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自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
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                                      § 富と法律ー法律とは何か §

                                一 ハンムラビ法典ー世界最古の法典の特徴

 世界で最初に富が発生し、その富が多くの諸問題をひきおこしたメソポタミアにおいて、権力はそれに対応するべく史上初めて法を制定した。「富と権力」システム下の法の原点を探る上で、このようなメソポタミア法を考察することは非常に興味深いことである。周知の通り、ハンムラビ法というと、「目には目を、歯には歯を」という復讐法として有名だが、実際には同法はそれ以上に重要な意義をもつということである。

 一般に集団・社会のあるところには、秩序と正義を維持するために必ずといってよいほど掟・法があった。自然社会のもとでは地域・集団ごとに神々のもとで家長・長老らによってつくられた簡明なる掟があったが、「富と権力」システムもとでは利害関係が複雑化して詳細な項目に整理された法となった。後者の法は、「富と権力」の秩序を維持するための強制力であり、周知の如く、「社会生活を規律する準則としての社会規範の一種」(『有斐閣法律用語辞典』法令用語研究会編、有斐閣、2000年)とされている。この法の現れ方とその理解は歴史的に一様ではなく、「富と権力」システムの成立期ではまだ神々が大きな役割をしめていたが、その展開期では権力と社会の歴史に応じて例えば「自然法か実定法とみるか」などとという議論が展開することになる。

 では、当時のメソポタミアでは法とはいかなるものと理解されていたのかから見てみよう。「古代メソポタミアの人々は、われわれと同様には司法というものを理解」せず、「科学の分野と同じく司法においても、『彼らは法(則)というものを知らなかった』のであ」り、「法に相当する語は、彼らの言葉の中には見つかっていない」が、「当時の人々が、われわれと同じものの見方をしていなかっただけ」であり、メソポタミアに「司法の存在は証明」されている(ジャン・ボテロ、松島英子訳『メシポタミア』法政大学出版局、1998年、268−269頁)。 メソポタミアの法は、「基本的には『書かれない法、不文律』であ」り、「書かれないということは、存在しないことでも、知られていないことでもな」く、「ただ潜在的なものだった」(ジャン・ボテロ前掲書、271頁)ということである。それは、「常に臣民たちに対し、能動的な、あるいは禁止という形を伴った習慣として提示され」、小さい頃から「教育を通じて、さらには特定の問題に伝統的に決められた解決法を与えるという形で伝えられ」(ジャン・ボテロ前掲書、271ー2頁)ていた。まだ「法の原則は抽出されたり明瞭な表現で公式化されたりはしなかったが、伝統の大きな広がりのなかに取りこまれた形で存在していた」(ジャン・ボテロ前掲書、272頁)のである。そして、それは、まだ究極的には神々によって決められていたといってもよい。

 しかし、富が利害関係を複雑化してくると、権力者は神々の判断だけでは対応できず、各ケースごとに刑罰・賠償などを定めてゆかざるをえなくなった。メソポタミアでは、自然改造農耕開始から数千年経過して富をめぐる諸問題が深刻化し、その利害調整が統治の主要内政問題となっていたのである。 前2千年よりかなり古くから、既に裁判権は「王の特権」であり、「訴訟関係の文書や王宮の書簡類は・・下級の決定機関・・あるいは普通の臣民が、・・訴訟を王の裁定に持ち込むことが、一度ならずあ」(ジャン・ボテロ前掲書、246頁)り、バビロン王国(前1800年ー前1600年)のハンムラビ王の時代には、「司法が神殿を離れ、神官は裁判に関与しないことが慣例とな」(J.M.ロバート、青柳正規監訳『世界の歴史』創元社、2002年、137頁)り、在地の利害に通じた「地元の有力者」が裁判官となった。富をめぐる諸問題の訴訟が神官らの手に負えなくなったのである。だが、在地有力者でも裁定が困難になる場合もあって、彼らは王室に訴訟の伺いを持ち込み、王室は彼らに裁判の指針を示す必要があった。

 しかも、前22世紀頃から、新権力誕生に際しては、権力を正当化し、その利害調整をはかる「法典」(判決集)が編纂されていたようであり、既にウルナンム法典(「領域国家を核として周辺異民族をも組み入れた統一国家がウル第三王朝時代に確立」(前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、11頁)し、この創設者ウルナンム[前2112−前2095年]がシュメール語で編纂した法典。「30パラグラフ余りが復元」[中田一郎前掲書、186頁。なお、制定者に関しては、ウルナンムの息子のシュルギだという説もある<マイケル・ローフ、松谷敏雄監訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年、102頁>])、リピト・イシュタル法典(イシン王国[ウル王朝の継承だが、王朝の支配力は弱く、ラルサ、ウルク、バビロン、マリなど各地に独立王国が出現[前田前掲書、12頁]。そのイシン王国の第5代の王リピト・イシュタル[前1934ー前1924年]がシュメール語で編纂。前書き、後書き、50パラグラフが知られている[中田一郎前掲書、190頁])、エシュヌンナ法典(エシュヌンナ王ダドゥシャがアッカド語で作成。前書き、後書きがなく、上記法典とは異質[中田一郎前掲書、192頁])などがあった。

 ハンムラビは、こうした前例を踏まえて、治世37年(前1754年)頃にバビロニア、アッシリアをふくむ一大統一国家を建設したこと(、前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年13頁)を背景に、各地の書記を集めて、各種裁判を検討して、緊迫感をもって一大判例集の編纂事業に着手し、ある程度まとまった時点で石碑(「シッパルの太陽神の神殿」の石柱)に刻み込んで、民治を円滑に遂行しようとしたのであろう。この石碑完成時期は、治世38年エシュヌンナ占領を言及していることから判断すれば、晩年ということになる。つまり、彼は、晩年に、地方有力者の「裁判における判決の手本」として、「40年にわたる治世を通じて、・・みずから」下した「最も正しく、最も賢く、最も的確で、経験豊富な王に最もふさわしい判決」や既往判決などを斟酌して判例集を編纂し公けにたのである「(ジャン・ボテロ前掲書、246頁など)。だから、バビロンでは、「諸種の『王の決定』がさまざまな形をとって最終的には『法典』に取り入れられていった可能性は十分あ」り、さらには「この『法典』が、独自の方式で王の意志を表明する働きを持つものとして、こうした決定の集成であると見なされるようになった可能性すらある」(ジャン・ボテロ前掲書、270頁)ことになる。

 そして、これは「司法権をそれぞれの場合どのように行使するかという、一つの説明書」(ジャン・ボテロ前掲書、250頁)でもあった。当時、「学術説明書」はメソポタミアではよくみられたことである。「前3000年文字が発明されて以来」「読み書きという難しい技術を職業とし、同時に文字を媒介としてものの見方を探索し、事実を知的に取り扱う方法に精通した文人階級(「宮殿や神殿に付属する学派やアカデミーに所属」した「知的特権階級」)を成立させ」(ジャン・ボテロ前掲書、253頁)、彼らは、「語彙や文法を扱ったもの、百科全書の類、卜占、数学、医学書」などの「説明書」をつくっていたのである。ハンムラビ『法典』もまた、「この種の文学的科学的関心事に結びついたもの」(ジャン・ボテロ前掲書、253頁)という側面を持っていたのである。

 当時の「医学診断の説明書」は、「一貫して、最初の行から最後の行に至るまで、どれもすべて『もし』という言葉によって導入される条件節を際限なく羅列することで構成されている」(ジャン・ボテロ前掲書、254頁)が、これはハンムラビ法典も同じである。ここには、「仮説をたて、この仮説に含まれる諸要素から判断して、そこから出てきたと思われる結論を引き出す」という「合理的思考の骨格」(ジャン・ボテロ前掲書、255頁)がある。これを踏まえれば、ハンムラビらは、「彼なりの合理性にもとづいたそして『科学的思考』にとって必要不可欠な論理を与え」(ジャン・ボテロ前掲書、256頁)つつ、判例を集め、「法的見地から見て個別、偶然で、重要でない事柄をすべて削除」(ジャン・ボテロ前掲書、256頁)し、「物事を抽象化」し、「部分的に」「普遍性、必然性」「非個人化」を示したともいえよう(ジャン・ボテロ前掲書、257頁)。

 しかし、この普遍化には限界があった。つまり、「(メソポタミアの)無数の説明書においても、その他の広範囲な楔形文字文学のいずれの分野を見ても、・・抽象化、普遍化された原理なり法則なりが明示されているのに遭遇することはまったくな」く、「仮定と、続いてそこから処方された具体的な判断を並べたもの」に過ぎず、「仮定も判断も、われわれにとっての原理や法則のような絶対性にまで昇華されることはなかった」(ジャン・ボテロ前掲書、266頁)のである。メソポタミア人は、「科学的判断に慣れ親しみ、正しい推測を行なう感覚を身につけ、同時に当該の分野が扱うすべての対象について、場合に応じて同様の判断や推測を応用する能力を養」ったが、メソポタミア人はそこにとどまり、ギリシァ人のように、「抽象化という作用を通じて明快な認識、原理や法則の存在を提示し、普遍的な概念、絶対的な公式の世界に入ってい」(ジャン・ボテロ前掲書、267頁)くことはなかった。

