| Only in the world World Academic Institute Top in the world |
自然社会と富社会
Natural Society and Wealthy Society
|

|
富と権力
Wealth and Power |
|
| 古今東西 千年視野 |
日本の学問で 世界に光り輝け |
|
学
問 惟 新 宣 言
基本的諸問題 現在の学問は、我々が将来の人間のためにいったい何をするべきかを指し示しているか。我々は、そういう学問を行っているか。
大局的に、宇宙・地球・自然とは何かを絶えず念頭におきつつも、具体的に、そもそも人間とは何ものであるのか(1)、人間は動物と一体どこが異なるというのか(2)、なぜ人間だけが富を求め出したのか(3)、その富は権力を生み出し、いかなる諸問題をひきおこしたか、それとの関連で権力は史上最初の法をどのように制定したか(4)、権力を推進軸に展開する政治とは何か、経済とは何か(5)、はたまた現在大きな災厄にもなりはじめた貨幣・金融はどのように始められたのか(6)、いつの世にもどこにもあった宗教とは何なのか(7)、なぜ人間は戦争をして(ヘロドトス(8)、トゥキュディデス(9))、未だに懲りずに人間だけが戦争をし続けているというのか、ではいったい何がかかる人間にとって「運命の岐路」になったのか(10)、 我々はこれらを根源的・総合的に解明する学問を行っているかということである(11)。
人間が富社会に突入して数千年、現在人間は途方もなく大きな課題に直面している。それは、宇宙・地球・自然に誠実に生きることと、富社会のもとで「富と権力」に関わって余儀なくされる諸問題ー自然を浪費・改造・破壊しつつ自然保護を叫んだり、人間を富獲得に駆り立てつつ弱者・貧民救済を唱えたり、経済・政治を混迷させつつ経済再生・政治改革を標榜したり、平和を叫びつつ紛争・戦争をとめどなく繰り返すという諸矛盾ーである.。つまり、宇宙・地球・自然の摂理に誠実に生きていれば、よほどの外部衝撃(惑星衝突など)さえなければ、人間はあと数十万年、数百万年、或いはそれ以上生きながらえたであろうに、このままでは人間の余命は数百年、数千年などになりかねないという極めて深刻な事態に直面しつつあるのである。このままでは愚かな人知が「まさかこうなるとは予想だにしなかった」と嘆き悲しむのが目に見えているのである。
こうした富社会に関わる諸問題こそが、現在の人間が普遍的に直面する基本的諸問題なのである。
個別専門研究だけの問題性 にもかかわらず、我々は、現在の諸問題をありきたりのツール・タームに甘んじて、目先ばかりを見て中途半端に皮相的に分析し、重箱の隅をつついてばかりいるのである。個別研究ぐらい、安易で怠惰な行為は無いのである。それは素人にはいかにも「自分は学問している」という体裁・外観を取り繕わせたとしても、学問的蓄積ある眼差しからすれば、「個別研究だけでは学問などにははるかに程遠いこと」は一目瞭然と喝破されるものなのである。
例えば、「経済専門研究者」と称する者は、「成長無くして発展はない」(12)、「自由競争こそが効率性を促し、利益を実現する」、「保護撤廃しなければ世界から取り残される」、「世はグローバル社会である」(13)、「国際金融戦略を立案しなければ、国際市場での敗者になる」、「外圧に対抗しなければ飲み込まれる」、「諸問題の解決には高度の専門家の育成が重要である」などと称し、時には恫喝して、時にはあらさがしをして、あてにならない人間判断のもとに国民をたぶらかし、せせこましい個別研究に安住しようとしている。こうした傾向は、経済研究者に限らず、あらゆる個別研究に跋扈しているのである。個別研究者はひたすら狭い領域や縄張りに甘んじているだけなのである。
概して、「専門家の智恵はどんなにすばらしい智恵だといっても、物理学者だ、生物学者だ、遺伝学者だ、生命科学者だと言っても、その人の智恵は五パーセントか六パーセント」(14)にすぎないのである。専門家の智恵などは極めて不十分なのである。政府の有識者会議などと称するものは、予め浅薄で非学問的なる官僚が作成した政策に「はくをつけ」、正当化するために、学識ある専門家と称する人々の審議を経たという大義名分を繕うものに過ぎない。政府の御用会議にのこのこ出席するような「有識者」に真の学者などがいるわけがないのである。
こうした個別専門研究だけの問題性、有害無益性、危険性は、実は数百年前からつとに指摘されてきたところである(15)。なぜ、個別専門研究だけでよしという傾向になったのか。それは、「富社会」が、研究を飯の種とし、富の蓄積に役立たせようとしたからにほかならない。
本来なら飯の種としての専門研究などは専門学校・職業学校や世俗的研究所などにまかせておけばよいのである。では、現在、学問を担うべき機関がその本来的機能を果たしているかというと、近代科学技術が無慈悲に研究細分化を要請し、飯の種としての個別専門研究をあちらこちらに跋扈させ、学問的世界を蝕み、人類に大所高所から根源的俯瞰を与える学問を麻痺させてしまっているのである(16)。マックス・ウェーバー『職業としての学問』(17)は、大所高所に基づいて展開すべき学問を世俗化して当然と開き直ったものといえよう。
西欧学問方法論の限界 このウェーバーはもとより、アダム・スミス、マルクス、ケインズ、シュンペーターなど西欧人は、「自然との対決」を優先し、自然の克服を当然とし、自然社会論を欠落させ、富社会のみを考察したのであり、論理的整合性はあったとしても、対象と問題意識・切り口には大きな問題があったのである。彼らは、アリストテレス以来の「学問とは論証である」という間違った学問論に立脚しているのである。しかも、それは、アリストテレスに先立つ、ホメロスの「帝国主義」的拡張路線(18)に淵源し、ヘシオドスの「自然社会」的アプローチ(19)を放擲しつつ巧みに労働論を取り込む(20)という、帝国主義的危険性をもった学問論に立脚しているのである。彼らは、帝国主義的危険性を払拭することなく、論理的に証明できれば学問的に解明されるものとしてしまったのである。
その結果、欧米ではいずれも正しい学問方法論をもたなかった、否、もてなかったのである。もとよりウェーバーとマルクスは社会科学の泰斗・古典などではなかったのであり、そこに安住したり、そこを前提とすることは、学問的に適正ではなかったと言わざるを得ない(21)。スミスもマルクスも「富社会の経済学」という同根に咲いたあだ花でしかなかったのである。
そもそもこれまでの社会科学とは学問たりうるものではなく、その方法論もまた学問的とは言い得ないものなのである。実際、社会科学の一つとされる経済学などは学問などにあらずして、権力統治の方便でしかないのである(22)。
これにとどまらず、こうした学問研究を本務とすべき諸機関機関の学問的麻痺・鈍感化によって、研究が即学問と錯覚し曲解して、現在学問は危機的状況に陥っているといっても過言ではない(23)。
総合的・根源的学問の重要性 ここに、個別専門研究だけとは根本的に異なって、大所高所で社会・世界を「自然社会」と「富社会」として総合的・根源的に正しく見通せる学問がますますその役割をは大きくしてきているように思われる。
現在、我々が直面している諸問題は、昭和の一定期間、平成の一定期間などによってもたらされたものではなく、数万年に及ぶ人類の営みの帰結なのである。従って、大正・昭和の一定期間、平成の一定期間だけを取り上げて、これこそが最先端の個別研究などと称し、そこには今までにない固有な特徴があるなどと主張し、それが現在にも影響を与えているなどと非学問的で狭い仲間内だけで自己弁護しても、それだけやっていたのでは、素人には気がつかないとしても、現在の諸問題の「根源的な解決」にはほとんど役には立たないのである。とうてい学問の態をなしていないのである。千年視野・古今東西という高い学問レベルに立つことができるならば、この程度のことは一目瞭然なのである。
我々は、一定期間の特定対象を取り上げてこと足れりとする事に安住してはならないのである。将来の人類のために、新しい人類の生き方を根本から見直すことのできる学問を明らかにすべき時代に入ったと思われる。総合的・根源的学問とは、そのための基礎であり、基盤となるものであり、諸問題を個々別々にでなく、便宜的・刹那的にでなく、権力・企業に迎合的にでなく、将来の人類のために、千年視野に立脚して、総合的にして根源的に「自然社会」と「富社会」とを考える学問であるように思われる。
世界に普く学問的真理を照り輝かすことのできる総合的・根源的学問という名の「資産」こそが真の「資産」である。俗人が数兆円の物的資産を築き上げようとも、永久不滅な真の学問という名の資産にははるかに及びもつかないのである。
総合的・根源的学問の方法論 では、「自然社会」と「富社会」とを考える、こうした総合的・根源的な学問の方法論とはどういうものか。
これを具体的に考えることのできる国の一つが、地震・風水害という天変地異のもとで、実に感受性豊かに自然と一つになって、世界的普遍性をもつ「自然社会」を生み出した日本ということになろう(24)。最近、「日本力」とか、「日本らしさ」などということがさけばれだしたのも、こういう新しい根源的動向を反映していよう。だとすれば、日本でこうした変化を日々経験する学者は、この問題を総合的・根源的に考える学問を世界の人類に指し示さなければならないであろう。我々は、「西欧の輸入学問」から飛び立つべき時期に立ち至ったというべきであろう。
本物の学問人の基本的使命 ここに、「自然社会」と「富社会」とを考える、こうした総合的・根源的な学問の構築こそが本物の学問人の基本的使命であることを広く世界に表明し、我々は、将来の世の為、自然の為に大所高所からこれを日々使命感をもって実践する決意を広く世界に宣言する。
「自然社会」との比較のうちに「富社会」の根幹が「富と権力」(25)であることが鮮明となり、この「富と権力」を根幹とする「富社会」が人為的な成り行きで登場して人為的な弥縫策で維持・存続しようとする限り、表面で共存・共生を標榜し、愚かな人智を誇示しても、富をめぐって国家間・企業間・個人間の競争・対立が絶え間なく起こり、権力やそれに与する「御用学者」らが存続を賭して枝葉末節の「政策」・「戦略」をうちだしたところで、少なからざる人々が指摘されるように(26)、人類は破滅に向かって歩んでいるように思われるのである。まさに、我々は、「人類の余命は残り数百年、数千年などになるという極めて深刻な事態」に直面しつつあるのである。
こういう危機的状況において、もはや個別研究だけに安住する態度は許されず、さらにまた断片的・目先的知識や、不法な非学問的セクショナリズム・縄張り根性などは言語道断・以ての外と言うべきであって、ここに総合的・根源的学問が、限界のある西欧方法論ではなく、普遍性のある日本方法論に基づいて、大きな役割を発揮する時代が訪れたと言うべきであろう。
さあ、深く学び、広く学び、大いに学び、本物の学問を築き上げ、人類に過去・現在の姿を適確に解き明かし、将来の指針を示そうではないか。
2011年3月6日初稿、3月23日第一回補訂、4月10日第二回補訂、4月28日第三回補訂
5月10日第四回補訂、5月28日第五回補訂、6月6日第六回補訂、6月26日第七回補訂
7月12日第八回補訂、7月26日第九回補訂、9月4日第十回補訂、9月24日第十一回補訂
10月9日第十二回補訂、10月15日第十三回補訂、10月26日第十四回補訂、11月6日第十五回補訂
11月16日第十六回補訂、11月30日第十七回補訂、12月17日第十八回補訂
2012年1月1日第十九回補訂、1月22日第二十回補訂
世界学問研究所 大教授
千田 稔
・・・・少なからざる学会誌、少なからざる学会大会、少なからざる研究会で発表してきた筆者は、こうして世界に同時発信するネットで
本物の学問の構築を宣言し、その一部を発表することに、学会誌、学会大会・例会、研究会以上に大きく、それにはない新しい意
義を覚える。まさに、これ日々学会(世界学問研究学会)発表である・・・・
・・・・・いかなる世界にも当てはまることだが、身体はすべての基礎であり、健康維持は頗る肝要である。いわんや、世界の人民に学問
上の義務を負う本物の学者においておやだ。本物の学者には体力維持は重要条件だ。私は、いまでもベンチプレスで100kg前後
を挙げうる体力を日々維持している。・・・・・
・・・・・いかなる不正にも磐をも穿つ学問的情熱を迸らせ、ひるむことなく敢然と取り組むこともまた、世界の人民に学問上の義務を負う
本物の学者の任務の一つだ。私が米国大統領にWorld Academic
InstituteのPresidentとして、アジア平和・防衛はアジアが主体
的に遂行し、米国人民の負担とリスクを軽減するするという趣旨に立脚するアジア防衛機構のごときをつくることと並行して、日本
人の尊厳を損なう駐留米軍を引き上げ、より高次の日米関係を構築するべきことを厳かに提言したのもそうした現れの一つだ。・・・・
(1)、この人間観こそが学問方法論とその根源の質を規定するといってよい。その人間を存在において措定して考察する場合、「自然社会の人間」と「富社会の人間」を峻別しうるかどうかが、重要となる。「富社会での大部分の学問」は、「人間と自然との関係」、「人間と人間との関係」において、「富と権力」によって「歪められた人間」をザッハリヒに措定しているために、「根源的な学問」となりえていないのである。特に西欧の学問方法論には帝国主義的特徴すら見られるのである(拙稿「古今東西の学問方法論」)。
アリストテレス まず、欧米にとって「万学の祖」とされるアリストテレスによって、古代ギリシアから見てみよう。彼は、「財物の所有に心を奪われることは、人々が、その為すべき事柄を選択するに当たって妨げとなり得るものである。」(『断片集』[アリストテレスの散逸した著作の断片をあつめたもの]『アリストテレス全集』17、岩波書店、1977年、545頁)、 「幸福は、多くの財物を所有することにあるのではなく、霊魂の或る特定の状態に存する」(545頁)として、財物ではなく、魂の重要性を指摘する。そして、富と霊魂の関係について、「何らの価値もない人々は、莫大な富を手に入れると、霊魂に由来する諸々の善よりも彼らの所有するに至ったこの富の方が、はるかに価値があると考えるようになるのであるが、これこそあり得る限りの最も賎劣な状態である。・・自分の所有物の方が、その当人にとってはるかに価値あるものとなるに至ったような人々は、まことにあわれむべき人間であると考えられるのが当然である・・」とした。その理由として、「諺にもある如く、飽満は倨傲を生み、教育を欠いた権力は愚かな振舞を生むからである」とし、「霊魂に属する諸々の事柄(能力、状態等)が邪悪な状態にある人々にとっては、富も力も美しさも善いものとはならない」し、「むしろ、これらの状態(富、力、美)が十二分に具わっていればいるほど、それらは具わっているが思慮に欠けているという場合には、それらの状態はそれだけそれらを具備している人を損なうことが多大なのである。これすなわち、諺に言う『子供に刃物を与えるな』ということであって、その意味するところは、『悪しき人々に権力を委ねるな』というにあるのである」(546頁)とまでする。
そこで、アリストレスは、善知識をもたらす哲学が正しい行動に必要だとする。つまり、彼は、「生活のためにわれわれに付与されているもの、例えば肉体や肉体に属する諸々の事物は、或る種の道具としてわれわれにあたえられているのであって、これらを用いることには危険が伴うのであり、それらにふさわしい用い方をしない人々にとっては、往々にして予期に反した結果を生ずるものである。それ故われわれは、それによってこれらすべてのものを良く整え得るように、知識を乞い求め、それを獲得し、そしてそれを正しく用いなければならない。したがって、われわれがもし良き社会人たらんと欲し、また、己れの生涯を有益に過ごそうと思うならば、我々は哲学すべきである」と主張するのである。その際、知識には、生活に有益なものを作り出す知識、「(この)知識を用いる知識」、「われわれに奉仕するための知識」、「われわれに対して規範的統率的な知識」があり、本来の善は庫の最後の知識に存する。この「判断の正しさを有し、理性を用い、全体的な善を観照するところの知識』こそが哲学であり、「哲学だけが、正しき判断と、誤りなく統宰する思慮とを己れの内に保有している」(546−7頁)とした。
では、ここまで見通せたアリストテレスは、当時の権力構造を適確に「哲学」的に考察できたのか。「家の最初で最小の部分といえば、主人と奴隷、夫と妻、父と子であ」り、「完全な家は奴隷と自由人からできている」(アリストテレス『政治学』(『アリストテレス全集』15、岩波書店、1977年9頁)と、奴隷を積極的に位置づける。アリストテレスは、奴隷は「人間でありながら、その自然によって自分自身に属するのではなく、他人に属するところの者、これが自然によって奴隷なのである」(11頁)と、奴隷を自然だとみた。
さらに、彼は、人間は「生れる早々から或る場合には相違があって、或るものは支配されるようにできており、また或るものは支配するようにできている」(12頁)と、帝国主義的危険性をはらむ支配・被支配は「有用」で「必然」だと肯定的にみた。この観点から、奴隷を見れば、「身体が霊魂」に劣り、「動物が人間に劣るのと同じほど劣る人々」(14頁)となる。
当時、戦争奴隷など「自然でない奴隷」の存在があり、「法律家の多く」はこれを「違法」と非難していたにもかかわらず、アリストテレスはこれに反論することなく、自然によって仕える奴隷のほかに、「戦争中に征服せられた者は、征服者のものであるということを規定している法」で「奴隷として仕えている者」がいるとするだけである(15頁)。「或る人々の間にはそのような区別(奴隷と自由人ー筆者)があって、そのうちの或る者には奴隷であることが、しかしまた或る者には主人であることが有益であり、またそのうちの或る者は支配されなければならず、或る者は支配すべく生れ付いたその支配を支配しなければならない(マケドニア王国のアレキサンダー王子には、こういう帝王学がほどこされたのであろうー筆者)」(17頁)とまでするのである。
こうした支配・被支配に富がからんで、国家が登場する。アリストテレスは、富と国制の推移について、@恩恵と徳を持つ王が「段々悪い者」になり「公共の財産から金儲けを図っ」て、寡頭制が登場し、彼らは「富を・・尊重すべきもの」とし、A「賎しい貪欲のために支配をだんだん少数の者へ少数の者へつつねに移していき」、この寡頭制から僭主制がうまれたが、Bしかし、これは「大衆をだんだん強くし」、「その結果大衆は反抗して、民主制が生じるに至った」(137頁)とした。
このような支配当然論を持つアリストテレスは、世界のギリシァ支配の正当化を主張し、マケドニア帝国主義の正当化に係わってゆくのである。彼は、「寒い地方」、「特にヨーロッパの民族」は「気概には富んでいるが、思慮と技術とにやや欠ける」ので、「自由を保ちつづけているが、国的組織をもたず、隣人たちを支配することができない」(291頁)とし、「アジアの民族」は「霊魂が思慮的でまた技術的ではあるが、気概がない」ので、「絶えず支配され、隷属している」と指摘する。その上で、彼は、「ギリシァ人の民族」は「住む場所が中間を占めているように」、「気概があり思慮があるから」、「その両者に与かっている」(291頁)ので、「非常に優れた国的組織を持ち続け」、「もし一つの国制を定め(統一を成し遂げ)たなら、他の凡ての民族を支配することができるだろう」と主張したのである。現状では、ギリシァ諸民族は「お互いのあいだでは以上と同一の相違をも」ち、「或る民族はその本性が一面的である」が、「或るものはその両方の能力が巧く混合されている」(292頁)ともし、「或る」国によるギリシャ統一を示唆したのである。
なお、アリストテレス学派は、「正しく経済を行なおうとする人は、その働く場所をよく弁え、生まれつきよい性質をもち、またその心がけの上でも勤勉かつ廉直でなければならぬ」(村川堅太郎訳『経済学(OIKONOMIKA)』(『アリストテレス全集』15、岩波書店、1977年、435頁)としていた。ならば、彼らはこれを経済界に実行させたのであろうか。第一巻第一章の最後で「昔の人たちが金を得るために実行した」事例を蒐集すると記して、事例蒐集の第二章がそこから始まる。第一巻の第一章と第二章の作者は同じとも(第一章は「平常時の財政」、第二章は「非常時の財政」として、あくまで同一人物が書いたとする意見)、異なるとも言われている。私は、同じアリストテレス学派ではあるが、作者は違う人物と推定する。なぜであろう。恐らく、それは蒐集事例が余りに上述の「勤勉・廉直」とは異なり、アリストテレスの教えと余りにもかけ離れすぎていて、弟子達は躊躇したからではなかろうか。
その後、別の人が残された課題たる事例蒐集を実行しようとしたのであろう。こうして、第二章では、37例が蒐集されたが、この内容を具に検討すると、王・僭主(7例。税金・財産没収・改鋳・謀略徴金)、サトラップ(ペルシァ大王やアレキサンダー大王に納付するために資金調達など10例。献金・課金・諸課税・支払能力擬装・謀略的課金・謀略的課税)、都市(18例。都市が資金が必要になると、土地強制売却・各種権利金徴収・財産賦課金・死刑免除金・対立党派徴金など種々に資金調達)、個人(2例、金に窮した個々人は、民会などの決議を利用して、輸出・資金貸付などを行なった)などの資金捻出策などが検討されているが、大部分は策略的・謀略的な資金徴収策なのである。アリストテレスの高邁な経済倫理にも拘らず、現実の経済はやはりアリストテレスの倫理などとは無縁なものであることを指し示したのである。この面でもアリストテレス哲学は無力なのであった。この経済の理想と経済の現実との矛盾、正にアリストテレス的矛盾こそが、欧米経済学の矛盾を予兆するものであったと言っても過言ではない。
このように、古代ギリシアでは、「富と権力」によって自然なる人間が歪められたにもかわらず、アリストテレスはそれが「自然」だとしたのである。アリストテレスは自然社会を「未開社会」と蔑視こそすれ、根源的にそれを考察することができておらないことが、こうした彼の「歪んだ」考察の理由になっている。これでは、とうてい、「哲学だけが、正しき判断と、誤りなく統宰する思慮」をもたらすなどと言えないのである。また、アルストテレスは経済倫理を説いたが、現実の経済はそれとはと余りにもかけ離れたものであり、この面でもアリストテレス発言は無力そのものであった。
古代日本 さて、富と権力の関連について、古代日本を瞥見しておくならば、権力と富は相互補完的に誕生し、当初から権力は富の増加(富国)を目指し、国家隆盛の基本は民の富であるとして(例えば、垂仁大王治世25年2月8日詔[『日本書紀』上、268−9頁]、霊亀元年10月7日元正天皇勅[(青木和夫ら校注『続日本紀』一、新日本古典文学大系12、岩波書店、1989年、175頁)]、承和7年2月26日付仁明天皇勅[『続日本後記』『国史大系』3、吉川弘文館、平成12年])、民は国富の基礎と措定された(拙稿「縄文社会の終焉ー富社会の登場」)。古代社会において、国富は租庸調を担う人民が担っていたのであり、「古代経済論ともいうべきもの」では勧農がしきりに奨励されていた。天皇は徳のある存在であり、この徳で蛮夷を徳化するなどとして、これを隠蔽していた。古代では、有徳の支配者が統治し、裾野に奴隷制を温存して、民から収奪するのは当然であるとしていたのである。ただし、古代日本では、民を「おおみたから」と称し、そうした民を支配・収奪することへの「畏れ多さ」というものがあったが、まだ、これを批判する学問は誕生しなかった。
アダム・スミス やがてマニュ段階末期の1776年にアダム・スミスが『諸国民の富』(水田洋訳『国富論』河出書房、昭和40年)をあらわし、国富の源は重商主義者の説く貿易、特権的商業ではなく、国民の生産活動たる労働にあるとして、生産的労働が奨励されることになった(拙稿「富社会の権力統治策としての経済学」)。スミスは富の源泉が人民にあるという、権力誕生以来標榜されてきた原点に回帰し、「権力と富」の原則を再確認しただけであった。
アダム・スミスは1723年にスコットランドに生まれ、1751年にグラスゴ−大学の倫理学教授となった。1760年頃から、イギリスで本源的蓄積がほぼ終了して産業革命が進展し、商品経済が局地的市場圏を越えて大きな比重を占めてくる一方、重商主義批判の動きがでてアメリカ独立戦争(1775-1783年。英国植民地アメリカは本国の重商主義的搾取からの脱却をめざす)をもたらした。
スミスは、『文学・修辞学講義』(1762−1763年)において、同じ演繹的方法ながら、アリストテレスの方法(「一つ一つの現象ごとに一つの原理―通常、新しい原理―を示す」方法。大前提、小前提、結論から成り立つ三段論。ただし、アリストテレスは帰納法も活用している)も重視しつつも、ニュートン的方法(「初めに、第一義的な原理、あるいは立証された原理を幾つか定め、そこからそれぞれの現象を説明して、それらの現象すべてを同一の鎖で結びつける」方法)をより重んじた。スミスは、後者のニュートン的方法こそが「最も哲学的な方法であって、道徳あるいは自然哲学等々のあらゆる学問に用いても、前者の方法よりはるかに、創意に富み、それゆえに、より魅力がある」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』多賀出版、1997年、107頁)とした。スミスは遺稿集『哲学論文集』中の「天文学史」・「古代物理学史」・「古代論理学と形而上学の歴史」で、「古代ギリシャ哲学の伝統を・・踏襲」するとした(遠藤和朗『ヒュームとスミス』多賀出版、1997年、106頁)。
スミスは、アリストテレスと同様に哲学的な人間を措定しようとしつつも、古代ギリシァ哲学とは違う新味を打ち出そうとした。つまり、彼は、『国富論』に先行して、1759年に『道徳的諸感情の理論』(水田洋訳、岩波文庫、2003年)を刊行していて、第一部第一篇「同感について」で、古代ギリシャ以降の哲学にはない新しい「道徳哲学における結合原理」を見出したとしたのである。それが「同感」であり、「人間がどんなに利己的なものと想定されうるとしても、あきらかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、かれに他の人びととの運不運に関心をもたせ、かれらの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、かれはそれからひきだせないのにかれにとって必要なものとするのである」とした。有徳の士のみならず、「最大の悪人」でも「同胞感情」として「哀れみ」「同情」をもっているとするのである。資本主義が共同体の同胞と云う絆を破壊する以前の「牧歌的」状況(マニュ段階)の「道徳」論であり、それは自然社会の「自然」的道徳論ともいえる。アリストテレスは、哲学が人間の欲望を抑えるとしたが、スミスは同感・道徳が利己心を抑制するとしたのである。
そして、スミスは、法と経済学の方法的基礎として、「同感の原理」、「正義に関する自然な感情の漸次的発展」、「行為の動機と、同種の行為が織りなして作りあげる客観的な結果とは区別せねばならぬ」などの視点を提出した。「ニュートンが宇宙の秩序の結合原理として引力を抽出したように、スミスは道徳秩序の結合原理として同感を抽出」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』多賀出版、1997年、126頁)し、スミスは、正義の根拠は「公益の尊重」ではなく、「被害者の憤りに対する」同感であるとして、「社会の大黒柱である正義をも同感の原理で基礎づけた」(遠藤同上書、131頁)のであった。
スミスは、法学や経済学はこうして道徳哲学に基づいて構築されるべきだと考えていた。そこで、まず経済学を構築する構想をもって、当時重農主義経済学のさかんなフランスを訪問することにしたのである。スミスは「一国の富は土地の生産物ではかられる」という考えやレッセフェ−ル(自由放任)を学び、「経済の循環=再生産」構想を練り始め、「独立生産者の目」、道徳哲学を後退させて、「価値論と再生産論」という純経済的性格を強めていった。表面的にせよ経済学から道徳倫理を後退させたのは、スミス自身であったことに留意しなければならない。
このブルジョア経済の展開、市民社会の展開を踏まえ、スコットランドのイングランドによる植民地収奪への危機感から、富国の源泉は重商主義的貿易や農業という産業部門ではなく、労働にあるとして、重商主義の根本的批判を目指して、1776年に『国富論』を刊行したのであった。おりしもアメリカ独立戦争が展開していた。
彼は、「あらゆる国の政治経済学の大目的はその国の富と力を増進させることであ」り、「政治家または立法者の科学の一部門と考えられる政治経済学」の二目的は、「人民に豊富収入または生活資料を供給すること、‥国家すなわち公共社会に、公共の職務を遂行するのに十分な収入を供給すること」であるとした。第一篇から第四篇は、人民に富を提供する政治経済学第一目的を扱い、第五篇は国家に収入をもたらす第二目的を扱っている。スミスは富が増加すれば貧困も無くなり、公共政策を実行する財政的基礎も確保されるというのだが、その富が貧困を生んだのだという認識が欠落していた。
こうして、スミスは、道徳哲学を基礎としつつも、現実の経済叙述の性格が濃厚となり、「国富論」では、「人類社会あるいは宇宙体系の調和的発展が、慈愛深い神の手によってではなく、すべての個人の自己保存活動によって、可能になる」(水田洋「解説」[『国富論』下、河出書房、昭和40年、413頁])とした。だから、「神の手」は「第四篇 政治経済学の諸体系」において、各個人の勤労が「公共の利益」を考慮せずに「生産物が最大の価値をもつように方向」づけても、「みえない手にみちびかれて、かれの意図のどこにもなかったひとつの目的(「社会の利益」)を、促進するようになる」(上、376頁)とするにとどまった。スミスは、同感でもって「利己心の作用する世界」を考察し、それを規制することはなかったのである。彼は、同感という「自然社会」の「本性」で経済社会を規制することを提示しなかったのである。道徳家が経済を探求してゆくうちに、「経済」の本質を根源的に見ることなく、あたかもミイラ取りがミイラにとりこまれるように、「経済」現象に取り込まれる大失敗を起こしてしまったのである。おおきな間違いを犯したのである。スミスは、道徳の専門家ではあっても、「経済」は素人だったのである。
以後、経済学はこのスミスに影響されて、「市民社会では、その富の配分が絶対主義国家に搾取されずに市民にもたらされるからいいことなんだ」ということを自明の前提として、欲望を持った経済人が措定され、富の研究を扱うものとされてしまった。
マルクス この御用学問を批判したのがマルクスであったが、かれもまた社会主義という「御用学問」の立場から批判したのであった。マルクスは、類的存在としての人間に着目したが、それは所詮「富社会の人間」にとどまった。マルクスは、「人間は対象的世界を改作することによってはじめて、現実的に類的本質存在としての自分を確証する」が、資本主義社会では「人間の類的本質存在が人間から阻害されている」(三浦和男訳『経済学ー哲学手稿』[『マルクス 経済学・哲学論集』世界の大思想Uー4、河出書房、昭和42年、103−4頁])とした。資本主義を批判こそしているが、それは不徹底であり、自然に働きかけて人間は類的存在になるという「人間」観や、それを前提とする社会主義権力の統治策という点においては、ブルジョア経済学と同じ地平に立っているのである。自然に働きかけなくても、人間は類的存在なのであり、自然の一部としての類的存在なのである。マルクスは、この自然観・人間観の根源で間違っていたのである。
だからこそ、学問的傾向ある「真面目な人々」がこうした経済学に飛び込んで「おかしさ」に覚醒すると、そもそも経済学とは一体何なのかという問題に直面する。中には「経済学なんて金儲けの手段でしょう」などと言われて、「義憤」を覚える人もいる。だが、この問題を人間論・学問論として展開できない人々は、「経済学とはどういう学問か、という問題を考えるよりも前に、いったい、なんのために経済学を勉強しようとするのか」という「まず経済学ありき」と開き直りがちである。だが、これでは総合的・根源的分析方法、人間論がないのであるから、ただ漠然と「経済学の歴史を振り返って考えてみよう」ということになり、重商主義・スミス・マルクスの考えを紹介するのがせいぜいとなるのである(例えば、時永淑『経済学の考え方』法政大学出版局、1987年)。そこには独創的な学説を展開するなどという意欲は見られず、近現代社会の「経済学説」を「紹介」するのが「学問」なのだということになるのである。
こういうありきたりの方法に満足できない人々が、今の経済学がおかしいのは人間がいないからだとして、既存経済学に人間を蘇らせようとするのである。それが、「経済学における人間の復興」・「人間のための経済学」(例えば、岡田純一『経済学における人間像』未来社、1964年;西川潤『人間のための経済学』岩波書店、2001年;川田順造『文化としての経済学』山川出版社、2001年など)となり、さらには「経済人類学」(例えば、野口建彦ら訳、カール・ポラニー『大転換』東洋経済新報社、昭和50年、湯浅赳男『経済人類学序説 マルクス主義批判』新評論、1984年など)とか「仏教経済学」(駒沢『仏教経済学研究』に掲載されて拙稿など)などとなるのである。だが、いずれも成功していない。筆者は、経済学にこだわる必要は無いと思うが、しいて経済学を構築するならば、「自然経済学」こそが総合的・学問的なる方法にもとづく経済学と考えている。「権力経済学」が権力の富の蓄積を主とする経済学とすれば、「自然経済学」とは自然の下で自然の一部としての人間の生活のための経済学となる。
文学 文学の扱う人間もまた多くがこうした既存経済学と同じである。なぜなら、それは、存在における人間を扱うから、結局は富社会のそれぞれの時期の汚れきり、悩みぬく「生の人間」を扱うことになり、それこそが人間の本質だとか人間性の発露だとするからである。実存的人間というものも中にはあるにはあろうが、それまた「富社会の実存」にとどまり、自然社会まで思い及ばない「偏見に満ちた富社会の人間」の描写か、初めから娯楽作品をめざすにとどまるのである。
この点、『万葉集』(村木清一訳『万葉集』上下、筑摩書房、昭和50年)は世界で唯一、まだ「自然社会」で歌われていたであろう人間の心を受け継ぎ、反映していて、まさに世界最高峰の文学たりうるものとなっている。自然社会で、人々は自然と人間の関係(天変地異)やそれに包まれた人間と人間との関係(生死・恋愛・結婚)において、歌で時には恋心や愛情を確かめ合いつつ、恐怖・悲痛・緊張などを和らげようとしたのであろう。『万葉集』には、この自然社会の歌の心が受け継がれているのである。
富社会では、恋心・愛情などは変わらないが、富をめぐる軋轢が激しくなる分、恐怖・緊張はますます多くなろう。紀貫之が、『古今和歌集』のかな序で、「(和歌は)・・・力を入れずに天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれとおもわせ。男女の仲をも和らげ、猛き武士の心も慰めるは歌なり」と述べている通り、自然社会の歌の心は富社会の軋轢の緩和にも受け継がれていったのである。富社会では、「いにしへの世々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、さぶらふ人びとを召して、事につけつつ、歌をたてまつらしめたまふ」と述べているように、大王・天皇が歌会を催して、権力者集団の統合を図っていたのである。『古今和歌集』も醍醐天皇の勅命で編纂されたものであった。こうして、貴族らは、技巧をめぐらして、貴族集団の政治的統合に和歌を「悪用」したのである。
にも拘らず、自然社会の歌の心は、『万葉集』などを通して、例えば高浜虚子の自然主義俳句などに力強く受け継がれていったというべきであろう。
概して富社会では「偏った学問」がなされているのであり、これへの懸念・批判は自然社会の観点からのみ適確になされるということである。福岡正信氏が、「とにかく人智をつけることが教育、学問だと思っていますし、何か動くことが働くことだと思っている」が、重要なことは「人智の智恵の垢を学校へ行ってつけるのではなく、取り去る、白紙にする、澄みきった心にする」ことであり、「明鏡止水の心になったとき、本当の自然、本当の緑が映り」「本当の智慧を得る」と指摘される。福岡氏は、この観点から、「カントが時間と空間の直観形式などといって色眼鏡をかけ、さらに判断力とか純粋理性などという言葉を言いだして智慧を一杯つめこんだ」と批判する。そして、「いまは、自然に還る、神に還る時代に来ているのではないか。科学と自然との対決ということではなく、・・科学と宗教が本当の対話をしなければいけない時期に来ている」(『<自然>を生きる』春秋社、1997年、30−31頁)とする。けだし名言というべきである。
(2)、拙稿「動物と富」参照。人間とは動植物など自然の一部であり、類人猿と似ているから、類人猿と比較して、「類人猿のこうした行動は人間とそっくりだ」などいう研究はもはや余り有意義と思えない。あくまで、動植物など自然の一部として人間を把握し、どの点で人間は自然と違うのかという事を考察するべきであろう。
もっと拡げて、人間と生物・無生物とはどこが異なるかと考えると、遺伝子・アミノ酸・拡散など「あらゆる物質の究極の世界は素粒子」であり、この根源では「生物も無生物も生も死も同体」(『<自然>を生きる』春秋社、1997年、137−8頁)となる。根源では違いなどないのである。
その上で、今ここでは、人間と生物・無生物との相違を人間と動植物などとの相違に絞り込んでいるのだが、それは、人間だけが「富と権力」を作り出してしまったということである。すべての問題はここから発するのである。
「富と権力」のシステムの帝国主義的危険性 人間は、「生まれ、食料をめぐって争い、殺し合い、死ぬ」、この点では動物とは変わらない存在であるが、その過程で動物以上に脳が適応して、共存のための方便として、言葉、愛、妥協、憐れみ、自己規制などを身につけつつも、隣の人間との係わり合いから、生きながらえるために強くなろうとして、武器を蓄え、人を殖やし、権力を築き、その基礎が富と認識し、「富と権力」を築いてゆくのである。
ヘーゲルは、ギリシア(「自己意識的理性の実現という概念が完全に実在している」古典古代)を意識して、「内なる精神を、既に成長して実体になったもの」として「人倫の国」(「諸々の個人が自立的な現実のうちにありながら、自らの本質が絶対的精神的な統一をもっている」国[樫山欽四郎訳『精神現象学』河出書房新社、1975年、207頁])をあげて、国家を精神的に「美化」してしまった。ヘーゲルはギリシアが奴隷制によって成り立っていた国であることを忘れたのであろうか。権力が富を基礎とし、富の増大を求め続ける限り、「人倫の国」などはありえないのである。「富と権力」は、発生論的には、生き残るための動物的防御本能の発露でしかなかったが、動物の域を越えて、それが肥大化する過程で攻撃性を帯び、多くの人類を殺し、今また自然をも殺し、自らの生きる土台を自ら崩しはじめているのである。これが、「富と権力」の誕生以来発動されてきた「帝国主義」の正体であり、近現代に固有のことではないのである。
ギリシア民主制の帝国主義的危険性 さて、ギリシア民主政について、その限界・危険性を少し触れておこう。なぜなら、周知の如く、「いまも私たちが用いている思考のカテゴリーをはじめて確立したのが、ギリシア人であ」り、「私たちは、そうした知的道具の本質的なものではなく、道徳的原理もギリシア人に負ってい」(フランソワー・シャムー、桐村泰次訳『ギリシア文明』論創社、2010年、はじめに)て、ギリシア文明は現代欧米文明の母胎とされているからである。
だが、あくまでこれは欧米人の発想である。欧米人が自分たちの文明の優越性を半ば「自慢」しているかである。だが、はたしてそうなのか。正確に言うならば、ギリシア文明は欧米帝国主義の母胎であったというべきであり、筆者はすでに学問方法論ではギリシア学問に帝国主義の危険が孕まれていた事を指摘した(拙稿「古今東西の学問方法論」)。ここでは、学問方法論のみならず、現実の政治経済において、ギリシアが欧米帝国主義の母胎であったことにふれておこう。
古代においてギリシアに帝国主義(植民地主義)が発生する理由は、ギリシアの自然と経済にあった。ギリシアでは、@山地が多く食料としての小麦が不足がちであり、「ギリシアが輸出できるのはワイン、オリーヴ油、香水、陶器、金属製品といった複雑な技術を要する製品で、他方、第一次産品、とりわけ小麦は輸入に頼らざるをえな」くなり、ここに「穀物生産の貧弱さは、ギリシアの上に絶え間ない飢饉の脅威を与え」、「人口が少しでも増えると、たちまち土地不足に陥」り、Aしかも、農民・市民の間に軋轢が生じると、「身分の高い連中は、賄賂によって心を動かされ」、「正義が尊重され」ず、これが「ギリシア都市における社会的抗争の源泉」となり、「次の世紀には、この社会的抗争が、遠い異国の地への大規模な植民の企てと、深刻な政治的動乱へと発展し」(フランソワー・シャムー『ギリシア文明』55頁)、B前750−550年の大殖民時代に、「ポリス内部の人口の増大」への対処と「商業の関心」から、「地中海岸から黒海海岸」の「オリーブの適地」に植民活動が展開され、新しいポリスが誕生したのである(村川賢太郎編集『世界の歴史』2ギリシアとローマ、中公文庫、1998年、39頁)。確かに、「ギリシャの植民都市は、近代の帝国主義的植民地とは全く異なり、植民者からなる独立した都市国家」(ピエール・レベック『ギリシァ文明 神話から都市国家へ』、82頁)ではあり、資本輸出などは随伴しなかったが、他国の侵略と略奪と言う点では同じである。
前508−前322年にアテネに民主政ポリスが誕生したが、これもこうしたギリシア帝国主義のもたらしたものである。確かに、アテネ民主政は、ペルシャ侵攻危機、スパルタとの対立に直面しつつ、「アテネの黄金時代と言われるペリクレスの時代に、ついに名実ともに完成」澤田典子『アテネ 最後の輝き』岩波書店、2008年、15頁)したものであり、「アテネ民主政は、アルゴスやマンティネイア、シラクサなど、他のポリスでも達成された民主政に比べ、極めて安定して持続した典型的な民主政であり、世界史上稀に見る徹底した直接民主政だった」(16頁)のである。
だが、アテネ民主政には、基本的人権とか民衆の幸福のための統治という視点はなく、それは特定資産家集団が富蓄積にふさわしい国家形態として生み出したものであり、「少数者の独占を排し多数者の公平を守る事を旨」(ペリクレス葬送演説[澤田典子『アテネ民主政』講談社、2010年、257頁])としたものである。あくまで、土地・資産をアテネ市民(4万人)の間で「帝国主義的な外国侵略・搾取と奴隷搾取」(前432年頃.奴隷11万人[(フランソワー・シャムー『ギリシア文明』349頁)])で公平に富増殖をはかる国家形態として、専制国家(寡頭政権・僭主)ではなく民主国家が一時的によいと思われたにすぎないものであった。運営する権力側では、専制国家よりはベターとして選択したに過ぎないのであり、奴隷制維持、帝国主義的植民地建設では、民主政は専制国家となんらかわらないものなのである。「民主政完成期にあってもなお、名門貴族たちの営みの場」(澤田『アテネ民主政』258頁)であり、しかも、この180年間には、民主制とは似つかわない僭主制(前411年 400人政権、前404年 30人寡頭政権)などもあったのである。「ギリシア都市は、民主的国家を自称している場合でも、本質的には貴族制的特徴をもっていた」のであり、「<デモクラシー>と<貴族制>という概念も、ギリシア人にあっては、大なり小なり市民団に関わっているかどうかについて言っただけで、こうした市民団も住民の大多数を含むには程遠く、少数の特権階級の代表にすぎなかった」(フランソワー・シャムー『ギリシア文明』346頁)のである。市民とは「土地や家屋など不動産を所有している人々に限られ」、奴隷が市民と同数かそれ以上いたのである(フランソワー・シャムー『ギリシア文明』346−7頁)。
