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ビングとベアの諸問題
ダブ・ビング氏は元々は中国研究者であり、穏健人柄でイスラエル首相候補にもなられたという方だが(紹介者教授のの言)、ジークフリート・ビング、マルチン・ベアらの御子孫ということで、言わばファミリー・ヒストリーとして、ビング、ベア研究に着手されるようになったようだ。氏は決して付随的の研究ではなく、本格的な研究として、ドイツ、フランス、日本などで自ら動いてベア、ビングの関係資料を発掘され、ウルグアイのビング直系子孫を探り出して、ビング・アーカイブを取得されたり、フランクフルトのアーカイブでアーレンス書簡を発掘されたりした。こうしたダブ・ビング氏の精力的研究によって、石井寛治氏によって大いに進捗した幕末維新期「外国商社」研究や、日本の美術史研究者によってなされたジークフリート・ビング研究、マルチン・ベア研究、ジャポニズム研究をさらに発展させられている。
筆者は講談社から『華族総覧』(今は絶版だが、電子書籍化)を刊行し、ここでマイケル・ベアの子孫でもある原田男爵家をあつかい、かつ男爵陸軍少将・貴族院議員原田一道が筆者の故郷千代田区猿楽町に居住し、ここで地質学者原田豊吉、画家直次郎が生まれ、豊吉とベア長女照子から元老西園寺公望秘書となり昭和政局に一定の意義をもつ熊雄が生まれた事から、郷土人物として一段と原田家・ビング家研究を深めていった。所が、原田男爵家について、日本地学関係者など少なからざる人びとから問い合わせを受け、そういう折に、ダブ・ビング氏が来日されて、地縁と血縁とによる原田家・ビング家の相互研究の関係が自然に生じて、今に至っている。
そういう折の2020年5月14日、ビング氏より長年のビング家研究の一成果を込めた長文メールが届き、かつ氏が蒐集されたアーレンス商会資料の一部を添付されている。これはあくまで筆者に見せられたものなので、氏の了解なく一般公開はできないが、極めて重要な研究・資料であることは明らかである。
また、同メールでは、通説ではジークフリート・ビングの最初の訪日時期は明治8年とされているが、日本のゴッホ研究者からビングは1860年に中国を訪問しているのではないかという説が唱えられて、ビング氏と「論争」中だとされている(Bing's
Mail,2020/4/1 )。そこで、この問題を含めて、改めてビング家と原田家の関係の一端やベアの動向などを少しく見て、ビング、ベア研究の意義・重要性を再確認しておこう。
一 幕末期の日仏文化接触
日仏の相互感応 元禄期の大坂文化が幕藩体制の成立・確立に対応した特権商人の「上品」な「興隆」文化を基軸としていたとすれば、幕末化政期の江戸町人文化は農民的商品経済の発展による幕藩体制の崩壊過程に対応した新興商人・町人の「新興」文化を基軸としていた。化政期江戸っ子は、いままでにない際立って粋で反骨的で諧謔で「下品」で個性的である事を好んだ。これが、ルイ・ナポレオン(第二共和政大統領[1848ー1852年]・第二帝政皇帝[1852−1870年])下のフランスの市民・芸術家、つまり、小農民を広汎に残存させ労働者の攻勢をうけつつ鉄道・銀行などを基軸に経済発展を図りパリ繁栄をもたらすが、政治的には安定せず、市民・芸術家は文化的に粋で洒落て個性的な発動に行き詰まって、幕末期江戸町人文化に一定度感応したのである。
こうした江戸町人・商人の美術の一つが浮世絵であったが、「江戸時代の身分制度では商人は一番低く見られていたため、貴族や武士からは軽んじられ」、「美術品というより民芸品のように見られる物であった」(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」『広島大学留学生センター』2002年3月 )。だが、そこには、仏教的墨絵や狩野派絵画には見られない生き生きとした人間個性が躍動していた。これがフランス人を惹きつけたのである。
浮世絵の魅力 当初は、少数の画家・文学者などが、浮世絵に対して素朴な驚きと好奇心を抱いた程度であった(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」『駒澤大學外国語部研究紀要』34号、2005年3月)。
浮世絵は、江戸っ子の自負の産物でもある。実は貧しいのだが「江戸っ子は宵越しの金を持たねえ」と負け惜しみ、狭い居住地に数十万人がせめぎ合えば喧嘩や火事も多くなるが、「火事と喧嘩は江戸の華」とはねかえす。ありきたりの絵など見向きもしない。宿場で博労の多い新宿を馬のケツを大写しに描けば「おもしれ―」と言い、鷹の目でひしめく江戸を鳥瞰すれば「おもしれー」と笑い、安宅の大橋を雨で逃げ惑う人びとを描けば「雨の線がおもしれー」と言い、こうしたうるさい江戸っ子の厳しい目を満たそうと、浮世絵画家は、西洋人にはない、特殊日本的遠近法、強い線、構図を生き生き編み出し、フランス人らに衝撃を与えたのである。特に「平面的で、いわゆる遠近法を無視(あるいは省略)し、自在な視点の取り方にも特徴を有する、そのような絵画上の空間処理に関する日本画・版画の新しい観念・技法」は、いささかの行き詰まり(後述)を感じていた当時のフランスなどの画家には、「これまでの閉塞状況を切り開くものとして、新鮮に、受け止められた」のであった(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。
アリ・レナンは、「北斎漫画」(『芸術の日本』所収)で、@「北斎の才能は、貧しい人々の気に入っているが、彼らこそ彼の本能的批評精神、新しい美意識、より自由な美意識、簡単な粗描、自然の素早い変化にもこの上なく忠実に応じる豊かなファンタジー」を「全て受け入れていた」事、A「運動こそが彼が激しく追い求めた」事、B西洋芸術とは異なる北斎日本芸術には、我々の描くような「苦悩、愛、信仰」ではなく、「相撲、興奮、喜劇的な、或いは悲劇的なしかめ面」がある事、C西洋では「程度の低い芸術と受け取られる」諧謔は、日本では「高等な芸術の構成要素」となる事などを指摘する。ルイ・ゴンス「装飾にみる日本人の天分」(『芸術の日本』所収)は、「日常的なものが最も優れているという観点」は、「素晴らしく新鮮な・・モチーフ」だとする(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」『広島大学留学生センター』2002年3月 )。
1867年以前に日本版画がフランスの「あらゆるアトリエ」に普及したのは、「構図の奇抜さ、フォルムの処理法、調子の豊富さ、ピトレスクな効果の独創性」、これらの「効果を得るために用いられる手法での単純さ」(フランス評論家Ernest Chesneau[1830-1890])なのであった。西洋前衛画家が「日本版画で最も鑑賞」した点は「簡潔な線、自然な色、テーマの新鮮さ」であり、注目点は「風俗画や異国の風景画」の「目新しいモチーフ」であったのである(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」 )。
幕末期フランスでの浮世絵普及状況 1856年にパリの店で見つけられた北斎の「漫画」は初めてヨーロッパの人々の日本の美術への興味をふくらませた。1862年、ロンドン万国博覧会での浮世絵の展覧会はその興味を強めた(ホルダー・クリストファー、相原 和邦「ヨーロッパの美術と浮世絵との関係―浮世絵が写えた印象派の画家への影響についてー」広島大学日本語教育学科『紀要』10号、2000年)。
1862年、パリのリヴォリ街220番地に『支那の門』(La Porte Chinoise)と称する日本美術品の専門店がドソウ夫妻によって開かれ」、ここで、「浮世絵版画などの日本の美術品が簡単に入手できるようになった」。1867年パリ万国博覧会は「日本の浮世絵版画が人気を博す一助」となった(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」 )。そこには広重の浮世絵が100枚あった(ホルダー・クリストファー、相原 和邦「ヨーロッパの美術と浮世絵との関係」)。
パリ絵画界の行詰り 幕末まで「西洋美術と日本美術は反対の方法論で制作されていた」。西洋美術は、@写実主義が理想であり、「できるだけ細かく描くことを目指し」、A「線は日本絵画と比べ、はっきり」せず、B西洋版画は「木版画ではなく、銅版画や石版画に集中し」、多くは「色を付けないまま、細かい線で陰影や色合いを現わすだけの版画の方が多」く、B「日本絵画が、柔らかく、簡単な線で、大まかに描かれて、写実よりも装飾性を強調」し、「陰影や遠近法は元々使われ」ず、18世紀半ば以降に透視図法が西洋からもたらされた」が、「西洋絵画は遠近法を使ったり、色合い、陰影をつけたりすることで、対象を立体的に描写でき」た(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」 )。
「西洋の若い芸術家が日本の美術にインスピレーションを求めたのと裏腹に、日本の若い芸術家は西洋の技術を取り入れた」((ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」)のである。ジークフリートが浮世絵をフランスで紹介しフランス絵画界に「革新」をもたらす一方で、原田一道次男の直次郎はドイツ絵画界で西洋画法を学んでいたのである。
浮世絵受容の背景として、フランス絵画界の行詰りではなく、外国絵画を受け入れる懐の深さを指摘する見解もある。つまり、小玉氏は、ジャポニスムが流布した背景には、「つとめて外国との『文化的な連続性』を求めようとする動きが現われていた時代」であり、「ゴッホ、ピカソ、モジリアニ等の『外国出身者』がフランスで活躍し得た例は、芸術作品のなかに求められる『普遍的な[表現・了解]の可能性』が真摯に追及されたからであり、そのような追及が不可能ではない程度に『開かれた社会』がフランスには形成されてきた(されつつあった)こと」、そして同時に、「美術上の商業性が発展してきた(きつつあった)」事などがあったとする(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。
欧米国交開始 1858年(安政5年)に、日米・日蘭・日露・日英・日仏の間に修好通商条約が締結され、横浜、神戸、長崎に居留地が建設され、まずはアジア貿易の経験ある商人らが日本に集まってきた。プロイセン使節団は、1860年9月4日に同国海軍の蒸気軍艦アルコーナ号に乗って江戸に到着し、8日に江戸の三田付近に上陸した(「幕末・明治のプロイセンと日本・横浜」横浜開港資料館、平成27年)。ハンブルクなどハンザ3都市市政府代表の通商条約締結親書をも持参したが、幕府はこれを拒み、外交権をプロシア一国に代表させ、翌1861年幕府はプロシャとのみ日普修好通商条約を締結した。1867年プロシアを中心に北ドイツ連邦が結成されると、日普修交条約の参加地域が拡大した。これがドイツ系ユダヤ商人らを日本に向けさせた。
