世 界 学 問 研 究 所 の 公 式 H P |
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縄文文化と現代 |
| 縄文文化と現代 |
縄文文化と現代
ー総合的、根源的学問の構築のために
ここは、「総合的・根源的学問」構築に関する世界で稀少なサイトです。 ここは、「究極的学問の最先端」をめざし、現在、我々地球人が直面する諸問題を「総合的・根源的学問」として考察し、その対応策を「総合的・根源的学問」として検討することを目的の一つにしています。 |
| ◎人間社会(現生人類)は、一言で言えば、非富社会=自然社会と、富社会とに大きくわけられる。 ◎学問総合化の方法論は自然科学の方法が基軸になろう。
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・・・・・・ 「恥じぬ事業を成すには筆の力に頼らねばならぬ。舌の援を藉らねばならぬ。脳味噌を圧搾して利他の智慧を絞らねばならぬ。脳味噌は涸れる、舌は爛れる、筆は何本でも折れる、それでも世の中が云う事を聞かなければそれまでである。」(夏目漱石『野分』)・・・・・・ はじめに
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はじめに 我々が現在成長第一主義の影響として地球環境の深刻な破壊に直面している。 この危機は、いままで人類が直面した中では最も深刻なものである。それはなぜか。それは、「経済成長」として「国策」化しているが、放置すれば、それはますます弊害を拡大し、自ら人間の地球上での生存条件を狭め喪失させ、人間を間違いなく消滅させるからである。この人間生存危機は、地球惑星科学者、サル学者、生物学者、童話作家らによっても警告されてきているとろである。 従って、自然破壊の深刻化するなか、我々はどういう時代に生きているのか、何をなすべきかを学問的に知ることは人類的な課題にもなっていると言ってよかろう。地球破壊の深刻な事態に直面して、今まさに我々は切実な人類的課題に直面しているのであり、小手先の打開策などは許されなくなっているのである。 では、この人類的課題への根本的打開策とは何か。そのためには、自然の教えに則った総合的・根源的学問の構築が何よりも求められているのである。それは、まずもって、この史上最大の人類的危機の正体を歴史的に総合的・根源的に把握するものでなければなるまい。 では、現在の人類が直面する危機を正しく根源的・総合的に把握する学問とは何か。それは、過去・現在・未来を統一的把握するものでなければならない。従来の「細切れ的な歴史的方法」では、「重箱の隅」を突っついたり、歴史の一断面を取り上げるのがせいぜいである。これが無意味だとは言わないが、これが現在の人間が置かれた危機的状況を根源的・総合的に正しく把握することを困難にしてきたといってよいのである。 総合的・根源的学問とは何か では、我々人間社会を総合的・根源的に歴史的に把握するにはどうすればいいのか。 類型論 安田喜憲氏は、「環境考古学」(『環境考古学のすすめ』丸善、2001年、『環境考古学ハンドブック』朝倉書店、2004年、共著『環境と文明の世界史』洋泉社、2001年)は過去・現在・未来を気候との関連で総合的に把握するものだと主張される。氏は、日本を「森の民」(「人を信頼する」社会、植物文明、自然=人間循環系文明、母系制社会)、欧米を「家畜の民」(「森との共生を拒否し、森を支配し破壊した文明」、「万人が万人を疑う社会」、動物文明、自然=人間搾取系文明、父系制社会)ととらえ、「二十一世紀は・・森を破壊し尽くした『家畜の民』の世紀」(安田喜憲『日本よ、森の環境国家たれ』中公叢書、2002年、8頁)になるとした。これはこれで重要な類型的比較であり、氏には豊かな文明、宗教に関する知見に裏打ちされた人間的視点があるが、ここには社会科学方法論に批判的の者でも逆説的ながら社会科学的アプローチが弱いのである。「森の民」も「家畜の民」もいずれも現状が危機的な状況に置かれているのはなぜかがいまいち疑問なのである。社会科学方法論が「独走」するのには反対だが、さりとて人間社会から社会科学的アプローチを一切捨象することにも賛成できないのである。 日本と西洋の違いを無視することはできないが、現在の危機的状況を説明しうる両者を貫徹する「過去・現在・未来を総合的に把握する」歴史的類型概念というものがないであろうか。人間の行動の歴史を見ると、大きな核心的特徴があるのであり、それが「人間の富への欲望の有無」であることに気付くのである。そういう欲望があるかないか、抑制されていたかいなかによって、非富社会と富社会に分けられるのである。私は長く経済史研究に従事し、富こそが「経済的動因にして廃頽因」であることに気付いていたので、まずこって富に着目し、富を基準にして、人間社会(現生人類)を非富社会=自然社会と、富社会とに大きくわける。これによって、人間社会(現生人類)の過去・現在・未来を総合的・根源的に把握することができるからである。 総合的 では、総合的とはどういうことか。 桜井邦明氏が、物理学は総合的学問であり、物理学がすべての学問を統合すると主張されているように(『物理学入門15講』(東京教学社、1996年、116頁、75頁、35頁)、物理学こそ諸学問の要になるものである。だから、物理学者の中には学問総合化を提唱されているかたが少なくないのである。 そういうお一人として、地球惑星物理学者の松井孝典氏を見落とすことは出来ないであろう。氏は、@宇宙史137億年、地球史46億年、生命史38億年、A長期的には「地球の環境維持システムでは、増加した大気中の二酸化炭素は海に吸収され、最終的には(ケイ酸塩岩石=花崗岩と炭酸塩岩石=石灰岩としてー筆者)大陸に固定される」(『地球・46億年の孤独』徳間文庫、2000年、147頁、208頁)ことを踏まえて、「われわれ人類は今その進化のかなり究極なところ」=「われわれ自身がわれわれ自身の未来をコントロールできる状態にいる」所まできていると把握されている(『地球進化論』岩波書店、1988年、143ー4頁)。 それを踏まえて、氏は、学問的総合には「二元論と要素還元主義を超克しなければならない」として、「地球惑星科学」(「地球から太陽系天体にまで拡大」したもので、天体学・衝突現象科学・地球圏外物質科学・太陽系起源学・地球起源学などからなる)に天文学、生物学を加え「アストロバイオロジー(1998年頃からNASAが提唱する学問であり、@地球生命の起源、A生命システムの一般原則、B生物進化論、C生物圏の共進化、D地球生命の生存限界条件、E地球が生命を育んだ理由、F地球外生命、G太陽系内生命の可能性、H生態系と100年単位の環境変動、I地球生命が他惑星に適応できるかなどを研究。大きく地球と地球外の研究にわけられよう)なる新しい学問が試みられ」、「将来には哲学、文明論」を加えるとされる。この視点は基本的に正しく、筆者も「物理学と仏教」でふれたが、元来物理学とは狭義物理学と哲学の連関した自然哲学であったのであり、故に物理学が哲学を「加える」ことは「将来」的課題ではないのである。後述の通り、総合的学問としての物理学は、哲学基礎に裏付けられることによってはじめて根源的学問になるのである。 さらに、松井氏は地球学(「地球のなかに我々が人間圏として存在」することをシステム論的・歴史的に学ぶ)・智求学(「従来の学のあり方を超える新たな智の体系を求める」)からなる「チキュウ学」を提唱している。前者の地球学において、国家・国際関係を踏まえて、「人間圏の発展段階」として、「地球システムのフローに依存するという意味でフロー型依存型人間圏」(「農業文明の段階」)、「地球システムの他の構成要素に蓄積された資源(ストック)に依存するという意味でストック型依存型人間圏」を指摘している(『地球システムの崩壊』新潮社、2007年、31−5頁)。だが、この類型概念では、農耕文明、工業文明の前の文明がドロップされているから、過去・現在・未来を総合的に把握することはできないのである。つまり、氏は1万年の人間圏(『宇宙人としての生き方』岩波新書、2003年)を「農耕文明、工業文明」だけわけて、それ以前の自然社会を捨象されたために、「非富」社会と「富社会」の相違に気付けなかったといえるであろう。 