|
1、2008年11月ー世界学問研究所規約にもとづく活動として、この「序論」部分のエッセンスが、出版事情厳しい折ながら良心的に刊行されているオピニオン誌『日本主義』(白陽社、2008年冬号、紀伊国屋・丸善など全国書店で販売)に「新学問論」として掲載されました。
あわせて御参照賜れば、幸いです。
2、2008年12月5日ー世界学問研究所規約にもとづく活動として、明治初年の汚職事件についてテレビの取材を受けました。
思えば、筆者が事件録の分野に最初に乗り出した『華族事件録』(新人物往来社、新潮社)は、主要新聞・雑誌などに取り上げられました。大きな反響があって、今でも恐縮しています。
富社会の問題性を照射する上で、『事件録』は最適であります。
3、2008年12月6日ー世界学問研究所規約に基づいて、「ブータンGNHの一考察ー仏教と権力との関連について」を最終推敲中であり、そのエッセンスを世界的な仏教経済の学術機関で報告する傍ら、近々このサイトで公開予定です。
第四代ブータン国王の提唱したGNH(Gross National Happiness)は国際的に注目され、GDPに疑問を抱いている人々などに大いに受け入れられています。
しかし、これが提唱された歴史的背景・仏教的理念などを理解する人は非常に少なく、ただGDPに代わる概念として引用・援用され、賞賛されているかです。某スタンフォード大学教授は、GNHを自由主義に対する規制主義ととらえる体たらくです。「自由と規制」というありきたりの視点でみますと、いかにも自由が規制よりも優れた思想にみえてきますが、経済的「自由」とは、「儲けるための欲望の自由」でしかないのであり、仏教哲学の欲望規制という高邁な理念にはほど遠いものです。やはりGNH概念は、仏教と権力の関係を抜きにしては語れないものですが、この点を触れた研究が少ないのが現状です。
そこで、ここで、ブータン仏教史や現在ブータンの直面する諸問題などをも踏まえて、GNHの意義と限界を明らかにしています。
4、2009年1月20日ー世界学問研究所規約に基づいて、世界的学術機関「仏教経済研究所」で「ブータンGNHの一考察ー仏教と権力との関連について」を報告しました。
世界的に著名な仏教経済学者、仏教学者らから、貴重なご意見を頂きました。また、新聞論説委員氏から、実に鋭いご質問を受けました。的確な質問は、論旨・核心を明確化するので、とても有益です。
いずれ公開しますが、当分発表の手続きの時間がありません。関心のあるかたは、2月12日朝日新聞夕刊2面「窓 論説委員室から」に一部核心が紹介されていますので、ご参考にして頂ければ幸いです。
5、2009年2月5日ー世界学問研究所規約にもとづく活動として、「山城屋和助事件」、「尾去沢鉱山事件」に関して、NHK教育テレビ『歴史に好奇心』の教材執筆、番組出演に協力しました。
ノンフィクション作家朝倉喬司氏の総合案内で近代資本主義の「貨幣魔術」(権力の貨幣増発・乱発、経済的「悪徳」者の詐欺・マネーゲームなど)の一部を取り上げていて、近代の弊害を反省する上では非常に重要な番組です。
金融論では、一般に貨幣の利便性とか役割しか述べないものですが、貨幣は権力者が「富国」手段として創出したものです。貨幣は権力者の富に結びつき、やがて資本主義のもとで一般庶民にも手の届く錬金術になってゆきます。金融は経済的「悪徳」者が一般庶民も巻き込んで、全世界を席巻し、その果てには現在の金融危機をもたらしました。デリバティブ理論などにノーベル経済学賞を与えた「経済学の欺瞞性」には真剣に反省し、さらには今後もこの資本主義体制でいいのかどうか根源的な問いを発しなければなりません。節欲を説く仏教系の大学までもが金融投資で大きな損失を被ったり、学問とは無縁な元財務省官僚側が「政府紙幣」発行論を提唱するような時代です。一般庶民が金融被害を被る可能性は、限りなく大きい見てよいでしょう。そういう意味では、この番組は時機にかなった好番組です。
なお、政府紙幣とは、経済の内在的必要に基づいて貨幣を発行するのではなく、権力が戦争・恐慌などの非常時を口実に乱発する怖れのあるものです。なぜ中央銀行ができたのか、政府紙幣の乱発が如何なる物価騰貴を招いたのかの歴史を知っていれば、政府紙幣の弊害は一目瞭然です。日本では、戊辰戦争の時に太政官金札が乱発されインフレを招いて以後、小額政府紙幣を除いて一切政府紙幣が発行されなかったのは、政府紙幣を発行すれば、その弊害(内在的貨幣流通の攪乱による日本銀行券の価値低下、物価騰貴。権力の紙幣乱発の発端になる)は大きいからです。仮に一時的に「景気回復」しても、「経済外」的に強権発行したゆえに、一般庶民に与える弊害は極めて深刻だからです。これまた権力の「貨幣魔術」の一つです。
「山城屋和助事件」については、NHK教育テレビ『歴史に好奇心』の教材では紙幅制約でエッセンスのみしか書けませんでしたが、良心的オピニオン誌『日本主義』春号(丸善、紀伊国屋など全国で発売中)には詳細を述べています。
6、2009年3月13日ー世界学問研究所規約にもとづく活動として、志ある編集長と会談しました。「本物の学問とはなんですか」というので、「富(経済学、経営学、国際経済学、貿易、など)と権力(財政学、法律学、政治学、外交など)がなくなっても、生き残っている中に本物の学問があるでしょう」と答えました。
そして、さきほど古本屋(私にとって神保町古本屋は近接図書館の一部です。ただし、利用頻度はアマゾンが高いです。神保町古書店ネット検索では見つからない本も、アマゾンではほぼ確実に見つかります)で購入したばかりの元東大教授岩崎武雄『哲学のすすめ』(講談社現代叢書、昭和41年)を取り出して、「学問性とはなにか」について「客観性を要求するもの」とあるのを引用しつつ、「これでは、学問論を構築できません」とだけ答えておきました。
学問に限らず、編集もまた志ある人々によって担われるものです。
「自然社会論」のエッセンスの雑誌掲載などについて話し合いました。掲載されましたらば、報告します。
7、2009年3月14日現在、世界学問研究所規約に基づいて、世界的学術機関たる仏教経済研究所の機関誌『仏教経済研究』2008年に掲載した「仏教経済学 労働編」の続編として、並行して『仏教経済学 流通編、分配編』の推敲を手がけています。
これまで仏教経済学=自然経済学とみてきましたが、流通・分配過程では、仏教経済学と自然経済学とに違いがでてくることが明らかになりました。
仏教は、自然社会の精神を少なからず取りれていますので、労働=生産過程では仏教経済学と自然経済学との間に大きな相違はありませんでしたが、結局、仏教は「富社会の宗教」であるために、富の存在を認める仏教経済学と、その存在を批判、否定する自然経済学との間に相違がでてくるようです。これまた、発表、掲載の際には、ここで公表します。
なお、仏教が「富社会の宗教」であるということは、単に仏教が利潤を認めるということを意味するのみならず、仏教が「親権力的」であることを意味します。これが重要です。これは2009年正月仏教経済研究所で報告したところでもありますが、余り仏教側ではこれを正面切って問題にはしません。以前、ある高僧はこれを認め、特に仏教の戦争協力の反省を口にされました。ですが、戦争協力もさることながら、仏教が、時の世俗権力とともに、荘園領主、封建領主として人々を搾取してきた「親権力的」だったことを真剣に反省すべきでしょう。
この「仏教の親権力性」はいくつかの謎に接近するヒントにもなります。豪族戦乱状況と仏教統治ということについては、大乗仏教国のチベット(法王支配)とブータン(シャプドゥーンのもとに聖界を監督するジェ−・ケンポ[宗教の長]、俗界を監督するドゥック・デシ[政治の長。摂政、任期3年。1651年−1907年、まで55人就任。君主制確立した1907年廃止])が大いに参考になります。つまり、仏教による国家統治の形態を考える場合、法王が直接統治するか(チベット的形態)、法王のもとに聖俗代表者を通して統治するか(1907年までのブータン)、世俗国王(或いは頂点)が法王を「序列的に従属」させるか、自ら法王となって転輪聖王(アショカ王[前304−232年]から現ブータン国王まで、この実例あり)という存在になるかであります。
この観点から「聖徳太子」、「法隆寺」の謎に迫ると、多くの貴重な示唆が与えられます。ここでは、簡単に述べておけば、遠山美津夫『なぜ聖徳太子は天皇になれなかったか』(角川ソフ
ィア文庫、2000年)、豊田有恒『聖徳太子の悲劇ーなぜ天皇になれなかったか』(祥伝社、1992年)と考える発想から離れて、「なぜ厩戸皇子は大王にならなかったのか」、仏教王国の権力形態(従来の久米邦武、津田左右吉などの貴重な研究は史料批判をするのみで、権力構造分析が欠落)とはいかなるものなのかと考えるべきだということを指摘するにとどめましょう。大王による豪族祭主権掌握を通しての神道的支配が行き詰まる中で、蘇我馬子、厩戸皇子が仏教による全国統治を実現しようとする場合、誰かを頂点の法王に据えて、法王が「臣下」の世俗大王らを通して全国豪族を支配するということが考えられたでしょう。
こうみると、厩戸皇子が菩薩、釈迦に擬せられたり、「上宮聖コ法王、または法主王」(厩戸皇子の伝記『上宮聖徳法王帝説』)と称されたり、「法興六年[法興年号の存在]十月 歳在丙辰 我法王大王[厩戸皇子] 与恵慈法師及葛城臣・・遥夷与村」(『伊予国風土記』中の「道後湯岡の碑文」)とあったり、日本最初の本格的寺院たる法興寺(飛鳥寺とも言われる。蘇我馬子が用明天皇に請願し、厩戸皇子に建立させる)を建立したり、斑鳩宮を造営し、そこに法隆寺(法とはダルマであり、転輪聖王の全国支配の手段)を建立したり、「国に二君なし」(十七条憲法の12項)と言った理由がよくわかってきます。かつ、後に法王支配ではなく、天皇支配が確定する過程で、仏教は律令制天皇のもとで利用する存在とされ(だから、法隆寺再建や、聖武天皇の東大寺建立、大仏造営などがなされた)、法王支配という「歪んだ」痕跡の修正(厩戸皇子は推古天皇の摂政的存在。法王を法皇としたこと[法王は大王の上にたちうるが<例えば、称徳天皇が道鏡を法王にして、同等かそれ以上にして、一時的中継ぎとして彼を天皇にしようとする事件がおこる>、法皇は律令制天皇制下の仏教界頂点。法王と法皇の相違は仏教王国権力構造論に立脚すれば一目瞭然です])がはかられたことも良く理解できます。
なお、津田史学方法論の問題点について、梅原猛氏は的確な指摘をされています。梅原氏は、「日本の古代史学において、多くの歴史家は津田左右吉の解釈の下にたっているが、私は津田左右吉の方法論は根本的に間違っていると思う」とし、「矛盾律を犯す者はすべて不合理とする」「形式論理」で、「悟性の立場」(『飛鳥とは何か』[『梅原猛著作集』第15巻、1982年、401頁])だと批判します。だからといって、梅原氏の「感性的」方法だけが正しいとするのも問題でしょう。「真理とは・・・肯定と否定の中間にある」(『神々の流竄』[『梅原猛著作集』第8巻、1981年、30頁])ものであれば、悟性的立場(史料批判)と感性的・宗教的立場の柔軟な駆使(形式的な総合とはいいません)が必要でしょう。
8、2009年3月30日、世界学問研究所規約に基づいて、今年中に世界的学術機関たる仏教経済研究所で「仏教経済学 流通篇」か、「厩戸皇子の仏教王国ー仏教と権力の関連」について報告します。
「厩戸皇子(聖徳太子)の仏教王国構想」、「仏教経済学 流通篇」などは、世界人類の歴史・現在・未来を考える世界初の総合的根源的学問論『自然社会と富社会』の関連研究です。
前者は前回発表した「ブータンGNH の一考察ー仏教と権力との関連」の続編であり、、後者は前々回発表した「仏教経済学 労働篇」の続編(これは『仏教経済研究』に公表されてから、出版会社社長がわざわざ刊行をすすめに来訪)です。いずれを先に発表し、どちらを次回にするかは、まだ未定です。
こうした総合的・根源的学問構築と諸個別研究深化の相乗作用の中に真の学問力(これは「宇宙自然のうちに世界人類の過去・現在・未来を科学的・哲学的に見通す力」だといっておきましょう)が醸成されます。
9、2009年5月3日、世界学問研究所規約第三条第六項第二にもとづく活動として、このHPのうち「自然社会」の一部のエッセンスをオピニオン雑誌『日本主義』夏号(紀伊国屋などで販売中)に掲載しました。
なお、物理学者竹内均氏が「学問論」についてすぐれた指摘をしています。氏は、「私は『第三世代の学問』という考えを提案しています。第一世代の学問は博物学的であり、第二世代の学問は分析的でまた専門化している。これらに対する第三世代の学問の特徴は総合であり、そこでは一種の世界観がうちだされる。ここまでいかなくては、学問は学問たるに値しない、と私は思っている」(「個性的と科学的と」『梅原猛著作集』月報1、第8巻神々の流竄)というのです。分かることと実行することとは別ですが、新しい総合的学問の必要性が分かるだけでもえらいと思いますね。
そうです、「虚学」「偽学」が横行する現在、真の学問か否かをみるメルクマールの一つは、そこに「学問の総合化・根源化」を内在的に追究するものがあるか否かでしょう。これがあれば、学問的精神・緊張が自ずと横溢し、非学問を峻拒する批判力が漲るでしょう。
これは仏教経済研究所で発表したことでもありますが、私がこれまで調べたりした結果では、物理学者の中に「学問総合化」を提唱する人が少なくないということが指摘できます。これは、真の学問とは具体的に何かを力強く示唆しています。私は40年の諸研究従事の後にここにようやく気がついたのですが、これは回り道、無駄だったとは少しも思いません。仮にはじめから物理学だけを専攻していれば、物理学の総合的・根源的重要性の認識度が希薄であり、いざ総合しようにも必要知識が希薄だったろうと思うからです。総合的・根源的学問構築には、膨大な学問蓄積が必要だからです。
実際、物理学者で総合的学問の必要性を提唱する人は少なくありませんが、それを実行に移した人はほとんどいないでしょう。皆無かもしれません。これは、物理学だけやっていても「総合的・根源的学問」を構築することができないということでしょう。
では、なぜ「総合的・根源的学問」が必要なのかということを再確認しておきますれば、例えば経済学のように、個別学問研究は人類・社会に害悪を与えるからです。理由は明快にして簡単なのです。
10、2009年5月28日、世界学問研究所規約第三条第六項第二にもとづいて、仏教経済に関しては世界的学術機関である仏教経済研究所の学会誌『仏教経済研究』2009年度号に「ブータンGNHの考察ー仏教と権力の関連について」を発表しましたので、興味のあるかたはご高覧いただければ幸いです。
仏教の持つ深遠な哲学は世界一であり、実に多くのことを教えられています。ですが、この仏教にもおかしなところがないわけではありません。道元はまずは信じよといいましたが、学者はそういうわけにはゆきません。疑うところから、学問営為の第一歩がはじまります。仏教のおかしなところの一つは仏教の「親権力性」です。それを「仏教と権力」として、ブータン仏教王国論、「聖徳太子飛鳥仏教王国論」などとしてとりあげているとろです。。
「総合的・根源的学問」構築作業という大きな営みの相乗作用として、こうしたことと関連して、近々、富問題関連研究の本が刊行されるでしょうから、これもまた刊行されました暁にはここで報告いたしましょう。
11、2009年7月10日、現在、2009年12月に、世界学問研究所規約第三条第六項第二にもとづいて、仏教経済の世界的研究機関である仏教経済研究所で「厩戸皇子らの仏教王国論」を「仏教と権力の関連」から発表しますので、この準備にも従事しています。
当時の大王の神祇統治において仏教統治がどういう意味を持ったのかなという視点に立脚するとき、思いのほか、「大化改新」の歴史的意義もまた初めて鮮やかにうかびあがってきます。これは私にも実に新鮮な驚きでした。日本にも「仏教王国」といったものがあったというこのみならず、「大化」ということの正しい深い意味が初めて鮮明になってきました。そのほかにも、古くから、神道は宗教なのか、宗教でないのかが、議論されてきましたが、神道とは「権力宗教そのもの」であることなどもはっきりしてきました。仏教が親権力的宗教であったとすれば、神道とは権力宗教そのものなのです。分析視角を新しいものにすると、実に多くのことがわかってきます。
以前はもとより、今でも大化改新はなかったのではないかなどの低水準の意見がでてくるのは、当時の大王統治の実態が十分に把握されてこなかったからです。これもまた、古代は古代史研究者、近代は近代史研究者という非学問的「縄張り専門研究」の弊害そのものです。これは「研究」ではあっても、「学問」ではありません。こうした「研究の弊害」は実は古くからさけばれていますが、実際にその打破を実践している「良心」的な人は皆無か僅少でしょう。そういう学問的「欺瞞」性でよくもまあ「素人」を教えられるものです。ホッブスが『リヴァイサン』で「事実のみに立脚する史学」は学問ではないとしましたが、これに関してはホッブス指摘はあながち的外れではないでしょう。
『日本書紀』は神話だから学術的価値は低いなどという方もいますが、当時の「統治」とは「神話」「神祇」的なものなのであり、これが当時の現実です。そういう視角から『日本書紀』をみるならば、それは、大王の神祇統治、仏教法王の仏教統治、「王政復古」たる大王神化(明治維新もまた王政復古であり、これとの比較もまた、この古代の「王政復古」の意義を照明してくれます)などを探る上では貴重な資料の宝庫です。私の提唱する「諸個別研究の相乗作用による総合的・根源的学問論構築」は、実に多くの成果をあげはじめています。例えば、ほんの一例をあげますれば、@従来の富社会の権力は、神道(古代)、神道・仏教(古代後期・中世)、儒教(近世)、神道(戦前)という「宗教」を不可分な支柱としていましたが、現代では権力が頼り寄るべき宗教をもてないという歴史始まって以来の「本源的権力危機」(メディア政策が危機対策としての民心掌握手段となり、社会福祉策・安定社会策・雇用確保策などが危機隠蔽策となるが、いずれも破綻するだろう。権力政策はいつも目先だけだからであり、危機は、まず財源破綻・人心離反としてあらわれる)状況に直面しているということ(中央権力の崩壊で、「真の地方時代」が始まる。暫定的に国家は外交・防衛などの機能を分担するが、最終的には国連国家=世界連邦結成で外国機能も不要になり、国連軍充実で防衛機能も消失しよう)、A仏教は親権力的宗教だが、やがて仁王経・金光明経を生み出して権力宗教そのものになりさがったということ、B大乗仏教とは、どうも小乗ではなかなか普及がはかどらないことにあせりを覚えた僧侶らが権力に擦り寄って仏教親権力化を目ざしたものともいえることなどなどがわかってきています。
こういう古いことが、現代とどういう関係があるのかと疑問に思う方がいるかもしれません。これに対しては、古代・中世・近世の凝集体が近現代であるといっておきましょう。明治維新期に拠点を定めていれば、この事は一目瞭然です。「私は現代の専門家だ」などというものがいらっしゃれば、こういう方は「現代とは古代・中世・近世の凝集物であるという学問的・根源的視点を放棄している」のであり、「専門研究などは誰でもできる」のであり、「カール・マルクス、マックス・ウェーバーの学問方法論的には大きな問題があるが、それはさておいても、さすが学者(研究者ではない)のカール・マルクス、マックス・ウェーバーは古代から現代まであつかっている」とだけ言っておきましょう。
12、2009年8月11日、8月15日終戦記念日が近づくと、必ずと言ってよいほど「なぜ太平洋戦争がおきたのか」、「太平洋戦争はさけられなかったのか」などの議論がでてきます。
少なくとも、戦前において、日本は戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、日中戦争、太平洋戦争と、諸戦争を遂行してきました(詳細は拙著『日本外債史論』参照)。なぜ太平洋戦争のみをとりあげるのでしょうか。敗北し、しかも史上最大の犠牲を伴ったからでしょうか。恐らく勝利していれば、日本の太平洋戦争開戦は「反省」されなかったかもしれません。
ですが、軍がある以上、参謀部(陸軍)、軍令部(海軍)などの機構が設置され戦闘作戦の立案・遂行を職務としています。そういう「戦争遂行が当然視されているような状況」では、戦争決定如何などは「紙一重」であり、敗色の濃厚な中での停戦などはかなり至難だったのです。こういう構造を取り上げずに、開戦責任、終戦責任などを問うのは本末転倒というべきでしょう。
仮に東条英機らの日米開戦路線を阻止し得るものがいたとしても、日本が満州国解体、対中利権縮小などで大幅な譲歩をしない限り米国は対日強硬路線を変更することはなかったのです。米国は、すでに中南米に利権を張り巡らし、今度は遅れて参入して中国市場でさらなる投資機会を目ざし、機会均等・門戸開放を提唱していたのです。アメリカはもっともうけるために、先行した日本に中国市場を開放しろと要求してきたわけです(詳細は拙著『日本外債史論』参照)。ですが、アメリカは、意図的に日本が受け入れがたい強硬な要求をしてきましたので、当時の日本ではとてもこれはできないとしたのでした。
高橋是清は、日露戦争でユダヤ系マーチャント・バンカーのヤコブ・シフとは親友となって日露外債の起債に成功し、以後もシフとは親交を深めます。娘をシフの家に長期滞在させたり、シフはわざわざ自宅に「TAKAHASHI
KOREKIYO ROOM」を作ったりします。二人はとても中がよかったのです。ですが、その親米家是清ですら、日露戦争で日本将兵が血を流して得たものとして満州利権の放棄を頑強に断りつづけています(詳細は、拙著『国際財政金融家 高橋是清』、『日本外債史論』参照)。
石橋湛山の如く朝鮮、台湾などの植民地放棄や満州利権放棄などを説く人もいましたが、それは当時の日本では例外中の例外でした。早晩、日米は利権をめぐって衝突せざるをえなかったのです。それまで親密だった日米関係が一挙に緊張し始めたのは、実はつとに日露戦争以後からのことであり、その当時から日米戦争の危機は指摘されていました。何も昭和に入ってから、日米衝突が危惧され始めたのではありません。大正期後半頃になると、軍部がアメリカを仮想敵国にしてゆきます。これに対して、日米戦争反対を唱えた海軍軍人もいました。海軍大佐水野広徳は、第1次大戦後の欧米諸国を視察し、近代機械工業を応用した近代戦の非人道的な悲惨さを痛感し、以後「非戦・平和論」者に転向します。水野は、大正10年には海軍を退役し、大正13年には米国を仮想敵国とした「新国防方針」を批判して『中央公論』6月号に「新国防方針の解剖」を発表し、日本の敗北を結論して、日米非戦論を展開しました。昭和7年10月には日米戦争を想定した『打開か破滅か興亡の此一戦』(東海書院)を発行しますが、発売禁止となりました。
重要なことは、誰が開戦を決めたか、開戦は回避できなかったのかなどの議論ではなく、「戦前の戦争遂行構造」の分析でしょう。現在でもアメリカなどは軍を保有して戦争計画を立案・遂行しているのであり、まずもって「富社会での戦争遂行構造」の分析をしっかりしなければならないということです。だから、「富社会での戦争遂行構造」は日米ともに同じですから(アメリカは民主主義、日本は半封建的・軍国主義という違いはありますが)、日米戦争の責任は日本だけでなく、アメリカにもあります。
大正初期には、日米開戦しても日本有利という意見もありましたが、昭和10年代には米国は日本に対して軍事的に完全に優位となります。これを背景に、米国は日本がとてものめないような要求ををつきつけ、戦争をあおりはじめます。醍醐海軍中将などは、こうしたアメリカの挑発で始まった戦争に対して、いずれ米国が処罰される日がくるだろうと見通しています(拙著『華族事件録』)。
今次の日米戦争には、責任は日本のみならず、アメリカにもあります。ですが、もうこういう議論はいいのではないでしょうか。本当に戦争を回避し平和を維持したいのであるならば、権力者・軍人個々人が「富社会の誕生以来、戦争が不可避となる構造」に繰り込まれているという厳然たる歴史をも踏まえて、この「いかなる人間でも戦争遂行に巻き込まれる構造」を「いかなるもとでも開戦に踏み切れないような構造的平和社会」にグローバルに転換することこそが重要なのです。今こそ「市場のグローバリゼーション」ではなく、「平和のグローバリゼーション」が求められているといえましょう。
もう目先の議論はいいのではないでしょうか。戦争は、長期的にみるならば「富と権力」の登場以来構造的に不可避となったものでありますが、少なくとも賢明な方々は「戦前」(明治維新〜太平洋戦争終戦)くらいの中期的視点はもちましょう。となれば、8月15日終戦記念日は戦争記念日(戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、日中戦争、太平洋戦争などの諸戦争を考え反省する記念日)とするのが妥当となってくるでしょうか。
13、2009年9月23日、8月にはいずれも筆者が関与して、期せずして新人物往来社、講談社から華族本が刊行されました。前者は『明治大正昭和 華族の全てが分かる本』、後者は『華族総覧』です。
新人物往来社は名誌『歴史読本』を出版されていて、筆者は古くから華族論文を掲載していただいて、大いにお世話になってきました。そこで、ご恩返しのつもりで同社『華族の全てが分かる本』に筆者論文(華族の資産形成)の掲載をすることに致しました。これは共著という形態ですが、筆者は末席を汚し僅かな比重でしかありません。
一方、講談社『華族総覧』は、華族400家弱を府県別に各伝記・文書などに依拠して記述したものです。1冊で本数百冊・資料数千点以上を読むのと同じ価値があります。巻末の資産家華族一覧表の作成だけでも数年を要しています。時間と労力を要する作業ではありましたが、それだけ学術的にもずいぶん多くの新発見を致しました。一般の方でも気軽に楽しく読めて、大いに為になるように配慮いたしました。
この『華族総覧』は、縄文社会を自然社会論として普遍的観点から執筆している最中に平行して行ったものであり、ほかにも仏教経済研究所での発表も控えて準備していましたので、三つの研究が重なって、時間と労力を要する作業でありました。小説ならば、根拠なく想像力で執筆できますが、学問は根拠と方法論に基づかねばなりませんから、何かと大変です。
この『華族総覧』の校正も実に労力を必要としました。仏教経済学=自然経済学、「仏教と権力」の研究(400字詰め原稿用紙で500枚以上。いずれこのネットでも公開予定)などの研究をかかえているときに700頁弱の本の校正をするのですから、これも時間と労力を要する作業でした。ですが、それ以上に大変なのが編集者氏です。校正用の原稿が真夜中の時刻を記載した宅急便で送られてきました。夜中の2、3時まで編集業務に携われているのです。本当に心からご苦労様と思った次第です。
これは、『富社会』の研究の一部をなすものです。富社会については、実に種々多様な研究がなされ、「真学」と「虚学」「偽学」などとが混在して、何が「本物の学問か」が分からない状況にあり、「何が本物の学問か」を明らかにする者すらいないという状況です。この元凶の一つが「商業主義的経営」に従事する「大学」でしょう。もはや多くの「大学」は「学問の府」などではなく、断片的専門知識を切り売りする「専門学校」に近いかもしれません。こういう所に貴重な国税を投入するべきではありませんし、人々も指摘する通りこれは憲法違反でもあります。これは、もはや大学には、目先の断片的・「実用的」専門知識に先走るものとなって、学問を長期的視野にたって根源的・総合的に明らかにしようとする、或いはできる方がいないからかもしれません。今の日本の大学のほとんどは「大卒資格販売」所に近いでしょう。専門知識は専門学校で十分であり、「本物の大学」では、いくつもの専門知識を咀嚼能力ある総合的・根源的学力を養成し、中長期的・宇宙的視野で物を考察する力を育成することが必要かもしれません。
『富社会』では、人間は「自然と人間との関係」と「人間と人間との関係」において二重の意味で不自然な状況に置かれます。そこでは、利潤を動機とする生産によって富が増殖して、基本的にはそれをめぐって対立・戦争が常態化し、各地に多種多様な人生模様が展開し、経済研究家は「古代・中世・近世・近代・現代の経済」を批判的にか肯定的に取り上げて、その断面のみをもって「経済は発達している、進歩している」、「農民の成長がある」(農民は元の「自由な人民」に向かって回帰しているだけであり、「進歩」などではない)などと称しています。彼らが提示する「発展」・「成長」とは虚仮そのもであり、こういう考えが人類を「破局」の方向に導いてゆきます。こういう虚仮システムの根源的・総合的な把握なくして、人間本位に「発展」・「成長」と両立させようとする浅はかな「気候温暖化」対策は、例の如く問題を先延ばしするにすぎません。
法律家は「悪法も法なり」と称して、この諸悪に満ち満ちた現状を権力に与して維持しようとします。法律は学問などとは程遠いものです。また、こうした富社会にうごめく人生模様をとらえて、小説家が卓越した文体のもとに独特の鋭い感性・切り口で「これが人間の運命だ」、「これが人の定めだ」などとして小説を書き、人々はその断面図だけを人間の運命と「錯覚」してしまいます。この意味で経済研究家・法律家とか小説家といわれる人々の責任もまた小さくないかもしれません。
この富社会では、十人十色、60億人60億色の人生模様があるのです。人々は、好むと好まざるに関係なく、「富社会」固有の特徴によって「人と自然との関係」、「人と人との関係」において顕在的・潜在的対立に追い込まれ、矛盾に気づいて悩み、時に訪れる「平和」、「憩い」に自分ならぬ自分を見出しながらも、どうしようもない状況においつめられてゆきます。人間は無力なのです。仏教は、これを業として解脱を説き、キリスト教は「原罪」として神による救済をときます。ひとたび身についた人間の欲望は即自的にはもうどうしようもありませんから、根本的打開策を断念して坐して、或いは紛らわして富社会の自滅を待つという色彩が濃厚となります。何も考えないよりはましではありますが、中途半端に考えるならば、富社会の根源的改革の視点まではとても到達できません。そして、これを根源的・総合的にとらえる学問もまたないし、今の分断的・細切れ的な「研究」機構では到底それを望めないし、実現はできないでしょう。
『富社会』の正体とは、「自然社会」と比較対照しなければ、根源的・総合的に、従って学問的に正しく把握できないのです。この方法的主軸となるのが、「自然と人間との関係」と「人間と人間との関係」という分析視角です。これこそが、「自然社会」と「富社会」とを根源的・総合的に把握する分析視角です。しかも、重要な事は、恐らく世界中で自然社会が最も長く「理想的」に展開した国の一つが日本だということです。はっきり言いまして、これは、根底では「自然から教えていただく」という謙虚さに裏付けられつつも、30年計画の「ノーベル」賞十個分以上の大研究となるという意気込みがなければ、達成できないものでしょう。
自然社会研究、それを前提とした根源的・総合的学問論などを世界に発信することが次の課題となりますが、これはネットのみならず、国際発信のプロの国際交流団体元幹部や学問性(研究性ではない)の高い学術機関・シンクタンクなどを通しても多様になされるでしょう。
根源的・総合的学問論の構築とは、時間と労力を要する作業ではありますが、これで全世界の人々に「本物の学問」を提供できると思いますと、他では味わえない、ささやかな充実感を覚えます。
14、2009年10月19日、現在、「物理学基礎研究」、「自然社会の研究」、「富社会の宗教」、「富社会の経済学」・自然(仏教)経済学、「富社会の問題性」などを平行従事しています。「経済学」などでいう「最適効率配分」などとは関係なく、そういうことを持ち出すまでも泣く、時間配分と体力維持が自然と重要な課題となってきます。
物理学は「学問の中核」であり、絶えずそういう物理学的な思考・基本視角が、研鑽の中核的位置をしめています。ですが、物理学では量子物理学から生物物理など実に多くの分野に細分化していて、とても総てに通暁できるものではありませんし、実験室があるわけでもありませんので、あくまで学問的基礎として物理学という学問の方法論、問題意識などをおさえているというものです。
「自然社会の研究」に関しても、自然社会の重要遺跡の幾つかの探訪にとどまり、自ら発掘調査するものではありません。既に先人が発掘調査した遺跡の研究成果を利用させていただくにとどまります。ですが、富社会の総合的研究も深めていますので、そういう観点から斬新な視点で「自然社会」にアプローチすることが可能になっているといえるでしょう。
現在は、12月初旬に世界的研究機関である仏教経済研究所で、「富社会の宗教」研究の一環として、「厩戸王子らの仏教王国」を発表する準備を最優先しています。バランスを組み替えて、これに注力しています。
ここでは、従来なかった斬新な分析視角で、厩戸王子の治世期間のみならず、前後の時期も射程におさめ、「仏教統治と神祇統治」との相関(単独仏教史、単独神道史は沢山ありますが、両者の連関を見たものはほとんどありません)のうちに、「厩戸仏教王国」と、大化改新(従来「大化」の真の意味が理解されていません)、聖武天皇・孝謙=称徳天皇の仏教統治(道鏡問題。従来仏教法王道鏡は皇位につこうとしていた側面のみが強調されていましたが、仏教法王厩戸との連関のうちにこの問題をとらえると、従来と違う側面が浮かびあがってまいります)、桓武天皇の「天地人統治」を「一つの過程」として解明しています。
仏教導入以来、日本の統治は、従来の神祇統治と新しい仏教統治との間で揺れ動いてゆきますので、これを抜きには該期の統治を正しく考察することはできません。だからといって、仏教史、神道史だけやっていたのでは、ダイナミックな古代史像は描写できません。この基底には、農業生産の展開による地方豪族・百姓の展開があり、また神祇思想と類似した道教の影響もあって、まさに富社会は富をめぐって多様に揺れ動いています。従って、今度の仏教経済研究所での報告は、日本史はもとより、仏教史・神道史でも、今までにない研究になるでしょう。
そもそも、仏教は、富社会宗教の中では「自然社会の宗教」に最も近い宗教の一つでしょう。仏教の素晴らしさ、不滅性、哲学性は大体わかりましたが、実は仏教にも問題があります。生き残るために仏教はヒンヅー教に妥協して「密教化」しました。これはこれで一つの新しい仏教を生み出しましたから、評価すべきかもしれません。しかし、仏教が、普及のために権力と経済的支配階級に「妥協」して、権力宗教となり、利潤・富を認めている所は問題です。これぐらいは大宗教になるためには仕方がないとして、容認する方もいますが、大宗教になどなる必要は一切ありません。
宗教は、人間が生きてゆくうえにとって不可欠なものでしょう。人間は、様々な危機を敏感に察知して、それに対処して生きながらえてきています。様々な危機に取り巻かれて、人間は絶えず不安ですし、富社会では、人間の多くが富を生み出すために自分の労働力を「強制的」に差し出すことを余儀なくされて、自然社会以上に大きな不安に直面しています。ですから、キリスト教は神による救済、仏教は解脱・悟りをとくわけです。ですが、いずれも富社会をどうすればよいのかという問題には答えていません。
富社会では、大部分の人間が富形成のために「俗」事に巻き込まれ、宗教行為から分断され、聖俗不一致となって、ここに聖職者による宗教担当という事態が生じてきます。しかし、この聖職自体も実は大きく俗化されていて、果たしてそういう宗教が正しいのかと言う問題もあります。最澄は、こうした「飯の種」としての仏教などは初めから念頭にはなく、だからこそ形骸化した奈良仏教の打破をさけんだわけです。彼が真実の仏教を求めた魂の純粋さ、強さは、時代を超えて今でも力強く響き渡ってきます。「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を闕く」(」願文)と、ここまで、自分を突き詰めなくては、新しい物は生み出されません。ですが、最澄はまた、悟りを問題にするにとどまり、その限りで仏教改革を提唱しますが、この社会、国家をどうするかまでは、提言できませんでした。明らかに仏教には大きな限界があります。ですから、新しい経済学として、これまで「仏教経済学」構築に従事してもきましたが、この頃は、「仏教経済学」というよりは、「自然経済学」とした方がよいとも考えています。
なお、仏教経済学=自然経済学の「流通」・「金融」篇もまた着々と構築しています。そのためにも、仏教の限界と問題点を明らかにし、「仏教」の弊害もまた自分なりに研究するために、「権力と仏教」というテーマを設定して、ブータンに続いて、日本の仏教王政(「厩戸王子の仏教王国」)を取り上げ、「権力と仏教の関係」を不十分ながら掘り下げているわけであります。
15、2009年1月1日、学問的思考とは何でしょうか。社会科学という分野では、それは「思考の厳密化」であり、周知の通り、マックス・ウェーバーは類型的思考、カール・マルクスは「下降法・上向法」を説きました。これが長期にわたって日本の社会科学者の呪縛となってきました。中には、『資本論』の篇別構成だけを何日も読んで思考方法を「純化」する人すらいました。数学を導入するこころみ(経済数学、数量経済史、経済統計など)もありましたが、それはあくまで補助的・部分的にとどまり、主軸になれるものではありません。そもそも、「虚仮」の富社会を分析する思考方法をいかに厳密化させても、所詮は「虚仮」であり、学問ではありません。