1859年には50人の外国人が居住したと言われ、イギリス人が最も多く、その大部分が対日貿易で一攫千金を狙う商人だった。1863年には西洋人約170人が日本居留地におり、約半数がイギリス人だった(重久篤太郎「1860年代横浜のイギリス人」『英学史研究』9号、1976年)。ついで、アメリカ人、フランス人、ドイツ人も多くなり、「1863年の在日ドイツ人の数は30人前後程度」(Saaler Sven「OAGドイツ東洋文化研究協会の歴史と在日ドイツ人の日本観[Die Geschichte der OAG und das Japanbild der Deutschen in Japan]」(lecture commemorative in Nara Prefectual Library,March 22, 2009)になった。
英国政府は薩長と天皇に与していたが、仏国ルイ・ナポレオン皇帝は、横須賀製鉄所建設・フランス将校団派遣や、エゾを担保にした巨額借款計画など、倒れかけた徳川政権にかなりテコ入れしていた。フランスは、もはや徳川将軍家は崩壊すると見限った英国とは違って、将軍の栄光への畏敬を変えることなく維持し、上野戦争で彰義隊が敗戦した後も、徳川幕府に派遣されたシャルル・シャノワーヌ参謀大尉(後にフランス陸軍大将)が率いたフランス将校団の一部は榎本武揚(後に海軍中将)とともに五稜郭に立て籠もったのである。
このように、フランスは、民間で浮世絵を受け入れたのみならず、国家面では徳川幕府に深くかかわり、上下あげて幕末日本に関わっていたのである。
二 ジーグフリート・ビング
ジーグフリート・ビングの分担 以上を踏まえて、ジーグフリート・ビング(Siegfried Bing)の分担、訪日時期、活動などを考察してみよう。
1838年2月26日、ジーグフリート・ビングは、ドイツのハンザ都市ハンブルクでヤコブ・ビング(フランス輸入の磁器やガラス器を市内で販売)とフレデリク・ロイナーの子として誕生した(池上忠治「サミュエル・ビング小伝」[サミュエル・ビング編、瀬木慎一ら訳『芸術の日本Le Japon Artistique、美術公論社、昭和56年])。1850年代に父がパリに店を構えると、ジークフリートもパリに出た。1854年に父親はフランス中央部に小さな磁器製作所を買い取り、製品を直接ドイツに送り出した。ジークフリート自身もロココ風の磁器をドイツで販売して利益を上げ、普仏戦後には東洋美術品の蒐集をも始めた(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。
ジークフリートは東洋美術品を扱う過程で日本に関心を持ち始め、ドイツ製武器などの販売に関心をもつ義兄のマイケル・ベア(Martin
Michael Bail or Bare)との間で、対日貿易について計画を具体化してゆく。ジークフリートはベアの妹ヨハンナ・ベア(Johanna
Baer)と結婚したので、マイケル・ベアと義兄弟となったのである。ジークフリート、ベア義兄弟の間で対日貿易の役割分担がなされ、ベアが武器輸出構想をもっていたとすれば、ジークフリートは日本陶磁器・美術品販売を重視していたようだ。ベアとジーグフリートの間では、まずは武器商社として経営基盤を日本で構築することを最優先して、パリ基盤の日本美術販売は副次的としたようだ。ベアが日本で基礎を固めて訪仏する時に、ジークフリートが訪日するなどの段取りをしたことも想定される。もちろんジークフリートが義兄の軍事優先に対抗するために日本美術品貿易が有望であることを証明するために、訪日を狙う可能性が全くないことはなかったが、ジーグフリートには幕末期には美術品のみで日本を訪問する資金・目途はまだなかったというべきであろう。
その過程で、ドイツ・フランクフルトで活動したハインリッヒ・アーレンス(Hinrich Ahrens)がジーグフリート・ベア義兄弟構想に加わる。アーレンスは日本陶磁器などに関心があったようで、フランス陶磁器に関心を示しだしたジーグフリートと知り合い、ジークフリートはアーレンスをベアに紹介したのではなかろうか。そして、ベアとアーレンスのその後の行動(後述)から推定すれば、ベアとアーレンスが意気投合して江戸築地に共同で商会をつくることになれば、ますますジークフリートのパリ拠点構築の役割は重要になり、彼の訪日意義は一層希薄化したであろう。
1870年普仏戦争後、ジークフリートはフランス人に帰化してサミュエルと改名し(混乱をさけるため、以後もジークフリートに統一)、ジークフリート自身もパリを拠点にしてゆく覚悟をかためた。当時のパリで既に有名になっていた東洋美術品の店、たとえば、喫茶店も兼ねていた「中国の門で(A La Porte chinoise)」等で、彼が日本の浮世絵・陶磁器などを実際に眼にしたのも、この頃とされる(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。
明治2年に、ベアとアーレンスがともに取締役となって、アーレンス商会を設立すると、アーレンスは組織固めをベアに任せて、日本陶磁器の対仏輸出などの事で渡欧する。ダヴ・ビング氏のメールでは、明治4年(1871年)から6年(1873年)まで、「ハインリッヒ・アーレンはドイツ、スイス、イギリス、スコットランドに行き、日本市場向けの技術や言語の本を購入」した。ベアは日本にあって、武器・機械輸出の傍ら副業的に日本浮世絵・陶磁器などの輸出をしたのであろう。「新撰近世逸話」(『実業の日本』明治30年5月1日)によると、ベアの信頼する使用人高田慎蔵は、「古画骨董の利あると察し 頻りに手を広げて買収す」とあるように、慎蔵もまた、「明治も間もない頃、価格が下落していた日本画や蒔絵を買い集めてフランスに送っていた」のである。アーレンス商会時代から、高田慎蔵は副業的に古美術売買も扱い、大正初期には高田慎蔵は美術収集家としても知られるようになり、関東大震災で1000万円の書画骨董が灰燼に帰したと言われる(『高田商会開祖高田慎蔵翁』など)。ベアや高田慎蔵には日本美術品輸出は副業ではあったが、ジークフリートやアーレンスにとっては本業であった。
ジーグフリートの二回の訪日 7年には、こうした役割分担のもとに、ジークフリートのパリ店経営は、ベアらから送られてくる浮世絵などの日本美術品などを売って軌道にのってきた。この頃にアーレンスが日本に戻り、それと入れ替わるように、ベアは後述理由で訪仏して、ジークフリートに会って、これまでの事業進捗概要を報告する。そして、今度は、ジーグフリートが、訪仏したベアに入れ替わるように、訪日する番となる。後述の通り、ベアが英国での日本海軍の軍艦三隻建造のために二年余日本を離れるので、ベアから後事を託されたのである。ジーグフリートは既にアーレンスの滞欧中にフランスなどで会っていたであろうが、再び美術品輸入先の現地日本でアーレンスと相談する機会をもつ事は意義があったであろう。
ジークフリート・ビングは訪日直前に、ベアから日本での美術品購入に在日ドイツ人の助言が得られやすくなるという助言もあってか、8年3月13日に、ベア自身も発起人の一人になっているドイツ東洋文化研究協会(OAG,Ostasiens
Asia Gesellschaftの略称か、今はEast Asian Deutsche Gesellschaft fur. Natur-
und Volkerkunde Ostasiens。明治6年3月に在日ドイツ人を中心に設立[サーラ・スヴェン「OAGドイツ東洋文化研究協会の歴史と在日ドイツ人の日本観」])へ入会する(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)。その上で、同8年、ジークフリートは日本を初訪問して、初めて浮世絵などを直接買い付けるのである。上記役割分担のもとで、ベアと入れ替わるようにして、ジークフリートに訪日の機会が熟して訪れたのは、幕末期ではなく、維新期であったのである。やはり、幕末期のビング訪日はありえないと見るべきである。
1880年代に、ジークフリート・ビングは「単なる画商ないしは骨董商以上の人間に成長」(池上忠治「サミュエル・ビング小伝」[サミュエル・ビング編、瀬木慎一ら訳『芸術の日本』Le
Japon Artistique、美術公論社、昭和56年、515頁])したという評価もなされる。
その上で、ジーグフリートは8年に初めて来日し、アーレンスと旧交を温めつつ、在日ドイツ人らからも日本美術品の情報を仕入れた後に、ほどなく中国に赴いた。日本、中国で美術品を收集して、帰仏する。この帰仏時期は、@ベアが後述の通り9年半ばに日本に戻っている事、A9年にはパリのドウルオ競売所に東洋美術品を出し、1万1000フラン以上の売り上げを記録している事(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)などから、9年と推定される。
11年には、ジーグフリートは、持ち帰った美術工芸品の一部をパリ万博に出展した。
ジークフリートは、13年に「もう一度来日」(瀬木慎一『日本美術の流出』駸々堂出版、1985年、122頁)する。『ベルツの日記』13年7月13日の項に「バイル(ベア)のもとで、パリから来たその義弟ビングと昼食」(『ベルツの日記』87頁)をとったとあるから、7月上旬頃に来日したようだ。この第二回訪日の13−14年(1880ー1881年)は、明治政府の直輸政策に対応して、自らも役員であるベア商会の対応・将来について協議することが主務の一つであったようだ。だから、これについて相互に了解ができると、ジーグフリートも主業である美術品買い付けに従事する。
つまり、ジークフリートは、この第二回訪日では浮世絵以外にも日本美術品を精力的に買い付けた。のみならず、今回はインドにまで買い付け先を拡大した。13年6月15日付『東京日々新報』に「仏人ビング柴田是真(
蒔絵・漆絵・絵画に才能を発揮し、最後の江戸職人と言われた)に心酔」という見出しで、ビングは、「日本や中国、インドなど、到る所で、価値がありそうに見えたものは、骨董品であろうと現代のものであろうと何でも手に入れ」、彼自身の言葉によれば「ハリケーンのように」持ち去ると報じている。即ち、ジーグフリートは、13年9月18日にはヴィンクラーと隅田丸で横浜から香港に行き、14年7月14日に日本に戻っている(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)。この第二回訪日も、中国・インド美術品の購入もを目的にしていたようだ。帰国翌年の1882年に、パリのプロヴァンス通り23番地に店(これが後に『アール・ヌーヴォー』となる)を出し、「日本の家具、調度品、掛軸等を展示・販売し始めた」(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」など)。