また、氏は、「現在の文明圏」は「インターネットの普及」などで、「旧来の共同体」、国家を破壊する動きがでてきて、「宇宙のはじまり(ビッグバン)」に向い、「過去に遡れば宇宙は収縮し、すると宇宙の温度は上昇する」(前掲『地球システムの崩壊』、36頁)としている。氏は、現代文明を「地球システムのなかで人間圏を作って生きる生き方」、「あるルールを受け入れる」こと(141頁)と定義されている。それ自体は厳密な地球惑星科学的考察に基づいて導出されているが、やや社会科学的・歴史学的・哲学的分析が不十分であると思われる。従って、現在の危機的状況の原因に関しては、自然社会と比較した富社会の歴史的・哲学的・構造的特質(「人と人との対立」と「人と自然との対立」[これは地球システムのなかで人間圏を作る」ことの社会科学的表現]とが内在的に構造連関して特徴を形成)を導入することによって鮮明に理解されると思われる。然しながら、氏が、「我々は自分の身体すら・・・地球から借りている」・「我々は、地球から材料を借りて、自分のからだを構成するさまざまな臓器をつくり、その機能を使って生きている」(同上書、37頁)とされているが、これは氏ならではの卓見であり、その通りだと思われる。 根源的 では、根源的とはどういうことか。それは、電子、原子などの人間の究極的構成分子まで掘り下げるのみならず(物理学的)、@哲学的基礎をもち、A現生人類の生きた時間の始まりまで掘り下げる(歴史学的)という二つの意味をもつ。 @に関して、物理学(自然哲学としての)が総合的学問であるとするならば、哲学、なかんずく仏教哲学(自然哲学としての)は根源的学問であり、両者をいかに関連するかが「過去・現在・未来を総合的に把握する根源的視点」に立脚した学問構築する上でと重要となるであろう。この関連については、とりあえず、拙稿「物理学と仏教」(『仏教経済研究』2008年))が参考になろう。 Aに関して、私は、氷河サイクル10万年のうちの間氷期(1万年[ドゥーガル・ディクソンら、松井孝典監修『フーチャー・イズ・ワイルド』ダイヤモンド社、2004年、48頁。なお、本書は氷河期は今後今後500万年続くと予想しているが、学説は一致していない])約1万年余の現生人類の生きた時代を大きく非富社会=自然社会=縄文人と、富社会=弥生人・平安人・近世人・現代人の二分するというのである。 この「非富社会」=自然社会とは「人と人の対立」(生産関係)・「人と自然の対立」(生産力)のない社会であり、他方の富社会とは「人と人の対立」・「人と自然の対立」のある社会である。これらの視点こそが、過去(自然社会・富社会)・現在(富社会)・未来を総合的に把握する根源的視点なのである。 少しこうした試みの研究意義を研究史を踏まえて鮮明にしてみよう。 日本人の精神的特徴(哀れ、儚い、無常)の根源に関しては、竹内整一氏の『「はかなさ」と日本人』(平凡社新書、2007年)、『「かなしみ」と日本人』(日本放送出版協会、2007年)などが大いに参考になろう。氏はこれらの日本人の精神的特徴を『万葉集』・『古今若衆』・『平家物語』・『葉隠』など古今の古典に探るのだが、筆者の考えでは、その根源とは、自然社会で数千年間に培われた縄文人の「自然畏敬」「対自然無力感」などであると見る。仏教思想では、縁起や空という根本的なものよりも、無常が広く人々の間で取り入れられたのも、そうしたことによろう。竹内氏は必ずしもここまで掘り下げられてはいないが、日本精神の根源とは何かとどんどん突き詰めてゆけば、縄文社会につきあたらざるをえないのである。 実は同じような試みが、環境問題が叫ばれ出した1990年代にもあった。1992年、中野孝次『清貧の思想』(草思社)が刊行され、社会の注目を浴びたことがあった。中野氏は、「いま地球の環境保護とかエコロジーとか、シンプル・ライフということがしきりに言われだしているが、そんなことはわれわれの文化の伝統から言えば当たり前の、あまりにも当然すぎて言うまでもない自明の理であった、という思いがわたしにはあった。かれらはだれに言われるより先に自然との共存の中に生きて来たのである。大量生産=大量消費社会の出現や、資源の浪費は、別の文明の原理がもたらした結果だ。その文明によって現在の地球破壊が起ったのなら、それに対する新しいあるべき文明社会の原理は、われわれの祖先の作り上げたこの文化―清貧の思想―の中から生まれるだろう」とした。彼は、近代文明の環境破壊に対して日本「古典」文化(西行、兼好、光悦、芭蕉、良寛ら)を提示するのだが、自然共存について言うなら、彼らのもっと先にある縄文文化をこそ想起すべきであった。文学的感傷にふけることをもって「自然との共存」などと思い込んではならないのである。あえて言おう、宇宙・自然のおりなす「芸術」のまえに、こざかしい人間の筆使いなどがいったい何になるというのか。この点に関して、西谷啓治氏は興味深い指摘をしている。彼は、「言語の芸術の可能性に限界が現れる」と、1、「芸術の道から離れて宗教の道へ転入」するか、2、「芸術というものが人生の道としてもつ根本的な限界をはっきりと自覚した上で、なおその限界内に留まることを選ぶ」か、3、「宗教家が余技として芸術制作を行う」かであるというのである(「空と即」『講座 仏教思想』第五巻、理想社、1982年、42頁)。芸術の限界の果てが「宗教」としているが、正確には自然の芸術への脅威・畏敬ということであろう。 思えば、本居宣長も中国文化の影響を受けない固有文化の源泉として『古事記』まで掘り下げていった。彼の時代にはまだまだ縄文時代・自然社会の知識が十分無かったので、ここまでは掘り下げられなかった。もし本居宣長も縄文社会まで掘り下げていれば、日本人が、卓越した自然観、柔軟性をもち、「やまとごころ」「もののあはれ」「はかなさ」「かなしさ」「哀れ」「無常」などの精神をもつのは、日本が縄文社会という世界最長の自然社会の一つを持っていたからである事がわかったであろう。もしこれまでが経済成長で揺らぎ、薄れてゆくならば、日本的社会は根源から動揺し崩壊する兆候を示すであろう。 こうした日本思想家の中で、一人『古事記』、『日本書紀』の先まで見通した大思想家安藤昌益がいたことに注目しなければならないであろう。彼は、稿本『自然真営道』(1753年刊行。『日本の名著』19中央公論社、1971年 )、『統道真伝』(1752年頃著す。岩波文庫、上・下、昭和42年)等を著して、「世界は本来絶対に平等な、階級も身分もない社会であって、そこでは人々は自然に即して生活し、安食安衣していた。すべての人間が耕作に従事し、その結果によってきわめて平穏な生活が送れた」(奈良本辰也『統道真伝』解説)と、階級・身分社会以前の「自然社会」に言及していた。ただし、昌益は直耕がおこなわれる社会を想定していて、それが森林性社会であったという理解に到達していなかったが、それでもこれはやはり基本的には卓越した見解である。 さらに、昌益において注目すべきことは、「自然社会」崩壊過程に関して、「そこに、『高偏知』なる聖人が出現して自ら『推して王となり、上に立ちて、転下の転下を盗んで、吾が有となし、不耕貪食』してはばからない状態ができた。このような『転下国家を盗む大盗起る故にその下に貨財を盗む小盗賊日に起こりて止むことなき』時代」がやってきたとしたのである。そして、昌益は、何よりもその不耕貪食の徒、即ち「人の上に立つ君主が出現したことを社会悪の根源である」と指摘したのである。当時の歴史研究の水準からして細部ではいたしかたない限界もあるが、基本的構図には間違いは無く、「『高偏知』なる聖人」とは誰かは、賢明な読者ならお分かりであろう。この人民の富を収奪する「君主」の登場と、それが「小盗賊」を全国に普及させたことこそが富社会の出現であり、昌益は「自然社会」と比較して富社会の社会悪の根源を富の収奪構造の中に的確にみたのであった。こうして、彼は「人間と人間の対立」を鋭く指摘したのであったが、富社会のもう一つの基本的特徴たる「人間と自然の対立」は見落としたのであった。それでもやはり、大思想家安藤昌益の思想は根源的・総合的という点では抜きん出ている。 前近代社会への謬見 この前近代社会たる縄文社会を見る上で、我々はいくつかの謬見をもっている。例えば、「現在は高度に複雑化した文明社会であり、前近代社会は単純な非文明社会である」というものが最たるものであろう。