しかも、資産家には各種の特権があって、市民ですら完全に平等というわけではなかった。例えば、市民にはトリエラルキア(三段櫂船艤装奉仕義務。「公共奉仕のなかで最も重い義務」だが、「この義務を立派に果たすことは富裕市民にとって大きな名誉であり、政界で頭角を現すうえでも有効な手段」)、アテレイア(公共奉仕免除の特権)などの特権があった。
そもそも、当時のギリシアでは、アテネ・スパルタ・テーベとペルシァの対抗軸に、ギリシア・ポリス間の抗争が複雑に絡まりあって、戦争は常態化しており、帝国主義的膨張主義に絶えず貫かれ、ストラテゴス(将軍)は「最大級の危険と名誉」(澤田『アテネ民主政』223頁)を併せ持つ極端なポストであった。英雄・戦功者が裁判で訴追されて処刑されることもすくなくなかったのである。しかも、アテネ軍事力が衰退してゆくと、「ストラテゴスは政治指導者」たりえず、「国際的な一大勢力」たりえなくなった。
従って、我々は、アテネ民主政とは軍事的性格が濃厚なものであり、そこに帝国主義的民主政の原型というものを見出しておいたほうが適切だということである。「ヨーロッパで人々の集団が初めて帝国を作ったのは、古代ギリシャの時代だった」(アンソニー・バグデン、猪原えり子訳『民族と帝国』講談社、2006年、24頁)のであり、「古代ギリシャは慢性的な戦争状態にあ」(澤田典子『アテネ 最後の輝き』岩波書店、2008年、1頁)り、ポリスは「軍事防衛共同体」(澤田典子「『戦争の西洋的流儀』によせて」[ハリー・サイドボトム、吉村忠典ら訳『ギリシャ・ローマの戦争』岩波書店、2006年、165頁])であり、「正面からの決戦によって敵の全滅を目指す」流儀で、「理想的には政治的自由を有する勇敢な重装歩兵(「鎧、甲、臑当てを身につけ、楯、槍、剣を備えること」[『ラスケ』訳注、『プラトン全集』4、角川書店、1973年、442頁])による白兵戦」(ヴィクター・ハンソン、The western
way of war, Oxford,1989[澤田典子「『戦争の西洋的流儀』によせて])を重視していた。これは、民主制国家のもとで世界に強大軍事力を配置し、重装備海兵隊を緊急即応部隊とし、重装備部隊(空挺部隊、陸軍)を後続部隊とするアメリカを彷彿とさせないか。我々は、ここから、「民主政という統治形態が重要なのではなく、統治の民主的運用こそが重要なのである」ということを学び取るのである。
しかも、ギリシァ民主制とは、他にもあった「都市国家から領土国家に移行する過渡期」(例えば、中国については、貝塚茂樹『古代文明の発見』[『世界の歴史』1、中央公論社、昭和42年]101−166頁、参照)において、奴隷制と帝国主義搾取にふさわしい統治形態の一つとして登場した「あだ花」であった。このようなものを「過大評価」することはできないのである。
諸問題の連続の歴史 そもそも、「富と権力」のシステムとは、政治的・経済的諸問題の連続の歴史であり、権力の興隆・矛盾・衰退の繰り返しなのである。そして、諸問題を根本的に解決する国制もなければ、政治的リーダーなどもまた一人としておらなかったのであり、欧米がよく提起する「民主制でのリーダー」論ほど非学問的議論はない。例えば、今の経済的混乱をIT時代の過渡期に政治が追いついていないからだとか、ふさわしい政治的リーダーがいないからだとかいう議論にすりかえるものがいる。だが、今の時代も過去の時代にも諸問題を根本的に解決したリーダーなどは一人もいないのである。数千年に及ぶ「富と権力」のシステムのもとでは、諸問題の先延ばしを図るしかなかったのであり、一見解決したように見えても、実は既にそこに新しい問題の萌しを孕んでいたに過ぎなかったのである。現在、我々は、諸問題の根源を把握して、根源的に解決するにはどうすればいいかを、学問的に考えるべき時期に入ったように思われる。
諸問題解決の原動力 確かに我々は動物の中では一番濃密に作用する脳体系を持ち、共感・同情・憐憫など相手をいたわる脳領域を持ってはいるが、人間の歴史はもとより自然、宇宙の摂理を学べば学ぶほど、人類ぐらい愚かな生き物はいないことに気づくのである。すべての問題の解決は、この自覚と反省から発するのである。個人の力では「富と権力」システム下の諸問題を根源的に解決することなどはできないのである。では、その諸問題を根源的に解決するものとは何か。民衆である。ごく普通の民衆なのである。
民衆こそが、平和で経済的に平等な世界をつくりだす原動力であり、「富と権力」のシステムを変革する根源的力なのである。民衆は確かに愚かかもしれないが、では、政治家・官僚が賢いかというと同じように愚かであり、新たな諸問題を生み出し続け、いまだに生み出し続けているという「愚か者」なのである。それに比べればはるかに賢い民衆は、権力者の「統治秩序」ではなく、ごく普通の生活を維持するために自然に生じる秩序を維持するのである。ホッブスは絶対主義肯定のために、自然状態では「万民の闘争」となって民衆は混乱を生み出すとしたが、そんなことはないのである。民衆は、自分たちの生活を守るための「生活者の秩序」を自然につくりだすのである。民衆は、自然の一部にしかすぎない人類の日々の生活の平和的持続を切実に願い、この切実な願いが市民・市民諸団体・NGO・NPOなどの民衆を糾合し、さらにはインターネットなどで世界の民衆の連帯を可能とし、「国際民衆連合」・「国際民衆軍」・「国際民衆警察」などを通して新しい世界秩序をつくりだすのである。こうした内外の民衆の幅広い連帯こそが、「富と権力」の「帝国主義」的横暴を抑え込み、個別国家を変容させ、「富と権力」のシステムに大きな改変を余儀なくしてゆくであろう。もう権謀術数、脅し、諜報、駆け引きなどの従来の下らぬ外交交渉などではなく、真に平和と友好と厚誼(相手の喜び、幸せが自らの喜び、幸せであるということ)をごく自然に希求する民衆こそが新しい国際秩序を作ってゆくべき時代が到来したのである。
現在、筆者はこの実現のための行動プログラムの一環として、共に学び共に考える塾(無料・定員少数)の設置によって、世界的視野をもった「変革担い手」の育成を真剣に考え始めている。
(3)、周知の如く、欧米人にとっての「万学の祖」アリストテレスは世界で初めて、人間を動物に含めて、体系的な動物研究を行なって、『動物論』三部作を著した。このアリステレスが、これらの書物で、「人間は動物と一体どこが異なるというのか」、「なぜ人間だけが富を求め出したのか」、これらの問題に答えていたのかどうかを、ここで吟味することは、頗る興味深いことである。上記(2)とも重複するが、ここではアリストテレスに絞ってみておこう。
その前に、メソポタミア文明では、「人間と動物の比較研究」がなされていたのかどうかについて瞥見しておこう。古代バビロニアの哲学者は、「何故人間が動物より優れていて、しかもなお神ではないのかという問題」(E.キエラ、板倉勝正訳『粘土に書かれた歴史ーメソポタミア文明の話ー』岩波書店、昭和33年、134頁)に取りみ、彼らは、「両者が密接に関係」をもち「本当の差異はただ人間が賢いということだけ」であることを知りつつ、賢さでは人間は神に近く、死ぬ点では動物にちかいとした(キエラ前掲書、129頁)。そして、彼らは、「最初の人間をつくる際、神の血と地の粘土をまぜあわせて創造した」からだとして、人間の「宗教的」把握にとどまっていた。
それに対して、アリストテレスは、動物・植物を「自然学」的に考察したのである。まず、アリストテレスは、「『自然学』で明らかにされた運動法則を・・・天体に適用してその運行を論じ」(泉治典『気象論』(『アリストテレス全集』5、岩波書店、1976年、訳者解説、211頁)、「ピュタゴラスの徒も言うように、全宇宙もその内にある万物も三(縦、横、高さ)によって限られている」村治能就ら訳『天体論』(『アリストテレス全集』4、1976年、3頁)とした。
この『天体論』執筆後に、「ホメロス、ヘロドトス等のような古典からの伝承、当時の民間人、殊に漁夫や猟師から聞いた話、彼自ら調査研究した事実の集成」(『アリストテレス全集』7、岩波書店、1976年、訳者序D頁)を根拠に、人間を動物の一部に位置づけ、人間の特性を明らかにしようとして「まず各類の動物に見られる現象をあげ、つぎにその原因をのべ、生成を論じると言う順序」(『動物部分論』1−1)(『アリストテレス全集』7、岩波書店、1976年、訳者序B頁)で、『動物誌』『動物部分論』『動物発生論』を執筆した。
『動物誌』は、「動物体の諸部分の比較による分類に始まり、形態、生殖、発生の諸現象と生態、心理、病理等の諸現象の記載」、動物体の質料を記載し、『動物部分論』は「動物の部分に関する原因論」、「『動物誌』に記載された諸部分に働く諸原因を、目的因を中心として論じ」、『動物発生論』は「『動物部分論』において取り扱わなかった部分(生殖器官及び組織と胚の体)の論議」、「幼体の生成過程」を論じた。
アリストテレスの自然にアプローチする一般的方法論とは、「自然は・・『同一の部分をいろいろな目的に用いる』」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年、320頁)とし、「自然は何物をも無駄には作らず、いつも動物の各類の本質につい可能なものの中で最良のものを作る」ということが「自然の営みのすべてに通ずる原理」(島崎三郎訳『動物進行論』[『アリストテレス全集』9、1976年、42頁])とし、「自然は常に各事物の過多を矯正するために、それと対立するものを併置して、一つが他の過多を平均化するように工夫」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年302頁)して、「熱い」「骨髄」と「冷たい」「脳髄」とのバランスがとられるとした。「天界では偶然性や無秩序などから起こるようなことは何も見られないのである。またおよそ何か或る終点(目的)があって、妨げるものがなければ運動がそこに到達すべき場合には、われわれはいつでも『これこれ(運動)はこれこれ(終点)のため」というのである。したがって、何かそういった或るものが存在することは明らかであって、これこそわれわれが『自然』と称するものなのである」(271頁)とし、「この考え方(『本質』の考えや『実体』の定義)はソクラテス時代になると発展したが、自然に関する事物を探究することはすたれ、哲学する人々は人生に有用な徳や政治の方に傾いてしまった」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、272頁)。アリストテレスが自然の現在の姿には無駄はないとみたことが欧米で進化論登場を遅らせたともいわれる。だが、自然には無駄なものは一つもないというのはアリストテレスの卓見であり、これに時間的推移を考慮して、「適化」作用を加味すれば、ここに自然の推移が合理的に把握されるのである。学問的に適化論を取る我々にとって、無駄なものはないというアリストテレスの卓見は大いに注目すべきである。
そして、アリストテレスは、自然を天体と動物・植物という2種類にわけ、「自然によって存立する実体には、永遠に不生不滅のものと、生成消滅に与かるもの」とがあるとした。後者の「かの崇高で神聖な存在(天体)については、我々はかえって不完全な考察しかできない定めになっているが、生滅すべき植物や動物については、それらがわれわれともに生育するものであるために、認識の手段はむしろ豊富であ」り、「充分な努力さえ惜しまなければ、この類についても多くの事実を把握することができるであろう」とした。そして、「後者については、われわれの推測できるかぎりを述べて、一応すませておいたので(『天体論』)、残るところは動物界について述べることであるが、下等なものであろうと高等なものであろうと、何物をもできるかぎり無視しないつもりである」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年、281−2頁)として、動物について「多くの事実」を集めて考察するとした。
アリストテレスは、当時の人々が人間を最優秀と見て、動物研究を軽視しがちなことについて、「もしヒト以外の動物の考察はくだらないとおもう人があるとすれば、その人は自分自身についてもそう考えないわけにはいかないはずである。なぜなら、誰でも人体を構成する血、肉、骨、血管等のような部分を見れば、激しい嫌悪の情を禁じえないからである。」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、282頁)と批判した。さらに、人体解剖などが行なわれず、「人体の内部は動物中でも最も知られていないものであって、そのためにヒトの性質に近い他の動物の内部に戻って調べなければならない」(島崎三郎訳『動物誌』上(『アリストテレス全集』7、岩波書店、1976年25頁)と、人間研究の遅れを動物研究で挽回しようとしていた。
彼は、「まずすべての動物に共通な活動と類的な活動と種的な活動を述べなければならない。共通な活動とは、すべての動物に認められるもののことで、類的な活動というのは動物間で互いに過不足の差が或るだけのものである」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年284頁)と、動物全般の活動を普遍的・類的・種的に把握しようとした。
そうした中でも、アリストテレスは、遅れた人体研究を推進するためにも、人と動物との異同を随所に指摘する。例えば、@共通点ー「サルやオナガザルやイヌザル(ヒヒ)」は「ヒトと四足類の性質を兼ねている」(島崎三郎訳『動物誌』上(『アリストテレス全集』7、43頁)、「人類も、鳥類も、胎生および卵生の四足類も、目には保護する被いがついている」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年315頁)、A相違点ー「すべての動物にはヒトの胸に相当する部分があるが、胸には似ていない。というのはヒトの胸は広いが、他の動物のは狭いから」(島崎三郎訳『動物誌』上[『アリストテレス全集』7、岩波書店、1976年33頁])、「胎生四足類はすべて毛深いといえるが、ヒトは毛の生え方が違う。ヒトは頭以外は毛が少なくて短いが、頭は動物中で最も毛深い」(島崎三郎訳『動物誌』上[『アリストテレス全集』7、34頁])、「乳房と交尾に役立つ器官についてみると、ヒト以外の動物では彼ら相互間でも、ヒトと比べてみても、甚だしい差異がある」(島崎三郎訳『動物誌』上(『アリストテレス全集』7、37−8頁)、「ヒトは成人では上体が下体より小さいが、他の動物では反対である」(島崎三郎訳『動物誌』上[『アリストテレス全集』7、39頁])、「頭蓋骨の鋸歯状の部分を縫合線という。この部分はすべての動物で必ずしも同様ではない。すなわち、イヌのように頭蓋骨が一枚の骨でできているものと、ヒトのように骨の集ったものとあり、さらにヒトでは女は縫合線が円になっているが、男では三本の縫合線が上の方で接し、三角形になっている」(島崎三郎訳『動物誌』上[『アリストテレス全集』7、77頁])、「ヒトの皮は体の大きさの割りにあらゆる動物中で最も薄い」(島崎三郎訳『動物誌』上[『アリストテレス全集』7、81頁])、「体に毛の生えた動物(哺乳類)のまぶたにはまつ毛があるが、鳥類や被甲類(爬虫類)には、まつ毛はない。・・毛の生えた動物の中でも上下の両まぶたにまつ毛のあるのは人類だけである」(島崎三郎訳『動物部分論』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年、317頁)、「ヒトの頭は動物の中で最も毛深いが、これは脳髄の液状であることと、頭蓋骨の縫合線のために必然的に起こる結果であって、寒暑の過剰を避けることによって内部を保護するためでもある。人類の脳髄は最も大きくて、最も液状であるから、最もよく保護される必要があるわけである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、318頁])などである。共通点より、相違点の指摘が多い。
時に、アリストテレスは、動物にも人間の優秀性が認められるとする。例えば、「馴致性と野生、柔和と激情、勇敢と臆病、恐怖と大胆、剛直と卑劣、および知的理解力を思わせるような諸性質が、多くの動物に認められるからで、このようなヒトとの類似性は(身体の)部分についてすでに述べたところと同様である。すなわち、或る動物はヒトに対し、またヒトは多くの動物に対して程度の差で異なり(なぜなら、こういう性質の中の或るものはむしろヒトにより多く、また或るものは他の動物により多く認められるから)、或る動物は対応的に異なる。というのは、ちょうどヒトに技術的知識や理論的智慧や理解力があるように、或る動物には何か他のこういった生まれつきの能力が備わっているからである。この点は(ヒトの)幼年期を一見すればよく分かる。すなわち、・・・この時代の霊魂は野獣の霊魂といわば何の違いもないので、他の動物に、あるいはヒトと同じ性質、あるいは似た性質、あるいは対応的な性質が認められるとしても、何ら不合理ではないのである」(島崎三郎訳『動物誌』下(『アリストテレス全集』8、3頁)と、動物にもそれにふさわしい「技術的知識や理論的智慧や理解力」があるとするのである。彼は、「動物の性格は、人目につかない、短命の動物では、長命のものほどはっきりと認知することができない。長命の動物は霊魂の各状態(すなわち、思慮分別と単純無分別、勇敢と臆病、柔和と激情等のような心的態度)に関して一種の自然的能力をもっているように見えるからである。或る動物はそれと同時に学習や教育の能力も与えられており、それも動物相互間の場合と、人間からも教育を受ける場合とあって、これは聴覚を有する動物に限るが、それもただ単に音を聞くことができるばかりでなく、(声や身振りで)示された意味の違いをも判別しうるような動物のことである」(島崎三郎訳『動物誌』下[『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年、52頁])、動物の自然的能力・学習能力に言及する。
また、アリストテレスは、人間特有の性質として、@生殖面ー「体の大きさの割りに精液を最も多量に出すのはヒトである」(島崎三郎訳『動物誌』下(『アリストテレス全集』8、95頁)、「ヒトは、男は最年長七十歳まで生殖するが、女は五十歳までである。しかしこんな場合は稀で、実際こんな年齢で子供の出切る人はわずかであるが、通例男では六十五歳、女では四十五歳が限界である」(島崎三郎訳『動物誌』下[『アリストテレス全集』8、146頁])、A感覚面ー「人類の肉は最も柔らかい。これは人類の触覚が動物の中で最も鋭敏だからである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、321頁])、ヒトは、遠くからの諸感覚の精度については、体の大きさのわりにはしては動物中で最も劣るといえようが、相違の判別に関する制度については、あらゆる動物中で最も感覚が鋭敏である。その理由は、ヒトは感覚器が純粋で、最も土質でなく、物質的でえなく、本性上、体の大きさのわりにしては皮膚が動物中で最も薄いからである」(293頁)、B直立歩行ー「自然的な部分がそのまま自然的な位置をとっているのは人類だけであって、ヒトの上体は宇宙の上部を向いているのである。すなわち、動物の中でヒトだけが直立しているのである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、311−2頁])、「唯一の直立性動物であるヒトの脚は体の上部に比べて有足動物中最大で、最強なのである」(島崎三郎訳『動物運動論』[『アリストテレス全集』9、1976年、56−7頁])、C言語面ー「声と音とは別のものであり、言葉はまた別のものである。ところで声をのど以外の部分で出す動物はない」(島崎三郎訳『動物誌』下[『アリストテレス全集』8、122頁])、「これ(言葉)はヒトに特有なものである」(124頁)、「ヒト以外の動物では、唇は歯を保護し防衛するためであり、それゆえ、唇の分化の程度も、歯が精細に巧妙に出来ているかどうかによる。ヒトの唇は軟らかくて、肉質で、開くことが出来て、むろん他の動物のように歯の防衛もするが、むしろもっと高級な目的のためにある、といった方がよい。すなわち、会話にも使われるからである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、321頁])、D思考面ー「思考はヒトにしかないのである。そこで、すべての霊魂が生体を成すのではなく、その中の或る一部、あるいは若干部にすぎないのであるから、自然学もすべての霊魂について述べるべきでない」(270頁)、E善く生きる面ー「ただ生きていると言うことのほかに感覚を有する動物では形態がはるかに多様で、種類によって程度の差はあるが、その本性がただ生きるためだけでなくよく生きることであるようなものではことに多種多様である。こういうのが人類なのである。なぜかというと、我々の知っている動物の中で人類だけが神的なものに与かっている、といって悪ければ、少なくともすべての動物の中で最も高度に与かっているからである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、311頁])、などと指摘する。
アリストテレスは、人間の脳・頭について、@脳髄の発生論的特徴(「始めのうちは脳髄が大きいために頭は(身体の部分の中で)最大であり、目はその中にある流動体のために大きく見える。目は最後に完成するが、これは(その主体である)脳髄も形成が困難であるためである。現に脳髄がそれほど冷たくなくなり、流動性でなくなるのはずっと後のことであって、これは脳髄のある動物ならすべてその通りであるが、ことに人類では著しい。そのために前頭骨(大泉門)は骨の中で最後にできるのである。すなわち、胎児が生まれ出て後も、(幼児では)この骨は柔らかいのである。この点がとくに人類において著しいということの理由は、人類の脳髄が動物の中で最も流動性で最も大きいことであるが、さらにその理由は、心臓内の熱が最も純粋であるということである」(島崎三郎訳『動物発生論』[『アリストテレス全集』9、1976年、186頁])、A頭に肉がない理由(「ヒトの頭に肉がないということは、・・この部分を真っ直ぐに立てていなければならぬからである。すなわち、頭に肉がついていれば、それが重荷となって持ち上げられなくなるのである」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、312−3頁])、B脳髄の重量の特徴(「動物の中で、体のわりに最大の脳髄を有するものはヒトであり、ヒトでは、男のものの方が女のものより大きい」(島崎三郎訳『動物部分論』[『アリストテレス全集』8、304頁])、などを指摘した。
アリストテレスは、人間と動物の行動を比較して、@寒暖と居住場所(「動物の行動はすべて交尾や産児や食物の獲得に関係があり、また寒さや暑さや季節の移り変わりに適応している。すなわち、すべての動物は暑さ寒さの移り変わりについて生来の感受性があり、ちょうど、ヒトも或る人々は冬には家の中に移り、また広い地方を所有している人々は涼しい所で夏を過ごし、暖かい所で冬を過ごすように、動物も住む場所を変えることのできるものは、そうするのである」[23−4頁])、A動物の縄張り(「同じ場所を占め、同じ物を食べて生きている動物では、相互間に闘争が行なわれる。なぜなら、食物が乏しければ、同族のもの同志でも闘うからで、現に同じ地域のアザラシも、雄は雄同志、雌は雌同志、一方が他方を殺すか、追い出してしまうまで闘うといわれている」[島崎三郎訳『動物誌』下,『アリストテレス全集』8、53頁]、「野生動物の中の或るものはいつも互いに敵対関係にあるが、或るものは、ヒトとヒトの場合のように、偶然にそうなるのである」(島崎三郎訳『動物誌』下[『アリストテレス全集』8、57頁])などを明らかにした。
アリストテレスは、『動物運動論』で、「動物体は良政下の都市国家のように組織されているものと考えねばならない。すなわち、都市国家では一度秩序が確立されると、各事件に立ち合うための分立した君主などは要らなくなり、各個人は自分にあてがわれた仕事を規定通り行い、事件は習慣に従って次々と起こっていくのであるが、動物体では同じことが自然によって行なわれ、かくのごとく組織された各部分が自己の務めを行なうようにできているので、各部分に霊魂のある必要はなく、霊魂は体内の一定の起源にあり、他の部分はここに続いていることによって生き、自然の命じるままに自己の務めを果たすのである」(島崎三郎訳『動物運動論』[『アリストテレス全集』9、1976年、18−9頁])と、動物体はポリスの自動的調整機能をするとする。
アリストテレスは、『動物発生論』では、@動物の雄・雌と大地・宇宙(「全世界(宇宙)の場合においても、大地の本性が雌であるとして『母』とも名付け、天界と太陽または他のそういったものが子を産むもの(雄)であるとして、『父』とも呼ぶのである」(島崎三郎訳『動物発生論』[『アリストテレス全集』9、1976年、96頁])、A霊魂の有無(「霊魂は身体より良く、霊魂を持っているもの(生物)は霊魂を持っていないもの(無生物)よりその霊魂の故により良く、また存在することは存在しないことより、生きていることは生きていないことより良いのである」[146−7頁])、B生物・動物・植物(「幾分でも雌雄の原理に関与することが生きていることであり、それゆえ植物でさえ一種の生命を分与されていることになるが、感覚[脳の作用ー筆者]をもつことによって動物と言う類が成立する」[147頁])、C霊魂と精液(「精液は霊魂を持っているのか、いないのか。同じことが[身体の]諸部分についてもいえる。・・精液が可能態において、霊魂を有しかつ霊魂であることが明らかである」[156−7頁])、などに言及した。
以上より見る限り、アリストテレスは、『動物論』三部作では、「人間は動物と一体どこが異なるというのか」という問題については考察していたが(ただしあくまで付随的にであるが)、「なぜ人間だけが富を求め出したのか」という問題には答えてはいないことが確認される。実は、彼の動物論は、この三部作以外にも見られるので、次には、これで補足しておこう。
『問題集』(『アリストテレス全集』8、岩波書店、1976年)はアリストテレスの「真作」ではないが、「多くの資料がテオプラストス、ヒッポクラテス文書、後のペリパトスの徒から得られていることも明白」(訳者解説、685頁)であり、アリストテレスという「大きな幹から派生していることを認めなければならない」(692頁)ものである。この「第十巻 自然学的諸問題摘要」では、@人間が咳をするのは、「人間の脳は生き物の中では最も大きく、最も多量の湿りを含んでいるが、しかるに咳は、粘液が下に流れてくる際に生ずるためであろうか」(140頁)、A「生き物のうちひとり人間においてのみ、鼻孔から血が流れ出るのは・・・人間の脳は最大で、最も多量に湿りを含んでいるが、この脳から、脳の血管は、余剰物で充たされると、通路を通して流れを発せしめるからであろうか」(140頁)、B「何故に人間だけが癩病にかかるのであろうか。その理由は、(1)人間が動物の中では最も皮膚が薄く、同時にまた、どれよりも気息に満ちているためであろうか」(141頁)、C「生まれつき子供が両親に似ているという点では、人間におけるよりも他の生き物のほうが一層顕著であるのは何故か。或いはそれは、人間は、性交の際にその精神が種々複雑な状態におかれるが、父親や母親の精神状態如何に応じて、生れる子もまた多様なものとなるからであろうか」(143頁)とし、その他、「人間だけが身体の大きさの割りに眼と眼の間隔が最小である理由」、「人間だけが夢精する理由」、「人間が最もくさめをする理由」、「人間だけが膀胱結石に悩む理由」などが考察される。アリストテレスは医者ではないが、父が医者であったことから、幼少から医療行為を目撃し、医学的環境にあったことから、医学についての記述が少なくない。
この「第27巻恐怖と勇気に関する諸問題」では、「勇気が徳の中では最善のものと言う訳ではないのに、諸国家がそれを特に尊重するのは何故であろうか。或いはそれは、諸国家は絶えず戦争をしかけたり、しかけられたりし続けているが、この徳はそのいずれの場合でも最も役に立つからであろうか。じつに、彼らが尊重するのは、(それ自体として)最善なるものではなく、自分たちにとっての最善なるものなのである」(392頁)と、当時の彼らが慢性的戦争状態に置かれていた事を確認させる。こういう深刻な危機的状況がなければ、人間の考察などは起こらないのである。
「第29巻正義と不正に関する諸問題」では、「人間は、すべての動物の中で最も多く教育の恩恵に与かっていながら、最も不正なるものであるのは何故であろうか。或いはそれは、人間が思考能力に最も多く与かっているからであろうか。それゆえ、人間はこれまで快楽とか幸福に特によく評価の目を向けてきたが、ところがこれらのものは、不正を働くことなしには手にすることができないのである」(404頁)と、人間の快楽・幸福が「不正」の原因だとする。そして、「大抵の場合、富が、優れた人たちの許よりも劣悪な人間の許に多く存するのは何故であろうか。或いはそれは、富は盲目であるために人間の心を判別することも、最善なるものを選ぶこともできないからであろうか」(404頁)と、具体的に富が人間を劣悪にさせ、不善に向かわせるとした。アリストテレスは、人間は動物の中で富のためにもっとも不正・不善をなすことを指摘していた。大いに注目してよい。
なお、アリストテレスは『政治学』(『アリストテレス全集』15、岩波書店、1977年、24−5頁)でも富を考察している。富は、生命防衛装置としての国家の誕生を可能にする基礎であり、まさに富と国家は当初から密接な相関にあったが、アリストテレスはこれを分析せずに、これ以後に人間が貨幣による商品取引市場で富を求め始めた事情を語るにとどまっていた。ただし、アリストテレスはパレアス(カルケドンの人、国民の財産の平等論者)は「国制は戦争力を目当てに組織されていなければならぬ」ことに気づいていないと批判して、財産額は、「侵略者を防ぎ得ないにも拘らず、近隣の一層強い国々の者がそれを欲することになるほど大きくあってもならない」こと、「同等の国々や同様な国々の者との戦争にさえ堪え得ないほど小さくあってもならない」こととし、「財産の最善の限界は、おそらくそれだけの富ではより強い国が余分のものを取るために戦争をしても得がいかず、また反対に、それだけの富を所有していなければ、戦争をしかけられる恐れがあるところのもの」(同上『政治学』63頁)として、国富=財政力が戦争遂行し、戦争を敵に断念させると指摘していたことは『富と権力』野相関を確認する上で注目される。我々は、アリストテレス(及びそれを母胎とする欧米の)の基本的学問方法論などには反対するが、注目すべき事は大いに注目するのである。
「第30巻思慮・理性・知恵に関する諸問題」では、「何故に、生きものの中では人間が最も賢いのであろうか」と問い、それは、@人間が、その身体の割には最も小さな頭をしているからか、それとも、A人間は、(その或る部分においては)不釣合いなほど極めて小さいからであろうか(というのは、人間が小さな頭をしているのもそのためであって、人間の間でも、頭の小さい者は大きい者より賢いからである)とした。『動物部分論』第四巻第十章で、アナクサゴラスは人間が賢いのは手を持っているからであるとする。その手に指示するのは脳であるから、やはりアリストテレスの言うように頭が原因であろう。
さらにアリストテレスは、この第30巻で、「神がわれわれ人間の中で、それにおいて我々が外的な道具を使用することができるような二つの道具、すなわち、肉体には手を、魂には理性をお与えになったからであろうか。なぜなら、理性もまた、生まれながら道具としてわれわれに属しているものの一つだからである。つまり、他の諸知識や技術は我々によって作られるものに属しているのであるが、だが理性は生まれつき備わるものの一つなのである。」(423頁)、「人間は、殆どの場合、理性によって生きているが、動物は欲求や衝動や欲望によって生きているのである」(428頁)と、動物と異なるものとして人間理性をあげた。だが、この理性が人間の富欲望を抑えるとはしないのである。実際、理性は絶えず作動しているわけではなく、常時さまざまなる感情・断片的知性などと混在しつつ「気まま」に作動するだけであり、だからこそ人間は「効率的に相手を殺す」武器を発明し、動物(食糧として必要な限りで相手を殺す)以上に無用で残酷な殺し合いたる戦争を数限りなく行なってきたのである。理性などはあてにならなかったのである。ここに、理性などというあてにならないものでなく、数千年単位で歴史を俯瞰する、人類、生き物の「自然の摂理』に則った、真の学問が切実にもとめられるということである。
では、アリストテレスは植物をどのようにみていたのであろうか。動物の特性を理解する上で植物の特性の把握は不可欠である。アリストテレスは『植物学』書を書いたといわれるが、それは失われて今日残ってはいない。しかし、『小品集』(『アリストテレス全集』10、岩波書店、1977年)に、彼の「植物について」が残っている。これはアリストテレスの作ではないが、「アリストテレス学派の人の作」(訳者解説326頁)といわれている。
ここで、彼らは、「生命は動物と植物とにおいて見られる。もっともそれは動物においては明白であり歴然としているが、植物においては隠されていて明白ではない」、そこで、「植物が霊魂を持っているか、いないか、また欲望や苦痛や快楽や弁別の能力を持っているか、いないか」ということが研究によって確かめられねばならないとする(63頁)。彼は、植物には霊魂があり無生命ではなく、「生命づけられている」が、「感覚をもっている」とはいわないとして、「植物が感覚し欲望すると信じた」プラトンは間違っているし(64頁)、「植物が感覚し欲望する」としたアナクサゴラス、デモクリトス、エムぺドクレスは「退けられよう」(64頁)とし、「われわれは植物が欲望も感覚も持たない」、「植物の構造を動物の霊魂の構造に帰することは困難」(65頁)とし、「植物はそれ自身からの運動を持たない」(66頁)と主張した。彼は、「植物は、そのうちに霊魂の何らかの部分を持っているので、霊魂を欠いているものではない。けれども(植物は)そのうちに感覚がないので、動物ではない」(66−7頁)としたのである。
アリストテレスらは、@「植物は太陽や適当な温度や空気をより多く必要とし」、「その成長の時期において一層多くこれらのものを必要とする」(69頁)、A植物も動物と同様に「雄と雌の混合」で生れるが、植物は「それらの可能力が離れ離れになるということはない」(70頁)、B「植物は多くの理由によって眠りを必要としない」(70頁)、C「植物は、動物のためでなければ創られなかった」(71頁)、Dだが、「植物は容易に得られ且つ貧弱な食物を要する」とすれば、「植物は動物にもまさる何かをもっていることになる」(71頁)とした。
アリストテレス学派の植物論から、我々は、今日でも通用する貴重な示唆を受ける。アリストテレス学派は、植物は自ら食物を作る「動物にまさる」存在であり、動物の食料となるために生れたとした。それに対して、動物が動かねばならないのは、自ら食料を作れず、場所を移動し、食料を求めなければならないからである。そこに、動物の頭に脳が生れたのである。動物には生きるための食料確保の諸行動の判断・指令を下すところの脳が不可欠となったのである。この点、場所を移動し、食料を求める必要のない植物には脳は不要であり、水分・栄養分の移動のみを司る「心臓」機能だけあればよいことになったのである。また、確かにアリストテレスはまだ直立歩行と脳の大きさの因果関連を指摘しておらず、かつなぜ人間の脳が大きくなったのかについては説明してはいない。だが、直立歩行と脳肥大化についての指摘は今日でも重要であろう。これによって、人間は、生きるために、食料確保の諸行動の判断・指令を下すのみならず、集団生活や天変地異などからくるストレスに音楽・舞・詩歌などで対応することも可能になったからである。アリストテレスの方法論を引用すれば、まさに人間が生きる上で無駄なものなどは何一つとしてないということになるのである。
こうして、アリストテレスは、『問題集』においては人間だけが動物の中で富のためにもっとも不正・不善をなすことを指摘し、「小品集」では動物と植物の相違について重要な示唆を行なった。これらは、今日では注目すべき見解である。この「不正・不善」を資源浪費・自然破壊・貧富差拡大などとみれば、充分現代でも通用するのである。
以上を要約すれば、アリストテレスは、人間と動物の各種の相違を指摘し、人間を「理性」と感覚に分け、人間が最も賢いとしたが、同時に動物・植物はそれぞれの状況において生きる上で必要な「理性」(判断能力)を持ち、それぞれの状況において「賢い」生き方をしているとも指摘している。後者を重視すれば、人間と動物には根本的違いはないことになるのである。これまた今でも通用する卓見であろう。
しかし、アリストテレスは、結局、一方で人間に理性があっても、他方で欲望に基づく富の追求・蓄積を理性で抑えることは出来ず、結局、人間は絶えず問題を起こし深めることを指摘した。彼は、理性的人間と劣悪な人間に分けたが、大部分の人間は理性で欲望を抑制できない「劣悪な人間」なのである。欧米ではこうした指摘は現在もなお繰り返されていて、一方では理性・道徳・倫理が重要だとしつつも、他方でそれらが欲望の暴走を抑えることができずに、多くの問題を惹起し続けるとするのである。だが、これは、理性がある人間か、理性のない人間かという「人間の問題」ではなく、究極的には「制度」・「システム」の問題なのである。
アリストテレスは、国家は「自然」であり「善」だとするが(『政治学』[アリストテレス全集』15、岩波書店、1977年、6−7頁])、ここでは国家発生の歴史的分析などが何らなされていない。アリストテレスはなぜ国家が生じたのかを考察していないのであり、これは、空想的・観念的な意見と言わざるをえないものである。富と国家は、人間の外敵攻撃・自然災害などへの生命防衛措置であり、動物の防衛本能の現れの一部であろうが、それは他の動物の防衛行動を大きく越えているということがポイントである。アリストテレスは、自然社会を体系的に知ることもなく、ゆえに自然社会に照射されて富社会の構造的特徴、「富と権力」のシステムを把握することはできなかったというべきである。
なお、アリストテレスは気づいていていなかったが、かなり以前のメソポタミアでも人間と動物の比較がなされていた。それは動物学的というより、宗教的なアプローチではあったが、古代バビロニアの哲学者は、「何故人間が動物より優れていて、しかもなお神ではないのかという問題」(E.キエラ、板倉勝正訳『粘土に書かれた歴史ーメソポタミア文明の話ー』岩波書店、昭和33年、134頁)に取り組んでいた。彼らは、「両者が密接に関係」をもち「本当の差異はただ人間が賢いということだけ」であることを知りつつ、賢さでは人間は神に近く、死ぬ点では動物にちかいことをどうとらえるべきかと問題提起して、彼らは、「最初の人間をつくる際、神の血と地の粘土をまぜあわせて創造した」からだとした。この点、聖書は、「人間が、最初の泥人形に生命を与えるため神が吹き込んだ息吹きから神的なものを受けた」(キエラ前掲書、129頁)と見ている。
さらに、人が知恵を持って神と同じような不死の命をもつことのないようにしたことについて、バビロニアでは、「人間の分を越えて知りすぎている」アダバに対して、「神々の王」アヌは「生命の食物と生命の水」を与えようとしたが、アダバは「友人(神)の忠告」でこれを食べずにいたので、「地上に帰って死ぬがよい」(キエラ前掲書、130−2頁)とした。それで、バビロニアでは、人間が「永生を得るのに失敗」した責任は、「人間と、また間違った忠告をした神」の双方にあるとされた。また、ギルガメッシュ叙事詩では、英雄ギルメガッシュは、バビロニアのノアが神々から「生命の草」を与えられ永生を許されていることを知って、そこにゆき、その草を見つけたが、蛇にひったくられる。これは、「神のみに許されている食物を人間が盗むことはできない」(キエラ前掲書、133頁)ことをしめす。この点、『聖書』では、アダムとイブは「蛇の介入」によって「善悪をわきまえ」る知恵をもつが、エホバは「神の特権の一部であるその知識が盗まれた」と見て、怒って、「生命の樹から取って食べて永久に生きるようになる」ことを恐れ、彼らを楽園から追放した(キエラ前掲書、133頁)。
人間が動物と同じように死ぬのが神の采配であれ、そうでないとしても、生物の死を「回避」することは、宇宙の生死循環を否定する大それた行為なのである。宇宙の生死循環では、人間も動物も同じなのである。
(4)、世界で最初に富が発生し、その富が多くの諸問題をひきおこしたメソポタミアにおいて、権力はそれに対応するべく史上初めて法を制定した。「富と権力」システム下の法の原点を探る上で、このようなメソポタミア法を考察することは非常に興味深いことである。
一般に集団・社会のあるところには、秩序と正義を維持するために必ずといってよいほど掟・法があった。自然社会のもとでは地域・集団ごとに神々のもとで家長・長老らによってつくられた簡明なる掟があったが、「富と権力」システムもとでは利害関係が複雑化して詳細な項目に整理された法となった。後者の法は、「富と権力」の秩序を維持するための強制力であり、周知の如く、「社会生活を規律する準則としての社会規範の一種」(『有斐閣法律用語辞典』法令用語研究会編、有斐閣、2000年)とされている。この法の現れ方とその理解は歴史的に一様ではなく、「富と権力」システムの成立期ではまだ神々が大きな役割をしめていたが、その展開期では権力と社会の歴史に応じて例えば「自然法か実定法とみるか」などとという議論が展開することになる。
では、当時のメソポタミアでは法とはいかなるものと理解されていたのかから見てみよう。「古代メソポタミアの人々は、われわれと同様には司法というものを理解」せず、「科学の分野と同じく司法においても、『彼らは法(則)というものを知らなかった』のであ」り、「法に相当する語は、彼らの言葉の中には見つかっていない」が、「当時の人々が、われわれと同じものの見方をしていなかっただけ」であり、メソポタミアに「司法の存在は証明」されている(ジャン・ボテロ、松島英子訳『メシポタミア』法政大学出版局、1998年、268−269頁)。
