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自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
     古今東西   千年視野                                          日本学問   世界光輝
                                       
    
               ・・・・・全世界の人民よ、本物の学問を大いに学び、深く目覚めよ・・・・・・

         ・・・・・All the people in the world, we should do best for the sole and evident sake of knowing the truth,
                     so as to realize the complicated problems profoundly,wholly and fundamentally・・・


               

                                  学 問 随 想 
 

                                     
・・・・少なからざる学会誌、少なからざる学会大会、少なからざる研究会で発表してきた筆者は、こうして世界に同時発信するネットで本物の学問の構築を宣言し、その一部を発表することに、学会誌、学会大会・例会、研究会以上に大きく、それにはない新しい意義を覚える。まさに、これ日々学会(世界学問研究学会)発表である・・・・

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                          § 自然と学問ー本物の学問とは何か §


                           一  「自然との共生」思想の誤り 
 「自然との共生」という文言ほど本質を見ずに流行語のように使われる陳腐文言はめったにない。凡庸教授が素人相手にいかにも自分は最先端をゆくかのように振舞うにはうってつけの文言だ。資本主義が自然を破壊してきたので、「これからは自然と共生しなければならない」というわけだ。反省でもしているつもりか。学者的良心を披瀝しているつもりか。自然は人間などなくても生きてゆけるが、人間は自然がなければ生きてゆけないのだ。人間が自然と対等に共生するなどは、有害無益な凡庸教授の浅薄な研究しかできぬことによる思い上がりだ。

 土地を生産要素にしたり、自然資源収奪を当然とするなどの「近経・マル経」などは、自然摂理に反した有害無益な「非学問」そのものだ。人間は自然に心から感謝しなければならないか弱い存在だ。「自然社会」人は、自然の脅威に畏服し、日々の糧を与えてくれることに感謝こそすれ、自然と共生しようなどとは微塵だに想起しなかったのだ。いつの世も、人間は、自然をひたぶる畏服し、自然にひたぶる感謝して生きてゆかねばならぬのだ。この程度のことは、いかなる困難にも磐をも穿つ学問的情熱を迸らせ、ひるむことなく敢然と取り組む、世界に冠たる大教授でなくとも、普通の人間ならすぐ分かることだ。こうした自然についての簡単明瞭な事実から遊離しているのが「近経・マル経」に象徴される「経済学」ってことだ。こんな所に国税を投入することは、自然の破壊を助長するようなものであり、有害無益な「学問」に対する国民運動展開などによってともに遅かれ早かれ中止されるだろうが、自然保護のためには即時に中止しなければないない。

                              
                             新しい社会と日本哲学 
 人間とチンパンジーの殺戮 日本など一部を除いて、人骨遺跡や現代「自然社会」民族の慣習から見て、自然社会人は報復を受けぬために女子供を含めて皆殺しにするなどかなり残酷な殺し合いを繰り返していた。「4000種の哺乳動物とそのほかの1000万以上の動物種」の中で「縄張り」維持のために弱者殺戮などをするのは人間とチンパンジーのみだという(ニコラス・ウェイド、沼尻由起子訳『5万年前』イースト・プレス、2007年、202頁)。なぜか。遺伝学者は、「人間もチンパンジーも自分の縄張りを守ろうとして、結局、命を落とすかもしれない」にも拘らず、「死んでも自分の遺伝子を増やすチャンスが残っている」(203頁)から、殺戮を繰り返すのだと説明する。だが、こういう「遺伝子を増やす」などという抽象的な理由で戦うのではない。これは後付けだ。人間とチンパンジーにとって、縄張りが生死に関わる食料圏を意味するから、まずもって、自分たちのコミュニテーの生活圏を維持するために戦うのである。家族・親戚・一族らが生きるために必死に戦うのである。切実な理由があるのだ。

 「富と権力」システムは、この殺戮の規模と度合いを深刻にした。人類学者ローレンス・H・キーリーによると、「上部旧石器時代の遺跡や人骨などの証拠と未開民族の人類学的研究」をもとに、「国家以前の社会で」は「リスクを最小」にするべく急襲、待ち伏せ、不意打ちなどの「闘争」は「頻繁に起こり、成人男性のほとんどは一生のうち何度も戦闘を経験」(ニコラス・ウェイド『5万年前』204頁)していたが、既に約2500年前にトゥキディデスが警告していたように、「富と権力」システムのもとでは、こうした闘争・殺戮の規模と度合いが未曾有のものになっていったということだ。

 「富と権力」システムの崩壊開始 しかし、この「富と権力」システムは、しだいに富の乱調を基因に権力の崩壊が始まり出すことを通して、大きく崩れ始めている。近年のリーマンショックがグローバリズムを標榜して世界市場に収益を求める国際金融資本の破綻を意味するとすれば、現在のユーロ危機は財政危機による国家破産の連鎖の発端を暗示する。権力誕生以来数千年間、終始一貫、専制・民主の如何に拘らず、権力は維持財源として民衆の労働成果の一部を貢租・租税として収奪してきた。だが、権力はいずれも成立当初から深刻な財政危機に陥っていたのであり、権力関係費・戦費・臨時費などで歳出は増加し続け、歳入不足はいつの世、いずれの国にも広く見られたことであった。

 世界では、最近、こうした国際金融資本破綻・国家破産への対応策に疑問を覚えて、先進国でOCCUPY運動が展開し始めている。情報機器の発展でその動静が世界同時に発信されて、世界の人々が問題を共有しはじめている。さらに、リビア、エジプト、シリアなどの途上国では、時代遅れの専制国家に過酷に収奪され、貧困を強いられていた民衆が決起しはじめた。彼らが、よりよき生活を実現するために立ち上がった勢いで、従来の軍人・政治家などを介するよりは、直接自らの声を反映させたほうがいいことに気づき出せば、先進国の運動と連帯することにもなろう。

 日本の場合、近年、巨額な累積国債に基因する財政危機を歯止めなき消費税増加で対処しようとすることを契機に、こうした方法の是非が民衆から鋭く問われ始めている。国民不在で政治家・官僚と諸利害団体などとの駆け引きで歳出がきまるという歳出構造が根本的に改革されないばかりか、消費税使途が限定されることもないので、今後も消費税増税が繰り返され、それが何ら打開策にはならないことは、誰の目にも明らかになってきているのである。早晩、数千間惰性的に権力によって収奪され続けてきた貢租・租税は、そもそも課税根拠の正当性如何が中央集権権力の正当性如何とともに俎上にのぼり、結局は正当根拠が見いだせずに廃止され、新たにコミュニティ維持費、例えば予め使途を特定した基金などの自発的納付(とは言っても、直接民主制議会及びその短所を補完する機関で決定され、法律的強制は随伴しよう)にとってかわったり、民衆の一部による代議政治もネットによる直接民主制を原理とする立法機関(素人の国民に奉仕するテクノクラート専門集団など多くの補完機関で整備)に代替されるであろう。確実に、一方における情報革命の進展による直接民主制原理の実現可能性の進展と、他方における国際金融・財政危機という権力危機の進展を通して、「富と権力」システムは世界的に崩壊過程に突入し、ここに文明危機が始まりだしているのだ。

 こうして、史上初めて民衆により「富と権力」システムを改変・修正或いは廃棄する動きが出始めてきた。だが、修正・廃止するのみでは、平和と生活は維持できないのであり、各集団の地域生活圏・地域経済圏の尊重、つまりグローバリズムに対抗して縄張りという地域中心主義を尊重することが非常に重要な施策の一つとなろう。これはまずは法によって実現されようが、法だけでは不十分だ。やはり哲学が必要だ。

 日本の哲学 ここに日本の哲学の登場となる。なぜか。どうも、日本など一部を除いて、世界中で縄張り争いで殺戮を繰り返していた頃、敵の身体を食べ、「弔い」などのために「女性と子供」などに脳を食べさせ、一部がプリオン病にかかったらしい(ニコラス・ウェイド『5万年前』209頁)。だが、「プリオン病から保護してくれる遺伝的特性をもっ」た人が生き残り、英国ではこれが狂牛病の「大流行」を防ぎ、つい最近まで食人していたニューギニアでは「生き残った50代以上の女性の75%以上」は「クールー病(ヒト・プリオン病)にかかりにくい遺伝的特性」をもった。こうした保護的特性は、5万年前の「大昔からあり」、「世界中の集団にありふれたもの」で、「(食人慣習のなかで)自然選択を受けながら増えていった」が、「日本人には遺伝子の別の部位に独自の保護的特性があ」(ニコラス・ウェイド『5万年前』210ー211頁)り、日本のみは、(食人慣習がなかったからか、或いは途中で廃止されたからか)「遺伝的浮動の過程で人類集団が持っていた特性を失ったものの、代わりにプリオンタンパク質遺伝子の別の部位で新たに保護的特性を発達させた」(ニコラス・ウェイド『5万年前』211頁)というのである。

 殺人を示唆する化石人骨がほとんどない上に、プリオンタンパク質遺伝子研究が期せずして、日本の自然社会のみが、殺人・食人をせずに、「平和」だったということを傍証してくれたかである。なぜ日本だけが数万年前から平和だったのか。遺伝学的な「保護的特性」などということはあくまで後付けである。日本人が殺戮ではなく平和を深く希求するようになったことには、もっと根源的で切実な理由があるはずだ。それは、日本(及び一部の国)のみが、一方で四季ごとに移り変わる自然の美しさ、温かさ、たおやかさ、慈しみに包まれ、類まれなる繊細なるメンタリティを育みつつも、それなるが故になお更のこと、他方で地震、津波、台風、洪水、噴火等の天変地異に頻繁に見舞われ、例えようのない自然の厳しさにも直面して、時には天の下した罰とも受け止め畏れ慄き、必死にもがき苦しみ生き抜こうとする中で、殺戮などが罪深く愚かなるものに見え始め、互いの生活圏たる縄張りを尊重しあい、互いに助け合い、慈しみ合うことの重要性が際立ってきたということである。

 去年の東日本大震災で、世界は日本人の秩序や助け合いを賞賛したが、それは何千、何万年の間に日本の大地に必死に生きようとする人々の間に自然に育ぐくまれてきたものなのだ。それこそが自然への畏敬、感謝という哲学であり、これこそが今後の平和社会の根幹となろう。


                            新社会の学問体系 
 自然と心 ヨーロッパでは、人間は自然に対峙し、それを克服し、自らの生存・発展の糧とする。

 レヴィ=ストロースによると、野生のヨーロッパ人の「科学的思考には二つの様式が区別」され、「それらは・・科学的認識が自然を攻略する際の作戦上のレベルの違いに応ずるもの」(クロード・レヴィ=ストロース、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、2009年、20頁)であり、この二つの様式は「合理的秩序への一段階」である。その後の富社会で登場したキリスト教もイスラム教も「荒蕪の地」、「砂漠」からでたものであり、「自然を敵」とし、あるいは「自然に対抗して文明を築き上げて」(上田紀行)行くものであった(大橋力『ピグミーの脳、西洋人の脳』朝日新聞社、1992年、56頁)。要するに、ヨーロッパでは、自然社会の頃から科学は「自然に対抗」し「自然を攻略」する役割を負わされ、富社会の宗教もまたそれを追認していたのである。だから、自然を攻略する学問として、「理系」が肥大的に展開することになった。

 この画期となったのは、ヨーロッパ中世に登場したデカルト、ニュートンであった。デカルト(1596−1650年)は、「心と体、精神と物質世界を分けて、物質世界は物質世界だけのルールで始末していけばいい」とし、ニュートン(1642−172年)は人間の心を切り離し、心身二元論で自然科学を構築した(大橋力『ピグミーの脳、西洋人の脳』朝日新聞社、1992年、112頁)。この二元論の上に、「なにごとも縦に割って扱うほうがうまくいくということで、専門学の路線が築かれ」、「専門という小さな器の中の法則性だけにとらわれて、それが宇宙だと自分で勝手に考え、小宇宙をそれぞれでもって研究していく」(112頁)ということになったのである。専門という名の「暴走」が始まったのである。

 だが、物と心、つまり理系と文系も本来は自然という同一物を対象とするものであり、一つのものである。二つに分けるべきではないのである。人間と自然のどっちが偉いかは始めからわかっている。人間ははじめから自然に「攻略」されているのであり、自然の方がはるかに偉いのである。しかし、これでは権力者にとって国家運営はできない。権力者は自然を御して、自然の資源を活用して、富を作り出さなければ、周辺諸国に併合されかねない。権力者にとって富国強兵はいつの世にも色褪せることなき国家目標であった。「富と権力」システム下の学問は、この維持と密接に関わり、権力が誕生以来特に重視したのは、自らの基礎を固める技術であり、それに関わる学問であったのだ。そこで、権力は、学問を理系と文系にわけ、自らの基礎たる富の基礎と伸張をはかるために、自然と対峙し、それを克服する手段として技術を重視し、その技術の展開を積極的に助長していった。

 特に経済学は権力基礎たる国富の増大策として登場してくる。こうしたものとしてアダム・スミスは『国富論』を著したが、彼は国富ではなく、人民の真の富とはなにかをこそ研究すべきであった。ジョン・メイナード・ケインズは、1929年大恐慌後の不況を打開するために、国家による有効需要創出を打ち出したが、それが一時的なものに過ぎず、歳出を増加させ、国家財政を犠牲にするものとなることにもっと留意するべきだった。経済学は、現実の経済的諸問題を公正に対処するふりをしたり、批判をしたり、一時的に危機を克服したように見せかけるだけで、実は却って危機を引き延ばし諸問題を深刻化するだけであった。

 こうした混乱は、真の学問が自覚的に体系的に構築されてこなかったことによる。
 
 日本の大学 日本では、当初から権力が「学問」の推奨者であり、国家に有用な学科を中国から導入して国家機関で教えた。例えば、陰陽寮(7世紀設置)で天文楽、陰陽楽、暦学が教えられ、大学寮(728年設置)で明経道、律学、算学、典楽寮では医学、針学、内薬司では薬学が教授された。「国家の要とする」「天文・陰陽・暦・算・医・針等の学」(『続日本紀』新日本古典文学大系、岩波書店、1992年、227頁)が教えられたのである。

 養老6年(722年)4月21日、元正天皇は、詔して、「朕は、はるかに千年の歴史を思い、ひろく九流(儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家)の学問を見て、くわしく政治の方法を考えてみたが、あわれみと思いやりに基づく方式よりもすぐれたものはない。それ故、遠方の地域をも差別することなく、あわれみと施しの恵みを与え、国内のすみずみまでいつくしみ育てる思いやりを及ぼした」(『続日本紀』1、直木孝次郎ら訳注、1986年、246頁)とし、学問を統治と関連付けた。

 天平宝字元年(757年)11月9日、孝謙天皇は、「頃年、諸国の博士・医師、多くその才に非ねども託請(権力者に頼むこと)して選を得」として、今後は専門知識を学習した人材を登用せよとした。それによると、大学寮の明経生は三経(易経、書経、詩経、礼経、春秋経のうち三経)、紀伝生は三史(史記・漢書・後漢書)、医生は大素(中国古代医学の古典)・甲乙(鍼灸書)・脈経(脈診方法)・本草、針生は素問・針経・明堂(鍼灸の点を示す)・脈決、天文生は天官書・漢晋天文志・三色簿讃・韓楊要集、陰陽生は周易・新撰陰陽書・黄帝金匱・五行大義(陰陽五行説を集大成した書)、暦算生は漢晋律暦志・大衍暦議・九章(「種々計算」書)・六章・周髀(算生の必修書)・定天論を学とし、国家に有用な専門テクノクラート育成方針を打ち出したのである(『続日本紀』)。この財源として、同年に大学寮田30町があてられた(森田悌訳『日本後紀』上、70頁)。

 延暦11年(792年)11月20日、桓武天皇は、「儒教の経典を学ぶ大学の学生(がくしょう)である明経生(みょうぎょうしょう)らは、音読の学習につとめていない。文字を読み、文章を読誦するに当たり、誤りを犯す状態なので、漢音(唐代の字音)に習熟させよ」(前掲森田悌訳『日本後紀』上、41頁)と、天皇自らが有用学問に注文をつけすらした。延暦13年11月7日には、桓武は、生徒数の増加に呼応して、越前国102町を加増して、大学寮田を130余町として、勧学田と改称した(森田悌訳『日本後紀』上、71頁)。大同元年(806年)6月10日、平城天皇は、「諸王と五位以上の者の子孫で十歳以上の者は皆大学に入り、学業ごとに分かれ学習せよ。蔭(おん)により官人となろうとする者も大学へ進学せよ」(森田悌『日本後紀』中、講談社、2008年、18頁)と勅し、王族・貴族子弟の入学を義務づけた。これで、「俊秀を大学に集め、才能ある者による学問興隆を意図」した。だが、「朽木」「愚者」も少なくなかったようであり、弘仁3年5月21日嵯峨天皇は、「国を治め家をととのえるには、文章が何より有用であり、身を立て名をあげるには学問が何よりも大切である」とし、これを「改め」て、「各自の意向に任せて、現実に合わせるようにせよ」と勅した(森田悌『日本後紀』中、271頁)。天皇自ら、当時の学問を立身出世の手段ととらえていた。

 ヨーロッパの大学 欧州では、自然を克服する神にまつわる学問、神学がその限りで権力に好都合なものとして基幹的役割を発揮した。

 12−3世紀に「教師の団体、学生の団体」として大学が登場する。そして、この大学は、「文学やスコラ哲学や神学や法学や近代数学・近代医学の発展に伴って発展」(シェリング、勝田守一訳『学問論』岩波文庫、1989年、訳者解説、216頁)した。

 13世紀、パリ大学では、神学部、法学部、医学部と、この三学部への予備としての文学部(自由七科[文法・論理・修辞の三科、音楽・算術・幾何・天文の四科])が置かれた。この中で神学部が最も重視され、「哲学は神学の奴婢」であった。しかし、ドイツでは、自然発生的な組合としてではなく、1348年カルル4世によってプラーグ大学が上から設立された。以後、ウィーン、ハイデルベルグ、ケルン、エールフルト、ライプチッヒなどで諸侯・都市によって大学が設立された。ここでも「神学部の勢力は政治的ににも大きく、学問と宗教・国家との関係が複雑な位相を呈」し、文学部では、「アリストテレースの論理学が重要視され、上級学部ではその弁証法が応用」された(前掲『学問論』217ー8頁)。カントは、『学部の争』で、神学部、法学部、医学部を上級とし、哲学を下級とした。

 ホッブス学問体系論 こうした中で、あの絶対王政を理論的に支えたホッブス(1588−1679年)が、ヨーロッパで学問体系論を展開していた。

 ホッブスは、1651年刊『リヴァイアサン』(水田洋訳、河出書房新社、昭和49年、58−9頁)で学問体系論に触れている。ホッブスは、「知識」には、「事実に関する知識」と「一つの断定の他の断定への連続にかんする知識」という「二種類」があるとする。

 前者の「事実に関する知識」とは、「感覚と記憶にほかならず、・・・絶対的知識」であり、「われわれが、行われている事実をみたり、それが行われたのを想起したりするばあいのようなもの」であるとする。これは「承認のばあいに必要とされる知識」でもあるとする。そして、この「事実に関する知識の記録は歴史と呼ばれ」、「自然史」と「社会史」の二つからなるという。自然史とは、「金属や植物や動物や地域などの歴史のように、人間の意志になんら依存してないような自然の事実あるいは効果についての歴史」である。一方、社会史とは、「もろもろのコモンーウェルスにおける人びとの意志的行為についての歴史」だとする。

 後者の「一つの断定の他の断定への連続にかんする知識」は、「学問と呼ばれ」るものとする。ということは、彼にとって、自然史、社会史は学問ではないことになる。彼は、「それは条件的知識であって、われわれが、示された形が円であるならば、其の中心を通る直線は、それを二つの等しい部分に分かつだろう」とする。そして、ホッブスは、「これが、哲学者において、すなわち推理すると称する者にとって必要とされる知識である」とする。そして、彼は、「学問の記録は、一つの断定の他の断定への連続についての論証を内容とする書物となり、それらは一般に哲学書と呼ばれる」とする。ホッブスにとって、学問とは、哲学という「帰結に付いての知識」なのである。こうした学問には、「さまざまなことがらに応じて、多くの種類」があり、ホッブスは下記のように分類・整理している。

 まず、彼は、学問=哲学には「自然哲学」(自然物の偶有性からの帰結)、「政治学および社会哲学」(政治体の偶有性からの帰結)の二つがあるとする。前者の自然哲学は、「すべての自然物に共通の偶有性」(量と運動とからの帰結)と「物理学」(質からの帰結)の二つがある。

 前者の「すべての自然物に共通の偶有性」には、第一哲学(「不確定の量と運動からの帰結」、「第一の基礎」)、数学=「幾何学」・「算術」(確定的な運動量からの帰結)、「宇宙誌」=「占星術」・「地誌」(「地球や星のような世界の大きな部分と量からの帰結」)、「機械学・重量学」=「技師」・「建築術」・「航海術」(物体の特別な種類と形との運動からの帰結」)がる。一方、物理学には、気象学(「ときにあらわれ、ときに消えるような一時的な物体の質からの帰結」)と、「永久的な物体の質からの帰結」として「計時法」(「星の光からの帰結、これと太陽の運動とから作られる学問」)、天文学(「星の影響からの帰結」)、光学(「影像からの帰結)、音楽(「音からの帰結」)などがある。

 さらに、「永久的な物体の質からの帰結」にして「とくに人間の質からの帰結」として、「人間の情念からの帰結」たる詩学(たたえたり、ののしったりすることにおけるもの)・倫理学、「言葉からの帰結」たる雄弁術(「説得におけるもの」)・論理学(推理におけるもの」)・「正義と不正についての学問」(「契約におけるもの」)がある。

 後者の「政治学・社会哲学」としては、「コモンウェルスの制度から政治体あるいは主権者の権利と義務への帰結」と「同じものから臣民の権利と義務への帰結」がある。これは、コモンウェルス(共通の利益のために連合する国家)において、「主権者」か「臣民」の権利・義務を考察するものである。

 ホッブスは、@学問を権力にとって有用如何を基準にして分類せず、「人間の意志」に関係しているか否かを基準とし、「一つの断定の他の断定への連続にかんする知識」こそが学問とし、A自然哲学、物理学の基礎に「哲学」をおいて、これを学問の大きな領域としつつも、B政治学・政治哲学をも学問領域に設定したのであった。彼の諸学問連関論には、自然克服論・自然退治論という限界はあるものの、自然を基軸に学問論を連関的に構築しようとする片鱗がみられることは大いに注目されよう。

 では、理系とか文系とかに関係なく、自然を基軸に、自然を主人にして、いかに学問体系を構築すべきであろうか。

 自然体系としての学問・教育 これからの新社会のもとでの学問体系は、理系・文系の区別なく、自然を対象とする学問のもとに統一され、人為的現状を対象とする財政学・経済学・政治学など既存「富と権力」システム維持にかかわる俗的偽学問は淘汰され、本物のみが生き残るものとなろう。しかも、それぞれの教科が内在的に連関したものとなるであろう。

 具体的には、第一は自然の鑑賞であり、心を研ぎ澄ましてありのままに自然を写し取り、その中から自然に俳句・短歌(文学)・音楽などが教えられよう。俳句・短歌の古典は言うまでもなく日本の『万葉集』である。本来の文学は「語り部によって語られ、吟遊詩人によって歌われて、空気の振動なって消えていくべきもの」なのに、「文字で固定されて残留性をもっ」て「文学にへんな価値観が導入」された(大橋力『ピグミーの脳、西洋人の脳』朝日新聞社、1992年、203頁)。日本の『万葉集』は、消えゆく歌と、それをできるだけ文字で残そうとした試みの協同作品ともいうべきものである。

 音楽の場合には自然に内在するリズムが重要となり、「音楽は、人間という生物の属性の一つとして、おそらく遺伝子で決定されているソフトフェア」(大橋力『ピグミーの脳、西洋人の脳』朝日新聞社、1992年、132頁)のようなものである。だから、「音楽として機能するものは潜在的につくり上げられていて、音楽をつくることは、それを掘り起こしていく作業」(134頁)、「わかりきっていることをその場に合わせてもう一回やってみる職人芸みたいなもの」(134頁)と指摘している。大野乾氏は、「塩基四種の言葉で極めて単純に枠組みを決め」、「遺伝子の塩基配列から音楽をつくる」(140頁)とする。それは、「遺伝子で決定されているソフトウエア」ではなく、自然のリズムが人間脳にソフトウエア、或いは塩基配列を埋め込んでいるのではないか。いずれにしても自然が先生であり、自然の観察、鑑賞が重要なのであり、「教師」職はそれを媒介し指導するだけとなろう。
 
  第二は、自然の観察、自然・宇宙の摂理の研究であり、基礎自然科学として物理学、理学、宇宙・地球系(宇宙学・天文学、地球科学)、生物学、化学が学ばれれよう。

 こうした自然の観察、自然・宇宙の摂理の研究においては、自然への畏敬が重要となる。だが、意識的に畏敬の念を持とうとしても、そう簡単に持てるものではない。況や、論理的考察をする科学的行為においておやだ。しかし、これは自然に身につくものだ。それは、宇宙、自然が実に精密につくられており、その精巧さに圧倒されるからだ。物理学者ですらその科学的説明の困難から、自然に畏敬の念を抱くようになる程に、自然、宇宙は極めて精巧にできあがっているのだ。この点をアインシュタインに確認しておこう。

 アインシュタインは、ニュ−トン以後の近代2百年間の科学研究は「いつも力と物体とが自然を理解しようとするあらゆる努力において根本的な概念」とされ、特に天文学の発展で「自然現象を、単に物体間の簡単な力(引力と斥力)で記述」できる信条=「力学的自然観」が強められた事を指摘した(インフェルトとの共著、石原純訳『物理学はいかに創られたか』上巻、1996年、61−7頁)。そして、アインシュタインは、「(カントの様に)現象から概念を組み立てずに、人間の観念を自然に押しつけてもだめ」(『峰島旭雄対談集』邑心文庫、1998年、32頁)であり、「自然の中には神のしかけた謎があり、その謎をできるだけ単純明快な法則で解き明かす」(『峰島対談集』49頁)と見て、自然の法則を「神のしかけた謎」とした。つまり、アインシュタインは、「科学に真面目に従事」していれば、「自然の法則が、人間をはるかに超えた精神、つまりその前では、人間は自分の力を過信することなく、謙虚に頭を下げねばならない精神を露わにしているという確信に到達します」(アブラハム・パイス、村上陽一郎ら訳『アインシュタインここに生きる』産業図書、2001年[志村史夫『こわくない物理学』新潮文庫、250頁所収])としたのである。彼にとって自然は畏敬すべき師,神であったのである。

 こうした基礎自然科学中の根幹ともいうべき物理学においては、マクロ(宇宙、銀河、星、地球など)とミクロ(物質の構成、粒子など)という研究対象の相違に応じて「素粒子物理学」・「原子核物理学」・「原子分子物理学」(素粒子、原子の物理学的研究)、「宇宙物理学」・「天体物理学」・「惑星物理学」(天文学の物理的研究)、「化学物理学」(量子力学の発展で化学現象の解明が物理学の一分野になる)、「流体物理学」など枚挙にいとまない分科が生じる(桜井邦明『物理学入門15講』東京教学社、1996年、、20頁)。レオンは、@「物理学の上には化学がくるが、化学は物理学を利用」し(「電荷をもった分子の引力と斥力」の関係などは物理学)、A「化学の上に生物学」きて、Bこの上は「だんだんぼやけてきて、規定しにく」く、「生理学、医学、心理学となってくると、階層の区切りも見分けにく」く、「階層と階層の接点には、複合的な分野ができ」、「たとえば、数理物理学、物理化学、生物物理学」、天文学があるが、地球物理学、神経生物学になると、分類不能である事などを指摘した(レオン・レ−ダ−マン、高橋健次訳『神がつくった究極の素粒子』草思社、1997年、31−2頁)。

 さらに、この基礎自然科学の応用として、人間系(医学、歯学、薬学、生命科学・生物学)、工学系(機械工学、原子力工学)、電子系(電気工学、電子工学)、建築系(土木工学、建築学、交通学、材料工学)、化学系(化学工学、応用化学)、自然産業系(農学、林学 、水産学)、情報工学、生物工学は、自然学(自然界の諸規則・事実)を人間社会の便益に供することを主眼としている。

 自然界の地点間距離、物質最小構成単位、さらには宇宙界と地球との関係などを知るために必要な学問として数学が学ばれ、数学が科学の基底であり、その上にある物理学は数学を必要とするのである(フレデリック・タ−ナ−[レオン・レ−ダ−マン、高橋健次訳『神がつくった究極の素粒子』草思社、1997年、31−2頁])。
 
  以上の二つの学問領域が自然を対象とするものであったとすれば、第三は、「人為」を」対象とする学問となる。

 人為系学問  人類誕生以後の数百万年の時期は、自然の一部としての人類の歴史であった。しかし、農業革命で出現した1万年余にわたる「富と権力」の時期は、自然を技術で「克服」しようと試みた時期であった。この農業革命は、航海革命、市民革命、産業革命、情報革命などいくつかの大きな画期とどのように関連するのかが、重要論点の一つとなろう。資本主義、特に帝国主義を重視して、産業革命の画期性を指摘する研究者も少なくないが、「千年視野」・「古今東西」ということから見れば、農業革命こそが、自然社会と富社会との大分水嶺をなしているという意味で、最も重要な画期ということになる。

 農業革命(自然改造農法)は、既にあきらかなように、メソポタミアの肥沃な三日月地帯で最初におこり、それが世界各地に伝播し、或はそれと並存しつつ、エジプト、インダス、黄河に富社会の曙ともいうべき古代文明、つまり宗教と法と軍事力に支えられた「富と権力」システムを生んだのである。ただし、この農業革命とは、一朝にしてなったものではなく、数千年の自然農法期を前提としていた。やがて農法転換(メソポタミアでは灌漑農法、日本では稲作農法などの自然改造農法の登場)で農業生産力が上昇すると、ここに史上初めて富が生じてくる。そして、飢餓などでその富を盗もうとする集団がでてきたり、富源泉たる耕地侵略がなされ過程で、支配領域が拡大してくると、その防衛のために武力を整備し、城壁を構築し、ここに権力が生じるのである。

 こうした人為を対象とする学問は、@社会系(国家統治系[政治学、行政学、政策学、法学]、経済系[ 経済学]、企業系[商学、会計学、経営学]、人為社会系[社会学 ])、A人文系(基礎精神[哲学、宗教学、倫理学、心理学]、応用精神[文学、美学、芸術学]、生活[民俗学、言語学、人文地理、人類学]、過去学[歴史学、考古学]等)からなり、文献・データなどの分析・吟味により人為の事実・特徴、さらにはそこに見られる優勢的な規則性などを見出すことを目的とする。人間の自然学的側面は不変だが、人間の人為的側面は絶えず有為転変するので、これに関する「人為学」は時宜的・便宜的となり、結局学問方法論はないのだ。これまでにも社会科学方法論など方法論的試みがなされてきたが、現在は「学問として成り立つかいなか」という緊張感はすっかりなくなり、論理学、特に数学・統計学などで学問の体裁を繕うのがせいぜいである。まるで漫才ショーのような意表をつく断片的知識をひけらかして、巧みな弁舌をふりかざして、論理的な問答を通して、問題解決を試みるような「ふり」をするのがせいぜいだということだ。これは、実社会で「飯を食う」ための実学が少なくなく、ビジネスとしての大学に経営方便を提供することにもなる。

 こうした「富と権力」時期の人為を対象とする学問の「正体」は、自然摂理、地球科学、生物学(生物学、植物学、動物学)などの観点、特に地球科学的観点からの把握によって解き明かされる。この地球科学の観点からのアプローチについては、松井孝典氏が、宇宙(137億年の歴史)の視点から地球(46億年の歴史)の歴史を見て、「分化」という法則を提起している。氏は、1万年前に「農耕・牧畜を始めた人類は、そのときから地球史のうえでまったく新しい段階(人間圏の分化)に入った」(『講座 文明と環境』第1巻、15頁)とし、人間の文明とは、「人類が生物圏から分かれ、人間圏をつくって生きる生き方」(稲盛和夫編『地球文明の危機』、13頁、21頁)とした。この「人間圏」は、生物圏とは違う生き方なので、一方では、「我々とは何か、何のために生きるか」を考えるようになり(稲盛和夫編『地球文明の危機』44頁)、ここに、哲学・道徳・宗教を生み出し、他方で、諸利害の激しい対立をもたらすようになり、ここに法律などを生み出すことになったのである。地球科学の観点に立脚する時、我々は、人間の地球・生物・人間に対するネガティブ行動の矛盾を埋め、諸利害の調整をはかるべく、人為的な諸規制(道徳と法律)が生み出されてきたことが考察されるのである。こういう総合的把握を抜きにして、この世の正義とはなにか、幸福とは何かなどを論じても、個人的人生観の披瀝にとどまり、なんら学問的把握はなされないということになろう。
 
 また、ニコラスは、物理学の熱力学法則を経済学に導入し、「熱力学は本質的に経済的価値の物理学なのであり、エントロピ−法則はあらゆる自然法則のなかで、最も経済学的なのである」(小出厚之助ら訳『経済学の神話』東洋経済新報社、昭和60年、72頁)とまで指摘し、既存経済学の非学問性を明らかにした。 なお、エコノフィジックス(経済物理学)というものがあるが、これは、「カオスやフラクタルといった物理学の手法と概念を活用して、デ−タに基づいて実証的に現実の経済現象」にたちむかうもので、既存経済学の誤謬(需要と供給の一致などは現実にありえぬ事)や不備(市場価格の微細行動、為替レ−ト変動のリスク解放手法)などの対処にととどまり(高安秀樹『経済物理学の発見』光文社新書、2004年、5−6頁)、既存経済学を根本的・根源的に再検討しようなどというものではない。既存経済学の揚げ足取的な微細修正にとどまるものである。そもそも経済現象の「カオス」、混乱(非線型)に、自然界のカオス、フラクタルを応用することは「似て非なるもの」への「牽強付会」である。なぜ株価、為替が変動するか、根源的には「人間の欲望と判断」の「曖昧さ」に基因されているからであり、これを捨象して「経済学が見落としていたのは、ディ−ラ−同士の非線形な相互作用によって生ずるカオスの効果」などと指摘しても、いささかも説得力はない。

 こうして、「富と権力」システム下の人間社会の過去・現在を地球科学的にかつ人間固有的に把握することを通して、我々が富を求めて行う行動は基本的には地球にとって突然変異的営為であるという根本的な特徴を確認することになり、その上で、「富と権力」システムの修正乃至廃棄のもとに改めて自然摂理、地球科学、生物学などに即した「人為の学問」が再構築され展開されることになろう。
 
 小活 以上は、自然を基軸にした学問体系論の第一歩であり、今後これは一層精緻化されてこよう。その際、人間は、「物と心」からなる自然の一部であるが、「物と心」の関係は多様であること、人間は、自然界では何も創造はしないし、あくまで人間を含めて自然のなかにある法則、構成要素を知るだけであること、人間は、自らの物質的構成要素(理系)と、それ(脳)を基盤とする精神作用のもとに、「富と権力」システムを築き上げていること(文系)、これらをバランス良く研究することが必要となることなどが留意されよう。
          

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                            § 自然と国家ー国家とは何か §


                                 一 天皇論ー日本の場合

                           1 天皇制と皇位継承問題の学問的把握 
 女性天皇 現在女性天皇、女系天皇等の議論が盛んである。確かに、女性天皇としては、33代推古天皇、35代皇極天皇=36代斎明天皇、41代持統天皇、43代元明天皇、44代元正天皇、46代孝謙天皇=48代称徳天皇、109代明正天皇、117代後桜町天皇と、10代8人の存在が知られている。江戸時代に徳川家との関係から二女性天皇が「例外的」にいたが、女性天皇は6世紀末に登場し8世紀の称徳天皇を最後に見られなくなった。

 では、なぜ女性天皇が該期に集中し、以後登場しなくなったのか。筆者は40年余天皇制もまた研究の一環としてきたが、この問題への答えを簡単にいえば、この時期に神祇派と、仏教王国派との間に権力闘争があったからだ。古来女性は宗教的祭祀者としては最適の皇統であることから、仏教が渡来すると、権力者がこの流れと仏教とを権力掌握に利用しだした。つまり、蘇我氏が仏教王国樹立を構想し、推古大王を祭祀大王、厩戸王子(後の聖徳太子)を仏教法王大王として権力を掌握しようとした。かかる仏教に基づく権力掌握の流れを神祇に基づく大化改新として阻止したのが、中大兄皇子と中臣鎌足であり、内々に神祇に基づく皇位継承法ともいうべき「不改常典」を定めたのである。

 以後中臣は天智天皇から藤原姓を賜って、天皇の忠実な近臣として仏教法王の権力掌握を阻止して神祇による皇位継承を実現してゆく。藤原はこの皇位継承を維持するために、娘を天皇に嫁がせ、男子を生んで、皇位継承を確実にしてゆくのである。この神祇に基づく皇位継承方針と仏教法王樹立方針が再び衝突したのが、道鏡事件である。聖武天皇の娘孝謙天皇=称徳天皇は、厩戸皇子(この頃に聖徳太子と改名されたと推定)らの仏教王国再現を目指して、道鏡を仏教法王、自らを祭祀天皇とした。これを危機と受け止めた藤原一族はこれを頓挫させ、再び神祇に基づく男性天皇を擁立し、藤原娘を婚嫁させることを可能にすることにより摂関権力体制を軌道にのせ、天皇家存続と藤原一族繁栄を緊密に連関させてゆくのである。

 このように、神祇に基づく男性天皇の「皇位継承法」は、藤原という権力者らが皇室・自家隆盛のために確立されたものである(詳細は年刊『仏教経済研究』・季刊『日本主義』の一連論文参照)。これが女性天皇が6−8世紀に集中的に登場し、以後登場しなくなった理由である。これは、ブータン仏教王国の権力構造(仏教経済研究所で発表、後に『仏教経済研究』に発表)の比較研究の内に鮮明となった、「富と権力」の総合的・根源的研究のほんのささやかな成果の僅かなる一部である。


 仏教統治・神祇統治 その後の文徳・清和・陽成天皇の治期は、仏教統治・神祇統治との関係と、天皇と臣下との関係において、画期的な時期であった(これは仏教経済研究例会で発表したもの、それに関連したもののほんの一部の小括を補訂したものである。なお、この研究会の学問的自由の空気と水準には無比の素晴らしさがある)。

 第一に、天智天皇の不常改典「法」で天照大神を皇祖とする皇位の継承・維持は天皇・臣下の義務となり、それを正当化する伊勢神宮を頂点として神社が整備され、仏教も皇位継承・維持方針をうちだすことによって、皇位継承・維持については仏教統治と神祇統治の軋轢はなくなり、@嘉祥3(850)年に円仁が皇位を祈る道場として比叡山に総持院という大講堂を建てたり、A藤原良房が僧正真雅(真言宗)と謀って、「真言の秘密」を修める道場を造った結果、嘉祥3年3月25日に惟仁(良房娘の明子と文徳天皇の子、後の清和天皇)が生れ、貞観元(859)年に眞雅が天皇の皇位継承を過去の「良因」を引き継ぎ、仁の普及と仏の普及を連関的に把握し、仏教は具体的に皇位を受け継いだり、守るものとなったのである。

 第二に、これを臣下の側から保証する装置として、臣下実力者が皇位を簒奪しないという仕組みとして「万機摂行」する摂政が登場し(つまり、功なり名とげた貴族にとって、摂政は到達点であるとともに、それ以上は立身できないという限界ともなるということだ)、仏教の側から保証する装置として、仏教僧侶が仏教法王などになって皇位簒奪しない仕組として僧綱位階(貞観6年)を制定したことである。

 既に、神祇・仏教的に皇位が継承・維持されることを物質的に裏付けるものとして、天皇の先祖神が国土を造り、国土は天皇のものであり(27代安閑大王の王土論)、公地公民制で全国土は王土となり、聖武天皇は「夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり」(15年10月15日盧舎那仏造営の詔)としていた。だから、以後、最強最大領主が登場しても、日本全国土の領主になれるものは一人もおらず、名分論的に天皇が日本全国の所有者という思想は生き続けて、明治維新で息を吹き返して、版籍奉還の思想的根拠にもなっていったのである。つまり、鎌倉時代以降(初期・前期・後期封建社会、近世)は、天照大神を皇祖とする天皇の権威は最上権威となり、それが最強最大の権力者に利用価値ありとされて今日まで存続しえたのである。

 皇位が長く継承されて、天皇の権威が増す過程で、最強最大領主は天皇を打倒して取って代わるより、征夷大将軍(或いは大臣)として天皇に臣従を表しつつ、武士最高の権威を得て、天照大神を皇祖とする天皇の至上価値を自己の正当化や統治円滑化に利用したほうがよいとしてゆくのである。仮に最強最大領主が皇位簒奪(例えば足利義満にこの意図を推定する者がいる)したところで、朝敵とされて、とても安定政権は維持できないであろう。権力者にとって、天皇権威は侵しがたい至上価値であり、それなるがゆえにいかなる権威よりも最大の利用価値があったのであろう。故にこそ、戦国時代に成り上がりの豊臣秀吉が諸大名統制に後陽成天皇を大いに利用したりした。


 近現代 このように、古代・中世・近世天皇制の歴史は、権力に利用されていった歴史である。これは近現代でも同じである。幕末倒幕過程で天皇は倒幕派から権力掌握のための「玉」と把握され、明治維新の際にも、薩長藩閥が近代天皇制をつくりだした(詳細は拙著『維新政権の秩禄処分ー天皇制と廃藩置県』開明書院、昭和54年)。明治33年に、伊藤博文は有栖川宮邸での東宮成婚会議で皇太子が側近者らの操り人形であることを示したが(菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部下、岩波書店、昭和37年、19頁)、政治家・官僚にとって天皇もまた基本的には同様であった。

 長州閥の伊藤は憲法制定過程で天皇の継承法などをも制定し、明治22年制定皇室典範の「第一章 皇位継承」の第一条で「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とした。これに関して、伊藤博文は、『皇室典範義解』(国家学会、明治22年4月)で、「皇位の継承は祖宗以来既に明訓あり」として道鏡事件渦中の和気清麻呂還奏の言(「我国家開闢以来君臣分定矣、以臣為君未有之也。天之日嗣、必立皇緒」)を引用した。これは、言うまでもなく『続日本紀』にある言葉である。伊藤博文は、憲法草案・皇室典範の作成実務に従事させていた井上毅らからこれを教えられたのであろうが、実は、彼らとても、神祇と仏教との鋭い軋轢という、この和気清麻呂の還奏経緯を知らなかったのである。これを簡単にみておこう。

 神護景雲3年(769年)7月、称徳天皇が仏教法王道鏡の仏教統治の本格的推進に動き始めようとして、道鏡と皇位との関係が問題になってきた折に、大宰帥の弓削浄人(道鏡の弟)と太宰府の主神の習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」との宇佐八幡の託宣を伝えた。称徳はこれを聞いて、疑問に思ったはずだ。彼女は推古大王同様に皇位を守り引き継いでゆこうとしており、道鏡を皇位につけるなどはいささかも考えていなかったからだ。早速側近の尼法均の弟和気清麻呂を勅使として宇佐八幡に派遣して、「神の教えを聞いてほしい」(森田悌訳『日本後記』講談社、2006年、195頁)と命じた。これ以前に、道鏡師匠の路(みち)豊永が和気清麻呂に、「道鏡が皇位に着くようなことがあれば、自分は何の面目があって臣下として天皇にお仕えすることができよう」(『日本後記』、195頁)と懸念を表明していた。こうした道鏡皇位即位への懸念は、道鏡師匠のみならず藤原一族が抱いていたことであった。和気は、この懸念を共有していたから、称徳天皇の指示通りに冷静に「神の教え」を聞くつもりなどなく、恐らく藤原らと結託してはじめから宇佐八幡託宣に批判を抱いていたのであろう。或いは、弓削浄人と習宜阿曾麻呂の託宣伝奏から藤原の策謀があったのもかもしれない。

 和気は宇佐八幡に着くと、「このたび伺った宇佐八幡の教命は朝廷の大事であり、信じがたい内容です」と、称徳の勅命にもかかわらず、問題の宇佐八幡託宣に疑問を呈した。そして、「願わくは、格別の神の意思を示せ」と求めると、「突如として神が長さ三尺ほどの満月のような形をして現れた」という。だが、これはかなり捏造臭い。神は和気に、「我が国では君臣の身分が定まっているにもかかわらず、道鏡は人の道に悖り、皇位につこうとの野望を抱いている。神は激怒して、その野望を聞き届けるようなことはしない。・・・汝は道鏡の怨みを恐れてはいけない。私が助けるであろう」(『日本後記』、196頁)と託宣したというのであった。彼は帰京すると、称徳天皇に、「わが国家は開闢以来君臣の分定まれり。臣を以て君とすることは、未だ有らず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人(道鏡)は早(すみやか)に掃(はら)ひ除くべし」という大神の託宣を報告した。伊藤博文も引用した上述の言葉である。称徳はこれを聞いて「怒った」とされている。称徳は、自分の命令を忠実に履行せずに、託宣内容に誰でも見破れるような作為・嘘を加え、道鏡排除を企てたことに怒ったのである。もし、和気が、「神は、道鏡即位論のような託宣をしていたことは確認できなかった」という偽りなき真実の報告をしていれば、称徳も怒ることはないし、彼を近衛将監の本官を解いて因幡員外介として左遷することもなかったであろう。なお、和気左遷後に、同年藤原百川が彼に封20戸を贈っているから、和気は策士藤原百川の描いたシナリオ通りに動いていたのではないか。

 神護景雲3年(769年)10月1日、称徳天皇は皇族や諸臣らに、「朕を君と念はむ人は、光明皇太后によく仕えよ」、「朕が子阿倍内親王(後の称徳天皇)に明らかに浄く二心なくして仕えまつれ」という聖武天皇の勅語を引用し、また「天下の政事は慈悲(うつくしび)を以て治めよ。また上(かみ)は三宝の御法を隆(さか)えしめ出家せし道人(ひと)を治めまつり、次は諸の天神・地祇の祭祀を絶たず、下は天下の諸人民をあはれみたまえ」(『続日本紀』四、259頁)という、仏教が主・神祇が次という序列を説いた聖武天皇勅語を伝えた。聖武天皇時代から、統治の主根拠が仏法になっているのである。また、皇位は謀で得ようとしても、「諸聖(盧舎那如来、観世音菩薩、護法の梵天・帝釈・四大天王)・天神・地祇の御霊のゆるしたまわぬ」(『続日本紀』四、261頁)ものだから、結局「身を滅ぼす」とした。そして、称徳が「深く・・尊び拝み読誦」している最勝王経の「王法正論品」に、「もし善悪の所業をなしたら、現在の中に諸天と共にこれを護り、善悪それぞれのむくいをさし示させよう。その国の人が悪の所業をするのに、王がこれを法によって禁制しないのは、道理に沿ったものではない。当然しかるべく法によって処置せよ」(『続日本紀』四、263頁)とあることを告げ、群臣を教え導いた。さらに、同経を踏まえて、「この世には世間の栄福を蒙り忠しく清き名を顕し、後世には人天(人界、天界)とのすぐれた楽しみを受け、遂にはさとりを得て仏となれ」(前掲『続日本紀』四、263頁)と、神祇よりも仏教のほうが具体的に目標を指し示しているとした。そして、称徳は、「紫の綾」で8尺の帯を作り、「二つの端に金泥を以て恕の字」を書いて、五位以上の臣下に配った。この仏教的な恕(許す)で臣下は乱れず一致結束しようというのであろう(『続日本紀』四、263頁)。

 このように、伊藤引用の言葉とは、仏教法王道鏡の皇位即位を阻止するために、和気(さらには藤原ら)が作ったものだったのである。かつて天智天皇が、神祇に基づく皇位継承が不改常典だという方針を打ち出さざるを得ないような切迫した事態が、この称徳天皇治期にも再出したのである。

 続いて、伊藤は、「皇統は男系に限り女系の所出に及ばさるは、皇家の成法なり。上代独女系を取らざるのみならず、神武天皇より崇峻天皇にいたるまで三十二世曾て女帝を立てるの例あらず。故に神功皇后は国に当たること六十九年、終に摂位をもって終へたまへり。飯豊尊、政を摂し清寧天皇の後を受けしも、亦未だ皇位につきたまわず。清寧天皇、崩して皇子なし、亦近親の皇族男なし。而して皇妹春日大姫あり。然るに皇妹位に即かすして、群臣、従祖・履中天皇の孫顕宗天皇を推挙す。是れ以て上代既に不文の常典がありて、簡単に易ふべからざるの家法をなしたることを見るべし」と、上代には既に「不文の常典」があったとした。だが、はたして、これは上代から明確な不文皇位継承法だったのであろうか。

 事実として、あるいは結果として、「神代」からの権力闘争の過程で大王男子が大王位を継いで来たようだ。それは、未婚長女が大王位を継ぎ、豪族男子らが婿入りすれば、長男なら大王位の乗っ取りという深刻な事態が起こりかねないし、さりとて婿をとらずに未婚を通せば後継者問題で王権は絶えず不安定を余儀なくされるが、豪族娘を大王男子の嫁とすれば土地財産の持参金がついてくるから、これ自体が大王財産形成には必須のことであったという現実的な諸問題があったからであろう。大王位の男系男子継承とは、常典というよりは、切実な諸問題に基づくことだったに違いないのである。仏教と神祇との権力闘争の過程で、神祇側(つまり、藤原側)がこうした事実を仏教派を挫折せしめるものと受け止めて、神祇にもとづく正当な皇位継承「常典」だと明確化していったのであろう。

 そして、伊藤は、以後、「推古天皇以来、皇后皇女即位の例なきに非ざるも、当時の事情を推原するに、一時国に当り、幼帝の歳長するを待ちて、位を伝えたまわむとする権宣に外ならず。これを要するに祖宗の常憲にあらず。而して後世の模範と為すべからざるなり。本条皇位の継承をもって、男系の男子に限り、而してまた二十一条に於て皇后皇女の摂政を掲ぐる者は、蓋し皆先王の遺意を紹述する者にして、苟も新例を創むるに非ざるなり」と、女性天皇は便宜的なものとした。この見解は、当時の神祇・仏教間の権力闘争を知らぬことを露呈したものと言えよう。

 なお、伊藤は、天智天皇の「天に双日(二つの太陽)無く、国に二王は無い」という言葉を、「皇統にして皇位を継ぐは必ず一系に限る。而して二三に分割すべからず」と、南北二朝の批判に援用しているが、これまた、当時の彼らが直面した神祇上の危機、つまり推古祭祀大王、厩戸仏教法王という二王体制を批判したものであったことに気づいていないというべきである。
もとよりこうした二王体制は「外部」にそう見えるだけで、当事者には、統治者は仏教法王大王であり、祭祀者は祭祀大王という分担が「合理的」に把握されていたのである。例えば、厩戸仏教法王大王は、十七条憲法の第十二条で「国に二君非(な)く、民に両主無し、率土の兆民、王を以て主と為す。所任官司は皆是れ王臣なり。何ぞ敢て公と与に百姓に賦斂(をさめと)らむ」と、朝税のほかに官司が百姓を過度に収奪することを禁止しつつ、「国に二君非」しとしている。外見上は二君制の様相を呈していたにもかかわらず、厩戸は仏教法王として仏教統治をして、自分こそが統治上の君主であり、推古は祭祀大王ととらえていたから、このように「国に二君非」しと言えたのである。

 日本の天皇制とは、天皇が宗教的権威という存在であることにより、平安時代以降、政治担当者=権力者として上皇・法皇(院政)、征夷大将軍(鎌倉・室町・江戸時代の幕府政治)などが登場して、外見的に二君的性格を帯びざるを得なかったともいえる。だから、幕末に来日した外国人は、天皇と将軍のいずれが「元首」なのか戸惑ったりした。しかし、当事者は、天皇は祭祀を担い、位階をさずけ、将軍が統治を担うという内在的分担がなされていて、決して二君制とは認識していなかったのである。

 戦後天皇制 戦後天皇制もまた権力の利用の産物である。戦犯として連合国側が昭和天皇を訴追しようとする動きのある中で、戦前から天皇の政治的効果を研究していたアメリカが基本的には訴追免除・天皇制存続をはかってゆく。アメリカ国立公文書館所蔵文書(State Department Records Decimal File,1945-1949"894.001 HIROHITO/1-2546" <Sheet No. SDDF(B)00065>(国会図書館所蔵)によると、 WX 85811(天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集せよという1945年11月29日付マッカーサー宛米統合参謀本部指令)を受けて、マッカーサーは調査したが、1946年1月25日、彼は、「過去10年間の日本帝国の政治的決定に様々に関与させたであろう諸行動に関連して明白な証拠は摘発されていない」とした。彼は、かなり調査した結果、「終戦までの国事行為への関与は相当程度大臣らによるものであり、顧問らの助言に応じたものだ」という印象をえたとした。そして、@彼を訴追していれば、「有力な軍閥によって支配され代表される意見の流れを妨害しようとする天皇の努力を危険なものとしていたであろう」こと、A訴追には「大きな変化が占領計画に施され、しかるべき準備がなされねばならないこと」、B訴追は「日本国民の間に深刻な激震をもたらし、その影響はいかに過大評価してもしきれないほど大きいこと」を指摘した。最後に、マッカーサーは、「彼をやっつければ、日本国民は分裂する」と警告したのであった。「天皇の存在はマッカーサー元帥にとって二十個師団にも匹敵する」(1948年米国ニュース報道)のであった。

 天皇をめぐる、そうした駆け引きの中で日本保守勢力が在位継続・天皇制存続のために、アメリカ側の最大の懸念の一つ、「日本が天皇のもとに再び軍事強国になりはしないか」という懸念を払拭するために、憲法で天皇の藩屏たる貴族の廃止に踏み切り(拙著『華族総覧』講談社)、かつ平和条項などを容認していったのではないか。前者は憲法外機関(枢密院など)の廃止とともに天皇制を弱体化し、後者は軍事強国化の可能性を完全に遮断することになる。

 国家存立の必須条件たる軍事力について、武力の放棄・戦力の不保持などを定めることは、古今東西約1万年にわたる「富と権力」史上ではありえないことなのであり、そこにはよほどの差し迫った緊迫状況があったはずである。なぜなら、普通の感覚と常識ある人間ならば、世界同時に行うことなく、ある一つの独立国に自衛権も認めずに武装解除状態を強い、結局は外国軍駐留を余儀なくさせる事態をもたらすなどということは、明らかに「普通ではない」ことぐらいはすぐに気付くはずだからである。何か政治家レベルを越えた大きな存在がそこに介在していたのではないか。

 この占領期に政治の頂点で「活躍」していた人物こそ天皇なのであった。実は、こうした天皇「活躍」はそれ以前の終戦推進・ポツダム宣言受諾の過程から見られたところであった。占領期にいきなり天皇が「政治的」に行動し始めたわけではないのである。終戦期天皇「活躍」の延長線上に占領期天皇「活躍」があるということだ。そこで、まずはこの終戦期天皇「活躍」から瞥見してみよう。


                           2 天皇の国体護持活動ー終戦期 
 天皇制の危機 裕仁が即位して124代天皇になったということは、連綿と続いてきた皇統を三種の神器受領・大嘗祭執行など古来の儀礼で正統に引き継ぎ、以後も宮中で古代から伝わる年間宗教祭事を滞りなく勤め、123代にわたって続いてきた天皇制を絶やさないことが天皇の義務の一つになったということである。
天皇裕仁は、宮中では、祭祀者として皇祖(天照大神)皇霊(歴代天皇・皇族の霊)や神々を祀り、彼らと交わりながら生活し、国家国民の安寧・繁栄を祈願し、こうした天皇制即ち国体を次代天皇に引き継かせてゆくことを義務とするようになったのである。天皇裕仁にとって、祭祀とは、推古大王、称徳天皇など歴代天皇と同様に、古代・中世・近世・近現代などという時期区分を貫通して数千年来守り続けてきた務めだということだ。
 
 確かに、明治維新以降の「外見的立憲制」のもとで、祭祀者天皇は政治面では直接統治せず、輔弼・侍従ら側近の助言に任せてはいた。しかし、御簾の奥に座していた天皇は明治維新で最高意思決定機関の頂点を占める政治的・能動的君主として表に登場しはじめ、大久保利通・西郷隆盛・山岡鉄太郎(拙著『華族総覧』講談社)らはそうした能動的で有徳の明君主を育成しようとした(拙著『維新政権の秩禄処分』開明書院)。権力は、危機に直面しても、それに「人知を越えて」能動的に立ち回る天皇を創りだそうとしたのであろう。つまり、大日本帝国憲法発布以後、現実の統治が、輔弼政治、責任無問性を原則とし天皇の直接統治ではなくなったとしても、「外見的立憲制」のもとでは何ら天皇親政を否定するものではなかったということだ。天皇は、親政を常態としていなくとも、官僚・政治家の操つる単なる「ロボット」ではなく、状況いかんでは能動的君主として最高意思決定に大きな影響を与えることが少なくなかったのであった。況や天皇が天皇制存続の危機に直面すれば、天皇は自らを顧みずに天皇制維持のために「なりふり構わず」行動せざるをえなくなるのである。

 天皇制存続の最大の危機は、外国が軍事的に侵略することによってもたらされる。以前にも外国占領の恐れがあった。例えば、白村江の戦いで日本が大敗した後に天皇らは唐・新羅連合軍の日本襲撃の恐怖に見舞われ、また元寇では実際に九州が侵攻され、天皇らは天皇制存続危機の恐れに直面したが、いずれも杞憂に終わった。しかし、第二次大戦の敗北は現実に敵国進駐を日本全国にもたらした点では、天皇史上で最初にして最大の危機なのである。それは、歴代天皇がこれまで味わったことのないほどに深刻な危機であり、天皇は是が非でもこの危機を打開し、天皇制を存続させ、皇位を守ることにいっそう全力を尽くさざるをえなくなる。

 終戦推進期において、陸軍省首脳・高級参謀らは本土決戦を主張して必死に国体を護持しようとしたが、彼らの国体護持論は天皇制軍隊で昇進する過程で「心情的」或いは「学問的」(平泉史学)に身につけたものである。しかし、天皇裕仁は生まれながらの「生粋」の国体護持論者であり、それを職務、或いは家務としていたのであり、国体の危機に際しては、彼ら以上に天皇制=国体護持に腐心し、それに最も熱心になるのである。臣下(内相・侍従ら側近、首相ら)らはその意を体して活動しただけといってよい。戦局が悪化すると、天皇は冷静に早期終戦こそが国体護持になると見て、終戦時期を逸すると、取り返しのつかないことになりかねないとしてゆくのであった。しかも、戦況悪化すると、かえって有利な戦況で国体護持しようと陸軍の「暴走」がはじまり、それを抑えられるのは天皇のみとなれば、天皇の「政治的」役割は大きくならざるをえなくなろう。
 
 終戦推進内閣 昭和20年4月1日に米軍が沖縄本島へ上陸すると、小磯国昭内閣は戦局打開の見通しを喪失して、4月5日に総辞職し、代わって79歳の鈴木貫太郎海軍大将が後継内閣を組閣した。鈴木に大命降下の際、木戸幸一内大臣は鈴木に、「陛下は戦争の推移については非常に御憂慮になって居られ、出来る丈速やかに平和をもたらすことを御希望であります故に、閣下におかれてもこの点につき充分の決意をもたれ、閣下の内閣を以て戦争中の最後の内閣にせらるる様希望します」と、天皇の思召しに基づいてこの内閣は終戦内閣であることを申し入れていた。鈴木はこれを受け入れて、「自分も戦争を速やかに終結せしむることについては全く同感であって、自分が若し大命を拝するとすれば自分の使命は全くそこにある」(終戦に関する木戸陳述書[『GHQ歴史課陳述録』終戦史資料 上、原書房、2002年、6−7頁])と返答した。

 大蔵省保険局長迫水久常は当時革新官僚(「軍人と交友も多く、戦争に協力」し、「統制経済の中心的存在」)の一人と見られていたが、岳父岡田啓介大将から「自分は鈴木首相にぜひ戦争をやめてもらわねばならないと思っていて、これには大いに手伝うつもりでいるが、お前は自分の身代わりとなって内閣の中にあって鈴木首相を助けるように」と要請されて、内閣書記官長に就任した。

 当時の海軍は、豊田副武軍令部総長らを除き、陸軍とは反対に終戦論を提唱していた。米内海相もまた早期終戦論を標榜して、5月15日、保科善四郎が海軍軍務局長に任命され、新任挨拶に訪れた際、米内から「陛下は早期終戦の思し召しであり、これを本土決戦となる以前におやりになりたいお気持ちと拝察される。そこで、今沖縄へ一個師団増派できるかどうか。それで沖縄の奪回ができるかどうか、どうか研究してほしい。もし不可能とな れば、早く終戦に持ち込みたい」と、聖断にそった早期終戦論を提唱された。

 鈴木内閣の閣僚の中で最も強く終戦を使命と自覚したのは、外相に就任した東郷茂徳であった。鈴木が入閣交渉の際、「この戦争はなお二、三年は続き得るものと思う」と語ったので、東郷が外相就任を躊躇したというのは有名な話である。木戸内大臣秘書官長の松平康昌が来て、「総理の気持ちもそうはっきり決まっているとは思わん。それでその点についてはあなたが入閣してから啓発してもらうことが適当だ。殊に終戦の問題については陛下も非常に考慮されたる模様である」(東郷茂徳陳述書[『GHQ歴史課陳述録』293頁]と、東郷が説得されて、ようやく入閣したのである。

 また、国務大臣に就いた情報局総裁下村宏も、「鈴木貫太郎氏が出馬したということ自体が、終戦を以て内閣の最大使命とみていることの証左」(下村陳述書[『GHQ歴史課陳述録』220頁])と指摘していた。

 こうして、天皇の意を受けて終戦を画策する人物が出揃った。天皇が側近木戸幸一らを使って終戦に向けての第一歩を踏み出した。

 戦争遂行内閣 これに対して、陸軍では、歴代内閣に申入れをする慣例に従って、杉山元大臣、柴山兼四郎次官、吉積正雄軍務局長、永井八津次(やつじ)軍務課長らが集まって申入れ事項を協議した。鈴木に終戦の臭いがあるとして、陸軍首脳は、@戦争目的を完遂する事(「戦争目的を或る程度達成しつつ和平を結ぶか又は降伏するかということ」[永井陳述、『GHQ歴史課陳述録』終戦史資料(上)434頁])、A陸海軍の統合に努力する事、B本土決戦必勝のために陸軍企図の諸政策を実行する事という三条件(沖修二『阿南惟幾伝』講談社、昭和45年、265頁)を基本大綱とすることに決めて、これに基づいて永井軍務課長が白井軍務課々員に起案を命じた(永井陳述[『GHQ歴史課陳述録』終戦史資料(上)434頁])。