まず、こうした謬見の打破からはじめよう。 高度に複雑なのは、一貫して自然、その一部としての人間の組成(例えば、生物分子のモーターは「人工的熱機関を遥かにしのぐ100%効率」であり、脳神経系の仕組みは「現行の並列コンピュターが太刀打ちできない情報処理を行う」[永山国昭『生命と物質』東京大学出版会、1999年、はじめに]のである)であって、それに比べれば今日の企業組織、社会組織、教育組織などは高度に複雑化した見せ掛けをもつに過ぎないということである。こういう富形成のために人為的に作り出された迷妄は一瞬にして崩壊するものであり、移ろいやすい脆いものであり、自然、人間の高度に複雑な組成からみれば、無常で単純なものでしかないということである。この様な「文明」とは「文迷」なのである。 自然社会は、それに相応しい高度な文化、文明、技術をもっていたのである。人類は、収益欲望にもとづかなくても、高度な文化、文明、技術を生み出していたのである。いかなる時代にも、自然は人類に等しく高度な教えを垂れていたのである。 欧州「自然社会」未開論 にも拘らず、18−9世紀の社会科学者らは自然社会を「未開社会」と位置づけてしまったのである。 農耕性文化の西洋、オリエントでは、森林性文化の日本ほど「典型的」に自然社会が展開しなかった。これもさることながら、なによりも当時の古ヨーロッパ文明研究の欠如・遅滞から、アダム・スミス、カール・マルクス、歴史学派などはこの非富社会固有の文化、経済、宗教などに気付かずに、一括して「未開社会」としてしまったのである。 スミスは、「分業がなく、交換がまれにしかおこなわれず、各人がすべてのものを自分で調達するという、社会の未開状態」(水田洋訳『国富論』上、河出書房、232頁)とみた。だが、決してこの時代は未開などではなく、見事な自然調和文化が花開いていたのである。 欲望が社会の掟、文化によって規制され、日常生活に必要なもののみが生産され、交換されていたのであった。 マルクスは、「俗流経済学」が資本家の節約の正当性を展開する際に「未開人」を援用することをとりあげている。『資本論』1(長谷部文雄訳『資本論』1、第二十二章、河出書房、昭和40年、471頁)において、マルクスは、シーニョアが、「未開人が弓を作るとき、彼は勤労をなすのであるが、しかし彼は節欲を行うのではない」が、「社会が進歩すればするほど、社会はますます節欲を必要とする」と主張することを取り上げて、資本家の強欲を具体的に指摘する。マルクスは「資本家という・・近代的贖罪者の難行苦行」を解き明かすのである。 また、マルクスは、『資本論』2(長谷部文雄訳『資本論』2、河出書房、昭和40年、330頁など)でも、「未開人が弓・矢・石鎚・斧・籠などを作るとき、彼がこうして費やした時間は消費手段の生産に費やしたのではないこと、つまり、彼は生産手段に対する自分の需要を充たしただけであることを、彼はまったく正確に知っている。のみならず、未開人は、時間の消費に対する全くの無頓着によって経済的重罪をおかすのであって、たとえばタイラーの語る様に、一本の矢を仕上げるためにしばしばまる一か月も費やすのである」と指摘して、俗流経済学の「未開人援用」をそのまま取り上げている。マルクスは、「一本の矢を仕上げるためにしばしばまる一か月も費やす」「未開人」の素晴らしさなどいささかも語らないのである。「未開社会」についての十分な研究をしていないので、語るに語れないのである。 一方、レヴィ=ストロースは、「未開民族と言うのは発育の遅れた、あるいは停滞した人々のことをいうのではない。彼らはいろいろの領域で文明人の成果をはるかに越える発明と創造の精神を示すことができるのだ。・・・さらにまた、未開人は、しばしばその歴史的展開が見逃されがちであるが、決して歴史をもたないわけではない」(荒川幾男ら訳『構造人類学』みすず書房、1977年、114−5頁)と言っている。彼は、「未開」という用語の「不的確さ」に気づいていたようだが、彼は、未開人でも我々文明人と変わらないというのであるから、彼によれば、我々も「未開人」ということになるわけだ。そして、彼はこの用語に「混乱」はないとして、あくまでこの用語を使い続けようとするのである。 そこで、レヴィ=ストロースは、文明人と「同じ未開人」とは違うものとして「真の未開人」という用語を使い出した。彼は、この「真の未開人」は「技術や制度の原初性(古拙性)により、彼らは一万年ないしニ万年以前に生きていた大昔の人間の社会状態の再構成を可能ならしめているのではないかと思わせる」(115−6頁)とした。彼は、「一万年ないしニ万年以前」を「真の未開」というのである。 そして、自らの属する社会にも「内部的不調和」(貧富格差、人種差別などなど)があるにもかかわらず、この「真の未開」社会は「不調和な苦渋に満ちた社会}(133頁)というのである。 この点は、当時のドイツ文化人類学者は良心的、学問的であった。ドイツでは「Wildenといふ嫌悪感を惹起し易い語の代わりに、Naturvolkという語が作られた」(姫岡勤『未開社会の構造』高桐書院、昭和21年、10頁)のであった。彼らは、野蛮、未開社会という語の使用に学者的躊躇を覚えて、自然社会という用語を使用したのである。 ただし、この様にレヴィ=ストロースは前近代社会を「未開」「真の未開」にわけたのだが、用語の不的確さはあるものの、「一万年前」以後の「自然社会人」が「いろいろの領域で文明人の成果をはるかに越える発明と創造の精神を示す」と指摘していたことは重要である。「自然社会人」も現代人も同じ現生人類なのである。この点は今村啓爾氏も、日本の「自然社会人」=縄文人に関して、「縄文文化の担い手である縄文人は、いうまでもなく、生物学的に現生人類に属する。したがって生まれながらの能力は、われわれ現代人とまったく変わらない」(『縄文の実像を求めて』吉川弘文館、1999年、31頁)と的確に指摘している。 非富社会=縄文時代の再検討 こうした危機の中で自然環境との共生が真剣に提唱され始めてきている。しかし、これもまた随分身勝手な発想である。欲望にまみれて自然を破壊してきた先進国の人間が、これでは今後生きていけそうもないから、自己保身をはかろうという側面が濃厚なのである。 しかも、彼らの言う自然はあくまで自分たち先進国民にとっての自然にとどまるのである。これに関連して、「環境人類学」者パトリシア・K・タウンゼンドは、「アフリカで調査を行ったマッコーマックと、かたやニューギニアで調査したストラサーンはそれぞれの調査をもとに、『自然』という概念が自民族中心主義的なものであり、欧米人が自然に対する自分たちの概念を他者に押し付けているにすぎないことを示した。他の文化は(欧米―筆者)同様の自然観念、あるいはそれから生じたようなメタファーをもたなかった。他の文化では文化的なものと自然的なものを区別していなかった」(岸上伸啓ら訳『環境人類学を学ぶ人のために』世界思想社、2004年、36頁)と指摘している。そう、自然社会では、文化と自然の区別など無かったのである。 人間は自然、宇宙から生まれはぐくまれてきたのであるから、そもそも「自然と人間の共生」などという発想からして、先進国人間エゴの残滓が濃厚ではないか。なぜ自然を破壊してきたのか、その理由の根源的考察と根源的反省なくして、人間の未来は絶望的なのである。この根源的考察・反省なくして、「未来可能性」などと称するのは笑止千万なのである。自然、宇宙は人間の母である。厳しい自然、宇宙を畏敬し、謝意を表明こそすれ、人間が自然と「共生」しようなどというのは、自然を破壊してきたことへの反省というより、「人間が生き残るため」に生み出した利己的発想という側面が濃厚なのである。 自然の脅威 そもそも自然は人類にとって脅威であった。大雨、地震、噴火、寒冷など絶えず人類は自然の脅威にさらされてきた。その上、縄文社会は絶えず食糧危機に直面し、不安に満ち満ちた社会であった。生易しい自然調和などではなかった。自然と調和するとは、人間が自らも自然の一部として、厳しい自然の法則に敬意をはらうということなのである。それは、数十万年の後に、ようやく人類が手にした「脅威である自然との折り合いのついた」生活方便であった。 こうした自然脅威にさらされている点では、縄文時代も現代も全く同じである。