枚 下は地獄」という海上業務者の置かれた状況の下に絶えず死と隣り合わせの「捨て鉢」生活を余儀なくされたことに基因している。陸軍では玉砕などで潔く死ぬことが重視されたが、海軍では初めから「地獄」と紙一重の生活なので、潔く死ぬのではなく、敵艦・敵機を破壊して「有用」「合理的」に死に、勇敢戦士となって、軍神として祀られることが重視されていたのである。だから、海軍では、後述の真珠湾作戦での特殊潜航艇攻撃の如く、戦局悪化して追い詰められなくても、緒戦から死を賭した有用「特攻」攻撃による軍神創造に着手することもあったのである。

 この意味で、特攻作戦とは、戦局が悪化してゆく中で、こうした死を賭した「有用」攻撃という海軍固有の下地のもとになされたことになる。日本海軍上層部が、根源的作戦をとることなく戦況悪化してジリ貧・下痢貧化してゆく中で敵艦船撃沈を目的にとられたものということになる。しかし、それは次第に日本側の士気・技量の低下、敵国の防禦策の構築などで所期の目的を果たせなくなり、日本海軍上層部が、戦局打開・起死回生するなどの美辞的口実のもとに己の指導権を保持しようと青少年の純真を利用した「悪あがき」以外の何物でもないものとなったと言えよう。岩本徹三少尉もまた、「こうまでして、下り坂の戦争をやる」のは、「勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがき」(岩本徹三『零戦撃墜王』光人社、1994年、333頁)とした。中川八洋氏は、日米開戦指導の観点はドロップさせているが、「『特攻』制度の本性は、1944年に入って敗色濃い戦況に陥り、戦うすべを考え付かない軍令部や参謀本部の高級軍人たちが、自分たちの右往左往を隠し、国民に対し、さも戦っているかに見せるショー、さも勝利がありうるかに見せるショーであ」り、「敵国と戦っているとの幻覚上の安心と自己満足のため」だったとしている(中川八洋『山本五十六の大罪』198頁)。

 だからこそ、それは、各地各隊で多様形態をとりつつも、原則として公の命令はなく、あくまで名目上の志願・事実上の強制という形で遂行されたのであった。最後
に、これらの事を考察し確認しておこう。



                                      @ 天皇の海軍批判
 開戦時 最高司令官の天皇は、開戦当初からこうした海軍の態度を「捨て鉢」的として懸念していた。

 16年7月30日、英米戦に消極的だった永野修身軍令部総長が上奏し、「物が無くなり、逐次貧しくなるので、どうせいかぬなら早い方がよい」として、「対米英戦を辞さず」とした。天皇が「勝つとは信ずるが、而して日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と尋ねると、永野は、「勝ち得るや否やも覺束なし」と答えた。前記富岡見通しと同様、負けるかもしれないが、このままでは石油枯渇してジリ貧になるので、そうなる前に開戦するというのである。軍事に詳しい天皇が、航空戦が主軸の近代海戦では「日本海海戦の如き大勝」はないだろうと示唆した可能性が高いとして、永野にはそれすら受け止める知識も余裕もないのである。

 翌日、天皇は木戸内大臣に、海軍は「捨てばちの戦をするとのことにて、誠に危険なり」と、憂慮を表明した。木戸は嶋田海相や及川前海相にこれを注意すると、彼らは「永野は天皇の前に出て堅くなり、思う所を十分に申し上げることができなくなって、つい結論だけを端的に申し上げることから」(杉本健『海軍の昭和史』文藝春秋、1982年、229頁)であるなどと弁明している。天皇はその「結論」を問題にしているのに、海軍首脳は永野が「天皇の前に出て堅くな」ったなどという的はずれな弁明している。

 レイテ作戦 昭和19年10月20日以降、フィリピンのレイテ島でおこなわれた決戦でも、天皇は海軍を批判していた。

 天皇は、レイテ決戦に関して、@「陸海軍の意見が一致しないのみならず」、A「陸軍部内に在っても、山下(奉文)と寺内(寿一)総軍司令官と参謀本部との間の意見が纏まらない」ことに懸念を抱いた。天皇は、「参謀本部や軍令部の意見と違ひ、一度『レイテ』で叩いて、米がひるんだならば、妥協の余地を発見出来るのではないか」という考えから、「比島を守ろうとする」山下意見に賛成していた。しかし、この天皇意見が統帥部によく伝わらず、その結果「陸軍、海軍、山下皆意見が違」い、「山下も思切って兵力を注ぎ込めず、いやいや戦」うことになったとした。特に、海軍に対しては、「無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗した」(「昭和天皇独白録」[『文藝春秋』平成二年十二月号、129頁])と批判した。

 沖縄戦 沖縄作戦は、@「米軍が沖縄本島の北、中飛行場の使用を開始するに先だち、米軍に大損害を与え、戦勢を有利に展開する必要を認め、20年4月5日、第32軍(沖縄軍)の地上総反撃と相呼応して、航空総攻撃を実施」し、A残存海上部隊の主力(第二艦隊=戦艦大和、巡洋艦矢矧、駆逐艦8隻)で海上特攻隊を編成して、沖縄米軍泊地に突入せんとするものであった(『昭和史の天皇』1、終戦への長い道、昭和55年、340頁)。この連合艦隊司令部の海上特攻戦法は、後述の通り当の各艦長・参謀らからも厳しく批判されていた。

 4月30日、天皇は海軍に「天号作戦に於ける大和以下の使用法不適当なるや否や」を下問すると、海軍省人事局長三戸壽少将は、富岡定俊第一部長と検討した上で、「当時の燃料事情及練度、作戦準備よりして、突入作戦は過早にして、航空作戦とも吻合せしむる点において計画(は)準備周到を欠き、非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり」(戦史叢書『大本営海軍部・聨合艦隊』7、283頁)とし、作戦指導は不適切であったとしている。天皇はとっくに沖縄作戦の無謀さに気づいていたが、改めて海軍に確認したのである。『昭和天皇独白録』でも、 天皇は、この沖縄戦について、「陸軍が決戦をのばしている」のに、戦艦大和を特攻出撃させ「海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致」であり、「全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と、海軍を批判した。

 豊田軍令部総長人事批判 さらに、天皇は、20年5月29日に豊田副武を軍令部総長にもってくることに対して、「『マリアナ』の指導も失敗だった、司令官として成績不良者を軍令部総長にもってくることは良くない」と、海軍作戦首脳人事を批判した。

 豊田は、16年東条内閣組閣時に海相に推薦されたが、豊田は「あいつらは動物園だよ」とか「けだものみたいなのが居る」など「歯に衣着せぬ」陸軍批判論者として知られていた。その結果、この時は豊田海相は実現しなかった(杉本健『海軍の昭和史』文藝春秋、1982年、219ー223頁)。

 マリアナ海戦指導も「科学的」戦略に基づいていたのではなかった。19年9月22日、大本営があ号作戦(フィリピン沖海戦ーマリアナ沖海戦)という「史上最大の海戦」「世界最後の大艦隊決戦」準備を発令することになったが、これは豊田副武連合艦隊司令長官のバクチ戦法に基づいていた。豊田副武は、「フイリピン作戦で日本が敗北したら、たとえ、艦隊だけが残っていても、南方との海上交通路がたち切られ」「燃料の補給もうけられない」として、「うまくゆけば予想外の戦果を収め得るかも知れない」として、全艦隊を参加させ「ありったけの水上兵力を送り込む」という「バクチを打つ」ことを決意したのである(鳥巣達之助『回天特攻担当参謀の回想』光人社、1995年、90−91頁)。日米開戦時の発想と同じであり、ジリ貧になるまえにバクチ決戦にでるというのである。

 そして、天皇が上述のように批判した沖縄大和特攻作戦もまた、連合艦隊司令長官豊田副武が容認したものだったのである。

                                     
 日本海軍の不徹底な戦闘態度や作戦連敗の主因の一つは、天皇が的確に指摘しているように、こうした海軍の「杜撰で無責任な作戦」、「捨て鉢」な態度にもあり、それは様々なる特攻作戦となって現れたのであった。


                                    A 最初の特攻ー特殊潜航艇による真珠湾攻撃
 既に真珠湾攻撃時には特殊潜航艇が編み出された。昭和7年初め、艦政本部第一部第二課(水雷器担当)長の岸本鹿子治(かねじ)大佐が、「日露戦役で横尾敬義少尉が魚雷を抱いて敵艦襲撃を企図した戦例にヒント」を得て、「人間の乗った大型魚雷状の潜航艇をもって敵艦を襲撃し、魚雷を発射して必中を期する新兵器に着想」(『戦史叢書ハワイ作戦』160ー1頁)した。軍軍縮会議により主力艦及び補助艦艇の保有量を対米英国比で6割に制限され、それを補完する軍備として航空機とともに特殊潜水艦が検討されたのである。ただ、飛行機はまだ必墜を期していなかったが、この特殊潜水艦は必中をめざしていた。

 伏見宮軍令部総長が生身で攻撃するのではないかと岸本大佐に質問すると、岸本は「決死的ではあるが、収容は考えており、決して必死ではない」と答えた。そこで、総長はこれを容認した。7年8月、艦政本部は設計を開始し、7年10月呉海軍工廠魚雷実験部に試作を命じ、8年8月以降、乗員2名で瀬戸内海で各種性能実験を実施した(『戦史叢書ハワイ作戦』161頁)。その後、「支那事変の進展に伴い搭載艦千代田、千歳の竣工も近づいたので、本艇を本格的に量産整備する方針が決定」し、14年7月名称を「甲標的」と決定し、二基製造を呉海軍工廠に命令した。15年、二基の潜航艇が完成し、千代田に搭載して、伊予灘で発進実験を行ない、「相当の波浪でも襲撃可能の結論」に到達し、9月に正式兵器に採用された(『戦史叢書ハワイ作戦』162頁)。

 日米関係険悪化にともない、先任搭乗員岩佐中尉は、「万一の場合、開戦劈頭敵艦隊根拠地に潜入し奇襲を敢行することを研究」し、加藤良之助中佐にはかり、千代田艦長原田覚大佐に具申した。16年9月、原田は岩佐とともに山本長官に、「特殊潜航艇をもってする真珠湾潜入攻撃計画の採用」を懇願し、山本は「襲撃後艇員の収容の見込みのないような方法は採用できない」と却下した(164頁)。そこで、原田艦長、軍令部潜水艦主務部員の有泉龍之助中佐は「特殊潜航艇から電波を出して潜水艦がその方位を測定し、これを水中信号で知らせる」などと修正するとして、改めて採用を具申した。しかし、山本は「警戒厳重な海面では収容に確実性なし」と却下した。16年10月上旬、彼らは山本に、「航続時間を延長するなどの収容手段を研究した」ものを具申し、山本は、遂に「暗黙の承認」を与えた(165頁)。聨合艦隊主務参謀有馬らは「初め相当疑問」を持っていたが、「部隊側の熱意と真剣味に動かされ」る。16年10月11−13日、長門図演で山本長官の正式承認をえた(『戦史叢書ハワイ作戦』164−5頁)。

 11月14日、呉鎮守府で清水光美第6艦隊司令長官 (潜水艦隊長官) 出席のもとに、各潜水艦の幹部、特殊潜航艇指揮官を集めて作戦打ち合わせをした。清水長官はあくまで収容を考えていたが、特殊潜航艇指揮官らは「われわれは生還するつもりは少しもありません」として、「航空部隊の第一撃後すぐ攻撃する」という大胆な行動を提案した(『戦史叢書ハワイ作戦』251頁)。

 表向き海軍は、「特別攻撃隊の壮烈無比なる真珠湾強襲」は、「岩佐大尉以下数名の将校の着想に基づくもの」で、「数ヶ月前一旦緩急あらばこれをもって尽忠報国の本分を尽くし度しと、案を具し、秘かに各官を経て聯合艦隊司令長官に出願せるもの」(17年3月6日大本営発表[海江田四郎「作られた真珠湾九軍神」[平塚征緒編『目撃者が語る 太平洋戦争T』161頁])としてはいる。確かに岩佐にはそういう側面もあったようだ。だが、実際には、海軍は、「一、身体強健で意志鞏固な者、二、元気旺盛で、攻撃精神の強い者、三、独身者、四、家庭的に後顧の少ない者」を基準に候補者を選抜し、海軍大臣が士官12名、下士官24名を選抜任命したものであった(真珠湾攻撃特殊潜航艇乗組員・海軍少尉酒巻和男「捕虜第一号」[『丸』昭和32年5月15日、平塚征緒編『目撃者が語る 太平洋戦争T』172頁])。「国民の士気を振起させるには軍神をつくって宣伝するほど効果的なものはな」(海江田四郎「作られた真珠湾九軍神」[平塚征緒編『目撃者が語る 太平洋戦争T』161頁])いとして、海軍上層部によって貴重な若者の死を前提とした特攻で軍神を意図的につくりだそうとしたのである。伏見宮、山本五十六は、あくまで必死を回避しようとしていたが、結果的に必死特攻兵器になっていったのである。前述の通り、海軍では初めから「地獄」と紙一重の生活なので、潔く死ぬのではなく、敵艦・敵機を破壊して勇猛にして「有用」に死に軍神として祀られることが重視されていたのである。

 しかし、真珠湾攻撃者10人のうち、酒巻和男少尉のみが、座礁して自爆装置を作動させつつ、「海軍軍人の玉条」として「艇と運命をともにする」べきか迷ったが、「兵器はいくらでもつくれ、いくらでも代用できよう。しかし人間はそう簡単に代用できるものではない。人間は決して兵器ではないのだ。私はりっぱな軍人でなくってもいい、人間の道を選ぼう」として、艇を去って生き残ったのであった(酒巻和男「捕虜第一号」[平塚征緒編『目撃者が語る 太平洋戦争T』192頁])。その結果、大々的に海軍戦果を宣伝しようとした10軍神は、なんとも歯切れの悪い9軍神になった。なお、「真珠湾事件に対するアメリカの公の調査は、これら特殊潜航艇によって何らの損害も与えられていないことを明らかにしている」(海江田四郎「作られた真珠湾九軍神」[前掲書166頁])のである。

 
                                          B 特攻兵器の開発

                               (@) 海軍軍令部の特攻兵器開発指令


  軍令部亀島参謀の特攻兵器開発検討 i戦況は悪化し、「生命線と呼んでいたマリアナ諸島を奪われ」、「本土まで、遮る防波堤は何もなくなってしま」(小灘利春「人間魚雷『』が日本を救う」[別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』戦記シリーズ39、新人物往来社、1998年])いつつも、もはや日本には戦艦、航空母艦などを建造する資金と資材が欠乏するなか、海軍は、座して陸軍に従属されぬようにするには、簡便特攻兵器をつくって戦果をあげるしかないと考え始めた。海軍上層部は、省益をまもるために、特殊潜航艇で真珠湾攻撃して軍神をつくって国民的な戦意高揚に成功した手法をつかって、再び海軍戦果を大々的に宣伝しようとしたのである。

 そこで、海軍軍令部は「十八年の中ごろから特攻兵器の開発と実施」を「真剣に検討」しはじめた。すなわち、@18年中頃、奇人参謀"仙人参謀"(鳥巣建之助『太平洋戦争終戦の研究』73頁)といわれていた連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐(18年7月19日軍令部第二部長[「兵器の開発運用責任者]、11月に少将)が軍令部に出向き「モーターボートに爆薬を乗せて敵機体当たりできないか」と提案し(これが後に震洋となる)、A18年6月15日中沢佑少将が軍令部第一部長に任命され、この「黒島少将と中沢少将のコンビ」で特攻兵器開発が「始ま」り、B18年8月6日の戦備考査会議で、亀島は「突飛意表外の方策によって、必殺の戦を行う必要がある」と発言し、18年8月11日の戦備考査会議では、亀島は、「必死必殺戦法」が「第三段作戦に応ずる戦備方針」と主張したのである(御田重宝「特攻隊はいかにして生まれたか」[別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』戦記シリーズ39、新人物往来社、1998年])。

 さらに、18年秋、軍令部参謀の藤森康男中佐が呉工廠造船部実験部で潜水艦物資運搬用のキャタピラー車の設計図を持ち帰り、軍令部第二部長黒島亀人少将とともにこれを特攻兵器に転用して竜巻作戦を立案した(鳥巣達之助『回天特攻担当参謀の回想』光人社、1995年、36−37頁)。19年3月10日、藤森康男中佐が、トラックに来て、長官・参謀長仁科・先任参謀・水雷参謀(鳥巣達之助)に、マーシャル群島に集結中の敵機動部隊に、新鋭潜水艦8隻に特四内火艇2隻を搭載する奇襲作戦を説明した。敵地で、「潜水艦は急速潜航避退し、海上に放たれた特四は環礁へ突進し、キャタピラに切り替え越礁、礁内進入、プロペラで停泊中の艦隊に突撃」(同上書28−9頁)するというのである。

 特攻兵器の具体化 19年4月4日には、黒島が中沢に、「作戦上急速実現を要する兵力」として、体当たり兵器を含む7種類の奇襲兵器を要請した。4月9日中沢は海軍省と中沢案を協議し、海軍省で、@兵器(潜水艦攻撃用潜水艦)、A兵器(高高度ロケット)、B兵器(可潜魚雷艇)、C兵器(後の震洋)、D兵器(自走爆雷)、E兵器(のち回天)、F兵器(電探関係)、G兵器(電探防止関係)、H兵器(のち震海)を製造することを決定した。まだ試作中だったので、名称はない。上記の特四内火艇はこのDにあたると思われるが、鳥巣から「現実を無視した幻想」であり「成功の算はなく、決死の若者たちはもちろん、潜水艦を全滅させる危険あるのみ」と批判された。そして、鳥巣は「今こそ潜水艦長はじめ潜水艦乗員の希望通り、敵の長大な後方補給路遮断作戦に潜水艦を専用すべきではないか」と提案した。しかし、長官、参謀長はこれを却下し(鳥巣前掲書、29−30頁)、藤森も「だまれ」と一喝し、準備を命令した。19年5月、最精鋭潜水艦6隻、特四内火艇14隻の訓練が開始された(鳥巣前掲書39頁)、3、4日後、「特四内火艇」の性能に問題が生じ、「隠密肉薄」が困難で、「越礁能力が脆弱」であることが判明した。故に、生産中止はされなかったが、本格的な実施はされなかった。