メソポタミアの法は、「基本的には『書かれない法、不文律』であ」り、「書かれないということは、存在しないことでも、知られていないことでもな」く、「ただ潜在的なものだった」(ジャン・ボテロ前掲書、271頁)ということである。それは、「常に臣民たちに対し、能動的な、あるいは禁止という形を伴った習慣として提示され」、小さい頃から「教育を通じて、さらには特定の問題に伝統的に決められた解決法を与えるという形で伝えられ」(ジャン・ボテロ前掲書、271ー2頁)ていた。まだ「法の原則は抽出されたり明瞭な表現で公式化されたりはしなかったが、伝統の大きな広がりのなかに取りこまれた形で存在していた」(ジャン・ボテロ前掲書、272頁)のである。そして、それは、まだ究極的には神々によって決められていたといってもよい。
しかし、富が利害関係を複雑化してくると、権力者は神々の判断だけでは対応できず、各ケースごとに刑罰・賠償などを定めてゆかざるをえなくなった。メソポタミアでは、自然改造農耕開始から数千年経過して富をめぐる諸問題が深刻化し、その利害調整が統治の主要内政問題となっていたのである。
前2千年よりかなり古くから、既に裁判権は「王の特権」であり、「訴訟関係の文書や王宮の書簡類は・・下級の決定機関・・あるいは普通の臣民が、・・訴訟を王の裁定に持ち込むことが、一度ならずあ」(ジャン・ボテロ前掲書、246頁)り、バビロン王国(前1800年ー前1600年)のハンムラビ王の時代には、「司法が神殿を離れ、神官は裁判に関与しないことが慣例とな」(J.M.ロバート、青柳正規監訳『世界の歴史』創元社、2002年、137頁)り、在地の利害に通じた「地元の有力者」が裁判官となった。富をめぐる諸問題の訴訟が神官らの手に負えなくなったのである。だが、在地有力者でも裁定が困難になる場合もあって、彼らは王室に訴訟の伺いを持ち込み、王室は彼らに裁判の指針を示す必要があった。
しかも、前22世紀頃から、新権力誕生に際しては、権力を正当化し、その利害調整をはかる「法典」(判決集)が編纂されていたようであり、既にウルナンム法典(「領域国家を核として周辺異民族をも組み入れた統一国家がウル第三王朝時代に確立」(前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、11頁)し、この創設者ウルナンム[前2112−前2095年]がシュメール語で編纂した法典。「30パラグラフ余りが復元」[中田一郎前掲書、186頁。なお、制定者に関しては、ウルナンムの息子のシュルギだという説もある<マイケル・ローフ、松谷敏雄監訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年、102頁>])、リピト・イシュタル法典(イシン王国[ウル王朝の継承だが、王朝の支配力は弱く、ラルサ、ウルク、バビロン、マリなど各地に独立王国が出現[前田前掲書、12頁]。そのイシン王国の第5代の王リピト・イシュタル[前1934ー前1924年]がシュメール語で編纂。前書き、後書き、50パラグラフが知られている[中田一郎前掲書、190頁])、エシュヌンナ法典(エシュヌンナ王ダドゥシャがアッカド語で作成。前書き、後書きがなく、上記法典とは異質[中田一郎前掲書、192頁])などがあった。
ハンムラビは、こうした前例を踏まえて、治世37年(前1754年)頃にバビロニア、アッシリアをふくむ一大統一国家を建設したこと(、前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年13頁)を背景に、各地の書記を集めて、各種裁判を検討して、緊迫感をもって一大判例集の編纂事業に着手し、ある程度まとまった時点で石碑(「シッパルの太陽神の神殿」の石柱)に刻み込んで、民治を円滑に遂行しようとしたのであろう。この石碑完成時期は、治世38年エシュヌンナ占領を言及していることから判断すれば、晩年ということになる。つまり、彼は、晩年に、地方有力者の「裁判における判決の手本」として、「40年にわたる治世を通じて、・・みずから」下した「最も正しく、最も賢く、最も的確で、経験豊富な王に最もふさわしい判決」や既往判決などを斟酌して判例集を編纂し公けにたのである「(ジャン・ボテロ前掲書、246頁など)。だから、バビロンでは、「諸種の『王の決定』がさまざまな形をとって最終的には『法典』に取り入れられていった可能性は十分あ」り、さらには「この『法典』が、独自の方式で王の意志を表明する働きを持つものとして、こうした決定の集成であると見なされるようになった可能性すらある」(ジャン・ボテロ前掲書、270頁)ことになる。
そして、これは「司法権をそれぞれの場合どのように行使するかという、一つの説明書」(ジャン・ボテロ前掲書、250頁)でもあった。当時、「学術説明書」はメソポタミアではよくみられたことである。「前3000年文字が発明されて以来」「読み書きという難しい技術を職業とし、同時に文字を媒介としてものの見方を探索し、事実を知的に取り扱う方法に精通した文人階級(「宮殿や神殿に付属する学派やアカデミーに所属」した「知的特権階級」)を成立させ」(ジャン・ボテロ前掲書、253頁)、彼らは、「語彙や文法を扱ったもの、百科全書の類、卜占、数学、医学書」などの「説明書」をつくっていたのである。ハンムラビ『法典』もまた、「この種の文学的科学的関心事に結びついたもの」(ジャン・ボテロ前掲書、253頁)という側面を持っていたのである。
当時の「医学診断の説明書」は、「一貫して、最初の行から最後の行に至るまで、どれもすべて『もし』という言葉によって導入される条件節を際限なく羅列することで構成されている」(ジャン・ボテロ前掲書、254頁)が、これはハンムラビ法典も同じである。ここには、「仮説をたて、この仮説に含まれる諸要素から判断して、そこから出てきたと思われる結論を引き出す」という「合理的思考の骨格」(ジャン・ボテロ前掲書、255頁)がある。これを踏まえれば、ハンムラビらは、「彼なりの合理性にもとづいたそして『科学的思考』にとって必要不可欠な論理を与え」(ジャン・ボテロ前掲書、256頁)つつ、判例を集め、「法的見地から見て個別、偶然で、重要でない事柄をすべて削除」(ジャン・ボテロ前掲書、256頁)し、「物事を抽象化」し、「部分的に」「普遍性、必然性」「非個人化」を示したともいえよう(ジャン・ボテロ前掲書、257頁)。
しかし、この普遍化には限界があった。つまり、「(メソポタミアの)無数の説明書においても、その他の広範囲な楔形文字文学のいずれの分野を見ても、・・抽象化、普遍化された原理なり法則なりが明示されているのに遭遇することはまったくな」く、「仮定と、続いてそこから処方された具体的な判断を並べたもの」に過ぎず、「仮定も判断も、われわれにとっての原理や法則のような絶対性にまで昇華されることはなかった」(ジャン・ボテロ前掲書、266頁)のである。メソポタミア人は、「科学的判断に慣れ親しみ、正しい推測を行なう感覚を身につけ、同時に当該の分野が扱うすべての対象について、場合に応じて同様の判断や推測を応用する能力を養」ったが、メソポタミア人はそこにとどまり、ギリシァ人のように、「抽象化という作用を通じて明快な認識、原理や法則の存在を提示し、普遍的な概念、絶対的な公式の世界に入ってい」(ジャン・ボテロ前掲書、267頁)くことはなかった。
なぜ、メソポタミア人は普遍化の試みをしなかったのであろうか。ギリシァ人が優れていて、メソポタミア人が劣っていたからだとは思われない。このメソポタミア人の普遍化の限界については、クレマーも、言語では「単純明白な文法上の定義とか規則」、数学では「一般原理、公理や定理」、「植物学、動物学、鉱物学上の原理や法則」、法では「法理論」などがなかったとしているが、注目するべきことは、彼は、シュメールでは、「政治、宗教、経済」は宇宙創造され国が始まって以来「ずっと変わることなく存在している」とみて、展開という思想がなく、「包括的な普遍化を行なうための方法論上のテクニックに無知」だったとしていることである(S,N.クレマー前掲書、45頁)。宇宙創造以来決まっているとしたのは、いったい誰であるか。それは、現状の支配収奪体制の持続を願う権力者であり、権力者はそれを神々を利用して、神意としたのである。神が「法則」を定めているのに、その「定め」の法則などを見つけ出そうとすることなどは、神意に反する不遜な行為となったのである。
こうして、このハンムラビ法典は「裁判を実践するための科学についての著作」ではあったが、厳密に言えば、今日我々が言う法典ではなく、あくまで判例集だということになる((このことは、1932年にアイラース、1939年にランツバーガー、1952年にはドライバーとマイルズ、1960年にはクラウス、1961年にフィンケルシュタイン[中田一郎訳『ハンムラビ「法典」』リトン、1999年、159−162頁]らに指摘されている)。しかも、その判例集もすべてを網羅したものではなく、ハンムラビ王や書記らが選択した一部であり、故に
「何万点・・の同時代の行政文書や裁判文書において、『法典』が一言も触れていない問題や争いごと」(ジャン・ボテロ前掲諸、240頁)があり、ハンムラビ時代の数多くの訴訟に関する文書、判例集、行政や裁判の実務に関する書類」にはこの「法典」の言及がないのである(ジャン・ボテロ前掲書、243頁)。
こうした「限界」を持ってはいたが、ハンムラビ法典には領域国家となった大権力バビロン王国が各地「富をめぐる諸問題」にいかに対応したのかの原点ともいうべきものがあり、これこそが極めて重要なのである。
@この法典では、神々がハンムラビの統治に深く関わり、彼を強く支援していた。
当時は権力宗教がすべての判断基準の源泉であり、国王の判断・決定は神々と深くかかわっていて、ハンムラビ法典も例外ではなかった。この点、ハロヴィッツは、「『前書き』と『後書き』が互いに不可分の一体をなしている」(中田一郎前掲書、168頁)とし、書記は「長い伝統のある王碑文に範をとっ」(中田一郎前掲書、170頁)て、判例集を間に挟んだのだとする。ハロヴィッツによると、この王碑文は5部分に分かれ、@神々によるハンムラビの職務委任、Aそれに応えてハンムラビによる職務遂行、B職務を成し遂げたハンムラビのための祈願、Cハンムラビ法典に注意を払う王に対する祝福、Dハンムラビ『法典碑』を損なったり改変したりする者に対する呪いと的確に指摘している(中田一郎前掲書、171頁)。ハンムラビ法典は神々と深いかかわりがあったというのであり、これは非常に適切な指摘である。
『前書き』から見てみよう。ここではシュメールの主神アヌがハンムラビ王を召し出すことが述べられる。主神アヌの四方世界での王権確立について、アヌ(「崇高なる方、天空の神、バビロニア諸神の至高神)、エンリル(「天地の主」、「全土の運命を決定する方」)が、マルドゥク(エアの長子。バビロニア統一後にバビロンの主神となる)に、「全人民に対するエンリル権(王権)」を割り当て、「永遠の王権を彼のために確立」(1−2頁)した時、アヌとエンリルが、ハンムラビ(「敬虔なる君主、神々を畏れる私」)を「国土に正義を顕すために、悪しき者、邪なる者を滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、太陽のごとく人々の上に輝きいで国土を照らすために、人々の肌を良くするために、召し出された」(2頁)とした。
以下、ハンムラビが、神(「王たちの神」)として、権力を掌握して(「主、ウルクを生かした者」、「国土の保護者」、「王たちの巨竜」、「獰猛な牛」、「清き君主」、「王たちのなかの支配者」、「王たちのなかの第一人者」、「強き王」、「バビロンの太陽」)、征服・鎮圧して(「敵を突き刺す者」、「敵を捕える者」、「反逆者たちを鎮圧した者」)、秩序をもたらし(「人々に秩序を与える者」)、富(「富と豊かさを積み上げた者」、「ディルバトの耕地を拡大した者」)と領土(「彼(ハンムラビ)の生みの親ダカン(ユーフラテス川中流域の最高神)の命によってユーグラテス川沿いの町々を服従させた者」、「四方世界を襲撃した者」、「シュメールとアッカドの地に光を照り出させた者」、「四方世界を服従させた王」)を増加させ、各地の神殿を管理・振興・支援・整備したとする(2−9頁)。
各地の神殿の管理・振興・支援・整備は、バビロンが各地の神を厚遇して、各地の支配権を構築していったことを示している。つまり、ハンムラビは、「エリドゥを復旧した者、エアブズ(エア=エンキ神殿)の浄めの儀式を浄化した者」、「エサギラ(マルドゥク神殿)に毎日仕える者」、「エキシュヌガル(月神シンの神殿)に豊穣をもたらした者」、「アヤ(シャマシュの配偶神)のギグヌ(住居か神殿)を緑で覆った者」、「天の住居のごとくエバッバル神殿(シャマシュ神殿)を高くした者」、「エアンナ(イシュタル女神の神殿)の頂を高くした者」、「エガルマハ神殿(イシンの女主人、ニンイシンナの神殿)を豊かさで溢れさせた者」、「エメテウルサグ(キシュのザババの神殿)に威光をめぐらせた者」、「フルサグカランマ神殿(キシュのイシュタル女神の神殿)の管理者」、「エジダ(トゥトゥ=ナブ神の神殿)に対して怠ることのない者」、「エニンヌ(ラガシュ・ギルスの主神ニンギルスの主神殿)に多くの食事の供物を提供した者」、「エウドゥガルガル(アダド神殿)で適切な備品を絶えず用意する者」、「エマハ神殿(母神ニントゥの神殿)の扶養者」、「ニネヴェにおいてエメスメス(神殿)のイシュタルの祭儀を顕彰した者」などと、各地の神殿を管理・振興・支援・整備したとした。権力者が各地の神を自らの主神のもとに再編していったのであり、ここに権力が多神教を権力宗教とした歴史的背景をうかがうことができる。
多神教・一神教に関しては諸説があるが、権力との関係なしには的確な把握はできないであろう。元来、多神教とは、自然社会の宗教であり、自然社会では、各地域ごとに人々は自然の脅威、超越性、神聖さを神として崇め、それにふさわしいあらゆるものを神としていった。権力者が各地を征圧するする過程で、こうした地域の神々を利用したほうが統治しやすかったから(日本の大和王朝成立過程での征圧方式もまさにこれであった)、武力征圧とともに在地神の掌握をはかった。つまり、「古代オリエント世界の戦争は人々の戦争であり、同時に神々の戦争」なのであり、「負ければ神(神像)もまた捕虜」(岡田明子・小林登志子『古代メソポタミアの神々』集英社、2000年、152頁)となったのである。こうして、メソポタミアでは、神々は「少なくとも一千から二千に及ぶ」(ジャン・ボテロ前掲書、324頁)ことになったのである。
冨社会の成立ころには、権力宗教は恐らくどこでも多神教となったのであろう。この点、ジャン・ボテロは、「古代メソポタミアの人々は、彼らの宗教心の対象である超自然、聖なるもの、を思い描くに際して、人間界の支配者から連想した一定数の神格に移しかえるという手段以上のものを思いつかなかった」(ジャン・ボテロ前掲書、316頁)と、人々が「人間界の支配者から連想」して多神教になったとした。だが、そうではあるまい。メソポタミアの人々が多神教を「人間界の支配者から連想」したのではなく、権力者が多神教を統治に利用し、これを人々に改めて崇拝させたのである。
だが、こうしたこともあって、多神教の神々は権力者を支えこそしたが、品行方正で倫理・道徳に厚いということにはならなかった。中には放蕩な神々もいて、個人の心の病などにこたえるものではなかった。たとえ王といえども、長寿願いなどの個人的願いは、都市神などの主神・大神にすることはできなかったのである。
ここに「家系の神」や低位神を「個人の守護神」たる「個人神」にすることが必要になった(岡田明子・小林登志子前掲書、61頁)。同じ多神教のエジプトではファラオは「支配する王に変装した至高の神」によって一人の国土支配神としてもうけられたもので(H.フランクフォートら、山室静ら訳『古代オリエントの神話と思想』社会思想社、1997年、89頁)、ファラオは神であったが、であったが、メソポタミアでは、国王の神格化は、アッカド王朝4代ナラム・シンとウル第三王朝2代シュルギに限られ(岡田・小林前掲書、79頁)、しかも国王の神としての地位は個人神と低かったのである。
しかし、主神に心の悩みの解決を願うことができないので、低位神にそれを願うなどとは、なんとも多神教とは「不便」で「厄介」なものであった。ここに、道徳・倫理を伴う宗教が一人の神や仏によって打ち立てられ、弟子等に教祖の言行などがまとめられ聖典・経典が編纂されたのである。当然、権力はこうした一神教を弾圧したが、例えば仏教が大乗化して衆生救済宗教になり、民衆の救済に関わる一神教に変容して信者を維持したものは、権力に公認され、統治に利用されて、やがて権力宗教の側面を強めてゆく。
日本の場合、仏教が導入されると、周知の如く多神教の神祇・神道と軋轢を生じてゆくが、大王ら権力者は仏教を「心の教え」として廃仏することはなかった。そして、ブータン仏教王国などの比較考察によって初めて明らかになったことだが、厩戸王子(後に聖徳太子)、聖武天皇は、大王・天皇は祭祀担当とにとどめ、仏教法王大王が統治を担当する仏教王国の構築をめざした。だが、これは、神祇・神道の危機とする藤原家らの画策する大化改新・道鏡事件によって頓挫せしめられる。以後、桓武天皇は、仏教をあくまでも権力を支えるものに徹底するために遷都し、仏教側でも生き残りをかけて紆余曲折を経て仏教を皇位継承を補佐し、皇太子誕生にまで関わらせるものとしてゆくのである。ここに、これを批判して、民衆救済を唱える新仏教が登場することになり、やがてこれすら権力に取り込まれてゆくが、この問題は本論の課題ではないので、ここまでにしておこう。
さらに、ハンムラビは「偉大なる神々に熱心に祈」り、神々に王として認められ(「賢き女神ママが造った王杖と王冠にふさわしい者」、「シン(月神)がお生みになった王家の胤」)、愛され(「有能なる女神(イシュタル)の寵愛を受ける者」、「イシュタルに寵愛される者」、「ザババ(都市キシュの主神)の寵愛を受ける兄弟」)、支援され(「シャマシュ(太陽神)に聞き従う者」、「その祈りをアダド(雨・嵐の神)が知りたもう者」、)、神々を喜ばせ(「彼の主、マルドゥクの心を喜ばせた者」、「イシュタルの心を喜ばせた者」、「その友エラ(疫病の神、黄泉の世界の神)がその願いをかなえる者」、「ティシュパク(エシュヌンナの都市神)の顔を喜びで輝かせた者」)、祭儀を執り行い(「イシュタルの偉大な祭儀を滞りなく執り行った者」)、貢いだとする(「アヌム(アヌ)とイシュタル(女神)のために豊かな収穫を積み上げた者」、「ケシュ(母神崇拝の中心地の一つ)の外郭を確定した者」、「ニントゥ(母神の一つ)のために清き食物を豊かに供えた者」、「強きウラシュ(ディルバトの守護神ニヌルタと同じ)のために穀物の山を積み上げた者」、「彼の王権を偉大ならしめるエア(淡水・地下水の神、知恵の神)とダムガルヌンナ(エアの配偶神)のために清い食事の供物を豊かさのなかに永遠に定めた者」)。
最後に、「マルドゥクが、人々を導き全土に社会道徳を教えるよう私にお命じになったとき、私は真実と正義を国(民)の口に上らせ、人々の肌を良くした」(9頁)と、バビロンの都市神でしかなかったマルドゥクが今や神々の主座となって、ハンムラビの良政をもたらしたとした。あくまでハンムラビの個人的能力ではなく、神々が大帝国の良政をもたらしたというのである。これは、ハンムラビが統治実績を自画自賛したものではないのである。晩年を迎え、ハンムラビは、大小の臣従王国からなるバビロン王国の行く末を思い、神々に今後を託する思いが強くなったのであろう。これは後書きで鮮明となる。
『後書き』では、まず、この法典が「ハンムラビ、有能な王、が確立し、国民に真にして善なる道を歩ませようとした正しい判決である」(71頁)とした。
次いで、神々とハンムラビの統治との関連について、第一に、エンリル、マルドゥクに関して、「私、ハンムラビ、完全なる王は、エンリルが贈ってくださり、マルドゥクがその牧人権(王権)を私にお与えになった人々(黒頭人)に対して怠けず、無為に過ごすこともなかった。私は彼らのために安全な場所を絶えず求め、隘路を切り開き、光を照り輝かせた」(71頁)と語り、第二に、ザババ、イシュタル、エンキについて、「ザババとイシュタルが私に託された強い武器でもって、エンキが私に定められた知恵でもって、マルドゥクが私に与えられた能力でもって、北や南で敵を根絶し、戦いを鎮め、国民の肌をよくし、居住地の人々を安全な牧草地に住まわせ、誰にも彼らを脅かせはしなかった」(71頁)とし、「偉大な神々が私をお召しになった。私はよく世話をする羊飼、その杖はまっすぐである。私の心地よい影は私の都市に広がる。私はシュメールとアッカド全土の人々を私の胸に抱いた。(人々は)私の守護女神によって栄えた。私は絶えず彼らを平穏のうちに運び、私の知恵によって彼らを守った」(72頁)とした。ハンムラビは、神々のための、神々に導かれた統治によって、帝国を護り、繁栄させたとした。
そして、神殿で国民に正義を回復するために法典の碑を書き記したとし(72頁)、この石碑と神々との関連について、「天地の偉大な裁判官シャマシュ(正義の神、季節を司る神、戦争の神)の命令によって、私の正義が国土に明らかになるように。私の主マルドゥクの言葉によって私のレリーフを削り取る者がないように。私の愛するエサギラ(マルドゥク神の神殿)で、私の名前が良い意味で永遠に唱えられるように」(72頁)とした。神々はハンムラビに王権のみならず裁判権をも与えたのであり、判決の内部にも神々が関わっていた。例えば、、§2、§132では、魔術や妻不貞に確証がない場合は川神の判断に委ね(被疑者を川に投げ込み、黒白・生死は川神に委ねる)、さらに、物証などがない場合、§9、§20、§98、§107、§120、§126、§131では神の前で誓うという行為をさだめていた。
さらに、訴訟人を安心させ、ハンムラビ王の名声を高めることを願い(72−3頁)、「未来永劫にわたって、この国に現れる王が私の碑に私が書き記した正しい言葉を守るように」(74頁)とした。未来の王がこの法典を守らず、混乱をもたらした場合、神々の父アヌム、エンリル、エンキ、シャマシュ、シン、アダド、サババ、イシュタル、ネルガル、ニンカルラクら神々が王に罰を加えることを願うとした。すなわち、アヌムには、「彼から王権の(象徴である)メランムを取り外し」、「王杖を折り」、「運命を呪う」ように(74頁)、エンリルには、混乱、反乱で住まいを燃やし、「苦渋に満ちた治世、短命、飢餓、光のない暗闇、一瞬の死」を運命とされ、「彼の都市の滅亡、彼の民の離散、彼の支配権の変更」を命じて欲しいとする(74ー5頁)。ニンリルには、「彼の国の崩壊、彼の人々の滅亡」を確定させてほしいこと(75頁)、エンキには「混乱」に導き、川の水源を絶ち、麦をはやさないようにとし(75頁)、シャマッシュには、王権拒絶、混乱、「彼の民の基盤の崩壊」、「王権の基の崩壊と彼の国の崩壊」などを願った(75頁)。シンには、王権・玉座の奪取、治世の終焉、王位簒奪者の登場、「死に等しい生」の運命などを願い(75−6頁)、アダドには「天の雨と水源の増水」を絶ち、「飢饉と飢え」で彼の国を滅ぼしてほしいとし(76頁)、サババには「戦場で彼の武器を打ち砕き」、「昼を夜に変え」、「敵を彼の上に立たせてくれる」ように(76頁)、イシュタルには「彼の王権を呪い」、「彼の善を悪に変え」、「戦いと戦闘の場で彼の武器を打ち砕いて」、「混乱と反乱を起こし」、「彼の戦士たちを倒れさせ」、「兵士たちの死体の山をいつまでも放置」させ、「彼を敵に引き渡す」ように(76頁)、ネルガルには「彼の民を焼き尽くし」、「彼の肢体を粘土の像のように打ち砕く」ように(76頁)、ニントゥには息子を取り上げ、子孫を「つくらせないように(76ー7頁)、ニンカルラクには皮膚病にかからせるようにとしたのである(77頁)。
諸王国の興廃が頻繁で、これまで王権交代ごとに法典を定めるという慣習のあったメソポタミアにおいて、この様に法典を遵守するということは王統を遵守することであり、バビロニア王国の転覆を防止するものともなった。まさに多くの神々を動員して、ハンムラビへの反逆者に厳罰を加えようとしたのである。あるシュメール人がアッカド(王ナラムシンがニップール襲撃)崩壊を「エンキ神の呪い」・「ニニルド神の呪い」としているように(ヘルムート・ウーリッヒ、戸叶勝也訳『シュメール文明ー古代メソポタミア文明の源流』祐学社、1980年、199頁)、当時、侵略者への神々の呪いはあるものと信じられていたようだ。晩年にあって、統一王国の樹立に至る栄光に満足しつつも、王国の行く末に思いを馳せて、ハンムラビは、秩序を乱す臣従王国には多くの神々が多くの神罰・呪いをくだすと牽制したのである。実に詳細に具体的に記述したところにハンムラビの危機感が窺える。これは、「富と権力」のシステムが、始まりに当たる時期から深刻な諸問題を内包していたということを示している。深刻な諸問題は現在だけではないということだ。
ハンムラビ死後1世紀ぐらい経過した古バビロニア末期、ハンムラビ法典の写本がつくられており(ジャン・ボテロ前掲書、270−1頁)、この「法典」は「たぶんこれを採用しまた手直しを加えた直系の後継者たちの時代に利用されたことは、・・十分可能性があ」ったのである(ジャン・ボテロ前掲書、276頁)。少なくとも後継国王はハンムラビ法典を守ったようだ。ただし、ハンムラビの死後、次の王サムス・イルナ(前1749−前1712年)の時には、既に「バビロン王国はハンムラビ登場以前の小さな王国に収縮」(中田一郎前掲書、158頁)し、バビロン4代目の王サムス・ディタナの前1595年、「ヒッタイトがバビロンを攻略し、ほどなくバビロン第一王朝は滅亡」(前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、13頁)してしまった。だが、皮肉なことに、以後1200年にわたってメソポタミア学者がこの法典を書き写し続け(中田一郎前掲書、185頁)、王国滅亡後もハンムラビ法典が忘れ去られることはなかった。
Aメソポタミアの権力者は、富の発生にまつわる諸問題に早くから直面し、これらの利害対立の調整は深刻な課題であったろう。ここではこの時期の富に関わる諸問題とその利害調整などの実態を判例集のなかに探ってみよう。
@)まず、富の保護のために、§6「神殿あるいは王宮の財産(金銀などか)を盗んだら」死罪とする、§7「銀、金、男奴隷、女奴隷、牛、羊、ロバ」、「いかなる物」も、証人・証書なく、購入したり、寄託で受け取れば、盗人となり、死罪とする、§8神殿・王宮の「牛、羊、ロバ、豚、あるいは船」を盗んだ者はその30倍、ムシュケーヌムの物なら10倍支払い、支払えなければ死刑とする(11頁)、§9「無くなった物」を「別の人」が所有し、「別の人」が購入したと主張した場合、元の所有者、「別の人」が証人を連れて神前で陳述し、双方の言い分が正しいことになれば、「別の人」への売主が盗人になり、死罪とする(11−12頁)、§10買い手の「別の人」が証人をつれてこず、元の所有者が証人をつれてきたらば、「別の人」が盗人であり、死罪(12頁)、§11元の所有者が証人をつれてこなかった場合、嘘で他人を中傷したことになり、死罪とする、§12「その(盗品の)売り手が死亡していたなら、その買い手はその売り手の家からこの裁判の請求額の5倍を取る」(12頁)、§13証人が近くにいないで、6カ月間の猶予期間内に出廷させられなかった場合、「その人は嘘つきで裁判の(あらゆる)罰を負わねばならない」(12ー3頁)などと規定して、財産侵奪を厳罰に処した。§14では幼児を盗んだ場合には死罪(13頁)として、生産単位としての家族維持を図った。
なお、ジャン・ボテロは、§8と§259(農具窃盗者は銀5シェケル・3シェケル[「盗まれた物の価格をさして上回らない程度の料金」]を返済)は矛盾するとしているが、§8は神殿・王宮、ムシュケームの動産であるから重罰となったのに対して、§259は在地の有力者・王権の判断で農具窃盗の情状が酌量されte
軽罰となったのであろう。さらに、彼は、受託と寄託は同一行為だとして、第7条と第123条(証書・証人なしの寄託は受託者がこれを否認すれば裁判できない)は矛盾するとするが(ジャン・ボテロ前掲書、242−3頁)、それぞれの条項はあくまで受託者と寄託者を規定したものであり、証人・証書なく他人の物を受け取る受託の場合には詐欺・窃盗などを既遂することを想定して重く罰したが、寄託の場合には、証人・証書なく寄託したと申し立てるだけでは受託者には損害が生じないから(仮に証書も証人もなく寄託したと虚偽発言をして、それを担保にある商人から金銭を借り入れた場合には、別のケースとして罰せられる)、この提訴を禁じたのである。こうして重箱をつつきだせば、多くの矛盾や問題となるやもしれぬ箇所が指摘されようが、ここではこれまでにしておこう。
富の生産に奴隷は不可欠となっており、ゆえにその奴隷制維持にために、§15「王宮の男奴隷、王宮の女奴隷、ムシュケーヌムの男奴隷、あるいは・・女奴隷」を無断で解放させたら死刑とする(13頁)、§16逃亡奴隷を隠匿すれば死刑とする、§17逃亡奴隷を所有者に連れ戻せば銀2シキル(約17g)を付与する、§18奴隷の主人が不明の場合、王宮で確定する、§19逃亡奴隷を私用したものは死刑とする、§20逃亡奴隷が捕縛者から逃亡すれば自由とするなどとした。
奴隷の売買については、§278奴隷購入後月末までに癲癇の起こった場合、売り手に返却でき、代金を受け取れる(70頁)、§279奴隷の販売後、(第三者から)奴隷を元の持ち主に返還要求が出れば、売り手はそれに「責任を負わねばならない」(70頁)、§280外国で購入した奴隷を国内に連れ帰った場合、その奴隷が「同国人」なら、銀の支払いなしに「自由の身」となる(70頁)、§281その奴隷が「別の国人」の場合、買い手の商人は神前で支払額を述べ、元の奴隷所有者は支払い金額を買い手商人に与え、奴隷を「請け出さなければならない」(71頁)、§282請け出された奴隷が元所有者に「あなたは私の主人ではない」と言えば、元所有者は奴隷の主人であることを立証すれば、奴隷所有者は「奴隷の耳を切り落とさねばならない」(71頁)などとした。
前2400年頃からメソポタミア南部では地力を配慮して隔年耕作が行われ(山本茂「シュメール都市国家時代末期ラガシュにおける農耕年視点の確立」『史林』62、1979年)、雨季(10−3月)と乾季(4−9月)に応じた農耕がおこなわれた。大麦は、7−10月に犁耕し、10月に播種し、増水期にあたる4−5月に収穫した(中田一郎前掲書、101頁)。その大麦の耕地はビルトゥム地(国家直轄地)、イルクム地(兵士等の休養のための地)などに分けられ、地主がこれらを小作させたりした。
この小作制度においては、地主優位がはかられ、§42「もし人が耕地を小作のため賃借し、その耕地に大麦を実らせなかった」場合、@地主は借地人が「播種作業をおこなわなかったことを立証」し、A借地人は隣地の収穫高に従い地主に大麦を与えねばならない(18頁)、§43小作人が耕作放棄した場合、地主は臨地収穫高に応じて大麦を受けとり、原状回復して返還させうる(19頁)、§44未耕地を耕地に戻す契約で3年借り受けて、無為に過ごした場合、4年目に耕地にし、1ブル(6.5ha)あたり大麦10クル(3千g)を支払う(19頁)、§45地主が小作人に貸付け、小作料を受け取った後に、嵐・洪水で水害をうけた場合、損失は小作人に帰属する(19頁)、§46洪水の際、まだ小作料を受け取っていない場合、地主は小作料率(2分1、3分1)の契約通り受け取れる(19頁)、§47小作人が「前の年に元がとれなかったので耕地を(もう1年)耕作したい」と言えば、地主は許すべし(20頁)などとされた。
耕地果実を担保に商人から資金を借り入れたりして、農業債務が生じた場合、債権者と債務者の関係について、§48嵐・洪水・水不足などで債務者が大麦の収穫がなかった場合、「その年は、彼の債権者に大麦を返済しなくてもよ」い(20頁)、§49人が耕地担保で商人から銀を借りれ、耕地を商人に使わせ、実った大麦、ゴマを収穫してよいとし、商人が小作人を使って実らせた場合、債務者は収穫して元利と「農作業の報酬に見合う大麦」を商人に与える(20頁)、§50地主が商人に、大麦・ゴマの播かれた耕地を「与えた」場合、地主は果実を刈り取り、「銀とその利息を商人に返済」する(20頁)、§51彼に返済銀がない場合、商人から借り入れた銀と利息(大麦・ごま)を支払う(21頁)、§52債権者が雇った小作人が大麦・ゴマを実らせなかったとしても、商人は契約変更してはならない(21頁)とされた。
当時のメソポタミア農業では、鉄製農具よりも、灌漑の方が重要であり、ゆえにその灌漑の管理責任が、§53「耕地の畔の強化を怠り」、「耕区の大麦を流失」させた場合、それを償う(21頁)、§54償うことができなければ、動産売却金を耕区メンバーで分配する(21頁)、§55用水の不注意で「隣人の耕地の大麦を水で流失させ」れば、「隣人の収穫率」に応じて弁済する(21頁)、§56灌漑用水で臨地を流失させた場合、1ブル(約6、5ha)につき10クル(約3千g)の大麦を弁済する(21ー2頁)などと規定された。
当時の農作業は、牛で犂を引かせる作業、歯のついたまぐわを牛に引かせる作業、播種装置をつけた犂を牛に引かせて播種する作業などからなっていて(中田一郎前掲書、99頁)、牛の使用が大きな役割をしめていた。この牛については、その売買・貸借・事故について、§241牛を買った場合、銀3分1マナ(167g)を支払う(64頁)、§242後曳きの牛の1年間賃借料は大麦4クル(1200g)(64頁)、§243中曳きの牛の1年間賃借料は大麦3クル(900g)(64頁)、§244賃借した牛、ロバが野でライオンに殺された場合、損失は所有者が負担する(賠償は請求できない)(64頁)、§245賃借した牛を不注意で死なせた場合、「同等の牛を償わなければならない」(64頁)、§246賃借した牛の足を折ったり、首筋を切った場合、「同等の牛を償わなければならない」(64頁)、§247賃借した牛の目を損なった場合、「値段の半分の銀を与えなければならない」(65頁)、§248賃借した牛の角を折ったり、尾を切断したり、ひずめの脚を切れば、「値段の4分1を与えねばならない」(65頁)、§249賃借した牛が、「神がそれを打」った後に死んだ場合、「神に誓ったのち釈放される」(65頁)、§250牛が道で「人を突き死なせたとしても」、損害賠償請求の対象にならない(65頁)、§251地区が人を突く習性のある牛について警告したにもかかわらず、「角を切らず」「監視をせず」、その牛がアヴィールム仲間を突き死なせた場合、銀2分1マナ(250g)を支払う(65頁)、§252突き死なせたものがアヴィールムの奴隷なら、銀3分1マナを支払う(65頁)などと定めた。
牛使用の農業労働に関わる人々(所有者、借入者、使用者など)の利害調整については、§253人が、「耕地の世話をしてもらうために他の人を雇い、彼に穀物を託し、牛を預け、彼と耕地の耕作の契約を結んだなら」、種麦・飼料用麦を盗んだ場合、「腕を切り落とさねばならない」(66頁)、§254牛を弱らせた場合、「受け取った大麦を倍にして償わなければならない」(66頁)、§255牛を又貸ししたり、種麦を盗み麦がならじ、この違約行為が立証された場合、耕地面積1ブル(6,5ha)につき大麦60クル(1.8万g)を与える(66頁)、§256こうした「義務履行」ができない場合、彼らは彼を耕地で「牛に引かせて(死ぬまで)引きずり回さなければならない」(67頁)、§257農業労働者を雇った場合、年大麦8クル(約2400?)を与える(67頁)、§258牛追い人夫を雇った場合、年大麦6クルを与える(67頁)、§259「耕区で播種装置付き犂を盗んだ」場合、銀5シキル(41.7g)を犂所有者に与える(67頁)、§260深耕用の梨、まぐわを盗んだ場合、銀3シキルを与える(67頁)などと定めた。
牛・小家畜の飼育に関しては、所有者・飼育者・寄託者らの利害調整について、§261、牛・小家畜の放牧のために家畜飼養者を雇った場合、年間大麦8クルを与える(67頁)、§263寄託された牛・羊を失った場合、その所有者に償う(67頁)、§264牛・小家畜の放牧寄託の牧夫が、牛・小家畜の数を減らし、出産数を減らせば、契約に従い、「(小家畜の)子供と産物」をあたえなければならない(68頁)、§265牛・小家畜の放牧寄託の牧夫が、マークを偽って売却し、それが立証で来た場合、10倍にして償う(68頁)、§266疫病やライオン襲撃で死んだ場合、「牧夫は神前で自らを無罪放免しなければならない」(68頁)、§267牧夫が怠慢で「旋回病」を発生させた場合、牛・家畜の「欠損」を「完全に賠償」(68頁)するなどと定めた。
脱穀・運搬のための家畜賃借については、§268脱穀のための牛の賃借料は大麦2スート(20g)(68頁)、§269脱穀のためのロバの賃借料は大麦1スート(10g)(68頁)、§270脱穀のための山羊の賃借料は大麦1カ(1g)(69頁)、§271、牛と荷車・御者の賃借料は1日当たり大麦3パーン(180g)(69頁)などとした。
家畜放牧に関しては、§57牧夫が耕地所有者に無断で小家畜を放牧させた場合、牧夫は耕地所有者に1ブルにつき20クルの大麦を弁済する(22頁)、§58耕区放牧の「完了」公告後に放牧させた場合、牧夫は耕地所有者に1ブルにつき60クルの大麦を弁済する(22頁)と規定されるにとどまる。
果樹園(主産物はナツメヤシ)については、所有者と栽培者(園丁師)の利害調整関して、§59所有者に無断で木(なつめやし)を切れば、銀2分1マナ(250g)を支払う(22頁)、§60地主と園丁師が共同でなつめやしを栽培して、5年目に地主が果樹園の半分を優先的に選び取れる(22ー3頁)、§61園丁師が植え残した場合、その地を取り分に入れる(23頁)、§62園丁師が借りた耕地を果樹園にしなかった場合、隣地の収穫高にしたがって小作料を支払う(23頁)、§63園丁師が借りた土地が休耕地の場合、耕地にして返還し、1年1ブル(約6,5ha)当たり10クル(約3千g)を与える、§64果樹園所有者が果樹受粉のために園丁師に果樹園を「与えた」場合、園丁師は、産物の3分2を所有者に与える(23頁)、§65、園丁師が果樹園の受粉を行わず、収穫減少させた場合、隣人の収穫高に応じて、産物を与える(23頁)、§66果樹園所有者が商人から産物担保で借金した場合、商人は元利を取れるのみで、「余剰のナツメヤシは、果樹園の所有者が取ることができる」(24頁)とされた。
A)次に、富の流通・販売=商人・高利貸を見てみよう。
高利貸し商人については、§t商人が大麦などを貸し付けた場合、1クル(約3百g)につき大麦1パーン4ストーン(約百g)を利息として受け取り、銀を貸し付けた場合、銀1シキル(180粒)につき銀6分1シキル、6粒(計36粒)の利息を受け取る(27頁)、§u債務者に返済すべき銀がない場合、債権者商人は「王の勅令」に従い「1クル(約300g)につき年1パーン(約60g)」の大麦を受け取る(28頁)、§w債権者商人が受け取り大麦・銀を元金から差し引かなかった場合、倍にして返済する(28頁)、§x債権者商人が、不当な度量衡操作で銀・大麦の貸付を小さくし、返済を大きくした場合、その「与えた額」を失う(28頁)、§y貸借行為の意味不明、§z債務者が「大麦あるいは銀」を借り入れたが、それらで返済できない場合、動産の時価で返済する(29頁)などを規定して、高利や悪辣返済を防止した。
当時、メソポタミアでは遠隔地通商が展開して、これに大きな利益を期待して、商人が行商人へ投資していた。そこで、§cc共同事業に銀を投資する場合、「発生する利益あるいは損失を神前で平等に分け」る(29頁)、§100商人が行商人に投資し、行商人が利益をあげた場合、商人は投下資金に見合う利益をうけとる(29頁)、§101行商人が利益を上げられなかった場合、商人は投下資金の倍を行商人から受け取る(29頁)、§102行商人が損失を被った場合、商人は投下資金のみを行商人から受け取る(30頁)、§103行商人が旅先で持ち物を没取された場合、行商人はそれが真実であることを神に誓った後に釈放される(30頁)、§104商人が行商人に「大麦、羊毛、油」などを「販売のために与えた」場合、「行商人は商人に定期的に銀を返す」(30頁)、§105行商人が商人に銀の領収書を怠って渡さなかった場合、これは銀を支払ったことにはならない(30頁)、§106行商人が商人から銀を受け取り、後に行商人がそれを否定した場合、商人は神と証人の前でそれを立証する(30頁)、§107行商人が商人に借入銀を返還した後、商人が返還を否定した場合、行商人は神と証人の前で商人虚偽を立証する(31頁)などとして、遠隔地通商をめぐる投資の利害調整をはかった。
陸路の通商と並んで、チグリス・ユーフラテス川などを利用した通商も盛んであり、ここに河川通商をめぐって投資家(商人)と船所有者・操縦者との利害調整をはかるべく、§234船頭(船大工か)が人のために60クル積みの船の水蜜化工事を行なった場合、彼は「彼の贈物」として銀2シキルを船頭にあたえなければならない(62頁)、§235船頭(船大工か)が「人のために船の水蜜化工事」を行なったが、「信頼に足る仕事」をしなかったので、「船が傾き、欠陥が生じ」た場合、船頭は、「その船を解体し、自分自身の財産で堅固に作り直して、堅固な船」を与えなければならない(62ー3頁)、§236人が船を船頭に賃貸し、船頭が注意を怠り、船を沈没、あるいは損壊させた場合、船頭は「船を船の所有者に償わなければならない」(63頁)、§237人が「船頭と船」を賃借し、「大麦、羊毛、油、ナツメヤシ」などの積み荷を積み込んだが、船頭の不注意で船を沈没させ、積荷を失わせたならば、船頭は船と積荷を「償わなければならない」(63頁)、§238船頭が、沈没した船を引き上げれば、船頭は、「(船の)値段の半分の銀」を与えなければならない(63頁)、§239人が船頭を雇えば、船頭に年間大麦6クル(1800g)を与えなければならない(63頁)、§240上る船が下る船に衝突し、下る船を沈没させ、沈没船の所有者は「船のなかにあって無くなった物を神前で明らかにし」た場合、沈没船の船長は「船と無くなった物すべて」を「償わなければならない」(63ー4頁)などが規定された。
船の賃借については、§276川を上る船の賃借には、1日銀2粒半を与える(70頁)、§277「60クルミ積みの船」の賃借には、1日銀6分1シキル(1.34g)を与える(70頁)とした。
債務者の家族を人質として担保にとることに関しては、§115債務者から大麦・銀の借入の人質をとって、人質が債権者の家で死んだ場合、損害賠償(「債権者に対する債務者の」か)はできない(33頁)、§116人質が殴打・虐待で死亡した場合、人質の「所有者」はそれを立証し、犠牲者がアヴィールムの息子なら、商人の息子を殺し、犠牲者がアヴィールムの奴隷の場合、商人は銀3分1マナ(約167g)を支払う(33頁)、§117債務者が、妻・息子・娘を売ったり、担保として差し出した場合、彼らは3年間「差し押さえ人」の家で働く(34頁)、§118債務者が男女奴隷を債務担保として差し出した場合、買い戻し期間の経過後に、債権者はその奴隷をうることができる(35頁)、§119売った女奴隷が、債務者の息子を生んでいた場合、債権者の購入代金を支払えば、女奴隷を引き出すことができる(35頁)などとした。
大麦・貨幣の寄託については、§120寄託した大麦が、穀倉で損失を被るか、保管者が盗んだか、貯蔵を全面的に否定した場合、「大麦の所有者は神前で彼の大麦(が寄託されたこと)を明らかにしなければなら」ず、立証されれば、保管者は2倍の大麦を返済する(35頁)、§121大麦の寄託料は1クル(約300g)につき5カ(約5g)とする(35頁)、§122寄託する場合、証人、契約書を揃える(35頁)、§123証人、契約書のない寄託は無効(36頁)、§124証人の前で寄託したのに、寄託引受人が寄託を否定した場合、所有者は寄託引受人の不法行為を立証しなければならず、立証されれば、寄託引受人は2倍にして返還する(36頁)、§125寄託品が盗難にあった場合、寄託引受人は「完全に賠償」する(36頁)などとした。