よく現代日本社会には「安全神話」が崩壊したか否かなどが議論されるが、宇宙的・地球的視野からみれば、我々は依然として自然の厳しい脅威にさらされているのである。貧富差緩和と治安強化で一時的に「安心」は維持されても、自然の脅威を克服できる社会はとうてい実現維持などできないのである。 縄文時代が氷河期終焉による温暖化で現出し、現代の地球が工業化による自然環境破壊の影響としての地球温暖化で衰滅危機に直面しているとすれば、何という皮肉であろうか。人間とは、地球生物史上、自らの「自滅」の歴史を「進歩」「発展」と称する最も愚かな生物種になりつつあるのである。この愚かな生物種人間がこの地球に危機的現状をもたらしたことを知るには、まず縄文時代の歴史を学び、「既存経済学」が自然・宇宙の摂理に反するものであることを学ばなければならない。 そこで、本論では、縄文社会とはいかなる特徴をもった社会であったのかを「自然社会」という観点から掘り下げてゆくことになるのだが、ここでその自然社会という用語を必要な限りで予備的に検討しておこう。 自然社会 ヨーロッパで生み出された旧石器、中石器(中近東、北欧のように食料生産活動の模索段階)、新石器(磨製石器、農耕社会、土器)という時期区分は、そのまま日本には適用することはできない。 日本では、農耕ではなく、森林栽培が中心であったからである。日本の縄文文化は「豊かな森で定住を始めた狩猟採集民の文化」(『縄文「ムラ」の考古学』雄山閣、2006年、95頁)であり、クリ栽培などで補完されていたのである。世界史的に見ても、環状列石・巨大木柱列・装飾土器・大規模集落など「世界の同時期の狩猟採集民の文化にもあまり見られない特徴」をもち、「世界で最も古い土器を持つ文化」、「狩猟採集を基盤とする文化としては稀なほど発達した文化」(今村啓爾『縄文の実像を求めて』165頁、200頁)なのであった。従って、縄文時代には、「農耕性新石器文化」ではなくて、森林栽培に適応した土器を伴う文化、つまり「森林性新石器文化」(今村同上書、174頁)があったということになる。 そして、縄文時代では、自然への脅威にさらされつつ、人々は日々宗教的敬虔さで物事を処するようになっていった。自然に畏敬をはらう精神文化が展開していったのである。例えば、最近発見された五千年前の三内丸山遺跡は、自然の中に生きる厳しさから生まれた知恵、共助心、自然への敬虔さにつつまれた自然世界を我々に指し示してくれる。 古ヨーロッパ文明 では、自然社会としての縄文社会については、本論で具体的に考察することにして、ここではヨーロッパなどにもこうした非富社会としての自然社会はあったのか、あったとすればどういう社会であり、それはどういう運命をたどったのかを予備的必要前提として触れておこう。こうしたものとして、女神崇拝社会としても有名な古ヨーロッパ文明がまず以て取り上げられねばならない。 まず、農耕、道具、定住について見ると、紀元前1万5000年前から、地球の気候は温暖・湿潤となって(カトリーヌ・ルブタン、大貫良夫監修『ヨーロッパの始まり』創元社、1994年、19頁)、中東の肥沃な三日月地帯(「西はパレスチナから東は南部メソポタミアまで弓状に広がっている耕作可能地域」)では、既に紀元前1万年頃には鎌、すり鉢、貯蔵穴、道具が使用され、住居遺跡などから「野性の草の種子」を採取して定住生活が端緒的に始まっていた事がわかっている(マイケル・クック、千葉喜久枝訳『世界文明一万年の歴史』柏書房、2005年、44−5頁)。メソポタミアでは、「紀元前7−6000年ごろには、小麦や大麦が栽培されはじめ」、「最初は、小さい土地で婦人が農耕に従事し、男子は狩猟にでかけた」(衣笠茂ら『概説西洋史』創元叢書、昭和48年、6頁)のだった。 「野生生物に手を加える初期の段階から、一部でも食料を自給する生産経済への移行には、きわめて長い時間がかかっており、人はその期間を通じてさまざまな失敗を繰り返しながら、少しずつ必要な経験を積んできた」(リシャルデら『ヨーロッパの原史時代』PUF,1985年[カトリーヌ・ルブタン前掲『ヨーロッパの始まり』141頁])のであった。紀元前4000年には犂が登場し、3000年頃土器(メソポタミアは彩色土器、西ヨーロッパでは直線・垂れ幕模様土器)などが製造されていった(マイケル・クック前掲書、49−50頁、カトリーヌ・ルブタン前掲『ヨーロッパの始まり』58頁)。 次に、集住規模を見ると、紀元前8千年頃、パレスチナのエリコでは、「少なくとも二、三千人の人々が集まって定住」した。トルコのチャタル・ヒュユックでは、「前6000年から前5500年までの間、1000戸の家におよそ5000人が住んでいた」ようだ(カトリーヌ・ルブタン、大貫良夫監修『ヨーロッパの始まり』創元社、1994年、42頁)。この二地域は、「特別な事情(「湧水のひじょうに豊富な泉の存在」)によって、例外的に大きな集落になった」(江上波夫ら『文明の曙』教養文庫、社会思想社、1986年、96−7頁)のであった。エリコに石の城壁がもうけられていたのは、「耕地の争奪や物資の略奪」(同上書、98頁)があったからであるようだ。 「やがて男子が専門に農耕に従事し、また専門に牧畜に従事するようになって、その生産の規模と技術の進歩は著しく」、各地に「定住して村落生活を営む集団」を生んだ。「エジプトやメソポタミアでは前六000年ごろから村落が現れ」、「ヨーロッパでもスイス、イタリア、ドイツ、ベルギーなどで前四五00―二五00年にかけて湖上生活がいとなまれた」(衣笠ら前掲書、6−7頁)のであった。最近、この湖上生活は、「湖畔」生活だったとされている(カトリーヌ・ルブタン前掲『ヨーロッパの始まり』はじめに)。 前4000年頃のアルプス・ジュラ地方では、「村の平均寿命は25−30年で、10年ごとの再建を2−3回繰り返していた」(カトリーヌ・ルブタン前掲『ヨーロッパの始まり』45頁)のである。ギリシャでは、3、4軒から10軒、せいぜい多くても20−30軒軒の小集落が10ha以内に生活していた。イタリア最大のパッソ・デ・コルヴォ集落も「40haの村に家が100軒」(カトリーヌ・ルブタン前掲『ヨーロッパの始まり』45頁)であった。重要なことは、ここでも「社会階層分化の影はなく、家の大きさも同じなら、設備も似たり寄ったりだった」(同上書、46頁)ということである。 前4000−3000年頃、この農耕性新石器文化は、「フランス全土、アルプス地方、ブリテン諸島、北欧」に流布していった(カトリーヌ・ルブタン前掲書、46頁)。だが、これがヨーロッパ文化の母体になったか否かに関しては、「(以前から)独自性に富む文化がモザイク状に存在した」(J.ギレーヌ『ヨーロッパの新石器時代』[カトリーヌ・ルブタン前掲『ヨーロッパの始まり』142頁])という意見もある。 さらに、この時期での富の欠如を確認しておけば、「見事な職人技術、金属の知識、灌漑の技術など、文化もかなりすすんでいた」が、依然として「社会階級が存在したようすもなければ、周辺地域の富の集積・再分配が試みられた形跡もない」(同上書、42頁)ということである。 以上が、ヨーロッパ「自然社会」の概観であるが、これは農耕性のために剰余を産みやすく、やがて富を生んで、日本の自然社会=縄文社会ほど長期に存続しなかったようだ。この古ヨーロッパ文明における富形成を見ておけば、紀元前5000年頃までには銅が使用され、前3000年頃には青銅加工技術が確立し、それによる武器と農機具を背景にしだいに富が形成されて、社会階層文化がすすみ、メソポタミア文明、エジプト文明を生み出したのである。新石器時代の文化は、千年単位で続いた旧石器時代の文化とは異なり、「平均的な存続期間は一世紀」(マイケル・クック前掲書、54頁)であった。 一方、ヨーロッパでは、農民の間で富が蓄えられてくると、「前4千年紀半ば・・バルカン地方や中央ヨーロッパで・・銅の冶金と金の細工が発達したことと深い関係」をもって「身分や貧富の差」(カトリーヌ・ルブタン前掲『ヨーロッパの始まり』126頁)が現れ、「前3千年紀以降、戦いを証拠だてる遺物はめだって増えてきた」(カトリーヌ・ルブタン前掲『ヨーロッパの始まり』68頁)ようだ。 こうして、西アジア、南東ヨーロッパ、そしてナイルの谷では、前4000年頃には、「大きな都市と壮麗な建築物との、金属使用その他の進歩をしめす、都市文化を見出す」(H.G.