 19年6月25日元帥会議で、伏見宮博恭王が戦況悪化のもと、「陸海軍とも、なにか特殊の兵器を考へ、これを用いて戦争をしなければならない」(妹尾作太男「神風特攻『神話』への疑惑」『丸』昭和57年9月号[神野正美『梓特別攻撃隊』光人社、2000年、38ー9頁])としたが、東条陸相・参謀総長は風船爆弾・対戦車挺身爆雷などを製造・研究中とし、島田海相・軍令部総長はすでに海軍は特殊兵器を製造中とした。海軍の特攻担当の軍令部員が元軍令部総長の伏見宮に「特攻」発言をするように誘導したのかもしれない。

 7月7日大本営陸軍部参謀浦茂、航空本部、航空審査部、陸軍航空技術研究所の主務者が市ヶ谷特攻会議を開催した(神野正美『梓特別攻撃隊』40頁)。7月21日、軍令部総長は連合艦隊司令長官に、「作戦要領」の「ニ 奇襲作戦」で、@「努めて奇襲作戦を行い、特に好機敵艦隊を其の前進根拠地に奇襲漸減するに努む」、A「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以てする各種奇襲戦の実施に努む」、B「局地奇襲兵力は之を重点的に集中配備し、敵艦隊又は敵進攻兵力の海上撃滅に努む」(大海指第431号)と、初めて特攻作戦を「奇襲」用語で指示した(鳥巣建之助『太平洋戦争終戦の研究』84頁)。8月16日に海軍省は横須賀海軍空技廠に桜花試作を命令し、9月13日には大森仙太郎中将を部長とする「海軍特攻部」を発足させ、「仮名称の特攻兵器」にC震洋、E回天、桜花などの名称を与えた(御田重宝「特攻隊はいかにして生まれたか」)。この内、回天については、つぎに掘り下げてみよう。

                                        (A) 主要特攻兵器

 回天 18年、潜水艦士官山地誠(海兵70期)もまた、「敵艦船に発見され地獄の爆雷攻撃を受けた潜水艦が攻撃にじっと耐えつつ、最後には結局轟沈される運命に逢着するなら、そのような受動的な生を生きるより、もっと能動的に魚雷に搭乗して敵艦船に体当たりをくらわした方が、帝国海軍の戦士として死に花を咲かせる壮挙となる」(森本忠夫『特攻』文芸春秋、1992年、98頁)と思い始めた。18年12月特殊潜航艇乗員の海軍中尉黒木博司、少尉仁科関夫は軍令部第一部第一課藤森少佐に回天構想を提案したが、永野総長は「即時に『それはいかんな』と明言」(戦史叢書『大本営海軍部・聨合艦隊』6、325頁)した。

 19年2月マーシャル失陥、トラック大空襲の後に、同年2月26日に軍務局第一課長山本善雄大佐の決断で回天の試作が決定され、6月7日に試作が完了し、7月下旬に「0六金物一型」と命名された。特攻兵器「第一の狼煙」(戦史叢書『大本営海軍部・聨合艦隊』6、326頁[101頁])であった、頭部に1.6トンのTNT爆薬を持ち、「一発でいかなる艦船も轟沈」させるものとされた(鳥巣前掲書、62−65頁)。脱出装置を考慮し「必死兵器」ではなくするように配慮しようとしたが、黒木博司大尉・仁科関夫中尉は「徹頭徹尾」これに反対した。第六艦隊参謀鳥巣達之助は米軍補給路遮断の観点からこの回天の破壊力を評価して、80mの耐圧深度を容認して、現在の「危急存亡」時にこの兵器製造を主張した(鳥巣前掲書66−7頁)。

 では、この特攻兵器の搭乗員をどのように確保したのか。大本営海軍部と海軍省は、「協議し、結局、海軍省が搭乗員募集のあの手この手をうちはじめ」、「P基地(広島県呉の特攻基地大浦崎ー筆者)川柵の魚雷艇基地、土浦、奈良などの予科練部隊などへ通達」し、回天創始者の黒木博司大尉・仁科関夫中尉、特四内火艇搭乗員(8中尉)、甲標的(特殊潜航艇)搭乗員などをあつめたという(鳥巣前掲書、73−74頁)。なお、黒木は、9月6日訓練中に死去し、「全隊員に異状な衝撃」を与えた(鳥巣前掲書78頁)。彼らは、すでに特攻隊員であるから、別の特攻部門への異動であったろう。それでは、彼ら以外はどのように調達したのであろうか。

 海軍大尉小灘利春のケースを見てみよう。彼は、19年8月に、巡洋艦「足柄」から海軍潜水学校付に転勤となり、19年9月第一特別基地大津島分遣隊に配属された。彼は「着任した日、海軍の一角に『人間魚雷・回天』が出現して、我々がその搭乗員になることを知」り、有無を言ういとまなく、自然に回天搭乗員にされ、第二回回天隊隊長になるのである。これに関する限り、特攻を命じるという辞令がでるのではなく、特攻兵器の責任者に異動するという通知があるだけなのである。何とも狡猾陰険な手法である。しかも、彼の場合には、「何とかして、敵軍の侵攻を食い止める手段はないものか。桶狭間の大逆転を打つ新戦法、新兵器はないのか」と模索していたから、「これだ!この新兵器で日本は救われる」と仲間と喜び合うことになるのである。彼は「戦局の悪化を、これで確実に食い止めることができるであろう」と楽観したのである。

 彼は、特攻辞令を強制とは受け止めず、僥倖として受け入れたのである。その理由をもう少し探ってみよう。彼は、当時、「現実の戦局は、戦力の量と質の格差が圧倒的となってきて到底歯が立たず、敵に近づくことすらできない状態」であり、「『本土侵攻を防ぎ止める手段は、もはや我が身を弾丸に代える体当たり攻撃しかない』これが当時の若人をめぐる客観情勢」とした。だから、彼にすれば、「特攻は一人の日本男児として最大の効果を挙げることができる配置であった。あの戦局のもと『日本』を護る見地からは、日本人の全体から考えて、特攻戦術が最も合理的であったと言える」ことになるのである。彼は、「『死にたくて死んだ特攻隊員は一人もいない』であろう。・・特攻は、心身ともに健全な若人が『ほかの、多くの人々を救うための愛の行動』であり、大いなるものへの文字通りの献身であった。人間の根幹に基づく徳性と言えるであろう」(小灘利春「人間魚雷『回天』が日本を救う」[別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』戦記シリーズ39、新人物往来社、1998年])とする。彼は、回天は「一人の身を捨て、その代わりたくさんの人を助ける本当の意味での人道的な兵器」(小灘利春「回天」[『特攻 最後の証言』アスペクト、2006年、76頁])とまでする。結局、死ぬ事の恐怖を家族、友人、他者の救済のための自己犠牲に特攻の意義を見出してゆくのである。そこまで自己犠牲に徹するならば、自らの身を賭して、国民生命を空襲被害、本土侵攻からまもるべく、終戦に向けて立ち上がるべきではなかったか。

 しかし、小灘は、特攻をやらせた上層部は許さない。彼は、「『特攻をやらせた上層部』に対する批判」をし、上層部には「特攻出撃をした搭乗員たちとは別な問題がある」とする。彼は、「上層部とて、特攻に頼る以上の戦う手段が、もはや無かったのが実情であろうが、問題は、特攻隊員が生命を捧げる甲斐のある、可能なかぎり高度な戦略、戦術を採ったのか?なかでも、戦いを続ける以上は『外道の特攻』が、いずれは必要となる事態を、なぜ、速やかに予見し、その戦術を断行しなかったか?」(小灘利春「人間魚雷『回天』が日本を救う」[別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』戦記シリーズ39、新人物往来社、1998年]、小灘利春「回天」[『特攻 最後の証言』アスペクト、2006年])と、鋭く詰問するのである。この点は、第六艦隊参謀鳥巣達之助も、8月下旬に第一次攻撃内示(士官乗員茶道の12−16基が10月末出撃)でると、これを「実情を無視した机上の空論」、軍令部の「おごり」、「目先の功」にとらわれた「短見」(87−88頁)と厳しく批判した。鳥巣は、「多くの若人たちに死の戦法をやってもらう以上、中央の責任者が現地を訪れ、第六艦隊や第二特攻戦隊、それに呉工廠などととことん研究、討議し、この救国兵器を真の救国兵器として生かすためには、彼ら自身が死を覚悟するくらいの命がけで臨むべきであった」(鳥巣前掲書87頁)とも批判した。あくまで、鳥巣は、「回転は、昭和19年暮から昭和20年春の時点において、日本海軍が保有する唯一の起死回生の兵器」であり、「戦勝に結びつ」かぬとしても、「敵に大打撃をあたえ、敵軍を震撼させうる可能性」があったのに、「当時の日本海軍上層部」には回天「使用の時期と使用法を徹底的に研究」する人材はいなかったと批判して(鳥巣前掲書89頁)、小灘同様に回天そのものに反対したのではない。

 震洋 この水上特攻艇の試作機は19年5月27日に完成し、そのエンジンは既製トラックの転用が可能であり、ボデーはベニヤ板だったから、「量産が比較的容易」(黒木豊海一等飛行兵曹「震洋」[『特攻 最後の証言』アスペクト、2006年、86頁])であった。

 19年8月16日、海軍中央における特攻機兵器採用に関する全体討議の際、草鹿連合艦隊参謀長は、1割生還可能性を考慮されたいと要望した。井上成美海軍次官も「捨身戦法の有益なことを認めつつも」「脱出装置の準備」を提言したが、この生還余地提言は却下された(戦史叢書『大本営海軍部・聨合艦隊』6、340頁[107頁])。海軍には、もはや海軍上部の一部の良心をくみ上げる余裕も余力もなかったのである。

 黒木豊海一等飛行兵曹は、19年8月高野山分遣隊に行き、12月特攻志願の募集に直面した。上官から、「紙を渡されて、◎か○か×印をつけろと」と命令された。◎は「乗り物が何であろうととにかく行かせて欲しいという人」であり、○は「取り立てて特攻にこだわらないが、海軍の順当なコースに乗りたい人。場合によっては特攻も辞さず」というものであり、結果は「◎は3分の2で、残った3分の1が○」であり、×は一人もいなかった。×をつけるような雰囲気ではないということだ。この頃には、戦局は悪化して、「家族構成に関する配慮」は消え去っていた(黒木豊海「震洋」[同上書84頁])。最初のうちは「特攻隊なんて、1000人いるうちの20人とか30人が志願して行くもの」だったが、19年、20年には、「特攻隊はどこまでも志願制」の建前にしつつも、「もうお前らみんな特攻隊だというような気持ちを植えつけられ」(黒木豊海「震洋」[同上書85頁])ていた。事実上の強制だったのである。

 桜花 桜花とは、一式陸攻に搭載した自爆特攻機であり、、敵艦隊付近まで搬送され、一撃轟沈をめざして分離発進されるというものである。19年7月海軍少尉太田正一が海軍航空本部にこの製造を具申した。マリアナ失陥後の敗色に対応するべく、軍令部と協議して、同年8月に設計が開始され、8月16日試作機製造に着手し、同年9月量産し、海軍特攻機の「第二の狼煙」となった。岡村基春大佐を司令とする第721海軍航空隊が新編され、茨城県百里ヶ原を基地とした。後に、神之池に移り、「神風桜花特別攻撃隊神雷部隊」として開隊した。

 一方、台湾では、19年8月、台南航空隊司令高橋俊策大佐が武道場で訓話して、桜花志願者が募集された。高橋は、「戦局は非常に憂うべき状況にある。中央でとても効果の高い飛行機を作っている、それは死を覚悟した攻撃である」、「志願者を募る 強制はしない」、「妻帯者はここから退場しろ、一人っ子、長男もでろ」(鈴木英男「桜花」[『特攻 最後の証言』アスペクト、2006年、14−5頁])とした。妻帯者・一人っ子・長男以外は志願を事実上強制されたといってよい。真珠湾特殊潜航艇の「志願者」選定と同じである。

 鈴木英男少尉はこれに志願して、「忘れた頃」の19年10月15日、台湾の953航空隊から茨城県神之池の神雷部隊への転属命令が届いた(同上書18頁)。20年3月21日に初出撃するまで5ヶ月の待機期間があり、この間、@敵に打撃を与えて、「いいかげんもう戦争をやめたいと、敵をしてそういう心境にもっていかせれば大成功」という心境でこの戦法をを受け入れ(同上書15頁)、A隊員同士で「精神修養になる訓話とか気持ちの落ち着く話とか」(同上書28頁)していた。


 海軍軍令部で、こうした特攻兵器を製造する中で、既存兵器(艦艇、飛行機)をつかった特攻戦略もまた当然視されつつ推進されてゆくことになる。


                                           C 特攻戦略の推進 

                            (@) 小沢・栗田艦隊特攻戦法ーレイテ海戦の特攻作戦

 19年後半、海軍は「フィリピン防衛に全戦力を注ぎ込」んでゆくが、これは、「フィリピンが敵の手に落ちれば、日本本土は南方資源地帯と遮断」され、石油が入らなくなり、大和、武蔵の巨大戦艦は「宝の持ちぐされ」となるという海軍固有の危機感からであった(『昭和史の天皇』11、捷一号作戦、昭和55年、367頁)。この時も、海軍は、「無為にして自滅せんよりは、むしろ超弩級戦艦『大和』以下の海上部隊主力を、敵の上陸地点に突入せしむるにしかず」(服部卓四郎『大東亜戦争全史』[『昭和史の天皇』11、395頁])としたのである。

 ここに、19年10月レイテ海戦で海軍は「捨て鉢」特攻戦法をとることになった。つまり、その戦法では、@「オトリとなる小沢機動艦隊が、まんまとハルゼーの機動艦隊を、北方にひっぱりあげる」ことに成功することは「全滅を意味」し、A「栗田艦隊がハルゼーの留守について、うまくレイテ湾のマッカーサー船団に、襲いかかることができる」のに成功することは「直後に戦場にとって返すであろう敵機動部隊の好餌となって、これまた全滅を意味」(『昭和史の天皇』11、396頁)していた。いずれにして、「全滅」を前提とした「捨て鉢」戦法であった。

 19年10月20日、豊田副武連合艦隊司令長官は、@「海軍の持てるすべての水上部隊」をレイテに出撃させ、25日未明を大和・武蔵を中心とする粟田艦隊をレイテ湾に突入期日と定め、A小沢部隊を「オトリ」として出動させ、ハルゼー機動部隊を北方へ引き上げた後にレイテ湾の上陸輸送船団に「特攻的なぐりこみ」をかける計画をたてた。これは「航空兵力が、皆無に等しい日本」が仕掛けた「イチかバチかの賭」であった。これに関わる当時の米側艦隊は、攻撃主力の第三艦隊(ニミッツ提督麾下、空母16、戦艦6、巡洋艦15、駆逐艦58、計95隻)、「上陸軍の援護」たる第七艦隊(マッカーサー麾下、護衛空母21、駆逐艦21からなる護衛空母群と、戦艦6、重巡4、軽巡4、駆逐艦21からなる砲火支援群)の計167隻であり、これに対して日本側は栗田、小沢、志摩、西村各隊63隻であり、米軍の航空兵力の圧倒的優位のみならず、艦艇力でも、初めから勝負にならぬ作戦であった。思えば、海軍は、開戦当初から「賭け」の連続なのである。この作戦が成功しても、「小沢艦隊の全滅」のみならず、「航空機の援護のない栗田艦隊も、全速力でとって返すであろう敵機動艦隊の好餌」(『昭和史の天皇』12、レイテ決戦、昭和55年、7頁)となる。武蔵、大和が「大砲と機銃」のみで敵飛行機とたたかっても勝ち目はなく、「士官以上はみな『死出の旅路だ』と知ってい」(武蔵副長の加藤憲吉大佐談[『昭和史の天皇』12、57頁])て「全滅を覚悟」していた。一方、既に米国海軍情報部は「日本海軍が空母をオトリとして使う捨てゴマ戦術」を知っていたが、艦隊側は「そんな情報は信じなかった」(サミエル・E・モリソン『第二次世界大戦米国海軍戦史』[『昭和史の天皇』12、104頁])のである。同じ海軍軍人としては、日本海軍がそういう「統帥の外道」をするなどという事が考えられなかったのであろう。

 栗田艦隊がレイテ湾輸送船団を撃滅すれば、米軍上陸を阻止できるとされていたが、栗田艦隊(第二艦隊=第一遊撃部隊)はもともと「輸送船団の攻撃を快しとしなかった」(『昭和史の天皇』12、284頁)のである。栗田艦隊は、10月23日に旗艦愛宕とほかの重巡2隻を失い、24日には米側から「全力をあげて航空攻撃を加え」(サミエル・E・モリソン『第二次世界大戦米国海軍戦史』[『昭和史の天皇』12、110頁])られ、第5波攻撃で武蔵は十数発の魚雷・爆弾を受けて沈没した(第二艦隊参謀長小柳富次少将談[『昭和史の天皇』12、47−56頁])。大和は「輪型陣の中心」なので攻撃が難しいので、敵空軍は武蔵に攻撃を絞ってきたのである。司令官ハルゼー大将は、こうして「栗田中央部隊はシブヤン海で大損害をこうむっているので、もはや第七艦隊に対する重大な脅威とは認められなくなった」と判断し(『昭和史の天皇』12、123頁)、24日午後8時22分、第二群、第三群、第四群に小沢艦隊攻撃を命令した。これは「まんまと日本側の思うツボにはまったことを意味」した。

 25日午前、小柳は、このまま劣勢の栗田艦隊がレイテ湾に突撃すれば、レイテ湾の米側強力艦隊と湾外機動部隊が殺到し、「袋のネズミ」にされ、「全滅は初めから覚悟」していたが、これでは「ムダ死」ではないかと思い始める(『昭和史の天皇』12、218−219頁)。午前9時45分、レイテ湾入口のスルアン島方向に制式敵空母部隊がいるという電報がはいり、栗田艦隊の攻撃目標は、この空母部隊と、湾内輸送船団の二つとなり、やがて空母部隊を主敵とすべきとおもうようになる(『昭和史の天皇』12、219頁)。この電報が「栗田艦隊の北上を決心させた」が、後に南西方面艦隊はそういう電報をうっていないことが判明した(『昭和史の天皇』12、222頁)。敵空母部隊と戦い「全滅」しても、その撃破は「全海軍の念願」でもあり、「死に花」(『昭和史の天皇』12、220頁)を咲かせうるし、事前に連合艦隊司令部にもそのことを申入れ了解を得ており、基地航空隊の支援も期待できた(『昭和史の天皇』12、219頁)。ということは、栗田艦隊としては、命令通りレイテ湾輸送船団を撃沈させ全滅するよりは、敵空母と戦って全滅した方が武士の本懐としていたのであろう。小柳が栗田にこれを進言すると、栗田は「熟慮の末、レイテ湾突入を断念して北上、敵機動部隊との決戦を決心」し、午後1時13分、豊田連合司令長官に報告した(『昭和史の天皇』12、220頁)。しかし、夜とともに、敵機動部隊が「どうなったのか」わからなくなる(『昭和史の天皇』12、221頁)。

