縄文文化と現代  火焔土器(佐渡小木博物館) Welcome
 
to

my website 

縄文村

 
        

縄文村

                                                               

トップページへ戻

                                  縄 文 集 落

 
                             一 ムラの形成
 旧石器時代
 縄文時代に先立つ2−3万年前、「先土器時代人は十数人程度の『家族』に近い集団をつくり、河川ぞい数km程度の範囲を生活圏として、大形のけものが季節ごとに通りがかるのを、場所を変えては待ち伏せ、動物の少ないときには、起居の拠点に近いところを歩き回って、木の実や草の根を集め、小動物をとらえるような生活を繰り返していた」(戸沢充則監修『東京の三万年』柏書房、1984年、11頁)のであった。

 10人程度の家族の移動狩猟生活が中心であった。氷河期の動物捕獲が食料源であったから、大規模家族の定住は困難であった。


 縄文時代の定住化 縄文時代のような低生産力な時代において、厳密に定住の発端などを議論することはあまり意味がない。なぜなら、気候条件、植生の変化で、定住が困難になる状況は絶えずつきまとっていたからである。

 それでも、クチンスキー、良知力共著『労働の歴史』(法政大学出版局、昭和38年、14頁以下)の以下の記述からは、縄文時代において、氷河期が終了すると、どのような定住プロセスが展開したかを推定することができる。
 @ある地域で山川からの採集物が増えるにつれて、同じ場所にとどまれる期間が徐々に長くなってゆく、
 Aその地域に精通して、果実、魚の獲れる場所、季節を知るようになる、
 B浮動の労力の節約により、生活改善の余地が強くなる、
 Cまず人々は住居を作りはじめる、
 D女性は時間的余裕を利用して、毛皮、植物織物、羽毛で体を保護しはじめる、
 E粘土を材料にした容器類の製造を始める、
 F長期にわたって同一場所に定着すると、人々は地上に落ちた果実、木の実などが発芽する事実を知って、植物栽培の技術を発見する、
 G栽培面積が拡大すれば、その地の人間扶養力が増加する、
 Hやがて食事は楽しみになる。

 @ーFのプロセスおいて、「旧石器時代には局所的あるいは小さな集団でしかなかった落葉広葉樹林」が普通の景観となるぐらいに普及し(辻誠一郎「三内丸山を支えた生態系」[岡田康博ら『縄文都市を掘る』NHK出版、1997年、187頁]、縄文人はしだいに季節的に移動して、いくつかの拠点に住居・貯蔵庫を備えるということをしていたであろう。これらは各地の特性に応じて多様な展開をとげたろうが、基本的には定住生活を可能とする食料の確保が必要最低条件である。そこには、木の実のあく抜き法の習得などをともなう森林食物の確保、蛋白源としての中小型獣・魚の確保が伴っていたことは言うまでもない。

 6000−5500年前の縄文前期までには、この通年定住化が普及したといわれる(岡村編前掲書、227頁、281頁)。


 住居 ここでは、さらにCの住居建築を掘り下げてみておこう。

 旧石器時代には洞窟や岩陰を遊動生活のベースキャンプとしてきた人々にとって、一定程度長期に同一場所に住むということが必然的に竪穴住居の持続的な確立を促していった。つまり、竪穴住居居住による開地への生活拠点の進出は、次第に複数の血縁集団の集合を促し、そこに必然的に集落が形成されていった。

 人が集団で生活を営む背景に 他の動物や自然災害などに対する集団防御本能があると言われるが、それは人類進化の一段階におけるごく普通の、世界中どこの地域でも起こり得る共通現象である。しかし、遊動生活を送っていた旧石器時代段階では、それはあくまでも一時的な集団の集合・離散の繰り返しであり、そこに持続的な共同体はできにくい。

 だが、旧石器時代終末期、縄文時代初頭、住様式としての竪穴住居の採用は、強固かつ永続的な集落共同体の形成を可能にしたのである。浅く、柱穴も細く不規則な「竪穴遺構」が、次第に大地への堀込みを深くし、しっかりとした柱に支えられた定形的な上屋を持つように変化していく。

 これによって、血縁的集団の維持と展開が可能となって、集落形成の可能性を実現させた。つまり、定住は血縁共同体の紐帯を強化するだけに留まらず、親から子へという一系的な文化伝承に加えて、経験豊富な祖父母から孫へという3世代間の文化伝承の契機となっていったのである。ここに縄文文化に確固たる伝承力が芽生え、世代を超えた伝統の形成がはじめられていく。


 ホルド これはバンドとも呼ばれ、単系、複系いずれにせよ、単婚家族を基礎にして数家族が集合して形成する群共同体である。これがムラの始めであろう。


                        
 最初の家族ー血縁家族

 周知の通り、モルガン、エンゲルスは、原始時代の人類は乱婚であったとした。つまり、彼らは、「一つの原始状態」では、「一種族の内部に無制限の性交がおこなわれ、したがって、あらゆる女があらゆる男に、またあらゆる男があらゆる女に、一様に属していた」(エンゲルス、村田陽一訳『家族、私有財産および国家の起源』大月書店、1979年、39−40頁)とするのである。だが、19世紀にマリノフスキーらによってこの乱婚説は否定され、人間社会では当初から家族が存在していたことが明らかになっている。さらに、以後のサル学研究成果によって、「家族は、人間が、前人間的霊長類の時代から、引き継いだ遺産である」(今西錦司「ゴリラ」『今西錦司全集』第7巻、337頁)とされている。
 これは当然縄文家族論にも援用でき、縄文時代にも人間は家族を形成していたことが指摘されうるのである。
 