 Bの本土血戦とは、昭和20年1月19日に天皇から認可されたものであり、50個師団以上を動員することになっていた。4月20日には、大本営陸軍部から『国土決戦教令』が通達されることになった。ここで注目すべきことは、A項で軍務局の中堅将校の強硬意見が反映していたことである。これは「従来屡々陸海軍上層部で問題となりつつも、遂に実現せず」にきたものだった。そこで、軍務局軍務課畑中健二少佐、椎崎二郎中佐が永井軍務課長に、「陸海合同の実現をなし得ざる杉山陸軍大臣の辞職を要求する血書」を提出したのであった。永井はこの「下剋上」的行為を厳しく叱責したが、この陸海軍合同は「中堅将校、就中参謀本部の強い要求」でもあった。

 だから、これは、確かに「当時の情勢上妥当と思われる事を慣例に従って申し入れた」に過ぎないものではあったが、中堅将校の発言力が大きくなっていることを示していたことが留意される。実際、陸相は、杉山元から阿南惟幾に交代した。彼ら中堅将校は国体護持のための本土決戦論を提唱して、阿南陸相を通して鈴木内閣の「戦争政策」(継戦か和平か)に影響力を及ぼして行くのである。

 阿南陸相は「本土決戦で有利な状況を作ってから終戦する」と考えており、この点では「特に若い将校から信望が非常にあった」(松谷誠陳述[『GHQ歴史課陳述録』448頁])のである。

 天皇制持続への米国意見  当時のアメリカの対日政策については、「国務省とCAD(米陸軍省民事部)は意見が別れ、立案がかなり遅れて」(ケーディス発言[竹前栄治『日本占領 GHQ高官の証言』日本図書センター、昭和63年])いた。焦点の天皇制もそうだった。

 5月28日、J.C.グル−国務次官はトル−マン大統領に、日本に天皇制を残すことにすれば、日本の降伏は早いと進言した(『昭和史の天皇』読売新聞社、昭和55年、342頁)。H.L.スティムソン陸軍長官もトル−マンに、天皇制を残すことを非公式に日本政府に伝えるべきだと提言していた。だが、アメリカ世論は天皇処刑を求め、国務省多数派は天皇制維持に反対していた。天皇制存続如何に関しては、アメリカにおいても微妙な問題となっていた。

 天皇は、既に国体護持のためには「身を捨てる」覚悟はできていたであろうから、廃位でも何でも覚悟はしていたかもしれない。天皇らは、国体護持のためにアメリカ世論を味方につけることが必要であり、そのためには本土決戦等で双方に甚大被害を生むことを避ける必要があった。天皇らは、早期終戦して被害の拡大を避け、天皇へのアメリカ国民の厳しい意見を緩和し、天皇制廃止まで突き進まぬようにすることが必要だったのだ。

 戦争継続の御前会議 6月8日の臨時議会前の御前会議で、政府側は天皇の意を受けて各般の事情で戦争継続は困難とした。だが、豊田副武軍令部総長、川辺虎四郎参謀次長(梅津美治郎参謀総長は満州出張中)らの要求を容れて、「今後とるべき戦争指導の基本大綱」を決定した。そこでは、「七生尽忠の信念を源力として、地の利、人の和を以て国体を護持し、皇土を保衛」すると主張し、「勝利疑いなし」(『天皇独白録』、迫水前掲書など)として戦争継続が提唱されていた。死んでも七回生まれ変わって、国に忠誠を尽くすという中に、この頃の陸軍中堅の本土決戦論への強い決意があった。
 
 そもそも、この七生尽忠或いは七生報国とは、楠木正成が、1336年湊川の戦いで天皇を守るため手勢7百余騎を率いて数万人の足利尊氏軍と戦い敗北して、最期に「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」と語った楠公精神にならったものであり、陸軍中堅らの本土決戦・国体護持の精神的支柱となっていた。実際に畑中健二少佐は「護国の鬼となり、国と共に必ず七生する」(飯尾憲士『自決  森師団長斬殺事件』集英社など)としていた。井田正孝中佐は、「本土決戦を避けて速やかに降服すべしとなる理由は早ければ早い程あらゆる面に於て損害が少ないということに帰着する。考え方の根本が唯物的戦争観であって、民族の生命を賭した戦争観ではない」(井田『宮城事件の本質』昭和30年7月[防衛庁図書館所蔵]、西内雅、岩田正孝『雄誥−大東亜戦争の精神と宮城事件』日本工業新聞社、昭和57年)として、七生尽忠の楠公精神に基づく本土決戦論を標榜していた。だが、これはあくまで天皇の臣下としての国体護持論であって、天皇は、皇祖皇宗・三種神器・国体の護持、国民庇護のために負け戦などはできないのであり、「唯物的」に戦況を判断してできるだけ有利に終戦を導く義務があったのだ。臣下の国体護持論と、天皇の国体護持論は違うということだ。

 軍部は、結局、この御前会議の結果、戦争継続が決定したものと受け取った。これに対して、内閣府では、「国体を護持し、皇土を保衛」することを戦争の目的とし、これが実現できれば戦争は終了すると考えていた(迫水陳述書[『GHQ歴史課陳述録』165頁])。

 天皇は、戦争継続を強く主張する豊田軍令部総長には元来批判的であった。天皇は豊田を軍令部総長にもってくることに対して、「『マリアナ』の指導も失敗だった、司令官として成績不良者を軍令部総長にもってくることは良くない」と注意していた。米内の真意は、「豊田は若い者が推挙してゐるから、彼の力により若い者を抑えて、平和にもって行かう」(「昭和天皇の独白八時間」[『文芸春秋』平成2年12月])ということであった。米内は、天皇意志たる終戦には必要な人物として豊田を軍令部総長に登用したのである。

 天皇の継戦能力把握 天皇は、海軍特命検閲使長谷川清大将の軍需工業視察報告書(魚雷工場の生産能力の急減など)、盛厚王報告書(海岸防備の不十分、決戦師団での武器不足。敵の落とした爆弾でシャベルを製造)などを見て、戦争継続は不可能としていった。

 6月9日には、木戸は、この御前会議に軍部が「今後とるべき戦争指導の基本大綱」を提出した事に業を煮やして、天皇に「(時局)対策につき種々言上」した。所謂木戸私案である。木戸は、6月8日午前会議添付資料「我国々力の研究」によると、「本年下半期以後に於ては戦争遂行の能力を事実上殆ど喪失するを思はしむ」(『木戸幸一日記』下巻、1966年、1207頁)としていた。そして、木戸は米軍爆撃による本土壊滅に関しても「今日敵の空軍力、大量焼夷弾攻撃の威力より見て、全国の都市と云はず村落に至る迄、しらみ潰しに焼き払うことはさしたる難事にあらず。又さまでの時を要せざるべし」と、的確に見通していた。天皇もこれに同感したであろう。事態は一刻を争うのだ。

 時局収拾案 そこで、木戸は、中立国ソ連を介して米英と交渉を開始し、終戦の詔勅をだすとした。天皇は満足して推進を木戸に指示した。6月13日、木戸は個別に米内海相、鈴木首相に「時局収拾対策」を話して同意を得た。15日には、木戸は東郷外相と「時局収拾対策につき懇談」して、具体策の作成に着手するように依頼した。

 18日には、木戸は阿南陸相にも「時局収拾対策につき懇談」(『木戸日記』下巻)した。木戸が内大臣秘書官長時代に阿南が首席侍従武官であったから、宮中で頻繁に出会っていて、阿南とは気心を知る仲になっていた。天皇意向を体しての会談であったろう。

 阿南が「水際作戦をやってだね、それから和平交渉をしたほうが有利にゆくだろう」というと、木戸は、「それはいけない。もう向こうの艦隊が今日本に上陸するための展開をやるために非常に苦心している時だ。展開してしまったらもうなかなかいうことを聞かないんだから、展開前にやらなきゃ駄目だ」(多井田喜生『木戸幸一の昭和』文芸春秋、2000年、286頁)と、敵側の作戦状況を踏まえた迅速終戦を説いた。阿南が、「いや、本土決戦で有利な和平条件を得るのが重要だ」と陸軍意向を繰り返すと、木戸は、天皇への阿南忠誠心が強いことを利用して、「もし敵に上陸されてしまって三種の神器を分取られたり、伊勢大廟が荒らされたり、歴代朝廷の御物がボストン博物館に陳列されたりしたらどうするつもりか」(多井田同上書)と、日頃から聞かされていただろう天皇の現実的懸念をぶつけた。阿南は「あなたの考え方には大体賛成だ」と譲歩するに至った。

 この6月中旬には、阿南は国務大臣安井藤治中将にも、「どうして戦争を終結しようか」(安井談[沖修二『阿南惟幾伝』10頁])と相談していた。こうして、木戸はソ連仲介の講和交渉に阿南賛同を得た。そこで、この18日午後3時から、最高戦争指導会議が開かれ、和(日本に相当戦力あるうちに、ソ連を介して和平を提案)戦(米英が無条件降伏を固守の場合は戦争を継続)両様の方針が示された。天皇の意向の下に和の方向に向い始めた。

 天皇の講和表明 6月20日、木戸は天皇に会って、「時局収拾云々、その後の経過」を報告した。この日、東郷外相は、広田・マリク(駐日ソ連大使)会談の経緯を天皇に報告した。6月21日にも、木戸は天皇に会って、明日「最高戦争指導会議員 御召の際 賜るべき御言葉につき言上」(『木戸日記』下巻、1212頁)した。そして、6月22日午後3時、天皇は、宮中に「最高指導会議の者を呼んで、速やかに講和の手筈を勧める様に云った」のである。『木戸日記』によると、天皇の発言は、「戦争の指導については曩に御前会議(6月8日)に於て決定を見たるところ、他面戦争の終結につきても此際従来の観念に囚はるゝことなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望むというもの」であった。『木戸日記』では、鈴木は「仰せの通りにて、その実現を図らざるべからず」と答えた。次いで、意見を尋ねられた米内海相は、「先日の御前会議には第三(X)項として腹案を有したるが、今日は最早その時期なれば速に着手することを要す」と答えた。東郷外相もこれに賛同した。

 梅津参謀総長は、「異存はなきも、之が実施には慎重を要す」と牽制した。だが、天皇は「慎重を要することは勿論なるも、その為の時期を失することはないか」と質問した。梅津は「速やかなるを要す」と答えざるをえなかった。天皇の必死な念押しによって、陸軍もソ連仲介の和平実現を迅速にせざるをえなくなったのである。

 しかも、6月23日、沖縄の陸軍司令官牛島満中将が自決して、沖縄作戦が失敗して、日本全土は完全に米空軍の支配するところとなった。日本の戦力はこの「六月を越したらガタ落ち」(鈴木談[前掲木戸終戦陳述書、前掲書、16頁])になると予想された。

 こうして、20年6月以来、日本政府は「世界平和の確立に貢献せんことを祈念」して、天皇意思=聖断を体して、ソ連との中立関係を改善しようとして「友好親善条約締結に関する交渉を開始」(20年9月6日付日本産業経済新聞など)し、終戦に向けて歩み始めた。だが、日ソ交渉は一向に捗らなかった。6月29日の会談を最後に、マリクは病気と称して二度と交渉の場にでてくることはなかった。

 海軍の和平工作 こうした広田−マリク路線と並行して、ソ連参戦前に米国と単独講和しようとして、海軍の和平工作もスイスで行なわれていた。海軍は戦前以来、対米避戦を伝統としていた。

 4月23日、スイスで、スイス駐在朝日新聞記者の笠信太郎の協力で同国駐在海軍武官藤村義郎中佐が動いて、日本海軍の名で米国諜報員アレン・ダレス(実兄が後の国務長官)から米国政府に直接和平交渉の申入れがなされた。5月初旬に米国務省から了解の返電がはいり、5月8日、藤村義郎中佐から海軍省にこれを伝える第一信がもたらされたのであった。

 だが、当時の海軍には大西瀧次郎のような継戦派もいて、これは「敵側の謀略」ではないかという横槍がはいった。5月21日、保科海軍軍務局長は藤村にこの旨を打電して、「注意せられたし」とした。以後、藤村はダレスと会談を重ね、各本国への打診を行ない、6月15日、藤村は米内に、「今や貴官は残っている戦力、国力のすべてを捧げてこの対米和平を成就することが、ただ一つの国に報ゆるの所以ではないか」とまで主張した。だが、米内はこれを外務省に回して、ダレス−藤村の極秘交渉が「公式」交渉になってしまったのである。これでダレスとの約束は反故になってしまった。

 6月25日には、藤村がダレスと、「(イ)天皇制は存続させる、(ロ)内南洋の委任統治領も現状維持で認める、(ハ)和平会談には大臣、大将級の人物、例えば野村(吉三郎)海軍大将を全権大使として派米させる、(ニ)野村大将用飛行機は米国が提供する」という和平条件を定めた。やはり天皇制存続が筆頭事項になっている。

 この電報を受領した海軍軍務局長保科善四郎は、直ちに米内海相に差し示し、米内の賛同を得た。豊田軍令部総長もこれに同意したのであった。だが、保科が陸軍軍務局長吉積にこれを連絡したところ、「どうせイタリアのパドリオ政権がやられたと同じ目にあわされるのが関の山だから、同意できない」と拒絶されたのであった(保科善四郎『大東亜戦争秘史』原書房、昭和50年、152−9頁)。

 7月になっても、数度藤村は米内に打電していたが、こうした陸軍継戦派の存在で、とても海軍省独自の和平工作は実現困難であったのである。

 対ソ交渉の膠着と打開 天皇も懸念して、7月7日に木戸に「対蘇交渉はその後どうなっているか。腹を探ると云ひても時期を失しては宜しくない故、この際寧ろざっくばらんに仲介を頼むことにしては如何。親書を持ちて特使派遣のことに取り運んでは如何」と具体的な方針を提案した(『木戸日記』下巻、1215頁)。だが、7月9日には、有田八郎(広田・近衛・平沼・米内内閣の外相)が木戸幸一を訪ねて、「時局に対する上奏書」(『木戸幸一日記』下巻、1216頁)を提出した。彼は、ソ連ではなく、英米と交渉して、「是非共講和が必要だ」(前掲「昭和天皇の独白八時間」)と提言したのである。

 これに対して、政府は近衛仲介のソ連斡旋の道を選んだ。政府はポツダム会議前にとにかくソ連との交渉を開始しようとし、この交渉役は近衛が最適となったが、近衛はこの困難な役を引き受けそうになかった。そこで、7月12日、鈴木首相が木戸を訪ねて、近衛公に対ソ仲介を頼みたいが、「一刻を争う今日、兎や角と勧め居るよりも、‥却って直接御上より御下賜と云ふか、御委託になる方が、近衛公にとりても名誉であり、宜しからん」と述べて、この旨を天皇に内奏してくれと要請した。そこで、午前10時55分、木戸は天皇に謁見して、近衛特使一件を了解してもらった。

 かくて、午後2時50分、天皇が自ら近衛を呼んで、「困難な仕事ではあるが、尽力してくれ」と頼んだ。近衛は、「死を決してやります」(前掲「昭和天皇の独白八時間」)と引き受けた。天皇独白録では、いかにも天皇が近衛特使を案出したかのように述べているが、これは和平派の要請に基づいて行動していたのである。だが、その和平派は、天皇の迅速和平への強い意志に基づいていたから、天皇が言い出したも同然だったといえなくもない。

 政府はソ連政府に、日ソ間に恒久的な親善関係を確立するために、近衛公爵を特使として派遣する意向を通達した。そして、速やかに戦争を終結せしめて、人類を戦争の惨禍より救わんとの大御心にしたがい、交戦国との間に「公正なる平和を樹立」するためにソ連政府に斡旋を依頼した。ソ連は、ポツダム会議の動向を踏まえ、日本側の斡旋か、連合国への参加か、いずれが得策かを見極めようとしたのであろうか、ポツダム会議から帰国後に返答するとした。一方、7月16日にアメリカは原爆実験に成功し、7月17日にはポツダム会談が始まった。

 木戸の和平論 7月25日午前10時20分、天皇は木戸内大臣に「戦争終結につき種々御話」した。そこで、木戸は天皇に、「今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦機転換を唱へ居るも、之は従来の手並経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐らく空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、かくすることにより、チャンス次第にては大本営が捕虜となると云ふが如きことも必ずしも架空の論とは云えず」と、陸軍の本土決戦論を批判した。そして、木戸は、「ここに真剣に考えざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全うし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失うこととなり、結局、皇室も国体も護持得ざることなるべし。之を考え、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を講ずるは極めて緊急なる要務と信ず」(『木 戸日記』下巻、1220頁)と、三種の神器の護持の重要性を強調し、かかる観点から和平論を主張した。

 側近木戸は忠実に天皇に仕えるなかで、日頃から披瀝する天皇の懸念をすっかり身につけていた。天皇の三種神器重視は、側近にまで深く染み込んでいたのである。天皇は、時に国民を空襲などの戦争惨禍から救い出したいと言い、時に三種の神器をも重視した。国民あっての国体であり、三種の神器なのであるから、いずれも天皇の真実の願いであったろう。

 ポツダム宣言 7月26日、米、英、支三カ国首脳はポツダムで日本に降伏勧告の共同宣言を発した。これは、この三カ国の連合軍事力によって日本を無条件降伏に持ち込むというものであった。

 28日、朝日新聞がこれを報じたことから、国民はポツダム宣言は軍国主義廃止、武装解除、日本保障占領、日本国土限定、民主主義復活などを打ち出している事を広く知ることになった。

 ここには、天皇・側近らの最大関心事の国体存続の如何が不明であった。駐ベルン加瀬公使は本国東郷外相宛電信でも、「皇室及び国体に付 触れおらざること」(外務省「米英支『ポツダム』宣言の検討」[国会図書館憲政資料室所蔵])と述べていた。周知の通り、グル−米国務次官は起草した時点では、第12条後段で「以上は現皇室による立憲君主制をも含みうるものとす」とあったが、新国務長官バーンズが元国務長官ハルに電話連絡して、「絶対反対」とされたので(エマソーン発言[竹前栄一『日本占領 GHQ高官の証言』中央公論社、昭和63年、121頁])、ポツダム宣言ではこれを削除したのであった。

 政府の態度 日本政府はこれを検討して、意見が二つに別れた。27日、午前の最高戦争指導会議、午後の閣議でも、東郷外相は、「従来米国側が主張していた無条件降伏の要求とは異なり、実質上『有条件講和の申入れ』である」と強調した。そして、東郷は、初めて広田マリク会談以来の対ソ交渉を閣僚に発表して、「このポツダム宣言は和平の鍵となる極めて重要なるものと考えるから、その対策はもっとも慎重なるを要す」(迫水前掲書、227頁)と主張した。かれは、これは軍隊には無条件降伏を要求するが、国家全体としての無条件降伏ではないとした。

 こうして、東郷はポツダム宣言を戦争終結の基準とする方針を主張し、閣議で承認することまで提唱した。だが、阿南惟幾陸相は「今ともかくソ連に仲介を頼んで、その返事を待っている所なのだから、その返事がきてから事を決すべきである」(迫水久常「終戦の真相」[『天皇百話』上の巻、1989年])と言い張った。海相、陸軍参謀総長、軍令部総長もポツダム宣言の受諾に反対した。

 天皇も近衛特使を派遣していた最中であったから、この陸軍意向を抑えることはできなかった。国体護持如何が不明な以上、これにすぐのるわけにはゆかない。その結果、ソ連からの回答を待つことにして、このポツダム宣言には回答を保留していた。朝日新聞(7月28日)は、「帝国政府は‥断乎戦争完遂に邁進するのみとの決意を更に固めている」と報じた。

 28日は土曜日であり、午前中に宮中で統帥部から内閣への定例戦況説明会があった。ここで、統帥部が「そんな宣言は拒絶しろ」と強硬に主張した。さらに、両軍部大臣、両総長が首相のポツダム宣言に反対することを強く要求した結果(伊藤正徳『帝国陸軍の最後』角川文庫、昭和48年、249頁)、米内、迫水が仲介して首相は記者会見で「『黙殺する』と云うまでなら言っても支障なかろう」としたのであった(東郷陳述書[『GHQ歴史課陳述録』、334頁])。こうして、鈴木首相は、ラジオ放送でポツダム宣言布告を知って動揺する前線部隊を鼓舞するために、定例記者会見で、記者に「ポツダム宣言に対する首相の考えはどうか」と質問させ、「首相が『黙殺する』という発言をする」(大谷前掲書、迫水前掲書)様に要求した。28日午後4時、鈴木首相は内閣記者会に臨んで、三国共同宣言は取り上げるに足らずと批判し、今後も軍官民が一体となって聖戦を遂行すると発言することになった(7月30日付毎日新聞)。鈴木は、これは「心ならずも」したものであったが、これが原爆、ソ連参戦などを招き、「後々に至るまでも、余(鈴木)の誠に遺憾と思う」ことになったのである(前掲『鈴木貫太郎自伝』323〜4頁)。

 東郷外相は、連合国、ソ連は、日本政府はポツダム宣言を無視したとみなし、原爆、ソ連参戦をもたらすことになった事に関して、迫水を厳重に非難した。迫水は、こうしなければ、「軍がおさまらず、なにか無謀なことをしでかす恐れもあった」(前掲『首相官邸』232頁)と後に弁解するが、事実、終戦工作は特に陸軍反乱という危険と絶えず裏合わせで推移してゆくのである。

 阿南の和平願望 こうして、阿南陸相は全陸軍を代弁して強硬な態度をとっていたが、実際には天皇意思を体して平和を希求していたのである。

 7月30日夕方、同期生の沢田茂中将は阿南陸相を訪ねて、「戦争を終局までやるのか」と質問した。これに対して、阿南は天皇意志が和平にあることを知っていて、「それは宮中のご都合でできないことだ」と答えた。だから、この時期、阿南は、「今や敵首脳がポツダムに会し対日問題を議せんとしておる。まさに捉うべき好機ではないか。目下日本近海を遊弋(ゆうよく)しておる敵機動艦隊を撃摧して戦局転換の機をつくらんと思い、陸海空の総力を出動させるようにと統帥部に話しかけておるが、どうも聞いてくれそうにない」(沖前掲書、42頁)と、敵機動艦隊に一撃を与えて、有利な講和を迎えようと主張して、参謀部と対立していた。

 また、安井回顧談(沖前掲書、10−14頁)では8月1日に国務大臣安井藤治中将とは和戦如何を話し合い、阿南は密かに講和の意を表明していた。まず、「夜の会議」で、安井が「陸軍大臣として君みたいに苦労したのはいないな」と言うと、阿南は「安井君、私は絶対に鈴木総理の内閣で辞職することはない。どうも国を救うのは鈴木内閣だ。それだから私は、最後の最後まで鈴木総理と事をともにしてゆくんだ」と明言した。

 次いで、夜、安井は陸相官邸にゆき、「二時間以上、和戦の問題について、戦争をする方、また和を講ずる方、両方の問題を話し合」い、安井は、「阿南君が心中、何とかして早くいくさを止めたいと考えておることをはっきり汲み取」り、「そのとき阿南君は、平和を希望していて、戦争を継続するという考えを持っていなかった」ことを再確認した。

 阿南も天皇意思を体して、ようやく終戦に向かい始めたかだが、時既に遅く、ポツダム宣言受諾催促の原子爆弾が投下されることになった。ここに、天皇はこれ以上時機を失しまいとして、断固とした行動にでる。
                             
 ポツダム宣言受諾と国体護持 8月6日に広島に原爆が投下された。この爆弾が原子爆弾であることが確認されたのは、8日であった。政府はこの爆弾を調査するために陸海軍科学者を動員したが、8日夕方仁科博士が内閣書記官長迫水に「原子爆弾に相違ありません」と報告したのであった。迫水はこれを鈴木首相に報告すると、鈴木は「明日朝閣議を開き自分から終戦に関する意思を表明するから、その用意をするように」(前掲「終戦の真相」)と指示した。

 ここに、8月9日から10日にかけての御前会議でポツダム宣言を「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下」に受諾し、終戦の詔勅をだすことが決定された。スイス国経由でワシントン11日付け「バーンズ(国務長官)回答」が日本に送られるが、そこには周知の通り「日本国の政府形態は日本国民が決定する」とあったことから、陸軍が国体護持に懸念を表明した。
 
 天皇の終戦再論 14日の御前会議において、天皇は四カ国解答文を好意的に解釈して、終戦のやむなき旨を語った。天皇は、「朕は祖宗また一般国民に対し、忍びがたきを忍んでかねての方針通り進みたい。これは朕が世界の大局と我が国の情勢を慎重に考慮した結果である。卿らにはいろいろな意見もあろうが、回答文は天皇主権を承認しているものと考えるから、皆そのように解釈せよ」と、ポツダム宣言は天皇主権を認めているとした。そして、天皇は、「陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪え難いことであることもよくわかる。だが、朕の一身はいかにあろうとも、これ以上国が焦土と化し、国民が戦火にたおれるのを見るに忍びない。今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前にも立つ」と、兵や国民の動揺の鎮静に乗り出し、そのためなら「なんでもする」とした。ここでは、戦災に苦しむ国民の立場が終戦根拠に据えられていることも留意される。敵国の天皇制廃止を覆すには、天皇の活躍で国民動揺を抑えて平穏に終戦を実現させるにしくはないのであり、そのためならなんでもするというのである。天皇の冷徹な判断と捨て身の行動があったのだ。

 これを聞いて、列席者一同は慟哭した。天皇も白い手袋をした手を目に運んだと言われる。天皇は「最後の引導を渡した」(前掲「昭和天皇の独白八時間」、迫水前掲『首相官邸』292頁)のであった。第二回目の聖断が下ったのである。全員、肩を震わせて泣きながら、部屋をでてゆく天皇を茫然と見送った。

 この直後、終戦に対する陸海軍将兵の不満に対して、天皇は侍従武官長蓮沼蕃に「もしこの際私にやって貰った方がいいと思うことがあったら何でもやる。要すれば、直接会って説諭しても宜しい」(侍従武官長蓮沼蕃陳述書[『GHQ歴史課陳述録』71頁])と伝えていた。国体護持のためなら、継戦派の将校の説得に身を挺してあたってもよいというのである。終戦、その究極にある国体護持にかける天皇の強い決意が看取されよう。蓮沼は池田純久にこの天皇の発言を伝えると、池田は直ちに阿南陸相、米内海相にこの天皇の言葉を伝えた。二人は「陸海軍の統制は、大臣において責任をもってこれに当たる。これ以上御宸襟を悩ますは恐れ多し」(池田純久『日本の曲り角』199頁)として、これを退けたという。

 なお、保科善四郎海軍軍務局長の所謂保科メモ(保科善四郎『大東亜戦争秘史』原書房、昭和50年、148頁)によると、保科は吉積陸軍軍務局長に、「海軍は大丈夫と思うが、陸軍はどうか」と尋ねると、吉積は"阿南大臣は天皇の行幸をお願いしたい意向だ"と伝えたことになっている。当時の陸軍省の中堅将校の激しい継戦熱意を思えば、阿南が天皇の行幸を願ったのはありえたであろう。だが、保科が米内海相に阿南陸相の意向を伝えると、「海軍大臣や陸軍大臣は天皇に対し補弼の責任を持っている。大臣の裁量で出来ないなら、ちゃんと陛下に補弼の責任を果たし得ませんと申し上げて辞任すべきだ。それを陛下に来て戴かなければならないようなら、私は海軍大臣を辞任すべきである」と断言した。海軍には、継戦派の中堅将校などはおらず、天皇行幸の必要などはなかったのであろう。保科はこれを吉積に伝え、吉積が阿南に話すと、「海軍大臣の言われる通りだ」として、阿南も天皇行幸を仰がないことにしたのであった。だが、阿南が陸軍省に天皇を迎えて、天皇自ら終戦の余儀ない事情を語っていれば、ク−デタ−は起こらなかったであろう。継戦派の中堅将校らは、日ごろ君側の奸に篭絡された天皇に直諌すると唱えていたのだから、天皇が彼らに直接会って終戦を決断した真意を率直に語っていれば、彼らも終戦という現実を受け入れざるをえなかったであろう。

 閣議決定 14日御前会議で「米、英、蘇、支四国に対する帝国政府通告」を決定し、正午から閣議が開催され、閣僚の責任で終戦の閣議決定をする事になる。閣僚は終戦文書に署名した。

 そして「帝国政府通告」を作成したが、そこでは、「一、天皇陛下に於かせられては、ポツダム宣言の条項受諾に関する詔書を発布せられたり。 二、天皇陛下に於かせられては、その政府及び大本営に対し、ポツダム宣言の諸規定を実施するために必要とせらるべき条項に署名するの権限を与え、かつこれを保障せらるるの用意あり。また陛下に於かせられては、いっさいの日本国陸海空軍官憲及び右官憲の指揮下にあるいっさいの軍隊に対し、戦闘行為を終止、武器を引き渡し、前記条項実施のため連合国最高司令官の要求することのあるべき命令を発することを命ぜらるるの用意あり」(以上、昭和20年8月15日、16日付朝日新聞、毎日新聞などにも依拠)と、天皇が終戦を推進し、その始末の最高司令官とされていたのであった。終戦に果たす天皇の重要な役割を米英らに強調したことは、これまた天皇制存続にかける天皇の熱意の現れであった。

 終戦詔書 閣議がポツダム宣言受諾を決定してから、午後2時40分から「終戦詔書」の検討に入った。これは8月9日から10日早朝にかけての御前会議での天皇の言葉をもとに、内閣書記官長迫水久常が原案を作成した。迫水は作成方針として、@今後の日本の進む道は厳しいが、国民とともに堪える事(「朕は‥爾臣民と共に在り」)、A軽挙妄動を戒める事(「時局を誤り‥朕最も之を戒む」)、B子孫に日本国を伝える事(「挙国一家子孫相伝へ確く神州の不滅を信じ」)、C天皇を戦争犯罪人にしないために終戦原因が天皇の不徳にあるという文言を一切いれぬ事などを決めた。迫水は10日未明までこの作成に携わった。彼は、午後の重臣会議と閣議で一時中断されて、10日夜から再び作成に従事して、一時眠りについた。11日は朝から終日作成に従事し、鉛筆書きの詔書原案ができあがった。

 迫水はこれを漢文調に書き改めるために、内閣嘱託の漢学者川田瑞穂(詔書作成の担当)に文案作成を依頼した。これに迫水が手をいれ、大東亜省顧問安岡正篤(日本精神の提唱者)が加筆して、14日天皇自ら言葉を加え、閣議で一部添削し了解したものであった。この詔書の責任は内閣が負うのである(旧憲法第55条「国務各大臣は天皇を輔弼しその責に任ず」)。

 まず、「そもそも帝国臣民の康寧を図り、万邦共栄の楽をともにするは、 皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々惜かざる所、さきに米英二国に宣戦せる所以もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出で、他国の主権を排し、領土を侵すがごときは朕が志にあらず」と、宣戦の正当性と侵略の不本意に触れる。

 そして、天皇は、「交戦すでに四歳を閲し、朕が陸海将兵に勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽くせるに拘わらず、戦局必ずしも好転せず。世界の大勢また我に利あらず。しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して、しきりに無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか、ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず、延いて人類の文明をも破却すべし。かくのごとくんば、朕、何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ、朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり」と、継戦は民族滅亡をもたらし、皇祖皇宗の神霊に申し訳がたたぬとした。国民あっての国体である。国民が被害をうけても国体さえ残れば、復活の道はあるとした継戦派とは異なるということだ。

 この「戦局必ずしも好転せず」とは、原案に「戦勢日に非なり」とあった所を阿南陸相が「これでは大本営発表が嘘になる」と反対したために修正されたものである。

 この終戦決断に際して、天皇は、「朕は、帝国とともに終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ非命に斃れたる者、及 びその遺族に想いを致せば、五内ために裂く。かつ戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。惟うに、今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。爾 臣民の衷情も朕善くこれを知る。しかれども、朕は時運の趨く所、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんとす」と、諸盟邦諸国、戦死者、戦災者に終戦を遺憾に思うとする。「時運の趨く所」は、原案では安岡正篤によって「義命の存する所」とあった所が閣僚から判りにくいと批判されて修正されたものである。

 最後に、天皇は国体護持に関しては既往の事実を語るにとどめて、今後に関しては「神州の不滅」を信じて世界の大勢に逆らうなと諭した。つまり、天皇は、「朕はここに国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民とともに在り。もしそれ情の激する所、みだりに事端を滋くし、或は同胞排擠(はいせい)、互いに時局を乱り、ために大道を誤り、信義を世 界に失うがごときは、朕最もこれを戒む。宜しく挙国一家子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。爾臣民、それよく朕が意を体せよ」とした。国体護持は阿南陸相が主張したものであり、「軍の反乱」(田尻愛義談[前掲『昭和史の天皇』30頁])勃発を抑えようとして挿入したと言われる。東部軍憲兵司令官大谷敬二郎も指摘するように、「陸軍幕僚の十四日廟議決定までの、戦争継続の勢いはすさまじいものだった」(前掲書、530頁)のである。だが、それは何よりも偽らざる天皇の本意でもあったのだ。

 天皇がこれに署名したのは、午後9時であった。続いて各国務大臣はこれに副署した。さらに、鈴木首相は「内閣告諭」を国民に発して、終戦の理由と苦難を述べた上で、「今や国民の斎しく嚮(む)かうべき所は国体の護持であり。しかしていやしくも既往に拘泥して同胞相猜(さい)し、内争以て他の乗ずる所となり、或いは情に激して軽挙妄動し、信義を世界に失うがごときことあるべからず。また特に戦死者、戦災者の遺族及び傷痍軍人の援護については、国民ことごとく力を効すべし」と、罹災国民、戦争被害者に配慮しつつも国体護持を国民に訴えた。


 こうして、国体護持のための早期終戦という天皇の強い意志のもとに、天皇主導で終戦がもたらされた。今度は進駐してくる敵軍隊を相手に国体護持をはかることが天皇の課題となる。


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                             § 富と法律ー法律とは何か §

                         一 ハンムラビ法典ー世界最古の法典の特徴

 世界で最初に富が発生し、その富が多くの諸問題をひきおこしたメソポタミアにおいて、権力はそれに対応するべく史上初めて法を制定した。「富と権力」システム下の法の原点を探る上で、このようなメソポタミア法を考察することは非常に興味深いことである。

 一般に集団・社会のあるところには、秩序と正義を維持するために必ずといってよいほど掟・法があった。自然社会のもとでは地域・集団ごとに神々のもとで家長・長老らによってつくられた簡明なる掟があったが、「富と権力」システムもとでは利害関係が複雑化して詳細な項目に整理された法となった。後者の法は、「富と権力」の秩序を維持するための強制力であり、周知の如く、「社会生活を規律する準則としての社会規範の一種」(『有斐閣法律用語辞典』法令用語研究会編、有斐閣、2000年)とされている。この法の現れ方とその理解は歴史的に一様ではなく、「富と権力」システムの成立期ではまだ神々が大きな役割をしめていたが、その展開期では権力と社会の歴史に応じて例えば「自然法か実定法とみるか」などとという議論が展開することになる。

 では、当時のメソポタミアでは法とはいかなるものと理解されていたのかから見てみよう。「古代メソポタミアの人々は、われわれと同様には司法というものを理解」せず、「科学の分野と同じく司法においても、『彼らは法(則)というものを知らなかった』のであ」り、「法に相当する語は、彼らの言葉の中には見つかっていない」が、「当時の人々が、われわれと同じものの見方をしていなかっただけ」であり、メソポタミアに「司法の存在は証明」されている(ジャン・ボテロ、松島英子訳『メシポタミア』法政大学出版局、1998年、268−269頁)。 メソポタミアの法は、「基本的には『書かれない法、不文律』であ」り、「書かれないということは、存在しないことでも、知られていないことでもな」く、「ただ潜在的なものだった」(ジャン・ボテロ前掲書、271頁)ということである。それは、「常に臣民たちに対し、能動的な、あるいは禁止という形を伴った習慣として提示され」、小さい頃から「教育を通じて、さらには特定の問題に伝統的に決められた解決法を与えるという形で伝えられ」(ジャン・ボテロ前掲書、271ー2頁)ていた。まだ「法の原則は抽出されたり明瞭な表現で公式化されたりはしなかったが、伝統の大きな広がりのなかに取りこまれた形で存在していた」(ジャン・ボテロ前掲書、272頁)のである。そして、それは、まだ究極的には神々によって決められていたといってもよい。

 しかし、富が利害関係を複雑化してくると、権力者は神々の判断だけでは対応できず、各ケースごとに刑罰・賠償などを定めてゆかざるをえなくなった。メソポタミアでは、自然改造農耕開始から数千年経過して富をめぐる諸問題が深刻化し、その利害調整が統治の主要内政問題となっていたのである。 前2千年よりかなり古くから、既に裁判権は「王の特権」であり、「訴訟関係の文書や王宮の書簡類は・・下級の決定機関・・あるいは普通の臣民が、・・訴訟を王の裁定に持ち込むことが、一度ならずあ」(ジャン・ボテロ前掲書、246頁)り、バビロン王国(前1800年ー前1600年)のハンムラビ王の時代には、「司法が神殿を離れ、神官は裁判に関与しないことが慣例とな」(J.M.ロバート、青柳正規監訳『世界の歴史』創元社、2002年、137頁)り、在地の利害に通じた「地元の有力者」が裁判官となった。富をめぐる諸問題の訴訟が神官らの手に負えなくなったのである。だが、在地有力者でも裁定が困難になる場合もあって、彼らは王室に訴訟の伺いを持ち込み、王室は彼らに裁判の指針を示す必要があった。

 しかも、前22世紀頃から、新権力誕生に際しては、権力を正当化し、その利害調整をはかる「法典」(判決集)が編纂されていたようであり、既にウルナンム法典(「領域国家を核として周辺異民族をも組み入れた統一国家がウル第三王朝時代に確立」(前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、11頁)し、この創設者ウルナンム[前2112−前2095年]がシュメール語で編纂した法典。「30パラグラフ余りが復元」[中田一郎前掲書、186頁。なお、制定者に関しては、ウルナンムの息子のシュルギだという説もある<マイケル・ローフ、松谷敏雄監訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年、102頁>])、リピト・イシュタル法典(イシン王国[ウル王朝の継承だが、王朝の支配力は弱く、ラルサ、ウルク、バビロン、マリなど各地に独立王国が出現[前田前掲書、12頁]。そのイシン王国の第5代の王リピト・イシュタル[前1934ー前1924年]がシュメール語で編纂。前書き、後書き、50パラグラフが知られている[中田一郎前掲書、190頁])、エシュヌンナ法典(エシュヌンナ王ダドゥシャがアッカド語で作成。前書き、後書きがなく、上記法典とは異質[中田一郎前掲書、192頁])などがあった。

 ハンムラビは、こうした前例を踏まえて、治世37年(前1754年)頃にバビロニア、アッシリアをふくむ一大統一国家を建設したこと(、前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年13頁)を背景に、各地の書記を集めて、各種裁判を検討して、緊迫感をもって一大判例集の編纂事業に着手し、ある程度まとまった時点で石碑(「シッパルの太陽神の神殿」の石柱)に刻み込んで、民治を円滑に遂行しようとしたのであろう。この石碑完成時期は、治世38年エシュヌンナ占領を言及していることから判断すれば、晩年ということになる。つまり、彼は、晩年に、地方有力者の「裁判における判決の手本」として、「40年にわたる治世を通じて、・・みずから」下した「最も正しく、最も賢く、最も的確で、経験豊富な王に最もふさわしい判決」や既往判決などを斟酌して判例集を編纂し公けにたのである「(ジャン・ボテロ前掲書、246頁など)。だから、バビロンでは、「諸種の『王の決定』がさまざまな形をとって最終的には『法典』に取り入れられていった可能性は十分あ」り、さらには「この『法典』が、独自の方式で王の意志を表明する働きを持つものとして、こうした決定の集成であると見なされるようになった可能性すらある」(ジャン・ボテロ前掲書、270頁)ことになる。

 そして、これは「司法権をそれぞれの場合どのように行使するかという、一つの説明書」(ジャン・ボテロ前掲書、250頁)でもあった。当時、「学術説明書」はメソポタミアではよくみられたことである。「前3000年文字が発明されて以来」「読み書きという難しい技術を職業とし、同時に文字を媒介としてものの見方を探索し、事実を知的に取り扱う方法に精通した文人階級(「宮殿や神殿に付属する学派やアカデミーに所属」した「知的特権階級」)を成立させ」(ジャン・ボテロ前掲書、253頁)、彼らは、「語彙や文法を扱ったもの、百科全書の類、卜占、数学、医学書」などの「説明書」をつくっていたのである。ハンムラビ『法典』もまた、「この種の文学的科学的関心事に結びついたもの」(ジャン・ボテロ前掲書、253頁)という側面を持っていたのである。

 当時の「医学診断の説明書」は、「一貫して、最初の行から最後の行に至るまで、どれもすべて『もし』という言葉によって導入される条件節を際限なく羅列することで構成されている」(ジャン・ボテロ前掲書、254頁)が、これはハンムラビ法典も同じである。ここには、「仮説をたて、この仮説に含まれる諸要素から判断して、そこから出てきたと思われる結論を引き出す」という「合理的思考の骨格」(ジャン・ボテロ前掲書、255頁)がある。これを踏まえれば、ハンムラビらは、「彼なりの合理性にもとづいたそして『科学的思考』にとって必要不可欠な論理を与え」(ジャン・ボテロ前掲書、256頁)つつ、判例を集め、「法的見地から見て個別、偶然で、重要でない事柄をすべて削除」(ジャン・ボテロ前掲書、256頁)し、「物事を抽象化」し、「部分的に」「普遍性、必然性」「非個人化」を示したともいえよう(ジャン・ボテロ前掲書、257頁)。

 しかし、この普遍化には限界があった。つまり、「(メソポタミアの)無数の説明書においても、その他の広範囲な楔形文字文学のいずれの分野を見ても、・・抽象化、普遍化された原理なり法則なりが明示されているのに遭遇することはまったくな」く、「仮定と、続いてそこから処方された具体的な判断を並べたもの」に過ぎず、「仮定も判断も、われわれにとっての原理や法則のような絶対性にまで昇華されることはなかった」(ジャン・ボテロ前掲書、266頁)のである。メソポタミア人は、「科学的判断に慣れ親しみ、正しい推測を行なう感覚を身につけ、同時に当該の分野が扱うすべての対象について、場合に応じて同様の判断や推測を応用する能力を養」ったが、メソポタミア人はそこにとどまり、ギリシァ人のように、「抽象化という作用を通じて明快な認識、原理や法則の存在を提示し、普遍的な概念、絶対的な公式の世界に入ってい」(ジャン・ボテロ前掲書、267頁)くことはなかった。

 なぜ、メソポタミア人は普遍化の試みをしなかったのであろうか。ギリシァ人が優れていて、メソポタミア人が劣っていたからだとは思われない。このメソポタミア人の普遍化の限界については、クレマーも、言語では「単純明白な文法上の定義とか規則」、数学では「一般原理、公理や定理」、「植物学、動物学、鉱物学上の原理や法則」、法では「法理論」などがなかったとしているが、注目するべきことは、彼は、シュメールでは、「政治、宗教、経済」は宇宙創造され国が始まって以来「ずっと変わることなく存在している」とみて、展開という思想がなく、「包括的な普遍化を行なうための方法論上のテクニックに無知」だったとしていることである(S,N.クレマー前掲書、45頁)。宇宙創造以来決まっているとしたのは、いったい誰であるか。それは、現状の支配収奪体制の持続を願う権力者であり、権力者はそれを神々を利用して、神意としたのである。神が「法則」を定めているのに、その「定め」の法則などを見つけ出そうとすることなどは、神意に反する不遜な行為となったのである。



 こうして、このハンムラビ法典は「裁判を実践するための科学についての著作」ではあったが、厳密に言えば、今日我々が言う法典ではなく、あくまで判例集だということになる((このことは、1932年にアイラース、1939年にランツバーガー、1952年にはドライバーとマイルズ、1960年にはクラウス、1961年にフィンケルシュタイン[中田一郎訳『ハンムラビ「法典」』リトン、1999年、159−162頁]らに指摘されている)。しかも、その判例集もすべてを網羅したものではなく、ハンムラビ王や書記らが選択した一部であり、故に 「何万点・・の同時代の行政文書や裁判文書において、『法典』が一言も触れていない問題や争いごと」(ジャン・ボテロ前掲諸、240頁)があり、ハンムラビ時代の数多くの訴訟に関する文書、判例集、行政や裁判の実務に関する書類」にはこの「法典」の言及がないのである(ジャン・ボテロ前掲書、243頁)。


 こうした「限界」を持ってはいたが、ハンムラビ法典には領域国家となった大権力バビロン王国が各地「富をめぐる諸問題」にいかに対応したのかの原点ともいうべきものがあり、これこそが極めて重要なのである。

 @この法典では、神々がハンムラビの統治に深く関わり、彼を強く支援していた。

 当時は権力宗教がすべての判断基準の源泉であり、国王の判断・決定は神々と深くかかわっていて、ハンムラビ法典も例外ではなかった。この点、ハロヴィッツは、「『前書き』と『後書き』が互いに不可分の一体をなしている」(中田一郎前掲書、168頁)とし、書記は「長い伝統のある王碑文に範をとっ」(中田一郎前掲書、170頁)て、判例集を間に挟んだのだとする。ハロヴィッツによると、この王碑文は5部分に分かれ、@神々によるハンムラビの職務委任、Aそれに応えてハンムラビによる職務遂行、B職務を成し遂げたハンムラビのための祈願、Cハンムラビ法典に注意を払う王に対する祝福、Dハンムラビ『法典碑』を損なったり改変したりする者に対する呪いと的確に指摘している(中田一郎前掲書、171頁)。ハンムラビ法典は神々と深いかかわりがあったというのであり、これは非常に適切な指摘である。

 『前書き』から見てみよう。ここではシュメールの主神アヌがハンムラビ王を召し出すことが述べられる。主神アヌの四方世界での王権確立について、アヌ(「崇高なる方、天空の神、バビロニア諸神の至高神)、エンリル(「天地の主」、「全土の運命を決定する方」)が、マルドゥク(エアの長子。バビロニア統一後にバビロンの主神となる)に、「全人民に対するエンリル権(王権)」を割り当て、「永遠の王権を彼のために確立」(1−2頁)した時、アヌとエンリルが、ハンムラビ(「敬虔なる君主、神々を畏れる私」)を「国土に正義を顕すために、悪しき者、邪なる者を滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、太陽のごとく人々の上に輝きいで国土を照らすために、人々の肌を良くするために、召し出された」(2頁)とした。

 以下、ハンムラビが、神(「王たちの神」)として、権力を掌握して(「主、ウルクを生かした者」、「国土の保護者」、「王たちの巨竜」、「獰猛な牛」、「清き君主」、「王たちのなかの支配者」、「王たちのなかの第一人者」、「強き王」、「バビロンの太陽」)、征服・鎮圧して(「敵を突き刺す者」、「敵を捕える者」、「反逆者たちを鎮圧した者」)、秩序をもたらし(「人々に秩序を与える者」)、富(「富と豊かさを積み上げた者」、「ディルバトの耕地を拡大した者」)と領土(「彼(ハンムラビ)の生みの親ダカン(ユーフラテス川中流域の最高神)の命によってユーグラテス川沿いの町々を服従させた者」、「四方世界を襲撃した者」、「シュメールとアッカドの地に光を照り出させた者」、「四方世界を服従させた王」)を増加させ、各地の神殿を管理・振興・支援・整備したとする(2−9頁)。

 各地の神殿の管理・振興・支援・整備は、バビロンが各地の神を厚遇して、各地の支配権を構築していったことを示している。つまり、ハンムラビは、「エリドゥを復旧した者、エアブズ(エア=エンキ神殿)の浄めの儀式を浄化した者」、「エサギラ(マルドゥク神殿)に毎日仕える者」、「エキシュヌガル(月神シンの神殿)に豊穣をもたらした者」、「アヤ(シャマシュの配偶神)のギグヌ(住居か神殿)を緑で覆った者」、「天の住居のごとくエバッバル神殿(シャマシュ神殿)を高くした者」、「エアンナ(イシュタル女神の神殿)の頂を高くした者」、「エガルマハ神殿(イシンの女主人、ニンイシンナの神殿)を豊かさで溢れさせた者」、「エメテウルサグ(キシュのザババの神殿)に威光をめぐらせた者」、「フルサグカランマ神殿(キシュのイシュタル女神の神殿)の管理者」、「エジダ(トゥトゥ=ナブ神の神殿)に対して怠ることのない者」、「エニンヌ(ラガシュ・ギルスの主神ニンギルスの主神殿)に多くの食事の供物を提供した者」、「エウドゥガルガル(アダド神殿)で適切な備品を絶えず用意する者」、「エマハ神殿(母神ニントゥの神殿)の扶養者」、「ニネヴェにおいてエメスメス(神殿)のイシュタルの祭儀を顕彰した者」などと、各地の神殿を管理・振興・支援・整備したとした。権力者が各地の神を自らの主神のもとに再編していったのであり、ここに権力が多神教を権力宗教とした歴史的背景をうかがうことができる。

 多神教・一神教に関しては諸説があるが、権力との関係なしには的確な把握はできないであろう。元来、多神教とは、自然社会の宗教であり、自然社会では、各地域ごとに人々は自然の脅威、超越性、神聖さを神として崇め、それにふさわしいあらゆるものを神としていった。権力者が各地を征圧するする過程で、こうした地域の神々を利用したほうが統治しやすかったから(日本の大和王朝成立過程での征圧方式もまさにこれであった)、武力征圧とともに在地神の掌握をはかった。つまり、「古代オリエント世界の戦争は人々の戦争であり、同時に神々の戦争」なのであり、「負ければ神(神像)もまた捕虜」(岡田明子・小林登志子『古代メソポタミアの神々』集英社、2000年、152頁)となったのである。こうして、メソポタミアでは、神々は「少なくとも一千から二千に及ぶ」(ジャン・ボテロ前掲書、324頁)ことになったのである。

 冨社会の成立ころには、権力宗教は恐らくどこでも多神教となったのであろう。この点、ジャン・ボテロは、「古代メソポタミアの人々は、彼らの宗教心の対象である超自然、聖なるもの、を思い描くに際して、人間界の支配者から連想した一定数の神格に移しかえるという手段以上のものを思いつかなかった」(ジャン・ボテロ前掲書、316頁)と、人々が「人間界の支配者から連想」して多神教になったとした。だが、そうではあるまい。メソポタミアの人々が多神教を「人間界の支配者から連想」したのではなく、権力者が多神教を統治に利用し、これを人々に改めて崇拝させたのである。

 だが、こうしたこともあって、多神教の神々は権力者を支えこそしたが、品行方正で倫理・道徳に厚いということにはならなかった。中には放蕩な神々もいて、個人の心の病などにこたえるものではなかった。たとえ王といえども、長寿願いなどの個人的願いは、都市神などの主神・大神にすることはできなかったのである。
ここに「家系の神」や低位神を「個人の守護神」たる「個人神」にすることが必要になった(岡田明子・小林登志子前掲書、61頁)。同じ多神教のエジプトではファラオは「支配する王に変装した至高の神」によって一人の国土支配神としてもうけられたもので(H.フランクフォートら、山室静ら訳『古代オリエントの神話と思想』社会思想社、1997年、89頁)、ファラオは神であったが、であったが、メソポタミアでは、国王の神格化は、アッカド王朝4代ナラム・シンとウル第三王朝2代シュルギに限られ(岡田・小林前掲書、79頁)、しかも国王の神としての地位は個人神と低かったのである。

 しかし、主神に心の悩みの解決を願うことができないので、低位神にそれを願うなどとは、なんとも多神教とは「不便」で「厄介」なものであった。ここに、道徳・倫理を伴う宗教が一人の神や仏によって打ち立てられ、弟子等に教祖の言行などがまとめられ聖典・経典が編纂されたのである。当然、権力はこうした一神教を弾圧したが、例えば仏教が大乗化して衆生救済宗教になり、民衆の救済に関わる「一神教」に変容して信者を維持したb仏教宗は、権力に公認され、統治に利用されて、やがて権力宗教の側面を強めてゆく。

 日本の場合、仏教が導入されると、周知の如く多神教の神祇・神道と軋轢を生じてゆくが、大王ら権力者は仏教を「心の教え」として廃仏することはなかった。「一神教」とはいえども、仏教は人間の内部に道徳・倫理を仏性として悟り、それを育む点では、人間を超越して唯一絶対者として存在する神とはことなっていたのである。こうした仏教の「人間性」は権力者も評価していたのである。

 そして、ブータン仏教王国などの比較考察によって初めて明らかになったことだが、厩戸王子(後に聖徳太子)、聖武天皇は、大王・天皇は祭祀担当とにとどめ、仏教法王大王が統治を担当する仏教王国の構築をめざした。だが、これは、神祇・神道の危機とする藤原家らの画策する大化改新・道鏡事件によって頓挫せしめられる。以後、桓武天皇は、仏教をあくまでも権力を支えるものに徹底するために遷都し、仏教側でも生き残りをかけて紆余曲折を経て仏教を皇位継承を補佐し、皇太子誕生にまで関わらせるものとしてゆくのである。ここに、これを批判して、民衆救済を唱える新仏教が登場することになり、やがてこれすら権力に取り込まれてゆくが、この問題は本論の課題ではないので、ここまでにしておこう。

 さらに、ハンムラビは「偉大なる神々に熱心に祈」り、神々に王として認められ(「賢き女神ママが造った王杖と王冠にふさわしい者」、「シン(月神)がお生みになった王家の胤」)、愛され(「有能なる女神(イシュタル)の寵愛を受ける者」、「イシュタルに寵愛される者」、「ザババ(都市キシュの主神)の寵愛を受ける兄弟」)、支援され(「シャマシュ(太陽神)に聞き従う者」、「その祈りをアダド(雨・嵐の神)が知りたもう者」、)、神々を喜ばせ(「彼の主、マルドゥクの心を喜ばせた者」、「イシュタルの心を喜ばせた者」、「その友エラ(疫病の神、黄泉の世界の神)がその願いをかなえる者」、「ティシュパク(エシュヌンナの都市神)の顔を喜びで輝かせた者」)、祭儀を執り行い(「イシュタルの偉大な祭儀を滞りなく執り行った者」)、貢いだとする(「アヌム(アヌ)とイシュタル(女神)のために豊かな収穫を積み上げた者」、「ケシュ(母神崇拝の中心地の一つ)の外郭を確定した者」、「ニントゥ(母神の一つ)のために清き食物を豊かに供えた者」、「強きウラシュ(ディルバトの守護神ニヌルタと同じ)のために穀物の山を積み上げた者」、「彼の王権を偉大ならしめるエア(淡水・地下水の神、知恵の神)とダムガルヌンナ(エアの配偶神)のために清い食事の供物を豊かさのなかに永遠に定めた者」)。

 最後に、「マルドゥクが、人々を導き全土に社会道徳を教えるよう私にお命じになったとき、私は真実と正義を国(民)の口に上らせ、人々の肌を良くした」(9頁)と、バビロンの都市神でしかなかったマルドゥクが今や神々の主座となって、ハンムラビの良政をもたらしたとした。あくまでハンムラビの個人的能力ではなく、神々が大帝国の良政をもたらしたというのである。これは、ハンムラビが統治実績を自画自賛したものではないのである。晩年を迎え、ハンムラビは、大小の臣従王国からなるバビロン王国の行く末を思い、神々に今後を託する思いが強くなったのであろう。これは後書きで鮮明となる。


 『後書き』では、まず、この法典が「ハンムラビ、有能な王、が確立し、国民に真にして善なる道を歩ませようとした正しい判決である」(71頁)とした。

 次いで、神々とハンムラビの統治との関連について、第一に、エンリル、マルドゥクに関して、「私、ハンムラビ、完全なる王は、エンリルが贈ってくださり、マルドゥクがその牧人権(王権)を私にお与えになった人々(黒頭人)に対して怠けず、無為に過ごすこともなかった。私は彼らのために安全な場所を絶えず求め、隘路を切り開き、光を照り輝かせた」(71頁)と語り、第二に、ザババ、イシュタル、エンキについて、「ザババとイシュタルが私に託された強い武器でもって、エンキが私に定められた知恵でもって、マルドゥクが私に与えられた能力でもって、北や南で敵を根絶し、戦いを鎮め、国民の肌をよくし、居住地の人々を安全な牧草地に住まわせ、誰にも彼らを脅かせはしなかった」(71頁)とし、「偉大な神々が私をお召しになった。私はよく世話をする羊飼、その杖はまっすぐである。私の心地よい影は私の都市に広がる。私はシュメールとアッカド全土の人々を私の胸に抱いた。(人々は)私の守護女神によって栄えた。私は絶えず彼らを平穏のうちに運び、私の知恵によって彼らを守った」(72頁)とした。ハンムラビは、神々のための、神々に導かれた統治によって、帝国を護り、繁栄させたとした。

 そして、神殿で国民に正義を回復するために法典の碑を書き記したとし(72頁)、この石碑と神々との関連について、「天地の偉大な裁判官シャマシュ(正義の神、季節を司る神、戦争の神)の命令によって、私の正義が国土に明らかになるように。私の主マルドゥクの言葉によって私のレリーフを削り取る者がないように。私の愛するエサギラ(マルドゥク神の神殿)で、私の名前が良い意味で永遠に唱えられるように」(72頁)とした。神々はハンムラビに王権のみならず裁判権をも与えたのであり、判決の内部にも神々が関わっていた。例えば、、§2、§132では、魔術や妻不貞に確証がない場合は川神の判断に委ね(被疑者を川に投げ込み、黒白・生死は川神に委ねる)、さらに、物証などがない場合、§9、§20、§98、§107、§120、§126、§131では神の前で誓うという行為をさだめていた。

 さらに、訴訟人を安心させ、ハンムラビ王の名声を高めることを願い(72−3頁)、「未来永劫にわたって、この国に現れる王が私の碑に私が書き記した正しい言葉を守るように」(74頁)とした。未来の王がこの法典を守らず、混乱をもたらした場合、神々の父アヌム、エンリル、エンキ、シャマシュ、シン、アダド、サババ、イシュタル、ネルガル、ニンカルラクら神々が王に罰を加えることを願うとした。すなわち、アヌムには、「彼から王権の(象徴である)メランムを取り外し」、「王杖を折り」、「運命を呪う」ように(74頁)、エンリルには、混乱、反乱で住まいを燃やし、「苦渋に満ちた治世、短命、飢餓、光のない暗闇、一瞬の死」を運命とされ、「彼の都市の滅亡、彼の民の離散、彼の支配権の変更」を命じて欲しいとする(74ー5頁)。ニンリルには、「彼の国の崩壊、彼の人々の滅亡」を確定させてほしいこと(75頁)、エンキには「混乱」に導き、川の水源を絶ち、麦をはやさないようにとし(75頁)、シャマッシュには、王権拒絶、混乱、「彼の民の基盤の崩壊」、「王権の基の崩壊と彼の国の崩壊」などを願った(75頁)。シンには、王権・玉座の奪取、治世の終焉、王位簒奪者の登場、「死に等しい生」の運命などを願い(75−6頁)、アダドには「天の雨と水源の増水」を絶ち、「飢饉と飢え」で彼の国を滅ぼしてほしいとし(76頁)、サババには「戦場で彼の武器を打ち砕き」、「昼を夜に変え」、「敵を彼の上に立たせてくれる」ように(76頁)、イシュタルには「彼の王権を呪い」、「彼の善を悪に変え」、「戦いと戦闘の場で彼の武器を打ち砕いて」、「混乱と反乱を起こし」、「彼の戦士たちを倒れさせ」、「兵士たちの死体の山をいつまでも放置」させ、「彼を敵に引き渡す」ように(76頁)、ネルガルには「彼の民を焼き尽くし」、「彼の肢体を粘土の像のように打ち砕く」ように(76頁)、ニントゥには息子を取り上げ、子孫を「つくらせないように(76ー7頁)、ニンカルラクには皮膚病にかからせるようにとしたのである(77頁)。

 諸王国の興廃が頻繁で、これまで王権交代ごとに法典を定めるという慣習のあったメソポタミアにおいて、この様に法典を遵守するということは王統を遵守することであり、バビロニア王国の転覆を防止するものともなった。まさに多くの神々を動員して、ハンムラビへの反逆者に厳罰を加えようとしたのである。あるシュメール人がアッカド(王ナラムシンがニップール襲撃)崩壊を「エンキ神の呪い」・「ニニルド神の呪い」としているように(ヘルムート・ウーリッヒ、戸叶勝也訳『シュメール文明ー古代メソポタミア文明の源流』祐学社、1980年、199頁)、当時、侵略者への神々の呪いはあるものと信じられていたようだ。晩年にあって、統一王国の樹立に至る栄光に満足しつつも、王国の行く末に思いを馳せて、ハンムラビは、秩序を乱す臣従王国には多くの神々が多くの神罰・呪いをくだすと牽制したのである。実に詳細に具体的に記述したところにハンムラビの危機感が窺える。これは、「富と権力」のシステムが、始まりに当たる時期から深刻な諸問題を内包していたということを示している。深刻な諸問題は現在だけではないということだ。

 ハンムラビ死後1世紀ぐらい経過した古バビロニア末期、ハンムラビ法典の写本がつくられており(ジャン・ボテロ前掲書、270−1頁)、この「法典」は「たぶんこれを採用しまた手直しを加えた直系の後継者たちの時代に利用されたことは、・・十分可能性があ」ったのである(ジャン・ボテロ前掲書、276頁)。少なくとも後継国王はハンムラビ法典を守ったようだ。ただし、ハンムラビの死後、次の王サムス・イルナ(前1749−前1712年)の時には、既に「バビロン王国はハンムラビ登場以前の小さな王国に収縮」(中田一郎前掲書、158頁)し、バビロン4代目の王サムス・ディタナの前1595年、「ヒッタイトがバビロンを攻略し、ほどなくバビロン第一王朝は滅亡」(前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、13頁)してしまった。だが、皮肉なことに、以後1200年にわたってメソポタミア学者がこの法典を書き写し続け(中田一郎前掲書、185頁)、王国滅亡後もハンムラビ法典が忘れ去られることはなかった。



 Aメソポタミアの権力者は、富の発生にまつわる諸問題に早くから直面し、これらの利害対立の調整は深刻な課題であったろう。ここではこの時期の富に関わる諸問題とその利害調整などの実態を判例集のなかに探ってみよう。