 なぜ、メソポタミア人は普遍化の試みをしなかったのであろうか。ギリシァ人が優れていて、メソポタミア人が劣っていたからだとは思われない。このメソポタミア人の普遍化の限界については、クレマーも、言語では「単純明白な文法上の定義とか規則」、数学では「一般原理、公理や定理」、「植物学、動物学、鉱物学上の原理や法則」、法では「法理論」などがなかったとしているが、注目するべきことは、彼は、シュメールでは、「政治、宗教、経済」は宇宙創造され国が始まって以来「ずっと変わることなく存在している」とみて、展開という思想がなく、「包括的な普遍化を行なうための方法論上のテクニックに無知」だったとしていることである(S,N.クレマー前掲書、45頁)。宇宙創造以来決まっているとしたのは、いったい誰であるか。それは、現状の支配収奪体制の持続を願う権力者であり、権力者はそれを神々を利用して、神意としたのである。神が「法則」を定めているのに、その「定め」の法則などを見つけ出そうとすることなどは、神意に反する不遜な行為となったのである。



 こうして、このハンムラビ法典は「裁判を実践するための科学についての著作」ではあったが、厳密に言えば、今日我々が言う法典ではなく、あくまで判例集だということになる((このことは、1932年にアイラース、1939年にランツバーガー、1952年にはドライバーとマイルズ、1960年にはクラウス、1961年にフィンケルシュタイン[中田一郎訳『ハンムラビ「法典」』リトン、1999年、159−162頁]らに指摘されている)。しかも、その判例集もすべてを網羅したものではなく、ハンムラビ王や書記らが選択した一部であり、故に 「何万点・・の同時代の行政文書や裁判文書において、『法典』が一言も触れていない問題や争いごと」(ジャン・ボテロ前掲諸、240頁)があり、ハンムラビ時代の数多くの訴訟に関する文書、判例集、行政や裁判の実務に関する書類」にはこの「法典」の言及がないのである(ジャン・ボテロ前掲書、243頁)。


 こうした「限界」を持ってはいたが、ハンムラビ法典には領域国家となった大権力バビロン王国が各地「富をめぐる諸問題」にいかに対応したのかの原点ともいうべきものがあり、これこそが極めて重要なのである。

                                 @神々とハンムラビ統治

 当時は権力宗教がすべての判断基準の源泉であり、国王の判断・決定は神々と深くかかわっていて、ハンムラビ法典も例外ではなかった。この点、ハロヴィッツは、「『前書き』と『後書き』が互いに不可分の一体をなしている」(中田一郎前掲書、168頁)とし、書記は「長い伝統のある王碑文に範をとっ」(中田一郎前掲書、170頁)て、判例集を間に挟んだのだとする。ハロヴィッツによると、この王碑文は5部分に分かれ、@神々によるハンムラビの職務委任、Aそれに応えてハンムラビによる職務遂行、B職務を成し遂げたハンムラビのための祈願、Cハンムラビ法典に注意を払う王に対する祝福、Dハンムラビ『法典碑』を損なったり改変したりする者に対する呪いと的確に指摘している(中田一郎前掲書、171頁)。ハンムラビ法典は神々と深いかかわりがあったというのであり、これは非常に適切な指摘である。

 『前書き』から見てみよう。ここではシュメールの主神アヌがハンムラビ王を召し出すことが述べられる。主神アヌの四方世界での王権確立について、アヌ(「崇高なる方、天空の神、バビロニア諸神の至高神)、エンリル(「天地の主」、「全土の運命を決定する方」)が、マルドゥク(エアの長子。バビロニア統一後にバビロンの主神となる)に、「全人民に対するエンリル権(王権)」を割り当て、「永遠の王権を彼のために確立」(1−2頁)した時、アヌとエンリルが、ハンムラビ(「敬虔なる君主、神々を畏れる私」)を「国土に正義を顕すために、悪しき者、邪なる者を滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、太陽のごとく人々の上に輝きいで国土を照らすために、人々の肌を良くするために、召し出された」(2頁)とした。

 以下、ハンムラビが、神(「王たちの神」)として、権力を掌握して(「主、ウルクを生かした者」、「国土の保護者」、「王たちの巨竜」、「獰猛な牛」、「清き君主」、「王たちのなかの支配者」、「王たちのなかの第一人者」、「強き王」、「バビロンの太陽」)、征服・鎮圧して(「敵を突き刺す者」、「敵を捕える者」、「反逆者たちを鎮圧した者」)、秩序をもたらし(「人々に秩序を与える者」)、富(「富と豊かさを積み上げた者」、「ディルバトの耕地を拡大した者」)と領土(「彼(ハンムラビ)の生みの親ダカン(ユーフラテス川中流域の最高神)の命によってユーグラテス川沿いの町々を服従させた者」、「四方世界を襲撃した者」、「シュメールとアッカドの地に光を照り出させた者」、「四方世界を服従させた王」)を増加させ、各地の神殿を管理・振興・支援・整備したとする(2−9頁)。

 各地の神殿の管理・振興・支援・整備は、バビロンが各地の神を厚遇して、各地の支配権を構築していったことを示している。つまり、ハンムラビは、「エリドゥを復旧した者、エアブズ(エア=エンキ神殿)の浄めの儀式を浄化した者」、「エサギラ(マルドゥク神殿)に毎日仕える者」、「エキシュヌガル(月神シンの神殿)に豊穣をもたらした者」、「アヤ(シャマシュの配偶神)のギグヌ(住居か神殿)を緑で覆った者」、「天の住居のごとくエバッバル神殿(シャマシュ神殿)を高くした者」、「エアンナ(イシュタル女神の神殿)の頂を高くした者」、「エガルマハ神殿(イシンの女主人、ニンイシンナの神殿)を豊かさで溢れさせた者」、「エメテウルサグ(キシュのザババの神殿)に威光をめぐらせた者」、「フルサグカランマ神殿(キシュのイシュタル女神の神殿)の管理者」、「エジダ(トゥトゥ=ナブ神の神殿)に対して怠ることのない者」、「エニンヌ(ラガシュ・ギルスの主神ニンギルスの主神殿)に多くの食事の供物を提供した者」、「エウドゥガルガル(アダド神殿)で適切な備品を絶えず用意する者」、「エマハ神殿(母神ニントゥの神殿)の扶養者」、「ニネヴェにおいてエメスメス(神殿)のイシュタルの祭儀を顕彰した者」などと、各地の神殿を管理・振興・支援・整備したとした。権力者が各地の神を自らの主神のもとに再編していったのであり、ここに権力が多神教を権力宗教とした歴史的背景をうかがうことができる。

 多神教・一神教に関しては諸説があるが、権力との関係なしには的確な把握はできないであろう。元来、多神教とは、自然社会の宗教であり、自然社会では、各地域ごとに人々は自然の脅威、超越性、神聖さを神として崇め、それにふさわしいあらゆるものを神としていった。権力者が各地を征圧するする過程で、こうした地域の神々を利用したほうが統治しやすかったから(日本の大和王朝成立過程での征圧方式もまさにこれであった)、武力征圧とともに在地神の掌握をはかった。つまり、「古代オリエント世界の戦争は人々の戦争であり、同時に神々の戦争」なのであり、「負ければ神(神像)もまた捕虜」(岡田明子・小林登志子『古代メソポタミアの神々』集英社、2000年、152頁)となったのである。こうして、メソポタミアでは、神々は「少なくとも一千から二千に及ぶ」(ジャン・ボテロ前掲書、324頁)ことになったのである。

 冨社会の成立ころには、権力宗教は恐らくどこでも多神教となったのであろう。この点、ジャン・ボテロは、「古代メソポタミアの人々は、彼らの宗教心の対象である超自然、聖なるもの、を思い描くに際して、人間界の支配者から連想した一定数の神格に移しかえるという手段以上のものを思いつかなかった」(ジャン・ボテロ前掲書、316頁)と、人々が「人間界の支配者から連想」して多神教になったとした。だが、そうではあるまい。メソポタミアの人々が多神教を「人間界の支配者から連想」したのではなく、権力者が多神教を統治に利用し、これを人々に改めて崇拝させたのである。

 だが、こうしたこともあって、多神教の神々は権力者を支えこそしたが、品行方正で倫理・道徳に厚いということにはならなかった。中には放蕩な神々もいて、個人の心の病などにこたえるものではなかった。たとえ王といえども、長寿願いなどの個人的願いは、都市神などの主神・大神にすることはできなかったのである。

 ここに「家系の神」や低位神を「個人の守護神」たる「個人神」にすることが必要になった(岡田明子・小林登志子前掲書、61頁)。同じ多神教のエジプトではファラオは「支配する王に変装した至高の神」によって一人の国土支配神としてもうけられたもので(H.フランクフォートら、山室静ら訳『古代オリエントの神話と思想』社会思想社、1997年、89頁)、ファラオは神であったが、メソポタミアでは、国王の神格化は、アッカド王朝4代ナラム・シンとウル第三王朝2代シュルギに限られ(岡田・小林前掲書、79頁)、しかも国王の神としての地位は個人神と低かったのである。