ウェルズ、長谷部文雄ら訳『世界史外観』上、1966年第一刷、52頁)のである。「農 耕の発展とその後に続いたさまざまな発展、特に最古の諸文明に起こった発展とともに」、「人間社会における不平等の可能性」は「ますます拡大していった」(マイケル・クック前掲書、81頁)のである。その場合、大河の周辺で灌漑・耕地拡張が推進・伝播しやすかった地域と、自然社会が比較的長く持続した地域があったようだ。「新石器文化は決して一様だったのではない」(H.G.ウェルズ前掲書、52頁)のである。 この様に、西欧、オリエントでは農耕から富が形成され、自ら自然社会を崩していったのである。従って、ここでは権力国家が構築される時期(自然社会の消滅時期)は、森林栽培の日本などに比較して早かったであろう。しかも、前4500年頃から西アジア草原地帯の食糧危機から移動を開始したインド=ヨーロッパ語族が、古ヨーロッパ文明への侵略を開始し、前3500年頃にこれを征圧してしまったのである。 なお、鶴岡真弓氏は、金属器の有無を基準にして、「農耕も金属器ももたなかった」旧石器時代・「農耕に金属器を使用する以前」の新石器時代=古ヨーロッパ文明と、以後現在に続く「黄金の時代」(精神的象徴の意味も重視)とに区別している(『黄金と生命』講談社、2007年)。富とは言っていないが、黄金もまた「富形成の手段」・「富の象徴」であることを考えれば、基本的構図は筆者と似ていなくもない。だが、自然社会において光るものへ人々が魅了させられることと、富社会での黄金崇拝とは精神的に連続したものだとしても、それでもなお、自然社会の人々の自由平等な存在形態のもとでのことと、富社会における人々の労働強制形態のもとでの権力支配の象徴であることという根本的差異に着目せざるをえないのである。 非富社会 この縄文社会の特徴として、それが「人間と自然との関係」、「人間と人間との関係」などでは高度で進んだ自然社会であって、決して未開ではなかったことと同時に、富がなかったことが重要である。このことを改めて確認しておこう。 縄文時代でも一時的に局所的に「剰余」が生じた場合があったろうが、それは決して利益目的で市場で売買される富ではなかったのである。それは、決して今日的な意味での富には程遠いものであったのである。縄文人、自然人は、こういう富を知らなかったし、また日々の生活に必要ともしなかったのである。 この富の観点から縄文社会をみる者がこれまでいなかったわけではない。異色の「土着」感ある作家中上健次氏は、「縄文というのは、富の蓄積というものが少ないと考えたほうがいい」(梅原猛・中上『蘇る縄文の思想』有学書院、1993年、66頁)と鋭く指摘し、また縄文世界を国際レベルでの研究にまでたかめられた西垣内堅佑氏も「富の蓄積もさほどなかったから、奪われる対象もなかったといえる。戦争の必要性がなかったのだ」(『国際縄文学協会紀要』1、2004年)と的確に指摘されている。だが、彼らを除けば「縄文時代に富の蓄積は少ない、或いはない」と指摘するのはほとんどいないのである。一時的に「富の蓄積」が少しはあったとしても、それはたまたまその年は自然の恵みが豊かであったからとかの偶然的要因か、食料危機対処のための備蓄という非市場的要因(市場に販売して儲けるということではない要因)によるものであって、決して今日的意味での富には程遠いものなのである。縄文社会とは、今日的意味での富(他人労働と自然材料の搾取で得たものを市場で販売して実現する富)のない社会だったのである。 自然社会における平等 現在の地球上の生物種の中で、富=剰余を必要以上に「生産」し所有しているのは人間だけである。人間を除くあらゆる生物種は生きるのに必要なもののみを集めて食料としている。欲望に基づく剰余=富の所有などはないのである。食料をめぐる競争はあっても、富をめぐる争いはないのである。なぜ人間だけが富を求めようとして、争うのか。かつて人間も富を求めずに生きていた時代があった。日本では、それが縄文時代だったのである。 自然社会における平等とはどういうものであったのかに関しては、先進国中で日本にしか猿はいなかったことからも、今西錦司氏ら京大霊長類研究所が終始リードしてきた霊長類研究成果が参考になろう。サル社会では優劣関係があって、それが食料を食べる順位などになっている。それは、人間の自然社会でも優劣関係を背景にリーダーは存在したことを想定させる。重要なことは、まだ霊長類も自然社会の人間も物質的搾取関係を伴っていなかったということである。 「ヒトとチンパンジーなどの系譜は一つ」であれば、ヒトとンチンパンジーの間に共通点があるのは当然であり、チンパンジーにも愛情、道具使用、言語理解力などがあるのは当然だといえよう。フランス・ドゥ・ヴァールは、「チンパンジーの社会構造は、人間のそれとそっくりであ」り、「マキャベリーの言う一言一句が、すべてチンパンジーの行動に直接適用できるように見える」(西田利貞訳『政治をするサル』平凡社、1994年、17−8頁)とまで言っている。 もちろんサル学研究は戦後生まれの歴史の浅いものではあり、自然の一部たる動物を自然のままに研究することは非常に重要であろう。しかしながら、これと同時に、今日的問題意識での猿学研究の意義をも視野におさめるべきであろう。そうしたものの一つは、「人間のみが富を求め、戦争をし、自然を破壊するのに、なぜサルは富を求めず、戦争もしないのか」ということであろう。ただサルとヒトは似ているというだけでは、必ずしも霊長類研究はこの問題に真正面から取り組んではいないと言えるであろう。従って、我々は富・自然破壊問題等のような今日的問題を抜きにしては、「進化の隣人(チンパンジー)と呼べるような生き物の暮らしぶりや思考や認識を通じて、文化というものの重要性に着目し、その文化というものが、どのように世代を超えて引き継がれるか」(松沢哲郎『おかあさんになったアイ』講談社、2001年、190頁)を研究しても、やはりどうしても一面的にならざるをえないと考えてしまうであろう。 そこで、今後これを研究する端緒として、「富と戦争と自然破壊」こそが、人間の動物との最大の相違であることを確認することも重要となろう。 富 社 会 人間社会に自然社会と富社会があるものとすれば、人間(現生人類)は、自然社会=非富社会と富社会の二つの人生舞台で多様な役割を演じてきたことになるのである。 では、この自然社会=非富社会の終焉で現れる富社会とは何か。 富社会の基本構造 富社会では、他人労働と自然材料の搾取を基本的特徴としている。なぜか。 自然社会では、生きるための労働はごく普通の生活の一部であって、一日の自然な時間の流れの一部として行われていた。そこでは、人間は自然の一部として生まれ、自然の一部として成長し、自然の一部として死んでいった。そこでは、人間は自然の脅威にさらされ、不安に満ち満ちた人生があったとしても、総てが自然や、自然の一部としての人間によって癒されていたであろう。 だが、富社会では、権力者によって、人間は富の一部を貢税・年貢・租税として権力者に差し出す存在となることを強制され、さまざまな「職業」を強いられ、多様な役割を演じさせられ、労働が義務化すらしてゆくのである。それは、人間と自然によってつくられる富が権力基盤の物質的基礎だからであり、これは基本的には現在でも変わらないのである。権力は、国民に労働を「強制」し、そのための装置を備え、その総括として国富統計を作成するのである。 だから、この富社会の「労働強制」人生では、実は権力者も被支配階級もともに「生の充実感」を持続的に持つことは困難であったし、これからも困難であろう。それは、「まともな」権力者なら武力・法律を背景に「他人労働」=剰余を搾取する上に成り立つ人生などに疑問を抱かないことはなかったはずであり、一方、権力者に搾取される被支配階級は剰余労働を強制されて物質的・精神的に「追い詰められた」人生を余儀なくされることに疑問・不平を抱き続けない訳はなかったであろう。人生舞台で多様な役を演じらされる人々にとって、「人生とは夢か現か、現か夢か」と、訳のわからないものとなったであろう。だが、彼らは自然の姿に接して、自然から教えられて「夢でも現でもない我に帰り」、「夢か現か」の相克から解放されるのである。 富社会では自然に則った生活を送ることは出来ず、「他人労働と自然材料の搾取を基本的特徴」とする富社会は永続的に持続することはできないであろう。 