 @)まず、富の保護のために、§6「神殿あるいは王宮の財産(金銀などか)を盗んだら」死罪とする、§7「銀、金、男奴隷、女奴隷、牛、羊、ロバ」、「いかなる物」も、証人・証書なく、購入したり、寄託で受け取れば、盗人となり、死罪とする、§8神殿・王宮の「牛、羊、ロバ、豚、あるいは船」を盗んだ者はその30倍、ムシュケーヌムの物なら10倍支払い、支払えなければ死刑とする(11頁)、§9「無くなった物」を「別の人」が所有し、「別の人」が購入したと主張した場合、元の所有者、「別の人」が証人を連れて神前で陳述し、双方の言い分が正しいことになれば、「別の人」への売主が盗人になり、死罪とする(11−12頁)、§10買い手の「別の人」が証人をつれてこず、元の所有者が証人をつれてきたらば、「別の人」が盗人であり、死罪(12頁)、§11元の所有者が証人をつれてこなかった場合、嘘で他人を中傷したことになり、死罪とする、§12「その(盗品の)売り手が死亡していたなら、その買い手はその売り手の家からこの裁判の請求額の5倍を取る」(12頁)、§13証人が近くにいないで、6カ月間の猶予期間内に出廷させられなかった場合、「その人は嘘つきで裁判の(あらゆる)罰を負わねばならない」(12ー3頁)などと規定して、財産侵奪を厳罰に処した。§14では幼児を盗んだ場合には死罪(13頁)として、生産単位としての家族維持を図った。

 なお、ジャン・ボテロは、§8と§259(農具窃盗者は銀5シェケル・3シェケル[「盗まれた物の価格をさして上回らない程度の料金」]を返済)は矛盾するとしているが、§8は神殿・王宮、ムシュケームの動産であるから重罰となったのに対して、§259は在地の有力者・王権の判断で農具窃盗の情状が酌量されte
軽罰となったのであろう。さらに、彼は、受託と寄託は同一行為だとして、第7条と第123条(証書・証人なしの寄託は受託者がこれを否認すれば裁判できない)は矛盾するとするが(ジャン・ボテロ前掲書、242−3頁)、それぞれの条項はあくまで受託者と寄託者を規定したものであり、証人・証書なく他人の物を受け取る受託の場合には詐欺・窃盗などを既遂することを想定して重く罰したが、寄託の場合には、証人・証書なく寄託したと申し立てるだけでは受託者には損害が生じないから(仮に証書も証人もなく寄託したと虚偽発言をして、それを担保にある商人から金銭を借り入れた場合には、別のケースとして罰せられる)、この提訴を禁じたのである。こうして重箱をつつきだせば、多くの矛盾や問題となるやもしれぬ箇所が指摘されようが、ここではこれまでにしておこう。

 富の生産に奴隷は不可欠となっており、ゆえにその奴隷制維持にために、§15「王宮の男奴隷、王宮の女奴隷、ムシュケーヌムの男奴隷、あるいは・・女奴隷」を無断で解放させたら死刑とする(13頁)、§16逃亡奴隷を隠匿すれば死刑とする、§17逃亡奴隷を所有者に連れ戻せば銀2シキル(約17g)を付与する、§18奴隷の主人が不明の場合、王宮で確定する、§19逃亡奴隷を私用したものは死刑とする、§20逃亡奴隷が捕縛者から逃亡すれば自由とするなどとした。

 奴隷の売買については、§278奴隷購入後月末までに癲癇の起こった場合、売り手に返却でき、代金を受け取れる(70頁)、§279奴隷の販売後、(第三者から)奴隷を元の持ち主に返還要求が出れば、売り手はそれに「責任を負わねばならない」(70頁)、§280外国で購入した奴隷を国内に連れ帰った場合、その奴隷が「同国人」なら、銀の支払いなしに「自由の身」となる(70頁)、§281その奴隷が「別の国人」の場合、買い手の商人は神前で支払額を述べ、元の奴隷所有者は支払い金額を買い手商人に与え、奴隷を「請け出さなければならない」(71頁)、§282請け出された奴隷が元所有者に「あなたは私の主人ではない」と言えば、元所有者は奴隷の主人であることを立証すれば、奴隷所有者は「奴隷の耳を切り落とさねばならない」(71頁)などとした。


 前2400年頃からメソポタミア南部では地力を配慮して隔年耕作が行われ(山本茂「シュメール都市国家時代末期ラガシュにおける農耕年視点の確立」『史林』62、1979年)、雨季(10−3月)と乾季(4−9月)に応じた農耕がおこなわれた。大麦は、7−10月に犁耕し、10月に播種し、増水期にあたる4−5月に収穫した(中田一郎前掲書、101頁)。その大麦の耕地はビルトゥム地(国家直轄地)、イルクム地(兵士等の休養のための地)などに分けられ、地主がこれらを小作させたりした。

 この小作制度においては、地主優位がはかられ、§42「もし人が耕地を小作のため賃借し、その耕地に大麦を実らせなかった」場合、@地主は借地人が「播種作業をおこなわなかったことを立証」し、A借地人は隣地の収穫高に従い地主に大麦を与えねばならない(18頁)、§43小作人が耕作放棄した場合、地主は臨地収穫高に応じて大麦を受けとり、原状回復して返還させうる(19頁)、§44未耕地を耕地に戻す契約で3年借り受けて、無為に過ごした場合、4年目に耕地にし、1ブル(6.5ha)あたり大麦10クル(3千g)を支払う(19頁)、§45地主が小作人に貸付け、小作料を受け取った後に、嵐・洪水で水害をうけた場合、損失は小作人に帰属する(19頁)、§46洪水の際、まだ小作料を受け取っていない場合、地主は小作料率(2分1、3分1)の契約通り受け取れる(19頁)、§47小作人が「前の年に元がとれなかったので耕地を(もう1年)耕作したい」と言えば、地主は許すべし(20頁)などとされた。

 耕地果実を担保に商人から資金を借り入れたりして、農業債務が生じた場合、債権者と債務者の関係について、§48嵐・洪水・水不足などで債務者が大麦の収穫がなかった場合、「その年は、彼の債権者に大麦を返済しなくてもよ」い(20頁)、§49人が耕地担保で商人から銀を借りれ、耕地を商人に使わせ、実った大麦、ゴマを収穫してよいとし、商人が小作人を使って実らせた場合、債務者は収穫して元利と「農作業の報酬に見合う大麦」を商人に与える(20頁)、§50地主が商人に、大麦・ゴマの播かれた耕地を「与えた」場合、地主は果実を刈り取り、「銀とその利息を商人に返済」する(20頁)、§51彼に返済銀がない場合、商人から借り入れた銀と利息(大麦・ごま)を支払う(21頁)、§52債権者が雇った小作人が大麦・ゴマを実らせなかったとしても、商人は契約変更してはならない(21頁)とされた。

 当時のメソポタミア農業では、鉄製農具よりも、灌漑の方が重要であり、ゆえにその灌漑の管理責任が、§53「耕地の畔の強化を怠り」、「耕区の大麦を流失」させた場合、それを償う(21頁)、§54償うことができなければ、動産売却金を耕区メンバーで分配する(21頁)、§55用水の不注意で「隣人の耕地の大麦を水で流失させ」れば、「隣人の収穫率」に応じて弁済する(21頁)、§56灌漑用水で臨地を流失させた場合、1ブル(約6、5ha)につき10クル(約3千g)の大麦を弁済する(21ー2頁)などと規定された。

 当時の農作業は、牛で犂を引かせる作業、歯のついたまぐわを牛に引かせる作業、播種装置をつけた犂を牛に引かせて播種する作業などからなっていて(中田一郎前掲書、99頁)、牛の使用が大きな役割をしめていた。この牛については、その売買・貸借・事故について、§241牛を買った場合、銀3分1マナ(167g)を支払う(64頁)、§242後曳きの牛の1年間賃借料は大麦4クル(1200g)(64頁)、§243中曳きの牛の1年間賃借料は大麦3クル(900g)(64頁)、§244賃借した牛、ロバが野でライオンに殺された場合、損失は所有者が負担する(賠償は請求できない)(64頁)、§245賃借した牛を不注意で死なせた場合、「同等の牛を償わなければならない」(64頁)、§246賃借した牛の足を折ったり、首筋を切った場合、「同等の牛を償わなければならない」(64頁)、§247賃借した牛の目を損なった場合、「値段の半分の銀を与えなければならない」(65頁)、§248賃借した牛の角を折ったり、尾を切断したり、ひずめの脚を切れば、「値段の4分1を与えねばならない」(65頁)、§249賃借した牛が、「神がそれを打」った後に死んだ場合、「神に誓ったのち釈放される」(65頁)、§250牛が道で「人を突き死なせたとしても」、損害賠償請求の対象にならない(65頁)、§251地区が人を突く習性のある牛について警告したにもかかわらず、「角を切らず」「監視をせず」、その牛がアヴィールム仲間を突き死なせた場合、銀2分1マナ(250g)を支払う(65頁)、§252突き死なせたものがアヴィールムの奴隷なら、銀3分1マナを支払う(65頁)などと定めた。

 牛使用の農業労働に関わる人々(所有者、借入者、使用者など)の利害調整については、§253人が、「耕地の世話をしてもらうために他の人を雇い、彼に穀物を託し、牛を預け、彼と耕地の耕作の契約を結んだなら」、種麦・飼料用麦を盗んだ場合、「腕を切り落とさねばならない」(66頁)、§254牛を弱らせた場合、「受け取った大麦を倍にして償わなければならない」(66頁)、§255牛を又貸ししたり、種麦を盗み麦がならじ、この違約行為が立証された場合、耕地面積1ブル(6,5ha)につき大麦60クル(1.8万g)を与える(66頁)、§256こうした「義務履行」ができない場合、彼らは彼を耕地で「牛に引かせて(死ぬまで)引きずり回さなければならない」(67頁)、§257農業労働者を雇った場合、年大麦8クル(約2400?)を与える(67頁)、§258牛追い人夫を雇った場合、年大麦6クルを与える(67頁)、§259「耕区で播種装置付き犂を盗んだ」場合、銀5シキル(41.7g)を犂所有者に与える(67頁)、§260深耕用の梨、まぐわを盗んだ場合、銀3シキルを与える(67頁)などと定めた。

 牛・小家畜の飼育に関しては、所有者・飼育者・寄託者らの利害調整について、§261、牛・小家畜の放牧のために家畜飼養者を雇った場合、年間大麦8クルを与える(67頁)、§263寄託された牛・羊を失った場合、その所有者に償う(67頁)、§264牛・小家畜の放牧寄託の牧夫が、牛・小家畜の数を減らし、出産数を減らせば、契約に従い、「(小家畜の)子供と産物」をあたえなければならない(68頁)、§265牛・小家畜の放牧寄託の牧夫が、マークを偽って売却し、それが立証で来た場合、10倍にして償う(68頁)、§266疫病やライオン襲撃で死んだ場合、「牧夫は神前で自らを無罪放免しなければならない」(68頁)、§267牧夫が怠慢で「旋回病」を発生させた場合、牛・家畜の「欠損」を「完全に賠償」(68頁)するなどと定めた。

 脱穀・運搬のための家畜賃借については、§268脱穀のための牛の賃借料は大麦2スート(20g)(68頁)、§269脱穀のためのロバの賃借料は大麦1スート(10g)(68頁)、§270脱穀のための山羊の賃借料は大麦1カ(1g)(69頁)、§271、牛と荷車・御者の賃借料は1日当たり大麦3パーン(180g)(69頁)などとした。

 家畜放牧に関しては、§57牧夫が耕地所有者に無断で小家畜を放牧させた場合、牧夫は耕地所有者に1ブルにつき20クルの大麦を弁済する(22頁)、§58耕区放牧の「完了」公告後に放牧させた場合、牧夫は耕地所有者に1ブルにつき60クルの大麦を弁済する(22頁)と規定されるにとどまる。

 果樹園(主産物はナツメヤシ)については、所有者と栽培者(園丁師)の利害調整関して、§59所有者に無断で木(なつめやし)を切れば、銀2分1マナ(250g)を支払う(22頁)、§60地主と園丁師が共同でなつめやしを栽培して、5年目に地主が果樹園の半分を優先的に選び取れる(22ー3頁)、§61園丁師が植え残した場合、その地を取り分に入れる(23頁)、§62園丁師が借りた耕地を果樹園にしなかった場合、隣地の収穫高にしたがって小作料を支払う(23頁)、§63園丁師が借りた土地が休耕地の場合、耕地にして返還し、1年1ブル(約6,5ha)当たり10クル(約3千g)を与える、§64果樹園所有者が果樹受粉のために園丁師に果樹園を「与えた」場合、園丁師は、産物の3分2を所有者に与える(23頁)、§65、園丁師が果樹園の受粉を行わず、収穫減少させた場合、隣人の収穫高に応じて、産物を与える(23頁)、§66果樹園所有者が商人から産物担保で借金した場合、商人は元利を取れるのみで、「余剰のナツメヤシは、果樹園の所有者が取ることができる」(24頁)とされた。


 A)次に、富の流通・販売=商人・高利貸を見てみよう。

 高利貸し商人については、§t商人が大麦などを貸し付けた場合、1クル(約3百g)につき大麦1パーン4ストーン(約百g)を利息として受け取り、銀を貸し付けた場合、銀1シキル(180粒)につき銀6分1シキル、6粒(計36粒)の利息を受け取る(27頁)、§u債務者に返済すべき銀がない場合、債権者商人は「王の勅令」に従い「1クル(約300g)につき年1パーン(約60g)」の大麦を受け取る(28頁)、§w債権者商人が受け取り大麦・銀を元金から差し引かなかった場合、倍にして返済する(28頁)、§x債権者商人が、不当な度量衡操作で銀・大麦の貸付を小さくし、返済を大きくした場合、その「与えた額」を失う(28頁)、§y貸借行為の意味不明、§z債務者が「大麦あるいは銀」を借り入れたが、それらで返済できない場合、動産の時価で返済する(29頁)などを規定して、高利や悪辣返済を防止した。

 当時、メソポタミアでは遠隔地通商が展開して、これに大きな利益を期待して、商人が行商人へ投資していた。そこで、§cc共同事業に銀を投資する場合、「発生する利益あるいは損失を神前で平等に分け」る(29頁)、§100商人が行商人に投資し、行商人が利益をあげた場合、商人は投下資金に見合う利益をうけとる(29頁)、§101行商人が利益を上げられなかった場合、商人は投下資金の倍を行商人から受け取る(29頁)、§102行商人が損失を被った場合、商人は投下資金のみを行商人から受け取る(30頁)、§103行商人が旅先で持ち物を没取された場合、行商人はそれが真実であることを神に誓った後に釈放される(30頁)、§104商人が行商人に「大麦、羊毛、油」などを「販売のために与えた」場合、「行商人は商人に定期的に銀を返す」(30頁)、§105行商人が商人に銀の領収書を怠って渡さなかった場合、これは銀を支払ったことにはならない(30頁)、§106行商人が商人から銀を受け取り、後に行商人がそれを否定した場合、商人は神と証人の前でそれを立証する(30頁)、§107行商人が商人に借入銀を返還した後、商人が返還を否定した場合、行商人は神と証人の前で商人虚偽を立証する(31頁)などとして、遠隔地通商をめぐる投資の利害調整をはかった。

 陸路の通商と並んで、チグリス・ユーフラテス川などを利用した通商も盛んであり、ここに河川通商をめぐって投資家(商人)と船所有者・操縦者との利害調整をはかるべく、§234船頭(船大工か)が人のために60クル積みの船の水蜜化工事を行なった場合、彼は「彼の贈物」として銀2シキルを船頭にあたえなければならない(62頁)、§235船頭(船大工か)が「人のために船の水蜜化工事」を行なったが、「信頼に足る仕事」をしなかったので、「船が傾き、欠陥が生じ」た場合、船頭は、「その船を解体し、自分自身の財産で堅固に作り直して、堅固な船」を与えなければならない(62ー3頁)、§236人が船を船頭に賃貸し、船頭が注意を怠り、船を沈没、あるいは損壊させた場合、船頭は「船を船の所有者に償わなければならない」(63頁)、§237人が「船頭と船」を賃借し、「大麦、羊毛、油、ナツメヤシ」などの積み荷を積み込んだが、船頭の不注意で船を沈没させ、積荷を失わせたならば、船頭は船と積荷を「償わなければならない」(63頁)、§238船頭が、沈没した船を引き上げれば、船頭は、「(船の)値段の半分の銀」を与えなければならない(63頁)、§239人が船頭を雇えば、船頭に年間大麦6クル(1800g)を与えなければならない(63頁)、§240上る船が下る船に衝突し、下る船を沈没させ、沈没船の所有者は「船のなかにあって無くなった物を神前で明らかにし」た場合、沈没船の船長は「船と無くなった物すべて」を「償わなければならない」(63ー4頁)などが規定された。

 船の賃借については、§276川を上る船の賃借には、1日銀2粒半を与える(70頁)、§277「60クルミ積みの船」の賃借には、1日銀6分1シキル(1.34g)を与える(70頁)とした。

 債務者の家族を人質として担保にとることに関しては、§115債務者から大麦・銀の借入の人質をとって、人質が債権者の家で死んだ場合、損害賠償(「債権者に対する債務者の」か)はできない(33頁)、§116人質が殴打・虐待で死亡した場合、人質の「所有者」はそれを立証し、犠牲者がアヴィールムの息子なら、商人の息子を殺し、犠牲者がアヴィールムの奴隷の場合、商人は銀3分1マナ(約167g)を支払う(33頁)、§117債務者が、妻・息子・娘を売ったり、担保として差し出した場合、彼らは3年間「差し押さえ人」の家で働く(34頁)、§118債務者が男女奴隷を債務担保として差し出した場合、買い戻し期間の経過後に、債権者はその奴隷をうることができる(35頁)、§119売った女奴隷が、債務者の息子を生んでいた場合、債権者の購入代金を支払えば、女奴隷を引き出すことができる(35頁)などとした。

 大麦・貨幣の寄託については、§120寄託した大麦が、穀倉で損失を被るか、保管者が盗んだか、貯蔵を全面的に否定した場合、「大麦の所有者は神前で彼の大麦(が寄託されたこと)を明らかにしなければなら」ず、立証されれば、保管者は2倍の大麦を返済する(35頁)、§121大麦の寄託料は1クル(約300g)につき5カ(約5g)とする(35頁)、§122寄託する場合、証人、契約書を揃える(35頁)、§123証人、契約書のない寄託は無効(36頁)、§124証人の前で寄託したのに、寄託引受人が寄託を否定した場合、所有者は寄託引受人の不法行為を立証しなければならず、立証されれば、寄託引受人は2倍にして返還する(36頁)、§125寄託品が盗難にあった場合、寄託引受人は「完全に賠償」する(36頁)などとした。


 B)国富の基礎たる民富、その基礎ともいうべき個人の富、その増加と維持のための家族について、その持続(結婚・家族)と継承(遺産相続)の利害調整が詳細に規定される。

 当時、妻は父の財産の一部を持参財として持ち来て、将来の継承者たる男子を生む存在であった。家庭を維持するために重要な存在であるにもかかわらず、夫が優遇されるのに反して、妻は規制された。すなわち、こうした妻について、§127人が「他人の妻」を侮辱し、それを立証しなかった場合、その人を鞭打ち、頭髪の半分を剃る(37頁)、§128妻を娶っても、婚姻契約を締結しなければ(仮結婚)、妻ではない(37頁)、§129妻が別の男性と寝ているところをとらえられれれば(姦淫)、彼らは妻を「水に投げ込まれなければならない」(37頁)、§130男が父の家に住む処女の「他人の妻」に猿轡をはめて寝ていたところを捉えられた場合、男は死刑(強姦)で、彼女は釈放される(37頁)、§131妻が夫に起訴されても、浮気現場をおさえたのでなければ、彼女が「潔白」を神に誓えば「自分の家にもどることができる」、§132妻が浮気を指摘された場合、その現場をおさえられていない場合、(神の裁きをうけるべく)夫のために「川に飛び込まなければならない」(38頁)、§133夫が捕虜になっても、家に食物があれば、妻は貞節をまもる(38頁)、§133b妻が貞節を守らず、他人の家に入った場合が立証されれば、彼女を水に投げ込まなければならない、§134夫が捕虜となり、家に食物がない場合、罪を問われることなく、「別の人の家にはいる」(38頁)、§135夫が捕虜となり、家に食物がない場合、「別の人の家にはい」(38頁)り、息子を生んだ後に、夫が帰宅した場合、妻は先夫のもとに戻り、子供はそれぞれの父に従う(39頁)、§136夫が市を逃亡し、妻が「別の人の家」に入った後に、市に戻ってきた場合、妻は夫のもとのもどらなくてよい(39頁)などととされた。

 妻との離婚について、妻の持参財、夫の財産、息子の有無などに絡んだ夫婦の利害調整について、§137夫が息子を生んだシュギートゥム女性、息子を得させてくれたナディートゥム修道女を離縁する場合、夫は「彼女の持参財を返し」、養育費として「耕地と果樹園と動産の半分」を与える(39頁)、§138夫が「息子たちをうまなかった正妻を離婚」する場合、「テルハトゥム相当の銀」を与え、「持参財を元通りに返し」、離婚できる(39頁)、§139テルハトゥムがない場合、銀1マナ(約500g)を離婚料を与える(40頁)、§140夫がムシュケーヌムの場合、銀3分1マナを与える(40頁)、§141妻が家を出ることを決意し、横領したり、財産を浪費したり、夫を軽んじた場合、それを立証すれば、「旅費および離婚料」を与えなくても、夫は彼女を離縁でき、夫が彼女を離縁しない場合、「女奴隷のように」扱い、「二人目の女性を娶る」ことができる(40頁)、§142妻が夫を嫌い、離婚をねがえば、地区で調べて、「彼女が身を守り、落ち度が無く、彼女の夫が家をあけ、彼女を著しく軽んじた」ことが判明すれば、持参財を取って、「父の家」に帰ることができる(40ー1頁)、§143妻が、「身持ちが悪く、家をあけ、彼女の家を浪費し、自分の夫を軽蔑」すれば、「水に投げ込まれ」ければならない(41頁)、§144夫がナディートゥム修道女を娶り、妻が女奴隷を夫に与え、息子を生んだ場合、夫はシュギートゥム女性を娶ることはできない、§145夫がナディートゥム修道女を娶ったが、息子ができない場合、夫はシュギートゥム女性を娶り、家に入れることができるが、ナディートゥム修道女と同等とみなすことはできない(42頁)、§146夫がナディートゥム修道女を娶り、妻が女奴隷を夫に与え、息子を生んだ場合、女主人は女奴隷を売ってはならないが、あくまで「奴隷の一人」とみなしてよい(42頁)、§147女奴隷が息子を生まなければ、女奴隷を売ることができる(42頁)、§148妻が皮膚病にかかった場合、別の女性を娶ることができるが、離婚はできない(42頁)、§149その妻が夫の家に住むことに合意しなければ、持参財をもって「立ち去ることができる」(43頁)などと定めた。

 さらに、結婚に伴うテルハトゥムの付与を基準に、§159婚約者が、「義理の父の家」に「結婚式のプレゼント」を運ばせ、テルハトゥムを与えたのに、別の女性と結婚する場合、義理の父は「運び込まれた物」すべて自分のものとする(45頁)、§160人が義理の父に「結婚式のプレゼント」を運び入れ、テルハトゥムを与えた後に、義理の父が「娘をやらない」と言った場合、父は倍返ししなければならない(45頁)、§161人が義理の父に「結婚式のプレゼント」を運び入れ、テルハトゥムを与えた後に、婿の仲間が婿を誹謗して、義理の父が「娘をやらない」と言った場合、父は倍返ししなければならない(45頁)とした。

 夫婦の債務については、§151夫が結婚前にフブッルム・ローンを負っていた場合、夫が妻に「夫の債権者が彼女を捕らえないように」契約書を残せば、「債権者たちは彼の妻を捕らえてはならない」(43頁)、§152結婚後に、夫婦二人にフブッルム・ローンが生じた場合、二人は債権者に共同で責任を負う(43頁)などとした。

 家族制を維持するために、§153妻が「別の男性」のために夫を殺した場合、妻は「木柱に架けなければならない」(44頁)、§154人が娘と性的関係をもてば、その人を市から追放する(44頁)、§155息子のために嫁を選び、息子が嫁と性的関係をもった後、父が嫁と関係すれば、水に投げ込まれる(44頁)、§156息子のために嫁を選び、息子が嫁と性的関係をもたないで、父が嫁と関係すれば、父は嫁に銀2分1マナを支払い、持参財を戻す(44頁)、§157父の死後、人が母と関係すれば、「二人とも焼き殺さねばならない」(44頁)、§158父の死後、人が息子を生んだ母と関係すれば、その人は「父の家」から追放される(44頁)として、家族間の不義密通を厳罰に処した。

 夫の死後、夫の財産の相続は大きな問題であり、故にこの法典の一定部分を占めていた。まず、父死亡に伴う兄弟間の遺産相続に関して、§165父が「目にかなった彼の嫡出子に耕地、果樹園、あるいは家を贈る」捺印文書を作成した後に死んだ場合、兄弟の遺産分割に際して、その嫡出子はその通り遺産を保持できる(46頁)、§166父が死去し、妻を娶らない幼い子がいた場合、「彼の取り分とは別に、テルハトゥムの銀を設定し、彼に妻を娶らせなければならない」(47頁)、§167妻が息子を生んだ後に死去し、夫が後妻をとり、息子を生んだ後に死去した場合、息子たちは、まず「自分たちの母親の持参財」を取り、ついで「父の家の財産」を平等にわける(47頁)、§168父が息子を「嫡出子の地位」から廃除したいと申請し、裁判官がこれを審査し、「廃除にあたいする重大な罪」がなければ、廃除できない(47頁)、§169息子が父に「廃除にあたいする重大な罪」を犯したならば、初回はこれを許し、2回目は廃除する(47頁)、§170正妻に息子がおり、女奴隷にも息子がいて、父が正妻の息子と同等とみなしていたなら、父が死去した場合、「父の家の財産を平等に分けなければならない」。ただし、まず正妻の息子がさきに取り分を選び取る(47ー8頁)、§171父が正妻の息子と同等とみなしていなかったなら、父が死去した場合、「父の家の財産を平等に分け」ることはできなず、そのかわり、女奴隷と息子を「自由の身」とする(48頁)、§150夫が、妻に「耕地、果樹園、家あるいは動産を贈」る「捺印証書」を残したらば、夫の死後、息子はその返還を要求することはできないが、母は「好む息子」に与えることができる(43頁)と規定された。

 父死亡に伴う「母と兄弟間の遺産相続」に関して、§171b夫の死後、正妻は、文書に記された遺産を受け取り、「夫の住居」に住むが、遺産は息子のものなので、「売ることはできない」(48頁)、§172夫が妻に「贈物(ヌドゥンヌム)」を与えていなかったなら、夫の死後、妻は持参財を返してもらい、夫の財産から嫡出子一人分の取り分をとることができ(48頁)、息子たちが彼女をおいだそうとしてつらくあたれば、裁判官は息子に罰を科す(48頁)、§173妻が死去した場合、彼女の持参財は先妻と後妻の息子らが分け合う(49頁)、§174妻が再婚した夫との間に息子がない場合、彼女の持参財は先夫の息子が受け取る(49頁)などとされた。

 夫が奴隷の場合の遺産相続については、§175王宮・ムシュケーヌムの奴隷が、アヴィールムの娘を娶り、息子を生んだ場合、奴隷所有者は息子を奴隷身分にとどまらせることはできない(49頁)、§176王宮・ムシュケーヌムの奴隷が、アヴィールムの娘を娶り、彼らが奴隷の家に入った後、「家を建て動産を得」た後、奴隷が死亡した場合、アヴィールムの娘は持参財を取ることはできるが、家や動産は二分して、奴隷所有者とアヴィールムの娘との間でわけあう(50頁)、§176b(§176の補訂)アヴィールムの娘が持参財をもたない場合、妻と夫が結婚して得たものは、全て奴隷所有者とアヴィールムの娘との間でわけあう(50頁)と規定した。

 幼児のいる寡婦の遺産相続については、§177幼い息子のいる寡婦が「別の人の家」にはいる際には裁判官たちの許可が必要であり、裁判官は先夫の家を妻と新夫に委ね、文書を作成し、妻と新夫は「家を守り、幼子たちを養育」し、家財道具を売ってはならない(50頁)とした。

 娘がウグバブトゥム、ナディートゥム(高官・富裕市民の娘[中田前掲書、133頁])修道女、セクレートゥム女官などの場合の遺産相続については、§178ウグバブトゥム、ナディートゥム修道女、セクレートゥム女官の持参財に関する文書で、父が彼女に「完全な(持参財の)処分権」を与えていなかった場合、父の死去の後、「彼女の耕地と果樹園は彼女の兄弟たちが取る」が、兄弟は「彼女の取り分に相当する大麦、油および衣料を彼女に与え」ねばならず、そうしない場合、彼女は、「彼女の耕地、および果樹園を彼女の意にかなう小作人に賃貸」できるが、それらの不動産は兄弟のものだから、売却できない(51頁)、§179ウグバブトゥム、ナディートゥム修道女、セクレートゥム女官の持参財に関する文書で、父が彼女に「完全な(持参財の)処分権」を与えていた場合、父の死去の後、彼女は「彼女の遺産を彼女の意にかなう者」に与えることができる(52頁)、§180父が、ナディートゥム修道女、セクレートゥム女官に持参財を贈らなかった場合、父の死去の後、彼女は生存中「父の家の財産から1人の嫡出子のように取り分を受け取ることができ」るが、彼女の死後、兄弟のものになる(52頁)、§181父が、娘をナディートゥム修道女、カディシュトゥム女神官、クルマシートゥム女神官として神前に捧げたが、持参財を贈らなかった場合、父の死去後、彼女は、生存中は父の家の財産から3分1を相続分としてうけとるが、それは「兄弟たちの物」である(52頁)、§182父が、娘のバビロンのマルドゥクのナディートゥム修道女に持参財を贈らなかった場合、父の死去の後、彼女は、兄弟とともに父の家の財産から3分1を相続分としてうけとるが、「イルクム義務を果たす必要」はなく、彼女は、それを「彼女の意にかなう者」に与えることができる(53頁)などとした。

 娘がシュギートゥム女性の場合の遺産相続については、§183父が、シュギートゥム女性である娘に、持参財を贈り、嫁がせ、捺印証書を作成したなら、父の死去後、彼女は「父の家の財産(分割)に与ることはできない」(53頁)、§184父が、シュギートゥム女性である娘に、持参財を贈らず、嫁がせなかったら、父の死去後、彼女の兄弟は「父の家の資産力」に応じて持参財を贈り、彼女をとつがせねばならない(53頁)とした。

 妻が死んだ場合、妻の持参財について、§162人が妻を娶り、妻が息子を生んだ後に死んだ場合、妻の持参財は父の物ではなく、息子のものである(45頁)、§163人が妻を娶り、妻が息子を生まないうちに死んだ場合、父が夫に夫のテルハトゥムを返していた場合、妻の持参財は父の物である(46頁)、§164父が夫に夫のテルハトゥムを返していなかった場合、夫は、妻の持参財からその分を差し引いて、父の家に返さなければならない(46頁)とした。

 家にとって財産継承できるのは男子であり、故に後継のいない家族は養子縁組をするが、ここに養子縁組をめぐって諸問題が生じ、これに対して、§185人が、男子誕生の際、息子として引き取り、養育したならば、その養子の返還はできない(53頁)、§186人が息子とするために子供を引き取ったとき、子供が生みの父母を探そうとするなら、養子を実家にもどす(54頁)、§187「王室の召使」である「ギルセクム」・「セクレートゥム女官」の養子は「返還を請求されることはない」(54頁)、§188職人が養子に「手の技」を教えたらば、養子は「返還を請求されることはない」(54頁)、§189職人が養子に「手の技」を教えなければ、養子は実家にもどることができる(54頁)、§190養子として引き取ったのに、「息子の一人」とみなされなければ、実家に戻ることができる(54頁)、§191養子を取った後に「所帯を持ち」、「息子を得」て養子廃除を決意したら、養父は養子に財産の3分1を相続分として与える(55頁)、§192「ギルセクム」・「セクレートゥム女官」の養子が「あなたは私の父母ではない」と言った場合、養父母は養子の「舌を切り落とさねばならない」(55頁)、§193「ギルセクム」・「セクレートゥム女官」の養子が、実父の家を見つけ出し、養父母を拒絶した場合、養父母は養子の「目をえぐり取らなければならない」(56頁)などと定めた。


 C)生活秩序を維持するためには暴行防止が必要であり、身分差に応じた暴行の処罰がなされ、アヴィールム階層での「同害復讐」原則が打ち出され、被害者救済のための賠償金が定められ、無制限な復讐にはどめがかけられた(中田前掲書、137頁)。つまり、§19「息子が彼の父親を殴った」場合、「彼らは彼の腕を切り落とさなければならない」(56頁)、§196アヴィールム(上層市民)がアヴィールム仲間の目を損なえば、「彼らは彼の目を損なわなければならない」(56頁)、§197アヴィールムがアヴィールム仲間の骨を折ったなら、「彼らは彼の骨を折らねばならない」(56頁)、§198アヴィールムがムシュケーヌム(一般市民)の目を損なったか、骨を負った場合、銀1マナー(500g)支払う(57頁)、§199彼がアヴィールムの奴隷の目を損なったか、骨を負った場合、彼は奴隷の値段の半額を支払う(57頁)、§200アヴィールムが対等のアヴィールムの歯を折れば、彼らは彼の歯をおらねばならない(57頁)、§201「彼がムシュケーヌムの歯を折った」ならば、彼は銀3分1マナを支払う(57頁)、§202アヴィールムが彼より身分の高いアヴィールムの頬を殴れば、彼は、集会で牛革鞭で60回打たれる(57頁)、§203アヴィールム仲間が対等のアヴィールム仲間の頬をなぐれば、銀1マナを支払う(57頁)、§204ムシュケーヌムがムシュケーヌムの頬を殴ったら、銀10シキル(約83g)を支払う(57ー8頁)、§205アヴィールムの奴隷がアヴィールム仲間の頬をなぐれば、奴隷は耳を切り落とす(58頁)、§206アヴィールムがけんかで別のアヴィールムを殴り、傷を負わせれば、故意でないことを立証した上で、医者の治療の責任を負う(58頁)、§207彼が殴って相手が死んだ場合、(故意でないことを)誓わねばならず、死亡者がアヴィール仲間なら、銀2分1マナ(約250g)を支払う(58頁)、§208、死亡者がムシュケーヌム仲間なら、銀3分1マナ(約250g)を支払う(58頁)などとした。

 後継者を確保するため、妊婦の暴行を防止しようとして、§209アヴィールムが対等のアヴィールム仲間の女性を殴って胎児を流産させれば、銀10シキル(約83g)を支払う(58頁)、§210その女性が死去すれば、そのアヴィールムの娘を殺さねばならない(59頁)、§211ムシュケーヌム仲間の女性を殴って彼女の胎児を流産させた場合、彼は銀5シキル(約41g)を支払う(59頁)、§212その女性が死去したら、彼は銀2分1マナ(約250g)を支払う(59頁)、§213彼がアヴィールムの女奴隷を殴って彼女の胎児を流産させれば、彼は銀2シキル(16.7g)を支払う(59頁)、§214その女奴隷が死去すれば、彼は銀3分1マナ(167g)を支払う(59頁)とした。


 D)当時の技術者・職人について、まず外科医からみれば、彼の報酬と責任について、§215医者がアヴィールムに手術して直し、あるいは手術して目を直せば、彼は銀10シキル(約83g)を取れる(59頁)、§216ムシュケーヌム仲間なら、医者は銀5シキルを受け取れる(60頁)、§217アヴィールムの奴隷なら、奴隷の所有者は医者に銀2シキルを与える(60頁)、§218医者がアヴィールムに手術して直せず、あるいは手術して目を直せなかった場合、彼らは医者の腕を切り落とさなければならない(60頁)、§219医者がムシュケーヌムの奴隷に青銅のランセットで大傷を負わせ、死なせたらば、彼は同等の奴隷を償わなければならない(60頁)、§220医者がムシュケーヌムの奴隷に青銅のランセットでこめかみを切開して目を損なったら、医者は奴隷の値段の半分の銀を支払う(60頁)、§221医者がアヴィールムの折れた骨を直したり、あるいはひどい筋の痛みを治したならば、患者は医者に銀5シキルを与える、§222ムシュケーヌム仲間なら、彼は医者に銀3シキルを与える(60頁)、§223アヴィールムの奴隷なら、奴隷所有者は医者に銀2シキルを与える(61頁)、§224牛・ロバの医者が、牛・ロバを治したならば、牛・ロバの所有者は銀6分1シキルを支払う(61頁)、§225牛・ロバを死なせれば、医者は、牛・ロバの所有者に、「その値段の4分1」を支払う(61頁)と定めた。

 理髪師・大工について、§226理髪師が「所有者の承諾」なしに「奴隷の目印の髪型」を切り落とせば、彼らは「理髪師の腕」を切り落とす(61頁)、§227人が理髪師を欺いて、「奴隷の目印の髪型」を切り落とせば、彼らは、その人を殺し、市門にさらす(61頁)、§228大工が家を建て、完成させれば、家1ムシャル(36u)につき銀2シキルを「彼の贈物」として与えなければならない(61頁)、§229大工が家を建てたが、「万全を期さなかった」ので、「家が倒壊し家の所有者を死なせたなら」、大工は死刑とする(61頁)、§230この家倒壊で「家の所有者の息子」を死なせれば、彼らは「その大工の息子を殺さなければならない」(62頁)、§231この家倒壊で「家の所有者の奴隷」を死なせれば、大工は「同等の奴隷」を与えなければならない(62頁)、§232この家倒壊で「財産(家財道具)」を毀損したら、大工は「償わなければなら」ず、大工は、「彼自身の財産で倒壊した家を建て直さなければならない」(62頁)、§233大工が「仕事を慎重に行わず」、「壁が曲がれば」、大工は「自費でその壁を強化しなければならない」(62頁)とした。

 居酒屋の経営者たる女主人につては、§108居酒屋の女主人が、代価銀を大きな分銅でうけとったり、ビール量を少なくしたりして、ビールの値段を不当に釣り上げた場合、客は女主人の方法行為を立証し、立証すれば、彼女を「水に投げ込む」(31ー2頁)、§109居酒屋で無法者が謀議し、女主人が無法者を王宮に連行しなかった場合、死刑とする(32頁)、§110「尼僧院に居住しないウグバブトムでもあるナディートゥム修道女」が、居酒屋を開いたり、居酒屋に入れば、焼き殺す(32頁)、§111居酒屋の女主人がビール1ーフ(容器)を掛け売りした場合、収穫時に5スート(約50?)の大麦を受け取る(32頁)などとした。

 各種職人の賃料について、§272荷車の賃借料は、1日につき大麦4スート(約40g)(69頁)、§273賃労働者には、最初半年(1−5月)は1日銀6粒(0,28g)、次の半年は1日銀5粒与える(69頁)、§274日当賃料は、職人は銀5粒、織物人は銀5粒、リネン職人は銀(不明)、印章彫刻師は銀(不明)、弓矢職人は銀(不明)、細工師は銀(不明)、大工職人は銀4粒、皮細工は銀(不明)、革細工師は銀(不明)、葦細工師は銀(不明)、建築師は銀(不明)(69頁)、§275、(不明)の1日当たり雇用料は銀3粒(69頁)とした。


 E)権力に関わる条項としては、兵士の規定があるのみである。官僚・軍人・書記については服務内規があったであろうが、それらは国内民衆・諸王に公言するようなことではなかったのであろう。肝腎な国家転覆の防止については、前述の様に後書きで神々の処罰事項として定めていたから、判例集などでさだめることはなかったし、そういうことを想定することはありえなかったのであろう。

 各地で兵役忌避などがおこれば、権力の存続にも関わるので、これについては、§26「王の遠征」随行を命じられたレードゥーム兵士(家畜を追う者、護送・連行する兵、憲兵)、バーイルム兵士(鳥獣を捕える者)が忌避したり、傭兵を差し出せば、死刑とする、§33遠征に加わらなかった中隊長、小隊長は死刑にすると、厳罰をもって対処した。また、§34レードゥーム兵士の家財道具を横領したり、虐待した中隊長、小隊長は死刑にすると、軍幹部の規律を厳しく定めた。

 当時、バビロニアでは、兵役義務(イルクム義務)者には権力から反対給付としてイルクム地(耕地。果樹園)を与えられていた。そこで、兵役義務と国家支給の土地殿関係について、§27捕虜となったレードゥーム兵士、バーイルム兵士の「耕地と果樹園」は「別の人」にあたえ、釈放されれば、返還する、§28捕虜となったレードゥーム兵士、バーイルム兵士に息子がいて、「イルクム義務」をはたせるならば、耕地・果樹園は彼に与える(15頁)、§29息子が幼くてイルクム義務をはたせなければ、「耕地と果樹園の3分の1が彼の母親に与えられなければならない」、§30レードゥーム兵士、バーイルム兵士がイルクム義務に耐えられず逃亡し、別の人が3年間耕地・果樹園・家を保有し、イルクム義務を果たせば、その継続保有を認める(16頁)、§31逃亡兵士が1年間で戻れば、耕地・果樹園・家を戻す、§32商人が捕虜兵士を請け出せば、順に「彼の家」、「彼の市の神殿」、「王宮」が「請出すもの」をあたえ、「彼の耕地、彼の果樹園および彼の家は、彼の請け出し資金の代わりに与えられてはならない」、§36レードゥーム兵士、バーイルム兵士あるいは後方支援義務(ビルトゥム義務)者の「耕地、果樹園、家」は売却を禁止する(17頁)、§38レードゥーム兵士、バーイルム兵士あるいは後方支援義務(ビルトゥム義務)者は、「イルクム義務の付随する耕地、果樹園あるいは家」を妻・娘に名義変更できないし、債務弁済に充当できない(18頁)、§39「買い受けて手に入れる耕地、果樹園あるいは家」は、妻・娘に名義変更できるし、債務弁済に充当できると、詳細にこの取り扱いが定められた。



 以上、ハンムラビ法典の考察によって、我々は、富の登場と増加で生じた諸問題に対して、まず権力は神々によって自らの統治の正当化をはかり、次いで法によって富の生産・流通・分配の利害調整を図って秩序を維持し、正義と公正を実現しようとしていることを確認した。これこそが、「富と権力」システム下での法の基本的的役割なのである。こうして、我々は、国家形態が議会制民主主義にかわり、権力正当化の根拠が神々から議会(民意)にかわり、富の増殖方式が資本制に変わり、法が憲法、民法、商法、刑法などに分化し、人権を尊重し始めたとしても、「富と権力」システム下の法の基本的性格にかわりはないことを把握することができるのである。ハンムラビ法典の画期的重要性は、いつにこの点にあるのである。


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                                    § 戦争論 §

 人間は自然社会から生きるために殺しあってきたが、「富と権力」システムのもとでは、戦争の規模と悲惨さは著しいものとなった。この点を古代三大戦争(トロイエ戦争・ペルシア戦争・ペロポネソス戦争)に探ってみよう。
 

                                   一 トロイエ戦争
 ホメロス(英語ではホーマー)の『イリアス』(田中秀央訳[『世界文学大系』1、河出書房新社、昭和55年などから、トロイエ戦争を考察し、さらにホメロス叙事詩の帝国主義的性格を見ておこう。

 1、まず、トロイエ戦争は、単なる神話上のフィクションではなく、当時語り継がれてきたギリシァ国家の存亡に関わる関わる大戦争だった。トロイエには9層の遺跡が重なっているが、トロイエ戦争は第7層A(紀元前1300−1100年)のミケーネ文明の末期に起こったことが確認されており、故にトロイエ戦争はホメロスらの生きた時代から4−500年前に実際に起こったのであり、神話『イリアス』は事実の上に築かれたものである。
 
 前8世紀に始まる「大植民活動の先触れ」として、前11世紀頃に「小アジア西岸」にギリシァ植民地が建設された(岡田泰生『東地中海のなかの古代ギリシァ』山川出版社、2008年、34頁)。神話はそこを舞台とし、トロイエ王家の祖ダルダノスは、エレクトラ(プレイアデス[アトラスとプレイオネの七人の娘]の1人)とゼウスの息子であり、サモトラケ島からテウクロス(ニュンペーのイダイア(妖精)の子)が王として治めていたイリオスのある地域にやってきた。ダルダノスはテウクロスの客となり、彼の娘バティエイアと領地の一部をもらい、彼はそこにダルダノスという都市を築き、ダルダノスの後はエリクトニオス、トロスと王位を継承し、トロスの時に、自分の名にちなんでダルダニアの地をトロイエと呼んだのである。ギリシァ本土から海を隔てたこの地もまた、ゼウスの子孫が統治していたのである(アポロドーロス『ギリシァ神話』岩波文庫、2003年、151−2頁)。

 プリアモス王の頃、トロイエが肥沃である上に、「海峡を通る商人たちから通行税を取り立て」たりして、トロイエは、「マカルの王宮のあるレズボスと、山のかなたのブリュギエと、果てしないヘレスポントス海とが囲む地方」で最も豊かになった(『イリアス』(田中秀央訳[『世界文学大系』1、河出書房新社、昭和55年、123頁)。プリアモスは、「トロイア側のすべての諸侯の頭」となった(永江良一訳『トロイア物語:都市の略奪者ユリシーズ』Andrew Lang : Tales of Troy :Ulysses The Sacker of Cities[プロジェクト杉田玄白参加翻訳テキスト])。ここに、ギリシァ本土の王アガメムノンらが、通行税などを賦課する植民地側と、覇権をめぐって対立したのであろう。

 ギリシァ本土側の軍事力は、多くの都市国家の連合軍であった。ペロポネソス半島のボイオティア地方アウリスの港にアカイア勢(ギリシア方)の軍船1000隻(今のギリシア本土とペロポネソス半島全域、クレタ、ロードスといった東南の島々からも駆けつけた約30国のギリシア諸国連合軍、総勢10万人)が集結した。一方、トロイエ軍事力はトロイエ、リュキエ、トラケ、ダルダノイなどの「寄合勢」(『イリアス』[田中秀央訳、34頁])であった。

 いわば、ここに、ギリシァ本土とギリシァ植民地とが、ゼウスらギリシァ諸神の見守る中で武力決着をはかったのであろう。この権力者にとっての「国運」をかけた戦争を神々をからませて、悲哀をおりまぜながら、民衆うけするように書き上げたものが『イリアス』であった。

 2、だから、『イリアス』では、トロイエ戦争は、ゼウス神を信仰する同じギリシァ民族間の戦争であり、ゼウスら神々が戦争の行方に関わるものとして描かれている。

 ここでは、トロイエ戦争勃発の「神話」的事情は語れていないが、アポロドーロス『ギリシァ神話』(岩波文庫、2003年、181頁)によると、ゼウスはトロイエ王子アレクサンドロスに、妻ヘラとアフロデティとアテナイのうちから、美人を選ぶように命じた事が発端である。アレクサンドロスは、ヘラからは「全人類の王」にするとされ、アテナからは「戦における勝利」を約され、アプロディテーからはギリシァ一の美人・スパルタ王女ヘレネとの結婚を提示された。アレキサンドロスは、アフロデティを選んだために、スパルタに赴き、ヘレネーに出奔を説き伏せ、フェニキア・キュプロス・エジプトを経由してトロイエに赴いた。アガメムノンは、これを「ギリシァに対する侮辱」として、トロイエ出征が決定された。

 ゼウスは原則中立であったが、なりゆきでトロイエ側についた。だから、ゼウスは、アカイエ側のアガメムノンについては、「ゼウス神に育てられた君主たちのうちで、おまえはわたしには最も厭わしい者だ。なぜっておまえは、口論、戦争、戦闘が四六時中好きときているからだ」(7頁)とする。

 その他神々の一部は、ギリシァ本土(アカイエ、、アルゴス、ダナオイなどと称された)とトロイエ側に分れた。アカイエ側には、ヘラ、アテネ、ポセイドン、へパイストスが味方(117頁)した。女神アテネは、アルゴス(ギリシァ本土)人の名声を得るために、ディオメデス(ペロポネス半島のティーリュンスの領主)に「力量と勇気とを授けた」(35頁)りした。

 他方、トロイエ側には、軍神アレス、銀弓神アポロン、その妹アルテミス、アプロディテ、河神クサントスらが味方した(117頁)。そして、トロイエもまた、「ゼウスの思し召しに従おう。われわれの祖国のために戦うこと、これが最善の予兆だ」(ヘクトル、85頁)と、ゼウスを信仰した。

 こうした神々の両軍加担で、神々が戦場で武将の生死を左右し、戦況はめまぐるしく推移する。『イリアス』の巻別に戦況推移を要約すると、@アカイエの英雄ディオメデスは、アテナに支援されて、トロイエの武将アイネイアスを殺そうとし、アプロディテ・アポロン・アレス神と戦い、アプロディテを負傷させ(5巻)、Aだが、ゼウスはトロイエに加担し、アテネ、ヘラはアカイア軍を引き立てるが、トロイエが優勢となり(6−12巻)、Bやがて、ポセイドン、ヘラらが劣勢のアカイエ軍を激励支援し続けたことで、トロイエは劣勢となり(13、14巻)、Cそこで、ゼウスはトロイエ支援のためにポセイドンを戦争から排除し、ヘクトルを助勢し、アキレウスの戦友パトロクスを殺害し(15−17巻)、Dここに、ヘラがアキレウスを鼓舞し、アカイアが優勢となり、トロイエは劣勢となり、ゼウスはトロイエ英雄ヘクトル死亡を決断し、ヘクトルが殺害されると、憐れな父プリアモスが「救援の神」ヘルメイアスに導かれつつ苦難のすえにヘクトル葬式をあげたのであった(18−24巻)。

 こうして、神々は、人間の権力闘争に巻き込まれてしまったことについて、ディオネは、「われわれオリュンポスの宮殿に住んでいる神々のうち多くのものが、人間のために、互いに残酷な禍いをかけ合って苦しんで来たのです」(45頁)とする。また、「工匠へパイストス」(ゼウスとヘラの長男)はヘラに、「もしもあなた方二柱の神(ゼウスとヘレ)が、人間どものために、そんなに争い、神々の間に葛藤を引き起こすようなことになれば、これは、誠に由々しき騒動になり、さらに堪え難いものとなりましょう」(19頁)とした。

 逆に、権力者に言わせれば、神々の方こそ戦争をそそのかしたとする。例えば、トロイア王プリアモスは、ヘレネに「おまえが悪いとは思っていない」とし、「アカイア人たちとのいたましい戦争をわたしの上にもたらした神々こそ悪いのだ」(25頁)とする。

 3、こうした神々と権力者の絡みあった戦いにおいて注目すべきことは、権力者の多くがゼウスの末裔であるということである。つまり、@勇将アキレウスは、父ペレウス(プテイーア王=人間。「ゼウスの末裔」[16頁])、母「海の女神テティス」(父はネレウス[海と大地ガイアの息子]、母は女神ドリス)との息子であり、A「英雄」・「人民の王」(7頁)アガメムノンの場合、曽祖父はタンタロス(父はクロノス[ウーラノスとガイアの息子でティタンの末弟]、母はレアの娘プルートー。ゼウスの兄弟)、祖父はクロノス[ウーラノスとガイアの息子でティタンの末弟]、祖母はレアの娘プルートー。ゼウスの兄弟)、父はギリシァ軍総大将アトレウスであり、Bトロイエ王プリアモスは、ダルダノス(エーレクトラーとゼウスの息子)の子孫(138頁)であり、子福者で、正妻の子は17人(長男へクトル[英雄]、次男アレキサンドロス(パリス)。ヘレネ(実父はゼウス)の夫)、その他含めて50人余の子(リュカオン、エケムモン、クロミオスなど)がおり(135頁)、Cアカイエ・トロイエ両軍が戦いに疲弊した時、サルペドン(ゼウスの子、「リュキエ人の隊長」、トロイエ側)とトレポレモス(ヘラクレス[ゼウスとアルクメーネーの子]の子)という「ゼウス大神の息子と孫」(52頁)とが対峙することになったりした。

 こうして、ゼウスの末裔らが、覇権をめぐって争ったのである。Dの場合、互いに槍を投げあい、サルペドンはトレポレモスの頸を刺し、トレポレモスはサルペドンの大腿を刺したが、ゼウスがサルペドンの「死滅」を防いだのであった(52頁)。

 4、本書では、神々も権力者もほとんど民衆を考慮してはいなかったが、だからといって、民衆的配慮が全くないわけではない。例えば、アガメムノンは、「おれは(クリュセイスの方を)おれの娶った妻クリュタイメスよりも好きなんだ」が、「民衆がつつがなくある」ならば、「あの娘を返しもしよう」、「(その代わり)諸君はただちに戦利品をわたしのために用意してもらいたい」(5頁)として、民衆的配慮をしている。だが、民衆を考慮した決断はこれだけである。

 その他は、アキレウスはアガメムノンの侮辱に怒りを静めることはできず、アガメムノンを「酒乱の男」、「民衆を食い物にする王」(9頁)と毒づいたり、アイネイアス(母は女神アプロディテ)はトロイエの「民衆の王」(44頁)と称されるとあるぐらいである。権力者には、反民衆的なものと、民衆的なものとがいるというのであるが、民衆的王についての掘り下げは一切ない。

 また、ホメロスは、ゼウスは「神々と人間の父」(18頁)としていて、ゼウスは民衆の父でもあるとしているが、ここではそういう民衆的な側面は現れてこない。ゼウスのもとには、「災禍の贈物」と「祝福の贈物」という「二つの壷」があり、人間の禍福はこれに左右されるとした程度である(136頁)。ゼウスと民衆とのかかわりは、このホメロス『イリアス』ではなくて、次述のごとくヘシオドス『神統記』、『仕事と日』で展開されたのである。

 5、このように、『イリアス』は、ゼウスを中心とする神々と権力者の権力闘争との絡み合いを取りあげたものであり、ゆえにこそアリストテレスがアレキサンドロスの帝王教育として『イリアス』を教え、後にこれが同大王の愛読書の一つになったのである。
 
 アレキサンドロスの家庭教育とは、兵法については父フィリッポス2世、リシマコス将軍から学び、哲学、弁論術、医学、博物学、科学、倫理学、文学、地理天文などはアリストテレスから学ぶというものだった。そして、アリストテスの文芸講義は「アレクサンドロスをしてホメロスの英雄へ傾倒せしめ、彼の世界制覇の巨大な情念を燃焼せるに与かって力あ」ったようであり、「アレクサンドロスのうちにあったやみがたき大望と情念とが彼を駆ってアリストテレスの考えていた限られた世界の統合という理念を乗り超えさせたというべき」(川田殖氏編『アリストテレス』世界の思想家2、平凡社、昭和52年、12頁)だったといわれる。重要なことは、アリストテレスが、『イリアス』などを教材にして、王家に生れた王子の義務として、アジア支配の正当性などをアレキサンドロスに教え込んだということであろう。

 アリストテレスの著作を読むと、アリストテレスが、アジア・東方侵略を当然としていて、ギリシア帝国主義者であることが鮮明になるのである。アリストテレスはアレキサンドロス王子に、こうした帝王教育を施したのであろう。アリステレスは、従来の主人的支配=奴隷制を認め、ギリシア人のアジア支配を容認して、マケドニアの東方遠征・支配を肯定する考えをアレクサンダーに教え込んだと思われる。

 例えば、『王たることについて』(『アリストテレス全集』17、岩波書店、1977年)という作品は、マケドニアのアレクサンドロス大王の、王たることについての質問や、植民地は如何に建設すべきであるかについての質問に応えて、アリストテレスが書いたものと同じようなもの」(607頁)であり、「アリストレスは、アレクサンドロス大王に、王たることについてもまた、一巻の書物を書き、如何に統治すべきであるかを彼に教えている」(607頁)のである。

 アリストテレス、アレキサンドロスは、ペルシァ戦争の危機に直面して、トロイエ戦争をゼウスを信仰しあうギリシァ民族間の戦争としてではなく、ギリシァ対アジアの戦争と見て、ギリシァのアジア侵略を「美化」「鼓舞」し始めたようなのである。従って、紀元前1世紀頃のアポロドートス『ギリシァ神話』(岩波文庫、2003年、181頁)では、トロイエ戦争の原因として、「ヨーロッパとアジアが戦いに入って、自分の娘が有名になるようにというゼウスの意によっている」などと記されている。


                                 二 ペルシア戦争

 人間が最初に記した戦争史はホメロスがトロイエ戦争を題材にした『イリアス』であろうが、それは上述の通り、権力者が神々とともに戦争を行い、権力者の戦争を鼓舞するようなものであった。その意味では、事実・見聞などに基づきペルシァ戦争についてヘロドトスが記述した『ヒストリエ』は、最初の本格的な戦争史である。ヘロドトスは、欧米では「歴史の父」と称されており、ゆえに彼の記した史上初めての本格的戦史『ヒストリエ』(松平千秋訳『歴史』[『世界の名著』5、中央公論社、昭和51年])において、我々の問題提起即ち「なぜ人間は戦争をするか」が考察されているか否かなどを吟味することは非常に興味深いこととなる。

 、まず、ヘロドトスの問題意識と方法から探ってみよう。
 ヘロドトスは、自らの誕生・成長・晩年の過程(前485年頃 - 前420年頃)で勃発したペルシァ戦争(前492年ー前450年)を「ギリシァ人や異民族の果した偉大な驚嘆すべき事蹟の数々ーとりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情」について、「やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、みずから研究調査したところを書き述べた」(67頁)のである。恐らくトロイエ戦争について、ホメロス叙事詩や断片的な語り継がれてきたことなどがある程度であって、ヘロドトスに生きた時代にはなぜトロイエ戦争が起ったのかについては、ほとんどわからなくなってきたということもあったかもしれない。或いは、ホメロスは「トロイア戦争よりもはるかに後世(ホメロスらの生きた時代から4−500年前ー筆者)の人」(トゥキュディデス『戦史』[久保正彰訳、『世界の名著』5、中央公論社、昭和51年、318頁])であり、故に長い年月が経つと、事実探究や見聞聴取も不可能となって、『イリアス』の如く詩的想像が強くなって、詳細な史実に基づいて叙述できなくなることに気づいていたのかもしれない。

 ヘロドトスは、ペルシァ戦争の原因については、戦場となった現地などを調査し、体験者・目撃者・関係者らに聞き書きして、言い伝えなどをも含めて事実を広く探究して記したのである。さらに、彼は、現在のみならず、ペルシァ側とギリシァ側の対立の淵源を過去に遡って考察しており、故に過去も必要な限りで見聞などに基づき探究していた。後の人々が、『ヒストリエ』を『歴史』と受け止めてゆく所以である。こうした実証的態度は、ホメロスが、『イリアス』で、神々と権力者との絡み合いでトロイエ戦争を詩歌で表現したのとは大きく異なり、基本的に権力者がいかに戦争を決定し、遂行したかを中心にすえてペルシァ戦争の淵源・原因・展開を解き明かし、神々などはその限りで扱われるということに留めたのである。

 だが、民衆がこの戦争でいかに苦しんだかという視点はここでも欠落していた。戦争に動員され重い負担に苦しんだ一般兵は農民・漁民だったはずであり、業火に苛まれて生活を破壊されたのも農民・漁民だったはずであるが、「歴史の父」と称されるヘロドトスはこの民衆が戦争に苦しむ観点を欠落させていたのである。戦史には、「偉大な驚嘆すべき事蹟」などだけではないにもかかわらず、民衆の蒙った惨害については叙述されることはなかったのである。

 それでも、ヘロドトスが、「権力と富」のシステムのもとでの史上最初の大規模国家間戦争について、開戦に至る権力者の判断を初めて明確に示したことは、極めて貴重であり画期的だといわねばならない。彼は、初めて「なぜ人間は戦争をするか」を考察し記録したのである。彼は、ペルシァの権力者が開戦を決意した理由として、国威発揚、国富増大、報復の大義名分のもとに、「やるかやられるか」という瀬戸際に直面していたことを初めて明らかにしたのである。

 一方、ギリシァ側については、ギリシァ側が、自由の危機、ギリシァの危機として、諸都市国家に団結を呼びかけ、「これに負ければ、ギリシァは隷従身分になる」と危機感を強調して立ち上がることなどが触れられる。ギリシアにとっても、「やるかやられるか」という切迫した事態にまで追い込まれていたのである。ただし、ここでは、ペルシァ戦争について、自由を脅かすアジア専制権力ペルシァと自由・独立を守るギリシァ都市国家連合との対決として描かれ、これに打ち勝った西洋のギリシァ側が美化される。ヘロドトスは、アテナイ人は「ギリシァの自由を保全」し、ペルシァ王を撃退したと高く評価したのである。ヘロドトスは、アテナイ、ギリシァ、ヨーロッパ優越史観に立脚していたのである。

 しかし、ペルシァ戦争以前にも大小様々な戦争が行なわれたが、その開戦理由を事実に基づいて本格的に記したものはなかったのであり、これについてのヘロドトスの業績は十分に評価されなければならない。ここでヘロドトスが明らかにした、国家が開戦に踏み切る理由とは、直接的誘因は各時代に応じて多様であろうが、究極的には「やるか、やられるか」という切実な事態、動物の生命防衛本能の発動を余儀なくされる事態にまで追い詰められたからだということであり、これは、「祖国の興廃はこの一戦にあり」などとして各戦闘場面でも絶えず繰り返されたのである。そして、これは、現代にいたるまで国家が開戦に踏み切る上でほぼ共通的理由となっているのである。「富と権力」のシステムのもとでは、こうした国家間戦争は構造的に避けがたいのであり、何度も何度も国家間戦争が繰り返されることになるのである。例えば、近現代の日米戦争などもそうだ。日露戦争以後、中国利権をめぐって、日米両国は「対立状態」に突入し、アメリカが海軍力で日本海軍力には負けないという状況になると、アメリカは資源などで日本を締め上げ、日本側を「やるか、やられるか」という切迫状況に追い込み、開戦させていったのである(詳しくは、拙著『日本外債史論』、拙著『国際財政金融家 高橋是清』を参照)。

 こうした権力者の国家間戦争の開戦阻止の原動力は、民衆である。時には愚かだが、基本的には平和志向の民衆こそが、こうした愚かな国家間戦争を抑止するのである。戦争を抑止する真の力は、核兵器でも先進武器ではないのである。「富と権力」のシステムのもとでの国家間戦争を阻止する原動力は、権力者や政治家・官僚の思い上がった「専門」的判断でも、軍事的威嚇でもなく、国境を越えた、平和志向でごく普通の生活感覚をもった民衆の連帯なのである。世界の民衆が連帯するシステム(第二次世界戦の秩序の基づく古臭い、権力者中心の国政連合にとってかわる、世界の民衆中心の国際民衆連合のごときもの)を構築すること、これこそが重要なのである。

 、本書の構成について見ると、巻一ではペルシァ側とギリシァ側の対立の淵源が考察され、キュロス王がいかにアジアの支配者になったかが探究され、巻二ではカンピュセスの統治、巻三・四・五ではダレイオス1世の統治期における「ペルシァとギリシァの対立」が取りあげられ、巻六から巻九まででペルシャ戦争が記述されている。