 しかし、主神に心の悩みの解決を願うことができないので、低位神にそれを願うなどとは、なんとも多神教とは「不便」で「厄介」なものであったことであろうか。ここに、道徳・倫理を伴う宗教が一人の神や仏によって打ち立てられ、弟子等に教祖の言行などがまとめられ聖典・経典が編纂されたのである。当然、権力はこうした一神教を弾圧したが、例えば仏教が大乗化して衆生救済宗教になり、民衆の救済に関わる「一神教」に変容して信者を維持したb仏教宗は、権力に公認され、統治に利用されて、やがて権力宗教の側面を強めてゆく。

 日本の場合、仏教が導入されると、周知の如く多神教の神祇・神道と軋轢を生じてゆくが、大王ら権力者は仏教を「心の教え」として廃仏することはなかった。「一神教」とはいえども、仏教は人間の内部に道徳・倫理を仏性として悟り、それを育む点では、人間を超越して唯一絶対者として存在する神とはことなっていたのである。こうした仏教の「人間性」は権力者も評価していたのである。

 そして、ブータン仏教王国などの比較考察によって初めて明らかになったことだが、厩戸王子(後に聖徳太子)、聖武天皇は、大王・天皇は祭祀担当とにとどめ、仏教法王大王が統治を担当する仏教王国の構築をめざした。だが、これは、神祇・神道の危機とする藤原家らの画策する大化改新・道鏡事件によって頓挫せしめられる。以後、桓武天皇は、仏教をあくまでも権力を支えるものに徹底するために遷都し、仏教側でも生き残りをかけて紆余曲折を経て仏教を皇位継承を補佐し、皇太子誕生にまで関わらせるものとしてゆくのである。ここに、これを批判して、民衆救済を唱える新仏教が登場することになり、やがてこれすら権力に取り込まれてゆくが、この問題は本論の課題ではないので、ここまでにしておこう。

 さらに、ハンムラビは「偉大なる神々に熱心に祈」り、神々に王として認められ(「賢き女神ママが造った王杖と王冠にふさわしい者」、「シン(月神)がお生みになった王家の胤」)、愛され(「有能なる女神(イシュタル)の寵愛を受ける者」、「イシュタルに寵愛される者」、「ザババ(都市キシュの主神)の寵愛を受ける兄弟」)、支援され(「シャマシュ(太陽神)に聞き従う者」、「その祈りをアダド(雨・嵐の神)が知りたもう者」、)、神々を喜ばせ(「彼の主、マルドゥクの心を喜ばせた者」、「イシュタルの心を喜ばせた者」、「その友エラ(疫病の神、黄泉の世界の神)がその願いをかなえる者」、「ティシュパク(エシュヌンナの都市神)の顔を喜びで輝かせた者」)、祭儀を執り行い(「イシュタルの偉大な祭儀を滞りなく執り行った者」)、貢いだとする(「アヌム(アヌ)とイシュタル(女神)のために豊かな収穫を積み上げた者」、「ケシュ(母神崇拝の中心地の一つ)の外郭を確定した者」、「ニントゥ(母神の一つ)のために清き食物を豊かに供えた者」、「強きウラシュ(ディルバトの守護神ニヌルタと同じ)のために穀物の山を積み上げた者」、「彼の王権を偉大ならしめるエア(淡水・地下水の神、知恵の神)とダムガルヌンナ(エアの配偶神)のために清い食事の供物を豊かさのなかに永遠に定めた者」)。

 最後に、「マルドゥクが、人々を導き全土に社会道徳を教えるよう私にお命じになったとき、私は真実と正義を国(民)の口に上らせ、人々の肌を良くした」(9頁)と、バビロンの都市神でしかなかったマルドゥクが今や神々の主座となって、ハンムラビの良政をもたらしたとした。あくまでハンムラビの個人的能力ではなく、神々が大帝国の良政をもたらしたというのである。これは、ハンムラビが統治実績を自画自賛したものではないのである。晩年を迎え、ハンムラビは、大小の臣従王国からなるバビロン王国の行く末を思い、神々に今後を託する思いが強くなったのであろう。これは後書きで鮮明となる。


 『後書き』では、まず、この法典が「ハンムラビ、有能な王、が確立し、国民に真にして善なる道を歩ませようとした正しい判決である」(71頁)とした。

 次いで、神々とハンムラビの統治との関連について、第一に、エンリル、マルドゥクに関して、「私、ハンムラビ、完全なる王は、エンリルが贈ってくださり、マルドゥクがその牧人権(王権)を私にお与えになった人々(黒頭人)に対して怠けず、無為に過ごすこともなかった。私は彼らのために安全な場所を絶えず求め、隘路を切り開き、光を照り輝かせた」(71頁)と語り、第二に、ザババ、イシュタル、エンキについて、「ザババとイシュタルが私に託された強い武器でもって、エンキが私に定められた知恵でもって、マルドゥクが私に与えられた能力でもって、北や南で敵を根絶し、戦いを鎮め、国民の肌をよくし、居住地の人々を安全な牧草地に住まわせ、誰にも彼らを脅かせはしなかった」(71頁)とし、「偉大な神々が私をお召しになった。私はよく世話をする羊飼、その杖はまっすぐである。私の心地よい影は私の都市に広がる。私はシュメールとアッカド全土の人々を私の胸に抱いた。(人々は)私の守護女神によって栄えた。私は絶えず彼らを平穏のうちに運び、私の知恵によって彼らを守った」(72頁)とした。ハンムラビは、神々のための、神々に導かれた統治によって、帝国を護り、繁栄させたとした。

 そして、神殿で国民に正義を回復するために法典の碑を書き記したとし(72頁)、この石碑と神々との関連について、「天地の偉大な裁判官シャマシュ(正義の神、季節を司る神、戦争の神)の命令によって、私の正義が国土に明らかになるように。私の主マルドゥクの言葉によって私のレリーフを削り取る者がないように。私の愛するエサギラ(マルドゥク神の神殿)で、私の名前が良い意味で永遠に唱えられるように」(72頁)とした。神々はハンムラビに王権のみならず裁判権をも与えたのであり、判決の内部にも神々が関わっていた。例えば、、§2、§132では、魔術や妻不貞に確証がない場合は川神の判断に委ね(被疑者を川に投げ込み、黒白・生死は川神に委ねる)、さらに、物証などがない場合、§9、§20、§98、§107、§120、§126、§131では神の前で誓うという行為をさだめていた。

 さらに、訴訟人を安心させ、ハンムラビ王の名声を高めることを願い(72−3頁)、「未来永劫にわたって、この国に現れる王が私の碑に私が書き記した正しい言葉を守るように」(74頁)とした。未来の王がこの法典を守らず、混乱をもたらした場合、神々の父アヌム、エンリル、エンキ、シャマシュ、シン、アダド、サババ、イシュタル、ネルガル、ニンカルラクら神々が王に罰を加えることを願うとした。すなわち、アヌムには、「彼から王権の(象徴である)メランムを取り外し」、「王杖を折り」、「運命を呪う」ように(74頁)、エンリルには、混乱、反乱で住まいを燃やし、「苦渋に満ちた治世、短命、飢餓、光のない暗闇、一瞬の死」を運命とされ、「彼の都市の滅亡、彼の民の離散、彼の支配権の変更」を命じて欲しいとする(74ー5頁)。ニンリルには、「彼の国の崩壊、彼の人々の滅亡」を確定させてほしいこと(75頁)、エンキには「混乱」に導き、川の水源を絶ち、麦をはやさないようにとし(75頁)、シャマッシュには、王権拒絶、混乱、「彼の民の基盤の崩壊」、「王権の基の崩壊と彼の国の崩壊」などを願った(75頁)。シンには、王権・玉座の奪取、治世の終焉、王位簒奪者の登場、「死に等しい生」の運命などを願い(75−6頁)、アダドには「天の雨と水源の増水」を絶ち、「飢饉と飢え」で彼の国を滅ぼしてほしいとし(76頁)、サババには「戦場で彼の武器を打ち砕き」、「昼を夜に変え」、「敵を彼の上に立たせてくれる」ように(76頁)、イシュタルには「彼の王権を呪い」、「彼の善を悪に変え」、「戦いと戦闘の場で彼の武器を打ち砕いて」、「混乱と反乱を起こし」、「彼の戦士たちを倒れさせ」、「兵士たちの死体の山をいつまでも放置」させ、「彼を敵に引き渡す」ように(76頁)、ネルガルには「彼の民を焼き尽くし」、「彼の肢体を粘土の像のように打ち砕く」ように(76頁)、ニントゥには息子を取り上げ、子孫を「つくらせないように(76ー7頁)、ニンカルラクには皮膚病にかからせるようにとしたのである(77頁)。

 諸王国の興廃が頻繁で、これまで王権交代ごとに法典を定めるという慣習のあったメソポタミアにおいて、この様に法典を遵守するということは王統を遵守することであり、バビロニア王国の転覆を防止するものともなった。まさに多くの神々を動員して、ハンムラビへの反逆者に厳罰を加えようとしたのである。あるシュメール人がアッカド(王ナラムシンがニップール襲撃)崩壊を「エンキ神の呪い」・「ニニルド神の呪い」としているように(ヘルムート・ウーリッヒ、戸叶勝也訳『シュメール文明ー古代メソポタミア文明の源流』祐学社、1980年、199頁)、当時、侵略者への神々の呪いはあるものと信じられていたようだ。晩年にあって、統一王国の樹立に至る栄光に満足しつつも、王国の行く末に思いを馳せて、ハンムラビは、秩序を乱す臣従王国には多くの神々が多くの神罰・呪いをくだすと牽制したのである。実に詳細に具体的に記述したところにハンムラビの危機感が窺える。これは、「富と権力」のシステムが、始まりに当たる時期から深刻な諸問題を内包していたということを示している。深刻な諸問題は現在だけではないということだ。