この頃には、ベアよりジーグフリート・ビングの方が日本では有名になっていたようだ。14年11月ベア「帰国時の英字新聞記事」に、ベアは「世界的な規模で商業を行なったビング一族のひとり」とある(宮島久雄「マルチン・ベアについて」『京都工芸繊維大学工芸学部研究報告』人文、35号、1986年)。後述理由で、この義兄ベアとともにジーグフリートはパリに戻ったようだ(池上忠治「サミュエル・ビング小伝」)。
17年(1883年)には、ジークフリートは、パリで龍池会(明治11年に佐野常民、河瀬秀治が日本古美術鑑賞などを目的に結成)の第1回美術展を開催し、翌年も続いて開き、日本の美術工芸に対するヨーロッパの関心を喚起した。18年、お雇い外国人技術者ネットーは日本を離れて、パリで東京時代の友人ベアとその義兄弟ビングに会い、「彼が収集していた多数の浮世絵を、銀行破産(17年に香港のオリエンタル・バンクが取付騒ぎをおこし、ニュー・オリエンタル・バンク・コーポレーションとして再出発)のためにパリでビングに売却」した(松尾展成「来日したザクセン関係者」岡山大学『経済学会雑誌』30−1、1998年)。そして、同年、ジーグフリートはD.デュビュッフェを日本に送り、横浜にビング商会支店を設置し、19年神戸にも支店を設置した(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)。
ジークフリートのパリ店には日本美術品がこれまで以上に集まり、「ゴソクール兄弟など多くのジャボニザソが集ま」り、「とくに画家ゴッホはここで浮世絵を研究し、ビングから借りた浮世絵でもって、パリで最初の浮世絵展をカフェーで開い」たりした(松尾展成「来日したザクセン関係者」(岡山大学『経済学会雑誌』30−1、1998年)。印象派の画家たちに浮世絵を中心とした日本画・版画が与えた影響は非常に大きかったが、彼等の「文化的な翻訳」作業に対して、ビングは貴重な素材を提供したということになる(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。
こうして、ジークフリートは、ベア帰国で従来の日本美術品輸入ルートを失った代わりに、ビング店の横浜支店、神戸支店を新設して日本美術品を再び仕入れ始めた。
ジークフリートの浮世絵評価 1880年代ジークフリートは「単なる画商ないしは骨董商以上の人間に成長」(池上忠治「サミュエル・ビング小伝」)したと評価されたりした。
明治21年(1888年)より24年(1891年)まで、ジークフリートはLe Japon artistique(サミュエル・ビング編、瀬木慎一ら訳『芸術の日本』美術公論社、昭和56年)という月刊誌を40冊発行し、展覧会も企画した。ジークフリートはその「序論」で、「長い間、我々は先人の遺産にのみ頼って」きたが、「ある島国の小民族が後生大事に守り続けて来た完結した美の体系」の刺激を受けて「新しいものを加える」とする。浮世絵がジーグフリートに衝撃だったことが再確認される。日本人は、「自然の大スペクタクルに感動する霊感に満ちた詩人」であり、「極微の世界を持った身近な神秘を発見する注意深い観察者」である。「彼らは自然は万物の根元たる要素を秘めていると信じている」。「蜘蛛の巣に幾何学を学び、雪の上の鳥のあし跡に装飾のモチーフを見、そよ風が水面に描く漣(さざなみ)に曲線模様の霊感を受ける」日本の芸術家の視点に注目すべきであるとする(『芸術の日本』14−6頁)。
また、ジークフリートは、「この浮世絵こそは、古くさい古典的規範定法を踏みにじって、絵画を民主化した流派であって、浮世絵画派は。民衆独特のものの見方、感じ方を反映する絵画形式を求め、民衆の新しい渇望に応ずるような芸術を万人の手に届くものとするための実際的手段として、木版画という技術を選んだのだ」とする( 堀じゅん子「ジャポニスムと浮世絵ー都市とメディアの時代を背景にJaponisme and Ukiyo-e:in 19th century,the Era ofCityand Media」(『紀要』札幌大谷大学、43号、2013年)。浮世絵の本髄が民衆の心意気にあることを看破していた。
さらに、ジークフリートは、「絵画の起源」では、島国が「物質的にも精神的にも、自らの存立条件をみずからの内に求めることを住民たちに強い、この日いづる国に、西欧文化とは長らく無縁な、自律的な文化の発展を促した」(『芸術の日本』168頁)と述べる。「日本の最初の絵画流派は仏教画」であり、「いかなる情念をも離れて、人間的煩悩とは無縁な超越者を描いた何点かは、おそらく比類ないものである」(『芸術の日本』176頁)とする。ビングは、「日本の版画」では、「版画のコレクションに含まれるのは絵画芸術の中のかなり限定された一特殊部門にすぎぬ」(『芸術の日本』347頁)と、浮世絵にとどまらず、日本絵画全体の特徴にまで視野を拡げていた。
やがて、ジークフリートは浮世絵に距離を取り始めた。26年、ジーグフリートは日本支店をデュビュッフェに譲渡し、日本美術品の輸入を途絶し、これでフランスに「新しい工芸」の創作を促進しようとした。彼は「日本人の創作に期待をしたのだが、結局それはうまくいかず、あらためて自国の工芸家の創作に期待」(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)しようとしたのである。28年(1895年)には、ビングは、プロヴァンス通りの「店を『アール・ヌーヴォー』(Maison
de l' Art Nouveau)と改め、主として、ヨーロッパの新しい装飾美術を扱う店に転じている」(瀬木慎一『日本美術の流出』123頁)。
33年(1900年)のパリ万博を契機に、彼はこの芸術運動を牽引し、販売網をニューヨークに拡大し、世界的に活躍する古美術商となった。しかし、晩年のジークフリートは、「彼の初期の蒐集がそれほど美術的な価値がないものであったことを知って嫌気がさし」、プロヴァンス通りの『アール・ヌーヴォー』店を閉めてサンジョルジュ通り店に移り、「やがてこの店も息子にまかせて、公的な活動からは引退」した。38年(1905年)9月に67歳で死去する(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。
ジーグフリート・ビングは、画商として浮世絵などの日本絵画を行詰ったフランス画壇に提供し、その刷新を図ろうとしたり、困窮したヴィンセント・ヴァン・ゴッホに浮世絵などを紹介し援助をしたが、結局、自らは刷新に従事するフランス人画家ではなかったということであろうか。
こうして幕末期に始まった日仏関係は、以後も「個性的」展開を遂げてゆく。
以後の「個性的」日仏関係 大正10年5月30日に皇太子裕仁の乗る香取がル・アーブル港(セーヌ川右岸の河口)に入ると、皇太子裕仁はフランス語で「フランス国民へのメッセージ」を発し、@「仏国の過去は、世界を通じて、其の人をして恍惚たらしむる程の名声に相当」し、Aフランス国民と日本国民は相互に「鼓舞」しあっていて、B皇太子自らは幼児から「仏人侍講」*から指導を受けていたので「詩歌、芸術、軍人及公民の徳行など」の「日仏両文化を隔離するが如くに見ゆる溝渠が、越え難きものでな」く、日仏両文化は多様に感応しあうと見、C仏国は「其の活動を純理的研究のみに限らず、現代生活のあらゆる部門に於て之を実施して成功して居る」のであり、故に皇太子裕仁は「仏蘭西の真の世間の諸相を見たいと焦(じ)れてお」り、D今回のフランス見学で「日仏両国の間に存する交友関係、即ち国民各自の為にも等しく有利なるべき此関係を、更に緊密ならしむるに資す」れば「予の・・至幸」であるとし、皇太子裕仁はフランスの個性に敏感に感応していたのである(『昭和天皇実録』第二、東京書籍(株)、平成28年、248−9頁)。
*『昭和天皇実録』編纂者はフランス人侍講の存在を否定しているが、明治38年2月13日(裕仁4歳の時)に父嘉仁皇太子(後の大正天皇)のフランス語教師「宮内省雇フランソワ・サラザン」に裕仁が謁見しており(『昭和天皇実録』第一、89頁)、以後も2月21日、3月14日、4月21日、10月3日に謁見している(『昭和天皇実録』第一)。裕仁は、これを言いたかったのであろう。なお、明治35年4月10日1歳の裕仁に「皇太子・同妃より、フランスより取り寄せられたる乳母車一輌を賜わ」(『昭和天皇実録』第一35頁)っている。この頃の乳児裕仁について、東京帝大教授ベルツは「元気で、本当に美しい赤ちゃんだ」(菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部下、岩波書店、昭和37年、44−5頁)とする。
では、フランス人は以後の日本にも魅力を覚えていたのであろうか。以後、日本では、江戸情緒を残しつつ、工業が発展し、都市に中産階級と下層階級、雑業層を生み出しつつも、相変わらず動態的な都市文化を生み出し続けていた。昭和11年、パリのラントラシヂアン(L'Intransigeant、1940年廃刊)紙女性特派員ガブリエル・ベルトランが、当時の東京に関して相変わらず個性的考察をしている。フランス人にとって、京都、奈良のみならず、拡張し発展する現代東京も好奇心をくすぐるのである。「まだうら若き、キビキビとして颯爽たる婦人記者」ベルトランは「パリの大新聞『ラントラシヂアン』の特派員」として、「帝国ホテルに滞在」しつつ「日本の印象記」を『読売新聞』に寄稿する。
まず、「幻想の都!大東京の果を探る」(昭和11年7月6日付『読売新聞』「大東京の印象記」上)では、彼女は、東京について、「全く驚異的な大都会です。東西古今の対立、群集、雑多な建築様式、それから其のアナクロニズム(時代錯誤)・・熱情的な東京、魅惑的な東京、霊感的な東京、そして開放的な東京!近代的な大東京が眼前に展開する。機械文明の恩恵を勇敢に誇るその『アップ・ツー・デート』(最新)な都会美は実に厳粛であるー新しきものに熱狂する、速力を崇拝する、正確さを追求する、そして美しい鋼鉄の野獣を愛撫する此の近代的な都会美!スリルのためのスルリ」とする。
そして、「高層建築の陰で、厳めしいビルデイングの裏で、ふと、幻想の国、調和の国、永遠の日本の姿である日本的な街並を発見したとき、何といふ訳もなく感極まって涙ぐましくなる!」。「ミカドの帝国の首府、東京ー人口6百万の東京・・だが6百万といふ数字はどんなにして正しく計算されるのか知ら?何処が東京の始まりで、何処が東京の終わりなのか知ら?東京は何処から始まって何処で終わるのかしら?」とする。
この感想記の続編「初めて観る都会の魂 果たして東京は円満?幸福?」(昭和11年7月7日付『読売新聞』「大東京の印象記」下)で、彼女は不思議で興味津々たる東京の魅力を掘り下げる。