 午後6時25分、ここで、栗田艦隊は「再び反転」し、午後7時25分に豊田連合艦隊司令長官は、夜戦見込みあれば残敵を撃滅し、見込みなければ小沢艦隊、第一遊撃部隊(栗田艦隊)は「補給地に回航」せよと命令し、午後9時30分に栗田艦隊はコロン湾泊地に向かった(『昭和史の天皇』12、222頁)。戦後アメリカ・ジャーナリストが、「もし栗田艦隊がレイテ湾に突入しておれば、輸送船団がごっそりおって、その一つにマッカーサーも乗っていたから、彼もおだぶつになっていたろう。栗田艦隊は九仞の功を一箕に欠いた」(『昭和史の天皇』12、223頁)と批判したが、日米の国力差・軍事力差が大きくなるばりの状況下で、一時的に日本が優勢になっても、戦局大勢には無意味であったろう。戦後、ジャーナリスト伊藤正徳が栗田に「レイテ湾に突入しなかったため、一万何千の将兵が助かったのだから、結果からみてよかったのではないか」と質問すると、栗田は「それも一つの問題だね」と答えた(伊藤正徳『連合艦隊の最後』[『昭和史の天皇』12、264−5頁])。栗田も一論点としてそれを認めたのである。栗田艦隊が「全滅」自明戦法に逆らって反転してレイテ湾に突撃進入しなかった理由の一つは、栗田健男中将が、酒巻同様に、人間、特に部下は「兵器ではない」と思っていたからではなかったか。

 ただし、栗田健男に関しては、水雷専門で指揮能力に問題があったともいわれ、「肝心なときにいなくな」り、「まともに敵に突っ込んだことがない人」で、「七戦隊の重巡最上と三隅が衝突事故を起こし」たりして、戸高一成は、こういう人物を第二艦隊司令長官に任命したことははありえない人事ではないかと批判している。彼に関連して、通信参謀中島親孝も「特に長官人事」が「日本海軍の一番弱いとこ」(中島親孝「情報の重要性を訴え続けた通信参謀」[戸高一成『聞き書き 日本海軍史』148ー9頁])と指摘しており、別の側面もあったようだ。


                                     (A) 神風特攻隊戦法
 一方、特攻は「身を十死に投ずる戦法」で「統帥の外道」とも言うべきものであり、このレイテ戦闘で神風特攻が生み出されていった。これまた、海軍特有の捨て鉢戦法の一つであった。

                                 (イ)  先駆的意見・実行 
 城英一郎大佐 18年6月に「戦況、各方面共おされ気味の感」あるようになると、侍従武官城英一郎大佐は、同月22日に「特殊航空隊の想」(城英一郎『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社、1982年、288頁)をまとめた。城は、この「特殊航空隊」をレンネル沖海戦(18年1月29−30日)での檜貝嚢治少佐が被弾後、敵艦へ突撃し戦死した「自爆」から発想し、具体化したようだ。彼の日記を読むと、以後2月19日、4月8日・13日・16日、5月25日に「自爆」などの記載がある。そして、18年5月29日アッツ島玉砕を「皇軍の真価発揮」するものと評価し、5月30日日記に「近頃、第一線の美談、多くは作戦の欠を補ひつつある観あり」(279頁)と記した。戦況悪化を打開する「美談」策として、特殊航空隊構想を具体化していったと思われる。実は、こうした美談は真珠湾攻撃の際にもあった。飯田房太郎大尉が被弾で帰還不能となって、格納庫に体当りしたのである(太田尚樹『天皇と特攻隊』講談社、2009年、109頁)。こうした戦場美談はほかにもあったであろう。しかし、現場で被弾して成り行きで体当たりすることと、それを制度化することとは「似て非なる」ことであるが、城はここには思い至らなかった。

 6月28日、城は、「艦本(艦政本部)の権威者に、攻撃効果につき、一応意見を聞く必要ありと考へ」「当直にて、武官府にて、『特殊航空隊』の案を今一応練」(城英一郎『城英一郎日記』、290頁)った。彼は、「特殊航空隊の編制に就て」で、@目的を「ソロモン、ニューギニア海域の敵艦船を飛行機の肉弾攻撃に依り撃滅する」こととし、A「編制の大要」で、「決死の志願者を募集採用」し、「必要以外の艤装を撤去」し「250瓲(トン?)爆弾以上を携行」し、「攻撃は爆弾携行の体当りとす」とした。そして、「差当りを小官を指揮官に命ぜられ度」とした(同上書290ー1頁)。

 6月29日午前、城は、艦本四部を訪問したが、部長や部員に会えないので、艦本総務部長室に大西瀧治郎部長を訪ねて、この特殊航空隊意見を開陳した。大西は「直ちに同意を与へ呉れず」、「戦争指導、戦時対勢等の意見」を述べたが、「小官の意見は了解」した。城は受け入れられず、「少々張合抜け」となるが、「特空隊」意見を陳べて「心、朗らか」となる(同上書292頁)。6月30日には、城は、ソロモン海戦の「不振」状況に直面して、「特殊航空隊の緊急必要」(同上書293頁)を痛感した。7月2日、城は航本の大西総務部長を訪ねて、「先般具申の特殊航空隊の実行方を請願」したが、大西は「未だその時機に非ず」とした。城は、特殊航空隊は「上司よりの命令により実行するに非ず。上司としても之を計画的に実施せしむるには相当考慮を要すべし」と斟酌し、ただ黙認を得て、「機材と操縦者」さえ得れば実行できるから、「転出実行の機会を俟つ」(294頁)のみとした。7月22日には、城は、「航本(海軍航空本部)に立寄り、高橋課長と特空(特殊航空隊)を語」(302頁)っている。

 19年1月には、改装空母千代田艦長の城英一郎大佐は「サイパン戦に参加、彼我航空戦力の差をまのあたりにし、もはや体当たり以外に勝算なし」と判断し、軍令部に再度特攻意見を具申した(『昭和史の天皇』1、終戦への長い道、昭和55年、84頁)。

 岡村基春大佐 19年6月19日、館山基地司令の岡村基春大佐は、視察に来た二航艦長官福留中将に、「戦勢今日のようになっては、これを打開する方策は、飛行機の体当たり以外にはないと信じます。体当りの志願者はいくらでもあります。隊長は私自身がやります。300機を与えて下さるならば戦勢を転換させて見せます」と意見を表明した。帰京後、福留が軍令部次長伊藤整一中将に岡村意見を伝えると、伊藤は「自分一個人の考えとしてはまだ体当たり攻撃を命ずる時期だとは思わない」(猪口力平、中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社、昭和42年、142−3頁)とした。

 山本栄大佐 19年後半の日本の月別飛行機生産台数は、19年6、7、8月の2500機ー2800機をピークに減少し、12月頃には1000機に激減しており、さらに米軍空襲で日本側飛行機は「補給を上回って損傷」(『昭和史の天皇』1、79頁)していた。航空艦隊は、戦闘機隊、攻撃機隊、偵察機隊からなっていたが、「爆撃機一機を作る手間と資材で」5機の戦闘機が製造できるから、「ひとたび守勢に立つと、軍需生産も、守るための戦闘機に集中」(84頁)することになった。ここに、「一航艦の戦闘機隊、山本栄大佐を司令とする第201戦闘機隊」が、零戦に250キロ爆弾を積み、高度10m、敵艦300m地点で「投弾」し、零戦は99%の確率で敵艦にぶつかる戦法を生みだした(『昭和史の天皇』1、84−5頁)。

 有馬正文少将 これを最初に実行したのが第26航空戦隊(一航艦に編入)司令官の有馬正文少将であった。19年8月頃に、有馬は第二艦隊参謀長小柳富次少将に、「わが航空戦力がこう不振をきわめたのでは、常用手段ではとてもだめだ。すべての飛行機が、敵の空母に体当たりするほかにない。われわれはそうするつもりだが、水上部隊の方も、この式でいったらどうだ」(『昭和史の天皇』11、361頁)と提案した。さらに、9月10日のセブ島事件(ダバオ湾の海軍見張り員が海面白波を敵上陸軍と見誤ったり、索敵機が迷彩戦車のダバオ基地攻撃誤報で、第一航艦隊は陸攻の大半をセブ島に移したが、これを襲撃した敵機によって零戦70機を失った事件)が起きると、有馬はこの責任を取ろうとしたとも言われる(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』182頁)。

 19年10月15日、有馬少将自らが窮余の突破策として、「参謀や司令がとめるのを振り切って、少将の襟章をはずし」、「死を覚悟の上」でこの第二次攻撃隊(海軍機29、陸軍機40)の一番機に搭乗し、敵空母フランクリンに特攻を実行した(『昭和史の天皇』12、21頁)。但し、有馬の特攻については、敵艦体当り前に撃墜されたとか、特攻の証拠がないなどの疑問が提起されている。


                                      (ロ) 大西瀧治郎中将の特攻論

                                             a 大西瀧治郎の特攻決定

 大西の死生観 大西は艦隊航空隊付の大正5年11月駿河湾に不時着するが、なんとか浜辺まで泳ぎ着いた。大正6年10月10日に第二航空隊付になると、今度は二度も洋上に不時着する経験をしている。一回目は10月に九州西方の海上に不時着しており、この時は司令官鈴木貫太郎中将の練習艦隊に救助される。二回目は、12月31日第一次大戦中で行方不明となった日本郵船の常陸丸を捜索中にインド洋で不時着し、この時も運よく付近の駆逐艦に救助された。

 当時のような航空機創設時代では飛行機の事故が多く、「多くの同僚や先輩、後輩が殉職」しているなか、大西は強運で三度も命拾いしていた。事故後に大西が同僚に、「人間はどんな危険に遭遇しても、その人がこの世に存在する必要のある間は、けっして死ぬことはない。必要のある人は神が殺さないのだ。だから、自分の要不要は危険にその身をさらしてみれば、一番よくわかる。存在価値がなくなれば、生きようとどうもがいてみても、かならず死ぬのだ。だから、おれはやネー、死ぬとか生きるとか少しも気にしない」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』光人社、1997年、33−36頁)と語っている。必要のある「有用」な人間は生き残るという死生観は、「板子一枚下は地獄」を飛行機で3度も経験したことによろう。

 しかし、大西は、戦死者遺族の悲しみを思う時、胸張り裂ける思いをしている。例えば、昭和14年11月の奥田大佐以下30数名の戦死者の告別式で、大西の「言葉はとぎれとぎれになり」、遺族に言及すると、「絶句したまま、よろよろと崩れかかっ」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』光人社、1997年、18頁)ている。

 軍令部特攻政策追認 大西は既に軍令部の特攻方針を受け入れ、軍令部幹部との間で飛行機による特攻を打ち合わせていた。大西は、上述の通り18年6月城特攻提言には反対していたが、サイパン玉砕後の19年7月19日付『読売新聞』では、「われに飛行機といふ武器があり、体当たりの決意さへできてをれば、敵の機動部隊を恐れることも要らないし、むざむざB29に本土を蹂躙させはしない。・・体当たりの決意さへあれば勝利は絶対にわれに在る」とした。
 
 大西は「サイパン決戦論」を標榜し、「サイパンが一度、敵の手中に陥ちたら、もはや、必勝の策は困難である。全機、全艦隊をあげて奮戦するほかはない」とし、戦艦数隻をサイパン海岸に乗り上げさせ、上陸中のアメリカ軍、砲撃中のアメリカ軍の戦艦に砲撃を展開せよとした。大西は、この戦艦特攻で戦局を転換しようとして、これを高松宮・米内・岡田らに説いたが、海軍元帥会議で「あっさりと打ち切り」となった。戦艦特攻などしても、戦局転換できる状況ではなかった。サイパンは失陥したが、これは秘密にされ、大西は後になって知ると、大いに「仰天」し、「最高指導者どもは、みんな腹を切れ」と叫んだ。7月22日、東条首相は内閣総辞職すると、大西は、ただちに「海軍再建論」の執筆に着手した。大西は、「小磯、米内の協力内閣の出現という政変の楽屋裏には、海軍大将岡田啓介が糸をひいており、この政変劇は、岡田が、米内と末次信正大将を現役に復帰させて、海軍を再建しようという信念から出発しており、また、海軍指導部の粛清をもかねてい」ると見て、「ふかく岡田に共鳴」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』158−162頁)していた。岡田、末次は艦隊派であるが、大西は岡田に期待していたようだ。

 大西は、この「海軍再建論」で、「岡田の考え方に輪をかけた強硬」な意見を持ち、「海軍指導部のあいつぐ失敗の責任を糾弾して、人名をいちいち列挙し、組織を挙げて痛論し」た。大西は、これを米内邸に持参して差しだし、米内はこれに目を通すと、「よし、わかった、おれも徹底的にやるから、貴様、次官になってはたらくか」と促した。すると、大西は、「次官よりも軍令部次長になりたい」と答えた。末次総長のもとで次長になれば、「思い切った改革ができるという自信」があったのである。しかし、実現を見なかった。そもそも米内大将の現役復帰、末次総長の実現からして、「伏見宮や島田繁太郎らの反対」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』162−3頁)で実現できなかった。

 米内は本気で次長実現をめざして奔走したが、「当時、中央では、大西は前線向きの指揮官にはうってつけだが、軍政にはむいていないという評価が大半を占め」、「大西を次長にすえることは、金魚鉢の中へナマズを入れるようなもの」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』164頁)と揶揄した者もいたほどであった。ナマズの大西に金魚の海軍将官が食べられてしまうというのである。大西は、軍令部に入って何を改革しようとしていたのか。当時の軍令部が特攻の本部であったことを想起すれば、彼が軍令部の特攻体制を強化しようと企図したことは容易に推定されよう。

 だから、19年10月20日に大西が軍令部幹部三人と会談した直後に、飛行機特攻の方針のみならず、特攻隊の名称が決められたのである。19年10月13日付大西長官(フィリピン途上、台湾に滞在)宛軍令部参謀源田実大佐起案「特別攻撃隊に関する処置」(防衛庁戦史部)に、「神風攻撃隊の発表は全軍の士気昂揚ならびに国民戦意の作振に至大の関係あるところ、各隊攻撃実施の都度、純忠の至誠に報い攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)をも併せ適当の時期に発表のことに取り計らいたいところ、貴見至急承知いたしたし」としていたのである(松尾博志「大西瀧治郎中将が選んだ“統率の外道”」[別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』戦記シリーズ39、新人物往来社、1998年])。戦後、元軍令部第一部長中沢佑は、「『特攻はフィリピンで大西中将が始めたものだ』と、人に聞かれるたびに言って、大西一人に特攻の責任を負わせてきた」が、実際には、特攻は「大西以前に海軍中央が組織的かつ大々的に準備を進めていた」ものであったと明言している。

 台湾沖海戦での比島航空機激耗 19年10月5日、戦況悪化するなかで、大西瀧治郎海軍中将が大西はフィリピンの南西方面艦隊司令部へ転出することになり、10月9日大西壮行会が開催された。壮行会で、大西は遠藤陸軍中将に「全力で頑張ってみたが、もう飛行機もつくってはおれないので、戦場へ行くよ」と語った。壮行会が終わると、大西は足立技術大佐に、「これからは、あんまり上等の飛行機はつくる必要はないよ。簡単なのを、たくさんつくっておいてくれ」と告げた。その後、足立は三重県津市に航空工廠を設立して、「簡単な飛行機」を製造させ、その大半が特攻用に使われることになる(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』165−6頁)。

 10月10日大西は1021空の輸送機で東京を出発し、10月10日に台湾高雄に到着し、台湾沖海戦に直面することになった。10日、12日、13日、14日、15日には、敵機動部隊の艦載機が台湾を爆撃してきて、この結果、大西は、12日から「新竹の防空壕の中に閉じ込められ」ることになった。新竹では神奈川県日吉の司令部との通信連絡が不十分なので、10月16日に豊田副武連合艦隊司令長官と大西は高雄の第二航空艦隊司令部に向った。ここで、軍令部の方針に基づいてフィリピンでの特攻方針などを打ち合わせたのであろう。10月17日、大西は敵機B17、B24、B29(航続距離9650km、上昇限度9725m)の高雄爆撃を目撃して、はじめてみるB29の大きさに「うなった」のであった。大西は、敵飛行機(P38、グラマン)の性能が日本軍機(零戦、隼)より良く、回り込まれたり、空中戦は日本は不利で、機銃の弾数も米国がはるかに多いこと(『昭和史の天皇』12、20頁)にも気付いたであろう。そして、大西は、退避した洞窟で、「敵は、どえらい飛行機を造っている、これに勝つためには、とうてい尋常の手段ではむずかしい」と感じた。大西は、「敵がレイテ湾のスルアン島に上陸した」という電信を受け取っていたので、この爆撃が終わると、「今日中にマニラに行こう」と副官門司親徳大尉に告げた。17日午後2時、大西らはマニラに向けて高雄を飛び立った(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』185−9頁)。

 大西の向った比島の航空兵力はこの台湾沖航空戦で消耗し、全機種を合わせても僅か30機ばかりに著減していた。
 
                               b 敷島・大和・朝日・山桜各隊結成
 
 大西の特攻提示 10月18日に大西は南西方面艦隊司令長官の三川軍一中将を訪ね、翌19日には午前敵艦載機の空襲を受けた。19日夜に大西は副官門司を連れ、「決死隊をつく」るために、零戦隊(マバラカット飛行場、201空本部)・陸攻隊(クラーク中飛行場)のあるクラークフィールドに向った。大西は、「すでにこのとき、“特攻の思想”を胸中に秘め、特攻を決死隊と表現」(192頁)していた。正確に言えば、比島の航空兵力は僅か30機ばかりに著減していて、すでに東京の軍令部で打ち出されていた特攻方針の着手を決意したということであろう。大西は、「機あれど機なしという戦況のもとでは、比島防衛は、特攻発進による『一機一艦』の戦果を狙」(193頁)いはじめたのである。大西は夕方マバラカットに着くと、飛行場指揮所に向かい、201空副長玉井浅一中佐、一航艦参謀猪口力平大佐に会った。彼らは宿舎に向かい、士官兼食堂で、大西は26航空戦隊の吉岡参謀を呼びにやった。大西はベランダで猪口参謀、玉井副長、指宿隊長、横山隊長、吉岡参謀に特攻を提示する(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』191−6頁)。