B)国富の基礎たる民富、その基礎ともいうべき個人の富、その増加と維持のための家族について、その持続(結婚・家族)と継承(遺産相続)の利害調整が詳細に規定される。
当時、妻は父の財産の一部を持参財として持ち来て、将来の継承者たる男子を生む存在であった。家庭を維持するために重要な存在であるにもかかわらず、夫が優遇されるのに反して、妻は規制された。すなわち、こうした妻について、§127人が「他人の妻」を侮辱し、それを立証しなかった場合、その人を鞭打ち、頭髪の半分を剃る(37頁)、§128妻を娶っても、婚姻契約を締結しなければ(仮結婚)、妻ではない(37頁)、§129妻が別の男性と寝ているところをとらえられれれば(姦淫)、彼らは妻を「水に投げ込まれなければならない」(37頁)、§130男が父の家に住む処女の「他人の妻」に猿轡をはめて寝ていたところを捉えられた場合、男は死刑(強姦)で、彼女は釈放される(37頁)、§131妻が夫に起訴されても、浮気現場をおさえたのでなければ、彼女が「潔白」を神に誓えば「自分の家にもどることができる」、§132妻が浮気を指摘された場合、その現場をおさえられていない場合、(神の裁きをうけるべく)夫のために「川に飛び込まなければならない」(38頁)、§133夫が捕虜になっても、家に食物があれば、妻は貞節をまもる(38頁)、§133b妻が貞節を守らず、他人の家に入った場合が立証されれば、彼女を水に投げ込まなければならない、§134夫が捕虜となり、家に食物がない場合、罪を問われることなく、「別の人の家にはいる」(38頁)、§135夫が捕虜となり、家に食物がない場合、「別の人の家にはい」(38頁)り、息子を生んだ後に、夫が帰宅した場合、妻は先夫のもとに戻り、子供はそれぞれの父に従う(39頁)、§136夫が市を逃亡し、妻が「別の人の家」に入った後に、市に戻ってきた場合、妻は夫のもとのもどらなくてよい(39頁)などととされた。
妻との離婚について、妻の持参財、夫の財産、息子の有無などに絡んだ夫婦の利害調整について、§137夫が息子を生んだシュギートゥム女性、息子を得させてくれたナディートゥム修道女を離縁する場合、夫は「彼女の持参財を返し」、養育費として「耕地と果樹園と動産の半分」を与える(39頁)、§138夫が「息子たちをうまなかった正妻を離婚」する場合、「テルハトゥム相当の銀」を与え、「持参財を元通りに返し」、離婚できる(39頁)、§139テルハトゥムがない場合、銀1マナ(約500g)を離婚料を与える(40頁)、§140夫がムシュケーヌムの場合、銀3分1マナを与える(40頁)、§141妻が家を出ることを決意し、横領したり、財産を浪費したり、夫を軽んじた場合、それを立証すれば、「旅費および離婚料」を与えなくても、夫は彼女を離縁でき、夫が彼女を離縁しない場合、「女奴隷のように」扱い、「二人目の女性を娶る」ことができる(40頁)、§142妻が夫を嫌い、離婚をねがえば、地区で調べて、「彼女が身を守り、落ち度が無く、彼女の夫が家をあけ、彼女を著しく軽んじた」ことが判明すれば、持参財を取って、「父の家」に帰ることができる(40ー1頁)、§143妻が、「身持ちが悪く、家をあけ、彼女の家を浪費し、自分の夫を軽蔑」すれば、「水に投げ込まれ」ければならない(41頁)、§144夫がナディートゥム修道女を娶り、妻が女奴隷を夫に与え、息子を生んだ場合、夫はシュギートゥム女性を娶ることはできない、§145夫がナディートゥム修道女を娶ったが、息子ができない場合、夫はシュギートゥム女性を娶り、家に入れることができるが、ナディートゥム修道女と同等とみなすことはできない(42頁)、§146夫がナディートゥム修道女を娶り、妻が女奴隷を夫に与え、息子を生んだ場合、女主人は女奴隷を売ってはならないが、あくまで「奴隷の一人」とみなしてよい(42頁)、§147女奴隷が息子を生まなければ、女奴隷を売ることができる(42頁)、§148妻が皮膚病にかかった場合、別の女性を娶ることができるが、離婚はできない(42頁)、§149その妻が夫の家に住むことに合意しなければ、持参財をもって「立ち去ることができる」(43頁)などと定めた。
さらに、結婚に伴うテルハトゥムの付与を基準に、§159婚約者が、「義理の父の家」に「結婚式のプレゼント」を運ばせ、テルハトゥムを与えたのに、別の女性と結婚する場合、義理の父は「運び込まれた物」すべて自分のものとする(45頁)、§160人が義理の父に「結婚式のプレゼント」を運び入れ、テルハトゥムを与えた後に、義理の父が「娘をやらない」と言った場合、父は倍返ししなければならない(45頁)、§161人が義理の父に「結婚式のプレゼント」を運び入れ、テルハトゥムを与えた後に、婿の仲間が婿を誹謗して、義理の父が「娘をやらない」と言った場合、父は倍返ししなければならない(45頁)とした。−
夫婦の債務については、§151夫が結婚前にフブッルム・ローンを負っていた場合、夫が妻に「夫の債権者が彼女を捕らえないように」契約書を残せば、「債権者たちは彼の妻を捕らえてはならない」(43頁)、§152結婚後に、夫婦二人にフブッルム・ローンが生じた場合、二人は債権者に共同で責任を負う(43頁)などとした。
家族制を維持するために、§153妻が「別の男性」のために夫を殺した場合、妻は「木柱に架けなければならない」(44頁)、§154人が娘と性的関係をもてば、その人を市から追放する(44頁)、§155息子のために嫁を選び、息子が嫁と性的関係をもった後、父が嫁と関係すれば、水に投げ込まれる(44頁)、§156息子のために嫁を選び、息子が嫁と性的関係をもたないで、父が嫁と関係すれば、父は嫁に銀2分1マナを支払い、持参財を戻す(44頁)、§157父の死後、人が母と関係すれば、「二人とも焼き殺さねばならない」(44頁)、§158父の死後、人が息子を生んだ母と関係すれば、その人は「父の家」から追放される(44頁)として、家族間の不義密通を厳罰に処した。
夫の死後、夫の財産の相続は大きな問題であり、故にこの法典の一定部分を占めていた。まず、父死亡に伴う兄弟間の遺産相続に関して、§165父が「目にかなった彼の嫡出子に耕地、果樹園、あるいは家を贈る」捺印文書を作成した後に死んだ場合、兄弟の遺産分割に際して、その嫡出子はその通り遺産を保持できる(46頁)、§166父が死去し、妻を娶らない幼い子がいた場合、「彼の取り分とは別に、テルハトゥムの銀を設定し、彼に妻を娶らせなければならない」(47頁)、§167妻が息子を生んだ後に死去し、夫が後妻をとり、息子を生んだ後に死去した場合、息子たちは、まず「自分たちの母親の持参財」を取り、ついで「父の家の財産」を平等にわける(47頁)、§168父が息子を「嫡出子の地位」から廃除したいと申請し、裁判官がこれを審査し、「廃除にあたいする重大な罪」がなければ、廃除できない(47頁)、§169息子が父に「廃除にあたいする重大な罪」を犯したならば、初回はこれを許し、2回目は廃除する(47頁)、§170正妻に息子がおり、女奴隷にも息子がいて、父が正妻の息子と同等とみなしていたなら、父が死去した場合、「父の家の財産を平等に分けなければならない」。ただし、まず正妻の息子がさきに取り分を選び取る(47ー8頁)、§171父が正妻の息子と同等とみなしていなかったなら、父が死去した場合、「父の家の財産を平等に分け」ることはできなず、そのかわり、女奴隷と息子を「自由の身」とする(48頁)、§150夫が、妻に「耕地、果樹園、家あるいは動産を贈」る「捺印証書」を残したらば、夫の死後、息子はその返還を要求することはできないが、母は「好む息子」に与えることができる(43頁)と規定された。
父死亡に伴う「母と兄弟間の遺産相続」に関して、§171b夫の死後、正妻は、文書に記された遺産を受け取り、「夫の住居」に住むが、遺産は息子のものなので、「売ることはできない」(48頁)、§172夫が妻に「贈物(ヌドゥンヌム)」を与えていなかったなら、夫の死後、妻は持参財を返してもらい、夫の財産から嫡出子一人分の取り分をとることができ(48頁)、息子たちが彼女をおいだそうとしてつらくあたれば、裁判官は息子に罰を科す(48頁)、§173妻が死去した場合、彼女の持参財は先妻と後妻の息子らが分け合う(49頁)、§174妻が再婚した夫との間に息子がない場合、彼女の持参財は先夫の息子が受け取る(49頁)などとされた。
夫が奴隷の場合の遺産相続については、§175王宮・ムシュケーヌムの奴隷が、アヴィールムの娘を娶り、息子を生んだ場合、奴隷所有者は息子を奴隷身分にとどまらせることはできない(49頁)、§176王宮・ムシュケーヌムの奴隷が、アヴィールムの娘を娶り、彼らが奴隷の家に入った後、「家を建て動産を得」た後、奴隷が死亡した場合、アヴィールムの娘は持参財を取ることはできるが、家や動産は二分して、奴隷所有者とアヴィールムの娘との間でわけあう(50頁)、§176b(§176の補訂)アヴィールムの娘が持参財をもたない場合、妻と夫が結婚して得たものは、全て奴隷所有者とアヴィールムの娘との間でわけあう(50頁)と規定した。
幼児のいる寡婦の遺産相続については、§177幼い息子のいる寡婦が「別の人の家」にはいる際には裁判官たちの許可が必要であり、裁判官は先夫の家を妻と新夫に委ね、文書を作成し、妻と新夫は「家を守り、幼子たちを養育」し、家財道具を売ってはならない(50頁)とした。
娘がウグバブトゥム、ナディートゥム(高官・富裕市民の娘[中田前掲書、133頁])修道女、セクレートゥム女官などの場合の遺産相続については、§178ウグバブトゥム、ナディートゥム修道女、セクレートゥム女官の持参財に関する文書で、父が彼女に「完全な(持参財の)処分権」を与えていなかった場合、父の死去の後、「彼女の耕地と果樹園は彼女の兄弟たちが取る」が、兄弟は「彼女の取り分に相当する大麦、油および衣料を彼女に与え」ねばならず、そうしない場合、彼女は、「彼女の耕地、および果樹園を彼女の意にかなう小作人に賃貸」できるが、それらの不動産は兄弟のものだから、売却できない(51頁)、§179ウグバブトゥム、ナディートゥム修道女、セクレートゥム女官の持参財に関する文書で、父が彼女に「完全な(持参財の)処分権」を与えていた場合、父の死去の後、彼女は「彼女の遺産を彼女の意にかなう者」に与えることができる(52頁)、§180父が、ナディートゥム修道女、セクレートゥム女官に持参財を贈らなかった場合、父の死去の後、彼女は生存中「父の家の財産から1人の嫡出子のように取り分を受け取ることができ」るが、彼女の死後、兄弟のものになる(52頁)、§181父が、娘をナディートゥム修道女、カディシュトゥム女神官、クルマシートゥム女神官として神前に捧げたが、持参財を贈らなかった場合、父の死去後、彼女は、生存中は父の家の財産から3分1を相続分としてうけとるが、それは「兄弟たちの物」である(52頁)、§182父が、娘のバビロンのマルドゥクのナディートゥム修道女に持参財を贈らなかった場合、父の死去の後、彼女は、兄弟とともに父の家の財産から3分1を相続分としてうけとるが、「イルクム義務を果たす必要」はなく、彼女は、それを「彼女の意にかなう者」に与えることができる(53頁)などとした。
娘がシュギートゥム女性の場合の遺産相続については、§183父が、シュギートゥム女性である娘に、持参財を贈り、嫁がせ、捺印証書を作成したなら、父の死去後、彼女は「父の家の財産(分割)に与ることはできない」(53頁)、§184父が、シュギートゥム女性である娘に、持参財を贈らず、嫁がせなかったら、父の死去後、彼女の兄弟は「父の家の資産力」に応じて持参財を贈り、彼女をとつがせねばならない(53頁)とした。
妻が死んだ場合、妻の持参財について、§162人が妻を娶り、妻が息子を生んだ後に死んだ場合、妻の持参財は父の物ではなく、息子のものである(45頁)、§163人が妻を娶り、妻が息子を生まないうちに死んだ場合、父が夫に夫のテルハトゥムを返していた場合、妻の持参財は父の物である(46頁)、§164父が夫に夫のテルハトゥムを返していなかった場合、夫は、妻の持参財からその分を差し引いて、父の家に返さなければならない(46頁)とした。
家にとって財産継承できるのは男子であり、故に後継のいない家族は養子縁組をするが、ここに養子縁組をめぐって諸問題が生じ、これに対して、§185人が、男子誕生の際、息子として引き取り、養育したならば、その養子の返還はできない(53頁)、§186人が息子とするために子供を引き取ったとき、子供が生みの父母を探そうとするなら、養子を実家にもどす(54頁)、§187「王室の召使」である「ギルセクム」・「セクレートゥム女官」の養子は「返還を請求されることはない」(54頁)、§188職人が養子に「手の技」を教えたらば、養子は「返還を請求されることはない」(54頁)、§189職人が養子に「手の技」を教えなければ、養子は実家にもどることができる(54頁)、§190養子として引き取ったのに、「息子の一人」とみなされなければ、実家に戻ることができる(54頁)、§191養子を取った後に「所帯を持ち」、「息子を得」て養子廃除を決意したら、養父は養子に財産の3分1を相続分として与える(55頁)、§192「ギルセクム」・「セクレートゥム女官」の養子が「あなたは私の父母ではない」と言った場合、養父母は養子の「舌を切り落とさねばならない」(55頁)、§193「ギルセクム」・「セクレートゥム女官」の養子が、実父の家を見つけ出し、養父母を拒絶した場合、養父母は養子の「目をえぐり取らなければならない」(56頁)などと定めた。
C)生活秩序を維持するためには暴行防止が必要であり、身分差に応じた暴行の処罰がなされ、アヴィールム階層での「同害復讐」原則が打ち出され、被害者救済のための賠償金が定められ、無制限な復讐にはどめがかけられた(中田前掲書、137頁)。つまり、§19「息子が彼の父親を殴った」場合、「彼らは彼の腕を切り落とさなければならない」(56頁)、§196アヴィールム(上層市民)がアヴィールム仲間の目を損なえば、「彼らは彼の目を損なわなければならない」(56頁)、§197アヴィールムがアヴィールム仲間の骨を折ったなら、「彼らは彼の骨を折らねばならない」(56頁)、§198アヴィールムがムシュケーヌム(一般市民)の目を損なったか、骨を負った場合、銀1マナー(500g)支払う(57頁)、§199彼がアヴィールムの奴隷の目を損なったか、骨を負った場合、彼は奴隷の値段の半額を支払う(57頁)、§200アヴィールムが対等のアヴィールムの歯を折れば、彼らは彼の歯をおらねばならない(57頁)、§201「彼がムシュケーヌムの歯を折った」ならば、彼は銀3分1マナを支払う(57頁)、§202アヴィールムが彼より身分の高いアヴィールムの頬を殴れば、彼は、集会で牛革鞭で60回打たれる(57頁)、§203アヴィールム仲間が対等のアヴィールム仲間の頬をなぐれば、銀1マナを支払う(57頁)、§204ムシュケーヌムがムシュケーヌムの頬を殴ったら、銀10シキル(約83g)を支払う(57ー8頁)、§205アヴィールムの奴隷がアヴィールム仲間の頬をなぐれば、奴隷は耳を切り落とす(58頁)、§206アヴィールムがけんかで別のアヴィールムを殴り、傷を負わせれば、故意でないことを立証した上で、医者の治療の責任を負う(58頁)、§207彼が殴って相手が死んだ場合、(故意でないことを)誓わねばならず、死亡者がアヴィール仲間なら、銀2分1マナ(約250g)を支払う(58頁)、§208、死亡者がムシュケーヌム仲間なら、銀3分1マナ(約250g)を支払う(58頁)などとした。
後継者を確保するため、妊婦の暴行を防止しようとして、§209アヴィールムが対等のアヴィールム仲間の女性を殴って胎児を流産させれば、銀10シキル(約83g)を支払う(58頁)、§210その女性が死去すれば、そのアヴィールムの娘を殺さねばならない(59頁)、§211ムシュケーヌム仲間の女性を殴って彼女の胎児を流産させた場合、彼は銀5シキル(約41g)を支払う(59頁)、§212その女性が死去したら、彼は銀2分1マナ(約250g)を支払う(59頁)、§213彼がアヴィールムの女奴隷を殴って彼女の胎児を流産させれば、彼は銀2シキル(16.7g)を支払う(59頁)、§214その女奴隷が死去すれば、彼は銀3分1マナ(167g)を支払う(59頁)とした。
D)当時の技術者・職人について、まず外科医からみれば、彼の報酬と責任について、§215医者がアヴィールムに手術して直し、あるいは手術して目を直せば、彼は銀10シキル(約83g)を取れる(59頁)、§216ムシュケーヌム仲間なら、医者は銀5シキルを受け取れる(60頁)、§217アヴィールムの奴隷なら、奴隷の所有者は医者に銀2シキルを与える(60頁)、§218医者がアヴィールムに手術して直せず、あるいは手術して目を直せなかった場合、彼らは医者の腕を切り落とさなければならない(60頁)、§219医者がムシュケーヌムの奴隷に青銅のランセットで大傷を負わせ、死なせたらば、彼は同等の奴隷を償わなければならない(60頁)、§220医者がムシュケーヌムの奴隷に青銅のランセットでこめかみを切開して目を損なったら、医者は奴隷の値段の半分の銀を支払う(60頁)、§221医者がアヴィールムの折れた骨を直したり、あるいはひどい筋の痛みを治したならば、患者は医者に銀5シキルを与える、§222ムシュケーヌム仲間なら、彼は医者に銀3シキルを与える(60頁)、§223アヴィールムの奴隷なら、奴隷所有者は医者に銀2シキルを与える(61頁)、§224牛・ロバの医者が、牛・ロバを治したならば、牛・ロバの所有者は銀6分1シキルを支払う(61頁)、§225牛・ロバを死なせれば、医者は、牛・ロバの所有者に、「その値段の4分1」を支払う(61頁)と定めた。
理髪師・大工について、§226理髪師が「所有者の承諾」なしに「奴隷の目印の髪型」を切り落とせば、彼らは「理髪師の腕」を切り落とす(61頁)、§227人が理髪師を欺いて、「奴隷の目印の髪型」を切り落とせば、彼らは、その人を殺し、市門にさらす(61頁)、§228大工が家を建て、完成させれば、家1ムシャル(36u)につき銀2シキルを「彼の贈物」として与えなければならない(61頁)、§229大工が家を建てたが、「万全を期さなかった」ので、「家が倒壊し家の所有者を死なせたなら」、大工は死刑とする(61頁)、§230この家倒壊で「家の所有者の息子」を死なせれば、彼らは「その大工の息子を殺さなければならない」(62頁)、§231この家倒壊で「家の所有者の奴隷」を死なせれば、大工は「同等の奴隷」を与えなければならない(62頁)、§232この家倒壊で「財産(家財道具)」を毀損したら、大工は「償わなければなら」ず、大工は、「彼自身の財産で倒壊した家を建て直さなければならない」(62頁)、§233大工が「仕事を慎重に行わず」、「壁が曲がれば」、大工は「自費でその壁を強化しなければならない」(62頁)とした。
居酒屋の経営者たる女主人につては、§108居酒屋の女主人が、代価銀を大きな分銅でうけとったり、ビール量を少なくしたりして、ビールの値段を不当に釣り上げた場合、客は女主人の方法行為を立証し、立証すれば、彼女を「水に投げ込む」(31ー2頁)、§109居酒屋で無法者が謀議し、女主人が無法者を王宮に連行しなかった場合、死刑とする(32頁)、§110「尼僧院に居住しないウグバブトムでもあるナディートゥム修道女」が、居酒屋を開いたり、居酒屋に入れば、焼き殺す(32頁)、§111居酒屋の女主人がビール1ーフ(容器)を掛け売りした場合、収穫時に5スート(約50?)の大麦を受け取る(32頁)などとした。
各種職人の賃料について、§272荷車の賃借料は、1日につき大麦4スート(約40g)(69頁)、§273賃労働者には、最初半年(1−5月)は1日銀6粒(0,28g)、次の半年は1日銀5粒与える(69頁)、§274日当賃料は、職人は銀5粒、織物人は銀5粒、リネン職人は銀(不明)、印章彫刻師は銀(不明)、弓矢職人は銀(不明)、細工師は銀(不明)、大工職人は銀4粒、皮細工は銀(不明)、革細工師は銀(不明)、葦細工師は銀(不明)、建築師は銀(不明)(69頁)、§275、(不明)の1日当たり雇用料は銀3粒(69頁)とした。
E)権力に関わる条項としては、兵士の規定があるのみである。官僚・軍人・書記については服務内規があったであろうが、それらは国内民衆・諸王に公言するようなことではなかったのであろう。肝腎な国家転覆の防止については、前述の様に後書きで神々の処罰事項として定めていたから、判例集などでさだめることはなかったし、そういうことを想定することはありえなかったのであろう。
各地で兵役忌避などがおこれば、権力の存続にも関わるので、これにつては、§26「王の遠征」随行を命じられたレードゥーム兵士(家畜を追う者、護送・連行する兵、憲兵)、バーイルム兵士(鳥獣を捕える者)が忌避したり、傭兵を差し出せば、死刑とする、§33遠征に加わらなかった中隊長、小隊長は死刑にすると、厳罰をもって対処した。また、§34レードゥーム兵士の家財道具を横領したり、虐待した中隊長、小隊長は死刑にすると、軍幹部の規律を厳しく定めた。
当時、バビロニアでは、兵役義務(イルクム義務)者には権力から反対給付としてイルクム地(耕地。果樹園)を与えられていた。そこで、兵役義務と国家支給の土地殿関係について、§27捕虜となったレードゥーム兵士、バーイルム兵士の「耕地と果樹園」は「別の人」にあたえ、釈放されれば、返還する、§28捕虜となったレードゥーム兵士、バーイルム兵士に息子がいて、「イルクム義務」をはたせるならば、耕地・果樹園は彼に与える(15頁)、§29息子が幼くてイルクム義務をはたせなければ、「耕地と果樹園の3分の1が彼の母親に与えられなければならない」、§30レードゥーム兵士、バーイルム兵士がイルクム義務に耐えられず逃亡し、別の人が3年間耕地・果樹園・家を保有し、イルクム義務を果たせば、その継続保有を認める(16頁)、§31逃亡兵士が1年間で戻れば、耕地・果樹園・家を戻す、§32商人が捕虜兵士を請け出せば、順に「彼の家」、「彼の市の神殿」、「王宮」が「請出すもの」をあたえ、「彼の耕地、彼の果樹園および彼の家は、彼の請け出し資金の代わりに与えられてはならない」、§36レードゥーム兵士、バーイルム兵士あるいは後方支援義務(ビルトゥム義務)者の「耕地、果樹園、家」は売却を禁止する(17頁)、§38レードゥーム兵士、バーイルム兵士あるいは後方支援義務(ビルトゥム義務)者は、「イルクム義務の付随する耕地、果樹園あるいは家」を妻・娘に名義変更できないし、債務弁済に充当できない(18頁)、§39「買い受けて手に入れる耕地、果樹園あるいは家」は、妻・娘に名義変更できるし、債務弁済に充当できると、詳細にこの取り扱いが定められた。
以上、ハンムラビ法典の考察によって、我々は、富の登場と増加で生じた諸問題に対して、まず権力は神々によって自らの統治の正当化をはかり、次いで法によって富の生産・流通・分配の利害調整を図って秩序を維持し、正義と公正を実現しようとしていることを確認した。これこそが、「富と権力」システム下での法の基本的的役割なのである。こうして、我々は、国家形態が議会制民主主義にかわり、権力正当化の根拠が神々から議会(民意)にかわり、富の増殖方式が資本制に変わり、法が憲法、民法、商法、刑法などに分化し、人権を尊重し始めたとしても、「富と権力」システム下の法の基本的性格にかわりはないことを把握することができるのである。ハンムラビ法典の画期的重要性は、いつにこの点にあるのである。
(5)、富と権力が密接に連関する富社会では、「政治とは経済であり、経済とは政治である」ということになる。
economicsの語源とされる家政oikonomikosにもpolitical economyを髣髴とさせる側面があった。ソクラテスの弟子クセノフォン(前427−前355年頃)は、『オイコノミコス 家政について』(越前谷悦子訳、リーベル出版、2010年)を著し、これを精しく説明している。oikonomikosとは、oikos「家」とnomosu「統治する、管理する」からなる言葉であり、訳者は、クセノフォンは、「単なる家政論にとどまらず、家政を通しての国政論でもあり、統治、統率の方法論でもある」(訳者解説、178頁)としている。それはなぜか。特に大土地所有者貴族・騎士にとっては、家政の維持は軍事的ポリス共同体維持には不可欠であったからである。国家領域、人口がもっと大きければ、「国家の基礎は民富」などの把握は自然にでてきたであろうが(例えば、人口約500万人の古代日本などを想起)、都市国家であり、市民規模も数万人では、「都市国家の基礎は市民家政」という認識にならざをえなかったのであろう。だが、国家・人口規模の相違はあるものの、「国家の基礎は民富」という発想原理では同じなのであり、ギリシアでは、市民家政は、軍事的ポリスを支える最小単位として重要とされていたのである。おうおうに経済学の語源とされるオイコノミコスとは、軍事的ポリスの基礎単位の管理論だったということが留意されよう。Political
Economyそのものである。
少し、この点を具体的に見ておこう。ソクラテスは戦争遂行の観点から、「良き家政家とは、敵から利益を得るように敵に対してもまた、対処の仕方を心得ている」(『オイコノミコス』16頁)とし、「たくさんの家」「個人の家も僭主の館」も「戦争のおかげで大きくなっている」(16頁)とする。
イスマコス(大土地所有者)は軍隊を例に家政の整理整頓の重要性を説き、妻に、「妻・・もまた、家の内のことに定められた規則の番人なのだ、だから、丁度、指揮官が部隊を視察するように、適時、用具を注意深く調べるように、議会が馬や騎士を検分するように、家財道具の保存状態の善し悪しを検分するように、そして、女王のように、功績のある者を自分の度量によって褒賞し、時には、その必要ある者を叱責するように」(『オイコノミコス』82頁)と、軍人のように家の監督をすることを指示した。
大土地所有者の経営については、ソクラテスはその軍事的管理を提唱した。ソクラテスは、「ペルシャの王様・・・は農業と戦術は最も高貴で必要な仕事のうちにはいると信じていて、双方に多大な関心を寄せている」(『オイコノミコス』38頁)とし、「結局のところ、大体、土地を良く耕していない人達というのは、警備隊を養うことが出来ないし、税金を払うことも出来ないということだ」(41頁)とした。ソクラテスは、「農業はまた、人々を指揮することにも習熟させ」、「農夫が農奴達を励ます回数は、指揮官が兵達を励ます回数に劣っていない」(『オイコノミコス』48頁)とした。イスマコスは、「農業でも、政治でも、家政や戦争でも、すべての事柄に共通なのは、指揮の仕方であ」(158頁)り、「指揮官の才覚によってある集団と他の集団の間に大きな差が生じるというあなたの意見に賛成です」(158ー9頁)とした。
さらに、家政oikonomikosのみならず、当時のギリシアの善・美・名誉などもギリシア軍事的ポリス体制に深く関わっていたのである。プラトン『法律』では、アテナイ人は、第一に「魂に関する善いものが、そこに節制のある場合に、最も名誉のあるもの」であり、第二は「肉体に関する美しいもの善いもの」とし、第三に「財産や金銭に関して善いものといわれているもの」を位置づけた。アテナイ人は、ギリシアが慢性的な戦争状態であるだけに、士気を高め、緊張を和らがせるために、上位に善・名誉・美をおき、下位に金銭をおいたのである(プラトン『法律』[『プラトン全集』9、141−2頁])。
第二に関して、アテナイ人は「共同食事と体育とは立法家によって戦争目当てに発明されている」とし、スパルタ人(メギルロス)から同意される(プラトン『法律』[『プラトン全集』9、角川書店、1975年、24頁])。さらに、スパルタ人は、「互いに手を以ってやり合う格闘」、「さんざん擲り合ってなされる一種の掠奪」、「クリュテイア」(「冬に裸足歩き、寝床に眠らないで、従者の手をかりず自分で自分の用を足して夜となく昼となく国中を徘徊するもの」)、「ギュムノパイディアイ」(「暑熱の力と戦う」もの)などがあると付け足した(プラトン『法律』[『プラトン全集』9、25頁])。ギリシア肉体美は戦争と深く関わっていたのである。まさに、当時のギリシアでは、善・名誉・美などが軍事的士気高揚に不可欠のものとされていたことが確認される。単なる善・名誉・美ではないのである。危険な香に満ち満ちているのである。我々は、手放しでギリシアの善・美・名誉を賛美することはできないのである。
近代経済学の祖といわれるアダム・スミスは、「経済学」とはPolitical Economy以外の何ものでもないことを明らかにした。以後、厚生経済・福祉経済・環境経済などが登場してきて、いつしかPolitical
Economyという名称は消え去ったかであるが、厚生経済・福祉経済・環境経済などの主要政策主体が権力である点ではPolitical
Economyに何ら変わりはないのである。
(6)、我々は、「一面では貨幣を承認しながらも、他面では貨幣を憂鬱な贈り物だと感じながら暮らしている」(内山節『貨幣の思想史』新潮選書、平成9年、10頁)。なぜ、貨幣は憂鬱な贈り物になったのか。そもそも貨幣は「贈り物」などというものであったのか。
貨幣の機能は、一般に価値尺度、貯蓄手段、交換手段などとされている。だが、これらは後付のものであり、このうち価値尺度、貯蓄手段と交換手段とは根本的に機能が違う。では、貨幣とはそもそもいかなるものとして生み出されたのか。
基本的には貨幣は富社会での権力による致富手段として発行され、まずもって価値尺度、貯蓄手段として登場したのである。これは、いかに強調しても強調しすぎることはない。自然社会には貨幣と言うものは必要なかったが、富社会では、額面から調達・鋳造費用(地金、鋳造加工費、或いは運搬費)を引いた残りが、権力の利益となることから、権力が統治費用を支弁するため農民を搾取して財政基盤を樹立しようとして貨幣を発行した。権力は、国の財政・経済基盤を樹立するために貨幣を発行したのであり、「当初政府は、銭貨をつぎつぎに出せば国家事業の費用は自由に捻出できる」(松尾光『古代の豪族と社会』笠間書院、2005年、319頁)と考えたのである。
603年最初の貨幣が発行されたが、それが富本銭と称されていたのは、この権力意図を端的に物語る。富本は、「国を富ますの本は食貨(食物と貨幣)にあり」(『晋書』食貨志)に由来する。後漢の光武帝は、これに従って「前漢時代の五鋳銭」を発行し、日本の天武朝は「唐の開元通宝の規格に合わせながら、後漢時代の『富本』に関する政治思想を受け継いだ」(吉村武彦「古代の文化と思想」[『日本史講座』東大出版会、2004年、331頁])のである。
その後、天武天皇は、天武12年(683年)「今より以後、必ず銅銭を用いよ」と命じ(『日本書記』)、和銅元年(708)から天徳2年(958)に皇朝十二銭(和同開珎から乾元大宝)が発行された。「珎」の字が「寶」の異体字である「寳」の略字であるかどうかについて論争があるが、和同開珎以後の銭にはすべて宝がついているように、貨幣は国に宝=富をもたらすものとされていた事が重要である。
そして、淳仁天皇の時、天平宝字4年(760年)3月16日、太政大臣藤原仲麻呂=恵美押勝が鋳造権を与えられて、私鋳銭多くて混乱している通貨に対処すると称して、和銅開珎に次ぐ第二の銅銭として万年通宝を発行しだした。だが、換算率を「旧銭の十に当てよ」として、改鋳益捻出をはかっていて、「政府の利益」(前掲『続日本紀』三、岩波書店、349頁)が確保されていた。以後の新銭発行は、多くの私鋳銭による混乱に乗じた10倍換算率発行でなされてゆく。
確かに、銭は罹災窮民の救助にもつかわれてはいる。例えば、承和9年7月20日、遣使して、失火百姓六萬に銭を班給させた(『続日本後紀』巻四、『国史大系』3、吉川弘文館、平成12年、138頁)。だが、これは、例外的であり、大勢では、あくまで権力、支配階級の利益のために使われた。延暦15(796)年11月8日には、詔して、「民を済(すく)う要諦が国益を増す良策であり、賢い指導者はこの原則により、時機に適うよう事にあたり、軽財である銭を使用して円滑な経済活動を推進している」と、国家の貨幣鋳造を「民を済う要諦が国益を増す」ことだとして、貨幣が民間経済を活発化するなどと、国家に都合よく評価する(森田悌訳『日本後紀』上、講談社、2006年、79頁)。
しかし、都の民衆は、この貨幣導入で物価騰貴という生活困窮問題に直面することになる。例えば、天平神護元年(765年)2月旱で凶作となって「京師の米 貴(たか)」くなり、西海道諸国に「ほしいままに私の米をはこば」(前掲『続日本紀』四、岩波書店、75頁)せたのであった。4月16日には、「米の価」が「踊貴」したので、「左右京の穀(もみ)各一千石を東西市にうる」(前掲『続日本紀』四、岩波書店、83頁)ことをしている。貨幣発行の利益を享受したのは、民衆ではなかったのである。貨幣利益を享受できたのは、あくまで権力であり、権力を支える上層階級らであった。
権力を支える上層階級が貨幣で利益を受けた具体例としては、承和2(835)年10月23日、大藏省に新錢を進めしめ、見參親王以下五位已上に分賜し、又嵯峨・淳和兩院に各十万文を奉り、皇太子に二万文を賜っている事があげられる(『続日本後紀』巻四、『国史大系』3、吉川弘文館、平成12年、42頁)。僧侶にも支給されており、例えば、承和2年10月28日、勅して、新錢四万文を以て、これを分けて、京城及平城有名之寺仏僧に供施する。毎寺に内舍人を使いと爲した(『続日本後紀』巻四、『国史大系』3、吉川弘文館、平成12年、43頁)。
また、銭は、権力の意に反して、一部富豪の蓄財にも利用されたようだ。『三代実録』巻十四によると、貞観9年(867)5月10日、勅して、まず、「延暦十七(798)年九月廿三日格に云う、『用銭之道は、軽便において取る。利の有無、均、彼此得宜は聞く如し、「外国(畿外の意味)吏民は多く貯蓄あり。京畿士庶は乏しい資用をめぐらす」。既に乖均利之義は、亦得宜之方を失う。宜しく嚴制を下す。更に然らざるを得ず。所有之銭は、盡く皆官に納める。仍りて正税に用いる。價に准じてこれを給す。京之功を送る。亦正税を用いる。藏ありて、進まざるがごとし。他を被告となし、蔭贖(おんしょく)を論ざず(律令制では皇族・五位以上は、贖銅[しょくどう]で罪を代償できたが、ここではそれには関係なく、罪に服させるとする)、違罪を科す。其物を五分して、一分は告者に給し、四分は官が没収する。但し、伊賀、近江、若狹、丹波、紀伊国などにあらざれば、制限を禁ずる』」と、貨幣蓄財を禁止して、従来の蓄銭叙位を転換するとした。しかし、「今畿外諸国富豪之輩は、格旨を慎まず、猶事を貯積する。其由緒を聞く。資用に充てざれば、徒らに富強之名を奢(おご)る。各が聚集之夥を争う。辺鄙では既に通用之理は無い」と、畿外諸国富豪は貨幣していたので、「宜しく其資用を聴き、其貯蓄を禁じよ」とした。
なお、自分の専攻を金融・金融史などに限定する者がままいるが、これなどは以ての外の非学問的態度といわざるをえない。金融史だけやっていては、ダイナミックな学問的把握などはできないし、学問的志の高いものは研究領域を金融専門などに限定することはないのである。
(7)、一般に、宗教とは、自然や宇宙などへの人間の不安・恐怖を和らげることに起因するものであり、神話(人間と世界の起源を神々の存在と関係づけながら展開する物語)・教義(神話を純化したものである場合もある)に基づき儀礼、施設などをそなえ、無限・絶対の超人間的な神仏などを崇拝し、信仰することである。そして、この宗教は、「自然社会の宗教」と「富社会の宗教」に大別される。
後者の「富社会の宗教」は、「自然社会の宗教」とは異なり、富社会成立以来、一貫して、官僚機構、軍事力などとともに、明らかに権力統治手段の一部になっていた。富社会が誕生して以来、権力が宗教を利用しなかった時代はなく、富社会では、宗教はパワーシステムの一部になっていた。こういうことは「古今東西・千年視野」という総合的・根源的学問論という観点の導入によって初めて明らかになり、縄張り根性の専門研究だけで事足りるとするような非学問的態度ではとてもとても気づかないことである。
権力は、古今東西、誕生以来、既存の「自然宗教」を統治手段に利用し、権力宗教を作り、育ててゆくぼである。日本でも、当初は、既存の縄文時代以来の「自然宗教」を土台の一つとして中国の道教などをも加味して「神祇」をつくり上げ、人民統治宗教として利用していった。やがて、仏教が導入されてくると、日本では神祇統治(神祇を人民統治に利用すること。詳細は『日本主義』[白陽社、季刊]などに掲載した一連の拙稿を参照)を堅持しようとする物部らと仏教統治(権力が仏教を人民統治に利用すること)を推進しようとする蘇我氏らとの間で激しい対立を起こしたことは周知である。
しかし、以後、仏教は神祇と「共存」し、「神仏習合」が展開されたとして、神仏が「原理的」に異なる側面、対立する側面が無視ないし軽視されてしまった。筆者は、総合的・根源的に学問的に把握する必要から、前近代と近代の分水嶺である明治維新を当初から研究の起点とし(だから、その当時から、総合的・根源的[当時は全体的と表現していた]に把握しようとしていたので、私の研究報告はいつも長大なものとならざるをえなかった)、幕末期の国学運動、維新政府の神仏分離令などをよく知っていたので、この神祇と仏教とは原理的に相違するものであり、神仏習合とは権力が統治上の必要からつくりだしたものであり、仏教導入以後も権力の人民統治面で「神仏習合」という側面と同時に「神仏対立」の側面もまた持続していたことに着目していた。
権力は、人民統治の手段の一つとして、神祇のみならず仏教をも利用するが、やがてそれは権力内部で神祇覇権と仏教覇権の権力闘争を生む。神祇側は、根幹を神祇で固めること(神祇覇権)がなによりも必要だとし(大化改新ー不改常典ー聖徳太子・聖武天皇・称徳天皇の仏教王国樹立の挫折ー平安遷都など)、一方、この過程で仏教側は覇権をめざしつつも、神祇覇権権力に迎合するために変容してゆき(これは空海真言密教[『文鏡秘府』、『秘蔵宝鑰』、『即身成仏義』]で頂点に達したようだ[山折哲雄『空海の企て』角川選書、平成20年])、まさに神祇と仏教との間には「習合と対立」についての濃淡差を帯びた複雑な動態的展開があったのある。
これは、各天皇ごとに神祇統治と仏教統治の関係を実証的に考察することによって、明らかにされよう(詳細は『日本主義』[白陽社、季刊]などに掲載した一連の拙稿を参照)。もし、権力が宗教統治を神祇だけで行こうと決断すれば、いつでも中国のように廃仏的政策をうちだすこともできたが、神祇を根幹にすえながらも、一度も権力は廃仏政策をだすことなく、天皇や藤原らの葬式に積極的に仏教を利用し、神祇と仏教を全国統治手段として利用していった。
こうして神祇と仏教は権力の宗教政策によって習合してゆき、まさに神仏習合は権力の宗教政策そのものであったが、重要なことは、平安遷都までは、権力の側で、神祇覇権でゆくか、仏教覇権でゆくかという原理的対立があり、必ずしもいずれで行くが決定されていなかったということである。元来、仏教と神祇は原理的に異なるものであり、故にこそ権力の根幹に関わる伊勢神宮及び近辺では神仏習合的なことは穢れ、或いは国異として排除されていた。
例えば、承和7年12月7日、伊勢大神宮に遣使し、宣詔して曰く、「頃日之間、御心に思う所あり。將さに幣帛を供え奉る。而して国家諒闇(淳和上皇死去をさす)にて、御意を果たさず。これに加え、今年は肥後国にある神霊池が涸盡して四十餘丈となる。以って国異となすに足る。これに因りてこれを祈祷せしむ。これより先、伊勢国桑名郡多度神宮寺を天台別院となしたが、今これを停める」(『続日本後記』[『国史大系』3、吉川弘文館、平成12年])。こうした伊勢神宮近辺での神仏習合ですら天変地異の要因とみて、これを停止したのである。
こうした既存宗教と新興仏教との複雑な関係は、仏教王国を構築しようとする場合にはどこの国でも見られたことであり、さらに権力頭部では国王と仏教法王との連関・位置づけ(どっちが権力中枢か、いずれが人民統治の主体になるかなど)が鋭い問題になる。こうした権力の人民統治上での神祇・仏教の利用(神祇統治・仏教統治の対立・習合)の観点を導入する時に、通説を塗り替える、実に多くの重大発見がなされる。
さらに、こうして権力は誕生以来宗教を人民統治に利用してきたという観点から現代政治を見るとき、この観点からも現代の政治的混迷が良くわかってくる。戦後憲法で権力の宗教利用が禁止されて、現在、日本権力は史上初めて宗教を人心収攬、民意掌握などに利用できなくなったということが見えてくるのである。宗教を人心収攬、民意掌握に利用できた場合でも、矛盾が深刻化すると、権力宗教も役に立たなくなるのであるから、権力宗教が利用できないということは現在の権力政治には大問題なのである。
(8)、人間が最初に記した戦争史はホメロスがトロイエ戦争を題材にした『イリアス』であろうが、それは後述の通り、権力者が神々とともに戦争を行い、権力者の戦争を鼓舞するようなものであった。その意味では、事実・見聞などに基づきペルシァ戦争についてヘロドトスが記述した『ヒストリエ』は、最初の本格的な戦争史である。ヘロドトスは、欧米では「歴史の父」と称されており、ゆえに彼の記した史上初めての本格的戦史『ヒストリエ』において、我々の問題提起即ち「なぜ人間は戦争をするか」が考察されているか否かなどを吟味することは非常に興味深いこととなる。
1、まず、ヘロドトスの問題意識と方法から探ってみよう。
ヘロドトスは、自らの誕生・成長・晩年の過程(前485年頃 - 前420年頃)で勃発したペルシァ戦争(前492年ー前450年)を「ギリシァ人や異民族の果した偉大な驚嘆すべき事蹟の数々ーとりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情」について、「やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、みずから研究調査したところを書き述べた」(67頁)のである。恐らくトロイエ戦争について、ホメロス叙事詩や断片的な語り継がれてきたことなどがある程度であって、ヘロドトスに生きた時代にはなぜトロイエ戦争が起ったのかについては、ほとんどわからなくなってきたということもあったかもしれない。或いは、ホメロスは「トロイア戦争よりもはるかに後世(ホメロスらの生きた時代から4−500年前ー筆者)の人」(トゥキュディデス『戦史』[久保正彰訳、『世界の名著』5、中央公論社、昭和51年、318頁])であり、故に長い年月が経つと、事実探究や見聞聴取も不可能となって、『イリアス』の如く詩的想像が強くなって、詳細な史実に基づいて叙述できなくなることに気づいていたのかもしれない。
ヘロドトスは、ペルシァ戦争の原因については、戦場となった現地などを調査し、体験者・目撃者・関係者らに聞き書きして、言い伝えなどをも含めて事実を広く探究して記したのである。さらに、彼は、現在のみならず、ペルシァ側とギリシァ側の対立の淵源を過去に遡って考察しており、故に過去も必要な限りで見聞などに基づき探究していた。後の人々が、『ヒストリエ』を『歴史』と受け止めてゆく所以である。こうした実証的態度は、ホメロスが、『イリアス』で、神々と権力者との絡み合いでトロイエ戦争を詩歌で表現したのとは大きく異なり(後述)、基本的に権力者がいかに戦争を決定し、遂行したかを中心にすえてペルシァ戦争の淵源・原因・展開を解き明かし、神々などはその限りで扱われるということに留めたのである。