 ハンムラビ死後1世紀ぐらい経過した古バビロニア末期、ハンムラビ法典の写本がつくられており(ジャン・ボテロ前掲書、270−1頁)、この「法典」は「たぶんこれを採用しまた手直しを加えた直系の後継者たちの時代に利用されたことは、・・十分可能性があ」ったのである(ジャン・ボテロ前掲書、276頁)。少なくとも後継国王はハンムラビ法典を守ったようだ。ただし、ハンムラビの死後、次の王サムス・イルナ(前1749−前1712年)の時には、既に「バビロン王国はハンムラビ登場以前の小さな王国に収縮」(中田一郎前掲書、158頁)し、バビロン4代目の王サムス・ディタナの前1595年、「ヒッタイトがバビロンを攻略し、ほどなくバビロン第一王朝は滅亡」(前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、13頁)してしまった。だが、皮肉なことに、以後1200年にわたってメソポタミア学者がこの法典を書き写し続け(中田一郎前掲書、185頁)、王国滅亡後もハンムラビ法典が忘れ去られることはなかった。


                               A富に関わる諸問題とその利害調整

 メソポタミアの権力者は、富の発生にまつわる諸問題に早くから直面し、これらの利害対立の調整は深刻な課題であったろう。ここではこの時期の富に関わる諸問題とその利害調整などの実態を判例集のなかに探ってみよう。

                                    @) 富の保護

 まず、富の保護のために、§6「神殿あるいは王宮の財産(金銀などか)を盗んだら」死罪とする、§7「銀、金、男奴隷、女奴隷、牛、羊、ロバ」、「いかなる物」も、証人・証書なく、購入したり、寄託で受け取れば、盗人となり、死罪とする、§8神殿・王宮の「牛、羊、ロバ、豚、あるいは船」を盗んだ者はその30倍、ムシュケーヌムの物なら10倍支払い、支払えなければ死刑とする(11頁)、§9「無くなった物」を「別の人」が所有し、「別の人」が購入したと主張した場合、元の所有者、「別の人」が証人を連れて神前で陳述し、双方の言い分が正しいことになれば、「別の人」への売主が盗人になり、死罪とする(11−12頁)、§10買い手の「別の人」が証人をつれてこず、元の所有者が証人をつれてきたらば、「別の人」が盗人であり、死罪(12頁)、§11元の所有者が証人をつれてこなかった場合、嘘で他人を中傷したことになり、死罪とする、§12「その(盗品の)売り手が死亡していたなら、その買い手はその売り手の家からこの裁判の請求額の5倍を取る」(12頁)、§13証人が近くにいないで、6カ月間の猶予期間内に出廷させられなかった場合、「その人は嘘つきで裁判の(あらゆる)罰を負わねばならない」(12ー3頁)などと規定して、財産侵奪を厳罰に処した。§14では幼児を盗んだ場合には死罪(13頁)として、生産単位としての家族維持を図った。

 なお、ジャン・ボテロは、§8と§259(農具窃盗者は銀5シェケル・3シェケル[「盗まれた物の価格をさして上回らない程度の料金」]を返済)は矛盾するとしているが、§8は神殿・王宮、ムシュケームの動産であるから重罰となったのに対して、§259は在地の有力者・王権の判断で農具窃盗の情状が酌量されte
軽罰となったのであろう。さらに、彼は、受託と寄託は同一行為だとして、第7条と第123条(証書・証人なしの寄託は受託者がこれを否認すれば裁判できない)は矛盾するとするが(ジャン・ボテロ前掲書、242−3頁)、それぞれの条項はあくまで受託者と寄託者を規定したものであり、証人・証書なく他人の物を受け取る受託の場合には詐欺・窃盗などを既遂することを想定して重く罰したが、寄託の場合には、証人・証書なく寄託したと申し立てるだけでは受託者には損害が生じないから(仮に証書も証人もなく寄託したと虚偽発言をして、それを担保にある商人から金銭を借り入れた場合には、別のケースとして罰せられる)、この提訴を禁じたのである。こうして重箱をつつきだせば、多くの矛盾や問題となるやもしれぬ箇所が指摘されようが、ここではこれまでにしておこう。

 富の生産に奴隷は不可欠となっており、ゆえにその奴隷制維持にために、§15「王宮の男奴隷、王宮の女奴隷、ムシュケーヌムの男奴隷、あるいは・・女奴隷」を無断で解放させたら死刑とする(13頁)、§16逃亡奴隷を隠匿すれば死刑とする、§17逃亡奴隷を所有者に連れ戻せば銀2シキル(約17g)を付与する、§18奴隷の主人が不明の場合、王宮で確定する、§19逃亡奴隷を私用したものは死刑とする、§20逃亡奴隷が捕縛者から逃亡すれば自由とするなどとした。

 奴隷の売買については、§278奴隷購入後月末までに癲癇の起こった場合、売り手に返却でき、代金を受け取れる(70頁)、§279奴隷の販売後、(第三者から)奴隷を元の持ち主に返還要求が出れば、売り手はそれに「責任を負わねばならない」(70頁)、§280外国で購入した奴隷を国内に連れ帰った場合、その奴隷が「同国人」なら、銀の支払いなしに「自由の身」となる(70頁)、§281その奴隷が「別の国人」の場合、買い手の商人は神前で支払額を述べ、元の奴隷所有者は支払い金額を買い手商人に与え、奴隷を「請け出さなければならない」(71頁)、§282請け出された奴隷が元所有者に「あなたは私の主人ではない」と言えば、元所有者は奴隷の主人であることを立証すれば、奴隷所有者は「奴隷の耳を切り落とさねばならない」(71頁)などとした。


 前2400年頃からメソポタミア南部では地力を配慮して隔年耕作が行われ(山本茂「シュメール都市国家時代末期ラガシュにおける農耕年視点の確立」『史林』62、1979年)、雨季(10−3月)と乾季(4−9月)に応じた農耕がおこなわれた。大麦は、7−10月に犁耕し、10月に播種し、増水期にあたる4−5月に収穫した(中田一郎前掲書、101頁)。その大麦の耕地はビルトゥム地(国家直轄地)、イルクム地(兵士等の休養のための地)などに分けられ、地主がこれらを小作させたりした。

 この小作制度においては、地主優位がはかられ、§42「もし人が耕地を小作のため賃借し、その耕地に大麦を実らせなかった」場合、@地主は借地人が「播種作業をおこなわなかったことを立証」し、A借地人は隣地の収穫高に従い地主に大麦を与えねばならない(18頁)、§43小作人が耕作放棄した場合、地主は臨地収穫高に応じて大麦を受けとり、原状回復して返還させうる(19頁)、§44未耕地を耕地に戻す契約で3年借り受けて、無為に過ごした場合、4年目に耕地にし、1ブル(6.5ha)あたり大麦10クル(3千g)を支払う(19頁)、§45地主が小作人に貸付け、小作料を受け取った後に、嵐・洪水で水害をうけた場合、損失は小作人に帰属する(19頁)、§46洪水の際、まだ小作料を受け取っていない場合、地主は小作料率(2分1、3分1)の契約通り受け取れる(19頁)、§47小作人が「前の年に元がとれなかったので耕地を(もう1年)耕作したい」と言えば、地主は許すべし(20頁)などとされた。

 耕地果実を担保に商人から資金を借り入れたりして、農業債務が生じた場合、債権者と債務者の関係について、§48嵐・洪水・水不足などで債務者が大麦の収穫がなかった場合、「その年は、彼の債権者に大麦を返済しなくてもよ」い(20頁)、§49人が耕地担保で商人から銀を借りれ、耕地を商人に使わせ、実った大麦、ゴマを収穫してよいとし、商人が小作人を使って実らせた場合、債務者は収穫して元利と「農作業の報酬に見合う大麦」を商人に与える(20頁)、§50地主が商人に、大麦・ゴマの播かれた耕地を「与えた」場合、地主は果実を刈り取り、「銀とその利息を商人に返済」する(20頁)、§51彼に返済銀がない場合、商人から借り入れた銀と利息(大麦・ごま)を支払う(21頁)、§52債権者が雇った小作人が大麦・ゴマを実らせなかったとしても、商人は契約変更してはならない(21頁)とされた。

 当時のメソポタミア農業では、鉄製農具よりも、灌漑の方が重要であり、ゆえにその灌漑の管理責任が、§53「耕地の畔の強化を怠り」、「耕区の大麦を流失」させた場合、それを償う(21頁)、§54償うことができなければ、動産売却金を耕区メンバーで分配する(21頁)、§55用水の不注意で「隣人の耕地の大麦を水で流失させ」れば、「隣人の収穫率」に応じて弁済する(21頁)、§56灌漑用水で臨地を流失させた場合、1ブル(約6、5ha)につき10クル(約3千g)の大麦を弁済する(21ー2頁)などと規定された。