 まず、巻一から要点を指摘すると、@「ペルシァ側の学者の説では、争いの因を成したのはフェニキア人であった」(67頁)として、フェニキア人がエジプト、アッシリア、アルゴス(ギリシァの強大国)との外国貿易に従事する時、アルゴスで「イナコスの娘イオ」王女らを拉致してエジプトに向かったこと(67頁)をきっかけに、ギリシァ人も「数々の暴挙」(フェニキアのチェロスの王女エウロペ、コルキス地方の王女メデイアを拉致)を行なったので、コルキス王はギリシアに王女返還・賠償を求めたが、アルゴス王女拉致の例を挙げて、返還・賠償を求めたこと、A「次の世代」では、「プリアモスの子アレキサンドロスが、右の話を知って、ギリシァ人も補償しなかったのだから、自分もせずにすむだろうと考えたのであろうか、ギリシァから自分の妻たるべき女を掠奪してこようと思い立」(68頁)ち、ギリシァ側は返還・賠償を求めたが、アレクサンドロス側は「メディア掠奪の先例を楯」にこれを非難したので、ギリシァ側は、「大軍を集め、アジアに進攻してプリアモスの国を滅ぼし」たことから、「以後はギリシァ人の側に大いに罪があることにな」り、ペルシァは「ギリシァを自分らの敵であると考えている」(67ー8頁)とし始めたとされる。ペルシァ人には、このギリシァのイリオス(トロイエ)攻略が原因となって、「ギリシア人に対する敵意」(68頁)が生じたとする。ここでは、トロイエ戦争がギリシァとアジアの戦争(後に再術)と見て、ペルシァのギリシァへの敵意の淵源としたことが注目される。

 次いで、リュディア国(前7世紀から8世紀にアナトリアにさかえた王国、首都はサルディス)王のクロイソス(前595年ー前547年頃)が取りあげられ、@「このクロイソスが、・・ギリシァ人をあるいは征服して朝貢を強い、あるいはこれと友好関係を結んだ、最初の非ギリシァ人(バルバロス)」(68頁)であり、「殷賑の頂点」(74頁)に達し、Aアテナイのソロン(前639年頃ー前559年頃)が訪問して、クロイソスはソロンに「そなたは世界一しあわせな人間であったか」と訊ねた所(74頁)、ソロンが、一番目は「アテナイのテロス」、二番目に「クレオビスとビトンの兄弟」だとして、クロイソスをあげなかったので、クロイソスはその理由を尋ねると、ソロンは、クロイソスが「莫大な富」をもち「多数の民」を統治しているが、「万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日暮しの者より幸福であるとは決して申せ」(76頁)ないとし、富と幸福の関連について、ソロンは、「腐るほど金があても不幸な者もたくさんおれば、富はなくても良き運に恵まれる者もたくさんおります」(76頁)とし、B「ペルシァの国勢が日に日に増大」すると、クロイソスの脅威となり、「ペルシァが強大になる前に・・勢力を抑え」ようとし(77頁)、クロイソスは、ギリシァの神託所に使者を送り(77頁)、「リビュアではアンモン(エジプトの神)のもとへ別の者を派遣」(78頁)して、現在の自分についての神託を求めた所、デルポイの神託が正しいとして、具体的に「ペルシァ征伐について神託を伺った」所、ペルシァ帝国を滅ぼすこと、ギリシァ最強国を同盟国にすることなどとされ(78頁)、C、当時のギリシァ強大国アテナイ、スパルタのうち、アテナイは、「非ギリシァ系」のベラスゴイ民族の一部であり、「ベラスゴイ人は、どの部族も強大になった例はないこと」、「僭主であったペイシストラトスの治下にあって、内に苦しみ分裂していること」などを知り、一方、「ラケダイモン(スパルタ)のほうは、非常な苦難を切り抜けたところで、今やテゲアをも制圧せんとする勢いにあること」を知り、スパルタと同盟することにし(88頁)、Dしかし、前547年、ペルシァのキュロス大王(前600年頃ー前529年)に敗れ征圧され、キュロスが、クロイソスノの火刑を免じ、ペルシァとの開戦を仕向けたのは何ものかと訊ねると、「私に出兵を促した」のは「ギリシァの神の仕業」(91頁)とし、Eクロイソスは仕えることになったキュロスに、リュディアの首都で掠奪し財宝を運び去るペルシァ兵に、「ゼウスに十分の一のお供えをせねばならぬ」(91頁)と言い渡せと助言し、Fデルポイに使いを立て、「ギリシァの神」を「どの神よりも一番に崇敬しておった」のに、なぜペルシァ戦争をそそのかしたのかを責めた所(92頁)、デルポイの巫女は、「クロイソスは4代前の先祖の罪」(主君を殺したギュゲスの罪)をあがなわされたこと、それでも「宿命の女神」のおかげで「サルディスの陥落」を3年遅らせ火あぶりのクロイソスを救ったこと、「クロイソスがペルシァに出兵いたせば、大帝国を滅ぼすとのみ予言された」ことなどと告げたので(93頁)、クロイソスは、「あやまちの責めは自分にあり、神にはないことを悟」(94頁)ったことなどが述べられる。Aで展開された議論は、今でも繰り返される「富と幸福」の原理的論点であり、Bはリュディアがペルシアに「やられる」前に開戦を決意し始めたことが簡単に指摘されていて、注目すべきである。

 こうして「キュロスはクロイソスを征服することによって全アジアの支配者とな」(96頁)り、ここにアケメネス朝ペルシァが築かれた。そして、キュロスは「大陸をことごとく自分の支配下に収めると、今度はアッシリアの攻撃に向か」(101頁)い、さらに「アテナイを除いてイオニア(アナトリア半島南西部)の全土を平定」し「ペルシァの朝貢国」(クセルクセス1世の叔父アルタバノス言[250頁])とした。だが、キュロスは、バビロン攻略後のマッサゲタイ攻略戦で戦死した。

 巻二では、キュロスの後を継いだカンピュセス(在位前539−前550年頃)が、「イオニア人およびアイオリス人を父からゆずられた奴隷のごとく見なしていた」(114頁)事が触れられる。この隷従ギリシァ人もエイプト遠征軍に加えられた。ここで、ヘロドトスはエジプトについて、プサンメティコス王(在位は前663−609年、第26王朝の祖)の「実験」(エジプト人が最古の民族であるか否かについての)、エジプト人最初の発明(暦、12神の呼称、初代の人間王)、地勢、健康法、旧慣墨守の習性、年長者尊敬の慣習、服装、予兆・占い、医術、葬儀、ミイラ加工法、河川魚の生態、蚊の対策、貨物運搬船、エジプト氾濫時の運行、ケオプス王(第四王朝)の圧制とピラミッド建造への国民苦役、次のミュケリノス王の善政と彼の不幸、次のアシュキス王のミイラ担保金融やレンガ・ピラミッドの建設などが述べられる。これは、ペルシァのエジプト侵略前の前史のつもりであろうが、枝葉末節的叙述が多い。エジプトで、祭司などから聞き書きする過程で多くの「逸話」的収穫があったので、これを付加したのであろうが、本論から見れば、ほとんど関係ない部分であり、省略すべき部分であったろう。

 巻三では、興味深いダレイオスの即位過程が明かされる。まず、ペルシァ王カンピュセスが外征(エジプト、アンモンを攻略したが、カルタゴ、エチオピア征圧は失敗[135頁])し、その帰途、怪我で死期を悟って、「王位はアカイメネ家が継ぎ、祖母方のメディア家(97頁)に継がせてはならぬ」と遺言したことが触れられる(139頁)。 このカンビュセスの死後、一時期マゴス僧がペルシァを謀略で支配してきたが、7人のペルシァ要人がこれを打倒し、今後の国家運営について国制会議を開催した。ここでは、実に注目すべき国制論が展開される。オタネスは、独裁制は「秩序ある国制」ではないと批判し、「万事は多数者にかかっているから」、「大衆の主権を確立すべし」と主張したのである(148頁)。これに対して、メガビュゾスは、「なんの用にも立たぬ大衆ほど愚劣でしかも横着なものはない」として、「最も優れた政策が最も優れた人間によって行なわれることは当然の理なのだ」とし、「国事を少数者の統治(寡頭政治)にゆだねるべき」(148頁)だと主張した。一方、ダレイオスは、寡頭政治の弊害(指導者間に「敵対関係が生じやすい」)、民主政の弊害(「公共のことに悪がはにこる」)をあげて、「最も優れたただ一人の人物による統治」が最善だと主張した(148−9頁)。結局、7人中4人が最後の独裁制に賛成し、従来の国制がそんぞくすることになった。ギリシァの影響であろうが、ギリシァの都市国家においてのみならず、専制国家ペルシァですら民主政が議論されていたことは興味深いことである。

 オタネスは辞退したので、6人のうちから「最も公正な仕方」(「一同騎乗して城外に遠乗りをし、日の出とともに最初にいなないた馬の主が王位がつく」)で国王を選定することになり、ダレイオスは、馬丁の画策で自分の騎乗した馬に最初にいななかせることに成功して、王位についた。即位すると、ダレイオスは、版図を20行政区に分け、各区に総督を任命し、納税額を定めた(152頁)。当時、アジアの東端はインドであり、まだ中国は知られていなかった。南方では、人類の住む最末端はアラビア」(155頁)であり、「子午線が西に傾いている方角では、エチオピアが人の住む世界の涯になる」(158頁)とされていた。やがて、ペルシァ人の通念では、「アジア全土はペルシァ領であり、歴代の王の領土である」(巻九、312頁)とされてゆく。ここに、このダレイオスはサモス攻略・バビロン攻略の外征に着手した。

 巻四では、ダレイオスのスキュタイ(ウクライナ南部)遠征と撤退が触れられ(174頁)、スキュタイについて、神々(スキタイが祀る神として最も重んずるのがヘスティア[かまどの神]で、ついでゼウスとゲー[地の神]、さらにアポロン、ウラニア・アプロディテ[天上のアプロディテ]、ヘラクレス、アレスがある。これらは「スキタイ全民族が祀る神」であるが、「王族スキタイはさらにポセイドン[海の神]にも犠牲を供え」る)、肉の煮方、神への生贄、戦争の慣習、首級の扱い、行政区(三つの王国ー各区ごとに長官[169頁])、占い法(169頁)、占い師の死刑、誓約法、王陵(殉死者が多いこと[171頁])、衣類、旧慣墨守(「スキュタイ人も外国の風習を入れることを極度に嫌」い、「ことにギリシァの風習を嫌う」[175頁])、スパルタ依存(スキュタイ王がアナカルシスを「ギリシァの文物を学ぶために派遣」したが、アナカルシスは、「ギリシァ人はラケダイモン人以外はみなあらゆる学芸に余念なく専心しているが、まともな話のやりとりのできるのはラケダイモン人のもである」[17頁])などが述べられる。このスキュタイについても、本論とは無関係な部分が少なくない。

 巻五では、@メガバゾス(ダレイオスからヨーロッパ駐留を命じられた)は、ぺリントス、トラキアを攻略し、マケドニアを従属させようとして、頓挫し(176頁)、Aミレトスの僭主アリスタゴラス(ミレトス[現在のトルコの南西部]の僣主代行をペルシア帝国から委任されていたが、ナスソス島反乱で追われてきた富裕層から兵力提供を申し込まれ、時のペルシア王ダレイオス1世の許可を得て、ナクソス島に派兵するが、遠征に失敗し、ここにペルシア帝国の責任追及を恐れて、ペルシア帝国に反乱を起こす)はスパルタ王クレオメネスに、同じギリシァ人として、ペルシァ隷従からの解放を嘆願し(188頁)、ペルシアと開戦して、「アジア全土を支配」し「ゼウスとでもその富を競う」ことを提案したが(189頁)、クレオメネスは、イオニア海岸からペルシァ大王まで進軍するのに3カ月かかることを知って、これを断り(190頁)、Bアルクメオン一族は、アテナイの僭主ヒッピアス(ペイシストラトス一族)を失脚させるべくスパルタを味方に引き入れて、奏功するが(192頁)、スパルタは、アテナイが「日に日に強大」となると、これに危機感を覚え、同盟諸国やヒッピアスを召集して、ヒッピアスのアテナイ復帰を画策する(193頁)が、同盟諸国の多くはこれに反対し、Cヒッピアスは、アテナイを「自分およびダレイオス王」の支配下におくために、策謀をめぐらしたのであった(199頁)。アテナイは、ペルシァ側に使者を送り、ヒッピアスを牽制するが、ペルシァ側は、あくまでヒッピアス復帰を要求した。アテナイはこれを拒絶し、「公然とペルシァに敵対する決意」を表明した(200頁)。Aでは、スパルタに対ペルシァ開戦を提唱するに際して、ペルシァの富が戦争の利益に据えられていることが注目される。

 そして、ギリシァとペルシァにとっての「不幸な事件の発端」としてイオニア事件が語られる。アリスタゴラス(ミレトス[イオニアの中心]僭主)は、アテナイに来て、「アジアの資源の豊富なこと」や「対ペルシァ戦術」の要諦を説き、かつ「ミレトスはアテナイの植民地」だからアテナイ保護は当然として、ペルシァ開戦を提唱した。ここでも、アテナイに対ペルシァ戦争を促す理由として、アジア=ペルシァの富が据えられている。アテナイは同意し、20隻の軍船を派遣した(200頁)。これに乗じて、イオニア軍はサルディス(元リディア王国の首都)を占領し、町を炎上させ、「土地の氏神キュぺぺ(アジアで崇拝された大母神)の神殿」も焼失させた(203頁)。しかし、ペルシァ軍に追撃されて、イオニア軍は敗走したが、アテナイはイオニア救援を断念した。

 以下、巻六から巻九までで、ようやくペルシャ戦争が記述される。
 巻六では、前494年にミレトスはペルシァ軍に陥落し(204頁)、前492年ペルシァはマルドニアス司令官のもとに大軍でアテナイ、エレトリアを攻略するが、大暴雨で失敗し、前490年にペルシァは新司令官のもとにアテナイ、エレトリア攻略を企図することが述べられる(205頁)。つまり、@アテナイは、「ギリシァ最古の・・アテナイが、異民族によって隷従」されぬように、スパルタに救援を要請し、A一方、元アテナイ僭主ヒッピアスは、ペルシァ「騎兵の行動に最も好都合」で「エレトリアにも至近」(208頁)だとして、ペルシァ軍をマラトンに誘導したが、Bアテナイ軍は「ペルシァ風の服装」にも恐怖せず初めて「駆け足で敵に攻撃を試み」、マラトンの戦いで勇猛果敢な動きを見せて、アテネ(戦死者192人)はペルシァ(戦死者6400人)に勝利した(215頁)。ペルシァは、ギリシァ本土での戦闘で最初の敗北を味わったのである。

 巻七では、ペルシァ大王ダレイオス1世は、このマラソン敗戦に「憤激」して「ギリシア侵攻にいよいよ気負い立」(224頁)ち3年間「最精鋭の兵士」を育成し遠征準備に従事した。だが、前486年にこのダレイオス1世が死去し、クセルクセスが即位すると、彼はまずエジプトを征圧し、エジプトを「ダレイオス時代よりもいっそう苛酷な条件で隷従」(228頁)させた。

 これに勢いを得て、クセルクセスは、「ペルシァの国威の増強」と「産物に恵まれた領土」を加え、「アテナイ人どもが・・働いた数々の悪業の報いを思い知らしめる」ために、ギリシァ遠征に着手するとした(228頁)。さらに、彼は「ヨーロッパ全土を席捲し、これらの諸国をことごとく併呑」(229頁)するとした。国威と国土拡張=富増大と報復のために開戦を決意した。クセルクセスは独断を危惧して、一応重臣らに開戦是非を審議させると、叔父アルタバノスのみが慎重論を述べる。しかし、クセルクセスは「腰抜けの臆病者」(234頁)と断罪し、「われらが行動をおこさずとも、・・かならずやわが国に兵を進めてくる」、「今や双方とも後へは引けぬ。問題はこちらから仕掛けるか仕掛けられるかじゃ」(234頁)、「わが国土がことごとくギリシァ人の支配下に入るか、あるいは彼らの領土をすべてペルシァの版図に加えるかはそれによって定まる。われわれと彼らとの敵対関係には中途半端な解決はない」(235頁)とした。ここには、権力者が追い詰められえて開戦を決意したことが余すところなく語られている。

 翌日、クセルクセスは、アルタバノスの意見は「もっとも」としてギリシァ遠征をいったんは中止した。だが、クセルクセス、アルタバノスは遠征中止を非難する夢を見て(236−8頁)、ギリシァ遠征は「神意に基づく」(アルタバノス、238頁)として、前480年遠征が決定された。

 「遠征軍は有史以来桁はずれに大規模なもの」(239頁)であり、「さまざまな民族の混成部隊」(251頁)、騎兵隊、「槍を下方に向けて構えた部隊」、「神馬と神車」などからなる陸上部隊は170万人以上に及び、海上部隊は主力艦1207隻、各種船舶3千(253頁)に達した。さらに、「路々諸民族を強制的に従軍させ」(256頁)、陸上部隊規模はさらに膨れ上がった。

 クセルクセスは、元スパルタ王デマラトス(在位前515年-前491年。ペルシァに亡命)にギリシァ遠征を諮問した。クセルクセスが、「全ギリシァ人のみならず、西方に住む他の民族が束になってこようとも、彼らが団結しておらぬかぎり、わしの攻撃を支えるに足る戦力は彼らにはない」から、「はたしてギリシァ人どもがあえてわしに刃向かい抵抗するであろうか」(253頁)と問うと、デマラトスは、「わがギリシァの国にとっては昔から貧困は生まれながらの伴侶のごときものでありました。しかしながらわれわれは叡知ときびしい法(ノモス)の力によって勇気の徳を身につけたのであります。この勇気があればこそ、ギリシァは貧困にもくじけず、専制に屈服することもなくまいったのでございます」、だから「ギリシァに隷従を強いるごとき殿のご提案は、絶対に彼らの受諾するところとはなりませぬ」(254頁)、特にスパルタ人は敵の兵力などに頓着せずに戦うと答えたのであった。

 クセルクセスは、「一千の兵がこれほどの大軍を相手に戦う」などは「笑止」(254頁)であり、ましてや、「一人の指揮官の采配のもとに」なければ、たとえ5万人でも、「これほどの大軍に向かって対抗しえようか」(255頁)とする。デマラトスは、「(スパルタ兵は)自由」ではあるが、「法と申す主人」をいただき、「団結した場合には世界最強の軍隊」(256頁)だと反論する。

 アテネ、スパルタを除いて、多くのギリシァ諸都市はクセルクセスの降伏勧告を受諾した。つまり、@「ペルシァ王の出兵は、名目上はアテナイを討つことになっていたが、その実は全ギリシァの征服を目指すものであ」り、ギリシア人は早くからそのことを知っていたが、この事件をギリシァ人全部が一様に受け取ったわけではな」(256頁)く、Aヘロドトスは、アテネ海軍がなく、海上でペルシァ海軍をおさえるものがなく、「ペルシア海軍によって都市を次から次に占領されてゆけば」、「ラケダイモンは孤立無援の状態に陥り」、「玉砕するのほかはなかった」(257頁)として、「アテナイがギリシァの救世主であ」(257頁)り、アテナイ人は「ギリシァの自由を保全する道を選び、ペルシァに服さず残ったあらゆるギリシア人を覚醒させ、神々の驥尾に付してペルシァ王を撃退し」(257頁)たと高く評価し、Bアテナイへのデルポイ神託は「町は悉く火に焼かれ、滅びる」というものであり、これではまずいと、改めてアテナイ神託使は巫女に神託を願うと、アクロポリスと土地が敵の手に落ちても、ゼウスは、「不落の砦」として「木の砦」を賜うこと、敵の大軍に退避しても「反撃に立ち向かうときもあ」ること、サラミスは「女らの子らを滅ぼす」とした(258−9頁)。

 アテナイ・アルコンのテミストクレス(彼の提言で、ラウレイオン銀山の収益を国民に分配せずに、2百隻の船を建造;彼は、アテネ海軍国の立役者)は、「女らの子らを滅ぼす」とは「敵をさしたもの」(260頁)とし、ひるむことなく海戦の準備をせよとした。これに基づき、「アテナイと志を同じくする他のギリシァ人との協力のもとに国の総力を挙げ」、ペルシア海軍を迎え撃つことにした。ギリシァ諸都市は、コリントスの会議で、「同族間の争いをやめ、ギリシァ諸都市が一丸となって敵にあたる」(260頁)ことを決議した。

 しかし、ペルシァ海軍はセピアス岬で大暴雨風にあい、艦船4百隻を失ったが、テルモピュライでの戦闘ではペルシァ陸軍300万人(墓碑銘、273頁)のペルシァ陸軍に向かうアテナイ側の「先陣」は僅か5千人余(スパルタ3百人、ラゲア・マンティネイア千人、アルカディア各地千人、コリントス4百人、プレイウス2百人、ミュケナイ80人、ボイオテア1100人、ポーキス千人など)に過ぎなかった。クセルクセスはこれに勝機があるとみたであろう。この小規模軍事力は、当時、ギリシァ諸国はオリンピック祭礼直前で、派兵は禁止されていたので、先遣部隊だけしか出動できなかったことによる。「国ごとにそれぞれの指揮官」がいたが、全軍の指揮に当たったのはスパルタ王のレオニダスであり、彼は、精選された親衛隊「三百人隊」を率いていた(262頁)。

 クセルクセスは、「ラケダイモンの部隊」が「体育の練習」をしたり「頭髪に櫛を当てたり」しているとの斥候の報告を受け、この動きを「笑止」とみて安堵した。だが、デマラトスは、この「頭髪の手入れ」とは「生死を賭した」仕事の前の慣習であり、「進入路を賭して」ペルシァ軍と戦う準備をしているのだと警告した。だが、クセルクセスは、「こればかりの兵力で、いかにして自分の軍勢と戦うのであろうか」として、納得しなかった(264−5頁)。そこで、クセルクセスは、まず「メディア人およびキッシア人部隊」に襲撃させたが、ギリシァ側の巧みな「後退戦術」で「メディア人部隊が手痛い目にあわされ」、今度はペルシァ人部隊の「不死隊」(アタナトイ)が攻撃に駆り出された。だが、槍が短く、「メディア人部隊以上の戦果を挙げることはでき」なかった。

 さらに、「ギリシァ方は隊列を敷き国別に陣形を整え、入れ替わり立ち替りして戦」い、この巧みな戦術にペルシァ軍は戦況好転させえず、ついに引き上げ退却した(266頁)。だが、「莫大な恩賞」をめあてに「テルモピュライに通じる間道」を王に教える者がでて、ここにギリシァ軍は不利な激戦を強いられ、レオニダスらスパルタ軍は戦死した。

 巻八では、ペルシァ大敗北に追い込まれたサラミス海戦が叙述される。
 総指揮官のスパルタ提督エウリュビアデスのもとにギリシア連合艦隊の主力艦271隻がアルテミオンを目指した(276頁)。アテナイ指揮官テミストクレスは、「同盟諸国の中にアテナイに反感を抱く者が多」いので、総指揮官にはなれなかった。

 ペルシァ陸軍はアテナイに進入し、アクロポリスを焼き払ったので(276頁)、サラミスのギリシァ海軍は、逡巡してか、「地峡の前面」に移動して、海戦をおこなうことになった。これを聞いて、ギリシァ海軍のムネシピロスはテミストクレスに、「艦隊をサラミスから引き揚げれば・・各部隊はそれぞれ自国へむかう」ので、水軍四散を防止するために、総指揮官エウリュビアデスに艦隊をサラミスにとどめるように説得することを要請した(277頁)。早速指揮官会議を招集して、テミスクレスはサラミス海戦の有利性を説き、自説が入れられなければ、アタナィ艦船2百隻を引き揚げると恫喝したので、エウリュビアデスはサラミス海戦に同意した(280頁)。

 こうした「危機に瀕したギリシァの運命を憂い」、「ラケダイモン人とアルカディアの全兵力、エリス人、コリントス人、シキュオン人、エピダウロス人、プレイウス人、トロイゼン人、ヘルミオネ人」(284頁)が来援した。彼ら「地峡の部隊」は「祖国の興廃を賭した勝負を争っていることを自覚」し、「水軍による成功には期待すること」はなかった(285頁)。それでも、「サラミスに在るギリシァ軍指揮官たちの間では激しい論争がつづけられてい」(288頁)て、アテナイ人のアリステイデスは、会議場で、「ギリシァ軍の陣地はクセルクセスの水軍によって完全に包囲されているから・・抗戦の準備にかかるべきである」(289頁)と主張した。まだこれを信じる者は少なかったが、テノス人の軍船が「敵方から脱走」して、「この船が真相を余すことなく伝えた」(289頁)ことが判明したのである。380隻からなるギリシア艦隊は、このテノス情報を信じて、「海戦の準備」に入った。 
 
 一方、新たに「マリス人、ドーリス人、ロクリス人、・・ボイオティア人(テスピアイとプラタイアを除く)の各部隊、さらにカリュストス人、アンドロス人、テノス人」などがペルシァ陸軍に加わり、「暴風雨による被害、テルモピュライおよびアルテミシオン海戦における損失を補」った(281−2頁)。ペルシァ船団にはクセルクセス自ら訪問して、「シドンの王、テュロスの王」など「各国の僭主と部隊長」を招集し、海戦の是非を問う会議を開催した。「いずれも海戦を行なうべし」と主張したが、ハリカルナッソス女王のアルテミシアだけは「水軍を温存し海戦はなさらぬように」(282頁)と慎重論を唱えた。クセルクセスは、一人堂々と少数意見を開陳したアルテミシアを賞賛したが、サラミス海戦を中止することはなかった。だが、事態はアルテミシアの主張するように動いた。大王自らが海戦を観戦していたので、表面ではペルシァ海軍は「大いに戦意を燃や」さざるをえなかったが、「ペルシァ軍はすでに戦列も乱れ何一つ計画的に行動することができぬ状態」であったから、「ペルシァ軍艦船の大部分」は「整然と戦列も乱さずに戦った」ギリシア海軍に「航行不能」にさせられた(290頁)。しかも、「前線の艦船が逃亡を始めるに至って、ペルシァ艦隊の大半は撃滅の憂き目にあ」(292頁)った。「この海戦でギリシァ人中最も名をあげた」のはアイギナ人で、次はアテナイ人であった(294頁)。 

 かくして「この海戦に関してバキス(「軍神は血潮にて海を紅に染めべく・・勝利の女神が、ヘラスの国に自由の日をもたらしたもう」[287頁]という託宣)やムサイオスの告げた託宣がことごとく成就した」(295頁)のであった。ギリシァ軍は、神々の託宣に一定度鼓舞されながら戦っていたのである。神々が大きな影響力を持っている時代の戦争は、どこの国でも同じであり、日本でも、神武天皇の東征はもとより、内外の戦争でも天照大神らの神々が影響力を発揮していた(『日本書紀』上[『日本古典文学大系』67、岩波書店、昭和42年])。  

 だが、クセルクセスは本国に引き上げたが、ペルシァの将軍(陸軍司令官)マルドニオスは「なおもギリシァ征服の野心を捨てず」、30万人の軍勢とともにギリシァに残留した。テッサリアで冬営中のマルドニオスは、マケドニアのアレクサンドロスを使者に立て、アテナイに「和平の提案を試みた」が、アテナイに和平受諾の意思なく、アテナイはスパルタとともに協力してペルシァに対応することになる(295頁)。

 巻九では、プラタイア、ミュカレの陸上戦でペルシァがギリシァ軍に敗北することが取り上げられる。
 ペルシァ陸軍司令官マルドニアスがアテナイに進駐したが、@スパルタ軍の進発したとの報を受け、マルドニアスはアテナイを焼き払って、アッティカを引き上げ(298頁)、Aスパルタ軍にペロポネス諸国部隊、アテナイ部隊(サラミスからの)が加わり、総兵力11万人でプラタイアに戦列を敷き、ボイオティアのアソポス河畔に陣取ったペルシァ軍30万人、ペルシァ側に加担したギリシァ軍5万人と対決した。11日目、マルドニアスは我慢できずに攻撃に着手したが、「かねてからギリシァに好意を寄せていたマケドニアのアレクサンドロスは、ひそかにアテナイの陣営を訪れて、翌日ペルシァ軍が攻撃に出ることを知らせて激励し」ていた。12日目に戦端が開かれ、ギリシァ側は初めは敗走したが、アテナイ軍のパウサニアスが「はるかにヘラの神殿を望んで神助を祈る」と、戦局が好転し、スパルタ軍がマルドニオスを倒し、ペルシァ軍を壊滅し、生存者は僅か3千人に過ぎず、Aこのプラタイア敗戦と同じ日に、ペルシァ軍は、イオニアのミュカレで痛撃を蒙った。

 ギリシァ水軍(司令官はスパルタ人レウテュキデス)がデロスに停泊している時、サモスからペルシア軍とそれが擁立した僭主に内密に三人のギリシァ人が来て、「彼らが共通して尊崇している神々の名を呼び、同じギリシァ人である自分たちを隷属の状態から救い出し、ペルシァ人を撃退してほしい」(300頁)とした。そして、「生贄がギリシァ軍に吉兆を現わすと、ギリシァ水軍はデロスを発ってサモスに向かった」(302頁)のである。

 ペルシァ軍は評議して「海戦を避けるのが得策」だとして、本土に去った。これを知ったギリシア水軍はミュカレに向かい(303頁)、ミュカレに着くと、ギリシァ軍はペルシァ軍に進撃を開始し、「ギリシァ軍がマルドニオス軍とボイティアで戦い、これを破った」という風説が伝わった。「プラタイアにおけるペルシァ軍の敗戦と、ミュカレでまさに起らんとしていた惨劇とが奇しくも日を同じくし、風説がミュカレのギリシァ軍に伝わった結果、軍勢の士気がにわかに揚がり、いよいよ危険をものともせぬ気概が高まった事実」を踏まえて、ヘロドトスは、「人間界の出来事に霊妙な力が働く」(304頁)とした。プラタイアの戦場とミュカレの戦場にも「付近にエレシウス(アテナイ近郊)のデメテル(オリュンポス十二神の一つ、豊穣神)の社」があったということである。この二つの戦いが「同じ月の同じ日に起った」(305頁)ことも神妙とした。

 こうしたペルシァ劣勢で、イオニアはついにペルシァ軍を殺戮し、「イオニアはまたしてもペルシァに反乱を起こした」(306頁)のである。こうした状況にも拘らず、クセルクセスは弟マシステスの妻に横恋慕して、結局、マシステスの反乱を招き、彼を殺害し(307−310頁)、末期的症状を呈していた。

 一方、アテナイ軍は、「苛酷で無法な男」アルタユクテスの支配する「堅固な城壁」のあるセストスを包囲した。包囲戦が長引くと、アテナイ軍は士気を阻喪したが、籠城するペルシァ側は食糧を失い、夜陰に乗じて逃亡した(312頁)。ギリシア軍は追撃して彼らを生け捕り、「捕虜を数珠繋ぎにしてセストスに送」り、アルタユクテスとその子供を処刑した(313頁)。

 ヘロドトスは、最後に、処刑されたアルタユクテスの祖先アルテンバレスとキュロスの対話でペルシァの好戦性の源泉を明かして、本書を終える。ペルシァ人に取り上げられ、キュロスに伝えられたアルテンバレスの意見とは、「ゼウス(ペルシァの主神でギリシァの主神ではない)はペルシァ人に、個人としてはキュロスさま・・に、・・(アジアの)覇権を与えようとのお志」なので、「狭い荒地」から「もっと良い土地に移り住もう」という提案であった。これに対して、キュロスは、「柔らかい土地からは柔らかい人間が出るのが通例」だから、「そのようにする場合には、自分たちがもはや支配者とはなれず他の支配をこうむることを覚悟しておけ」とした。これを聞いて、ペルシァ人は、「平坦な土地を耕して他国に隷従するよりも、貧しい土地に住んで他を支配する道のほうを選んだ」(314頁)のである。ペルシァ人は、平和でなく、戦争をえらんだとしたのである。

 、最後に、既述部分は除いて、このペルシァ戦争にも神々がかかわっていたことをまとめておこう。トロイエ戦争もペルシァ戦争も神々が深く関わっていたが、ホメロス『イリアス』が根拠のない叙事詩であったのに対して、このヘロドトス『ヒストリエ』は探究・見聞に基づき、神々と戦争との係わり合いもそうした探究・見聞に基づいていた。

 例えば、ヘロドトスは、ギリシァのサラミス海戦に際して、@サラミス海戦を説くアテナイ指揮官テミストクレスは、「理にかなわぬ計画を立てるときは、神も人間の思惑に同調してくださらぬのが常なのだ」(279頁)とし、Aサラミス海戦に備え、「よろずの神々に祈願した後、サラミスからはアイアス(サラミス島の王テラモンの子で、トロイア戦争に参戦した英雄)およびテラモン(アイアスの父)の加護を請」(280頁)い、Bディカイオス(ペルシァA亡命したアテナイ人)は、「無人となったアッティカの地」で「砂煙」を見て、エレシウスの秘儀の「イアッコスの叫び」と見て、「大王の軍勢に一大災厄」がふりかかるとし(280頁)、「この砂煙と声はやがて雲に変じ、空高く上ってサラミスのギリシァ軍の陣営にむか」い、「クセルクセスの水軍が滅亡する運命にあることを悟った」(281頁)のであると叙述している。
 
 こうしたことはペルシァ側にも看取され、ヘロドトスは、
@ヘレスポンテスでの架橋(アジアとヨーロッパを結ぶ)が「猛烈な嵐」で破壊されると、クセルクセスは、「野蛮不遜の言葉」とともに、海に三百の鞭打ちの刑を加え」(244頁)たり、A架橋が完成し、遠征軍が進発すると、日食となり、「ペルシァでは未来のことを示してくれるのは月であるが、ギリシァでは太陽であるから、これは神がギリシァ人に対してその町々の消滅を予示されたものである」(246頁)とし、B、渡海の朝、クセルクセスは、「日が昇ると、クセルクセスは黄金の大盃で海中に献酒をそそぎ太陽に祈願」して「ヨーロッパ征服を妨げるような事故が一つも起らぬようにと祈った」(251頁)た。そのほかにも、クセルクセスはペルシァ重臣に、「この戦いに懸命の努力を致」せとし、「今や、ペルシァの国土をしろしめす神々に祈願を籠めた後、かの地へ渡ろうではないか」(251頁)と鼓舞したと記している。


                              三 ペロポネソス戦争
 
 当時において、上記ペルシァ戦争が史上最大の国家間大規模戦争だったとすれば、ペロポネソス戦争(前431年 - 前404年)は史上最大の都市国家間戦争であった。上述の通り、前者はヘロドトスによって取りあげられ、後者はトゥキュディデス(前460年頃 - 前395年)によって考察された。

 、トゥキュディデスとペロポネソス戦争との関わりを初めに見ておくと、前444−3年に、へロトドスは、「サモス逗留ののち、黒海沿岸、スキュティア、マケドニアなどの北方諸地域、バビロン、テュロスなどの東方文明の都、さらにエジプトからリビュアの史跡探訪の旅を終わり」、「ペリクレスの治めるアテナイにやってき」(トゥキュディデス『戦史』[久保正彰訳、『世界の名著』5、中央公論社、昭和51年、訳注515頁])た。この時、「若いトゥキュディデスはヘロドトスの歴史朗読を聞いて大いに感動」したらしいといわれる。だが、そう単純ではあるまい。確かに、ヘロドトスがペルシァ戦争の淵源を過去に探ったり、事実に基づいて実証的に考察する方法には感銘したであろうが、戦争に無関係な逸話を挟んだり、根拠となる見聞などにかなり疑義があり、何よりも戦争の悲惨さの叙述が弱く、こういう民衆に惨害を与える戦争を二度と起してはならないという姿勢が希薄であることなどには疑問と批判を覚えたであろう。だから、前者の感銘というより、後者の疑問と批判のほうが、トゥキュディデスの執筆意欲を刺激したと思われる。

 やがて、トゥキュディデスはアテナイの将軍に任命された。前424年には、トゥキュディデス将軍は、守備していたトラキア地方のアンピポリスをペロポネソス側に奪われ、アテナイは彼を追放刑に処した。彼は、以後「20年の生涯を亡命生活に過ごすことになり、その間に両陣営の動きを観察し、とりわけ、亡命者たることが幸いしてペロポネソス側の実情にも接して、経過の一々をいっそう冷静に知る機会にめぐまれた」(トゥキュディデス『戦史』448頁)と記している。彼は、「この全期間を通じて、成年に達していたので分別もあり、また、正確に事実を知ることに心を用いつつ、体験を重ねてきた」(トゥキュディデス『戦史』448頁)のである。前404年、追放解除令が出て、トゥキュディデスは20年ぶりにアテナイに戻ってきた。だが、彼の『戦史』は前411年のシキリア大遠征の記述で終わり、終戦の前404年まで及んでいない。なぜであろうか。

 前405年、ペロポネソス戦争最後の海戦アイゴスポタモイの戦いで、名将リュサンドロス率いるラケダイモン(スパルタ)軍に完敗し、前404年にはラケダイモン軍の進駐と監視のもとに「三十人僭主」が誕生し、前403年に崩壊して民主政が復活するも、もはやアテナイに勢力はなかった。この海戦や三十人僭主制を叙述しなかったのは、彼は前411年までの記述で本書執筆の目的は達成されたと考えたからではないか。そもそも彼はどういう叙述目的をもっていたのか。

 、「古人はペルシァ戦争とペロポネソス戦争の作者二人を表裏一体の像として刻んでいる」(久保正彰「トゥキュディデスとペルシァ戦争」[『西洋古典学研究』19、1971年])といわれるが、ヘロドトスとトゥキュディデスとの間には大きな相違がある。第一は、トゥキュディデスが初めて端緒的ながら民衆の視点を導入し、戦争が民衆・市民・兵士らに与えた悲惨さを叙述したということである。

 トゥキュディデスは、「開戦劈頭いらい、この戦乱が史上特筆に値する大事件に展開することを予測して、ただちに記述をはじめた。当初、両陣営ともに戦備万端満潮に達して戦闘状態に突入したこと、また残余のギリシァ世界もあるいはただちに、あるいは参戦の時機をうかがいながら、敵味方の陣営に分れていくのを見たこと、この二つが筆者の予測を強めたのである。じじつ、この争いはギリシァ世界にはかつてなき大動乱と化し、そして広範囲にわたる異民族諸国、極言すればほとんどすべての人間社会をその渦中におとしいれることにさえなった」(317頁)と、ペロポネソス戦争を「ほとんどすべての人間社会をその渦中」の陥れた「大動乱」と評価したのである。そして、「今次大戦では、その期間も長きにわたり、またそのため、これに匹敵する期間にかつてギリシァがなめたこともないほどの惨害が全土に襲いかかった。じじつ、これほど多数の都市が、異民族やギリシァ人自身の攻撃をうけ、はては奪われ荒廃に帰した例はかってなかった。この戦争や内乱のために、未曾有の数の亡命者、多量の流血がくりかえされた」(332頁)としたのである。

 戦争が民衆(史料的限界からか、実際には兵士らにかたよりがちになったが))に与える悲惨な影響を叙述すること、これが、彼の叙述目的の一つだったのであり、故にそのペロポネソス戦争の悲惨さの掉尾を飾るものこそシケリア大遠征の敗北だったということになるのではなかろうか。

 3、こうした歴史叙述に信憑性をたかめるために、トゥキュディデスはヘロドトスとは異なり、論旨展開をペロポネソス戦争に絞込むのみならず(ヘロドトスの叙述には論旨に無関係なものが少なくなかった)、次のように何よりも史上初めて史料批判を行なったのであった。

 まず、伝承史料について、@「誤伝はじつに多く・・現在の出来事についてすら誤報がひんぱんに生」(330頁)じているのに、「人間は、古事にまつわる聞き伝え」を「無批判な態度」で受け入れ、「大多数の人間は真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳をかたむける」(330頁)と批判し、A「論証を重ねて解明」するという態度に基づけば、「古事を歌った詩人らの修飾と誇張にみちた言葉にたいした信憑性を認めることはできない」(330頁)と詩歌戦史(例えば、ホメロス『イリアス』)を批判し、B「伝承作者のように、あまりに古きにさかのぼるために論証もできない事件や、おうおうにして信ずべきよすがもない、たんなる神話的主題をつづった、真実探究というよりも聴衆の興味本位の作文に甘んじることも許されない」(330頁)とする。こうした史料批判によって、彼は、「いずれをも排し、もっとも明白な事実のみを手掛りとして、おぼろな古事とはいえ充分史実に近い輪郭を究明した結果は、当然みとめられてよい」としたのである。

 そして、彼は、「おうおうにして人間は、自分がその渦中にあっていま戦いつつある戦争こそ前代未聞の大事件であると誤信する。そして戦争が終り、直接の印象が遠のくと、古い事績にたいする驚嘆をふたたびあらたにするものである。しかし印象ではなく結果的な事実のみを考察する人々には、今次大戦の規模がまさに史上に前例のない大きいものであったことがおのずと判明するだろう」(331頁)と、事実としての戦史によってこそ、ペロポネソス戦争の「史上前例のない」大規模性が明らかになるとした。だが、100万人以上のペルシァ軍が加わったペルシァ戦争の方が大規模であったにもかかわらず、彼がペロポネソス戦争の大規模性を強調するのは、その戦争被害の悲惨さを強調するためであろう。実際にはペルシァ戦争のほうが悲惨であったろうが、ヘロドトスはペルシァ戦争の悲惨さを記録として残さなかったので、それについて知ることはできない。

 次に、トゥキュディデスは、演説記録を重視し、多くの演説を引用している。ここでも、彼は、「戦闘状態にすでにある人やまさにその状態に陥ろうとする人が、おのおのの立場をふまえておこなった発言について、筆者自身がその場で聞いた演説でさえ、その一字一句を正確に思い出すことは不可能であったし、またよそでなされた演説の内容を私に伝えた人々にも正確な記憶を期待することはできなかった」と、この演説史料の限界を明確に指摘した上で、「政見の記録は、事実表明された政見の全体としての主旨を、できうるかぎり忠実に、筆者の目でたどりながら、おのおのの発言者がその場で直面した事態について、もっとも適切と判断して述べたにちがいない、と思われる論旨をもってこれをつづった」(331頁)と、彼が自己判断で演説史料を適切に処理したと言明した。

 最後に、「「戦争をつうじて実際になされた事績」の扱いについて、彼は、@「たんなる通りすがりの目撃者からの情報」を「無批判に記述すること」を慎み、A「主観的な類推」は排除し、B私自身の「目撃」や「人からの情報」の場合には、「敵味方の感情に支配され、ことの半面しか記憶にとどめないことが多」いので、「個々の事件についての検証は、できうるかぎりの正確さを期」し、C「読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産」となることを期して、「伝説的な要素」を排除するとした(331頁)。

 、ヘロドトスがギリシァとペルシァの対立の淵源を過去に遡ったように、トゥキュディデスもまたこれを受け継いで、アテナイとスパルタの対立の淵源を過去にさぐり、「往古の事績」(329頁)を究明し、今次大戦に比べて、過去の戦争は大規模なものでなかったとした。

 彼は、ペロポネソス戦争の大規模性を強調するために、「今次大戦以前に起った諸事件や、さらに古きにさかのぼる出来事については、時の隔たりも大きく、厳密に事実を確かめることは不可能であった。しかし及ぶかぎりの古きにさかのぼって筆者がなしたもろもろの考証から、信ずるにいたった推論の帰結を述べるなら、戦争をはじめとする往時の諸事績は、けっして大規模なものであったとはいいがたい」(317頁)とする。

 彼は、以前の諸事績が大規模でなかった理由として、「現在『ヘラス』の名で呼ばれる土地に住民が定着するようになったのは、比較的に新しい時代のことであ」り、「これより古くは、住居は転々として移り、個々の集団は、より強大な集団によって圧迫されると、そのつどそれまで住んでいた土地を未練なく捨てて、次の地に移」り、「交易もおこなわれ」ず、「また陸路や海上の便によってたがいに安全に往来することもな」く、「かれらは各集団ごとに、ただ生活をいとなむに足りるだけの土地を領有していた」(318頁)ことなどをあげる。

 さらに、アテナイ海軍が強大になったのは最近のことだとする。トロイエ戦争後にギリシァ海軍が増強され、@貿易が発展し、「諸都市で僭主が台頭」し、「ギリシァ各地には海軍が組織」(326頁)され、A前700年頃、コリントスが三段櫂船を始めて建造し、コリントスは「陸狭地帯に都市を営み、きわめて古くから通商の中心を占め」、「富み豊かなる地」となり、貿易に進出して「海陸両面における商業活動の中心」(326頁)となり、Bペルシァ王キュロス、カンビュセス時代、「イオニア人も強力な海軍をも」ち、サモス島僭主ポリュクラテスも「海軍力を充実」(326頁)し、Cアテナイでは、アイギナとの戦いと「ペルシァ勢の侵入が目前に迫」り、テミクレトスが軍艦建造を提唱し、これでようやく海軍国となり、こうした海軍増強で、「物質的な収益や版図の拡張を得て、侮り難い勢力」(327頁)になったとした。

 陸軍については、ギリシァでは、陸上戦は「隣国間の争い」にとどまり、遠征をすることはなかった。ギリシァの諸都市は現状維持をはかり、「為政者はいずれも、自分や一族の発展を望む私欲のみにあけくれていた」(328頁)から、「自国領の周辺の住民らを攻める以外には、けっして領地をはなれて兵をすすめ、大きな成果をあげたものはなかった」とする。ただラケダイモンだけは例外であり、@ラケダイモンは、アテナイなど「ギリシァほとんどの地方」の僭主の「大多数」を「追放」(328頁)し、A「ラケダイモン人は、今次大戦(ペロポネソス戦争)が終わるまでの四百余年にも及んで同一の政治形態を固執しており、これによって自国の力を充実させ、また他の国々の秩序回復のために干渉することができた」(328頁)とする。

 では、トゥキュディデスは、海軍国アテナイ、陸軍国ラケダイモンが参加したペルシァ戦争の規模をどう見たのか。トゥキュディデスは、@マラトンの戦いから10年目、ペルシァは再びギリシアを「従える」ために、「大軍を率いて侵攻」(328頁)したが、スパルタ、アテネを中心に「全ギリシァ人は一致協力してペルシァ勢撃退に成功」し、Aペルシァ戦争後、ギリシァ諸国は、陸軍で覇を唱えるラケダイモン陣営と、海軍で覇を唱えるアテナイ陣営にわかれ(328頁)、B「わずか二度の海戦(アルテミシオン、サラミス)と二度の陸戦(テルモピュライ、プラタイア)によって、すみやかに勝敗が決した」(332頁)と、大規模性を控えめに評価する。なぜ、トゥキュディデスは、ペルシァ戦争の規模を過小評価するのか。

 、トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争が勃発した理由ついて、過去のラケダイモン陣営とアテナイ陣営の対立を探った後に、ペルシァ戦後の複雑な関係を考察する。まず、彼は、@ペルシァ戦後、アテナイはあくまでペルシァ対決を第一義としていて、「ギリシァ同盟財務官」となり、前477年にデロス島に同盟財務局を置き、「第一段階としてペルシァ人追討のために、どの加盟国が軍資金、どの国が軍船を供給するべきかを決め」(339頁)、同盟諸国に義務履行を苛酷に要求し、「年賦金や軍船の滞納、・・全面的な参戦拒否」などを経て、同盟国が離脱すると、アテナイはこれを「城攻め」し「隷属国」とし(340頁)、Aさらに、アテナイは、反ペルシァ作戦に従事し、例えば、前459年にイナロス(リュビア王)がペルシァに反乱し、「エジプトの過半を離反」させ、アテナイに助勢を求め、アテナイはこれに応えて、キュプロス攻撃を中止して、ナイル川を遡上した(344頁)が、前454年ギリシァ勢はペルシァ反撃で壊滅し(347頁)、「沼沢地」を除いてエジプトは再びペルシァ支配となった。

 しかし、ラケダイモンは、「ペルシァ戦におけるアテナイ人の勇敢さを高く買っていた」から、まだアテナイとラケダイモンの友好関係は維持されていた。前462年、スパルタは、「攻城戦」に得意なアテナイに自らの「国有奴隷」反乱の鎮圧に助勢を求めてきたので、アテナイはキモン指揮下に援軍を派遣したが(343頁)、アテナイ勢はこれを攻略できず、ラケダイモンはアテナイ勢は信頼できずとしてこれを帰還させた。これで「ラケダイモン人とアテナイ人との友好関係にはっきりとした裂け目が入ることとなった」(343頁)とし、アテナイはこれを屈辱として、「ペルシァ戦役にさいして両国間にむすばれていた同盟条約を破棄」し、「ラケダイモンと交戦状態にあるアルゴス」と同盟を締結した(343頁)。 

 前451年、ペロポネス同盟とアテナイとの5年間の休戦条約を締結し、これでアテナイは、ペロポネソス同盟を気にせず戦争できることになり、@前450年アテナイはキモンを指揮官としてキュプロス島を船2百隻で攻撃し、キモンは殺されたが、アテナイ側は勝利し(348頁)、A一部60隻は「エジプトの沼沢地の王アミュルタイオス」の支援に向かい、B「神聖戦争」(デルポイの支配をめぐる)では、アテナイ、ラケダイモンの正面衝突が回避され、Cアテナイ、デロス同盟国は、ボイオティア数箇所に籠城したボイオティア亡命者を征圧しようとしたが、敗北し、「ボイオティアの亡命者たちは故国に復帰し、残りのボイオティア諸地方もふたたび独立自治権を回復」(349頁)し、Dこれを機にか、前446年にエウボイア、メガラが離反し、ラケダイモンらペロポネス勢のアッティカ侵入計画が露見したが(349頁)、ペロポネス勢は「深入り」せず「本国へ引きあげ」ると、アテナイ勢はペリクレス指揮官のもとにエウボイアに派兵して、「全島を屈服」(350頁)させた。

 前446年、アテナイは、「エウボイアから手を引い」た後、「ラケダイモンとその同盟諸国とのあいだに、三十年間休戦の和約をむす」(350頁)び、アテナイは、「ニサイア、ペーガイ、トロイゼン、アカイア」をペロポネソス側に返還したが、和平後の6年目のサモス事件後、「ケルキュラ紛争(前433年)、ポテイダイア紛争(前432年)」など「今次大戦の直接的原因となったもろもろの事変」が勃発したとする(351頁)。トゥキュディデスは、今次大戦は、「アテナイ人とペロポネソス人が、エウボイア島攻略ののち両者のあいだに発効した和約(前451年)を破棄したときに、はじまった」とした。

 このように、トゥキュディデスは、アテナイは、クセルクセス撤兵(前479年)からペロポネソス戦争勃発(前431年)までの50年間に、こうした幾つものの事変が起り、この過程でアテナイは「その支配圏をますます強固な組織となし、・・いちじるしい勢力拡張をとげ」(352頁)たにもかかわらず、ラケダイモンは、「自国の内乱」に釘付けにされ、「万やむをえざる場合を除いて、急いで戦いにおもむくことを好まぬ」ので、終始「静観」していたとする(352頁)。そして、トゥキュディデスは、開戦の究極的理由として「アテナイ人の勢力が拡大し、ラケダイモン人に恐怖をあたえたので、やむなくラケダイモン人は開戦に踏み切った」とし、開戦決定の「直接の誘因」としては前記和約解消のほかに、アテナイとコリントスがコリントス植民地(ケルキュラ、ポテイダイア)をめぐって交戦状態に入り、前432年7月頃、「両事変において苦杯を喫したコリントスは、スパルタにおけるペロポネソス同盟参加国開催を要求」し、「近年のアテナイの侵略行為に関してアイギナ、メガラ、コリントスらの被害者国が非難の演説」をし、その後、ラケダイモンだけの会議を催し、老王アルキダモスは慎重論を唱えたが、監督官ステネライダスは開戦即決主義を唱え、同年8月頃、同盟国参加国全員の代表を招集して、対アテナイ戦を決定したとした(333頁)。

 ラケダイモンは、こうした和約破棄・アテナイ侵略主義を受けて、「デルポイに使者を送り、開戦するべきか否かを神に尋ねた」所、「神はもしかれらが全力をつくすなら勝つであろう、そして神みずから、かれらが祈れば力をかす、祈らずとも加護を与える、という神託を与え」(352頁)、ここに、@ラケダイモンが、「アテナイがすでにひろくギリシァ各地を支配下にしたがえているのをみて、それ以上のかれらの勢力拡大を恐れ」(333ー4頁)て、「やるかやられるか」という切迫した状況で開戦を決定し、前432年夏、ペロポネソス同盟諸国は、対アテナイ戦決行を票決し、戦争準備に着手しつつ、B同盟盟主国ラケダイモン(その首都がスパルタ)はアテナイに使節を派遣して、政治的譲歩をアテナイに迫り、ポテイダイアからの撤退、アイギナ自治権返還、メガラ禁令解除などを要求し、最後のラケダイモン使節は、「諸君がギリシァ人に自由を返してやるならば、まだ平和の可能性がある」(352頁)と、アテナイを自由侵犯者とし、これが対アテナイ戦争の大義名分であることを明示した。

 アテナイでは、戦争回避論もあったが、ペリクレスは、「アテナイの国是を守るためには戦いを辞すべきではない」、「今回の大戦は武器と武器の衝突ではなく、海洋貿易、年賦金、海軍力に拠って立つアテナイと、農業本位のペロポネソス同盟諸国との、経済的持久力の争いとなるであろう」(352頁)とし、経済力のあるアテナイに勝ち目があるとみていた。ぺリクレスの有名な「葬送演説」(前431−0年にかけての冬)では、「従う属国も盟主(アテナイー筆者)の徳を認めて非をならさない」とし、「祖国のために戦ってあっぱれの勇士の振舞いをとげれば、この徳は何にもまさるものとしてみとめられてよい。善の輝きによって悪を消し、公に益することによって私の害をつぐなったからである」としたが、独善的で空しい響きがある。

 はやくも開戦2年目に、アテナイは、「内には人が死に外では耕地を破壊され」内憂外患に襲われ(368頁)、ペリクレスへの非難が強まり、ラケダイモンでは、「開戦の是非」に関するデルポイ神託と「合致」するとした(369頁)。これに対して、ペリクレスは、「もとより、事なくして平和と幸福の道をえらべる立場にあれば、戦するほど愚かな考えはない。しかし、屈してただちに他国に隷属するか、危険を賭して勝利を得るか、この二者択一を余儀なくされたとき、危険を逃げるものはこれを耐えるものに劣」(370頁)り、「もしいったん他国に隷属すれば、われらがすでにかち得た所有すら失うことになりかねない」(371頁)のであり、しかも、アテナイが「同盟独裁者の地位」についている以上、敗戦で「これを手放すことは身の破滅に等しい」(372頁)とし、ラケダイモンへの隷属の危機を指摘した。

 こうして、寡頭政のラケダイモンが、民主政のアテナイに、対ペルシァ戦のためのデロス同盟国を隷従から解放するという大義名分を掲げるという「奇妙な内乱」が勃発した。本来ならば、共通の敵ペルシァの前に両国は一致団結するべきだが、アテナイがあくまで帝国主義的方向に向かったために、ラケダイモンはアテナイ帝国主義に呑み込まれるという危機感から、やむにやまれず開戦を決定したのである。だから、ラケダイモンとしては、アテナイとは戦いたくなかったのであり、前425年ピュロス、スパクテリアの戦いではアテナイが勝利し、ラケダイモン兵が籠城を余儀なくされると、ラケダイモン側はアテナイ側に休戦を申し入れ(424頁)、「相互のあいだに平和と同盟、広く友情と親交を回復することを約し、そして代償として島にいる兵士らの返還を要請」し、「われら両国にとって今こそ争いを収べき無二の好機」(427頁)とし、「この戦いはいずれがはじめたともなく戦闘状態に入って今日にいたるが、今もし諸君が現戦況の優勢を善用して和平をとりもどすならば、諸国はこぞって諸君に感謝をささげるだろう」(427頁)としたのである。ラケダイモンは、やむなく開戦したが、「和平」両面の方針は維持していたのである。

 6、トゥキュディデスは、ヘロドトストは異なって、この戦争が、兵士はもとより、市民らにも与えた残酷さ、悲惨さを具体的に述べた。つまり、彼は、@前428年レスボス島の諸市(ミュティレネ市)がアテナイに離反すると、アテナイはレスボスに派兵し、前427年に反乱を鎮圧し、ミュレネ成年男子を全員死刑にし、婦女子は奴隷にする事を決議し、「令状伝達の船」が出発したが(378頁)、民会でこの中止が急遽決議され、全員処刑は中止されたが、それでも結局謀反首謀者千人が処刑され、A前427年夏、プラタイアは籠城2年目になり、疲弊してペロポネス側に降服すると、プラタイア人200人、アテナイ人25人が処刑され、B前427年ケルキュラの内乱で、アテナイ軍艦の増派(60隻)を知って、ペロポネス勢は帰航すると、これに勢いを得た民衆派は、「手あたり次第に市内の寡頭派を捕らえて殺害」したり、乗艦させていた反対派を処刑し(410頁)、ヘラ神殿に立てこもっていた反対派の50人には死刑判決を下し、残りの「大部分」は絶望して「互いに刺しちがえて生命を絶ち、あるものたちは木の枝にかかって縊死し、残るものらもみなそれぞれのかなう手段で自殺をとげ」(411頁)、これ以後、「処々の都市」で親ラケダイモン派=寡頭派と親アテナイ派=民衆派の対立が生じ、全ギリシァ世界が動乱の渦中に陥」(411頁)り、C以後の諸都市では、「はるかに過激な意図や計画」、「老獪きわまる攻撃手段」、「非常識もはなはだしい復讐手段」が練られ、「無思慮な暴勇」、「きまぐれな知謀」が評価され、「人の先を越して悪をなすものが誉められ」(412頁)るようになり、D前416年冬、メロスは降服すると、アテナイは「逮捕されたメロス人成年男子全員を死刑に処し、婦女子子供らを奴隷」にし、E前415年初めアテナイ民会でアルキビアデスが(食糧確保のために[岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』341−3頁])領土拡大をめざして遠路シキリア(シチリア)に大遠征軍派遣を提唱し、前415年夏出航したが、アテナイは敗勢色を強め、「総勢そろって撤退」(496頁)を計画するに至ったが、総数4万人(498頁)の撤退戦は「酸鼻をきわめ」(498頁)、「ギリシァの軍勢が喫した敗北としてはまさに空前の規模」(499頁)となり、採石場に押し込まれた捕虜の扱いも悲惨を極めることになったのであった(508頁)。

 ここで、もう一度、トゥキュディデスがなぜ前411年で記述を終えたのかを考えてみよう。トゥキュディデスは、「私自身、戦いが3・9(3×9、筆者)、27カ年の日月を要するであろうと、開戦以来終わるときまでつねづね一般に言い広められていたのを記憶している」(トゥキュディデス『戦史』448頁)と書いているから、同戦争が、前431年3月にラケダイモン側のテーベ軍がアテナイ側のプラタイアに侵入して以後、前404年まで27年間続いた事は十分知っていたのである。にも拘らず、前411年で筆を擱いたり、ペルシァ戦争の規模を過小評価したのは、トゥキュディデスにはヘロドトストとは異なる叙述目的があったからであろう。それは、言うまでもなく、大規模戦争たるペロポネソス戦争がいかにギリシァの民衆に悲惨な影響を与えたかを叙述することである。だから、トゥキュディデスは、戦争惨状が前412年シケリア大遠征で頂点を極め、それが戦争の悲惨さの掉尾を飾ったと見て、前404年にアテナイはラケダイモンに降服してペロポネソス戦争が終わる以後の過程は、本論の課題の外と考えたのではなかろうか(或いは、ただ病気や怪我でで筆をとれなくなったのかもしれないが)。彼は、前411年の「四百人体制」、「五千人体制」、同年秋のキュノスセマ海戦での久しぶりのアテナイ勝利までは執筆したが、以後、海戦で一時アテナイ勝利が続いた後に、前405年ラケダイモンがペルシァの資金援助を得て海軍を再編強化して、アテナイを再起不能の敗北に追い込んだ過程は叙述する必要もなければ、叙述する意欲もわかなかったのではあるまいか。あの誉り高いラケダイモンがアテナイ海軍に飲み込まれそうになった危機的状況に直面して、こともあろうにペルシアの資金援助に頼ってアテナイ海軍を打破するなどは、トゥキュディデスにはギリシァ人としては許しがたいことではなかったか。しかも、これをペルシァの観点から見れば、ラケダイモンに資金援助してアテナイにペルシァ戦争での敗北の報復を果たしたともいえるのであるから、ペロポネソス戦争はいつしかラケダイモンを表に立てたペルシァ代理戦争になったともいえるのであるから、ますますトゥキュディデスには論外の事態となってしまったのではないか。

 もとより、我々は、今となってはトゥキュディデスの擱筆の真意を知ることは出来ないが、彼がヘロドトスとは異なって、戦争の民衆に与えた惨害を初めて重視した「歴史家」であったことは十分注目しなければならず、史上初めて史料批判をし、論旨展開を課題に収斂させたことをも併せて考慮すれば、欧米人はヘロドトスではなく、このトゥキュディデスをこそ「歴史の父」とすべきであったということにならないでろうか。


 こうして、彼は、「内乱を契機として諸都市を襲った種々の災厄は数知れ」ず、「戦争は日々の円滑な暮らしを足もとから奪いとり、強食弱肉を説く師となって、ほとんどの人間の感情をただ目前の安危という一点に釘づけにするから」、「このとき生じたごとき実例(残酷な殺戮と悲惨な自殺など)は、人間の性情が変らないかぎり、個々の事件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にもくりかえされ」(411頁)ると、警告したのである。
その警告から約2500年、我々は懲りずに何千何万の戦争を繰り返してきた。その都度、肉親、知人、友人の死を哀悼して、悲惨な戦争はもうこりごりだ、二度と戦争はするまいと反省してきたことか。にも拘らず戦争が繰り返されてきたということは、戦争を抑止し平和を維持するには、もはや哀悼や反省などだけでは不充分であり、「富と権力」のシステムを根本的に変えなくてはならない事を示している。この「富と権力」のシステムは、その歴史が雄弁に物語っているように、平和のシステムではなく、基本的には戦争(防衛と侵略)に関わるシステムだからである。それゆえ、この「富と権力」システムのもとでは、たとい憲法を制定して、戦争放棄などを規定しても、それは必ず骨抜きにされる危険に直面せざるをえなくなるのである。