 大西は彼らに、「もしこんどの“捷一号作戦”に失敗すれば、それこそ、由々しき大事を招くことになる。とにかく栗田艦隊をレイテ湾に突入させ、敵の艦船を徹底的に叩くことにある。それには、敵空母の甲板をつぶして、飛行機の発着を不可能にする必要がある。すくなくとも一週間だな。一週間、空母の甲板が使えなければよいことだ。そのためには零戦に二百五十キロ爆弾を抱かせて、体当たりさせるほかはない。これ以上に確実なほうほうはないと思うが・・」と切り出した。玉井副長が吉岡参謀に、「零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たり攻撃した場合、どのくらい効果があるだろか」と尋ねた。吉岡は、「高い高度から落とした速力の速い爆弾にくらべれば、効果は薄い・・。しかし、空母の甲板を破壊して、一時的に、その使用を停止させることはできる」と答えた。玉井は、別室に指宿、横山を呼んで、「閣下は、すでに決意されているようだ。時は重大であるから、やむを得ないと思うが」と切り出した。指宿は「異存ない」とし、これで特攻が決まった。玉井はベランダに戻ると、大西に「この特別攻撃は201空でやらせてください」と申し出た。そして、玉井は、「重大なことですから、部隊の編成は、私の手でやらせてください」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』197−9頁)とした。

 特攻諸隊の編成 大西の特攻提案を受けて、玉井浅一中佐は、19日深夜の非常呼集で「特攻の志願」を募り、「志願者の中から20数名」を選抜した(松尾博志「大西瀧治郎中将が選んだ“統率の外道”」)。第十期甲種飛行予科練習生ら若者は深夜の非常呼集で特攻について冷静に判断するいとまなく、「自発的」に賛同し、選抜されたのである。軍令部との打合せ通り、4隊24人の特攻隊が編成され、神風特別攻撃隊と命名され、本居宣長の和歌に因んで、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された(『昭和史の天皇』12、28−29頁)。

 10月20日、大西は第一航空艦隊司令長官に親補されると、大西は、前任者の寺岡謹平中将に特攻を説得するべく、「わずか三十機の飛行機でどう対処したらよいか」を話し合った。大西は「体当たりのほかはない」といい、寺岡は「心を鬼にするほかはない」と賛成した。そして、今後の人選について、@「司令を介するか、直接、若鷲たちに呼びかけるか」、A「志願者の名はあらかじめ大本営に報告し、彼らの心構えを厳粛にさせておいた方がいいか」、B少数精鋭で編成すれば「他の隊も自然についてくるかもしれない」か、C「一航艦が率先してやれば、二航艦も陸軍もついてくるだろう」(寺岡日記[詫間談、『昭和史の天皇』12、30頁])ことなどが話し合われた。神風特攻をどの程度「制度化」するかが話し合われたのである。軍令部で事前に検討されていたことを、前司令官と相談し、現地経験・意見を取り入れようとしたのであろう。 

 10月20日、大西中将は敷島・大和・朝日・山桜各隊に、「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、大臣でも、大将でも、軍令部総長でもない。もちろん、自分のような長官でもない。それは諸子のごとき純真にして気力に満ちた若い人々のみである」(猪口力平、中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社、昭和42年、48頁)と訓示した。特攻開始後、大西は、要務連絡でフィリピンを訪ねた源田実に、「落とした爆弾が命中するかしないかハッキリしないような攻撃をして死ぬよりも、命中に絶対誤りのない体当たり攻撃をやり、自分の攻撃が必ず効果を挙げることを確信して死ぬ方が、はるかに満足感を味わう」のであり、「これは指揮官の大きな慈悲だ」(源田実『真珠湾作戦回顧録』103頁)とも告げた。大西は、指揮官の義務として、無駄死にさせずに、日本の危機を救い、有用な死に方をさせてやるというのである。

 この時大西はお前等だけを死なせない、俺も後から行くと心決めていた。そうしなければ、情に厚い大西は心の平静を維持できなかったであろう。この点に関して、副官門司親徳大尉は、「チグハグな感じがなく、純一な雰囲気であったのは、長官が自分は生き残って特攻隊員だけを死なせる気持がなかったからに違いなかった。はっきりした言葉には出なかったが、それは私にも分かったし、搭乗員には、もっと敏感に伝わったようである。命ずる方と命ぜられる方にズレがなかった」(門司親徳『空と海の涯で』[秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』206頁])と述べている。猪口参謀に大西も加わって特攻命令書(@「艦上戦闘機26機をもって体当り攻撃隊を編成す」、A「なるべく十月二十五日までに、比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし」)が作成され、玉井副長に手渡される(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』207頁)。

 大西の福留説得 豊田副武連合艦隊長官は、一航艦(大西中将、50余機)と二航艦(福留中将、台湾、350機)の合体を命じ、10月23日福留繁中将麾下の第二航空隊が台湾経由でクラーク基地に進出してきた。そこで、福留が長官、大西が幕僚長となり、大西は、作戦会議で一航艦は僅か50機で敵の大機動部隊で特攻攻撃して「幸いにも成果が上がった」ので、「このさい、二航艦でも、これに賛成し、いっしょに特攻隊を出撃させてもらいたい」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』231−2頁)と提案した。福留は、「統率の常道、大編隊攻撃戦法」に固執しており、且第二航空隊には操縦経験三ヶ月という未熟な操縦士が多かったこともあって、「高度の技量」を要する特攻には反対した(『昭和史の天皇』1、99頁)。これは、部下を無駄死にさせるわけに行かぬ指揮官の当然の態度である。ここに、第二航空隊は通常攻撃をしたが、「米軍の防空態勢は強力で、結局飛行機はほとんど帰ってこな」かった(第二航空隊通信参謀の関野英夫「死線をくぐり抜けた通信参謀」[戸高一成『聞き書き 日本海軍史』PHP研究所、2009年、55頁])。

 しかも、10月25日、敷島隊が空母セントローに特攻して撃沈させ、空母3隻撃破の戦果をあげたのであった。大西がこの成果を踏まえて特攻を説いてくれば、福留も特攻に同意せざるをえなかった(『昭和史の天皇』1、104ー8頁)。確かに、敷島隊のあげた戦果は「栗田艦隊全体が上げた戦果より大きかった」(太田尚樹『天皇と特攻隊』講談社、2009年、100頁)が、これはあくまで奇襲による一時的な僥倖であり、かつ今後も持続できるか否か不明であり、仮に持続できたとしても、国力・戦力における日本と米国の較差増加になんらの歯止めをかけるものではなかったということである。

 大西の特攻継続 10月25日、大西は、ストッツェンベルグの761空の本部に向かい、士官室で「クラーク地区の海軍航空隊の飛行隊以上の指揮官」3、40人に向けて、@連合基地航空隊の長官福留、幕僚長大西の新体制に協力してほしいこと、A「昨日、神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果をあげた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので、今後も特攻隊をつづける。このことに批判は許さない。反対するものがあれば、叩き切る」という強硬な姿勢を示した。この幹部の多くは二航艦配属であったから、大西は福留を通して、彼らの特攻への不満・違和感を知っていて、暴言に近い命令をしたのであろう。そこには、201空で最初の神風特攻隊結成時の一体感はなかった(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』235頁)。
 
 大西は捷一号作戦の犠牲(日本側は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻、軽巡4隻、駆逐艦11隻を失う)の報告を受けて、「もっと飛行機がほしい。飛行機さえたくさんあったら、こんなに多くの犠牲を出すことはなかった」と思い、これを打開するには「特攻よりほかに打つ手はない」とした。10月26日午後、二航艦麾下の701空から艦爆特攻(忠勇、義烈、純忠、誠忠、至誠の各隊)が編成され、マニラの空港で結団式がなされ、福留長官が訓示した。大西は幕僚長として侍立していた。福留の音頭で冷酒を交わした。大西は、「搭乗員のひとりひとりに、時間をかけて握手し」(238頁)たのであった。10月27日、忠勇、義烈、純忠、誠忠四隊がニコルス飛行場から出撃した。忠勇隊の3機、誠忠隊の1機が敵艦に体当たりしたが、ほかは不時着したり、未帰還であった。10月30日701空は新たに編成した神武、神平、天兵の艦爆特攻隊のうち、神武(3機)・神平(3機)を発進した(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』236−8頁)。

 天皇の特攻観 冷静な天皇は、この特攻については、@2、3日後にこれを知って、軍令部総長に「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった」と言い、これが前線各基地に発信されたという説(猪口力平、中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社、昭和42年、90頁)、A「遺憾に思う」とあった所を「よくやった」と修正して発表したという説(高木俊朗『特攻基地知覧』角川文庫、1973年[『昭和史の天皇』1、110頁]、太田尚樹『天皇と特攻隊』講談社、2009年、20頁)、B米内光政海相が天皇に「特攻隊の戦果」を報告すると、天皇は「そのようにまでせねばならなかったか。まことに遺憾であるが、しかし、よくやった」(高橋文彦『海軍一軍人の生涯』光人社、1998年、345頁)と言う説などがある。ABが正しいとすれば、天皇の心情としては、「確かに戦果を挙げてよくやったが、体当たりとは遺憾である」というものであろう。手放しで賞賛できるはずがない。

 これを見た大西長官は、「指揮官として、作戦指導に対し、陛下から、激しいおしかりをうけたも同然」で、「全くおそれいっ」(第一弦船参謀猪口力平大佐の談[『昭和史の天皇』1、終戦への長い道、昭和55年、77頁])たのであった。しかし、大西は航空特攻を中止しようとはしなかった。

                                        c 大西の特攻青年への責任
 
 国民総特攻 20年1月8日、大本営は第一航艦に台湾へ転進するように命令し、大西は台湾に移動した。

 20年2月、、大西は台湾基地司令官以下への訓示で、全国民への特攻精神徹底を訴えた。つまり、大西は、@「全般的の戦力の低下、同盟国独逸の苦戦等を思い合わせると、日本は遠からず負けるのではないかと、心配する人もあるであろう」が、「日本人の5分の1が戦死する以前に、敵の方が先に参ることは受合いだ」とし、A「三百機四百機の特攻隊で簡単に勝利が得られたのでは、日本人全部の心が直らない。日本人全部が特攻精神に徹底した時に、神は始めて勝利を授けるのであって、神の御心は深遠であ」り、「日本国民全部から欧米思想を拭い去って、本燃の日本人の姿に立ち返らしむるには、荒行が必要だ。今や我が国は将来の発展の為に一大試練を課せられているのである。禊(みそぎ)をして居るのである」とし、B「戦闘がいよいよ熾烈となり、戦場が本土に迫ってくるに従って、流石に呑気な日本人も本気になってきた。神風特別攻撃隊が国民全部を感奮興起せしめた効果は実に偉大なものがあった。いまや、日本には特攻精神が将に風靡せんとしている。特攻隊は空に海に活躍している。陸海軍数千台の練習機も、特攻隊に編成せられつつある。国民残らず此の覚悟で頑張るならば必ず勝つ。少なくとも決して敗れることはない」と国民も覚醒し、C「百万の敵が本土に来襲せば、我は全国民を戦力化して、三百万五百万の犠牲を覚悟してこれを殲滅せよ。三千年の昔の生活に堪える覚悟をするならば、空襲などは問題はないのである」と全国民戦力化を訴え、D兵器、飛行機は国民女子供の汗の結晶としとした。

 その上で、大西は、最後に、「国家危急存亡の秋に当って、頼みとするのは必死国に殉ずる覚悟をしておる純真な青年である。今後、此の戦争を勝ち抜く為の如何なる政治も、作戦指導も、諸士青年の特攻精神と之が実行を基礎として計画されるにあらずんば、成りたたないのである。すでに数千数万の者が天皇陛下万歳を叫びつつ、皇国日本の興隆を祈りつつ日本人らしく華と散った。又現在も夜に日についで散りつつある。・・彼らの忠死を空しくしてはならない。彼等は、最後の勝利は我にあると信じつつ喜んで死んだのである」と、純真青年の特攻を評価した(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』278−280頁)。大西は見送った特攻兵の眼差し、手の温もりを思い出す時、彼らへの思いは募るばかりであり、早く死んで詫びたいと思うと、胸張り裂ける日々であったであろう。それだけに、大西は、国民も特攻精神では連帯していて、特攻兵の死を無駄にすることなく、国民もまた特攻兵のあとに続くとしたのであろう。それが、せめてもの特攻兵へのはなむけであり、鎮魂だったのである。

 20年3月沖縄戦が始まると、「大西は残存の特攻隊を八重山群島の石垣島にすすめ」、4月1日酒井正俊少尉の第一大義隊が出撃し、敵空母1隻を大破炎上させた(293頁)。4月5日、大西は、「一人でも多くの特攻隊員と別れを惜し」むために、台湾から特攻隊司令部のある石垣島へ向った(門司親徳『空と海の涯で』[294頁])。

 大西は大和特攻が失敗すると、「大和一隻の建造費で、零戦なら千機はできる。この千機があれば、大和を出撃させることもなく、アメリカ軍を、むざむざ沖縄へ上陸させることもなかったであろう」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』299頁)とした。

 特攻命令の責任執行 大西は、19年10月20日に特攻を命令した時以来、自らも死んで責任を取ることを決めていた。19年12月山岳戦を控えて、大西はフィリピンのバンバン司令部で「軍刀の手入れはきちんと行な」い、終わると、「しばらく白刃の光芒に眼をあて、それから腹に突きたてる仕草をし」た。大西は「山岳戦になっても、また特攻を出し、最後は自決することを、すでに決意していた」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』259−260頁)のであった。

 20年8月14日御前会議で終戦が決定した。昼、国策研究会主宰の矢次一夫が大西を訪ねると、軍令部次長室で「両の拳をにぎり、血走った眼をして、何かを睨んでい」る姿をみて、矢次は、「大西はここで腹を切るんじゃないかと、いう感じがし」て、「この男は死ぬ気でいるが、次長の部屋で死なせてよいものかどうか。一度気を鎮めてやることが、このさい大切だろう」とした。そこで、矢次は、大西に大きな声で、「今夜、俺の家で一杯飲もうか」と言った。大西は黙って見つめた。しばし言葉を交わして、大西は末次の胸に飛び込んで「腹を絞るような声で慟哭」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』316−7頁)した。胸張り裂ける日々を送ってきた大西が、友に心を許した一瞬であった。夕方6時、大西は酒をもって末次を訪ね、「最後の別宴」を催した。大西は、「戦争に負けたのは、おれじゃない」「天皇の側近が負けたのさ」とした(317−8頁)。

 15日玉音放送を聴き、遺書を書いて、「特攻隊の英霊に曰す」として、「善く戦ひたり。深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れ共 其の信念は 遂に達成し得ざるに至れり。吾、死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす」とし、次いで、一般青壮年に対して、「我が死にして 軽挙は利得行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り、自重忍苦するの誠ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ。諸子は国の宝なり 平時に処し 猶ほ克く特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と世界人類の和平の為 最善を尽くせよ」(322頁)と、特攻精神堅持を訴えた。大西は、特攻で死んで行った青年らの死を無駄にしないためにも、一般青壮年に特攻精神を堅持を訴えたのであろう。

 8月16日午前2時、大西は割腹自殺し、10時逝去した。

                                          (二) 宇垣纏中将の特攻論

 19年2月22日に「第一艦隊を廃止して第二、第三艦隊を以て機動艦隊を編成」(宇垣纏『戦藻録』301頁)し、2月25日に第二艦隊は第一戦隊(大和、武蔵)を編入し、同日に宇垣はこの第一戦隊の司令官に就任した。3月6日、宇垣は、リンガ泊地に到着し、戦艦長門に中将旗を掲げここを「死所」とする(宇垣纏『戦藻録』304頁)。

 海軍首脳の死生観 海軍首脳は自らは天皇の為に忠死をとげることを最高の行為としていた。19年4月26日、宇垣は、「或る将軍曰く『此頃は 玉砕ならず 軍隊を瓦砕せしめあり』と。之は作戦指導司令部に対する一批判と心得るも武士の心理としては玉砕するも犬死し度なきものなり。如何にせば恥しからぬ死を遂げ得るやは我心に常に往来する懸案なり」とする。ここに死に対する陸軍と海軍の違いが示されている。海軍将軍の宇垣は、陸軍の玉砕を美化せず、「玉砕するも犬死はしたくない」としたのである。しかし、彼は、「後世に名を残すが如き奮戦武勲を樹て、而して矢折れ弾丸尽きて潔く屠腹するは頂上なりと考ふるも 往時に於ても流れ弾に命りて死するものもありたらん。況んや近代戦に於ては飛行機潜水艦により我一発をも放たずして無念の死を致すもの数少からず、君国を思ふ至情に変りなく只々武運の然らしむる処、何れも立派なる忠死なり。此の犬死を恐れぬ士ありてこそ現代戦の遂行は正に可能なり。又見事なる武士の死も其の中に顕はるるなり」と、武勲をたてて死ぬべきだが、近代戦では「無念の死」もあるから、「君国を思ふ」「犬死を恐れぬ」「見事なる武士の死」こそが大事だとした。

 ここでは、「現代戦の遂行」で余儀なくされる「犬死」は天皇への忠死となることによって「有用」な死とされている。だから、宇垣は、「既に死生を超越して君国に致す身にしあれば『往生際の慾を求むるは』(死に花を咲かせんとするは)尚未練あるに等しと」した。この点は、山本五十六も、「大君の御楯とただに思ふ身は 名をも命も惜しまざらなむ」と謳い、小成をはるかに越えた、「大君の御楯」こそ軍人にとっての最高に「有用」な死に方とした(宇垣纏『戦藻録』319頁)。

 しかし、海軍首脳は部下に、こういう忠死を強制するわけにはゆかない。海軍首脳は部下には有用な死を求めだすのである。

 特攻容認 19年6月サイパン戦以降、日本軍は米軍にますます追い詰められ、「無力」化してゆくと、宇垣も特攻を容認してゆく。

 10月8日、第一航空艦隊司令として寺岡中将に代わって大西瀧治郎中将が着任した。前述の通り、第一航空艦隊司令長官大西中将が比島に赴任したときには敗残の第一航空艦隊は僅かに30機を残すに過ぎなかった。捷号作戦は基地航空部隊の威力圏内に於ける艦隊決戦であり、戦争の勝敗は基地航空部隊の戦力如何に懸っていると見て、大西は、軍令部意向を体して、最後の一策として特攻々撃決行の腹を決めたのである。