だが、民衆がこの戦争でいかに苦しんだかという視点はここでも欠落していた。戦争に動員され重い負担に苦しんだ一般兵は農民・漁民だったはずであり、業火に苛まれて生活を破壊されたのも農民・漁民だったはずであるが、「歴史の父」と称されるヘロドトスはこの民衆が戦争に苦しむ観点を欠落させていたのである。戦史には、「偉大な驚嘆すべき事蹟」などだけではないにもかかわらず、民衆の蒙った惨害については叙述されることはなかったのである。
それでも、ヘロドトスが、「権力と富」のシステムのもとでの史上最初の大規模国家間戦争について、開戦に至る権力者の判断を初めて明確に示したことは、極めて貴重であり画期的だといわねばならない。彼は、初めて「なぜ人間は戦争をするか」を考察し記録したのである。彼は、ペルシァの権力者が開戦を決意した理由として、国威発揚、国富増大、報復の大義名分のもとに、「やるかやられるか」という瀬戸際に直面していたことを初めて明らかにしたのである。
一方、ギリシァ側については、ギリシァ側が、自由の危機、ギリシァの危機として、諸都市国家に団結を呼びかけ、「これに負ければ、ギリシァは隷従身分になる」と危機感を強調して立ち上がることなどが触れられる。ギリシアにとっても、「やるかやられるか」という切迫した事態にまで追い込まれていたのである。ただし、ここでは、ペルシァ戦争について、自由を脅かすアジア専制権力ペルシァと自由・独立を守るギリシァ都市国家連合との対決として描かれ、これに打ち勝った西洋のギリシァ側が美化される。ヘロドトスは、アテナイ人は「ギリシァの自由を保全」し、ペルシァ王を撃退したと高く評価したのである。ヘロドトスは、アテナイ、ギリシァ、ヨーロッパ優越史観に立脚していたのである。
しかし、ペルシァ戦争以前にも大小様々な戦争が行なわれたが、その開戦理由を事実に基づいて本格的に記したものはなかったのであり、これについてのヘロドトスの業績は十分に評価されなければならない。ここでヘロドトスが明らかにした、国家が開戦に踏み切る理由とは、直接的誘因は各時代に応じて多様であろうが、究極的には「やるか、やられるか」という切実な事態、動物の生命防衛本能の発動を余儀なくされる事態にまで追い詰められたからだということであり、これは、「祖国の興廃はこの一戦にあり」などとして各戦闘場面でも絶えず繰り返されたのである。そして、これは、現代にいたるまで国家が開戦に踏み切る上でほぼ共通的理由となっているのである。「富と権力」のシステムのもとでは、こうした国家間戦争は構造的に避けがたいのであり、何度も何度も国家間戦争が繰り返されることになるのである。例えば、近現代の日米戦争などもそうだ。日露戦争以後、中国利権をめぐって、日米両国は「対立状態」に突入し、アメリカが海軍力で日本海軍力には負けないという状況になると、アメリカは資源などで日本を締め上げ、日本側を「やるか、やられるか」という切迫状況に追い込み、開戦させていったのである(詳しくは、拙著『日本外債史論』、拙著『国際財政金融家 高橋是清』を参照)。
こうした権力者の国家間戦争の開戦阻止の原動力は、民衆である。時には愚かだが、基本的には平和志向の民衆こそが、こうした愚かな国家間戦争を抑止するのである。戦争を抑止する真の力は、核兵器でも先進武器ではないのである。「富と権力」のシステムのもとでの国家間戦争を阻止する原動力は、権力者や政治家・官僚の思い上がった「専門」的判断でも、軍事的威嚇でもなく、国境を越えた、平和志向でごく普通の生活感覚をもった民衆の連帯なのである。世界の民衆が連帯するシステム(第二次世界戦の秩序の基づく古臭い、権力者中心の国政連合にとってかわる、世界の民衆中心の国際民衆連合のごときもの)を構築すること、これこそが重要なのである。
2、本書の構成について見ると、巻一ではペルシァ側とギリシァ側の対立の淵源が考察され、キュロス王がいかにアジアの支配者になったかが探究され、巻二ではカンピュセスの統治、巻三・四・五ではダレイオス1世の統治期における「ペルシァとギリシァの対立」が取りあげられ、巻六から巻九まででペルシャ戦争が記述されている。
まず、巻一から要点を指摘すると、@「ペルシァ側の学者の説では、争いの因を成したのはフェニキア人であった」(67頁)として、フェニキア人がエジプト、アッシリア、アルゴス(ギリシァの強大国)との外国貿易に従事する時、アルゴスで「イナコスの娘イオ」王女らを拉致してエジプトに向かったこと(67頁)をきっかけに、ギリシァ人も「数々の暴挙」(フェニキアのチェロスの王女エウロペ、コルキス地方の王女メデイアを拉致)を行なったので、コルキス王はギリシアに王女返還・賠償を求めたが、アルゴス王女拉致の例を挙げて、返還・賠償を求めたこと、A「次の世代」では、「プリアモスの子アレキサンドロスが、右の話を知って、ギリシァ人も補償しなかったのだから、自分もせずにすむだろうと考えたのであろうか、ギリシァから自分の妻たるべき女を掠奪してこようと思い立」(68頁)ち、ギリシァ側は返還・賠償を求めたが、アレクサンドロス側は「メディア掠奪の先例を楯」にこれを非難したので、ギリシァ側は、「大軍を集め、アジアに進攻してプリアモスの国を滅ぼし」たことから、「以後はギリシァ人の側に大いに罪があることにな」り、ペルシァは「ギリシァを自分らの敵であると考えている」(67ー8頁)とし始めたとされる。ペルシァ人には、このギリシァのイリオス(トロイエ)攻略が原因となって、「ギリシア人に対する敵意」(68頁)が生じたとする。ここでは、トロイエ戦争がギリシァとアジアの戦争(後に再術)と見て、ペルシァのギリシァへの敵意の淵源としたことが注目される。
次いで、リュディア国(前7世紀から8世紀にアナトリアにさかえた王国、首都はサルディス)王のクロイソス(前595年ー前547年頃)が取りあげられ、@「このクロイソスが、・・ギリシァ人をあるいは征服して朝貢を強い、あるいはこれと友好関係を結んだ、最初の非ギリシァ人(バルバロス)」(68頁)であり、「殷賑の頂点」(74頁)に達し、Aアテナイのソロン(前639年頃ー前559年頃)が訪問して、クロイソスはソロンに「そなたは世界一しあわせな人間であったか」と訊ねた所(74頁)、ソロンが、一番目は「アテナイのテロス」、二番目に「クレオビスとビトンの兄弟」だとして、クロイソスをあげなかったので、クロイソスはその理由を尋ねると、ソロンは、クロイソスが「莫大な富」をもち「多数の民」を統治しているが、「万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日暮しの者より幸福であるとは決して申せ」(76頁)ないとし、富と幸福の関連について、ソロンは、「腐るほど金があても不幸な者もたくさんおれば、富はなくても良き運に恵まれる者もたくさんおります」(76頁)とし、B「ペルシァの国勢が日に日に増大」すると、クロイソスの脅威となり、「ペルシァが強大になる前に・・勢力を抑え」ようとし(77頁)、クロイソスは、ギリシァの神託所に使者を送り(77頁)、「リビュアではアンモン(エジプトの神)のもとへ別の者を派遣」(78頁)して、現在の自分についての神託を求めた所、デルポイの神託が正しいとして、具体的に「ペルシァ征伐について神託を伺った」所、ペルシァ帝国を滅ぼすこと、ギリシァ最強国を同盟国にすることなどとされ(78頁)、C、当時のギリシァ強大国アテナイ、スパルタのうち、アテナイは、「非ギリシァ系」のベラスゴイ民族の一部であり、「ベラスゴイ人は、どの部族も強大になった例はないこと」、「僭主であったペイシストラトスの治下にあって、内に苦しみ分裂していること」などを知り、一方、「ラケダイモン(スパルタ)のほうは、非常な苦難を切り抜けたところで、今やテゲアをも制圧せんとする勢いにあること」を知り、スパルタと同盟することにし(88頁)、Dしかし、前547年、ペルシァのキュロス大王(前600年頃ー前529年)に敗れ征圧され、キュロスが、クロイソスノの火刑を免じ、ペルシァとの開戦を仕向けたのは何ものかと訊ねると、「私に出兵を促した」のは「ギリシァの神の仕業」(91頁)とし、Eクロイソスは仕えることになったキュロスに、リュディアの首都で掠奪し財宝を運び去るペルシァ兵に、「ゼウスに十分の一のお供えをせねばならぬ」(91頁)と言い渡せと助言し、Fデルポイに使いを立て、「ギリシァの神」を「どの神よりも一番に崇敬しておった」のに、なぜペルシァ戦争をそそのかしたのかを責めた所(92頁)、デルポイの巫女は、「クロイソスは4代前の先祖の罪」(主君を殺したギュゲスの罪)をあがなわされたこと、それでも「宿命の女神」のおかげで「サルディスの陥落」を3年遅らせ火あぶりのクロイソスを救ったこと、「クロイソスがペルシァに出兵いたせば、大帝国を滅ぼすとのみ予言された」ことなどと告げたので(93頁)、クロイソスは、「あやまちの責めは自分にあり、神にはないことを悟」(94頁)ったことなどが述べられる。Aで展開された議論は、今でも繰り返される「富と幸福」の原理的論点であり、Bはリュディアがペルシアに「やられる」前に開戦を決意し始めたことが簡単に指摘されていて、注目すべきである。
こうして「キュロスはクロイソスを征服することによって全アジアの支配者とな」(96頁)り、ここにアケメネス朝ペルシァが築かれた。そして、キュロスは「大陸をことごとく自分の支配下に収めると、今度はアッシリアの攻撃に向か」(101頁)い、さらに「アテナイを除いてイオニア(アナトリア半島南西部)の全土を平定」し「ペルシァの朝貢国」(クセルクセス1世の叔父アルタバノス言[250頁])とした。だが、キュロスは、バビロン攻略後のマッサゲタイ攻略戦で戦死した。
巻二では、キュロスの後を継いだカンピュセス(在位前539−前550年頃)が、「イオニア人およびアイオリス人を父からゆずられた奴隷のごとく見なしていた」(114頁)事が触れられる。この隷従ギリシァ人もエイプト遠征軍に加えられた。ここで、ヘロドトスはエジプトについて、プサンメティコス王(在位は前663−609年、第26王朝の祖)の「実験」(エジプト人が最古の民族であるか否かについての)、エジプト人最初の発明(暦、12神の呼称、初代の人間王)、地勢、健康法、旧慣墨守の習性、年長者尊敬の慣習、服装、予兆・占い、医術、葬儀、ミイラ加工法、河川魚の生態、蚊の対策、貨物運搬船、エジプト氾濫時の運行、ケオプス王(第四王朝)の圧制とピラミッド建造への国民苦役、次のミュケリノス王の善政と彼の不幸、次のアシュキス王のミイラ担保金融やレンガ・ピラミッドの建設などが述べられる。これは、ペルシァのエジプト侵略前の前史のつもりであろうが、枝葉末節的叙述が多い。エジプトで、祭司などから聞き書きする過程で多くの「逸話」的収穫があったので、これを付加したのであろうが、本論から見れば、ほとんど関係ない部分であり、省略すべき部分であったろう。
巻三では、興味深いダレイオスの即位過程が明かされる。まず、ペルシァ王カンピュセスが外征(エジプト、アンモンを攻略したが、カルタゴ、エチオピア征圧は失敗[135頁])し、その帰途、怪我で死期を悟って、「王位はアカイメネ家が継ぎ、祖母方のメディア家(97頁)に継がせてはならぬ」と遺言したことが触れられる(139頁)。 このカンビュセスの死後、一時期マゴス僧がペルシァを謀略で支配してきたが、7人のペルシァ要人がこれを打倒し、今後の国家運営について国制会議を開催した。ここでは、実に注目すべき国制論が展開される。オタネスは、独裁制は「秩序ある国制」ではないと批判し、「万事は多数者にかかっているから」、「大衆の主権を確立すべし」と主張したのである(148頁)。これに対して、メガビュゾスは、「なんの用にも立たぬ大衆ほど愚劣でしかも横着なものはない」として、「最も優れた政策が最も優れた人間によって行なわれることは当然の理なのだ」とし、「国事を少数者の統治(寡頭政治)にゆだねるべき」(148頁)だと主張した。一方、ダレイオスは、寡頭政治の弊害(指導者間に「敵対関係が生じやすい」)、民主政の弊害(「公共のことに悪がはにこる」)をあげて、「最も優れたただ一人の人物による統治」が最善だと主張した(148−9頁)。結局、7人中4人が最後の独裁制に賛成し、従来の国制がそんぞくすることになった。ギリシァの影響であろうが、ギリシァの都市国家においてのみならず、専制国家ペルシァですら民主政が議論されていたことは興味深いことである。
オタネスは辞退したので、6人のうちから「最も公正な仕方」(「一同騎乗して城外に遠乗りをし、日の出とともに最初にいなないた馬の主が王位がつく」)で国王を選定することになり、ダレイオスは、馬丁の画策で自分の騎乗した馬に最初にいななかせることに成功して、王位についた。即位すると、ダレイオスは、版図を20行政区に分け、各区に総督を任命し、納税額を定めた(152頁)。当時、アジアの東端はインドであり、まだ中国は知られていなかった。南方では、人類の住む最末端はアラビア」(155頁)であり、「子午線が西に傾いている方角では、エチオピアが人の住む世界の涯になる」(158頁)とされていた。やがて、ペルシァ人の通念では、「アジア全土はペルシァ領であり、歴代の王の領土である」(巻九、312頁)とされてゆく。ここに、このダレイオスはサモス攻略・バビロン攻略の外征に着手した。
巻四では、ダレイオスのスキュタイ(ウクライナ南部)遠征と撤退が触れられ(174頁)、スキュタイについて、神々(スキタイが祀る神として最も重んずるのがヘスティア[かまどの神]で、ついでゼウスとゲー[地の神]、さらにアポロン、ウラニア・アプロディテ[天上のアプロディテ]、ヘラクレス、アレスがある。これらは「スキタイ全民族が祀る神」であるが、「王族スキタイはさらにポセイドン[海の神]にも犠牲を供え」る)、肉の煮方、神への生贄、戦争の慣習、首級の扱い、行政区(三つの王国ー各区ごとに長官[169頁])、占い法(169頁)、占い師の死刑、誓約法、王陵(殉死者が多いこと[171頁])、衣類、旧慣墨守(「スキュタイ人も外国の風習を入れることを極度に嫌」い、「ことにギリシァの風習を嫌う」[175頁])、スパルタ依存(スキュタイ王がアナカルシスを「ギリシァの文物を学ぶために派遣」したが、アナカルシスは、「ギリシァ人はラケダイモン人以外はみなあらゆる学芸に余念なく専心しているが、まともな話のやりとりのできるのはラケダイモン人のもである」[17頁])などが述べられる。このスキュタイについても、本論とは無関係な部分が少なくない。
巻五では、@メガバゾス(ダレイオスからヨーロッパ駐留を命じられた)は、ぺリントス、トラキアを攻略し、マケドニアを従属させようとして、頓挫し(176頁)、Aミレトスの僭主アリスタゴラス(ミレトス[現在のトルコの南西部]の僣主代行をペルシア帝国から委任されていたが、ナスソス島反乱で追われてきた富裕層から兵力提供を申し込まれ、時のペルシア王ダレイオス1世の許可を得て、ナクソス島に派兵するが、遠征に失敗し、ここにペルシア帝国の責任追及を恐れて、ペルシア帝国に反乱を起こす)はスパルタ王クレオメネスに、同じギリシァ人として、ペルシァ隷従からの解放を嘆願し(188頁)、ペルシアと開戦して、「アジア全土を支配」し「ゼウスとでもその富を競う」ことを提案したが(189頁)、クレオメネスは、イオニア海岸からペルシァ大王まで進軍するのに3カ月かかることを知って、これを断り(190頁)、Bアルクメオン一族は、アテナイの僭主ヒッピアス(ペイシストラトス一族)を失脚させるべくスパルタを味方に引き入れて、奏功するが(192頁)、スパルタは、アテナイが「日に日に強大」となると、これに危機感を覚え、同盟諸国やヒッピアスを召集して、ヒッピアスのアテナイ復帰を画策する(193頁)が、同盟諸国の多くはこれに反対し、Cヒッピアスは、アテナイを「自分およびダレイオス王」の支配下におくために、策謀をめぐらしたのであった(199頁)。アテナイは、ペルシァ側に使者を送り、ヒッピアスを牽制するが、ペルシァ側は、あくまでヒッピアス復帰を要求した。アテナイはこれを拒絶し、「公然とペルシァに敵対する決意」を表明した(200頁)。Aでは、スパルタに対ペルシァ開戦を提唱するに際して、ペルシァの富が戦争の利益に据えられていることが注目される。
そして、ギリシァとペルシァにとっての「不幸な事件の発端」としてイオニア事件が語られる。アリスタゴラス(ミレトス[イオニアの中心]僭主)は、アテナイに来て、「アジアの資源の豊富なこと」や「対ペルシァ戦術」の要諦を説き、かつ「ミレトスはアテナイの植民地」だからアテナイ保護は当然として、ペルシァ開戦を提唱した。ここでも、アテナイに対ペルシァ戦争を促す理由として、アジア=ペルシァの富が据えられている。アテナイは同意し、20隻の軍船を派遣した(200頁)。これに乗じて、イオニア軍はサルディス(元リディア王国の首都)を占領し、町を炎上させ、「土地の氏神キュぺぺ(アジアで崇拝された大母神)の神殿」も焼失させた(203頁)。しかし、ペルシァ軍に追撃されて、イオニア軍は敗走したが、アテナイはイオニア救援を断念した。
以下、巻六から巻九までで、ようやくペルシャ戦争が記述される。
巻六では、前494年にミレトスはペルシァ軍に陥落し(204頁)、前492年ペルシァはマルドニアス司令官のもとに大軍でアテナイ、エレトリアを攻略するが、大暴雨で失敗し、前490年にペルシァは新司令官のもとにアテナイ、エレトリア攻略を企図することが述べられる(205頁)。つまり、@アテナイは、「ギリシァ最古の・・アテナイが、異民族によって隷従」されぬように、スパルタに救援を要請し、A一方、元アテナイ僭主ヒッピアスは、ペルシァ「騎兵の行動に最も好都合」で「エレトリアにも至近」(208頁)だとして、ペルシァ軍をマラトンに誘導したが、Bアテナイ軍は「ペルシァ風の服装」にも恐怖せず初めて「駆け足で敵に攻撃を試み」、マラトンの戦いで勇猛果敢な動きを見せて、アテネ(戦死者192人)はペルシァ(戦死者6400人)に勝利した(215頁)。ペルシァは、ギリシァ本土での戦闘で最初の敗北を味わったのである。
巻七では、ペルシァ大王ダレイオス1世は、このマラソン敗戦に「憤激」して「ギリシア侵攻にいよいよ気負い立」(224頁)ち3年間「最精鋭の兵士」を育成し遠征準備に従事した。だが、前486年にこのダレイオス1世が死去し、クセルクセスが即位すると、彼はまずエジプトを征圧し、エジプトを「ダレイオス時代よりもいっそう苛酷な条件で隷従」(228頁)させた。
これに勢いを得て、クセルクセスは、「ペルシァの国威の増強」と「産物に恵まれた領土」を加え、「アテナイ人どもが・・働いた数々の悪業の報いを思い知らしめる」ために、ギリシァ遠征に着手するとした(228頁)。さらに、彼は「ヨーロッパ全土を席捲し、これらの諸国をことごとく併呑」(229頁)するとした。国威と国土拡張=富増大と報復のために開戦を決意した。クセルクセスは独断を危惧して、一応重臣らに開戦是非を審議させると、叔父アルタバノスのみが慎重論を述べる。しかし、クセルクセスは「腰抜けの臆病者」(234頁)と断罪し、「われらが行動をおこさずとも、・・かならずやわが国に兵を進めてくる」、「今や双方とも後へは引けぬ。問題はこちらから仕掛けるか仕掛けられるかじゃ」(234頁)、「わが国土がことごとくギリシァ人の支配下に入るか、あるいは彼らの領土をすべてペルシァの版図に加えるかはそれによって定まる。われわれと彼らとの敵対関係には中途半端な解決はない」(235頁)とした。ここには、権力者が追い詰められえて開戦を決意したことが余すところなく語られている。
翌日、クセルクセスは、アルタバノスの意見は「もっとも」としてギリシァ遠征をいったんは中止した。だが、クセルクセス、アルタバノスは遠征中止を非難する夢を見て(236−8頁)、ギリシァ遠征は「神意に基づく」(アルタバノス、238頁)として、前480年遠征が決定された。
「遠征軍は有史以来桁はずれに大規模なもの」(239頁)であり、「さまざまな民族の混成部隊」(251頁)、騎兵隊、「槍を下方に向けて構えた部隊」、「神馬と神車」などからなる陸上部隊は170万人以上に及び、海上部隊は主力艦1207隻、各種船舶3千(253頁)に達した。さらに、「路々諸民族を強制的に従軍させ」(256頁)、陸上部隊規模はさらに膨れ上がった。
クセルクセスは、元スパルタ王デマラトス(在位前515年-前491年。ペルシァに亡命)にギリシァ遠征を諮問した。クセルクセスが、「全ギリシァ人のみならず、西方に住む他の民族が束になってこようとも、彼らが団結しておらぬかぎり、わしの攻撃を支えるに足る戦力は彼らにはない」から、「はたしてギリシァ人どもがあえてわしに刃向かい抵抗するであろうか」(253頁)と問うと、デマラトスは、「わがギリシァの国にとっては昔から貧困は生まれながらの伴侶のごときものでありました。しかしながらわれわれは叡知ときびしい法(ノモス)の力によって勇気の徳を身につけたのであります。この勇気があればこそ、ギリシァは貧困にもくじけず、専制に屈服することもなくまいったのでございます」、だから「ギリシァに隷従を強いるごとき殿のご提案は、絶対に彼らの受諾するところとはなりませぬ」(254頁)、特にスパルタ人は敵の兵力などに頓着せずに戦うと答えたのであった。
クセルクセスは、「一千の兵がこれほどの大軍を相手に戦う」などは「笑止」(254頁)であり、ましてや、「一人の指揮官の采配のもとに」なければ、たとえ5万人でも、「これほどの大軍に向かって対抗しえようか」(255頁)とする。デマラトスは、「(スパルタ兵は)自由」ではあるが、「法と申す主人」をいただき、「団結した場合には世界最強の軍隊」(256頁)だと反論する。
アテネ、スパルタを除いて、多くのギリシァ諸都市はクセルクセスの降伏勧告を受諾した。つまり、@「ペルシァ王の出兵は、名目上はアテナイを討つことになっていたが、その実は全ギリシァの征服を目指すものであ」り、ギリシア人は早くからそのことを知っていたが、この事件をギリシァ人全部が一様に受け取ったわけではな」(256頁)く、Aヘロドトスは、アテネ海軍がなく、海上でペルシァ海軍をおさえるものがなく、「ペルシア海軍によって都市を次から次に占領されてゆけば」、「ラケダイモンは孤立無援の状態に陥り」、「玉砕するのほかはなかった」(257頁)として、「アテナイがギリシァの救世主であ」(257頁)り、アテナイ人は「ギリシァの自由を保全する道を選び、ペルシァに服さず残ったあらゆるギリシア人を覚醒させ、神々の驥尾に付してペルシァ王を撃退し」(257頁)たと高く評価し、Bアテナイへのデルポイ神託は「町は悉く火に焼かれ、滅びる」というものであり、これではまずいと、改めてアテナイ神託使は巫女に神託を願うと、アクロポリスと土地が敵の手に落ちても、ゼウスは、「不落の砦」として「木の砦」を賜うこと、敵の大軍に退避しても「反撃に立ち向かうときもあ」ること、サラミスは「女らの子らを滅ぼす」とした(258−9頁)。
アテナイ・アルコンのテミストクレス(彼の提言で、ラウレイオン銀山の収益を国民に分配せずに、2百隻の船を建造;彼は、アテネ海軍国の立役者)は、「女らの子らを滅ぼす」とは「敵をさしたもの」(260頁)とし、ひるむことなく海戦の準備をせよとした。これに基づき、「アテナイと志を同じくする他のギリシァ人との協力のもとに国の総力を挙げ」、ペルシア海軍を迎え撃つことにした。ギリシァ諸都市は、コリントスの会議で、「同族間の争いをやめ、ギリシァ諸都市が一丸となって敵にあたる」(260頁)ことを決議した。
しかし、ペルシァ海軍はセピアス岬で大暴雨風にあい、艦船4百隻を失ったが、テルモピュライでの戦闘ではペルシァ陸軍300万人(墓碑銘、273頁)のペルシァ陸軍に向かうアテナイ側の「先陣」は僅か5千人余(スパルタ3百人、ラゲア・マンティネイア千人、アルカディア各地千人、コリントス4百人、プレイウス2百人、ミュケナイ80人、ボイオテア1100人、ポーキス千人など)に過ぎなかった。クセルクセスはこれに勝機があるとみたであろう。この小規模軍事力は、当時、ギリシァ諸国はオリンピック祭礼直前で、派兵は禁止されていたので、先遣部隊だけしか出動できなかったことによる。「国ごとにそれぞれの指揮官」がいたが、全軍の指揮に当たったのはスパルタ王のレオニダスであり、彼は、精選された親衛隊「三百人隊」を率いていた(262頁)。
クセルクセスは、「ラケダイモンの部隊」が「体育の練習」をしたり「頭髪に櫛を当てたり」しているとの斥候の報告を受け、この動きを「笑止」とみて安堵した。だが、デマラトスは、この「頭髪の手入れ」とは「生死を賭した」仕事の前の慣習であり、「進入路を賭して」ペルシァ軍と戦う準備をしているのだと警告した。だが、クセルクセスは、「こればかりの兵力で、いかにして自分の軍勢と戦うのであろうか」として、納得しなかった(264−5頁)。そこで、クセルクセスは、まず「メディア人およびキッシア人部隊」に襲撃させたが、ギリシァ側の巧みな「後退戦術」で「メディア人部隊が手痛い目にあわされ」、今度はペルシァ人部隊の「不死隊」(アタナトイ)が攻撃に駆り出された。だが、槍が短く、「メディア人部隊以上の戦果を挙げることはでき」なかった。
さらに、「ギリシァ方は隊列を敷き国別に陣形を整え、入れ替わり立ち替りして戦」い、この巧みな戦術にペルシァ軍は戦況好転させえず、ついに引き上げ退却した(266頁)。だが、「莫大な恩賞」をめあてに「テルモピュライに通じる間道」を王に教える者がでて、ここにギリシァ軍は不利な激戦を強いられ、レオニダスらスパルタ軍は戦死した。
巻八では、ペルシァ大敗北に追い込まれたサラミス海戦が叙述される。
総指揮官のスパルタ提督エウリュビアデスのもとにギリシア連合艦隊の主力艦271隻がアルテミオンを目指した(276頁)。アテナイ指揮官テミストクレスは、「同盟諸国の中にアテナイに反感を抱く者が多」いので、総指揮官にはなれなかった。
ペルシァ陸軍はアテナイに進入し、アクロポリスを焼き払ったので(276頁)、サラミスのギリシァ海軍は、逡巡してか、「地峡の前面」に移動して、海戦をおこなうことになった。これを聞いて、ギリシァ海軍のムネシピロスはテミストクレスに、「艦隊をサラミスから引き揚げれば・・各部隊はそれぞれ自国へむかう」ので、水軍四散を防止するために、総指揮官エウリュビアデスに艦隊をサラミスにとどめるように説得することを要請した(277頁)。早速指揮官会議を招集して、テミスクレスはサラミス海戦の有利性を説き、自説が入れられなければ、アタナィ艦船2百隻を引き揚げると恫喝したので、エウリュビアデスはサラミス海戦に同意した(280頁)。
こうした「危機に瀕したギリシァの運命を憂い」、「ラケダイモン人とアルカディアの全兵力、エリス人、コリントス人、シキュオン人、エピダウロス人、プレイウス人、トロイゼン人、ヘルミオネ人」(284頁)が来援した。彼ら「地峡の部隊」は「祖国の興廃を賭した勝負を争っていることを自覚」し、「水軍による成功には期待すること」はなかった(285頁)。それでも、「サラミスに在るギリシァ軍指揮官たちの間では激しい論争がつづけられてい」(288頁)て、アテナイ人のアリステイデスは、会議場で、「ギリシァ軍の陣地はクセルクセスの水軍によって完全に包囲されているから・・抗戦の準備にかかるべきである」(289頁)と主張した。まだこれを信じる者は少なかったが、テノス人の軍船が「敵方から脱走」して、「この船が真相を余すことなく伝えた」(289頁)ことが判明したのである。380隻からなるギリシア艦隊は、このテノス情報を信じて、「海戦の準備」に入った。
一方、新たに「マリス人、ドーリス人、ロクリス人、・・ボイオティア人(テスピアイとプラタイアを除く)の各部隊、さらにカリュストス人、アンドロス人、テノス人」などがペルシァ陸軍に加わり、「暴風雨による被害、テルモピュライおよびアルテミシオン海戦における損失を補」った(281−2頁)。ペルシァ船団にはクセルクセス自ら訪問して、「シドンの王、テュロスの王」など「各国の僭主と部隊長」を招集し、海戦の是非を問う会議を開催した。「いずれも海戦を行なうべし」と主張したが、ハリカルナッソス女王のアルテミシアだけは「水軍を温存し海戦はなさらぬように」(282頁)と慎重論を唱えた。クセルクセスは、一人堂々と少数意見を開陳したアルテミシアを賞賛したが、サラミス海戦を中止することはなかった。だが、事態はアルテミシアの主張するように動いた。大王自らが海戦を観戦していたので、表面ではペルシァ海軍は「大いに戦意を燃や」さざるをえなかったが、「ペルシァ軍はすでに戦列も乱れ何一つ計画的に行動することができぬ状態」であったから、「ペルシァ軍艦船の大部分」は「整然と戦列も乱さずに戦った」ギリシア海軍に「航行不能」にさせられた(290頁)。しかも、「前線の艦船が逃亡を始めるに至って、ペルシァ艦隊の大半は撃滅の憂き目にあ」(292頁)った。「この海戦でギリシァ人中最も名をあげた」のはアイギナ人で、次はアテナイ人であった(294頁)。
かくして「この海戦に関してバキス(「軍神は血潮にて海を紅に染めべく・・勝利の女神が、ヘラスの国に自由の日をもたらしたもう」[287頁]という託宣)やムサイオスの告げた託宣がことごとく成就した」(295頁)のであった。ギリシァ軍は、神々の託宣に一定度鼓舞されながら戦っていたのである。神々が大きな影響力を持っている時代の戦争は、どこの国でも同じであり、日本でも、神武天皇の東征はもとより、内外の戦争でも天照大神らの神々が影響力を発揮していた(『日本書紀』上[『日本古典文学大系』67、岩波書店、昭和42年])。
だが、クセルクセスは本国に引き上げたが、ペルシァの将軍(陸軍司令官)マルドニオスは「なおもギリシァ征服の野心を捨てず」、30万人の軍勢とともにギリシァに残留した。テッサリアで冬営中のマルドニオスは、マケドニアのアレクサンドロスを使者に立て、アテナイに「和平の提案を試みた」が、アテナイに和平受諾の意思なく、アテナイはスパルタとともに協力してペルシァに対応することになる(295頁)。
巻九では、プラタイア、ミュカレの陸上戦でペルシァがギリシァ軍に敗北することが取り上げられる。
ペルシァ陸軍司令官マルドニアスがアテナイに進駐したが、@スパルタ軍の進発したとの報を受け、マルドニアスはアテナイを焼き払って、アッティカを引き上げ(298頁)、Aスパルタ軍にペロポネス諸国部隊、アテナイ部隊(サラミスからの)が加わり、総兵力11万人でプラタイアに戦列を敷き、ボイオティアのアソポス河畔に陣取ったペルシァ軍30万人、ペルシァ側に加担したギリシァ軍5万人と対決した。11日目、マルドニアスは我慢できずに攻撃に着手したが、「かねてからギリシァに好意を寄せていたマケドニアのアレクサンドロスは、ひそかにアテナイの陣営を訪れて、翌日ペルシァ軍が攻撃に出ることを知らせて激励し」ていた。12日目に戦端が開かれ、ギリシァ側は初めは敗走したが、アテナイ軍のパウサニアスが「はるかにヘラの神殿を望んで神助を祈る」と、戦局が好転し、スパルタ軍がマルドニオスを倒し、ペルシァ軍を壊滅し、生存者は僅か3千人に過ぎず、Aこのプラタイア敗戦と同じ日に、ペルシァ軍は、イオニアのミュカレで痛撃を蒙った。
ギリシァ水軍(司令官はスパルタ人レウテュキデス)がデロスに停泊している時、サモスからペルシア軍とそれが擁立した僭主に内密に三人のギリシァ人が来て、「彼らが共通して尊崇している神々の名を呼び、同じギリシァ人である自分たちを隷属の状態から救い出し、ペルシァ人を撃退してほしい」(300頁)とした。そして、「生贄がギリシァ軍に吉兆を現わすと、ギリシァ水軍はデロスを発ってサモスに向かった」(302頁)のである。
ペルシァ軍は評議して「海戦を避けるのが得策」だとして、本土に去った。これを知ったギリシア水軍はミュカレに向かい(303頁)、ミュカレに着くと、ギリシァ軍はペルシァ軍に進撃を開始し、「ギリシァ軍がマルドニオス軍とボイティアで戦い、これを破った」という風説が伝わった。「プラタイアにおけるペルシァ軍の敗戦と、ミュカレでまさに起らんとしていた惨劇とが奇しくも日を同じくし、風説がミュカレのギリシァ軍に伝わった結果、軍勢の士気がにわかに揚がり、いよいよ危険をものともせぬ気概が高まった事実」を踏まえて、ヘロドトスは、「人間界の出来事に霊妙な力が働く」(304頁)とした。プラタイアの戦場とミュカレの戦場にも「付近にエレシウス(アテナイ近郊)のデメテル(オリュンポス十二神の一つ、豊穣神)の社」があったということである。この二つの戦いが「同じ月の同じ日に起った」(305頁)ことも神妙とした。
こうしたペルシァ劣勢で、イオニアはついにペルシァ軍を殺戮し、「イオニアはまたしてもペルシァに反乱を起こした」(306頁)のである。こうした状況にも拘らず、クセルクセスは弟マシステスの妻に横恋慕して、結局、マシステスの反乱を招き、彼を殺害し(307−310頁)、末期的症状を呈していた。
一方、アテナイ軍は、「苛酷で無法な男」アルタユクテスの支配する「堅固な城壁」のあるセストスを包囲した。包囲戦が長引くと、アテナイ軍は士気を阻喪したが、籠城するペルシァ側は食糧を失い、夜陰に乗じて逃亡した(312頁)。ギリシア軍は追撃して彼らを生け捕り、「捕虜を数珠繋ぎにしてセストスに送」り、アルタユクテスとその子供を処刑した(313頁)。
ヘロドトスは、最後に、処刑されたアルタユクテスの祖先アルテンバレスとキュロスの対話でペルシァの好戦性の源泉を明かして、本書を終える。ペルシァ人に取り上げられ、キュロスに伝えられたアルテンバレスの意見とは、「ゼウス(ペルシァの主神でギリシァの主神ではない)はペルシァ人に、個人としてはキュロスさま・・に、・・(アジアの)覇権を与えようとのお志」なので、「狭い荒地」から「もっと良い土地に移り住もう」という提案であった。これに対して、キュロスは、「柔らかい土地からは柔らかい人間が出るのが通例」だから、「そのようにする場合には、自分たちがもはや支配者とはなれず他の支配をこうむることを覚悟しておけ」とした。これを聞いて、ペルシァ人は、「平坦な土地を耕して他国に隷従するよりも、貧しい土地に住んで他を支配する道のほうを選んだ」(314頁)のである。ペルシァ人は、平和でなく、戦争をえらんだとしたのである。
3、最後に、既述部分は除いて、このペルシァ戦争にも神々がかかわっていたことをまとめておこう。トロイエ戦争もペルシァ戦争も神々が深く関わっていたが、ホメロス『イリアス』が根拠のない叙事詩であったのに対して、このヘロドトス『ヒストリエ』は探究・見聞に基づき、神々と戦争との係わり合いもそうした探究・見聞に基づいていた。
例えば、ヘロドトスは、ギリシァのサラミス海戦に際して、@サラミス海戦を説くアテナイ指揮官テミストクレスは、「理にかなわぬ計画を立てるときは、神も人間の思惑に同調してくださらぬのが常なのだ」(279頁)とし、Aサラミス海戦に備え、「よろずの神々に祈願した後、サラミスからはアイアス(サラミス島の王テラモンの子で、トロイア戦争に参戦した英雄)およびテラモン(アイアスの父)の加護を請」(280頁)い、Bディカイオス(ペルシァA亡命したアテナイ人)は、「無人となったアッティカの地」で「砂煙」を見て、エレシウスの秘儀の「イアッコスの叫び」と見て、「大王の軍勢に一大災厄」がふりかかるとし(280頁)、「この砂煙と声はやがて雲に変じ、空高く上ってサラミスのギリシァ軍の陣営にむか」い、「クセルクセスの水軍が滅亡する運命にあることを悟った」(281頁)のであると叙述している。
こうしたことはペルシァ側にも看取され、ヘロドトスは、@ヘレスポンテスでの架橋(アジアとヨーロッパを結ぶ)が「猛烈な嵐」で破壊されると、クセルクセスは、「野蛮不遜の言葉」とともに、海に三百の鞭打ちの刑を加え」(244頁)たり、A架橋が完成し、遠征軍が進発すると、日食となり、「ペルシァでは未来のことを示してくれるのは月であるが、ギリシァでは太陽であるから、これは神がギリシァ人に対してその町々の消滅を予示されたものである」(246頁)とし、B、渡海の朝、クセルクセスは、「日が昇ると、クセルクセスは黄金の大盃で海中に献酒をそそぎ太陽に祈願」して「ヨーロッパ征服を妨げるような事故が一つも起らぬようにと祈った」(251頁)た。そのほかにも、クセルクセスはペルシァ重臣に、「この戦いに懸命の努力を致」せとし、「今や、ペルシァの国土をしろしめす神々に祈願を籠めた後、かの地へ渡ろうではないか」(251頁)と鼓舞したと記している。
(9)、当時において、上記ペルシァ戦争が史上最大の国家間大規模戦争だったとすれば、ペロポネソス戦争(前431年
- 前404年)は史上最大の都市国家間戦争であった。上述の通り、前者はヘロドトスによって取りあげられ、後者はトゥキュディデス(前460年頃
- 前395年)によって考察された。
1、トゥキュディデスとペロポネソス戦争との関わりを初めに見ておくと、前444−3年に、へロトドスは、「サモス逗留ののち、黒海沿岸、スキュティア、マケドニアなどの北方諸地域、バビロン、テュロスなどの東方文明の都、さらにエジプトからリビュアの史跡探訪の旅を終わり」、「ペリクレスの治めるアテナイにやってき」(トゥキュディデス『戦史』[久保正彰訳、『世界の名著』5、中央公論社、昭和51年、訳注515頁])た。この時、「若いトゥキュディデスはヘロドトスの歴史朗読を聞いて大いに感動」したらしいといわれる。だが、そう単純ではあるまい。確かに、ヘロドトスがペルシァ戦争の淵源を過去に探ったり、事実に基づいて実証的に考察する方法には感銘したであろうが、戦争に無関係な逸話を挟んだり、根拠となる見聞などにかなり疑義があり、何よりも戦争の悲惨さの叙述が弱く、こういう民衆に惨害を与える戦争を二度と起してはならないという姿勢が希薄であることなどには疑問と批判を覚えたであろう。だから、前者の感銘というより、後者の疑問と批判のほうが、トゥキュディデスの執筆意欲を刺激したと思われる。
やがて、トゥキュディデスはアテナイの将軍に任命された。前424年には、トゥキュディデス将軍は、守備していたトラキア地方のアンピポリスをペロポネソス側に奪われ、アテナイは彼を追放刑に処した。彼は、以後「20年の生涯を亡命生活に過ごすことになり、その間に両陣営の動きを観察し、とりわけ、亡命者たることが幸いしてペロポネソス側の実情にも接して、経過の一々をいっそう冷静に知る機会にめぐまれた」(トゥキュディデス『戦史』448頁)と記している。彼は、「この全期間を通じて、成年に達していたので分別もあり、また、正確に事実を知ることに心を用いつつ、体験を重ねてきた」(トゥキュディデス『戦史』448頁)のである。前404年、追放解除令が出て、トゥキュディデスは20年ぶりにアテナイに戻ってきた。だが、彼の『戦史』は前411年のシキリア大遠征の記述で終わり、終戦の前404年まで及んでいない。なぜであろうか。
前405年、ペロポネソス戦争最後の海戦アイゴスポタモイの戦いで、名将リュサンドロス率いるラケダイモン(スパルタ)軍に完敗し、前404年にはラケダイモン軍の進駐と監視のもとに「三十人僭主」が誕生し、前403年に崩壊して民主政が復活するも、もはやアテナイに勢力はなかった。この海戦や三十人僭主制を叙述しなかったのは、彼は前411年までの記述で本書執筆の目的は達成されたと考えたからではないか。そもそも彼はどういう叙述目的をもっていたのか。
2、「古人はペルシァ戦争とペロポネソス戦争の作者二人を表裏一体の像として刻んでいる」(久保正彰「トゥキュディデスとペルシァ戦争」[『西洋古典学研究』19、1971年])といわれるが、ヘロドトスとトゥキュディデスとの間には大きな相違がある。第一は、トゥキュディデスが初めて端緒的ながら民衆の視点を導入し、戦争が民衆・市民・兵士らに与えた悲惨さを叙述したということである。
トゥキュディデスは、「開戦劈頭いらい、この戦乱が史上特筆に値する大事件に展開することを予測して、ただちに記述をはじめた。当初、両陣営ともに戦備万端満潮に達して戦闘状態に突入したこと、また残余のギリシァ世界もあるいはただちに、あるいは参戦の時機をうかがいながら、敵味方の陣営に分れていくのを見たこと、この二つが筆者の予測を強めたのである。じじつ、この争いはギリシァ世界にはかつてなき大動乱と化し、そして広範囲にわたる異民族諸国、極言すればほとんどすべての人間社会をその渦中におとしいれることにさえなった」(317頁)と、ペロポネソス戦争を「ほとんどすべての人間社会をその渦中」の陥れた「大動乱」と評価したのである。そして、「今次大戦では、その期間も長きにわたり、またそのため、これに匹敵する期間にかつてギリシァがなめたこともないほどの惨害が全土に襲いかかった。じじつ、これほど多数の都市が、異民族やギリシァ人自身の攻撃をうけ、はては奪われ荒廃に帰した例はかってなかった。この戦争や内乱のために、未曾有の数の亡命者、多量の流血がくりかえされた」(332頁)としたのである。
戦争が民衆(史料的限界からか、実際には兵士らにかたよりがちになったが))に与える悲惨な影響を叙述すること、これが、彼の叙述目的の一つだったのであり、故にそのペロポネソス戦争の悲惨さの掉尾を飾るものこそシケリア大遠征の敗北だったということになるのではなかろうか。
3、こうした歴史叙述に信憑性をたかめるために、トゥキュディデスはヘロドトスとは異なり、論旨展開をペロポネソス戦争に絞込むのみならず(ヘロドトスの叙述には論旨に無関係なものが少なくなかった)、次のように何よりも史上初めて史料批判を行なったのであった。
まず、伝承史料について、@「誤伝はじつに多く・・現在の出来事についてすら誤報がひんぱんに生」(330頁)じているのに、「人間は、古事にまつわる聞き伝え」を「無批判な態度」で受け入れ、「大多数の人間は真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳をかたむける」(330頁)と批判し、A「論証を重ねて解明」するという態度に基づけば、「古事を歌った詩人らの修飾と誇張にみちた言葉にたいした信憑性を認めることはできない」(330頁)と詩歌戦史(例えば、ホメロス『イリアス』)を批判し、B「伝承作者のように、あまりに古きにさかのぼるために論証もできない事件や、おうおうにして信ずべきよすがもない、たんなる神話的主題をつづった、真実探究というよりも聴衆の興味本位の作文に甘んじることも許されない」(330頁)とする。こうした史料批判によって、彼は、「いずれをも排し、もっとも明白な事実のみを手掛りとして、おぼろな古事とはいえ充分史実に近い輪郭を究明した結果は、当然みとめられてよい」としたのである。
そして、彼は、「おうおうにして人間は、自分がその渦中にあっていま戦いつつある戦争こそ前代未聞の大事件であると誤信する。そして戦争が終り、直接の印象が遠のくと、古い事績にたいする驚嘆をふたたびあらたにするものである。しかし印象ではなく結果的な事実のみを考察する人々には、今次大戦の規模がまさに史上に前例のない大きいものであったことがおのずと判明するだろう」(331頁)と、事実としての戦史によってこそ、ペロポネソス戦争の「史上前例のない」大規模性が明らかになるとした。だが、100万人以上のペルシァ軍が加わったペルシァ戦争の方が大規模であったにもかかわらず、彼がペロポネソス戦争の大規模性を強調するのは、その戦争被害の悲惨さを強調するためであろう。実際にはペルシァ戦争のほうが悲惨であったろうが、ヘロドトスはペルシァ戦争の悲惨さを記録として残さなかったので、それについて知ることはできない。