富の功罪 この富に関して楽観的な意見をもつものがいないわけではない。 アルビン・トフラーは、『富の未来』(上、下、山岡洋一訳、講談社、2006年)で、現在「経済が綱渡り状態にあるうえ、いくつもの制度が破綻していることで、庶民は悲惨な結果になりうる問題に直面している」ことを認めつつ、「富そのものは悪でも善でもない」から「富は有罪だと証明されるまでは無罪とする」(上、48頁)として、現在は富の第三波(第一波は農業革命=栽培農法、第二波は産業革命)にあるとして、「現在の富の革命によって、ビジネスの世界の創造的起業家だけでなく、社会、文化、教育の世界の社会起業家にも無数の機会が開かれ、新しい生き方が可能になるだろう」(上、28−9頁)と予測している。 しかし、トフラーにおいては第三波富研究が中心であって、自然社会の研究はドロップされ、第一波富、第二波富が大きな諸問題を引き起こしたように、第三波富が再びポジティブな面以上の諸問題を引き起こすだろうことの考察は捨象されている。こういう方法が、「過去・現在・未来を総合的に把握する根源的視点」として的確か否かはに関しては懐疑的とならざるをえない。実はトフラー以上に既存経済学が問題の元凶である。 現代経済学の迷走 現在、富社会のもとで、政治・経済面での人間・企業・国家欲望の対立・争いや、「経済学」の欺瞞性が露見され、自然破壊が深刻化している。 そもそもこれをもたらしたものが既存経済学でもある。こうした危機の中にも、未だに危機の要因である経済成長を提唱するという「迷走」状態にあるのである。 若田部氏は、「経済学者の役割とは何だろうか。それは、経済学の分析用具をきちんと使って筋を通すことではないか」(前掲『経済学者たちの戦い』206頁)と言って、語るに落ちてしまった。経済現象といえども、「経済学の分析用具」だけでは解明できないのは周知のところであり、これまで経済現象を科学的に解明しえたものなど一人もいないのである。西部邁『エコノミストの犯罪』(PHP研究所、2002年)、金子勝ら『入門バクロ経済学』(朝日新聞社、2002年)、野口旭『経済学を知らないエコノミストたち』(日本評論社、2002年)等の本も刊行される所以でもある。 はっきり言おう。既存の経済がもたらす地球破壊は、地球温暖化対策などだけではすまないのである。例えば、生態系破壊による食料危機、住環境危機などもある。自然・宇宙の摂理に反するこの経済は、宇宙・地球をじわりじわりと破壊して、不可逆的に人間、生物のすめないように自然破壊をもたらしているということなのである。これほど、自然・宇宙の摂理に反した「経済」を営んでいれば、「自然・宇宙の反発」を受けないわけがないのである。 この「地球破壊」という用語で留意するべきことは、人間経済が「地球を破壊」するのではなく、「人間の住みうる生態系を破壊する」ということであって、地球自体は人間経済ごときには簡単に破壊されないということである。ドイツ・ヴッパタール研究所は『地球が生き残るための条件』という素晴らしい本を刊行し、ここであくまで「人間が生き残れる環境としての地球」が「生き残るための条件」ということを問題としているように、もともと地球は人間ごときで滅亡などはしないのである。我々人間は、自然・宇宙の一部に過ぎないという厳然たる事実を忘れてはいけないのである。 この様に「経済の人間棲息環境としての地球破壊性」が深刻化している現在、自然の中で人々が自然の一部として敬虔に生活していた「非富」社会=自然社会としての縄文社会がますます注目されてくるのである。 現在の地球危機に直面して、個人の欲望、企業の欲望、国家の欲望の凝集してできあがった「既存経済学」は、自然の教えに逆らって傲慢に都合よく思い込んでいるものをほころばせ始めている。既存経済学は「自然の教え」に基づかないばかりか、これに逆らっているのである。 最先端をゆく物理学者志村史夫氏も、自然への畏敬、哲学なき科学(既存経済学はこの最たるものの一つ)が、現代的文明人には精神的病魔、地球には「根源を同じくする病魔」をもたらしたと警告した(『こわくない物理学』新潮文庫、平成17年、246頁)。ヴッパタール研究所は、「地球温暖化、その他の地球環境問題によって、経済(既存経済学基づくところのー筆者)が自然環境と衝突していることは疑う余地がない」(佐々木健ら訳『地球が生き残るための条件』家の光協会、2002年、23頁)と指摘した。 現代日本の知性たる梅原猛氏は、資本主義もマルクス主義も「ヨーロッパの・・闘争の哲学・・、怒りの哲学」という「殺害の哲学」(『梅原猛著作集』第5巻、集英社、1982年、28頁)を基礎としているというが、まさにその通りなのである。それは、地球、宇宙「殺害」の具であり、学問などではないのである。もはや躊躇する余裕はないのである。 科学的方法とは何か では、この総合的・根源的学問の科学的方法論とは何か。一言で言えば、自然科学の方法が基軸になろう。 経済学の方法 まず、 なぜ既存経済学は科学的方法に依拠できないのかを予備的に見ておこう。 既存経済学の方法論的「苦闘」の一例として、ポール・ホーケン、エイモリ・B/ロビンス、L・ハンター・ロビンス、佐和隆光監訳『自然資本の経済』(日本経済新聞社、2001年)がいる。彼らは、「水、鉱物、石油、木材、魚、土壌、大気など、人間が使用するすべての資源」を「自然資本」としていて、もうここからして彼らは自然を欲望逞しい人間的視点から自然を資本とするという致命的誤りをしている。 そして、彼らは、これまでの資本主義は限界にきたとして、「これまでの資本主義と根本的に異なる考え方、価値観」を前提にして、「生命システムを考慮した資本主義への転換」(36頁)を説くのである。しかし、資源生産性、「サービスとフローに基づく経済への移行」、「自然資本への再投資」など、なんら根本的な新味などはみあたらないのである。経済学を科学として構築しようとする方法論がないからである。確かに、彼らは、物理学者アインシュタインの言葉(「問題を解決するには、問題の原因になっている考え方を打破しなければならない」)をあげて、これを参考にしている。彼らが、物理学に着目したのか、有名人アインシュタインに注目したのか定かではないが、方法に注目したのではないのは明らかである。アインシュタインは「自然に学ぶ方法」を重視している物理学者である。この物理学の基本的方法・態度こそが、後述の通り、総合的・根源的学問構築に当たって重要である。 監訳者佐和氏は、既存経済学側の混迷振りに関して、「産業文明ないしインダストリアル・キャピタリズムの見直しが求められているのは確実だとしても、いったいそれに替わる新しい文明ないし資本主義の正体は何なのか。かねて諸説が紛々とはするものの、明確なビジョンは何一つとして描かれてこなかった。私自身、新しい文明を『メタボリズム(循環代謝型)文明』と呼称することにしてきたが、その具体的内容はと問われれば、適正消費、極少廃棄、省エネルギ―、リサイクル、製品寿命の長期化を要素とする文明であると答えるのが精一杯であった」(510頁)と、正直に述懐されている。佐和氏(京大経済研究所所長)は、既存経済学者の中では正直な研究者である。だが、氏が科学方法論とするカール・ポパーの反証主義は単なる「科学成立条件」に過ぎず、それ自体は根源的・総合的な科学方法論ではない。因みに、我々が、昔よく読んだマックス・ウェーバー、富永祐治ら訳『社会科学方法論』(岩波書店、昭和28年)もまた、価値判断排除・理想型導入で厳密整序思惟という科学成立条件を取り上げたもので、総合的・根源的な社会科学方法論を展開したものではない。 なぜ、既存経済学は混迷をきわめているのであろうか。それは、既存経済学には、このように総合的・根源的科学方法論が欠如しているのみならず、歴史的分析も弱いからである。過去の分析がしっかり出来ない者に現在と未来の分析など出来るわけがないのである。アダム・スミスの歴史分析も貧弱であったが、概して既存経済学の歴史分析もまた貧弱なのである。過去・現在・未来を把握する根源的・総合的な学問方法論が切実に要請されている所以の一つである。 この場合留意することとして、金融問題だけを過大に強調することである。確かに禁輸問題は深刻化し、資本主義は金融―信用問題で崩壊しかねなくなっていて、これさえ解決できれば資本主義はまだまだ延命できるかである。