「東京は人間をへとへとに疲れさせます。併し魅惑的です。一つも街の案内標がありません」。だから、宿舎の帝国ホテルは「私の生活の根拠であり、避難所です」とする。東京の夜について、「東京の夜は格別特色がある。電灯、ネオン・サインの利用、燦然としたイルミネーションの花の冠に東京の顔はくっきりと現はれる」、「東京の夜はすべての人間の生活によってつくり出される。すべての人間は夜の街頭に出る。波の遠鳴りのやうにざわめく群集、それは多彩なキモノの市場である。それはなにも見物しない可憐なエトランジェの記憶には未曾有の美しさ、素晴らしさである」。「或る一つのカフェーから日本的な音楽のメロディーが流れて来る。・・近くの小さな家からは、髷の油ぎった白い首の一人の日本娘がしなやかな指でかきならすサミセンのメロデーが聞こえてくる」と語る。日本、東京は個性的な、フランス人にとっては、幕末以来変わらぬ魅力を維持し、強めてさえいるのである。
しかし、「東京は『人間的』な都会である。喘ぎ、働き、苦しみ、且つ愛する人間の都会である。此の都会の魂を見ることの出来ないものは、東京は人工的な都会だと信ずるかもしれないが、それは大きな誤りである。どよめく群集は集団の意識に感激する。集団は集団と合流する。そして合一の意識に彼等は感激する。だが、それは、また個人主義の終局的勝利でもある」と、多様な人間がうごめく東京の動態的姿相を描写する。
フランス人は、こういう東京に魅力を覚えるのである。「私は未だ到着そうそうで結論を出すことはできません。―円満な状態?幸福な社会状態?何だかしらないが、私は生存の全一的満足とか動揺しながらも安定を保つ生存の幸福とか、とにかく幸福な新しい生き方といふものを日本の社会に見出したやうな気持ちがします」とし、「日本に着いて、私は何と美しいことよ!と叫びたくない。ただ、わたしは云ひたい。何と私は居心地がよいことよ!」と、複雑な心境を語る。
個性的なフランス人には、日本、東京は、変わらぬ精神的魅力をもっているのである。
三 マイケル・ベア
1 ベアの来日
ベアが、いつ頃にいかなる事情で来日したかについて把握する事は、ベアが武器商人ビジネスに至る事情、ベア一人娘照子の夫で日本地質学の先駆者原田豊吉、その原田豊吉の長男にして元老西園寺公望の秘書原田熊雄などの背景などを理解する上で重要な事である。さらには、既に幕末期からビング、ベアは個別か共同かは不明だがいずれにしても極東ビジネス戦略の萌芽を一定度抱きはじめていたということなども想定されたりして、ゴッホ研究者がビングの最初の訪中時期を幕末期としていることも説得力をもってくることになろう。単なる時期の詮索にとどまらないという事である。
@ 第一回訪日
ベルツ・花子の指摘 マイケル・ベアの最初の訪日時期については、従来慶応末・明治初め頃とされていたが、ダブ・ビング氏にも連絡したことだが、今回(2021年1月)ベア親友のエルヴィン・フォン・ベルツ東京帝大医科大学教授の妻花子の記述から実はもっと早かった事が初めて判明した。
即ち、ベルツ・花子は、「商人で、明治二、三年頃日本に居たベヤ氏と云ふ人が居り」、「この人は、商人とは申せ、大学を出た人で、日本に取りては隠れた恩人で、随分日本の為に蔭身になって奔走して呉れた人」で、「横浜に瑞西の時計商を営み、幕府時代の文久元年(1861)に此日本に来た人」とするのである。
なお「その頃に来た人にハアブラブランドといふ人」もいたとする。この「ハアブラブランド」とは、Favre-Brandtである。彼は、同じ時計商であり、後述の通り文久3年に来日し、日本人を妻にする。従って、ベアは文久元年に来日し、最低限文久3年まで滞日していたことになる。そして、渋沢栄一も「其頃のことをご存じ」とする(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』審美書院、昭和8年5月、249ー250頁)。
花子が、ベア来日時期を正確に文久元年(1861)と記憶していたことは、はつ(花子)が、元治元年(1864)11月18日に、荒井熊吉とそでの娘として誕生し(鈴木双川『ベルツ花子刀自回顧談』、鹿島卯女『ベルツ花』[豊川市医師会史編纂資料第四集『ベルツ花子関係資料』平成2年2月])、自分の誕生から3年前で、元号元治の前の元号文久の同じ元年に来日していたと記憶していたからであろう。ベアとベルツが親しくなるにつれ、ベルツ妻が自分と同じ日本人で、しかも荒井という同姓でもあり、娘照子をもうけていたことなどから、個人的関心も加わって、ベア第一回訪日時期を明確に覚えていたのであろう。
だから、花子は、ベア離日後のベアの商会の動向についても把握していた。つまり、花子は、「ベヤ氏は明治14、5年まで此地に居りましたが、此人が今の高田商会の前身、此人のお孫さんが原田豊吉氏、その又息子さんが原田熊雄氏で、此頃(その当時)は独逸人も数多く居りました」(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』250頁)と、ベア離日後の娘照子の嫁ぎ先の原田家の家族の展開を正確に把握していた。因みに、原田豊吉は、花子の夫と同じ勤め先東京帝国大学の教授である。
スイス時計商の市場調査 では、ベアは、なぜ文久元年(1861)に来日し、横浜で「瑞西の時計商」を経営していたのか。
これについては、まず、安政6年(1859)にルドルフ・リンダウが「スイスの時計組合(「ユニオン・オルロジェール」)から派遣されることとなったスイス通商調査派遣の隊長」として来日していることから考察してみよう。リンダウは、スイス人ではなく、プロイセン人であり、「1850年代の後半に、・・西部スイス『時計組合』アジア局主任」をし、同組合は1858年11月に「東アジアの市場調査を実施することを決め、調査者にアジア局主任のリンダウを指名」した。
リンダウは、プロイセンでは元ユダヤ教徒であり、アジア、日本のドイツ系の人脈(さらにこれがユダヤ系と重なる)をもっていたから『時計組合』アジア局主任になったのであろう。当時、横浜では、「ドイツ系商人」(スネル兄弟、シュルツ・エライス、A.シュミットグレッサー、ギルデマイスターら10人」)は、イギリス人、オランダ人と自称して、特に「イギリス領事の保護の下に、横浜で商売していた」が、神奈川奉行所がその国籍詐称を知り、「退去を迫」った程であった。こうした状況下で、万延元年(1860)7月末、「プロイセンのオイレンブルグ使節団が江戸に到着」し、幕閣と交渉して、12月には日普修好通商条約が締結される過程で、ドイツ系商人の代表はオイレンブルグに面会して「居留民の保護」を願い、11月12日にオイレンブルグは老中安藤対馬守信正とこれを審議し、「ただいま引払いとなっては難渋いたす」ので、人道的見地から「超法規的に居住」させ、「条約を結びしだい領事に支配させる」という所にもってゆく。「条約はプロイセン一国を対象とすること」で合意し、12月14日(洋暦1861年1月24日)締結以後は「ようやくドイツ系商人は、公然と横浜で活動する保証を得る」ことになった(高橋義夫『怪商スネル』大正出版、昭和58年、26ー7頁)。
リンダウは、安政6(1859年)年9月、「スイス連邦政府通商関税使節」として横浜に着いた。直ちに、「オランダ副領事ファン・ポルスブロックを通じて、神奈川奉行にスイス政府の信任状と書簡一通を差し出した」。この信任状では、「共和国瑞西通商収税の別局」がリンダウ博士に、@神奈川奉行と通商開始許可の条件を把握する事(「帝国日本と瑞西との間に、通商親睦の値合[交渉]を成し、並に両国の間に拘はる公務の関係を興さんが為の許容を、台下と議」す)、A神奈川奉行の方針を把握する事(「宰相台下の貴説及び希望を力めて速に吾別局に知らしめんこと」[『大日本古文書』幕末外国関係文書])を命じただけであり、通商条約締結の全権まで与えたわけではなかった。従って、リンダウの任務はあくまで時計市場調査であり、「日本側の通商に対する基本的方針を訊ね、かりに通商を具体化するとすると、どういう手続きを踏むできであるかを知り、それをスイスの当局に報告するにとどま」り、「通商条約締結の予備交渉を行なう権限」までは与えられていなかった(高橋義夫『怪商スネル』13−4頁)。しかし、徳川幕府は、「リンダウを通商条約を結びに渡航したスイス使節と思い込み」、他方、「リンダウもまたそのように振舞った」。リンダウは「横浜のバタッケ商会に仮寓して、江戸出府のための道中切手の交付を再三要求した」が、幕府は「その度に得意の『ぶらかし策』」をとった。後に、スイス関税当局は、リンダウが「幕府に対して全権使節のように応対したのは越権行為である」と批判した(高橋義夫『怪商スネル』15頁)。
このリンダウは、のちにフランスに渡って、元フランス外務大臣バルテルミー・サンティレール(880年9月ー1881年11月、第三共和制フェリー内閣)の秘書になっている(ルドルフ・リンダウ、森本英夫訳『スイス領事の見た幕末日本』新人物往来社、昭和61年、227頁)。
シュネル&ぺルゴ商会 このリンダウ使節団にスイス時計メーカー「ジラールペルゴ」(Dirard Perregaux、1856年にスイスのラ・ショー=ド=フォンに時計技師のジラールと時計商の娘マリー・ペルゴにより設立)が同行していた。彼は、「日本市場に可能性を見出し、日本での時計展開を狙う」時計が日本で販売できるかなどの市場調査を計画し、リンダウに同行したのである(Website"Ginza Rasin Official Site")。しかし、この時、フランソワ・ペルゴは入国すらできなかった(在日スイス商工会議所本会頭フィリップ・ニーゼル「日本・スイス国交150周年」)。
しかし、ぺルゴはあきらめなかった。ぺルゴは、今度は既に国交を開いていたフランスを利用し、フランス側の身分保証(具体的には横浜在留フランス領事の保証)で入国を試みたのである。この結果、「1860年にフランソワはフランスから身分を保証され、ついに横浜への来日に成功」した。「入国後のフランソワはインドネシア育ちの商人エドワルド・スネル(Edward Schnell)と手を組み、欧州からの輸入商社シュネル&ぺルゴを横浜に設立」(Website"Ginza Rasin Official Site"、「フランソワ・ぺルゴ」[Grand tour of Switzerland])する。
リンダウ再訪 一方、リンダウは、1861年日本を再訪した。同年11月17日、リンダウは、オランダ領事ポルスブロックに連れられ、神奈川奉行所に赴いた。リンダウは神奈川奉行竹本図書頭に、「スネルから幕府の文久遣欧使節に通訳などとして随行したいという書簡が来たこと」を伝え、その実現を要請する(高橋義夫『怪商スネル』大正出版、昭和58年、30−1頁)。スネル(兄のヘンリー・スネルか弟のエドワルド・スネルかは不明)は、幕府の滞欧仲介業務に進出し、当然行われるであろう武器輸出斡旋などを画策したのであろう。しかし、日本側の通訳陣は十分であり(定役通弁御用・福地源一郎、定役並通弁御用・立広作、同・太田源三郎、翻訳方御雇・松木弘安、同・箕作秋坪、同・福沢諭吉)、かつ秘密漏洩を懸念したのであろう、シュネルの申し出は受入れられなかった。