 宇垣もこれに同意する。10月21日、宇垣は、「1AF(第一航空艦隊)は現戦局に鑑み201空艦戦26機(現有全力内体当り13機)を以て神風特別攻撃隊を編制、之を四隊に区分し敵空母が菲島東方海面出現の場合 之が必殺(少くとも当分使用不能程度)を期し、攻撃の成果は水上部隊突入前に之を期待す」と、艦隊攻撃前の特攻隊戦果を期待した。そして、彼は、「嗚呼貴き哉 此の精神!百万の敵、千隻の空母尚恐るるに足らず、全軍斉しく其心一なればなり。昨日日比谷公園に必勝 国民大会ありて銃後の固めを計れりと報道す。真に一億此の犠牲的精神を堅持して増産に防衛に当らば誰か帝国の前途を憂ふるものあらん」(宇垣纏『戦藻録』414頁)と、特攻という犠牲的精神で国民が一つになることを説いた。

 艦隊主軸派 宇垣は航空機を評価していたが、まだ艦隊決戦を主軸と見ていた。11月28日、教育局員山内大佐は宇垣に、「軍令部二部長の命なりとて改めて今後に於ける水上部隊の用法修理」についての意見を求めてきた。宇垣は、@「水上部隊無用とは全然考へず、傘無き為に充分の力を発揮出来ざるのみ。敵が遊撃部隊を気にし之が撃滅を計りたるは矢張り彼にとりては多大の邪魔になるなり。彼は進攻作戦に於て常に空母の外に有力なる水上部隊を伴ふにあらずや」とし、A「譬へ基地部隊により敵空母をやり得たりとするも、台湾沖航空戦及菲島沖海戦に見るが如く最後の刺めは矢張り水上部隊に依らざるべからず。航空機のみにては遊撃部隊は傷き乍らも多数の生還を見たり」とし、B「輸送にも使用出来ればまさかの時は本土に近く敵と偶刺も出来、また愈々行かざれば敵の来攻方面に注水擱座し有力なる砲台たる事も可能なり」と、艦船有用論を展開し、「用法は今回の如き外にも色々あるべく建造は差控ふるも、有るものを有力に使用する事は国力衰へる国に於て特に考慮を必要とす。従って航空及防禦給油船関係の生産と造修を先決とするも、其の余力を以て損傷艦を修理し再度の利用を計る事は当然の方針とせざるべからず」(宇垣纏『戦藻録』448−9頁)と、損傷艦船修復も重要だと答えた。

 しかし、台湾沖航空戦戦果は捏造であり、航空機の勢力が激減して、航空機攻撃力が減退し、劣勢となっているのであって、純然たる艦隊決戦で「最後の刺め」をしたのではない。

 第五航空艦隊司令長官就任 19年12月31日、宇垣は、「益々追ひつめられて皇国の興廃 将に此の時に在り。国民一般大に覚醒せるも時既に遅き感無しとせず」とした。20年1月1日、宇垣は「真に帝国 浮沈の関頭に立つ」とし、1月10日には、敵船団3個がルソン島リンガエン湾に来攻、上陸を開始すると、宇垣は、「勝敗の分岐 此の機に在りと認」め、1月12日に「時は正に国家最大の危機に瀕す」(宇垣纏『戦藻録』452−3頁)とした。
  
 かかる危機深刻化の中で、2月10日、宇垣は新設の第五航空艦隊(大分県)司令長官に任命された。宇垣は、「現在活動し得る帝国海軍の精鋭を以て帝国興廃の健闘を握る重職に就く。正に死闘 以て難局を打破せざるべからず」と、悲壮な決意を新たにした。当時の航空兵力は、近畿以西の第五航空艦隊(670余機)、以東の第三航空艦隊(約8百機)、台湾の第一航空艦隊(約3百機)、内地各地の教育部隊で編成した第十航空艦隊(約4百機)の計2100機余であったから、第五航空艦隊は西国各地航空兵力の統轄機関として大きな位置を占めていた。つまり、第五航空隊は、8航空隊からなり、「作戦基地を南九州基地群、後方基地を北九州及四国基地群とし、艦隊司令部を大隅半島中部の鹿屋航空基地に置いていた」(宇垣纏『戦藻録』457頁)のである。そのうち一つの第721航空隊に桜花が含まれていた。

 2月17日、宇垣は、参謀長の案内で、鹿屋基地の「相当の規模」の「穴計画」を見る。マリアナ、フィリピンの航空基地が「防備不十分」「練習不十分」で「飽気無く負けた」(宇垣纏『戦藻録』459頁)ことを反省して、基地航空隊は、指揮通信施設、工業施設兵器、兵員居住施設、病院などを墜道内に設置して行った。2月19日硫黄島が陥落すると、「陸軍の自信ならばあてにはならざるも、海軍自体にて相当の堅固を以て任じたる同島が此の仕末とは全くあきれ返らざるを得ず。但し上陸せしめ引つけて本防禦線にて水際に撃破し得ざる負け惜しみと云ふべし。全島要塞化を聞えたる同島にして敵手に落ちんか、本州の前途誠に寒心に堪えざるものあり」(宇垣纏『戦藻録』461頁)と、海軍の基地航空隊へ懸念を抱いた。

 特攻推進の心情 ここに特攻が推進される。2月21日、「北硫黄島方面に大部隊近接せる報あり。3AF(第三航空艦隊)の特攻にて空母一 大火災沈没確実と認めらる」ものがあった。2月23日、「21日決行せる3AF特攻隊は硫黄島付近に於て相当の成果を収めた」のであった。3月8日夜には、「桜花の装備を実現し又夜明後神雷隊出発」した。3月9日、宇垣は松山343海軍航空隊の副長中島中佐から「菲島台湾方面に於ける特攻隊に関する有益なる戦訓等を聴取」した。宇垣は既に特攻は必要と割り切っていたから、「特攻を命ずる幹部として今更新らしき感銘を受けざるは余の心情 既に或る程度必要の域に達せるものと思はれる」(宇垣纏『戦藻録』461−5頁)とした。

 3月10日、宇垣は「連合艦隊司令長官の命令に基づ」く「梓特別攻撃隊(鹿屋から1360海里離れたウルシー攻撃)出発に際し」て次のように訓示した。彼は、@連日の空襲、硫黄島陥落で「皇国の浮沈正に此の時に繋」り、Aこの時に「敵機動部隊を殲滅」できるのは「実力」ある第五航空艦隊であり、B特攻隊として「選ばれたる諸子の光栄 大なる」ものがあり、C「成功の要訣は隠密に目的地に辿り着くに在って決行手段に就きては出来る丈の手だては講じてあるが」、万一成功覚束ない場合は「機を失せず善処して再挙を計れ」(宇垣纏『戦藻録』466−7頁)とした。しかし、偵察機が、敵偵察機を発見し、この日は特攻が中止された。

 宇垣は、特攻隊員を平然と見送れるようになったのは、いずれ自分も死して彼らのあとを追うことを決意しているからであった。情に厚い宇垣は、窮して成果を求めて、特攻などに走るということが異常であることは十分自覚していたのである。司令官として、純真な若者に死を強いることの異常さ、非情さは充分認識しており、いずれ自らの死をもって責任を取ると決めて、どうにか自らを納得させていたのである。つまり、3月11日、宇垣は、「昨今の決死隊出発に際して何等の苦も無く微笑を以て訣別し見送り得る事 厚顔となれるに非ず。既に自ら危機に出入せる事 度あり。而して吾も亦何時かは彼等若人の跡追ふものと覚悟しあるに因る」とし、「情に涙多き我身も克く茲迄に達せリと喜ぶ。又着電に一喜一憂せず、喜憂を顔の出さざる態度も自ら大命を奉じたる長官の落着と見えたり」(宇垣纏『戦藻録』469頁)と割り切ったのである。

 5月7日、宇垣は、「寺岡長官等と共に飛行場に到り東天白む時、神風特別攻撃隊第四御楯隊員(指揮官野口克己大尉以下三航艦を以て編成)に訣別」(宇垣纏『戦藻録』511頁)した。後述の菊水作戦が失敗しつつある6月27日には、宇垣は、「此の頃『虚無』ならん事を修養の第一義と心得あり。思想や主義に非ず、心を虚にして己を無ならしむるに在り。斯くして常に心の平静を保ち指揮官としての大を致さんとする也」(宇垣纏『戦藻録』535頁)と、虚無で「平静」さを保とうとしている。

 特攻成果の期待 20年3月21日、宇垣は、「『吾空母に突入す』を報じたる昼間特攻撃機多数ある点より判断し、空母八隻は少く共 戦列を離脱し 沈没の損害を受け 確認以前 尚相当の損傷あるを疑はず」と、特攻成果を展望した。攻撃機193機、索敵偵察53機、うち損害161機だから、「以上を総合し 本戦闘は及第点を採り得たりと信ず」(宇垣纏『戦藻録』475−7頁)とした。

 3月23日には、九州の下谷本部で昨日に続き戦訓研究会(軍令部次長小沢中将、高田GF[聨合艦隊]参謀副長ら18人)を開催した。宇垣は、「昨日は戦闘経過、各隊の戦訓要望等の陳述を行ひ、本日は司令部の意見、派遣諸官の所見施策等を述べ」、終わりに宇垣は、@「(特攻か)攻撃決意の経緯」、A「艦隊の士気、各指揮官の態度=最も満足」、B「成果相当の成績」、C「労を多とし陣没将士に敬弔の意を表す」、D戦訓([イ] 兵は常道通りゆかぬから「変通の策」が必要、[ロ] 戦は「ゲリラ戦の連続の如き形」となること、基地航空の整備・飛行機整備、[ハ] 戦果報告は「慎重」に行なう)などを訓示した(宇垣纏『戦藻録』477−8頁)。

 本土決戦準備と特攻 菊水作戦は失敗し、本土決戦作戦が推進された。6月22日、午前3時50分発神雷部隊に到り、桜花隊並爆撃隊を激励し 之が出発を見送る。蓋し桜花に直接戦闘機を付し、沖縄への進攻は今回が始めてにして成功を期待す。然るに零戦隊の引返すもの極めて多く、予定数の半数に減じ、又桜花の合同を為し得ざるものあるは遺憾なり。」(宇垣纏『戦藻録』531頁)とした。

 7月19日昼食後、宇垣は「作戦関係幕僚」に、「海軍5300機、陸軍4千余機を以て決号に臨み、何れ丈の確算を求め得るや、破るれば夫れ迄の事なれど成算充分ならば後に都合よき攻撃法を採らざるべからず」として、@「船団のみならず支援部隊機動部隊を殲滅して再び立たしめざるなり。之に対する成功の予想の下に適当なる兵力を以て攻撃目標を選定するなり」とし、A「今一は特攻機を如何に生かして使用するかは本決戦の勝敗に帰する処なり。之が方法を充分に研究し訓練し置く事の要を説き研究を希望せり」(宇垣纏『戦藻録』541頁)とした。

 8月7日広島原爆投下を知り、8月9日ソ連参戦を知っても、宇垣は、「帝国は之にて全世界を相手として戦ふに至る。運命なる哉、今更泣き事は云はず。敗れても悔なき一戦に最後の御奉公を期するのみ」(宇垣纏『戦藻録』547頁)とした。8月11日、宇垣はまだ戦力余力ありとする。「策無きに非ず、而も我には猶充分なる戦力あり。況や大陸内地には多数の陸軍部隊厳存するに非ずや」。こうした余力を残して降服することは、「伝統の日本精神を根本的に覆し、而も将来此の長恨を報復するの気概を失ひ、遂に前途暗澹たるに至らし」め「皇国の前途を全く誤る処」とした。そして、「矢弾つき果て戦力組織的の抗戦を不可能とするに至るも、猶天皇を擁して一億ゲリラ戦を強行し決して降服に出づべからず。此の覚悟徹底せば決して敗るるものに非ず、遂に彼等をして手を焼きて投出しとならしめ得べし。」とし、「此の戦力を擁して攻撃を中止する」事は不可能とした(宇垣纏『戦藻録』548ー9頁)。

 特攻命令の責任執行 8月15日天皇の玉音放送を聞いた後、宇垣はこれを停戦命令とみなかった。彼は、「未だ停戦命令にも接せず、多数殉忠の将士の跡を追ひ特攻の精神に生きんとするに於て考慮の余地なし」(宇垣纏『戦藻録』551頁)とする。

 宇垣は、「事茲に至る原因に就ては種々あり、自らの責亦軽しとせざるも、大観すれば是国力の相異なり。独り軍人たるのみならず帝国臣民たるもの今後に起るべき万艱に抗し、益々大和魂を振起し皇国の再建に最善を尽し、将来必ずや此の報復を完うせん事を望む。余 又楠公精神を以て永久に尽す処あるを期す」(宇垣纏『戦藻録』552頁)とした。そして、宇垣は、五航艦司令部の一室で幕僚と別盃を汲み交わした後、自動車で大分飛行場にゆき、11機編隊22人とともに特攻に飛び立った。これは、死んで責任をとるという当初から決めていた事を実行したものだった。


                                          (ホ) 各特攻隊の編成原理
 攻撃262飛行隊 19年8月1日、「空母を発着可能、雷装した艦上攻撃機で夜間攻撃可能という、よりすぐったメンバーを集結させて」開隊したものだった。台湾沖海戦で壊滅的打撃をうけると、11月初旬に新機種「銀河」で豊橋を基地として再出発した(神野正美『梓特別攻撃隊』光人社、2000年、53ー60頁)。

 その後、攻撃262飛行隊は、攻撃501飛行隊・攻撃406飛行隊とともに762空を編成することになった。昭和20年正月元旦、攻撃704飛行隊 坂口大尉は、「軍令により特攻隊長として赴任して、はからずも奇兵と化す。やるからには、ズバリやりとげる」が、「特攻作戦には猛反対である」(藤原銀次郎回想[神野正美『梓特別攻撃隊』98頁])とした。、銀河は爆撃向きであり、体当たり特攻は困難なので、飛行隊長が部下を犬死させる可能性の高い特攻に疑問をもったのである。

 しかし、20年2月20日、第五航空艦隊が762空指令にウルシー敵艦隊攻撃のため「陸爆24機を以て特別攻撃隊を編成すべし」と命令し、準備させた。そして、3月10日付宇垣纏五航艦長官は、「連合艦隊司令長官の命令に基き本職は梓特別攻撃隊に対し本日其の決行を命ずる」と訓示した。その際、宇垣は、「万一天候其の他の障害の爲 指揮官に於て成功覚束なしと認めたる場合は機を失せず 善処して再挙を計れ。決して事を急ぐ必要はない」としつつも、「戦局は益々急迫」する中で「実力を以て戦ひ得るものは当第五航空隊」であるとし、 「撰ばれたる諸子の光栄大なると共に誠に御苦労であり、本職は最大の感激と感謝を以て様子を見送る次第である」(神野正美『梓特別攻撃隊』132頁)と、現場指揮官の意志を無視して、戦意昂揚の美辞のもとに特攻命令が発動されたのであった。

 341空 341空(紫電戦闘機隊)での特攻隊員志願も、躊躇逡巡する隊員を有無を言わせずに「志願」させるというものだった。

 19年11月初旬、ルソン島クラークのマルコット基地の341空(紫電戦闘機隊)で、司令舟木忠夫中佐は、海軍上等飛行兵曹海保博治(2回の爆装[体当り]、2回の直掩)に、「三四一空からも特別攻撃隊を出すよう艦隊司令部から要請があった」ので、「大義に殉じようとする者は志願してもらいたい。私は決して強制はしない。志願しないからと言って卑怯者ではない」とした。海保によれば、「急を要する」話で、「ある者は首をうなだれ、ある者は天井の一点を見上げ、ある者は目をつぶっている。私の目は突然現れた<死>に焦点を合わすように前方を直視していた」のであった。しかし、海保は「自分の命を自分で断つと言う気持ちにはなれなかった」(甲飛十期会『散る桜残る桜』529−530頁[森本忠夫『特攻』152−3頁])のである。

 藤田怡与蔵飛行長が「志願者は手をあげろ」というと、「無意識のうちに」「全員の右手が上がった」。舟木司令は、「諸君の決意はよく分かった。あとの人達はこの司令に任してもらいたい」(甲飛十期会『散る桜残る桜』530頁[155頁])と告げた。翌朝、海保は特攻隊員に指名されると、「頭がくらくらした」(甲飛十期会『散る桜残る桜』531頁[156頁])のであった。翌日夜、第三神風特攻隊の結成式に30数名が集まり、その一人海保は「緊張のためか、恐怖のためか、体の震えが止まらない」のであった。しかし、海保は攻撃隊ではなく、直掩隊に任命され、「死を覚悟してきた緊張が僅かにとけ」(甲飛十期会『散る桜残る桜』535頁[159頁])た。

 台湾特攻隊 フイリピンや台湾の特攻では「志願制」を建前としていたというが、米軍空襲が激化してくると、「従来の志願制度はだんだん実情にそわないもの」となってきたという(猪口力平、中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社、昭和42年、152−3頁)。しかし、志願とは言っても、フィリピンでは事実上は「強制」に近い仕組みが見られたことは上述した通りである。

 では、台湾ではどうだったのか。20年1月18日、「台南部隊にある零戦と彗星艦爆を主体とする台湾最初の神風特別攻撃隊が編成」された。大西長官は、「マバラカットで聞いた発訓示とはほぼ同じ言葉」を発し、特攻隊編成の祝宴が催されている。特攻隊命名を名誉とする風潮ができていたようだ。2月18日、601空司令杉山利一大佐は、搭乗員一同に志願者を募った所、志願者は続出し、選に洩れた搭乗員が飛行長武田新太郎少佐のもとに「一晩中」訪れた(猪口力平、中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社、昭和42年、130ー5頁)。特攻志願を競い合うということもまた特攻の真実であったろうが、そういう風潮を築き上げて自発のなかに巧みに「強制」するという実態を隠蔽することになったとも言えなくはない。

 第三正気隊 海軍少尉江名武彦らは、20年3月大井航空隊から百里原航空隊へ「特攻要員」として転属となる。百里空に着任した早々、司令から江名ら50名は、「お前らは特攻要員で来たんだ。覚悟しろ」と言われた(江名武彦「九七式艦上攻撃機」[『特攻 最後の証言』アスペクト、2006年、198−9頁])。そして、水戸藩儒学者藤田東湖の漢詩『正気の歌』に由来して、正気隊が結成された(江名武彦「九七式艦上攻撃機」[『特攻 最後の証言』200頁])。江名は、「愛する親兄弟、郷土、祖国のため、危急存亡のときは自己犠牲の覚悟が要請され」、「悲痛」だが、江名を含め、「当時の若者は受け入れ」たとする。強制的に特攻隊に転属され、「悲壮感」もあったが、その一方で、「選ばれた者だという誇り」(江名武彦「九七式艦上攻撃機」[『特攻 最後の証言』195頁])もあったとする。