縁家族 言うまでもなく、人間の最初の集団は、血縁的家族であった。ある地域に土着した男女から、数百年の間に多くの家族集団ができ、上述の様な集落を形成するのである。

 一族の人間が世代を経て増加してゆくことは、父系が重視される社会では容易にたどれるのである。一般に、「父系の単系出自が重視される社会では、系譜上の分枝があとづけられやすいだけでなく、出自を過去に遡るばあいには、系譜は単一の祖先に収斂する傾向をもっている」(川田順造『無文字社会の歴史』岩波書店、1990年、80頁)のである。例えば、アリストテレスは、「出生の由来する第一の父祖」ヘレン、イオンからイオニア族、ヘレン族という種族が展開したとする(出隆訳『形而上学』上、岩波文庫、1997年、208頁)。

 このほか、こうしたことは『旧約聖書』の「民数紀略」などからも確認される。エホバはモーゼに、「汝らイスラエルの子孫の全会衆の惣数をその宗族に依りその父祖の家にしたがいしらべよ」と命じたところ、モーゼは「イスラエルの長子ルベンの子等より生まれた者」の宗族4万6500人、シメオン宗族5万9300人、ガド宗族4万5650人、ユダ宗族5万4400人、ゼブルン宗族5万7400人、ヨセフ宗族4万500人、マナセ宗族3万2200人、ベニヤミン宗族3万5400人、ダン宗族6万2700人、アセル宗族4万1500人、ナフタリ宗族5万3400人と報告した。

 これらは誇張した人数ではあろうが、血縁集団がいかに大きな人口に膨れ上がるかを示唆して興味深いものである。人口は、食料さえ確保できれば算術級数的に自然増加するのである。1世代25年として、平均1人が2人の子供を生めば、人口は25年間で2倍に増加することになる(マルサス人口法則)。これは18世紀アメリカの人口統計から算定されたものであり、縄文時代には食料的制約からこうした人口増加は抑えられていたのである。

 戦前、岡田謙は台湾高砂族を研究して、大氏族・中氏族・小氏族など複層的血縁集団の存在をあげている(『未開社会に於ける家族』弘文堂、昭和17年、92頁以下)。

 だが、日本の縄文社会では、後期末頃までは母系社会であった。

 単系と双系の家族原理 一般的に、食料確保が不安定な状況では、必要に応じて父方、母方の有利な集団に移ることがあった。

 この点、小川修三氏は、「縄文社会のように人口の絶対量が少なく、生活基盤の不安定な社会では、双系と単系をあわせたような複系原理がとられた」(『縄文学への道』39頁)と指摘する。春成秀爾氏は、「古い段階ではすべて母系的な妻方居住婚であったが、東日本では中・後期の双系的な選択居住婚の時期を経て、後期末・晩期には父系的な夫方居住婚が優勢な社会へと移行した」(小山修三『縄文学への道』61頁)とする。縄文後期末には父方優勢な双系婚となったが、それ以前は母系社会であった。

 インドでも、先住民族のドラヴィダ族は母系制であり、「親子関係や宗族は母方の系統にしたがって認められ・・父は何らの意義をもたな」かった(中村元『インド古代史』上、昭和38年、39頁)。この母系制は農耕による富=剰余価値の登場で男性支配に移行したが、この母系制の名残は命名法(「何某の子」という命名)やプーナ陶工(最大の陶器は女性が製造)などに
残った。

 この母系社会といえば、バッハオーフェン『母権論』(1,2,3 岡道男ら監訳、みすず書房、1996年。原初書版は1861年)が想起される。彼は、@アプロディーテー女神に象徴される乱婚が、デーメーテール女神に象徴される母権制となった事、A「母権制は特定の民族ではなく、ある文化段階に属する」「普遍的なもの」であり、「不死の母と死すべき父との結びつき、母の財産や母の名、母方の姉妹関係が優位を占めるという根本思想」をもつこと、B左が「女性的・受動的な生理機能」を表すので、「左に大きな尊厳あり」とされ、「左というものが重要で普遍的で、かつ根源的」だったこと、C「兄弟に対する姉妹の優遇は、息子に対する娘の優先の現われにすぐず、末子の優遇は、母系一族のうちで最後に生まれたがゆえに、死にとらわれるのも最後となるであろう者に、生命の継承ということを委ねた結果」である事、D「母の愛」は「愛と協調と平和の神的原理として作用」し、「胎児を育むうちに、女性は男性より早く、自らの自我の枠をこえてその愛の配慮を他の存在たる胎児へと及ぼし、その精神に備わった叡智をことごとく他者を養い育て上げるために発揮する術を学ぶ」事、E「女性は、無法というべき原初の時代の野蛮な生活形態を、かのより柔和で温和な文化へと導き、そしてやがてその中心に、より高い原理の担い手として、また神の掟を啓示する者として君臨するようになった」事(1、9頁以下)などを指摘する。