 当時の農作業は、牛で犂を引かせる作業、歯のついたまぐわを牛に引かせる作業、播種装置をつけた犂を牛に引かせて播種する作業などからなっていて(中田一郎前掲書、99頁)、牛の使用が大きな役割をしめていた。この牛については、その売買・貸借・事故について、§241牛を買った場合、銀3分1マナ(167g)を支払う(64頁)、§242後曳きの牛の1年間賃借料は大麦4クル(1200g)(64頁)、§243中曳きの牛の1年間賃借料は大麦3クル(900g)(64頁)、§244賃借した牛、ロバが野でライオンに殺された場合、損失は所有者が負担する(賠償は請求できない)(64頁)、§245賃借した牛を不注意で死なせた場合、「同等の牛を償わなければならない」(64頁)、§246賃借した牛の足を折ったり、首筋を切った場合、「同等の牛を償わなければならない」(64頁)、§247賃借した牛の目を損なった場合、「値段の半分の銀を与えなければならない」(65頁)、§248賃借した牛の角を折ったり、尾を切断したり、ひずめの脚を切れば、「値段の4分1を与えねばならない」(65頁)、§249賃借した牛が、「神がそれを打」った後に死んだ場合、「神に誓ったのち釈放される」(65頁)、§250牛が道で「人を突き死なせたとしても」、損害賠償請求の対象にならない(65頁)、§251地区が人を突く習性のある牛について警告したにもかかわらず、「角を切らず」「監視をせず」、その牛がアヴィールム仲間を突き死なせた場合、銀2分1マナ(250g)を支払う(65頁)、§252突き死なせたものがアヴィールムの奴隷なら、銀3分1マナを支払う(65頁)などと定めた。

 牛使用の農業労働に関わる人々(所有者、借入者、使用者など)の利害調整については、§253人が、「耕地の世話をしてもらうために他の人を雇い、彼に穀物を託し、牛を預け、彼と耕地の耕作の契約を結んだなら」、種麦・飼料用麦を盗んだ場合、「腕を切り落とさねばならない」(66頁)、§254牛を弱らせた場合、「受け取った大麦を倍にして償わなければならない」(66頁)、§255牛を又貸ししたり、種麦を盗み麦がならじ、この違約行為が立証された場合、耕地面積1ブル(6,5ha)につき大麦60クル(1.8万g)を与える(66頁)、§256こうした「義務履行」ができない場合、彼らは彼を耕地で「牛に引かせて(死ぬまで)引きずり回さなければならない」(67頁)、§257農業労働者を雇った場合、年大麦8クル(約2400?)を与える(67頁)、§258牛追い人夫を雇った場合、年大麦6クルを与える(67頁)、§259「耕区で播種装置付き犂を盗んだ」場合、銀5シキル(41.7g)を犂所有者に与える(67頁)、§260深耕用の梨、まぐわを盗んだ場合、銀3シキルを与える(67頁)などと定めた。

 牛・小家畜の飼育に関しては、所有者・飼育者・寄託者らの利害調整について、§261、牛・小家畜の放牧のために家畜飼養者を雇った場合、年間大麦8クルを与える(67頁)、§263寄託された牛・羊を失った場合、その所有者に償う(67頁)、§264牛・小家畜の放牧寄託の牧夫が、牛・小家畜の数を減らし、出産数を減らせば、契約に従い、「(小家畜の)子供と産物」をあたえなければならない(68頁)、§265牛・小家畜の放牧寄託の牧夫が、マークを偽って売却し、それが立証で来た場合、10倍にして償う(68頁)、§266疫病やライオン襲撃で死んだ場合、「牧夫は神前で自らを無罪放免しなければならない」(68頁)、§267牧夫が怠慢で「旋回病」を発生させた場合、牛・家畜の「欠損」を「完全に賠償」(68頁)するなどと定めた。

 脱穀・運搬のための家畜賃借については、§268脱穀のための牛の賃借料は大麦2スート(20g)(68頁)、§269脱穀のためのロバの賃借料は大麦1スート(10g)(68頁)、§270脱穀のための山羊の賃借料は大麦1カ(1g)(69頁)、§271、牛と荷車・御者の賃借料は1日当たり大麦3パーン(180g)(69頁)などとした。

 家畜放牧に関しては、§57牧夫が耕地所有者に無断で小家畜を放牧させた場合、牧夫は耕地所有者に1ブルにつき20クルの大麦を弁済する(22頁)、§58耕区放牧の「完了」公告後に放牧させた場合、牧夫は耕地所有者に1ブルにつき60クルの大麦を弁済する(22頁)と規定されるにとどまる。

 果樹園(主産物はナツメヤシ)については、所有者と栽培者(園丁師)の利害調整関して、§59所有者に無断で木(なつめやし)を切れば、銀2分1マナ(250g)を支払う(22頁)、§60地主と園丁師が共同でなつめやしを栽培して、5年目に地主が果樹園の半分を優先的に選び取れる(22ー3頁)、§61園丁師が植え残した場合、その地を取り分に入れる(23頁)、§62園丁師が借りた耕地を果樹園にしなかった場合、隣地の収穫高にしたがって小作料を支払う(23頁)、§63園丁師が借りた土地が休耕地の場合、耕地にして返還し、1年1ブル(約6,5ha)当たり10クル(約3千g)を与える、§64果樹園所有者が果樹受粉のために園丁師に果樹園を「与えた」場合、園丁師は、産物の3分2を所有者に与える(23頁)、§65、園丁師が果樹園の受粉を行わず、収穫減少させた場合、隣人の収穫高に応じて、産物を与える(23頁)、§66果樹園所有者が商人から産物担保で借金した場合、商人は元利を取れるのみで、「余剰のナツメヤシは、果樹園の所有者が取ることができる」(24頁)とされた。


                              A) 富の流通・販売=商人・高利貸

 次に、富の流通・販売=商人・高利貸を見てみよう。

 高利貸し商人については、§t商人が大麦などを貸し付けた場合、1クル(約3百g)につき大麦1パーン4ストーン(約百g)を利息として受け取り、銀を貸し付けた場合、銀1シキル(180粒)につき銀6分1シキル、6粒(計36粒)の利息を受け取る(27頁)、§u債務者に返済すべき銀がない場合、債権者商人は「王の勅令」に従い「1クル(約300g)につき年1パーン(約60g)」の大麦を受け取る(28頁)、§w債権者商人が受け取り大麦・銀を元金から差し引かなかった場合、倍にして返済する(28頁)、§x債権者商人が、不当な度量衡操作で銀・大麦の貸付を小さくし、返済を大きくした場合、その「与えた額」を失う(28頁)、§y貸借行為の意味不明、§z債務者が「大麦あるいは銀」を借り入れたが、それらで返済できない場合、動産の時価で返済する(29頁)などを規定して、高利や悪辣返済を防止した。

 当時、メソポタミアでは遠隔地通商が展開して、これに大きな利益を期待して、商人が行商人へ投資していた。そこで、§cc共同事業に銀を投資する場合、「発生する利益あるいは損失を神前で平等に分け」る(29頁)、§100商人が行商人に投資し、行商人が利益をあげた場合、商人は投下資金に見合う利益をうけとる(29頁)、§101行商人が利益を上げられなかった場合、商人は投下資金の倍を行商人から受け取る(29頁)、§102行商人が損失を被った場合、商人は投下資金のみを行商人から受け取る(30頁)、§103行商人が旅先で持ち物を没取された場合、行商人はそれが真実であることを神に誓った後に釈放される(30頁)、§104商人が行商人に「大麦、羊毛、油」などを「販売のために与えた」場合、「行商人は商人に定期的に銀を返す」(30頁)、§105行商人が商人に銀の領収書を怠って渡さなかった場合、これは銀を支払ったことにはならない(30頁)、§106行商人が商人から銀を受け取り、後に行商人がそれを否定した場合、商人は神と証人の前でそれを立証する(30頁)、§107行商人が商人に借入銀を返還した後、商人が返還を否定した場合、行商人は神と証人の前で商人虚偽を立証する(31頁)などとして、遠隔地通商をめぐる投資の利害調整をはかった。

 陸路の通商と並んで、チグリス・ユーフラテス川などを利用した通商も盛んであり、ここに河川通商をめぐって投資家(商人)と船所有者・操縦者との利害調整をはかるべく、§234船頭(船大工か)が人のために60クル積みの船の水蜜化工事を行なった場合、彼は「彼の贈物」として銀2シキルを船頭にあたえなければならない(62頁)、§235船頭(船大工か)が「人のために船の水蜜化工事」を行なったが、「信頼に足る仕事」をしなかったので、「船が傾き、欠陥が生じ」た場合、船頭は、「その船を解体し、自分自身の財産で堅固に作り直して、堅固な船」を与えなければならない(62ー3頁)、§236人が船を船頭に賃貸し、船頭が注意を怠り、船を沈没、あるいは損壊させた場合、船頭は「船を船の所有者に償わなければならない」(63頁)、§237人が「船頭と船」を賃借し、「大麦、羊毛、油、ナツメヤシ」などの積み荷を積み込んだが、船頭の不注意で船を沈没させ、積荷を失わせたならば、船頭は船と積荷を「償わなければならない」(63頁)、§238船頭が、沈没した船を引き上げれば、船頭は、「(船の)値段の半分の銀」を与えなければならない(63頁)、§239人が船頭を雇えば、船頭に年間大麦6クル(1800g)を与えなければならない(63頁)、§240上る船が下る船に衝突し、下る船を沈没させ、沈没船の所有者は「船のなかにあって無くなった物を神前で明らかにし」た場合、沈没船の船長は「船と無くなった物すべて」を「償わなければならない」(63ー4頁)などが規定された。