 この特攻は、操縦員、電信員の予科練出身者とのチームで遂行された。20年4月10日より19日まで百里空で特攻訓練で「国に殉ずるのだという連帯意識が隊員に浸透」したとする。江名によれば、「予科練の人たちは、世俗に汚染されていない15歳前後で軍隊に入り、精神と肉体を鍛え上げられ、天をも衝く闘志の集団となってい」た。厳しい訓練で予科練生は「一人前のパイロットになって親兄弟のために命を捧げるという覚悟」を身につけ、「彼ら予科練の純粋さ、潔さには胸を打たれ」(江名武彦「九七式艦上攻撃機」[『特攻 最後の証言』201頁])たのであった。

 第九筑波隊 木名瀬信也は文理科大学を卒業し、18年9月13日に土浦航空隊入隊した。木名瀬は、特攻要員に繰り込まれたことに対しては、「自然の成り行きに任せ」「やむを得ず死ぬのなら、これは仕方ない」としつつも、「進んで死のうという気持ちはなかった」(木名瀬信也・土方敏夫「零式艦上戦闘機」[『特攻 最後の証言』アスペクト、2006年、230頁])とする。

 木名瀬は、20年3月に筑波海軍航空隊に転属となり、筑波では志願することなく、「いつの間にか・・選ばれ」ていた。筑波海軍特攻隊64人全員が成績優秀な海軍予備学生であり、特攻に「使えそうな者から特攻に使」ったようで、「選別のしかたになんともやりきれないものを感じ」ている(木名瀬信也・土方敏夫「零式艦上戦闘機」[『特攻 最後の証言』265頁])。

 戦闘303飛行隊 土方敏夫は17年に師範学校を卒業し、土浦航空隊に入学した。20年4月に鹿児島の303飛行隊に転属となり、沖縄戦の特攻機直掩などに従事した。

 彼は、「戦闘気乗りは戦うのが本分」だから、特攻は「納得がいかない」ので「特攻隊に行けと言われるのは嫌」だった。「戦闘303の隊長」岡島清熊大尉も、「爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道」として、上層部から特攻要員を出せという指令がきても、「一人も特攻隊員を出さなかった」((木名瀬信也・土方敏夫「零式艦上戦闘機」[『特攻 最後の証言』262ー6頁])。

 白菊特攻隊 20年3月26日、大井航空隊講堂に全搭乗員を集めて、同隊司令奈良大佐が第十航空隊参謀の中佐を紹介し、参謀はこれからする話は「軍の重大な機密事項である」から「口外してはならない」し、「たがいの間でも話題にしてはいけない」と命じた。そして、同参謀は、「現在戦闘に参加できる航空母艦は、もう一隻も残っていない」し、「フィリピン方面での戦況は、すでに末期的な状況なってい」て、「この難局に際して残された手段は、諸君ら搭乗員が一機で一艦を沈める『体当たり攻撃』以外に方法はない。よって、第十航空艦隊は全保有機をもって『神風特別攻撃隊』を編成し、『体当たり攻撃』を実施する」(永末千里『白菊特攻隊』光人社、1997年、7−8頁)とした。部隊を特攻部隊にしたと言うだけで、明確に命令してはいないが、事実上は部隊員に特攻隊員を命じたも同然である。自発の意志如何などは問うていないのである。

 これを聞いていた永末千里海軍上等飛行兵曹(20年3月に百里原航空隊から大井航空隊に転任したばかり)は、「よーしやるぞ」と思う反面、「まだ死にたくない」とも思った。「搭乗員の思惑とは関係なく、『神風特別攻撃隊』の編成は計画的に進められ」、搭乗員の自発に委ねる余地などなかったのである。永末にすれば、「戦死することもあり得ると、承知のうえで志願した海軍ではあったが、死ぬのが目的で志願したわけではない」(永末千里『白菊特攻隊』9−10頁)と煩悶するのである。彼の葛藤をもう少し見てみよう。

 彼は、「いくら命令だからといっても、かならず死ぬとわかっている『体当たり攻撃』に、平静に出撃することが果たして可能なのであろうか」(永末千里『白菊特攻隊』114頁)と疑問に思った。既に19年10月31日、飛行場で小型飛行機(桜花)をみて、「『体当たり攻撃』とは狂気の沙汰ではないか」と思っていた。そして、「たとえ命令だからといっても、かならず死ぬとわかっている『体当たり攻撃』に、平気で出撃することができるのだろうか」(73頁)と疑問を抱きつつも、「『体当たり攻撃』は、志願さえしなければ直接、自分には関係ないと思いながらも、せっかく二等飛行兵曹に任官したのに、その喜びも半減した感じであった」(永末千里『白菊特攻隊』74頁)のである。

 これは、永末のみの葛藤ではなかった。だから、現実に「特攻隊が編成された当初」は、永末のみならず「みな一様に無口になり、決意を胸に秘めているようすであった」が、やがて「死を納得」してか「快活になってきた」のであった。永末は、死に対する覚悟を決めるにあたり、「両親や姉など」身近な者のために「自分が犠牲になることで、国家が存続し、両親や姉たちが無事に暮らすことができるのであればという、切羽詰まった考え方でこの問題に対応」したのであった(永末千里『白菊特攻隊』138頁)。しかし、「訓練はつづき技量は上達しても、死に対する不安や恐怖は消えるどころか、ますます強くなってくる」のであった(永末千里『白菊特攻隊』134−5頁)。

 白菊は、もともとは昭和17年以降に800機生産された偵察搭乗員のための練習機であったが、戦争末期に特攻機に改造され(永末千里『白菊特攻隊』11頁)、各地の練習航空隊(鈴鹿航空隊、大井航空隊、高知航空隊、徳島航空隊)を改編して、若菊隊、八洲隊、菊水白菊隊、徳島白菊隊という特攻部隊が編成されたのであった。彼らは、猛練習をした後に、鈴鹿航空隊・大井航空隊は第三航空隊、高知航空隊・徳島航空隊は第五航空隊に配属され、5月24日から6月25日まで130機余が沖縄周辺の敵艦船に体当たりしたのであった(永末千里『白菊特攻隊』12頁)。

 だが、6月にはいると、「すでに沖縄は玉砕し、基地では『いまさら特攻とは』という気分が蔓延して」、6月24日に「出撃した三機は全機引き返し」、25日にも菊水白菊隊が全機引き返した。ここに、6月25日に菊水十号作戦は終了し、白菊による特攻作戦は中止された(永末千里『白菊特攻隊』139頁)。しかし、7月下旬、再度特攻編成を命じられ、大井航空隊で「ふたたび死ぬための訓練が開始され」、「昼間の攻撃は不可能と判断され」、「夜間攻撃の訓練に専念」することになったのである(永末千里『白菊特攻隊』153−5頁)。

 8月15日、永末は、玉音放送の総員集合をさぼっていたところ、兵隊らが「どうも戦争が終わったみたいだ」と話しているのを聞いて、「これが本当なら、もう死ななくてすむんだ。今まで胸につかえていた重苦しいものが一遍に消し飛んで、浮き立つような気持ちで茶畑の小道を走った」(永末千里『白菊特攻隊』168−9頁)のであった。生死を考え葛藤する暇なく体当たりした者もいたであろうが、少なからざる特攻隊員は、永末のように、死への恐怖、葛藤を経て、いったんは愛するもののために死のうと割り切りつつも、絶えず死ぬことに煩悶していたのであった。

 千歳航空隊 20年7月25日、海軍兵学校を卒業したばかりの「新進気鋭」の信太正道らが少尉に任官した直後、千歳航空隊の和田指令は、「隊員200名に対し特攻の希望の有無をただし」、その結果を見て「全員熱望とあり、喜ばしい」とした。隊員は、「アンケートに○×をつけろといわれれば、○をつけざる得ない」いような状況におかれていたのである。

 特攻について冷静な判断をさせることなく、200名のうち36名が特攻隊員に指名され、「名簿順にその名前を呼」ぶのであった。その時、「指名された者の顔はがくりと下に落ち、名前を呼ばれず素通りされた者はやれやれと頭をあげた」(信太正道『最後の特攻隊員ー二度目の遺書』高文研、[斉藤一好『一海軍士官の太平洋戦争』高文研、2001年、199頁])のは、この自発偽装強制の本質をあますところなく物語っている。

 米国爆撃調査団の調査 戦後、昭和20年10月15日、元フィリピン第一航艦先任参謀猪口力平は米国爆撃調査団から「神風攻撃」について質問を受けた。猪口は、@19年10月19日神風攻撃隊が編成された切迫した戦況、A「特別攻撃隊は一応長官より命ぜられたる形なるも、実は当時同方面に在りし全戦闘員に盛り上り醸成しつつありし自発的気分より発生せる」(猪口力平、中島正『神風特別攻撃隊の記録』189頁)ものと解答した。

 昭和21年3月下旬には、205空隊(台湾特攻隊)の飛行長鈴木実中佐、隊員村上武・眞鍋正人・林誠・山形慶二各大尉が爆撃調査団准将ヘラーから特攻隊について質問を受け、猪口力平に質疑応答の覚書を送ってきた。まず、ヘラーは「多量の飛行士をこのような自殺的攻撃に使用した」理由を問うた。日本側は、@「戦況が必然的に本攻撃を採用するにいたらしめた」ものであり、「上から強制せられたものではない」事、A大西中将が「若い者の中に澎湃として湧き上がった」気分を汲み上げた事とした。しかし、事実はあくまで上層部が指示したものである。
  
 次いで、ヘラーが「特攻隊の募集方法は強制的であったか、志願であったか」と問うと、日本側は、「すべて志願であった」が、「ただしフィリピン等の現地においては、隊員すべてが戦況によって参加した例もある」とした。原則志願だが、現地では多様な募集方法があったと答えた。鈴木中佐は、「内地の戦闘機練習航空隊」で募集した際、「ほとんど全員熱望して、なかには血書の志願をしたり、私を夜中に再三起こして、自分こそ第一番に選定してもらいたいと申し出たものもあった」(猪口力平、中島正『神風特別攻撃隊の記録』186−7頁)としたのである。しかし、重要な事は、当時の逼迫した戦況下で、特攻を必要とする海軍上層部の方針を考慮すれば、純真な若者を志願を余儀なくさせるという「強制力」が作用していたということであろう。だから、アメリカ軍に強制ではないかと問われれば、日本側は、それは日本古来の美風と答え、強制ではなかったとしたのであった。だが、志願する者には○をつけさせ、志願しない者は白紙で提出させるなど、事実上の「強制」のもとに志願者が確保されたのであるが、こうしたことまで米国爆撃調査団に説明することはなかったようだ。


                                      (へ) 特攻の基本的問題性 
 海軍特攻戦法は、「板子一枚 下は地獄」という海軍固有体質を基盤に、日米開戦を主導し、敗色強まり、追い詰められた日本海軍軍令部が、苦境打開のために若者登用を主に生み出した戦法であり、これなくば、陸軍に対する海軍の存在根拠がなくなる「極限」で編み出された戦法であった。後付けで何とでも勇ましい形容がつけられようとも、この特攻戦法は、若者に自発のように仕向けて体当たり死を武器とすることを巧みに強制する点では、あってはならない「捨て鉢」戦法であり、海軍上層部が青少年の純真を利用した「悪あがき」以外の何物でもなかった。だからこそ、特攻選抜においては自発と強制が巧みにおりこまれ、自発偽装強制がなされたのである。

 これは、若者に自発偽装強制のもとに死を強いるものであるから、特攻を命令する現場指揮官には地獄であった。まず、この点から確認しておこう。

 特攻指揮官の地獄 特攻を命じる現場指揮官(将官・佐官・尉官)もまた、純真な若者に死を強いることの非情さ、理不尽さを強く痛感していたのである。軍令部は事務的に特攻政策を命令し直接に青年飛行兵に接しないから「地獄」の苦悩から免れることができたが、それを実地に彼等に向って特攻死を命じる現場指揮官は情において忍びがたく、平静さを保つことは容易ではなかった。青年飛行兵が現場指揮官から特攻を命じられるのが地獄とすれば、特攻を直接命じる現場指揮官もまた地獄の苦しみを味わっていたのである。

 例えば、前述の通り、情の厚い宇垣纏中将や大西瀧治郎中将らは、特攻命令の発令に際して自らの死をもって責任をとり、謝罪することを覚悟して、その異常な日常を受け止めていたのであった。彼ら以外の現場指揮官も大なり小なり同様であったろう。これに関連して、戸高一成氏も、特攻で生き残った人は、「命令を与えるときに、ほとんどの指揮官が例外なく、『必ず自分もあとから行くから、おまえ、行け』と、こういう訓示をしている」(沢地久枝ら『日本海軍はなぜ誤ったか』岩波書店、2011年、145頁)と述べていると指摘している。宇垣、大西以外にも、現場指揮官のほとんどが青年を特攻に送り出すに当って、「俺も後からゆくからな」と言ったのも、その時は彼らも本気でそう思っていたのであろう。そう思わなければ、純真な青年を平静に送り出せなかったということであろう。

 だからこそ、中には特攻命令を拒否する現場指揮官がいたのである。例えば、153空戦闘901飛行隊の美濃部正大尉などのような一部の現場指揮官は、積み重ねてきた飛行技量が一瞬で消え去ることの空しさ・悔しさを口実に特攻を拒否したのであった(森四朗『特攻とは何か』文藝春秋、2006年、261頁)。しかし、多くの現場指揮官はここまで軍令部命令を拒むことはできなかった。

 特攻を命令した現場指揮官の中で、結局、死を以て責任をとったのは、宇垣と大西の二人ぐらいにとどまったが、他の指揮官の多くは、終戦処理の混乱に紛れて、自刃するキッカケを失ったのが実情であろう。戸田一成氏は、現場指揮官は、「終戦と同時に、『あ、死ぬよりも、新しい国の復興のために尽したほうが役に立つんだ』と目が覚め」「ほとんどの人が、そのまま天寿を全うする」(沢地久枝ら『日本海軍はなぜ誤ったか』146頁)のであると指摘している。だが、彼らも終戦まではひたすら死んで責任を取るつもりでいたが、そのきっかけを失って、生きながらえてしまったのである。自刃などという極限行為は、大西、宇垣のように佐官よりはるかに責任の大きい将官であり、かつ間髪をいれずに実行しなければ、時間が経過するととても実行できるものではなかったのである。終戦の茫然自失の中に、特攻命令への責任実行で張り詰めた気持ちの中に「新しい国の復興のため」ということが入り込んできて、やがて自刃のきっかけを失ったのであろう。

 だが、詫びと責任を実行できずに生き残った指揮官は「新しい国の復興のため」にと心を切り替えようとしても、特攻死者への自責の念から免れることはなかった。彼らは、以後も純真な青少年に直接特攻死を命じた責任に苛まれ、生涯苦悶し続ける「地獄」の人生を送ったようだ。安穏と天寿を全うしたのではなかったのである。


 特攻兵の地獄  現場指揮官以上の「地獄」を味わったのが、特攻を担った純真な青少年であったことは言うまでもない。

 特攻にまつわる基本的「地獄」は、死を事実上強制された純真な青少年に発するのである。この特攻戦法が全軍に伝わると、「わが軍の士気は目に見えて衰えてき」て、「表向きは、みんな、つくったような元気を装っているが、かげでは泣いている」(岩本徹三『零戦撃墜王』光人社、1994年、333頁)という事態が生じたように、少なからざる人々が本心では特攻などを希望していなかった。

 確かに当初成り行きで体当りして自爆していた時には死の恐怖、生への執着などについて何の迷いも悩みも抱く余裕がなかった。だからというわけではないが、こういう自爆体当りは米国でも見られた。例えば、17年6月4日、ミッドウェー海戦で、ヘンダーソン少佐は『赤城』に向かい、「被弾して燃える飛行機をあやつり『赤城』の艦橋をかすめすぎると、近くにいた『加賀』に体当りしようとしたが、海中に墜落した」(ポッター『山本五十六の生涯』185頁)のであった。米軍はヘンダーソン少佐の勇敢さを讃え、のちにガダルカナル飛行場をヘンダーソン飛行場と改名した。また、6月6日には、ミッドウェー海戦で、フレミング大尉機は「対空砲火によって被弾すると、『三隅』の後部砲塔に体当りし」、「大尉は、海兵航空隊最初の“名誉勲章”を追贈」(ポッター『山本五十六の生涯』229ー230頁)された。「日本に大和魂があれば、米国にもヤンキー魂がある」(岩本徹三『零戦撃墜王』光人社、1994年、92頁)ということだ。体当り自爆自体は、戦場の成り行きで自然に発生していたのである。

 だが、強制的に兵士に特攻を志願させたのは、米国はもとより、日本以外の諸国にはほとんど見られない。日本だけが、特攻を制度化してしまったのである。こうして、日本だけが純真な若者に死を事実上強制したことから、多くの「地獄」的な諸問題が生じることになった。つまり、それらの諸問題とは、@家族・故郷を守るためだと、漸く特攻死を受け止めても、特攻決行までの間は、「蛇の生殺し」状態であり、死と生の間で悩みぬき、「ストレスと絶望感と神経症」(森本忠夫『特攻』278頁)で疲労困憊し、かつ特攻中止となった場合には一時的安堵感の後に再び待ち地獄が襲ってきた事、A不時着、敵発見できずに帰還した場合には、特攻制度の現場責任者は、帰還者を罵倒し、次の特攻死を強制した事(角田和男『修羅の翼』今日の話題社、316−7頁[森本忠夫『特攻』232−3頁])、B戦争末期には「基地司令部に突っ込むふりをして抵抗の意思表示をした者や、飛び立ったあと、『海軍のバカヤロー』と打電してきた搭乗員もいたし、なぜか不時着する機が増え」(太田尚樹『天皇と特攻隊』228頁)、これに対処するために「不時着による機体破損回数の多い者」・「途中引き返し回数の多い者」・「零戦での飛行時間が少ない者」を選抜して特攻「龍虎隊」を結成したりした事(森本忠夫『特攻』267−8頁)、Cまだ戦局転換を標榜しうる比島戦には特攻の大義名分と有用性があったが、戦局崩壊していた沖縄戦では特攻の大義名分が希薄化し、士気が低下し精神が荒み、軍紀紊乱し、かつ練習機・未熟隊員が狩り出され、有用特攻の効果への疑問が強まり、20年5月以降には引き返す者が増加したこと(森本忠夫『特攻』285−292頁、岩本徹三『零戦撃墜王』光人社、1994年、389頁)などである。特攻作戦を「戦果」という観点から軍事科学的にみれば、特攻とは、一時的には「行きづまった日本海軍の戦況に、一筋の光明をもたらした」(秋永芳郎『海軍中将大西瀧治郎』226頁)が、基本的には、機材、搭乗員の損耗補給は行き詰まるから、中長期的にはジリ貧作戦となり、Cの方向がますます濃厚になるものだったと言えよう。それは、まさに生き地獄そのものであった。