 縄文人が妊婦土偶をつくり、それを破壊したことは、縄文集落の中心たる女性が妊娠して死亡しないように、死亡のリスクの解消をはかろうとした、或いは死亡した場合のたたりの鎮静をはかったものともいえようか。卑弥呼、女性天皇には、こうした縄文母系制の名残が一定度あったのではなかろうか。彼らは縄文社会を破壊して国家をうちたてはしたが、1万年持続した縄文社会の根底まで破壊することはできなかったからである。


 妻方居住婚 縄文社会が母系社会であったことは、縄文社会の特徴を色濃く残存させるアイヌ社会からも確認できる。

 アイヌ家族は、「妻方居住婚」(夫が妻の世帯に同居)であり、夫は「妻の共同体に婿入りし、妻の両親の家に住んで、しばしば彼らのために何らかの労働を提供」(梶原景昭訳『性・家族・社会』人文書院、1993年、24−5頁)した。従って、その先祖と思われる縄文人の婚姻も妻方居住婚であるといえよう。

 ここでは、女性は16歳で母親となり、32歳でおばあさんになり、48歳で祖母となるのである。一方、夫の生殖能力は長く持続するので、他の「妻方」に居住する場合もあったであろう。一夫一婦制が確定されず、母の生殖が重視されていた社会では、各世代との「重層的」家族が成立する場合もあったろう。


 家族重視論 血族的集落を基本社会単位とする縄文社会にあっては、厳しい自然環境の中で生きるために、家族は自ずと結束せざるをえなかった。従って、縄文社会では、女性を中心とした、自然の一部としての家族的連帯が当然のなりゆきとして重視され、その絆としての家族愛が重んじられていたであろう。母を中心として家族は愛に満たされた生活を送っていたであろう。

 縄文母系制はやがて父系制にとってかわられたが、母を中心とする家族愛は父への愛も加わって維持されようとしたであろう。まだ自然社会の「余韻」を残す古代においても、家族愛は強いものであり、重視されていたであろう。富社会固有の争い、戦乱が起これば起こるほど、自然社会に支配的だった家族愛が再認識されたであろう。

 例えば、アリストテレスは、プラトン『国家』とは対照的に家族愛を重視したのであった。彼は紀元前3、4百年前の親子関係を生き生きと描写している。それから数千年前の自然社会の親子関係が、戦乱という国家的欲望や交易という個人的欲望で社会のゆがみが深刻化するなかで再認識されていったのである。そこで、自然社会の家族愛に満ちた親子関係を再確認するものとして、アリストテレスによる親子論を見ておくことにしよう。

 アリストテレスは、親子間には愛情があるとする。「親は子を自分自身のごとくに愛するのであり、子は『自分たちは彼らを親として生まれたものである』として親を愛する。そして、兄弟もお互いが同じ親から生れでたということによってお互いを愛するのである。けだし、親への関係の同一性はお互いの間に同一なものを生ぜしめる‥。」(『ニコマコス倫理学』下、岩波文庫、1998年、98頁)。

 そして、兄弟、従兄弟の親近感は同一の血が流れていることに由来するとする。
 「兄弟は、それゆえ、別個の人間でありながら或る意味においては同一者にほかならな い。一緒に養育されるということや、年輩の等しさも、その愛に対して大きな寄与をな す。けだし、『同年輩は同年輩を』であるし、親友仲間になるのも昵懇にしておればこ そだからせある。兄弟の愛が親友仲間同士のそれに似ているゆえんもここにある。
 従兄弟とかそれ以外の血族もこのことに基づいて−つまり同じ人々から出ていると いうことによって−親近感を有している。ただ、その始祖が近いか遠いかによって、 或るひとびとは比較的近しく、或るひとびとは比較的疎しい」(98−99頁)

 親は、養育、教育において、子供に「最大の愛」を抱く。こうした養育、教育を通して、「兄弟は誰よりも緊密にお互いに属しており、生まれたときからお互いを愛する位置に置かれているのであって、のみならず、同じ親から生まれ、一緒に養育され、同じように教育された人々は、ひととなりにおいて誰よりもお互いに似通っている」(99頁)とする。 夫婦に関して、アリストテレスは、「人間が家を営むのは単に生殖の目的のためのみでなく、生活の要求する万般のことがらを目的とする」ので、「機能を異にする」夫婦は、「各自のものを両者共同のために差し出すことによってお互いの助けとなる」とする。

 アリストテレスは、愛に満ちた家族、子供がかすがいとなる家族を次のように描写する。
 「彼らがよきひとびとである場合には、その愛が卓越性に即するものでもありうる。す なわち、男性と女性とでは各自固有の卓越性があり、お互いにかかるものに悦びを感ず るにいたるのである。
 また、子供は両者の絆であると考えられる。子供のないひとびとは早く別れやすい。 けだし、子供は双方にとっての共同的な善であるが、共同的なものはお互いを結合させ るものなのだからである」(100頁)

 そして、アリストテレス家族愛論をフォイエルバッハ出補足すれば、フォイエルバッハは「われわれは最高の善である生命を両親に負うているから」、「古代人たちは、我々は両親を神々のように尊敬すべきであるといった」(船山信一訳『唯心論と唯物論』岩波文庫、1996年、58頁)としている様に、家族愛は親への愛を基軸にしていた可能性が高いのである。具体的には、上述のように父方優勢な双系婚であったろう。