マルクス歴史学が金科玉条とする「人民史観」ぐらい非学問的なものはありません。確かに、人民、民衆が歴史をつくり、社会の原動力であるかでありますが、自然社会と違って、富社会では人間は「無限悪循環」に巻き込まれいて、人民の解放、旧体制の解体が、今度は新しい支配階級を生み、新しい不平等社会を作り出し、根本的解決というものはありえないからです。マルクスは労働者階級こそ平等社会の実現者としたわけですが、富社会の根源的考察を欠いていた為、結局、社会主義国家は新たな支配ー被支配関係、不平等搾取関係を生み出して崩壊しました。マルクスは、なぜこういう根源的総合的核心に気がつかなかったのでしょうか。それは、マルクスが結局富社会の枠内で問題の解決をはかり、自然社会を根源的始点に設定できなかったからです。主体たる人間が客体たる自然に働きかけることを当然とみなしたからです。
一方、近代経済学と称するものは、こうした富の不公平を「所得再分配」で対処しようとします。ですが、近代経済学は所得再分配を何十年も提唱し続けてきましたが、社会的貧富差が根源的に解消されたことがあったでしょうか。富の問題は、所得再分配では根源的に解消されるものではありません。こういうことは、近代経済学が盛んに提唱してきた経済成長論にもあてはまるでしょう。成長、成長と唱えて、日本経済、世界経済は、このていたらくです。いずれ、中国も同じ運命をたどります。経済成長とは、必ず矛盾、問題の拡大を伴っていますから、いずれ政府の強制的政策では糊塗しえずに、傷口がほころび、広がることになるからです。成長の結果が失業、貧困でありながら、「近代経済学者」はこれにこりずに「だからこそ成長政策が必要だ」と提唱します。問題を惹起したものに問題の解決をゆだねる、毒をもって毒を制す、という、まさに本末転倒の一時的糊塗策で収拾しようというのでしょう。
かつまた「歴史学者と称する人々」は、古代、中世、近世、近代、現代と非学問的な「縄張り」を決め合って、各人はその時代しか対象としないので、根源的総合的、従って学問的な把握ができません。つまり、自然社会を根源的視点にすえることはもとより、「民衆は旧体制を解体するが、旧体制を解体する民衆の中から新たな支配階級が生まれ、富社会の歴史とはこうした被害配・支配の悪循環の繰り返しだということ」に気づかないのです。彼らはこの非学問的「縄張り」を当然であると開き直り、学会というものをつくって、その非学問的行為を認め合います。こういう「人を教える能力もない」輩が寄り合ったのが今の大学であれば、大学が学問的になりえない理由の一つも自ずとあきらかになるでしょう。こういう所に、国税が徒費されているわけであり、由々しき大問題といえるでしょう。また、新しい史料、遺跡を発見して、実はこうだった、あるがままの時代像とはこうだったということを解明するのが、「歴史学だ」と称するものもあります。もとより、これらは大事なことではでありますが、これはただ従来の歴史研究が不十分であったということだけのレベルの問題であって、いずれも根源的総合的視点を欠如するものがほとんどであり、こういう「歴史学」は学問的には弊害以外の何物でもなく、学問とは程遠いものです。
では、学問的思考とは何でしょうか。私は自然総体を見る物理学的思考方法こそが、学問的思考であると思います。確かに、ここでも厳密な思考が数学によってなされますが、なによりも人間を含む自然総体を体系的・総合的に把握するということが重要です。ですが、物理学の世界も実に個別細分化されていて、物理学全体の思考方法というものが把握しにくいものとなっています。物理の個別研究は、全体を見なくても、ある程度はできるでしょうが、それが自然総体を総合的に見る物理学的思考を体現しているとは限らないでしょう。
そういう中で、桜井邦明『物理学入門15講』(東京教学社、1996年)、押崎憲夫・町田茂『基幹物理学』(てらぺいあ、2009年)などは、総体としての物理学的思考を考える上で大いに有益です。前者は、「普遍的な学問」(2頁)、「自然哲学」から誕生した「人間を含めて全ての自然現象の成り立ちを研究」(75頁)、「現代は自然科学全体が、物理学を根底において一つの統一的な描像の下に統一されていこうとしている時代」(123頁)など、物理学が学問の中の学問であるということが鮮明に把握できるように述べられています。
後者は1100頁余の大著であり、本としての体裁は立派ではありません。だが、中身がいいです。こういう本を素晴らしい本というのでしょう。私は、朝必ず、この本の篇別構成をじっくりみます。第一部古典物理学(力学、熱学、振動と波動、電磁気学、相対性理論)、第二部量子力学入門(量子力学、変換理論、場の量子論)などを通して、総体としての物理学的思考方法を確認します。
もちろん、物理学では数学による思考の厳密化が大きな役割をもっていることは言うまでもなく重要ですが、それ以上に自然哲学に裏付けられた物理学的世界観こそが重要なのです。数学にはいくつかの難問というものがあり、「数学者」と称する人々はこの解明を手がけています。それは素晴らしいことではりますが、数学的世界にのみとどまり、これの解を見つけたとき、「人間とはなんという素晴らしい知性をもっているのか」などと錯覚します。偉いのは、この謎を解明した人間ではなく、それを生み出した自然です。人間は偉大な自然の創造した謎のほんの一部を知っただけにすぎないのです。数学だけを専門的にやっていると、こういう錯覚におちいるのでしょう。
文科系、理科系に分ける現在の学習体系は、明らかに学問的ではありません。職業教育に携わる専門学校(現状の日本の大学のほとんどはこれにとどまります。某教授は「大学教授は高校教師に毛の生えた程度だ」といみじくも反省しましたが、ほんの数本の毛が生えている程度でしょう)と高度な学問研究に従事する「大学」は明確に区別するべきでしょう。
物理学的思考と人間との連関について、人間の細胞学的・遺伝学的・脳科学的連関については容易に分析されるでしょうが、人間の心の領域になると、分析的に考察することは容易ではありません。それは、「心理学」のような方向に向かうでしょう。夏目漱石が心理学に興味をもち、緻密な心理分析・描写に向かった所以です。漱石弟子の物理学者寺田寅彦も漱石から心理学論を聞かされたこともあってでしょうか、 「人間の心理にはやはり科学的に取扱われ得る部分がかなりにある事は拒み難い事実である」(寺田寅彦「文学の中の科学的要素」『電気と文芸』1921(大正10)年1月[]「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
1997(平成9)年4月4日発行)と指摘しています。と同時に、人間の心の領域に関しては、ひらめき、直感のようなものでも理解される所もあるのではないでしょうか。晩年には漱石は則天去私の境地に達したということは有名であり、これは種々に論じられています。前者の心理学を学ぶ方向とは物理学的思考の影響を受けていた、まじめな漱石が学問・科学としての文学とは何か、文学と科学はどういう関係があるかを「職業柄」まじめに追究したものとすれば、後者の則天去私という境地とは、同じく物理学的思考の影響を受けていた漱石がひらめいた境地と思えてなりません。漱石に天と「私という人間」を一つに把握するというひらめきがあったのではないでしょうか。
漱石の弟子寺田寅彦は、物理学者にして随筆家=文学者として知られています。漱石は、この寅彦との交渉で(週一回の漱石山坊での木曜会以外にも、寅彦は例外的に漱石と会えました)、絶えず物理学的思考を磨き上げていたのではないでしょうか。実際、寺田によると、漱石先生は「一般科学に対しては深い興味をもっていて、特に科学の方法論的方面の話をするのを喜ばれた。文学の科学的研究方法といったような大きなテーマが先生の頭の中に絶えず動いていたことは、先生の論文や、ノートの中からも想像されるであろうと思う。しかし晩年には創作のほうが忙しくて、こうした研究の暇がなかったように見える。」(寺田寅彦「夏目漱石先生の追憶」昭和七年十二月、俳句講座[『寺田寅彦随筆集』第三巻 岩波文庫、岩波書店、平成5年2月5日]
)と述べています。晩年でも「文学の科学的研究方法」に基づいて創作に没頭していたというべきでしょう。
寺田も漱石との交流によって、物理学研究をせまい個別研究にとどまらせず、総合的研究の重要さに気づくことができたようです。この点に関して、弟子の湯本清比古は、「先生には専門の部門はなかった。強いて言えば物理学全般が先生の専門であったと見るべきだろう。最近数年来は化学の領域にまでも研究を拡められ、有機化学や膠質化学の勉強ぶりは還暦の年に近い先生とは思われなかった。先生の机の周りには生理学の書籍もあれば鉱物学の本もあり、動物発生学もあれば心理学もあり、あるいは生理植物学の本もあり、そして語学に堪能であられた先生は瞬く間にこれらの専門の書籍を見て、その内容の要点を把んで居られた。」(湯本清比古「寺田先生の瓦斯爆発の研究についての思出」『思想 寺田寅彦追悼号』岩波書店、1936年、pp.136-140[隅蔵康一「寺田物理学の形成と展開の過程」])と語っています。正確に言えば、寅彦は、物理全般、化学、生理学、動物発生学、心理学、生理植物学などの専門家であり、さらに、文学にも通じた専門家であったということになるでしょう。
この博学者寺田寅彦と漱石は、熊本で初めて出会い、俳句が二人の親交を深めます。少年寅彦は、「かねてから先生が俳人として有名なことを承知していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ発酵しかけていたから」、明治31年6月寅彦のほうから英語教師漱石を訪ねて俳句の教えを乞い、漱石はこれにこたえて、「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという」(前掲寺田寅彦「夏目漱石先生の追憶」)などと教えたのでした。漱石自身も、「五月雨の景にしろ、月夜の景にしろ、その中の主要なる部分――といふよりは中心點を讀者に示して、それで非常に面白味があるといふやうに書くのは、文學者の手際であらうとおもふ。だから長々しく敍景の筆を弄したものよりも、漢語や俳句などで、一寸一句にその中心點をつまんで書いたものに、多大の聯想をふくんだ、韻致の多いものがあるといふのは、畢竟こゝの消息だらうとおもふ。」(明治三九、一一、一『新聲』)と指摘していますから、この寅彦回想は正確のようです。
寅彦は、「先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。」(寺田寅彦「夏目漱石先生の追憶」昭和七年十二月、俳句講座[『寺田寅彦随筆集』第三巻 岩波文庫、岩波書店、平成5年2月5日])とも述べています。正岡子規の提唱する自然そのままを観察する「写生」俳句論が、早くから漱石、寅彦の科学心と呼応し、物理学的思考を身につけた二人を強く結びつけ、互いに「感応」しあう関係にしていったのでしょう。俳句という学問に通じる自然描写芸術がなければ、子規と漱石、漱石と寅彦との交流はなく、したがって漱石文学は生れず、寺田物理学も構築されていなかったでしょう。
こうしてみると、学問中の学問たる物理学の総合的思考力と、俳句などの自然観察力・感応力・表現力が、非常に重要になるのでしょう。世俗で生きるために当面必要な社会知識、語学知識、技術知識などの実用知識とは、その基礎上に一時的に付け加えられる付随的な知識であり、決して学問本髄ではないでしょう。
16、2010年2月15日 私の研究は、自然の偉大さのみならず、
素晴らしい先学(仏陀[哲学・宗教を主舞台とする博学者]、アリストテレス・プラトン[自然哲学の博学者]から安藤昌益[日本の生んだ世界的な根源的・総合的学者]、寺田寅彦[物理学の分野を主舞台とした博学者]、大石嘉一郎[地方行財政史の古典をもつ、菩薩のように無私無欲な先学])、
郷土の批判精神溢れる先学(終始一貫肩書きとか権力に距離をおいて「学問方法論」を研鑽した夏目漱石[私の住居地近隣で生まれ、住居地に下宿したり、逍遥していた])、
現在の先学(中村哲氏[明治維新を起点に古代から現代日本・アジアまで総合的にアプローチされ縦横無尽・八面六臂に大活躍されている大先学博学者]、梅原猛氏[哲学を主たる舞台とする稀有なる博学者]、鶴岡真弓氏[芸術面での個性的な博学者]、大塩武氏[経営史学だけにとどまらせておくのが誠に惜しい菩薩のように無私無欲な博学者]、野口建彦氏[ポラニー経済人類学という新領域を提示され、現在も集大成をまとめて活躍されている無私無欲な博学者]ら)
の諸著作などに触発され、学問的刺激をうけています。日々感謝の限りです。
そういう折に、私のところに長年の畏友でもある国際交流学者からある話が持ち込まれました。海外での日本研究が、不況、中国経済の躍進で年々衰退する傾向にあり、その結果、海外での日本研究は財政的に厳しい状況に追い込まれているので、何とかしようではないかということです。海外での日本研究機関、研究者は、日本の援助を求めています。日本への外国特派員・事務所が減少し始めているのも、こうした「不況下での日本の国際的地位低下」に呼応しているでしょう。私の考えは、本来国際交流とは自然にゆだねるべきであり、人為的にするものではないし、況や権力に援助を求めるなどはしてならないというものです。
困った状況を見れば、放って置けないのが性分ですから、畏友でもある国際交流学者に協力することにしました。彼は、無償で海外の日本研究を援助しています。この「大教授」ともいうべき人物の偉いところは、決して自らを「権威」とはみずに、謙虚に美談を公言することなく、むしろ善行を気づかれないようにしていることでしょう。立派な人はほそぼそとひっそりと善行を行うものです。この「大学者」からは、日本の大学教授の低水準・非学問性のみならず、外務省高官につきまとう問題など多くの国際交流上の諸問題を聞かされています。この「偉人」の無償の国際交流実践には、そういう非学問的教授・職業外交官への義憤もあるようです。
では、日本が世界に誇れるものとはなんでしょうか。経済、政治をあげる人はほとんどいないでしょう。根源的・総合的学問論に立脚すれば、縄文社会=自然社会となり、これが、今日の日本、否世界の未来への指針を考える上で大きな影響を与えることでしょうが、これを学問的根拠をもって公言できる人は先学博学梅原猛氏、筆者などをのぞけば、世界でもほとんどいないでしょう。
ですが、経済評論家・研究者、政治評論家・研究者、文芸評論家・研究者など、特定分野の特定時期の特定対象にしか通暁していない人々が、限定的判断・評価や誤審をたれている状況では、海外の日本研究機関に適正な助言などを与えることはできないでしょう。
学問的な国際交流とは、世界各国が相互に学問交流して過去・現在・未来に対して「よりただしい認識・判断」を共有することだと思います。人間の認識・判断は自然に沿う限り適正なものであり、自然に対峙したりすると、認識・判断はたちまち不適正なものとなります。論理学・数学で「客観化」を装っても、自然にそむいた認識・判断は根本的に間違っています。そういうことを教えてくれるのが自然社会であり、日本ではこの自然社会が世界で最長・典型的に存続した稀有なる国なのです。
世界に、この日本の「自然社会」の重要性、以後の富社会の特徴、問題性、その根源的・総合的打開策を発信して行くことがますます重要になってきていると思います。こうした世界における日本の役割を自覚したオピニオン雑誌『日本主義』(白陽社、丸善・紀伊国屋など全国で販売)の重要性もまたますます大きくになってゆくでしょう。
17、2010年5月9日、昨年12月に仏教経済研究所で発表してものが、5,6月ころから雑誌で発表されてゆきます。神祇統治と仏教統治との軋轢・和合という観点を導入することによって、日本史上の大事件などについていくつもの新発見がなされますが、それ以上に重要なことは、富社会の宗教は、自然社会の宗教とは異なり、富社会成立以来、一貫して、官僚機構、軍事力などとともに、明らかに権力統治手段の一部になっていたということでしょう。戦後憲法で権力の宗教利用を禁止するまで、富社会では、宗教はパワーシステムの一部になってきたということです。こういう視点もまた、「自然社会と富社会」という総合的・根源的視点があって初めて明確に把握できることです。
ホッブスは、史実考証研究などは学問ではないといいましたが、一面あたっているでしょう。歴史研究が歴史学になるには、総合的・根源的視点が不可欠だということです。古代史は古代史、中世史は中世史、近代史は近代史などと狭い縄張りに拘泥していては、「学問としての歴史研究」などはとうていなりたたないでしょう。
さて、小林秀雄は批評を文学にしたと高く評され、最高の知性を磨いたなどとされています。事実彼は「心の言葉」で文書を書きましたので、彼の愛読者は詩人から一般人まで幅広いものとなっています。愛読者ともなれば、誕生地に行ってみたくなるのは、ごく当然でしょう。この秀雄の誕生地がきしくも我が故郷です。今朝も、玄関で小冊子を手にした若者から、「小林秀雄の誕生地はどこでしょうか。これによると、この辺りなんですが」と尋ねられたものです。どうも案内書は間違えているようです。
小林秀雄は、明治35年4月11日、猿楽町3丁目3番地で生れました。父は兵庫県出石生れなので(兵庫県が多彩な人材を生み出したことについては、拙著『華族総覧』講談社、2009年)、秀雄を兵庫県生まれとするものもあります。問題は猿楽町3丁目3番地とは現在のどのあたりかですが、ある文学解説書が、猿楽町3丁目1番地あたりを3丁目3番地と誤記して以来、ほとんどの書物やサイトがこれを鵜呑みにし始めてしまいました。
ですが、明治21年、28年、44年、大正8年の「神田区」地図をみてみますと、秀雄誕生地3丁目3番地は現在の2−8−11の平田ビル脇の空き地周辺です。このあたりは、江戸時代では大身旗本の広大な屋敷でしたが、明治維新以後、数十坪から100坪くらいに分筆され、道路がつくられて、戦後も概ねそのまま横丁・区画を残しています。
今朝の若者には、「これは間違いだよ」といって、わざわざ当該地を指示できる場所まで案内したやりました。「ついでだがね、猿楽町の明大下では永井龍雄が生まれ、後に同郷同士ということもあって、秀雄と龍雄は文学的交流を深めたものだ。また、この近辺は、夏目漱石、森鴎外が逍遥したり、通過していた場所だよ。」と、付言致しました。
秀雄は、漱石とは異なって、現代の学問方法論への疑問を提起し、現代の学問方法論が物理学を規範としてそれに倣っていることに異を唱えました。彼は、終始人間には生身の血が流れていて、それは、物理学を規範とした心理学や社会学などでは決して知りえないというのです(『信ずることと考えること―講義・質疑応答
』新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 2巻など) 。法則や科学では人間はとらえられないというのです。それは一面あたっています。
ですが、既存の経済学など社会科学と称するものは、実は科学の体裁をとってはいますが、物理学を規範とした方法論を用いてはいません。この点から秀雄は間違っています。しかも、秀雄自身、青年期からフランス文学など狭い文学研究に明け暮れして、物理学はもとより、社会科学などを研究することがなかったのであり、これが彼の当然の限界となっているといえましょう。この点では、漱石の足元にも及ばないともいえるでしょう。
ただ、晩年、秀雄が本居宣長に関心を示したことは、多少は注目されるでしょう。周知の通り、宣長は、約35年を費やして『古事記』註釈本たる『古事記伝』などを執筆し、中国文明導入以前から日本にある自然精神をこそ重視すべきだと主張し、儒教などを自然に背くものと非難したからです。ただし、宣長はそういう研究を『古事記』ではなく、はるかそれ以前の縄文社会から始めるべきであったといえますが、当時の研究上からして、いたしかたなかったといえるでしょう。秀雄の限界も、おのづとこれに制約されるでしょう。
18、2010年6月6日、アメリカの駐留軍事力に関して、日米両国政府は、明らかに独立国に外国軍事力を駐留させるということの根本的誤謬に陥っています。今回の鳩山元首相の普天間問題での方針変更は、既存体制の維持に腐心する外務(驚くべきことに外務省には日米安保課なるセクションがあります)・防衛官僚の意見に動かされたのでしょう。これは、沖縄など国民の意見を裏切るものでしかありません。もし外務・防衛官僚が、「国防という大事な国策は、国民の反対などを考慮せずに決めて当然である」などと考えていれば、これこそ由々しき大問題であり、国民不在という点では戦前の軍部と変わらないといえるでしょう。民主国家において、国民の意見を無視した国防などはありえません。
独立国の本義 駐留米軍引き上げ、国連軍重視は、筆者が『維新政権の直属軍隊』(開明書院)を刊行「して以来の宿願です。
日本に外国軍隊が駐留した時期が以前一度だけありました。生麦事件で徳川幕府に統治能力無しとして、英仏両国がドサクサにまぎれて横浜居留地に海兵隊を駐留させたことです。腐敗した徳川幕府は見下されて、ついに居留地軍隊を排除できませんでしたが、維新変革で登場した明治政府は「国内に外国軍隊が駐留することは独立国の本義にあらず」という普遍的原則に立脚して、プライドをもって交渉し、遂に英仏居留地軍隊を駆逐することに成功しました。井上馨、伊藤博文、木戸孝允、岩倉具視、大久保利通らは、全員独立国のプライドと胆力をもって断固対処しました(拙著『維新政権の直属軍隊』)。
これは、独立国に外国軍隊を置くことの本質的不当性を端的に示すものです。いかなる理由であれ、独立国に国民の反対・不安をまねきつつ、外国軍隊を大量に駐留させるなどということは、ありうべからざることです。これを要求したアメリカ側の責任のみならず、これを容認した日本側政治家の責任もまた厳しく糾弾されねばならないでしょう。
アメリカの私的利益優先 また、「国民の生命を守るために日米安保が必要である」というならば、「日本の安全をアメリカという国の世界戦略という『私的利益』にゆだねることの危険のほうが大きい。一国の安全を外国の利益にゆだねることはきわめて危険である」ということに留意するべきでしょう。況や、周知の通り、前国防長官らが「在日米軍は、日本防衛のためにあるのではない」と発言しているにおいておやです。では、この米国の私的利益とは何でしょうか。
アメリカは世界戦略を構築して、アメリカの利益のために外国に多くの軍隊を駐留させています。元米統合参謀本部議長リチャード・マイヤーズは、海兵隊を常駐させておけば、「日本国内のどんな紛争にも機敏に対処でき」、「日本の防衛にかける米国の決意を示す」(平成22年7月20日付朝日新聞朝刊)とします。米軍は根本的に間違っています。日本は独立国です。その独立国の紛争に対処するとか、防衛するとか、本末転倒の議論をしています。「日本は独立国であるから、日本の紛争、防衛は自国でやりなさい。必要があれば、助勢する」、これが、独立国同士の軍事防衛条約というものです。マイヤーズは、「有事のシナリオを描くのは難しい。いま、日本に他国が侵略する事態はありうるか。可能性はあるが、確率は低い。しかし、あらゆる事態を想定せねばならない」として、海兵隊常駐根拠を導きだしますが、こういう日本への外国軍侵略防衛を考えるのは独立国日本政府の仕事であり、外国政府のやることではありません。独立国に、ここまで過剰な軍事的関与を行うには、アメリカ固有の利害計算があるからでしょう。
アメリカは、相手国国民に迷惑をかけ、駐留費一部まで負担させて、自国利益(有事では迅速な出動による自国民の保護・救済をはかり、平時では金融資本・多国籍企業の対外活動、ドル紙幣流通、軍需産業などを支えるという)をひたすらはかっています。産軍複合体の利益追求の危険はアイゼンハワー大統領も警告していたことです。利益追求第一のアメリカ(これは戦前からみられるもの。拙著『日本外債史論』、『国際財政金融家 高橋是清』)が、ボランテイアで「軍事の世界展開」をはかっている思う人などいるのでしょうか。元沖縄海兵隊員みずから、「沖縄の海兵隊員は、誰も沖縄、日本の防衛などは考えていません」(平成22年6月23日日本テレビ夕方ニュース)と発言していたように、在日米軍はあくまでアメリカ第一の軍隊です。そもそもアメリカの利益の割合はどれくらいかなどを測定することはあまり重要ではなく、アメリカの軍事力の世界的展開が「アメリカ利益」のためになされていることを確認すれば充分です。だからこそ、世界の安全をアメリカ一国の利益にゆだねる事は極めて危険なのです。
現在の米国は、長い間産軍複合体の利益追求してきたことから武器水準はきわめて高いですが、双子の赤字をもち、国内経済が不振であり、世界中に敵が多く、絶えず戦争を展開しなければ景気維持できない如き危険諸問題をもっているともいわれます。
よくある議論は、日本は「アメリカ駐留軍のおかげで軍事費を抑えられて、経済発展できた」というものがあります。これには、@資本主義の経済発展は軍需工業によることもあり、アメリカからして軍事費支出はGDPの一定部分を占めているし、外国軍隊駐留無い国でも経済発展していること、Aそれでも日本は巨額公債を累積させていることなどを指摘すれば、この考えの誤謬性・無根拠性は十分でしょう。「アメリカの軍事力のおかげで、日本の経済発展があった」などということは、根拠は非常に希薄なのです。また在日軍事力がアジア平和に不可欠であるという議論もありますが、これなども又根拠のないことであり、アジア安保はアジア諸国の軍事力を基本として行わなければ成らないことは火を見るより明らかであることを指摘すれば充分でしょう。
中国海軍、中台問題、北朝鮮問題などをあげて、駐留米軍を正当化する議論もあります。中国は日本の友好国です。潜在的にも顕在的にも敵ではありません。中国との成熟した平和交流、中国・台湾の成熟した対話、それを支えるアジア諸国の真剣なる議論の積み重ねで、これなどは危機ではありません。北朝鮮問題も、偶発的事故を過大に見るべきではなく、これまた韓国・北朝鮮の対話、それを支えるアジア諸国の真剣なる議論の積み重ねで対処できます。外国軍を東アジアに駐留させる根拠にはなりません。仮に暫定的にアメリカの力に依存する必要が生じ、「政治的決定には代償を伴う」(五百旗頭真氏発言[2010年8月12日付朝日新聞])としても、それはなんら外国軍駐留の根拠にはなりません。独立国は独立国の原理原則を遵守しなければなりません。
駐留米軍が「公共財」・「インフラ」などという者もいますが、私的利益優先の軍事力、しかも国民に迷惑を与えて反対されているものが「公共財」・「インフラ」などになれるわけはありません。国民が忌避する外国軍事力が「公共財」・「インフラ」などとは全くありえないことです。アジアでベトナム戦争を始め、ベトナムに敗北したのは、一体どこの国でしたでしょうか。現在、イラク、アフガンで戦争して、一般市民を誤爆とはいえ、殺傷しているのは、いったいどこの国でしょうか。原子爆弾を使用した太平洋戦争に反省することなく、いまだに戦争を行っている国は一体どこでしょうか。アメリカは、一般市民を大量に殺傷することがわかっていながら、原子爆弾を投下した愚かな軍事的誤判断を真剣に反省することなく、戦争をし続けるという国だからこそ、いまだに市民への誤爆可能性ある爆撃などをしているのでしょう。アメリカ駐留軍が公共財・インフラなどということは、無知蒙昧の最たるものであり、後世の笑い種になることはまず間違いないでしょう。
こういう米軍を駐在させている日本政府、及び米軍の私的利益などを報道しない日本マスコミや外交・国際政治研究者の責任は重大です。日本のマスコミは日米関係を損なうことはいけないことだという基調で一面的な報道をして、在日米軍が米国私的利益優位のもとに駐留しているという重要な真実を報道していないといえます。
アメリカの義務 アメリカは、戦争占領終了後に占領軍をひきあげるべきであったのに、そのまま独立国に「外国軍隊」として駐留し続けましたが、これは、いかなる理由があるにせよ、根本的な誤りであります。従って、アメリカには、この「独立国に過度に軍隊を駐留させるという状態」を是正して、アジアにアジア固有の安全保障条約を樹立する義務があるでしょう。米軍が日本から撤退し、日本は、中国、ロシア、韓国、アセアン、オーストラリアなどと新しい地域安保条約を締結するべき時期に直面したようです。アメリカは、こうした東アジア安全保障条約を推進する義務があります。
もちろん、こういう外国軍事基地の存在を是認してきた当時の日本政府の責任も厳しく問われねばならないでしょう。
19、2010年6月13日、現在の日本は深刻な財政危機に直面しています。権力が誕生して以来、国家財政というものが登場します。現在の『財政学』とは、絶対王政の官房学から出発したとされていますが、厳密には権力の物質的基礎たる富、それを育成する権力統治の「経済学」、その富の収奪・分配に関する「財政学」は、国家の誕生以来あるのです。絶対主義よりはるか以前からあるものなのです。
だから、市民運動家にとっては、不幸の最小化が課題であれ、権力統治の経済学、権力統治の財政、権力宗教などとは無縁でしょう。市民活動家的観点から権力統治の経済学を批判すれば、それは人間経済学、生活経済学、経済人類学あるいは仏教経済学などとなるでしょう。いずれこの詳細は公表しますが、私は、古今東西、数千年の歴史的視野を踏まえてみるならば、人間経済学、生活経済学、経済人類学あるいは仏教経済学などではなく、「自然経済学」こそが人類にとっての「最善の経済学」だという結論に到達しています。
こういう観点から、財政再建・経済再建などを瞥見すると、どうなるでしょうか。
歳出超過 古代財政から近代財政(拙著『日本経済史論』、『国際財政金融家 高橋是清』、『日本外債史論』)をみていえることは、一時的に安定財政期はあったものの、ほぼ一貫して国家財政は歳出超過であったということです。
富社会では、一時的に財政危機を克服しえても、それを持続することはできません。健全財政を持続した国などは、古今東西一つもありません。歴史が証明しています。歴史に学べば、「強い財政」などという愚かな指摘はでてきません。
経費膨張 それはなぜでしょうか。国家の歳出は、「自動的」に増加する本源的傾向があり、戦争などの非常事態や富国強兵などの特定政策が随伴すると飛躍的に経費は増大するからです。
歳入は、天変地異・経済状況などで一定していないにもかかわらず、軍事費・官僚給与などの固定費以外に多様経費の計上を余儀なくされるからです。その結果、天変地異・経済状況などで歳入減少の際には、歳入順調時には不調時を想定できずに、それが今後も持続するものとして目一杯経費を計上するから、一挙に財政危機が顕在化します。
経費は際限なく膨張する傾向をもつのです。よく「帝国主義財政の経費膨張の必然性」など「最近の情勢と経費膨張の必然性」ということがいわれますが、経費膨張は権力誕生以来その時々の種々の理由でつきまとっていたことです。例えば、古代王族増加でこの負担が大きくなると、この定員化が打ち出されてきます。『三代実録』によりますと、貞観12年(870年)2月20日、公卿は、諸王季祿を減じ、兼給祿定額を立てることを奏請します。まず、字民・経国の方法が守株(旧慣踏襲して時勢に応じた処置のできないこと)、復膠柱(琴柱を膠づけにして、音調をかえることができなくし、融通がきかなくなること)にはないとします。財政危機に柔軟に対処せよというのです。そこで、国庫は空であるにもかかわらず、王族の著増で財政危機を深刻化するので、王族429人定員化を説きました。さらに、凶作で歳入不足の中で天皇は節約し、臣下は削禄しているから、王族定員化による負担削減は当然とします。財政危機に対して、こうして経費節減が打ち出されることは、古今東西広くみられることでしょう。
「強さ」の欺瞞 これはどういうことを意味しているでしょうか。消費税など増税で対処しようとすることは、抜本的対策ではないということです。増税しても財政危機の根本的解決にはならないということです。歴史は、増税で国民はますます疲弊してゆくことを示しています。
増税による歳入増加は、「財政不足規模」を拡大するだけでしょう。民主党のブレーンと称する者が、強い財政をつくり(経費削減、増税)、強い成長を実現し(政府支出を環境、介護・社会保障などに振り向ける)、強い社会保障を実現するという「第三の道」があるなどいっています。ですが、これを報道したアナウンサー(平成22年6月9日テレビ東京夕方)が、「うまい話には問題がある」、「そう簡単にいけるのか」と疑問を呈していましたが、その通りでしょう。第一の道(公共投資の高度成長)、第二の道(小泉構造改革路線)に対して第三の道というのですが、第一の道も第二の道も「専門馬鹿」の作ったものであり、いずれも行き詰まっていることを考えれば、第三の道も行き詰まるのは目に見えているというべきでしょう。
増税を介護部門などに投入して雇用が増加すれば消費増加し、ここに経済成長が実現するなどということはありえません。増税による特定部門の消費増加以上に、増税による多くの分野での雇用者の消費減退の作用が大きく起こるからです。ケインズの有効需要理論以来、数式を利用する近代経済学は「問題の一時的緩和」、「新たな問題の醸成」の連鎖を引き起こすだけです。
管直人首相は、政府の不正、理不尽を追及し、それを糺して、「最小不幸」にする事を使命にしてきた立派な尊敬すべき市民活動家です。心はピュアな人でしょう。既存経済学とは無縁な存在だったでしょう。ですが、首相になれば、「経済政策は最小不幸にすること」だけではすまされないのでしょう。経済無策の首相などという批判を浴びる事を避けるために、この経済ブレーンの「提言」を受け入れたのでしょう。
ならば、市民活動家菅氏は、経済しか知らない「専門馬鹿」の「経済研究者」ではなく、健全な普通の国民の意見を聞きながら、財政・経済政策をつくるべきであったでしょう。ごく一部の「せまい専門家」の意見を「鵜呑み」にするべきではなかったでしょう。若し失敗したときに、その専門家は責任をとるのでしょうか。財政、経済では、狭い専門家よりも、ごく普通の生活人の方がはるかに健全な意見をもっています。
歴史的に見て、「強い経済」・「強い財政」・「強い社会保障」などを実現し、持続した国などはありません。「第三の道」などはありません。富社会では、そういうことはありえないのです。市民活動家が、ありえない事を掲げて首相「役」を勤めざるを得ないこと、これは明らかに「悲劇」でしょう。
成長概念の転換 経済の成長は、資源枯渇、賃金上昇、物価上昇などの「弊害」をともないます。現在の日本の「デフレ不況」は「成長による賃金、物価の顕著な増加」の調整を要因としています。要するに、他の国に比べて、給与水準、物価水準が高すぎるものとなったのです。途上国に比べて数倍の所得、物価ということは「異常」なのであり、経済成長とは「異常」の随伴ということでもあるのです。現在の中国の「高度成長」は内部に多くの矛盾・ひずみを孕んでいて、いずれ頓挫します。成長は必ず頓挫するのです。これは歴史が教えています。
雇用創出による生活安定などいうことも良くいわれます。雇用とは「雇われる」事を前提としています。ならば、発想を転換して、国民全員が雇う側になり、サラリーマンとか公務員ではなく、独立営業者として企業(ここから株式を購入する)・国家(ここから公債を購入する。公債は償却すれば、二度と発行すべきでは有りませんが)と契約を結んだり、或いは、起業家として活躍し、時に地方経済の活性化に従事することにすればどうでしょう。これには、青年が小売店、製造業、農業、漁業などを自立的に経営できるように、地域社会が応援することも必要でしょう。成長それ自体などは、もうどうでもいいでしょう。地域で、家族・友人・知人が普通に楽しく生活すること、それ以上に何が必要でしょうか。
抜本的政策 歳入・歳出面でもはや革命的政策が必要でしょう。
歳入面での抜本的政策とは、「富と権力」が誕生して以来、それを当然視してきた税金徴収を廃止することです。税金とは、古今東西、前近代的形態であれ、近代的形態(議会による租税協賛)であれ、基本的には権力が国民の富を経済外強制・法律などによって強制的に徴奪するものです。シュンペーター『租税国家の危機』(木村元一・小谷義次訳、岩波書店、1983年)が近代国家の本質が租税国家であるとして以来、租税が歳入の大半を占めることが近代国家であるという謬見が蔓延してしまいました。これは、歴史的分析も弱く、総合的把握も無い事によるものであり、、きわめて皮相的な見方といえるでしょう。
こうした権力による国民収奪は廃止するべきでしょう。確かに租税には所得再配分やビルトイン・スタビライザーの機能が全く無いわけではありませんでしたが、もはやそれも十分効果を上げ得ないことがはっきりしています。従って、この権力の租税賦課権の乱用で、国民は多大な迷惑をうけてきたのですから、も租税はう廃止すべきでしょう。税金廃止といえば、松下電器の創業者松下幸之助氏が1978年に無税国家構想を提唱したことが想起されます。彼は、政治と行政の効率化を進め、国家予算の単年度主義を廃止して毎年5兆円程度の剰余金を積み立てれば、21世紀末には積立剰余金の運用益だけで日本財政を賄うことができ、税金徴収の必要がなくなると予言したのでした。当時の日本は高度成長期でしたたから、巨額の自然増収があり、毎年5兆円積み立ても十分可能であったのでしょう。この松下の提唱は斎藤精一郎責任監修『日本再編計画――無税国家への道』(PHP研究所、1996年)に受け継がれました。ここでは、「州府制(47都道府県を12州に、3000余の市町村を257府に改編)」や中央省庁の「5庁制」の導入、国税と地域税の税源転換、郵政3事業の民営化など7つの提言が掲げられ、2020年には所得税ゼロも可能だとしています。無税論が所得税ゼロに矮小化しています。