 なお、陸軍でも追い詰められていたのは同じであり、当然陸軍にも航空特攻は見られた。そこで、次には、この海軍飛行機特攻の特徴を鮮明にする上からも、陸軍飛行機特攻を考察しておこう。


                                     (B) 陸軍特攻 

 陸軍では、あくまで特攻は「統帥の外道」である事が配慮されていた。最初の陸軍特攻の経緯については曖昧であるのも、陸軍が統帥外道の特攻には消極的であったことによろう。

 陸軍特攻の発議 昭和19年2月下旬頃には、陸軍も航空特攻を検討していたらしい。19年3月に統帥上から特攻に反対していた航空総監兼航空本部長安田武雄中将が更迭されると、同年3月に参謀本部は一応は航空特攻採用を決定している(戦史叢書『陸軍航空の軍備と運用』3、265頁)。しかし、この決定も単純なものではなかったようだ。19年3月後宮淳大将が新航空総監に就任し、その後の会同で、後宮は「現戦況を打開するため、必殺体当たり部隊を編成する」ことの可否を問う質問をした。航空本部教育課内藤進少佐は「航空総監は、戦果が挙がらないのは航空がだらしないからだという発想のようですが、私は装備と用兵だ」と主張し、特攻に反対した。石川少佐も「内藤少佐の意見に全然同意」とした。これを聞いて、後宮総監は「この会議はなかったことにせよ」と命じた(田中耕二ら『日本陸軍航空秘話』原書房、249頁[112頁])。

 南方総軍後方参謀の村田謹吾中佐談によると、19年初め、参謀本部作戦課航空班長鹿児島隆中佐と同参謀の田中耕二中佐らが航空本部総務課員村田に、「これからは航空は全機特攻で行かねばならん」と説き、「奉勅命令がなんとか通るようにしてもらえないか」と要請したという(『昭和史の天皇』13、比島の壊滅、読売新聞社、昭和55年、78頁)。村田はこれには「絶対反対」だとした。彼は、「大元帥としての天皇陛下がそんな命令を出したらえらいことになる。絶対出すべきではないし、もし参謀本部が統帥の立場からそういう命令を出したとしても、航空総監部としては絶対受けられない」と答えた。彼は、「そんなことをしたら統帥はもうめちゃめちゃになる。そりゃ、敵機敵艦のちょうりょうに対して一人のパイロットが一艦を屠ってくれれば、統帥部としてはこんな楽なことはない。しかしこれは、むかしの言葉でいえば、いわゆる袞竜(天子の御衣)の袖に隠れて、輔弼の拙劣をおおいかくさんとするに等しいことで、最もいむべき」と批判した。ただし、彼は、「パイロットの一人一人が、この時局を自覚し、自発的にやるというのなら話は別であ」り、「参謀本部が特攻戦法以外に退勢を挽回する方法がないというのなら、それは命令でなく志願者を募ってやらせればいい」とした。「当時、部隊というのは、どんな小さな部隊でも大元帥の命令によって編成された」から、特攻部隊を設置することは統帥上できないが、「現地の総指揮官が志願者をもって臨時に編成するという形をとるならいいだろう」(『昭和史の天皇』13、79頁)ということになったのである。

 当の参謀本部作戦課航空参謀の田中耕二陸軍中佐は、19年初めには、「マリアナ、トラックを結ぶ絶対国防圏はまだ破られて」おらず、村田に「航空は全機特攻で行きたい」という話をした記憶がないという(『昭和史の天皇』13、81頁)。田中によれば、陸軍で「特攻」「体当たり戦法」が「出はじめた」のは、「19年6月、海軍の『あ号作戦』ーマリアナ海戦がうまくいかなかったことがわかってからではないか」とする。19年3月の参謀本部の航空特攻決定を知らないようである。田中によれば、このマリアナ作戦失敗の結果、敵機動部隊の主力がフィリピンに来て、海軍が大打撃を受け、海軍軍令部の航空参謀の鈴木栄次郎が田中に、「秋のフィリピン戦では陸軍航空、頼みます」と、敵機動部隊への陸軍航空の攻撃を要請したことになっている(『昭和史の天皇』13、81頁)。

 後宮総監も特攻を再び画策し、19年7月11日に第三航空技術研究所長正木博少将に特攻の研究を命じたが、正木は、「棄身戦法による艦船攻撃の考察」を起案し、爆弾搭載の六つの体当り攻撃への否定的見解を示した。そして、正木は「即刻可能」な「九九双軽に一瓲(トン)爆弾」搭載法は、実際には実現困難だとした(生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』ビジネス社、30−31頁)。それでも、陸軍中央は、「九九双軽と四式重の特攻機への改装を強引に実施」(森本忠夫『特攻』116頁)した。

 自爆特攻 既に19年5月下旬に、陸軍の飛行第五戦隊戦隊長の高田勝重陸軍少佐は、「最悪のときは突っ込む」といって三機を引き連れて、全機がビアク島(ニューギニア)南岸で敵駆逐艦に体当たり攻撃した(『昭和史の天皇』13、81頁)。「あまり性能のすぐれない飛行機で、しかも量的な劣勢の中で、勝つためには効率の高い方法で行かなくちゃなら」ないということになったのである。寺内南方軍総司令官は、「感状を与えて全軍に布告」し、壮挙として「国内にセンセイションを巻起こした」(戦史叢書『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』455頁[113頁])のであった。こうして、陸軍でも、用兵の参謀本部、機材の航空本部が、「きたるべきフィリピンのいくさは在来のやり方ではだめだぞ、という考えがあって、そこから体当たりの思想が生まれた」(『昭和史の天皇』13、82頁)のである。ここに、内地で「陸軍に特攻用の『富嶽』(重爆隊、800キロ爆弾2発)『万朶』(軽爆隊)のニ隊が生まれ」、フィリピンに送られたのであった。

 昭和19年10月25日 関行男海軍中佐の敷島隊が出撃、米空母セント・ローに体当りし、10月28日連合艦隊司令長官豊田副武大将は感状を全軍に布告し、「戦果を収め悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり」とし、11月12日二階級特進した(『昭和史の天皇』13、116頁)。しかし、陸軍では、19年11月12日、富嶽、13日万朶が特攻出撃したが(『昭和史の天皇』13、86頁)、海軍とは異なり、感状を全軍に布告することもなかった。

 一方、吉武登志夫は陸軍航空士官学校を57期で卒業し、19年3月に乙種学生として千葉県下志津飛行学校に入校し、軍偵課程修了とともに、生徒14人、助教2人とともに「特攻隊に編入」された。これは、志願ではなく、「軍偵班全員に対する命令」(吉武登志夫「九九式襲撃機」[『特攻 最後の証言』アスペクト、2006年、134−5頁])であった。19年11月19日には、吉武はフィリピンのマニラに移り、軍司令官から石腸隊という名前をもらう。こうして、吉武は、志願する遑なく、特攻隊に巻き込まれたのである。彼もまた、「祖国に報ゆる」、「父母兄弟に応ふる」という公的意義に結び付けてこの特攻を受け入れた((吉武登志夫「九九式襲撃機」[『特攻 最後の証言』141頁])。

 レイテ戦の終わり頃の12月、「ルソンのいくさは持久戦と決まったので、もうここでは一切、内地編成の特攻は使わないことにした」のであった(『昭和史の天皇』13、89頁)。

 志願特攻 その後、陸軍では、参謀本部作戦課航空参謀の田中耕二陸軍中佐が言うように、「20年にはいって特攻がもう普通みたいになった沖縄戦のときにも、(陸軍では)正規の部隊を編成して特攻をやったことは一度もな」く、すべて「個人の志願した部隊」であった。この点を現場について見てみよう。

 19年11月24日昼前、田無の中島飛行機武蔵野工場爆撃をめざす大型機大編隊70機が北上中という情報が入り、第47飛行戦隊の富士隊に「特攻機出動」の命令が下り、12機が出動し、「操縦のうま」く「強い任務への責任感」をもつ見田伍長(19歳、少年飛行兵12期)機のみが銚子沖で体当たりして一機撃墜した。11月24日夜、戦隊本部の田中次男副官が来て、「特攻隊攻撃は有効なり、各戦隊は特攻隊(震天制空隊)を二コ小隊(8機)つくれ」と命じた。吉沢中尉が、ピスト(操縦者控え所)で、伴了三少尉(幹候9期)と幸万寿美軍曹に、「実はなあ俺がなりたかったんだが、お前ら二人が特攻隊になった」と告げる。伴にとっては、これは「最後の宣告」「死の命令」も同然であった。伴は、「『はい』と答えたが、その声は喉に詰まったような声」であった。それに比べ、幸軍曹は「『はい、やります』と明快に答えた」が、伴少尉はこうしたルーズな伝達に不満を覚え、「私はこんな重要な命令は戦隊長自ら下達すべきだ」と批判した。この特攻命令は曖昧な命令だということである。
 
 伴は、伴の戦闘機から機関銃が外されると、「もはや戦闘機ではなく単なる飛行機」に過ぎぬと「戦闘機操縦者のプライド」を傷つけられ「実に情けない」気持ちになる。特攻命令当日には、伴は「食欲はな」かったが、「命が惜しくて飯も食えない、といわれるのも悔しいからお茶をかけて流し込」み、「生への執着を簡単に断ち切れ」ず「深夜ふと目覚めて己の運命を哀れ」んだ。結局、最後は、「自分が犠牲になって親兄弟をはじめ国民と国土を敵の蹂躙から守る事ができれば、自分の死にも意義がある」とする。この点は、海軍も陸軍も同じである。伴少尉は「すべての個人的欲望を諦めて死を決意し、敵機の来襲を待った」のである。しかし、特攻出撃したものの、当日は雲層突破が困難で、帰還し、「きまりの悪い思いで着陸」した。当日は「誰も雲層を突破できなかったので、恥をかかずに済んだ」のみならず、1ヶ月後、二コ小隊が一隊(10機)に再編され、伴、杉本少尉は特攻隊員を免ぜられ、「現役と特別志願の将校二人」が任命されたのであった。伴少尉が特攻に不満であることがそれとなく上層部に伝えられたのかも知れない。
 
 20年1月9日、B29が60機が来襲し、伴は今度は「普通の空中勤務者」として出動し、「燃料ぎりぎりまで使って」帰還した。一方、この日、二件の体当たり突撃があり、@多くの都民が見上げる中で「ただ今より体当たり」と無線通知して特攻隊員の幸軍曹が敵機に激突し、A特攻隊員ではない「操縦技量が戦隊随一」の栗村准尉が尾部に体当たりして、落下傘で脱出したが、探索救助できなかった。陸軍では、特攻についてはかなり柔軟なのであった。

 伴は、特攻隊員の実直な鈴木曹長に、「敵は低くなった(敵は日本の防空戦闘機隊の戦力をみくびり、高度8500mで侵入)。射撃で落とせるから無理するな」と助言した。伴は、特攻隊員に「婉曲に体当たりを思いとどまるように言」う余裕があったということである。しかし、重大任務に「誠実」な鈴木には「迷惑」と受け止め、1月27日、72機のB29が6コ編隊で襲来すると、鈴木曹長は、敵編隊に真正面から突撃して編隊長機のトップに体当たりしたのであった。同時に、桜隊の特攻隊員坂本曹長は、敵機に体当たり、自らは投げ出され落下傘が自然に開き、重傷を負いつつも生き抜いた。
 
 20年2月10日大田の飛行機工場空襲を目標にB29大編隊が北上してくると、第二小隊長吉沢中尉は特攻義務がないにも拘らず、敵を追い越して前方から攻撃し、中隊の特攻隊員が前回攻撃で全員戦死したことに責任をとって体当たりした(伴了三少尉「B29特攻に散った勇士を痛む」[別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』戦記シリーズ39、新人物往来社、1998年])。

 この様に、陸軍では、特攻命令が曖昧柔軟であり、上官が特攻隊員に特攻翻意を婉曲に促したり、非特攻隊員が体当たりしていたのである。これは、航空本部総務部長の河辺虎四郎陸軍中将、参謀総長梅津美四郎陸軍大将が、特攻は「『命令しちゃいかん』と、口をすっぱくして言ってい」(『昭和史の天皇』13、83頁)たことにもよろう。陸軍上層部は、特攻が「統帥の外道」であることを充分自覚していたのである。もちろん、海軍上層部でも統帥外道の認識はあったはずであり、実際に、19年10月20日大西瀧治郎が及川古志郎軍令部総長、伊藤整一次長、中沢佑第一部長を訪ねて、「日米航空兵力を詳細に比較説明した上で、航空特攻実施の了解を求めた」際に、及川は「大本営も了解」するが、「はっきり申し述べておくが、決して命令はしてくれるな」(中沢メモ[松尾博志「大西瀧治郎中将が選んだ“統率の外道”」別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』戦記シリーズ39、新人物往来社、1998年])と発言していた。だが、及川が日頃からこの点を口をすっぱくしていったいたふしはない。なぜなら、軍令部第二部が特攻兵器昨部門であり、上層部が特攻方針で固まっていたからである。

 こうして特攻を命令するなという点が陸軍上層部ではより強く認識されていたことが、海軍との違いではないか。沖縄戦においては、特攻面では海軍が陸軍を「主導」したかである。次には、沖縄戦における陸軍特攻と海軍特攻の関係などをみてみよう。

 陸軍特攻・陸軍と海軍特攻の関係 20年3月27日には、陸軍特攻と海軍特攻の分担が定められた(宇垣纏『戦藻録』480頁)。つまり、宇垣は、「攻撃を加へ易き固着敵兵力に対しては、陸軍特攻の如きに之を譲り、当隊の精鋭は飽く迄KdB(機動部隊)空母に攻撃を集中せざるべからず」とした。海軍が、陸軍特攻を促し、指導していて、特攻面でも陸主海従が確認される。だから、4月4日には、六航軍(陸軍の第六航空軍、3月20日沖縄戦のために連合艦隊指揮下に編入)参謀長が宇垣に、@「機動部隊に対する攻撃兵力は猶控置するも 特攻兵力の大部を挙げ一か八かの大博奕を打つものにして 第二、第三と続行し得ざるものなれば大に慎密ならざるべからず。制空権を得ずして技倆劣れる特攻を成功せしめんとする処に無理もあり、苦心も大なる所以なり」と、敵機動部隊への特攻攻撃の限界と苦心を述べ、A「GF(連合艦隊)は一大航空戦の実施を以て船団攻撃を下令せり。内容は当方計画と一致するものなるが 発令の裏は六航軍と十航艦を鞭撻し積極的に作戦せんとするに在り」(宇垣纏『戦藻録』485−6頁)と、連合艦隊指令の陸軍六空軍との関係を言及した。しかし、宇垣は、「実際GFの下に在り乍ら六航軍の態度は温存主義にして相容れざるものありしなり。昨日命令を内示せられた大あわてしたる由」であったと、「温存主義」の陸軍六航軍は連合艦隊攻撃命令に狼狽したとする。

 4月30日、「陸軍は四日総攻撃を以て南部の敵主力の撃破を期する」という次長電を受けて、宇垣は「航空部隊を以て同日第五次菊水作戦実施の事に予令を発した」が、「此の頃 敵は積極性を欠き、何か考へある如き有様なり。攻撃資材の取揃はざれば仲々手を出さざる彼なり。今の内に大打撃を加ふるは現下執るべき策なりと認む」と、海軍航空は陸軍総攻撃を支援して敵に大打撃を与えるとした。5月3日、「沖縄の陸軍部隊は明黎明より総攻撃に出て 南部の敵主力24軍を撃滅せんとす」るが、宇垣は、「充分なる成算を以ての挙ならず 座して滅びんよりは元気ある内の一合戦と云ふが当れる所なり。何れにせよ、積極的に出るは結構とし本薄暮以降 明日に亙り 当方面及台湾より陸海全力を以て航空攻撃を集中する事とせり」(宇垣纏『戦藻録』507−8頁)と、消極的ながら海軍航空隊は沖縄陸軍総攻撃に協力するとした。

 5月18日は、宇垣が「陸軍デー」と言うくらい、この日は宇垣と陸軍首脳との幅広い交わりしていたことを確認することができる。つまり、宇垣は、まず早朝に「ガ島以来の旧知」の陸軍中将宮崎周一参謀本部第一部長と「最近の情況に就き懇談」した。午前10時には、新積兵団長の陸軍中将芳仲和太郎が来訪した。午後5時には、旧知の陸軍大臣阿南惟幾(宇垣軍令部一部長は陸軍次官阿南と懇談)が福岡から来着した。阿南は宇垣に「陸軍部隊の世話を謝する意味にて来訪」したのであった(宇垣纏『戦藻録』517頁)。5月28日には、陸軍大将河辺正三航空総軍司令官が知覧に飛来したが、それに先立って、「GB(海軍総体)司令長官の作戦指揮より六航軍(陸軍の元教導航空団)離れた」ので、各部が「杞憂」していたので、航空総軍先任参謀の宮子実陸軍大佐を派遣し、「六航軍との協力に関し来旨」あった。しかし、宇垣は、「始めより問題」とせずに、GB長官交代も早くても「不可なし」としていた。宇垣は、この時勢にあって、「陸海軍間、国民間に離反的行為」する者は「国賊」と批判した。そして、彼は、陸軍と海軍が「彼此 相補ひ相扶けざれば、兵力の損耗は今後の作戦実施を不可能ならしむる」においておやとした(宇垣纏『戦藻録』521頁)。

 6月21日には、宇垣は陸海軍の特攻の相違について、@「陸軍特攻6機 薄暮攻撃を実施4機突入 夫々戦果を収めたる模様(巡洋艦1小破、駆逐艦炎上、不詳1危急沈没、輸送船1撃沈)」と陸軍特攻を評価しつつ、A「六航軍はチョロチョロ主義を採り、海軍は制空権制空権と称して前夜より企図を予告して同時攻撃を採る。何れが可なるや、現状に於て篤と勘考すべき問題なり。幕僚連 之に対し明答無し」(宇垣纏『戦藻録』530頁)と、温存主義の陸軍六航軍と「攻撃」主義の海軍航空兵力の作戦相違を指摘し、海軍幕僚を批判した。