だが、金融のみを過大にみることは今後の根源的・総合的対策の全体像をぼかすことになろう。 最近、シルビオ・ゲセル『自然経済的秩序』(1914年初版刊行、岩田憲明・広田裕之訳の大労作、ネット公開中)が、ケインズ指摘(今後の経済ではゲゼル『自然経済的秩序』が重要になる)やコミュニティの地域通貨論などとの関連で注目されている。「自然的」とあるが、決して「自然的秩序」として経済秩序を語ったものではない。プルードン的観点からマルクス批判が随所にみられるが、方法論的にマルクスを批判しているわけでもない。 彼は、同書において、「商品は商品で支払われ、商品によってのみお金は測定される。お金には商品としての他の尺度はない。私のお金でこれらのものを与えてくれる売人が、それを得るためにどれだけの時間働いたかということは彼の問題であり、私には関係ない。私には生産物だけが問題なのだ。そのためのお金の価格の尺度として、労働も排斥されるべきだ。このお金の価格は労働生産物に向けられ、マルクスが主張するように労働時間には向けられないのであり、労働生産物が金利や地代の形で天引きされている限りはそれは労働生産物とは一致しない」と、貨幣を労働に結びつけることに反対する。 だが、彼は、「金に基づいた分業」という独自の視点を提出する。農業の社会的分業の展開を貨幣流通が助長するということであろう。そして、彼は、「金のおかげで、より多くの部分の富が、その最もよいものまでが、居候のものとなってしまうのだ。金こそが資本主義の父親である。物質的そして法的の特権のおかげで、財の取引がお金に依存する点において、金貨は他の商品とは異なる地位を獲得した。そのため金貨は一般的な貯蔵手段になり、金利が支払われない限り手放さなくなった」と、経済が展開すると、金は貯蔵され、退蔵されてゆくとする。金利で退蔵貨幣を市場に引き出さねばならなくなったというのである。 そこで、彼は、「金はわれわれの商品(「腐り、消滅し、壊れ、錆びる」)にふさわしい特性をもっていない。・・お金を交換手段として改良するためには、商品同様お金を劣化させなけれなならない。」と、交換手段として「劣化する通貨」を提唱するのである。 彼の提唱する自由貨幣とは、印紙(所有者が購入)付き紙幣と切手からなり、「紙幣が毎週0.1%を失い、それは所有者が負担する」とする。従って、紙幣所有者は、損失回避のために紙幣を「できるだけ早く使おうとする」のである。年末に「全ての紙幣が新しいものと交換される」のである。彼は、これによって「お金は劣化しない」という優位を否定しようとした。金は「自由な通貨鋳造権を失う」というのである。 だが、これは、権力の強制実施を前提とし、しかも富裕層のみならず一般庶民の貯金を目減りさせ、結局、反対に直面して、実現不可能であったろう。彼は、中央銀行を廃止して、政府内に通貨局を設置して通貨調節のみを行なうと提唱するが、中央銀行の歴史を知るものならば、これがどんなに無謀な意見であるかは容易に知られるであろう。政府が通貨局を手に入れたらば、どうするかぐらいは中央銀行の歴史(政府の戦費・赤字補填の必要で紙幣乱発)を知っているものなら一目瞭然なのである。 また、「実際の富(現実資本)の形成にはお金は不可欠で、金利がなければお金もない。だがプロレタリアがいなければ現実資本もない。その結果、お金の不可欠であるために、現実資本の金利やお金の流通のために必要なプロレタリアが形成されなければならなくなる。」として、金利のついたお金がプロレタリアを創造すると言うのである。しかも、それは、「金利の重みのために人々が全財産を失うからではなく」、高金利で「強制的に人々が自分の財を築けなくなっているから」というのである。ここでは、領主、資本家の収奪という歴史的事実はどこかに消えている。 彼は、自然との関係を論じることなく(自然破壊の観点が欠落)、かつまた権力体制を論じることなく、通貨のみを修正しても、実効性はないのである。これが、戦後地域通貨の一ヒントになったというのは、皮肉以外のなにものでもなかろう。 地域通貨などとの関連で童話作家ミヒャエル・エンデも注目されている。実は彼はゲゼル「貨幣論」の影響を受けており、金利のついた貨幣を過度に評価する傾向をもつ。 1994年に、エンデはNHKに新しい番組の企画を提案したという。それは環境・貧困・戦争・精神の荒廃など、現代のさまざまな問題に現代の貨幣システムが絡んでいるというのである。エンデは、「もう一度貨幣を実際になされた仕事や物の実態に対応する価値として位置づけるべき」であり、「そのためには現在の貨幣システムの何が問題で何を変えなければならないかを皆が真剣に考えなければならない」とするのである。彼は、「パン屋でパンを買う購入代金としてのお金」と「株式取引所で扱われる資本としてのお金」は全く異なった種類のお金であるとする。 エンデは、貨幣問題が、「人間がこの惑星上で今後も生存できるかどうかを決める決定的な問いだ」とする点で、シルビオ・ゲゼルとそっくりとなる。また、エンデは、「マルクスは、国家に資本主義を任せようとした」とし、これをマルクス「最大の誤り」としたが、エンデも国家論抜きに貨幣改革をしている点ではマルクスと同じであろう。 このエンデが死を直前に語った言葉として、@「選択肢はエコノミーの破局かエコロジーの破局か、この二者択一しかない・・・。病原の核は・・・私達の金融システムなのです」、A「この経済システムは、それ自体が非倫理的です。私の考えでは、その原因は、今日の貨幣、つまり好きなだけ増やすことが出来る紙幣が、いまだに仕事や物的価値の等価代償だとみなされているところに、錯誤があります。これはとうのむかしにそうでなくなっています」、B「私はもう第三次世界大戦は始まっていると思うのです。ただ私たちがそれに気がづかないだけです。なぜならこの戦争は、従来のように領土を対象とする戦争ではなくて、(自然の破壊という)時間の戦争だからです」、C「私が考えるのは、再度貨幣を、実際に為された仕事や物的価値の等価代償として取り戻すためには、貨幣システムの何を変えるべきなのか、ということです」(坂本龍一・河邑厚徳『エンデの警鐘』 NHK出版、2002年)などが知られている。 新科学方法論 では、総合的・根源的な学問方法論とはなにか。 既存の学問分類法―自然科学、人文科学、社会科学などーも再検討されねばならないであろう。高校時点では、権力側の国富形成にとっての有用如何を基準にする大学学部分割に応じて志望校を「理数系」と「人文系」などに分類するが、元来学問は一つであり、その根幹は「自然科学の中核たる物理学」と「人文科学の中核たる哲学」といってよいであろう。そして、重要なことは、先端的な学者は「自然科学も人文科学の両者を区別などしていない」ということである。両者は区別するべきではなく、一つの総合的学問として考えてゆくべきであろう。従って、総合的・根源的な学問方法論とは、「人文科学の中核たる哲学」に基礎付けられた「自然科学の中核たる物理学」の方法となろう。 では、学問の中核からもれた社会科学とは、どうなるであろうか。財政学、政治学、経済学など権力側が統治技術策として必要としたものなどは国家廃棄と共に消滅し、コミュニティー社会の自治技術にとってかわれらるものが少なくないであろう。 社会科学の「泰斗」と言われたカール・マルクスは、@自然社会の考察を欠落させ、A「自然発生的分業」によって経済現象は「自然と同じようなものになっている」(大塚久雄『社会科学における人間』岩波書店、1977年、86頁)として、人間欲望の経済行動の結果を「自然と同じようなもの」と曲解し、Bその結果、自然科学(特に物理学)、人文科学(特に哲学)を社会科学の方法的基礎とせず、C「人と人との対立」のみを見て、「人と自然の対立」の視点を「生産力理論」のもとに欠落させている(つまり、他人労働の搾取による富形成が、「人と人の対立」と「人の自然の対立」との内在的構造連関のもとになされることをドロップしている)などの方法的諸問題をもっている。自然と、「自然と同じようなもの」とは根本的に違うのである。「自然と同じようなもの」にするためにいくら自然科学の方法(数学など)を応用しても、科学になどはなりえないのである。 以後の社会科学者は、これを無批判的に踏襲したり、アダム・スミスやマックス・ウェーバーなどを加えてブルジョア的に修正するのがせいぜいであって、根本的・独創的な「社会科学方法論」を構築した人は皆無であった。 