 
平成23年11月5日、近年脅威を増しつつある中国海軍を牽制すると称して、憲法で戦力・戦争放棄を定めた日本の海上自衛隊と、実戦にたけた海兵・海軍・陸軍・空軍を擁して各地で戦争する米国の海軍が、両国艦船の共同演習を行って、両国の軍事的連携の緊密さを「威風堂々」と内外に見せ付けたかである。だが、中国にしてみれば、中国の海軍増強は、アメリカが日本に強大な基地を構えていることへの防衛対応であろう。どっちにも言い分があるのである。いつの世も軍拡は相手への脅威、その防衛からとめどなくおこるものである。この無益な軍事駆け引きを排除するには、米国が日本から基地を撤去して、アジアの防衛はアジアの民衆が話し合いを何度も積み重ねて決めることにする以外にはないのである。学問はあくまで基本的方向のみを示すにとどまり、以後の具体的な処方箋とプログラムは堅実で賢いアジアの民衆が真剣で誠実な討議を重ねることにゆだねることになる。彼らは、真剣なる討議の末に、「アジア防衛大綱」の如きをまとめあげるであろう。軍事専門家は既存軍事情勢に制約されるが、生活人はそれに制約されることなく自分たちの子供や親のために的確に具体的に防衛の意義と目的を定めるであろう。


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                           § 自然と社会ーあるべき社会とは何か §
      

                                       文明論 

                            一 人文・社会系の文明論

 近代市民革命と文明用語 civilize、civilizationという語は、後のヨーロッパの時代の要請に基づく造語とされる。フランスから見てみよう。西川長夫氏によると、動詞civiliser(開花する、文明化する)は16世紀の後半から使われて、ここから名詞形(civilisation)が生まれた。1756年にフランスのミラボウMirabeau(重農学派の侯爵)が「civilisationをこの意味で用いて」(『英語語源辞典』)、1757年出版の『人間の友、あるいは人口論』が「『文明』の初出文献」(西川長夫『国境の越え方』平凡社、2001年、163頁)とされる。ここで、「宗教は・・文明の第一の原動力」とされ、「社会や国家の側」から文明を問題にし、「文明が美徳の内容と形式を社会に与えるものでなければ、文明は社会にとって無意味である」(西川長夫『国境の越え方』164−5頁)と、よりよき社会・国家をもたらすのが文明とした。ミラボウら重農主義者は、絶対王政の危機に直面して、「革命ではなく体制の内部において実現すべき改革のプログラムを提示することに専念」(西川長夫『国境の越え方』166頁)したのである。以後、1770年代には、フランスで「文明」用語が「広く使われるようにな」(西川長夫『国境の越え方』166頁)り、「『文明』は、『理性』『進歩』『幸福』などとともに啓蒙主義哲学の中軸とな」(西川長夫『国境の越え方』168頁)って、理想とすべき国家を提示して、間接的に時の絶対王政を批判することになった。
 
 一方、イギリスでは、形容詞civilが14世紀から使用され(西川前掲書。 『英語語源辞典』研究社、235頁によると、civilは1533年初出)、動詞civilizeは1601年に初出とされ(『英語語源辞典』研究社、235頁)、ここから名詞civilizationが生まれた。市民革命の展開で「17、8世紀にはおそらくフランスにおけるよりも重要な意味内容をも」(西川長夫『国境の越え方』168頁)ちはじめ、1767年アダム・ファーガソン『市民社会の歴史にかんする試論』、1771年ジョン・ミラー『社会における身分の区別にかんする考察』では、文明の語は「頻繁に繰り返され」(西川長夫『国境の越え方』170頁)た。1772年には、サミュエル・ジョンソンがDictionary第4版(1773年刊行、「ジョンソン博士の『英語辞典』」[ヘンリー・ヒッチングズ著、田中京子訳 みすず書房])を準備する過程の1772年に、文明用語が「この語義の採録の可否につきJames Boswellと交わした会話の中で言及され」た。つまり、ボズウェルは、ジョンソンが『英語辞典』第四版の執筆に際して「civilityという語で充分」なので、civilizationを認めなかったので、「civilize(教化する)という語の派生語であるこのcivilizationという形の方がbarbarity(野蛮)に対照する意味ではcivility(丁寧さ)よりもよい」、「語義ごとに別の言葉があったほうがよい」(169頁)としたのである(中野義之訳『サミュエル・ジョンソン伝』[西川前掲書、169頁])。

 こうして、時間差を伴いつつ、絶対王政の腐朽、市民革命の展開に前後して、英仏では新しい国家・社会の「見方」が求められ、「文明」用語が使用され始めたのである。さらに、「18世紀の後半から19世紀の初頭にかけて、近代的な国民国家の成立とほぼ時を同じくして」(西川長夫『国境の越え方』、154頁)、国民国家の対外的拡張の正当化のために進化論に支えられて文明論が提唱された。Encyclopedia69.comによると、「18、19世紀の進化論者の間で、文明は人間の偉業の頂点、西洋文化の特権と考えられ」、「進化論者は、野蛮という観念とともに始まった発展過程の最終結果として文明を述べ」、「西洋文明の『文明化力』という含蓄は、植民地諸国の民衆の幸福の正当化のように、他者に対する文化的・政治的優越を正当化するために都合良く使用され」(ヘンリー・モーガン『古代社会』1877年)だしたのである。これは、ヨーロッパ文明こそが進歩の到達点であり、ゆえに非ヨーロッパ諸国の植民地化は文明化につながるということを導いていった。

 シュペングラー、トインビー しかし、第一次世界大戦などでヨーロッパの停滞・退潮が懸念されだすと、非ヨーロッパ文明が注目され、ヨーロッパ文明と非ヨーロッパ文明の対立という側面が強調されだした。第一次世界大戦後の1917年、ドイツの哲学者オスヴァルト・シュペングラーは、『西洋の没落ー世界史の形態論要綱』(林書店、1967年)を刊行し、世界の文明圏を、エジプト、バビロニア、インド、中国、ギリシア・ローマ、アラビア、西洋、メキシコの8つに分類した。そして、当時、「世界史はもっぱら西欧の立場から考察され、歴史は進化論的楽観論のために人類の進歩を例証するものであると考えられていた」ことに疑問を提起し、「偉大な文明は相互に関係を持」たず、それぞれは「きわめて明確な個性をもつ独立の有機体」であり相互に「別の有機体の業績や思考様式を理解できない」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』5頁)とした。

 だが、彼は、「文明を『最高位の生物』」とし、「異なった文明の中に相似体(analogues、機能上の類似)を発見する事はできないが、相同体(homologues、形体上の類似)を発見することができ」、「各文明の生命周期が、若年期、成熟期、老衰期という同じ段階を通過する」と主張し、「偉大な詩と生きた宗教は若年期の文明固有の特色」とした。彼は、「植物が枯れる」ように「文明が滅びる」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』8頁)としたのである。また、彼は、「帝国主義的・社会主義的秩序は伝統的・階級的社会につづくものであり、ちょうど一年生植物が成熟しきってからその種子をまき散らすように、偉大な芸術、音楽、文学の後にはかならず技術や貿易が発達」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』8頁)すると、事実と脈絡のない「神話」「信仰」的指摘もする。シュペングラーには 「歴史を進化論的過程として見る見方の貧困さ」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』9頁)があった。 

 一方、アーノルド・J・トインビーは、1911年、海を支配していたミノス帝国の廃墟を見て、イギリス帝国の衰亡に危機感を覚え(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』15頁)、1934年(1−3)、1939年(4−6)に『歴史の研究』(歴史の研究刊行会、第1−24巻、1966年)を刊行した。文明を「属社会」(genus society)の部類に入る21の「種の見本」に分類し、現存する8文明(西欧、正教キリスト教[ロシア、主体]、イラン、アラビア、ヒンズー、極東[朝鮮及び日本、主体])、消滅した13文明(シュメル、エジプト、ミノス、インド、マヤ、アンデス、ヘレニック、シリア、、ヒッタイト、シナ、バビロニア、メキシコ、ユカタン)に分け(『歴史の研究』265頁など)

 彼は、
西欧の衰退という現実を背景に、西欧の非西欧社会を見る皮相的な見方を批判する。つまり、彼は、西洋人は、「現在の世界が、経済面において多かれ少なかれ、西欧を基盤として単一化し・・政治面において同じ基盤の上に立つ単一化がかなり達成」(『歴史の研究』233頁)されるとすることに対して、彼は、これは「すべての面に完全な単一化がおこなわれている」のではなく、「単一化と統一は同じもの」ではないと批判する。さらに、彼は、「西欧社会を基盤とする現在の世界の統一性は、人類の全歴史を説明する一つの連続的過程の完成であるという命題」(『歴史の研究』234頁)について、事実を歪曲すると批判し、「われわれは西欧人が、人々を土人と呼ぶとき、暗黙のうちに、彼らには文化がないものと決め」、「原野に出没する野獣とみなす」(235頁)ことを批判する。或いは、彼は、西欧人は、「今日の西欧社会は人類史の局地であり、それは唯一の『文明』と同義語」とみるが、「正教キリスト教、イスラム、ヒンズーおよび極東の諸社会には、それぞれ彼ら自身の社会を、人類歴史の極致であり、『文明』は彼ら自身の社会と同義語であるとみなし、かつ同時代の西欧社会の人々に劣らないほどの強い確信をもって、その相容れない信念をいだいている者が少なくない」(『歴史の研究』245頁)と批判する。こうした批判は、何とも西洋人の歴史観の低劣さを語るに落ちるものだといえよう。レベルが余りにも低すぎるのである。

 また、トインビーは、文明の存続期間は途方もなく長い」ので、衰退・消滅を測定できないなどともするが、成長・衰退・消滅するのは、文明ではなく、その根幹が「富と権力」システムであるということに気づいていない。彼においては、文明概念の定義もなく、文明に国家、宗教、地域などが混在していて曖昧な文明論なのである。だから、彼は、半獣的人間が人間に進化」した「人類の歴史」を約30万年として、「その2%にも及ばない」「二十一文明」とは「同時代に存在しているとみなければならない」(『歴史の研究』268−9頁)とする。だが、期間が僅かだから同時代とするのは実におかしい。いずれの文明にも共通する根幹、即ち「富と権力」システムという点で同一だということが把握されていないのである。

 そして、トインビーもシュペングラーと同様に 生物学的方法をとり、「『種』と『属』の概念を用いて、科学は、個々の存在の特徴を無視してはじめてそれらを種の構成単位として研究できる」としたために、「基本的な事実を不明瞭」にし、「古典古代とその西洋における後裔」のみが「あらゆる歴史的現象を理解できる概念装置を提供」するとし、「証拠資料を曲解し、各文明を前もって考えられた分類体系の範疇にむりやりはめこん」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』20ー21頁)だのであった。トインビーは、「ときおり神話をつくったり、文明と生物を現実にひとしいものとして考えたり、歴史的結論を確証するために生物学的見解に援助を求めたりする点」は、「シュペングラーと同じ」(H.フランクフォートら『古代オリエント文明の誕生』20頁)であった。明らかに、トインビーは「道徳上の偏見」・「進化論者の偏見」をもち、非西欧世界を「公平」に評価することができないのであった(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』17頁)。、

 このように、メソポタミア研究者フランクフォートによれば、シュペングラーとトインビーは「古典古代とその西欧における後裔だけに精通」(H.フランクフォートら『古代オリエント文明の誕生』12頁)しているという限界をもち、「切迫する世界大戦の暗雲の下で」、「文明の衰退を身近に感じ取りながら」文明論に取組み、「彼らの著書は衰亡に心を奪われている」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』5頁)ものとなった。

 ハンチントン サミュエル・P・ハンチントンは、『文明の衝突』(集英社、鈴木主税訳、1998年)を刊行し、世界的に大きな反響をよび起こした。

 彼は、「世界について真剣に考え、効果的に行動しようとするのであれば、現実をある程度単純化した地図なり、なんらかの学説、概念、モデル、パラダイムが必要である」(33頁)として、現実の一般化、現象の因果関係理解、将来予想、重要と非重要の見きわめ、目標の達成方向などを示すとした。問題はこの方法論が対象に的確に適用され、正しい成果を上げたか否かである。

 シュペングラーやトインビーらの文明論がヨーロッパの衰退を背景としていたとすれば、このハンチントンの文明論はアメリカの衰退を背景としていた。1980年代に、ハンチントンは、東アジア、インドなどが経済的に成長する中、西欧は「経済成長の鈍化」、「頭打ちとなった人口増」、「政府の巨大な債務」、「低下する労働倫理」、「のび悩む貯蓄率」・「国民同士の団結力の弱まり」、「薬物乱用」、「犯罪多発」などで(117頁)「政治的、経済的、軍事的」影響力を低下させ(116頁)、特に「アメリカ衰退論」(117頁)の台頭に直面したのであった。そして、「ヨーロッパの植民地主義は終わり、アメリカの覇権も色あせ」、「欧米文化が侵食されはじめ、それに応じて各地域固有の伝統的な価値観、言語、思想、社会制度がふたたび頭をもたげ」、「世界のいたるところで非西欧文化が復興しようとし」(132頁)、「西欧の力が衰退すれば、人権や自由主義、民主主義のような西欧の概念を他の文明に強要する力もまた弱まるだろう」(133頁)と危惧しだした。彼は、東アジアの人々が力強い経済発展は「みずからの文化」により、「成功したのは自分たちが西欧とは異なるからである」(134頁)とした。ここには、非西欧世界の成長で脅かされる西欧優越論者の焦慮・憂慮が看取される。

 そこで、彼は、西欧的観点から対応策を模索しだした。それは「社会科学の研究」としてではなく、あくまで「政策決定者」らに「世界政治を眺めるための枠組み」を提示するものであり、1992年に彼は「文明の衝突」という発想をアメリカ企業研究所で講演し、「オリン研究所の『変化する安全保障の環境およびアメリカの国益』に関するプロジェクトのために準備した特別論文」でこれを発表した(14−5頁)。彼は、アメリカの権力・企業の政策決定に資するために、「冷戦後の世界政治の変化をどう解釈すればよいか」(14頁)を示唆したのである。

 では、彼は、肝腎の文明の定義を的確に行なっているか。彼によれば、文明とは、@18−19世紀ヨーロッパの非西欧社会の支配を正当化するものであり(別の箇所では、19世紀には「『白人の義務』として未開発国を指導するべきだという考え方に助けられて、西欧が政治的かつ経済的な支配を非西欧社会に広げてゆくことが正当化され」、20世紀末には「普遍的文明という概念に助けられて、西欧文化が他の社会を文化的に支配することや、非西欧社会が西欧に生活習慣や制度を見習うことの必要性が正当化」[91頁]されたとする)、A「文明と文化は、いずれも人びとの生活様式全般を言い、文明は文化を拡大したもの」53頁)であり、B「文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方」で、「文明は包括的であ」り、C「帝国は興隆し、滅亡」し、「政府は移り変わ」るが、「文明は長命であ」り(56頁)、D「現代の主要文明」は中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明(59ー62頁)とする。@Dは従来の見解の踏襲に近いが、ABの文明・文化の同一論は不正確である。これは、文明用語の根源であるメソポタミア・ギリシア都市国家文明論が考察されておらず、文明の根幹が後述の通り「富と権力」システムであることが的確にとらえられていないことによる。その結果、「国民国家は現在も今後も国際問題における最も重要な主役であるが、その利益や協力関係、対立は、ますます文化と文明という要因によって方向づけられるようになる」として、文明とは「富と権力」システムを根幹とすることに気づかぬ文明定義の曖昧さに基づく謬見に陥ることになる。

 つまり、彼は、陳腐な西欧的観点に立脚して非西欧世界を見る。彼は、「冷戦後の世界において、歴史上初めて世界政治が多極化し、多文明化した」(22頁)として、@人類の誕生以来文明間の接触は断続的であるか、皆無であり、A西暦1500年ごろの近代の幕開けとともに世界政治は多面的にな」り、「それから400年以上ものあいだ、西欧の国民国家は、西欧文明のなかだけ多極的な国際関係を築き、相互に影響しあい、競いあい、また戦」い、「同時に、西欧諸国は他の文明にまで領土を拡大し、よその土地を征服して植民地化し、すべての異文明に決定的な影響をおよぼした」(22頁)として、明らかに間違った西欧中心史観を露呈したのである。そして、冷戦後でも「文化は分裂を生み出す力であり、また統合をうながす力」(31頁)であり、「この新しい世界で最も幅をきかせているきわめて重要かつ危険な対立は、社会の階層や貧富などをはじめとする経済的な身分の異なる者同士のあいだで起こるのではなく、異なる文化的な統一体に属する人びとのあいだで起こるだろう」(30頁)とした。だが、戦後の世界は「新しい世界」ではないし、基本的対立要因は依然として富をめぐる国家間対立であり、貧富差であり、「文化」差ではないとした。

 こうして、彼は、21世紀初頭、「世界では非西欧諸国が国力と文化的影響力を増大させつづけ、非西欧文明圏の諸民族がおたがい同士、あるいは西欧とのあいだで衝突を繰り返す」(181頁)と、文明衝突論を展開したのである。しかし、彼の列挙する文明衝突例の中には文明衝突ではないもの(「コソボおよび中国の新疆ウィグル自治区」の独立戦争、APECの進展、イスラム諸国家の連帯行動、欧州・北米の移民軋轢、中国とイランおよびパキスタンのあいだの儒教ーイスラム・コネクションが強化、南ア・ナイジェリア・ブラジルの興隆など)が少なからず含まれている。このように、彼の導いた結論は的確ではなかったといえよう。、
 

 また、川勝平太氏は、「湾岸戦争もイラク戦争も、その淵源はレパントの海戦(1571年のスペインとオスマン・トルコとの海戦)にあり」(『近代文明の誕生』日経ビジネス文庫、2011年、75頁)とするが、これなども、聡明な氏らしからず、文明概念の厳密定義を怠った見解と言えよう。古今東西、戦争とは、キリスト教文明諸国内でも国家間戦争があるように、あいまいな「文明の衝突」としてではなく、あくまで国家(或いは国家連合)と国家の衝突として生起するとみるべきなのである。

                                   二 自然科学系の文明論

 近年、「測定・実験・実証などを伴う自然科学の側から文明を捉える」ようになり、歴史地球科学の研究が大いに推進され、『講座 文明と環境』第1巻地球と文明の周期(朝倉書店、1995年)、稲盛和夫編『地球文明の危機』(東洋経済、2010年)などが刊行されている。

 小泉格 まず、我々人類が住む宇宙、地球については、その周期性が自然科学的に解明されている所から確認してみよう。

 即ち、小泉格氏(理学部卒)は、「地球史に見られるすべてのリズムの周期構造」(太陽黒点周期[11年周期]、太陽黒点ヘール周期[22年]、太陽大周期[太陽黒点の200年周期説]、地球磁場の周期性[黒点周期の影響]、ブリュックナー周期[海洋変動の35年周期]、ダンスガード周期[氷床の酸素同位体比の変化周期が1000年と100年]、ハインリッヒ周期[大西洋北部の海底堆積物の漂流岩屑量の周期的変動]、ミランコビッチ周期[地表上の日射量の変化周期で1.9万年から41万年。氷期と間氷期=温暖期を形成]、火山活動・地震の周期性など)から、「人間を含めた生物は、地球環境が内在している多様な周期的変動の影響を受けながら進化してきたので、生体は多くの生理機能に固有の生物リズムをもっている」とする。

 次に、この周期性をもつ地球・生体と文明との関係をみれば、小泉氏は、まず文明を「人類が環境ー気候変動に対して新しい技術革新の方法をもって抵抗すること」と定義する。この「環境・気候」への人間「抵抗」という文明定義は他には見られない自然科学者らしい歴史貫通的な定義であるが、「社会科学」的アプローチが欠如していて文明の実体が曖昧なものとなっている。ともあれ、そういう文明定義のもとに、彼は、「地球環境ー気候の周期的変動を受けて、文明が700年から800年の周期で盛衰を繰り返しているという歴史観」が生まれるのは「納得的」(『講座 文明と環境』第1巻、3頁)とする。つまり、彼は、「文明が気候変動の影響を受けて、周期的に盛衰することは、これまで多くの人々が指摘」(『講座 文明と環境』第1巻、9頁)してきたとする。この「人々」とは鈴木秀雄氏(気候研究)、伊東俊太郎氏(科学史)、安田喜憲氏であるが、これとは別系列で村山節氏・岸根卓郎氏らもまた800年周期説を提唱している。

 村山節 既に戦前から、地理研究者E.Huntington(Civikization and Climate,453p.,Yale Univ.Press,1915)が「気候が脈動的に変化することによって、文明の盛衰や歴史にも脈動的な変動が現れる」(「地球のリズムと文明の周期性」『講座 文明と環境』第1巻、248頁)と指摘し、日本では戦後すぐに西岡秀雄氏(慶應文学部史学科卒)が気候700年周期説を展開していた。

 これらをも踏まえて、「歴史学者」村山氏(村山節『文明の研究ー歴史の法則と未来予測』光林推古書院、1984年)は、「人類文明は有史以来、東西両文明に分かれ、これまでに800年の周期で7回も正確に交代し、今回(2000年以降、東洋文明の大波)が8回目の周期交代期に当たる(『講座 文明と環境』第1巻、258頁)とする。そして、氏は、@前2800年から同2000年に外国人侵入でエジプト衰退し、古代メソポタミア文明が陽の時代となり(東)、エジプト中世的時代が陰の時代となり(西)、A前2000年から同1200年にアーリア族大移動でインド侵入し、エジプト・エーゲ文明は陽の時代(西)、アジア未開時代が陰の時代(東)となり、B前1200年から同400年にドーリア(バルカン)人の民族大移動で、古代アジア文明(メソポタミア・中国・インド)は陽の時代(東)、欧州暗黒時代が陰の時代(西)となり、C前400年〜後400年にフン族反乱と民族大移動やアレキサンドロス大帝の東征で、ギリシャ・ローマ時代は陽の時代(西)、中央アジア(クーシャン王朝)は陰の時代(東)になり、D400年〜1200年にゲルマン民族大移動や乱世で、アジア極東文(中国・古代インド・中央アジア文明は陽の時代(東)、欧州暗黒の中世時代の陰の時代(西)になり、E1200年〜2000年にチンギス・ハーンの跳梁と民族大移動で、 ルネッサンスに始まり、大航海時代を頂点とする西洋文明の時代は陽の時代(西)、アジア没落の時代は陰の時代(東)となると、提唱した。
 
 岸根卓郎 岸根氏(京大農学部卒、文明論の学際的研究者)は、この村山説を踏まえて、「従来の文明論のとる『文明興亡の人為説』に対する『文明興亡の宇宙法則説』」(『文明論ー文明興亡の法則』東洋経済新報社、1996年、増補版はしがき)、「文明の周期交代は宇宙法則によるという文明時計説」(『講座 文明と環境』第1巻、258頁)を提唱する。

 彼は、「従来の文明論では、西洋科学史観にたって、人類文明は見える世界の人為によって興亡するとの、いわば文明興亡の人為説をとってきた」が、「人類文明は、見えない世界の宇宙法則によって興亡するとの宇宙法則説をとる」(『講座 文明と環境』第1巻、258頁)とする。岸根氏は、内山氏の800年周期説を「史実に立証」(実際は立証されていない)されたものと評価して(『文明論ー文明興亡の法則』8頁)、「2極対立・周期交代の宇宙法則による」(『講座 文明と環境』第1巻、259頁)とする。2極対立の宇宙法則とは、「陽と陰、男と女、東と西、生と死、有と無、物と心」のごとく、「この世のすべては、対立する存在があって、はじめて存在する」とするが、これが、宇宙となんの関係があるというのか。岸根氏は「文明もまた、東西文明の2極対立があってはじめて存在でき、そのいずれか一方になればただちに消滅する」(『講座 文明と環境』第1巻、259頁)とするが、これには科学的根拠がなく、さすがに科学者小泉氏も内山・岸根説を引用しないのみならず、後述の通り批判する。人為は、宇宙法則に則った側面と、それに逸脱した側面があり、これらの後者が大きな問題を引き起こしているのであり、人為に厳密な周期性があるなどはありえないのであるる。

 さらに、岸根氏の所説をみれば、氏は、「周期交代の宇宙法則とは、エネルギー移動の法則(「宇宙エネルギーは元は同じエネルギーでありながら、つぎつぎと姿を変えて移動するという法則」)とエネルギー不変の法則(「エネルギーはどのように姿を変えても、そのエネルギー量は不変である」)およびエントロピー増大の法則(「自然界ではエネルギーは拡散化の方向に進み低レベル化するという法則」、ゆえに「エントロピーが最大になった状態では、エネルギーは完全に拡散し低レベルになるから物質の運動は何も起こらないことにな」り、「停止の世界ないしは衰退の世界」に突入する)の綜合作用をさ」す(『講座 文明と環境』第1巻、259頁)としてこれらの諸法則を文明交代に適用する。つまり、氏は、「人類文明は2極対立周期交代の宇宙法則によって、東西文明の2極に分かれ、そのいずれか一方の文明が、エントロピー増大の法則によってエネルギーを拡散し衰退すると、その衰退した文明のエネルギーが、エネルギー移動の法則とエネルギー不変の法則によって、そのまま他の文明に移動するから、その繰り返しによって東西文明は時計仕掛けのように正確に周期交代し、永続できる」(『講座 文明と環境』第1巻、260頁)とする。しかし、@文明を「東西文明」と明確に対立的に区分できないこと、A文明のエネルギーの実体が不明であり、文明間のエネルギー移動の実体も不明であること、B東西文明対立の繰り返しの実体が不明であること、C生命・人間が宇宙周期性に影響されてバイオリズムをもったとしても、それと文明の「周期性」とは関連はないことなどから、人為に宇宙法則を適用することは妥当性に欠けると言えよう。

 Cに関して、岸根氏は、「2極対立周期交代の宇宙法則が、生体の生命リズムを変えたのがバイオリズムすなわち生体時計であり、人類文明の興亡リズムに姿を変えたのがカルチュアリズムすなわち文明時計である」故に、「東西文明は、この文明時計に従い、昼と夜が間違いなく交代するように、かくも正確に時を刻んで交代する」(261頁)とする。同じ時計ではあるが、生体時計と文明時計との内容が異なり、両者の連関が不明である。そして、「人類文明の周期交代は、人為をはるかに超えた宇宙の法則すなわち宇宙の意思によるということになろう」となり、「文明論とは、人類文明に秘められた宇宙の法則(宇宙の意思)の発見の史学である」(『文明論ー文明興亡の法則』11頁、『講座 文明と環境』第1巻、261頁)ということになるとするが、「宇宙の法則」が「人為をはるかに超え」ているとしているように、宇宙法則と人為は別物なのである。
 
 次いで、彼は、今度は文明遺伝子説を説き、「物質が原子の種類によって違い、その原子が原子核を回る電子の数とエネルギーの大きさによって違うように、文明もまた人種によって違い、その人種も地域を取り巻く環境の違い(気象条件や資源の有無や国土の広さなどの自然環境の差、および宗教や政治や経済などの社会環境の差)と、人口の大きさ(エネルギーの大きさ)によって違うことになり、それが文明遺伝子となって、生物の系統遺伝と同様な形で社会遺伝し、その結果、各文明に個性の違いが生じ、それぞれ異なった文明を形成」(261頁)し、「東西文明の交代は・・・エネルギーの交換によるものであり、東西文明の不等価性(優劣)によるものでは決してない」(『講座 文明と環境』第1巻、263頁)とし、文明の実体が抑えられていないから、文明の「違い」を物質と同じ原子になぞらえて文明遺伝子などとしている。しかし、物質の構成要素と文明の構成要素は本質的に異なることは言うまでもなかろう。

 にも拘らず、氏は、東西文明遺伝子について、「2極対立の宇宙法則が、地球の自然環境をしてヒマラヤ山脈を境に、森の東洋と草原の西洋に2極対立させ、さらにそのような自然環境の違いが、人類の調節遺伝子に作用して、人類をして森の民の東洋人と草原の民の西洋人に2極対立させ、その結果、安田によって解明されたように、東洋からは森の文明が、西洋からは草原の文明がそれぞれ生まれ、それらがやがて東洋文明と西洋文明へと発展」(『講座 文明と環境』第1巻、261頁)したとする。つまり、「2極対立の宇宙法則が、・・人類文明をして東洋の自然随順型自然共生型文明と、西洋の自然対決型自然支配型文明に2極対立させ」、「この2極対立によって、東西文明にエネルギー交換がおこり『人類文明に周期性』が生じた」(262頁)とするのである。だが、この「東西文明のエネルギー交換」などは何ら実証されていないし、出来ないのである。
 
 岸根氏は、この文明は寿命をもつと説き、文明800年周期説を導き出す。氏は、文明寿命とは、「文明が宇宙エネルギーを使い果たす期間」であり、「文明耐用年数」(『講座 文明と環境』第1巻、262頁)とし、この文明寿命によって「人類文明に800年の周期性が生じ」、「その周期は宇宙の呼吸ともいうべき宇宙の基本エネルギーリズムの800年周期とも完全に一致」(『講座 文明と環境』第1巻、262ー3頁)するというのである。岸根氏によれば、現在は、「これまでの800年間活動してきた西洋文明のエネルギーが、エネルギー移動の法則によってしだいに東洋文明へと移行し、東西文明の周期交代が今まさに起ころうとしている」とする。しかし、800年周期交代説は、その導出過程が非科学的であり、厳密に800年とはいえないし、それ以前の人類史や南北アメリカ文明などを説明できない。もともと西洋(古代エジプト系統・ヨーロッパ系統)対東洋(西アジア系統・インド系統・中国系統・日本系統など )という発想自体が、西洋的であり、西洋内部、東洋内部にも対立があるのである。 

 では、氏は文明をどう定義するのか。氏は、「文明とは、言葉や文字が論理化され、それらが個人によって認知され、記憶され、蓄積され、特定の個人から他の個人へと伝達され、客観的な知の体系へと発展し、生活が物心ともに豊かになり快適であること」(『文明論ー文明興亡の法則』30頁)と、もっぱら知的側面から文明を定義する。「文明の本質は・・他者に自分の意志を伝える言葉にはじまる」(『文明論ー文明興亡の法則』31頁)ともして、言葉を重視する。しかし、これだと、無文字社会には文明がなかったということになり、文明の実体を正しく把握できないことになる。また、こうした文明定義から文明遺伝子・文明寿命・文明周期が立論されることもなく、両者の連関が曖昧なのである。

 ここでは、文明や文明論の定義こそあるものの、総じて文明の実体が把握されていないのである。文明の根幹が「富と権力」システムであるこがしっかりとおさえられていれば、文明のどこがが宇宙法則と関連があり、それ以外は文明と宇宙法則は関連がないことがはっきりすたであろう。つまり、文明の根幹たる「富と権力」システムの富の側面(天候と深く関わる農業、地球鉱物に関わる鉱業、エネルギー交換に関わる工業)、及びそれを担う人間の生体活動側面(自然の一部である生物の一部として宇宙の法則に従い、人間は食料をエネルギーに転換して廃棄物を捨てる化学工場)は、気候変動に左右されるから、この面では富という人為は宇宙に規定されることになる。しかし、文明全体が宇宙の法則にかかわることはないのである。

 なお、小泉氏は科学者らしくこうした800年周期説を容認せずに、「最初の文明が成立した都市革命以降、改革期が1500−2000年の間隔で周期的に起こっている」(『講座 文明と環境』第1巻、10頁)とした。

 甘利俊一 甘利氏は脳科学の立場から文明を考察する。

 甘利氏は、36−8億年前に生物が誕生し、この生物は「物質の法則に従って時空に展開」するが、「この物質には自分の構造をちゃんと記録する仕掛けがあって、自分と同じものをつくりだす」(甘利俊一「脳科学の立場から見た人間・文明・環境」稲森和夫編『地球文明の危機』108頁)とする。そして、氏は、物質にはない生物の特徴(甘利俊一「脳科学の立場から見た人間・文明・環境」稲森和夫編『地球文明の危機』109頁)として、@「物質の法則を越えて情報が主役を演ずる舞台」=DNAがあること、A「進化の法則」が登場し「環境との相互作用によって・・自分の構造がより環境に対して強いものに変わると、そちらの強いものが生き残」ったことをあげる。その後、6億年前には、「環境の変動に対して強く、生きていく」ために多細胞生物が誕生し(稲森和夫編『地球文明の危機』109頁)、センサーとアクチュエーターとかいう多細胞の役割分担のもとに、情報変換が「積み上がって」「動物の脳」ができるとした(甘利俊一「脳科学の立場から見た人間・文明・環境」稲盛和夫編『地球文明の危機』122頁)。

 そして、700万年前には「人間の原型」ができ、「猿人、原人、旧人」を経て、15万年前に現生人類が誕生し(稲盛和夫編『地球文明の危機』110頁、125頁)、「心というものが我々の脳に生まれた」とする。言うまでもなく、心は人間だけではく、甘利氏も「動物にも心はある」(122頁)と認めているから、「人間、さらに文明を総体的に理解する一つの要が心の働きの理解」(稲森和夫編『地球文明の危機』111頁)とはならない。しかし、甘利氏は、「心は人間以前からあ」り「一種の情動系が動物に共通にある」が(134頁)、人間だけは「その心の働きを自分で見ることができる」(甘利俊一「脳科学の立場から見た人間・文明・環境」稲森和夫編『地球文明の危機』135頁)とする。人間は「内部でシミュレーションができ」、かつ「それをシミュレーションとして意識できる」(稲盛和夫編『地球文明の危機』124頁)とする。そして、「物質の基本法則」の中から「生命という物質」がでてきて、生命は進化と心をもたらし、これが「同時に社会や文明などの源になった」(稲森和夫編『地球文明の危機』111頁)とし、「物質の発展、生命の発展(遺伝情報と脳)、文明の発展」の三段階が「独自の発展原理」をもつとする。

 そして、「遺伝子決定性の脳の設計図」をもつことで、寒冷化などの環境変動、「他の勢力」との軋轢に直面しても幾つかの「危機管理モデルを組み」生き残り、最終的に稲作漁労文明と畑作牧畜文明のニ系譜を形成したとする(稲盛和夫編『地球文明の危機』229頁)。脳の主務は危機管理のためなのである。食料を確保するための行動と危機管理こそが、動物に脳を必要とさせたのである。

 では、脳科学の観点からどのように文明を定義するのか。甘利氏は、「環境との関係で条件が熟さなければ、文明というものは誕生しなかったであろう」(稲森和夫編『地球文明の危機』113頁)とし、「人類が氷河期や乾燥期、また暖かくなる時期を通り抜け、いろいろ苦しい時代を経る」ことで、「苦しさが源となって、結局は知識の伝承」となり、「それがある一定のところまで高まっていくと、本格的な文明がおこる」(稲森和夫編『地球文明の危機』113頁)とする。また、 「マネーが一元的価値を持つに至った文明の暴走」(稲森和夫編『地球文明の危機』115頁)については、脳科学ではこの暴走はおさえられないから、「脳科学を踏まえ、これを越えた、大きな『人間学』をつくっていかなければ解明できない」(稲盛和夫編『地球文明の危機』116頁)とする。このように、甘利氏にあっては、文明の根幹が問われることもなく、文明の定義がなされrぬまま、脳科学と文明の関係が考察されるにとどまる。

 なお、甘利氏は、「遺伝子の仕組みと脳の神経細胞の発生」など「還元したミクロなところでの物質的な仕組み」は「非常によくわかってきて」(稲盛和夫編『地球文明の危機』121頁)いるが、「認識の仕組み」や「その上の心」はよくわかっていないとする。「心の基本的な原理、心のあり方、こういったものは脳科学を超えていて、もっと総合的な人間学が、脳科学と共同してつくっていかなければな」(稲盛和夫編『地球文明の危機』121頁)らないとする。だが、文明の限界を心のレベルで対応するには限界があり、これは文明の根幹が「富と権力」システムにあることを把握できないことによろう。

 大橋力 分子生物学・情報環境学などを幅広く研究される大橋氏は、「分子生物学と情報科学を軸にした知識空間をプラットフォームにする形で学問の枠組みを構築する」(大橋力「利他的遺伝子の優越する生命文明の地平に向かった」稲盛和夫編『地球文明の危機』144頁)として、この情報環境学から「文明の問題」にアプローチし、「利他的遺伝子の優越する生命文明」を提唱する。


 大橋氏は、「文明とは、遺伝子に約束された本来の棲み場所と生き方からやむなく、あるいは自ら求めて乖離し、産業化に転じた人類たちが、そのために生じた環境条件や生存様式と遺伝子設計との不適合から導かれる生存内容の低下を、本来のそれに近づけようとして行なう、居住の固定集積化を伴う高度に適応的な社会行動の体系」(稲盛和夫編『地球文明の危機』145頁)と、遺伝子と環境の観点から文明を定義する。そして、氏は、「産業化」を「遺伝子に約束された本来の棲み場所と生き方」からの乖離とみて、その乖離を調整するのが文明だとし、「生命科学的な概念を骨子」として「自然科学的アプローチ」をして、文明とは、「本来の生存を離れた人類たちが行なう高度に適応的な社会行動」(稲盛和夫編『地球文明の危機』145頁)とする。しかし、文明が実体において把握されるのではなく、本来からの乖離への適応だと外形的に捉えられ、しかもそれが「高度に適応的」などというのは的外れというべきであろう。

 では、大橋氏にとって、「本来」とはなにか。氏は、「文明は環境とのかかわりの中で生まれ」、「文明は大地と人間とのかかわりの中で誕生し、そして発達してきた」とし、「寒冷化にともなう気候の乾燥化が人々を大河のほとりに集中させ、この人口の集中が都市文明を誕生させる一つのきっかけとなった」(稲盛和夫編『地球文明の危機』144頁)が、原点は、「人類の遺伝子と脳の鋳型になった環境」たる熱帯雨林であり、「遺伝子と脳に約束された人類本来の生存様式」たる「狩猟採集生活」だとする。氏は、「人類が起源した環境」は「アフリカ熱帯雨林」(稲盛和夫編『地球文明の危機』169頁)であり、これこそが「本来」だというのである。氏は、「オラウータンの先祖に始まる大型類人猿が脳を特別に発達させつつ歩んできた二千万年になんなんとする進化のハイウェイは、ずっと熱帯雨林の中にあり、私たち現生人類もその例外ではない」(稲盛和夫編『地球文明の危機』169頁)として、「私たちは、祖先たちとほとんど変わらず、熱帯雨林に棲む『森の狩猟民』として設計された遺伝子と脳をもって生きている可能性が高い」とする。

 そして、この「エデンの園」たる熱帯雨林の環境から離れた人類は、「『一次産業』を起こして食べる物を生産」して、「文明に向かっての第一歩」であり、「本来から適応への転換」(稲森和夫編『地球文明の危機』180頁)をし、「畑作牧畜文明」(これは本来を「未開・野蛮」として否定し、それから離れる傾向が顕著。環境世界を無限と見て、人類優位のもとに自然を不可逆的に侵食)、「長江流域起源の稲作漁労文明」(自然回帰の向性を失うことなく抱いている。環境世界を限定的に見て、侵略せず、安定的系。自然回復力を維持しつつ自然共生)が登場するとする。こうして「人類の文明のあり方に、互いに大きく異なる二つの方向性」(稲盛和夫編『地球文明の危機』180頁)が出てきたが、大橋氏は、あくまで「熱帯雨林の狩猟採集生活」が「本来」であり、稲作漁労と畑作牧畜は適応だとする(稲盛和夫編『地球文明の危機』181ー2頁)。大橋氏は、「二つの文明の系譜の間に見られるこの落差は、甚だしい」(稲盛和夫編『地球文明の危機』183頁)としつつも、「畑作の牧畜と稲作漁労という対峙構造が、人類の初期設定としてア・プリオリに存在していたともいえ」ないとする(228頁)。畑作牧畜文明、稲作漁労文明各々にも自然侵食性はあったのであり、両文明の差異のみ強調していては、根幹において両文明が共通して帯びていたもの、つまり「富と権力」システムがドロップされることになろう。

 氏は、「生物としての人類の群れの在り方」の観点からこの二文明を比較して、@「本来の最適な群れの規模と構造」は、「生物の種類ごとに遺伝子で決定」され、「それらの最適な状態で群れ同士が棲み分け」(稲盛和夫編『地球文明の危機』183頁)、ピグミー族の群れ規模は「数家族からなる十数人程度の<バンド>と呼ばれる群れを形成」し、A「稲作文明の中でも本来指向が強い社会」では、日本の字、バリ島のバンジャールのように、「ピグミーに近い最適の規模」に向かい、B「メソポタミア起源の畑作牧畜文明の系譜を踏む大型の適応指向性社会」では、社会規模は大きく、内部構造は「均質で一元的に制御できるのが良い」とされ、「必然的に、群れ同士がぶつかりあって覇権争いを始める」とする。だが、稲作文明でも覇権争いは起こるから、これもまたあまり説得力がない。

 大橋氏は、以上の自らの生命科学的文明史観と安田喜憲『文明の環境史観』とを連帯させて「生命文明科学」(稲盛和夫編『地球文明の危機』179ー180頁)の構築を提唱する。既に2009年9月26日に、大橋・安田は「生命文明科学創設宣言」を発していて、「近現代物質文明の限界を克服し危機を好機に転じつつ生命文明の実現を図る「決め手」として、〈生命文明科学〉を創設する。〈文明の環境史観〉と〈情報環境学〉とを源流とし、現代生命科学を知的プラットフォームとしつつ、あらゆる自然・社会・人文諸科学を自在に包摂しうる学術体制と、同様の芸術・技術体制とを混然一体に融合して、有効、適切、快適に新しい文明の地平を拓いていくことを宣言する」としていた。

 ここでは、大橋氏においては文明が遺伝子学の観点から定義されたのだが、では、大橋氏が連携を標榜した安田氏の文明論とはいかなるものであろうか。
 
 安田喜憲 安田氏は文明盛衰と地球気候の周期性との関係を堆積物を通して科学的に解明した。気候は農業に深い影響を与えるから、文明盛衰と気候周期とは一定の関連があるのは当然であり、氏はこれを堆積物分析で実証的に考察したのである。さらに、氏は科学者らしく文明周期性と気候周期性の直接的関係を問うことはなかった。

 安田氏は、「気候が脈動的に変化することによって、文明の盛衰や歴史にも脈動的な変動が現れる」という先行の気候脈動研究(E.Huntington,西岡秀雄、岸根卓郎、村山節)を踏まえて、「700−800年」周期の検証はまだなされていないが、「気候が宇宙の摂理のもと、永劫循環的に周期性を繰り返し、人類の文明もまた宇宙の摂理のもとに永劫循環的に周期性をもつという歴史観のほうが、よほど人類とこの地球環境の危機の現代を救済する歴史観としてはふさわしい」(『講座 文明と環境』第1巻、249頁)とした。つまり、安田氏は、「人類の歴史がかぎりない未来に向かって直線的に発展するという発展史観のもとでは、歴史を発展させる原動力は生産力の向上と階級闘争」だったが、「気候と人類史のかかわりをみたとき、この歴史発展の常識はまったく当てはまらないことがわか」り、「文明を誕生させ」「新時代を切り開く」時は「気候変動期に相当していること」が解明されたとした(『講座 文明と環境』第1巻、249頁)。

 こうして安田氏は文明の周期説には与せずに、「地球は約10万年の周期で寒冷な氷河時代と温暖な間氷期を交互に繰り返す」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)という10万年周期を説き、安田らが「福井県三方湖の花粉分析の結果」、「間氷期と呼ばれる温暖期は、わずか1万5000年ー2万年の長さしかな」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁く、これは2500−2000年の周期で気候を悪化させるとした。

 具体的には、1万3000−1万2500年前は「長かった氷河時代が終わり新たな後氷期の温暖期に移り変わる移行期」(『講座 文明と環境』第1巻、249頁)だとし、@「晩氷期の気候の温暖化と湿潤化は、旧石器時代の人類の主要食料であったマンモスやバイソンなどの大型哺乳動物の生息に適した草原を縮小させ」、「旧石器時代の人口の増加と人類のオーバーキリングも大型哺乳動物の絶滅に拍車をかけた」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)、A1万3000年前、ヨーロッパでマンモスが絶滅し、ここで、「人類は、大型哺乳動物に代わる新たな食料として植物栽培を開始」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)したとした。そして、1万500年ー1万年前、「後氷期と呼ばれる間氷期」に突入し、「海面は急上昇し、日本列島では縄文人たちが貝塚を残すようになり、森の分化とともに海の分化が発展を開始」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)したとした。

 前8000−前7500年には、「温暖化して安定した後氷期の気候」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)が確立し、@「西アジアでは灌漑による大規模な農耕村落が出現し、神殿が建築され」、「神殿を核とする農耕社会の宗教体系が誕生」し、A「東アジアでは揚子江下流域の河姆渡(かぼと)遺跡、中流域の彭頭山(ぼうとうざん)遺跡などで稲作が始まり、農耕を生産の基盤においた後氷期の文明の骨格が確立」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)し、B前8000年、縄文時代早期後半、日本列島で「対馬暖流が本格的に流入し海洋的な日本の風土が確立」し、「縄文時代の生業に必要な狩猟・漁労・採集の道具がすべて出揃い、日本の海洋的な風土に適応した生活の体系が確立」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)するとする。前5500年ー前5000年には、気候変動で都市文明が誕生し、@「気候最適期と呼ばれる高温期が終わり、気候は寒冷期に突入」し、この寒冷化は「大河の下流域を乾燥させ」、「人々を大河のほとりに集中させ」(『講座 文明と環境』第1巻、251頁)、Aさらに、「気候の乾燥化で砂漠化が起こり、ステップ地帯で牧畜を主体に生活していた人々が水を求めて大河のほとりに集中」させ、先住の農耕民との混合をもたらし、都市文明(エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明)を誕生させ、「王と神殿を頂点とする巨大な宗教体系が確立」され(『講座 文明と環境』第1巻、251頁)、B中国では、黄河文明(1500年以上も遅れて、前3500年に誕生、『講座 文明と環境』第1巻、251頁)ではなく、揚子江中下流で稲作で「都市文明に匹敵する文明」が存在した(『講座 文明と環境』第1巻、252頁)。 
      
 前3000−前2500年には、再び寒冷化して、@「ミケーネ文明やヒッタイト帝国を崩壊させ、地中海世界をはじめユーラシア大陸は民族移動の嵐に飲み込まれた」(252頁)、A「この時代は鉄器時代の形成・確立期」であり、「人間による自然の支配」が強化され(『講座 文明と環境』第1巻、252頁)、「ソクラテスが人間の理性を、孔子が人間の道徳を説くことができるようになったのは、人間が自然からの自由を獲得できたため」で、「自然からの自由を獲得した人々は、人間の幸福を考えるゆとりが生まれた」(『講座 文明と環境』第1巻、252頁)とした。前3000−前2500年、「気候の寒冷化によって大陸で政変や社会的動乱が引き起こされ、そのために大量の気候難民」が海上に押し出され、その一部が来日し、稲作が伝播された(『講座 文明と環境』第1巻、253頁)。前539年、ペルシァのキュロス2世が新バビロニア王国を亡ぼし、捕囚イスラエル人を解放。エルサレムに唯一神ヤハウェの神殿を建築し、ユダヤ教を確立し(『講座 文明と環境』第1巻、252頁)、@同じ頃、インドでジャイナ教、仏教が誕生。北インドでは「インダス川からガンジス川流域へと開拓が急速に広ま」る(『講座 文明と環境』第1巻、253頁)、Aまだ「気候寒冷期」で「飢餓や疫病が多発」し、戦争が多発して(MS)、ここに「慈悲と博愛に裏付けられた巨大宗教が誕生」した。

 1500−2000年には、小氷期(温暖な間氷期の終末期)とよばれる寒冷期に直面し、近代ヨーロッパ文明の世界拡散の開始され(『講座 文明と環境』第1巻、254頁)、「現代は紀元1500年に始まった人類文明史の大転換期・激動の時代の末期に位置」するとした。

 このよう、安田氏は、「2500−2000年ごとに周期的にやってくる気候の悪化が人類に危機をもたらし、その危機を克服する人類の叡智が、新たな文明を生み出したといえるかもしれない」(253頁)とし、大橋氏と同様に文明を危機対応の産物とした。文明の定義はないが、文明の歴史的意義を危機対応にもとめたのである。人類は、危機に直面して、「新たな技術革新や社会システムや思想などを誕生させ、危機をのりきった」(『講座 文明と環境』第1巻、254頁)とするのである。安田氏は、文明の800年周期説を説くのではなく、文明と気候変化との関連を説いていて、それなりの説得力がある。食料は気候と深い関連があり、凶作が農民の租税負担力を殺ぎ、権力に大きな影響を与えることは周知の事実だからである。しかし、安田氏においても、大橋氏と同様に、文明の実体に即した定義がなされてはいないのである。

 松井孝典 松井孝典氏は、宇宙(137億年の歴史)の視点から地球(46億年の歴史)の歴史を見て、こうした周期性とは異なって、「分化」という法則を提起している。

 松井氏は、地球史は「基本的に、分化(均質だった状態から異質なものが分かれてくるということ)が本質」(松井孝典「限界に近づいている地球システムの中の『人間圏』」稲森和夫編『地球文明の危機』22頁)であり、ビッグバン時の「混沌と無秩序状態」の「均質状態」が「宇宙が膨張することによって冷え、冷えた結果、構造が生まれ、分化が起こ」(稲森和夫編『地球文明の危機』22頁)り、10億年ぐらいで銀河、星が生まれ、90億年頃に惑星、生命が生まれたとする(稲盛和夫編『地球文明の危機』22ー3頁)。  
 
 このように地球は冷えるから、地球はサブシステムを分化させて、地球システム(大気、海、生物圏、地殻、マントル、コア、プラズマ圏などからなる)を形成するとした。つまり、氏は、、@原始大気が冷えて、マグマの海が冷えて原始地殻、外核が冷えて内核ができ、内核の分化により形成される磁場が「地球を太陽風から守る磁気圏の形成」(『講座 文明と環境』第1巻、19頁)を導き、A地表温度が上昇せず低下したことで、「地表付近の地球システムの構成に、海・生物圏・人間圏」などのサブシステムを生むとした(『講座 文明と環境』第1巻、20頁)。松井氏は、「生物の存在を、地球という惑星のエネルギー散逸過程に伴う物質循環という視点から位置づけると、生物圏とでも称せられるべき、独自の物質滞留時間を有する物質圏として定義」(『講座 文明と環境』第1巻、15頁)し、「個々の物質圏はそれぞれその内部にそのスケールによって異なるさまざまなエネルギー散逸過程それに伴う物質循環を有する」とした。

 そして、20億年前生物圏が誕生し、「大気が汚染され海洋が汚染され・・酸素が蓄積し」、1万8000年前(最終氷期最寒期)以降の7000年間の地球軌道要素(公転軌道の離心率、軌道上での地球の位置、および軌道平面に対する地軸の傾き)の周期的変動がうまく組み合わさり」、「太陽日射量が増加して、氷期の氷と雪を溶解」し、温暖化し(『講座 文明と環境』第1巻、62頁)、これで「狩猟・採集ができなくなり、農耕や飼育を始めざるをえなかった」(75頁)とした。1万年前に「農耕・牧畜を始めた人類は、そのときから地球史のうえでまったく新しい段階(人間圏の分化)に入った」(『講座 文明と環境』第1巻、15頁)とし、人間の文明とは、「人類が生物圏から分かれ、人間圏をつくって生きる生き方」(稲盛和夫編『地球文明の危機』、13頁、21頁)とした。この「人間圏」は、生物圏とは違う生き方なので、「我々とは何か、何のために生きるか」を考えるようになる(稲盛和夫編『地球文明の危機』44頁)。この見方は卓抜である。こうして、氏は、文明とは「人間圏」をつくることだとして、文明固有の実体を掘り下げる事はなかった。

 さらに、20世紀の人口増加率は、4倍であり、この割合で人口増加すれば、3000年で「全人間の重さと地球の重さが同じにな」(松井孝典「限界に近いている地球システムの中の『人間圏』」稲森和夫編『地球文明の危機』19頁)り、この人間圏で「生じる現象はすべて右肩上がりを前提とし」(稲盛和夫編『地球文明の危機』29頁)、いずれは有限な資源を食いつぶして崩壊するとした。

 これだけではない。現在は「第四紀氷河時代の中の一時的な温暖期である間氷期」(小泉格「日本近海の海流系は脈動していた」『講座 文明と環境』第1巻、62頁)にあるが、松井氏は、「地表温度は太陽からの入射光とその結果暖められた地表からの熱放射が釣り合う形で決まる」から、地球の未来は太陽の「進化」如何にかかっているとして(『講座 文明と環境』第1巻、20頁)、@太陽は「主として水素とヘリウムのガス」からなり、水素燃焼は100億年続くから、太陽はあと50億年くらい燃え続け、A赤色巨星段階になると、「地球はその強烈な放射にあぶられ・・蒸発してガス」(『講座 文明と環境』第1巻、21頁)になり、B太陽光度の上昇で地表温度が上昇すると、それを緩和するべく、二酸化炭素量を減少させる結果、光合成生物は存在しえなくなり、人間圏は消失し、あと5億年で「生物圏」は崩壊し、10億年で海が消失し、あと50億年で地球が太陽に飲み込まれるとするとした(『講座 文明と環境』第1巻、21頁、稲盛和夫編『地球文明の危機』87頁)。

 小括 安田・小泉氏は『講座 文明と環境』第1巻の「あとがき」で自然科学の文明考察の成果を大いに強調する。つまり、彼らは、、@「ここ10年間(1995年ー筆者)の歴史地球科学の長足の進歩」で「太陽活動や火山・地震活動さらには海洋環境や気候変動、それらの影響を受けた生物相の変遷には周期性が存在することが明らかにな」(『講座 文明と環境』第1巻、264頁)り、「直線的な発展史観に根本的な見直しをせまり」、A「地球の自転や公転の周期性、太陽活動の周期性、それらの影響を受けた気候変動の周期性は、地球上の生命体の周期的変化を引き起こし、生物リズムとして生物の進化をもたらした可能性が大きくな」り、B「人間もまた生物の一種である以上、この宇宙的・地球的リズムの影響から自由であるはずがな」く、「分析技術の進歩によって、高精度の周期性が明らかになればなるほど、人間の歴史や文明の盛衰は、宇宙的・地球的リズムと密接にかかわってきた可能性がますます大きくな」(『講座 文明と環境』第1巻、264頁)り、Cこの「人間の歴史は宇宙や地球の周期性に支配され周期的に変動するという歴史観は、根本的に異なった世界観を生」(264頁)み、「人文・社会科学の研究者には新たな歴史観や世界観を生み出す多くの示唆を内包」(『講座 文明と環境』第1巻、265頁)すると総括したのである。しかし、人為に自然科学法則を即自的に適用することには限界と問題があることに留意しなければならない。

 この点を松井孝典氏の所説の吟味から確認してみよう。氏は、「自然とは、ビッグバン以来の宇宙の歴史的産物」(『講座 文明と環境』第1巻、14頁)であり、「科学とは自然というビッグバン以来の宇宙の歴史が記録された古文書を読み解く作業」で、「物理学や化学の法則とは、自然に生じるさまざまな現象の因果関係を簡潔明瞭な形で表現したもの」(『講座 文明と環境』第1巻、14頁)であり、「人文科学や社会科学がヒトの歴史を解読しそこにヒトの営みの普遍性を探る学問」であるとする。ヒトは自然の一部であるから、「ヒトの営みの歴史」が「自然の歴史」の一部であるのだが、両者がいかに関連するかは言及しない。そして、「技術とは宇宙という時空スケールで生じる現象とその因果関係を、ヒトの営みの時空スケールに効率化すること」とする。しかし、宇宙の因果関係をそのままヒトの営みの効率化に適用することが当然であるように述べることは問題である。さらに、松井氏は、人間圏を地球分化活動の一部として他の物質圏と同等に扱うが、これもまた適切ではない。人間圏とは「地球の分化」としては異質な存在だからである。

 実は、この点については、松井氏自ら、@数百万年間人類は「狩猟・採集」という「基本的には動物」のライフスタイルであり、Aしかし、「農耕・牧畜というライフスタイルは地球システムの中の物質循環という視点からみると狩猟・採集とはまったく異な」り、森林伐採・地下水利用などで「地球システムのエネルギーの流れ、物質循環に攪乱をもたらす」(『講座 文明と環境』第1巻、18頁)とし、B「産業革命や近代高等技術文明」による「鉱物資源やエネルギー資源の発掘と利用」は「地球システムの物質移動という視点でみると、もはや攪乱といった程度ではない」(『講座 文明と環境』第1巻、19頁)としているのである。だとすれば、人類が、自然を改造し、エネルギー循環を「富と権力」システムに組み込み始めだしてからは、自然の一部であった生物から離れた「突然変異」種、しかも悪性の「突然変異」種に転換していたことになることが鮮明になるのである。

 生物は「化学反応が上手くオーガナイズされ自己増殖を持った物質装置」(大橋力、稲盛和夫編『地球文明の危機』42頁)とされる。そもそも、生物は、地球物質のエネルギー循環から生まれたものであり、植物は自己生殖・成長ができる自己完結体であったが、食物を周辺から幅広く獲得する動物は、植物・動物からエネルギーを獲得する他律体であり、ここに動物のみが、食料獲得行動を指示する中枢脳を身につけ、その過程で危険に対処し、協調・和を育み、苦悩を和らげるために感情・心が生み出された。人類がこうした生物に一部にとどまっている限り、人類は長い地球エネルギー史=「分化」運動に沿うものであったが、人類が自然改造し、地球資源を取り出し、地球を改変しだしたことで、悪性「突然変異」種に転換していったのである。松井氏の「人間圏」の孕む問題点が、このことを明解に把握させた点で、人間圏という考え方はその重要性が増してきたと言えよう。人類はこの不条理を自覚し、この傲慢さに不安・危惧を覚え、一方で宗教、他方で哲学・倫理を生み出してゆき、世俗の憂いを発散させるために種々の娯楽・芸能を創り出していったのである。

 以上、自然科学系の文明論では、従来の人文・社会系の文明論では明らかにし得ないものを解明してくれた。しかし、自然科学系の文明論では、文明の実体の分析が欠如しており、文明の根幹が把握されていない。安田氏は、「中心文明だとみなされていた文明も、いずれは周辺文明へと没落」し「永遠不滅の文明は存在しない」のは、「人類史を牽引したその文明の原理が、いつかは人類の要求に合わなくなるため」(安田喜憲「新たな文明原理は危機の時代に生まれた」稲森和夫編『地球文明の危機』301頁)とするが、その文明原理の実体が不明なのである。

 しかし、
これは従来の人文・社会系の文明論でも明らかにされなかったことであるから、この点では、自然科学系も人文・社会系も同じだといえよう。それでも、自然科学は、従来の人文・社会系ではできなかった重要な事実、つまりその人為たる文明が悪性突然変異種であることを明らかにした。だが、自然科学をそのまま適用するだけでは文明の実体把握には不十分なのである。ここに従来の人文・社会系の出番があるなどという縄張りを声高に主張するのではなく、総合的・根源的学問論に立脚して、ひたすら学問的に文明の実体に即してその「悪性突然変異種」の普遍的特徴をあきらかにしなければならないということになるのである。
 
 ここに、我々は、文明の原点メソポタミアに立ち返って、文明概念を厳密に定義しなければならないことになる。

 

                                   三 メソポタミアの文明論ー原点

 「富と権力」という富社会の文明 自然社会と長く共存した後に自然改造農法が生み出したこの「富と権力」という富社会の文明とは、人類は、それがいかなる結果を人類にもたらすかなどもわからぬままに、周辺の集団・村・都市国家・領域国家とせめぎあって生き残るためにその構築・整備を余儀よぎなくされたものであった。人類は、周辺の集団・村・都市国家・領域国家からの侵略の危機に防衛するには、同じレベルの「富と権力」のシステムを構築しなければ、攻め滅ぼされ、奴隷にされてしまうのである。人類は、富社会で生き残るためには、いちはやく軍事力、さらには宗教と法とに支えられた「富と権力」システムを構築しなければならなかったのである。

 確かにメソポタミアで最初の古代文明が起きはしたが、メソポタミ研究者が指摘しがちなように、それがが直線的に「後の人類の文明・文化の基本」(月本照男『古代メソポタミアの神話と儀礼』岩波書店、2010年、はしがき)になったというわけではない。つまり、メソポタミアと接触がない地域でも、「富と権力」の文明システムは周辺集団・村・都市国家・領域国家とのせめぎあいのなかから絶えずうまれるということである。この点に関して、ロバーツは、「最初にひとつの中心的な文明が起こり、それが各地に広まっていったのか。それとも世界各地に、ばらばらに文明が発生したのか。あまりにも複雑な問題のため、これを真剣に議論するのはおそらく時間と労力の無駄となるでしょう」し、「どちらの説も説得力に欠けています」(J.M.ロバーツ、青柳正規監訳『世界の歴史』1、「歴史の始まり」と古代文明、創元社、2002年、84頁)とするが、彼は文明システムの骨格を明確に押さえていないので、「富と権力」システムについて今ひとつポイントが鮮明ではないのである。

 この点、マイケル・クックは、文明を農耕と同義語として使用するが、「この(文明という)用語は明白ではない」(マイケル・クック、千葉喜久枝訳『世界文明の一万年の歴史』柏書房、2005年、70頁)と指摘し、文明の定義を試みた。彼は、メソポタミアのシュメール文明、エジプト文明、インダス文明、クレタ文明(前2000年紀)、メソアメリカ文明(前1000年紀)の共通点は、「高度に複雑な社会」であり、具体的に、「文字の発展と、高度に発達した王制」(クック前掲書、1頁)だとする。彼は、諸文明の共通点を見出そうとして、曖昧に使用される文明用語に明確な定義を与えようとしたのである。これは十分に評価できる。だが、「初期の文字は力強い国家を前提にしていたのだが、たいていの人間社会に関していえば、それは王制という国家体制を意味した」(クック前掲書、75頁)として、彼は、文字は付随的としつつも、国家と文字を共に文明指標としたのである。

 我々にとって、国家が文明の指標になるということはわかりにくいことだが、当時の人々にとって、国家(具体的には都市国家)は、中心に神殿を築き、城塞によって敵の侵入を防ぎ、華やかな女性と音楽に満たされた「文明」空間だったのである。このことは、シュメル初期王朝第V期(紀元前2600年)の都市国家ウルクの王として存在したギルガメッシュ(月本昭男『古代メソポタミアの神話と儀礼』岩波書店、2010年、213頁)の叙事詩(月本昭男訳『ギルガメシュ』岩波書店、1996年)からも確認される。それによると、ギルガメッシュは、自然人エンキドゥを恐れる狩人に聖娼(神殿付きの娼婦)シャムハトをエンキドゥのもとに連れて行き、「奥処を開かせ」エンキドゥを誘惑すれば、動物が離れると助言した(12ー3頁)。そこで、狩人は聖娼シャムハトに水場で「未開の男」「凶悪な若者」エンキドゥに「奥処を開」かせ、誘惑せよと命じた(13−4頁)。この通りにシャムハトがエンキドゥに「女の業」を行い、エンキドゥは6日7夜「愛の行為」を行った。すると、それまでエンキドゥと行動を共にしていた動物たちは彼から遠ざかり、エンキドゥは「力弱くな」った。ここに、シャムハトはエンキドゥに、あなたは「賢く、神のようになった」からとして、ギルガメッシュが「野牛のように人々に権力をふるってい」る都市国家ウルクに「お連れしましょう」と告げた(14−5頁)。