 こうして最初の頃の人間集団では家族愛が絆であり、血縁集団の紐帯が家族愛に支えられざるをえなかったことは注目されよう。アリストテレスは、法と正義だけでは調和した社会生活を維持できないとして、こうした家族愛が共同体、国家の基本としたのであったのではあったが。


                                縄文ムラの規模
 ムラの規模 ムラの人口規模は、いつにその地域の食料生産力に依存する。人口繁殖力そのものは大きいのであり、故にそれを扶養する食料さえ確保できれば、人口は「爆発」的に増加するのである。

 だが、縄文時代は水稲稲作など「持続的に増加」する食料の生産に欠けていたので、人口増加は抑えられていた。この結果、人口20万人前後のもとでの数千から数万のムラの人口規模がきまってくるのである。大部分は小規模ムラだが、水産物、海産物、狩猟、森林栽培などによっては、大規模ムラななるのである。

 今西錦司氏は、「人類とサル類を区別するもの」は家族とし、人間家族の起源に関して、@インセスト(近親相姦)・タブーがあること、A族外婚が行われること、B地域社会が作られること、C配偶者間に経済的分業が存在することをあげている(今西錦司「人間家族の起源」『民俗学雑誌』25、1961年)。これは、ほぼ縄文時代=自然社会にあてはまるものであり、これで人口規模を推定すると、@、A、Bが連関して「外婚を支障なく続けてゆくためには、通婚圏としてある程度の大きさヲもった地域社会の存在が、前提条件にな」(今西「日本人による霊長類の野外研究」『今西錦司著作集』第7巻、昭和50年、227頁)り、ワシュバーン、ランカスターらは少なくとも地域人口500人が必要と推定している(Washburn,S.L..&Lancaster,C.S. The evolution of hunting,1960[『今西錦司著作集』第7巻、所収])。

 実際には、日本の縄文時代には、これより小さい村落、大きい村落等があった。

 小規模村落 長野県山ノ神遺跡では、10戸40人程度と推定されている(川崎保編『縄文「ムラ」の考古学』雄山閣、2006年、12頁)。千葉県若葉区桜木町の加曾利遺跡では10戸内外と推定されている(佐々木高明『縄文文化と日本人』111頁)。

 前期後半、神奈川県横浜市では5軒の集落があり、多摩丘陵では2、3軒の小集落が形成されていた(戸沢充則監修『東京の三万年』柏書房、1984年、92−3頁)。

 東京町田市の多摩丘陵の遺跡群では、一時期に5−10軒の住居が5群の弧状に配置され、中央広場をかこむ「定形的な集落構造」(戸沢監修前掲書、118頁)をしていた。

 小規模住宅か、小規模住宅の集団が、多くの地域の平均的な集落規模であろう。

 外国でも、現在の狩猟採集民、熱帯雨林農耕民の社会は「比較的規模が小さ」く、25人(北米西部のグレート・ベイスン)、一拡大家族から100人(アマゾン)、200人(ニューギニアのツェンバガーマリン)であった(パトリシア・K・タウンゼンド、岸上伸啓ら訳『環境人類学を学ぶために』世界思想社、64頁)。

 大規模集落 しかし、森と川と海の食料が豊かであれば、かなり大規模な集落が展開する可能性があった。縄文早期末ー前期中頃には、そうした東国地域が森・海の幸と泉の豊かな地域などとなっていた。木の実のアク抜きには豊富な泉が必要であり、泉など水量の豊かなことも不可欠であった。

 1974年から、東京八王子市の遺跡群(狭間遺跡、椚田遺跡、要石遺跡、小比企遺跡)のうち、椚田遺跡の本格j調査され、住居跡45軒が発掘され、「直径150mの円周上にならぶ、300軒以上の大環状集落」(戸沢監修前掲書、108頁)だったと推定されている。

 1974年、東京文京区動坂遺跡で、中期住居跡22軒が確認され、同遺跡のある駒込公園内では重複分をあわせると50件が確認されている(戸沢監修前掲書、111頁)。

 東京小金井市貫井遺跡でも、中期後半の集落群があり、住居跡40軒が発掘されている(戸沢監修前掲書、116頁)。同武蔵野市の多摩ニュータウン遺跡(中期後半)では、「乞田川と三沢川の分水界から北に向ってのびた小さな丘陵の尾根筋」に住居跡31軒が発見されている(戸沢監修前掲書、116頁)。

 1975−93年、函館市中野A、B遺跡野発掘で「早期前葉から末葉の竪穴住居跡」407軒が発掘された。ただし、「同時に存在した住居数は少数の単位に過ぎない」とも指摘され、407軒が同時に存在したわけではないが、相当数の人口がいたようだ。

 1992以降、青森県の三内丸山遺跡の調査で、前期(約7,000〜4,500年前)の中葉から中期後葉までの竪穴住居跡約6百軒(市が野球場建設を予定していた4haだけでも8百ー1千軒と推定)、掘立柱建物跡約20棟が発掘された。世界最古の文明といわれるオリエント・シュメール文明がチグリスユーフラテス河沿いに展開したのは、前4000−3500年ころであり、従って時期的には富文明のシュメール文明よりも非富社会の三内丸山遺跡が古いといえよう。