 船の賃借については、§276川を上る船の賃借には、1日銀2粒半を与える(70頁)、§277「60クルミ積みの船」の賃借には、1日銀6分1シキル(1.34g)を与える(70頁)とした。

 債務者の家族を人質として担保にとることに関しては、§115債務者から大麦・銀の借入の人質をとって、人質が債権者の家で死んだ場合、損害賠償(「債権者に対する債務者の」か)はできない(33頁)、§116人質が殴打・虐待で死亡した場合、人質の「所有者」はそれを立証し、犠牲者がアヴィールムの息子なら、商人の息子を殺し、犠牲者がアヴィールムの奴隷の場合、商人は銀3分1マナ(約167g)を支払う(33頁)、§117債務者が、妻・息子・娘を売ったり、担保として差し出した場合、彼らは3年間「差し押さえ人」の家で働く(34頁)、§118債務者が男女奴隷を債務担保として差し出した場合、買い戻し期間の経過後に、債権者はその奴隷をうることができる(35頁)、§119売った女奴隷が、債務者の息子を生んでいた場合、債権者の購入代金を支払えば、女奴隷を引き出すことができる(35頁)などとした。

 大麦・貨幣の寄託については、§120寄託した大麦が、穀倉で損失を被るか、保管者が盗んだか、貯蔵を全面的に否定した場合、「大麦の所有者は神前で彼の大麦(が寄託されたこと)を明らかにしなければなら」ず、立証されれば、保管者は2倍の大麦を返済する(35頁)、§121大麦の寄託料は1クル(約300g)につき5カ(約5g)とする(35頁)、§122寄託する場合、証人、契約書を揃える(35頁)、§123証人、契約書のない寄託は無効(36頁)、§124証人の前で寄託したのに、寄託引受人が寄託を否定した場合、所有者は寄託引受人の不法行為を立証しなければならず、立証されれば、寄託引受人は2倍にして返還する(36頁)、§125寄託品が盗難にあった場合、寄託引受人は「完全に賠償」する(36頁)などとした。


                    B) 家族の持続(結婚・家族)と継承(遺産相続)の利害調整

 国富の基礎たる民富、その基礎ともいうべき個人の富、その増加と維持のための家族について、その持続(結婚・家族)と継承(遺産相続)の利害調整が詳細に規定される。

 当時、妻は父の財産の一部を持参財として持ち来て、将来の継承者たる男子を生む存在であった。家庭を維持するために重要な存在であるにもかかわらず、夫が優遇されるのに反して、妻は規制された。すなわち、こうした妻について、§127人が「他人の妻」を侮辱し、それを立証しなかった場合、その人を鞭打ち、頭髪の半分を剃る(37頁)、§128妻を娶っても、婚姻契約を締結しなければ(仮結婚)、妻ではない(37頁)、§129妻が別の男性と寝ているところをとらえられれれば(姦淫)、彼らは妻を「水に投げ込まれなければならない」(37頁)、§130男が父の家に住む処女の「他人の妻」に猿轡をはめて寝ていたところを捉えられた場合、男は死刑(強姦)で、彼女は釈放される(37頁)、§131妻が夫に起訴されても、浮気現場をおさえたのでなければ、彼女が「潔白」を神に誓えば「自分の家にもどることができる」、§132妻が浮気を指摘された場合、その現場をおさえられていない場合、(神の裁きをうけるべく)夫のために「川に飛び込まなければならない」(38頁)、§133夫が捕虜になっても、家に食物があれば、妻は貞節をまもる(38頁)、§133b妻が貞節を守らず、他人の家に入った場合が立証されれば、彼女を水に投げ込まなければならない、§134夫が捕虜となり、家に食物がない場合、罪を問われることなく、「別の人の家にはいる」(38頁)、§135夫が捕虜となり、家に食物がない場合、「別の人の家にはい」(38頁)り、息子を生んだ後に、夫が帰宅した場合、妻は先夫のもとに戻り、子供はそれぞれの父に従う(39頁)、§136夫が市を逃亡し、妻が「別の人の家」に入った後に、市に戻ってきた場合、妻は夫のもとのもどらなくてよい(39頁)などととされた。

 妻との離婚について、妻の持参財、夫の財産、息子の有無などに絡んだ夫婦の利害調整について、§137夫が息子を生んだシュギートゥム女性、息子を得させてくれたナディートゥム修道女を離縁する場合、夫は「彼女の持参財を返し」、養育費として「耕地と果樹園と動産の半分」を与える(39頁)、§138夫が「息子たちをうまなかった正妻を離婚」する場合、「テルハトゥム相当の銀」を与え、「持参財を元通りに返し」、離婚できる(39頁)、§139テルハトゥムがない場合、銀1マナ(約500g)を離婚料を与える(40頁)、§140夫がムシュケーヌムの場合、銀3分1マナを与える(40頁)、§141妻が家を出ることを決意し、横領したり、財産を浪費したり、夫を軽んじた場合、それを立証すれば、「旅費および離婚料」を与えなくても、夫は彼女を離縁でき、夫が彼女を離縁しない場合、「女奴隷のように」扱い、「二人目の女性を娶る」ことができる(40頁)、§142妻が夫を嫌い、離婚をねがえば、地区で調べて、「彼女が身を守り、落ち度が無く、彼女の夫が家をあけ、彼女を著しく軽んじた」ことが判明すれば、持参財を取って、「父の家」に帰ることができる(40ー1頁)、§143妻が、「身持ちが悪く、家をあけ、彼女の家を浪費し、自分の夫を軽蔑」すれば、「水に投げ込まれ」ければならない(41頁)、§144夫がナディートゥム修道女を娶り、妻が女奴隷を夫に与え、息子を生んだ場合、夫はシュギートゥム女性を娶ることはできない、§145夫がナディートゥム修道女を娶ったが、息子ができない場合、夫はシュギートゥム女性を娶り、家に入れることができるが、ナディートゥム修道女と同等とみなすことはできない(42頁)、§146夫がナディートゥム修道女を娶り、妻が女奴隷を夫に与え、息子を生んだ場合、女主人は女奴隷を売ってはならないが、あくまで「奴隷の一人」とみなしてよい(42頁)、§147女奴隷が息子を生まなければ、女奴隷を売ることができる(42頁)、§148妻が皮膚病にかかった場合、別の女性を娶ることができるが、離婚はできない(42頁)、§149その妻が夫の家に住むことに合意しなければ、持参財をもって「立ち去ることができる」(43頁)などと定めた。

 さらに、結婚に伴うテルハトゥムの付与を基準に、§159婚約者が、「義理の父の家」に「結婚式のプレゼント」を運ばせ、テルハトゥムを与えたのに、別の女性と結婚する場合、義理の父は「運び込まれた物」すべて自分のものとする(45頁)、§160人が義理の父に「結婚式のプレゼント」を運び入れ、テルハトゥムを与えた後に、義理の父が「娘をやらない」と言った場合、父は倍返ししなければならない(45頁)、§161人が義理の父に「結婚式のプレゼント」を運び入れ、テルハトゥムを与えた後に、婿の仲間が婿を誹謗して、義理の父が「娘をやらない」と言った場合、父は倍返ししなければならない(45頁)とした。

 夫婦の債務については、§151夫が結婚前にフブッルム・ローンを負っていた場合、夫が妻に「夫の債権者が彼女を捕らえないように」契約書を残せば、「債権者たちは彼の妻を捕らえてはならない」(43頁)、§152結婚後に、夫婦二人にフブッルム・ローンが生じた場合、二人は債権者に共同で責任を負う(43頁)などとした。

 家族制を維持するために、§153妻が「別の男性」のために夫を殺した場合、妻は「木柱に架けなければならない」(44頁)、§154人が娘と性的関係をもてば、その人を市から追放する(44頁)、§155息子のために嫁を選び、息子が嫁と性的関係をもった後、父が嫁と関係すれば、水に投げ込まれる(44頁)、§156息子のために嫁を選び、息子が嫁と性的関係をもたないで、父が嫁と関係すれば、父は嫁に銀2分1マナを支払い、持参財を戻す(44頁)、§157父の死後、人が母と関係すれば、「二人とも焼き殺さねばならない」(44頁)、§158父の死後、人が息子を生んだ母と関係すれば、その人は「父の家」から追放される(44頁)として、家族間の不義密通を厳罰に処した。