ですが、租税を廃止しても、国民の負担がゼロということはありえないでしょう。生活を共同で維持するために、国民の負担は必要ですが、問題はまずもって肝要なことは歳出の無駄の根を根源的にたつことです。二度と国民の労働成果がいささかも無駄に浪費されない前提を構造的に構築することです。そのための一法が、税金や諸立法・行政機関などをいったん廃止し、これに応じて歳出もまたいったん全て廃止することでしょう。権力が誕生して以来、権力は民衆から収奪して税金・労役を支配・収奪機構維持に投入し、これを支える軍人・官僚が大きな財政負担となってきました。今でも、役人は基本的には国民に奉仕する「公僕」とはいいつつも、現象的には権力から給与を受け取り、権力を支える存在になっています。役人の給料は国民が直接支給し、役人が忠勤をつとめるべき対象が、権力ではなく、国民であるということを名実共に示すことでしょう。
その上で、改めて歳出面での抜本的改革が必要となるでしょう。それは従来の国会による予算承認・官省による国費支出というシステムを廃止して、、基本的にはインターネットで可能となる国民会議(国民全員がボランティア国会議員、18歳以上か20歳以上にするかも、ネット国民投票で決定)を構築し、そのもとにボランティアによる各種国民会議(国防国民会議、治安国民会議、社会保障国民会議、年金国民会議、教育国民会議など)・都道府県市町村会議(効率性からする道州制は意味ない)を設置し、その傘下にボランティアの執行機関を付設し、その上で必要なもののみを基金(国防基金、治安基金、社会保障基金、年金基金、教育基金、減債基金など)として国民負担として徴収するのです。それは国民に奉仕する執行機関ですから、それの担い手はは自づとボランティア役人となるでしょう。もはや役人は、権力者や権力を維持するために存在するのではなく、国民の生活を維持するために存在するものに生まれ変わるでしょう。
こういう高い理想を持った人材を少年時代からの教育でしっかりと育成することも重要でしょう。自分たち一人一人が国や国民の生活を支えるという共生意識・方法などをしっかりと教え込むのです。ここでは、天下りなどで私財を蓄えるとかは一切おこりようがありませんし、一人一人の国民が国を構成するという、志の高い、生き生きとした、躍動感溢れる国が登場するでしょう。経済成長が目標ではなく、あくまでは経済成長は手段に過ぎず、喜び・充実感が成長力の源泉となるでしょう。経済成長は生活の基盤をつくる手段であって、それ自体が目的になるということは、本末転倒というべきでしょう。現在世界経済が行き詰まる状況下で、いくつもの成長論が頓挫し続けて、早晩こういう認識が国際的にも生じるでしょう。
新しい国民国家の登場 ここに、総国民一人一人からなる、真の国民国家が登場します。国民一人一人が国家であり、全てが国家を背負い代表します。これによって、一部の政治家により反国民的なる外交密約、公金不適使用、不適政策遂行などの生じる余地は全くなくなります。
この新しい国民国家の登場で、従来の現実の経費膨張・財政危機にほとんど無力であった権力維持策たる財政学、学問の名に値しない財政学はもとより、「問題を次々と作り、それを解決すると称して政治を執り続けるという不要な悪循環政治」、「権力闘争が大半をしめる政治」をもまた排除することができますし、基本的には「無能なリーダー」などに自分たちの将来を賭けるリスクを回避することができます。社会が平穏に機能していれば、国民総意の自治が円滑に機能して、基本的には政治も強い政治的リーダーなども必要ありません。もちろん二大政党制なども必要ないでしょう。価値観が多様化してきていますから、こうした人間の多様な価値観を体現する政党が存立する根拠はもはやなくなるでしょう。国民一人一人が国家・地域を代表するという高い意識が自然に身につくでしょう。こうして、数千年間人類に多大な迷惑をかけ続けてきた「政治というもの」、「政党政治という民主的発展とはいいつも、所詮は経済的・政治的支配階級が掌握する権力政治でしかないもの」が、ここに終止符を打たれることになるのです。「政治学」などという、多くが目先の時事論に近い「胡散臭い学問」も消え去るでしょう。
権力政治などなくても、国民は本当に必要な資金は進んで拠出します。一部の者だけしか必要と認めないようなものは、担当者が必死に広く国民に訴えても受け入れられなければ、排除されてゆくでしょう。シヴィアな国民が、それに意義を見出さなければ、国民は進んで資金を拠出しないでしょう。それでも必要と思うなら、国民の資金に頼らずNPOとか自費でやればいいでしょう。もはや事業仕分けは議員などに任せる必要は無く、本来的に事業仕分け権限を持つ国民が無報酬で直接するということです。
私は、「国民は本当に必要な資金は進んで拠出」するということを実際に確認しています。それは自発的資金か、NHKの視聴料のごとく、内容を納得して払うものとなるでしょう。そうすれば、税金徴収機構、税金徴収公務員、税金国会、税金支出官僚機構などは不要となり、膨大な費用が節減されます。税金の公務員人件費充当、無駄使いはもはや一切起こりません。無駄の無い、ボランティア社会の始まりです。
詳細は、いずれ公表しますが、こうした抜本的対策に踏み出すには大きな勇気が必要でしょう。おそらく財政危機が深刻化して「国家破産」して、ゆきつくところまでゆかなければ、踏み出すことはできないかもしれません。国民の7割が消費税増税に賛成しているのは、子供達の世代にこの「国家破産」を遺したくないという「親心」でしょう。決して、権力に協力しようなどというのではありませんし、国民が消費税に順応してきたとか、その負担能力の準備が整ったなどということではありません。
政治家は、直接国民生活にかかわる政策を打ち出すので、学者たる者は、これに無関心であってはならないでしょう。だが、世界で唯一の学者である私にすれば、学問するのに忙しいので、政治家はもっと歴史に学んで、しっかり勉強して政策立案して「国民不幸最小化」を図ってもらいたいものです。
20、2010年7月23日、日本と西洋の学問方法論はどうむ違うようです。せは、両者の根本的相違とはなんでしょうか。私は、日本のみならず、世界も対象にしていますので、40年来この問題を考え続けています。
最近思うことは、現在の学問の原点的位置をどこにとるのか、これが、日本と西洋の学問論の根源的相違の一つではないかということです。日本の学問の原点的に位置にあるのが「自然社会」とすれば、西洋の学問の原点的位置にあるのが、ギリシャ・ローマの古典古代時代ということになるでしょう。
前者の自然社会は、大館生れの偉人安藤昌益によって端緒的に指摘され、私が本格的に展開しているものであり、これは今後の世界人類を救うことになる重要な論点になるでしょう。
後者の西洋学問方法論の代表の一人がジャンバッティスタ・ヴィ−コ(1668−1744年)でしょう。ヴィ−コは、1709年ナポリで「われらの時代の学問方法について」(上村忠男等訳『学問の方法』岩波文庫、1987年)で、古代ギリシャの方法(クリティカとトポス)によって当時のヨーロッパ学問の基軸たるデカルト的方法を批判しました。ヴィコーは、彼の時代の学問に関して「知識の確実性を求めて(数学的)方法の研磨に励めば励むほど、その一方で学問の生に対する有意味性が見失われてゆく」(同書、解説)ものと鋭く批判したのです。しかし、ヴィーコはそこにとどまり、古代ギリシャの先にあるものまで辿りつく事はできませんでした。
ルソー ジャン・ジャック・ルソー(1712−1778年)は、ルネサンス以降の学問・文化の腐敗を指摘し、先駆的に「自然状態」の重要性を指摘していますが(『学問・芸術論』、『人間不平等起原論』、平岡昇編『世界の名著』ルソー、中央公論社、昭和50年)、彼の「自然状態」論は筆者のように体系的に論じるものとは程遠いものです。
しかも、ルソーの自然社会の基本的認識は不十分なために、自然法の把握も皮相的なものになっているといえるでしょう。例えば、ルソーは、当時の自然法学者ビュルラマキ(1694−1748年)の『自然法の原理』(1747年刊)から、「法の観念、いわんや自然法の観念は、明らかに人間の本性(自然)に関する観念」であり、「人間のこの本性そのもの、人間の構造とその状態とから、この学問(法学)のさまざまな原理を演繹しなければならない」という説を引用します(114頁)。引用する以上、ルソーはこれに賛成しているのでしょう。
ですが、この自然法とは、富社会の私有財産、その主体たる人権(身体・生命)を不可侵な自然権として王権、専制権力に認めさせるために作り出した法思想であり、あらゆる時代を通じて全ての社会が良心を以って普遍的に守るべきものとし、実定法を超越しているとされたものです。これは、国家が制定する実定法に先立って人間社会を自ずと成り立たせていると想定して案出した考えであり、一種のフィクションです。これは、古代からヨーロッパ文明の中心をなし、中世ではキリスト教神学の前提に依拠してキリスト教理念を人間社会の規範として説くためのものになり、富社会の秩序の正当化に用いられる傾向を強めました。近代には、英国のジョン・ロックによって個人の自然権として再解釈され社会契約説の根拠となりました。しかし、ナポレオン戦争で開幕した19世紀以降、各国では国家主義、功利主義が全盛になり、自然法は急速に衰退しました。まさに、自然法とは、富社会が、自己の都合で作り、操作したものであり、自然社会で支配していた法などではないのです。権力と富のない自然社会には倫理はあったとしても、もともと法などは必要ないのであります。
この意味では、ルソーは自然社会の知識がなかったゆえに、なおのこと自然法の意義と限界に気付くことはなかったといえましょう。それでもなお、ルソーの着眼点は適確であり(『人間不平等起原論』)、西欧の学者の中で、学問起点として「自然社会」に目を向けたのは彼がほとんど唯一ではないでしょうか。なお、ルソーとヴィーコの関わりは不明ですが、今後究明されねばならない課題の一つでしょう。
デカルト ルネ・デカルト(1596−1650年)は、『方法序説』で「理性を正しく導き、諸科学において真理を求めるための方法」を考察しました。彼は、諸学の中で数学の証明法が確実な真理を求める方法だとして、近代ヨーロッパ諸科学を展開していきました。
このデカルト的方法への根源的批判は東洋的思想によってこそよくなしうるのですが、西欧のなかでもこれを批判する者がいたことは大いに注目されます。その一人がヴィーコです。
ベーコン また、ヴィーコは、「フランシス・ベイコンは、珠玉の小冊子『学問の進歩』において、人間の知恵をあらゆる面で完全なものとするために、我々がこれまで獲得しているものに加えて、新しい諸学芸を指摘し、さらに我々が獲得しているものをどの程度まで発展させるべきであるのか、について述べている」(13頁)と、ベーコンを評価します。
ですが、彼は、ベーコンは「最も絶対的な知恵に到達するためには、われわれに必然的に何が欠落しているかということを示し」、「人間に知られるべく容認されていることはすべて、人間自身と同じく、有限であり不完全である」として、「芸文の分野(「文字で書かれた知識一般」)」で「自然によって禁止されていることを無益にも企てようとした」と批判します。
ヴィーコもまた、人知の有限性・不完全性を明確に把握していましたが、彼は「自然によって禁止されていること」を無益に企てることはしなかったのです。
古代と現代との「芸文の利得と損失」比較 ヴィーコは、「古代人たちにはまったく知られていなかった多くのことが、われわれに顕わにされ、かつ我々には全く知られていない多くのことが、古代人には知られていた」ので、「芸文の利得と損失とを両側において秤量するとすれば、我々の値は古代人の値とおそらく同じになるだろう」(14頁)とします。
だが、古代人も現代人も実際には「進歩」などはないとずるかです。「われわれには、芸文のある分野において貢献できるための能力が多数ある」が、「彼ら(古代人)には、別の分野で貢献できるための多くの能力があ」り、「彼らはみな、我々がほとんど省みようとしないいくつかの種類の技芸にうちこんでいたのであり、われわれは彼らが明らかに軽侮していたものごとに打ち込んでいる」(15頁)のです。
古代と現代との学問方法の比較 ヴィーコは、「学問方法において、われわれのものと古代人のもの、いずれがより正しくよりよいであろうか」(15頁)と問題提起します。
ヴィーコは、「あらゆる学問方法は一般に三つの事柄(道具、補助手段、目的=真理)から成り立ってい」て、道具とは、「すべての学芸に共通の道具」たる「新しいクリティカ」(「真理について述べる弁論の技法」30頁)であり、具体的には「幾何学の道具」たる解析、「自然学の道具」たる「新しい機械学[力学]」(ガリレイ『新科学論議』1638年、ニュートン『自然哲学の数学的諸原理』1687年)、医学の道具たるスパルギリカ(薬剤学)、解剖学の道具たる顕微鏡、天文学の道具たる望遠鏡、地理学の道具たる羅針盤であるとします。
この「新しいクリティカ」とはデカルトの方法であり、古いクリティカとは、ギリシャの方法です。キケロは、『トピカ』の中で、論理学は判断の技法であり、トピカは「発見もしくは着想の技法」(「言葉豊かに述べる弁論の技法」30頁)としました。ヴィーコは、『イタリア人の太古の知恵』(1710年)で、「知覚の能力はトピカによって、判断の能力はクリティカによって、そして最後に推論の能力はメトドゥスによって」(前掲書の注、154頁)いるとし、「近代人の知的営為を古代ギリシャ以来の伝統的学問の枠組み」(155頁)で解釈します。そして、彼は、アリストテレス『二コマコス倫理学』同様に、「人間に関することがらの世界は不確実で、恒常性を欠いた蓋然性の世界であるから」、「状況の変化に自在に適合してゆくことのできる柔軟なレスボスの定規」=「賢慮」が必要とします(訳者解説、224頁)。
こういうことは、本物の学問をしていれば、自然に身につくものであり、方法は根源的で、かつ柔軟で多様で総合的であればあるほどよいでしょう。
新学問方法の利点 デカルトは、「あなたが疑うときですら確実であろう、かの第一真理をわれわれに提供している」とし、これによって、「すべての新アカデミア学派(「絶対的な意味の規準を為す者は何一つない」とする懐疑論)を打倒した」とされ、「解析は、その方法の驚くべき容易さによって、古代人によっては解き得なかった幾何学的問題を解いている」のであるとします。
だが、ヴィーコは、「デカルトの第一真理は、単に存在していることの意識を告げているだけであり、いかなる知識論的内容を持つものではない」(156頁)と批判します。
その一方で、化学による医学の進歩、顕微鏡による解剖学の進歩、望遠鏡による天文学の進歩、海洋コンパスによる航海の発展、そして「幾何学と自然学によって進歩させられた機械学は、とてつもなく多くの、きわめて驚くべき発見によって人間社会を富ましてきた」(23頁)とします。
「新しいクリティカの不都合」 ヴィーコは、「今日学習をクリティカから始める」ことは、@「共通感覚(常識)」は「第一真理」ではなく、「真らしい」「第二次真理」から生まれること、Aこの共通感覚は「賢慮の規準」のみならず「雄弁の規準」を歪める危険があること、Bこの共通感覚は「想像力、記憶力、或いは両者が関係する諸技芸」を虚弱にすることなどの不都合があるとします(27頁)。この点、古代では、幾何学という論理学で、「自然の向かうところに心を傾けていた」とします(28頁)。
さらに、ヴィーコの同時代人は、「ある事物について、その中にどんな真理が存在するのかを見出せるように教えれば十分であり、またトピカを何ら教えなくとも、真理の同じ規準そのものによって、周囲の真らしいものごとを見ている」(29頁)として、クリティカを重視し、トピカを軽視します。これに対して、ヴィーコは、「クリティカがわれわれを真実を述べるようにさせてくれるように、トピカはわれわれを言葉豊かにする」(33頁)、「トピカ主義者はしばしば虚偽を捕らえてしまうし、クリティカ主義者は真らしいものを取り上げようとはしないから」「どちらの論述の方法も欠点をもつ」(35頁)として、いずれの欠点を回避されるようにするべきだとします。つまり、まず「トピカのトポス(論点のありどころ)を豊富にし、そしてその間に賢慮と雄弁のための共通感覚を増大させ、想像力とか記憶力を鍛えて、これらの知性の能力によって支えられている諸技芸のために準備すべきであ」り、次いで、「クリティカを学び」「新たに彼ら自身の判断力によって正しく判断すべき」(35頁)とします。
幾何学方法の不都合 ヴィ−コは、「幾何学的方法の力によって真理として引き出された自然学のことがらは単に真らしいだけのことであり、また幾何学から確かに方法は得ているにしても、証明を得ているわけではない」、「もしかりに、我々が自然学的事柄を証明できるとしたら、我々は(それらを)作っている」(40頁)と、幾何学的方法の限界を指摘します。
彼は、人間は自然をつくることはできず、神のみが自然を造れるとします。だから、彼によれば、「事物の本性を形づくる真の形相はただ至善至高の神の中にのみ存在しているから」、「もしかりに、我々が自然学的ことがらを証明できるとしたら、我々は(それらを)作っている」事になってしまう」(41頁)とします。数学的自然学とは、数式で人間がつくりだしたものにすぎないのであります。そして、彼は、「古代人はこの研究を、不敬虔にも幸福に関して神々と対抗しようとして遂行した」が、「我々は人間の高慢さを抑制するために研究を行って、古代人を凌駕しよう」とします。
このヴィーコの「自然学に対する数式的限界」の指摘は適確であり、現在の数式的「経済学」の限界を知るうえでも有益でありましょう。
幾何と代数 古代ギリシャの幾何学は、「問題を解かれたものと前提して推論を進め、その最後の帰結としてある既知のものに到達する方法」であり、代数分析とは1591年『解析法序説』(フランソワ・ヴィエト)によって始められ、「未知の量をも既知と前提して(ある量をxと置く手順である)、方程式を立て、式の変形規則を用いて最後に未知量を導き出す」ものです(訳注、167頁)。
さらに、ヴィーコは、幾何と代数解析の相違について、「幾何学は知性を驚くべき速さではたらかせ、あたかもアルファベットを通覧するかのようのように、・・・図形に関して並外れた力を授ける」が、「解析は・・・求める方程式がひょっとすると得られるのではないかと期待しつつ、その計算を行ってしまう」(46頁)とします。
そして、機械学と解析との関係について、ヴィーコは、「解析の規則にしたがってすべてを計算」して建造した船舶は座礁転覆し、「数学に沿った精確な耳の慰み(音楽)が心を引かない」(49頁)とします。だから、彼は、「最近機械学を発展させた人々」は、「解析を使ってというよりも、むしろ幾何学の力自体、および彼らの創造力の豊かさによってそうしたのではないか」(49頁)と見て、「数学においては、・・記号によってではなく、図形によって、青年は教育されることがくれぐれも必要」(50頁)と、代数よりう幾何を推奨するのです。これは、彼の友人パオロ・マッティア・ドリア(1662−1746年)が「熱烈な古典的総合幾何学擁護者」(訳者解説、218頁)であったことも関係があるでしょう。
この代数学はニュートン、ライプニッツによって微分積分学として展開させられ、近代経済学にも導入されます。この代数学が、人間も自然の一部として天地の物理的法則を究明する限りは何ら問題はありませんでしたが、人間が自然に働きかけ、物理的法則に反する行為をして炭酸ガス排出、自然破壊するに及んで、人類破滅という危機的事態をもたらすに至ってゆくといえます。こういうことへの批判の萌芽が、ヴィーコにもあったということでしょう。これに関する限りは、彼には先見の明があったというべきでしょう。
法賢慮 ヴィーコは、ギリシャ人の法賢慮について、「哲学者たちが法の哲学、すなわち、国家に関する理論、正義と法律に関する理論を教え、・・・ギリシャ人の下にあっては法賢慮は哲学者たちの知識とプラグマティコス(弁論家補佐人)たちの歴史と弁論家たちの能力のうちに内包されていたために、彼らの元にあっては哲学書は無数にあり、弁論に関する書物も多数あったが、法を論じた書物は一冊も存在しなかった」(91−2頁)とし、ローマ人の法賢慮に関しては、「ローマ人の哲学者たちも、一切の知恵を専ら法律に通じていることのうちに置き・・英雄時代の知恵をそのまま純粋に保持していた」(92頁)とします。そして、ローマ人は、「真実の、うわべだけではない哲学の信奉者として、・・・文武両方の官職に誠心誠意献身する中ですっかり身につけ」(93頁)たのであります。
だが、貴族は、この法賢慮を「権力の奥義」として用い、「神聖法(卜占の法)、公法(宣戦布告と和平に関する法)、私法(訴訟の諸方式)」からなる法の賢慮を「神事と人事の知識」と定義して、「貴族たちだけが法賢慮を何か神秘なる物であるかのようにして保管」(94頁)しました。そして、貴族らは、「彼らの権力の奥義を法律の神聖不可侵性によっていっそう神聖不可侵なものにしようとして、法律の文言をきわめて厳密に遵守」(95頁)しました。そして、ヴィーコは、「市民たちが法律をあたかも未知の神性のようにして遵守する国家こそは最も幸福な国家」(96頁)とみますから、この貴族の法律による国家秩序維持を肯定します。「法律はどのような場合にも厳格そのものであ」(97頁)り、「古代の法学者たちは現代の法学者たちのように法律を事実に適合させるのではなく、法律に事実を適合させていた」(98頁)のです。
ローマの法学者は「王の法」をも主張し、「軍事と権力の秘密」とは専制的な王のみが「統治の手腕」(100頁)を発揮すると見ていました。
ですが、@当時は、「裁判官は・・・私法の絶対的な仲裁人」であり、古代と異なり「今日ではすべてが仲裁採決」であり(105頁)、A「法賢慮は買っては正義の知識であったものが、今日では衡平の技術」(108頁)であり、B現在「政体が変化したのにともなって法賢慮の秘密が変化するとともに、法律も変化し、法賢慮のあり方も変化し、法学者も、弁論家も、政務官も、裁判も、すべてが別のものとなってしまった」(110頁)のであります。
ヴィーコは、富社会の権力構造を歴史的に分析することなく、法賢慮について古代と現代とで「学びかた」における利点・不都合が異なるとしました。これによると、@古代では、「哲学者の知識」と「弁論家の能力」が分割されていたが、今日では両者が融合され、「どのような法が訴訟に役立ち、「勝利するのに役に立つ事実状況をより鋭く見つけ出」すという利点があったが、同時に法賢慮が「哲学によって確固たる者とされる度合いも少なくなっている」という「不都合」が生じていること、A現在は「法の問題において衡平を維持するために今日ではさほどの雄弁を必要としない」という利点があるが、同時に「法律の例外扱い」にして訴訟を回避するために「法律の欠点」・「立法者の軽率」を暴くという「不都合」がること、B今日「私的な事柄に関してより寛容にふるま」い「衡平の実現を期」すという利点があるが、「法のより厳密な遵守者」でなくなるという「不都合」が生じていること、C今日では「私法から始めて公法を取り扱う」ようになり、「国事に損害を与えるようなことはほとんどないような事柄のなかで、まずは自らを試すことができる」という利点があるが、古代ローマ人のように「国家の安寧こそがあらゆる法律の女王」として公法を優先するということが失われるという不都合があること、D今日「法学者と弁論家の権限」が「統一」されるという利点があったが、同時に「神学者と教会法学者が神聖法を、君主の神聖不可侵の顧問官たちが公法を、そして法学者たちはただ私法だけを扱」うという「分裂」という不都合が生じていること、E今日法律が無数につくられ「それらの大半は極とるにたらぬもの」として軽視されるという不都合があること(110−117頁)などとなるでしょう。
13世紀アックルシウスはローマ法を「我々の時代に合うようにじつに賢明な仕方で解釈」すると言う利点をもったが、同時に「ローマの私的なことがらをわれわれのそれらに適応させようとし」、「法律解釈の中で再び事実に関する無数の種を作り出した」という不都合をもつとしました(118−9頁)。
16世紀アンドレ・アルチャートが登場し、ローマ市民法を「ラテン語およびギリシャ語の力とローマ史についての博識とによってローマ法にかてつの輝きを取り戻させた」という利点をもつが、同時に、「ローマ人に彼らの法律を返してや」り、「われわれの時代の民事をめぐる争い」の法的処理にはアックルシウス派の「衡平の諸論拠」を借用するという不都合をもたらしたともします。
この不都合に対して、ヴィーコは、@法学者は、王国の憲法、王の法を十分に理解する必要があること、A万事を「国家理性」、「政治的衡平」に準拠して整える必要があること、B私的損害より大きな公共的利益をもたらす方策がくること、C最後に市民的利益を国事的損害に優先させることを指摘し、ローマ元首制を「われわれの時代の王国と比較」して「同じだけの公共的利益が得られているかどうか」を吟味せよとします(121−122頁)。
彼によれば、「法とは・・公共の利益を守るための技術」であり、正義とは「共通の利益の恒常的な保護」であり、自然法とは「各人にとって有益なもの」であり、「人間がそれぞれの仕方で生きて行くため」に生れたのであります。
彼は、「法賢慮のあり方は共和政の興隆期には厳格で、帝政の衰亡期には温和且つ穏かに」(125頁)なり、「法賢慮のあり方が緩やかになっていった事が雄弁とローマの権力双方の堕落の最も大きな原因」(126頁)とみて、「君主はもし王国の増強を願うのであれば、ローマ法を国家理論(政治の学)に基づいて解釈するいように命じ」(127頁)、「公法が私法に打ち勝つように用いる」という時代錯誤の結論となります。行政権優位の王国礼賛であります。なぜ王国が生じたか、王国維持のために王と官僚が人民にいかに過大な負担を強いているかという視角が欠落しているから、こうなるのでしょう。
結論 ヴィーコは、「われわれの学問方法の利点と不都合」に関して、古代と比較して、「我々の者が古代のものよりいかなる点においてもより正しくより良くなることができる」(146頁)としました。ここで、ヴィーコは、富社会内部で古代と中世を比較したのだが、比較するべきことは、自然社会と富社会であったというべきでしょう。
ヴィーコは、ナポリ王国王立大学の雄弁術(修辞学)教授という立場でありましたが、この雄弁術教授の職掌は「あらゆる学芸に十分に通じていて、年次演説で勉学の意欲に燃える青年たちにあらゆる学芸を自分の物とするように鼓舞する」ことであったので、彼は「青年はあらゆる学問領域を修めないかぎり、雄弁術研究は禁止されるべきである」としていた以上、広範な学問研究をせざるを得なかったというのが実情でしょう。
ただし、彼が古本屋の息子であり、ドメニコ・ロッカ侯爵家の家庭教師時代に城中書庫で哲学・文学・歴史・法学・自然学などの書物を読む機会に恵まれていました。だから、既に広範な知識を蓄積していて、それが雄弁術教授になることを可能にしたともいえます。ですが、彼が、自然社会という根源的学問までほりさげることができずに、古代ギリシャ哲学で立ち止まった理由もこの雄弁術あたりにあるのでしょう。彼は、彼自身の内面的な学問的要請に基づいて、この雄弁術という学問論を展開したのではないのであります。
21、2010年8月4日、日本文化・思想水準を高めようとしている『日本主義』で、「大化改新の真相」を発表いたしました。前述の通り、当時の現実、神祇統治、後来の仏教統治、両者の軋轢・和合という観点よりみますとき、実に多くの新事実が明らかになってきます。この拙稿もまたその一環ですが、これはあくまで、単なる古代史ではなく、広く自然社会数千年、富社会数千年という観点より、人類史的課題を踏まえているものです。現在の人類的問題を考慮するとき、歴史という狭い内部で、俺は古代史、中世史、近世史、近代史、現代史などという縄張りを非学問的に決め合っている状況ではありません。
そもそも、富社会では、権力と富が基本的特徴でありますが、それを補完する物として必ず宗教が登場します。人類は誕生以来、宗教的存在であり、経済行為だけでは生きられない存在なのです。最近の動向の危機的状況は、こういう歴史的視野を欠如した専門経済馬鹿が、せまい経済だけをやっているだけで安住するという状況が顕著になってきたことでしょう。経済学が学問たりうるためには、目先の経済現状分析だけの知識だけではむしろ人類に弊害を与えるものとなります。経済には、哲学とか思想とが絶対に不可欠であり、だからこそ経済人類学、仏教経済学(自然経済学)などが新しい経済学として重要なのであり、それらを踏まえ広く「古今東西」にわたる総合的経済史論もまた不可欠となるのであります。それは、人類学的課題であります。
私は、現在の富社会に先立つ原点的社会として自然社会を重視しており、この点西洋ではこの認識が端緒的で不十分だといいました。そういう観点からも広く考察していますが、名著『学問論』で有名なシェリングもまた、確かに富社会に先立つ自然社会があったとも思っていたようですが、やはりその叙述は不十分です。
このフリードリヒ・シェリング(1775−1854年)は、ドイツ観念論哲学者であり、1800年『先験的観念論の体系』(赤松元通訳)を刊行し、1803年にはイエナ大学でVorlesungen uber die Methode des akademischen Studiums</span><span style(勝田守一訳『学問論』岩波文庫、1989年)を講義し、それが現在名著として伝わっています。それによりますと、彼は、「現在の人類に先立って、古伝説や神々やまた人類の最初の恩人という姿の下に永遠化した他の人類が存在したにちがいなかった」とし、「原始民族なる仮設は、単に前世界における高度の文化の痕跡―われわれは諸民族の最初の分裂の後すでに歪められてしまったその残滓を発見している―というようなものを説明する」(27頁)と、説明はできないが、富社会に先立つ自然社会の如きものを示唆しています。
彼は、「人類最初の状態」について、「未開民族の野蛮性」にみずに、「国家・学問・宗教・芸術の最初の建設」という「文化状態」とします(106頁)。ですが、もちろん国家はまだできていません。自然社会の概念規定が曖昧なために、こういう不十分な把握となっています。
シェリングは、「一般に歴史の三時期、すなわち自然、運命、ならびに摂理の時期を採用すべき」とし、「ギリシャの宗教と詩の最も美しい開化の時代」からの「離反」とともに、「自然は自由との本当の相克に入り込み」、「古代世界の終焉」を迎え、「悲劇的な時期」に突入するとします。この世界は、「一般的な堕罪、自然よりの人間の乖離、と共にはじまる」(110頁)とするのです。ですが、ギリシャ時代は富社会の起点であり、自然社会と起点たる富社会との区別がなされていません。
シェリングによれば、この時代は神々の時代でしたが、この終焉で諸神の頂点としてキリストが登場するとします。つまり、「古代世界は、そのうちに支配している統一或いは理念が有限のうちにある無限者の存在である限り、歴史の自然面である」が、「古代の集結と無限者をその支配的原理とした一つの新しい時代の発端は、真の無限が有限を神化するためにではなく、有限なものを自ら神に捧げ、奏して贖罪せんがために、有限のうちに入り来たった、ということによって生じえた」(112−3頁)とします。従って、「キリスト教の第一理念は・・必然的に人と成った神、古代の神々の頂点であり終焉であるキリスト」(113頁)となるのです。
これ以後、「有限と無限の統一を、ギリシャの宗教のように、客観的に象徴的表現によって表示することはその観念的方向からいって、不可能である」ということになり、有限・無限の対立の解消は「秘儀」「奇蹟」という「主観的な規定」によってのみ解消するとします(113頁)。
そのような宗教の理念は「行為によってのみ客観化され」、「そのような宗教における神の一切の直観の根源的象徴は歴史である」(114頁)とします。「このような象徴的直観は生ける芸術作品としての教会」とします(114頁)。 ここでは、芸術は、「古代人の言葉を借りれば、神々の道具、神秘の告知者、理念の開示者である芸術」(179頁)であり、「古代の一般の祭儀、不朽なる記念碑、演戯、そしてまた公共的生活の一切の行為は、一つの普遍的客観的な生ける芸術作品の種々に分化したものだった」(188頁)とします。
このように、彼の場合にも、古代概念がかならずしも明確ではありませんし、富社会の始原に国家を見たりするという問題があります。これは、古今東西、日本だけが「世界に誇れる」自然社会をもっていて、欧米には日本のような自然社会を十分に開花させなかったということによるでしょう。
22、2010年8月26日、学問の使命の一つは、自然との関係において人類の過去・現在・未来を根源的・総合的に見通すことです。
私が、日本の世界的に著名な仏教経済研究所で、経済学・経済史(西欧)、仏教(インド・中国)のみならず、ギリシャ哲学、中国哲学、西洋思想、物理学、歴史一般などを総合的に研究し発表した成果(その一部は『仏教経済研究』や『日本主義』などに発表)として、古今東西の学問方法論の画期的時期として、大きく紀元前6、5世紀前後と紀元後17世紀前後の二つあったことが浮かび上がってきました。
そして、こうした古今東西の学問方法論の比較的考察において、@前6,5世紀に胚胎した世界の三大哲学(宗教)、後17世紀に登場した哲学が、富社会の業、つまり「国富増大ーそのための対外的膨張・戦争=帝国主義」に対してどのような態度を示していたか、A根源的視点(歴史的根源としての自然社会の発見如何、物の根源としての最小構成分子の発見の方法的問題)が構築されていたか否か、重要な論点となるでしょう。帝国主義を近現代に固有の問題と見ることについては、それだけで不十分であるということが判明するでしょう。
だとすれば、「方法論的に対立的・戦争的なる西欧学問」にかわって「方法論的に平和的なる日本学問」を世界に広めることが、これからの日本学問の使命の一つになるでしょう。これからの日本は学問で立国する国になるべきであり、学問で世界に光り輝く国の一つになるでしょう。
以下、常体文でこの研究成果の一部を叙述してみましょう。
「 古今東西の学問方法論
一 第一の画期ー前6、5世紀頃
紀元前6、5世紀頃、農業の展開で大きな富が誕生し、都市国家、小国家が登場し、それらが富をめぐって悲惨な殺戮、戦争を繰り広げる。そうした中で、「われわれ人間とは何者であるか、我々を取り巻く天地とは何か、われわれはどう生きればよいか」ということなどが真剣に考察され、教団・一派、経典、書物が作られた。
1 中 国
まず、中国からみると、孔子(前552[『春秋』。司馬遷は前551年生まれ]−前479年)、老子(前5世紀頃)など春秋(前770年ー)・戦国(前453年ー)時代に思想家が活躍する。孔子は、「吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)をこえず」(『論語』「為政4」[『世界の名著』3 中央公論社、昭和41年、74頁])と、自らの生涯を振り返る。ここには、哲学者の人生、宗教家の生き方ではなく、天命のもとに主君に仕える道を学ぶという人生が述べられている。
孔子 孔子は、中国東部の山東省内の小都市国家の魯国に、宗国王族の子孫と推定される魯国侍大将の子として生れた(貝塚茂樹「孔子と孟子」前掲『世界の名著』3、19頁)。
孔子は魯国の下級役人となり、三豪族が政治的実権を掌握していることに憤慨した。孔子は、前517年36歳の時、君主昭公が三豪族一掃をはかって決起したが、失敗して夫人実家の斉に逃亡したのを追って、斉に赴いた。斉では政治的実権は「成り上がりの陳』が掌握しテいる現状を見て、孔子は東夷の国に赴こうとした。だが、東夷よりはましとして、40歳にして故国斉に戻って改革を行おうとした。有力豪族季氏で後継者争いが生じると、執事陽虎が魯国政治を独裁するに至った。陽虎政権が没落すると、魯国定公は50歳代の孔子を大司寇(司法長官)に任命した。これを孔子は天命と受け止め、三豪族の弱体化を企図して、城壁撤去を推進したが、これが中途で頓挫し、孔子は失意の中で外遊の度に出た。以後14年間、孔子は、衛国、宗国、楚国などで君主・大臣などに謁見して、乱世を治める天命に基づいて政見を披瀝した。69歳の時、魯国に戻り、曲阜の学園で弟子に教え始めた(貝塚茂樹「孔子と孟子」前掲『世界の名著』3、28−37頁)。この学園では、「新興の武士階級に属する子弟」にむけて「君子を理想の人間像として、貴族的な武人の教養』を身につけさせた(貝塚同上論文、38頁)。一種の政治家養成学校であった。
この波瀾に富んだ人生で、孔子は、@周公という名君の統治を理想とし、徳による王道で天下を治めるべきであり、A五常(仁、義、礼、智、信)という徳性(『孟子』は仁義礼智の四徳を説いた。五行説の影響で信が加わったという)を涵養することにより五倫(君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友)関係(『孟子』は父子を第一としたが、『中庸』は君臣を第一にもってくる)を維持し、特に仁義を軸として上下秩序を維持することを唱えた。