 三内丸山では、40haの地域に三内丸山を拠点集落(長期持続力があり、大型祭祀施設、大規模墓域を備え、水運要所である場所)として地域集落群が展開して、縄文前期50軒200人から縄文中期100軒500人(根拠は盛り土、土器の数)が定住していた(岡田康博、高島忠平『縄文の宇宙、弥生の世界』角川書店、2000年、65頁など)。都市とは、富とそれを取得する権力者の拠点(首長の館、神殿、専門手工業者、水道施設など)であるから、富とそれを掌握する権力者のいない状況下にある三内丸山を安易に都市ということはできない。従来の縄文集落との違いを強調するために、「縄文都市」という用語を使いたい気持ちは分からないではないが、学問的とはいえないのである。ここでは、ヒエ、ヒョウタン、豆類、エゴマ、ゴボウなどの栽培食物もあった。

 この三内丸山が縄文時代の最大の集落人口とされている。自然諸条件に応じて、このムラ人員規模は決まったはずであり、扶養できない人員は周辺に散在させて、小規模な「衛星」ムラを造らせていたであろう。


 ほかにも、青森県六ヶ所村富ノ沢遺跡では、数百軒(530軒を掘り出し)の集落があった(岡村編前掲書、262頁)。福島県西会津町小屋田遺跡、同町上小島遺跡、高郷村博毛遺跡なども、「大規模な縄文集落」(橋口尚武編『海を渡った縄文人』小学館、1999年、165頁)があった。
 

 当初は血縁的な数家族であったろうものが、数百年の間に血縁的関係を希薄化させた数十・百家族に膨れ上がったのであろう。最初は小規模の血縁的家族から大家族へと増加することは、決して無理なことだとはいえないであろう。食料供給能力さえ増加すれば、数万、数十万人規模の集落も出現したであろう。

 栽培農法の限界 既述のように、縄文時代の大規模集落には食物の栽培が行われていた。だが、それはあくまで補完的なものにとどまり、食糧生産を飛躍的に高めるものではなかった。

 一般に、まだ縄文人は栽培を飛躍的に展開させる技術、能力を持たなかったとされている。果たしてそうだろうか。高度の能力をもつ縄文人が1万年ものあいだこの技術、能力にめざめないわけがなかったであろう。栽培農法などが展開しなかったのには、縄文時代固有の理由があったはずである。

 それは、縄文人の自然への敬虔な態度であろう。彼らは、自然の恵みを厚く深く感謝しながら日々食物を採集していたのであり、ゆえに森を伐採したり、原野を耕地に作り変えることは、自然の摂理を破る栽培農法となって、「神を冒涜」する行為ではなかったか。栗など果樹栽培は森の延長であって、自然を改造するものではなかったろう。人間の作為的「恵み」のために自然を改変することは、実に畏れ多いことではなかったろうか。栽培農法を展開しようと思えばできたのだが、自然の摂理への深い畏敬の念から「自然秩序を破壊する栽培農法」を本格化できなかったと思われる。

 オリエントの栽培農法 この点、エジプト文明でも、次のように、ナイル川の氾濫が人々に「自然」に「栽培農業」を教え、自然人として栽培農業をしていたようだ。
  「ナイル河谷では、毎年の洪水がたえず地形を変えていた。水が堤防を越してはんらんすると、それまでは増水した流れの速度のために浮遊していた泥が沈んだ。この沈んだ泥の一部は河床を高くし、残りは堤防とその近接地帯をおおった。
 河谷の両縁にかけては、比較的わずかな堆積物が見られた。このようにしてかなり高い堤防がきずかれたが、何年かの後には、水の重みがこれらの自然にできた堤防をこわし、すこしはなれた低地に新しい流露を求めた。古い河床は沼地となったが、堤防は尾根や小丘のように残り、風が運んでくる砂ほこりや堤防の縁にたまる沈泥でますます高く、ますますひろくなった。
 木が根をはり、人間がそこに定住し、隣接の低地に作物の種を蒔き、家畜に牧草をたべさせ、河がはんらんしたときには家畜をつれて古い堤防の高地に退いた。洪水の間、魚やイノシシやカバ、それに無数の群をなした水鳥が周囲の野原になだれこみ、夏の間中住民にゆたかな食糧を供給した」(H.フランクフォート、曽田淑子ら訳『古代オリエント文明の誕生』岩波書店、1962年、47頁)

 エジプト人は自然に逆らわずに、「洪水」農法を展開していたのである。やがて血縁的家族が増加して、離村分離の瀬戸際に立たされた際、洪水で日常化していた土壌の整備を砂漠地にまで広げて、灌漑による耕地拡張の方法を取り始めたであろう。家族の増加とともに、富の蓄積もはじまったであろう。ここに、有力者が成長して弱小家族を征服したり、或いは侵略者がきて、住民を支配すれば、「富を生み出す栽培農業」が権力側からいっそう推進されてゆくであろう。

 一方、メソポタミアでは、前8000年頃から山麓地帯で天水で自然種の穀物栽培が自然に展開した。カリム・シャヒルでは「季節的な住居が営まれた開地遺跡」があり、「原始的な園圃農耕と、粗放な牧畜による、生産経済のもっとも早い段階」を示していた(「古代オリエント」『世界歴史1』岩波書店、1969年、26頁)。

 前6800−5800年には、
ジャルモでは、自然種の穀物栽培が温帯的風土に促されて展開して、「農耕・牧畜が生業の中心となり、20−25戸が同時に生活を営んだ、典型的な村落共同体」(28頁)を展開した。共同体の中で富を蓄えたものが弱小共同体を併呑し、有力氏族は門閥となり、権力者となっていった。