 では、今から約4500年前のウルクとはどのような所であったのであろうか。『ギルガメシュ』によると、そのウルクの面積は「一シャル」(約1300ha)であり、近接して果樹園・「粘土をとる低地」が各「一シャル」あり、これに「イシュタル神殿の未耕地」(5頁)があった。城の周りは壁で囲まれ、ウルクの住民は動物や敵からまもられていた。そして、その防御のもとに、支配階級として「諸王、貴族、諸侯ら」(68頁)が君臨し、すでに「鍛冶工」、「銅細工人」・「銀細工人」、「彫刻師」(100頁)、大工・石工(136頁)、指物師(158頁)など多様な「手職人」(78頁)が住んでいた。こうした一定の社会的分業の展開のもとに、上級ビール(シラシュ・ビール、クルンヌ・ビール)、油、ぶどう酒、吸物(140頁)など、それなりに豊かな食生活があった。さらに、「人々は腰帯を締め、日ごとに・・祝祭が催され」、「箱琴や太鼓がいつも奏でられ」、容姿美しい遊女らが「生の歓び」を与えていた(17頁)。これが、当時の人々にとっては、獣の支配する野生世界とは大いに異なる文明だったのである。この叙事詩は、四主題(「死すべき人間」、「友情」、「太陽神シャマシュ信仰」、ギルガメッシュの精神形成)をもっていたといわれるが、都市国家をこのような文明空間としてとらえらており、以後この叙事詩は「古代西アジアにおいて・・1500年間にわたって書き継がれ」(月本前掲書、214頁)ていったのである。

 この都市国家文明論はアリストテレスによって完成されたとも言えよう。彼は、「何びとどいえども独りぼっちであらゆる善をし所有しているということは、これを選ばないに相違ない。人間はポリス的・社会的なもの(ポリティコン)であり、生を他と共にすることを本性としているからである」((高田三郎訳『二コマコス倫理学』下、1998年、137頁)とする。そして、もちろん遊女は未だいたが、ギルガメッシュ叙事詩ではまだ「野鄙」な男女の営みの空間だった都市国家が、「夫婦のあいだに愛の存するのは本性に即したものと考えられる。けだし人間は、本性的に、国家社会的(ポリティコン)なものたる以上に配偶的なものだからであって、それというのも、家は国に先だつところのより不可欠的なものであり、生殖はもろもろの動物に通ずるより共通的なことがらだからである。ただし、他の動物との共通性はそこまでであって、人間が家を営むのは単に生殖の目的のためのみではく、生活の要求する万般のことがらを目的とする」(99−100頁)とされたのである。

 文明指標としての国家はこれでよいのだが、クックが、付随的な文字まで文明メルクマールの一つとすることは問題である。文字よりももっと重要なものがないのであろうか。文字などより、当初の権力である「王制」を支えた重要なものがあるではないか。文字などなくても「王制」は維持できるが、それがなければ、「王制」を存続させえないものがあるではないか。王族を維持し、役人・兵を養い、武器を備え、周辺諸王国を威圧し、或は武力制圧させるのに必要なものがあるではないか。それが、富なのである。富があってこそ、初めて「王制」という権力も存続できるのである。富は権力を支え維持するのである。

 メソポタミ神話の文明論 この「富と権力」の連関が文明の根幹になることは、メソポタミア神話からも裏付けられる。メソポタミアには、エンキ(セム語)=エア(シュメール語)という神がいて、この神は、都市エリドゥの守護神であるとともに、深淵の水(地下淡水)、知性、技術、創造という富生産に関わるシステムを司る神であった。この神は、アン=アヌ(天・星の神、神々の集団[アヌンナキ]の父、玉座占有)、エンリル(「世界の事実上の君主」、あらゆる支配権を掌握する権力者)と並び三体神の一つであった。エンキという富に関わる神が、アヌ、エンリルという権力神に次ぐ第三位の神だったのである。

 この神エンキが守護する都市エリドゥは、「ティグリスとユーフラテスの河口をペルシア湾で結んでいる潟にずっと接近した位置」にあり、地下水が豊富であり、これが地表を支えている「基盤部」と見られ、当初はエンキは「この地のセム人に固有の神格」(ジャン・ボテロ前掲書、351頁)となっていた。このエンキが、灌漑で地下水を農耕に活用する技術を駆使して富をもたらす神とされる。実際には、エリドゥで生活する人々が、地下水を使って農耕をを行うのだが、彼らにとって、それは自然を傷つける恐ろしいことであり、地下水の怒り、たたりを恐れたに違いない。ここに、技術、水の神が灌漑農法を始めたという神話を生み出し、自らの農耕を神認sじてもらい、安堵したのであろう。

 シュメール語神話『エンキとニンフルサグ』(前2千年紀初頭)によると、まだエンキは「三体神」の一つになっていないが(ジャン・ボテロ、松島英子訳『メシポタミア』法政大学出版局、1998年、353頁)、エンキは、井戸を掘り、地下淡水で麦の農耕に着手し(ジャン・ボテロ前掲書、354頁)、「荒れた地味の乏しい地に、彼は農耕を『蘇生させ』、植物を取り扱うことを教えた」(ジャン・ボテロ前掲書、354ー5頁)のであった。この農業の展開によって、エリドゥ内外に産業が起こってくると、これもエンキ神が定めたことだとし始める。シュメール語神話『エンキと世界秩序の確立』によると、エンキは、各地域経済を「運命」として位置づけ、まず、シュメールを「最も偉大で、最も豊かで、最も開け、文明が普及しているという運命を定め」(ジャン・ボテロ前掲書、355頁)、次に、ウルを「海を介して外国とつながる」拠点とし、「大きな港」を開き、その後、メルッハ(インド大陸の西端)には「金と錫のおかげで繁栄するという運命を定め」、次に、シュメールに隣接する地域について、ティルムン(南東)を「ナツメヤシの実と麦類」の供給地、エラム、マルハシ(東方のイラン高原)を「貴石と銀の生産」地、マルトゥ族を「多数の家畜の供給」役と位置づけて、「シュメールの国は自分たちが生産しない、あるいは十分に保有していない消費物資を外国から入手し、代わりに近隣にその栄光と文化とを分かち与え」(ジャン・ボテロ前掲書、355−6頁)たのであった。こうして、エンキは、「全体として、自分が委託されている領域内部における労働と物資交換が、均衡を保ちながら遂行されるように計画を立てる、マネージャーの役割を演じ」(ジャン・ボテロ前掲書、356頁)、灌漑農耕を起動力とする社会的分業を定めたというのである。

 そして、エンキは、この社会的分業の編成に神々を関わらせる。つまり、エンキはこの「領域内部における労働と物資交換」の役割を「シュメールの内部で遂行」し「文化の基本的な部位の機能」を下位の神々に割り当てたのである(ジャン・ボテロ前掲書、356頁)。まず、エンビルルには「ティグリスとユーフラテスの機能を割り当て」、ついで、ナンナには「南部の魚の多い沼沢地」、クッラに「煉瓦の製造」、ムシュダンマに「建物の建築」、スムカンに「野生動物」、ドゥムジに「家畜の飼育」、ウトゥ(太陽の神)に「国の行政司法の円滑な運営」、ウットゥに「衣服に関するすべての領域」、アルルには「人類を制作すること」、ニンイシンナには「売春」=「自由恋愛」、ニンムグに「木工と金工」、二ダバに「出産」、ナンシュには「文字と、それに依存するすべての領域」をそれぞれ割り当てたのである。この社会的分業に従事し富を生み出したのは、いうまでもなく人間であるが、神話では当初は下級の神々がこの富生産を担って、この大きな地域変化の神認を受けたのである。これは、当時人間が周囲との緊張・軋轢・競合から余儀なくされていった「富と権力」システムのもとは、一部の支配階級以外は苦役の日々を味わい、なんでこういう境遇に陥ったのかに呻吟していた事態を、権力者はそれは神が定めた運命だとする伏線である。

 では、権力神話は、この地域的分業の担い手が、下級神々から人間に代わった経緯をどのように述べるのであろうか。前1500年頃作成のシュメール語神話「エンキとニンマフ」によると、「原初の海(ナンム)から出現した神々」は、「世界の諸処に・・小さな場所」を見つけ住み着き、「結婚」して「生計をまかなう必要に迫られ」、「運河を掘」り、「二流以下」の神々が「仕事に駆り出され」たが、厳しい労働に疲労しきって、不満を持つようになった。ナンムはエンキにこれを知らせ、神々の身代わりをつくることを助言し、エンキは粘土から身代わりつくることをナンムに教えた。そこで、ナンムは8人の女神の助けを借りて「十分成熟した人間」を創り出した(ジャン・ボテロ前掲書、360ー1頁)。この人間が神々の「経済的問題と技術的問題」を同時に解決したのみならず、エンキは、「虚弱」者には「王宮付の士官」、「盲人には吟遊詩人」、「不妊の女には売春婦」、同性愛者は「王宮」職(道化役者)などと(ジャン・ボテロ前掲書、361頁)、「素材をあらゆる用途に駆使する能力のある技術者」(ジャン・ボテロ前掲書、362頁)のように、「不具の人間」にも役割を見つけだした(ジャン・ボテロ前掲書、361頁)。富社会では、神々は、人間の健常者だけでなく、非健常者にまで労働を強いたのである。

 さらに、前1600年頃作成のアッカド語神話『アトラ・ハシース』によると、「二流の神々」が労働で疲れ果て、エア(エンキ)が上記解決策で「神々を苦しみから解放」した後に、エアは、殺した一人の神の血を粘土に混ぜて「新しい生き物」をつくることを提案し、ここに、死後も存続する「幽霊」という「神々の特権」(不死性)をもつ人間がつくられた。エアの人間創造の目論見は、「巧妙で、複雑で、正確」なのであった(ジャン・ボテロ前掲書、363頁)。

 こうして、エア=エンキは、人類の「創造主」にして「熱心な保護者」(ジャン・ボテロ前掲書、364頁)となった。以後、人々が「労働に従事し、生来の務めを熱心によく遂行したために繁栄し、驚くほど数が増えた」ので、エンリルは、「増えすぎた厄介者」を減らすために「疫病」を蔓延させた。エアは自分が作った人間を生き残らせようとして、寵愛する「最高賢者」(人間の)に災禍を食い止めるように指示した。エンリルは、「愚弄」されていると激怒し、大洪水を送りこむことを決意した。そこで、エアは、「彼らの王の意志」に背いて、さりとて告げ口はできないので、最高賢者に夢を見させ、間接的に洪水対策として方舟をつくらせた。これによって人間は生き延びたが、エアは「王の意志」を一部生かすために、不妊の女性、「子供を持つことを禁じられている宗教身分の女」、幼児を死なせる女などを創り出した(ジャン・ボテロ前掲書、365頁)。

 こうして、メソポタミア人が、「技術を統御する神」を重視したのは、「この地の文明全体、彼らの生活すべてと彼らの生き方すべてが、歴史の黎明期以来、なによりもまず共同の労働、生産と有用な財の粗放的加工に基盤を置いてきたから」(ジャン・ボテロ前掲書、377頁)である。権力が自らの基礎たる富生産のための技術を重視し、王の側近には技術にたけた「宰相」などを登用していた(ジャン・ボテロ前掲書、373頁)。これは、現在の権力も同じであり、経済・財政技術に通暁した官僚などを重用している。富社会誕生以来、権力は自らを支える技術を重視し、余すところなくそれを駆使し、国富増大に邁進してきたのである。これが、古今東西変わらぬ権力者の国家運営方式なのである。

 このように、メソポタミア神話からも、文明とは、「富と権力」のシステムを根幹とするものなのであり、宗教と法などに支えられたものなのであることが確認された。

 この「富と権力」システムを根幹とする文明が、農業文明・商業文明・工業文明とも称されるのは、国家のよって立つ富の源泉を表したものであり、開墾政策(古代・中世・近世農業政策)・商業政策(絶対王政の重商主義政策など)・工業政策(産業革命後の経済政策)などはその富の増加に関わる権力政策だとといえよう。そして、この文明を支える国家がその富を租税として強制的に徴収して、王族を維持し、役人・兵を養い、武器を備えることを可能としたのである。近世以降には、戦争・景気刺激などの臨時費調達の必要が迫られと、将来の租税を担保にして国債を発行し始める。国家は、国家経営のために絶えず経費を膨張させたことによって財政危機に直面し続けてきた。この間、富(生産力)の増加と専制・民主の相関によって国家形態は多様な姿態を取り、古代国家(奴隷制国家)・中世国家(荘園制国家)・近世国家(封建制国家、その最後の国家としての絶対王政)・近代国家(ブルジョア国家)などとなるが、一貫して国家を物質的に支えたのは富を強制的に収奪した成果たる租税であった。

 なお、
『朝日新聞』(平成23年12月4日付朝刊)は、「借金が民主主義を支配する」という記事を一段冒頭に掲げていて、そのスケールの大きさと意気の高さは大いに評価できる。しかし、各地の研究者の貧弱な学問水準・能力という現状に制約されて、総合的・根源的な学問方法論がないために、個人の借金(個人の格差・貧富さ)と国家の借金を混同し、帝国主義との関連からみたアテネ古代民主主義や近代民主主義の意義(言うまでもなく民衆意見を反映しようとすること)と限界(奴隷主、支配的資本の「帝国主義」的支配・収奪のために民衆意見・利益が歪曲されること)の言及もなく、既存の個別研究者の断片的知識をつなぎあわせるだけにとどまっているかである。元来、「富と権力」システムのもとでは、民主制ですら帝国主義的搾取などのために民衆の声は制約されるものであり、支配的資本の利益に規定された国家経営の諸経費は不可避的に膨張し、国家借金もまた増加する構造になっているのである(近代については、拙著『日本外債史論』など参照)。換言すれば、重要なことは、民主制という形態ではなく(つまり、民主制という形態の美名のもとに、権力や支配的資本によって民衆の労働成果が公然とあるいは巧妙に収奪されるということである。例えば、アテネ古代民主制[強大な海軍をバックに内に奴隷制、外に植民地を擁して内外民衆を収奪]や現代アメリカ資本主義[強大な軍事力をバックに、ドル紙幣を世界に散布し、特に金融工学を駆使した金融資本が「無知」な各国民衆を「歪み」是正などと称して収奪]のように、民主制は他国民の収奪に好都合でもあったということを想起されよ)、民衆の利益のための民主的決定のシステムであるかどうかということである。

 文明と文化 さらに、国家を支える「宗教と法と軍事力」のうち、法と軍事力は秩序維持のための強圧的か物質的な国家装置であり、権力宗教は国家威厳・正当性などを補完する国家装置となる。因みに、その文明の波及過程で独自に各地に持続する固有な宗教(自然宗教)・言語・芸術(ここで特に重要なものが自然社会の文学[その典型が日本の『万葉集』]などである)・建築などが文化ということになり、故に文明の侵入或は導入に際しては各地の文化との抵抗と妥協が多様に生じることになろう。文明は文化をとりこみ、時に文化で補完されつつ、時に文化に批判され、崩壊させられることにもなり、文明と文化の関係は複雑多様なものとなろう

 文明と文化の関係が多様になるのは、文明の側に原因があるというより、文化それ自体が多様で広汎であることによろう。その結果、文化の定義はまちまちとなり、文化に関わる専門研究の数だけあるということになる。しかもその多くは文明概念の定義を視野に入れていないので、一面的なのである。ここでは、文明との関連で文化について最大公約数的な定義をしておくと、「文化とは、『富と権力』システムの下で人間がある地域社会成員として生活する過程で獲得する『衣食住、娯楽、学芸、宗教』など多様な生活習俗の総体」ということなる。それは、高邁な芸術・思想・精神のみならず低俗で濁ったものも併せ持つ精神活動・価値観ということであり、一言でいえば、文化とは高邁で美しい精神的なものだけではないということである。

 この文明と文化の関係について、メソポタミア神話は興味深い示唆をあたえる。メソポタミア人は文明の恵みに「メ」という概念を与えた。この「メ」は、「ある文化領域の全体であると同時に、組織化され文明化された生活が獲得し、その本質的特性にまで還元された知識・経験」である。この「メ」という獲得物は、「神の『発明』や決定の結果ともみなされ」、ゆえに「神々の立てるプラン、神々が生物・無生物を問わずすべての存在に付与する運命の、それぞれの内容」ともなる(ジャン・ボテロ前掲書、357頁)。後者のプラン論については、クレマーも、「メ」は「宇宙の実在と文化現象にそれぞれ内在する一定の法則や規則を指しているらしい」(S,N.クレマー『歴史はスメールに始まる』新潮社、昭和34年、80頁)としている。

 ジャン・ボテロによると、メソポタミア神学者は、この「メ」について、「百あまりの項目を挙げて一編のカタログ」を作っている。S,N.クレマーもこれを取り上げ、「<文明(厳密に言えば「文明と文化」というべきであったろう)とその要素>という名にふさわしい、文明分類の最初の記録」(S,N.クレマー前掲書、94頁)として、順番に番号を付して68のリストを挙げている。(1)−(17)番のリストは、権力宗教と権力にかかわるものであり、やはりこれが筆頭におかれていたことがわかる。そこで両者を参考に、この「メ」について、「富と権力」システム(文明)とそれを支える、あるいはそれと関わる文化という視点より筆者なりにまとめてみると、下記のようになる。

  権力ー(1)主権、(3)崇高にして恒久的な王冠、(4)王位(「平和な状態と王位の安定」)、(5)尊き笏(「高貴なる王笏」)、(6)宝祚、(9)王権(王権を規定する    「牧者であること」)、(18)クルガルウ(宦)、(19)ギルバダラ(宦官)、(20)サグルサグ(宦官)、(33)長老職、(34)英雄、(35)権力、
  掟・法ー(26)掟、(63)審き、(64)判決、
  
軍事ー「軍事生活」、(21)軍旗、(23)武器」、被征服者の「哀歌」、(38)都市の破壊、(42)外国の反乱」

  職ー「商業」、「技術」、「家畜飼育」、「灌漑」、「火の起こし方」、消化術、(45)「木工」、(46)「金属の鋳造」、(47)写字家、(48)鍛冶職、(49)革職、(50)大     工職、(51)かご編み職、「助言を行なう能力、公正に裁く感覚、決断」、「義務労働」、
  住ー「家造り」、「集合家族、
  娯楽ー(25)「売春」の男女の専門家とこれに関わる「性的な商売」、
  学芸ー(28)芸術、(31)グシリィーム(楽器)、(32)音楽、(65)リリス(楽器)、(66)ウブ(楽器)、(67)メシィ(楽器)、(68)アラ(楽器)
  宗教ー(2)神権(世界全体を要約する「神性」)、(7)聖なる神殿、(8)聖職、(10)永遠の女権、(11)斎(いつ)き女(神殿)、(12)イシブ(神殿の宦官)、(13)    ルマア(神官)、(14)グトゥグ(神官)、(15)真理、(16)冥府降り、(17)冥府脱出、(29)祭室、(30)神殿の僕、

  人事・感情ー(24)性交、(27)侮辱(誹謗中傷)、(36)憎悪、(37)正直、(39)哀悼、(40)心の喜び、(41)虚偽、(43)善、( 44)正義、(52)知恵、(53)   看護、(54)潔斎、(55)畏れ、(56)恐怖、(57)闘争、(58)平和、(59)敗北、(60)勝利、(61)評議、(62)苦悩

  最後に、「これら全体あるいはさらに多くの分野を統括し、技術の取得と実践を主導」する「知性と知識」(ジャン・ボテロ前掲書、357頁)。

 メソポタミア人、世界で最初に富社会を経験したメソポタミア人は、富社会という文明がもたらした多様な文化総体をこのように概括したのである。彼らは、自然社会とは異なり富社会の「獲得物」を性商売まで含めて見事に要約したのである。ここには「文明と文化」の総体的相関図が的確に語られているのである。

 こうした総体的相関図からみれば、前述のエンキ神は、「文明生活の創造者」「唯一の先導者」であるのみならず、「万能技師」としても、こうした「国の複合的で精緻な存在のメカニズム」=「文明と文化」の複雑なメカニズムの調整者でもあったことになるのである。エンキ神は、具体的には、前述の様に、ウトゥ(行政司法)、エンビルル(「ティグリスとユーフラテスの機能」)、ウットゥ(衣服)、ナンナ(「魚の多い沼沢地」)、スムカ(野生動物)、ドゥム(家畜の飼育」)、クッラ(煉瓦)、ムシュダン(建物)、ニンムグ(木工と金工)、ニンイシンナ(「売春」)、アルル(人類制作)、二ダバ(出産)、ナンシュ(文字)などの下級神に割り当てたのである。エンキ神と配下の下級神によって、「文明と文化」の総体の秩序が維持されるとしたのである。権力者は、こうしたエンキ神の「知性と知識」で文明と文化の相関的な「獲得物」を調整しようとしたのである。

 だが、現実には、文明が各地多様に生み出した文化は、その多様性の故に権力を支えるだけではなく、それを批判し、突き崩そうとするものともなったのである。人々は、日常的に「争い、勝利、誹謗中傷、へつらい」、屈辱、虚言などの社会的ストレスにさらされ、それが権力の民衆収奪批判のエネルギーを増幅させるのである。だから、権力者は、こうしたエンキ神の「メ」をほしがるであろう。シュメール神話『イナンナ女神のエリドゥ詣で』によると、ウルクの守護損イナンナ女神は、「エンキ神の都エリドゥへ出かけ」、「世界秩序の根源となる律法『メ』を掌握」していたエンキ神に「メ」を求めた。エンキは酒宴ですっかり酔い、つい「請われるまま文明の源である『メ』を全部やってしまい」、イナンナはこれを船に積み込んで自分の都ウルクに漕ぎ出したという話がのっている(岡田明子・小林登志子『古代メソポタミアの神々』集英社、2000年、67頁)。これなどは、ウルクの権力者が富社会の乱れた秩序をエンキ神のもつ「メ」に助けを求めようとした現れであろう。以後の権力者もまた、基本的にはこうした「メ」装置を求めてゆくのである。古今東西、権力は、物理的には軍事力・警察力で強制的秩序を維持しようとし、宗教が「メ」装置の中核ともいうべものであるが、宗教の影響力の希薄化した現代ではそれにかわるものとしては情報ぐらいしかなく、政治はますます混迷して民衆の支持を得られず、経済も先進国ほどますます停滞するであろう。だからこそ、総合的・根源的学問によって、富社会の始発点たるメソポタミアまで含めた現在の総体的把握が必要になっているのである。

 また、よく文明の特徴としてその高度・複雑さが指摘されるが、文明が高度・複雑であるか否かは、それ自体は枝葉末節的なことである。なぜなら、人間の細胞組織を初めとする自然のつくり・営みは、初めから高度・複雑であり、人為的な高度・複雑さなどはとうてい自然の高度・複雑さの足元には及ばないからである。文明の高度・複雑さ如何自体は文明のメルクマールにはならないということだ。そして、欧米で案出されたこの「文明」用語は、自然を野蛮とみなし、「富と権力」という人工物を進歩・開明とするという一面的見方に基づいており、それが内包する諸問題を軽視するものだということにも留意しておこう。


                                四 諸革命と人間運命の岐路 

 文明の定義において、富=経済を欠落させると、国家の変革、異文化交流などの非経済的側面のみが問題になりがちである。例えば、西川長夫氏『国境の越え方』(平凡社、2001年)などは、経済的アプローチが希薄であり、文化・文明レベルでの国境の越え方のみを取り上げ、多国籍企業の展開・外国人労働力などは「国家崩壊」の徴候であるなどと、的外れな捉え方をしている。これなどは、文明概念をその根幹たる「富と権力」システムにおいてとらえきれていないことに基因している。

 このように文明の定義の重要性を再確認した上で、諸革命と人間運命の岐路との関わりの問題に戻れば、航海革命、産業革命、情報革命などは、「富と権力」システムに変容を強いるものではなく、あくまで「富と権力」システム下での富生産面での「大きな変化」でしかなかったということになる。それは、生産技術の工夫で富の生産を増加させ、人類に「我々は豊かになった、進歩している」という錯覚を与えたにすぎなかった。国富、所得、地価など数値でその「進歩」を証明しようと試みるものもいるが、だが、それは、大きな矛盾・問題を絶えず随伴させつつ、この「富と権力」システムを動揺させ、いずれは崩壊させる危険(大恐慌・金融恐慌、財政危機、公害、地球環境危機、食糧危機、貧富格差問題の深刻化など)を生み続けてきたのであった。これが、経済の成長というものの正体であった。こうした「富と権力」のシステムのもとで、GNP・GDPに代わる指標としてGNH(この本質については、GNHを歴史的に論じた拙稿[『仏教経済研究』所収]参照)などを提案したところで、本末転倒の試みだというほかはないのである。不幸な状況があるから幸福が問題になるのであり、即自的に幸福な状態にあるならば、幸福度などはまったく問題にならないからである。目ざすべきは、幸福度の上昇などではなく、幸福度如何などが不要になる社会の実現なのである。

 ただし、こうした民衆本位のシステムが世界的に実現する過程は、従来の「富と権力」システム転換の過程なのであり、故に環境革命などというレベルではなく、文明革命という高いレベルで把握するべきことになろう。そこでは情報革命が大きな役割を発揮する事が期待されており、その期待通りになるならば、この情報革命は文明革命という農業革命と並ぶ大画期を推進し実現するものとなりうるであろう。その意味で、人類は今まさに第二の大きな岐路、しかも今度は第一の岐路とは異なって明確な意図と決意をもって踏み出すことの可能な大きな岐路にさしかかっているのである。

 こうした展望は「千年視野」・「古今東西」の視点の導入によって初めて可能となるのである。確かに多くの論者が今後の展望について多くの意見を述べている。中でも、良心的意見の最大公約数的なものは、「がむしゃらに成長を求める時代は終わった。多くの経済大国は、成長の副産物として貧富の格差や環境破壊を生み出してきた。わが国は、それとは異なる『脱成長』の経済モデルを示し、エネルギー消費を抑制しながら、安定した社会基盤と豊かな自然環境を備えた成熟した国造りを目指すべきあろう」(小原克博「安全神話とは何だったのか」『京都新聞』2011年5月10日)というものである。だが、ここには根源と総体がなく、ゆえに「安定した社会基盤と豊かな自然環境を備えた成熟した国造り」という展望が空疎なのである。ありきたりの見通しで、何か肝腎なものが欠けているのである。「千年視野」・「古今東西」の視点が欠落しているのである。

 本物の学問のささやかな課題の一つは、こうした「千年視野」・「古今東西」に立脚して、人類がこの「自然社会」と「富社会」という二つの社会をいかに辿ってきたかを解明して、「富と権力」システムの諸問題と行き詰まりを明らかにして、それに代わるものとして即自的に幸福な社会と、それを実現するためにの新国際システムを根源的・総合的に人類に提示することとなる。学問は基本的方向のみを示し、具体的な処方箋とプログラムは、ごく普通の生活人が真剣な討議を幾度も幾度も積み重ねてつくりだしてゆくであろう。EUが既存システムを残しつつ推進するのでさえ百年、二百年かかると見通しているように、それには、最低でも百年、二百年の期間が必要になるであろう。だが、生活人は、愚かであるかもしれないが、賢く逞しいのでもあるから、その期間は短くなるかもしれない。


 
                   


                                    学 問 惟 新 宣 言


 基本的諸問題 現在の学問は、我々が将来の人間のためにいったい何をするべきかを指し示しているか。我々は、そういう学問を行っているか。

 大局的に、宇宙・地球・自然とは何かを絶えず念頭におきつつも、具体的に、そもそも人間とは何ものであるのか(1)、人間は動物と一体どこが異なるというのか(2)、なぜ人間だけが富を求め出したのか(3)、その富は権力を生み出し、いかなる諸問題をひきおこしたか、それとの関連で権力は史上最初の法をどのように制定したか(4)、権力を推進軸に展開する政治とは何か、経済とは何か(5)、はたまた現在大きな災厄にもなりはじめた貨幣・金融はどのように始められたのか(6)、いつの世にもどこにもあった宗教とは何なのか(7)、なぜ人間は戦争をして(ヘロドトス(8)、トゥキュディデス(9))、未だに懲りずに人間だけが戦争をし続けているというのか、ではいったい何がかかる人間にとって「運命の岐路」になったのか(10)、 我々はこれらを根源的・総合的に解明する学問を行っているかということである
(11)

 
人間が富社会に突入して数千年、現在人間は途方もなく大きな課題に直面している。それは、宇宙・地球・自然に誠実に生きることと、富社会のもとで「富と権力」に関わって余儀なくされる諸問題ー自然を浪費・改造・破壊しつつ自然保護を叫んだり、人間を富獲得に駆り立てつつ弱者・貧民救済を唱えたり、経済・政治を混迷させつつ経済再生・政治改革を標榜したり、平和を叫びつつ紛争・戦争をとめどなく繰り返すという諸矛盾ーである.。つまり、宇宙・地球・自然の摂理に誠実に生きていれば、よほどの外部衝撃(惑星衝突など)さえなければ、人間はあと数十万年、数百万年、或いはそれ以上生きながらえたであろうに(12)、このままでは人間の余命は数百年、数千年などになりかねないという極めて深刻な事態に直面しつつあるのである。このままでは愚かな人知が「まさかこうなるとは予想だにしなかった」と嘆き悲しむのが目に見えているのである。

 こうした富社会に関わる諸問題こそが、現在の人間が普遍的に直面する基本的諸問題なのである。

 個別専門研究だけの問題性 にもかかわらず、我々は、現在の諸問題をありきたりのツール・タームに甘んじて、目先ばかりを見て中途半端に皮相的に分析し、重箱の隅をつついてばかりいるのである。個別研究ぐらい、安易で怠惰な行為は無いのである。それは素人にはいかにも「自分は学問している」という体裁・外観を取り繕わせたとしても、学問的蓄積ある眼差しからすれば、「個別研究だけでは学問などにははるかに程遠いこと」は一目瞭然と喝破されるものなのである。

 例えば、「経済専門研究者」と称する者は、「成長無くして発展はない」(13)、「自由競争こそが効率性を促し、利益を実現する」、「保護撤廃しなければ世界から取り残される」、「世はグローバル社会である」(14)、「国際金融戦略を立案しなければ、国際市場での敗者になる」、「外圧に対抗しなければ飲み込まれる」、「諸問題の解決には高度の専門家の育成が重要である」などと称し、時には恫喝して、時にはあらさがしをして、あてにならない人間判断のもとに国民をたぶらかし、せせこましい個別研究に安住しようとしている。こうした傾向は、経済研究者に限らず、あらゆる個別研究に跋扈しているのである。個別研究者はひたすら狭い領域や縄張りに甘んじているだけなのである。

 概して、「専門家の智恵はどんなにすばらしい智恵だといっても、物理学者だ、生物学者だ、遺伝学者だ、生命科学者だと言っても、その人の智恵は五パーセントか六パーセント」(15)にすぎないのである。専門家の智恵などは極めて不十分なのである。政府の有識者会議などと称するものは、予め浅薄で非学問的なる官僚が作成した政策に「はくをつけ」、正当化するために、学識ある専門家と称する人々の審議を経たという大義名分を繕うものに過ぎない。政府の御用会議にのこのこ出席するような「有識者」に真の学者などがいるわけがないのである。

 こうした個別専門研究だけの問題性、有害無益性、危険性は、実は数百年前からつとに指摘されてきたところである(16)。なぜ、個別専門研究だけでよしという傾向になったのか。それは、「富社会」が、研究を飯の種とし、富の蓄積に役立たせようとしたからにほかならない。こうした飯の種としての専門研究などは専門学校・職業学校や世俗的研究所などにまかせておけばよいのである。

 では、現在、学問を担うべき機関がその本来的機能を果たしているかというと、近代科学技術が無慈悲に研究細分化を要請し、飯の種としての個別専門研究をあちらこちらに跋扈させ、学問的世界を蝕み、人類に大所高所から根源的俯瞰を与える学問を麻痺させてしまっているのである(17)。マックス・ウェーバー『職業としての学問』(18)は、大所高所に基づいて展開すべき学問を世俗化して当然と開き直ったものといえよう。

 西欧学問方法論の限界 このウェーバーはもとより、アダム・スミス、マルクス、ケインズ、シュンペーターなど西欧人は、「自然との対決」を優先し、自然の克服を当然とし、自然社会論を欠落させ、富社会のみを考察したのであり、論理的整合性はあったとしても、対象と問題意識・切り口には大きな問題があったのである。彼らは、アリストテレス以来の「学問とは論証である」という間違った学問論に立脚しているのである。しかも、それは、アリストテレスに先立つ、ホメロスの「帝国主義」的拡張路線(19)に淵源し、ヘシオドスの「自然社会」的アプローチ(20)を放擲しつつ巧みに労働論を取り込む(21)という、帝国主義的危険性をもった学問論に立脚しているのである。彼らは、帝国主義的危険性を払拭することなく、論理的に証明できれば学問的に解明されるものとしてしまったのである。

 その結果、欧米ではいずれも正しい学問方法論をもたなかった、否、もてなかったのである。もとよりウェーバーとマルクスは社会科学の泰斗・古典などではなかったのであり、そこに安住したり、そこを前提とすることは、学問的に適正ではなかったと言わざるを得ない(22)。スミスもマルクスも「富社会の経済学」という同根に咲いたあだ花でしかなかったのである。

 そもそもこれまでの社会科学とは学問たりうるものではなく、その方法論もまた学問的とは言い得ないものなのである。実際、社会科学の一つとされる経済学などは学問などにあらずして、権力統治の方便でしかないのである(23)。経済とは世俗そのものであり、その要諦は生産・流通の全過程において「自然を畏敬し自然に感謝しつつ、相手の喜びと幸せになることをひたぶる誠実に行なう」という一言に尽きるものである。スミス、マルクス、ケインズ、ミクロ・マクロ経済学などをわざわざ学んで「有害無益」に小賢しくなる必要などは一切ないのである。況や経済哲学などで経済の世俗性を糊塗しようとしても、そのこびりついた世俗性は到底払拭できないのである。

 これにとどまらず、こうした学問研究を本務とすべき諸機関機関の学問的麻痺・鈍感化によって、研究が即学問と錯覚し曲解して、現在学問は危機的状況に陥っているといっても過言ではない(24)

 総合的・根源的学問の重要性 ここに、個別専門研究だけとは根本的に異なって、大所高所で社会・世界を「自然社会」と「富社会」として総合的・根源的に正しく見通せる学問がますますその役割をは大きくしてきているように思われる(25)

 現在、我々が直面している諸問題は、昭和の一定期間、平成の一定期間などによってもたらされたものではなく、数万年に及ぶ人類の営みの帰結なのである。従って、大正・昭和の一定期間、平成の一定期間だけを取り上げて、これこそが最先端の個別研究などと称し、そこには今までにない固有な特徴があるなどと主張し、それが現在にも影響を与えているなどと非学問的で狭い仲間内だけで自己弁護しても、それだけやっていたのでは、素人には気がつかないとしても、現在の諸問題の「根源的な解決」にはほとんど役には立たないのである。とうてい学問の態をなしていないのである。千年視野・古今東西という高い学問レベルに立つことができるならば、この程度のことは一目瞭然なのである。

 我々は、一定期間の特定対象を取り上げてこと足れりとする事に安住してはならないのである。将来の人類のために、新しい人類の生き方を根本から見直すことのできる学問を明らかにすべき時代に入ったと思われる。総合的・根源的学問とは、そのための基礎であり、基盤となるものであり、諸問題を個々別々にでなく、便宜的・刹那的にでなく、権力・企業に迎合的にでなく、将来の人類のために、千年視野に立脚して、総合的にして根源的に「自然社会」と「富社会」とを考える学問であるように思われる。

 世界に普く学問的真理を照り輝かすことのできる総合的・根源的学問という名の「資産」こそが真の「資産」である。俗人が数兆円の物的資産を築き上げようとも、永久不滅な真の学問という名の資産にははるかに及びもつかないのである。

 総合的・根源的学問の方法論 では、「自然社会」と「富社会」とを考える、こうした総合的・根源的な学問の方法論とはどういうものか。幾つかの個別研究に通暁した上で、人類の直面する諸課題を総合的・根源的に解決するテーマと方法を見出し、こういう学問を構築するべく尽力している学者同士で切磋琢磨して、総合的・根源的学問の方法論を精緻化してゆくことが重要となろう。

 これを具体的に考える上で、大いに参考となる国の一つが、地震・風水害という天変地異のもとで、実に感受性豊かに自然と一つになって、世界的普遍性をもつ「自然社会」を生み出した日本ということになろう(26)。最近、「日本力」とか、「日本らしさ」などということがさけばれだしたのも、こういう新しい根源的動向を反映していよう。だとすれば、日本でこうした変化を日々経験する学者は、この問題を総合的・根源的に考える学問を世界の人類に指し示さなければならないであろう。我々は、「西欧の輸入学問」から飛び立つべき時期に立ち至ったというべきであろう。


 本物の学問人の基本的使命 ここに、「自然社会」と「富社会」とを考える、こうした総合的・根源的な学問の構築こそが本物の学問人の基本的使命であることを広く世界に表明し、我々は、将来の為に大所高所からこれを日々使命感をもって実践する決意を広く世界に宣言する。

 「自然社会」との比較のうちに「富社会」の根幹が「富と権力」(27)であることが鮮明となり、この「富と権力」を根幹とする「富社会」が人為的な成り行きで登場して人為的な弥縫策で維持・存続しようとする限り、表面で共存・共生を標榜し、愚かな人智を誇示しても、富をめぐって国家間・企業間・個人間の競争・対立が絶え間なく起こり、権力やそれに与する「御用学者」らが存続を賭して枝葉末節の「政策」・「戦略」をうちだしたところで、少なからざる人々が指摘されるように(28)、人類は破滅に向かって歩んでいるように思われるのである。まさに、我々は、「人類の余命は残り数百年、数千年などになるという極めて深刻な事態」に直面しつつあるのである。

 こういう危機的状況において、もはや個別研究だけに安住する態度は許されず、さらにまた断片的・目先的知識や、不法な非学問的セクショナリズム・縄張り根性などは言語道断・以ての外と言うべきであって、ここに総合的・根源的学問が、限界のある西欧方法論ではなく、普遍性のある日本方法論に基づいて、大きな役割を発揮する時代が訪れたと言うべきであろう。

 さあ、深く学び、広く学び、大いに学び、本物の学問を築き上げ、人類に過去・現在の姿を適確に解き明かし、将来の指針を示そうではないか。




                       2011年3月6日初稿、3月23日第一回補訂、4月10日第二回補訂、4月28日第三回補訂
                                        
                       5月10日第四回補訂、5月28日第五回補訂、6月6日第六回補訂、6月26日第七回補訂
                                        
                       7月12日第八回補訂、7月26日第九回補訂、9月4日第十回補訂、9月24日第十一回補訂
   
                       10月9日第十二回補訂、10月15日第十三回補訂、10月26日第十四回補訂、11月6日第十五回補訂

                       11月16日第十六回補訂、11月30日第十七回補訂、12月17日第十八回補訂

                       2012年1月1日第十九回補訂、1月22日第二十回補訂、2月5日第二十一回補訂

                       2月22日第二十二回補訂、3月6日第二十三回補訂、3月20日第二十四回補訂

                       4月8日第二十五回補訂

                                                            世界学問研究所    大教授
                                                           
                                                                   千田  稔


                                    

 (1)、上記学問随想録を参照。

 (2)、拙稿「動物と富」参照。人間とは動植物など自然の一部であり、類人猿と似ているから、類人猿と比較して、「類人猿のこうした行動は人間とそっくりだ」などいう研究はもはや余り有意義と思えない。あくまで、動植物など自然の一部として人間を把握し、どの点で人間は自然と違うのかという事を考察するべきであろう。

 もっと拡げて、人間と生物・無生物とはどこが異なるかと考えると、遺伝子・アミノ酸・拡散など「あらゆる物質の究極の世界は素粒子」であり、この根源では「生物も無生物も生も死も同体」(『<自然>を生きる』春秋社、1997年、137−8頁)となる。根源では違いなどないのである。

 その上で、今ここでは、人間と生物・無生物との相違を人間と動植物などとの相違に絞り込んでいるのだが、それは、人間だけが「富と権力」を作り出してしまったということである。すべての問題はここから発するのである。


 
「富と権力」のシステムの帝国主義的危険性
 人間は、「生まれ、食料をめぐって争い、殺し合い、死ぬ」、この点では動物とは変わらない存在であるが、その過程で動物以上に脳が適応して、共存のための方便として、言葉、愛、妥協、憐れみ、自己規制などを身につけつつも、隣の人間との係わり合いから、生きながらえるために強くなろうとして、武器を蓄え、人を殖やし、権力を築き、その基礎が富と認識し、「富と権力」を築いてゆくのである。

 ヘーゲルは、ギリシア(「自己意識的理性の実現という概念が完全に実在している」古典古代)を意識して、「内なる精神を、既に成長して実体になったもの」として「人倫の国」(「諸々の個人が自立的な現実のうちにありながら、自らの本質が絶対的精神的な統一をもっている」国[樫山欽四郎訳『精神現象学』河出書房新社、1975年、207頁])をあげて、国家を精神的に「美化」してしまった。ヘーゲルはギリシアが奴隷制によって成り立っていた国であることを忘れたのであろうか。権力が富を基礎とし、富の増大を求め続ける限り、「人倫の国」などはありえないのである。「富と権力」は、発生論的には、生き残るための動物的防御本能の発露でしかなかったが、動物の域を越えて、それが肥大化する過程で攻撃性を帯び、多くの人類を殺し、今また自然をも殺し、自らの生きる土台を自ら崩しはじめているのである。これが、「富と権力」の誕生以来発動されてきた「帝国主義」の正体であり、近現代に固有のことではないのである。

 ギリシア民主制の帝国主義的危険性 さて、ギリシア民主政について、その限界・危険性を少し触れておこう。なぜなら、周知の如く、「いまも私たちが用いている思考のカテゴリーをはじめて確立したのが、ギリシア人であ」り、「私たちは、そうした知的道具の本質的なものではなく、道徳的原理もギリシア人に負ってい」(フランソワー・シャムー、桐村泰次訳『ギリシア文明』論創社、2010年、はじめに)て、ギリシア文明は現代欧米文明の母胎とされているからである。

 だが、あくまでこれは欧米人の発想である。欧米人が自分たちの文明の優越性を半ば「自慢」しているかである。だが、はたしてそうなのか。正確に言うならば、ギリシア文明は欧米帝国主義の母胎であったというべきであり、筆者はすでに学問方法論ではギリシア学問に帝国主義の危険が孕まれていた事を指摘した(拙稿「古今東西の学問方法論」)。ここでは、学問方法論のみならず、現実の政治経済において、ギリシアが欧米帝国主義の母胎であったことにふれておこう。

 古代においてギリシアに帝国主義(植民地主義)が発生する理由は、ギリシアの自然と経済にあった。ギリシアでは、@山地が多く食料としての小麦が不足がちであり、「ギリシアが輸出できるのはワイン、オリーヴ油、香水、陶器、金属製品といった複雑な技術を要する製品で、他方、第一次産品、とりわけ小麦は輸入に頼らざるをえな」くなり、ここに「穀物生産の貧弱さは、ギリシアの上に絶え間ない飢饉の脅威を与え」、「人口が少しでも増えると、たちまち土地不足に陥」り、Aしかも、農民・市民の間に軋轢が生じると、「身分の高い連中は、賄賂によって心を動かされ」、「正義が尊重され」ず、これが「ギリシア都市における社会的抗争の源泉」となり、「次の世紀には、この社会的抗争が、遠い異国の地への大規模な植民の企てと、深刻な政治的動乱へと発展し」(フランソワー・シャムー『ギリシア文明』55頁)、B前750−550年の大殖民時代に、「ポリス内部の人口の増大」への対処と「商業の関心」から、「地中海岸から黒海海岸」の「オリーブの適地」に植民活動が展開され、新しいポリスが誕生したのである(村川賢太郎編集『世界の歴史』2ギリシアとローマ、中公文庫、1998年、39頁)。確かに、「ギリシャの植民都市は、近代の帝国主義的植民地とは全く異なり、植民者からなる独立した都市国家」(ピエール・レベック『ギリシァ文明 神話から都市国家へ』、82頁)ではあり、資本輸出などは随伴しなかったが、他国の侵略と略奪と言う点では同じである。

 前508−前322年にアテネに民主政ポリスが誕生したが、これもこうしたギリシア帝国主義のもたらしたものである。確かに、アテネ民主政は、ペルシャ侵攻危機、スパルタとの対立に直面しつつ、「アテネの黄金時代と言われるペリクレスの時代に、ついに名実ともに完成」澤田典子『アテネ 最後の輝き』岩波書店、2008年、15頁)したものであり、「アテネ民主政は、アルゴスやマンティネイア、シラクサなど、他のポリスでも達成された民主政に比べ、極めて安定して持続した典型的な民主政であり、世界史上稀に見る徹底した直接民主政だった」(16頁)のである。

 だが、アテネ民主政には、基本的人権とか民衆の幸福のための統治という視点はなく、それは特定資産家集団が富蓄積にふさわしい国家形態として生み出したものであり、「少数者の独占を排し多数者の公平を守る事を旨」(ペリクレス葬送演説[澤田典子『アテネ民主政』講談社、2010年、257頁])としたものである。あくまで、土地・資産をアテネ市民(4万人)の間で「帝国主義的な外国侵略・搾取と奴隷搾取」(前432年頃.奴隷11万人[(フランソワー・シャムー『ギリシア文明』349頁)])で公平に富増殖をはかる国家形態として、専制国家(寡頭政権・僭主)ではなく民主国家が一時的によいと思われたにすぎないものであった。運営する権力側では、専制国家よりはベターとして選択したに過ぎないのであり、奴隷制維持、帝国主義的植民地建設では、民主政は専制国家となんらかわらないものなのである。「民主政完成期にあってもなお、名門貴族たちの営みの場」(澤田『アテネ民主政』258頁)であり、しかも、この180年間には、民主制とは似つかわない僭主制(前411年 400人政権、前404年 30人寡頭政権)などもあったのである。「ギリシア都市は、民主的国家を自称している場合でも、本質的には貴族制的特徴をもっていた」のであり、「<デモクラシー>と<貴族制>という概念も、ギリシア人にあっては、大なり小なり市民団に関わっているかどうかについて言っただけで、こうした市民団も住民の大多数を含むには程遠く、少数の特権階級の代表にすぎなかった」(フランソワー・シャムー『ギリシア文明』346頁)のである。市民とは「土地や家屋など不動産を所有している人々に限られ」、奴隷が市民と同数かそれ以上いたのである(フランソワー・シャムー『ギリシア文明』346−7頁)。

 しかも、資産家には各種の特権があって、市民ですら完全に平等というわけではなかった。例えば、市民にはトリエラルキア(三段櫂船艤装奉仕義務。「公共奉仕のなかで最も重い義務」だが、「この義務を立派に果たすことは富裕市民にとって大きな名誉であり、政界で頭角を現すうえでも有効な手段」)、アテレイア(公共奉仕免除の特権)などの特権があった。

 そもそも、当時のギリシアでは、アテネ・スパルタ・テーベとペルシァの対抗軸に、ギリシア・ポリス間の抗争が複雑に絡まりあって、戦争は常態化しており、帝国主義的膨張主義に絶えず貫かれ、ストラテゴス(将軍)は「最大級の危険と名誉」(澤田『アテネ民主政』223頁)を併せ持つ極端なポストであった。英雄・戦功者が裁判で訴追されて処刑されることもすくなくなかったのである。しかも、アテネ軍事力が衰退してゆくと、「ストラテゴスは政治指導者」たりえず、「国際的な一大勢力」たりえなくなった。

 従って、我々は、アテネ民主政とは軍事的性格が濃厚なものであり、そこに帝国主義的民主政の原型というものを見出しておいたほうが適切だということである。「ヨーロッパで人々の集団が初めて帝国を作ったのは、古代ギリシャの時代だった」(アンソニー・バグデン、猪原えり子訳『民族と帝国』講談社、2006年、24頁)のであり、「古代ギリシャは慢性的な戦争状態にあ」(澤田典子『アテネ 最後の輝き』岩波書店、2008年、1頁)り、ポリスは「軍事防衛共同体」(澤田典子「『戦争の西洋的流儀』によせて」[ハリー・サイドボトム、吉村忠典ら訳『ギリシャ・ローマの戦争』岩波書店、2006年、165頁])であり、「正面からの決戦によって敵の全滅を目指す」流儀で、「理想的には政治的自由を有する勇敢な重装歩兵(「鎧、甲、臑当てを身につけ、楯、槍、剣を備えること」[『ラスケ』訳注、『プラトン全集』4、角川書店、1973年、442頁])による白兵戦」(ヴィクター・ハンソン、The western way of war, Oxford,1989[澤田典子「『戦争の西洋的流儀』によせて])を重視していた。これは、民主制国家のもとで世界に強大軍事力を配置し、重装備海兵隊を緊急即応部隊とし、重装備部隊(空挺部隊、陸軍)を後続部隊とするアメリカを彷彿とさせないか。我々は、ここから、「民主政という統治形態が重要なのではなく、統治の民主的運用こそが重要なのである」ということを学び取るのである。

 しかも、ギリシァ民主制とは、他にもあった「都市国家から領土国家に移行する過渡期」(例えば、中国については、貝塚茂樹『古代文明の発見』[『世界の歴史』1、中央公論社、昭和42年]101−166頁、参照)において、奴隷制と帝国主義搾取にふさわしい統治形態の一つとして登場した「あだ花」であった。このようなものを「過大評価」することはできないのである。

 諸問題の連続の歴史 そもそも、「富と権力」のシステムとは、政治的・経済的諸問題の連続の歴史であり、権力の興隆・矛盾・衰退の繰り返しなのである。そして、諸問題を根本的に解決する国制もなければ、政治的リーダーなどもまた一人としておらなかったのであり、欧米がよく提起する「民主制でのリーダー」論ほど非学問的議論はない。例えば、今の経済的混乱をIT時代の過渡期に政治が追いついていないからだとか、ふさわしい政治的リーダーがいないからだとかいう議論にすりかえるものがいる。だが、今の時代も過去の時代にも諸問題を根本的に解決したリーダーなどは一人もいないのである。数千年に及ぶ「富と権力」のシステムのもとでは、諸問題の先延ばしを図るしかなかったのであり、一見解決したように見えても、実は既にそこに新しい問題の萌しを孕んでいたに過ぎなかったのである。現在、我々は、諸問題の根源を把握して、根源的に解決するにはどうすればいいかを、学問的に考えるべき時期に入ったように思われる。

 諸問題解決の原動力 確かに我々は動物の中では一番濃密に作用する脳体系を持ち、共感・同情・憐憫など相手をいたわる脳領域を持ってはいるが、人間の歴史はもとより自然、宇宙の摂理を学べば学ぶほど、人類ぐらい愚かな生き物はいないことに気づくのである。すべての問題の解決は、この自覚と反省から発するのである。個人の力では「富と権力」システム下の諸問題を根源的に解決することなどはできないのである。では、その諸問題を根源的に解決するものとは何か。民衆である。ごく普通の民衆なのである。

 民衆こそが、平和で経済的に平等な世界をつくりだす原動力であり、「富と権力」のシステムを変革する根源的力なのである。民衆は確かに愚かかもしれないが、では、政治家・官僚が賢いかというと同じように愚かであり、新たな諸問題を生み出し続け、いまだに生み出し続けているという「愚か者」なのである。それに比べればはるかに賢い民衆は、権力者の「統治秩序」ではなく、ごく普通の生活を維持するために自然に生じる秩序を維持するのである。ホッブスは絶対主義肯定のために、自然状態では「万民の闘争」となって民衆は混乱を生み出すとしたが、そんなことはないのである。民衆は、自分たちの生活を守るための「生活者の秩序」を自然につくりだすのである。民衆は、自然の一部にしかすぎない人類の日々の生活の平和的持続を切実に願い、この切実な願いが市民・市民諸団体・NGO・NPOなどの民衆を糾合し、さらにはインターネットなどで世界の民衆の連帯を可能とし、「国際民衆連合」・「国際民衆軍」・「国際民衆警察」などを通して新しい世界秩序をつくりだすのである。こうした内外の民衆の幅広い連帯こそが、「富と権力」の「帝国主義」的横暴を抑え込み、個別国家を変容させ、「富と権力」のシステムに大きな改変を余儀なくしてゆくであろう。もう権謀術数、脅し、諜報、駆け引きなどの従来の下らぬ外交交渉などではなく、真に平和と友好と厚誼(相手の喜び、幸せが自らの喜び、幸せであるということ)をごく自然に希求する民衆こそが新しい国際秩序を作ってゆくべき時代が到来したのである。

 現在、筆者はこの実現のための行動プログラムの一環として、共に学び共に考える塾(無料・定員少数)の設置によって、世界的視野をもった「変革担い手」の育成を真剣に考え始めている。


 (3)、周知の如く、欧米人にとっての「万学の祖」アリストテレスは世界で初めて、人間を動物に含めて、体系的な動物研究を行なって、『動物論』三部作を著した。このアリステレスが、これらの書物で、「人間は動物と一体どこが異なるというのか」、「なぜ人間だけが富を求め出したのか」、これらの問題に答えていたのかどうかを、ここで吟味することは、頗る興味深いことである。上記(2)とも重複するが、ここではアリストテレスに絞ってみておこう。

 その前に、メソポタミア文明では、「人間と動物の比較研究」がなされていたのかどうかについて瞥見しておこう。古代バビロニアの哲学者は、「何故人間が動物より優れていて、しかもなお神ではないのかという問題」(E.キエラ、板倉勝正訳『粘土に書かれた歴史ーメソポタミア文明の話ー』岩波書店、昭和33年、134頁)に取りみ、彼らは、「両者が密接に関係」をもち「本当の差異はただ人間が賢いということだけ」であることを知りつつ、賢さでは人間は神に近く、死ぬ点では動物にちかいとした(キエラ前掲書、129頁)。そして、彼らは、「最初の人間をつくる際、神の血と地の粘土をまぜあわせて創造した」からだとして、人間の「宗教的」把握にとどまっていた。

 それに対して、アリストテレスは、動物・植物を「自然学」的に考察したのである。まず、アリストテレスは、「『自然学』で明らかにされた運動法則を・・・天体に適用してその運行を論じ」(泉治典『気象論』(『アリストテレス全集』5、岩波書店、1976年、訳者解説、211頁)、「ピュタゴラスの徒も言うように、全宇宙もその内にある万物も三(縦、横、高さ)によって限られている」村治能就ら訳『天体論』(『アリストテレス全集』4、1976年、3頁)とした。

 この『天体論』執筆後に、「ホメロス、ヘロドトス等のような古典からの伝承、当時の民間人、殊に漁夫や猟師から聞いた話、彼自ら調査研究した事実の集成」(『アリストテレス全集』7、岩波書店、1976年、訳者序D頁)を根拠に、人間を動物の一部に位置づけ、人間の特性を明らかにしようとして「まず各類の動物に見られる現象をあげ、つぎにその原因をのべ、生成を論じると言う順序」(『動物部分論』1−1)(『アリストテレス全集』7、岩波書店、1976年、訳者序B頁)で、『動物誌』『動物部分論』『動物発生論』を執筆した。

 『動物誌』は、「動物体の諸部分の比較による分類に始まり、形態、生殖、発生の諸現象と生態、心理、病理等の諸現象の記載」、動物体の質料を記載し、『動物部分論』は「動物の部分に関する原因論」、「『動物誌』に記載された諸部分に働く諸原因を、目的因を中心として論じ」、『動物発生論』は「『動物部分論』において取り扱わなかった部分(生殖器官及び組織と胚の体)の論議」、「幼体の生成過程」を論じた。

 アリストテレスの自然にアプローチする一般的方法論とは、「自然は・・『同一の部分をいろいろな目的に用いる』」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年、320頁)とし、「自然は何物をも無駄には作らず、いつも動物の各類の本質につい可能なものの中で最良のものを作る」ということが「自然の営みのすべてに通ずる原理」(島崎三郎訳『動物進行論』[『アリストテレス全集』9、1976年、42頁])とし、「自然は常に各事物の過多を矯正するために、それと対立するものを併置して、一つが他の過多を平均化するように工夫」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年302頁)して、「熱い」「骨髄」と「冷たい」「脳髄」とのバランスがとられるとした。「天界では偶然性や無秩序などから起こるようなことは何も見られないのである。またおよそ何か或る終点(目的)があって、妨げるものがなければ運動がそこに到達すべき場合には、われわれはいつでも『これこれ(運動)はこれこれ(終点)のため」というのである。したがって、何かそういった或るものが存在することは明らかであって、これこそわれわれが『自然』と称するものなのである」(271頁)とし、「この考え方(『本質』の考えや『実体』の定義)はソクラテス時代になると発展したが、自然に関する事物を探究することはすたれ、哲学する人々は人生に有用な徳や政治の方に傾いてしまった」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、272頁)。アリストテレスが自然の現在の姿には無駄はないとみたことが欧米で進化論登場を遅らせたともいわれる。だが、自然には無駄なものは一つもないというのはアリストテレスの卓見であり、これに時間的推移を考慮して、「適化」作用を加味すれば、ここに自然の推移が合理的に把握されるのである。学問的に適化論を取る我々にとって、無駄なものはないというアリストテレスの卓見は大いに注目すべきである。

 そして、アリストテレスは、自然を天体と動物・植物という2種類にわけ、「自然によって存立する実体には、永遠に不生不滅のものと、生成消滅に与かるもの」とがあるとした。後者の「かの崇高で神聖な存在(天体)については、我々はかえって不完全な考察しかできない定めになっているが、生滅すべき植物や動物については、それらがわれわれともに生育するものであるために、認識の手段はむしろ豊富であ」り、「充分な努力さえ惜しまなければ、この類についても多くの事実を把握することができるであろう」とした。そして、「後者については、われわれの推測できるかぎりを述べて、一応すませておいたので(『天体論』)、残るところは動物界について述べることであるが、下等なものであろうと高等なものであろうと、何物をもできるかぎり無視しないつもりである」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年、281−2頁)として、動物について「多くの事実」を集めて考察するとした。

 アリストテレスは、当時の人々が人間を最優秀と見て、動物研究を軽視しがちなことについて、「もしヒト以外の動物の考察はくだらないとおもう人があるとすれば、その人は自分自身についてもそう考えないわけにはいかないはずである。なぜなら、誰でも人体を構成する血、肉、骨、血管等のような部分を見れば、激しい嫌悪の情を禁じえないからである。」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、282頁)と批判した。さらに、人体解剖などが行なわれず、「人体の内部は動物中でも最も知られていないものであって、そのためにヒトの性質に近い他の動物の内部に戻って調べなければならない」(島崎三郎訳『動物誌』上(『アリストテレス全集』7、岩波書店、1976年25頁)と、人間研究の遅れを動物研究で挽回しようとしていた。

 彼は、「まずすべての動物に共通な活動と類的な活動と種的な活動を述べなければならない。共通な活動とは、すべての動物に認められるもののことで、類的な活動というのは動物間で互いに過不足の差が或るだけのものである」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年284頁)と、動物全般の活動を普遍的・類的・種的に把握しようとした。

 そうした中でも、アリストテレスは、遅れた人体研究を推進するためにも、人と動物との異同を随所に指摘する。例えば、@共通点ー「サルやオナガザルやイヌザル(ヒヒ)」は「ヒトと四足類の性質を兼ねている」(島崎三郎訳『動物誌』上(『アリストテレス全集』7、43頁)、「人類も、鳥類も、胎生および卵生の四足類も、目には保護する被いがついている」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年315頁)、A相違点ー「すべての動物にはヒトの胸に相当する部分があるが、胸には似ていない。というのはヒトの胸は広いが、他の動物のは狭いから」(島崎三郎訳『動物誌』上[『アリストテレス全集』7、岩波書店、1976年33頁])、「胎生四足類はすべて毛深いといえるが、ヒトは毛の生え方が違う。ヒトは頭以外は毛が少なくて短いが、頭は動物中で最も毛深い」(島崎三郎訳『動物誌』上[『アリストテレス全集』7、34頁])、「乳房と交尾に役立つ器官についてみると、ヒト以外の動物では彼ら相互間でも、ヒトと比べてみても、甚だしい差異がある」(島崎三郎訳『動物誌』上(『アリストテレス全集』7、37−8頁)、「ヒトは成人では上体が下体より小さいが、他の動物では反対である」(島崎三郎訳『動物誌』上[『アリストテレス全集』7、39頁])、「頭蓋骨の鋸歯状の部分を縫合線という。この部分はすべての動物で必ずしも同様ではない。すなわち、イヌのように頭蓋骨が一枚の骨でできているものと、ヒトのように骨の集ったものとあり、さらにヒトでは女は縫合線が円になっているが、男では三本の縫合線が上の方で接し、三角形になっている」(島崎三郎訳『動物誌』上[『アリストテレス全集』7、77頁])、「ヒトの皮は体の大きさの割りにあらゆる動物中で最も薄い」(島崎三郎訳『動物誌』上[『アリストテレス全集』7、81頁])、「体に毛の生えた動物(哺乳類)のまぶたにはまつ毛があるが、鳥類や被甲類(爬虫類)には、まつ毛はない。・・毛の生えた動物の中でも上下の両まぶたにまつ毛のあるのは人類だけである」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年、317頁)、「ヒトの頭は動物の中で最も毛深いが、これは脳髄の液状であることと、頭蓋骨の縫合線のために必然的に起こる結果であって、寒暑の過剰を避けることによって内部を保護するためでもある。人類の脳髄は最も大きくて、最も液状であるから、最もよく保護される必要があるわけである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、318頁])などである。共通点より、相違点の指摘が多い。

 時に、アリストテレスは、動物にも人間の優秀性が認められるとする。例えば、「馴致性と野生、柔和と激情、勇敢と臆病、恐怖と大胆、剛直と卑劣、および知的理解力を思わせるような諸性質が、多くの動物に認められるからで、このようなヒトとの類似性は(身体の)部分についてすでに述べたところと同様である。すなわち、或る動物はヒトに対し、またヒトは多くの動物に対して程度の差で異なり(なぜなら、こういう性質の中の或るものはむしろヒトにより多く、また或るものは他の動物により多く認められるから)、或る動物は対応的に異なる。というのは、ちょうどヒトに技術的知識や理論的智慧や理解力があるように、或る動物には何か他のこういった生まれつきの能力が備わっているからである。この点は(ヒトの)幼年期を一見すればよく分かる。すなわち、・・・この時代の霊魂は野獣の霊魂といわば何の違いもないので、他の動物に、あるいはヒトと同じ性質、あるいは似た性質、あるいは対応的な性質が認められるとしても、何ら不合理ではないのである」(島崎三郎訳『動物誌』下(『アリストテレス全集』8、3頁)と、動物にもそれにふさわしい「技術的知識や理論的智慧や理解力」があるとするのである。彼は、「動物の性格は、人目につかない、短命の動物では、長命のものほどはっきりと認知することができない。長命の動物は霊魂の各状態(すなわち、思慮分別と単純無分別、勇敢と臆病、柔和と激情等のような心的態度)に関して一種の自然的能力をもっているように見えるからである。或る動物はそれと同時に学習や教育の能力も与えられており、それも動物相互間の場合と、人間からも教育を受ける場合とあって、これは聴覚を有する動物に限るが、それもただ単に音を聞くことができるばかりでなく、(声や身振りで)示された意味の違いをも判別しうるような動物のことである」(島崎三郎訳『動物誌』下[『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年、52頁])、動物の自然的能力・学習能力に言及する。