孔子は、「子曰く、之を道くに政を以てし、之を斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥無し。之を道くに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥有り、かつ格(ただ)し」(『論語』為政3[前掲書、74頁])として、法治主義の欠点を指摘して、名君による徳治主義によって、文武周公という名君統治に戻る事を理想とした。そして、孔子は、「斉の景公」から「政」を問われて、「君君(きみきみ)たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」(『顔淵』11[])と、君臣、父子の上下関係の維持が政治だとした。
孔子は、「知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す。これ知るなり」(『論語』為政17[前掲書、82頁])と、形而上的考察を避けていた。事物の認識ではなく、孔子は、文武周公という名君の統治を理想とし、君主、大臣、臣下の生き方を説いて、あくまで現状秩序のもとでの世俗的な君子の生き方を示したのであった。
孟子 孔子の弟子らは孔子の思想を『論語』としてまとめ、教団を作り、戦国時代、儒家として諸子百家の一つとなった。孔子の死後100年(前370年頃)、孟子が魯国の隣国鄒(すう)の魯豪族孟孫氏の分家に生れた。孟子は「豪傑の士」を自ら任じていて、「若いときの不遇な生活のなかで、特定の師に弟子入りしないで、自力で学問を修め」(貝塚茂樹「孔子と孟子」前掲書、43頁)たのであった。孟子が大きな影響を受けたのは、「孔子の弟子の子貢を師とする斉の儒教の一派、いわゆる斉学」(貝塚茂樹「孔子と孟子」前掲書、48頁)であった。
孟子は、50歳の頃、梁の恵王に謁見して、政治的人生のスタートを切る。王が「叟、千里を遠しとせずして木たる。亦将に以て吾が国を利することあらんとするか」と問う。これに対して、孟子は、「王何ぞ必ずしも利を曰わん。ただ仁義あるのみ」(「梁恵王章句」上[『孟子』『世界の名著』3、中央公論、昭和41年、389頁])として、国家社会の基礎は、利益などではなく、仁義という徳にあるとして、孔子と同じ立場を表明したのである。
やがて、孟子は、梁から斉に移り、「斉の宣王を天下の王として中国を統一させ、理想の仁政を天下に行おう」としていたが、斉の燕国征服・統治に失敗して、故国鄒に隠退する(貝塚茂樹「孔子と孟子」前掲書、51頁)。ほどなくして、隣国の滕(とう)の文公から招かれて国政顧問に就任し、「小国の滕を理想の王国に仕上げ、王国のモデルを造って、天下の大国をしてこれに追随させよう」とした(貝塚茂樹「孔子と孟子」前掲書、52頁)。そして、孟子は、「農村共同体を再建して、井田制と言われる古代の共同耕作制を復活」して理想国家を構築しようとしたとされるが(貝塚茂樹「孔子と孟子」前掲書、52頁)、井田制とは、後に均田制などとして推進されるように、農民間の階層差を解消して、平等な貢租負担者を確保しようとしたものであり、民主的に見えて、本質的には民主的ではないものである。
その後、孟子は帰国して、弟子らとの問答に答えて、孟子は徳目主義の性善思想を主張した。これは、「議論としては素朴であまり、説得的ではなかった。一方、荀子は性悪説を唱えて礼治主義を主張し、その後の儒教の普及に大きな役割を果たし、法家思想などを生み出した。儒教の経典は,一般に「四書五経」と総称される。先王の道(理想的な徳治の道)を尊び、周王朝の礼楽文化の復興を求めた。
孟子は、「民を貴しと為し、社稷(土地神・穀物神を祭る祭壇、転じて国家)之に次ぎ、君を軽しとなす」(『孟子』尽心章句 下[『世界の名著』3、中央公論社昭和41年、535頁])と、民本主義を提唱した。だが、孟子は、「周の武王(人望厚く、天命で「天子として中国を統治する資格」を得る)が殷の紂王(暴虐で民意を失い、天子の天命を失っている)に反旗をひるがえして討滅し、ついに天下を取った事を正面から是認している」(貝塚茂樹「孔子と孟子」前掲書、40頁)のである。民意を失った君主を打倒することは認めても、君主制そのものを廃棄する思想ではないということである。あくまでも君主は、こうした民衆の力を侮るなというのであるに過ぎない。
宇宙論 前136年、漢朝では、孟子によって孔子神格化が推進され、儒がを国教された。五経(『詩経』・『書経』・『礼経』・『易経』・『春秋経』)を中心に儒教が国教化されると、陰陽五行説という古代中国の宇宙観を教学に採用した。
陰陽論とは、「二元論で以て世界の生成発展を説明」したもので、五行とは「木・火・土・金・水の五元素でもって宇宙と歴史と人生のあらゆる事象を説明」するもので、「王朝の交替の必然性(例えば、火徳を持った周王朝が水徳の秦に取って代われたとか)を説明する歴史原理」(ひろ前掲書、110−111頁)となった。この五行説は、道教の陰陽道(吉凶判断など)と結びついた。
朱子学 訓詁学化して衰退し、宗には、道教的宇宙論などを踏まえて、朱子学(性理学、道学)が興り、五経に代わって『四書』(『論語』・『大学』・『中庸』・『孟子』)を典拠とした。道教の宇宙秩序の思想を取り込んで体系づけられていき、古来の敬天(万物の根源を天と称し、宇宙の主宰者を天帝と呼んで畏敬した信仰に基づくもの)、天命思想(天が万民を生み、統治は天命を受けた有徳の天子によって行われるべきことを説く思想)を継承し、新しい性理論を説いた。
朱熹の言う「理」とは、「形而上のもの」・天地万物の根元であり、人間は本性として「理」をもつことになるが(性即理)、「同時に肉体を持っているので『気』が交じり、『気』によって『理』の発現が阻害され、十二分に自己を現実化でき」ないので、「人間は『気』によってもたらされた人欲を抑え、本性である『理』に立ち返らねばな」らないとする。そこで、その「理」に復帰するための修業として、「居敬」(心身を純粋専一の状態に維持」)と「窮理」(読書・学問で、個々の物に見出される「理」を押し広めて、宇宙の理に至ること)があるとする(ひろ さちや『仏教と儒教』新潮選書、1999年、32頁)。
朱子学は身分制度、君主権の尊重を説いており、明時代には学問部分が国教と定められた。13世紀には朝鮮に伝わり、従来の高麗国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とし、朝鮮王朝の統治理念とした。
陽明学 王陽明(1472−1528年)は、「朱子学の主知主義的・理想主義的傾向に反撥して、現実主義の立場から批判を加え」(ひろ前掲書、33頁)、陽明学を樹立した。
陽明学とは、@「『理』は外にあるのではなく、わが心が『理』である(心即理)という徹底した唯心論」であり、A「人間の生来の道徳的判断力を発揮」(「致良知)し、B「認識と実践を一致」(知行合一)を説いた(ひろ前掲書、33頁)。
考証学 清朝になると、宗、明の「修正儒教」を「空理空論」と批判して、「事実によって真理を求める」(実事求是)という訓詁学的実証主義が登場した。この訓詁学は多岐にわたり、「文字学、音韻学、歴史学、地理学といった諸学を駆使した学問」(ひろ前掲書、33頁)となった。
天子を支える学問という基本的性格を変えることはなかった。ただし、中国では王朝は絶えず交代していたので、儒教には「易姓革命」という思想がある。『易経』に、「天地革(あらたま)りて四時成る、湯武(とうぶ)革命(殷の湯王が夏王朝の桀王[けつおう]を武力追放して天位につき、周の武王が殷の紂王[ちゅうおう]を討伐して天子となったこと)、天に順い人に応ず、革の時、大なるかな」(革卦・彖伝[たんでん])とあるように、権力者の交代を肯定する考えである。人民が権力者を打倒することを是認する思想ではない。
日本への導入 日本への儒教導入の過程を見ると、応神16年2月、百済が優れた学者王仁を来日させ、太子道稚郎子(うぢのわきいらつこ)に「諸の典籍」を教えた(『日本書紀』上、372頁)。この中に『論語』も含まれていた。継体天皇7年(513年)には、百済が五経博士段楊爾を貢って以降、本格的に儒教が伝わった(『日本書紀』下、28頁)。
徳川幕府は、「儒教道徳のなかに『君子』『士』を理想の人間像とする武士的道徳が内在していて、これが徳川幕府の武士道を形成するのに非常に助けとなる」(貝塚茂樹「孔子と孟子」前掲書、38頁)ことを見出してから、朱子学をやがて徳川幕府を支えるイデオロギーとした。18世紀末、朱子学以外の古学派、けん園学派(荻生徂徠)などが流行すると、寛政2年には昌平黌で朱子学以外の異学講究を禁止した。
日本でも、古代に大王の徳を広めるなどと称して、朝鮮半島の任那・百済・渤海などに朝貢を求めた。こうした徳化は、体制の不正を糺して、民衆の苦しみを打開するものには程遠いものであった。近代には、渋沢英一が儒教資本主義を説いて、儒教の徳、倫理的側面で資本主義的欲望の規制をはかろうとしたが、資本主義的欲望体系の規制には君子道徳という儒教では初めから「平等」的なものたりえないといえよう。。
小 括 このように、同じような国家の戦乱、殺戮という状況下で、ギリシャでは論理学により原子論的な宇宙の認識にすすみ、インドでは世俗の煩悩の克服による悟りという方向に向かったのに対して(これは後に再述)、中国では、君子という権力者の徳化という方向での乱世の克服ー周公統治を理想とする国家構築に向かい、道教などをとりれて時代変化に対応していったのである。
だが、いずれも、他国の政治的侵略・経済的収奪という「帝国主義」的方向を帯びたり、是認するものであったという点では共通していた。古代のギリシャ哲学にすでにそういう動きがみられるのであり(後述の通り既にこれを指摘する研究者もいる)、仏教でも上座部仏教のみに普及上の危機感を持って、大乗仏教が転輪聖王思想を軸に仏教聖王による大衆救済という方向を打ち出して、君徳による他国侵略が是認されてゆく。儒教もまた、権力統治のイデオロギーであり、時に君主の徳化を蛮地にまで拡げると称して、「冊封体制」という帝国主義的朝貢関係を構築した。中国のチベット支配問題には、こうした名残がないとはいえないであろう。
現代帝国主義論は、その研究対象の固有性を強調し、自分の研究者としての立場を正当化するために、前近代の「帝国主義」は取るに足らず、近現代の「帝国主義」こそ完成された姿(商品輸出のみならず、資本輸出をも伴う最高度の資本主義段階[レーニン帝国主義論])とする傾向がある。私自身も、『国際財政金融家 高橋是清』、『日本外債史論』などを刊行し、その当時ではまだ前近代の問題を射程におさめることはできなかった。だが、こういう態度は学問的とはいえないのである。
帝国主義は、自国の富の防衛、その拡大のための他国の富の収奪の方式として富社会のはじめからあったのである。本当に帝国主義的関係をこの世から排除して、末永い人類の生存をはかりたいと思うならば、富社会の当初からはびこってきたものとして「帝国主義」をとらえて、その揚棄を考えねばならないのである。つまり、現代にまで帝国主義をはびこらせたのは、歴史的根源をさぐらずに、論理学による物質、宇宙認識論、悟り論、君徳論に終始してきた学問の責任でもあるといえるのである。ポラニー『経済人類学』もまた、こうした現代帝国主義論への批判的反省の一つである。
2 インド
インダス川流域には、ブッダ(前463−前383、前560−480年。タイでは、釈迦入滅の年である西暦紀元前543年を仏暦元年とする)が現われる。ブッダは仏教という宗教を生み出したといわれるが、それは当初は宗教というより、瞑想、解脱という哲学にちかいものだった。それは、論理によって自覚するというより、音楽的な読経のなかで修行して解脱するというものあった。
ここではインドではなぜ哲学的宗教がおこり、それがギリシャとどう関連していたかを考察してみよう。
@ 哲学的宗教
インド・アーリア人(ヨーロッパ語族) インダス文明は、前2600−1800年頃栄え、メソポタミアのアッカド王朝(前2370−2230年)の影響(印章使用、建築・技法、文化)がみられた(「古代オリエント世界」『世界歴史』1、岩波書店、1969年、7頁)。
金岡秀友氏は、インダス文明人は宗教で民衆を統治し、「樹霊・樹神崇拝、地母神崇拝」、「ヨ−ガの起源」、「動物崇拝」が見られたと指摘する。
前17世紀頃から、ア−リア人(南ロシア平原居住)は、西方のヨ−ロッパ、メソポタミア、インドの3方向に向かった。ア−リア人はヨ−ロッパではギリシャ人が都市文明を築いた。前13世紀にインド・ア−リア人はパンジャブ地方に侵略し、インダス文明を滅ぼした。彼らは、ドラビダ族の蛇神信仰、樹木崇拝を「変容」させて継承した。こうして、ギリシャ、インドには、同じア−リア人が住み着いたのである。
インドでは、ア−リア人は「宗教的情操すこぶる豊かで、固有の天神崇拝は‥インドの大自然によって育まれ」(辻直四郎『ウパニシヤッド』講談社、2002年、18頁)、前1000年頃まで『リグ・ヴェ−ダ』(ヴェ−ダは知識の源泉たる聖典の総称)を成立させ、やがて僧族・王族・庶民とス−ドラ(先住民)の四階級ができた。このヴェ−ダのうち「宇宙万象の一元を宣示する哲学的部分」をウパニシャッド哲学(以下、ウ哲学と略)と称する(辻『ウ』21頁)。ウ哲学も、自然=宇宙を研究する点では一種の自然哲学であったが、ギリシャ自然哲学と違うところは宗教との密着度であった。
ヴェ−ダ聖典 インド・ア−リア人はインド中部に進出して、コ−サラ、マガダなどの諸王国を生み出した。ブラ−フマナ文献では新しい「宗教と思想」が生まれ、祭式が重視されだした。これは、有限の人間を無限の神と合一させために「神と人との交流」として祭祀が求められたからであり、ここに詳細な祭祀方法が定められた(金岡『インド哲学史概説』108頁)。この結果、バラモンは「神に対する敬虔な奉仕者」ではなく、「祭祀の力を駆使して神々を動かし、宇宙万物をも支配する」(金岡同上書、111頁)ものになった。
こうして、インドは、「世界にその比を見ぬほど宗教儀典を重んじた国」となり、「人は母胎にある内から種々な儀礼を受け、誕生・命名・発育・就師・卒業・婚姻・葬送等、一として祭祀の対象たらざるはない」(辻前掲書、19頁)のであった。さらに、朝夕祭事、祖先供養、祈願祭など「人事百般全て‥祭式の随伴を必要」(辻前掲書、19頁)となった。
ブラ−フマナ文献 第二次ヴェ−ダ期のブラ−フマナ文献では「(宇宙誕生の時)無もなかりき、有もなかりき」として、「相対的有無の観念を超越した太初の状況」を描き出した(辻前掲書、45頁)。この宇宙創造は、「最高神自身からの放出または創出とみなす傾向」(辻前掲書、47頁)が顕著となる。「世界創造主としてプラジャ−パティという根本神格が登場」(金岡『インド哲学史概論』111頁)した。
やがて、アタルブァ・ヴェ−ダに台頭したブラフマン(梵。大宇宙の本源を尋ねて到達する「この世の一切」という境地)は「思想界に重きをなし」、時に最高神、時に「独立の創造原理」と目され始めた(辻前掲書、48頁)。ア−トマン(我。「個人の本体」)も発達し、時に最高神、時に全世界と称され始めた。 この宗教は、宇宙創造説をとり、「形式的祭式の絶対権威を否認し、帰一思想を純化して大宇宙と個人との本体を明瞭に一元と断じ、これを呼ぶにア−トマン或いはブラフマンなる名称を選んで、その一如不二(梵=我という「梵我一如」)を強調し、善悪の業に従って再び生をこの世に受ける輪廻説を採用して道徳上の要求に応えた」(辻前掲書、28頁)のであった。バラモン、王族が、「祭式万能主義」に反発し、「祭式以上のもの、それだに知らば万有の本体と同化し得べきあるものを求めて、生死の大問題を解決せん」(辻前掲書、34頁)とした。
ヴェ−ダは、「万有の根本原理」として「大宇宙の本体」と「小宇宙すなわち個人の本体」との「同一性を宣示」するというものである(辻前掲書、15頁)。 ブラ−フマナ文献の知恵論に関する思索は第三次ヴェ−ダ文献に結実し、その中核がウパニシアッド(元来は、師弟間の信頼に結ばれた座の意味。「秘座」に転化)であった(金岡前掲書、114頁)。
ウパニシャッド 第三次ヴェ−ダ期のウパニシャッドは、「宇宙の本体を究明して、解脱の大目的を達成」することを中心としたので(辻前掲書、40頁)、「哲学たると同時に宗教である」(辻前掲書、38頁)ということになる。かくして、西田幾多郎も言う如く、「哲学と宗教とが最も能く一致したのは印度の哲学、宗教であ」り、「ブラハマン即ア−トマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義である」(『善の研究』岩波文庫、第二編第一章「考究の出立点」、昭和25年)と言う事になった。インド哲学者金岡秀友氏は、「インドにおいては、哲学的思弁はつねに宗教的内容をもち、また宗教的思索の多くは哲学性を帯びる」(『インド哲学史概説』佼成出版会、平成2年、21頁)と指摘する。
ウの中心思想は前7−6世紀にでき上がり、この観点から東西を見れば、「ギリシャにおいてはピタゴラス、シナにおいては孔子の現れた時代の前後」に、「インドにおいてもウパニシャッドの哲人を輩出し、次いで仏陀、ジャイナ教の大成者マハ−ブィ−ラ」の出現をみる事になった(辻前掲書、118頁)。ヤスパ−スは、中国の孔子・老子、インドのブッダ、イランのゾロアスタ−、イスラエルの預言者、ギリシャの哲学者などが出て、前600年から前300年の間を人類史の「軸をなす時代」と称した(峰島旭雄訳『仏陀と龍樹』理想社、1960年)。インド哲学の精華は「プラトンの理念の世界と比べても、遜色」ない(辻前掲書、119頁)。「インドはギリシャと並んで独力で論理学を樹立した民族」(前掲金岡『インド哲学』198頁)となった。
ブッダにおける哲学・宗教 ブッダも、最初は模範的バラモン青年としてヴェ−ダの素養を身に付け、ブラウマンとア−トマンの一体を観じていた。だが、ブッダは、「現世が苦しみの場」とされ、合理的・哲学的思考で「現世的なものに対する欲望と執着が、苦を増大させる要因」(辻直四郎前掲書、201頁)として、救済の宗教を展開した。
初期ウから、「欲望のとりことなり、苦にまみれている虚妄な自己から脱却するために、神秘思想家が歩んだのは内面への道」であり、「世俗の生活を捨てて遊行者となる」ことが行なわれていた(辻前掲書、202頁)。彼らには王族出身者もいて、四生活期の最後(「一切の所有を捨て」る理想的時期)とされた。 さらに、ヴェ−ダ、バラモンの権威が否定され、「唯物論・懐疑論・快楽論などを唱える新しい思想家」として沙門(後に仏教で六師外道などとされる)が登場してきた。仏教は、「六師外道のあとを承け、自由思想を完成し、インドにみならず、東アジア・西アジア・中央アジア・東南アジアの全域に決定的な影響を与えた」(金岡『インド哲学』152頁)のであった。
仏陀(前466年生まれ説、前566年生まれ説)が仏教を提起した基盤として、こうしたウ的、沙門的基盤を考慮すれば、仏教は哲学的宗教とならざるをえなかったのである。特に、「悟りに結び付く認識」(正覚)、縁起・空などにおいて、仏教は宗教ながら哲学的思考を深めたのであった。インドでは、宗教的に自立した哲学者になることは不可能だったであろう。
宗教と哲学のいずれが先か、これに関して、ヤスパ−スは、哲学的営為が宗教を生み出したとする。彼は、「仏陀の救いの道の哲学」が「一つの宗教」になる過程を述べている。ここでは、既存の神々の不合理性を明らかにするものとして哲学的思惟(根元的思考)が作用したということであろう。
仏陀は、悟り、解脱を自力で行なえなくなると、「助けをあたえる神」を求め始める。だが、既存の神々は「その神々自身が救済をまっているような、結局無力なもの」であり、ここに、「仏陀は、‥教えを授けようとしただけであるのに、一切の神々のうえに位する神の形をとることになる」のである。こうして、「仏陀の洞見にたいする信仰はもはや哲学的信仰ではなくて、仏陀信仰とな」り、「礼拝の対象」になったのである。哲学が宗教になったというのである。やがて、「はじめには無縁であった宗教的形式が、仏教的な思惟をおおう衣となり、やがては仏教的な思惟そのものとなってしまう」(ヤスパ−ス『仏陀と竜樹』47〜50頁)のである。
これにともない仏教信仰者は、「ほかの人々に救済をもたらす仏陀」として菩薩となる。菩薩は「各人の切なる求めに応じて、慈悲をたれ、救いの手をさしのべる」のである(前掲『仏陀と竜樹』50頁)。
こうした、哲学が先か、宗教が先かの問題よりも、宗教と哲学との関係が重要であろう。
この宗教と哲学の関連について、西田幾多郎は「直接な、真に具体的な、根元的なものは、実は宗教の内容でもある。その点、哲学と宗教とは合致する。しかし哲学はそれを概念的に明らかにしようとし、宗教はそれを体験し、それを直接に生きようとする。だから偉大な哲学は宗教的内容を含み、偉大な宗教は哲学的反省を含むのである」(西田幾多郎『哲学概論』p47)と的確に指摘する。
さらに、彼は、「それでは宗教とはいかなるものであるか。宗教といふものも哲学と同じ様に非常に種類がある。之を一つの概念にていひ顕はすのは余程困難である。併し情意の上に於て自己と宇宙の関係を解決したもの、即ち統一したものが宗教であるといってよからうと思ふ」(西田幾多郎『哲学概論』172頁)とした。彼は、「偉大な哲学は必ず深い‥宗教心より起る」(西田幾多郎『哲学概論』176頁)ともした。西田は、「完全なる宗教は単に知識を超越せものではなくして、知識を自己のうちに取り入れるものでなければならぬ」と、宗教が知識を求めてくる点で、哲学と宗教とは関連してると指摘した。
彼は、「要するに哲学も宗教も人心の同一の要求である。即ち人心がその究極統一に達せんとする努力である。統一といふことが人間の至誠即ち真摯な状態であり、かねて生命である。此の要求の理知の方へ傾いたものが哲学で、情意の方面に傾いたものが宗教である。併し我々の人格の根底が、理知であるよりは寧ろ情意の方にあるとすれば、宗教は哲学よりも深いものとなる」(西田幾多郎『哲学概論』P178)とした。
こうして、西田は、「哲学も宗教も其目的に於ては」「人心の究極統一に達せんとする要求から起こるもの」(P173)だが、哲学が「悟性によって作られた」のに対して、宗教は「情意の上の満足」であるとした。
いずれも大脳皮質の領域であろうが、宇宙の中の人間存在の真実を悟性的に見たのが哲学であり、情意的にみたものが宗教と言える。
また、哲学と宗教の異同に関して、キリスト教は、小山宙丸氏によれば、「信仰には知性は要らないという立場と、信仰は知性との共同作業であるという立場の二つがあり」、「中世には信仰と知性は共同作業であるという立場に立ち、そこから神学の体系が生まれ」たが、「近代以降の哲学者は‥信仰の問題は消え、知性だけという立場に立っている」(前掲『峰島旭雄対談集』201頁)とした。
A 仏教誕生
なぜインドで世界宗教たる仏教が誕生したのであろうか。
この時期、インド北部には、経済(富、華やかさ)、文化(在来宗教)の一定度の展開、にもかかわらず、人間の酷さ、醜さ(欲望過多、戦い、殺人など犯罪)が強く現れて、人々が極度に不安に陥っていたのである。そこで、「賢者」が人間の本質を極限まで追究する必要に迫られたのである。
インダス文明 紀元前2500〜1500年頃にインダス文明が栄え、「近代都市に劣らないような都市設備を持ち、道路や上下水道や高層建築など、あらゆる点ですぐれていた」(渡辺照宏『新釈尊伝』ちくま学芸文庫、2005年、55頁)のであった。
農業、商業がかなり興隆して、貨幣経済も展開してきたのであった。つまり、人間の物欲、貨幣欲が刺激され、触発される状態が現出したのである。
農業展開 紀元前2000〜1500年頃のア−リア人(鉄製の農具・武具使用)侵入がこの地域経済の展開を触発した。ア−リア人が「東進して定住したガンガ−河中流地域は、地味豊かで、多量の農産物を産出し、しかもかれらは積極的に森を切り開き、開墾を行ないましたので、かれらの物質的生活は豊か」(渡辺照宏『新釈尊伝』)になった。農業は、共同灌漑を必要とせず、孤立分散的農耕が行なわれていたらしい。この点、中村元氏(『ブッダのことば スッタニパ−タ』注、257頁)は次のように述べている。、「最古代において、インドの農業生産は、さほど労働力を必要とすることなしに、極めて安易に行なわれた。夏季に河水が氾濫すれば、その程度はちょうど 農作物の播種(はしゅ)後・成長に適当であり、特別の灌漑設備をも、播種後の移植をも必要としなかった。収穫も一年に二度可能であった。加うるに、適度の氾濫は、土地を肥沃ならしめ、また酷熱の気候は、農作物の成長を迅速ならしめる。インドのこのような風土においては、農業生産のために人々が労働の共同を行なう必要が乏しい」
渡辺照宏氏は、「釈尊の時代‥その地方の人々は多く米の耕作に従事し、水田の灌漑に苦労し、時には水の争いで事件をひきおこした」(前掲書、54頁)と指摘する。
だが、この稲作生産力はまだかなり低かった。当時、「労働者は被征服者などから成立した奴婢が大部分であったらし」く、農民的余剰が生じなかったので、「小作料や地代などを収得する意味での土地の所有」はまだなかった。西暦紀元前後ころになって、「仏教教会全体のために利潤をはかるという経営が、小作制度、貸付業などとともに成立」(友松円諦『仏教に於ける分配の理論と実際』上、43頁)した。
商業展開 各地域経済を支える「通商の一大中心地」としてウ"ェ−サ−リ−(現在のウ"ァシャ−リ−)が成立した。ここでは「多民族が共存」し、仏陀も数度ここを訪問していた(前田専学前掲書、40頁)。仏教が世界宗教として発展した理由の一つとしてこうした民族共存の現実を吸収していたことが挙げられている。
「仏教は、このような多民族共存の時代の要請に応えて、異民族を排斥するのではなく、異民族にも通用し、受け入れられるような宗教として成立したわけで、ここに仏教が、ヒンドゥ−教のように民族宗教にとどまらず、民族の枠を超えて普遍的な世界宗教として発展していった大きな理由がある」(前田前掲書、41頁)。 都市では、「貨幣経済の進展とともに商工業者が都市内の経済的実権を握り、旧来の階級制度はくずれ、また生活が物質的に豊かになるにつれて、ややもすれば道徳もすたれる傾向が顕著にな」(前田43頁)った。
都市国家群 このようにして商工業が発達してゆくと、「かつてバラモンの宗教・文化・社会を支えていた氏族制農耕社会が崩壊していき、インド史上はじめて多数の小都市が成立するようにな」(前田前掲書、41頁)ったのである。
都市は、「城壁で囲まれ、国王はそれぞれの都市の中央にある宮殿に住」み、「これの小都市を中心に、周囲の町々や村落を包括する群小の国家が多数併 存し」、「その中には、共和政治あるいは貴族政治の体制をとるものも あり」、「それらは次第に世襲の国王の統治する大国に併呑されていく情勢にあ」(前田前掲書、41〜2頁)った。これらの王国では、「王権が著しく伸長し、とくに東部の、旧来のヴェ−ダ文化の 中心地の外側に位置していた諸国では国王の権力が強大で」、「それらの諸国では、バラモン教は、西部および中部インドにおけるような確固とした社会的勢力を築いていなかったので、国王こそが最上の位にあるものと一 般に考えられ、バラモン教は権威を失いつつあ」った。釈迦誕生の頃には、「ガンジス河流域にはコ−サラとマガダの両国の他に大小の王国や共和国がならび存し、そのうちには都市や農村の群」(渡辺前掲書、34頁)があった。
『三昧王経』(『大乗経典』10)によると、ジャンプ州(須弥山の四方にある四大陸[四大州]の一つ。仏陀が出現した大陸。もともとはインドを意味した)では次のように繁栄していたとある、「隆盛で、富み栄え、平和で、物資は豊富にあり、みなが楽しみ、多くの人々で 満ちあふれていた。さらにまた、そのとき、このジャンプ州には二人の王様がいた。一人はドリダ バラという名前であり、もう一人はマハ−バラという名前であった。二人のうち の一人が、その隆盛で、富み栄え、平和で、物資は豊富にあり、多くの人々で満 ちあふれていたジャンプ州の半分を統治し、他の一人があとの半分を統治してい た」(115頁)。
やがて16国が成立したが、中でもマガダ国(ガンジス河の南岸)、コ−サラ国はア−リア人の建てた大国であった。特にマガダ国は、@「穀米が豊か」で、「南インドの穀倉」(中村元『インド古代史』上、284頁)といわれ、A「鉄・銅その他諸種の金属」が豊かであった。この二大国の「中間にはさまれた多くの小国家はモンゴル民族に属して」(417頁)いた。二大国が周辺小王国を従属させて、「貢ぎ物を納め」(奈良康明『仏教と人間』229頁)させていた。
釈迦族カビラ国はコ−サラ国の属国となった。この釈迦国は、「東西八十キロ、南北六十キロ、‥千葉県ぐらいの広さ」(ひろ さちや『釈迦とイエス』新潮選書、2000年、50頁)の小国であった。そして、釈迦族は、「ヒマラヤ山の麓の中部ネパ−ルの南辺にあるタラ−イ盆地に住み、バラモン教の伝統を奉ずることなく、バラモンの権威を無視」(中村元『ゴ−ダマ・ブッダ−釈尊の生涯ー』春秋社、1969年、19〜20頁)した。
釈迦の父シュッド−ダナは王(ラ−ジャ)と呼ばれていたが、「専制王国の君主というよりも、会議政治の責任代表者であって、民主的色彩の強い種族」(渡辺照宏前掲書、34頁)であった。シュッド−ダナ王は、「絶対的君主ではなく、ただシャ−キャ(釈迦)族ぜんたいを統治する執政官程度」(352頁)であった。中村元氏は、首都に公会堂があったことから「シャ−キ−族は共和制を実施」しており、「その精神的雰囲気から仏教がでてきた」(『インド古代史』上、春秋社、昭和38年、281頁)とされるが、この共和制を手放しで評価できまい。専制君主が成立するためには、一定度の生産力展開が前提にあり、まだその前段階の集団指導専制体制であったとみるべきだろう。なによりも、当時の共和制は王政とおなじ大土地所有者の政権=大土地所有者の小作人支配、奴隷使用を保証する政権であり、農民には厳しい年貢収奪者として現れていたのであった。
経済展開が旧宗教陳腐化 ブッダのいた頃、バラモンは、以前とは違って黄金、穀物を豊富に所有して堕落していた。以前のバラモンは、「自己をつつしむ苦行者」であったが、「ウ"ェ−ダ聖典を財宝ともなし、穀物ともなし」(中村元『ブッダの言葉』63頁)て蓄財に励んだのである。
しかも、経済展開などで「旧来のウ"ェ−ダの宗教は魅力をもたず、単に古臭い迷信の類にしか映らなかった」のであり、「新しい時代に即応した、宗教や思想が現れる気運を促した」のであった。
この時期のインドは「思想の自由が完全に認められていた」(マックス・ウェ−バ−)のであり、反バラモン教的、反ウ"ェ−ダ的自由思想家=「沙門」が自由に登場できた。彼らは、「ウ"ェ−ダ聖典の権威を認めず、出家し、一カ所に定住することなく、遍歴しながら森林において修行し、村や町に行って教えを説くともに、布施された食物によって生活し」(前田『ブッダを語る』44頁)た。
この有力思想家の多くは、「唯物論的・道徳否定論的・懐疑論的な思想傾向が強かった」事もあって、これは当時の人々の支持をえなかった。それに対して、武士階級出身の仏陀とニガンタ・ナ−タプッタ(ジャイナ教)は人々の支持を広く集めた。「時代は、社会的にも、思想的にも、バラモン中心の時代は去り、武士階級中心の時代に転換」(前田、45頁)したのであった。
経済展開が争乱激化−統一権力者願望 マガダ国の国王ビンビサ−ラが我が子のアジャ−タシャトルに王権を暴力で奪われると、コ−サラ国の国王プラセ−ナジトの妹がこのビンビサ−ラの妃だったので、両国は戦争を起こした。
後に、このコ−サラ国の国王プラセ−ナジトもまた子のウ"ィドゥ−ダバに王位を奪われた。コ−サラ国王位についたウ"ィドゥ−ダバは釈迦族を滅ぼしたが、結局、マガダ国に併呑された。ひろ氏は、「攻撃される原因は釈迦国のほうにある。釈迦国の人々がコ−サラ国の将軍に非礼をしたのである」(『釈迦とイエス』109頁)としているが、親を殺したウ"ィドゥ−ダバ王が弱小国釈迦国を併呑したのであろう。 まさに、「仏陀の時代の北インドは政治的、軍事的にも多事多端な時期」(385頁)であった。奈良氏も、「釈尊の生まれた時代は古代インド史の激動期である。多くの戦争があったし、人の生命が粗末にされていた時代でもあった。動物たちも生け贄の儀礼に供されることが少なくなかった」(『仏教と人間』186頁)と指摘される。
これを静める転輪王という理想的君主が渇望されてきた。これは、元来「インドは国が広くて昔から統一国家ができ」(渡辺前掲書、45頁)難かったことに基因するようだ。権力は「祭政一致」を標榜して、権力の弱さを補完しようとし、ここに誕生期仏教が権力志向的となったと思われる。
『仏伝』(中村元編『原始仏典』)では、セ−ラバラモンが、世尊は「容色のすぐれた」人物であり、「クシャトリヤと地方の王どもは‥忠誠を誓」い、「転輪王(バラモン教、ジャイナ教で世界を統一する理想的な帝王)となって‥四方を征服し、ジャンブ州(インド)の支配者」となるだろうとした。だが、世尊は、「わたしは王でありますが、無上の法王です。(武力ではなく−筆者)法によって輪をまわす」と答えた。出家の過程でも「容姿も端麗で、生まれ尊いクシャトリアのようだ」と目されて、丁重に扱われた。
解脱後も、仏陀は村落、商業都市を訪れるが、農民の苦しい生活の改善、下層カ−スト廃止などにのりだすことなかった。それどころか、各地の支配者に厚遇され、支配者に教えをたれている。例えば、世尊はマガダ国王セ−ニヤ・ビンビサ−ラの王宮に赴き、竹林園を寄進され、「法に関する教え」を説いて、この寄進を受け入れた(『仏伝』、前掲書、33〜4頁)。
ウパニシャッダ哲学 バラモン中心の社会制度が崩壊すると、紀元前500年頃、バラモンは反省して、教典ウ"ェ−ダの最後の部分として、古ウパニシャッダ哲学を生み出した。釈迦は、これを批判しつつも、これを一前提としていった。
当時のウパニシャッダの哲人たちの「最大の関心事は、もはやかっての祭式ではなく、宇宙の根本原因としての常住不変の一元的原理は何か、という問題」であり、「その結果到達された諸原理のうちもっとも重要なものは、宇宙の根本原理ブラフマン(梵)と、個人存在の本体ア−トマン(我、自我、自己)」であった(前田専学『ブッダを語る』33頁)。さらにすすんで、「ア−トマンはブラフマンである」という梵我一如の思想を説くにいたった。仏教は、無我説なので、ア−トマンとは鋭く対立した。
だが、ウパ哲学の「いま一つ重要な点」は「業(「いかなる行為も、その直後に消滅するのではなく、潜在的に業として蓄積され、死後の人間の運命を決定」)と輪廻(「人間は死後、虚無に帰するのではなく、あの世に赴いた後、再びこの世に生まれ変わ」る)、「解脱」(「あらゆる束縛を離れ、いかなる業ももはや無力であり、生死・輪廻を超越した境地」)(34〜5頁)であり、これは紀元前5、6世紀に普及して、「仏教やジャイナ教の思想の根底」となったのである。
仏教典 もともと釈迦は「限界を心得た人」「さめたる人」で「おのれの内面を見つめることを教えた人」であり、「四諦が、人間についての冷静で厳格な観察が、彼の哲学であった」(梅原猛「法華経」[『仏教の思想』T、155頁])のである。
弟子の数は、1250人(『観無量寿経』、『阿弥陀経』)、1万2千人(『法華経』)、3万2千人(『無量寿経』)とはっきりしないが、千人以上はいたようだ。釈迦の没後した年に、弟子5百人がマガダ国の首都に集まって、第一回経典編纂会議(結集)を開催した。ここで、彼らが釈迦教説を編集して原始経典を編纂した(原始仏教時代)。だが、紀元前250年頃にどの原始経典を軸とするかで対立が生まれ、部派が分裂し、紀元前100年頃には20の部派が生まれた(部派仏教時代)。
部派仏教の中で、「声聞(仏の声を聞きながら悟る)と縁覚(人生の無常を縁として悟る)」の上座部仏教と、菩薩(悟りの真理で現実の中で真理実現に努める者)の大乗仏教とにわかれた。
部派仏教は、「釈迦の‥因縁に関する思弁」(梅原前掲書、156頁)を母胎にして、独自のアビダルマ(対法。仏教の哲学的研究)を作成した。この厳しい道徳、難解な教理で民衆はとても接近できなくなった。
大乗仏教はこの「形骸化した伝統仏教」(梅原前掲書、156頁)を批判し、民衆救済で成長するヒンヅ−教に対抗するべくしておこった(宮元啓一『インド哲学 七つの難問』講談社、2002年、41頁)。
前2世紀頃、ブッダを讃え上げる運動(讃仏乗)がおこり、理想的な修行者としての菩薩という概念が生まれた(宮元同上書、41頁)。経典作成者は、インド長編叙事詩『マハ−・バ−ラ−タ』、『ラーマーヤナ』にならって、「宗教的叙事詩」として大乗経典を作成した(梅原前掲書、156頁)。
続いて3世紀にかけ叙事詩的な経典作成の時代に入った。まず、50年『般若経』、『維摩経』(大乗が小乗にまさる事を示す)ができ、次いで『法華経』、『華厳経』が生み出された。
梅原氏によれば、『法華経』は、「宗教的叙事詩のかたちをもった大乗仏典のうちでも、いちばん叙事詩的性格の強い仏典の一つ」であり(前掲書、157頁)、「大いなる生命の思想」(『仏教の思想』U、169頁)を教えた。それは、「実に大胆で実に巧妙な偽作作者によってつくられたもの」(『仏教の思想』U、486頁)で、「仏の使いの受難という思想」のもと、小乗も女性・悪人も「すべての人間が成仏するという考え」(『仏教の思想』U、509頁)をも伝えていた。