 ハラフ期(前5100−4300年)には、生産力が上昇し、天水農耕地以外にも植民が行われた。前エリドゥ人は、「はじめて灌漑をおこない、沼沢地を農地に変えて、バビロニア南部を開拓」(31頁)した。
彼らは、チグリス・ユーフラテス河の雪解けによる洪水に直面して、自然に「最初の灌漑・排水」を余儀なくされた(31頁)。灌漑農法で六条大麦の生産が増加して、富が生じ始めた。共同体の規模が大きくなり、「神聖な場所」たる祠堂や共同倉庫なども設置された。
 
 こうして、チグリス・ユーフラテス川の利用で耕地拡張する事が「運河による計画的名大規模灌漑」を自然に実施させ、「原始民主制」(「共同生活体の日常の業務は長老たちの会議」が行い、戦争などの非常時には「総ての成人の自由民の一般集会」が「議員の一人に絶対的権力を授け」[(H.フランクフォートら、山室静ら訳『古代オリエントの神話と思想』社会思想社、1997年、153頁]る)を出現させた。そして、ニンギルス(都市神)の代官ギシュバレ神が「河水を掘割りに漲らしたり、神殿の穀物倉をいっぱいにする」(同上書、234頁)事を担当して、灌漑農業は神意にもとづくものとなっていた。

 日本でも、河川氾濫が豊かな大地をもたらし、豊饒な農産物をもたらしていれば、自然に灌漑・栽培農業を導入していたであろう。


                       四 大規模ムラの内部構成
 大規模集落の特徴  集落規模は大きくなってゆくと、@相当量の食料を確保する必要が生じるので、それを可能とする植生と確保・保存機能が整備され、A相当数の人口が居住するので、中央広場をかこむように住居が配置され、墓地域が整備される環状集落が形成されてくる。@に関して言えば、縄文前期から中期における東北地方における大集落の存在は、「クリを中心とする木の実の豊産と貯蔵(多数の貯蔵穴)」が支えていた(今村啓爾『縄文の実像を求めて』芳川弘文館、1999年、108頁)。三内丸山遺跡でもクリが主食となっていたことが出土品から確かめられている。

 この環状集落(直径は最小70M−最大150M)には、広場をはさんで、「重帯構造」(建物・施設[貯蔵穴、ゴミ捨て場]を設置する場所が強く規制されているために、新旧の建物・施設遺構が重複する。集落の長期的計画性を示す)、「分節構造」(住居群と墓地群に区分する構造。中央墓地の周辺には掘立柱建物)があるのである。

 こうした作業場(共同貯蓄施設、ストーンサークル、大柱など)、祭祀場、ゴミ捨て場、墓地をつくるには、集落構成員の協力を必要とした。これは血縁家族の紐帯を強めることになったであろう。

 墓域、墓坑列の存在や、掘立柱建物跡群が墓坑列と関連していることは、父系ないし母系の出自集団=血縁的家族集団が長期定住で増加してきたことから、自らの現状の「威儀」つけ、秩序維持などから先祖を祀るようになったからであろう。また、墓群がいくつかに区分されている場合があるが、これまた、いくつかの血筋があったことを示しているといえよう(小林達雄編『縄文学の世界』朝日新聞社、1999年、24頁以下)。

 居住地域に隣接して墓域があるということは、血縁一族が生者のみならず死者からもなっていて、生者は厳しい自然のうちにあって不安のなかから死者の再生、保護などを願っていたのであろう。この自然の厳しさが集落の宗教的動きを背景とした連帯性を促していた。


 溝・柵列 縄文時代の集落には、環濠(苫小牧市の静川16遺跡、千歳市の丸小山遺跡など)、区画溝(福井県の真脇遺跡、岩手県の下村B遺跡、群馬県後期天神原遺跡、茨城県高萩市の中後期小場遺跡、埼玉県川口市の宮合遺跡など)、柵列(秋田県の上新城中学校遺跡、福島県の南諏訪遺跡など)があるものもあった。まだ富が形成されていないので、これらは防御的役割をもつものではなく、「祭祀場、墓域などの特殊の場を囲み、住居域やゴミ捨て場などの日常的な場と分断」(岡村前掲書、243頁)するものであった。


 貯蔵穴 縄文前期の東北日本(青森県青森市熊沢遺跡、同県大鰐町大平遺跡、秋田県能代市杉沢台遺跡、同県大館市上ノ山遺跡など)では、「根茎類や堅果類の一部を多雪寒冷の冬期間に凍結させることなく保存」するために、フラスコ状(開口部を小さくし、外気温度変化の影響を最小限にとどめる)の貯蔵穴がつくられた。

 これらの遺跡には「長大な竪穴住居跡」があり、その用途に関して「冬季の共同作業場」、「冬期に多くの家族を収容した複合居住家屋」、「集会場」、「儀礼場」などの諸説がある(岡村編前掲書、249−250頁)。

 

 分業 500〜1500人規模の集落となれば、呪術的リーダー家系が存在していたであろう。ある個人が、「季節の順序、雨の定期性、有用動植物の維持等、その部族の生命を左右する諸現象の定期的運行を『司っている』」(ルュルブ・ギレ、山田吉彦訳『未開社会の思惟』小山書店、昭和10年、406頁)ような場合、彼が族長となっている可能性が濃厚なのである。