次に、トゥキュディデスは、演説記録を重視し、多くの演説を引用している。ここでも、彼は、「戦闘状態にすでにある人やまさにその状態に陥ろうとする人が、おのおのの立場をふまえておこなった発言について、筆者自身がその場で聞いた演説でさえ、その一字一句を正確に思い出すことは不可能であったし、またよそでなされた演説の内容を私に伝えた人々にも正確な記憶を期待することはできなかった」と、この演説史料の限界を明確に指摘した上で、「政見の記録は、事実表明された政見の全体としての主旨を、できうるかぎり忠実に、筆者の目でたどりながら、おのおのの発言者がその場で直面した事態について、もっとも適切と判断して述べたにちがいない、と思われる論旨をもってこれをつづった」(331頁)と、彼が自己判断で演説史料を適切に処理したと言明した。
最後に、「「戦争をつうじて実際になされた事績」の扱いについて、彼は、@「たんなる通りすがりの目撃者からの情報」を「無批判に記述すること」を慎み、A「主観的な類推」は排除し、B私自身の「目撃」や「人からの情報」の場合には、「敵味方の感情に支配され、ことの半面しか記憶にとどめないことが多」いので、「個々の事件についての検証は、できうるかぎりの正確さを期」し、C「読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産」となることを期して、「伝説的な要素」を排除するとした(331頁)。
4、ヘロドトスがギリシァとペルシァの対立の淵源を過去に遡ったように、トゥキュディデスもまたこれを受け継いで、アテナイとスパルタの対立の淵源を過去にさぐり、「往古の事績」(329頁)を究明し、今次大戦に比べて、過去の戦争は大規模なものでなかったとした。
彼は、ペロポネソス戦争の大規模性を強調するために、「今次大戦以前に起った諸事件や、さらに古きにさかのぼる出来事については、時の隔たりも大きく、厳密に事実を確かめることは不可能であった。しかし及ぶかぎりの古きにさかのぼって筆者がなしたもろもろの考証から、信ずるにいたった推論の帰結を述べるなら、戦争をはじめとする往時の諸事績は、けっして大規模なものであったとはいいがたい」(317頁)とする。
彼は、以前の諸事績が大規模でなかった理由として、「現在『ヘラス』の名で呼ばれる土地に住民が定着するようになったのは、比較的に新しい時代のことであ」り、「これより古くは、住居は転々として移り、個々の集団は、より強大な集団によって圧迫されると、そのつどそれまで住んでいた土地を未練なく捨てて、次の地に移」り、「交易もおこなわれ」ず、「また陸路や海上の便によってたがいに安全に往来することもな」く、「かれらは各集団ごとに、ただ生活をいとなむに足りるだけの土地を領有していた」(318頁)ことなどをあげる。
さらに、アテナイ海軍が強大になったのは最近のことだとする。トロイエ戦争後にギリシァ海軍が増強され、@貿易が発展し、「諸都市で僭主が台頭」し、「ギリシァ各地には海軍が組織」(326頁)され、A前700年頃、コリントスが三段櫂船を始めて建造し、コリントスは「陸狭地帯に都市を営み、きわめて古くから通商の中心を占め」、「富み豊かなる地」となり、貿易に進出して「海陸両面における商業活動の中心」(326頁)となり、Bペルシァ王キュロス、カンビュセス時代、「イオニア人も強力な海軍をも」ち、サモス島僭主ポリュクラテスも「海軍力を充実」(326頁)し、Cアテナイでは、アイギナとの戦いと「ペルシァ勢の侵入が目前に迫」り、テミクレトスが軍艦建造を提唱し、これでようやく海軍国となり、こうした海軍増強で、「物質的な収益や版図の拡張を得て、侮り難い勢力」(327頁)になったとした。
陸軍については、ギリシァでは、陸上戦は「隣国間の争い」にとどまり、遠征をすることはなかった。ギリシァの諸都市は現状維持をはかり、「為政者はいずれも、自分や一族の発展を望む私欲のみにあけくれていた」(328頁)から、「自国領の周辺の住民らを攻める以外には、けっして領地をはなれて兵をすすめ、大きな成果をあげたものはなかった」とする。ただラケダイモンだけは例外であり、@ラケダイモンは、アテナイなど「ギリシァほとんどの地方」の僭主の「大多数」を「追放」(328頁)し、A「ラケダイモン人は、今次大戦(ペロポネソス戦争)が終わるまでの四百余年にも及んで同一の政治形態を固執しており、これによって自国の力を充実させ、また他の国々の秩序回復のために干渉することができた」(328頁)とする。
では、トゥキュディデスは、海軍国アテナイ、陸軍国ラケダイモンが参加したペルシァ戦争の規模をどう見たのか。トゥキュディデスは、@マラトンの戦いから10年目、ペルシァは再びギリシアを「従える」ために、「大軍を率いて侵攻」(328頁)したが、スパルタ、アテネを中心に「全ギリシァ人は一致協力してペルシァ勢撃退に成功」し、Aペルシァ戦争後、ギリシァ諸国は、陸軍で覇を唱えるラケダイモン陣営と、海軍で覇を唱えるアテナイ陣営にわかれ(328頁)、B「わずか二度の海戦(アルテミシオン、サラミス)と二度の陸戦(テルモピュライ、プラタイア)によって、すみやかに勝敗が決した」(332頁)と、大規模性を控えめに評価する。なぜ、トゥキュディデスは、ペルシァ戦争の規模を過小評価するのか。
5、トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争が勃発した理由ついて、過去のラケダイモン陣営とアテナイ陣営の対立を探った後に、ペルシァ戦後の複雑な関係を考察する。まず、彼は、@ペルシァ戦後、アテナイはあくまでペルシァ対決を第一義としていて、「ギリシァ同盟財務官」となり、前477年にデロス島に同盟財務局を置き、「第一段階としてペルシァ人追討のために、どの加盟国が軍資金、どの国が軍船を供給するべきかを決め」(339頁)、同盟諸国に義務履行を苛酷に要求し、「年賦金や軍船の滞納、・・全面的な参戦拒否」などを経て、同盟国が離脱すると、アテナイはこれを「城攻め」し「隷属国」とし(340頁)、Aさらに、アテナイは、反ペルシァ作戦に従事し、例えば、前459年にイナロス(リュビア王)がペルシァに反乱し、「エジプトの過半を離反」させ、アテナイに助勢を求め、アテナイはこれに応えて、キュプロス攻撃を中止して、ナイル川を遡上した(344頁)が、前454年ギリシァ勢はペルシァ反撃で壊滅し(347頁)、「沼沢地」を除いてエジプトは再びペルシァ支配となった。
しかし、ラケダイモンは、「ペルシァ戦におけるアテナイ人の勇敢さを高く買っていた」から、まだアテナイとラケダイモンの友好関係は維持されていた。前462年、スパルタは、「攻城戦」に得意なアテナイに自らの「国有奴隷」反乱の鎮圧に助勢を求めてきたので、アテナイはキモン指揮下に援軍を派遣したが(343頁)、アテナイ勢はこれを攻略できず、ラケダイモンはアテナイ勢は信頼できずとしてこれを帰還させた。これで「ラケダイモン人とアテナイ人との友好関係にはっきりとした裂け目が入ることとなった」(343頁)とし、アテナイはこれを屈辱として、「ペルシァ戦役にさいして両国間にむすばれていた同盟条約を破棄」し、「ラケダイモンと交戦状態にあるアルゴス」と同盟を締結した(343頁)。
前451年、ペロポネス同盟とアテナイとの5年間の休戦条約を締結し、これでアテナイは、ペロポネソス同盟を気にせず戦争できることになり、@前450年アテナイはキモンを指揮官としてキュプロス島を船2百隻で攻撃し、キモンは殺されたが、アテナイ側は勝利し(348頁)、A一部60隻は「エジプトの沼沢地の王アミュルタイオス」の支援に向かい、B「神聖戦争」(デルポイの支配をめぐる)では、アテナイ、ラケダイモンの正面衝突が回避され、Cアテナイ、デロス同盟国は、ボイオティア数箇所に籠城したボイオティア亡命者を征圧しようとしたが、敗北し、「ボイオティアの亡命者たちは故国に復帰し、残りのボイオティア諸地方もふたたび独立自治権を回復」(349頁)し、Dこれを機にか、前446年にエウボイア、メガラが離反し、ラケダイモンらペロポネス勢のアッティカ侵入計画が露見したが(349頁)、ペロポネス勢は「深入り」せず「本国へ引きあげ」ると、アテナイ勢はペリクレス指揮官のもとにエウボイアに派兵して、「全島を屈服」(350頁)させた。
前446年、アテナイは、「エウボイアから手を引い」た後、「ラケダイモンとその同盟諸国とのあいだに、三十年間休戦の和約をむす」(350頁)び、アテナイは、「ニサイア、ペーガイ、トロイゼン、アカイア」をペロポネソス側に返還したが、和平後の6年目のサモス事件後、「ケルキュラ紛争(前433年)、ポテイダイア紛争(前432年)」など「今次大戦の直接的原因となったもろもろの事変」が勃発したとする(351頁)。トゥキュディデスは、今次大戦は、「アテナイ人とペロポネソス人が、エウボイア島攻略ののち両者のあいだに発効した和約(前451年)を破棄したときに、はじまった」とした。
このように、トゥキュディデスは、アテナイは、クセルクセス撤兵(前479年)からペロポネソス戦争勃発(前431年)までの50年間に、こうした幾つものの事変が起り、この過程でアテナイは「その支配圏をますます強固な組織となし、・・いちじるしい勢力拡張をとげ」(352頁)たにもかかわらず、ラケダイモンは、「自国の内乱」に釘付けにされ、「万やむをえざる場合を除いて、急いで戦いにおもむくことを好まぬ」ので、終始「静観」していたとする(352頁)。そして、トゥキュディデスは、開戦の究極的理由として「アテナイ人の勢力が拡大し、ラケダイモン人に恐怖をあたえたので、やむなくラケダイモン人は開戦に踏み切った」とし、開戦決定の「直接の誘因」としては前記和約解消のほかに、アテナイとコリントスがコリントス植民地(ケルキュラ、ポテイダイア)をめぐって交戦状態に入り、前432年7月頃、「両事変において苦杯を喫したコリントスは、スパルタにおけるペロポネソス同盟参加国開催を要求」し、「近年のアテナイの侵略行為に関してアイギナ、メガラ、コリントスらの被害者国が非難の演説」をし、その後、ラケダイモンだけの会議を催し、老王アルキダモスは慎重論を唱えたが、監督官ステネライダスは開戦即決主義を唱え、同年8月頃、同盟国参加国全員の代表を招集して、対アテナイ戦を決定したとした(333頁)。
ラケダイモンは、こうした和約破棄・アテナイ侵略主義を受けて、「デルポイに使者を送り、開戦するべきか否かを神に尋ねた」所、「神はもしかれらが全力をつくすなら勝つであろう、そして神みずから、かれらが祈れば力をかす、祈らずとも加護を与える、という神託を与え」(352頁)、ここに、@ラケダイモンが、「アテナイがすでにひろくギリシァ各地を支配下にしたがえているのをみて、それ以上のかれらの勢力拡大を恐れ」(333ー4頁)て、「やるかやられるか」という切迫した状況で開戦を決定し、前432年夏、ペロポネソス同盟諸国は、対アテナイ戦決行を票決し、戦争準備に着手しつつ、B同盟盟主国ラケダイモン(その首都がスパルタ)はアテナイに使節を派遣して、政治的譲歩をアテナイに迫り、ポテイダイアからの撤退、アイギナ自治権返還、メガラ禁令解除などを要求し、最後のラケダイモン使節は、「諸君がギリシァ人に自由を返してやるならば、まだ平和の可能性がある」(352頁)と、アテナイを自由侵犯者とし、これが対アテナイ戦争の大義名分であることを明示した。
アテナイでは、戦争回避論もあったが、ペリクレスは、「アテナイの国是を守るためには戦いを辞すべきではない」、「今回の大戦は武器と武器の衝突ではなく、海洋貿易、年賦金、海軍力に拠って立つアテナイと、農業本位のペロポネソス同盟諸国との、経済的持久力の争いとなるであろう」(352頁)とし、経済力のあるアテナイに勝ち目があるとみていた。ぺリクレスの有名な「葬送演説」(前431−0年にかけての冬)では、「従う属国も盟主(アテナイー筆者)の徳を認めて非をならさない」とし、「祖国のために戦ってあっぱれの勇士の振舞いをとげれば、この徳は何にもまさるものとしてみとめられてよい。善の輝きによって悪を消し、公に益することによって私の害をつぐなったからである」としたが、独善的で空しい響きがある。
はやくも開戦2年目に、アテナイは、「内には人が死に外では耕地を破壊され」内憂外患に襲われ(368頁)、ペリクレスへの非難が強まり、ラケダイモンでは、「開戦の是非」に関するデルポイ神託と「合致」するとした(369頁)。これに対して、ペリクレスは、「もとより、事なくして平和と幸福の道をえらべる立場にあれば、戦するほど愚かな考えはない。しかし、屈してただちに他国に隷属するか、危険を賭して勝利を得るか、この二者択一を余儀なくされたとき、危険を逃げるものはこれを耐えるものに劣」(370頁)り、「もしいったん他国に隷属すれば、われらがすでにかち得た所有すら失うことになりかねない」(371頁)のであり、しかも、アテナイが「同盟独裁者の地位」についている以上、敗戦で「これを手放すことは身の破滅に等しい」(372頁)とし、ラケダイモンへの隷属の危機を指摘した。
こうして、寡頭政のラケダイモンが、民主政のアテナイに、対ペルシァ戦のためのデロス同盟国を隷従から解放するという大義名分を掲げるという「奇妙な内乱」が勃発した。本来ならば、共通の敵ペルシァの前に両国は一致団結するべきだが、アテナイがあくまで帝国主義的方向に向かったために、ラケダイモンはアテナイ帝国主義に呑み込まれるという危機感から、やむにやまれず開戦を決定したのである。だから、ラケダイモンとしては、アテナイとは戦いたくなかったのであり、前425年ピュロス、スパクテリアの戦いではアテナイが勝利し、ラケダイモン兵が籠城を余儀なくされると、ラケダイモン側はアテナイ側に休戦を申し入れ(424頁)、「相互のあいだに平和と同盟、広く友情と親交を回復することを約し、そして代償として島にいる兵士らの返還を要請」し、「われら両国にとって今こそ争いを収べき無二の好機」(427頁)とし、「この戦いはいずれがはじめたともなく戦闘状態に入って今日にいたるが、今もし諸君が現戦況の優勢を善用して和平をとりもどすならば、諸国はこぞって諸君に感謝をささげるだろう」(427頁)としたのである。ラケダイモンは、やむなく開戦したが、「和平」両面の方針は維持していたのである。
6、トゥキュディデスは、ヘロドトストは異なって、この戦争が、兵士はもとより、市民らにも与えた残酷さ、悲惨さを具体的に述べた。つまり、彼は、@前428年レスボス島の諸市(ミュティレネ市)がアテナイに離反すると、アテナイはレスボスに派兵し、前427年に反乱を鎮圧し、ミュレネ成年男子を全員死刑にし、婦女子は奴隷にする事を決議し、「令状伝達の船」が出発したが(378頁)、民会でこの中止が急遽決議され、全員処刑は中止されたが、それでも結局謀反首謀者千人が処刑され、A前427年夏、プラタイアは籠城2年目になり、疲弊してペロポネス側に降服すると、プラタイア人200人、アテナイ人25人が処刑され、B前427年ケルキュラの内乱で、アテナイ軍艦の増派(60隻)を知って、ペロポネス勢は帰航すると、これに勢いを得た民衆派は、「手あたり次第に市内の寡頭派を捕らえて殺害」したり、乗艦させていた反対派を処刑し(410頁)、ヘラ神殿に立てこもっていた反対派の50人には死刑判決を下し、残りの「大部分」は絶望して「互いに刺しちがえて生命を絶ち、あるものたちは木の枝にかかって縊死し、残るものらもみなそれぞれのかなう手段で自殺をとげ」(411頁)、これ以後、「処々の都市」で親ラケダイモン派=寡頭派と親アテナイ派=民衆派の対立が生じ、全ギリシァ世界が動乱の渦中に陥」(411頁)り、C以後の諸都市では、「はるかに過激な意図や計画」、「老獪きわまる攻撃手段」、「非常識もはなはだしい復讐手段」が練られ、「無思慮な暴勇」、「きまぐれな知謀」が評価され、「人の先を越して悪をなすものが誉められ」(412頁)るようになり、D前416年冬、メロスは降服すると、アテナイは「逮捕されたメロス人成年男子全員を死刑に処し、婦女子子供らを奴隷」にし、E前415年初めアテナイ民会でアルキビアデスが(食糧確保のために[岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』341−3頁])領土拡大をめざして遠路シキリア(シチリア)に大遠征軍派遣を提唱し、前415年夏出航したが、アテナイは敗勢色を強め、「総勢そろって撤退」(496頁)を計画するに至ったが、総数4万人(498頁)の撤退戦は「酸鼻をきわめ」(498頁)、「ギリシァの軍勢が喫した敗北としてはまさに空前の規模」(499頁)となり、採石場に押し込まれた捕虜の扱いも悲惨を極めることになったのであった(508頁)。
ここで、もう一度、トゥキュディデスがなぜ前411年で記述を終えたのかを考えてみよう。トゥキュディデスは、「私自身、戦いが3・9(3×9、筆者)、27カ年の日月を要するであろうと、開戦以来終わるときまでつねづね一般に言い広められていたのを記憶している」(トゥキュディデス『戦史』448頁)と書いているから、同戦争が、前431年3月にラケダイモン側のテーベ軍がアテナイ側のプラタイアに侵入して以後、前404年まで27年間続いた事は十分知っていたのである。にも拘らず、前411年で筆を擱いたり、ペルシァ戦争の規模を過小評価したのは、トゥキュディデスにはヘロドトストとは異なる叙述目的があったからであろう。それは、言うまでもなく、大規模戦争たるペロポネソス戦争がいかにギリシァの民衆に悲惨な影響を与えたかを叙述することである。だから、トゥキュディデスは、戦争惨状が前412年シケリア大遠征で頂点を極め、それが戦争の悲惨さの掉尾を飾ったと見て、前404年にアテナイはラケダイモンに降服してペロポネソス戦争が終わる以後の過程は、本論の課題の外と考えたのではなかろうか(或いは、ただ病気や怪我でで筆をとれなくなったのかもしれないが)。彼は、前411年の「四百人体制」、「五千人体制」、同年秋のキュノスセマ海戦での久しぶりのアテナイ勝利までは執筆したが、以後、海戦で一時アテナイ勝利が続いた後に、前405年ラケダイモンがペルシァの資金援助を得て海軍を再編強化して、アテナイを再起不能の敗北に追い込んだ過程は叙述する必要もなければ、叙述する意欲もわかなかったのではあるまいか。あの誉り高いラケダイモンがアテナイ海軍に飲み込まれそうになった危機的状況に直面して、こともあろうにペルシアの資金援助に頼ってアテナイ海軍を打破するなどは、トゥキュディデスにはギリシァ人としては許しがたいことではなかったか。しかも、これをペルシァの観点から見れば、ラケダイモンに資金援助してアテナイにペルシァ戦争での敗北の報復を果たしたともいえるのであるから、ペロポネソス戦争はいつしかラケダイモンを表に立てたペルシァ代理戦争になったともいえるのであるから、ますますトゥキュディデスには論外の事態となってしまったのではないか。
もとより、我々は、今となってはトゥキュディデスの擱筆の真意を知ることは出来ないが、彼がヘロドトスとは異なって、戦争の民衆に与えた惨害を初めて重視した「歴史家」であったことは十分注目しなければならず、史上初めて史料批判をし、論旨展開を課題に収斂させたことをも併せて考慮すれば、欧米人はヘロドトスではなく、このトゥキュディデスをこそ「歴史の父」とすべきであったということにならないでろうか。
こうして、彼は、「内乱を契機として諸都市を襲った種々の災厄は数知れ」ず、「戦争は日々の円滑な暮らしを足もとから奪いとり、強食弱肉を説く師となって、ほとんどの人間の感情をただ目前の安危という一点に釘づけにするから」、「このとき生じたごとき実例(残酷な殺戮と悲惨な自殺など)は、人間の性情が変らないかぎり、個々の事件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にもくりかえされ」(411頁)ると、警告したのである。その警告から約2500年、我々は懲りずに何千何万の戦争を繰り返してきた。その都度、肉親、知人、友人の死を哀悼して、悲惨な戦争はもうこりごりだ、二度と戦争はするまいと反省してきたことか。にも拘らず戦争が繰り返されてきたということは、戦争を抑止し平和を維持するには、もはや哀悼や反省などだけでは不充分であり、「富と権力」のシステムを根本的に変えなくてはならない事を示している。この「富と権力」のシステムは、その歴史が雄弁に物語っているように、平和のシステムではなく、基本的には戦争(防衛と侵略)に関わるシステムだからである。それゆえ、この「富と権力」システムのもとでは、たとい憲法を制定して、戦争放棄などを規定しても、それは必ず骨抜きにされる危険に直面せざるをえなくなるのである。
平成23年11月5日、近年脅威を増しつつある中国海軍を牽制すると称して、憲法で戦力・戦争放棄を定めた日本の海上自衛隊と、実戦にたけた海兵・海軍・陸軍・空軍を擁して各地で戦争する米国の海軍が、両国艦船の共同演習を行って、両国の軍事的連携の緊密さを「威風堂々」と内外に見せ付けたかである。だが、中国にしてみれば、中国の海軍増強は、アメリカが日本に強大な基地を構えていることへの防衛対応であろう。どっちにも言い分があるのである。いつの世も軍拡は相手への脅威、その防衛からとめどなくおこるものである。この無益な軍事駆け引きを排除するには、米国が日本から基地を撤去して、アジアの防衛はアジアの民衆が話し合いを何度も積み重ねて決めることにする以外にはないのである。学問はあくまで基本的方向のみを示すにとどまり、以後の具体的な処方箋とプログラムは堅実で賢いアジアの民衆が真剣で誠実な討議を重ねることにゆだねることになる。彼らは、真剣なる討議の末に、「アジア防衛大綱」の如きをまとめあげるであろう。軍事専門家は既存軍事情勢に制約されるが、生活人はそれに制約されることなく自分たちの子供や親のために的確に具体的に防衛の意義と目的を定めるであろう。
(10)、人類史上には、農業革命、航海革命、市民革命、産業革命、情報革命などいくつかの大きな画期があった。では、これらはどのように関連し、人類史上で「運命の岐路」となったという点でいずれが最も重要だったのか。
農業革命 これに関しては、周知のように、「千年視野」・「古今東西」という観点もないまま資本主義とかの目先の問題関心から、産業革命をあげる研究者が少なくないが、「千年視野」・「古今東西」ということから見れば、農業革命(産業革命と並行して起こった「農業革命」ではない)こそが、自然社会と富社会との大分水嶺をなしているという意味で、最も重要な画期ということになる。農具を使用して大地を耕し灌漑して農作物を栽培するという農業革命(自然改造農法)は、既にあきらかなように、メソポタミアで最初におこり、それが世界各地に伝播し、或はそれと並存しつつ、エジプト、インダス、黄河に富社会の曙ともいうべき古代文明、つまり宗教と法と軍事力に支えられた「富と権力」システムを生んだのである。
ただし、この農業革命とは、一朝にしてなったものではない。産業革命は数百年のマニュファクチュア期を必要としたが、農業革命は数千年の自然農法期(天水農法が主軸であり、種子選択、ブナ科(ドングリの実がなる)の木の下に芽生えた苗木移植など、「富を生まない自給的な栽培農業」)を前提としていた。農耕、栽培農業がた直ちに富社会を生んだのではなく、自然社会のもとで長期に存続する時期があったということである。この自然社会の下での農耕は、天水によるオオムギの栽培の場合もあれば(メソポタミア)、木の実の栽培の場合もあり(日本の縄文社会の一部地域)、非常時に備えた貯蔵までは行なったが、市場向け生産までは着手しないというものであったのである。
やがて農法転換(メソポタミアでは灌漑農法、日本では稲作農法などの自然改造農法の登場)で農業生産力が上昇すると、ここに史上初めて富が生じてくる。そして、飢餓などでその富を盗もうとする集団がでてくると、その防衛のために武力を整備し、城壁を構築し、ここに権力が生じるのである。この過程は史料がないので実証はできないが、動物と比較すると、興味深い考察ができる。つまり、動物の中にも、カリフォルニア、コスタリカなどに生息しているドングリキツツキ(Acorn Woodpecker)のように、家族でドングリを貯蔵するものがいる。彼らには大きな貯蔵穴を掘る力がないので、ドングリを大穴にまとめて貯蔵することはできず、小さな一穴に一ドングリを貯蔵する。そして、これらを盗みに来る小鳥に対しては、集団で対処してこれを防ぐのである。恐らく動物は貯蔵して集団で防ぐことまではしても、人間のように富を生み、それを盗まれないように武力と城壁で敵から防衛することまではしないのである。
なお、メソポタミアの「経済成長」の原動力に関し、H.ウーリッヒは、資源不足をあげる.。つまり、彼は、「メソポタミアには資源(鉄鉱石・木材・宝石・建設用石材など)がなかった」ことが「シュメールに商業が発達し、やがてそれが世界貿易にまで発展することになる根本原因」(H.ウーリッヒ、戸叶勝也訳『シュメール文明ー古代メソポタミア文明の源流』祐学社、1980年、133頁)とするのである。だが、彼は、メソポタミア経済成長の因果関連を全体的に把握していないというべきだ。彼がメソポタミア加工業・商業の重要性を指摘したことは的確であるが、なぜそれが可能になったかといえば、農業の著しい展開があったからである。ヨーロッパ中世期以上の生産力をもつメソポタミア農業、つまり、「犂耕、畝蒔き、出芽時の灌水」など集約農法で「収穫量は播種量の約六十倍から八十倍」(西欧中世では十倍)と高いメソポタミア農業(前田徹『都市国家の誕生』山川出版社、2008年、66頁)、これこそが、「生活の基盤を農業においていない」「多数の人間を扶養し(マイケル・ローフm松谷敏雄訳『古代のメソポタミア』朝倉書店、1994年、58頁)、専門職人を出現させ、文字の発明、精密で理論的な科学の誕生を随伴させたのである(マイケル・ローフ前掲書、58頁参照)。原動力は、あくまで農業の生産力の飛躍的発展なのである。
「富と権力」という富社会の文明 自然社会と長く共存した後に自然改造農法が生み出したこの「富と権力」という富社会の文明とは、人類は、それがいかなる結果を人類にもたらすかなどもわからぬままに、周辺の集団・村・都市国家・領域国家とせめぎあって生き残るためにその構築・整備を余儀よぎなくされたものであった。人類は、周辺の集団・村・都市国家・領域国家からの侵略の危機に防衛するには、同じレベルの「富と権力」のシステムを構築しなければ、攻め滅ぼされ、奴隷にされてしまうのである。人類は、富社会で生き残るためには、いちはやく軍事力、さらには宗教と法とに支えられた「富と権力」システムを構築しなければならなかったのである。
確かにメソポタミアで最初の古代文明が起きはしたが、メソポタミ研究者が指摘しがちなように、それがが直線的に「後の人類の文明・文化の基本」(月本照男『古代メソポタミアの神話と儀礼』岩波書店、2010年、はしがき)になったというわけではない。つまり、メソポタミアと接触がない地域でも、「富と権力」の文明システムは周辺集団・村・都市国家・領域国家とのせめぎあいのなかから絶えずうまれるということである。この点に関して、ロバーツは、「最初にひとつの中心的な文明が起こり、それが各地に広まっていったのか。それとも世界各地に、ばらばらに文明が発生したのか。あまりにも複雑な問題のため、これを真剣に議論するのはおそらく時間と労力の無駄となるでしょう」し、「どちらの説も説得力に欠けています」(J.M.ロバーツ、青柳正規監訳『世界の歴史』1、「歴史の始まり」と古代文明、創元社、2002年、84頁)とするが、彼は文明システムの骨格を明確に押さえていないので、「富と権力」システムについて今ひとつポイントが鮮明ではないのである。
この点、マイケル・クックは、文明を農耕と同義語として使用するが、「この(文明という)用語は明白ではない」(マイケル・クック、千葉喜久枝訳『世界文明の一万年の歴史』柏書房、2005年、70頁)と指摘し、文明の定義を試みた。彼は、メソポタミアのシュメール文明、エジプト文明、インダス文明、クレタ文明(前2000年紀)、メソアメリカ文明(前1000年紀)の共通点は、「高度に複雑な社会」であり、具体的に、「文字の発展と、高度に発達した王制」(クック前掲書、1頁)だとする。彼は、諸文明の共通点を見出そうとして、曖昧に使用される文明用語に明確な定義を与えようとしたのである。これは十分に評価できる。だが、「初期の文字は力強い国家を前提にしていたのだが、たいていの人間社会に関していえば、それは王制という国家体制を意味した」(クック前掲書、75頁)として、彼は、文字は付随的としつつも、国家と文字を共に文明指標としたのである。
元来文明(civilization)の語源は、ラテン語で都市・国家を示すcivitasに淵源するから、クックが国家を文明の重要メルクマールとしたことは適切である。我々にとって、国家が文明の指標になるということはわかりにくいことだが、当時の人々にとって、国家(具体的には都市国家)は、中心に神殿を築き、城塞によって敵の侵入を防ぎ、華やかな女性と音楽に満たされた「文明」空間だったのである。このことは、シュメル初期王朝第V期(紀元前2600年)の都市国家ウルクの王として存在したギルガメッシュ(月本昭男『古代メソポタミアの神話と儀礼』岩波書店、2010年、213頁)の叙事詩(月本昭男訳『ギルガメシュ』岩波書店、1996年)からも確認される。それによると、ギルガメッシュは、自然人エンキドゥを恐れる狩人に聖娼(神殿付きの娼婦)シャムハトをエンキドゥのもとに連れて行き、「奥処を開かせ」エンキドゥを誘惑すれば、動物が離れると助言した(12ー3頁)。そこで、狩人は聖娼シャムハトに水場で「未開の男」「凶悪な若者」エンキドゥに「奥処を開」かせ、誘惑せよと命じた(13−4頁)。この通りにシャムハトがエンキドゥに「女の業」を行い、エンキドゥは6日7夜「愛の行為」を行った。すると、それまでエンキドゥと行動を共にしていた動物たちは彼から遠ざかり、エンキドゥは「力弱くな」った。ここに、シャムハトはエンキドゥに、あなたは「賢く、神のようになった」からとして、ギルガメッシュが「野牛のように人々に権力をふるってい」る都市国家ウルクに「お連れしましょう」と告げた(14−5頁)。
では、今から約4500年前のウルクとはどのような所であったのであろうか。『ギルガメシュ』によると、そのウルクの面積は「一シャル」(約1300ha)であり、近接して果樹園・「粘土をとる低地」が各「一シャル」あり、これに「イシュタル神殿の未耕地」(5頁)があった。城の周りは壁で囲まれ、ウルクの住民は動物や敵からまもられていた。そして、その防御のもとに、支配階級として「諸王、貴族、諸侯ら」(68頁)が君臨し、すでに「鍛冶工」、「銅細工人」・「銀細工人」、「彫刻師」(100頁)、大工・石工(136頁)、指物師(158頁)など多様な「手職人」(78頁)が住んでいた。こうした一定の社会的分業の展開のもとに、上級ビール(シラシュ・ビール、クルンヌ・ビール)、油、ぶどう酒、吸物(140頁)など、それなりに豊かな食生活があった。さらに、「人々は腰帯を締め、日ごとに・・祝祭が催され」、「箱琴や太鼓がいつも奏でられ」、容姿美しい遊女らが「生の歓び」を与えていた(17頁)。これが、当時の人々にとっては、獣の支配する野生世界とは大いに異なる文明だったのである。この叙事詩は、四主題(「死すべき人間」、「友情」、「太陽神シャマシュ信仰」、ギルガメッシュの精神形成)をもっていたといわれるが、都市国家をこのような文明空間としてとらえらており、以後この叙事詩は「古代西アジアにおいて・・1500年間にわたって書き継がれ」(月本前掲書、214頁)ていったのである。
この都市国家文明論はアリストテレスによって完成されたとも言えよう。彼は、「何びとどいえども独りぼっちであらゆる善をし所有しているということは、これを選ばないに相違ない。人間はポリス的・社会的なもの(ポリティコン)であり、生を他と共にすることを本性としているからである」((高田三郎訳『二コマコス倫理学』下、1998年、137頁)とする。そして、もちろん遊女は未だいたが、ギルガメッシュ叙事詩ではまだ「野鄙」な男女の営みの空間だった都市国家が、「夫婦のあいだに愛の存するのは本性に即したものと考えられる。けだし人間は、本性的に、国家社会的(ポリティコン)なものたる以上に配偶的なものだからであって、それというのも、家は国に先だつところのより不可欠的なものであり、生殖はもろもろの動物に通ずるより共通的なことがらだからである。ただし、他の動物との共通性はそこまでであって、人間が家を営むのは単に生殖の目的のためのみではく、生活の要求する万般のことがらを目的とする」(99−100頁)とされたのである。
文明指標としての国家はこれでよいのだが、クックが、付随的な文字まで文明メルクマールの一つとすることは問題である。文字よりももっと重要なものがないのであろうか。文字などより、当初の権力である「王制」を支えた重要なものがあるではないか。文字などなくても「王制」は維持できるが、それがなければ、「王制」を存続させえないものがあるではないか。王族を維持し、役人・兵を養い、武器を備え、周辺諸王国を威圧し、或は武力制圧させるのに必要なものがあるではないか。それが、富なのである。富があってこそ、初めて「王制」という権力も存続できるのである。富は権力を支え維持するのである。
メソポタミ神話の文明論 この「富と権力」の連関が文明の根幹になることは、メソポタミア神話からも裏付けられる。メソポタミアには、エンキ(セム語)=エア(シュメール語)という神がいて、この神は、都市エリドゥの守護神であるとともに、深淵の水(地下淡水)、知性、技術、創造という富生産に関わるシステムを司る神であった。この神は、アン=アヌ(天・星の神、神々の集団[アヌンナキ]の父、玉座占有)、エンリル(「世界の事実上の君主」、あらゆる支配権を掌握する権力者)と並び三体神の一つであった。エンキという富に関わる神が、アヌ、エンリルという権力神に次ぐ第三位の神だったのである。
この神エンキが守護する都市エリドゥは、「ティグリスとユーフラテスの河口をペルシア湾で結んでいる潟にずっと接近した位置」にあり、地下水が豊富であり、これが地表を支えている「基盤部」と見られ、当初はエンキは「この地のセム人に固有の神格」(ジャン・ボテロ前掲書、351頁)となっていた。このエンキが、灌漑で地下水を農耕に活用する技術を駆使して富をもたらす神とされる。実際には、エリドゥで生活する人々が、地下水を使って農耕をを行うのだが、彼らにとって、それは自然を傷つける恐ろしいことであり、地下水の怒り、たたりを恐れたに違いない。ここに、技術、水の神が灌漑農法を始めたという神話を生み出し、自らの農耕を神認sじてもらい、安堵したのであろう。
シュメール語神話『エンキとニンフルサグ』(前2千年紀初頭)によると、まだエンキは「三体神」の一つになっていないが(ジャン・ボテロ、松島英子訳『メシポタミア』法政大学出版局、1998年、353頁)、エンキは、井戸を掘り、地下淡水で麦の農耕に着手し(ジャン・ボテロ前掲書、354頁)、「荒れた地味の乏しい地に、彼は農耕を『蘇生させ』、植物を取り扱うことを教えた」(ジャン・ボテロ前掲書、354ー5頁)のであった。この農業の展開によって、エリドゥ内外に産業が起こってくると、これもエンキ神が定めたことだとし始める。シュメール語神話『エンキと世界秩序の確立』によると、エンキは、各地域経済を「運命」として位置づけ、まず、シュメールを「最も偉大で、最も豊かで、最も開け、文明が普及しているという運命を定め」(ジャン・ボテロ前掲書、355頁)、次に、ウルを「海を介して外国とつながる」拠点とし、「大きな港」を開き、その後、メルッハ(インド大陸の西端)には「金と錫のおかげで繁栄するという運命を定め」、次に、シュメールに隣接する地域について、ティルムン(南東)を「ナツメヤシの実と麦類」の供給地、エラム、マルハシ(東方のイラン高原)を「貴石と銀の生産」地、マルトゥ族を「多数の家畜の供給」役と位置づけて、「シュメールの国は自分たちが生産しない、あるいは十分に保有していない消費物資を外国から入手し、代わりに近隣にその栄光と文化とを分かち与え」(ジャン・ボテロ前掲書、355−6頁)たのであった。こうして、エンキは、「全体として、自分が委託されている領域内部における労働と物資交換が、均衡を保ちながら遂行されるように計画を立てる、マネージャーの役割を演じ」(ジャン・ボテロ前掲書、356頁)、灌漑農耕を起動力とする社会的分業を定めたというのである。
そして、エンキは、この社会的分業の編成に神々を関わらせる。つまり、エンキはこの「領域内部における労働と物資交換」の役割を「シュメールの内部で遂行」し「文化の基本的な部位の機能」を下位の神々に割り当てたのである(ジャン・ボテロ前掲書、356頁)。まず、エンビルルには「ティグリスとユーフラテスの機能を割り当て」、ついで、ナンナには「南部の魚の多い沼沢地」、クッラに「煉瓦の製造」、ムシュダンマに「建物の建築」、スムカンに「野生動物」、ドゥムジに「家畜の飼育」、ウトゥ(太陽の神)に「国の行政司法の円滑な運営」、ウットゥに「衣服に関するすべての領域」、アルルには「人類を制作すること」、ニンイシンナには「売春」=「自由恋愛」、ニンムグに「木工と金工」、二ダバに「出産」、ナンシュには「文字と、それに依存するすべての領域」をそれぞれ割り当てたのである。この社会的分業に従事し富を生み出したのは、いうまでもなく人間であるが、神話では当初は下級の神々がこの富生産を担って、この大きな地域変化の神認を受けたのである。これは、当時人間が周囲との緊張・軋轢・競合から余儀なくされていった「富と権力」システムのもとは、一部の支配階級以外は苦役の日々を味わい、なんでこういう境遇に陥ったのかに呻吟していた事態を、権力者はそれは神が定めた運命だとする伏線である。
では、権力神話は、この地域的分業の担い手が、下級神々から人間に代わった経緯をどのように述べるのであろうか。前1500年頃作成のシュメール語神話「エンキとニンマフ」によると、「原初の海(ナンム)から出現した神々」は、「世界の諸処に・・小さな場所」を見つけ住み着き、「結婚」して「生計をまかなう必要に迫られ」、「運河を掘」り、「二流以下」の神々が「仕事に駆り出され」たが、厳しい労働に疲労しきって、不満を持つようになった。ナンムはエンキにこれを知らせ、神々の身代わりをつくることを助言し、エンキは粘土から身代わりつくることをナンムに教えた。そこで、ナンムは8人の女神の助けを借りて「十分成熟した人間」を創り出した(ジャン・ボテロ前掲書、360ー1頁)。この人間が神々の「経済的問題と技術的問題」を同時に解決したのみならず、エンキは、「虚弱」者には「王宮付の士官」、「盲人には吟遊詩人」、「不妊の女には売春婦」、同性愛者は「王宮」職(道化役者)などと(ジャン・ボテロ前掲書、361頁)、「素材をあらゆる用途に駆使する能力のある技術者」(ジャン・ボテロ前掲書、362頁)のように、「不具の人間」にも役割を見つけだした(ジャン・ボテロ前掲書、361頁)。富社会では、神々は、人間の健常者だけでなく、非健常者にまで労働を強いたのである。
さらに、前1600年頃作成のアッカド語神話『アトラ・ハシース』によると、「二流の神々」が労働で疲れ果て、エア(エンキ)が上記解決策で「神々を苦しみから解放」した後に、エアは、殺した一人の神の血を粘土に混ぜて「新しい生き物」をつくることを提案し、ここに、死後も存続する「幽霊」という「神々の特権」(不死性)をもつ人間がつくられた。エアの人間創造の目論見は、「巧妙で、複雑で、正確」なのであった(ジャン・ボテロ前掲書、363頁)。
こうして、エア=エンキは、人類の「創造主」にして「熱心な保護者」(ジャン・ボテロ前掲書、364頁)となった。以後、人々が「労働に従事し、生来の務めを熱心によく遂行したために繁栄し、驚くほど数が増えた」ので、エンリルは、「増えすぎた厄介者」を減らすために「疫病」を蔓延させた。エアは自分が作った人間を生き残らせようとして、寵愛する「最高賢者」(人間の)に災禍を食い止めるように指示した。エンリルは、「愚弄」されていると激怒し、大洪水を送りこむことを決意した。そこで、エアは、「彼らの王の意志」に背いて、さりとて告げ口はできないので、最高賢者に夢を見させ、間接的に洪水対策として方舟をつくらせた。これによって人間は生き延びたが、エアは「王の意志」を一部生かすために、不妊の女性、「子供を持つことを禁じられている宗教身分の女」、幼児を死なせる女などを創り出した(ジャン・ボテロ前掲書、365頁)。
こうして、メソポタミア人が、「技術を統御する神」を重視したのは、「この地の文明全体、彼らの生活すべてと彼らの生き方すべてが、歴史の黎明期以来、なによりもまず共同の労働、生産と有用な財の粗放的加工に基盤を置いてきたから」(ジャン・ボテロ前掲書、377頁)である。権力が自らの基礎たる富生産のための技術を重視し、王の側近には技術にたけた「宰相」などを登用していた(ジャン・ボテロ前掲書、373頁)。これは、現在の権力も同じであり、経済・財政技術に通暁した官僚などを重用している。富社会誕生以来、権力は自らを支える技術を重視し、余すところなくそれを駆使し、国富増大に邁進してきたのである。これが、古今東西変わらぬ権力者の国家運営方式なのである。
このように、メソポタミア神話からも、文明とは、「富と権力」のシステムを根幹とするものなのであり、宗教と法などに支えられたものなのであることが確認された。
この「富と権力」システムを根幹とする文明が、農業文明・商業文明・工業文明とも称されるのは、国家のよって立つ富の源泉を表したものであり、開墾政策(古代・中世・近世農業政策)・商業政策(絶対王政の重商主義政策など)・工業政策(産業革命後の経済政策)などはその富の増加に関わる権力政策だとといえよう。そして、この文明を支える国家がその富を租税として強制的に徴収して、王族を維持し、役人・兵を養い、武器を備えることを可能としたのである。近世以降には、戦争・景気刺激などの臨時費調達の必要が迫られと、将来の租税を担保にして国債を発行し始める。国家は、国家経営のために絶えず経費を膨張させたことによって財政危機に直面し続けてきた。この間、富(生産力)の増加と専制・民主の相関によって国家形態は多様な姿態を取り、古代国家(奴隷制国家)・中世国家(荘園制国家)・近世国家(封建制国家、その最後の国家としての絶対王政)・近代国家(ブルジョア国家)などとなるが、一貫して国家を物質的に支えたのは富を強制的に収奪した成果たる租税であった。
なお、『朝日新聞』(平成23年12月4日付朝刊)は、「借金が民主主義を支配する」という記事を一段冒頭に掲げていて、そのスケールの大きさと意気の高さは大いに評価できる。しかし、各地の研究者の貧弱な学問水準・能力という現状に制約されて、総合的・根源的な学問方法論がないために、個人の借金(個人の格差・貧富さ)と国家の借金を混同し、帝国主義との関連からみたアテネ古代民主主義や近代民主主義の意義(言うまでもなく民衆意見を反映しようとすること)と限界(奴隷主、支配的資本の「帝国主義」的支配・収奪のために民衆意見・利益が歪曲されること)の言及もなく、既存の個別研究者の断片的知識をつなぎあわせるだけにとどまっているかである。元来、「富と権力」システムのもとでは、民主制ですら帝国主義的搾取などのために民衆の声は制約されるものであり、支配的資本の利益に規定された国家経営の諸経費は不可避的に膨張し、国家借金もまた増加する構造になっているのである(近代については、拙著『日本外債史論』など参照)。換言すれば、重要なことは、民主制という形態ではなく(つまり、民主制という形態の美名のもとに、権力や支配的資本によって民衆の労働成果が公然とあるいは巧妙に収奪されるということである。例えば、アテネ古代民主制[強大な海軍をバックに内に奴隷制、外に植民地を擁して内外民衆を収奪]や現代アメリカ資本主義[強大な軍事力をバックに、ドル紙幣を世界に散布し、特に金融工学を駆使した金融資本が「無知」な各国民衆を「歪み」是正などと称して収奪]のように、民主制は他国民の収奪に好都合でもあったということを想起されよ)、民衆の利益のための民主的決定のシステムであるかどうかということである。