その後、龍樹(150−250年)は哲学的思索にふけり、『中論』で「空が虚無を意味するものではなく、現実の事物を真に成り立たせる原理」であることを唱えた(『講座 仏教思想』第五巻、1982年、441頁)。
250−350年頃、第二次仏典作成期にはいり、『涅槃経』『解深密経』が作成された。5世紀には世親の哲学が登場し、「詩と哲学の交互関係」があり、「まず、想像力と直観力にみちた詩的思想ができあがる。その詩的思想を哲学者が一つの体系にまとめる。哲学者の体系ができあがると、また詩的経典ができる」(前掲書、157頁)ということになった。そして、これらが中国に入ってきて、401−9年、鳩摩羅什が中国語に翻訳した。
梅原氏が「仏教は、海のごとき豊かな生命の教え」(『仏教の思想』U、513頁)というように、『法華経』とか一つの経典で代表させることはできないとみるべきだろう。
B 権力宗教
古代、東アジアでは、仏教は権力者によって保護・利用され、鎮護仏教となってゆく。仏教と権力の関係の歴史を紐解くと、@創唱者釈迦からして王族の出身であり、A布教過程で権力者の領地寄進などにすりより権力寄生的であり、B権力者側もまた菩薩などと称して、権力犯罪の解消と権力支配に仏教を大いに利用している。
@ 仏教の親権力性の根拠
菩薩 大乗仏教では、誰にでも仏性があり、精進によって仏となるという考えがある。そうした考えの具体的現れが菩薩である。菩薩とは、「国王や皇太子、あるいは神仙道を修する呪術者や乞食や鳥獣など世俗世界の存在の姿形をとる」(佐藤正英『聖徳太子の仏法』講談社、2004年、58頁)ものである。
権力者が、誰でもなれる菩薩と称して、さらには転輪聖王と称して、自らの権力正当化を行って人民統治を行うのである。世俗権力者が、宗教的権威を利用するのである。
仏教では、世俗権力者が菩薩にも転輪聖王にもなれるのである。権力者にとって、これほど魅力的な宗教はないのであり、これが仏教が普及上で権力者の支援をうける根拠の一つになる。次には、こうした仏教権力者を見てみよう。
転輪聖王 セ−ラ・バラモン(ヴェ−ダ学者)は、当時の権力構造を踏まえて、仏陀の在家、出家した場合の存在形態について、「もしもかれ(めざめた人=仏陀)が在家の生活を営むならば、かれは転輪王(バラモン教、ジャイナ教でも世界を統一する理想的な帝王とされていた)となり、正義を守る正義の王として四方を征服して、国土人民を安定させ、七宝を具有するに至る。すなわち彼には輪という宝・象という宝・馬という宝・珠という宝・女という宝・資産者という宝・及び第七に指揮者という宝が現れるのである。‥かれは、四海の果てに至るまで、この大地を武力によらずに刀剣を用いずに、正義によって征服して支配する。(第二に)しかしながら、もしもかれが家から出て出家者となりならば、真の人・覚りを開いた人となり、世間における諸々の煩悩の覆いをとり除く」(中村元訳『ブッダの言葉』121〜2頁)と指摘した。
これに対して、ブッダはセ−ラに、「わたくしは王でありますが、無上の真理の王です。真理によって輪をまわすのです」と答えている。輪を回して、敵を帰伏させて、平和と繁栄をもたらすのである。以上の問答は、『仏伝』(中村元編『原始仏典』)にも見られる。
転輪聖王によってもたらされる理想王国とは、全てが宝石でできており、「そこに住む人々は行いが正しく、誰もが喜びにあふれて暮らし」(サンスクリット経典『弥勒への約束』[菊地章太『儒教・仏教・道教』講談社、2008年、107頁])、「鶏が村や町や都市を飛び回っており、空いた所がないと思われるほど人間があふれ、まるで竹か葦の林のようだ」(パーリ語『転輪聖王の教え』=漢訳『転輪聖王修行経』[菊地章太前掲『儒教・仏教・道教』108頁])というものであった。宝石で輝く人口過密都市、それが転輪聖王の支配する国である。そして、そこでは「大地には棘がなく平らで、青々とした草で満ちている」(『弥勒への約束』)と、大地が平坦になるとする。こうした「理想王国での大地平坦化」は、『旧約聖書』、ゾロアスター教にもみられ、「ユーラシア大陸の広い範囲に古くから分布」していた(菊地章太前掲『儒教・仏教・道教』108頁)。
この転輪聖王は「繁栄」時代(この時の人の寿命は8万年という荒唐無稽な考えがある)の理想的王とされる。また、「地方の王侯、軍隊統率の転輪王、四州を支配する転輪王たちが坐っていました。彼らはみな従者をともない、かの世尊を見たてまつり、驚異の念をいだき、未曾有の思いをして、大きな歓喜を得ました」と、世尊のもとに服従していたことが述べられている。だが、「王」という権力者に「理想的」存在などはないのである。
転輪聖王の時代が終わると、暗黒時代に突入するともされる。
A インド・中国の仏教王国
仏教「王」の発現形態は多様である。大きくわけると、国王身分を残しつつ法王・転輪聖王。菩薩・如来となる場合と、国王とは異なる法王、聖王となって仏教王国を建国する場合がある。前者が大部分である。
a 国王身分を残す場合
イ アショカ王
大野達之助「アショーカ王の政治思想」(『聖徳太子の研究』、以下、注記ない場合、これに依拠)によると、アショカは紀元前304年に生まれ、前273年に長兄を殺害してマガダ国王に即位した。その後、『漢北伝』によると、五百の大臣・五百の宮女を殺害し、極悪人断罪の地獄舎をつくったりしたという。やがて比丘に出会い、彼女の神変により仏法を信じるようになる。そして、彼女はアショカに、「仏滅後百歳を過ぎた時にパータリプトラに阿育(アショカ)という王が出世し、転輪王となり、正法を以て統治するだろう。また我が舎利を分布し、閻浮提(えんぶだい。世界の中心にある大陸)に八万四千塔を立てるであろう」と告げた。これで目覚め、彼は仏法に帰依し、地獄舎を破壊したという。
それに対して、『島史』・『大史』などでは、「即位以前の長兄スマナの殺害、異母兄弟九十九人の殺害」には簡単に触れ、即位後「威徳」で自然界は王への供養などに満ち満ちたとする。『南伝』では、「悪王アショカ」と「聖王アショカ」という二人のアショカ王を登場させる。
以後、『岩石詔勅』などによると、即位後5、6年間は、アショカは、「インド一般の専制君主と同じように外に向かっては武力侵攻、内に対しては強権政治を行った」のである。アショカ王に「哲人政治家の面影」があったとしても、それは「アジア的古代専制国家の権力者に付加される二次的特色にすぎぬ」(家永三郎『聖徳太子集』日本思想体系二、岩波書店、1975年)のである。
アショカは、即位7年頃から仏教に目覚め、僧伽(そうきゃ)に接近し、即位11年で正覚に達した。ただし、即位後9年、カリンガを征服し、10万人を殺戮し、その数倍の者が戦禍にあった。「天子」アショカは「住民の殺戮、惨死、虜獲」に「甚だ苦痛」し、最後に「一切の勝利に卓絶せる勝利は徳(ダルマ)の勝利である」とする。その後の「熱心な精進」で即位11年で「正覚に達した」という。即位13−14年、岩石詔勅で民衆の徳化に努め、「民衆教化のために『教法大官』という特別な官職を設けた」のである。これは「正法大官」とも言われ、「領土内到る所、正法に志す者の為に尽力する」のである。それは「正覚の基盤に立った王道政治」であった。
最晩年の石柱詔勅で「人々の徳の増進」には「徳目の遵守と内観」とがあるとする。また、アショカは布施を行い、「医薬の設備をととのえ」、精舎・仏塔を建立した。
アショカ王死後、マガダ国は分裂する。アショカは上座部仏教だったという意見もあるが、インドでも、権力者が統治に仏教を利用したのである。その後、インドでは、「説一切有部は、釈迦牟尼がかれの弟子に教えた古い仏教を堅持したが、西暦紀元のころ、仏教の新しい形式に精通した人によってその派の中心を占められた」(塚本啓祥「大乗の教団」[平川彰ら編『大乗仏教とは何か』春秋社、1995年、252頁])のであった。そして、「1−4世紀には北インドで厖大な量の大乗経典が作成されたこと、および仏・菩薩の造像活動が盛んに行われたことを考慮すれば、大乗仏教の修行者や思想家のグループが存在し」、「かれらを経済的に支援した在家信者の信仰的な基盤が存在した」(同上書、253頁)とされる。この大乗を支援した「基盤」とは、いかなるものだったのか。それは、彼等を利用価値あると見た地方権力者ではなかったか。
ロ 中国皇帝
道教と仏教 中国では、春秋戦国(紀元前770−紀元前221年)、後漢(25−220年)末―南北朝(439−589年)の時期は「社会が大混乱している時代」であり、前者では儒教・道教、後者では仏教が導入され、「稀有壮大な大宇宙論的形而上学」構築にむかった(菊地前掲『儒教・仏教・道教』168−9頁)。
既に紀元前1世紀頃にシルクロードを往来する中央アジアの商人たちに護持僧がついてきて、中国にも来たことはあったろうが、まだ中国に仏教を普及させることはなかった(窪徳忠『道教史』山川出版社、1977年、96頁)。紀元後65年には後漢の明帝の異母弟の楚王英が仏教を信じている(『後漢書』楚王英伝[窪徳忠前掲『道教史』、95−6頁])。
2世紀にはサンスクリット仏教典の漢訳が開始された。だが、まだ仏教は、既存の儒教・道教の存在のためにまだまだ広く普及することはなかった。3世紀から南北朝時代、三国(魏呉蜀)、東晋・西晋、南朝(宗、斎、梁、陳)、北魏(西魏、東魏に分裂)など諸国分裂して、権力は新たな宗教として仏教に頼り始めた。既存の道教が、仏教導入に与っていたようだ。
一般に、道教の経典は「当時浸透しつつあった仏教への対抗上、仏教の教理や経典を模倣して作成され」、「儀礼も同様に仏教を模倣した」(坂出祥伸『道教とは何か』中公叢書、2005年、8頁)のであった。道教経典の集大成として5485巻(1120冊)からなる『道蔵(どうぞう)』がある。中でも重要なものとしては老子の作とされる『道徳経』(単に『老子』ともいう)、神仙思想の集大成である葛洪著の『抱朴』などがある。これらは、仏教の影響を受けてつくられrたというのである。
これに対して、マスペロは、道教もまた仏教の中国導入過程で大きな影響を与えたと主張するのである。インドと中国との宗教的特質は正反対であり、両国の間に「共通の感情もなんら存在せ」ぬなかでインド仏教が中国に受容される上で「道教が・・・一役買った」(アンリ・マスペロ、川勝義雄訳『道教』平凡社、昭和53年、93頁)というのである。
第一に、仏教が道教用語で翻訳されたということである。「仏教の主な述語は、そのサンスクリットの用語を何とか漢字に写して簡単に音訳されないときには、道教の述語を使って翻訳」したのである。つまり、2世紀から4世紀にかけて、『黄庭玉経』、それを体系的に整理した『大洞真経』がつくられ、これを土台に4世紀前半頃『八素真経』、『七転七変洞経』、『三天正法経』などがつくられた。後者は、「『大同真経』の伝統をしっかりひきうけている同一の道教グループ」(マスペロ前掲『道教』97頁)であったとされる。そして、道教の経典は、仏陀の弟子の問いに仏陀がこたえる形式が少なくない仏教経典にならって、元始天尊が太上道君をはじめとする神々の問いに答える形式が多かった(松本浩一前掲『道教徒は何か』190頁)。
こうした『道徳経』の「玄之又玄」に基づき究極的な道を求める重玄(ちょうげん)派のような「哲学的で深遠な教理」が説かれる一方で、「呪言、呪符、導引、兎歩、祈雨」などの「呪術に強く依存した経典」も多く書かれているのである(坂出祥伸『道教とは何か』中公叢書、2005年、8頁)。こうした呪術は以後も「生き生きと脈打ち」、老荘思想は「本質を粉飾する表層部」にすぎず、道教の本質は呪術にあるとする意見もある(坂出祥伸『道教とは何か』、8頁)。
第二に、仏教が、道教の流行に「まじり」、「その流行にのった」ということである。道教では、「仏陀とは蛮族を教化するために西に向かった老子その人」(マスペロ前掲『道教』210頁)とされた。だから、最初に訳された仏教経典は、道教徒に興味あるような「こまごました意味のない問題を取り扱った経典」(マスペロ前掲『道教』210頁)であった。例えば、『九横経』(雑阿含)は、長生きのための食事節制などが説かれ、『安般経』は仏教の呼吸法(道教では長時間で息を吸い、長時間息を止めるが、仏教は息を止めないという違いがあるが、仏教の瞑想による涅槃境地への到達と道教の「不死」の獲得とは似ていて、仏教は道教の「一つの変形」となる)をあつかい、いずれも道教のテーマと符合していた。道教徒にとって、仏教は「不死を得るための新しい方法」(マスペロ前掲『道教』216頁)であった。道教徒にとり、「仏教の涅槃とは道教的救済にほかならなかった」のである。仏教の聖人「阿羅漢」は道教の聖者「真人」と同一された。
仏教は、道教集団黄巾より「厳格で、穏健で、しかも合理的」であり、「錬金術の研究をもたず、純粋に道徳的、瞑想的な不死探求法」であったから、老子・荘子らとも「結合」したのである。
窪徳忠氏も、後漢(25−220年)に仏教が道教と同じようなものとして受け入れられたとする(窪前掲『道教史』106頁)。班固(32−92年。後漢書の著者)は、「仏教は道書のたぐい」とし、魚豢(ぎょけん。220−265年の魏時代頃に『魏略』を執筆した著者)は、「仏教の記載は『老子経』すなわち『道徳経』とよくにている」(窪前掲『道教史』106頁)とした。襄楷(後漢に活躍した道士)は、「仏教は清虚で無為をたっとび、生を好み殺をにくみ、おごりや欲をさる」ものと評価する。窪氏は、「中国の人たちが、仏を黄帝や老子と似た存在として、仏教や仏典を神仙説や道家の書に似たものとして、それぞれ受け取るようになった」(窪前掲『道教史』108頁)とし、マスペロと同様に「僧侶たちのなかには、人々に仏教を説明するときに、その理解をたすけ、受容を円滑に促進するための方便として、中国の信仰に結びつけてのべた人々があったのではなかろうか」とするのである。
そして、インド仏教徒が仏教と道教徒の違いを指摘し続けたので、中国仏教は道教に吸収されることはなかった。「中国人の仏教徒は、かれら(インド仏教徒)の影響の下に少しずつ、その宗教の独自性と真の意味とを自覚」(マスペロ前掲『道教』216頁)したのである。仏教徒はいち早く道教徒との関係を清算したが、道教徒は「長いあいだ、二つの宗教の深い同一性を確信」し、「道教徒はその習合の起原をさえ探し」、「仏陀と老子とが個人的に関係があったという寓話を想像するようになった」のである。つまり、老子は実在可能性は低かったが、道教徒は、「(老子の)旅行と変身を述べ、民間伝承と敬虔な神話をおりまぜて、老子を仏陀に会わせるところまでもっていった」のである。
ほかに、仏教と道教の相互影響、あるいは「類似性」として、@道教の三清(元始天尊、太上道君=霊宝天尊、太上老君=道徳天尊)と仏教の仏の三身(法身、報身、応身)、A道教の三洞(経典分類法)と、仏教の三蔵(経・律・論)、B道教の坐忘(修行の7階梯)と仏教の止観・禅の修業法(前掲松本『道教徒は何か』190頁、204頁)、C「仏教の法滅思想と道教の終末観とのつながり」(チュルヒャー[菊地前掲『儒教・仏教・道教』172頁])などがあげられる。
こうした中国における道教と仏教との関係は、日本における神道と仏教との関係を見るうえで参考となろう。
仏教普及 4世紀鳩摩羅什が大乗経典の漢訳を行った。北朝にはこの大乗仏教が伝わり、南朝には一時期小乗仏教が普及した(金教斌著、金明順訳『韓国哲学の系譜』日本評論社、2008年、47頁)。
そして、中国では、「王も民も仏の前には平等」という思想を後退させ、「皇帝即如来、菩薩」の思想を前面に押し立てて、仏教を支配手段として利用したものがすくなくなかった。皇帝、国王の身分を残して、菩薩、如来と称するのである。
特に、北朝では仏教が権力に積極的に利用された。鮮卑族(トルコ系の遊牧騎馬民族)の北魏(386−534年)の太祖武帝は、「仏教を国家仏教として容認し、仏寺の建立、仏像の造像を命じ」、道人統(僧侶監督職)の法果が武帝を「如来」とした。ここでの仏教は、「普遍的教理を有する仏教」ではなく、「『皇帝即如来』というように、正法を中心とする限りの枠をはめられた仏教」(前掲『聖徳太子と玉虫厨子』118頁)であった。
南朝の宋(420−479)では、元嘉年間(424−453年)に、?良耶舎(きょうりょうやしゃ)により大乗経典『観無量寿経』が翻訳される(田村円澄「仏教伝来」[『聖徳太子と飛鳥仏教』ぎょうせい、昭和61年、36頁])。
梁の武帝 梁の武帝は特に仏教を篤く信仰した。南斉宗室の支族蕭衍(しょうえん)は南斉和帝の禅譲を受け、502年(天監元年)に帝位に即き、梁朝を起こした。治世前半(502年―519年)、武帝は、倹約をモットーとし、官制整備、梁律頒布、大学設置、人材登用、租税軽減などで善政を施した。
天監3(504)年、武帝は光宅寺を創建し、法雲を寺主と定める。同7(508)年、武帝は法雲を家僧とした。法雲は、幼少のころから英俊の誉れが高く、慧観、慧厳、僧柔、慧次といった当代有数の仏教者から、三論(大乗)、成実(隋代に小乗とされる)、昆曇(びどん=アビダルマ。世観の倶舎論による小乗教)を学んでいた。大乗仏教をも学んだが、傾向的には小乗的であった。武帝は数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、皇帝菩薩とも皇帝大菩薩と称された。菩薩道としての統治を行うのではなく、小乗的生活から皇帝菩薩と称されたのである。
520年、達磨大師が広州府に着くと、武帝は、「私はこれまで寺を建て、写経し、僧尼に供養してきたが、どのくらいの功徳になっているだろうか」と尋ねた。達磨大師は「無功徳」と答えて、立ち去った。これが影響してか、普通と改元した520年以降は、仏教的「捨身」で散財しはじめた。527年(大通元年)、自らが建立した同泰寺では捨身名目で莫大な財物を施与し、以後529年、546年、547年にも捨身を行い、捨身のたびに群臣は寺院に一億銭でもって皇帝の身を請け戻した。この結果、梁朝の財政は逼迫し、民衆に対する苛斂誅求がなされた。東魏の将軍・侯景に帝は幽閉されて、没した。
この武帝について、梅原氏は、武帝は「仏教的な慈悲平等の精神で国家をつくろうとする理想」の追究者、「有徳」者であるゆえに破綻したと評価する。以後の為政者は、武帝を教訓にして、「仏教をもって国教にしようとする場合も、慈悲や平等より鎮護国家の思想をもって仏教を理解」(「梁の武帝と聖徳太子」『梅原猛著作集』第十八巻、1983年、379頁)しだしたとする。彼が内外権力者に与えた影響は小さくなかった。
随の楊堅 次に、大乗仏教について、随の楊堅から見れば、『隋書』の「本紀」によると、彼は541年馮翊(陝西省大茘県)の般若寺という仏寺で生まれ、乳母は智仙という尼僧であった。こうしたことから、楊堅は幼少時の頃から仏教に親しみを持っていたようだ。だが、彼が権力を掌握する前、権力者によって廃仏が行われた。
574年、北周の武宗は、儒教、仏教、道教の普及順序を議論した末に、儒教を優先し、仏教弾圧にのりだした。経典、仏像を破壊し、僧侶・道士を還俗させた(『周書』[上垣外前掲書、112頁])。578年武宗が死去すると、外戚の楊堅が権力を掌握し、仏教復興がはかられた。
581年楊堅は即位すると、文帝となり、国名を北周から隋とした。589年南の陳を征服して、300年ぶりに南北分裂を統一した。平和を確立し、荒廃した国土を再建するために、私設軍隊に武装解除させ、兵士を自作農として定着させ、運河拡張による交通・流通網の整備に着手し、科挙制度を創設した。さらに、廃仏の北周(石田尚豊『聖徳太子と玉虫厨子』181頁)とは違って、儒教に代わって仏教を主とする地位に置き、儒教・道教を副とするかのような政策をとった。585年に父母への追善供養の意味も込めて、出生地に後の日本の国分寺にあたる大興国寺を建立した(初唐の護法僧法琳の『弁正論』)。そのほかの仏教的施策としては、@官寺大興善寺を国都大興城に建立し、A国家負担で教化担当の僧官を設置し、B全国に仏舎利塔を建立するなどを行った。
隋の文帝 文帝は、591年には、「朕の位 人の王に在るも、三宝を紹隆し、永く至理を言(と)いて、大乗を弘闡(こうせん)せん」(前掲石田『聖徳太子と玉虫厨子』126頁)とした。文帝が自らは「人の王」としていることが注目される。また、文帝は「朕、三宝に帰依し、重ねて聖教を興す」と詔し、後に「大行菩薩国王」になぞらえられるところがあった(坂元義種「遣隋留学生・学問僧の役割」[前掲『聖徳太子と飛鳥仏教』78頁])。文帝は「仏教の普遍的理念を実現しようとした帝王」([『中村元選集(決定版)別巻6 聖徳太子』1998年、春秋社)であり、「みずから『転輪聖王』とも称していた」(中村元「聖徳太子と奈良仏教」[『日本の名著』2、聖徳太子、中央公論、昭和45年、38頁])とも言われる。文帝は、僧尼23万人、寺院3792ヶ所を養い、経論13万2086巻をまとめた(唐の法琳『弁正論[坂本太郎『聖徳太子』108頁])。
文帝楊堅の次子楊広は、文帝により隋が建国され、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍総帥となり、南朝の仏教界の高僧達と出会った。591年には、天台智より菩薩戒と「總持」の法名(居士号)を授かる。604年に文帝の崩御に伴い楊広は煬帝に即位した。
煬帝 煬帝は文帝同様に仏教を重視し、九宮を九寺にし、故経装備・新本写経612蔵、29,173部、93万3580巻、故像修治10万1千体、新像鋳刻3850体に及んだ(唐の法琳『弁正論[坂本太郎『聖徳太子』108頁])。煬帝は「菩薩天子」(和田清ら編訳『隋書倭国伝』岩波書店、1976年、74頁)などと称された。
だが、やがて倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送り、暴君に変貌する。洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また100万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させ、これを使い江南からの物資の輸送を行うことが出来るようになった。対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、林邑、流求(現在の台湾)などに出兵し版図を拡大した。
612年には煬帝は高句麗遠征を実施する。高句麗遠征は3度実施されたが失敗に終わり、これにより隋の権威は失墜した。618年、江都に逃れた煬帝は殺害された。
アジアの大国隋は、蘇我、厩戸、推古の仏教王国構築に大きな影響を与えた。
中国仏教は、朝鮮、日本に影響を与えたが、仏教は「中華の国で根づいて行くためには大幅なつくりかえをせざるをえなかった」(菊地章太『儒教・仏教・道教』講談社選書メチエ、2008年、37頁)といわれる。その変更点として、@ゾロアスター教の広まっていたガンダーラ(インド北西)で仏教は菩薩(真理にめざめようと努力する人)・如来(目標に到達した人)がでて「多くの人々を助けよう」というものになり、この大乗仏教が中国・朝鮮に伝えられ、Aジャータカ(釈迦の前世の物語)では、前世に動物がいたり、自らの体を刻んで他の命を助けたりしていて、これは、親から受けた肉体を傷つけずに孝をつくすことを重視する中国では受け入れられず、B「輪廻転生を大原則とするインドの仏教では、遺骨になんら未練はな」かったが、先祖を重視する中国では「墓を大事にし、位牌を大事にする仏教的習俗」となり、、『盂蘭盆経』(安居[あんご。僧侶が集団で修行すること]の終わる陰暦7月15日に盆に持って食べ物を僧侶に供えれば、餓鬼に落ちた母の霊が浮かばれたという話。)が作られ、C中国で戒律『梵網(ぼんもう)経』がつくられ、インド戒律を不要とし、「地獄行き」刑が新設され、D『父母恩重(おんじゅう)経』、『仁王般若経』などが中国で作られたことがあげられる(菊地章太前掲『儒教・仏教・道教』37頁、52頁、146頁、148頁)。概して「仏教の儒教化」(菊地章太前掲『儒教・仏教・道教』186頁)がはかられた。
ハ その他
タイ国王 タイ王(在位1347年?
- 1368年?)は仏法を研究して三界論を著し、相次ぐ離反で弱体化するスコータイ王朝を仏教思想で補完しようとして出家し、ダルマラージャ(仏法王)と称した。
上座部仏教でも、権力は弱点を補完するために利用するのである。
ブータン国王 1907年12月17日に、トンサ(中央部)を直営地とするジクメ・ナムギュルの子ゴングサル・ウゲン・ワンチュック(Gongsar Ugyen Wangchuk)は、ラマ僧、官吏、各地区のチラ(chillah)、人民代表、何よりもドルジ家の支持と英国の支持とで初代国王に選出された。ドルジ家という親英国的有力豪族の支援で、トンサ豪族ゴングサル・ウゲン・ワンチュックが国王になったのである。やがてドゥック・デシ(政治の長。摂政)を廃止して、明らかに彼にとって代わった。
ここに、ブータン元首は、国王かシャプドゥーンのいずれかかという問題が生じる。国王は、大臣会議を設置して、シャプドゥン制の国家評議会を非公式なものにした。さらに、1931年11月、第2代国王は、シャプドゥンをタロ僧院で窒息死させることを命じた。国王は、意の化身には「ブ−タンの最高権力を行使する権威」が認められていたので、彼の権威を恐れ(詳細は、ワンチュック『虹と雲』30−37頁)、内乱を懸念したのである。
それから約70年後の2006年12月第5代国王が26歳で即位し、2008年3月に初の総選挙が行われ、7月には憲法を制定して絶対王制から立憲君主制に移行した。民主化プロセスの終結を受け、内外に正式即位を披露した。これで、法制的に国王のシャプドゥーンに対する優位が確定する。
2008年11月6日、ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュック第5代国王(28)の戴冠式が行われた。ブータン国王は「ダルマ国王として・・同情(慈悲)の化身でもあり、多くの人々は(2008年11月の戴冠式当日の)夜明け前にチャングリミタン・スタジアムに参集し、一日中待っていた。彼らにとって、国王の手に軽く触れ、生きる事の祝福を得たのであった」(A King for today‥and tomorrow,Druk Phuensum Tshogpa.15November,2008)。
戴冠式に際して、国王は、シャプドゥンとジェ・ケンポ(法王)双方から正統性を付与される。シャプドゥン(最高の高僧リンポチェ)側は、11月1日、プナカ・ゾングで、国王に「五つの神聖なる権能」を授けた。一方、ジェ・ケンポは、「国王に普遍的皇帝の権能―ダルマ、不屈、迅速、成就、献身、智恵、勇気の象徴―を与えた」(The Supreme Protector, Druk Phuensum Tshogpa. 8 November, 2008)のであった。
b 国王身分を残さぬ場合−チベット
中国仏教排除 620年チベットに吐蕃王国が成立し、初代国王は、隣国大国のインド、中国から仏教を取り入れた。8世紀後半、ティソン・デツェン王は唐と抗争を繰り返し、仏教を国教とした。775年チベット仏教の根本道場としてサムイェ寺を建立し始めた。チベットは786年に敦煌を陥落させ、敦煌から禅僧摩訶衍(まかえん)をサムイェ寺に招いて、中国禅宗を説いた。
これに対して、インド仏教僧は、中国禅宗は仏教ではないと抗議した。794年ティソン・デツェン王はインド仏教長老カマラシーラと中国禅僧摩訶衍とに「インド側が主張する漸悟説」(修行を段階的に行って高次の境位にすすむ)と「中国側の主張する頓悟説」(一切の分別を断じてたちまちに悟ること)を戦わせた。
中国仏教は、「仏教のなかから、彼らに理解できる者を選択し、儒教や道教と融合させ」たものであるのに対して、インド仏教は「本来の仏教」であった。当然、インド側が勝利した。チベットはインド仏教を導入し、「サンスクリット文献」をチベット語に「逐語訳」した(以上、菊地前掲『儒教・仏教・道教』177−180頁)。
ダライ・ラマ チベットでは、842年にラン・ダルマ王が仏教僧によって暗殺され、846年古代統一王朝が崩壊し、以後小国分裂が続いた。その後チベットを再統一したパグモドゥパは1406年に明より闡化王の称を受ける。だが、この王国も16世紀に衰え、1578年モンゴルの庇護を得て、指導者は「ダライラマ」(モンゴル語の「海=ダライ」とチベット語の「師=ラマ」)の称号を与えられる。チベット仏教の改革派であるゲルグ派(黄帽派)が勢力を伸張させ、一人はダライ=ラマ(観世音菩薩の化身)を称し,他の一人はパンチェン=ラマ(阿弥陀仏の化身)を称した。ダライ=ラマ5世(1617年―1682年)は青海のグシ汗支援でウィ地方を支配し、パンチェン=ラマはツァン地方を統治した。
チベットに再び統一政権ができるにつれて、ダライ・ラマ5世(1617-1682)は学僧であると同時に、1642年にモンゴル支援で王権と宗教を一身に体現する「僧王」となり、政教両面での最高権力者となった。チベットでは聖俗両界の「分担」制はなく、学僧が両界支配の「僧王」になったのである。以来、歴代ダライ・ラマはチベットの政教両面の最高指導者であり続けてきた。
1720年に清朝はダライラマ7世を公認し、清軍とともにラサに入ったが、抵抗にあって1722年に軍を撤退させ、清朝はチベットを完全統治できなかった。だが、同盟関係にあったモンゴル=オイラートのジュンガル部が衰退すると、清朝のチベット干渉は本格化し、1723年、雍正帝(在位1722年―1735年)によるグシ・ハン一族(チンワン・ロサン・テンジンが指導)の征服後に、チベットは「西藏」と称する中国の行政単位に編入された。雍正帝は、グシ・ハン一族の各地諸侯や直轄地に対する支配権を接収し、グシ・ハン一族と麾下の青海モンゴルの各部族を理藩院の管下に置き、ダライラマにタンラ山脈(唐古拉山脈)、ディチュ河(金沙江)を結ぶ線の南側をも加増してチベット支配を認めた。乾隆帝(在位1735年―1796年)は、1751年に度重なるチベットの内乱に対して、4人の大臣をダライ・ラマの下に置き、ダライ・ラマと駐チベット大臣で人事・政策を決めることになった。これにより、チベットの貴族勢力はダライ・ラマに統轄されたが、同時に清朝のチベット宗主権が確立することになる。こうして、チベットは清朝理藩院の監察下に清朝保護国とされた。文殊菩薩の化身した転輪聖王(乾隆帝)が、観世音菩薩の化身たる僧王ダライラマを従属下においたのである。
1779年のパンチェンラマ四世招聘は、宗教的には文殊菩薩の化身した転輪聖王(乾隆帝)の健勝を、西方の阿弥陀仏の化身(パンチェンラマ)が祈願するという意味があった(石濱裕美子「パンチェンラマと乾隆帝の会見の背景にある仏教思想について」[1994『内陸アジア言語の研究』9,]と「転輪聖王思想が蔵蒙清関係に与えた影響について」[1994『史滴』16]など)。清朝乾隆帝は、観世音菩薩の化身ダライラマ、阿弥陀仏化身のパンチェンラマとならぶ文殊菩薩の化身であったのである。パンチェンラマは、清朝で大きな影響力を発揮するようになり、満州人のチベット内政干渉を防ぎ、ダライラマの権威を引き上げることにも成功した。仏教が権力者の支配手段として遺憾なく利用されている。
こうして、ゲルグ派のもとで、チベットではこの転輪聖王(cakravartin)と呼ばれる菩薩王の代表ダライラマ、阿弥陀仏化身としてパンチェンラマがいて、仏教界に二人の指導者がいたことは似ているが、実際はダライラマが最高指導者である。だが、ブータンでは、@ドゥック派(チベット仏教カギュ派の分派)であり(密教修行法などで相違)、A地政学的位置から外部勢力、特に中国の「従属支配」を避けるために、イギリス・インド支援を受け、Bシャプドゥンが身・口・意の化身神話をもち、宗教界の最高指導者であり、そのもとにジェ・ケンポとは別に、俗権代表のデシが存在したが、シャプドゥンの威力が弱く、C仏教勢力ではなく、やがて仏教を支配に利用する権力者がブータンを統治してゆくなど、チベットとは違う歴史をたどった。
小 括 以上、仏教で建国しようとする場合、まず、菩薩というものがあった。中国の皇帝、日本の聖武天皇などは菩薩と称する。権力者が菩薩になっても、農民からの年貢収奪を廃止して、農民解放したことは一度たりともなかった。
また、転輪聖王というものがある。釈尊は、「三千年経つとウドンゲの花(インドにあるイチジクの一種で、三千年に一度花が咲く)が咲き、転輪聖王(弥勒)が下生し、世を正し救う」(『弥勒下生経』)とも予言した。聖王統治は釈迦の予言でもあったのである。
この転輪聖王には、仏陀が「正義を守る正義の王」=転輪聖王となる場合と、インドのアショカ王が「正覚の基盤に立った王道政治」を行う転輪聖王になったり、現代ブータンの世俗国王が普遍的皇帝=転輪聖王となる場合などがある。ほかに転輪聖王の例としては新羅王室、乾隆帝などがある。
こうして仏教上の国王は、転輪聖王、菩薩国王、仏教的法王身分、世俗国王身分など多様である。そして、現ブータン王国では、国王は、別にいる仏教法王に認められる形で普遍的皇帝になるように、仏教で王国を建国する場合、仏教国王や法王などの関係は決して一様ではないのである。しかも、各仏教王の関係は平等ではなく、軍事的・経済的勢力に応じて支配・従属関係が生じたのである。
B 東アジア仏教王国と日本
弱小国百済は戒律、弥勒菩薩信仰中心だったのに、強国高句麗、新羅は国家仏教中心であった。いずれも王の仏教でありつつも、百済は民衆に浸透した仏教であったが、高句麗、新羅は国家鎮護仏教の色彩が濃いものだった。
特に、新羅は、国土を「極楽浄土」とみて、「王が仏だという護国仏教の思想が大きな原動力」となって、「高句麗と百済を滅ぼすほどの強国になった」(金教斌前掲『韓国哲学の系譜』52−3頁)のである。新羅では、「王が仏であり、王室が仏の家族で、新羅こそ仏の国だという王中心の仏教理念」(金教斌前掲『韓国哲学の系譜』60頁)であった。
東アジア仏教王国 当時の日本の最大権力者の蘇我馬子は、渡航者、帰化人などを通してこうした東アジアの仏教を利用した専制国家に触れて、これを日本にも導入しようとする。馬子が仏教法王にしてゆく厩戸王子(聖徳太子)が、インドのアショカ王、チベットのソンツェンガンボ王、隋の文帝(初代皇帝楊堅)と同様に仏教的「帝王」「法王」であったことは、中村元氏によって既にふれられている(『中村元選集(決定版)別巻6 聖徳太子』1998年、春秋社)。
大野達之助氏は、アショカ王は「自身の仏教体験を本として民衆を道徳的に教化」しようとした点で「聖徳太子の政治思想と基本的に同一」(『聖徳太子の研究』吉川弘文館、昭和45年、4頁)とする。上垣外憲一氏は、「聖徳太子は、仏教を篤く信仰し、自身も経典を講義したと伝えられる点などで言えば、梁の武帝に近い」(前掲『聖徳太子と鉄の王朝』190頁)とする。梅原氏も、「太子を育てたのは、梁の武帝の国家理想」であり、結局、「太子は、梁の武帝と同じ悲劇的運命をたど」(「梁の武帝と聖徳太子」『梅原猛著作集』第十八巻、1983年、379頁)ったとし、武帝と聖徳太子の「中間」に「百済の聖明王を考えてみる」ことを示唆する。特定のモデルがいたというより、当時の東アジアでは、仏教大王の統治が普及しており、蘇我馬子の支援のもとで厩戸もこうした東アジアの流れに影響をうけたとみたほうがいいであろう。
祭祀との摩擦 だが、日本の場合、大王が諸神を祀る祭祀権者であることから、大王が仏教で建国しようとする場合、従来の諸神を敬う祭祀との関連をどうするかという深刻な問題が生じる。既存神祇をないがしろにすれば、いかなる災厄が国家に降りかかるやも知れない。
仏教王国では、権力者が豪族支配を強めるために、自ら仏教頂点について聖王、法王などと称することがあるが、この場合、国王が法王になれば問題は生じないが、祭祀国王と仏教法王が並存する場合、法王と国王の序列が重要になる。前述の様に、弥生朝時代には、祭事権者は女性(姉妹)で政事権者は男(兄弟)だが、崇神天皇から推古天皇頃まで、大王が「兄なる王」として「第一次主権をもつ祭事権者」で独身、第二子の弟が「第二次主権を持つ政事権者」であった。仏教導入で、第二次主権者の「弟」が法王となり、さらに第一次主権者になろうとするとどうなるかという問題とも言い換えることができる。実際に、奈良時代には、後述の通り法王道鏡が称徳天皇と同等か、上になって、統治しようとする事件がおこる。厩戸の場合も、仏教法王として現実政治を行う以上、祭祀大王推古との間に問題が生じないわけがないであろう。
朝鮮仏教導入 日本は、仏教を中国から直接導入したのではなく、朝鮮を経由して導入する。3世紀の邪馬台国、5世紀の「倭の五王」時代に仏教が導入されなかったのは、「中国の国王・皇帝の側において、仏教を『下賜』する意志がなかったからである」(田村円澄「仏教伝来」[『聖徳太子と飛鳥仏教』ぎょうせい、昭和61年、36頁])とされている。そこで、日本は、争いがつきない朝鮮三国の王権から仏教を受け入れることになる。個人的に持ち帰る「私宅仏教」もあったろうが、当時の仏教は、「王権によらないかぎり、仏法の興隆はありえない」として、「つねに王権を目指して伝来した」(田村円澄「仏教伝来」[『聖徳太子と飛鳥仏教』38頁])のであったといわれる。権力者が、統治手段として仏教を別の統治者に伝授して、仏教が普及してゆくというのである。
倭国にとり、百済、高句麗は友好国であり、新羅は任那を滅亡させた「敵国」ではある。だが、厩戸は、仏教、文化などの導入面では、弱小国百済よりも強国高句麗・新羅の仏教統治の長所を積極的に導入する姿勢を示したであろう。