 戦後、東京大田区千鳥久保貝塚遺跡の貝層中に年配者の屈葬人骨が発見され、「胸の上に、長さ25cmのシカの角に彫刻をした特殊な装身具がおかれていた」(戸沢監修前掲書、112頁)ことから、専業的呪術師が存在したことが推定されている。東京目黒区油面遺跡、同世田谷区奥沢台遺跡などでは新潟糸魚川産のヒスイ製大珠が発掘され、呪術師ないし首長の存在が推定されている。

 また、技術的熟練度に応じて職能集団の分業も生じていたであろう。家族或いは家族集団を中心として、自らで衣食住などを確保しつつも、共同体内部に分業が端緒的に形成されていた可能性が推定される。

 太陽、月の運動、四季の変化など、1年の季節的区切りごとに祭礼を村を挙げて行っていたであろう。だが、500〜1500人規模になれば、総出で狩猟、採集、栽培、漁業などに従事することはできないはずであり、大木の伐採加工、造船、衣服などに分業がみられていたであろう。また、「堅果類の林では下草刈、根茎類の自生地では潅木の伐採というように、採集時ばかりでなく、端境期の労働が季節的な計画性をもって集約的に行われ」(岡村編前掲書、250頁)たりしtであろう。

 ムラの歴史を暗誦して伝えたり、青少年の教育を行う者もいたであろう。

 ソロモン群島のマライタ島では、「土着民は素晴らしき系図学者であり、彼等の祖先の名を記憶しており、且これら祖先の親族関係の各段階を委しく述べることが出来る」(H.I.ホグビン、碧川宗傳訳『未開社会における文明実実験』栗田書店、昭和19年、32頁)のであった。縄文ムラでも同じように、祖先の名前が暗誦されていたであろう。そのことによって、一族の連帯性を確認し、厳しい自然にともに生きる絆を新たにしていたであろう。

 自然人にとって、一族は、幼児、小児、未婚若年者、既婚男女、老人という類別が行われていたであろう(姫岡勤『未開社会の構造』121頁)。特に、ムラの維持には未婚青年の教育は重要であったろう。高砂族北ツォウ族(1737人)には、集会所があって、それは一族の中止的場所であるとともに、「男子青年の訓練所」(岡田前掲書、95頁)となっていた。三内遺跡にある大規模住居もまた、ムラの中心的会議場、青年訓練場であったであろう。

 このムラの最大の特徴は貧富・人権の差が無く、自然の脅威に全員が平等にあたったということであり、日々の生活が自然への畏敬、生活への喜怒哀楽に満ち満ちていたことであろう。「単系出自集団が組織された要因は、経済的利権を確保する必要性が第一であろう」(小林編前掲書、33頁)という見解もあるが、あくまでその地域の食料生産力に応じて血縁家族集団規模が決まったのであり、厳しい自然の中で生き抜くすべとして、各集落は互いに一定の距離をもって棲み分けていたのである。生産剰余の成立しないもとでは「経済利権」というものは成立しないのである。

 また、地名もその範域の特徴(山、川、大木、海など)を踏まえて自然につけられたことであろう。

 大規模ムラの頓挫 4000年前頃からの寒冷化などで、大規模村落の維持は困難と成り、周辺に中小規模ムラとして分散していった。

 例えば、東京地方では、遺跡数は後期後半には3分1に減少し、後期後半にはさらに激減した(戸沢監修前掲書、130頁)。

 その結果、周辺の分散集落の血縁的・地縁的関係は維持され、大規模集落のもっていた共同施設・祭祀場・墓域のみは持続されていったであろう。これは、「異なる環境に進出しての、異種資源に対応した偏差のある生業活動の分散、という有効性を加えて理解すべき」(岡村編『ここまでわかった日本の先史時代』343頁)というものではなく、
あくまで自然に支配される縄文人の自然適応の試みに過ぎない。現代的の「資源有効活用」などという視点でみることは適当ではないことは明白である。なぜならそういう「富」原理で動く社会ではないからである。

 従って、「バンド社会ー部族社会ー首長制社会」を「進化の過程」(小林達雄編『縄文学の世界』35頁)などとみることはできない。絶えず、自然の脅威でバンド社会に戻る状況があったのであり、自然との関係おいて基本的にいささかも「進化」などはみられないのである。


 小山修三氏は、「遺跡にある建物の部屋数」を根拠に早期2万人、前期10万人、中期26万人、後期16万人と推定した(Senri Ethnological Studies,No2, National Museum of Ethnology,1978)。これは、当時の日本の自然生産力に規定されて人間が集住して生活しうる人口規模を示しており、相互に生命維持範域(「縄張り」)を決め合って、その範囲の食物提供力に応じた集落規模をとっていたのである。中期26万人は、主としてこうした大規模集落の出現が原因であろう。

 谷口氏は、「関東地方南西部の大規模な環状集落の領域はおよそ63kuで、これは世界中の他の地域の平均と比べるととても狭い」、「これらの集落は、領域と食物資源の管理を守るために単系出自集団によって占有されたのではないか」(リチャード・ピアソン「縄文社会についての新しい展望」『国際縄文学協会紀要』1、2004年)と考えている。63kuという領域は、単純化すれば縦横各8kmであり、2、3時間の歩行圏内であるといえよう。