 このように、陸軍特攻部隊は、沖縄戦では連合艦隊の指令系統に編入されて以後も、「温存主義」「チョロチョロ」主義をとっていたのであった。

 特攻犠牲者 この結果、「神風特攻隊員として戦死」した海軍将兵は2065人にも及んだのに対して(『昭和史の天皇』1、終戦への長い道、昭和55年、77頁)、陸軍の特攻犠牲者は、第四航空軍(20年2月13日廃止)の比島作戦の特攻戦死者658人であった(『昭和史の天皇』1、109頁)。別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』(別冊歴史読本 戦記シリーズ39、新人物往来社、1998年)の巻末資料「特攻戦死者」(特攻隊慰霊顕彰会編『特別攻撃隊』平成2年3月)を集計すると、昭和16年12月8日から20年8月15日において、@特攻戦死者は海軍4727人(飛行機2668人、特殊特攻艇2059人)、陸軍1609人であり、A海軍特攻では、フィリピン戦場(19年10月ー12月)、沖縄戦場(20年2月から6月)に集中し、陸軍特攻もフィリピン戦場(19年12月ー20年2月)、沖縄戦場(20年2月から6月)に多く、本土空襲邀撃(20年1月ー)では意外と少ない。数値は資料により異なるようだが、明らかに陸軍特攻犠牲者は海軍特攻犠牲者より少なかった。


                                  (C) 沖縄海上特攻作戦
 20年3月頃、大和ら残存水上艦艇の用法について、日吉の連合艦隊司令部内部では大きな対立が生じていた。つまり、@連合艦隊作戦参謀の神重徳大佐らの説くように、このままでは空襲で座して沈没されかねず、「全軍が特攻隊として敢闘しているときに、水上部隊だけが拱手傍観していていいか」ということから、「なるべく早く使ったほうがいい」という意見と、A連合艦隊参謀長の草鹿竜之介中将らが主張するように、「世界最強の戦艦として、悔いなき死所を得させてやらねばならぬ」という意見があったのである(草鹿竜之介中将談[『昭和史の天皇』1、344頁])。

 第二艦隊の上層部もまた多くが海上特攻には反対していた。第二艦隊司令官の伊藤整一中将は、制空権・制海権もなしの無謀な出撃で7千人の部下を無駄死にさせられぬと、沖縄海上特攻には強硬に反対していた(草鹿竜之介中将談[『昭和史の天皇』1、345頁])。20年4月5日、水雷戦隊司令官吉村啓蔵少将は水雷隊幹部の原らに、大和特攻を「全く無謀」「自殺行為」と批判し、吉村、森下(第二艦隊参謀長)、有賀(大和艦長)もまた「戦果を絶対に期待出来ないような作戦計画には・・断じて同意」できないとした(巡洋艦矢矧の艦長原為一大佐『帝国海軍の最後』[『昭和史の天皇』1、340ー1頁])。駆逐艦朝霜艦長の杉原中佐は、「生死はもとより問題ではないが、絶対戦果を期待し得ない自殺作戦には大反対だ。駆逐艦一隻といえども、いまは貴重な存在だ。無為に沈んでたまるものか」(『昭和史の天皇』1、342頁)と批判した。21駆逐隊司令小滝大佐は、「沖縄作戦、レイテ作戦のごとき、国家の興亡を賭する大決戦をなんと思っているのか、当然陣頭に立って指揮すべきだ。東郷元帥を見ろ!ネルソンを見ろ、穴(聯合艦隊司令部は横浜市日吉台の防空壕にあったから)から出て肉声で号令せよ」(『昭和史の天皇』1、343頁)と、連合艦隊司令部を批判した。彼らは、軍人として死を恐れないが、無駄死はしたくないし、何よりも部下を無駄死にさせるわけにゆかなかったのである。沖縄作戦批判は、天皇だけではなかったのだ。

 しかし、草鹿が、九州鹿屋基地に出張している間、連合艦隊司令長官豊田副武大将は、「沖縄が失陥すれば、いよいよ本土決戦の軒先に火がついたも同然」として、それを阻止する「あらゆる手段」の一つとして大和突入計画を容認してしまった。豊田としては、燃料は「高速では片道」分(2500トン)だが、「燃料があれば帰って来い」として、悪天候ならば沖縄に突っ込む可能性もあって、「成功の算、絶無ではない」(豊田副武『最後の帝国海軍』[『昭和史の天皇』1、347−8頁])としていた。大和には6千トンの燃料を積み、途中で駆逐艦に分けてもまだ4千トン持っていたから(能村手記[『昭和史の天皇』1、358頁])、燃料面での帰港可能性はあった。死を前提とした片道特攻ではなかった。

 神参謀が出張中の草鹿に、大和特攻について「長官の決済」を得たので「参謀長の意見はいかがですか」と電話し、止むなく草鹿は了解を与えると、神は草鹿に「第二艦隊へ行って出撃命令を伝えてほしい」と要請してきた。4月5日、草鹿は水上機で大和に向かい、伊藤整一中将の説得にあたる。草鹿の説得を受け入れつつも、「ゆく途中で非常な損害をうけて、これ以上はだめだ、という時になったらどうすればよいか」と尋ねた。伊藤は、あくまで部下を無駄死にさせたくないのだ。草鹿は、「一意、敵撃滅に邁進するとき、それはおのずから決まることで、一にこれは長官たるあなたの心にあることだ。聯合艦隊司令部としても、その時に臨んだら適当な処置はします」と答え、部下を無駄死にさせないことに含みをもたせた。伊藤は喜色満面となって、最後の杯をかわした(草鹿竜之介中将談[『昭和史の天皇』1、345頁])。

 大和艦長有賀幸作大佐が、「海兵をでたばかりの少尉候補生53人」を退艦させたのも(『昭和史の天皇』1、355頁)、部下を無駄死にさせたくない配慮の現れであったろう。副長能村次郎大佐は有賀采配を支持して、退艦を拒む彼らに、「いますぐお役に立たない者を、出撃させ、明日なき死への道連れにする必要はない」と明言した(能村手記[『昭和史の天皇』1、356頁])。

 一方、沖縄軍第32軍高級参謀の八原博通陸軍大佐は大和特攻は無駄死になるとして、これに反対した。八原は、4月6日に「大和が出撃するという大本営からの電報」を受け取ると、「黒山のように沖縄本島をとりまいた敵の艦船」、「昼夜をわかた」ない艦砲射撃、「米機の大群」の襲撃の中で沖縄に来ても無駄と判断して、大本営に「成功の公算がないから、出撃はとりやめられたい」(八原談[『昭和史の天皇』1、395頁])と打電したのである。だが、これは握り潰されてしまった。

 この無謀な作戦の強行で、「沖縄をめざした水上特攻隊は、十隻中、駆逐艦冬月、涼月、雪風、初霜の四隻だけを残して他はみな沈没し」(『昭和史の天皇』1、393頁)、大和生存者は7千人中で僅か269人という有様となった(『昭和史の天皇』1、390頁)。悲惨な結末に終わった。


                                 (D) ウルシー環礁特攻作戦巨大潜水艦特攻戦法
 斉藤一好は、1938年海軍兵学校を首席合格し、第69期を次席で卒業した聡明な人物であった。彼は、1945年ウルシー環礁への巨大潜水艦による特攻攻撃直前に、終戦を迎えたが、聡明な海軍士官斎藤は山本五十六作戦の疑問者・批判者でもあり、巨大潜水艦もまた山本五十六の発案によるものであった。そこで、まず、斉藤の冷静な山本批判から見ておこう。

 山本批判 斉藤は、真珠湾攻撃についての戦果情報に、「敵空母がいずれもパールハーバー湾内におらず、取り逃がした事実を知り、若輩ながら一抹の不安を感じ」(斉藤一好『一海軍士官の太平洋戦争』高文研、2001年、8頁)ていた。敵空母が無傷なのに戦果を誇大視するのに疑問を抱いたのである。
 
 さらに、16年12月8月、連合艦隊主力(旗艦長門以下、陸奥、日向、伊勢、扶桑、山城などの戦艦)は真珠湾攻撃の機動部隊を援護するために本土から出撃したが、斎藤は「この行動はおかしい」と疑問に思った。実際に、後にこれは「石油の無駄使い」と批判されることになったように、山本五十六は無駄な行動をしたのである。しかし、斎藤は、一期先輩の山岸計夫少尉から「君は山本長官を批判するのか」(同上書9頁)とたしなめられた。斎藤一好は、山本のミッドウェー海戦も的確に批判したのは既に見た通りである。

 19年8月末には、斎藤は建造中のイ号潜水艦(水中排水量6560トン、乗員200人、全長122m、水上攻撃機晴嵐3機収納、世界最大規模の潜水艦)の艤装員を拝命した。これは、敵本土攻撃を行おうとする「山本五十六大将のアイデアから生まれた」ものであり、当初は8隻を予定していたが、「戦局の逼迫」から2隻(イ400、イ401)の建造のみで終わったのであった。斎藤にとって、これは「常軌を逸した巨大潜水艦」であった。斎藤は、「潜水艦はむしろ、適度の大きさのものを大量生産して自由自在に活動させるのが常識」であるのに、「地道な方策をとることなく、このような潜水艦建造に走ったのは、日本海軍の思想の根本的な欠陥、すなわち科学的思考に欠け、僥倖にたより、一挙に目的を達成しよう」というものだと的確に批判した(同上書162−4頁)。山本五十六の非科学的「賭博」戦法を批判したのである。

 ウルシー特攻作戦 この巨大潜水艦は、1944年12月呉海軍工廠で完工し、1945年4月、内地の石油払底のため、中国大連に石油を取りにゆく。石油を積んで戻ると、「他の潜水艦から、われもわれもと石油を求められ、お裾分け」(同上書166−7頁)した。

 1945年能登半島の七尾湾に停泊中、イ400、イ401の第一潜水隊は「南太平洋のウルシー環礁に停泊中の米艦船を・・搭載した水上機6機で特攻攻撃する」とされた。司令官有泉龍之助大佐は、これを「起死回生の作戦」としたが、斎藤は「司令、何をおっしゃっているのですか、日本軍は負けいくさに負けいくさを重ねているのではないですか」と反論した。斎藤は起死回生などできないという冷厳な現実を指摘したのである。不思議なことに、指令は「これをとがめなかった」(同上書169頁)という。

 さらに、斉藤は、この特攻作戦の問題点として、@飛行機晴嵐は「故障続出」で「満足に三機連続で発射できたことは一度」もなかった事、Aイ400とイ401が「洋上で確実に落ち合える」事に難点があった事、B敵地ウルシー偵察がうまくいかなかった事、C石油がないから「攻撃を終えたらシンガポールに迎え」とされたが、マラッカ海峡通過は困難であったこと などを指摘し、これを意見書にして、「遺書のつもりで艦隊参謀に渡してくれるよう」に某少尉に託した。しかし、「死地に赴こうとする者」へ「舞鶴まで見送りに来た連合艦隊参謀」は、「もう打つ手は何もありませんよ」(同上書170−1頁)と斉藤を突き放した。

 斎藤は、この特攻に関して最後まで「心にひっかかった」ことがあった。飛行機は「800キロ爆弾か、魚雷1本を抱き、敵艦船に体当たりする」のだから、「100%生還を期し得ない」のである。彼は、特攻攻撃は「海軍上層部が苦しまぎれに考えた絶望的で非人道的な攻撃方法」(同上書172頁)と考えており、特攻隊員12人の壮行会に欠席したのもこういう考えからだったと考えられる。

 にもかかわらず、有泉司令は、第一潜水隊と第一航空隊の双方の司令として「神龍特別攻撃隊」と命名したのである。斎藤はこれはおかしいと思ったのである。特攻機は体当たりして生還できないのに、潜水艦は敵地で「ぶじ離脱」は容易ではなかったにしても、原則「攻撃機を発進したら引き揚げ」て生還する可能性があった事から、特攻機乗員と潜水艦船員との間には「天地雲泥の差」があったからである(同上書174−5頁)。

 7月23日、下北半島大湊を出航し、8月14日、イ400はウルシー環礁の南東300海里の地点に到達したが、イ401と洋上会合をする予定だったが、斎藤が予測した通り、容易に会合できなかった。周知の通り、8月15日同盟通信が終戦詔勅をもたらし、この特攻計画は中止となった(同上書177−8頁)。



                                                小  括      

 以上、日本海軍の諸問題を明治初期から昭和にかけて考察してきた。それによって、明治維新期から昭和にかけて展開する「海主陸従」と「海従陸主」との軋轢、海軍内部の艦隊派と航空派(ここにも空母航空派と基地航空派との軋轢)との軋轢、日清・日露戦争と藩閥との連関、それとの比較裡での旧朝敵諸藩の精神と日米戦争期軍上層部との連関などの観点を導入して、日清戦争・日露戦争と日米戦争との根本的相違、海軍邀撃作戦の根本的限界、空母航空作戦の不徹底、日米戦争勝利の唯一戦略の不徹底、海軍特攻の根本的問題など、これまで不鮮明だった多くのことが明らかにされた。

 同時に、学者の怠慢ということも指摘しておかねばならない。戦争はよくない、戦争をするな、平和が大事だ、などということは、誰にでも言える。今から2500年前にトゥキディデスが国家間戦争の悲惨さを指摘して以来、これまで何百万、何千万、何億の人々が戦争の悲惨さに慨嘆し、二度と戦争をしてはならないと反省してきてきたことか。にも拘わらず、いまだに小規模国家間戦争や紛争が局地的になされ、いまだに大規模国家間戦争の危機がつきまとっている。それは、戦争はよくない、平和が大事だと叫ぶだけではだめだということである。

 特に、近年の「自国兵員犠牲の最小化と敵国兵員犠牲の最大化」をめざす兵器(核兵器、化学兵器、無人兵器)の展開は、おうおうにして非戦闘員の大量犠牲を随伴して、人類そのものの滅亡危機を高めかねない。しかも、この兵器を国際条約で規制しても、必ず大国が抜け道をつくるから、決して人類に安全を保証するものではない。その結果、敵国がこの大量殺戮兵器を先行使用すれば、自国はこれに対応防衛攻撃に踏み出し、絶えず人類は滅亡の危機に直面し続けている。この問題の解決には、国際条約による「糊塗」(制約下での限定的存続)ではなく、「富と権力を基軸とする文明システム」の根源的改革(無差別大量殺戮兵器の無条件全面的廃棄、さらには国際連合とか「世界連邦」などによる各国軍事力の一元的掌握・管理)が必要だというとである。

 そもそも「富と権力を主軸とする文明システム」のもとでは、戦争と平和は紙一重なのである。それは、この文明システムが小麦と米によってメソポタミアと中国に誕生して以来、その富が軍事力を擁する権力を生み、その軍事力によって「平和的統治」が維持されるからである。軍事力によって維持される平和なのであり、基本的にはこれは現在においても変わることはないのである。我々の「専門学者」と称する輩は、富や権力や文明などに関わるいくつもの狭い領域を狭い利己的観点から掘り下げるだけであり、全体的脈絡を解明し、その秩序を維持するものを描き出す努力を怠ってきたのである。だが、後述の通り、メソポタミア人、世界で最初に富社会を経験したメソポタミア人は、富社会という文明がもたらした多様な文化総体を自然社会とは異なり富社会の「獲得物」を性商売まで含めて見事に要約し、「文明と文化」の総体的相関図を的確に語っているのである。我々は、学問の分野における相対的把握において、メソポタミア人より「進歩」していると主張できるだろうか。

 だから、平和の維持には、「富と権力を主軸とする文明システム」の総体的脈絡を欠落させて、平和が大事だと叫ぶだけでは駄目なのである。それは、道徳・宗教も同じである。メソポタミア文明以降、幾多の道徳、宗教が、徳・仁・礼・慈悲・愛を説き、神或いは神々への帰依を説いてきたことか。確かにそれらは諸問題の一時的・部分的な改善に寄与することもあったろうが、戦争や紛争や貧富差の問題を根源的に解決することはできなかった。それは、欲望はよくない、清貧が大事だと叫ぶだけではだめだということである。宗教家などにまかせていても駄目だということである。

 ここにこそ、学問が必要だということになる。学問が、平和の維持の手段は軍事力ではなく、非軍事力であり、人類の平和希求の精神は数千年来の執念あることを、根源的に綜合的に明らかにして、人類に平和の実現のための適切な判断材料を与えることが必要だということである。つまり、重要なことは、そのことを短期的な視点と狭い領域に怠慢に安住することなく、長期的・根源的立場に立脚して学問的に平和や思いやり・慈悲の重要性・必要性を指し示す「本物の学問」の観点から、戦争や貧富差はよくないこと、にもかわらず「富と権力」の人類文明システムが数千年間にわたって戦争と貧富差を「内在化」してきたこと、つまり技術・情報の展開や生活便宜の向上に着目して文明に「進歩」の概念を導入して古代文明とか近代文明とか称しても「富と権力を主軸とする文明システム」という点では一切「進歩」などはないということを明らかにすることであり、故にそのシステムを構造的に転換して「平和の文明システム」を構築するということこそが重要になるということなのである。戦前にあって、学者と称し、他からもそう見られているのであれば、学者としての本分を全うし、既存の「学問」に安住することなく、軍部にも特高にも帝国主義者にも望ましい方向への判断材料となり、或いはなるほどと納得させる本物の学問を構築するべきだったということなのである。そして、近年の近代情報機器の展開が学問が差し示す判断基準の普及に大いに貢献するのだが、そうした学問を実らせる根源とは言うまでも無く世界人類の国境を越えた数千年来の平和懇望の執念だということである。

 なお、この帝国主義には共産主義も含まれることはいうまでもない。共産主義とは、「富と権力」システム下では、解放と称しつつ、労働者独裁国家が弱小国・地域を植民地化する帝国主義の一つであるからだ。当時の日本を含むアジアは、米英などのブルジョア帝国主義とソ連などの社会帝国主義という二つの帝国主義に脅かされていたのであり、アジア諸国と強く連帯して、これらに対決するべきであった。だが、狭い短期の領域に安住する学者どもの大怠慢によって、そういうことを長期的・根源的立場に立脚して学問的に指し示す「本物の学問」がなかったのである。戦争責任は、軍部・天皇・大統領・政治家などの当時の内外「指導者」のみならず、それ以上に怠慢な学者どもにもあったということだ。

 こうした根本的問題を極めることなく、「人間の寿命を延ばすことがいいことだ」として、ただ遺伝学・薬物学・体育学などの狭い観点から「営利主義」的に人間寿命延長を追究したり、或いは「経済学」などの狭い観点から「物質的に豊かになることはいいことだ」として富の増大のみを図ろうとすることは、「富と権力」の文明システムのもとでは、前者は人口増加・食糧危機・自然破壊などをもたらし、後者は自然資源収奪・地球環境破壊・貧富差拡大などを通して、極めて「害悪助長」の可能性が大きいということである。一言で言えば、利によって自然秩序を乱しているということだ。



             

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