当時の高句麗外交は「仏教外交と位置づけてもよいほどに仏教的色彩が強かった」(坂元義種「遣隋留学生・学問僧の役割」[前掲『聖徳太子と飛鳥仏教』80頁])ようだ。朝鮮半島の対日仏教政策は、対外危機の産物であった。
百済仏教導入の理由 513年百済は倭国に使節を派遣して、任那四県に「百済の支配権を認めるように要請した(井上前掲『古代朝鮮』134頁)。そのために、百済は倭国に「大型文化供与」(139頁)を行ったというのであるが、あくまで朝鮮権力が倭国権力に与えた権力統治補強装置であって、単純な文化供与などではないのである。井上秀雄氏は、「任那日本府は・・・百済に侵略された西部の加羅諸国の亡命勢力」(前掲『古代朝鮮』140頁)とする。倭国は百済にこれを認めた。532年「旧金官加羅国と安羅国」をめぐって新羅、百済が対立すると、543年百済聖王は珍奇産物などを倭朝に献上した。だが、倭朝の使節津守連は百済に、「加羅地方に配置している百済の郡令・城主の撤退」を要求する(141頁)。翌544年、百済は倭国に、「百済を中心とした加羅諸国の連合体制の承認と、3千人の軍隊派遣を要求」してきた。548年倭国は百済に370人の兵士を送った。
百済、新羅は高句麗と対決するために一時的に同盟していたが、552年には、百済は、新羅・高句麗連合と対立し、倭国に救援軍派遣を求めてきた。朝鮮各国の敵味方の流動性は激しかった。今日の味方は明日の敵であった。
仏教外交展開 6世紀末隋と高句麗の関係は緊張し、598年2月隋は高句麗に出兵した。これを見て、百済も隋がいつ自国侵略に向かうかという危機感を覚え始め、「百済外交の大転換」(井上秀雄『古代朝鮮』講談社、2004年、106頁)をおこなった。高句麗、百済の対日外交が積極化する。
595年、高句麗の僧慧慈、百済の僧恵聡らが渡来し、翌年法興寺に迎えられ、「三宝の棟梁」(川岸宏教「太子の仏教興隆政策」前掲書76頁)とされる。602年僧隆、雲聡、610年曇徴、法定、625年恵灌が来朝したが、彼らの多くは高麗王の献上した僧侶であった。この頃の厩戸が最も欲していたものが仏教だったので、こういうことになったのであろう」(坂元義種「遣隋留学生・学問僧の役割」[前掲『聖徳太子と飛鳥仏教』81頁])といわれる。
欽明朝時代、百済は交代で王宮に僧侶を勤務させていた。これは、「倭国の軍事援助に対する積極的な代償行為」であった。602年には百済から僧観勒が来朝し、624年僧正(仏僧最高位)に任命された。恵聡、観勒は「おそらく百済王の意向を受け、いわば百済から派遣されて来た僧侶」(坂元義種「遣隋留学生・学問僧の役割」[前掲『聖徳太子と飛鳥仏教』80頁])だったようだ。
厩戸は、一応は三国出身者を周辺に配置して、三国に等しく門戸開放して、大陸文化を受容した(田村円澄『飛鳥・白鳳仏教論』雄山閣、1975年)。
帝国主義との関連 仏教は、対外戦争では勝利祈願の宗教と成り、第二次大戦では帝国主義を是認する宗教となった。こうした、仏教の「対権力面での脆弱性」は、富社会の宗教として誕生した事情に由来している。
三 ギリシャ
西洋学問の源流がギリシャ哲学であることは言うまでもない。中世のみならず、現在でも、ギリシャ哲学は西欧学問の母胎の位置を占めており、@「ケンタウロス的形而上学」(「ギリシャ人は人間を、神と野関係においては『死すべき者』、獣との関係においては『神的なもの』』と把握すること)がキリスト教文化で拡大深化され、「力動的歴史存在としての人間活動」(「『世界』や『自然』と拮抗して立つ『内面性』、『自我』としての人間活動」、つまり、人間が自然に立ち向かう事を肯定する自然観)が、近現代の「ヨーロッパ的世界秩序構築の基礎マトリックス」となり、経済学(ブルジョア経済学と、その批判的産物としてのマルクス経済学。両者は同根である)を生み出し、帝国主義(「ヨーロッパの略奪」)を「正当化する根拠」となったり、批判するものとなっていること、A「科学するとはギリシャ人的に思考すること」(バーネット)、「ヨーロッパ的科学しか『科学』はない」(ポッパー)ということの妥当性を「ギリシャ人の哲学と科学」及び「その根底にある人間観」(山田偉也『古代ギリシャの思想』講談社、2002年、17−19頁など)にさぐることが重要となる。特に、後者に関連して、西洋では、自然に対峙して論理学的に明確に把握されているということもまた、ギリシャ的淵源をもっているのである。
@ 哲学の誕生
ギリシャには、ソクラテス(前469−前399年)、プラトン(前427−前347)、アリストテレス(前384−前322年)らが登場する。ギリシャでは、論理学による明確な把握が重視された。以下では、ギリシャでは、インドのように悟りの哲学的宗教ではなく、論理の自然哲学=物理学がおきたのはなぜかを考察してみよう。
ギリシャの戦乱 紀元前2000年頃、北のヨ−ロッパ内陸で「戦争と農耕と繁殖の神々を頂点」(ピエ−ル・レベック、青柳正規訳『ギリシャ文明』創元社、2003年、43頁)にいただく「インド・ヨ−ロッパ語族のギリシャ人がバルカン半島を南下しはじめた」(荒川紘『東と西の宇宙観』西洋篇、紀伊国屋書店、2005年、81頁)。彼らは先住民と争い、宮殿を破壊した。
彼らはクレタ文明を取り入れて、前17世紀にミケナイ各地に都市文明を築いて、最初の宮殿を建設した。前1200年頃、ドリス人が富を求めて侵略し、ミケナイの城塞群を崩壊し、王宮を廃虚にしていった。ここにギリシャは「貧困と混乱の『暗黒時代』」(レベック同上書、51頁)に突入した。ホメロス『イリアス』(前8世紀頃に作成[松平千秋訳、岩波文庫、2004年])は、このギリシャでの戦争を英雄叙事詩として語った。
だが、前8世紀頃にギリシャでは古代王政は衰退・崩壊して、「暗黒時代」が終わりを告げて、都市国家ポリスが各地に形成された。紀元前6、7世紀から数世紀にかけ、ギリシャ都市国家間に富=剰余をめぐって戦争が頻繁に起き、古代アテネでは、富を支配した少数貴族の権力者が重装騎兵隊を編成して国を支配していた。だが、戦闘方式が騎兵から平民の重装歩兵に移ってゆくと、自由市民の重装歩兵たちにも参政権が認められていく。アテネ民主政は、軍事的義務の見返りにポリス自由市民にのみ参政権を認め、女性、奴隷、他のポリスからの移住者などには参政権は認めず、人権を保障する憲法もなく、奴隷制に支えられた、教育水準の低い、絶えず専制支配危機に裏打ちされた薄氷民主制ともいうべきものであった。だから、それは衆愚政治を経て君主制・寡頭制の国家になりかねなかった。
こうした戦乱の中で、人々は宇宙、人生、人徳、倫理などについて論理的・科学的に考えるようになっていった。彼らは人間や現実の真実を自然世界の中にもとめようとして、既存の神話的発想から脱却して、「世界の現象を神々の気紛れなはたらきの結果とはせずに、世界に内在する普遍的な法則や原因によるものとして説明し、存在するものの本質を概念的・抽象的に言い表そうとし」(クラウス・リ−ゼンフ−バ−『西洋古代中世哲学史』放送大学教育振興会、1991年、11頁)、人徳について模索し始めたのである。
ただし、ヘシオドス(前700年頃)のみは、「人類の歴史を『退歩』の相に見」て、「人類は、始原における黄金時代からしだいに堕落し、ついに当世の惨めな無法状態に陥った」(山川前掲書、242−3頁)とみた。だが、これはギリシャでは主流的位置をしめることはなかった。それは、彼らが、自然、宇宙、物質の根源を掘り下げこそすれ、歴史の根源を掘り下げることはなかったからである。
科学的宇宙論 地中海交易で展開した商工業を基盤に社会の軋轢が深刻化すると、デモクリトス(前460−370年頃)、プラトン(前427−347年)、アリストテレス(前384−322年)が登場した。彼らは、「ギリシャ風の市民国家(ポリス)」における「政治と道徳」(田中美知太郎『古代哲学史』筑摩叢書、1985年、10頁)や宇宙論が問題となった。
「地球を中心にすえて太陽と月をふくむ惑星と恒星の同心的な天球が同心的に回転するというアリストテレスの宇宙論がギリシャの宇宙論の本流とな」(荒川紘『東と西の宇宙観』西洋篇、紀伊国屋書店、2005年、はじめに)り、宇宙学として学問が始まった。こうして、「むかしの哲学者は夜空をながめて畏れをいだき、星の配置や惑星の運行、日の出入りなんかを理論的に説明」し、「物理学の起源は天文学」となった。これは世界中どこでもそうであり、ただギリシャでは哲学として展開したということである。
小アジア・イオニアのポリス・ミトレスに現れた自然哲学者は、星、太陽、天、日夜・月・年の動きをみて、「哲学を引き出し」(プラトン『テイマエウス』[H.クルフォ−ドら前掲『古代オリエントの神話と思想』308頁])て、神を排除し、科学的な宇宙論を提唱した(荒川同上書、82頁)。彼らは、「万物は神々に満ちている」(タ−レス)としつつも、「事物の脈絡を理解」(H.クルフォ−ドら前掲『古代オリエントの神話と思想』298頁)しようとした。戦乱をもたらす神話的世界への不信が、科学・論理学を生んだのである。
ロバ−ト・モアコットは、「ギリシャがますますエジプトや西アジアと関わりを深めていた」事が「知的な発展にとって重要な刺激となった」(桜井万里子訳『古代ギリシャ』河出書房新社、1998年、82頁)とした。
この「イオニアの一地方に目覚めたギリシャ的理性は、二千五百年の歳月を経て、いま、『核時代の生と死』の鑰を握る<正義の女神>の座についている」(山川偉也『古代ギリシャの思想』講談社、2002年、18頁)とも言われる。
イオニア学派 前550−330年、古代イランにアケメネス朝ペルシャがおこり、ダレイオス1世の時、版図がギリシャ・マケドニアから北西インドにまで及んだ。
この頃ヘシオドス(前485−420年)が、ペルシャ戦争(前492−449年)などを書き記した。彼によれば、「インドに至るまでのアジア地域には人が住むが、インドから東の地はすでに無人の境」(松平千秋訳『歴史』中、岩波文庫、昭和48年、27頁)であり、「ダレイオスは‥インダス河が、どの地点で海に注ぐか」(同上書、30頁)を調査したと記しているように、ダレイオスは、インドはギリシャと連繋する地域としていた。
イオニア(小アジア西海岸)の都市ミレトスは「貿易と織物産業」で「ギリシャ諸都市のなかで最大かつ最も富んだ都市」(山川前掲書、30頁)となり、これを背景に民主主義が展開し、ペルシャとの争いが展開するなか、「現象を非神話化・非神秘化の方向で説明することへの関心」(T・C・ブリックハウスら『裁かれたソクラテス』米沢茂ら訳、東海大学出版会、1994年、105頁)が大きくなった。戦争は、インドでは悟りの哲学を生んだが、ギリシャでは最初の科学的宇宙論を生み出す。つまり、タレス(前624頃−565頃)、アナクシマンドロス(前611頃−547頃)らが史上初めて科学的宇宙論を展開したのである。宇宙(コスモス)という哲学用語が、はじめて「全体秩序」・「世界秩序」などを表すことになる(山川前掲書、23頁)。
彼らは、「この世界は、適当な観測を行う骨折りをしさえすれば、合理的に理解しうる」(シュレディンガ−、河辺六男訳『自然とギリシャ人』工作舎、1991年、93−4頁)とした。そこで、彼らは、物質の「始源」(アルケ−)とともに、「多様で変化する自然(フュシス)の根底に存在する不変なもの」を追究し、「ミトレスの最初の哲学者」(山川前掲書、32頁)タレスはそれを水とした。彼らは、自然(フュシス)と超自然的なものとの「境界設定」を行い、従来「超自然的な力への信仰」による支配を排除して、「事物のフュシスそのものを純粋に取り出そう」(山川前掲書、34−5頁)とした。
ターレスは万物の始原は水と見た。ギリシャでは、ヘシオドス『神統記』(広川洋一訳、岩波文庫、1984年)が混沌から歴史が始まると見る事を自明として、もはやそれ以上は実証的に歴史的根源を解明することなく、新たに万物の根源とはなにかということを追究することをもって、哲学の歴史が始まった。彼は、水は、「熱と生命が湿ったものから発生し、また養分も種子も湿り気を含んでいるから」(クラウス前掲書、12頁)であった。彼らは、「おそれるべき洞察力」で「天上から地上にいたるあらゆる現象のなかを貫いて走る一本の筋書」を「筋書たらしめている<元のもの>(アルケー)が何であるか」(山川前掲書、27頁)を考察したのである。
アナクシマンドロスはターレスの水アルケー論に疑問を懐き、「超自然的な力を可能な限り排除」して、日時計、世界地図、星図、天球儀などつくった科学技術者として(山川前掲書、43頁)、冷たくて湿った水が無限にあるとすると、その正反対の熱いもの、乾燥したものの生成が難しくなると、この「水アルケー」論を批判した。彼は、「火、空気、水、土という元素は対立し合う性質をもつのであるから」、水だけが「第一原理」にはなりえないとした。彼は、根源的原理は、「すべての生成と消滅に対してその起源と終極として先だってある」「無限定なもの」・「無限」(ト・アペイロン)だとした。だが、実際には、「事物は昼と夜、夏と冬のようにその対立によって互いに限定し合い、打ち消しあ」い、「相互に対して不正をなしている」が、自然にはこれを「均衡」させる「正義の秩序」があるという(クラウス前掲書、14頁)。そして、こうした中間的なものの基礎の上に、彼は、@大地は水の上にあるのではなく、宇宙の中心に浮かび、A生物は太陽と水から生まれ、人間は魚を先祖に誕生したとした(荒川前掲書、95頁)。彼は、神とは無縁に「自然学的な議論から人間の起源を説明」(クラウス前掲書、95頁)し、合理的に「コスモスとその全体の仕組み」(山川前掲書、55頁)を初めて明らかにした。
アナクシメネス(前585−526年)は師アナクシマンドロスのト・アペイロンを捨てて(山川前掲書、57頁)、空気(アエール)が、「永遠に動いてやまぬ無限な存在として、神であり、生命の源」(内山勝利・中川純男編『西洋哲学史』ミネルブァ書房、2003年、12頁)として、「宇宙全体を統括」するとした。アナクシメネスは、「平板の大地は空気の上にあって安定」し「天体はつねにその上にある」という宇宙論を展開したが、これが「当時のギリシャ人の常識的な見方」であった。ここには、「『空気』という同一のものが圧縮されたり希薄にされたりするものであることを認めることにおいて、物質の粒子論的構想を予示」(山川前掲書、62頁)し、やがて原子論者に影響を与える。こうして、ギリシャ哲学の特徴、物質の根源と生成・消滅の理由の追及が始められた。
これはブッダとも関係があった。つまり、ここには「インドの『倶舎論』の仏教の須弥山説にも通ずるところがあ」り、「須弥山説でも宇宙は巨大な空気の輪(風輪)の上に載っており、太陽は宇宙の中央にそびえる須弥山のまわりを回転するので、太陽がそれに隠れて夜がくる」(荒川同上書、101頁)のである。物理学者シュレディンガ−は、この前6世紀の「イオニアの啓蒙」期には、「極東(ママ)において、ゴ−ダマ・ブッダ(前560年頃生誕)、老子およびその年少の同時代人孔子(前551年生)の名と結びつけられる、途方もない影響力をもった思潮も動き出した」(前掲『自然とギリシャ人』91頁)と、東西における、前6、5世紀の画期性を適確に指摘していた。アレキサンダー大王の東征以前に、既にギリシャ、インドは互いに関係し影響しあいつつ、それぞれ違うものを生み出していったのである。
さらに、この宇宙論は、ピタゴラス、プラトン、アリストテレスらの宇宙論の源流となった(クラウス前掲書、100頁)。こうして、前6世紀のイオニアの知的革命は「コスモスの発見」と同時になされ、@万物のアルケーから「世界秩序の漸次的<生成>と<発展>」が生まれ、Aこのアルケーをコスミックな神の観念に結びつけ、「神話的世界像の枠組みになおも負いつつ」、B自然的世界の要所を占める諸天体の配置・運動を幾何学で説明し、C天体観測で自然的世界における一切の変化を「周期的な対立諸力の交代の結果」とし、D経験的データに依拠する点で「神話の発想とは根本的に対立」(山川前掲書、140−141頁)するものだった。
この三人をミレトス派として、ヘラクレイトス(前540−480頃)と区別する意見がある。ヘラクレイトスはこの三人とは意見が異なり、万物の始原は火であるとした(田中美知太郎前掲書、17頁)。
そして、彼は、対立関係は必要なものとし、「昼夜、夏冬、戦争平和、飽食飢餓」などは「あらゆる現象と存在にとっての、普遍的な弁証法的根本原理」(クラウス前掲書、20−21頁)とした。この「諸物の対立闘争とその均衡によって宇宙全体は結合調和している」(内山ら編前掲書、18頁)とした。彼は、「万物が『喰いちがいつつみずからに同調する』あり方をそのまま一つの『あらわならぬ調和』として捉え」(山川前掲書、130頁)、「万物一体、矛盾の即一」(田中美知太郎前掲書、18頁)を説いたのである。しかし、彼に従うと、戦争は必要なものとなってしまうことは言うまでもなく、おかしな論理である。彼は、「戦いは万物の父であり、万物の王である」などと馬鹿げた指摘をしている。
ピタゴラス派 ピタゴラス(前530年−)はエ−ゲ海サモス島で生まれ、数学者である前に、「優れて宗教的・政治的カリスマ」であり(山川前掲書、66頁)、輪廻思想をもっていた。彼は、「人間の魂はほんらい神的であり、不死であるが、罪ないし汚れのために牢獄あるいは墓である身体に閉じ込められ」、「『浄め』をなしとげた魂だけが輪廻のくびきを脱して神性を回復」(内山ら編前掲書、14頁)するとした。彼の独創性は、輪廻転生思想ではなく、この「『清め』の方式」(山川前掲書、74頁)にあったといわれる。
そして、彼は、「万物は数である」として、神的秩序は数によって維持されるとみた。彼は、「現実の根源的原理は数であり、世界の存在論的構成原理は数学」として、一という「統一性の絶対的な原理」のもとに「偶数で象徴される『無限定的なもの』という悪の原理」と「奇数で象徴される『限定するもの』という善の原理」の結合で「秩序つけられた世界」が吐き出されるとした。
彼は「音律のもつ数的関係」を発見し、そうした音楽による調和こそが、「魂の浄め」にかかわってくるとした(山川前掲書、76頁)。そして、存在のすべてに数的関係があると見るようになり(田中美知太郎前掲書、35頁)、彼は「音楽的な数的比例関係」が奏でる音楽(例えば和音)が「宇宙の調和」を現わしているとみて、この存在論的・宇宙論的な数と調和の理論が、「ピュタゴラスの人間論と倫理学をも規定」(クラウス前掲書、17頁)することになるのである。
やがて、ピタゴラス派は、無理数を発見して、「多くの事実」を知ると、「万物の数的構成」は簡単ではないことに気づき、世界が数的なもののみならず、「無限なもの」など「数と異なる他の要素」からなることに注目し、「世界が・・無限と、これを限定するものとの調合」と考えるようになった(田中美知太郎前掲書、35−6頁)。これもまた、数的関係の発見がしからしめたものといえよう。
ピタゴラス派の「ヨーロッパ文化への・・最大の遺産」は、「ピューリタニズムとともに、『形と数』が実在に肉薄するための最大の手段だということを教えた」ことである(山川前掲書、89頁)。幾何・代数という論理が自然の真実に迫る方法となった。
エレア学派 パルメニデス(前515ー430年頃)は、「ギリシャ思想の真の分水嶺」(山川前掲『古代ギリシャの思想』380頁)であるといわれる。
彼のイオニア学派への批判は、「イオニア哲学者たちが立てた<アルケー>の位置に<(それは)ある>を置き換えることで始まった」(山川前掲書、144頁)のである。パルメニデスは、存在を考察して、「存在は一つの完全な球のようにそれ自体の内に区別も分割も含まず、ゆえにまた不可変的であり、生成も消滅もない」とした。イオニア派の「天地万有の生成消滅」論を否定したのである。彼は、「あるものはある、ないものはない」という原理に基づいて、存在を厳密に考える事を要求し、「ないものをあると考えたり、あるものをないと考えたりする」迷妄を一切退けた(田中美知太郎前掲書、19頁)。そういう存在とは、「常人の見る天地の自然とも異な」り、「自然を越えたもの、しなわち、形而上学的なもの」(田中美知太郎前掲書、40頁)であった。だから、イオニア学派の散文とは違い、哲学詩を書き、「秘儀的な認識」にこそ真理があるとして、「自分の思想を秘儀として一人の女神に語らせるという神秘的な演出」を行なったのであろう。
そして、この存在概念がこのような超自然的なものであったので、「プラトンのイデア論」「アリストテレスや新プラトン主義の神概念」の基礎となった(クラウス前掲書、27−28頁)。彼らは、この超自然的な物を論理で把握しようとした。アリストテレスは、「理論的には、これらの見解(パルメニデスの「真理の道」における見解ー筆者)は論理の当然の帰結であるとは考えられるけれども、しかし、事実の上で見るなら、このような考え方をするのは、狂気の沙汰に近いかものだと思われる」(『生成消滅論』第一巻八章[『アリストテレス全集』4、岩波書店、1988年])と、エレア派の論理が研ぎ澄まされて厳密なものとなってきていたと見た。パルメニデスが、生成消滅はないと論理的に主張しても、事実において生成消滅はあるのであり、これは認めざるを得ず、ここにエンペドクレス、アナクサゴラス、レウキッポス、デモクリトスら多元論者が登場する。
エンペドクレス(前490−430頃、富裕で貴族的実力者の家系)は万物生成消滅論を棄てて、、『フュシスについて』(「科学精神横溢する自然哲学的内容」をもち、「機械論的因果性が完全に支配」)、『カタルモイ(浄め)』(「魂の運命、堕罪、輪廻転生、浄め」という「非物体的世界を描き出す」)を著して、愛=引力と争=斥力による、四根源の火・気・水・土の離合集散で自然現象を説明しようとした(山川前掲書、211−2頁)。つまり、彼は、「万物の元素として『火』『土』『空気』『水』という四つの『根元』を挙げ」、「これらは生成せず、不滅であり、不変であ」り、「変化するのはただそれらの混合の割合だけであり、そのことに基づいて宇宙の全体が成立する」とした。彼によれば、運動の始源は愛と憎しみであり、これによって「宇宙は、四元素が混合し離散する終わりのない円環的過程を繰り返している」のであり、「生物もまた元素の偶然的な結合によって出来たものに過ぎない」のである。だから、人間や動植物が誕生、死亡するのは、愛憎による「四元の混合と、混合したものの分離」(クラウス前掲書、30−33頁)ということになる。さらに、彼は、「『自然選択』説と名付けるほかはない理論をもって偶然の機会をもってする生物の進化」説(山川前掲書、214頁)すら唱えていた。
アナクサゴラス(前500頃−428頃)は、「万物のアルケーとして、数においても小ささにおいても無限な同質素としての『種子』を立て」(山川前掲書、217頁)た。そして、彼は、運動の始源を愛憎ではなく、精神(知性、ヌゥス)に求め、「精神と質料(物質)を区別」し、精神が「元素の回転運動を引き起こし、認識に基づいて、つまり目的を意識しながら世界に秩序を与える」(クラウス前掲書、32−3頁)とした。この精神は、「万物のうちにあって、他の何ものとも混合したりすることのない、一個の純粋体で、人間もこれを分有している」としたが、これでは「無限の多様」をもたらして「アナクサゴラスの学説には発展性がな」(田中美知太郎前掲書、21頁、23頁)いとされた。
次いで、レウキッポス、デモクリトスが原子論を提唱して、近代自然科学に影響を与えた。彼らは、根源を自然社会という歴史的母胎に求めずに、四元素にかわって、原子という物質の構成要素に求めていった。パルメニデスは、「ないものはない」の原則で虚空が否定されていたが、原子論者は、「空もまた存在する」とし、「存在概念を拡張して、存在は必ずしも物であることを意味せず、物の何もない空にも存在性を認める」(田中美知太郎前掲書、30頁)のである。こうして、レウキッポスは「非物体的な存在概念」を独創的に生み出したのである。そして、彼は、物は無限に分割されるのではなく、「もはやそれ以上は分割されぬ」アトムを根源とし、「内部にはもはや空を含まぬ充実体として、として、それ自体がおのおのパルメニデスの考えたような、不生不滅で不変均等の実在である」(田中美知太郎前掲書、32頁)とした。
デモクリトスは、「無数の宇宙世界があって‥諸宇宙世界同士の間隔は不均等で、あるところには多数存在するが、あるところは少ない。またある宇宙は増大しつつあり、あるものは衰退しつつある。また、あるところには生まれつつあり、あるところでは衰亡しつつあり」(荒川前掲書、103頁)とした。無数の原子が「反撥しあ絡みあい・・・しだいにまとまった秩序」(山川前掲書、229頁)が生まれ、宇宙が形成されるのである。
これは、インドの「三千大世界」を想起させる。つまり、「世親の著わした仏教の論書『倶舎論』によると、須弥山を中心とする宇宙が千個集まって小千世界を形成し、小千世界が千個集まって中千世界を形成し、そして中千世界が千個集まって『三千大世界』を形成する。千の三乗個つまり10億個の宇宙が存在する‥。そして、個々の宇宙では成・住・壊・空の生成消滅が繰り返される」(荒川前掲書、103頁)というのである。デモクリトスは、「幼少時ペルシャの神官やカルデアの占星術師の薫陶を受け‥‥長じて遠くバビロン、エジプト、インド、エティオピアを訪ねた大旅行者」(内山勝利ら編『西洋哲学史』ミネルブァ書房、2003年、37頁)であった。インドにも赴いていることが留意されよう。
こうして、ギリシャ哲学者は、悟りによる救済ではなく、合理的・科学的思惟による論理によって、超自然的要素を排除し人間的精進を説いた。一方、民衆の間では、守護神、農耕神が信仰され、次第に合体され、「神々との一体感」が求められた(レベック前掲書、126−9頁)。
ソフィスト 紀元前5世紀後半から、ペルシャ戦争を乗り切ったアテナイにおける民主制の導入、外国交流の推進などを背景に、アテナイ市民の国勢参加権が認められ、従前の存在論的な自然哲学への反省がなされ、ソフィスト(報酬を受け取って、政治の術や法廷弁論術を教えた「知を備えた人」)が登場し、民主制下で政治的成功を得るための弁論述を有償で教え始めた(クラウス前掲書、38頁)。
ソフィストは、自然主義(慣習は可変的だが、法は不変的)、相対主義(伝統的観念の相対化)、懐疑主義(存在の認識への懐疑)、功利主義(弁論述の本質は「各人の利益になることをより真実らし」く教えること)に立脚していた。
ソクラテス このソフィストに批判的だったのが、アテナイ人ソクラテス(前469−前399年)であった。彼の生涯の約半分はペロポネソス戦争(アテナイースパルタ戦争、前431−前401)にあたり、ポテイダイア攻略戦、最初の大会戦(デリオンの戦い、前424年)、アンピポリスの戦い(前422年)に重装歩兵として従軍した(岩田靖夫『ソクラテス』勁草書房、1995年、31頁)。この戦争は、「アテネの経済と政治的生活にとって破滅的」影響を与え、「政治党派はたがいに敗戦の責任をなすりつけあ」い、「猜疑心が充満し、権力あさりが横行」(T・C・ブリックハウスら『裁かれたソクラテス』米沢茂ら訳、東海大学出版会、1994年、24頁)した。旱魃、飢饉、流行病も襲い掛かって、ますます人々を「利己的で破廉恥かつ浅薄な言動に追いや」(山川前掲書、287頁)ることになった。
前424年(デーリオンの戦い)から前418年(ラケス死去)の間に、二人のアテネ市民が息子の教育方針について著名な将軍(ニキアス、ラケス)に助言を求めた際、ソクラテスの意見が求められことがあった。ソクラテスは、「多数決をもって見解の真偽を決定する事に反対」し、「根源的な条件」として、心の専門家の意見を求め、「配慮の対象としての心をより優れたものとするものとしての徳の本質・・・についての明確な知識を有する事」(プラトン『ラケス』三島輝夫訳、講談社、2003年、101−2頁)を重視するのである。だが、ニキアスは、ソクラテスの行動に「言説(ロゴス)の側から光を当てながら・・・助言を求め、求められている父親たち自身のあり方」に危惧をいだく。それは、ソクラテスが、教師を選ぶ新審査法を提示して、「助言者候補の内側に直接切り込んで、その理解の程度を問いただす」というものであったからである。これが、ソクラテスのいう「より根源的」方法なのである(前掲『ラケス』解題、115頁)。武闘術の教育などについて助言を求められて、勇気という徳が必要などと答えるところにソクラテスの限界がある。問答、審査などの合理的展開などを踏まえた助言よりも、戦争という行為の原因、対処法などを識別できる根源的学力をこそ助言すべきであった。
前406年、アテネはスパルタに敗北し、民主性が崩壊して、スパルタの後押しで30人僭主制が成立し、富裕者の「財産を奪取」するために富裕者の「合法的殺人」(同上書、33頁)を行った。「三十人テロ体制」は打倒された」が、「反民主主義的傾向の強い」ソクラテスは、民主主義者によって、「仮借なき哲学的探究により、無反省に受容されてきた通俗道徳と通俗宗教の土台を危うく」したとして、告発された(36頁)。ソクラテスは、「自己の無知を深く自覚」していたので、「ソクラテス以上の賢者なし」というデルフォイの神託の謎を考えて、対話・問答によって「人々を吟味して無知の自覚へ至らしめる」事が神命と受け止めた(岩田前掲書、36頁)。ソクラテスは、「自分はアテナイ人に対する神の贈り物」(73頁)として、これで当時の「弁論家や独裁者」の誤魔化し・不正行為を糾弾し(岩田前掲書、60頁)、「知者」といわれるものの偽善を暴き出した。
ソクラテスは、生きた言葉で、「既存の慣習道徳や宗教的観念を批判し、現行の政治を批判し、そういう批判を遂行しているソフィストたちの理論を更に批判し、その上、批判している自己自身の知恵のなさを批判し、こうして、あらゆる足場を取り払って、自己がその上に立つべき土台を全て討ち壊した」(岩田前掲書、120頁)のであった。彼は、「反駁的対話」(エレンコス)で相手の無知を明らかにしようとしたのである。彼は「生きた対話」を重視し、「人間自身の内に隠されている真理へと立ち戻ることによって、ソフィスト達が唱えるような懐疑主義と無道徳主義を克服」(クラウス前掲書、42頁)しようとした。
彼は、「哲学を天から引き降ろして、人間の生に向けさせた」(キケロ[クラウス前掲書、44頁])のであった。ソクラテスは、「富や権力、名声などといったいかなる外的な善も、魂の幸福に比べれば無に等しい」と主張し、「善についての生きた認識を徳の根源として強調」(クラウス前掲書、45−6頁)した。つまり、生きた知識が徳を導くとき、はじめて善きものとなるとした(内山前掲書、62頁)。こうして、ソクラテスは、問答法で当時の知識人の無知を暴きだし、徳に導こうとした。ソクラテスは徳を重視し、「徳の至高性」を「根本的な立場」とし、「究極の価値」である徳が「実践における最高原理である」(岩田前掲書、226頁)としたのである。だが、自らの無知は他人との問答などで気付くものではなく、自発的に認識するものである。私についていえば、勉強すればするほど、自分の無知に恥じ入り、更に一段と勉強しなければと促されるのである。無知に気付くとはそういうことではないか。他人から指摘されて、無知を認識して徳に導かれるなどというのはありえないのであり、これはソクラテス特有の問答を肯定するための方便であろう。
そして、ソクラテスは宇宙探究の意義を認めなかったのである。彼においては自然の探究から人間の探究に向かい、ここに自然哲学の基調が変わった。彼は、「善や幸福の可能性を、人間ひとりひとりの魂のあり方と深く関連させて、人間の幸福は魂の卓越性<徳>としての<知>に全面的に依存するがゆえに、<知>を愛し求め、魂をすぐれたものにするための配慮もしくは『世話』としての哲学こそは、人間にとって必然的な営為であり、唯一の生きるに値する生き方である」(藤沢令夫解説[プラトン『国家』下、岩波文庫、1991年、470頁])とした。
ソクラテスは、「数学的心理や物理学的真理」ではなく、「自分自身の有り方を巻き込む真理、いわゆる実存の真理」(岩田前掲書、132−3頁)を求めた。ソクラテスは、行為の基準として、国法ではなく、「行為が含意する原理という視野において其れの妥当性を考えなければならない」(岩田前掲書、164頁)とする。これは、カントの「純粋実践理性の最高原則」(「汝の意志の格律が常に同時に普遍的律法として妥当するように行為せよ」)を「先取り」(岩田前掲書、164頁)するものとも言える。
ただし、ソクラテスは、一定の論理で国法を容認する。彼は、国法が気にいらなければ、ほかの国にゆけばよいのであり、「一旦自分の好む特定の国家に所属すれば、その国の法治体制に服することに同意した」(岩田前掲書、165頁)ことになるとした。国家というものの本質を考察することなく、一定の条件で国法の容認を導くのである。
アテネに民主政治が復活して前399年、ソクラテスが、「若者たちを堕落させ」、「国家の認める神々を認めず他のあたらし神格(ダイモン)を認めている」という理由で起訴された。「限定的」民主制のもとでの裁判制度は、陪審員選出(任期1年で定員6000人の陪審員をアテネ市民全体から志願者を募って抽選で決め、裁判の朝にその中からさらに抽選で当日の陪審員を決める)は形式的には「民主的」だが、容疑についての客観的調査を行う担当者もおらず、陪審員の多数決で刑罰を決めたために、感情的な誤審がなされやすく、無実者が罰せられる事が少なくなかったと言われる。そして、彼は、裁判での弁明の最後の一節でも、「善き者には生きている間も死後も悪しきことは何もないのであり、そのような者に関することは神によってなおざりにされることはない」(前掲『裁かれたソクラテス』417頁)として、死刑に反駁することなかったた。
プラトン プラトンは、20歳ぐらいの時に、「神命に従い、・・『吟味』活動」に従事しているソクラテスに注目するようなった(山川前掲書、288頁)。
プラトンはアテネ名門家に生まれ、少年時代から政治家になることを嘱望されていたが、アテナイ30人僭主制の恐怖政治と、ソクラテス処刑をもたらした民主政治の両方に失望して、「直接、政治に参加することは断念」して、教育活動(前387年アカデメイア創設)と執筆活動に専念する(前掲プラトン『ラケス』97−8頁)。彼が教育に専念したのは、「哲学的素質をもつ者を選抜して、これを最上の配慮をもって養育し、国家を双肩に担いうる人間に鍛え上げ」、この哲人政治家を通して理想国家(ソクラテスのような正義の人が殺されないですむ国家)を実現しようとしたからである(山川前掲書、295頁)。
そして、プラトンは人間の研究のみならず、幾何学、宇宙論なども研究して、ここに自然哲学は自然=宇宙と人間の双方を研究するものとなった。彼は、火・風・水・土の四元をそのまま万物の元素と認めず、「火は四面体、空気は八面体、水は二十面体、土は六面体」とし、前三者は正三角形、土は正方形の面からなるとした(田中美知太郎前掲書、25頁)。プラトンは、物体は「面や線や点から構成される」立体とみて、四元素を幾何学的に解き明かそうとし、ここに「自然学は数学になっ」(田中美知太郎前掲書、26頁)たのである。
プラトンはこうした自然学よりも「人間精神により多くの関心を寄せた」(田中美知太郎前掲書、28頁)のである。彼は、ソクラテスが提起した「魂や善への問い」を「存在論的な全体的視野」で取り上げ、「感覚的知覚とその可変的な対象の領域」を凌駕して、普遍的な認識対象としてイデア論を打ち出した。問答法は「問答によって、更に根本的な命題へと遡り、最究極的なものを求める、最も厳密な学」であり、「イデアはこのようなディアレクティケー(問答法)Aよってのみ把握される」(田中美知太郎前掲書、51頁)というのである。そして、プラトンは、「人間が現実のものと信じている世界は、実はイデア(真実在)の不完全な影に過ぎず、人間は美や愛の上昇的弁証法によってこそ、神に近づくことができる」(レベック前掲書、115頁)とした。問答法によるイデアの認識とは、「帰納によって、多くの事例から連続的、必然的に導き出されるものではな」く、「忽然として、それらの多を越えたところに見出される」ものであり、「論理を媒介として、超越的なものを捉えようとする、パルメニデス以来の努力が、いわゆるイデア論において、一応の実を結んだ」のである(田中美知太郎前掲書、53頁)。
プラトンは、ある物の存在根拠、理由、目的が善という究極的目的だとした。「世界はできるだけの完全性を実現し、善美をつくりだすことを目的」として存在し、この「完全性の理想、或いは模範」がイデアだとした(田中美知太郎前掲書、56頁)。このように、世界が善美で出来ている事を前提とされては、、其の世界のもつ根源的問題点の適切な把握が困難になろう。
このプラトンのイデア論は、「実在に肉薄する哲学言語の一義性と明晰性、絶対性と確実性という理想を、ヨーロッパ哲学の伝統に広く鼓吹することに力を与え」たために、「諸学の基礎付けを課題とする哲学、厳密な学をめざす哲学」から「プラトン的形而上学を一掃することをめざした論理実証主義」にまで「この理想は浸透」(山川前掲書、322頁)することになった。
アリストテレス その弟子アリストテレスは、プラトンともに、「論証的・演繹的科学が最も完全で絵しかも唯一の科学であるという信念を共有」(340頁)していた。