ベアは、このリンダウ再訪に随行していたと思われ、既に1861年1月24日、プロイセン全権のオイレンブルクと外国奉行の村垣範正らとの間で日普修交通商条約が締結されていたこともあり、国籍詐などの不法入国ではなく、合法的に入国したのであろう。そして、上記シュネル&ぺルゴ商会に入社し、この商社の直営時計店の経営に直接か間接に関わったのであろう。「横浜絵図面」(「フランソワ・ぺルゴ」引用[ベルンE6、volume36,file169、スイス連邦公文書館所蔵,])によると、ぺルゴは、136番、138番の二か所に事務所を構えており、いずれかが店舗であろう。
スイス時計店 その後、スイス商社は増えていった。
文久3年(1863年)4月27日には、アンベール団長のスイス使節団が来日し、これに花子がベア知人として指摘したジェームス・ファヴルブラントが随行していた。彼は、翌年8月27日付英字紙に広告を出し、84番に店を構えていた。そして、ファヴルブラントの時計店は、慶応3年(1867年)に175番に移転した(「横浜のスイス系商社」[横浜開港資料館『開港の広場』90号、2005年11月])。
その後、ファヴルブラントの時計店向かいの乙90番にはシーベル・ヴァーゼル商会(Siber & Varsel?)、斜め向かいの甲90番にシーベル・ブレンワルト商会(Siber & Brennwald[ Hermann Siberと Caspar Brennwald])という三スイス系商社が集中していた(「横浜のスイス系商社」[横浜開港資料館『開港の広場』90号、2005年11月])。
最後のシーベル・ブレンワルト商会は、「1863年にスイスの使節団の一員として来日したブレンワルトがロンドンに居たシーベルトと組んで、1865年にロンドンに設立したスイス系貿易商社で、1866年に横浜居留地に社屋を構え」(立花湖鳥「山下町居留地の面影を追いかけて」[2018年6月19日付関内新聞])たのであった。
スイス時計販売の困難 しかし、スイス系商社は時計販売にも従事したろうが、時計販売だけでは経営は困難で、当初は武器輸出や生糸貿易などに収益源を見いだしてゆく。
まず武器輸出からみれば、慶応2年に金沢藩はファヴルブランドから洋銀18万6946ドルで「銃器5700挺並付属品1321個買入」れたが、明治元年7月到着の銃器5400挺が「見本銃」と異なっていたことなどから破談とし、「破談金1割4分」(3万1311両)を払う事になった。明治4年10月時点で1万3020両が「滞高」となり、瑞西国領事が外務省に出訴したので、「大蔵省引継に相成」った(「旧藩外国逋債処分録」『明治前期財政経済史料集成』第9巻、改造社、昭和8年、347−8頁)。
ファヴルブランドはこの銃器を他藩に売却したようだ。例えば、明治元年8月以来松代藩の「銃器取扱」の根村熊五郎、岩村寅松はファブルブランドから武器を購入している。ただし、代金が「寅松掠奪致候哉」という事情で「中途」にて洋銀2万2050ドル支払いが「相滞」って、4年5月まで1万5550ドル弁済し、残金6500ドルが約束期限4年11月まで払い込まれなかったので、スイス国領事が神奈川県庁に出訴している。神奈川県は、@「瑞西銃360挺此代3600ドル、玉製造機械一式此代4百ドル」をファブルブランドに返却して、残金2500ドルのみ払うとしたが、Aファブルブランドは68挺(884ドル)以外は「錆損に付難請取」として、5616ドルの支払を要求した。結局、これは、かねて松代藩が「神奈川県庁へ預置候金札2510両(洋銀2495ドル)」と差引して、残金3120ドルは元藩主真田幸民が家禄の内から返済するとして落着した(「旧藩外国逋債処分録」『明治前期財政経済史料集成』第9巻、改造社、昭和8年、306−7頁)。
さらに、この「スイス時計で有名なファーブルブラントの商会」は、長岡藩の河井継之助にガトリング銃2門(2万4千両)、大砲、小銃数百挺を売却している(高橋義夫『怪商スネル』大正出版、昭和58年、97頁)。
次に生糸貿易を見れば、1867−68生糸年度から1884−85年度までの商社別生糸輸出高」によると、「トップがシーベル・ブレンワルト商会、2位がバヴィエル商会、3位がシーベル・ヴァーゼル商会」であって、「国籍別にはイギリスに次ぐ2位」(「バヴィエル商会」[『開港のひろば』横浜開港資料館、90号、2005年11月2日])であった。
シーベル商会(ブレンワルトかヴァ―ゼルかは不明)の場合、仙台藩産物会所にプロシァ商人テキストルと共同で外国船ハヤマロ号や機械などを売却し、同会所益金で返済を受けていた。つまり、シーベル商会債務洋銀4万7188ドルについては、@明治2年7月で「国産生糸並干鮑」などで返済する証書を差し入れ、3年3月まで1万7601ドル返済し、A残金2万9586ドルは返弁遅延し公訴となって、外務省厳達で1万ドル返済し、B残金1万9586ドルは「公債に引請償却」することになった(「旧藩外国逋債処分録」『明治前期財政経済史料集成』第9巻、改造社、昭和8年、259頁)。シーベル商会は生糸を貸付金返済として受け、輸出していたことがわかる。
このようにスイス時計商がまだ時計販売に専業化できなかったのは、、「当時の日本人にとってスイス時計はあまりにも価格が高く」、かつ「日本人は懐中時計に馴染みがない上に、日本と欧州では時間の計測方法すら違」っていたので、スイス時計販売は困難であったからである。その結果、シュネル&ぺルゴ商会では、設立後まもなく、エドワルドは「武器の方がビジネスになるから、時計輸入販売はやめよう」といい始め、フランソワと対立し、シュネル&ぺルゴは解散した(Website"Ginza Rasin Official Site")。この会社閉鎖時期については、開設後1年説(「日本に初めてスイス時計を正規輸入した男 フランソワ・ぺルゴ」[Website"Ginza Rasin Official Site"])、1863年7月説(ジラール・ペルゴ「フランソワ・ペルゴ ー 日本におけるスイス時計製造業のパイオニア」2009年[「フランソワ・ペルゴ」Grand Tour of Switzerland in Japan])などがある。
しかし、The Directory & chronicle for China, Japan, Corea,のYokohama Diectory(p.254,Ykohama,1865)によると、1865年にもSchnell & Perregauxが存在していて、Edwald Schellと F.Perregauxのもとに使用人H.Kremerがいたことが確認される。ベアはここには見られず、後述の通り、1865年には日本を離れてパリにいるのである。従って、ベアの日本滞在期間は3、4年となる。
因みに、エドワード・スネルは、オランダ総領事ポルスブロック斡旋で新潟港にオランダ・スイス・デンマーク副領事代理の肩書で赴任し、新潟でエドワルド・スネル商会を設立し、会津藩、長岡藩にライフル銃やガトリング砲などを売却している(高橋義夫 『怪商スネル』91−98頁)。明治4年6月、エドワルド・シュネルは政府に、「旧会津藩・旧米沢藩に売却した武器・弾薬」、「新潟において官軍に掠奪された商品と現金」の補償として12万ドルを求める訴訟を起こしているから(高橋義夫『怪商スネル』215ー8頁)、武器売却高は相当な額であった。紆余曲折を経て、政府は、「局外中立違反は不問に付」し、「4万ドルをメキシコ銀貨で支払う」と譲歩し、エドワルドはこれを受け入れた(高橋義夫『怪商スネル』225頁)。
こうした武器売却はエドワルド・スネルにとっては、「公務の一種」であり、「オランダ国内の武器庫に退蔵されていた古い武器庫弾薬類を売って、国家に貢献する義務」があった(高橋義夫 『怪商スネル』114−5頁)。そして、「エドワルドが横浜の商社を通じて大量の武器を集めることができた」のは、「彼個人の信用」ではなく、「副領事代理という地位の信用」であった(高橋義夫 『怪商スネル』116頁)。副領事代理という肩書は、武器の収集と販売の双方に信用を与えていた。
こうして、ファヴルブランドの訪日した文久3年(1863年)から数年間はシュネル&ぺルゴ商会が存在していて、ベアはファヴルブランドの時計店開設にも一定期間協力していたと推定される。このシュネル&ぺルゴ商会やファヴルブランドの時計店での経験などは、ベアにはエドワルドの主張するように当時の日本では武器輸入が着実に利益をあげるという教訓を与えたであろう。これまでベアの初訪日が明らかにされなかったのは、これが経営的にネガティヴで嫌な経験だった事なので、ベアがこれを親友のベルツにのみ吐露したからであろう。
A 第二回訪日
領事代理 離日したベアは、その後どういう行動を示したのであろうか。
これについては、ダヴ・ビング氏は、@「マイケル・ベアについて書かれた手紙を発見し」、「彼は1867年に中国に旅行し、ドイツのいくつかの企業のために1年間中国に滞在したことが示され」、A「ドイツ語で書かれた別の原文書簡」によると、「その後、彼は日本に旅行し」、「このために、マイケル・ベアが韓国経由で日本に来たことを示す」(2020年9月付筆者宛ダヴ・ビング氏メール)事などを指摘された。後述の通り、ダブ・ビング氏は、ドイツの各アーカイブで発見した通信文書から、マイケル・ベアは、1865年に離日してパリを訪問し、ついでロンドン、アメリカ、さらには中国を経て、1868年(明治元年)に日本に入国したことを解明された。
そして、明治維新以後のマイケル・ベアの動向について、公文書的にわかることは、1870年5月15日東京府裁判所鮫島権大参事宛「足下の従者ベール」書簡に、「予爰に告知するは、予此程孛漏生東京コンシュール・エージェント(consular agent、領事代理)の職務を蒙りしに依り、貴下に公然と面会せん事を請う」(『明治三年 往復書翰留』外務、30号文書)とあることから、まずは明治3年5月までにはベアは領事代理に任命されていたことが確認される。
結婚 勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上(文芸春秋、昭和56年、50−51頁)」に「(大正)九年一月十四日に、当時猛威をふるったスペイン風邪で母親照子を失った。五十一歳の若さだった」とある。大正9年(1920年)1月14日から51年前を算定すると、1868年(明治元年)1月15日から同年12月31日までに生まれていれば、享年51歳となる。従って、遺族原田家(勝田龍夫は原田熊雄の娘美智子の夫)の記述によるかぎり、照子は1868年生まれとなる。同上書13頁に、照子は「明治のはじめに来日して貿易商を営んだドイツ人ミカエル・ベア氏と日本女性荒井ろくとの間に生まれた」とあるから、ベアは明治元年には中国から戻ってきたことになる。因みに、ベア氏は、この「荒井ろく」の写真を引き継がれたビング・アーカイブから発見された。