従って、現在は、哲学的基礎をもち、自然科学の方法で自然科学の一環として新しい社会科学を補助科学的に構築することが必要な状況にあるといえよう。これまで仏教経済研究所で発表し(2006年例会、2007年例会)、現在私が精力的に着手している研究もまた、そうした「必要な状況」に対する行為の現われの一つである。 自然から学ぶ なぜ物理学は自然科学の中核にして、学問の中核でもあるのであろうか。それは、それこそが自然・地球・宇宙を自然摂理に即して解明するものだからである。この点をアインシュタインについて見てみよう。 1905年、アインシュタインは4本の論文を発表した。最初の論文は、「放射の量子が実在であると信じる理論的・実践的理由を与えた」(D.リンドリ−、松浦俊輔訳『ボルツマンの原子』青土社、2003年、274頁)のであった。2番目の論文は、ブラウン運動(「花粉の粒を顕微鏡で観察すると、不規則に絶えず動いていて、花粉にそれぞれ小さな生命があるかのように振動している」事)に初めて「原子による説明を加えた」のであった。これは、「原子の存在をめぐる長い論争の転換点」(リンドリー前掲書、275頁)になった。 この2本の論文では、「ボルツマンの統計的な手法が新しい舞台で役に立つことを証明し、原子が存在することを」証明した。3、4番目の論文は「特殊相対性理論も入っていたし、第四の論文には、有名なE=m×c2の式が入っていた」(リンドリ−前掲書、276頁) のである。 彼は、光速度を見る際に、エ−テルを考慮することを放棄して、「相互に一定の速度で動いている慣性系のどれに関しても、物理法則は同じ値をとる」(特殊相対性理論)と、「光速度はどの慣性系でも同じ値をとる」(光速度不変の原理)に基づいて、「物質の質量(m) とエネルギ−(E)は本質的に同じである」ことを発表した。真空中の光速をcとすると、E=m×c2となり、質量mをもつ物体はmc2の質量エネルギ−をもつということを意味する。 彼は、「ある物質の慣性質量(加速や減速に対する抵抗力をもたらす質量)は、それがもつエネルギ−と同一となり、その結果『質量』という独立した概念は不要にな」(我孫子誠也『アインシュタイン相対性理論の誕生』講談社、2004年、65頁)り、「運動量保存則とエネルギ−保存則は、単一の原理に統合される」とした。これによって、エネルギ−の源は質量そのものであることを突き止め、ニュ−トン引力論が克服され、「星などの物質やエネルギ−の分布が重力の場(時空の幾何学的な構造)を生み出す」ことが解明された。これによって、地球が物を引きつけるのは、「地球が一定の時空構造を作りだし、‥その構造に束縛されるから」(内井惣七『空間の謎・時間の謎』中公新書、2006年、40頁)であることが明らかになった。 彼は、プランク説(光のエネルギ−はエネルギ−量子の整数倍であるという説)をさらに徹底させ、「エネルギ−量子を、光速度で走る粒子、すなわち光量子として実体化させることによって、光電効果が容易に説明できる」とした(湯川ら前掲論文、38頁)。ある物質が振動数νの光量子を丸ごと吸収すると、電子エネルギ−は瞬間的にhνだけあがり、その量が一定値以上になれば、電子が放出されるのである。プランクの作用量子仮説は「電磁波動のエネルギ−に量子性を導入した」が、まだ実体性がなかったが、アインシュタインは「エネルギ−の量子性に光量子という『実体』を与えた」(並木『量子力学入門』23頁)のであった。光は、古典力学的意味ではなく、「量子学的な意味での粒子」であることがわかったのである(和田純夫『量子力学が語る世界像』203頁)。この光量子説に刺激されて、電子の量子力学が展開することになる。従来は異質なものと見られていた光と電子が「どちらも量子力学的意味での粒子」であることがわかったのである。 一方、彼は相対性理論も発表した。1907年、アインシュタインは、「重力とは本質的に、加速度をもっている基準で我々が経験すること(例えば、電車やエレベ−タ−のように、加速している基準で感じる力)と同じではないか」(和田純夫『現代物理の世界がわかる』ベレ出版、2002年、69頁)と考え始める。やがて、彼は「重力とは、時空のゆがみの結果起こる現象」であり、「一方の物体の影響によってその周囲の時空がゆがみ、その結果として、他方の物体の動きが、時空内での曲線になる」(和田前掲『現代物理』、76−7頁)とした。 1915年、アインシュタインは、「美学上、幾何学上、物理学上の、もろもろの要望が研究の動機となって」、一般的相対論を「はじめて完全に定式化」(ペンロ−ズ『心は量子で語れるか』講談社、1998年、49頁)した。彼は、「自然の中にある最も基本的なもの、すなわち空間と時間の性質」(54頁)に着目したのであった。 1917年、アインシュタインは「一般相対性理論についての宇宙論的考察」を発表した。彼は、「『宇宙定数』と呼ばれる新しい定数を重力場方程式に加えて、球形の静的な宇宙モデル」(内井惣七『空間の謎・時間の謎』中公新書、2006年、190頁)を提唱したのであった。これは、重力場が存在する場合、力学法則が相対論的にいかに表されるかを研究するものである(桜井邦明『天才たちの宇宙像』吉川弘文館、2000年、23頁)。 これによって、「特殊相対論の(平らな)時空を、曲がった時空の理論に拡張することによって、重力の効果を幾何学的(ゆがんだ空間を扱うリ−マン幾何学)に説明することに成功」したのであり、デカルト派のニュ−トン批判(「なぜ重力は離れた物体の間に働くのか」)に「重力は、直接、物体間に働いているのではなく、重力場を媒介として働いている」(和田前掲『現代物理』87頁)と答えたのであった。この重力の波は、「光波のようなものであるが、電磁場の中のさざ波というよりはむしろ時空のさざ波」(ペンロ−ズ前掲書、51頁)であった。 この一般性理論は、大宇宙の構造解明に向かったために(ペンロ−ズ前掲書、56頁)、原子、素粒子などの小さな質量世界の研究には疎遠となった。それに対して、特殊相対性理論は「ミクロの世界」に適用範囲を広げて、素粒子論の「金科玉条」となった(湯川ら前掲論文、前掲書、37頁)。これは「量子論の発展の初期」に大きな貢献をしたと言われる。 こうしてアインシュタインは「物理学上の発見」をした天才と言われるのである。だが、天才なのは彼ではなくて、実は自然なのである。アインシュタインは、その自然の天才に触れ合う努力をしただけである。この点に関して、アインシュタインら自ら、「自然という書物を『読む』ことによって私たちは色々なことを知りました。『読む』ことによって私たちは自然界の言葉の初歩をも覚えました。・・・私たちは随分多く自然界を読んでこれを理解するようになりました。・・・読めば読むほど、『自然の書物』の構成には非の打ちどころのないのがわかります。もっとも私達が進めにつれて真の解決は却って遠ざかって行くようにも思われますけれども」(アインシュタイン、インフェルト、石原純訳『物理学はいかに創られたか』岩波新書、1996年。初版は1939年。4−5頁)と述べている。自然こそが、アインシュタインの師匠であったことを自ら語っているのである。アインシュタインは非力であったが、彼に賞賛されるべき所があるとすれば、それは自然から学ぶために費やした並外れた努力である。彼らは「科学者たるものは乱雑な事実を出来るだけ多く集めて、独創的な考えによってこれを筋道の通った、理解のできるものにしなければなりません」とも自負したが、この程度の自負は許されるであろう。 なお、小山慶太氏は、「物理学という学問は本質的に人間のほうから積極的に自然の中へ踏み入っていく営み」であり、「自然に対して果敢に攻撃を仕掛け、そこから強引に、法則を抽出する作業」(小山慶太著『漱石が見た物理学』中公新書、1991年、184頁)としている。確かに巨大実験機器が素粒子研究には不可欠なっているとしても、自然から学ぶという謙虚さはやはり必要であることに変わりはなかろう。そういうことからからであろう、物理学にも造詣の深い夏目漱石は、『三四郎』において、「自然から学ぶ」事と実験装置で積極的に自然から学ぶことは結局同じだと鋭く指摘していた。
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