 夫の死後、夫の財産の相続は大きな問題であり、故にこの法典の一定部分を占めていた。まず、父死亡に伴う兄弟間の遺産相続に関して、§165父が「目にかなった彼の嫡出子に耕地、果樹園、あるいは家を贈る」捺印文書を作成した後に死んだ場合、兄弟の遺産分割に際して、その嫡出子はその通り遺産を保持できる(46頁)、§166父が死去し、妻を娶らない幼い子がいた場合、「彼の取り分とは別に、テルハトゥムの銀を設定し、彼に妻を娶らせなければならない」(47頁)、§167妻が息子を生んだ後に死去し、夫が後妻をとり、息子を生んだ後に死去した場合、息子たちは、まず「自分たちの母親の持参財」を取り、ついで「父の家の財産」を平等にわける(47頁)、§168父が息子を「嫡出子の地位」から廃除したいと申請し、裁判官がこれを審査し、「廃除にあたいする重大な罪」がなければ、廃除できない(47頁)、§169息子が父に「廃除にあたいする重大な罪」を犯したならば、初回はこれを許し、2回目は廃除する(47頁)、§170正妻に息子がおり、女奴隷にも息子がいて、父が正妻の息子と同等とみなしていたなら、父が死去した場合、「父の家の財産を平等に分けなければならない」。ただし、まず正妻の息子がさきに取り分を選び取る(47ー8頁)、§171父が正妻の息子と同等とみなしていなかったなら、父が死去した場合、「父の家の財産を平等に分け」ることはできなず、そのかわり、女奴隷と息子を「自由の身」とする(48頁)、§150夫が、妻に「耕地、果樹園、家あるいは動産を贈」る「捺印証書」を残したらば、夫の死後、息子はその返還を要求することはできないが、母は「好む息子」に与えることができる(43頁)と規定された。

 父死亡に伴う「母と兄弟間の遺産相続」に関して、§171b夫の死後、正妻は、文書に記された遺産を受け取り、「夫の住居」に住むが、遺産は息子のものなので、「売ることはできない」(48頁)、§172夫が妻に「贈物(ヌドゥンヌム)」を与えていなかったなら、夫の死後、妻は持参財を返してもらい、夫の財産から嫡出子一人分の取り分をとることができ(48頁)、息子たちが彼女をおいだそうとしてつらくあたれば、裁判官は息子に罰を科す(48頁)、§173妻が死去した場合、彼女の持参財は先妻と後妻の息子らが分け合う(49頁)、§174妻が再婚した夫との間に息子がない場合、彼女の持参財は先夫の息子が受け取る(49頁)などとされた。

 夫が奴隷の場合の遺産相続については、§175王宮・ムシュケーヌムの奴隷が、アヴィールムの娘を娶り、息子を生んだ場合、奴隷所有者は息子を奴隷身分にとどまらせることはできない(49頁)、§176王宮・ムシュケーヌムの奴隷が、アヴィールムの娘を娶り、彼らが奴隷の家に入った後、「家を建て動産を得」た後、奴隷が死亡した場合、アヴィールムの娘は持参財を取ることはできるが、家や動産は二分して、奴隷所有者とアヴィールムの娘との間でわけあう(50頁)、§176b(§176の補訂)アヴィールムの娘が持参財をもたない場合、妻と夫が結婚して得たものは、全て奴隷所有者とアヴィールムの娘との間でわけあう(50頁)と規定した。

 幼児のいる寡婦の遺産相続については、§177幼い息子のいる寡婦が「別の人の家」にはいる際には裁判官たちの許可が必要であり、裁判官は先夫の家を妻と新夫に委ね、文書を作成し、妻と新夫は「家を守り、幼子たちを養育」し、家財道具を売ってはならない(50頁)とした。

 娘がウグバブトゥム、ナディートゥム(高官・富裕市民の娘[中田前掲書、133頁])修道女、セクレートゥム女官などの場合の遺産相続については、§178ウグバブトゥム、ナディートゥム修道女、セクレートゥム女官の持参財に関する文書で、父が彼女に「完全な(持参財の)処分権」を与えていなかった場合、父の死去の後、「彼女の耕地と果樹園は彼女の兄弟たちが取る」が、兄弟は「彼女の取り分に相当する大麦、油および衣料を彼女に与え」ねばならず、そうしない場合、彼女は、「彼女の耕地、および果樹園を彼女の意にかなう小作人に賃貸」できるが、それらの不動産は兄弟のものだから、売却できない(51頁)、§179ウグバブトゥム、ナディートゥム修道女、セクレートゥム女官の持参財に関する文書で、父が彼女に「完全な(持参財の)処分権」を与えていた場合、父の死去の後、彼女は「彼女の遺産を彼女の意にかなう者」に与えることができる(52頁)、§180父が、ナディートゥム修道女、セクレートゥム女官に持参財を贈らなかった場合、父の死去の後、彼女は生存中「父の家の財産から1人の嫡出子のように取り分を受け取ることができ」るが、彼女の死後、兄弟のものになる(52頁)、§181父が、娘をナディートゥム修道女、カディシュトゥム女神官、クルマシートゥム女神官として神前に捧げたが、持参財を贈らなかった場合、父の死去後、彼女は、生存中は父の家の財産から3分1を相続分としてうけとるが、それは「兄弟たちの物」である(52頁)、§182父が、娘のバビロンのマルドゥクのナディートゥム修道女に持参財を贈らなかった場合、父の死去の後、彼女は、兄弟とともに父の家の財産から3分1を相続分としてうけとるが、「イルクム義務を果たす必要」はなく、彼女は、それを「彼女の意にかなう者」に与えることができる(53頁)などとした。

 娘がシュギートゥム女性の場合の遺産相続については、§183父が、シュギートゥム女性である娘に、持参財を贈り、嫁がせ、捺印証書を作成したなら、父の死去後、彼女は「父の家の財産(分割)に与ることはできない」(53頁)、§184父が、シュギートゥム女性である娘に、持参財を贈らず、嫁がせなかったら、父の死去後、彼女の兄弟は「父の家の資産力」に応じて持参財を贈り、彼女をとつがせねばならない(53頁)とした。

 妻が死んだ場合、妻の持参財について、§162人が妻を娶り、妻が息子を生んだ後に死んだ場合、妻の持参財は父の物ではなく、息子のものである(45頁)、§163人が妻を娶り、妻が息子を生まないうちに死んだ場合、父が夫に夫のテルハトゥムを返していた場合、妻の持参財は父の物である(46頁)、§164父が夫に夫のテルハトゥムを返していなかった場合、夫は、妻の持参財からその分を差し引いて、父の家に返さなければならない(46頁)とした。

 家にとって財産継承できるのは男子であり、故に後継のいない家族は養子縁組をするが、ここに養子縁組をめぐって諸問題が生じ、これに対して、§185人が、男子誕生の際、息子として引き取り、養育したならば、その養子の返還はできない(53頁)、§186人が息子とするために子供を引き取ったとき、子供が生みの父母を探そうとするなら、養子を実家にもどす(54頁)、§187「王室の召使」である「ギルセクム」・「セクレートゥム女官」の養子は「返還を請求されることはない」(54頁)、§188職人が養子に「手の技」を教えたらば、養子は「返還を請求されることはない」(54頁)、§189職人が養子に「手の技」を教えなければ、養子は実家にもどることができる(54頁)、§190養子として引き取ったのに、「息子の一人」とみなされなければ、実家に戻ることができる(54頁)、§191養子を取った後に「所帯を持ち」、「息子を得」て養子廃除を決意したら、養父は養子に財産の3分1を相続分として与える(55頁)、§192「ギルセクム」・「セクレートゥム女官」の養子が「あなたは私の父母ではない」と言った場合、養父母は養子の「舌を切り落とさねばならない」(55頁)、§193「ギルセクム」・「セクレートゥム女官」の養子が、実父の家を見つけ出し、養父母を拒絶した場合、養父母は養子の「目をえぐり取らなければならない」(56頁)などと定めた。


                                C) 生活秩序の維持

 生活秩序を維持するためには暴行防止が必要であり、身分差に応じた暴行の処罰がなされ、アヴィールム階層での「同害復讐」原則が打ち出され、被害者救済のための賠償金が定められ、無制限な復讐にはどめがかけられた(中田前掲書、137頁)。つまり、§19「息子が彼の父親を殴った」場合、「彼らは彼の腕を切り落とさなければならない」(56頁)、§196アヴィールム(上層市民)がアヴィールム仲間の目を損なえば、「彼らは彼の目を損なわなければならない」(56頁)、§197アヴィールムがアヴィールム仲間の骨を折ったなら、「彼らは彼の骨を折らねばならない」(56頁)、§198アヴィールムがムシュケーヌム(一般市民)の目を損なったか、骨を負った場合、銀1マナー(500g)支払う(57頁)、§199彼がアヴィールムの奴隷の目を損なったか、骨を負った場合、彼は奴隷の値段の半額を支払う(57頁)、§200アヴィールムが対等のアヴィールムの歯を折れば、彼らは彼の歯をおらねばならない(57頁)、§201「彼がムシュケーヌムの歯を折った」ならば、彼は銀3分1マナを支払う(57頁)、§202アヴィールムが彼より身分の高いアヴィールムの頬を殴れば、彼は、集会で牛革鞭で60回打たれる(57頁)、§203アヴィールム仲間が対等のアヴィールム仲間の頬をなぐれば、銀1マナを支払う(57頁)、§204ムシュケーヌムがムシュケーヌムの頬を殴ったら、銀10シキル(約83g)を支払う(57ー8頁)、§205アヴィールムの奴隷がアヴィールム仲間の頬をなぐれば、奴隷は耳を切り落とす(58頁)、§206アヴィールムがけんかで別のアヴィールムを殴り、傷を負わせれば、故意でないことを立証した上で、医者の治療の責任を負う(58頁)、§207彼が殴って相手が死んだ場合、(故意でないことを)誓わねばならず、死亡者がアヴィール仲間なら、銀2分1マナ(約250g)を支払う(58頁)、§208、死亡者がムシュケーヌム仲間なら、銀3分1マナ(約250g)を支払う(58頁)などとした。