この正確な月については、ダブ・ビング氏は、勲章を授与されたヴュルテンベルク王、バーデン大公(バーテン国勲三等之一等ツエリンゲルロエノウエン勲章)、ドイツ皇帝(独逸帝国勲四等クラウン勲章、バーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、プロイセン王国はドイツ帝国構成国になる)という三つの異なるドイツ公国(領邦国家)のアーカイブで発見した通信文書から、マイケル・ベアは、1865年に彼はパリを訪問し、ついでロンドン、アメリカを訪ね、1868年(明治元年)に日本に着いたという事実を発見された。その年に照子が生まれているので、明治元年2月にベアと荒井ろくが婚姻関係になれば、年末に照子が誕生することになる。ベアは荒井ろくとは第一回訪日時期に知り合っていたとすれば、一定の「交際機関」を経た結婚となろう。
武器輸出 こうして、ベアは明治元年戊辰戦争時に再来日し、この前後、武器・軍需品を新政府に納入する過程で、オランダ留学経験のある原田一道(明治2年に新政府の軍務官権判事)と再会したものと思われる。そして、ベアは、武器輸出(主業)と日本美術品・工芸品輸入(副業)に従事すべく明治2年に築地にハインリヒ・アーレンス(Hinrich Ahrens)とともにアーレンス商会を設立して、ここの取締役となった。このアーレンス商会は、アームストロング社(英国の最新大砲製造会社)、クルップ社(ドイツの兵器製造会社)と取引を主務とし、本店をロンドンとして、築地居留地開設(川崎晴朗『築地外国人居留地 ― 明治時代の東京にあった「外国」― 』 雄松堂、2002年)と共に成立された日本最初のドイツ商社で、築地居留地41番(23番)にあった。地番築地41番と23番は隣接地で、23番は当初東京のドイツ領事館としても機能して、ベアが居住していた。後述の通りベアはアーレンス商会のあった41番を購入することになる。
そして、上述の通り、明治3年5月にマイケル・ベアはプロイセン国家が主席の北ドイツ連邦( North German Confederation)の外交官に任命される。公文書中の正式職名は、世に言われる名誉領事honoraly consularではなく、領事代理コンシュール・エージェント(『明治三年 往復書翰留』外務、3号文書) consular agentである。領事には、本務領事(総領事、領事、副領事及び領事代理)、名誉領事(名誉総領事、名誉領事)があり、高田慎蔵の伝記作者が両者の違いがわからずに訳語を名誉領事としたが、領事代理の職権はそれよりは大きい。ベアは、上記諸勲章を受けるに値する勲功をもっていた事、武器販売に公務性を付与すれば武器売り込みでドイツ国益を実現しやすくなる事などが考慮されて、築地在留の領事代理任命となったのであろう。これは、知人のエドワルド・スネルの武器商人ビジネスモデル(副領事代理という肩書が武器の収集と販売の双方に信用を与えていた事)から学ぶところが少なくなかったであろう。
2 ベアと原田一道の接触
原田一道はベアが日本陸海軍の御用商人として活躍する機会を与えてくれた恩人である。それでは、この原田一道とベアとの初見時期はいつであろうか。幕末であったと推定する。
文久3年12月から元治元年7月にかけて徳川幕府は、横浜鎖港談判使節団をフランスに派遣し、原田一道は通訳・兵学調査などとしてこれに随行した。『原田熊雄関係文書』140号「履歴草案」でみると文久4年(1864年)3月仏蘭西国横浜鎖港の無意味・開国の重要性に気づき、交渉を途中で打ち切り、5月17日にフランス政府とパリ約定を結んだ。一道は、「仏蘭西都府に於て池田筑後守様、河津駿河守様より爲兵学伝習 阿蘭陀国へ滞在可致旨御申渡置候」処 慶応元(1865)年5月15日に「帰朝可致旨 因幡様へ被仰渡候間 其旨相心得早々帰航可致候」となり、7月9日 オランダ出国し、慶応2年正月13日に日本に帰国した。
この一道のフランス、オランダ滞在中に武器貿易に関心のあったベアが、語学力のある一道に接近したのであろう。二人は兵学の重要性、今後の兵制・兵学の動向などを話し合い、意気投合するところがあったのはないか。ベアの上記勲章も軍事に関わる勲功であろう。これは、維新期日本での両者の接触など諸状況から下した推定だが、ダヴ・ビング氏も同意見である。
なお、一道と入れ替わるように、1865年閏5月、外国奉行柴田剛中がフランス・イギリスに派遣され、7月にフランスに入った柴田らはフランスとの横須賀造船所建設と軍事教練に関する交渉を行っていた。対日武器貿易を考慮していたマイケル・ベアがこういう気運をも察知していたかもしれない。
3 アーレンス商会一部買収
上述の通り明治2年ハインリヒ・アーレンスがベアとともに築地にアーレンス商会を創設するが、弟のヘルマン・アーレンス(Herman
A. Ahrens)の孫森りた氏によると、ハインリヒが早世したので、弟ヘルマンが後を継いだという(「ドイツ商社の草分けアーレンス商会の末裔、森利子さんの体験した戦中の横浜・山手」『日瑞関係のページ』)。しかし、ダヴ・ビング氏のフランクフルトでのアーレンス文書調査によると、明治2年以降はハインリヒは離日してフランクフルトで販売拠点作りに傾注したのであって、ハインリヒはまだ生きている。
明治2年民部省お雇い外国人ガワー(鉱山技師、英国人)が佐渡に来た時、高田慎蔵は彼の通弁見習いとなる。慎蔵はこのガワーに外国商館見習いを相談して、アーレンス商会あてに紹介状を書いてもらっているから、明治2年にはアーレンス商会は設置されていた事はここからも確認される。因みに、慎蔵はその紹介状を持って上京し、ドイツのアーレンス商会幹部ベアを通して、明治3年12月にアーレンス商会に入社し、「語学の勉強、外国商館の業務を習得」し、ベアは慎蔵の熱意、能力を評価してゆく。
このアーレンス商会は、ダヴ・ビング氏の精力的な現地調査によって、「フランクフルトでハインリヒ・アーレンスの家族のアーカイブを見つけ」、明治4年(1871年)から6年(1873年)まで、アーレンスは「ドイツ、スイス、イギリス、スコットランドに行き、日本市場向けの技術や言語の本を買」ったことなどを解明された。氏は、幕末期以降、ベア、ビング、アーレンス三者が一定の「国際的分担」をして、アーレンス商会に結実したことなどを解明された。恐らくアーレンスもドイツ系ユダヤ人であったのであろう。ロスチャイルドが、兄弟で、フランクフルト、ロンドン、ウィ―ン、ヴェニスなどヨーロッパ金融都市に国際的金融網をつくったように、ビング義兄弟・アーレンスも東京、横浜、神戸、パリなどに国際的貿易網を構築しようとしたのではなかろうか。ただし、アーレンス商会は、ロスチャイルド集団に比べて、@資金的には比較にならぬほど脆弱であり、A血縁的紐帯も脆弱であり(ベアとビングは義兄弟にすぎず、アーレンスとの血縁関係は不明)、Bベアは軍需重視、アーレンスは民需(日本陶磁器などの輸出)重視と経営方針に統一がなかった(これが後にアーレンス商会からベア商会分離の原因となる)。実際、ベアは日本陸海軍の要望に応えてゆく事にまい進する。以下、この点を瞥見すると、下記の通りとなる。
4 日本海軍・陸軍の御用引受
クルップでの日本海軍生徒修業 まず、明治5年には、ベアは、クルップ社での日本海軍生徒の大砲・銃器製造の修業に懇切な斡旋をはかっている。つまり、「海軍生徒深柄彦五郎明治五年中大砲製造修業之為め独逸国へ差遣候処、エッセン府クルップ氏銃砲製造所の義は濫りに外国人へ伝習不致規則に候得共、ベール氏之斡旋に依り該製造所に於て修業せしむるを得」たのみならず、「続て坂元俊一、大河平才蔵之両生徒も亦同氏の提撕に因り該所に修業する之都合を得」(明治14年9月14日賞勲局総裁三条実美宛海軍卿川村純義「独逸国領事エムエムベール氏へ勲章御贈賜之儀申牒」2Aー10−公2925、国立公文書館)たのであった。ベアには、クルップ社に特例を認めさせる何らかの軍功があったのであろう。
因みに、坂元俊一、大河平才蔵のドイツ留学は明治11年の事である。明治11年3月19日付太政大臣三条実美宛陸軍大輔川村純義「当省生徒坂元俊一外二名欧行之義御届」(『公文録』明治11年、第94巻、明治11年1−3月、海軍省伺、33号文書)に、「海軍少尉坂元俊一依願免官之上大河平才蔵一同普国江、黒川勇熊仏国江留学申付度旨伺出候末、御許可相成候に付、更に夫々海軍生徒とし留学申付 去る12日右三名出発致候条、此段御届仕候也」とある。後に、坂元俊一は海軍造幣少監になり(『官報』第4050号、明治29年12月26日)、薩摩出身の大河平才蔵は明治24年12月海軍大技監になっている。
明治6年6月には、原田一道は岩倉使節団に随行して帰国し、7月13日陸軍大佐(『原田熊雄関係文書』140号「履歴草案」)に任じられた。この一道の帰国直後に、既にクルップ社での若手軍人の大砲製造修業斡旋に実績のあったベア=アーレンス商会は東京砲兵工廠建築の請け負いに成功し(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)、これを大いなる飛躍の契機とした。
戦艦へのクルップ大砲設置 明治7年2月16日には、ベアは、日本海軍のために英国で製造する戦艦三隻にドイツ・クルップ社製の大砲を設置する任務を帯びて、一時離日してフランスに戻った。この時、ベアは、原田一道の要請を受けて長男原田豊吉をドイツ学校に入校させるため同道した。
これに先立ち、原田一道はベアに、豊吉の将来を相談し、恐らくベアは親友ネットー(帝大理科大学採鉱冶金学教師)などの意見をも参考に、鉱山技師・学者にすることを勧め(ネットーの後任として東京帝大教授にになる可能性も示唆したかもしれない)、まずは「3年間普通基礎教育」を受けさせるために「ハンブルクに近いスターデの中学校」に入れ、次いで「ザクセンのフライベルク鉱山学校(「地質学のメッカ」)に入学」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」『地質ニュース』地質調査総合センター、109号、1963年)させる方針を立てた。そこで、未成年を単身留学させる方便として、1874年2月13日付東京府知事大久保一翁宛エム・エム・ベール書簡(『明治七年 書簡留』11号文書、東京都公文書館)に「原田一道倅原田豊吉十三年相成、右拙者召使として欧州に同伴仕度。本月十六日仏蘭西郵便蒸気船にて出帆仕候間、同人に御許可被下度此段奉願候」とあるように、渡欧するベア従者にすることにしている。私的関係において、ここまでベアと一道の関係は深まっていたのである。