文明と文化 さらに、国家を支える「宗教と法と軍事力」のうち、法と軍事力は秩序維持のための強圧的か物質的な国家装置であり、権力宗教は国家威厳・正当性などを補完する国家装置となる。因みに、その文明の波及過程で独自に各地に持続する固有な宗教(自然宗教)・言語・芸術(ここで特に重要なものが自然社会の文学[その典型が日本の『万葉集』]などである)・建築などが文化ということになり、故に文明の侵入或は導入に際しては各地の文化との抵抗と妥協が多様に生じることになろう。文明は文化をとりこみ、時に文化で補完されつつ、時に文化に批判され、崩壊させられることにもなり、文明と文化の関係は複雑多様なものとなろう
文明と文化の関係が多様になるのは、文明の側に原因があるというより、文化それ自体が多様で広汎であることによろう。その結果、文化の定義はまちまちとなり、文化に関わる専門研究の数だけあるということになる。しかもその多くは文明概念の定義を視野に入れていないので、一面的なのである。ここでは、文明との関連で文化について最大公約数的な定義をしておくと、「文化とは、『富と権力』システムの下で人間がある地域社会成員として生活する過程で獲得する『衣食住、娯楽、学芸、宗教』など多様な生活習俗の総体」ということなる。それは、高邁な芸術・思想・精神のみならず低俗で濁ったものも併せ持つ精神活動・価値観ということであり、一言でいえば、文化とは高邁で美しい精神的なものだけではないということである。
この文明と文化の関係について、メソポタミア神話は興味深い示唆をあたえる。メソポタミア人は文明の恵みに「メ」という概念を与えた。この「メ」は、「ある文化領域の全体であると同時に、組織化され文明化された生活が獲得し、その本質的特性にまで還元された知識・経験」である。この「メ」という獲得物は、「神の『発明』や決定の結果ともみなされ」、ゆえに「神々の立てるプラン、神々が生物・無生物を問わずすべての存在に付与する運命の、それぞれの内容」ともなる(ジャン・ボテロ前掲書、357頁)。後者のプラン論については、クレマーも、「メ」は「宇宙の実在と文化現象にそれぞれ内在する一定の法則や規則を指しているらしい」(S,N.クレマー『歴史はスメールに始まる』新潮社、昭和34年、80頁)としている。
ジャン・ボテロによると、メソポタミア神学者は、この「メ」について、「百あまりの項目を挙げて一編のカタログ」を作っている。S,N.クレマーもこれを取り上げ、「<文明(厳密に言えば「文明と文化」というべきであったろう)とその要素>という名にふさわしい、文明分類の最初の記録」(S,N.クレマー前掲書、94頁)として、順番に番号を付して68のリストを挙げている。(1)−(17)番のリストは、権力宗教と権力にかかわるものであり、やはりこれが筆頭におかれていたことがわかる。そこで両者を参考に、この「メ」について、「富と権力」システム(文明)とそれを支える、あるいはそれと関わる文化という視点より筆者なりにまとめてみると、下記のようになる。
権力ー(1)主権、(3)崇高にして恒久的な王冠、(4)王位(「平和な状態と王位の安定」)、(5)尊き笏(「高貴なる王笏」)、(6)宝祚、(9)王権(王権を規定する「牧者であること」)、(18)クルガルウ(宦)、(19)ギルバダラ(宦官)、(20)サグルサグ(宦官)、(33)長老職、(34)英雄、(35)権力、
掟・法ー(26)掟、(63)審き、(64)判決、
軍事ー「軍事生活」、(21)軍旗、(23)武器」、被征服者の「哀歌」、(38)都市の破壊、(42)外国の反乱」
職ー「商業」、「技術」、「家畜飼育」、「灌漑」、「火の起こし方」、消化術、(45)「木工」、(46)「金属の鋳造」、(47)写字家、(48)鍛冶職、(49)革職、(50)大 工職、(51)かご編み職、「助言を行なう能力、公正に裁く感覚、決断」、「義務労働」、
住ー「家造り」、「集合家族、」
娯楽ー(25)「売春」の男女の専門家とこれに関わる「性的な商売」、
学芸ー(28)芸術、(31)グシリィーム(楽器)、(32)音楽、(65)リリス(楽器)、(66)ウブ(楽器)、(67)メシィ(楽器)、(68)アラ(楽器)
宗教ー(2)神権(世界全体を要約する「神性」)、(7)聖なる神殿、(8)聖職、(10)永遠の女権、(11)斎(いつ)き女(神殿)、(12)イシブ(神殿の宦官)、(13) ルマア(神官)、(14)グトゥグ(神官)、(15)真理、(16)冥府降り、(17)冥府脱出、(29)祭室、(30)神殿の僕、
人事・感情ー(24)性交、(27)侮辱(誹謗中傷)、(36)憎悪、(37)正直、(39)哀悼、(40)心の喜び、(41)虚偽、(43)善、( 44)正義、(52)知恵、(53) 看護、(54)潔斎、(55)畏れ、(56)恐怖、(57)闘争、(58)平和、(59)敗北、(60)勝利、(61)評議、(62)苦悩
最後に、「これら全体あるいはさらに多くの分野を統括し、技術の取得と実践を主導」する「知性と知識」(ジャン・ボテロ前掲書、357頁)。
メソポタミア人、世界で最初に富社会を経験したメソポタミア人は、富社会という文明がもたらした多様な文化総体をこのように概括したのである。彼らは、自然社会とは異なり富社会の「獲得物」を性商売まで含めて見事に要約したのである。ここには「文明と文化」の総体的相関図が的確に語られているのである。
こうした総体的相関図からみれば、前述のエンキ神は、「文明生活の創造者」「唯一の先導者」であるのみならず、「万能技師」としても、こうした「国の複合的で精緻な存在のメカニズム」=「文明と文化」の複雑なメカニズムの調整者でもあったことになるのである。エンキ神は、具体的には、前述の様に、ウトゥ(行政司法)、エンビルル(「ティグリスとユーフラテスの機能」)、ウットゥ(衣服)、ナンナ(「魚の多い沼沢地」)、スムカ(野生動物)、ドゥム(家畜の飼育」)、クッラ(煉瓦)、ムシュダン(建物)、ニンムグ(木工と金工)、ニンイシンナ(「売春」)、アルル(人類制作)、二ダバ(出産)、ナンシュ(文字)などの下級神に割り当てたのである。エンキ神と配下の下級神によって、「文明と文化」の総体の秩序が維持されるとしたのである。権力者は、こうしたエンキ神の「知性と知識」で文明と文化の相関的な「獲得物」を調整しようとしたのである。
だが、現実には、文明が各地多様に生み出した文化は、その多様性の故に権力を支えるだけではなく、それを批判し、突き崩そうとするものともなったのである。人々は、日常的に「争い、勝利、誹謗中傷、へつらい」、屈辱、虚言などの社会的ストレスにさらされ、それが権力の民衆収奪批判のエネルギーを増幅させるのである。だから、権力者は、こうしたエンキ神の「メ」をほしがるであろう。シュメール神話『イナンナ女神のエリドゥ詣で』によると、ウルクの守護損イナンナ女神は、「エンキ神の都エリドゥへ出かけ」、「世界秩序の根源となる律法『メ』を掌握」していたエンキ神に「メ」を求めた。エンキは酒宴ですっかり酔い、つい「請われるまま文明の源である『メ』を全部やってしまい」、イナンナはこれを船に積み込んで自分の都ウルクに漕ぎ出したという話がのっている(岡田明子・小林登志子『古代メソポタミアの神々』集英社、2000年、67頁)。これなどは、ウルクの権力者が富社会の乱れた秩序をエンキ神のもつ「メ」に助けを求めようとした現れであろう。以後の権力者もまた、基本的にはこうした「メ」装置を求めてゆくのである。古今東西、権力は、物理的には軍事力・警察力で強制的秩序を維持しようとし、宗教が「メ」装置の中核ともいうべものであるが、宗教の影響力の希薄化した現代ではそれにかわるものとしては情報ぐらいしかなく、政治はますます混迷して民衆の支持を得られず、経済も先進国ほどますます停滞するであろう。だからこそ、総合的・根源的学問によって、富社会の始発点たるメソポタミアまで含めた現在の総体的把握が必要になっているのである。
また、よく文明の特徴としてその高度・複雑さが指摘されるが、文明が高度・複雑であるか否かは、それ自体は枝葉末節的なことである。なぜなら、人間の細胞組織を初めとする自然のつくり・営みは、初めから高度・複雑であり、人為的な高度・複雑さなどはとうてい自然の高度・複雑さの足元には及ばないからである。文明の高度・複雑さ如何自体は文明のメルクマールにはならないということだ。そして、欧米で案出されたこの「文明」用語は、自然を野蛮とみなし、「富と権力」という人工物を進歩・開明とするという一面的見方に基づいており、それが内包する諸問題を軽視するものだということにも留意しておこう。
諸革命と人間運命の岐路 このように文明の定義を再確認した上で、諸革命と人間運命の岐路との関わりの問題に戻れば、航海革命、産業革命、情報革命などは、「富と権力」システムに変容を強いるものではなく、あくまで「富と権力」システム下での富生産面での「大きな変化」でしかなかったということになる。それは、生産技術の工夫で富の生産を増加させ、人類に「我々は豊かになった、進歩している」という錯覚を与えたにすぎなかった。国富、所得、地価など数値でその「進歩」を証明しようと試みるものもいるが、だが、それは、大きな矛盾・問題を絶えず随伴させつつ、この「富と権力」システムを動揺させ、いずれは崩壊させる危険(大恐慌・金融恐慌、財政危機、公害、地球環境危機、食糧危機、貧富格差問題の深刻化など)を生み続けてきたのであった。これが、経済の成長というものの正体であった。こうした「富と権力」のシステムのもとで、GNP・GDPに代わる指標としてGNH(この本質については、GNHを歴史的に論じた拙稿[『仏教経済研究』所収]参照)などを提案したところで、本末転倒の試みだというほかはないのである。不幸な状況があるから幸福が問題になるのであり、即自的に幸福な状態にあるならば、幸福度などはまったく問題にならないからである。目ざすべきは、幸福度の上昇などではなく、幸福度如何などが不要になる社会の実現なのである。
ただし、こうした民衆本位のシステムが世界的に実現する過程で情報革命が大きな役割を発揮する事が期待されており、その期待通りになるならば、この情報革命は農業革命と並ぶ大画期になりうるであろう。その意味で、人類は今まさに第二の大きな岐路、しかも今度は第一の岐路とは異なって明確な意図と決意をもって踏み出すことの可能な大きな岐路にさしかかっているのである。
こうした展望は「千年視野」・「古今東西」の視点の導入によって初めて可能となるのである。確かに多くの論者が今後の展望について多くの意見を述べている。中でも、良心的意見の最大公約数的なものは、「がむしゃらに成長を求める時代は終わった。多くの経済大国は、成長の副産物として貧富の格差や環境破壊を生み出してきた。わが国は、それとは異なる『脱成長』の経済モデルを示し、エネルギー消費を抑制しながら、安定した社会基盤と豊かな自然環境を備えた成熟した国造りを目指すべきあろう」(小原克博「安全神話とは何だったのか」『京都新聞』2011年5月10日)というものである。だが、ここには根源と総体がなく、ゆえに「安定した社会基盤と豊かな自然環境を備えた成熟した国造り」という展望が空疎なのである。ありきたりの見通しで、何か肝腎なものが欠けているのである。「千年視野」・「古今東西」の視点が欠落しているのである。
本物の学問のささやかな課題の一つは、「千年視野」・「古今東西」に立脚して、人類がこの「自然社会」と「富社会」という二つの社会をいかに辿ってきたかを解明して、「富と権力」システムの諸問題と行き詰まりを明らかにして、それに代わるものとして即自的に幸福な社会と、それを実現するためにの新国際システムを根源的・総合的に人類に提示することとなる。学問は基本的方向のみを示し、具体的な処方箋とプログラムは、ごく普通の生活人が真剣な討議を幾度も幾度も積み重ねてつくりだしてゆくであろう。EUが既存システムを残しつつ推進するのでさえ百年、二百年かかると見通しているように、それには、最低でも百年、二百年の期間が必要になるであろう。だが、生活人は、愚かであるかもしれないが、賢く逞しいのでもあるから、その期間は短くなるかもしれない。
(11)、以上のことに関しては、具体的に実施している先学がいる。
梅原猛 氏は、「現代の文明の方向は、人間が自己と、自然や他の動植物との違いを強調し、人間の自然および他の動植物にたいする支配を合理化する方向だと思う。このような文明の方向によって、巨大な技術文明が誕生した。そのような巨大な文明の中にあって、人間はますます傲慢になり、ますます自然から離れてゆく。・・・私はもう一度人間の自然との同一が確認されねばならないと思う。そしてそのうえで、人間とは何かが、あらためて問いなおされなければなるまい」(梅原猛「密教の再発見」『仏教の思想』T、集英社、1982年、358頁)と指摘されている。なお、「このような文明の方向」とは、いうまでもなく西洋文明である(千田注)。
福岡正信 また、福岡正信氏は、「西洋では自然と人間を対立させたでしょう。そのときが過ちのスタートで、そのときから人間は一人で智恵を使って苦労しなければいけない、一人で作物を作って食っていかなければいけないということにな」り、「自然を生かす自然科学ではなく、自然を殺す反自然科学が人間の科学になった」(『<自然>を生きる』春秋社、1997年、59頁)と批判し、「人間はなぜ生きるのか、人間の生命はどこにあるのか、何が基になっているのか、自然の心とか生命、神とか仏とかという言葉がありますが、それを早く明確にキャッチし」、「本当の価値観、真善美は一つしか」ないことに気づかなければならないとする(同上書、66頁)。
そして、筆者は、総合的・根源的学問によって、自然社会と異なる富社会での「富と権力」のシステムが学問的に解明され、こうした諸問題を総合的・根源的に把握することになるとしている。
マルクスの問題点 それに対して、カール・マルクスは周知の唯物史観(『世界の大思想』マルクス経済学・哲学論集、河出書房、昭和42年など)で下部構造ー上部構造からなる社会の総体的把握の理論を提示し、左翼に属さないアカデミック研究者を含めて、多くの「社会科学者」に影響を与えてきた。だが、このマルクス社会構成体論の致命的欠陥は、@人間の自然への働きを当然のこととし、「社会のなかで生産を行なう諸個人」を「出発点」として、「自然主義」を「美的な外観」・ユートピアとして一蹴し、現実の社会として存在していた「自然社会」を知りえず、これを社会構成体理論に組み込みえなかったこと、A「人間は、自分たちの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志からは独立した諸関係の中にいる。すなわち、もろもろの生産関係にはいるのであって、これらの関係は人間の物質的生産諸力の一定の発展段階に照応する」(「経済学批判序言」)と、生産力を基軸に「発展」しているとしたこと(これに関しては次の注6でも言及)、Bこうしてマルクスは富社会の人類の営みに「お墨付き」を与えたことになり、資本家の賃労働者搾取を揚棄し、賃労働者独裁国家をつくりさえすればすべてが解決するとしたことなどである。「富と権力」を根幹とする富社会の根本的諸問題(自然と人間の対立、それによる富の実現が基本)を解決せずしては、賃労働者国家などが登場しただけでは何も解決しないのである。マルクスは、「現代」を現代に特有なものとして、それだけを独自な対象として、そこに解決の糸口を見出そうとしてしまった。却って、科学的社会主義と称した考えに基づく労働者国家は、人権抑圧の秘密警察国家「ユートピア」であった。これまた愚かな人知以外の何ものでもない。こうした「独断的」な傾向は今でも見られ、近現代の一時期(例えば「戦間期」・「占領期」など)を取り出して、その固有性のみを強調して、それが現在の我々の直面する諸問題を生み出したかのごとく見通して、総合的・根源的なる学問的把握を怠ったのであった。
ロストウの問題点 こうしたマルクス社会構成体移行論に抗して生み出されたのがウォルト・ロストウ経済段階理論である。彼は1952年に、The Process of Economic Growth, (Norton, 1952)[木村健康,久保まち子,村上泰亮訳『経済成長の過程 一つの非共産主義宣言』ダイヤモンド社、1974年])を刊行し、、「伝統的社会→離陸の準備段階→離陸(テイク・オフ)→成熟への前進段階→大量消費社会」という経済段階論を提唱して、離陸を重視した。これは、米ソ対立の中で、資本主義の優位を主張するために、イデオロギー的使命を持って生み出されたものであり、自然社会の理解など全く欠落した単純なものである。このロストウ理論は英国産業革命論ゼミの中で示唆されたものであるが、当時はマルクスとかロストウなどの「総括的把握」論が盛行していたのである。
マルクス、ロストウ、いずれにおいても、一定意図のもとに富社会の「推移・展開」のみに問題関心が集中し、「自然社会」論が欠落していて、その結果、「富社会」固有の特質たる「人と人との対立」と「人と自然との対立」という内在的連関構造が十分検討されていないのである。左と右の見方の対立であるようであって、実はともに「同じ穴の狢」でしかなかったのである。
なんども主張しているように、自然社会論は学問の根源的位置をしめている。この自然社会は、現時点での筆者調査によれば、メソポタミアなどにもみられたが、メソポタミアでは自然社会が数千年後に富社会に移行し、これがヨーロッパ自然社会の展開を制約したであろうと推定される。それに対して、日本の自然社会(縄文時代)だけは1万年という長期にわたって持続し、世界で日本だけが最も濃厚にこの自然社会を経験し、以後の日本を異色たらしめ、学問的にも「卓越」たるものたらしめる可能性を帯びさせた。
日本の大学研究・教育体制の問題 しかし、日本の大学は、こうした可能性に気づことはもとより、それを伸ばすことも怠ってきた。つまり、総合的・根源的研究を怠り、安易な個別研究に事足れりという非学問的態度を示してきたのである。
筆者は、学部在学の当時から脈絡のない各種「専門講座」の有害無益性、専門研究者の学問的情熱の希薄さを厳しく批判し、「全体研究」に従事して、高所大所から世界をみる学者を目指しており、大学に数多いる凡庸研究者・「偽物学者」を有害無益として指摘し、当時の学長などにも「もっとスケールの大きい本物の学者をふやすべきであり、テレビなどに出て下らぬ事を言って勉強してない非学者は直ちになんとかするべきではないか」などと意見書を提出していた。中には、敬意を示したり、理解を示す教授もいたが、だったらあなたも自らの非学問性を自己批判なされて、現状に安住せず、腐った大学を出て本物の学問を築かれたらどうでございましょうかというほかはなかった。いかにも理解したふりをして私も「学者のはしくれだ」みたいな御態度をとるべきではないでしょうと諌めたものである。わかっているのであれば、やってごらんさいということだ。誰もが目先の有害無益研究に走って、「古今東西」・「千年視野」という視野で人類と自然の過去・全体・未来について根源的・総合的な学問を構築しようとしない以上、誰かがやらねばならないのである。全国に溢れる凡庸で非学問的な個別研究者に堕すわけにはゆかないのだ。
当時まともな本物の学者がいれば、筆者は総合的・根源的学問論の構築などという途方もない大仕事に明らかに従事することはなかったであろう。私の学問的営為は、基本的にはこうした凡庸・非学問への厳しい「学問的批判精神」に基づき、肩書きをとれば殆んど通用しないような、自己保身のためなら何でもする類いの、はるかに下にある既存大学教授などは一切眼中になく、絶えず「古今東西」「千年視野」という高所大所から人類と自然の過去・全体・未来について根源的・総合的に考察する学問を構築し、世界的スケールの学者になることのみを目指してきたのであり、これについては終始一貫未だに変わることは一切ないのである。一時、実力本位の外国籍大学の教授に就任していたことがあるが、それに比べて、とにかく日本の大学は非学問的過ぎるの一語に尽きるのである。その以ての外の非学問性などを嫌って、日本の大学を避ける賢明な人が現実にいるのである。
他に大志を抱いてこういう学問研究をやってる方がいれば、速やかに彼にまかせたいところでもある。確かに志高い物理学者の中に総合的学問論構築の動きが見られるが、まだまだ不十分なものである(拙稿「古今東西の学問方法論」)。時々、数多くの個別研究者を網羅してそれだけをもって「総合知」の実現などと称する者がいるが、所詮、ばらばらの「総合」などは真の「総合知」ではないのである。実際に着手すれば分かることだが、安藤昌益の如き、一人の卓越した研究者にして学者である達人が、自らの頭脳を消耗して「総合知」を構築するしかないのである。
繰り返すまでもなく、前述の如き総合的・根源的学問による「富と権力」のシステムの学問的解明こそが、宇宙・地球・自然とは何か、人間とは何ものであるのか、宗教とは何か、人間は動物と一体どこが異なるというのか、なぜ人間だけが富を求め出したのか、人間・国家が豊かになるとはどういうことか、そもそも国家とは何か、政治とは何か、経済とは何か、はたまた貨幣・金融を始めたのはいったい誰なのか、なぜ人間は戦争をして、未だに懲りずに人間だけが戦争をし続けているという諸問題を総合的・根源的に把握するのである。
(12)、そもそも我々は発展しているのか。富社会は、「奴隷制・封建制・資本制」、あるいは「古代・中世・近世・近現代」に細分化される。この細分化の最大の非学問的弊害は、いかにも人間の歴史は「発展」・「進歩」していると誤解させることである。実際、生産力発展・共同体発展・社会的分業の発展・貨幣経済発展・ブルジョア的商品経済発展・経済発展・資本主義発展など、発展と称される事象は実に多いのである。発展という用語で前向きな方向を志向すると錯覚しているのである。だが、富社会での人為に「発展」などはなく(物理学的)、一切は空であり(仏教哲学的)、少なからざる人々も指摘するようにそれは「破滅」に向かうもの以外の何ものでもない。もともと「自然は歴史の進歩などというものは、求めていない」(哲学者内山節「文明が滅ぶとき」[平成9年5月2日付朝日新聞])のである。自然は、人間に収奪され、進歩どころか、退歩を余儀なくされている。人間だけが勝手に「発展」「進歩」と思い込んでいるだけである。
ゆえにこそ、これらは、先入観なく、あくまで総合的・根源的に研究されるべきであり、個々独立して分断研究されるべきではない。総合的・根源的研究によってのみ、富社会の本質が学問的に解明される。それには、途方もない研究が要請されようから、相当の学問的覚悟・力量・水準が必要となるが、そこから獲られる学問的成果は果てしなく大きいものである。途方もなく素晴らしいものである。こうした崇高な学問的大志が求められる学問行為は、縄張り根性をもつ低水準の非学問的徒輩には到底できないであろう。
(13)、自然社会においては、生きるための人類の拡散というかたちで「人類のグローバル化」が進捗したが、富社会では、商業(15−17世紀の大航海時代)、通商(19世紀英国産業革命後の世界市場の形成)、金融(20世紀のアメリカ金融資本主導の国際金融市場の形成)という利益動機がグローバル化の推進力である。
この国際金融の登場は金融工学という愚かな人知を伴い、世界経済を混乱させる「暴力的」なものであり(東谷暁『世界金融崩壊 七つの罪』PHP新書、2009年、など参照)、例えばノーベル経済学賞受賞者ハリー・マーコヴィッツ「ポートフォリオ理論」などは「騙し」理論に使われたのであった(堀川直人『ウォール街の闇』PHP研究所、2008年)。これは、多くの人々に金融の役割を再考させ、地域通貨の役割に脚光をあびさせ(例えば、『エンデ全集』全5巻、岩波書店、河村厚徳ら『エンデの警鐘ー地域通貨の希望と銀行の未来』NHK出版、2002年など)、多くの制約を課すイスラム金融を注目させたりした(例えば、吉田悦章『イスラム金融入門』東洋経済、2007年。また、藤本勝次訳『コーラン』世界の名著15、中央公論社、昭和45年なども参照。なお、「仏教経済学」と「イスラム経済学」の比較について、仏教経済研究所で行なったことがあり、機会があれば、公開することもあろう)。
そして、この富社会第三のグローバル化の波で注目すべきことは、インターネット・携帯電話などが世界的に普及したということである。これは、国内外の人々の情報共有を瞬時に実現させ、それが富社会での政治・国家のありかたに大きく影響を与え、それを通して富社会の経済のありかたにも大きな影響を与える可能性を提供している。
(14)、福岡正信『<自然>を生きる』春秋社、1997年、152頁。
(15)、例えば、フランシス・べーコンは、「ヨーロッパにおける多くの偉大な学寮」はすべて「専門職業向き」であるが、「全般的な学芸と学問」は重要である。「もし哲学と一般原理の研究というものが、無駄な研究であると考える者があるとすれば、あらゆる職業の専門分野は、それから助を受け供給を得ているということを考えないものであ」り、これは「学問の進歩を妨げ」(フランシス・べーコン『学問の発達』、正式には『神と人間の学問の発達と進歩について』1605年[福原麟太郎編『ベーコン』世界の名著20、中央公論社、昭和45年]、319頁)、「専門的学問に建築や寄金を、専らあてることは、学問の成長にたいして、悪い面の影響を与えているばかりでなく、国家や政府に対しても有害であったということである」(同上書、320頁)とした。
また、フリードリヒ・シェリングは、「(学問上の)真の行為というものは、いわば全人類の名において行われ得るものであるように、真の知識は個人の知ではなく、理性の知を可能にするだけのもの」であり、故に「学問というものはそれ自身永遠である人類のものだ」(シェリング『学問論』1803年[勝田守一訳、岩波文庫、1989年、27頁])が、大学では「既存のものを己のものとするためにのみ学ばなくては成らぬことが非常にたくさんあるので、知識はできるだけ違った分科に分かたれ、全体の生命ある有機的な組織ができるだけこまかく細分されなくてはなら」ず、この結果、「一切の孤立した知識の部門のすべて、したがって一切の特殊的な学問は、それらから普遍の精神が失われて」(シェリング同上書、31頁)、この結果、大学では「知識への準備どころか、知識そのものが失われてしまったも同然」(シェリング同上書、31頁)である、と指摘していた。
(16)、学校教育法第52条は、「大学は、学術の中心として、広く知識を授ける」と同時に、「深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開せることを目的とする」と規定している。この法案起草者も大学は専門研究のみならず、「学術の中心」でもあることが必要であることはわかっていたようだ。「学問の府」とまで言っていないが、それに類した表現たる「学術の中心」としたところに起草者の「学問的良心」があったというべきであろう。だが、政治家・官僚や実業家などに、もともと「学術の中心」機構などできるわけがなく、現状では税金の不法浪費というほかはない。
純然たる学問機関は、税金などは全くあてにしないで、高邁な理想と志をもった真の学者によってつくられるのである。なぜなら、一言で言えば、たかだかの個別研究レベルをするだけでは、人に教えるにたる学問水準の総合的・根源的知識にはとても到達し得ないということだ。
(17)、尾高邦雄訳、岩波書店、1980年。
(18)、ホメロス(英語ではホーマー)の『イリアス』(田中秀央訳[『世界文学大系』1、河出書房新社、昭和55年)から、ホメロス叙事詩の帝国主義的性格を見ておこう。
1、まず、トロイエ戦争は、単なる神話上のフィクションではなく、当時語り継がれてきたギリシァ国家の存亡に関わる関わる大戦争だった。トロイエには9層の遺跡が重なっているが、トロイエ戦争は第7層A(紀元前1300−1100年)のミケーネ文明の末期に起こったことが確認されており、故にトロイエ戦争はホメロスらの生きた時代から4−500年前に実際に起こったのであり、神話『イリアス』は事実の上に築かれたものである。
前8世紀に始まる「大植民活動の先触れ」として、前11世紀頃に「小アジア西岸」にギリシァ植民地が建設された(岡田泰生『東地中海のなかの古代ギリシァ』山川出版社、2008年、34頁)。神話はそこを舞台とし、トロイエ王家の祖ダルダノスは、エレクトラ(プレイアデス[アトラスとプレイオネの七人の娘]の1人)とゼウスの息子であり、サモトラケ島からテウクロス(ニュンペーのイダイア(妖精)の子)が王として治めていたイリオスのある地域にやってきた。ダルダノスはテウクロスの客となり、彼の娘バティエイアと領地の一部をもらい、彼はそこにダルダノスという都市を築き、ダルダノスの後はエリクトニオス、トロスと王位を継承し、トロスの時に、自分の名にちなんでダルダニアの地をトロイエと呼んだのである。ギリシァ本土から海を隔てたこの地もまた、ゼウスの子孫が統治していたのである(アポロドーロス『ギリシァ神話』岩波文庫、2003年、151−2頁)。
プリアモス王の頃、トロイエが肥沃である上に、「海峡を通る商人たちから通行税を取り立て」たりして、トロイエは、「マカルの王宮のあるレズボスと、山のかなたのブリュギエと、果てしないヘレスポントス海とが囲む地方」で最も豊かになった(『イリアス』(田中秀央訳[『世界文学大系』1、河出書房新社、昭和55年、123頁)。プリアモスは、「トロイア側のすべての諸侯の頭」となった(永江良一訳『トロイア物語:都市の略奪者ユリシーズ』Andrew
Lang : Tales of Troy :Ulysses The Sacker of Cities[プロジェクト杉田玄白参加翻訳テキスト])。ここに、ギリシァ本土の王アガメムノンらが、通行税などを賦課する植民地側と、覇権をめぐって対立したのであろう。
ギリシァ本土側の軍事力は、多くの都市国家の連合軍であった。ペロポネソス半島のボイオティア地方アウリスの港にアカイア勢(ギリシア方)の軍船1000隻(今のギリシア本土とペロポネソス半島全域、クレタ、ロードスといった東南の島々からも駆けつけた約30国のギリシア諸国連合軍、総勢10万人)が集結した。一方、トロイエ軍事力はトロイエ、リュキエ、トラケ、ダルダノイなどの「寄合勢」(『イリアス』[田中秀央訳、34頁])であった。
いわば、ここに、ギリシァ本土とギリシァ植民地とが、ゼウスらギリシァ諸神の見守る中で武力決着をはかったのであろう。この権力者にとっての「国運」をかけた戦争を神々をからませて、悲哀をおりまぜながら、民衆うけするように書き上げたものが『イリアス』であった。
2、だから、『イリアス』では、トロイエ戦争は、ゼウス神を信仰する同じギリシァ民族間の戦争であり、ゼウスら神々が戦争の行方に関わるものとして描かれている。
ここでは、トロイエ戦争勃発の「神話」的事情は語れていないが、アポロドーロス『ギリシァ神話』(岩波文庫、2003年、181頁)によると、ゼウスはトロイエ王子アレクサンドロスに、妻ヘラとアフロデティとアテナイのうちから、美人を選ぶように命じた事が発端である。アレクサンドロスは、ヘラからは「全人類の王」にするとされ、アテナからは「戦における勝利」を約され、アプロディテーからはギリシァ一の美人・スパルタ王女ヘレネとの結婚を提示された。アレキサンドロスは、アフロデティを選んだために、スパルタに赴き、ヘレネーに出奔を説き伏せ、フェニキア・キュプロス・エジプトを経由してトロイエに赴いた。アガメムノンは、これを「ギリシァに対する侮辱」として、トロイエ出征が決定された。
ゼウスは原則中立であったが、なりゆきでトロイエ側についた。だから、ゼウスは、アカイエ側のアガメムノンについては、「ゼウス神に育てられた君主たちのうちで、おまえはわたしには最も厭わしい者だ。なぜっておまえは、口論、戦争、戦闘が四六時中好きときているからだ」(7頁)とする。
その他神々の一部は、ギリシァ本土(アカイエ、、アルゴス、ダナオイなどと称された)とトロイエ側に分れた。アカイエ側には、ヘラ、アテネ、ポセイドン、へパイストスが味方(117頁)した。女神アテネは、アルゴス(ギリシァ本土)人の名声を得るために、ディオメデス(ペロポネス半島のティーリュンスの領主)に「力量と勇気とを授けた」(35頁)りした。
他方、トロイエ側には、軍神アレス、銀弓神アポロン、その妹アルテミス、アプロディテ、河神クサントスらが味方した(117頁)。そして、トロイエもまた、「ゼウスの思し召しに従おう。われわれの祖国のために戦うこと、これが最善の予兆だ」(ヘクトル、85頁)と、ゼウスを信仰した。
こうした神々の両軍加担で、神々が戦場で武将の生死を左右し、戦況はめまぐるしく推移する。『イリアス』の巻別に戦況推移を要約すると、@アカイエの英雄ディオメデスは、アテナに支援されて、トロイエの武将アイネイアスを殺そうとし、アプロディテ・アポロン・アレス神と戦い、アプロディテを負傷させ(5巻)、Aだが、ゼウスはトロイエに加担し、アテネ、ヘラはアカイア軍を引き立てるが、トロイエが優勢となり(6−12巻)、Bやがて、ポセイドン、ヘラらが劣勢のアカイエ軍を激励支援し続けたことで、トロイエは劣勢となり(13、14巻)、Cそこで、ゼウスはトロイエ支援のためにポセイドンを戦争から排除し、ヘクトルを助勢し、アキレウスの戦友パトロクスを殺害し(15−17巻)、Dここに、ヘラがアキレウスを鼓舞し、アカイアが優勢となり、トロイエは劣勢となり、ゼウスはトロイエ英雄ヘクトル死亡を決断し、ヘクトルが殺害されると、憐れな父プリアモスが「救援の神」ヘルメイアスに導かれつつ苦難のすえにヘクトル葬式をあげたのであった(18−24巻)。
こうして、神々は、人間の権力闘争に巻き込まれてしまったことについて、ディオネは、「われわれオリュンポスの宮殿に住んでいる神々のうち多くのものが、人間のために、互いに残酷な禍いをかけ合って苦しんで来たのです」(45頁)とする。また、「工匠へパイストス」(ゼウスとヘラの長男)はヘラに、「もしもあなた方二柱の神(ゼウスとヘレ)が、人間どものために、そんなに争い、神々の間に葛藤を引き起こすようなことになれば、これは、誠に由々しき騒動になり、さらに堪え難いものとなりましょう」(19頁)とした。
逆に、権力者に言わせれば、神々の方こそ戦争をそそのかしたとする。例えば、トロイア王プリアモスは、ヘレネに「おまえが悪いとは思っていない」とし、「アカイア人たちとのいたましい戦争をわたしの上にもたらした神々こそ悪いのだ」(25頁)とする。
3、こうした神々と権力者の絡みあった戦いにおいて注目すべきことは、権力者の多くがゼウスの末裔であるということである。つまり、@勇将アキレウスは、父ペレウス(プテイーア王=人間。「ゼウスの末裔」[16頁])、母「海の女神テティス」(父はネレウス[海と大地ガイアの息子]、母は女神ドリス)との息子であり、A「英雄」・「人民の王」(7頁)アガメムノンの場合、曽祖父はタンタロス(父はクロノス[ウーラノスとガイアの息子でティタンの末弟]、母はレアの娘プルートー。ゼウスの兄弟)、祖父はクロノス[ウーラノスとガイアの息子でティタンの末弟]、祖母はレアの娘プルートー。ゼウスの兄弟)、父はギリシァ軍総大将アトレウスであり、Bトロイエ王プリアモスは、ダルダノス(エーレクトラーとゼウスの息子)の子孫(138頁)であり、子福者で、正妻の子は17人(長男へクトル[英雄]、次男アレキサンドロス(パリス)。ヘレネ(実父はゼウス)の夫)、その他含めて50人余の子(リュカオン、エケムモン、クロミオスなど)がおり(135頁)、Cアカイエ・トロイエ両軍が戦いに疲弊した時、サルペドン(ゼウスの子、「リュキエ人の隊長」、トロイエ側)とトレポレモス(ヘラクレス[ゼウスとアルクメーネーの子]の子)という「ゼウス大神の息子と孫」(52頁)とが対峙することになったりした。
こうして、ゼウスの末裔らが、覇権をめぐって争ったのである。Dの場合、互いに槍を投げあい、サルペドンはトレポレモスの頸を刺し、トレポレモスはサルペドンの大腿を刺したが、ゼウスがサルペドンの「死滅」を防いだのであった(52頁)。
4、本書では、神々も権力者もほとんど民衆を考慮してはいなかったが、だからといって、民衆的配慮が全くないわけではない。例えば、アガメムノンは、「おれは(クリュセイスの方を)おれの娶った妻クリュタイメスよりも好きなんだ」が、「民衆がつつがなくある」ならば、「あの娘を返しもしよう」、「(その代わり)諸君はただちに戦利品をわたしのために用意してもらいたい」(5頁)として、民衆的配慮をしている。だが、民衆を考慮した決断はこれだけである。
その他は、アキレウスはアガメムノンの侮辱に怒りを静めることはできず、アガメムノンを「酒乱の男」、「民衆を食い物にする王」(9頁)と毒づいたり、アイネイアス(母は女神アプロディテ)はトロイエの「民衆の王」(44頁)と称されるとあるぐらいである。権力者には、反民衆的なものと、民衆的なものとがいるというのであるが、民衆的王についての掘り下げは一切ない。
また、ホメロスは、ゼウスは「神々と人間の父」(18頁)としていて、ゼウスは民衆の父でもあるとしているが、ここではそういう民衆的な側面は現れてこない。ゼウスのもとには、「災禍の贈物」と「祝福の贈物」という「二つの壷」があり、人間の禍福はこれに左右されるとした程度である(136頁)。ゼウスと民衆とのかかわりは、このホメロス『イリアス』ではなくて、次述のごとくヘシオドス『神統記』、『仕事と日』で展開されたのである。
5、このように、『イリアス』は、ゼウスを中心とする神々と権力者の権力闘争との絡み合いを取りあげたものであり、ゆえにこそアリストテレスがアレキサンドロスの帝王教育として『イリアス』を教え、後にこれが同大王の愛読書の一つになったのである。
アレキサンドロスの家庭教育とは、兵法については父フィリッポス2世、リシマコス将軍から学び、哲学、弁論術、医学、博物学、科学、倫理学、文学、地理天文などはアリストテレスから学ぶというものだった。そして、アリストテスの文芸講義は「アレクサンドロスをしてホメロスの英雄へ傾倒せしめ、彼の世界制覇の巨大な情念を燃焼せるに与かって力あ」ったようであり、「アレクサンドロスのうちにあったやみがたき大望と情念とが彼を駆ってアリストテレスの考えていた限られた世界の統合という理念を乗り超えさせたというべき」(川田殖氏編『アリストテレス』世界の思想家2、平凡社、昭和52年、12頁)だったといわれる。重要なことは、アリストテレスが、『イリアス』などを教材にして、王家に生れた王子の義務として、アジア支配の正当性などをアレキサンドロスに教え込んだということであろう。
アリストテレスの著作を読むと、アリストテレスが、アジア・東方侵略を当然としていて、ギリシア帝国主義者であることが鮮明になるのである。アリストテレスはアレキサンドロス王子に、こうした帝王教育を施したのであろう。アリステレスは、従来の主人的支配=奴隷制を認め、ギリシア人のアジア支配を容認して、マケドニアの東方遠征・支配を肯定する考えをアレクサンダーに教え込んだと思われる。
例えば、『王たることについて』(『アリストテレス全集』17、岩波書店、1977年)という作品は、マケドニアのアレクサンドロス大王の、王たることについての質問や、植民地は如何に建設すべきであるかについての質問に応えて、アリストテレスが書いたものと同じようなもの」(607頁)であり、「アリストレスは、アレクサンドロス大王に、王たることについてもまた、一巻の書物を書き、如何に統治すべきであるかを彼に教えている」(607頁)のである。
アリストテレス、アレキサンドロスは、ペルシァ戦争の危機に直面して、トロイエ戦争をゼウスを信仰しあうギリシァ民族間の戦争としてではなく、ギリシァ対アジアの戦争と見て、ギリシァのアジア侵略を「美化」「鼓舞」し始めたようなのである。従って、紀元前1世紀頃のアポロドートス『ギリシァ神話』(岩波文庫、2003年、181頁)では、トロイエ戦争の原因として、「ヨーロッパとアジアが戦いに入って、自分の娘が有名になるようにというゼウスの意によっている」などと記されている。
(19)、ヘシオドスは、「富社会」にありつつも、詩歌が人々の不安・悩みを和らげるという「自然社会」の慣習をうけついで(これは万国共通であり、日本では『万葉集』にこれをうかがうことができる)、権力が正当性をはかるべく生み出した権力神話(「神の子孫が神意に基づき大地を支配するのは当然である」などといった類い。例えば、『古事記』、『日本書紀』など)ではなく、民衆の立場から民衆の生活・権利を権力から守るべく、宇宙論・社会論・神論・人間論などを詩歌で表現したのである。彼は、「自然社会」論的立場から、神々を讃える詩歌を通して、当時の権力による不正を正し、民衆の生活をまもろうとしたのである。
ヘシオドスは羊を飼育する「ボエオティアの中農」(岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』大明堂、1988年、282頁)であり、「以前聖いへリコン山の麓で、羊らの世話をしてい」(広川洋一訳『神統記』岩波文庫、1984年、11頁)る時に、「女神」たちが「麗しい歌」を歌うの聞き、抒情詩というリズム化した言葉が、民衆の不安・恐怖を和らげ、真実を告げることに気づき、霊感を受けつつ、この表現法に磨きをかけ、詩歌をつくったのである。
つまり、彼は、この詩歌女神は過去・現在・未来(「今在ること この先起ること すでに生じたことがら」13頁)を「声をあわせて讃え歌」い、「唇から愛らしい声をあげて 八百万の不死の神々の威令と恵み深い気性を讃えまつる 調べやさしく歌」(15頁)うのである。「悩み悲しみ憔悴した人には、「詩歌女神たちの召使い 歌人が古往の人びとの誉れを讃え オリュンポスに宮居する幸う神々を讃え歌えば たちまち彼は身の憂さを忘れ 切ないこともなにひとつ思い出しはしないからだ 詩歌女神たちの贈物がすみやかに他所へ心を逸(そ)らせてくれる」(15頁)としたのである。そして、
この「オリンポスの詩歌女神」は「その気になれば、真実を宣べることもできる」(11頁)とした。
だから、「ゼウスの娘達が愛で その出生を見守りたもう者」には、民衆を虐げがちな貴族の舌に「甘い露を滴ら」すと、貴族の唇からは「優美な言葉が流れだ」し、「真直な裁定」をして、「どれほど大きな係争でも たちまち業巧みに終わらせてしまう」(18頁)という効果もあった。だから、こうした貴族は「詩歌女神たちの 人間どもへの聖い贈物である」(19頁)とする。ヘシオドスは、詩歌女神が、民衆には貴族という権力者の適確な裁定の源だとして、とかく不正が多かった権力者裁定を批判し、是正しようとしたのである。
こういう観点から、『神統記』を見るとどうなるか。
1、まず、地球がどのように造られたかが語られる。つまり、大地(ガイア)の神々創造(「大地[ガイア]と広い天[ウラノス]が設けた神々と この両柱から生れた 善きものの贈り手なる神々 これらの神々の聖い族」[15頁])を中心にとりあげ、原初神(最初にカオスが生じ、次いで大地[ガイア]、タルタロス、エロス)の一つの大地が、天、山、海、大洋、及び神々を創造し、あくまで神々は原初神の一つたる大地につくられたものとした。