 後継者を確保するため、妊婦の暴行を防止しようとして、§209アヴィールムが対等のアヴィールム仲間の女性を殴って胎児を流産させれば、銀10シキル(約83g)を支払う(58頁)、§210その女性が死去すれば、そのアヴィールムの娘を殺さねばならない(59頁)、§211ムシュケーヌム仲間の女性を殴って彼女の胎児を流産させた場合、彼は銀5シキル(約41g)を支払う(59頁)、§212その女性が死去したら、彼は銀2分1マナ(約250g)を支払う(59頁)、§213彼がアヴィールムの女奴隷を殴って彼女の胎児を流産させれば、彼は銀2シキル(16.7g)を支払う(59頁)、§214その女奴隷が死去すれば、彼は銀3分1マナ(167g)を支払う(59頁)とした。


                                D) 当時の技術者・職人

 当時の技術者・職人について、まず外科医からみれば、彼の報酬と責任について、§215医者がアヴィールムに手術して直し、あるいは手術して目を直せば、彼は銀10シキル(約83g)を取れる(59頁)、§216ムシュケーヌム仲間なら、医者は銀5シキルを受け取れる(60頁)、§217アヴィールムの奴隷なら、奴隷の所有者は医者に銀2シキルを与える(60頁)、§218医者がアヴィールムに手術して直せず、あるいは手術して目を直せなかった場合、彼らは医者の腕を切り落とさなければならない(60頁)、§219医者がムシュケーヌムの奴隷に青銅のランセットで大傷を負わせ、死なせたらば、彼は同等の奴隷を償わなければならない(60頁)、§220医者がムシュケーヌムの奴隷に青銅のランセットでこめかみを切開して目を損なったら、医者は奴隷の値段の半分の銀を支払う(60頁)、§221医者がアヴィールムの折れた骨を直したり、あるいはひどい筋の痛みを治したならば、患者は医者に銀5シキルを与える、§222ムシュケーヌム仲間なら、彼は医者に銀3シキルを与える(60頁)、§223アヴィールムの奴隷なら、奴隷所有者は医者に銀2シキルを与える(61頁)、§224牛・ロバの医者が、牛・ロバを治したならば、牛・ロバの所有者は銀6分1シキルを支払う(61頁)、§225牛・ロバを死なせれば、医者は、牛・ロバの所有者に、「その値段の4分1」を支払う(61頁)と定めた。

 理髪師・大工について、§226理髪師が「所有者の承諾」なしに「奴隷の目印の髪型」を切り落とせば、彼らは「理髪師の腕」を切り落とす(61頁)、§227人が理髪師を欺いて、「奴隷の目印の髪型」を切り落とせば、彼らは、その人を殺し、市門にさらす(61頁)、§228大工が家を建て、完成させれば、家1ムシャル(36u)につき銀2シキルを「彼の贈物」として与えなければならない(61頁)、§229大工が家を建てたが、「万全を期さなかった」ので、「家が倒壊し家の所有者を死なせたなら」、大工は死刑とする(61頁)、§230この家倒壊で「家の所有者の息子」を死なせれば、彼らは「その大工の息子を殺さなければならない」(62頁)、§231この家倒壊で「家の所有者の奴隷」を死なせれば、大工は「同等の奴隷」を与えなければならない(62頁)、§232この家倒壊で「財産(家財道具)」を毀損したら、大工は「償わなければなら」ず、大工は、「彼自身の財産で倒壊した家を建て直さなければならない」(62頁)、§233大工が「仕事を慎重に行わず」、「壁が曲がれば」、大工は「自費でその壁を強化しなければならない」(62頁)とした。

 居酒屋の経営者たる女主人につては、§108居酒屋の女主人が、代価銀を大きな分銅でうけとったり、ビール量を少なくしたりして、ビールの値段を不当に釣り上げた場合、客は女主人の方法行為を立証し、立証すれば、彼女を「水に投げ込む」(31ー2頁)、§109居酒屋で無法者が謀議し、女主人が無法者を王宮に連行しなかった場合、死刑とする(32頁)、§110「尼僧院に居住しないウグバブトムでもあるナディートゥム修道女」が、居酒屋を開いたり、居酒屋に入れば、焼き殺す(32頁)、§111居酒屋の女主人がビール1ーフ(容器)を掛け売りした場合、収穫時に5スート(約50?)の大麦を受け取る(32頁)などとした。

 各種職人の賃料について、§272荷車の賃借料は、1日につき大麦4スート(約40g)(69頁)、§273賃労働者には、最初半年(1−5月)は1日銀6粒(0,28g)、次の半年は1日銀5粒与える(69頁)、§274日当賃料は、職人は銀5粒、織物人は銀5粒、リネン職人は銀(不明)、印章彫刻師は銀(不明)、弓矢職人は銀(不明)、細工師は銀(不明)、大工職人は銀4粒、皮細工は銀(不明)、革細工師は銀(不明)、葦細工師は銀(不明)、建築師は銀(不明)(69頁)、§275、(不明)の1日当たり雇用料は銀3粒(69頁)とした。


                                  E) 権力に関わる条項

 権力に関わる条項としては、兵士の規定があるのみである。官僚・軍人・書記については服務内規があったであろうが、それらは国内民衆・諸王に公言するようなことではなかったのであろう。肝腎な国家転覆の防止については、前述の様に後書きで神々の処罰事項として定めていたから、判例集などでさだめることはなかったし、そういうことを想定することはありえなかったのであろう。

 各地で兵役忌避などがおこれば、権力の存続にも関わるので、これについては、§26「王の遠征」随行を命じられたレードゥーム兵士(家畜を追う者、護送・連行する兵、憲兵)、バーイルム兵士(鳥獣を捕える者)が忌避したり、傭兵を差し出せば、死刑とする、§33遠征に加わらなかった中隊長、小隊長は死刑にすると、厳罰をもって対処した。また、§34レードゥーム兵士の家財道具を横領したり、虐待した中隊長、小隊長は死刑にすると、軍幹部の規律を厳しく定めた。

 当時、バビロニアでは、兵役義務(イルクム義務)者には権力から反対給付としてイルクム地(耕地。果樹園)を与えられていた。そこで、兵役義務と国家支給の土地殿関係について、§27捕虜となったレードゥーム兵士、バーイルム兵士の「耕地と果樹園」は「別の人」にあたえ、釈放されれば、返還する、§28捕虜となったレードゥーム兵士、バーイルム兵士に息子がいて、「イルクム義務」をはたせるならば、耕地・果樹園は彼に与える(15頁)、§29息子が幼くてイルクム義務をはたせなければ、「耕地と果樹園の3分の1が彼の母親に与えられなければならない」、§30レードゥーム兵士、バーイルム兵士がイルクム義務に耐えられず逃亡し、別の人が3年間耕地・果樹園・家を保有し、イルクム義務を果たせば、その継続保有を認める(16頁)、§31逃亡兵士が1年間で戻れば、耕地・果樹園・家を戻す、§32商人が捕虜兵士を請け出せば、順に「彼の家」、「彼の市の神殿」、「王宮」が「請出すもの」をあたえ、「彼の耕地、彼の果樹園および彼の家は、彼の請け出し資金の代わりに与えられてはならない」、§36レードゥーム兵士、バーイルム兵士あるいは後方支援義務(ビルトゥム義務)者の「耕地、果樹園、家」は売却を禁止する(17頁)、§38レードゥーム兵士、バーイルム兵士あるいは後方支援義務(ビルトゥム義務)者は、「イルクム義務の付随する耕地、果樹園あるいは家」を妻・娘に名義変更できないし、債務弁済に充当できない(18頁)、§39「買い受けて手に入れる耕地、果樹園あるいは家」は、妻・娘に名義変更できるし、債務弁済に充当できると、詳細にこの取り扱いが定められた。



 以上、ハンムラビ法典の考察によって、我々は、富の登場と増加で生じた諸問題に対して、まず権力は神々によって自らの統治の正当化をはかり、次いで法によって富の生産・流通・分配の利害調整を図って秩序を維持し、正義と公正を実現しようとしていることを確認した。これこそが、「富と権力」システム下での法の基本的的役割なのである。こうして、我々は、国家形態が議会制民主主義にかわり、権力正当化の根拠が神々から議会(民意)にかわり、富の増殖方式が資本制に変わり、法が憲法、民法、商法、刑法などに分化し、人権を尊重し始めたとしても、「富と権力」システム下の法の基本的性格にかわりはないことを把握することができるのである。ハンムラビ法典の画期的重要性は、いつにこの点にあるのである。

             

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