フランスでは、ベアはジークフリートに再会して東京での事業を説明したりした後、以後2年間滞欧して、パリ、ロンドン、ドイツを往来し、注文を受けた三艦を同時に英国三造船所で建造し、各艦に独国大砲を設置してほしいという日本海軍の難しい要望の実現に従事する。これは、来日以来最大の注文であり、ベアが自ら訪欧してこの完遂を期したのである。つまり、「扶桑(二等戦艦、3717トン、サミューダ・ブラザーズ造船所)、金剛(装甲巡洋艦、三等艦、2250トン、英国ハル・アート社)、比叡(三等艦、2250トン、英ミルフォード・ヘブン社)三艦、英国に於て製造致候節、同氏(ベア)上野公使(上野景範駐英公使)へ随行エッセン府へ赴き該艦備付砲之製造方クルップ氏へ注文致し候処、英国に於ては クルップ氏之製造砲を装置せる軍艦製造致候義無之に付 製艦之実況悉了之上該砲製出不相成ては、万一不釣合等之為め甲板上之障碍を来さざるも保し難き等之廉」を指摘した。このように、本艦はイギリス製、備砲はクルップ製となったのは、英国海軍は1863年薩英戦争で故障の多かった後装式アームストロング砲から旧式の前装砲に戻していたので、日本海軍は前装砲は不便旧式としてこれを避け、故障少なく便利なクルップ製後装砲を望んだからである。そこで、ベアは「クルップ氏製造所之機械師をして態々英国造船家迄派遣せしむる」事にして、巧みに処理して、明治9年に、「艦体と該砲とに於ける、聊か不適合無之装備之完全を得」( 明治14年9月14日賞勲局総裁三条実美宛海軍卿川村純義「独逸国領事エムエムベール氏へ勲章御贈賜之儀申牒」)たのであった。
ベアの帰日 この困難な重要任務を終えて、9年中頃に、ベアは日本に戻ったようである。これは、ベルツが、9年6月26日の日記に、「これら少数のドイツ居留民(医科大学教授のシュルツ、理科大学教授のネットー、ナウマンら)の指導権を握っているのはバイル(ベール)氏で、外面的にも内面的にもまれに見る上品な人物ですが、『ユダヤ人』であるため、氏をけなす連中も少なくはありません。公式のドイツ代理公使(前任ブラント公使は清国大使に転出)はフォン・アイゼンデッヘル氏で、はなはだ好感的な印象を与える人です」(『ベルツの日記』第一部上、24頁)とあることから確認される。
10年2月2日にベアは領事代理に再任される。おりしも、この10年2月には、鹿児島で西南戦争がおこり、9月に鎮圧された。この戦争中にもアーレンス商会は武器を政府に売却して大きな利益をあげたろうが、戦後、アーレンス社の利益基盤を軍事に置くか否かで経営陣の間で議論が起こった。つまり、アーレンスは民間取引重点化を主張し、ベアは「これまで通り政府機関、特に陸海軍との取引」を主張したのであるが、両者の間に一致を見ることはなかったようだ。ここにベアは、築地アーレンス商会を買い取って、ベア商会(Firma Bail & Co.)を分社した。アーレンス商会は築地をベアに譲ると、横浜・神戸支店・ロンドン本店を拠点とした。「外国商館商標〔アーレンス商会〕」(横浜開港資料館蔵・ブルームコレクション、FA86-14-1)によると、社名は「H.Ahrens & Co NACHF.」で、江戸、横浜(二十九番)、兵庫(十番)に本支店があるとされている。因みに、NachfはNachfolger(successorts後継者)ということであり、江戸の地番は消され、築地アーレンス継続社は横浜・神戸支店になったということであろう。
クルップ社による三戦艦兵器伝習 そして、明治11年2月27日駐英公使上野景範から川村純義海軍卿に、金剛は1月30日、扶桑はそれから一週間中、比叡はその十日後に出帆する旨の通知があった(『太政類典』第三編第五十巻兵制、明治11−12年、2号文書)。
これに対応して、「クルップ氏製造所員エレート氏扶桑艦乗組 来朝之節も、ベール氏之周旋に依り諸種兵器類之質問及び現在兵器之調査等を右エレート氏に依頼するを得」た。このクルップ社社員派遣については、明治12年4月15日付海軍省届(『太政類典』第三篇第15巻、明治11ー12年、58号文書)から掘り下げて探ることができる。それによると、「扶桑艦備付クルップ砲使用方伝習の為の該艦本邦へ回漕の節、クルップ社の厚意を以て社員エレルト(エールトとも表現)派出相成、而後今日まで諸艦船に於て同砲使用上傳習質問を受け、同氏勤労不少候」とある。クルップ社は別に旅費・伝習料を要求したのではないが、彼の指導は献身的であったようで、「今般帰国に付、右慰労として洋銀三百弗並帰航二等船賃三百弗差支遣候」としたのである。
目黒火薬製造所建築 「同年(11年)海軍火薬製造所(目黒火薬製造所)建築之挙」あるに際し、「右の測量製図其他火薬製造教師之雇入及各種製造機械之可否得失之説明」し、「クルップ氏時々発明の砲種に関する秘密之報告」等についてベールは熱心に従事し、「実に海軍之裨益不少」ざるものがあった。この目黒火薬製造所は、13年6月に竣工し、7月にはベアに委嘱してあったドイツ人火薬製造教師カール・ヤウスが着任した(宮島久雄「マルチン・ベアについて」)。
クルップ社の大砲献上 日本海軍は、ベールの尽力でクルップ社からの献砲で破格の厚遇を受けた。つまり、クルップ社は、「是迄各国政府へ献砲致候儀は有之候得共、共同本国政府へ献納之外は何れも壱門つつ献砲致来り候由」なのに、「迅鯨艦備用之大砲弐門、クルップ氏より献納致候」事は、「全くベール氏之厚意に因」り「本邦に限り弐門献砲致」(明治14年9月14日賞勲局総裁三条実美宛海軍卿川村純義「独逸国領事エムエムベール氏へ勲章御贈賜之儀申牒」)したのであった。その時の明治11年6月20日付独逸人クルップ氏より大砲二門献納の儀伺」(『公文録』明治11年、第96巻、明治11年7−8月、海軍省伺、3号文書)によると、「横須賀造船所に於て新製の皇船迅鯨号に備付可相成適当の大砲二門独逸国エッセン府エフ・クルップ氏より献納致度旨、エッチ・アーレンス社より別紙の通願出候条、聞届可然哉」と伺い出たのである。なお、迅鯨は「恐らく輸入した商船を改造したもの」(大隈清治「日本海軍と鯨」『鯨信通信』370号、1987年)とされているが、横須賀造船所の新造船だったことが確認される。
御雇外国人へのドイツ人推薦 明治12年には、ベールはドイツ人音楽家を「海軍の楽長」に紹介したり、メッツゲルを「秋田県の鉱山・・技師」に推挙していた(菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部上、岩波書店、明治37年、54頁)。メッツゲルは、明治12年に官営阿仁銅山に雇用され、F・コワニー「阿仁銅山見込書」を否定し、独自の「阿仁鉱山報告書」を作成した(吉城文雄「近代技術導入と鉱山業の近代化」『国連大学 人間と社会の開発プログラム研究報告』1979年)。
小括 このように、ベアは、日本陸海軍とクルップの間にあって兵器、火薬製造などで日本陸海軍の要望を巧みに生かしていたのである。ベア商会には、巨額の手数料収入などがもたらされた。
以後、ベア商会は順調に経営を展開し、得意先も増えていった。明治13年正月早々ベア商会近所に火災が起こると、各所から火災見舞いを受けていた。そこで、ベア商会は13年1月6日読売新聞に「近火の節迅速御見舞被下難有奉存候 雑踏中御名前承り兼候向も可有之に付 新聞紙を以て奉謝候也 築地四十一番地 ベール」という近火見舞い御礼広告を出している。ここからは、ベアがアーレンス商会のあった築地地番41にいたことが確認される。また、13年1月6日読売新聞には「近火の節は迅速御見舞被下難有奉存候 雑踏中御名前承り兼候向も可有之に付 新聞紙を以て奉謝候也 本材木町三丁目二十八番地 ベール社々員 高田慎蔵」という広告もあり、本材木町(日本橋)にベア社が移転されていたことがわかる。宮島氏は、13年12月16日ベアは築地41番をアーレンスから購入したとされているが(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)、ベール商会のアーレンス商会築地本館買収はもっと早かったのみならず、築地が手狭になってか、ベア商会が本材木町に設置されていたのである。
なお、『ベルツの日記』によると、明治12年6月6日にベア、ベルツら在京ドイツ人が上野精養軒にハインリッヒ親王を招待した(『ベルツの日記』第一部上、59頁)。ベルツは、この日はじめて「友人バイル」と表現し、この頃にはかなり親しくなっていたようだ。7月6日には、ベルツはベア、ネット―、ナウマンらと江の島、七里浜を訪れ、七里浜が「海水浴場」に向いているとする(『ベルツの日記』第一部上、61−2頁)。
7月12日には、ベルツはベアらと、蜂須賀侯爵がグラント将軍歓迎のために催した隅田川花火大会の見学に赴いた(『ベルツの日記』第一部上、65頁)。7月27日、ベルツは「バイルの所で昼食中」に雷鳴・豪雨にあっている(『ベルツの日記』第一部上、67頁)。こうして、ベア、ベルツ、ネット―はいつしか「親友」になっていた(『ベルツの日記』第一部上、69頁)。
5 ベアの美術関与
ベアは、軍需と並行して、ビングの担当業務である美術にも関係していた。12年10月20日、ベアは中村屋に「最も優れた画家たち(その中には狂斎もいた)を招いてい」て、ベルツに「うそのような速さ」で「三名が三時間で、各一平方メートルの大いさの画を二十枚ばかり仕上げ」るのを目撃させた(『ベルツの日記』第一部上、71−2頁)。
13年3月20日の日曜日に、「バイルのもとで昼食」を食べてから、「目黒にあるバイルの地所」に赴き、管理人の急死という事態に直面した。落ち込んだ気持ちで「バイルとネットー(クールト・ネット―)は馬車で駿河台の家に帰」り、ベルツは「馬で、思いに沈みながら静かに帰途につき、ずっと後でようやく両君とおちあった」(『ベルツの日記』第一部上、84頁)。この「駿河台の家」が、ベア単独賃借か、ベア・ネット―共同賃借か不明だが、砲兵会議議長・陸軍大佐原田一道邸に近く東京砲兵工廠の整備に従事するベア、本郷の帝大で鉱山学を教えるネットー(明治6年秋田県小坂鉱山技師、明治10年帝大理科大学採鉱冶金学教師[松尾展成「来日したザクセン関係者」岡山大学『経済学会雑誌』30−1、1998年、佐々木享「渡辺渡の生涯と日本鉱業会」『日本鉱業会誌』90号、1974年7月])、彼ら双方にとって駿河台は好都合な場所であった。貸借関係がいずれであっても、ベアが、親友ネット―に先立ち帰国するに際して、ベアが高田慎蔵に資金提供してこの土地を照子養父の慎蔵名義で所有させ(これは後述の目黒家作の賃借からも傍証される)、ゆくゆくは娘照子の資産として残すように采配したと推定される。それは、その駿河台邸が原田男爵家の猿楽町本邸とは異なり、原田豊吉妻となる照子の裁量で采配(例えば、哲学担当東大教授ラファエル・フォン・ケーベル宿舎、清国留学生会館などに利用)されていたからである。有島暁子(熊雄妹の信子の嫁ぎ先有島生馬の娘)の証言(有島生馬『思い出の我』あとがき)によると、「鈴木町(駿河台の水道橋側)に原田の借家が二軒あった、一軒は洋館で支那の学生寮になっていたがその後ケーベル先生にお借し(ママ)していた」と記している。時期に混乱があるが、まずケーペル邸があり、後にその敷地の一部を清国留学生会館に貸付けていたのである。因みに、ケーペル邸跡地は日仏会館を経て現在池坊東京会館になっている。
6 直輸問題
明治13年頃から、明治政府の直輸出振興のための貿易制度の改正(「外国品購入の義は外商に頼らず成る丈内商に頼るべし」)によって、外商ベアは、従来のように事業ができなくなったとされている(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)。この点を以下、やや詳しく吟味してみよう。