しかし、彼は、「プラトンの超越的な実在であるイデア論を批判、事物に内在する質料と形相を原理とする自然哲学を提示」(レベック前掲書、126頁)した。アリストテレスは、このプラトン・イデア論の批判によって、アリストテレスからの独立を打ち出した。彼は、「真に存在するもの」とは、イデアではなく、「この人間」、「この馬」、「この樹木」のように、「『これ』と指すことのできる或るもの」とし、「この真実在を『ウーシアー』(実体)」(山川前掲書、326頁)とした。物を観念的に把握しようとするから、イデアとかウーシアーとか、各自特有の見方がでてくるのである。例えば、アリストテレスは、実体とは、@これと指示できるもの、A述語の位置になれないもの、B「同一性を喪失することなしに其の属性を変え売るうる」、C「実体のみが第一義的な意味において存在する」(山川前掲書、326頁)などと、観念的に操作するだけで、根源的特徴を示しえずにいるのである。「論証的・演繹的」論理学の枠内で操作しているだけである。
そして、アリストテレスは「プラトンのデミウルゴス(神話的創造者)による宇宙の創造を受け入れ」ず、「惑星と恒星の天体は不生不滅という意味で永遠である」(レベック前掲書、127頁)とした。
また、アリストテレスは「プラトンの観念的な構築物である三角形の『原子』といった物質論」を認めなかった。元素間の変換に関して、プラトンは「三角形の『原子』の組み合わせが変更したため」とするが、アリストテレスは四質料(火・空気・水・土。規定原理)と四形相(熱・冷・湿・乾。被規定原理)に立脚して「形相の組み替えの結果」(129頁)とした。彼は、「対象領域の特性」に応じて、@理論学(自然学、数学、第一哲学)、A実践学(倫理学、政治学)、B制作学(弁論述、詩学)の三つに学問をわけている。
彼は、こうした論証科学の理想にかなうものは、第一哲学(形而上学、「存在としての存在」を扱う抽象的学問。神学も同一視。論理学も取り上げられる。総合的な基礎存在論)、数学(普遍数学、専門数学[算術、幾何学])、自然学(自然一般、特に「運動している物体」を扱う)であり、こうした「諸学の『器官』であり、『道具』」が論理学ということになる(山川前掲書、345−6頁)。三者の関連について、「しだいに増してゆく具体性」を示すという見解(山川前掲書)もあるが、対象と方法が整理しきれていないと思われる。だが、第一哲学という基礎存在論に神学を含めていて、このアリストテレス学問論は以後のヨーロッパ学問論に正負織り交ぜながら大きな影響を与えることになる。
さらに、アリストテレス、プラトンは、「算術と幾何学」で「科学方法論を導いた」が、アリストテレスは「科学と哲学の諸問題に取り組むために」、三段論法論、定義論、本質論など「多くのものをまったく独自につくりだ」し、「フェシスの基本構造をとらえるための『形相ー質料』、『四原因説』なども「彼の独創」であった(山川前掲書、340−1頁)。「形相(エイドス、プラトン・イデア論の遺産)ー質料(ヒューレー、「形相が実現されるための諸条件の総計」)」とは、「世界の存在者全体」を説明する原理であり、最下層に第一質料、最上層に純粋形相(神。質料的要素をもたない)がくる。四元素は火・気・水・地であり、「形相となる基礎」であり、「四元素は、対立しあう元質(乾・湿・冷・温)によってその活動を支えられる」(山川前掲書、347−8頁)ことになる。四原因説とは、種差に関る三原因(形相因、目的因、始動因)と「種的形相を実現するための必要条件」(質料因)である。これによって、彼は、自然を「運動変化(もしくは静止)することの始原・原因となっている」ものと定義し、運動を「可能態にある者が・・可能性を現実化すていくこと」(山川前掲書、350頁)とした。自然界は合目的に運動し、「一切の運動の原因である第一の動者」は神だとした。だが、自然が合目的に動いているように見えるのは、人間の判断でしかない。そういう人間の判断に無関係に、自然はただただ動いているだけであり、人間の意義付けなどは寄せ付けないものである。
では、アリストテレスは、こういう自然論のもとに人間をどうみたか。アリストテレスは、プラトンと同様に、「人間は、植物とは反対に、その根を宇宙に伸ばす生物」とし、三つの人間霊魂(プラトンー欲望的部分[生産者]・気概的部分[戦士]・理知的部分[哲人王]、アリストテレスー植物霊魂・感覚霊魂・理性的霊魂)をもつとした。アリストテレスは、「人間は理性的動物である」と定義して、「動物的欲望部分と理性との二元的葛藤の統一体としての人間を表現」(山川前掲書、353頁)するとして人間理性を受動理性(身体と合一し、可死的。欲望的霊魂部分)と能動理性(身体から独立し、不死。理性的霊魂部分)にわけた。そして、究極種差(第一実体)が、人間などの各生物種を生み出すとした。
プラトン、アリストテレスは、一定の条件のもとで階級支配、階級国家を認める。プラトンは、国家正義は生産者・戦士・哲人王の三者が調和することで実現されるとする。こうして、プラトンは「優秀者による人間支配、『フェシスにもとづいた』階級分化」、「人間差別を基本前提とする国家秩序構想」は、「善のイデアに根拠を持つ神的な自然秩序と人間的自然に根ざすもの」として是認すべきとする(山川前掲書、354頁)。アリストテレスは、「人間は自然に(その本性において)ポリス的動物である」とし、「人間を神と獣の中項」とし、身体が霊魂に支配され、霊魂の感情的部分が理性に支配されるように、家畜は人間に支配され、牝(劣ったもの)が牡(自然に酔って優れたもの)に支配され、自然によって自由人・奴隷になることは正しいとした(山川前掲書、355−359頁)。アリストテレスをして女性、奴隷を支配されて当然といする「自然科学的な観点」とは誠に奇妙な論点である。思弁的操作の限界というべきであろう。アリストテレスは、ヨーロッパでは、ポリスに先立って、自然社会が十分に成立せず、その意義を適確に把握できずに、単順に人間はポリス的動物とするところに、アリストテレスに大きな限界があるというべきであろう。彼の哲学は、「ポリスとそこに生きる人間の救済を意図したものでありながら、しかも実際には、具体的なポリスの窮状と人間の運命を救済しえない空理空論」(山川前掲書、365頁)ではなかったか。仏教が権力にすりよったとき、鎮護仏教になったように、プラトン、アリストテレスが理想的国家論を標榜したとき鎮護哲学になりさがる可能性があったのではないか。
彼の教え子ともいうべきアレキサンダー大王が、地中海世界からインドまでの武力を背景とする「東方的専制支配政治」を築いて、「市民国家の自然の発展を超えた、全く異常なもの」(田中美知太郎前掲書、10−11頁)となった。
新展開 田中美知太郎氏は、アレキサンダー東征以後はもはや「純粋なギリシャ文化ではな」く、「ギリシャ的な特色を失うと共に、異邦的な要素を加えて、別の平均を作り出している」とし、もはや「ギリシャ人としての純粋性を疑われるような思想家」(前掲書、11頁)となるとする。ただし、それは「ギリシャ思想と全く別のものではなく、・・・新しい条件の下に、いかに変容されて行くか」という問題だとする。
ストア哲学(前300年頃−ロ−マ帝政初期)は、学問を論理学、自然学、倫理学にわけ、「神的なロゴス」で統一した(クラウス前掲書、93頁)。それは、「自然と人間に共通するロゴスについての独断的教説」であり、「人間はみずからの魂のうちに、世界もまたそれから生まれ出たところの神の火花をとどめており、従って、宇宙の法則を認識する能力を秘めている」(山川前掲書、368頁)とした。人間は、この神的ロゴスに従う限り、「普遍的国家の市民」になることになる。
前4世紀、ギリシャ宇宙論は科学中心地のエジプト・アレキサンドリアで新展開を見せた。「精密な天体の観測と数学の応用によって天体の構造と運動を詳述する科学的な宇宙論が生まれ」(荒川同上書、はじめに)た。
小括 以上のギリシャ自然哲学=物理学と科学の関係に関して、アインシュタインらは、@「すべての自然科学の根柢」として「一見複雑な自然現象を、ある簡単な根本的な思想と関係とに帰着させようとする企て」があり、これが「ギリシャ哲学から近代の物理学に至る科学の全歴史の上で絶えず続いて来」たが、Aギリシャ哲学は「ただ空想の巧妙な虚構」(アインシュタイン、インフェルト、石原純訳『物理学はいかに創られたか』上巻、1996年、61−7頁)であったと指摘する。ジョン・ポ−キングホ−ンも、古代ギリシャ人は、まだ「観察と実験」に欠け、「単なる思惟」で宇宙を理解しようとしたと指摘した(小野寺一清訳『科学者は神を信じられますか』講談社、2007年、34頁)。
古代ギリシャ人は、まだ実験こそしなかったが、自然現象の説明を神の救いにもとめずに、「物質の結合と分離」という物質の自然探究(自然哲学)に従事したのである。まだ実験はともなっていなかったが、「科学はギリシャの発明」(前掲シュレディンガ−『自然とギリシャ人』153頁)となったのである。
A ギリシャとインドの交流
当時ギリシャとインドとはいかなる関係にあったのか。これは、ギリシャ哲学と仏教との関係を考える上で重要である。
前4世紀頃のギリシャ語の医学文献によれば、「フィリオザによると、古代から紀元前後までインドとギリシャとの精神的交流、とくに医術の面での関係交渉は‥密接であったとされる。‥インド北部の仏陀の生地のあたりでも東西の交流があったかもしれない」(武内論文、118頁)とあって、「バビロニヤ・インド医学の影響」がうかがわれる。
そして、武内は、「若し四諦説の問題にプラトンやアリストテレスの学説が、ある照明を与えることができれば、それは大変重要である。同じことが、仏陀と同時代の懐疑論とギリシャのピュロンの懐疑論との関係についても言いうる」(118頁)とする。
前342年から7年間、アリストテレスはマケドニア王子アレキサンドロス(13歳)の家庭教師となるが、このアレキサンドロスはペルシャ軍を撃破し、インダス川まで支配した。インダス川がまだペルシャ帝国、ヘレニズム文化の境界線になっていた。
前4世紀初め、ギリシャ人メガステネ−ス(前350−290頃)は、セレウコス朝シリアの大使としてマウリヤ王朝下のインドに赴き、『インド誌』4巻を著わした。彼は、「インド人が多くのことがらに関してギリシャ人と同じ根本的見解を抱いていること、インドには『哲学する人々』がおり、彼らは伝統的な哲学者(バラモン)と自由な哲学者(沙門)に大別されること」(金岡秀友『インド哲学史概説』佼成出版社、平成2年、16頁)を記した。
中村元氏は、アレキサンダ−大王の死後も、西北インドでは200年以上も「ギリシャ人の支配」が続き、後4世紀までクシャ−ナ王朝が存続し、ギリシャ的影響が残存したとする(中村元『インド古代史』春秋社、昭和38年、6頁)。そして、中村氏は、「プラトンの想定した理想国家なるものも、その成立の基盤として奴隷使用を前提とし、承認している。アリストテレスも自由民と奴隷との区別をはっきりと認めている。西洋において人間の平等の観念はおそらくストア哲学者たちが唱えたのが最初であろうと言われている。インドの哲人はこの点で人類の先駆者であった」(33頁)として、仏教の平等主義に接して奴隷制下のギリシャ人が衝撃を受けたとする。
「中東では、インドからやってきた仏教使節団の活動がいくつかあったらしい」が、「効果もほとんど上がっていなかった」(バ−ナ−ド・ルイス、白須英子訳『イスラ−ム世界の二千年』草思社、2001年、56頁)ようだ。だが、インドがギリシャの影響を受けることが強かったようだ。
前5世紀、ヴェ−ダが完成し、バラモン教が普及していった。仏陀は形而上学的発想を水掛け論として排除し、素朴実在論的だったが、死後、形而上学的な無我説、縁起説が提唱されたという意見がある(宮元啓一『インド哲学 七つの難問』講談社、2002年、53−4頁)。前4−2世紀頃、ヴェ−ダのバラモンは、ジャイナ教、仏教への失地回復を図って強烈な救済思想をもつヒンヅ−教を生みだした。そして、ヒンヅ−教は「ギリシャ哲学のカテゴリ−論(概念の分類、定義、階層づけの普遍的な規定を求める)と原子論(物質は、それ以上分割できない最小単位である原子からなるとする)とを引き継ぎ、文法学の影響のもとにそれを公理体系としてまとめなおしたブァイシェ−シカ哲学が登場」(宮元前掲書、21頁)した。ブァイシェ−シカ哲学は、「結果は発生以前には無である」という因中無果論を提唱した。
前220年頃にエラストテネスが作成した世界地図ではインド方面が詳しくなる(荒川前掲書、148頁)。
前2世紀半ば、ギリシャ系国家であるバクトリア国のメナンドロス王が、仏教長老ナ−ガセ−ナと対論をかわし(仏典『ミリンダ王の問い』)、仏教に帰依した。これが無我説を「理論として展開した最初の文献」(宮元前掲書、54頁)と言われるが、仏教がギリシャ人を帰依させるケ−スは多くはなかったろう。
前27年ロ−マ帝政移行まで、インド西辺から地中海世界までギリシャ語とギリシャ的精神で規定された統一的文化=ヘレニズム文化が広がった(クラウス前掲書、90頁)。ロ−マ帝国では、ギリシャのように「自然や人間をよく知る」事よりも「人生をよく生きる」事が重視された(荒川前掲書、155頁)。
4、5世紀頃に完成した『般若心経』では、仏教の五蘊(色、受、想、行、識)のうち、色(物質)の根源は「地、水、火、風」の四元素と空とみた。この四元素はエンペドクレスの四元素と同じであり、エピクロスが完成させた古代ギリシャ哲学の「アトモス論と興味深い一致」(志村四夫『こわくない物理学』新潮文庫、平成17年、34頁)を見せている。インド学僧ブァスバンドゥ(320−400頃)は、『阿毘達磨倶舎論』で、「すべての物質(色)を究極まで分解いていくと物質の極小単位である『極微』に到達する」(志村同上書、35頁)とした。 以後も、仏教は微細な物質を取り上げ、少なからざる仏教徒がこれを取り上げている。例えば、空海は「激しく降る雨は、ちょっと目には、一つの水流のように見えるが、本当は一粒ずつの水滴の集まりである」(『吽字義』)とした。
梅原猛氏は、「大乗仏教は明らかにギリシャ文明の影響がある。仏教は三国(インド、中国)の知恵であるのみではない。遠くギリシャ文明の、そしてその父祖であるメソポタミア文明や、エジプト文明の、精華ですらある」(「三国伝来の仏教」[前掲『仏教の思想』T、150頁])とした。彼は、「中観や唯識」、「壮大にして華麗なる詩的想像」はインド独自のものであり、「禅や壌土はあまりに中国的」(同上書、150頁)とした。また、彼は、空海の六大原理(地・水・火・風と空・識の六大)のうち、空は竜樹の中観哲学、識は世親の唯識哲学だが、「地水火風」という「物質形成の質料的原理」は「ギリシャ思想の影響」とした(同上書、T、355頁)。
中村元氏は、「ギリシャ思想においては、人間を人間たらしめるもの‥は、常に理性と同一視された。これは或る意味でインド人の見解にも対応する。古くヴェ−ダ文献では人間をマヌと呼ぶこともあったが、サンスクリット文献一般ではマヌシャと呼んだが、これらは<考えるもの>という意味である。<考える>ということは合理性を内含する」(「仏教における人間論」『講座 仏教思想』第四巻、理想社、1975年、20頁)と指摘する。
こうして、ギリシャからインド(インダス川以西)は一つの文化圏になって相互交流し、ギリシャ自然哲学と仏教哲学との間に相違性をもちつつも、共通性をおびることになった。
まず、相違性としては、インドでは哲学的宗教がでて、ギリシャでは神とは無関係に哲学が構築され、ギリシャのインドへの影響のほうが強かったということがあげられる。
次に共通性としては、@ともにインド・ヨーロッパ語族という同一民族であり、A富社会の深刻な混乱、殺戮のなかで、合理的な思弁哲学に基づき自然哲学を生みだし、B思索・実用から生まれた物理学と、思索(禅定)から生まれた仏教哲学は、宇宙事物の本質(分子−原子−量子、不生不滅、縁起)を究明していて、現在少なからざる物理学者らが、空哲学と物理学的原子論の連関を指摘している事(例えば、物理学者志村史夫は、「原子の中は原子核を除いて何もなく、空間である」事と、「色不異空」、「空不異色」(原子で形成される物質は何もない空と異ならず、空は原子があって、物と異ならない)の同一性を示唆すること[『こわくない物理学』新潮文庫、平成17年、56頁])などが指摘される。
二 第二の画期ー17世紀前後
もう一つの時期は、封建制から資本制への移行期である。新しい工業の展開で、更に大きな富が生じて、それをめぐってますます悲惨な殺戮、戦争が長期に展開しだすのである。この過程で、西洋では、フランシス・べーコン(1561ー1626)、デカルト(1596−1650年)、アダム・スミス(1723−1790)、カント(1724−1804)、マルクス(1818−1883年)らが登場する。
@ 近代自然哲学の登場
紀元後1世紀から16、7世紀頃まで、「世の関心は‥倫理と奇妙な種類の形而上学とに集い、科学を顧みなくな」(前掲シュレディンガ−『自然とギリシャ人』96頁)った。13世紀にはトマス・アキナスによって、神の存在の証明を中心として、ギリシャ哲学、アラビア、ユダヤ思想などを集大成して、新しいスコラ哲学を生み出した。アクィナスはアリストテレスに依拠して、神学から曖昧な部分を除去して、学問的基礎の上に築き上げようとした。
アリストテレスを取りれる事によって、「アリストテレスの神(「不動の動者」であり、創造神ではない)を創造論に合うように裁断」して、「キリスト教『神学』という奇怪なもの」(山川前掲書、369ー370頁)が生れた。キリスト教の神は、「何ものにも制約されることのない自由・絶対意志・全知全能を属性とする神」であって、ギリシャの神とは全く異質なものであった。
こうした「創造の神学」は、「アリストテレスの霊魂論(「人間のみならず、あらゆる存在者の運動の原理」である霊魂と、「実践の最高形態」たる真理認識を行う霊魂の二つ)のキリスト教的変容の必然的帰結」であった。後者の霊魂は、「人間を不死」とし、「『始原』(アルケー)に触れる力」、「天外の真実性を観照する力」(山川前掲書、371頁)であり、これが人間復興を重なりあうことになる。あたかも、時代の閉塞を打破するべく、科学を必要とする動きが、ギリシャの神とキリスト教をすりかえたともいえなくはない。
自然哲学の変質 中世に科学の萌しが現われ始める。修道会士ウィリアム・オッカム(1285頃−1347年)は「神は全能」という観点からスコラ神学の「無用な形而上学的思弁」を批判して、「神の自由に何の規定要因もなかったように、人間の自由も自らの決断以外によっては決定されない。人間はこのような絶対的な自由によって神の前に立つ」(クラウス前掲書、222頁)とした。これが近代自然科学の「哲学的な基礎付け」の土台を準備したという(クラウス前掲書、223頁)。中世末には、「中世と近代の接点」ともいうべきニコラウス・クザ−ヌス(1401−1464年)が登場した。彼の主張には西欧哲学の限界があますところなく示されている(クラウス前掲書、237頁)。
こうした人間観がギリシャ哲学と呼応して、「ルネッサンス時代には物理学は花ざかりになり、1500年ころには独立した学問に成長」(リンドリ−、松浦俊輔訳『物理学の果て』青土社、1995年、15頁)した。
ベーコンー帰納法的自然観 フランシス・ベーコン(1561−1626年)は、法律家としてエリザベス朝に仕えつつ栄職にめぐまれなかった。その一方で、彼は英国特有の実証主義的な帰納法を研究して、当時のケンブリッジ大学で優勢であったアリストテレスにかわる学問方法論を構築しようとし、ジェームズ1世即位(1603年)後の1605年『学問の発達』(正式には『神と人間の学問の発達と進歩について』[福原麟太郎編『ベーコン』世界の名著20、中央公論社、昭和45年])を刊行した。以後、検事総長(1613年)、国璽尚書(1617年)、大法官(1618年)となる。
イギリスでは、「本来、学問だけを追及せず、たえず実際生活に関係する気風」(「ベーコンの生涯と思想」同上書、26頁)があり、ベーコンは「学問と実際の両方」に従事した。だが、「学問と実際政治は、必ずしも噛み合わなかった」(28頁)ようで、賄賂容疑で大法官という「栄達の絶頂」から転落する。
概して、イギリスでは「特に自然科学、人文科学の方面において、まず資料を集め、そこから一貫する理論を引き出していくという方法が多くの場合にとられ」、「実際の感覚、経験が重視され、理論が実験に先立つ」(31頁)のである。筆者はイギリス産業革命の研究から英国史研究に入ったが、今思うと、T.S.アシュトンらの実証的学風、hasty
conclusionを避ける堅実な学風などはベーコン的学問方法論に依拠していたのである。彼の方法は今でも英国デ影響をもっているようであり、以下、ベーコンについて『学問の発達』を検討してみよう。
専門研究弊害と総合研究という問題に対するベーコンの意見は、現在でも参考になる。ベーコンは、「ヨーロッパにおける多くの偉大な学寮」はすべて「専門職業向き」であることを批判して、「全般的な学芸と学問」の重要性を指摘する。彼は、「もし哲学と一般原理の研究というものが、無駄な研究であると考える者があるとすれば、あらゆる職業の専門分野は、それから助を受け供給を得ているということを考えないものであ」り、これは「学問の進歩を妨げる」(319頁)と批判する。そして、ベーコンは、「専門的学問に建築や寄金を、専らあてることは、学問の成長にたいして、悪い面の影響を与えているばかりでなく、国家や政府に対しても有害であったということである」(320頁)と主張する。
ベーコンの学問方法論をみると、彼は、「自然の中の積極的或いは根本的変化や革新が発見されるとき、偶然な実験の試みや、あるいは、形而下的原因の光や方向によるということは、ほとんど、ありえない」(361頁)とする。積極的な変化の発見には本格的実験、形而上的考察が必要だというのである。だから、「自然の魔術」には、「共感、反感、隠れた特性、気まぐれな実験の盲信的、迷信的な思想や観察」をするために「本質的」把握ができず、「自然の真実性の点では、われわれの要求する知識とは非常に違って」(362頁)いるとする。「真の自然の魔術は、非常な自由と高度の作用が形式の知識に依存している」が、実際には「それが欠けている」(363頁)とする。
そこで、ベーコンは、@「不可能なことを試みない用心」のために、「どんな者がまだ不可能と考えられているか、或いは発見されていないか」という覚え書を作成し、「人間の探究が、いっそう目ざめて、原因の思索から、仕事の方向をひきだ」すこと、A「直接現在役にたつ実験だけが重視されるばかりでなく、主として、他の実験の発見に、普遍的な重要性をもつもの、また、原因の発見に光を与える者が重視される」ことを提唱する(363頁)。
判断の術について、 ベーコンは、「人間の心の能力に関する知識」には、「悟性と理性」(「決断或いは判断を生み出」す)、「意志、嗜好、感情」(「行動或いは遂行を生み出す」)の二種類があり、両者を媒介する物として想像力があるとする(384頁)。ベーコンは、判断術は「立証や論証の問題を扱い」、「帰納法に関しては、発見と一致する」とする。これは、三段論法の立証とはちがって、「発見するのと同じ行為をする心が判断」するからである(395頁)。
ベーコンは、証明法には「直感によるもの、帰納によるもの、三段論法によるもの、合同性によるもの」の四種あるとする(401頁)。彼自身は、「資料を集め、それを整理、分類した上で、実験と観察に基づく帰納的方法」を導入し、「人間を自然から切り離して客観化し、人間による自然支配の方法を確立」した。彼によって、ギリシャ的な「哲学的自然観」は、「自然が力学の法則に従う」という機械論的=力学的自然観に転換した(志村前掲書、37頁)。つまり、@「経験的事実の集合から普遍的な一般的原理を抽出し」、A「抽出した基本原理から(数学などの)合理的推論によって事象を説明」し、B「事象を観測するだけでなく、基本原理を検証するよう設計された実験を行なって能動的に自然にはたらきかけていく」(市村宗武ら『物理学入門』T力学、2004年、5頁)などの科学的方法が樹立されたが、ベーコンは前者@の部分を提唱したのである。
最後に、哲学についての彼の意見を見ておこう。ベーコンは、哲学は、@「人間の観照が神のところまで貫く」所の「神の哲学」、A「自然のところへもっていかれる」所の「自然哲学」、B「自分に反射してもどってくる」所の「人間哲学」(人文学、倫理学、政治学)になるとする。こうして、「知識の分布と区分」はいくつにも分かれてゆくが、その根底に「普遍的な学問」=「第一哲学」=「原始的あるいは要約哲学で、主要で共通の道」(346頁)があるとする。さらに、ベーコンは、「混合した自然神学」、「色々な部分からなる論理学」、「原理に関係する自然哲学の部分」、「霊魂或いは精神に関係する自然哲学の別の部分」があって、「これら全てのものが妙なふうに混合し、混乱している」(346頁)とする。
ベーコンは、「論理学や修辞学」の二つは、「正しい理解の上では、学問の中で最も重大なもので、学芸中の学芸である」(322頁)とする。修辞学を重視するのが、ベーコンの特徴である。論理学は「判断力」、修辞学は「装飾のためのもの」である。これらは、「内容を表現し配置する方法の規則と指示」(322頁)である。これらの「学芸の英知」は「偉大で普遍的」とする。だから、ベーコンは、これらは「あまり早く、また、あまり未熟」に教えるべきではないとする(322頁)。
人間哲学について、ベーコンは、これは「人間の意図する自然哲学の終極であり限界でもあ」り、「自然という大陸の中における自然哲学の一部分にすぎない」(367−8頁)とする。がから、自然哲学と決別すると、「不毛、浅薄」な学問になるとする。例えば、雄弁家キケロが「哲学と修辞学」を分離したために、「修辞学は空虚な言葉だけの術」となあたり、「自然哲学に見捨てられた」医学は「経験だけの実際的なものぐらいでしかなくなる」(368頁)とする。この人間哲学の研究として、「人間を別々なものとして、或いは分離して考える」方向と、「結合した者として、或いは、社会の中において考える」方向の二つがあるとする。ベーコンは、「この二つの者はまじりあっていて、どちらか一つの学問に割り充てることは適当でない」(368頁)とする。
ベーコンは早くからギリシャ哲学を学んだが、やがて彼はこのギリシャ哲学の批判者になる。ベーコンは、無価値な学問として、@偽り、Aくだらないもの、B真理・効用をもたぬものがあるとし、学問の「病気」として、@「妄想的な学問」(「言葉を研究して内容を研究しないときにおこる」とする)、A「論争的な学問」(特にスコラ学派に見られ、「結果の生じない思索や論争」だとする)、B「気取った学問」(271頁以下)があるとした。そして、「あまり多くの信用がいろいろな学問の工夫者たちに与えられ、その人たちを独裁者のようにして、その言葉が動かない権威をもつようになる」ことを批判し、「アリストテレス、デモクリトス、ヒポクラテス、ユークリッド、アルキメデスの哲学や学問」(280頁)がそうだとした。彼は、「アリストテレスから出て、絶対権威となって、自由な検討を受けなくてもよいと認められた知識というものは、アリストテレスの知識以上に上がることはない」(280頁)とした。
ベーコンは、アリストテレスは「あらゆる古代の人に対して異論と反論の精神で進」み、「学問の新語を勝手に作りあげようとしているばかりでなく、古代のあらゆる英知を破壊し、消してしまおうとした」(352頁)とした。アリストテレスは、「古代の著作者の名や意見」を「反駁したり非難」し、「あらゆる意見を征服」(352頁)しようとしたとする。
しかし、ベーコンは、「『自分の信義に反しない限り』古代に従う方がいちばんよい」(353頁)とする。ベーコンは、「第一哲学」として「最重要哲学(「あらゆる知識の親あるいは共通な祖先」)と形而上学(「自然学問の一つの枝或いは派生物」)」があり、両者は「混用」するべきではないとする(353頁)。
ベーコンは、前者の最重要哲学に「共通の原理と公理」をあてる(353頁)。そして、彼は、後者の形而上学は、自然神学と混同されるべきではなく、古代では「形而下学(フィジックス)は物質の中に内在し、物質的であり、だから一時的なものを観照」し、「形而上学は抽象され固定したものを扱う」とする。さらに、彼は、「形而下学は、自然の中に、ただ存在と動きを予想する物を扱」い、「形而上学は、さらに進んで、自然の中に理性、悟性、類型を予想するものを扱う」(353頁)とする。
ベーコンは、「自然哲学一般を分けて、原因の探求と結果の産出」とし、形而下学は「物質的で動力的な原因」、「変化する、或いは相対的な原因」を探求するものとして、「いろいろさまざまな物」を記述する自然・博物学(自然史)と形而上学の中間(「中間名辞あるいは中間距離」)に位置づける。その形而上学は、「形式的で最終的な原因」、「固定した継続的な原因」を扱うものとしている(354頁)。さらに、ベーコンは、形而下学には、@「事物の構造と構成に関する」理論(例えば「世界或いは事物の宇宙について」)、A「原理或いは事物の要素或いは根源に関する」理論、B「事物のすべての多様性と個別性に関する理論」の三つあるとする。@、Aは「結合し集まった自然」であり、Bは「散らばり、或いは配分されている自然」とする。
こうして自然を根源的・総合的に考察してから、その自然の「形式的で究極的・最終的な原因」を考えるのが形而上学だとする。だとすれば、形而上学は究極的・根源的という点では形而下学と重なり合う。ベーコンは、「本質の形式」=「真の特性」は人間には発見する能力がないから、この形而上学の一方の探求を「無価値」とする意見を批判して、「形式の発見は、知識の他のあらゆる分野の中でも、見つけることが可能であ」り、「いちばん求める価値のあるもの」と主張する。
ベーコンの「形式を特性とする考え」は、プラトンの影響である。プラトンは、生成流転する物質界の根底には、永遠不滅のイデアという理想的形式があり、このイデアこそが真の実在であるとした。プラトンは、「形式というものが知識の真の対象である」とした。だが、ベーコンは、この意見が「真の結実を得られなかった」のは、「形式を物質から完全に抽象されたものと考えて、物質によって限定され決定されないとしているからである」(355頁)とし、プラトンは神学に興味を懐き、その結果「彼の自然哲学はみんな、それに影響を受ける」ことになった。ベーコンは、形式は物質によって影響されると見たのである。
ベーコンは、「神は人間を大地の土からつくり、その顔に生命を吹き込んだ」というから、「本体の形式」について、人間だけは別であるとする。だが、それ以外の本体の形式は、「混合や移植」で増加しているから「非常に混乱しており、探究することができない」(355頁)とする。だから、「ライオン、樫の木、金・・水、空気」などの形式を探究しても無駄であるが、その本質、「真の形式」、つまり「あらゆる創造物の本質的形式」は「形而上学の一部」としてなされる。
ベーコンにとって、本質的形式の解明にかんする形而上学の効用として、@知識の天頂であり、「無限の個々の経験を短く要約」し、A「人間の力を解放して、最大の自由と可能性のある仕事や結果を生じるようにさせる」ことという二つをあげる(336−7頁)。
ベーコンは、この形式を学ぶことと並んで、「窮極因の探究」が「形而上学の第二の部分」とする。これが、形而下的探究と混同して、誤解を生み、「さらに進んだ発見を、非常に停止」させるとし、アリストテレス、プラトンは「窮極因を混同し、一方は神学の一部にし、一方は論理学の一部」としたとする(358頁)。ベーコンは、この二人において、「それらが形而下の原因の限界の中にまではいりこんだことが、その方面において荒廃と孤立を生じる」と批判する。
このように、ベーコンは、「古代の受け入れられている理論」と異なって、「自然哲学とその欠陥」を見る。ただし、古代の自然哲学を排斥しているのではなく、批判的に継承しているのである。ベーコンは、「古代の哲学について、注意深く、また聡明に、集め」て、「一つ一つの体系ごとに区別のあるようにや」り、「哲学それ自身の中にある調和」を見出すべきであるとする(366頁)。
ニュートンー演繹的科学法 後者Aの演繹的科学の方法は、「アリストテレス的論証科学(@「論証科学の体系構成は、純粋に論理的・演繹的でなければならない」、A「論証科学は、他のすべての定理がそれから導出される有限数の基本的諸命題に基づくものでなければならない」、B「論証科学の基本的諸命題は真にして自明なものでなければならず、それから導出される諸定理に先立ち、それら自体は証明不可能なものでなければならない」)の復興」とも言うべきであり、ガリレイ(1564−1642年)、ニュートン(1642−1727年)らが@Aのみの条件を満たして復興したのに対して、デカルト(1596−1650年)、ライプニッツ(1646−1716年)らは@ABすべてを満たしていた(山川前掲書、372頁)。
16世紀に最初の「科学革命」がおき、17世紀末にニュ−トン力学が成立した(粒子力学的伝統。理論的研究が優位)。「アリストテレスの考え方からガリレイの考え方への推移」によって、「数千年間全く説明のつかないでいた最も基礎的な問題」たる「運動の問題」(アインシュタイン、インフェルト、石原純訳『物理学はいかに創られたか』上巻、1996年、7頁、30頁)が、大きく前進した。ガリレオから「理論と実験とを結びつける科学」がはじまった。
ニュ−トンは、ギリシャ自然哲学の伝統下にあったデカルト『哲学原理』とは異なって、1687年に『自然哲学の数学的原理』(『プリンキピア』)を刊行して、人間的にではなく、「数学的に記述できる分野を体系的に取り扱」うものを自然哲学と称した(桜井邦明『物の理』白日社、2003年、194頁)。彼は、「宇宙は無限であり、定常不変であ」り、「何ものからも影響を受けない」絶対空間・絶対時間があるという古典物理学を築き上げた。それは、自然の因果律思想に科学的客観性をあたえるものであった(志村前掲『こわくない物理学』140頁)。こうして、ガリレオに始まり、ニュ−トンによって完成された力学(運動の法則)は、天体運動は神ではなくて「万有引力の法則」によって動くことを解明した。アインシュタインはこれを「力学的自然観の勃興」ととらえた。
デカルト デカルトは、20歳すぎにドイツで三十年戦争の緒戦に加わり、50歳頃まで30年戦争とともに過ごした。この戦争でドイツ国民の3分2が殺されたという(野田又夫「デカルトの生涯と思想」『世界の名著』22デカルト、中央公論社、昭和42年、9−10頁)。
デカルトは、『方法序説』において、「それの推理の確実性と明証性とのゆえに」、「とりわけ数学が気に入」り、「真理の吟味』には神の「異常な助力」が必要として、「神学を尊敬」していた(『世界の名著』22、168頁)。それに対して、ストア哲学の説く徳は「冷酷或いは傲慢或いは絶望或いは親族殺しにすぎない」と批判し、概して哲学は「同一の問題に・・・まことに多くの違った意見」がおこなわれているとし、原理をそういう哲学に借りているその他の学問は「あやふやな基礎の上」にあり、「偽ものを本物と見せかける」(同上書、169頁)ものとした。デカルトは、既存学問の偽善性に絶望し、「私自身のうちに見出されうる学問」、「世間という大きな書物のうちに見出されうる学問」だけを求めて、もはや従来の「書物の学問をまったく捨てた」のであった。
デカルトは、「えらい学者たちの意見がいつの時代でも種々異なっていたのを知」(同上書、175頁)り、「他を置いてこの人の意見をこそとりべきだと思われるような人を選ぶことができず」(同上書、176頁)、ここに、論理学、幾何学、代数の欠陥を免れ、その長所を兼ねる「何か他の方法」を求め始めた。その結果、彼は、前記アリストテレス的論証科学の諸特徴を指摘する。つまり、デカルトは、@「私が明証的に真であると認めたうえでなくてはいかなるものをも真として受け入れない事」、A「問題を最もよく解くために必要なだけの数の、小部分に分かつこと」、B「最も単純で最も認識しやすいものからはじめて」、「私の思想を順序に従って導くこと」、C「完全な枚挙と、全体にわたる通覧」を行うことを指摘する。そして、幾何学的証明方法を機縁として、「人間の認識の範囲にはいりうるすべての事物は、同様なしかたで互いにつながってい」て、「それら事物のあるものを他のものから演繹するに必要な順序をつねに守りさえするならば」、そこに到達し、それを発見しうるとした(同上書、177頁)。これが、デカルトが、代数的証明よりも、幾何学的証明を重んじた理由である。
古代ギリシャ哲学者に関しては、「彼らはその時代の最も優れた人々」であり、「彼らの追随者たちのだれかが、彼らをしのいだことがほとんどな」く、アリストテレス信奉者は「自分が用いる区別や原理の不明瞭さのおかげで、彼らは何ごとも知らぬことがないかのように大胆に語」るとする。そして、デカルトは自分の原理は「きわめて単純で極めて明白」なので、それを公表しても「彼ら(アリストテレス信奉者)が打ち合うために降りていった洞穴に、いくつかの窓を明けて光を入れるに似たこと」(同上書、216−7頁)とする。論証方法においては、デカルトとアリストテレスに根本的相違はなかったのである。
デカルトは、従来論証によって「確実で明証的な推理」をしたのは数学であったとして、「数学者が吟味したのと同一の問題を持ってはじめるべきだ」(同上書、178頁)とした。これによって、デカルトは、「全てにおいて私の理性を、完全にではなくとも、少なくとも私のできるかぎりにおいて最もよく、用いているのだと確信」(同上書、179頁)した。そして、23歳の時、「学問の原理はすべて哲学に由来する」から、「まず哲学において確実な原理をうちたてること」に尽力した。