 また、アリストテレスは、人間特有の性質として、@生殖面ー「体の大きさの割りに精液を最も多量に出すのはヒトである」(島崎三郎訳『動物誌』下(『アリストテレス全集』8、95頁)、「ヒトは、男は最年長七十歳まで生殖するが、女は五十歳までである。しかしこんな場合は稀で、実際こんな年齢で子供の出切る人はわずかであるが、通例男では六十五歳、女では四十五歳が限界である」(島崎三郎訳『動物誌』下[『アリストテレス全集』8、146頁])、A感覚面ー「人類の肉は最も柔らかい。これは人類の触覚が動物の中で最も鋭敏だからである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、321頁])、ヒトは、遠くからの諸感覚の精度については、体の大きさのわりにはしては動物中で最も劣るといえようが、相違の判別に関する制度については、あらゆる動物中で最も感覚が鋭敏である。その理由は、ヒトは感覚器が純粋で、最も土質でなく、物質的でえなく、本性上、体の大きさのわりにしては皮膚が動物中で最も薄いからである」(293頁)、B直立歩行ー「自然的な部分がそのまま自然的な位置をとっているのは人類だけであって、ヒトの上体は宇宙の上部を向いているのである。すなわち、動物の中でヒトだけが直立しているのである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、311−2頁])、「唯一の直立性動物であるヒトの脚は体の上部に比べて有足動物中最大で、最強なのである」(島崎三郎訳『動物運動論』[『アリストテレス全集』9、1976年、56−7頁])、C言語面ー「声と音とは別のものであり、言葉はまた別のものである。ところで声をのど以外の部分で出す動物はない」(島崎三郎訳『動物誌』下[『アリストテレス全集』8、122頁])、「これ(言葉)はヒトに特有なものである」(124頁)、「ヒト以外の動物では、唇は歯を保護し防衛するためであり、それゆえ、唇の分化の程度も、歯が精細に巧妙に出来ているかどうかによる。ヒトの唇は軟らかくて、肉質で、開くことが出来て、むろん他の動物のように歯の防衛もするが、むしろもっと高級な目的のためにある、といった方がよい。すなわち、会話にも使われるからである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、321頁])、D思考面ー「思考はヒトにしかないのである。そこで、すべての霊魂が生体を成すのではなく、その中の或る一部、あるいは若干部にすぎないのであるから、自然学もすべての霊魂について述べるべきでない」(270頁)、E善く生きる面ー「ただ生きていると言うことのほかに感覚を有する動物では形態がはるかに多様で、種類によって程度の差はあるが、その本性がただ生きるためだけでなくよく生きることであるようなものではことに多種多様である。こういうのが人類なのである。なぜかというと、我々の知っている動物の中で人類だけが神的なものに与かっている、といって悪ければ、少なくともすべての動物の中で最も高度に与かっているからである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、311頁])、などと指摘する。

 アリストテレスは、人間の脳・頭について、@脳髄の発生論的特徴(「始めのうちは脳髄が大きいために頭は(身体の部分の中で)最大であり、目はその中にある流動体のために大きく見える。目は最後に完成するが、これは(その主体である)脳髄も形成が困難であるためである。現に脳髄がそれほど冷たくなくなり、流動性でなくなるのはずっと後のことであって、これは脳髄のある動物ならすべてその通りであるが、ことに人類では著しい。そのために前頭骨(大泉門)は骨の中で最後にできるのである。すなわち、胎児が生まれ出て後も、(幼児では)この骨は柔らかいのである。この点がとくに人類において著しいということの理由は、人類の脳髄が動物の中で最も流動性で最も大きいことであるが、さらにその理由は、心臓内の熱が最も純粋であるということである」(島崎三郎訳『動物発生論』[『アリストテレス全集』9、1976年、186頁])、A頭に肉がない理由(「ヒトの頭に肉がないということは、・・この部分を真っ直ぐに立てていなければならぬからである。すなわち、頭に肉がついていれば、それが重荷となって持ち上げられなくなるのである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、312−3頁])、B脳髄の重量の特徴(「動物の中で、体のわりに最大の脳髄を有するものはヒトであり、ヒトでは、男のものの方が女のものより大きい」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、304頁])、などを指摘した。

 アリストテレスは、人間と動物の行動を比較して、@寒暖と居住場所(「動物の行動はすべて交尾や産児や食物の獲得に関係があり、また寒さや暑さや季節の移り変わりに適応している。すなわち、すべての動物は暑さ寒さの移り変わりについて生来の感受性があり、ちょうど、ヒトも或る人々は冬には家の中に移り、また広い地方を所有している人々は涼しい所で夏を過ごし、暖かい所で冬を過ごすように、動物も住む場所を変えることのできるものは、そうするのである」[23−4頁])、A動物の縄張り(「同じ場所を占め、同じ物を食べて生きている動物では、相互間に闘争が行なわれる。なぜなら、食物が乏しければ、同族のもの同志でも闘うからで、現に同じ地域のアザラシも、雄は雄同志、雌は雌同志、一方が他方を殺すか、追い出してしまうまで闘うといわれている」[島崎三郎訳『動物誌』下,『アリストテレス全集』8、53頁]、「野生動物の中の或るものはいつも互いに敵対関係にあるが、或るものは、ヒトとヒトの場合のように、偶然にそうなるのである」(島崎三郎訳『動物誌』下[『アリストテレス全集』8、57頁])などを明らかにした。

 アリストテレスは、『動物運動論』で、「動物体は良政下の都市国家のように組織されているものと考えねばならない。すなわち、都市国家では一度秩序が確立されると、各事件に立ち合うための分立した君主などは要らなくなり、各個人は自分にあてがわれた仕事を規定通り行い、事件は習慣に従って次々と起こっていくのであるが、動物体では同じことが自然によって行なわれ、かくのごとく組織された各部分が自己の務めを行なうようにできているので、各部分に霊魂のある必要はなく、霊魂は体内の一定の起源にあり、他の部分はここに続いていることによって生き、自然の命じるままに自己の務めを果たすのである」(島崎三郎訳『動物運動論』[『アリストテレス全集』9、1976年、18−9頁])と、動物体はポリスの自動的調整機能をするとする。

 アリストテレスは、『動物発生論』では、@動物の雄・雌と大地・宇宙(「全世界(宇宙)の場合においても、大地の本性が雌であるとして『母』とも名付け、天界と太陽または他のそういったものが子を産むもの(雄)であるとして、『父』とも呼ぶのである」(島崎三郎訳『動物発生論』[『アリストテレス全集』9、1976年、96頁])、A霊魂の有無(「霊魂は身体より良く、霊魂を持っているもの(生物)は霊魂を持っていないもの(無生物)よりその霊魂の故により良く、また存在することは存在しないことより、生きていることは生きていないことより良いのである」[146−7頁])、B生物・動物・植物(「幾分でも雌雄の原理に関与することが生きていることであり、それゆえ植物でさえ一種の生命を分与されていることになるが、感覚[脳の作用ー筆者]をもつことによって動物と言う類が成立する」[147頁])、C霊魂と精液(「精液は霊魂を持っているのか、いないのか。同じことが[身体の]諸部分についてもいえる。・・精液が可能態において、霊魂を有しかつ霊魂であることが明らかである」[156−7頁])、などに言及した。


 以上より見る限り、アリストテレスは、『動物論』三部作では、「人間は動物と一体どこが異なるというのか」という問題については考察していたが(ただしあくまで付随的にであるが)、「なぜ人間だけが富を求め出したのか」という問題には答えてはいないことが確認される。実は、彼の動物論は、この三部作以外にも見られるので、次には、これで補足しておこう。


 『問題集』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年)はアリストテレスの「真作」ではないが、「多くの資料がテオプラストス、ヒッポクラテス文書、後のペリパトスの徒から得られていることも明白」(訳者解説、685頁)であり、アリストテレスという「大きな幹から派生していることを認めなければならない」(692頁)ものである。この「第十巻 自然学的諸問題摘要」では、@人間が咳をするのは、「人間の脳は生き物の中では最も大きく、最も多量の湿りを含んでいるが、しかるに咳は、粘液が下に流れてくる際に生ずるためであろうか」(140頁)、A「生き物のうちひとり人間においてのみ、鼻孔から血が流れ出るのは・・・人間の脳は最大で、最も多量に湿りを含んでいるが、この脳から、脳の血管は、余剰物で充たされると、通路を通して流れを発せしめるからであろうか」(140頁)、B「何故に人間だけが癩病にかかるのであろうか。その理由は、(1)人間が動物の中では最も皮膚が薄く、同時にまた、どれよりも気息に満ちているためであろうか」(141頁)、C「生まれつき子供が両親に似ているという点では、人間におけるよりも他の生き物のほうが一層顕著であるのは何故か。或いはそれは、人間は、性交の際にその精神が種々複雑な状態におかれるが、父親や母親の精神状態如何に応じて、生れる子もまた多様なものとなるからであろうか」(143頁)とし、その他、「人間だけが身体の大きさの割りに眼と眼の間隔が最小である理由」、「人間だけが夢精する理由」、「人間が最もくさめをする理由」、「人間だけが膀胱結石に悩む理由」などが考察される。アリストテレスは医者ではないが、父が医者であったことから、幼少から医療行為を目撃し、医学的環境にあったことから、医学についての記述が少なくない。

 この「第27巻恐怖と勇気に関する諸問題」では、「勇気が徳の中では最善のものと言う訳ではないのに、諸国家がそれを特に尊重するのは何故であろうか。或いはそれは、諸国家は絶えず戦争をしかけたり、しかけられたりし続けているが、この徳はそのいずれの場合でも最も役に立つからであろうか。じつに、彼らが尊重するのは、(それ自体として)最善なるものではなく、自分たちにとっての最善なるものなのである」(392頁)と、当時の彼らが慢性的戦争状態に置かれていた事を確認させる。こういう深刻な危機的状況がなければ、人間の考察などは起こらないのである。

 「第29巻正義と不正に関する諸問題」では、「人間は、すべての動物の中で最も多く教育の恩恵に与かっていながら、最も不正なるものであるのは何故であろうか。或いはそれは、人間が思考能力に最も多く与かっているからであろうか。それゆえ、人間はこれまで快楽とか幸福に特によく評価の目を向けてきたが、ところがこれらのものは、不正を働くことなしには手にすることができないのである」(404頁)と、人間の快楽・幸福が「不正」の原因だとする。そして、「大抵の場合、富が、優れた人たちの許よりも劣悪な人間の許に多く存するのは何故であろうか。或いはそれは、富は盲目であるために人間の心を判別することも、最善なるものを選ぶこともできないからであろうか」(404頁)と、具体的に富が人間を劣悪にさせ、不善に向かわせるとした。アリストテレスは、人間は動物の中で富のためにもっとも不正・不善をなすことを指摘していた。大いに注目してよい。

 なお、アリストテレスは『政治学』(『アリストテレス全集』15、岩波書店、1977年、24−5頁)でも富を考察している。富は、生命防衛装置としての国家の誕生を可能にする基礎であり、まさに富と国家は当初から密接な相関にあったが、アリストテレスはこれを分析せずに、これ以後に人間が貨幣による商品取引市場で富を求め始めた事情を語るにとどまっていた。ただし、アリストテレスはパレアス(カルケドンの人、国民の財産の平等論者)は「国制は戦争力を目当てに組織されていなければならぬ」ことに気づいていないと批判して、財産額は、「侵略者を防ぎ得ないにも拘らず、近隣の一層強い国々の者がそれを欲することになるほど大きくあってもならない」こと、「同等の国々や同様な国々の者との戦争にさえ堪え得ないほど小さくあってもならない」こととし、「財産の最善の限界は、おそらくそれだけの富ではより強い国が余分のものを取るために戦争をしても得がいかず、また反対に、それだけの富を所有していなければ、戦争をしかけられる恐れがあるところのもの」(同上『政治学』63頁)として、国富=財政力が戦争遂行し、戦争を敵に断念させると指摘していたことは『富と権力』野相関を確認する上で注目される。我々は、アリストテレス(及びそれを母胎とする欧米の)の基本的学問方法論などには反対するが、注目すべき事は大いに注目するのである。

 「第30巻思慮・理性・知恵に関する諸問題」では、「何故に、生きものの中では人間が最も賢いのであろうか」と問い、それは、@人間が、その身体の割には最も小さな頭をしているからか、それとも、A人間は、(その或る部分においては)不釣合いなほど極めて小さいからであろうか(というのは、人間が小さな頭をしているのもそのためであって、人間の間でも、頭の小さい者は大きい者より賢いからである)とした。『動物部分論』第四巻第十章で、アナクサゴラスは人間が賢いのは手を持っているからであるとする。その手に指示するのは脳であるから、やはりアリストテレスの言うように頭が原因であろう。

 さらにアリストテレスは、この第30巻で、「神がわれわれ人間の中で、それにおいて我々が外的な道具を使用することができるような二つの道具、すなわち、肉体には手を、魂には理性をお与えになったからであろうか。なぜなら、理性もまた、生まれながら道具としてわれわれに属しているものの一つだからである。つまり、他の諸知識や技術は我々によって作られるものに属しているのであるが、だが理性は生まれつき備わるものの一つなのである。」(423頁)、「人間は、殆どの場合、理性によって生きているが、動物は欲求や衝動や欲望によって生きているのである」(428頁)と、動物と異なるものとして人間理性をあげた。だが、この理性が人間の富欲望を抑えるとはしないのである。実際、理性は絶えず作動しているわけではなく、常時さまざまなる感情・断片的知性などと混在しつつ「気まま」に作動するだけであり、だからこそ人間は「効率的に相手を殺す」武器を発明し、動物(食糧として必要な限りで相手を殺す)以上に無用で残酷な殺し合いたる戦争を数限りなく行なってきたのである。理性などはあてにならなかったのである。ここに、理性などというあてにならないものでなく、数千年単位で歴史を俯瞰する、人類、生き物の「自然の摂理』に則った、真の学問が切実にもとめられるということである。


 では、アリストテレスは植物をどのようにみていたのであろうか。動物の特性を理解する上で植物の特性の把握は不可欠である。アリストテレスは『植物学』書を書いたといわれるが、それは失われて今日残ってはいない。しかし、『小品集』(『アリストテレス全集』10、岩波書店、1977年)に、彼の「植物について」が残っている。これはアリストテレスの作ではないが、「アリストテレス学派の人の作」(訳者解説326頁)といわれている。

 ここで、彼らは、「生命は動物と植物とにおいて見られる。もっともそれは動物においては明白であり歴然としているが、植物においては隠されていて明白ではない」、そこで、「植物が霊魂を持っているか、いないか、また欲望や苦痛や快楽や弁別の能力を持っているか、いないか」ということが研究によって確かめられねばならないとする(63頁)。彼は、植物には霊魂があり無生命ではなく、「生命づけられている」が、「感覚をもっている」とはいわないとして、「植物が感覚し欲望すると信じた」プラトンは間違っているし(64頁)、「植物が感覚し欲望する」としたアナクサゴラス、デモクリトス、エムぺドクレスは「退けられよう」(64頁)とし、「われわれは植物が欲望も感覚も持たない」、「植物の構造を動物の霊魂の構造に帰することは困難」(65頁)とし、「植物はそれ自身からの運動を持たない」(66頁)と主張した。彼は、「植物は、そのうちに霊魂の何らかの部分を持っているので、霊魂を欠いているものではない。けれども(植物は)そのうちに感覚がないので、動物ではない」(66−7頁)としたのである。

 アリストテレスらは、@「植物は太陽や適当な温度や空気をより多く必要とし」、「その成長の時期において一層多くこれらのものを必要とする」(69頁)、A植物も動物と同様に「雄と雌の混合」で生れるが、植物は「それらの可能力が離れ離れになるということはない」(70頁)、B「植物は多くの理由によって眠りを必要としない」(70頁)、C「植物は、動物のためでなければ創られなかった」(71頁)、Dだが、「植物は容易に得られ且つ貧弱な食物を要する」とすれば、「植物は動物にもまさる何かをもっていることになる」(71頁)とした。

 アリストテレス学派の植物論から、我々は、今日でも通用する貴重な示唆を受ける。アリストテレス学派は、植物は自ら食物を作る「動物にまさる」存在であり、動物の食料となるために生れたとした。それに対して、動物が動かねばならないのは、自ら食料を作れず、場所を移動し、食料を求めなければならないからである。そこに、動物の頭に脳が生れたのである。動物には生きるための食料確保の諸行動の判断・指令を下すところの脳が不可欠となったのである。この点、場所を移動し、食料を求める必要のない植物には脳は不要であり、水分・栄養分の移動のみを司る「心臓」機能だけあればよいことになったのである。また、確かにアリストテレスはまだ直立歩行と脳の大きさの因果関連を指摘しておらず、かつなぜ人間の脳が大きくなったのかについては説明してはいない。だが、直立歩行と脳肥大化についての指摘は今日でも重要であろう。これによって、人間は、生きるために、食料確保の諸行動の判断・指令を下すのみならず、集団生活や天変地異などからくるストレスに音楽・舞・詩歌などで対応することも可能になったからである。アリストテレスの方法論を引用すれば、まさに人間が生きる上で無駄なものなどは何一つとしてないということになるのである。


 こうして、アリストテレスは、『問題集』においては人間だけが動物の中で富のためにもっとも不正・不善をなすことを指摘し、「小品集」では動物と植物の相違について重要な示唆を行なった。これらは、今日では注目すべき見解である。この「不正・不善」を資源浪費・自然破壊・貧富差拡大などとみれば、充分現代でも通用するのである。


 以上を要約すれば、アリストテレスは、人間と動物の各種の相違を指摘し、人間を「理性」と感覚に分け、人間が最も賢いとしたが、同時に動物・植物はそれぞれの状況において生きる上で必要な「理性」(判断能力)を持ち、それぞれの状況において「賢い」生き方をしているとも指摘している。後者を重視すれば、人間と動物には根本的違いはないことになるのである。これまた今でも通用する卓見であろう。

 しかし、アリストテレスは、結局、一方で人間に理性があっても、他方で欲望に基づく富の追求・蓄積を理性で抑えることは出来ず、結局、人間は絶えず問題を起こし深めることを指摘した。彼は、理性的人間と劣悪な人間に分けたが、大部分の人間は理性で欲望を抑制できない「劣悪な人間」なのである。欧米ではこうした指摘は現在もなお繰り返されていて、一方では理性・道徳・倫理が重要だとしつつも、他方でそれらが欲望の暴走を抑えることができずに、多くの問題を惹起し続けるとするのである。だが、これは、理性がある人間か、理性のない人間かという「人間の問題」ではなく、究極的には「制度」・「システム」の問題なのである。

 アリストテレスは、国家は「自然」であり「善」だとするが(『政治学』[アリストテレス全集』15、岩波書店、1977年、6−7頁])、ここでは国家発生の歴史的分析などが何らなされていない。アリストテレスはなぜ国家が生じたのかを考察していないのであり、これは、空想的・観念的な意見と言わざるをえないものである。富と国家は、人間の外敵攻撃・自然災害などへの生命防衛措置であり、動物の防衛本能の現れの一部であろうが、それは他の動物の防衛行動を大きく越えているということがポイントである。アリストテレスは、自然社会を体系的に知ることもなく、ゆえに自然社会に照射されて富社会の構造的特徴、「富と権力」のシステムを把握することはできなかったというべきである。


 なお、アリストテレスは気づいていていなかったが、かなり以前のメソポタミアでも人間と動物の比較がなされていた。それは動物学的というより、宗教的なアプローチではあったが、古代バビロニアの哲学者は、「何故人間が動物より優れていて、しかもなお神ではないのかという問題」(E.キエラ、板倉勝正訳『粘土に書かれた歴史ーメソポタミア文明の話ー』岩波書店、昭和33年、134頁)に取り組んでいた。彼らは、「両者が密接に関係」をもち「本当の差異はただ人間が賢いということだけ」であることを知りつつ、賢さでは人間は神に近く、死ぬ点では動物にちかいことをどうとらえるべきかと問題提起して、彼らは、「最初の人間をつくる際、神の血と地の粘土をまぜあわせて創造した」からだとした。この点、聖書は、「人間が、最初の泥人形に生命を与えるため神が吹き込んだ息吹きから神的なものを受けた」(キエラ前掲書、129頁)と見ている。

 さらに、人が知恵を持って神と同じような不死の命をもつことのないようにしたことについて、バビロニアでは、「人間の分を越えて知りすぎている」アダバに対して、「神々の王」アヌは「生命の食物と生命の水」を与えようとしたが、アダバは「友人(神)の忠告」でこれを食べずにいたので、「地上に帰って死ぬがよい」(キエラ前掲書、130−2頁)とした。それで、バビロニアでは、人間が「永生を得るのに失敗」した責任は、「人間と、また間違った忠告をした神」の双方にあるとされた。また、ギルガメッシュ叙事詩では、英雄ギルメガッシュは、バビロニアのノアが神々から「生命の草」を与えられ永生を許されていることを知って、そこにゆき、その草を見つけたが、蛇にひったくられる。これは、「神のみに許されている食物を人間が盗むことはできない」(キエラ前掲書、133頁)ことをしめす。この点、『聖書』では、アダムとイブは「蛇の介入」によって「善悪をわきまえ」る知恵をもつが、エホバは「神の特権の一部であるその知識が盗まれた」と見て、怒って、「生命の樹から取って食べて永久に生きるようになる」ことを恐れ、彼らを楽園から追放した(キエラ前掲書、133頁)。

 人間が動物と同じように死ぬのが神の采配であれ、そうでないとしても、生物の死を「回避」することは、宇宙の生死循環を否定する大それた行為なのである。宇宙の生死循環では、人間も動物も同じなのである。


 (4)、上記「学問随想録」参照。

 (5)、富と権力が密接に連関する富社会では、「政治とは経済であり、経済とは政治である」ということになる。

 economicsの語源とされる家政oikonomikosにもpolitical economyを髣髴とさせる側面があった。ソクラテスの弟子クセノフォン(前427−前355年頃)は、『オイコノミコス 家政について』(越前谷悦子訳、リーベル出版、2010年)を著し、これを精しく説明している。oikonomikosとは、oikos「家」とnomosu「統治する、管理する」からなる言葉であり、訳者は、クセノフォンは、「単なる家政論にとどまらず、家政を通しての国政論でもあり、統治、統率の方法論でもある」(訳者解説、178頁)としている。それはなぜか。特に大土地所有者貴族・騎士にとっては、家政の維持は軍事的ポリス共同体維持には不可欠であったからである。国家領域、人口がもっと大きければ、「国家の基礎は民富」などの把握は自然にでてきたであろうが(例えば、人口約500万人の古代日本などを想起)、都市国家であり、市民規模も数万人では、「都市国家の基礎は市民家政」という認識にならざをえなかったのであろう。だが、国家・人口規模の相違はあるものの、「国家の基礎は民富」という発想原理では同じなのであり、ギリシアでは、市民家政は、軍事的ポリスを支える最小単位として重要とされていたのである。おうおうに経済学の語源とされるオイコノミコスとは、軍事的ポリスの基礎単位の管理論だったということが留意されよう。Political Economyそのものである。

 少し、この点を具体的に見ておこう。ソクラテスは戦争遂行の観点から、「良き家政家とは、敵から利益を得るように敵に対してもまた、対処の仕方を心得ている」(『オイコノミコス』16頁)とし、「たくさんの家」「個人の家も僭主の館」も「戦争のおかげで大きくなっている」(16頁)とする。

 イスマコス(大土地所有者)は軍隊を例に家政の整理整頓の重要性を説き、妻に、「妻・・もまた、家の内のことに定められた規則の番人なのだ、だから、丁度、指揮官が部隊を視察するように、適時、用具を注意深く調べるように、議会が馬や騎士を検分するように、家財道具の保存状態の善し悪しを検分するように、そして、女王のように、功績のある者を自分の度量によって褒賞し、時には、その必要ある者を叱責するように」(『オイコノミコス』82頁)と、軍人のように家の監督をすることを指示した。

 大土地所有者の経営については、ソクラテスはその軍事的管理を提唱した。ソクラテスは、「ペルシャの王様・・・は農業と戦術は最も高貴で必要な仕事のうちにはいると信じていて、双方に多大な関心を寄せている」(『オイコノミコス』38頁)とし、「結局のところ、大体、土地を良く耕していない人達というのは、警備隊を養うことが出来ないし、税金を払うことも出来ないということだ」(41頁)とした。ソクラテスは、「農業はまた、人々を指揮することにも習熟させ」、「農夫が農奴達を励ます回数は、指揮官が兵達を励ます回数に劣っていない」(『オイコノミコス』48頁)とした。イスマコスは、「農業でも、政治でも、家政や戦争でも、すべての事柄に共通なのは、指揮の仕方であ」(158頁)り、「指揮官の才覚によってある集団と他の集団の間に大きな差が生じるというあなたの意見に賛成です」(158ー9頁)とした。

 さらに、家政oikonomikosのみならず、当時のギリシアの善・美・名誉などもギリシア軍事的ポリス体制に深く関わっていたのである。プラトン『法律』では、アテナイ人は、第一に「魂に関する善いものが、そこに節制のある場合に、最も名誉のあるもの」であり、第二は「肉体に関する美しいもの善いもの」とし、第三に「財産や金銭に関して善いものといわれているもの」を位置づけた。アテナイ人は、ギリシアが慢性的な戦争状態であるだけに、士気を高め、緊張を和らがせるために、上位に善・名誉・美をおき、下位に金銭をおいたのである(プラトン『法律』[『プラトン全集』9、141−2頁])。

 第二に関して、アテナイ人は「共同食事と体育とは立法家によって戦争目当てに発明されている」とし、スパルタ人(メギルロス)から同意される(プラトン『法律』[『プラトン全集』9、角川書店、1975年、24頁])。さらに、スパルタ人は、「互いに手を以ってやり合う格闘」、「さんざん擲り合ってなされる一種の掠奪」、「クリュテイア」(「冬に裸足歩き、寝床に眠らないで、従者の手をかりず自分で自分の用を足して夜となく昼となく国中を徘徊するもの」)、「ギュムノパイディアイ」(「暑熱の力と戦う」もの)などがあると付け足した(プラトン『法律』[『プラトン全集』9、25頁])。ギリシア肉体美は戦争と深く関わっていたのである。まさに、当時のギリシアでは、善・名誉・美などが軍事的士気高揚に不可欠のものとされていたことが確認される。単なる善・名誉・美ではないのである。危険な香に満ち満ちているのである。我々は、手放しでギリシアの善・美・名誉を賛美することはできないのである。


 近代経済学の祖といわれるアダム・スミスは、「経済学」とはPolitical Economy以外の何ものでもないことを明らかにした。以後、厚生経済・福祉経済・環境経済などが登場してきて、いつしかPolitical Economyという名称は消え去ったかであるが、厚生経済・福祉経済・環境経済などの主要政策主体が権力である点ではPolitical Economyに何ら変わりはないのである。


 (6)、我々は、「一面では貨幣を承認しながらも、他面では貨幣を憂鬱な贈り物だと感じながら暮らしている」(内山節『貨幣の思想史』新潮選書、平成9年、10頁)。なぜ、貨幣は憂鬱な贈り物になったのか。そもそも貨幣は「贈り物」などというものであったのか。

 貨幣の機能は、一般に価値尺度、貯蓄手段、交換手段などとされている。だが、これらは後付のものであり、このうち価値尺度、貯蓄手段と交換手段とは根本的に機能が違う。では、貨幣とはそもそもいかなるものとして生み出されたのか。

 基本的には貨幣は富社会での権力による致富手段として発行され、まずもって価値尺度、貯蓄手段として登場したのである。これは、いかに強調しても強調しすぎることはない。自然社会には貨幣と言うものは必要なかったが、富社会では、額面から調達・鋳造費用(地金、鋳造加工費、或いは運搬費)を引いた残りが、権力の利益となることから、権力が統治費用を支弁するため農民を搾取して財政基盤を樹立しようとして貨幣を発行した。権力は、国の財政・経済基盤を樹立するために貨幣を発行したのであり、「当初政府は、銭貨をつぎつぎに出せば国家事業の費用は自由に捻出できる」(松尾光『古代の豪族と社会』笠間書院、2005年、319頁)と考えたのである。

 603年最初の貨幣が発行されたが、それが富本銭と称されていたのは、この権力意図を端的に物語る。富本は、「国を富ますの本は食貨(食物と貨幣)にあり」(『晋書』食貨志)に由来する。後漢の光武帝は、これに従って「前漢時代の五鋳銭」を発行し、日本の天武朝は「唐の開元通宝の規格に合わせながら、後漢時代の『富本』に関する政治思想を受け継いだ」(吉村武彦「古代の文化と思想」[『日本史講座』東大出版会、2004年、331頁])のである。

 その後、天武天皇は、天武12年(683年)「今より以後、必ず銅銭を用いよ」と命じ(『日本書記』)、和銅元年(708)から天徳2年(958)に皇朝十二銭(和同開珎から乾元大宝)が発行された。「珎」の字が「寶」の異体字である「寳」の略字であるかどうかについて論争があるが、和同開珎以後の銭にはすべて宝がついているように、貨幣は国に宝=富をもたらすものとされていた事が重要である。

 そして、淳仁天皇の時、天平宝字4年(760年)3月16日、太政大臣藤原仲麻呂=恵美押勝が鋳造権を与えられて、私鋳銭多くて混乱している通貨に対処すると称して、和銅開珎に次ぐ第二の銅銭として万年通宝を発行しだした。だが、換算率を「旧銭の十に当てよ」として、改鋳益捻出をはかっていて、「政府の利益」(前掲『続日本紀』三、岩波書店、349頁)が確保されていた。以後の新銭発行は、多くの私鋳銭による混乱に乗じた10倍換算率発行でなされてゆく。

 確かに、銭は罹災窮民の救助にもつかわれてはいる。例えば、承和9年7月20日、遣使して、失火百姓六萬に銭を班給させた(『続日本後紀』巻四、『国史大系』3、吉川弘文館、平成12年、138頁)。だが、これは、例外的であり、大勢では、あくまで権力、支配階級の利益のために使われた。延暦15(796)年11月8日には、詔して、「民を済(すく)う要諦が国益を増す良策であり、賢い指導者はこの原則により、時機に適うよう事にあたり、軽財である銭を使用して円滑な経済活動を推進している」と、国家の貨幣鋳造を「民を済う要諦が国益を増す」ことだとして、貨幣が民間経済を活発化するなどと、国家に都合よく評価する(森田悌訳『日本後紀』上、講談社、2006年、79頁)。

 しかし、都の民衆は、この貨幣導入で物価騰貴という生活困窮問題に直面することになる。例えば、天平神護元年(765年)2月旱で凶作となって「京師の米 貴(たか)」くなり、西海道諸国に「ほしいままに私の米をはこば」(前掲『続日本紀』四、岩波書店、75頁)せたのであった。4月16日には、「米の価」が「踊貴」したので、「左右京の穀(もみ)各一千石を東西市にうる」(前掲『続日本紀』四、岩波書店、83頁)ことをしている。貨幣発行の利益を享受したのは、民衆ではなかったのである。貨幣利益を享受できたのは、あくまで権力であり、権力を支える上層階級らであった。

 権力を支える上層階級が貨幣で利益を受けた具体例としては、承和2(835)年10月23日、大藏省に新錢を進めしめ、見參親王以下五位已上に分賜し、又嵯峨・淳和兩院に各十万文を奉り、皇太子に二万文を賜っている事があげられる(『続日本後紀』巻四、『国史大系』3、吉川弘文館、平成12年、42頁)。僧侶にも支給されており、例えば、承和2年10月28日、勅して、新錢四万文を以て、これを分けて、京城及平城有名之寺仏僧に供施する。毎寺に内舍人を使いと爲した(『続日本後紀』巻四、『国史大系』3、吉川弘文館、平成12年、43頁)。

 また、銭は、権力の意に反して、一部富豪の蓄財にも利用されたようだ。『三代実録』巻十四によると、貞観9年(867)5月10日、勅して、まず、「延暦十七(798)年九月廿三日格に云う、『用銭之道は、軽便において取る。利の有無、均、彼此得宜は聞く如し、「外国(畿外の意味)吏民は多く貯蓄あり。京畿士庶は乏しい資用をめぐらす」。既に乖均利之義は、亦得宜之方を失う。宜しく嚴制を下す。更に然らざるを得ず。所有之銭は、盡く皆官に納める。仍りて正税に用いる。價に准じてこれを給す。京之功を送る。亦正税を用いる。藏ありて、進まざるがごとし。他を被告となし、蔭贖(おんしょく)を論ざず(律令制では皇族・五位以上は、贖銅[しょくどう]で罪を代償できたが、ここではそれには関係なく、罪に服させるとする)、違罪を科す。其物を五分して、一分は告者に給し、四分は官が没収する。但し、伊賀、近江、若狹、丹波、紀伊国などにあらざれば、制限を禁ずる』」と、貨幣蓄財を禁止して、従来の蓄銭叙位を転換するとした。しかし、「今畿外諸国富豪之輩は、格旨を慎まず、猶事を貯積する。其由緒を聞く。資用に充てざれば、徒らに富強之名を奢(おご)る。各が聚集之夥を争う。辺鄙では既に通用之理は無い」と、畿外諸国富豪は貨幣していたので、「宜しく其資用を聴き、其貯蓄を禁じよ」とした。


 
なお、自分の専攻を金融・金融史などに限定する者がままいるが、これなどは以ての外の非学問的態度といわざるをえない。金融史だけやっていては、ダイナミックな学問的把握などはできないし、学問的志の高いものは研究領域を金融専門などに限定することはないのである。


 (7)、一般に、宗教とは、自然や宇宙などへの人間の不安・恐怖を和らげることに起因するものであり、神話(人間と世界の起源を神々の存在と関係づけながら展開する物語)・教義(神話を純化したものである場合もある)に基づき儀礼、施設などをそなえ、無限・絶対の超人間的な神仏などを崇拝し、信仰することである。そして、この宗教は、「自然社会の宗教」と「富社会の宗教」に大別される。

 後者の「富社会の宗教」は、「自然社会の宗教」とは異なり、富社会成立以来、一貫して、官僚機構、軍事力などとともに、明らかに権力統治手段の一部になっていた。富社会が誕生して以来、権力が宗教を利用しなかった時代はなく、富社会では、宗教はパワーシステムの一部になっていた。こういうことは「古今東西・千年視野」という総合的・根源的学問論という観点の導入によって初めて明らかになり、縄張り根性の専門研究だけで事足りるとするような非学問的態度ではとてもとても気づかないことである。

 権力は、古今東西、誕生以来、既存の「自然宗教」を統治手段に利用し、権力宗教を作り、育ててゆくぼである。日本でも、当初は、既存の縄文時代以来の「自然宗教」を土台の一つとして中国の道教などをも加味して「神祇」をつくり上げ、人民統治宗教として利用していった。やがて、仏教が導入されてくると、日本では神祇統治(神祇を人民統治に利用すること。詳細は『日本主義』[白陽社、季刊]などに掲載した一連の拙稿を参照)を堅持しようとする物部らと仏教統治(権力が仏教を人民統治に利用すること)を推進しようとする蘇我氏らとの間で激しい対立を起こしたことは周知である。

 しかし、以後、仏教は神祇と「共存」し、「神仏習合」が展開されたとして、神仏が「原理的」に異なる側面、対立する側面が無視ないし軽視されてしまった。筆者は、総合的・根源的に学問的に把握する必要から、前近代と近代の分水嶺である明治維新を当初から研究の起点とし(だから、その当時から、総合的・根源的[当時は全体的と表現していた]に把握しようとしていたので、私の研究報告はいつも長大なものとならざるをえなかった)、幕末期の国学運動、維新政府の神仏分離令などをよく知っていたので、この神祇と仏教とは原理的に相違するものであり、神仏習合とは権力が統治上の必要からつくりだしたものであり、仏教導入以後も権力の人民統治面で「神仏習合」という側面と同時に「神仏対立」の側面もまた持続していたことに着目していた。

 権力は、人民統治の手段の一つとして、神祇のみならず仏教をも利用するが、やがてそれは権力内部で神祇覇権と仏教覇権の権力闘争を生む。神祇側は、根幹を神祇で固めること(神祇覇権)がなによりも必要だとし(大化改新ー不改常典ー聖徳太子・聖武天皇・称徳天皇の仏教王国樹立の挫折ー平安遷都など)、一方、この過程で仏教側は覇権をめざしつつも、神祇覇権権力に迎合するために変容してゆき(これは空海真言密教[『文鏡秘府』、『秘蔵宝鑰』、『即身成仏義』]で頂点に達したようだ[山折哲雄『空海の企て』角川選書、平成20年])、まさに神祇と仏教との間には「習合と対立」についての濃淡差を帯びた複雑な動態的展開があったのある。

 これは、各天皇ごとに神祇統治と仏教統治の関係を実証的に考察することによって、明らかにされよう(詳細は『日本主義』[白陽社、季刊]などに掲載した一連の拙稿を参照)。もし、権力が宗教統治を神祇だけで行こうと決断すれば、いつでも中国のように廃仏的政策をうちだすこともできたが、神祇を根幹にすえながらも、一度も権力は廃仏政策をだすことなく、天皇や藤原らの葬式に積極的に仏教を利用し、神祇と仏教を全国統治手段として利用していった。

 こうして神祇と仏教は権力の宗教政策によって習合してゆき、まさに神仏習合は権力の宗教政策そのものであったが、重要なことは、平安遷都までは、権力の側で、神祇覇権でゆくか、仏教覇権でゆくかという原理的対立があり、必ずしもいずれで行くが決定されていなかったということである。元来、仏教と神祇は原理的に異なるものであり、故にこそ権力の根幹に関わる伊勢神宮及び近辺では神仏習合的なことは穢れ、或いは国異として排除されていた。

 例えば、承和7年12月7日、伊勢大神宮に遣使し、宣詔して曰く、「頃日之間、御心に思う所あり。將さに幣帛を供え奉る。而して国家諒闇(淳和上皇死去をさす)にて、御意を果たさず。これに加え、今年は肥後国にある神霊池が涸盡して四十餘丈となる。以って国異となすに足る。これに因りてこれを祈祷せしむ。これより先、伊勢国桑名郡多度神宮寺を天台別院となしたが、今これを停める」(『続日本後記』[『国史大系』3、吉川弘文館、平成12年])。こうした伊勢神宮近辺での神仏習合ですら天変地異の要因とみて、これを停止したのである。

 こうした既存宗教と新興仏教との複雑な関係は、仏教王国を構築しようとする場合にはどこの国でも見られたことであり、さらに権力頭部では国王と仏教法王との連関・位置づけ(どっちが権力中枢か、いずれが人民統治の主体になるかなど)が鋭い問題になる。こうした権力の人民統治上での神祇・仏教の利用(神祇統治・仏教統治の対立・習合)の観点を導入する時に、通説を塗り替える、実に多くの重大発見がなされる。

 さらに、こうして権力は誕生以来宗教を人民統治に利用してきたという観点から現代政治を見るとき、この観点からも現代の政治的混迷が良くわかってくる。戦後憲法で権力の宗教利用が禁止されて、現在、日本権力は史上初めて宗教を人心収攬、民意掌握などに利用できなくなったということが見えてくるのである。宗教を人心収攬、民意掌握に利用できた場合でも、矛盾が深刻化すると、権力宗教も役に立たなくなるのであるから、権力宗教が利用できないということは現在の権力政治には大問題なのである。


 (8)、上記「学問随想録」参照。

 (9)
上記「学問随想録」参照。


 (10)、人類史上には、農業革命、航海革命、市民革命、産業革命、情報革命などいくつかの大きな画期があった。では、これらはどのように関連し、人類史上で「運命の岐路」となったという点でいずれが最も重要だったのか。

 人類革命の画期 
人類革命の画期について、伊東俊太郎氏は、人類革命、農業革命、都市革命、精神革命、科学革命、環境革命をあげている(『文明と自然』刀水書院、2002年、16−30頁)。

 氏によれば、人類革命とは「類人猿から人類への移行を意味する変換期」、農業革命とは「人類史に「おける農耕の始まり」(産業革命と並行して起こった「農業革命」ではない)、都市革命とは「都市文明の始まり」、精神革命とは前8世紀頃に「呪術的:神話的思惟方式」から「普遍的原理にもとづいて、この世界を合理的統一的に思索」すること、科学革命とは17世紀に西欧でおきた「近代科学の成立」、環境革命とは「今日の環境問題」を解決するために科学技術・哲学・倫理・経済・政治を変革することである。相互の内在的連関はもとより、いずれが重要であるかは問われずに、第一の革命、第二の革命などと把握されている。

 だが、人類革命以後も、まだ人類は自然の一部であったが、農業革命以後、人類は自然に対峙し、その改造に初めてのりだしたこと、そして、都市革命、精神革命、科学革命、環境革命はそうした農業革命の結果であることなどがが明確に把握されていない。最後の環境革命は、今後の課題であって、既に行われた、或いは行われている革命ではないし、科学技術・哲学・倫理・経済・政治を変革するのであれば(「自然を内にとりこんだ経済学」、「地球環境の村立や防衛に向かって協力する」政治学などの構築)、環境革命という用語では不十分であろう。環境革命を「あらゆる文明k装置」を「自然との共生を求めて再編成されるべき」革命だというのならば、以前の諸革命と「並存」すべき革命ではなく、大分水嶺ともいうべき大革命ということになろう。氏の主張には大いに賛成であるが、氏の把握ではこうした画期的重要性が鮮明に浮かびあがってこない。これは、氏におかれては、農業革命について、自然天水農法と灌漑農法の区別がなされず、灌漑という自然改造農法の画期的な重要性が明確に把握されていないことによるのである。

 また、伊東氏は産業革命を科学革命に含めていたが、資本主義、特に帝国主義を重視して、産業革命の画期性を指摘する研究者も少なくない。だが、「千年視野」・「古今東西」ということから見れば、農業革命こそが、自然社会と富社会との大分水嶺をなしているという意味で、最も重要な画期ということになる。

 農業革命 農具を使用して大地を耕し灌漑して農作物を栽培するという農業革命(自然改造農法)は、既にあきらかなように、メソポタミアで最初におこり、それが世界各地に伝播し、或はそれと並存しつつ、エジプト、インダス、黄河に富社会の曙ともいうべき古代文明、つまり宗教と法と軍事力に支えられた「富と権力」システムを生んだのである。

 ただし、この農業革命とは、一朝にしてなったものではない。産業革命は数百年のマニュファクチュア期を必要としたが、農業革命は数千年の自然農法期(天水農法が主軸であり、種子選択、ブナ科(ドングリの実がなる)の木の下に芽生えた苗木移植など、「富を生まない自給的な栽培農業」)を前提としていた。農耕、栽培農業がた直ちに富社会を生んだのではなく、自然社会のもとで長期に存続する時期があったということである。この自然社会の下での農耕は、天水によるオオムギの栽培の場合もあれば(メソポタミア)、木の実の栽培の場合もあり(日本の縄文社会の一部地域)、非常時に備えた貯蔵までは行なったが、市場向け生産までは着手しないというものであったのである。

 やがて農法転換(メソポタミアでは灌漑農法、日本では稲作農法などの自然改造農法の登場)で農業生産力が上昇すると、ここに史上初めて富が生じてくる。そして、飢餓などでその富を盗もうとする集団がでてくると、その防衛のために武力を整備し、城壁を構築し、ここに権力が生じるのである。この過程は史料がないので実証はできないが、動物と比較すると、興味深い考察ができる。つまり、動物の中にも、カリフォルニア、コスタリカなどに生息しているドングリキツツキ(Acorn Woodpecker)のように、家族でドングリを貯蔵するものがいる。彼らには大きな貯蔵穴を掘る力がないので、ドングリを大穴にまとめて貯蔵することはできず、小さな一穴に一ドングリを貯蔵する。そして、これらを盗みに来る小鳥に対しては、集団で対処してこれを防ぐのである。恐らく動物は貯蔵して集団で防ぐことまではしても、人間のように富を生み、それを盗まれないように武力と城壁で敵から防衛することまではしないのである。

 なお、メソポタミアの「経済成長」の原動力に関し、H.ウーリッヒは、資源不足をあげる.。つまり、彼は、「メソポタミアには資源(鉄鉱石・木材・宝石・建設用石材など)がなかった」ことが「シュメールに商業が発達し、やがてそれが世界貿易にまで発展することになる根本原因」(H.ウーリッヒ、戸叶勝也訳『シュメール文明ー古代メソポタミア文明の源流』祐学社、1980年、133頁)とするのである。だが、彼は、メソポタミア経済成長の因果関連を全体的に把握していないというべきだ。彼がメソポタミア加工業・商業の重要性を指摘したことは的確であるが、なぜそれが可能になったかといえば、農業の著しい展開があったからである。ヨーロッパ中世期以上の生産力をもつメソポタミア農業、つまり、「犂耕、畝蒔き、出芽時の灌水」など集約農法で「収穫量は播種量の約六十倍から八十倍」(西欧中世では十倍)と高いメソポタミア農業(前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、66頁)、これこそが、「生活の基盤を農業においていない」「多数の人間を扶養し(マイケル・ローフm松谷敏雄訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年、58頁)、専門職人を出現させ、文字の発明、精密で理論的な科学の誕生を随伴させたのである(マイケル・ローフ前掲書、58頁参照)。原動力は、あくまで農業の生産力の飛躍的発展なのである。

 この人類史上の画期という問題を考える上で、上記「学問随想録」で見たように、近代西洋の「文明」用語の変遷を見ておくことは有益であろう。
                                  


 (11)、以上のことに関しては、具体的に実施している先学がいる。

 梅原猛 氏は、「現代の文明の方向は、人間が自己と、自然や他の動植物との違いを強調し、人間の自然および他の動植物にたいする支配を合理化する方向だと思う。このような文明の方向によって、巨大な技術文明が誕生した。そのような巨大な文明の中にあって、人間はますます傲慢になり、ますます自然から離れてゆく。・・・私はもう一度人間の自然との同一が確認されねばならないと思う。そしてそのうえで、人間とは何かが、あらためて問いなおされなければなるまい」(梅原猛「密教の再発見」『仏教の思想』T、集英社、1982年、358頁)と指摘されている。なお、「このような文明の方向」とは、いうまでもなく西洋文明である(千田注)。

 福岡正信 また、福岡正信氏は、「西洋では自然と人間を対立させたでしょう。そのときが過ちのスタートで、そのときから人間は一人で智恵を使って苦労しなければいけない、一人で作物を作って食っていかなければいけないということにな」り、「自然を生かす自然科学ではなく、自然を殺す反自然科学が人間の科学になった」(『<自然>を生きる』春秋社、1997年、59頁)と批判し、「人間はなぜ生きるのか、人間の生命はどこにあるのか、何が基になっているのか、自然の心とか生命、神とか仏とかという言葉がありますが、それを早く明確にキャッチし」、「本当の価値観、真善美は一つしか」ないことに気づかなければならないとする(同上書、66頁)。

 そして、筆者は、総合的・根源的学問によって、自然社会と異なる富社会での「富と権力」のシステムが学問的に解明され、こうした諸問題を総合的・根源的に把握することになるとしている。

 マルクスの問題点 それに対して、カール・マルクスは周知の唯物史観(『世界の大思想』マルクス経済学・哲学論集、河出書房、昭和42年など)で下部構造ー上部構造からなる社会の総体的把握の理論を提示し、左翼に属さないアカデミック研究者を含めて、多くの「社会科学者」に影響を与えてきた。だが、このマルクス社会構成体論の致命的欠陥は、@人間の自然への働きを当然のこととし、「社会のなかで生産を行なう諸個人」を「出発点」として、「自然主義」を「美的な外観」・ユートピアとして一蹴し、現実の社会として存在していた「自然社会」を知りえず、これを社会構成体理論に組み込みえなかったこと、A「人間は、自分たちの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志からは独立した諸関係の中にいる。すなわち、もろもろの生産関係にはいるのであって、これらの関係は人間の物質的生産諸力の一定の発展段階に照応する」(「経済学批判序言」)と、生産力を基軸に「発展」しているとしたこと(これに関しては次の注6でも言及)、Bこうしてマルクスは富社会の人類の営みに「お墨付き」を与えたことになり、資本家の賃労働者搾取を揚棄し、賃労働者独裁国家をつくりさえすればすべてが解決するとしたことなどである。「富と権力」を根幹とする富社会の根本的諸問題(自然と人間の対立、それによる富の実現が基本)を解決せずしては、賃労働者国家などが登場しただけでは何も解決しないのである。マルクスは、「現代」を現代に特有なものとして、それだけを独自な対象として、そこに解決の糸口を見出そうとしてしまった。却って、科学的社会主義と称した考えに基づく労働者国家は、人権抑圧の秘密警察国家「ユートピア」であった。これまた愚かな人知以外の何ものでもない。こうした「独断的」な傾向は今でも見られ、近現代の一時期(例えば「戦間期」・「占領期」など)を取り出して、その固有性のみを強調して、それが現在の我々の直面する諸問題を生み出したかのごとく見通して、総合的・根源的なる学問的把握を怠ったのであった。

  ロストウの問題点 こうしたマルクス社会構成体移行論に抗して生み出されたのがウォルト・ロストウ経済段階理論である。彼は1952年に、The Process of Economic Growth, (Norton, 1952)[木村健康,久保まち子,村上泰亮訳『経済成長の過程 一つの非共産主義宣言』ダイヤモンド社、1974年])を刊行し、、「伝統的社会→離陸の準備段階→離陸(テイク・オフ)→成熟への前進段階→大量消費社会」という経済段階論を提唱して、離陸を重視した。これは、米ソ対立の中で、資本主義の優位を主張するために、イデオロギー的使命を持って生み出されたものであり、自然社会の理解など全く欠落した単純なものである。このロストウ理論は英国産業革命論ゼミの中で示唆されたものであるが、当時はマルクスとかロストウなどの「総括的把握」論が盛行していたのである。

 マルクス、ロストウ、いずれにおいても、一定意図のもとに富社会の「推移・展開」のみに問題関心が集中し、「自然社会」論が欠落していて、その結果、「富社会」固有の特質たる「人と人との対立」と「人と自然との対立」という内在的連関構造が十分検討されていないのである。左と右の見方の対立であるようであって、実はともに「同じ穴の狢」でしかなかったのである。

 なんども主張しているように、自然社会論は学問の根源的位置をしめている。この自然社会は、現時点での筆者調査によれば、メソポタミアなどにもみられたが、メソポタミアでは自然社会が数千年後に富社会に移行し、これがヨーロッパ自然社会の展開を制約したであろうと推定される。それに対して、日本の自然社会(縄文時代)だけは1万年という長期にわたって持続し、世界で日本だけが最も濃厚にこの自然社会を経験し、以後の日本を異色たらしめ、学問的にも「卓越」たるものたらしめる可能性を帯びさせた。


 日本の大学研究・教育体制の問題 しかし、日本の大学は、こうした可能性に気づことはもとより、それを伸ばすことも怠ってきた。つまり、総合的・根源的研究を怠り、安易な個別研究に事足れりという非学問的態度を示してきたのである。

 筆者は、学部在学の当時から脈絡のない各種「専門講座」の有害無益性、専門研究者の学問的情熱の希薄さを厳しく批判し、「全体研究」に従事して、高所大所から世界をみる学者を目指しており、大学に数多いる凡庸研究者・「偽物学者」を有害無益として指摘し、当時の学長などにも「もっとスケールの大きい本物の学者をふやすべきであり、テレビなどに出て下らぬ事を言って勉強してない非学者は直ちになんとかするべきではないか」などと意見書を提出していた。中には、畏怖・敬意を示したり、理解を示す教授もいたが、だったらあなたも自らの非学問性を自己批判なされて、現状に安住せず、腐った大学を出て本物の学問を築かれたらどうでございましょうかというほかはなかった。いかにも理解したふりをして私も「学者のはしくれだ」みたいな御態度をとるべきではないでしょうと諌めたものである。わかっているのであれば、やってごらんさいということだ。誰もが目先の有害無益研究に走って、「古今東西」・「千年視野」という視野で人類と自然の過去・全体・未来について根源的・総合的な学問を構築しようとしない以上、誰かがやらねばならないのである。全国に溢れる凡庸で非学問的な個別研究者に堕すわけにはゆかないのだ。

 当時まともな本物の学者がいれば、筆者は総合的・根源的学問論の構築などという途方もない大仕事に明らかに従事することはなかったであろう。私の学問的営為は、基本的にはこうした凡庸・非学問への厳しい「学問的批判精神」に基づき、肩書きをとれば殆んど通用しないような、自己保身のためなら何でもする類いの、はるかに筆者の下にある低俗で腐敗した既存大学教授(もちろん筆者と切磋琢磨しあう真摯な教授もいる)などは明らかに「学問の敵」であり、一切眼中になかった。筆者は、絶えず「古今東西」「千年視野」という高所大所から人類と自然の過去・全体・未来について総合的・総合的に考察する学問を構築し、世界的スケールの本物の学者になることのみを目指してきたのであり、これについては終始一貫未だに変わることは一切ないのである。とにかく日本の大学は不法にも人権侵害的で非学問的過ぎるの一語に尽きるのである。その言語道断の以ての外の非学問性・不法性などを嫌って、筆者以外にも日本の非学問的・欺瞞的な大学や怠慢教授を避ける賢明な人が現実にいるということだ。こういう所は、国税投入を即刻停止するべきであり、厳罰に処されるべきであろう。

 他に大志を抱いてこういう学問研究をやってる大学者がおられれば、速やかに彼にまかせたいところでもある。確かに志高い物理学者の中に総合的学問論構築の動きが見られるが、まだまだ不十分なものである(拙稿「古今東西の学問方法論」)。時々、数多くの個別研究者を網羅してそれだけをもって「総合知」の実現などと称する者がいるが、所詮、ばらばらの「総合」などは真の「総合知」実現ではないのである。笑止千万というほかはない。実際に着手すれば分かることだが、安藤昌益の如き、一人の卓越した研究者にして本物の学者である達人のみが、自らの頭脳を消耗して「総合知」を構築できるのである。

 

 繰り返すまでもなく、前述の如き総合的・根源的学問による「富と権力」のシステムの学問的解明こそが、宇宙・地球・自然とは何か、人間とは何ものであるのか、宗教とは何か、人間は動物と一体どこが異なるというのか、なぜ人間だけが富を求め出したのか、人間・国家が豊かになるとはどういうことか、そもそも国家とは何か、政治とは何か、経済とは何か、はたまた貨幣・金融を始めたのはいったい誰なのか、なぜ人間は戦争をして、未だに懲りずに人間だけが戦争をし続けているという諸問題を総合的・根源的に把握するのである。



 (12)、例えば、松井孝氏も、1万年前までは「狩猟採集」(「生物圏の中に閉じて生きる生き方」)で既に「種として少なくとも700万年も生き延びてい」(松井孝典「限界に近づいている地球システムの中の『人間圏』」[稲森和夫編『地球文明の危機』東洋経済、2010年、42頁])たから、この生物圏にとどまっていれば、人類はもっと生きられたはずということを示唆している。

 (13)そもそも我々は発展しているのか。富社会は、「奴隷制・封建制・資本制」、あるいは「古代・中世・近世・近現代」に細分化される。この細分化の最大の非学問的弊害は、いかにも人間の歴史は「発展」・「進歩」していると誤解させることである。実際、生産力発展・共同体発展・社会的分業の発展・貨幣経済発展・ブルジョア的商品経済発展・経済発展・資本主義発展など、発展と称される事象は実に多いのである。発展という用語で前向きな方向を志向すると錯覚しているのである。だが、富社会での人為に「発展」などはなく(物理学的)、一切は空であり(仏教哲学的)、少なからざる人々も指摘するようにそれは「破滅」に向かうもの以外の何ものでもない。もともと「自然は歴史の進歩などというものは、求めていない」(哲学者内山節「文明が滅ぶとき」[平成9年5月2日付朝日新聞])のである。自然は、人間に収奪され、進歩どころか、退歩を余儀なくされている。人間だけが勝手に「発展」「進歩」と思い込んでいるだけである。

 ゆえにこそ、これらは、先入観なく、あくまで総合的・根源的に研究されるべきであり、個々独立して分断研究されるべきではない。総合的・根源的研究によってのみ、富社会の本質が学問的に解明される。それには、途方もない研究が要請されようから、相当の学問的覚悟・力量・水準が必要となるが、そこから獲られる学問的成果は果てしなく大きいものである。途方もなく素晴らしいものである。こうした崇高な学問的大志が求められる学問行為は、縄張り根性をもつ低水準の非学問的徒輩には到底できないであろう。


 (14)、自然社会においては、生きるための人類の拡散というかたちで「人類のグローバル化」が進捗したが、富社会では、商業(15−17世紀の大航海時代)、通商(19世紀英国産業革命後の世界市場の形成)、金融(20世紀のアメリカ金融資本主導の国際金融市場の形成)という利益動機がグローバル化の推進力である。

 この国際金融の登場は金融工学という愚かな人知を伴い、世界経済を混乱させる「暴力的」なものであり(東谷暁『世界金融崩壊 七つの罪』PHP新書、2009年、など参照)、例えばノーベル経済学賞受賞者ハリー・マーコヴィッツ「ポートフォリオ理論」などは「騙し」理論に使われたのであった(堀川直人『ウォール街の闇』PHP研究所、2008年)。これは、多くの人々に金融の役割を再考させ、地域通貨の役割に脚光をあびさせ(例えば、『エンデ全集』全5巻、岩波書店、河村厚徳ら『エンデの警鐘ー地域通貨の希望と銀行の未来』NHK出版、2002年など)、多くの制約を課すイスラム金融を注目させたりした(例えば、吉田悦章『イスラム金融入門』東洋経済、2007年。また、藤本勝次訳『コーラン』世界の名著15、中央公論社、昭和45年なども参照。なお、「仏教経済学」と「イスラム経済学」の比較について、仏教経済研究所で行なったことがあり、機会があれば、公開することもあろう)。

 そして、この富社会第三のグローバル化の波で注目すべきことは、インターネット・携帯電話などが世界的に普及したということである。これは、国内外の人々の情報共有を瞬時に実現させ、それが富社会での政治・国家のありかたに大きく影響を与え、それを通して富社会の経済のありかたにも大きな影響を与える可能性を提供している。


 (15)福岡正信『<自然>を生きる』春秋社、1997年、152頁。


 (16)、例えば、フランシス・べーコンは、「ヨーロッパにおける多くの偉大な学寮」はすべて「専門職業向き」であるが、「全般的な学芸と学問」は重要である。「もし哲学と一般原理の研究というものが、無駄な研究であると考える者があるとすれば、あらゆる職業の専門分野は、それから助を受け供給を得ているということを考えないものであ」り、これは「学問の進歩を妨げ」(フランシス・べーコン『学問の発達』、正式には『神と人間の学問の発達と進歩について』1605年[福原麟太郎編『ベーコン』世界の名著20、中央公論社、昭和45年]、319頁)、「専門的学問に建築や寄金を、専らあてることは、学問の成長にたいして、悪い面の影響を与えているばかりでなく、国家や政府に対しても有害であったということである」(同上書、320頁)とした。

 また、フリードリヒ・シェリングは、
「(学問上の)真の行為というものは、いわば全人類の名において行われ得るものであるように、真の知識は個人の知ではなく、理性の知を可能にするだけのもの」であり、故に「学問というものはそれ自身永遠である人類のものだ」(シェリング『学問論』1803年[勝田守一訳、岩波文庫、1989年、27頁])が、大学では「既存のものを己のものとするためにのみ学ばなくては成らぬことが非常にたくさんあるので、知識はできるだけ違った分科に分かたれ、全体の生命ある有機的な組織ができるだけこまかく細分されなくてはなら」ず、この結果、「一切の孤立した知識の部門のすべて、したがって一切の特殊的な学問は、それらから普遍の精神が失われて」(シェリング同上書、31頁)、この結果、大学では「知識への準備どころか、知識そのものが失われてしまったも同然」(シェリング同上書、31頁)である、と指摘していた。


 (17)、学校教育法第52条は、「大学は、学術の中心として、広く知識を授ける」と同時に、「深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開せることを目的とする」と規定している。この法案起草者も大学は専門研究のみならず、「学術の中心」でもあることが必要であることはわかっていたようだ。「学問の府」とまで言っていないが、それに類した表現たる「学術の中心」としたところに起草者の「学問的良心」があったというべきであろう。だが、政治家・官僚や実業家などに、もともと「学術の中心」機構などできるわけがなく、現状では税金の不法浪費というほかはない。

 純然たる学問機関は、税金などは全くあてにしないで、高邁な理想と志をもった真の学者によってつくられるのである。なぜなら、一言で言えば、たかだかの個別研究レベルをするだけでは、人に教えるにたる学問水準の総合的・根源的知識にはとても到達し得ないということだ。


 (18)、マックス・ウェーバー、尾高邦雄訳『職業としての学問』岩波書店、1986年。

 マックス・ウェーバーは、「学問がいまやかつてみられなかったほどの専門化の過程に差しかかっており、かつこの傾向は今後もずっと続」き、「隣接領域の縄張りを侵すような仕事には、一種のあきらめが必要」であり、「学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られる」(21頁)として、個別専門研究の弊害はもとより、総合的・根源的学問とその至要性に気づくことはなかった。

 それ所か、彼は、「学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家的になしとげられたものばかりである。それゆえ、いわばみずから遮眼革(めかくし)を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である」(22頁)と、人類、社会の将来を総合的・根源的に見ることを放棄して、総合的・根源的学問ののもたらす「はるかに深い充足感」に気づくことなく専門馬鹿に徹することを奨励した。しかし、「自己の専門に閉じこもることだけでは、のちのちまで残るような仕事を達成したという深い喜びを感じることはできない」のは火を見るより明らかなのであり、「遮眼革を着けることしかできない人や、またある写本のある箇所の正しい解釈を得ることだけに夢中にしかなれない縄張り根性の人は、まず学問には縁遠い人々であ」り、人類の将来の方向を指し示す、「価値ありかつ最高の域に達する業績」をあげることなどはできないのである。