 甘粕健氏は、八ガ岳山麓、東京湾北岸では「遺跡の分布密度が濃く、「数棟から十数棟からなる拠点集落と周辺の二、三の小集落からなる小共同体が基本的な経営体が基本的な経営体をなし、3キロメートル圏内の食料資源を余さず利用し尽くすという集約的な生産活動が想像される」(『岩波講座 日本考古学』3生産と流通、1987年、6頁)としている。3kuの小集落が2、3集まって中規模集落10kuを形成していたのであろう。その中規模集落の上にネットワーク的に「大規模」に集落が展開していたともいえよう。


                          五 集落形成原理

 
以上の縄文集落の形成原理を見てみよう。

 
縄文時代の人口密度は100平方キロメートル当り200人、300人は、「採集・狩猟段階の文化としては最もよく発達していたと言われる北アメリカの北西哀願インディアンの人口密度」100人に比較しても、大きいのである(佐々木高明『日本文化の基層を探る』日本放送協会、1993年、66頁)。

 数千年間人口が10−30万人未満であったということ、それ以上は縄文人口が増えなかったということは、この人口規模が一朝一夕にきまったものではなく、数千年の間に相互に生き残るために自然にきまったものであったということを示唆している。

 その土地の自然生産力度が人口規模をきめていたのであり、食料供給力が大きくなれば、例えば三内丸山遺跡のように500−1000人規模の集落も出現することになるわけである。

 そして、これらの各集落は共生するために各範域を相互に尊重しあっており、その関係はネットワークのように緊密になっていたと思われる。平均1平方キロメートル当り2〜3人の人口密度であり、縄文前期が0.03人(関東9人)、中期2.9人で各集落が形成され、食料の豊かな関東・東北に人口が集まっていた。一集落の周辺の自然生産力が限界に到達すれば、挙村移住を余儀なくされたり、一部村民が村外移住を促された。母集落を中心に血縁的集落が周辺に形成され、母集落に祭祀(ストーンサークル、大木柱など)が整備されていたようだ。

 こうした集落構造が日本各地に、特に東北・関東では濃密に、形成されていったであろう。それは、食料確保の観点より近接は許されず、遠方であればあるほど相互に安全である原理(集落遠接原理)が作用しており、それが「緊密なネットワーク」の限界となっていたであろう。これに関連して、マーク・ジェイ・ハドソン氏は、「縄文時代の『(土器)様式圏』が生殖ネットワーク(通婚圏)とリンクする可能性がある」(「縄文時代における生殖と移住−小林達雄の土器『様式圏』の検証−」『国際縄文学紀要』1、2004年)と興味深い指摘をされている。

 さらに、家族制度を歪めるとして近親相姦を嫌忌し、かつ近親婚が種の保存に不適格であるということを経験則で知り始めれば、別の血縁家族との婚姻が推し進められ、ますます緊密な集落関係が外延的にできあがっていったであろう。

 ミトコンドリアDNAの研究が、6、7万年前に始まるアフリカ人の共通祖先から「人類拡散時代」が全世界に始まることを明らかにしている。この人類の全世界への拡散の旅もこの「集落遠接原理」で説明される。人類が誕生の地を離れて旅立つのは、冒険ロマンとか未知への魅力などではない。増加した人口が生きるために自然に新たな集落を求めて移動せざるを得なかったのであり、数万年間で「紅海」(当時は陸地)をわたってインド近辺で生まれた人間(M,N,R)が、アジアとヨーロッパに拡散していったのである。因みに、日本人の祖先は2万4千年前に東シナ海(当時は氷河時代で海ではなかった)に生まれたといわれる(国立科学博物館研究主幹篠田謙一氏の研究[「ミトコンドリアDNAの塩基配列から見た縄文人と弥生人の関係」1999−2001年、文部省科学研究費補助金研究成果報告書 『日本人になった祖先たち : DNAから解明するその多元的構造』日本放送出版協会、2007年など])。

 こうして、民族が生まれていったのである。「富社会」では民族紛争が多発してゆく
が、民族とは人類が「生きる」ために生み出されたものであったこと、これは改めて肝に銘じなければならないのである。


                       六 縄文集落の文化的特徴 

 以上を踏まえて、最後に縄文集落の文化的特徴をまとめておこう。

 血縁的母系社会での家族愛を基礎として、長期にわたって上述のような集落配置関係が持続するうちに、血縁的関係が希薄化しても、相互に尊重しあい、闘争本能=爬虫類脳を押さえこむことが当然となったであろう。その結果、平和の倫理、相手の喜びが自分の喜びであるなどの共生・共愛原理、自然の一部として自然の脅威に畏敬を抱き、自然の芸術に感動するなどの自然原理などが、縄文人の大脳新皮質に自づとできあがっていったであろう。

 現在の日本人の自然の尊重、和の重視などは、こうしてこの数千年間にわたってじっくりと培われてきたものであろう。島国であっただけに、こうした自然尊重、和の精神などが純粋培養的に根太く育っていったであろう。弥生時代に好戦的な大陸人が日本に到来しても、数千年間に培われた自然観などは根底で長く太く生き残ることになったのである。現実の政治、経済の世界ではこれが充分にいかされなかったが。

トップページへ戻る

 縄文文化と現代
Copyright(C) All Rights Reserved