この点、アポロドーロス『ギリシァ神話』(高津春繁訳、岩波文庫、2003年、29頁)によると、「天空(ウラノス)が最初に全世界を支配」し、「大地(ゲー)を娶っ」たとしている。なお、『日本書紀』などは、最初は「混沌」があり、「天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」(『日本古典文学大系』67、岩波書店、昭和42年、78頁[(中国『淮南子』が源泉)])とし、可美葦牙彦舅尊、国常立尊など(「神世七代」))が生まれ、最後の伊弉諾尊・伊弉冉尊が日本列島をつくったとしている。
ヘシオドスに戻ると、大地は、タルタロス、天(ウラノス)、海(ポントス)と交わって、怪物・悪き神々・良き神々を数多く生んだ。ここでは、「悪業にうつつをぬかしていた」天に対して、「広い大地」は「呻」き「まがまがしくも意地悪い計略を企んだ」(26頁)りして、天は悪をなすものであった。一方、海は、「大浪荒れる不毛」(23頁)・「不毛」(35頁)なものであったが、海の生んだ子は正直、誠実、思慮、誇りをもつもので(33頁)、エウリュピアは「女神の中の女神」であった。また、彼女の生んだ神もよい神であり、「穏かで」「優しい」レト、アステリア(ポイペの子、53−4頁)であり、アステリアの子へカテは、天からも「特権」を授かり、地上の人間からも「御利益」があるとして「今もなお」「慣習にのっとって」祈願されていた(55頁)。
次に、「神々と人間どもの父」ゼウスがどのように生れたかが考察される。@まず、ゼウスの父クロノスが生れ、王位につくまでの神々の交わりが述べられ(大地(ガイア)は、自ら生んだ天(ウラノス)との間で、大洋(オケアノス)ら18神を生むが、腹中に呑み込む。クロノスがウラノスの陰部を大鎌で切り取り、兄弟を解放し、クロノスが王位につく)、Aゼウスを中心としたオリュンポス神族の誕生が語られ( 「ガイアとウラノス」が生んだ「レイアとクロノス」が、「ゼウスとヘラ」を生む。クロノスは子供らが王位につくことを恐れ、子供とちを飲み込んできた。末っ子ゼウスは、母レイアによってクレタに隠されて助かり、後に兄弟姉妹をクロノスから吐き出させた。 「神々の王ゼウス」は、「並びなく賢いメティス」(3千人いるというオケアノスとテテュスの娘オケアニデスの1人)を「最初の妻」とし、「彼女から 波外れて賢い子供らが生まれ」、「たれか他の者が ゼウスに代わる」ことがあってはならぬという「大地と・・天の勧め」に従って、「輝く目の女神アテナを出産」する前に、メティスを「腹中に呑みこんだ」(110−111頁)。ゼウスは、同じ「ガイアとウラノス」の子であるテミスとの間に季節女神(エイレネ[平和]、デイケ[正義]、エウノミア[秩序])、ムネモシュネとの間に詩歌女神、エウリュノメとの間に優雅女神など生む。ゼウスの生んだ女神が、平和・正義・秩序・詩歌・文化などを維持するのである)、Bクロノスは、ティタンの神々とともに、ゼウスのオリュンポス神々と10年間戦うが、ゼウスらに敗退し、タルタロスに幽閉された事、また、テュポエウスがゼウスと戦うが、これまたゼウスの発した雷電に敗退する事が述べられ、Cゼウスは「神々に各々の持ち分をひとしく公平に分配し (神々各自の)特権を定めた」(16頁)とする。
こうして、ゼウスは、二つの戦いに力強く勝利して不死の神々の王として王位継承し、王権を強固にするべく、7人の妻をめとった。ゼウスは、「神々が・・富を配り・・特権を分ちあ」たえることに関わり、「山襞たたなずくオリュンポスの高嶺を 手中に納めた」(21頁)のである。つまり、「幸える神々」が戦いを終え、「ティタンどもとの権勢をめぐる争いを 力ずくで解決」すると、神々は、大地(ガイア)の勧めで「オリュンポスの・・ゼウス」に、「(神々を)統べ 治めるように懇請」し、ゼウスは、「神々の間に 正しく権能を分かち与えられた」(109−110頁)のである。
2、ヘシオドスは、冒頭、「ゼウスの儲けた 九人の娘」=詩歌女神(ムウサ)が「へリコンの高く清い山に住み」、「クロノスの力つよい御子(ゼウス)の祭壇の辺」で踊り(9頁)、ゼウス、ヘラ、アテナ、アルテミス、ポセイドン、ディオネ、クロノス(悪知恵にたける)を讃え、「父神ゼウスの大御心を悦ばせる」とすることで始め、最後は、「身は不死ながら 死すべき身の人間(おとこ)らに添寝して 神にも似た子供たちを生みたもうた女神は 以上のとおり。さあ 今度は 女たちの族を歌いまつれ 神楯もつゼウスの娘 オリュンポスの声甘い詩歌女神たちよ」(125頁)と、女神の一族増殖と女神の賛歌でしめくくる。
女神を初めに登場させ、終りでも女神でしめくくったのは、ゼウスは、一方で、「女たちを禍いとして 死すべき身の人間どもに 配られ」、「第二の禍悪」(結婚しない者には「悲惨な老年」、結婚した者には「止めどもない悲しみを抱いたまま 日を暮らす」という禍)(76頁)を与えるとはしつつも、他方で、女性は、人間のみならず、神を生み殖やすのであり、特に女神は詩歌で人をなごまし、不正を正したからである。
3、ヘシオドスは、天変地異、自然の脅威などを「人間的に解釈」し、神々を人間の運命などを左右したり、人間にご利益を与え、人間の生活を守るものとした。つまり、@原初の神々は、「神々と人間ども よろずの者の胸うちの思慮と考え深い心をうち拉(ひし)ぐ」(22頁)とし、A「カオスから 幽冥(エレポス)と暗い夜(ニュクス)が生じ」、さらに夜が「幽冥と情愛の契り」して、「澄明(アイテル)と昼日(ヘレメ)」(22頁)を生んだ。昼夜、明暗という人間を終始取り巻く状況が、カオスから生れたとし、B夜は「忌まわしい定業と死の命運と死を生」(32頁)み、復讐する「死の命運」(「クロト ラケシス アトロポス」)3女神を生み、「人間どもの出生のさいに 善運と悪運を授け」(33頁)、人間の運・不運を決め、さらに、人間に不幸(「争い」と「労苦」、「忘却 飢餓 ・・悲嘆」、「戦闘」と「戦争」、「殺害」と「殺人」、「紛争」と「虚言」、「空言」と「口争い」、「不法 破滅」[34頁])を与え、C女神へカテは、特権のみならず、「大地にも天にも また海にも」「御自身の権能」を持ち、人間の生活を支え、つまり、「御心に叶う者には」、「大いに援助し 恵を施」し、「裁判のさいには 畏い貴族の傍らに坐し」、戦でも「味方」し「進んで勝利を与え誉れをもたら」し、競技者に「援助を与え恵みを施され」、漁業の生計を助け、獲物を授け、家畜を増やし(56−8頁)、D「女神の中の女神 デメテル」は、「英雄イアシオン」との間に、「豊饒の地クレタ」で、「霊験あらたかなプルゥトス」を生み、「人がこの神と出遭い その者の手のなかに この神が入られると その者を富ませ 大きな繁栄を授けられる」(120頁)として、人の富の生成に触れたりした。そして、現世の権力者を貴族とし、神々はこの権力者貴族の判断を正しく導くものとしたのである。だから、ゼウスを頂点とする正しい良き神々が、今後も栄えることは、人間生活の諸問題を正しく解決するということになるのである。
こうして、ヘシオドスは、当時既にあった神話(ヒッタイト=フリ人、アッカド=シュメール人、フェニキア人、エジプト人らの)を参照し、或いは土台に据えつつ、民衆の立場からゼウス中心神話に書きなおしたのではないかと思われるのである(筆者と着眼点は異なるが、広川洋一『ヘシオドス研究序説』未来社、1992年、高橋秀樹「「神統記」創造神話成立の歴史的背景」「新潟史学」第41号、1998年なども参照した)。
こうしたヘシオドスの動向は、実はポリスの誕生・成立の動きと深い関連があったのである。
既にポリス成立前には「少数の人たちが小さな村落に定住して共同体を形成していた」(岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』264頁)。前8世紀頃から、「各地で『集住』」がみられ、「おそくとも前八世紀の半ばには、小アジア西岸、エーゲ海の島々、そして本土の各地にポリスと呼ばれる多くの都市国家が成立」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』講談社、2004年、82頁)した。このポリスという名称は、海賊防衛のために丘陵に築かれたアクロポリス(城塞)に由来していた(岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』263頁)。
これらポリスでは、「小王国という比較的大きなまとまりが瓦解して、そのもとにあった、おそらくは集落単位の小さな共同体が基本的な社会集団として浮上した」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』87頁)もので、「ほとんどすべての王とその一族は、王宮炎上のさいに死亡するか逃亡するかして、その地位を永久に失」い、「同時に、王権のもとにあった共同体が一斉に独立し、在地の有力者であるバシレウスたちが、変動期の指導者として歴史の表面に躍り出」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』87頁)たのである。彼らは、「他の成員にくらべて大きな土地を占有し、農耕・牧畜を大規模に営むことによって、しだいに富を蓄積し」、「この富を基礎に、有力者は血縁の者たちと一族としての結束を固めながら、みずからの家柄を神々や英雄の後裔として美化し、これを誇るようになる」(89頁)のである。このバシレウスが「変動期の小集団のリーダー」となり、「個々の小集団では内外の情勢に対応できなくなった時点」で、「バシレウスたちが翼下の集団とともに合同し」、「貴族層を形成し、一体となって政治・軍事・司法の運営」に着手し、「ポリスが成立する」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』121頁)のである。
「ポリスの成立当初は、もっとも有力なバシレウスをミケーネ時代のwanakaに准ずる王の位につけて統合の実を挙げる方策もとられたであろう」が、「やがて、ごく少数の例外を除いて王政は廃され、有力者たちの共同支配、すなわち貴族支配が普遍的な国制となる」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』90頁)のである。あくまで「主導権は貴族たちにあ」り、貴族と平民との身分上の差、また、実力のちがいはむろん大きく、「平民は積極的にポリスの動向を左右する挙に出ることがない」が、貴族が「民衆の意向を全く無視することは許されない」し、「彼らは貴族たちの行動を批判する自由をもち、場合によってはそれを制約する潜在的な力をもっていた」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』114頁)のである。王・貴族は、「一般の農民にくらべると、はるかに大きな土地を所有し、比較的多数の奴隷を使い自由人の日雇取りを雇って、穀物や果樹の栽培を行なった」が、「一般の農民に対する彼らの経済的優越は、必ずしも絶対的なものではな」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』118頁)く、「農民はといえば、規模こそはるかに劣るけれども、彼らとて貴族と基本的には同じ独立の農業経営者だった」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』118頁)のである。だから、「貴族はみずからの出自を誇り、彼らの間の結束によって、政治や裁判を独占し、国政を恣にすることができた」が、「平民はけっして黙って従っていたのではな」く、「力はおよばぬながらも、彼らは貴族たちに鋭い批判の矢を放つ」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』119頁)のである。「城壁の中に住んでいる住民たちは、強い自治意識と、周辺の都市に対するはっきりとした独立意識によって結びついていた」(ジョヴァンニ・カセッリ監修『古代ギリシァ』教育社、1996年、16頁)のである。ポリス成立当初から、「ギリシァの貴族と農民とが、領主と隷属民といった関係にはな」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』119頁)く、「オリエント的なデスポティズム(専制君主制)の世界におけるそれと、はなはだしく違」い、「貴族と平民との力の優劣はあくまで相対的なものに過ぎ」ず、「平民からみて、貴族は雲の上の絶対的な専制者ではない」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』121頁)のである。だが、民衆の自立性、「民衆は主導権こそ握らなかったけれども、共同体の一員としての自立性は確保」し、「貴族と平民とは本来、一つの共同体の仲間」(122ページ)なのである。
こうした視点は、ギリシァとインドにおける「宗教と哲学」の関係を見る上で重要な示唆を与えよう。つまり、ギリシァでは、神々のもとで維持される正義や善を補完するようなものとして、哲学が登場してゆくということである。それは神に敬虔な哲学であり、故にこれは後のキリスト教神学を構築する上で有益であったろう。トマス・アキナスが、アリストテレスを再評価した所以である。それにに対して、インドでは、仏教が、支配階級と結びついた既成宗教バラモン教に対抗して、正義・善の宗教として登場したために、宗教のみならず、哲学的性格を濃厚にせざるをえなかったのである。日本に仏教が導入され、既存の神祇=神道の反撥を受けつつも、復古的な権力者が廃仏しなかったのは、かれらですら「仏教は心の教え」という評価をしていたからである。仏教が皇位に脅威を与えない限り、仏教は神祇=神道と補完しあいながら、「心の教え」=哲学として生き残っていったのである。
このように、ヘシオドスが、ゼウスを頂点とする神々によって権力者が民衆の生活を脅かさないようにした上で、次に重要になることは、民衆が権力者と対抗して実力をつけることになる。彼の叙事詩『仕事と日』とは、まさにこのような意図をもつものであり、『労働と暦日』は「初期のポリスの社会を映し出す」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』115頁)ものなのである。ただし、本書の中心は、単純に「農耕の実際に即した教え」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』116頁)と見るべきではなく、ゼウスら神々によって権力者に対して農民の権利を保護することにあったと見るべきである。ギリシァ本土では「権力が不安定で争いの絶えない」ことから、既にゼウスは「最高神としての重要性を増し」(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』57頁)、ポリス誕生期には一層重要になっていたが、それを貴族が統治強化に利用する前に、ヘシオドスが、上述のような「貴族と平民との『共同体仲間』」的平等関係のもとに、民衆の正義のためにゼウスを頂点に神々を体系的に位置づけ、民衆保護に利用したのである。
へシオドス『仕事と日』(松平千秋訳、岩波文庫、1989年)では、ヘシオドスの父が「良き暮らしを求めて、いく度も船で海を渡って」(84頁)いたが、「アイオリスの町キューメー」(8世紀に小アジアのアイオリス人の都市国家の一つ)での「ゼウスが人間に下される苦しい貧困」から逃れて、ギリシァ本土の「ヘリコーン山(コリンティアコス湾の北東部ボイオティアにある)のほとり、侘しき寒村」アスクレーに住み着いたことが触れられている(84頁)。
本書は「暗黒時代」末期に書かれたともされているが、『神統記』とともに、ポリス誕生期に、神々は貴族ら権力者のためのみにあるのではなく、民衆の正義のためにもあることを表明したものとみたほうがよいであろう。ヘシオドスらとしては、これをギリシァ本土内に広く流布させ、ポリス成立時に、権力者に「ゼウスが自分にギリシァのこの地を統治せよと告げた」などと言わせないように、謂わば先手を打って、神々はあくまで民衆の正義の保護・維持のためにあるものとし、権力にも正義の実行を要請して、神々による民衆生活の基盤構築論=「民富増殖」論を提唱したのであろう。「暗黒時代」という用語が妥当であるかいなかという問題もあるが、ギリシァ本土の混乱も収束し、「民衆」における生産力の展開が起動力となってポリス誕生の動きになったのであり、ヘシオドスの父が交易で財をなして本土に戻って中農的生活をおくり、貴族らと対抗するといったような事態が少なからずポリス誕生の動きのなかにみられたのである。
@ここでも、序詞から弟ペルセーヌを登場させ、愚かな弟を覚醒させる形式をとる。ヘシオドスは、「お前」は 「賄賂を貪る」バレシウス(地方豪族・貴族)に「とりいって」、愚かで貪欲にも「遺産分け」で「余分にさらっていった」(16頁)と非難したり、「世にも愚かなペルセースよ、わしはお前によかれと思えばこそ語り聞かせているのだぞ」(45頁)、「お前はわしの訓戒を常に思い起こして、働くのだぞ、ペルセーヌよ」(46−7頁)などとしつつも、「神々が人間の命の糧を隠し」たので、「お前も(弟も)、ただの一日も働けば、後は働かずとも一年を暮らすだけの貯えが得られ」たのに、それもできなくなったとし(16−7頁)、弟の貧乏は神罰により余儀なくされたともした。
本書でも、ヘシオドスが彼に呼びかけ、反省させるような形式をとったのは、愚かな弟を介在させないと、民衆全員を愚かと見て、場合によっては反感をうけたやもしれなかったからであろう。そこで、ヘシオドスは、愚か者の弟を登場させ、愚かな身内の恥をさらけだして、民衆との間にワンクッションをおいて民衆の啓蒙・啓発をはかったのであろう。
A次に、ヘシオドスは、不正などをなす愚かな人間を処罰し規制するものとして神を登場させ、神によって社会をよくしようとした。
つまり、ヘシオドスは、(@)ゼウスは「強き」「尊貴」な権力者を挫き、「曲がれる者」・「驕れる者」を挫き、「ゼウスの御心にかなう最善の裁き」を行い、「卑賤」者を引き上げるとし、(A)ゼウスが「大地の根」に据えたエリス神が「根性なき男をも目覚めさせて仕事に向かわせる」(14頁)とした。だが、ゼウスはプロメーテウスの火盗みに怒って、「罰として、人間どもに一つの災厄(悩み・災厄の種たる女を造ったこと)を与え」(18頁)たとした。
そして、ゼウスら神々は五時代説話をつくりだし、まず、オリュンポスの館に住む神々は、黄金の種族を作り、ゼウスは、「黄金の種族」に「王権にも比すべき特権を与えられた」(26頁)のである。第二の時代には、「オリュンポスに住まいたまう神々」は「遥かに劣る銀の種族」を作り(26頁)、第三時代の「青銅」種族、第四時代の「半神」種族は、いずれも戦闘で滅ぼされたが、ゼウスは後者の一部を「至福者の島」に住まわせたとした(31頁)。第五の「鉄」種族時代には、「人間には、悲惨な苦悩のみ残り、災難を防ぐ術もなかろう」(35頁)ことになるとした。
また、ヘシオドスは、ゼウスが、「その国の大軍勢を滅びし」、「町の城壁を壊ち」、「船団に天罰をお下しにな」(41頁)り、三万の神々が、人間界にあって、「正義を曲げた裁き」をする者を「一人ものがさず見届ける」(41頁)とした。さらに、ヘシオドスは、富社会での怠惰批判・労働奨励し、「富には栄位と名誉とが伴う」(48頁)とし、神意に沿った蓄財を奨励し、恥知らずな蓄財は神罰を受け、不正利得は「災厄」(53頁)だと批判し、与えること・貯蓄を奨励し、興隆するポリスの担い手としての民衆(自由民)の資産増殖を奨励したのである。
B最後に、ヘシオドスは、農業・海運業などでもゼウスなど神々が大きく影響するとした。
農業では、農事暦は「神々が人間に季節に応じてお示しになった仕事」(58頁)だとして、「一戸を構え」、奴隷女、耕耘用の牛一頭(59−60頁)、車軸、車輪などの「もろもろの道具」を備えよとした。そして、「畑を耕し種子を蒔く時期が、人間に示されたならば、直ぐさま仕事にかか」(65頁)り、耕耘を始める際には「地の神ゼウス、浄かなるデーメーテール(ゼウスの姉、豊饒神)」に祈り、ゼウスが「良き首尾を授け」れば麦はたわわに実るとした(67頁)。
海運業では、そのの要諦は、「万事 時を違えぬ」ことにあるとしつつも、航海の禍福の鍵は、「大地を揺るがすポセイダーオーン、または神々の王ゼウス」が握っているとした(88頁)。
「人生訓さまざま」でも、敬神・清浄に関するものが一番多く、「日の吉凶」でも「ゼウスの賜う日々」(99頁)を遵守することとした。「地に住む人間に大いなる福となる日」(104頁)を具体的に示し、「その他の日々は、時々に吉凶が変り、あるいは定まれる運につながらず、何事ももたらさぬ」(104頁)がよいとし、「神々について罪を犯さず、鳥の示す前兆を判じ、人の道に違うことなく」することとした(104頁)。
こうして、『仕事と日』とは、『神統記』で体系づけたゼウスを頂点とするオリンポスの神々のもとに、愚かな身内の恥をさらけだしつつ、民衆(と言っても、奴隷を搾取する自由民であったが)がいかに具体的に善い生活をおくり、貴族ら権力者に対抗して富を築き、殖すべきかを現実に即して提唱したものいといえよう。そして、ゼウスは、不正を働けば、権力者でもすてておかないという姿勢はここでも不変なのである。ギリシァのポリス展開期にも、ヘシオドス叙事詩『神統記』・『労働と日』が広く読まれたのは、それらがポリスという時代の要請に応えていたからである。
ただし、民衆の労働、その成果たる民富は権力の基礎でもあるから、ヘシオドスの労働重視論はいともたやすく権力に取り込まれてしまうということが留意される。
(20)、こうしたヘシオドスの労働重視論がいともたやすく権力に取り込まれてしまったということを、『ホメーロスとへーシオドスの歌競べ』(広川洋一訳『神統記』岩波文庫、1984年)から確認してみよう。
前8世紀から前5世紀頃、ギリシァではホメロス叙事詩とヘシオドス叙事詩がともによく読まれた。二人は「ともに詩聖と称」され、「万人が自国の出身であるとして、それを誇り」(109頁)としていた。そして、「一説によれば、ホメーロスはへーシオドスより時代が古いというが、彼の方が年下であるとか、あるいは同時代の生まれであるという説もあ」(113頁)った。そして、「二人は同じ時代に活躍し、ボイオーティアー地方のアウリスで、歌の技を競ったことさえあ」(114頁)ったろうとして、『ホメロスとヘシオドスの歌競べ』が書かれたのである。
この原作者は前4世紀の高名な弁論家・修辞学者アルキダマース(『ムーセイオン』の作者)といわれる。「(オイノエーの)二人の若者は、へーシオドスが彼らの妹と不義を犯したものと邪推し、彼を殺害」(134頁)し、アルキダマース『ムーセイオン』は、ヘシオドスを殺して逃亡する二人は「航海の途中で、ゼウスが雷撃を加え海中に沈められた」(135頁)としたのであった。
周知の通り、「運動競技と同様歴史の古い文芸競技は前4世紀頃までに広くギリシァ世界に普及し盛行するに至」り、かつ「既にAristoph(前445−前380年).Ran.1033−6及びAlexadoridasの子Kleomenes王の寸言(Plut.Apophth.Lacon.223A.Ael.VH.13.9)に、Hom.(ホメロス)を戦争詩人、Hes.(ヘシオドス)を農耕詩人とする対照的評価が見出され」l、「この点から、Panedse王の判定が古い伝承に属し、Alkidamasがこれを利用した」のであり、「Alkidamasが古い競演の伝説を潤色したことが略明瞭」(川崎義和「ホメロスとヘシオドスの競演とアルキダマス」『西洋古典學研究』33号、1985年3月 )だとされている。
だとすれば、そのカルキス(ギリシャのエウボイア島の主要な町[ヘロドトス、松平千秋訳『歴史』『世界の名著』5、中央公論社、昭和51年、201頁の訳注])のパネーデース王の意図とはなにか。前8世紀頃では、詩競べの審判者に、「カルキスの名士」のみならず、「死没した王の弟であるパネーデース」(115頁)がいたとして、そこにいた権力者は内治充実を求める姿勢を打ち出し、民衆にこれを周知させる必要があったと思われる。つまり、この歌競べでは、「へーシオドスが競技場の中央に進み出て、ホメーロスに向かって次々に質問をかけ、ホメーロスがそれに答え」(115頁)させ、当時の二大叙事詩人を通して権力者が民衆に農事精励の重要性を説いたのであろう。
まず、人間に大事なものについて、ヘシオドスは「死すべき者にとり、何がもっとも賞でたきこと」か(116頁)と問うと、ホメロスは「(酒宴で享楽することこそ)愉楽の極致」とし、「なみいるギリシァ人」が非常に感嘆する。次には、ヘシオドスが短い詩を吟じて、ホメロスが答えることが繰り返される(119頁以下)。
やがて、歌競べは、いつしか道徳・倫理・政治問答などとなる。ヘシオドス、ホメロスがこうした議論をしたのは(或いは、権力が、そうさせたのは)、ギリシァの神々は善・道徳・倫理をすすめはしたが、具体的な内容までは示すことはなかったからである。これが、うち続く戦争・混乱のなかで、哲学者が登場してくる背景の一つともなるのである。その際、ヘシオドスがホメロスに質問する形をとったのは、ヘシオドスは敬神・清浄・禁欲の農業労働を解いていたが、えてしてホメロスは享楽的などと受けとられていたからであろう。享楽的で現実逃避がちなホメロスは、かなりまともな答えをしている。これは、民衆に一定のインパクトを与えたであろう。
1、善悪ーヘシオドスは、「まこと世評のごとく至高にして偉大なるゼウスの姫御子、ムーサらが、そなたを重んじておられるのであれば、人間にとって最善にして最悪なることは何か」と問うと、ホメロスは、「みずからがおのれの規範たる」ことが、善人には最善で、悪人には最悪だとする(126頁)。
2、良い統治ーヘシオドスが「いかにして、またいかなる心がけによりて国はもっともよく治まるものぞ」と問うと、ホメロスは「国人が醜き手段を用いて利を得んとせず、善き人は尊ばれ、悪人には懲罰が降される時じゃ」(127頁)と返答した。
3、最良なことーヘシオドスが「もっとも良きこととは何か」と問うと、ホメロスは、「人間の肉体に優れたる精神の宿ること」(128頁)とする。
4、公正と勇気ーヘシオドスが「公正なる心と勇気とが果し得ることは」と問うと、ホメロスは、「個人の労苦によって公の福祉をもたらすことじゃ」(128頁)とする。
5、叡知ーヘシオドスが「人間において叡知の確かな徴しとなるのはいかなることか」と問うと、ホメロスは「今あることを正しく見極め、機を逸せずに進むこと」(128頁)とする。
6、信用ーヘシオドスが「人を信用できるのは、いかなる場合か」と問うと、ホメロスは「事をなせば、相手にも(同じ)危険がふりかかるごとき場合」(129頁)と返答した。危険なことをできるということか。
7、幸福ーヘシオドスが「何をもって人間の幸福というぞ」と問うと、ホメロスは「憂うこともっとも少なく、楽しむこともっとも多くして世を去ること」(129頁)と返答した。
問答が終わると、「なみいるギリシァ人たちは口を揃えて、ホメーロスに勝利の栄冠を授けるべきといった」(129頁)。だが、パネーデース王は二人に、自作の詩のなかで「もっとも美しい詩節を朗誦するよう命じた」のである。ヘシオドスは、農作業の詩節をあげたのに、ホメロスは、『イリアス』巻13、ギリシァ本土の精兵が「トローイアー勢と豪勇へクトールをば迎え撃った」詩(126−133行)、戦場での惨苦(339−344行)をあげる(130−131頁)。
やはり、「ギリシァ人の聴衆はホメーロスの技量に感嘆し、その詩句は尋常の域を越えた非凡なものであるとほめ称え、彼に勝利を授けるべきである」(132頁)とした。しかし、パネーデース王は、「勝利者たるべきは戦争や殺戮を縷縷として述べる者ではなく、農業と平和の勧めを説く者でなくてはならぬ」(132頁)とした。パネーデス王は前8世紀頃の新興ポリスの王であろうが、こうした王の判断には、権力者としての立場、ポリスの担い手の経済的基礎の充実によるポリスの安定化があったであろう。
ホメロス、ヘシオドスの二人がポリスが誕生した前8世紀頃の同時代人ながら、ホメロスがヘシオドスより「古い」とすれば、ホメロスが、一部権力者の先祖でもあるゼウスなど諸神が、ギリシァ本土の命運をかけた戦争などで権力者を保護したことを歌ったとすれば、民衆側に立つヘシオドスがこれに危機感を抱いて、貴族から民衆(自由民)をまもるためにゼウスを主とする神々の正義を表明し、民衆を覚醒させる必要があったということになろう。だが、前8世紀のポリス誕生期では、権力は後者の内治充実作を重視し、権力者パネーデースは、内治充実論にヘシオドスを利用したのである。つまり、当時の権力側は、戦争による領土拡張を目指すならばホメロスだが、現在の平和による内治充実を目指すならばヘシオドスを利用するのが相応しいと考えたのであろう。
では、この『詩競べ』が前4世紀にアルキダマスに作り直されたのはなぜだろうか。この時期の戦争(ペルシァ戦争・ペロポネス戦争)・ポリス衰退が背景にあろう。前338年にフィリッポス2世は、カイロネイアの戦いでアテナイやテーべからなるギリシア連合軍に勝利し、翌前337年には全ギリシアを統一するコリントス同盟を結成し、その盟主となったが、前336年フィリッポス2世が暗殺されると、その息子アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)があとを継いだ。アレクサンドロス大王は前334年アケメネス朝ペルシアへの遠征を開始し、前333年にペルシア王ダレイオス3世を打ち破り、ペルシア征服を実現させる。当時の権力者は、ペルシァ戦争後の内治充実の必要性を民衆に説いたのであろう。
さらに、2世紀にハドリアヌス帝にが本書に注目したのは、前4世紀に権力者が注目したと同じような事情があったからであろう。『歌競べ』に、「神聖きわまりなき皇帝ハドリアーヌス」が巫女に「ホメーロスの出身地はいずこか、また誰の子かと訊ね」ると、「デルポイの巫女がホメーロスについて語ったと伝聞している言葉」として、生地は「イタケーの国」で、父はテーレマコス、母はネストールとした(112頁)。ここから、「現存のテキストは、第14代ローマ皇帝ハドリアーヌス帝(在位117−138)の在位中またはその直後に作られた」(訳者解説)とされる。権力者は、アルキダマースの「原作をそのまま踏襲したのか、あるいはそれを中核に置きながら他の資料を加えて編集したのか」して、『詩競べ』を国論統一の一助に利用するのである。
ハドリアヌス(属州スペインの出身)は、軍団司令官(第2次ダキア戦争、パルティア戦争)などを経て、117年に第14代ローマ皇帝に就任し、トラヤヌス治世時代の東方覇権地を放棄し、パルティア、アルメニア、メソポタミア、アッシリアから兵を撤退させ、ほぼアウグストゥス期の版図へ戻した。その一方で、121年から属州視察に出発し、まずは、ガリア、ゲルマニアを視察し、翌122年にはブリテン島にケルト人侵入を防止するため120キロにわたる防衛線(「ハドリアヌスの長城」)を築いた。こうして、ハドリアヌスは、対外的な攻勢で帝国膨張をはかるのではなく、国土防衛に努めることに重点をおいたが、そこにはさらなる帝国主義的拡張がしっかりと伏在していた(桑山由文「2世紀ローマ帝国の東方支配」『西洋古代史研究』4号、2004年など参照)。
こうして、治世二十年、ハドリアヌスの指導のもとに、ローマ帝国は行政機構をその広大な版図に確立し、その基盤の上に平和と繁栄を享受し、内治を充実させて、五賢帝の一人と称された。この統治状況を見るとき、『ホメーロスとへーシオドスの歌競べ』でカルキス王パネーデースや前4世紀の権力者らが、戦争のホメロスより平和と労働のヘシオドスを選んだ事情と同じ事情、現在はさらなる帝国主義的覇権のための内実を固める時という現実的必要があったからである。その意味で、ヘシオドスを勝者とする、この『歌競べ』は、権力の必要がうみだしたものなのである。権力が、帝国主義的拡張の基礎固めの内治充実にヘシオドス労働論を巧みに取り込んだのである。
民衆は権力に反抗するが、生活苦を緩和し、救済してくれるならば、権力の帝国主義政策に加担してしまうのである。これを防ぐ原動力は、国境を越えた民衆の連帯である。民衆が連帯すれば、民衆の生活苦を他地域の民衆の収奪で解決するという帝国主義は防がれるのである。現在、通信設備の発達により、こうした民衆連帯の可能性は非常に高いものとなっている。
(21)、拙稿「古今東西の学問方法論」。
(22)、拙稿「富社会の権力統治策としての経済学」。
(23)、これまで経験した中で最大の詐欺・驚嘆の一つは、学問をしていると思われていた大学で、学問が行われず、非学者で充満していたことであるかもしれない。国税を投入され、国民の厳しい批判を浴びるのは、時間の問題であろう。既に一部国民の批判がなされているようだが。
(24)、拙稿「自然社会」(季刊『日本主義』白陽社)、「古今東西の学問方法論」。
(25)、この「富と権力」とは「人間と人間の対立」と「人間と自然の対立」に基づく「富社会」のキーワードとも言うべきものであり、未来の人類について考える場合のキーワードであるが、これについては、ロボット工学者や遺伝学者は次のように興味深い指摘をしている。
ロボット工学と人間の「こころ」の連関などを研究している前野隆司氏(『脳はなぜ「心」を作ったのか』筑摩書房、2004年、185−7頁)は、 「未来を予測するには、過去を振り返ってみることが役に立つ」として、「人類の歴史」を「富と人権の集中と拡散」という観点から考察し、「富みのあるところに必ず権力が生まれ、それは、石鹸の泡がつながって大きくなっていくように、巨大化し」、「局在した巨大な富の反対側」に「人権を剥奪された被差別民」が生まれるとする。人権の対抗関係にあるのが権力であるから、氏の言う「人権」は権力の裏返しの概念(対概念)として使われているとみてよかろう。
そして、氏は、「富と人権が、局在と闘争を繰り返しながら徐々に拡大していくという歴史の大きな波動は、百年、千年単位の視点から見たとき、決してとめられない」とするのである。だが、このままいけば、人類は『破滅的方向』に向かうとすれば(次の注16参照)、我々は「富と人権」の波動を推し止めないわけには行かないのであろう。重要なことは、まずは、「これまでの歴史の鑰」と「未来の人類の行末の鑰」が「富と権力(人権)」にあることをしっかりと認識するということである。解決は、この明確な認識から始まる。
次に、人類遺伝学のブライアン・サイクスは、『アダムの呪い』(大野晶子訳、ソニー・マガジンズ、2004年)で、自然社会と富社会の相違について、人類は「農耕の発明と採用」で初めて「所有物、富、権力」(310頁)というものを知ると的確に指摘する。ただし、遺伝学者なので、富所有と権力との連関構造の把握が欠落しているし、彼は、男が富所有と権力を掌握するために戦う根源的要因を遺伝学者よろしくY染色体にもとめるということをするのである。
彼は、「男性を通じたY染色体が、所有物、富、権力の三つを手に入れたおかげで、彼らはいまの絶対的な地位にのしあがることができたのだ」(310頁)とし、「際限なく繁殖しようとするY染色体の、猛り狂った野心に駆り立てられた男性たちは、隣接する土地を横取りし、その地の女性を奴隷化しようと、戦争をおこすようになった」(318−9頁)などというのである。だが、男が富社会で主役に躍り出たのはY染色体のゆえではなく、「人間と人間との対立」・「自然と人間との対立」の中で男が女より肉体的に秀でていたからである。男性が戦争をして得ようとしたのは、土地と労働奴隷であって、女性奴隷だけではなかった。
しかも、「女性のおよそ6万人に一人はY 染色体を持」(ニック・レーン、斉藤隆央訳『ミトコンドリアが決めた進化を決めた』みすず書房、2008年、322頁)ち、Y染色体は男性のみの持ち物ではないし、Y染色体が消滅してもモグラレミングなどの種のように雌雄が棲息しうるのである(ニック同上書、324頁)。せっかく、ブライアン・サイクスは富社会の画期的特徴を指摘しておきながらも、あまりにもY染色体に焦点を絞り過ぎて、非現実的なものとなっている。
なお、行動生物学者(利己的遺伝子学者)であるリチャード・ドーキンスは、自然社会と富社会の区別こそしてはいないが、この根底ともいうべきものとして「協力的な遺伝子」と「利己的遺伝子」にわけ、「私たちには、私たちを産み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私たちを教化した利己的ミームにも反抗する力がある。純粋で、私欲のない利他主義は、自然界には安住の地のない、そして世界の全史を通じてかつて存在したためしがないものである」として、「この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できる」(日高敏隆ら訳『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店、2006年、311頁)としていることが注目されよう。
だが、彼の場合も、利己的遺伝子がすべて(利他的行動までも)を動かすように見ていて、非現実的である。遺伝子だけで、人間行動のすべて(戦争、貧富さなど)を理解することはできない。これは先端的な遺伝子細胞研究についても言えよう。それは、確かに難病克服に有益かもしれないが、「富と権力」という大きな枠組みへの見通しを欠如すると、人類に「想定外の害悪」をもたらしかねないとも言えるのである。「富と権力」のシステムでは、遺伝子研究などの「先端技術は末端技術」であり、「自然の生態系は加速度的に壊され」(福岡正信『<自然>を生きる』春秋社、1997年、71−2頁)かねないのである。
ただし、「人間の心・意識」学者、遺伝学者など「人間科学」者が、自然社会論について明確な見解を持っているのでは無いにもかかわらず、自然社会と富社会の画期的相違を的確に把握していることは十分注目してよかろう。目先の狭い時期に閉じこもる経済史研究者などより、長期的視野をもつ「人間科学」者のほうがはるかに歴史的画期を的確に認識しているのである。
(26)、この「富と権力」のシステムのもとでは、自然は人類の営みに必要以上に収奪され、破壊され、これがもたらす物理的・化学的影響は、「人類の住むに相応しい自然」を確実に破壊し、地球温暖化を阻止するために二酸化炭素排出量を削減するくらいのことでは対処できなくなっているのである。
この点は、地球惑星科学者の松井孝典氏も、「何らかの方法で二酸化炭素の放出に歯止めをかける努力は、これまで以上になされるべきではあるが」、「現代の文明社会が化石燃料の使用を、たとえば半減してもやっていけるとは到底考え難いことだ。」(『地球・46億年の孤独』徳間文庫、2000年、210−211頁)としている。その理由は、「人間が文明の便利さに慣れすぎた」からではなく、「現在の世界を運営している経済や産業を根本的に組み換えなければならない」事が「まことに困難」だからとされる。
また、河合雅雄氏は、「戦後、人類は驚くべき文明の発展をとげる一方、自然破壊者としてのキバをむき出しにし、あげくの果てに自分自身をも滅ぼしかけている。核の恐ろしさはだれも知っているが、公害はもっと恐ろしいかもしれない。其れは人類を豊かにするという仮面の下に、じわじわと生殖細胞を侵し、生存の基盤を腐食させ、人類という種の生命を根絶やしにしてしまうだろう」と、警告している。だが、彼は、「われわれが今在るのは、何億年という生物の進化の歴史の所産であることを自覚し、子孫の繁栄への努力を怠ってはならない」(河合雅雄『サルの目 ヒトの目』平凡社、1993年、165頁)と提唱するのである。
さらに、生物学者ドゥーガル・ディクソンらは、「生物学と進化論の基本原則」にのっとって、「人類の時代は、自然に対して自らが及ぼした影響と自然現象の複合作用が災いして、大量絶滅の時期を迎えてその幕を閉じ」、「人間のエネルギー消費が全地球を揺るがす破滅的な結果をもたら」(ドゥーガル・ディクソンら、松井孝典監修『フーチャー・イズ・ワイルド』ダイヤモンド社、2004年、47頁)すとした。
動物学者小原秀雄氏は、歯切れはよくないのだが、「人類の現在の状況というのは、生物界の様相に限っていえば、恐竜類が非常に発展していた状態とよく似ている」(『人類は絶滅を選択するのか』明石書店、2005年、103頁)と、人類は恐竜絶滅と似たような絶滅危機的状況に直面しているとするのである。
細胞生物学者クスティアン・ド・ヂューブは、「現生人類が・・頂点に立つ希望あふれる子孫につながらずに終わるだろうという悲観的な見方は、まじめに検討する価値がある。生物進化では、絶滅は例外ではなく、通例なのである」(中村桂子監訳『進化の特異事象』一灯舎、2007年、221頁)とする。続けて、彼は、「もしホモ・サピエンスがその技術や文化ともども取り返しがつかないほどの破滅に陥ったとしても、すべてをやり直し、さらに幸せな結末に至る時間は十分残っている」ともしている。これを聞いて、ほっと安心した方もあろう。だが、とても安心はできないのである。彼は、「宇宙学者によると、太陽の膨張が地球を居住不能にするときまで、生命を宿すのに適した状態が少なくともあと15億年、おそらく50億年ほど残っているようだ」というのであり、「ホモ・サピエンスの生滅後、また500万年、5000万年、或いは5億年かけてよりよい脳を求める時間は十分すぎるほどある」というだけであり、このままでは現生人類はやはり絶滅するようなのである。彼は、「(新しい)この旅は霊長類から、あるいはもっと下位の枝の動物から始まってもよく、知性や知恵に適した調和の取れた遺伝子の組み合わせのおかげで、現在の人類よりも高水準になるかもしれない」とする。高水準であれ、低水準であれ、富欲望に知恵の規制がインプットされていなければ、またもや「人類」は絶滅の歴史を繰り返すだけだろう。
童話作家ミヒャエル・エンデは、「2世代後に、経済的な破滅か、地球環境の崩壊かのいずれかへと突き当たります」(1999年NHK放送に関して「エンデ自身がNHKに残したメッセージ」[『エンデの遺言』NHK出版、2000年])と警告する。
環境考古学者安田喜憲氏は、「いま、人類の未来にはっきり見えてきた事柄がある。それは、世界五十億の人間が、この小さな地球にへばりついて生きなければならないという現実である。その小さな地球では、自然を一方的に搾取し、取れるだけ取ったあと、新たな大地へと文明の中心地を移動させる自然=人間搾取系の文明はもはや許されなくなった」(『人類破滅の選択』学習研究社、1990年、280頁)と警告する。
自然農法家福岡正信氏は、人間は自然の一部という「本当の価値観」に気づかずに、「人間は金もうけをしなければ生きられない」とか、「価値観も色々あっていいじゃないか・・・そんなことを言っていたら、十年後、二十年後には人類の滅亡も考えられないことはない所まで追い込まれています」(『<自然>を生きる』春秋社、1997年、66−7頁)と指摘する。
我々人類はこのままではほぼ間違いなく絶滅するのである。しかし、我々は座して将来世代にこの破壊を引き継がせていい訳がないのである。これをおしとどめようではないか。これを覆そうではないか。これが結論だ。
地球惑星科学者、生物学者、童話作家らの警告を引用するまでもなく、今我々が住む「富社会」は、その誕生以来、「人間と人間との対立」、「人間と自然との対立」を基本的特質としている以上、確実に崩壊せざるをえぬものなのである。そこに見られる「発展」「成長」とは対立の深化の果ての崩壊への歩みであって、「真実の発展」などではありえず、我々が言い慣わしてきた「資本主義の発展」「経済成長」などはまやかしの最たるものなのである。このことを鋭く自覚して、現在の富社会の構造を根本的に転換せざるをえないのである。出来るか、出来ないかではなく、せざるをえないのである。
|