 その意味で、この書は学問論史上で「最悪の書」の一つと言ってよい。


 (19)、上記「学問随想録」参照。

 (20)、ヘシオドスは、「富社会」にありつつも、詩歌が人々の不安・悩みを和らげるという「自然社会」の慣習をうけついで(これは万国共通であり、日本では『万葉集』にこれをうかがうことができる)、権力が正当性をはかるべく生み出した権力神話(「神の子孫が神意に基づき大地を支配するのは当然である」などといった類い。例えば、『古事記』、『日本書紀』など)ではなく、民衆の立場から民衆の生活・権利を権力から守るべく、宇宙論・社会論・神論・人間論などを詩歌で表現したのである。彼は、「自然社会」論的立場から、神々を讃える詩歌を通して、当時の権力による不正を正し、民衆の生活をまもろうとしたのである。

 ヘシオドスは羊を飼育する「ボエオティアの中農」(岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』大明堂、1988年、282頁)であり、「以前聖いへリコン山の麓で、羊らの世話をしてい」(広川洋一訳『神統記』岩波文庫、1984年、11頁)る時に、「女神」たちが「麗しい歌」を歌うの聞き、抒情詩というリズム化した言葉が、民衆の不安・恐怖を和らげ、真実を告げることに気づき、霊感を受けつつ、この表現法に磨きをかけ、詩歌をつくったのである。

 つまり、彼は、この詩歌女神は過去・現在・未来(「今在ること この先起ること すでに生じたことがら」13頁)を「声をあわせて讃え歌」い、「唇から愛らしい声をあげて 八百万の不死の神々の威令と恵み深い気性を讃えまつる 調べやさしく歌」(15頁)うのである。「悩み悲しみ憔悴した人には、「詩歌女神たちの召使い 歌人が古往の人びとの誉れを讃え オリュンポスに宮居する幸う神々を讃え歌えば たちまち彼は身の憂さを忘れ 切ないこともなにひとつ思い出しはしないからだ 詩歌女神たちの贈物がすみやかに他所へ心を逸(そ)らせてくれる」(15頁)としたのである。そして、 この「オリンポスの詩歌女神」は「その気になれば、真実を宣べることもできる」(11頁)とした。

 だから、「ゼウスの娘達が愛で その出生を見守りたもう者」には、民衆を虐げがちな貴族の舌に「甘い露を滴ら」すと、貴族の唇からは「優美な言葉が流れだ」し、「真直な裁定」をして、「どれほど大きな係争でも たちまち業巧みに終わらせてしまう」(18頁)という効果もあった。だから、こうした貴族は「詩歌女神たちの 人間どもへの聖い贈物である」(19頁)とする。ヘシオドスは、詩歌女神が、民衆には貴族という権力者の適確な裁定の源だとして、とかく不正が多かった権力者裁定を批判し、是正しようとしたのである。

 こういう観点から、『神統記』を見るとどうなるか。

 1、まず、地球がどのように造られたかが語られる。つまり、大地(ガイア)の神々創造(「大地[ガイア]と広い天[ウラノス]が設けた神々と この両柱から生れた 善きものの贈り手なる神々 これらの神々の聖い族」[15頁])を中心にとりあげ、原初神(最初にカオスが生じ、次いで大地[ガイア]、タルタロス、エロス)の一つの大地が、天、山、海、大洋、及び神々を創造し、あくまで神々は原初神の一つたる大地につくられたものとした。

 この点、アポロドーロス『ギリシァ神話』(高津春繁訳、岩波文庫、2003年、29頁)によると、「天空(ウラノス)が最初に全世界を支配」し、「大地(ゲー)を娶っ」たとしている。なお、『日本書紀』などは、最初は「混沌」があり、「天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」(『日本古典文学大系』67、岩波書店、昭和42年、78頁[(中国『淮南子』が源泉)])とし、可美葦牙彦舅尊、国常立尊など(「神世七代」))が生まれ、最後の伊弉諾尊・伊弉冉尊が日本列島をつくったとしている。

 ヘシオドスに戻ると、大地は、タルタロス、天(ウラノス)、海(ポントス)と交わって、怪物・悪き神々・良き神々を数多く生んだ。ここでは、「悪業にうつつをぬかしていた」天に対して、「広い大地」は「呻」き「まがまがしくも意地悪い計略を企んだ」(26頁)りして、天は悪をなすものであった。一方、海は、「大浪荒れる不毛」(23頁)・「不毛」(35頁)なものであったが、海の生んだ子は正直、誠実、思慮、誇りをもつもので(33頁)、エウリュピアは「女神の中の女神」であった。また、彼女の生んだ神もよい神であり、「穏かで」「優しい」レト、アステリア(ポイペの子、53−4頁)であり、アステリアの子へカテは、天からも「特権」を授かり、地上の人間からも「御利益」があるとして「今もなお」「慣習にのっとって」祈願されていた(55頁)。

 次に、「神々と人間どもの父」ゼウスがどのように生れたかが考察される。@まず、ゼウスの父クロノスが生れ、王位につくまでの神々の交わりが述べられ(大地(ガイア)は、自ら生んだ天(ウラノス)との間で、大洋(オケアノス)ら18神を生むが、腹中に呑み込む。クロノスがウラノスの陰部を大鎌で切り取り、兄弟を解放し、クロノスが王位につく)、Aゼウスを中心としたオリュンポス神族の誕生が語られ( 「ガイアとウラノス」が生んだ「レイアとクロノス」が、「ゼウスとヘラ」を生む。クロノスは子供らが王位につくことを恐れ、子供とちを飲み込んできた。末っ子ゼウスは、母レイアによってクレタに隠されて助かり、後に兄弟姉妹をクロノスから吐き出させた。 「神々の王ゼウス」は、「並びなく賢いメティス」(3千人いるというオケアノスとテテュスの娘オケアニデスの1人)を「最初の妻」とし、「彼女から 波外れて賢い子供らが生まれ」、「たれか他の者が ゼウスに代わる」ことがあってはならぬという「大地と・・天の勧め」に従って、「輝く目の女神アテナを出産」する前に、メティスを「腹中に呑みこんだ」(110−111頁)。ゼウスは、同じ「ガイアとウラノス」の子であるテミスとの間に季節女神(エイレネ[平和]、デイケ[正義]、エウノミア[秩序])、ムネモシュネとの間に詩歌女神、エウリュノメとの間に優雅女神など生む。ゼウスの生んだ女神が、平和・正義・秩序・詩歌・文化などを維持するのである)、Bクロノスは、ティタンの神々とともに、ゼウスのオリュンポス神々と10年間戦うが、ゼウスらに敗退し、タルタロスに幽閉された事、また、テュポエウスがゼウスと戦うが、これまたゼウスの発した雷電に敗退する事が述べられ、Cゼウスは「神々に各々の持ち分をひとしく公平に分配し (神々各自の)特権を定めた」(16頁)とする。

 こうして、ゼウスは、二つの戦いに力強く勝利して不死の神々の王として王位継承し、王権を強固にするべく、7人の妻をめとった。ゼウスは、「神々が・・富を配り・・特権を分ちあ」たえることに関わり、「山襞たたなずくオリュンポスの高嶺を 手中に納めた」(21頁)のである。つまり、「幸える神々」が戦いを終え、「ティタンどもとの権勢をめぐる争いを 力ずくで解決」すると、神々は、大地(ガイア)の勧めで「オリュンポスの・・ゼウス」に、「(神々を)統べ 治めるように懇請」し、ゼウスは、「神々の間に 正しく権能を分かち与えられた」(109−110頁)のである。

 2、ヘシオドスは、冒頭、「ゼウスの儲けた 九人の娘」=詩歌女神(ムウサ)が「へリコンの高く清い山に住み」、「クロノスの力つよい御子(ゼウス)の祭壇の辺」で踊り(9頁)、ゼウス、ヘラ、アテナ、アルテミス、ポセイドン、ディオネ、クロノス(悪知恵にたける)を讃え、「父神ゼウスの大御心を悦ばせる」とすることで始め、最後は、「身は不死ながら 死すべき身の人間(おとこ)らに添寝して 神にも似た子供たちを生みたもうた女神は 以上のとおり。さあ 今度は 女たちの族を歌いまつれ 神楯もつゼウスの娘 オリュンポスの声甘い詩歌女神たちよ」(125頁)と、女神の一族増殖と女神の賛歌でしめくくる。
 女神を初めに登場させ、終りでも女神でしめくくったのは、ゼウスは、一方で、「女たちを禍いとして 死すべき身の人間どもに 配られ」、「第二の禍悪」(結婚しない者には「悲惨な老年」、結婚した者には「止めどもない悲しみを抱いたまま 日を暮らす」という禍)(76頁)を与えるとはしつつも、他方で、女性は、人間のみならず、神を生み殖やすのであり、特に女神は詩歌で人をなごまし、不正を正したからである。

 3、ヘシオドスは、天変地異、自然の脅威などを「人間的に解釈」し、神々を人間の運命などを左右したり、人間にご利益を与え、人間の生活を守るものとした。つまり、@原初の神々は、「神々と人間ども よろずの者の胸うちの思慮と考え深い心をうち拉(ひし)ぐ」(22頁)とし、A「カオスから 幽冥(エレポス)と暗い夜(ニュクス)が生じ」、さらに夜が「幽冥と情愛の契り」して、「澄明(アイテル)と昼日(ヘレメ)」(22頁)を生んだ。昼夜、明暗という人間を終始取り巻く状況が、カオスから生れたとし、B夜は「忌まわしい定業と死の命運と死を生」(32頁)み、復讐する「死の命運」(「クロト ラケシス アトロポス」)3女神を生み、「人間どもの出生のさいに 善運と悪運を授け」(33頁)、人間の運・不運を決め、さらに、人間に不幸(「争い」と「労苦」、「忘却 飢餓 ・・悲嘆」、「戦闘」と「戦争」、「殺害」と「殺人」、「紛争」と「虚言」、「空言」と「口争い」、「不法 破滅」[34頁])を与え、C女神へカテは、特権のみならず、「大地にも天にも また海にも」「御自身の権能」を持ち、人間の生活を支え、つまり、「御心に叶う者には」、「大いに援助し 恵を施」し、「裁判のさいには 畏い貴族の傍らに坐し」、戦でも「味方」し「進んで勝利を与え誉れをもたら」し、競技者に「援助を与え恵みを施され」、漁業の生計を助け、獲物を授け、家畜を増やし(56−8頁)、D「女神の中の女神 デメテル」は、「英雄イアシオン」との間に、「豊饒の地クレタ」で、「霊験あらたかなプルゥトス」を生み、「人がこの神と出遭い その者の手のなかに この神が入られると その者を富ませ 大きな繁栄を授けられる」(120頁)として、人の富の生成に触れたりした。そして、現世の権力者を貴族とし、神々はこの権力者貴族の判断を正しく導くものとしたのである。だから、ゼウスを頂点とする正しい良き神々が、今後も栄えることは、人間生活の諸問題を正しく解決するということになるのである。

 こうして、ヘシオドスは、当時既にあった神話(ヒッタイト=フリ人、アッカド=シュメール人、フェニキア人、エジプト人らの)を参照し、或いは土台に据えつつ、民衆の立場からゼウス中心神話に書きなおしたのではないかと思われるのである(筆者と着眼点は異なるが、広川洋一『ヘシオドス研究序説』未来社、1992年、高橋秀樹「「神統記」創造神話成立の歴史的背景」「新潟史学」第41号、1998年なども参照した)。

 こうしたヘシオドスの動向は、実はポリスの誕生・成立の動きと深い関連があったのである。

 既にポリス成立前には「少数の人たちが小さな村落に定住して共同体を形成していた」(岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』264頁)。前8世紀頃から、「各地で『集住』」がみられ、「おそくとも前八世紀の半ばには、小アジア西岸、エーゲ海の島々、そして本土の各地にポリスと呼ばれる多くの都市国家が成立」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』講談社、2004年、82頁)した。このポリスという名称は、海賊防衛のために丘陵に築かれたアクロポリス(城塞)に由来していた(岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』263頁)。

 これらポリスでは、「小王国という比較的大きなまとまりが瓦解して、そのもとにあった、おそらくは集落単位の小さな共同体が基本的な社会集団として浮上した」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』87頁)もので、「ほとんどすべての王とその一族は、王宮炎上のさいに死亡するか逃亡するかして、その地位を永久に失」い、「同時に、王権のもとにあった共同体が一斉に独立し、在地の有力者であるバシレウスたちが、変動期の指導者として歴史の表面に躍り出」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』87頁)たのである。彼らは、「他の成員にくらべて大きな土地を占有し、農耕・牧畜を大規模に営むことによって、しだいに富を蓄積し」、「この富を基礎に、有力者は血縁の者たちと一族としての結束を固めながら、みずからの家柄を神々や英雄の後裔として美化し、これを誇るようになる」(89頁)のである。このバシレウスが「変動期の小集団のリーダー」となり、「個々の小集団では内外の情勢に対応できなくなった時点」で、「バシレウスたちが翼下の集団とともに合同し」、「貴族層を形成し、一体となって政治・軍事・司法の運営」に着手し、「ポリスが成立する」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』121頁)のである。

 「ポリスの成立当初は、もっとも有力なバシレウスをミケーネ時代のwanakaに准ずる王の位につけて統合の実を挙げる方策もとられたであろう」が、「やがて、ごく少数の例外を除いて王政は廃され、有力者たちの共同支配、すなわち貴族支配が普遍的な国制となる」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』90頁)のである。あくまで「主導権は貴族たちにあ」り、貴族と平民との身分上の差、また、実力のちがいはむろん大きく、「平民は積極的にポリスの動向を左右する挙に出ることがない」が、貴族が「民衆の意向を全く無視することは許されない」し、「彼らは貴族たちの行動を批判する自由をもち、場合によってはそれを制約する潜在的な力をもっていた」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』114頁)のである。王・貴族は、「一般の農民にくらべると、はるかに大きな土地を所有し、比較的多数の奴隷を使い自由人の日雇取りを雇って、穀物や果樹の栽培を行なった」が、「一般の農民に対する彼らの経済的優越は、必ずしも絶対的なものではな」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』118頁)く、「農民はといえば、規模こそはるかに劣るけれども、彼らとて貴族と基本的には同じ独立の農業経営者だった」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』118頁)のである。だから、「貴族はみずからの出自を誇り、彼らの間の結束によって、政治や裁判を独占し、国政を恣にすることができた」が、「平民はけっして黙って従っていたのではな」く、「力はおよばぬながらも、彼らは貴族たちに鋭い批判の矢を放つ」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』119頁)のである。「城壁の中に住んでいる住民たちは、強い自治意識と、周辺の都市に対するはっきりとした独立意識によって結びついていた」(ジョヴァンニ・カセッリ監修『古代ギリシァ』教育社、1996年、16頁)のである。ポリス成立当初から、「ギリシァの貴族と農民とが、領主と隷属民といった関係にはな」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』119頁)く、「オリエント的なデスポティズム(専制君主制)の世界におけるそれと、はなはだしく違」い、「貴族と平民との力の優劣はあくまで相対的なものに過ぎ」ず、「平民からみて、貴族は雲の上の絶対的な専制者ではない」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』121頁)のである。だが、民衆の自立性、「民衆は主導権こそ握らなかったけれども、共同体の一員としての自立性は確保」し、「貴族と平民とは本来、一つの共同体の仲間」(122ページ)なのである。

 こうした視点は、ギリシァとインドにおける「宗教と哲学」の関係を見る上で重要な示唆を与えよう。つまり、ギリシァでは、神々のもとで維持される正義や善を補完するようなものとして、哲学が登場してゆくということである。それは神に敬虔な哲学であり、故にこれは後のキリスト教神学を構築する上で有益であったろう。トマス・アキナスが、アリストテレスを再評価した所以である。それにに対して、インドでは、仏教が、支配階級と結びついた既成宗教バラモン教に対抗して、正義・善の宗教として登場したために、宗教のみならず、哲学的性格を濃厚にせざるをえなかったのである。日本に仏教が導入され、既存の神祇=神道の反撥を受けつつも、復古的な権力者が廃仏しなかったのは、かれらですら「仏教は心の教え」という評価をしていたからである。仏教が皇位に脅威を与えない限り、仏教は神祇=神道と補完しあいながら、「心の教え」=哲学として生き残っていったのである。


 このように、ヘシオドスが、ゼウスを頂点とする神々によって権力者が民衆の生活を脅かさないようにした上で、次に重要になることは、民衆が権力者と対抗して実力をつけることになる。彼の叙事詩『仕事と日』とは、まさにこのような意図をもつものであり、『労働と暦日』は「初期のポリスの社会を映し出す」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』115頁)ものなのである。ただし、本書の中心は、単純に「農耕の実際に即した教え」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』116頁)と見るべきではなく、ゼウスら神々によって権力者に対して農民の権利を保護することにあったと見るべきである。ギリシァ本土では「権力が不安定で争いの絶えない」ことから、既にゼウスは「最高神としての重要性を増し」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』57頁)、ポリス誕生期には一層重要になっていたが、それを貴族が統治強化に利用する前に、ヘシオドスが、上述のような「貴族と平民との『共同体仲間』」的平等関係のもとに、民衆の正義のためにゼウスを頂点に神々を体系的に位置づけ、民衆保護に利用したのである。


 へシオドス『仕事と日』(松平千秋訳、岩波文庫、1989年)では、ヘシオドスの父が「良き暮らしを求めて、いく度も船で海を渡って」(84頁)いたが、「アイオリスの町キューメー」(8世紀に小アジアのアイオリス人の都市国家の一つ)での「ゼウスが人間に下される苦しい貧困」から逃れて、ギリシァ本土の「ヘリコーン山(コリンティアコス湾の北東部ボイオティアにある)のほとり、侘しき寒村」アスクレーに住み着いたことが触れられている(84頁)。

 本書は「暗黒時代」末期に書かれたともされているが、『神統記』とともに、ポリス誕生期に、神々は貴族ら権力者のためのみにあるのではなく、民衆の正義のためにもあることを表明したものとみたほうがよいであろう。ヘシオドスらとしては、これをギリシァ本土内に広く流布させ、ポリス成立時に、権力者に「ゼウスが自分にギリシァのこの地を統治せよと告げた」などと言わせないように、謂わば先手を打って、神々はあくまで民衆の正義の保護・維持のためにあるものとし、権力にも正義の実行を要請して、神々による民衆生活の基盤構築論=「民富増殖」論を提唱したのであろう。「暗黒時代」という用語が妥当であるかいなかという問題もあるが、ギリシァ本土の混乱も収束し、「民衆」における生産力の展開が起動力となってポリス誕生の動きになったのであり、ヘシオドスの父が交易で財をなして本土に戻って中農的生活をおくり、貴族らと対抗するといったような事態が少なからずポリス誕生の動きのなかにみられたのである。

 @ここでも、序詞から弟ペルセーヌを登場させ、愚かな弟を覚醒させる形式をとる。ヘシオドスは、「お前」は 「賄賂を貪る」バレシウス(地方豪族・貴族)に「とりいって」、愚かで貪欲にも「遺産分け」で「余分にさらっていった」(16頁)と非難したり、「世にも愚かなペルセースよ、わしはお前によかれと思えばこそ語り聞かせているのだぞ」(45頁)、「お前はわしの訓戒を常に思い起こして、働くのだぞ、ペルセーヌよ」(46−7頁)などとしつつも、「神々が人間の命の糧を隠し」たので、「お前も(弟も)、ただの一日も働けば、後は働かずとも一年を暮らすだけの貯えが得られ」たのに、それもできなくなったとし(16−7頁)、弟の貧乏は神罰により余儀なくされたともした。
 本書でも、ヘシオドスが彼に呼びかけ、反省させるような形式をとったのは、愚かな弟を介在させないと、民衆全員を愚かと見て、場合によっては反感をうけたやもしれなかったからであろう。そこで、ヘシオドスは、愚か者の弟を登場させ、愚かな身内の恥をさらけだして、民衆との間にワンクッションをおいて民衆の啓蒙・啓発をはかったのであろう。

 A次に、ヘシオドスは、不正などをなす愚かな人間を処罰し規制するものとして神を登場させ、神によって社会をよくしようとした。
 つまり、ヘシオドスは、(@)ゼウスは「強き」「尊貴」な権力者を挫き、「曲がれる者」・「驕れる者」を挫き、「ゼウスの御心にかなう最善の裁き」を行い、「卑賤」者を引き上げるとし、(A)ゼウスが「大地の根」に据えたエリス神が「根性なき男をも目覚めさせて仕事に向かわせる」(14頁)とした。だが、ゼウスはプロメーテウスの火盗みに怒って、「罰として、人間どもに一つの災厄(悩み・災厄の種たる女を造ったこと)を与え」(18頁)たとした。
 そして、ゼウスら神々は五時代説話をつくりだし、まず、オリュンポスの館に住む神々は、黄金の種族を作り、ゼウスは、「黄金の種族」に「王権にも比すべき特権を与えられた」(26頁)のである。第二の時代には、「オリュンポスに住まいたまう神々」は「遥かに劣る銀の種族」を作り(26頁)、第三時代の「青銅」種族、第四時代の「半神」種族は、いずれも戦闘で滅ぼされたが、ゼウスは後者の一部を「至福者の島」に住まわせたとした(31頁)。第五の「鉄」種族時代には、「人間には、悲惨な苦悩のみ残り、災難を防ぐ術もなかろう」(35頁)ことになるとした。
 また、ヘシオドスは、ゼウスが、「その国の大軍勢を滅びし」、「町の城壁を壊ち」、「船団に天罰をお下しにな」(41頁)り、三万の神々が、人間界にあって、「正義を曲げた裁き」をする者を「一人ものがさず見届ける」(41頁)とした。さらに、ヘシオドスは、富社会での怠惰批判・労働奨励し、「富には栄位と名誉とが伴う」(48頁)とし、神意に沿った蓄財を奨励し、恥知らずな蓄財は神罰を受け、不正利得は「災厄」(53頁)だと批判し、与えること・貯蓄を奨励し、興隆するポリスの担い手としての民衆(自由民)の資産増殖を奨励したのである。

 B最後に、ヘシオドスは、農業・海運業などでもゼウスなど神々が大きく影響するとした。
 農業では、農事暦は「神々が人間に季節に応じてお示しになった仕事」(58頁)だとして、「一戸を構え」、奴隷女、耕耘用の牛一頭(59−60頁)、車軸、車輪などの「もろもろの道具」を備えよとした。そして、「畑を耕し種子を蒔く時期が、人間に示されたならば、直ぐさま仕事にかか」(65頁)り、耕耘を始める際には「地の神ゼウス、浄かなるデーメーテール(ゼウスの姉、豊饒神)」に祈り、ゼウスが「良き首尾を授け」れば麦はたわわに実るとした(67頁)。
 海運業では、そのの要諦は、「万事 時を違えぬ」ことにあるとしつつも、航海の禍福の鍵は、「大地を揺るがすポセイダーオーン、または神々の王ゼウス」が握っているとした(88頁)。
  「人生訓さまざま」でも、敬神・清浄に関するものが一番多く、「日の吉凶」でも「ゼウスの賜う日々」(99頁)を遵守することとした。「地に住む人間に大いなる福となる日」(104頁)を具体的に示し、「その他の日々は、時々に吉凶が変り、あるいは定まれる運につながらず、何事ももたらさぬ」(104頁)がよいとし、「神々について罪を犯さず、鳥の示す前兆を判じ、人の道に違うことなく」することとした(104頁)。

 こうして、『仕事と日』とは、『神統記』で体系づけたゼウスを頂点とするオリンポスの神々のもとに、愚かな身内の恥をさらけだしつつ、民衆(と言っても、奴隷を搾取する自由民であったが)がいかに具体的に善い生活をおくり、貴族ら権力者に対抗して富を築き、殖すべきかを現実に即して提唱したものいといえよう。そして、ゼウスは、不正を働けば、権力者でもすてておかないという姿勢はここでも不変なのである。ギリシァのポリス展開期にも、ヘシオドス叙事詩『神統記』・『労働と日』が広く読まれたのは、それらがポリスという時代の要請に応えていたからである。

 ただし、民衆の労働、その成果たる民富は権力の基礎でもあるから、ヘシオドスの労働重視論はいともたやすく権力に取り込まれてしまうということが留意される。


 (21)、こうしたヘシオドスの労働重視論がいともたやすく権力に取り込まれてしまったということを、『ホメーロスとへーシオドスの歌競べ』(広川洋一訳『神統記』岩波文庫、1984年)から確認してみよう。

 前8世紀から前5世紀頃、ギリシァではホメロス叙事詩とヘシオドス叙事詩がともによく読まれた。二人は「ともに詩聖と称」され、「万人が自国の出身であるとして、それを誇り」(109頁)としていた。そして、「一説によれば、ホメーロスはへーシオドスより時代が古いというが、彼の方が年下であるとか、あるいは同時代の生まれであるという説もあ」(113頁)った。そして、「二人は同じ時代に活躍し、ボイオーティアー地方のアウリスで、歌の技を競ったことさえあ」(114頁)ったろうとして、『ホメロスとヘシオドスの歌競べ』が書かれたのである。

 この原作者は前4世紀の高名な弁論家・修辞学者アルキダマース(『ムーセイオン』の作者)といわれる。「(オイノエーの)二人の若者は、へーシオドスが彼らの妹と不義を犯したものと邪推し、彼を殺害」(134頁)し、アルキダマース『ムーセイオン』は、ヘシオドスを殺して逃亡する二人は「航海の途中で、ゼウスが雷撃を加え海中に沈められた」(135頁)としたのであった。

 周知の通り、「運動競技と同様歴史の古い文芸競技は前4世紀頃までに広くギリシァ世界に普及し盛行するに至」り、かつ「既にAristoph(前445−前380年).Ran.1033−6及びAlexadoridasの子Kleomenes王の寸言(Plut.Apophth.Lacon.223A.Ael.VH.13.9)に、Hom.(ホメロス)を戦争詩人、Hes.(ヘシオドス)を農耕詩人とする対照的評価が見出され」l、「この点から、Panedse王の判定が古い伝承に属し、Alkidamasがこれを利用した」のであり、「Alkidamasが古い競演の伝説を潤色したことが略明瞭」(川崎義和「ホメロスとヘシオドスの競演とアルキダマス」『西洋古典學研究』33号、1985年3月 )だとされている。

 だとすれば、そのカルキス(ギリシャのエウボイア島の主要な町[ヘロドトス、松平千秋訳『歴史』『世界の名著』5、中央公論社、昭和51年、201頁の訳注])のパネーデース王の意図とはなにか。前8世紀頃では、詩競べの審判者に、「カルキスの名士」のみならず、「死没した王の弟であるパネーデース」(115頁)がいたとして、そこにいた権力者は内治充実を求める姿勢を打ち出し、民衆にこれを周知させる必要があったと思われる。つまり、この歌競べでは、「へーシオドスが競技場の中央に進み出て、ホメーロスに向かって次々に質問をかけ、ホメーロスがそれに答え」(115頁)させ、当時の二大叙事詩人を通して権力者が民衆に農事精励の重要性を説いたのであろう。

 まず、人間に大事なものについて、ヘシオドスは「死すべき者にとり、何がもっとも賞でたきこと」か(116頁)と問うと、ホメロスは「(酒宴で享楽することこそ)愉楽の極致」とし、「なみいるギリシァ人」が非常に感嘆する。次には、ヘシオドスが短い詩を吟じて、ホメロスが答えることが繰り返される(119頁以下)。

 やがて、歌競べは、いつしか道徳・倫理・政治問答などとなる。ヘシオドス、ホメロスがこうした議論をしたのは(或いは、権力が、そうさせたのは)、ギリシァの神々は善・道徳・倫理をすすめはしたが、具体的な内容までは示すことはなかったからである。これが、うち続く戦争・混乱のなかで、哲学者が登場してくる背景の一つともなるのである。その際、ヘシオドスがホメロスに質問する形をとったのは、ヘシオドスは敬神・清浄・禁欲の農業労働を解いていたが、えてしてホメロスは享楽的などと受けとられていたからであろう。享楽的で現実逃避がちなホメロスは、かなりまともな答えをしている。これは、民衆に一定のインパクトを与えたであろう。

 1、善悪ーヘシオドスは、「まこと世評のごとく至高にして偉大なるゼウスの姫御子、ムーサらが、そなたを重んじておられるのであれば、人間にとって最善にして最悪なることは何か」と問うと、ホメロスは、「みずからがおのれの規範たる」ことが、善人には最善で、悪人には最悪だとする(126頁)。
 2、良い統治ーヘシオドスが「いかにして、またいかなる心がけによりて国はもっともよく治まるものぞ」と問うと、ホメロスは「国人が醜き手段を用いて利を得んとせず、善き人は尊ばれ、悪人には懲罰が降される時じゃ」(127頁)と返答した。
 3、最良なことーヘシオドスが「もっとも良きこととは何か」と問うと、ホメロスは、「人間の肉体に優れたる精神の宿ること」(128頁)とする。
 4、公正と勇気ーヘシオドスが「公正なる心と勇気とが果し得ることは」と問うと、ホメロスは、「個人の労苦によって公の福祉をもたらすことじゃ」(128頁)とする。
 5、叡知ーヘシオドスが「人間において叡知の確かな徴しとなるのはいかなることか」と問うと、ホメロスは「今あることを正しく見極め、機を逸せずに進むこと」(128頁)とする。
 6、信用ーヘシオドスが「人を信用できるのは、いかなる場合か」と問うと、ホメロスは「事をなせば、相手にも(同じ)危険がふりかかるごとき場合」(129頁)と返答した。危険なことをできるということか。
 7、幸福ーヘシオドスが「何をもって人間の幸福というぞ」と問うと、ホメロスは「憂うこともっとも少なく、楽しむこともっとも多くして世を去ること」(129頁)と返答した。

 問答が終わると、「なみいるギリシァ人たちは口を揃えて、ホメーロスに勝利の栄冠を授けるべきといった」(129頁)。だが、パネーデース王は二人に、自作の詩のなかで「もっとも美しい詩節を朗誦するよう命じた」のである。ヘシオドスは、農作業の詩節をあげたのに、ホメロスは、『イリアス』巻13、ギリシァ本土の精兵が「トローイアー勢と豪勇へクトールをば迎え撃った」詩(126−133行)、戦場での惨苦(339−344行)をあげる(130−131頁)。

 やはり、「ギリシァ人の聴衆はホメーロスの技量に感嘆し、その詩句は尋常の域を越えた非凡なものであるとほめ称え、彼に勝利を授けるべきである」(132頁)とした。しかし、パネーデース王は、「勝利者たるべきは戦争や殺戮を縷縷として述べる者ではなく、農業と平和の勧めを説く者でなくてはならぬ」(132頁)とした。パネーデス王は前8世紀頃の新興ポリスの王であろうが、こうした王の判断には、権力者としての立場、ポリスの担い手の経済的基礎の充実によるポリスの安定化があったであろう。

 ホメロス、ヘシオドスの二人がポリスが誕生した前8世紀頃の同時代人ながら、ホメロスがヘシオドスより「古い」とすれば、ホメロスが、一部権力者の先祖でもあるゼウスなど諸神が、ギリシァ本土の命運をかけた戦争などで権力者を保護したことを歌ったとすれば、民衆側に立つヘシオドスがこれに危機感を抱いて、貴族から民衆(自由民)をまもるためにゼウスを主とする神々の正義を表明し、民衆を覚醒させる必要があったということになろう。だが、前8世紀のポリス誕生期では、権力は後者の内治充実作を重視し、権力者パネーデースは、内治充実論にヘシオドスを利用したのである。つまり、当時の権力側は、戦争による領土拡張を目指すならばホメロスだが、現在の平和による内治充実を目指すならばヘシオドスを利用するのが相応しいと考えたのであろう。


 では、この『詩競べ』が前4世紀にアルキダマスに作り直されたのはなぜだろうか。この時期の戦争(ペルシァ戦争・ペロポネス戦争)・ポリス衰退が背景にあろう。前338年にフィリッポス2世は、カイロネイアの戦いでアテナイやテーべからなるギリシア連合軍に勝利し、翌前337年には全ギリシアを統一するコリントス同盟を結成し、その盟主となったが、前336年フィリッポス2世が暗殺されると、その息子アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)があとを継いだ。アレクサンドロス大王は前334年アケメネス朝ペルシアへの遠征を開始し、前333年にペルシア王ダレイオス3世を打ち破り、ペルシア征服を実現させる。当時の権力者は、ペルシァ戦争後の内治充実の必要性を民衆に説いたのであろう。


 さらに、2世紀にハドリアヌス帝にが本書に注目したのは、前4世紀に権力者が注目したと同じような事情があったからであろう。『歌競べ』に、「神聖きわまりなき皇帝ハドリアーヌス」が巫女に「ホメーロスの出身地はいずこか、また誰の子かと訊ね」ると、「デルポイの巫女がホメーロスについて語ったと伝聞している言葉」として、生地は「イタケーの国」で、父はテーレマコス、母はネストールとした(112頁)。ここから、「現存のテキストは、第14代ローマ皇帝ハドリアーヌス帝(在位117−138)の在位中またはその直後に作られた」(訳者解説)とされる。権力者は、アルキダマースの「原作をそのまま踏襲したのか、あるいはそれを中核に置きながら他の資料を加えて編集したのか」して、『詩競べ』を国論統一の一助に利用するのである。

 ハドリアヌス(属州スペインの出身)は、軍団司令官(第2次ダキア戦争、パルティア戦争)などを経て、117年に第14代ローマ皇帝に就任し、トラヤヌス治世時代の東方覇権地を放棄し、パルティア、アルメニア、メソポタミア、アッシリアから兵を撤退させ、ほぼアウグストゥス期の版図へ戻した。その一方で、121年から属州視察に出発し、まずは、ガリア、ゲルマニアを視察し、翌122年にはブリテン島にケルト人侵入を防止するため120キロにわたる防衛線(「ハドリアヌスの長城」)を築いた。こうして、ハドリアヌスは、対外的な攻勢で帝国膨張をはかるのではなく、国土防衛に努めることに重点をおいたが、そこにはさらなる帝国主義的拡張がしっかりと伏在していた(桑山由文「2世紀ローマ帝国の東方支配」『西洋古代史研究』4号、2004年など参照)。

 こうして、治世二十年、ハドリアヌスの指導のもとに、ローマ帝国は行政機構をその広大な版図に確立し、その基盤の上に平和と繁栄を享受し、内治を充実させて、五賢帝の一人と称された。この統治状況を見るとき、『ホメーロスとへーシオドスの歌競べ』でカルキス王パネーデースや前4世紀の権力者らが、戦争のホメロスより平和と労働のヘシオドスを選んだ事情と同じ事情、現在はさらなる帝国主義的覇権のための内実を固める時という現実的必要があったからである。その意味で、ヘシオドスを勝者とする、この『歌競べ』は、権力の必要がうみだしたものなのである。権力が、帝国主義的拡張の基礎固めの内治充実にヘシオドス労働論を巧みに取り込んだのである。


 民衆は権力に反抗するが、生活苦を緩和し、救済してくれるならば、権力の帝国主義政策に加担してしまうのである。これを防ぐ原動力は、国境を越えた民衆の連帯である。民衆が連帯すれば、民衆の生活苦を他地域の民衆の収奪で解決するという帝国主義は防がれるのである。現在、通信設備の発達により、こうした民衆連帯の可能性は非常に高いものとなっている。

 (22)、拙稿「古今東西の学問方法論」。

 (23)、拙稿「富社会の権力統治策としての経済学」。

 (24)、これまで経験した中で最大の詐欺・驚嘆の一つは、学問をしていると思われていた大学で、学問が行われず、非学者で充満していたことであるかもしれない。国税を投入され、国民の厳しい批判を浴びるのは、時間の問題であろう。既に一部国民の批判がなされているようだが。

 (25)、これと並行して、我々は、既存諸学問のうちで何が有害無益であり、中立的であるかなどをも考えてゆかねばならない。中立的とは、我々の取り組み方の如何によって、良くも悪くもなるということだ。

 まず、自然科学に関して、伊東俊太郎氏は、「緑の科学」(「クリーンエネルギーを生み出し公害をゼロにする科学)と「黒い科学」(「核兵器や生物化学兵器の開発に資する科学」)と「白い科学」(遺伝子工学、ナノテクノロジー、加速器、脳科学のように、「良いとも悪いとも」いえないもの)の三つにわけている(伊東俊太郎「現代文明は科学技術で滅びるのか」稲森和夫編『地球文明の危機』275頁)。近年の福島原発事故は原子力科学がいかに「黒い科学」であるかを鮮明にした。「御用学者」どもが、人類、生物に甚大な被害を与えるようなものを安全だなどとたぶらかし、幾重にも外見的な「安全装置」を弄しても、いったん事故が起これば、想定外と逃げるような「学問」は学問ではない。人間とは間違いを起こすことはわかりきっているのだから、そういう「科学」をエネルギー技術に適用すること自体が間違いだったということである。さらに、同氏は、「国際宇宙ステーション、ISS(国際宇宙基地)」のメリットに疑問を呈し(『地球文明の危機』278頁)、「太陽系社会とか、宇宙科学を広げた科学」は「幻想」と批判する(『地球文明の危機』278頁)。

 次に、人文・社会系の「学問」をみてみよう。松井孝典氏は、「自然とは、ビッグバン以来の宇宙の歴史的産物」(『講座 文明と環境』第1巻、14頁)であり、「科学とは自然というビッグバン以来の宇宙の歴史が記録された古文書を読み解く作業」で、「物理学や化学の法則とは、自然に生じるさまざまな現象の因果関係を簡潔明瞭な形で表現したもの」(『講座 文明と環境』第1巻地球と文明の周期、朝倉書店、1995年、14頁)であり、「人文科学や社会科学がヒトの歴史を解読しそこにヒトの営みの普遍性を探る学問」であるとする。ヒトは自然の一部であるから、「ヒトの営みの歴史」(人間圏の歴史)が「自然の歴史」の一部であるのだが、松井氏は「ヒトの営みの歴史」(人間圏の歴史)の方法論はもとより、両者がいかに関連するかはまでは言及しない。

 しかし、「ヒトの営みの歴史」(人間圏の歴史)の特徴について、松井氏の所説が的確な示唆を与える。松井氏は、人間圏を地球分化活動の一部として他の物質圏と同等に扱いつつも、人間圏とは「地球の分化」としては異質な存在とし、「産業革命や近代高等技術文明」は「もはや攪乱といった程度ではない」(『講座 文明と環境』第1巻、19頁)として、人類が、自然を改造し、エネルギー循環を「富と権力」システムに組み込み始めだしてからは、自然の一部であった生物から離れた「突然変異」種、しかも悪性の「突然変異」種に転換していたことを示唆する。だとすると、「人間の歴史」とは「自然の歴史」とは異なって、宇宙・自然にとっては「悪性」の突然変異種の歴史になる。

 この点から人文・社会系「学問」を見るとどうなるか。人文・社会系「学問」のうちで、いったい何が「緑の学問」、「黒い学問」、「白い学問」となるのであろうか。

 生物は「化学反応が上手くオーガナイズされ自己増殖を持った物質装置」(大橋力、稲盛和夫編『地球文明の危機』42頁)であり、地球物質のエネルギー循環から生まれたものであり、植物は自己生殖・成長ができる自己完結体であったが、食物を周辺から幅広く獲得する必要のある動物は、植物・動物からエネルギーを獲得しなければ生きてゆけない他律体である。ここに動物のみが、食料獲得行動を指示する中枢脳を身につけ、その過程で動物が危険に対処し、協調・和を育み、苦悩を和らげるために感情・心を生み出した。人類がこうした生物に一部にとどまっている限り、人類は長い地球エネルギー史=「分化」運動に沿うものであった。だが、人類は、自然を改造し、地球資源を取り出し、地球を改変しだしたことで、悪性「突然変異」種に転換し、この不条理を自覚し、自らの自然に逆らう傲慢さに不安・危惧を覚え、一方で宗教、哲学・倫理を生み出し、他方で世俗の憂いを発散させるために種々の娯楽・芸能を創り出していったのである。富社会の宗教、哲学、倫理は、悪性突然変異種であることに基づく種々多様な不安・危惧が生み出したものであり、この点を明確に把握しない場合にはそれ自体では学問たりえないものとなる。経済学などは、悪性の「突然変異」種の側面を助長する最たるものである。

 岸根卓郎氏は、「科学は論証性(仮説の定式化、それゆえ理論の確立)と実証性(仮説の検証、それゆえ理論の実証)と復証性(仮説の再現性、それゆえ理論の客観性)を要請されるから、『科学』である限り必ずこれら三つの側面を満たさなければならない」(『文明論ー文明興亡の法則』東洋経済新報社、1996年、347頁)とする。同氏は、それにもかかわらず、「従来の社会科学は、このうちの実証性と復証性を完全に欠くから、このような見地からは、それは『真の科学』とはいいがた」く、「『勘と経験による論理学』といわざるをえない」(『文明論ー文明興亡の法則』347頁)とした。だからといって、「『新しい社会科学』は社会現象の本質を、現実とは異なった形、すなわち数学モデルで表現し、それについてコンピューター・シミュレーション(社会実験)を実行し、従来の社会科学にも論証性に加えて実証性と復証性をも付与し、社会科学をして『真の科学』に昇華させる必要がある」(『文明論ー文明興亡の法則』348頁)ということにはならない。言うまでもなく学問は「論理」で展開されるが、学問とはそれだけではないからである。

 このように、確かに人間の化学的代謝存在の側面や人間の食料と気候などの関係はそのままで科学の対象たりうるが、人間行動・社会構造などの人為それ自体の研究になってくると、それはいかなる観点に立脚するかが非常に重要になる。この如何によって、人文・社会系「学問」もまた、「緑の学問」、「黒い学問」、「白い学問」となる。


 (26)、拙稿「自然社会」(季刊『日本主義』白陽社)、「古今東西の学問方法論」。

 (27)、この「富と権力」とは「人間と人間の対立」と「人間と自然の対立」に基づく「富社会」のキーワードとも言うべきものであり、未来の人類について考える場合のキーワードであるが、これについては、ロボット工学者や遺伝学者は次のように興味深い指摘をしている。

 ロボット工学と人間の「こころ」の連関などを研究している前野隆司氏(『脳はなぜ「心」を作ったのか』筑摩書房、2004年、185−7頁)は、 「未来を予測するには、過去を振り返ってみることが役に立つ」として、「人類の歴史」を「富と人権の集中と拡散」という観点から考察し、「富みのあるところに必ず権力が生まれ、それは、石鹸の泡がつながって大きくなっていくように、巨大化し」、「局在した巨大な富の反対側」に「人権を剥奪された被差別民」が生まれるとする。人権の対抗関係にあるのが権力であるから、氏の言う「人権」は権力の裏返しの概念(対概念)として使われているとみてよかろう。

 そして、氏は、「富と人権が、局在と闘争を繰り返しながら徐々に拡大していくという歴史の大きな波動は、百年、千年単位の視点から見たとき、決してとめられない」とするのである。だが、このままいけば、人類は『破滅的方向』に向かうとすれば(次の注16参照)、我々は「富と人権」の波動を推し止めないわけには行かないのであろう。重要なことは、まずは、「これまでの歴史の鑰」と「未来の人類の行末の鑰」が「富と権力(人権)」にあることをしっかりと認識するということである。解決は、この明確な認識から始まる。

 次に、人類遺伝学のブライアン・サイクスは、『アダムの呪い』(大野晶子訳、ソニー・マガジンズ、2004年)で、自然社会と富社会の相違について、人類は「農耕の発明と採用」で初めて「所有物、富、権力」(310頁)というものを知ると的確に指摘する。ただし、遺伝学者なので、富所有と権力との連関構造の把握が欠落しているし、彼は、男が富所有と権力を掌握するために戦う根源的要因を遺伝学者よろしくY染色体にもとめるということをするのである。

 彼は、「男性を通じたY染色体が、所有物、富、権力の三つを手に入れたおかげで、彼らはいまの絶対的な地位にのしあがることができたのだ」(310頁)とし、「際限なく繁殖しようとするY染色体の、猛り狂った野心に駆り立てられた男性たちは、隣接する土地を横取りし、その地の女性を奴隷化しようと、戦争をおこすようになった」(318−9頁)などというのである。だが、男が富社会で主役に躍り出たのはY染色体のゆえではなく、「人間と人間との対立」・「自然と人間との対立」の中で男が女より肉体的に秀でていたからである。男性が戦争をして得ようとしたのは、土地と労働奴隷であって、女性奴隷だけではなかった。

 しかも、「女性のおよそ6万人に一人はY 染色体を持」(ニック・レーン、斉藤隆央訳『ミトコンドリアが決めた進化を決めた』みすず書房、2008年、322頁)ち、Y染色体は男性のみの持ち物ではないし、Y染色体が消滅してもモグラレミングなどの種のように雌雄が棲息しうるのである(ニック同上書、324頁)。せっかく、ブライアン・サイクスは富社会の画期的特徴を指摘しておきながらも、あまりにもY染色体に焦点を絞り過ぎて、非現実的なものとなっている。

 なお、行動生物学者(利己的遺伝子学者)であるリチャード・ドーキンスは、自然社会と富社会の区別こそしてはいないが、この根底ともいうべきものとして「協力的な遺伝子」と「利己的遺伝子」にわけ、「私たちには、私たちを産み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私たちを教化した利己的ミームにも反抗する力がある。純粋で、私欲のない利他主義は、自然界には安住の地のない、そして世界の全史を通じてかつて存在したためしがないものである」として、「この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できる」(日高敏隆ら訳『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店、2006年、311頁)としていることが注目されよう。

 だが、彼の場合も、利己的遺伝子がすべて(利他的行動までも)を動かすように見ていて、非現実的である。遺伝子だけで、人間行動のすべて(戦争、貧富さなど)を理解することはできない。これは先端的な遺伝子細胞研究についても言えよう。それは、確かに難病克服に有益かもしれないが、「富と権力」という大きな枠組みへの見通しを欠如すると、人類に「想定外の害悪」をもたらしかねないとも言えるのである。「富と権力」のシステムでは、遺伝子研究などの「先端技術は末端技術」であり、「自然の生態系は加速度的に壊され」(福岡正信『<自然>を生きる』春秋社、1997年、71−2頁)かねないのである。

 ただし、「人間の心・意識」学者、遺伝学者など「人間科学」者が、自然社会論について明確な見解を持っているのでは無いにもかかわらず、自然社会と富社会の画期的相違を的確に把握していることは十分注目してよかろう。目先の狭い時期に閉じこもる経済史研究者などより、長期的視野をもつ「人間科学」者のほうがはるかに歴史的画期を的確に認識しているのである。


 (28)、この「富と権力」のシステムのもとでは、自然は人類の営みに必要以上に収奪され、破壊され、これがもたらす物理的・化学的影響は、「人類の住むに相応しい自然」を確実に破壊し、地球温暖化を阻止するために二酸化炭素排出量を削減するくらいのことでは対処できなくなっているのである。

 この点は、地球惑星科学者の松井孝典氏も、「何らかの方法で二酸化炭素の放出に歯止めをかける努力は、これまで以上になされるべきではあるが」、「現代の文明社会が化石燃料の使用を、たとえば半減してもやっていけるとは到底考え難いことだ。」(『地球・46億年の孤独』徳間文庫、2000年、210−211頁)としている。その理由は、「人間が文明の便利さに慣れすぎた」からではなく、「現在の世界を運営している経済や産業を根本的に組み換えなければならない」事が「まことに困難」だからとされる。

 また、河合雅雄氏は、「戦後、人類は驚くべき文明の発展をとげる一方、自然破壊者としてのキバをむき出しにし、あげくの果てに自分自身をも滅ぼしかけている。核の恐ろしさはだれも知っているが、公害はもっと恐ろしいかもしれない。其れは人類を豊かにするという仮面の下に、じわじわと生殖細胞を侵し、生存の基盤を腐食させ、人類という種の生命を根絶やしにしてしまうだろう」と、警告している。だが、彼は、「われわれが今在るのは、何億年という生物の進化の歴史の所産であることを自覚し、子孫の繁栄への努力を怠ってはならない」(河合雅雄『サルの目 ヒトの目』平凡社、1993年、165頁)と提唱するのである。

 童話作家ミヒャエル・エンデは、「2世代後に、経済的な破滅か、地球環境の崩壊かのいずれかへと突き当たります」(1999年NHK放送に関して「エンデ自身がNHKに残したメッセージ」[『エンデの遺言』NHK出版、2000年])と警告する。

 環境考古学者安田喜憲氏は、「いま、人類の未来にはっきり見えてきた事柄がある。それは、世界五十億の人間が、この小さな地球にへばりついて生きなければならないという現実である。その小さな地球では、自然を一方的に搾取し、取れるだけ取ったあと、新たな大地へと文明の中心地を移動させる自然=人間搾取系の文明はもはや許されなくなった」(『人類破滅の選択』学習研究社、1990年、280頁)と警告する。

 自然農法家福岡正信氏は、人間は自然の一部という「本当の価値観」に気づかずに、「人間は金もうけをしなければ生きられない」とか、「価値観も色々あっていいじゃないか・・・そんなことを言っていたら、十年後、二十年後には人類の滅亡も考えられないことはない所まで追い込まれています」(『<自然>を生きる』春秋社、1997年、66−7頁)と指摘する。

 最後に、人類の文明を生物学的に考察する動物学者・生物学者の警告をみておこう。  

 動物学者小原秀雄氏は、歯切れはよくないのだが、「人類の現在の状況というのは、生物界の様相に限っていえば、恐竜類が非常に発展していた状態とよく似ている」(『人類は絶滅を選択するのか』明石書店、2005年、103頁)と、人類は恐竜絶滅と似たような絶滅危機的状況に直面しているとするのである。

  生物学者ドゥーガル・ディクソンらは、「生物学と進化論の基本原則」にのっとって、「人類の時代は、自然に対して自らが及ぼした影響と自然現象の複合作用が災いして、大量絶滅の時期を迎えてその幕を閉じ」、「人間のエネルギー消費が全地球を揺るがす破滅的な結果をもたら」(ドゥーガル・ディクソンら、松井孝典監修『フーチャー・イズ・ワイルド』ダイヤモンド社、2004年、47頁)すとした。

 細胞生物学者クスティアン・ド・ヂューブは、「現生人類が・・頂点に立つ希望あふれる子孫につながらずに終わるだろうという悲観的な見方は、まじめに検討する価値がある。生物進化では、絶滅は例外ではなく、通例なのである」(中村桂子監訳『進化の特異事象』一灯舎、2007年、221頁)とする。続けて、彼は、「もしホモ・サピエンスがその技術や文化ともども取り返しがつかないほどの破滅に陥ったとしても、すべてをやり直し、さらに幸せな結末に至る時間は十分残っている」ともしている。これを聞いて、ほっと安心した方もあろう。だが、とても安心はできないのである。彼は、「宇宙学者によると、太陽の膨張が地球を居住不能にするときまで、生命を宿すのに適した状態が少なくともあと15億年、おそらく50億年ほど残っているようだ」というのであり、「ホモ・サピエンスの生滅後、また500万年、5000万年、或いは5億年かけてよりよい脳を求める時間は十分すぎるほどある」というだけであり、このままでは現生人類はやはり絶滅するようなのである。彼は、「(新しい)この旅は霊長類から、あるいはもっと下位の枝の動物から始まってもよく、知性や知恵に適した調和の取れた遺伝子の組み合わせのおかげで、現在の人類よりも高水準になるかもしれない」とする。高水準であれ、低水準であれ、富欲望に知恵の規制がインプットされていなければ、またもや「人類」は絶滅の歴史を繰り返すだけだろう。

 分子生物学に造詣の深い大橋力氏は、ヨーロッパ的な「畑作牧畜文明」は、「拡がれるところまで一気に拡大して、それで一過性で終わ」り、「終点が最初からセットされている遺伝子を持つようなもので」、「いわば致死遺伝子を持っていて生態系の中に安定して定着できない欠陥生物の生き方と見ることができる」(稲森和夫編『地球文明の危機』東洋経済、2010年、38頁)とする。だから、氏によれば、この文明は「最初から有限と決まっている枠組みの中で資源をずっと使いまわして循環でき、リセットがかかるような工夫」のない文明(40頁)であり、「増えるだけ増えたらそこで終わりが来る」文明(40頁)ということになる。


 我々人類はこのままではほぼ間違いなく絶滅するのである。しかし、我々は座して将来世代にこの破壊を引き継がせていい訳がないのである。これをおしとどめようではないか。これを覆そうではないか。これが結論だ。

 地球惑星科学者、生物学者、童話作家らの警告を引用するまでもなく、今我々が住む「富社会」は、その誕生以来、「人間と人間との対立」、「人間と自然との対立」を基本的特質としている以上、確実に崩壊せざるをえぬものなのである。そこに見られる「発展」「成長」とは対立の深化の果ての崩壊への歩みであって、諸問題を引き起こし、深めるだけであって、「真実の発展」などではありえず、我々が言い慣わしてきた「資本主義の発展」「経済成長」などはまやかしの最たるものなのである。このことを鋭く自覚して、現在の富社会の構造を根本的に転換せざるをえないのである。出来るか、出来ないかではなく、せざるをえないのである。




 幸いにも、我々は、史上初めて、情報革命の成果を活用して、情報を共有し、諸問題を共に解決しうる立場にあるのである。我々は、学問的に現代の危機を正しく認識して、この「文明の利器」を活用して、我々の未来の子孫の「ごく普通の生活」を護るために文明革命に立ち上がるべき時に際会した。全世界の人類よ、今こそ連帯して立ち上がろうではないか。


             


                               世界学問研究所の規約はこちらを参照されたい。

なお、とかく、人間は「井の中の蛙」になりがちなものです。筆者が、能力及ばずに気づかない総合的・根源的学問論を構築されている方がいらっしゃれば、ここに証拠文書・資料を添えてご連絡頂ければ幸いです。世界で唯一最高の世界学問研究所で厳正に審査して、個別研究レベルのノーベル賞など足元にも及ばない、「総合的・根源的学問論を構築されている大学者」=大教授と認定されれば、ここで世界に公表いたします。


                              
  

                              第T篇 自 然 社 会

      
       序    自然社会の考察方法

       第一章    土器型式学・14C年代測定法と時期区分
          第一節  土器型式学・14C年代測定法
             第二節  縄文時代の時期区分                
              第一  縄文革命 
              第二  時期区分の考え方
              第三  時 期 区 分
                a  成立時期
               b  展開時期
               c  成熟時期
               d  終末時期


       第二章    人と自然との関係
          第一節 自然環境の変化
            第二節 限定的な安定社会
            第三節 縄文社会の気候変化
            第四節 食料源としての自然―縄文労働
              第一 食料採集労働
              第二 共同労働
              第三 縄文食物
            第五節 文化源としての自然
              第一  縄文服装・装身具    
                1  服 装 
                2  装身具 
               第二  縄文言語
               第三  縄文音楽
            第六節 精神源としての自然―宗教 
              第一 縄文の宗教。
               1 自然の脅威
               2 自然の崇拝
               3 妊娠・出産
               4 成人、結婚
               5 人間の死
                6 弥生時代以降の神・葬式との比較
              第二 土偶と信仰
              第三 モニュメントの世界観


        第三章  人と人との関係
         第一節  縄文人
             第一  縄文人のルーツ
             第二  身体的特徴
             第三  縄文人の犯罪
            第二節  階層分化の「展開」
             第一  階層存在論
             第二  カリフォルニア・インディアンとの比較論
             第三  宗教的象徴的リーダー
             第四  政治的指導者の不在
            第三節  縄文集落
             第一  定住の開始
             第二  最初の家族ー血縁家族
             第三  縄文集落の規模
             第四  大規模集落の内部構成
             第五  縄文集落の文化的特徴 
            第四節  内外の交流
             第一  集落間の交流
             第二  共助精神 
             第三  交換物
             第四  アジア地域との交流
             第五  縄文戦争の有無


        第四章  技術の発展
          第一節 基本技術=土器技術                    
              第一 縄文土器の発明
              第二 縄文土器の製造
              第三 縄文土器の文様
             第二節  多 様 技 術
              第一 道具関係
               第二 接着・着色関係
              第三 製造関係 

             
             小   括


                                                                                                           

                              第U篇 富 社 会

         第一章 動物と富
           第一節 動物としての人間
              第二節 人間と動物の同一性

              第三節 人間の動物との相違
              第四節 類人猿の食料資源採集
              第五節 動物は食料を求めるが、富を求めない
              第六節 チンパンジーは将来富を求める
              第七節 地球の未来 


          第二章 縄文時代の終焉−富社会の登場

第一節  人と自然との対立の開始―稲作の導入

第二節 人と人との対立―(一)富と国家の登場

第三節 人と人の対立―(二)全国的富の収攬者大王の誕生


 1 権力神話・宗教
 2 大王の神祇統治の着手
 3 大王と豪族
   a 神祇統治の展開
   b 出雲の掌握
   c 神祇統治の限界

第四節 人と人の対立―(三)厩戸王子の仏教王国構想

 1 仏教王国の権力構造
 
 B 朝鮮半島の仏教統治
  
 C 東アジア仏教王国と日本

 2 日本権力者の仏教導入
  @ 日本への仏教伝来
   a 仏教伝来の諸説
   b 欽明大王 
  A 蘇我の大陸接近
   a 蘇我稲目
   b仏教導入理由  
   c 敏達大王の仏教軽視、馬子の仏教信奉    
  B 用明大王
  C 崇峻大王 

 3 厩戸の仏教修行・法王施政
  @ 蘇我馬子の厩戸支持
  A 厩戸法王就任
   a 資料的根拠
   b 権力構造
  B 厩戸の仏教修行
  C 仏教法王的施政
   a 国内的矛盾
   b 国際情勢
   c 儀定具引継ぎ
   d 冠位十二階
   e 十七条憲法
   f 小墾田宮
   g 斑鳩宮造営と屯倉
   h 積極外交
   i 公共・慈善事業
   j 仏教寺院建立
   k 推古の仏教信仰
   l 経典講説
   m 三経義疏編纂
   n 厩戸の仏教的矛盾
   o 推古大王の神祇重視
   p 612年以後の権力構造
   q 農業的展開
   r 『天皇記』・『国記』
   s 『日本書紀』・『古事記』との関連

 4 厩戸の死去
  @ 蘇我の衰退
   a 厩戸死去と蘇我
   b 舒明大王
   c 皇極大王
  A 厩戸が聖徳太子とされた理由
   おわりに
第五節 人と人の対立−(四)神祇統治と仏教統治の軋轢・和合

 1 大化の改新
 2 大化改新と神道
 3 大化改新と仏教
 4 朝鮮外交の大転換
 5 斎明大王
 6 中大兄皇子=天智大王の政治
 7 天武天皇と神仏
  @ 天皇号
  A 専制的政策
  B 天武と神道
  C 天武と仏教

 8 持統天皇と神仏―藤原の登場
  @ 持統天皇と仏教
  A 持統天皇と神道
  B 京と仏寺
  C 藤原と神道
  D 藤原不比等

 9 律令制と神道・仏教
  @ 文武天皇と神仏
    a 神道と統治
    b 仏教と統治
    c 律令の整備
    d 藤原と蘇我との異同
  A 元明天皇と神仏
    a 神道と統治
    b 仏教と統治
    c 儒教と統治
    d 辺境統治
    e 藤原興隆
  B 元正天皇と神仏
  C 聖武天皇と神仏
    a 神道と統治
    b 仏教と統治
    c 広嗣の乱と神仏
    d 遷都と神仏
    e 平城京復都と神仏
    f 藤原躍進
    g 聖武天皇の反藤原
    h 聖武天皇と聖徳太子

 10 道鏡事件―天皇と法王の矛盾
  @ 孝謙天皇と神仏
  A 仲麻呂殺害計画
  B 孝謙天皇と神仏ー聖武上皇死後
    a 藤原仲麻呂と仏教
    b 孝謙天皇と仏教
    c 孝謙天皇と「神祇」
  C 孝謙上皇・淳仁天皇
  D 称徳天皇と道鏡

 11 光仁天皇と神仏

 12 桓武天皇と神仏
  @ 平城京と神仏
  A 長岡京遷都と神仏
  B 平安京遷都と神仏
   

 13 新しい支配階級

第六節 縄文社会=自然社会終焉の歴史的・人類学的意義

 1 人間と人間との対立の開始
 2 人間と自然との対立の開始
 3 権力者の興亡の開始
 4 「自然社会」視点の根源的重要性

                第三章 富社会の権力統治策としての経済学
                         ー「経済学」は非富社会になく、富社会固有のもの     

                     第一節 欧州における「経済学」の誕生
                         
 一 自然社会の経済
                           二 古代哲学と経済
                             ヘラクレトス 
                             プラトン 
                             アリストテレス 
                          三 中世学問と経済学
                          四 近代における経済学                                       
                            a マニュ期
                             @ 絶対主義の「経済学」 
                               重金主義 
                               貨幣数量説創始者ボーダン 
                               造幣局長官ニュートン 
                             A 絶対主義批判の経済学 
                              b  産業革命期
                                  @ 18世紀の特徴
                                 人口増加 
                                 農業疲弊
                                 経済社会 
                             A  スミスの「経済学」
                                 道徳重視 
                                 この積極的評価 
                                 道徳軽視 
                                 スミス「経済学」の評価 
                                 アルフレッド・マ−シャル 
                             B 批判の始まり 
                                 自由競争批判 
                                 富研究偏向の批判 
                                 財政責任者ゲーテ 

                         第二節 日本における「経済学」の誕生
                             一 江戸時代
                              荻生徂徠 
                              太宰春台 
                               佐藤信淵 
                               小 括   
                              二 明治時代
                               福沢諭吉 
                              西周 

                         第三節 経済「学」の展開
                             一 新古典派経済学(限界革命)
                                ジェボンズ
                                メンガ− 
                                限界革命 
                                均衡理論 
                                物理学の影響 
                             二 ケインズ革命
                                資本主義論 
                                新しい因果論 
                                有効需要の不足と造出 
                              三 新古典派総合
                             四 新古典派=マネタリズム
                                 フリードマン 
                                 自然環境無視 
                                 御用学問化
                             小  括

                       第四節 経済発展段階論の再検討
                             一 ドイツ歴史学派
                                 リスト 
                                 旧歴史学派 
                                 新歴史学派 
                             二 マルクス
                             三 ロストウ


                第四章 富をめぐる対立・争いの開始と展開

                         第一節 農富と格差・争乱発生 
  
                              農富社会の特徴 
                                 富は非善 
                                 貧富格差 
                                 富対立の展開 
                                 国家の偽善 


                    第二節 工富時代の異常性
                        
工富時代の成立 
                                 工富社会の特徴 
                                 工富時代の異常性 


                 第五章 総合的・根源的学問の構築
                                 −我々は何をなすべきか

                       第一節 総合的・根源的学問の構

                                  人類滅亡論 
                                  総合的・根源的政策の必要性 

                       第二節 総合的・根源的政策

                              自然畏敬 
                                  富欲望の規制 
                              既存国家廃棄・地域コミュニティーの重要性 
                              等価交換制度 
                              自然適合的小工場の普及 
                              多様な地域政策 
                              新経済学構築 
                              
                            World  Academic  Institute
        自然社会と富社会           世界学問研究所の公式HP                 富と権力      
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