開港当初は、日本の商人・両替商は外国貿易・外国為替のノウハウを持たなかったので、開港以来、日本貿易では外商による居留地貿易(産地商人→売込商→外国商人)が支配的となり、日本商人は居留地貿易によって不当に利潤を収奪されだした。そこで、こうした弊害を打開するために、明治初年から「丸屋商社」(明治2年、『明治文化全集』第九巻、489頁)、松尾儀助の起立工商会社(明治6年)、大倉喜八郎の大倉組{同年)、井上馨の先収会社(7年。9年三井組の国産方ト合併して三井物産曾社)、森村市左衛門の森村組(9年)、速水堅曹等の同伸社(13年)、早矢仕有的・朝吹英二らの日本貿易商会(同年)、横浜紅茶商会(14年)等が直輸会社として設立された(堀江保藏「明治前期の貿易政策」『經濟論叢』71−1、1953年)。
政府もこれを支援し、明治8年大久保利通は「海外直売の基業を開くの議」で「皇国開港以来外国貿易の形情を察するに、商権は概ね外商の手に有せられ、我商賈は到底彼の籠絡に罹るを免れず、既に従前横浜に於て我国民の内往々寒商より傑起し一時豪商の名を占有せしもの有りと雖も、随て起り随て倒れ遂に外商と拮抗して能く商権を維持する者あるを見ず、退て其然る所以の原因を尋ぬるに、一は国商の資金薄少なるを以て、持重耐久の力なきに由るものなり」と、資金薄弱な内商の脆弱さを指摘し、直輸出を進言し、進んで勤業寮において相当の人物を説諭し結社せしめ、これに直輸出を取扱わせる案を提唱した。明治8年11月、大久保利通内務卿と大隈重信大蔵卿は「政府直轄の輸出大綱を定め、勧業寮(9年5月勧農局、勧商局に分離)を中心とする生糸・茶の直輸出のための試売・斡旋にのり出す」とともに、米穀輸出を再開した(堀江保藏「明治前期の貿易政策」『經濟論叢』71−1、1953年)。
明治13年には、こうした「直輸出奨励政策に関連して・・貿易金融、特に直輸出業者に対して輸出資金を融通する」(堀江保藏「明治前期の貿易政策」『經濟論叢』71−1、1953年)ことになり、横浜正金銀行が設立された。なお、生糸・茶の外商輸出が顕著だったので、直貿易は直輸出と同義とみなされがちだが、それとは別に直輸入という問題もあったのである。
こうした直輸出入がとる形態として、@輸出、輸入の担当者に着目して、輸出を「内国商扱(直輸出)」、「外国商扱」及び「船用」に、又輸入を「内国商扱(直輸入)」、「外国商扱」及び「官省用」に分けているもの(『大日本貿易年表』)、A具体的に輸出入のどの段階までを本邦商人が扱うかによって、(a)内商が内外流通を担当、(b)内商は国内流通、外商は国外流通を担当、(c)外商が内外流通を担当などに分けているものがあった(立脇和夫「明治期におけるわが国商権回復過程の分析」など )。こうした形態によれば、「直輸入」会社のベア商会は、@類型では輸入の「外国商扱い」であり、A類型では(c)の外商ということになる。
この様に政府は直貿易を奨励したが、特定外商の貿易禁止はもとより、外商一般の貿易を禁止したのではない。実際、直輸出率は、「直輸政策が出た後で13−15%まで高まったが、その後は1892年まで横這いを続けてから再び上昇して1900年までに35%にな」り、直輸入率は、「直輸出率よりも遅れて1880年代初めになってから上昇し始めたが、その後は上り続けて1900年までに40%になり、1902年には約80−90%になった」( 山澤逸平「 商社活動と貿易拡大」一橋大学研究年報『経済学研究』22、1979年3月)にすぎない。13、14年に直貿易が徹底されて、直輸出率、直輸入率がいきなり100%になったのではないのである。しかし、ベア商会の営業基盤は武器等軍事品の輸入であり、政府から直接禁止されなくても、政府の直輸方針のもとに日本海軍省、陸軍省から今後は内商から西洋軍事品を購入する方針であると言われれば、従来通りの会社形態では営業できなくなる。ベア商会には、こうした軍部内意が伝えられたのであろうが、ベアは荒井ろく、娘照子との家庭を維持するためにも、日本での会社経営を断念することなく、有力内商と組んで、(b)の折衷型で新たな方向をめざすことにしたようだ。ベアは、来日中のビングの了解も得て、パートナーとすべき国内内商を選定して、新会社設立を検討した。
13年11月8日夜に、ベアがベルツを訪問して、「日本人ーといってもその指導階級だがーと国内の経済資源の開発、特に農業と商業の振興を目的とする会社の成立に関して折衝中である」と話した。ベアは軍事品の輸入商社ではなく、西洋機械輸入を伴う国内資源開発・農商振興会社の設立を計画していたのである。ベアは、今度は輸入対象が日本政府規制を受けにくい会社にしたのである。ベルツは、「バイルは金持ちだ。かれにとってはもっと金をもうけることなど、あまり問題でないことを日本人は知っている。だから、かれは落ちついて相手の申し出を待っている。国民経済の点では日本の発展に、バイルほど寄与し得る人物は他にないという一事だけは、疑う余地がない。交渉が好結果におわることを、日本の繁栄のために祈る」(『ベルツの日記』第一部上、91−2頁)と日記に記した。しかし、このベルツ指摘のように、ベアが採算を度外視したとすれば、国内開発会社の事業に政府がどの程度関与するかも未知数だったろうから、相手の同意を得ることは困難だったようだ。
7 帰国決意
ここで、ベアはビングとも相談して、遂に帰国を決意し、ベア商会手代高田慎蔵に外国武器・機械の輸入を担当させ、日本陸海軍の要望に沿うように配慮した。14年1月に高田慎蔵にベア商会を3万円3年賦で売却し、娘照子を慎蔵に委ねることを決意した。この3万円という売却代金はろく・照子「妻子」養育費も考慮した廉価なものであったろう。しかし、慎蔵には高額であったことはいうまでもなく、14年2月、高田慎蔵は、アーレンス(元雇主、明治18年死去)、ジェームズ・スコット(ベア商会員、明治21年死去)から各5千円を出資してもらって、銀座に高田慎蔵名義で高田商会を設立し、「欧米から各種機械、船舶、鉄砲、弾薬類を輸入して陸海軍などの諸官庁に納付」するとした。ベアは、陸海軍に日本人代表の輸入商社を準備して、従来の取引から手を引いたことになる。日本の陸海軍、政府にとっては、ベアは実に見事な身の引き方をしたというべきであろう。日本政府がベアに勲章をあたえたり、高官が送別会まで催した理由は、こうした日本への配慮などがあったからというべきであろう。これに関して、前述の通り、べルツの妻花子も、ベアの日本への献身的態度を見ていて、ベアについて、「この人は、商人とは申せ、大学を出た人で、日本に取りては隠れた恩人で、随分日本の為に蔭身になって奔走して呉れた人」と評価していたのである。
こうした閉社事務・妻子問題などで心労がたたったのか、ベアは病気になり、同14年4月に親友ベルツの助言で目黒田園地帯の高田慎蔵家作(武蔵国荏原郡上目黒村六十九番地に取建有之建家四十九坪、及付属家屋六ヶ所此合坪八十三坪)に同年10月30日まで療養することになるが、その時に交わした家作契約書によると、借主「独逸国人民 在日本東京築地居留地23番 エム・エム・マルテン・ベール」、貸主「東京々橋区本材木町三丁目二十八番地 東京府平民 高田慎蔵」(高田商会の開設場所の住所で)とある(『明治13,14年 公使館属員借地家簿』外務掛、4号文書[東京都公文書館]など)。これは、ベアは、前述の通り東京砲兵工廠に近い駿河台家作を借りて住んでいたように、使用人高田慎蔵に目黒火薬所の建設に便利な当地を購入させ、必要に応じて利用していたということを示唆する。なお、本材木町三丁目二十八番地とは、前述のとおりベア社が置かれていた場所であり、慎蔵名義の土地建物が慎蔵に譲渡されていた事が確認される。同時に、病気も癒えて、ベールは14年10月に同家を引き払い、11月に訪日中の義弟ビングと一緒にフランスのパリに戻った。
その後、ベア商会を引き継いだ高田商会が兵器輸入商会として発展し、大正期には日本有数の貿易会社に成長したように(ただし、大正14年に倒産するが。『高田商会開祖高田慎蔵翁』[国会図書館憲政資料室『原田熊雄関係文書』146号]、中川清「明治・大正期の代表的機械商社高田商会」上、下[『白鴎大学論集』9−2、10−1])、もしベア商会が存続していれば、照子に日本人婿を迎えて、日本有数の巨大商社に発展していたであろう。
終りに
最後に、こうした外商個別研究と明治維新大勢研究との連関について触れておこう。
明治維新を遂行した人物については、西郷隆盛、大久保利通、島津久光、高杉晋作、木戸孝允、山内容堂等が周知であり、彼らが尊攘派、討幕派、公儀政体派、守旧派となって、時期的に各藩多様に推移変化しつつ、最終的には幕府側と薩長との間の主導権争いに収斂してゆく。だが、いずれが主導権を発揮し覇権を掌握しても、強大な欧米列強と対抗するには、@300弱の諸藩の財政を統一して掌握し、土地税制改革で農業を富国強兵の財源として掌握し、A武士の一部を新設軍隊の指導者にしつつ残りを有償で授産解体し、徴兵軍隊に依拠した中央集権国家を樹立するしかなかったのである。緩慢にやるか、一気にやるかの違いがあるだけである。
つまり、幕府が主導権を掌握した場合、薩長に比べて、幕府主流は変革度・スピード感は弱く、欧米列強への対抗度も弱く、欧米「侵略」度は深まるリスクはあったが、実務的人材は揃っていて、徳川慶喜を上院議長などに据えて、新政府を実務的に支えつつ(実際、薩長藩閥政府の実務を支えたのも彼らの多くである)、幕藩体制を解体してゆくだろう。他方、薩長が主導権を握った場合(これが現実になる)、郷土の守旧的農村構造、家臣団、守旧的久光に規定されて府藩県三治一致による緩やかな廃藩置県推進論を説き、急激な封建家臣団解体に消極的であった薩摩閥と、農民的商品経済展開で既に崩れ始めていた封建的農業構造・封建的家臣団構造を背景に廃藩置県即時断行論、徴兵令断行を提唱する急進的長州閥とに分かれつつ、前者のうちの反政府集団が弾圧されつつ(西南戦争)前者が後者に飲み込まれてゆく形で、封建制を解体してゆくのである(詳細は、拙著『維新政権の秩禄処分』参照』)。因みに、後に旧朝敵徳川慶喜は薩長藩主同格に公爵(明治35年)になり、徳川宗家後継者徳川家達は貴族院議長(明治35−昭和8年)に就任して、形では徳川幕府側の権力構想トップの一端を「実現」している。
このように、登場人物には多様な差異があったが、そうした差異の如何に関わりなく、歴史の大勢はおおむね決まって行くということである。
こうした学問的な大勢観にたって、幕末維新期の外商など個別の動きを見てゆくということが重要なのである。厖大な労力と時間を要する学問的大勢史と相応の労力と時間を要する個別史、この両者の相関的視点を絶えず持ち続けることが肝要である。つまり、ここで見たビングを軸とする訪日外国人の人間模様は、こうした歴史大勢の流れを変えることはないが、幕末維新期の歴史の複層的実相の一半を解き明かしてくれるのである。
2020年5月24日
千田 稔
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