デカルトは、日々生きる上で遵守すべき格率として、@「国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児から教え困れた宗教を叱りもちつづけ」ること(国家改良という姿勢の欠如)、A「いかに疑わしい意見にでも、いったんそれをとると決心した場合は、・・・変わらぬ態度で、それに従いつづけること」(柔軟性の欠如)、B「われわれの外なる物については、最善の努力をつくしてなおなしとげえぬ事柄はすべて、われわれにとっては、絶対的に不可能である、と信じる習慣をつけること」(同上書、180−183頁)などを定めた。
デカルトは、「私は考える、ゆえに私はある」ということを「哲学の第一原理」とした。これは、「私は従来の思想を偽物であると考える、ゆえに妨害があってもその態度を堅持するために私はある」ということである。デカルトの言葉によれば、「それまでに私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮想」すると、「私がこのように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ」という意味である。つまり、「懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる」(同上書、188頁)ということなのである。従って、この有名な言葉は、偽善を排して、断固真理を追究する決心を語ったものである。
さらに、デカルトは、「私は一つの実体であって、その本質或いは本性はただ、考えるということ以外の何ものでもなく、存在するために何らの場所をも要せず、いかなる物質的なものにも依存しない」(同上書、188頁)ということだともする。
そして、デカルトは、「第一の真理から私が演繹した他の他の真理の連鎖のすべてをここに示」(同上書、195頁)してゆく。そこで、デカルトは、ギリシャ哲学者とは異なり、「神は、自然の諸法則を定め、自然が通常の仕方ではたらくように協力を与えた」など、神の「創造の奇跡」を指摘する(198頁)。デカルトは、キリスト教権威を重んじて、「世界を作った神のみを眼中にお」いて「この世界にあるもの・・の、諸原理すなわちもろもろの第一原因を見いだそうとつとめた」(同上書、211頁)のであった。そして、「自然の力は極めて豊富で広大であり、かの原理ははなはだ単純で一般的であるため、私の見出すほとんどすべての特殊な結果については、最初はそれらが、原理から、多くの違った仕方で演繹されうることを私は知る」(同上書、212頁)とした。
最後に、デカルトは、「学問において今後自分がなしうると思っている進歩」について、「医学に対して今までの規則よりも確かな規則を与えうるような、ある種の自然認識を得よう」としているとし、軍事技術研究など「ある人々を益すれば必ず他を害することになるような」ものは携わることはないと宣言する。彼は、「世間で重んぜられたいという望みは少しももっていない」(同上書、222頁)と、厳しい禁欲的・道徳的態度を表明した。
ライプニッツ ライプニッツは、「アリストテレスの三段論法論を人類が生んだ最も偉大な業績」と評価し、イデア論を念頭に「永遠的真理」を語った(山川前掲『古代ギリシャの思想』374頁)。
彼は、この古典的伝統にのっとって、「究極的な根本原理を探究して、この原理によって人間および世界のいっさいの真理を組織統一」(ライプニッツ、清水富雄ら訳『モナドロジ− 形而上学序説』中公クラシック、2005年、6頁)しようとした。このモナドは「物理的世界の対象」ではなく、その対象を究極的に生み出す「単純なもの」であった(内井惣七『空間の謎・時間の謎』中公新書、2006年、77頁)。
カント カント(1724−1804)は、形而上学は根本的学問であり、「形而上学は、もっぱら、諸原理と、それらの原理の使用の諸制限とのみに関わる」(「第二版」序言」[カント『純粋理性批判])ものであった。しかし、「いまや、形而上学にありとあらゆる軽蔑を示すことが必然的に時代の流行なのであ」り、「形而上学は独断論者たちの管轄のもとにあって、専制的」(「第一版序言」[カント『純粋理性批判』有福孝岳訳、岩波書店、カント全集4、2001年])となったする。
「純粋理性批判という尺度に従って編成された体系的形而上学」こそが、「一般に有害となりうる唯物論、宿命論、無神論、自由思想的な無信仰、狂信、迷信に対して、最終的には諸学派にとってそれ以上に危険であり、公衆の間にはほとんど浸透しえない観念論と懐疑論に対してもその根さえ断ち切られうるのである」(「第二版」序言」[カント『純粋理性批判])とする。
そこで、カントは、「この純粋理性批判を、書物や体系の批判とは解さずに、理性があらゆる経験からは独立にそこに到達しようと努力するであろう全認識に関する理性能力一般の批判と解」し、「それは、形而上学一般の可能性あるいは不可能性を決定すること、そして、形而上学の源泉と範囲と限界を規定すること、しかし、一切を原理に基づいて規定することである」とする。これは、「独断論でも懐疑論でも無関心でもない批判」」(「第一版序言」[カント『純粋理性批判)である。その際、「批判的探究の形式にかかわる二つの要素」とは、「確実性(「悟性と理性」による「客観的演繹」の実施)と明瞭性(「概念による討議的(論理的)明瞭性」と「具体的説明による直感的(感性的)説明)」(「第一版序言」[カント『純粋理性批判)とする。
「理性の理論的認識」とは「対象とその概念とを単に規定」することであり、「理性の実践的認識」とは「対象を現実化」するものであり、「数学と物理学は、自らの客観をアプリオリに規定すべき、理性の二つの理論的認識」(「第二版」序言」[カント『純粋理性批判])である。「物理学でさえ・・・理性自身が自然のうちに置き入れるものに従って、理性が自然から習得しなければならないもの、しかも理性が自己自身ではそれについて何も知らないであろうものを自然のうちに求めるという着想に負わねばならない」 (「第二版」序言」[カント『純粋理性批判])とする。
しかし、カントは、ガリレイ、トリチェリの物理学実験に関連して、「理性は恒常不変の法則に従うおのれの判断の原理を携えて先導し、おのれの問いに答えるように証人たちに強要する正式の裁判官の資格において」、自然を問いただすとする (「第二版」序言[カント『純粋理性批判])。こうした、人間理性が自然を正す裁判官という驕りが、近代工業文明を導いてきたのである。
マルクスの限界 マルクス(1818−1883年)は、カント以降の観念的方法を批判して、唯物弁証法で資本主義の核心は商品だとして、人間労働がそれを生み出すとした。
だが、マルクスには自然社会論が欠如し、特にマルクスの場合、唯物論的弁証法で人間が自然を克服することを肯定するのである。こうした自然に対する克服的態度では、マルクスはカントと同じなのである。
しかも、マルクスは、人間労働が価値を創造するという根源的誤謬に陥っている。このように、マルクスにおいては、自然社会論が欠如しているのみならず、人と人との関係の平等のみが追究され、人間と自然の関係が「対等」にとらえられていないという点で、マルクスは根源的・総合的な学問を展開したとはいえない。『資本論』は、観念弁証法を批判した唯物弁証法に依拠しているとは称しているが、結局、マルクスは厳密な論理学(上向法)で商品から主観的認識作用で資本主義を原理的に叙述したものである。それは、ギリシャ論理学の伝統の上に立つ論理的書物ではあるが、自然哲学を欠如したものである。
ハイデッガー ここでは、結局、以上の自然に対する西欧学問の傲慢態度が、大戦をもたらした事をハイデッガー(1889−1976年)から確認しておこう。
1933年1月にヒットラー政権が誕生すると、4月ハイデッガーはフライブルグ大学総長に任命され、5月彼はナチス党に入党する。同月、ハイデッガーが総長就任演説「ドイツ大学の自己主張」を発表し、その抜粋が「学問の国防勤務」としてドイツ新聞に掲載された。これを見た日本哲学者田辺元は「危機の哲学か 哲学の危機か」(『田辺元全集』第8巻、筑摩書房、1972年)を執筆した。
これによると、ハイデッガーは、「学問の本質は、学問の根元を問う人間の哲学的自覚のみ能く之を明らかにする。歴史的には希臘哲学の発生が此根元の発現に外ならない。西欧の人間は言理(ロゴス)に由って存在の全体に対し之を理解せんとする要求を以て学問を創始した」とし、「学問は文化の上層建築でなくして、民族的国家的人間存在の全体の内面的規定中心である」とする。しかし、「希臘以後中世の基督教的神学的世界観と近世の数学的技術的思惟とに於いては此核心が見失われて、学問の根元が忘却された」とする。ここに、この学問根元を回復するものは、「真実の精神世界」、「民族の精神界」であるとする。そして、「西欧精神が混乱頽廃に終わるかどうかは、独逸民族が自ら歴史的精神的民族となるべく決意するか否かに依繋する」として、彼は危険な方向に向かうのである。
これに対して、林元氏は、「単に存在の不可測性、それに対する知識の無力の自覚、という如き原理だけで、積極的に民族国家の形而上学的基礎を確立し、学問も国家奉仕の所謂知識勤務を以て本質すべき所以を明らかにし得る」かとする。彼は、ハイデッガーが「西欧の学問の根元を現わすとする希臘の哲学思想」とは、プラトン(「政治的危機に際して人間の理性に依る国家の改造、立法と教育に依る国民の秩序更改、を企図した」「危険の哲学」)にしても、アリストテレス(アレキサンダー東征を阻止できなかった「衰退に瀕し危機に臨める希臘政治の傍観者観察者」にすぎない存在)にしても、いずれも「危険の哲学」と批判する。この結果、「ハイデッガーがアリストテレスの伝統に従って理観を窮極の使命と為す哲学は、畢竟政治を指導し国家を改善するに主たる関心を有せざる哲学」と批判する。「アリステレス哲学が中世に於いて神学の侍婢に堕した」様なギリシャ哲学に当時の「哲学の危機が胚胎」するやとした。
ハイデッガーは、戦後、「科学が、西洋世界の圏内で、その歴史の諸時代において、前代未聞の力を発揮し・・・この力を終には地球全体に広げつつあ」(関口浩訳『技術への問い』平凡社、2009年、、62頁)り、「近年は全地球規模になっている現代科学の本質は、プラトン以来哲学と呼ばれているギリシャ人の思索に基づいている」(64頁)とした。近現代ヨーロッパと古代ギリシャとの関係は、「哲学の危機」においてのみならず、科学の展開にもみられるというのである。
1938年には、ハイデッガーは、「形而上学による近代的世界像の基礎づけ」(『世界像の時代』(『ハイデッガー全集』第13巻、桑木努訳、理想社、1962年、60−69頁)において、デカルトのコギト(「我思う、故に我あり」)について、「啓蒙時代の理性的存在者としての人間は、国民としてみずからをとらえ、民族として意志し、種族として訓練され、終には地上の王者を自負するにいたる人間としての主観にほかならない」とする。彼によれば、世界が像になることは人間が主体となることであり、これによって、世界は征服されたものとして、より包括的に、より徹底的に処理され、客観がより客観的になればなるほど、それだけま人間はすます主体的に立ち上がることになるのである。だから、彼によれば、近世の本質は、世界が像となり、人間が主観となることであり、結局、「技術的に組織された人間の遊星的帝国主義」(山川偉也『古代ギリシャの思想』講談社、2002年)になる危険性があることになる。
以上より見る限り、ギリシャ哲学に由来するヨーロッパの理性は、近代において結局帝国主義をもたらしたということになるのである。実は、これは、ギリシャ哲学以外についても言えることであり、ゆえに「富社会の哲学」とは概して富の収奪、外国の富の収奪を是認して、帝国主義的方向をむかうものだということを示すものである。これは、近現代帝国主義を近現代に固有のこととして研究することの限界を物語っている。
また、マルクス理論に基づいて社会主義国を築いた国々が、資本主義国同様に強欲であった(或いは、ある)ことは、例えばソ連が、大戦に加わって、いかに強欲に外国の富を略奪し、領土を奪い取り、捕虜の労働をシベリアで奪い取ったか、あるいは中国が社会主義市場経済の道なるものをつくりだしてそれに邁進してGDP大国になろうとしているかを見るだけで十分であろう。さらに、資本家と同様に利潤分配の増加を目指す労働者は、自分たちの賃金が上昇し生活が向上するものであれば、政府の帝国主義的政策に賛成するのである(バ−ナ−ド・センメル、野口建彦・照子訳『社会帝国主義』みすず書房、1982年)。
A 近代物理学の限界
哲学の欠落 シュレジンガ−は、「古代ギリシャの思想家」は「現代科学を、なかでも現代物理学を理解する上で、何か役に立つだろう」(河辺六男訳『自然とギリシャ人』工作舎、1991年、11頁)とする。 「古代ギリシャの自然哲学者たちによって蒔かれた“科学の種”は17世紀に到り“近代科学”の萌芽にまで成長」して、18世紀後半から19世紀末にかけ「幾多の近代技術」を生み、20世紀に「絢爛たる果実」を生み出した(志村史夫『こわくない物理学』新潮文庫、平成17年、9頁)。
アインシュタインは、ニュ−トン以後の近代2百年間の科学研究は「いつも力と物体とが自然を理解しようとするあらゆる努力において根本的な概念」とされ、特に天文学の発展で「自然現象を、単に物体間の簡単な力(引力と斥力)で記述」できる信条=「力学的自然観」が強められた事を指摘した(インフェルトとの共著、石原純訳『物理学はいかに創られたか』上巻、1996年、61−7頁)。
18世紀以降、二酸化炭素、水素、窒素、酸素などの気体が発見され、化学的、物理的実験が盛行し、18世紀末に約25種、19世紀半ばまでに約60種の元素が発見された。一方、「科学及び技術の一部門としての電気学の驚くべき発展は、電流の発見から始ま」(アインシュタイン前掲書、97頁)った。そして、「光を伝達する媒質」としてのエ−テルの力学的性質(「物体が粒子からつくら」れること)の誤りが明らかにされた(アインシュタイン前掲書、136−7頁)。 19世紀には実験物理学が登場し、ラボアジェ、ドルトンによって近代的アトモス論の基礎が築かれ、19世紀後半に理論物理学が現れ(リンドリ−前掲『原子』、188頁;志村前掲書、39頁)、電磁気学、熱力学、統計力学が完成し、20世紀に相対理論と量子力学が登場した。
これを敷衍すれば、「科学者たちは地球のほうに目を向け‥地球の表面で起こる現象が、一連の『物理の法則』を生み出し」(レオン前掲書、上、18頁)、物理学は地球の森羅万象を総合的に解明するものとなった。神なしでも「自然はそれ自体として理解可能である」という自然観ができあがった(田中正『物理学と自然の哲学』新日本出版社、1995年、57頁)。
こうして、物理学は「自然哲学」から生まれ、実験を通して「純科学」に昇華したかに思われた。だが、近代物理学は哲学を失い、狭小化してゆき、物理学は限界を露呈し始めた。次に、この点を見てみよう。
産業革命期頃に「熱を物質」とみる考えが打破され、エネルギ−という新しい考えがでてきて、「第二科学革命」(化学、熱力学、電磁気学、生理学の登場。この中核は化学熱学的伝統であり、実験的研究が優位)が起こって、自然哲学を抜きにした近代自然科学の位置を確立した。これは、知覚観察、実験などによるデ−タ収集の分析、綜合によって、自然の法則を把握するものである。
19世紀後半、「化学・熱力学・電磁気学・生理学などの新学問分野における組織的な科学研究が開始」(我孫子誠也『アインシュタイン相対性理論の誕生』100頁)された。物理学は、自然哲学から哲学をもたぬ科学になった。
先端的物理学者の志村史夫氏は、科学と哲学の関連について、ベルグソン哲学(澤瀉久敬編『世界の名著64 ベルグソン』中公バックス、1979年、今井仙一『ベルグソン哲学入門』創元社、昭和28年、24頁以下)を踏まえ、「一般に、ものを知ろうとする場合」、「知ろうとする対象を外から眺める」科学的方法と「その対象を内からとらえる」哲学的方法の二つがあるとする。科学的方法には、自然を「人間の利益に役立つように見」たり、「人為的なものをつくる」という知性的限界があるから、「真実を知るには、内からとらえる哲学的認識(=直観)が必要」になるとする。志村氏は、科学=物理学の限界と哲学の根源的考察力を的確に指摘しており、ここにこそ自然哲学が「学問の方法的基礎」として改めて必要となる。
確かに「生物も物質からなる以上、物理学と化学とで説明できる」が、それだけでは「生物を究極的に理解するのは不可能」(志村『こわくない物理学』235頁)であり、ここに、「人智をこえた」「目に見えない意志」を根源的にみる哲学が要請される。近代「物理学」以前の物理学とは、このような自然哲学に基礎づけられたものであった。そして、彼は、「科学は、さまざまな技術を生み、現代文明人に物質的繁栄、便利さに満ちた『豊かな』生活をもたらしてくれた」のだが、哲学なき科学は「本来の自然から離反」したものであり、人類に「精神的病魔」をもたし、地球に「根源を同じくする病魔」をもたらしたとする(246−7頁)。
認識論的限界 プランクは、学問の方法には、@紀元前7−6世紀のタ−レスは「水」、オストワルトはエネルギ−を「物理学的世界像の主眼目」とする演繹的方法と、A「まず直接的な経験によって保証されると見えるような個々の事実だけを描像に描」く帰納的方法とがあり、両者は相補的とする。
一方、マルクスは、労働力価値という基底から資本主義諸階級まで上向し、さらに下降して具体化し、この論理の厳密化を通して唯物弁証法という社会科学を構築した。だが、マルクスは、人間はあくまで自然の一部にすぎないという視点を欠落し、人間は自然に対抗し、自然を克服するものとしてしまった。リンドリ−は、「マルクスも、歴史的進化とか適応や漸進という発想は生物学から借り」、「科学的な秩序を社会の研究にもってこようとする試みは、あたかも歴史学者や社会学者が、物理学の言語を採用することにによって、物理学の確かさや知的な厳密さを分かちもつことができるかのような、ト−テム信仰のようなものだ」(『物理学の果て』73頁)と批判した。
そして、シュレディンガ−は、自然科学は知性の産物であって、感覚を捨象しているとした。アインシュタインは、「広い範囲の感覚的印象を説明」するとしたが、シュレディンガ−は、「客観的な物理的性質」は「直接的な知覚」を「最初から情報源として見捨てられて」いたが、「最後に得た理論的な描像は、直接の知覚を通して得た諸々の情報の複雑な配列に、まったくよりかかって」いるとした(『精神と物質』152−3頁)。つまり、彼は、「(a)自然科学のすべての知識は知覚に基づいている」にもかかわらず、「(b)このようにすて得た自然の過程に対する科学的な観点には、感覚的性質というものが欠如しており、したがってこれを説明できない」(『精神と物質』154頁)とした。
「自然科学−ギリシャ[以来]の科学−は、客観化にその基盤を置」き、「客観化によって科学は、認識の主体あるいは精神に関する適切な理解から自らを切り離してしまった」(シュレディンガ−、中村量空訳『精神と物質』工作舎、1987年、90頁)のである。シュレディンガ−は、ゆえに「私たちの現在の考え方が東洋思想からの輸血を必要としている」としたが。
さらに、物理学の科学的認識には物理学固有の事情があって、限界があった。その固有の事情とは何か。
物理学では、原子など「実在による絶対の世界」が知覚で認識できない場合、マッハらエネルギ−学派は、絶対的真理のみの追究だけを科学として、「存在するかどうかわからないものに関する理論」は「反科学的」であるとする実証主義的立場をとった。
だが、ボルツマンら原子論者は、そもそも「絶対の真理はない」として、原子が見えなくても、「科学者はそれ(絶対の真理)を段階的に、次々と近似を重ねることによってのみとらえられる」とする理論的立場であった。ボルツマンは、物理学では、「実験的証拠や確定的な理論がなくても、‥それに先立って、正しいと直観しうるアイデア」(松浦俊輔[リンドリ−前掲『原子』324頁])を重視し、直観的推測による作業仮説に基づく研究を説いた。
1917年、寺田寅彦は、物理学の発展の順序には「常に人間の要求や歴史が影響」し、「現在の物理学は‥人工的な造営物」であるとした(「物理学と感覚」『寺田寅彦全集』第5巻、岩波書店、1997年)。彼は、「感覚というものの基礎的の意義効用」を評価して、これを「忘れる」事は「極端な人間主義でかえって自然を蔑視したもの」とした。感覚を重視するか否かが問題ではなく、感覚、推量、いずれにせよ、自然の教えをそのまま理解できるかどうかが重要である。 アインシュタインは、「物理学の概念は人間の心の自由な創作」だが、それは「真実を理解しよう」という意欲に支えられ、「知識が進むにつれて、自分の想像が段々に簡単なものになり、次第に広い範囲の感覚的印象を説明し得るようにな」り、「客観的真理」ともいうべき「理想的な極限」にいたるものである(アインシュタイン、インフェルト、石原純訳『物理学はいかに創られたか』岩波新書、1996年、35−6頁)。
志村史夫氏は、「全体を部分に分解し、その部分の構造や機能を明らかにし、全体をそれら一つ一つの部分の総和として理解しようとする要素還元主義」(前掲『こわくない物理学』248頁)と批判した。物質、宇宙、生命は、「部分あるいは要素の単なる集合体ではな」く、「部分と全体は相互作用し、また、相互依存関係にあって内蔵秩序を保」ち、「森羅万象は『一如』『不二』『一即多、多即一』を具現したもの」(前掲『こわくない物理学』248頁)だからである。 量子力学が展開してくると、今度はハイゼンベルグによって量子力学の「観測に関する不確定性原理」(観測装置によって観測対象の量子が変動する)として提唱された。1927年、ハイゼンベルグは、「我々は自然科学が人によって作られたものだという事実を、無視することはできない。自然科学は単に自然を記述し説明するものではない。それは自然と我々との間の相互作用からできるものである。それは、我々の問いの方法にさらされたものとしての、自然を記述する」(河野伊三郎ら訳『現代物理学の思想』みすず書房、1967年)ものとした。彼は、自然と我々とを対等と見ているが、実際は自然ははるかに人間より完全であるから、これは傲慢な態度というべきである。
従前のニュ−トン力学は「完全な決定論」であり、「力学の法則によれば、ある一瞬における粒子系(たぶん、人間の脳を作り上げている粒子もそれに含まれている)のすべての粒子の位置と運動とがわかりさえすれば、その系のふるまいは、原理的には未来永劫まで予言できる」ものだったが、量子力学の不確定性原理が登場すると、それは、「突然に、その決定論をひっくり返してしまった」(青木薫訳、ロ−レンス・クラウス『物理の超発想』講談社、1996年118頁)のである。量子論の世界では、「人間による観測の結果は理論によって確定できず、確率的にしか予言できない」(志村前掲『こわくない物理学』158頁)のである。
リンドリ−は「真理や実在について絶対の定義を確立しなくても、科学はできた」(D.リンドリ−、松浦俊輔訳『ボルツマンの原子』青土社、2003年、227頁)とする。リンドリ−は、「古典物理学者は、測定が原理的にいくらでも正確にでき完璧に影響をゼロにできると想定」し、「本物の客観的世界」(88頁)があるとしていたが、「量子物理学者は、測定されるものは測定によって影響を受け」(89頁)、「(量子論は)世界についての完璧で客観的な知識がもてないのは、客観的な世界がないからだ」(前掲『果て』88頁)と明言した。 ファインマンは、「自然界にはもともと、測定にまつわる不確定性が存在し、その不確定性は計算可能だ」であり、「首尾一貫して矛盾のない」「数学的な記述」で「不確定性のよってきたるゆえんを説明」しようとした。
ポ−ル・デイラックは、「量子力学の法則と特殊相対性理論とを融合させた方程式」をつくりだし、電子の相棒たる「反粒子」=陽電子を想定した。1950年、フリッツ・ロンドンは、この粒子を「一つの箱に入れた」場合、「箱の中の二つの粒子が互いに引き合い、一緒に動き回る」ので、「すべての粒子が同じ一つのエネルギ−状態を占拠したが」り、「一緒に動き回ることよって全エネルギ−を低くできる」ことを発見した。彼は、「量子力学はふだんは非常に小さなスケ−ルのふるまいにしか影響を与えない」が、「突然に巨視的なスケ−ルにまで拡張」されると、超伝導状態になって、「電子が、伝導体という巨視的物体の全体に広がる単一の配位」としてふるまいはじめるのである。
こうした物理学固有の不確定性という事情があったのである。
ポパ−科学論の限界 だが、ボルツマン的な科学観は、この点を無視して、以後の科学観に大きな影響を与える事になった。カ−ル・ポパ−もその一人だった。ユダヤ系哲学者カ−ル・ポパ−(1902〜1994)は、戦前ヘ−ゲル、マルクスなどの弁証法を批判し、科学の依拠すべき方法とは、「反証主義」(現実の観測値デ−タによって「反証」することが可能なような有意味な定理を仮説から演繹すること)であるとした(『科学的発見の論理』上下(恒星社厚生閣、1971、72年)。彼は、「反証可能性を持たない理論は科学的ではない」と主張したのである。こうした学問方法論は、ヨーロッパ生れの経済学が、依然として問答法、論理学を特徴とするギリシャ哲学を母胎としていること、にもかかわらずそれが依拠する自然哲学については顧慮していないことを如実に物語っている。学問の歴史に通暁する者ならば、学問とは「反証可能性を持たない理論は科学的ではない」などと単純に言い切れるものではないことは一目瞭然だからである。
しかし、ポパ−は、「理論は間違っていることは証明できるが、正しいことは証明できない」として、「理論は信憑性を得て、だんだん厳しくなる試験に合格することで、いい理論と見なされるようになる」と主張した。これは、「理論は何らかの、もしかすると到達できない最後の答えに永遠に近づく近似だとしたボルツマンの見方に近い」(リンドリ−前掲『原子』、299頁)ものであった。自然哲学抜きで一人歩きし始めたのである。
もともと、科学的認識もまた人間の主観的認識だから、客観的な科学などはないということにもなろう。この点に関して、松本元氏は、脳科学の立場から、「自然現象を最終的に認識する『人の脳』の情報処理が主観的なものであるということは、自然認識(すなわち科学)も、客観的には行ない得ない、ということを示している」(『愛は脳を活性化する』岩波書店、1996年、58頁)と指摘する。
以上はあくまでも自然科学における「科学性の問題」であって、「社会科学における科学性」の問題ではない。しかし、このポパ−科学論が経済学に導入されて、もともと経済学もまた不確実性なものであって当然であり、反証可能性あれば科学であるという口実にされることになった。
つまり、ハロッド、サミュエルソン、ジョ−ン・ロビンソン、ボ−ルディング、フリ−ドマンら、1940年代に「経済学を『科学』たらしめようと努めていた経済学者」にとって、ポパ−反証主義は「『科学』の規範的方法」という点で「まことに時宜を得た贈り物」となった。例えば、ミルトン・フリ−ドマンは、『実証的経済学の方法と展開』(1971年、佐藤隆三ら訳、富士書房)で、「仮説はその仮説の含意もしくは予測と観察可能な現象との一致によってのみテストされる」という論理実証主義の立場に立脚し、「理論の仮定が現実的であるかどうか」によって経済理論を吟味するのは誤りだとする。ポパ−科学論は、仮定が非現実的かいなかを問わないから、フリ−ドマンのこうした主張が展開されたのだが、これはやはりおかしいであろう。もともと人間の主観的行動そのものなどは科学の対象になりえないのである。
あくまで自然の一部としての人間が科学の対象になるのである。
細分化の弊 さらに、科学の問題として、科学が「どんどん細分化されていき、同じ生物の研究をしていてもお互いの連絡が少しもないことが問題を生」み、「問題の一つは、科学者があまりにも狭い専門に入り込んでしま」(中村桂子『生命科学から生命誌へ』小学館、1991年、15頁)い、自然の本性を総合的に把握できなくなってきているということがある。
物理学そのものも細分化して、専門化の弊害を指摘する物理学者はいる。
例えば、リチャ−ド・ファイアマンは、「科学とは、専門家は無知だということを信じることだ」(『科学とは何か』[レオン前掲『素粒子』313頁])と、専門研究の限界を鋭く指摘をした。
シュレディンガ−は、「私たちは古来、総合的知識を得たいと願ってきた。ところがこの百年余、学問は多種多様に分かれ、それぞれの場で知識が深められてきたので、一人の人間は小さな専門領域のことしか分からなくなってしまった。われわれの真の目的が永久に失われてしまわないためには、この辺で誰かが総合化の仕事に思い切って手をつける他ない」(岡小天ら訳『生命とは何か』岩波新書、1951年)と、学問総合化の必要を指摘した。
だが、物理学による学問的総合を考えている物理学者は決して多いわけではない。シュレディンガ−の指摘の重さを受けとめなければならない。
非線型科学からの批判 最近、物理学に対して、「科学の中の科学の座に久しく君臨してきた物理学‥はこれまでもっぱら『命をもたないもの』を対象とし」、「その方法は、ものごとをいったんばらばらな構成要素に分解することでその理解が得られる場合にすばらしい威力を発揮する」が、「そうした行き方を徹底すればするほど、ものの生きた姿から遠ざかってしまうという弱みをもつ」(藤本由紀『非線形科学』集英社、2007年、5頁)と、非線型科学から批判が浴びせられている。だが、総合力志向をもつ物理学は『命をもつもの』をも対象に含み込んでいるというべきであろう。非線形科学と柔軟な物理学は対立していないのであり、自然哲学を根底に据えれば物理学もまた「複雑でやわらかな構造」をもつ自然を柔軟に扱いうるのである。藤本氏も認められているように、「現代物理学のフロンティアはほとんど例外なく非線形の問題に立ち向かっている」(17頁)のである。
1970年代頃に現れた非線形科学では「水や空気や砂丘のような非生命体」も「生きたものとして扱う」(18−9頁)のである。藤本氏は、非線形科学は「生きた自然に格別の関心を寄せる数理的な科学」とするが、物理学でも「生きた自然」を扱うのであり、ことさらに「死んだ自然」と「生きた自然」とに分けることは不要ではないか。
B 近代物理学限界を補完する哲学−自然哲学
こうした近代物理学の限界を補完するものとして、かつて物理学が自然哲学といわれ、哲学的基礎をもっていたように、改めて自然哲学の導入が不可避となるのである。
@ 自然への畏敬
宇宙、自然は精密につくられており、その精巧さに物理学者は圧倒され、その科学的説明の困難から、自然に畏敬の念を抱き、神の存在を信じるようになる。そこで、この点を物理学者の側から語ってもらおう。
宗教的感情とまでゆかずとも、「物理学を学んで一番感激するのは、日常の生活で体験する多様な自然の背景にきわめて一般的な原理が働いていることを知ること」(郷信広「バイオ科学へのチャレンジ」[前掲『物理学の挑戦』182頁])は、物理学者にほぼ共通しているといってもよかろう。
林一氏(物理学者)は、「私どもは決して人の心とか神の存在とかを否定するものではありません。それは物理学の分を越えています。ただ、現象を説明する際に、心や神を持ってこないように心がけているだけ」(『峰島旭雄対談集』41頁)とする。彼は、「近年の物理学では、むしろ一寸先は闇というか、細かい先は決まらない、ちょったした攪乱があれば狂ってしまうという考え方が強まっている」(同上書、47頁)と指摘した。
こうした中で、自然の一般原理の精妙さに圧倒されると、物理学者の中では自然に畏敬、宗教的感情を抱くようになるわけである。
まずアインシュタイン(物理学者)から見れば、彼は、「(カントの様に)現象から概念を組み立てずに、人間の観念を自然に押しつけてもだめ」(『峰島対談集』32頁)であり、「自然の中には神のしかけた謎があり、その謎をできるだけ単純明快な法則で解き明かす」(『峰島対談集』49頁)として、自然の法則を「神のしかけた謎」とした。つまり、アインシュタインは、「科学に真面目に従事」していれば、「自然の法則が、人間をはるかに超えた精神、つまりその前では、人間は自分の力を過信することなく、謙虚に頭を下げねばならない精神を露わにしているという確信に到達します」(アブラハム・パイス、村上陽一郎ら訳『アインシュタインここに生きる』産業図書、2001年[志村史夫『こわくない物理学』新潮文庫、250頁所収])としたのである。彼にとって自然は畏敬すべき師,神であったのである。
ジョン・ポ−キングホ−ン(物理学者から英国国教会司祭になる)は、科学と宗教との相違として、@科学は実験できるが、宗教は実験できない事、A科学は知的に満足させるだけだが、宗教は「我々に何かを要求」する事、B「科学それ自体、限界があるものだし、ある意味で世界を観る視点としては貧弱」だが、宗教は「人間が経験するこの世界を種々の観点から統一的に見」させ、「物理的世界の美しさ」に感動させて「神と創造の喜びをともに味わ」せてくれる事、C科学は「『いかにして』物質は存在するようになったか」を問うが、「宗教は、なぜ物事はそうでなければならないか」を問う事(小野寺一清訳『科学者は神を信じられるか』講談社ブル−バックス、2001年、28−30頁)をあげる。
その上で、彼は、「科学も宗教も、人類がこの世界を理解しようとする営み」で、「科学とキリスト教」は「相互補完的なもので、科学とキリスト教のふたつの観点から世界をみた方が、より完全な理解が得られる」(はしがき)とし、「神が存在すると仮定した方が、この世界をより深く理解することが可能であることを説明するのに都合がよ」(46頁)く、神によって「我々の宇宙は不思議なくらい、生命を生み出すのに都合がいいように微調整されている」(54頁)とした。彼は、宇宙の奇跡的な創造をみる時、「創造者がいるにちがいない」(56頁)と思い、「神は摂理によって宇宙の歴史と相互作用する」(70頁)とした。彼は、科学と宗教は「二つとの必要」というのである。
志村史夫氏は、「われわれが科学的に理解しようとすること」には限界があり、「われわれが理解する物質・宇宙・生命は、あくまでも人間の科学的な物質・宇宙・生命」とする。ここに、志村氏は、「『創造主』(「神」)の存在を信じ」るに至った。彼は、「『神』が存在するか否かを証明できないので、その『議論』は哲学あるいは宗教の範疇に入る」が、彼にとっては「『創造主』(「神」)が存在すると仮定した方が、物質・宇宙・生命をより深く理解しやすい」(249頁)というのである。
当然、物理学者の彼は、「科学者が本当に、『神』あるいは『宗教』を信じるだろうか。科学者に本当に、『神』あるいは『宗教』が信じられるのだろうか」と自問する。彼の悩みを解きほぐしてくれたのは、アインシュタインの科学の限界に「人間をはるかに超えた精神」、「特殊な宗教的感情」が生じるという指摘である。これは、「自らの創造物を誉めたり、罰したりする神」にかかわる宗教ではなく、「自然への宗教的敬虔」ともいうべきものである。
自然への畏敬なき科学は、自然を師としない科学は、真の学問ではないということである。志村氏は、「科学は宗教によって示される精神界の神秘性を尊重すべきであるし、宗教も科学によって示される物質界の神秘性を知るべきである」(前掲『こわくない物理学』252頁)とした。
志村氏も、筆者と同様にこの宗教が仏教哲学であるとみるのである。志村氏は、「一見互いに矛盾するように思われる科学と宗教が相補的であることを自覚することによって初めて、われわれは真の自然(物質・宇宙・生命)を理解し得るのではないだろうか」(前掲『かわくない物理学』251−2頁)とした。彼は、「『創造主』(『神』)の存在を信じたい」とした」(249頁)のである。
次には、哲学者の見解を見てみよう。
A 日本自然哲学
東洋では、日本で安藤昌益(1703−1762)、三浦梅園(1723−1789)が登場する。日本では、世界的に画期的な自然哲学は論理的、問答法というより、直観的・総合的に展開する。
a 安藤昌益
安藤昌益(1703−1762年)は、『自然真営道』(『日本の名著』19、中央公論社、昭和46年)という百巻の大著などを執筆した。一巻以下は、儒学、道家、兵学、仏教、韻学、神道、暦学、医学、易学、本草学などすべての学問・思想を批判し、五十八巻以下は薬、病気論、婦人病、小児病、など医学を扱う。尾藤正英氏は、「全体の構成からすれば、明らかに一種の医学書」とする。しかし、野口武彦氏は、「昌益が『自然真営道』の著述を通じて力をそそいだのは既存の思想的・学問的・社会的権威に対する総合的な批判であって、たんに狭い意味での医学的目的にだけ奉仕 するものでなかった」のである。それは、「一種の社会改造案とも見られる『良演哲論巻』を『真営道書中の眼燈』としていること」、「真人をもって自任する昌益にとっては、人体の医者と社会の医者との区別などはじめから存在していない」(野口武彦「土の思想家 安藤昌益」『日本の名著』19、中央公論社、昭和46年、27頁)ことからわかるとする。
イ 方法的特徴
安藤昌益の方法は、歴史的根源を基点にして富社会の諸問題を批判的に吟味するが、その批判方法は、論理的というより、感覚的、悟性的、直感的であり、個別具体的に吟味すり時、疑問と思わざる所がなきにしもあらずだが、基本的に妥当ということができる。
|