『昭和天皇実録』巻33ー巻38の歴史的意義 現在、古今東西(東西における原始古代から近現代まで)を一つの連結環と把握して、古代史の帰結たる近現代史の一環として、『昭和天皇実録』(明治34年から昭和64年、全15冊、60巻)をも精査していて、第9冊の巻33ー巻36(昭和20[巻33・巻34]・21年[巻35]・22年[巻36])、第10冊一部(23年[巻37]・24年[巻38])をほぼ精査完了した。この時期は、昭和天皇のみならず、天皇制史上でも、天皇制存続上での最大危機の一つにあたる重要時期であったことはいうまでもない。その意味では、これらの巻は最も重要な巻の一つだと言っても過言ではない。 日本国憲法第4条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とされ、 昭和23年前半頃から天皇の「政治的行動」が減少し変質し、国民行事などへの行幸・関与や社会事業の顕彰などが増加するかの如くでありつつも、やはり国民・政治家らの天皇に対する態度は従来通りの如くでもあり、天皇への知事・大臣らの奏上が復活している。こういう微妙な流れも、こうした『昭和天皇実録』のような天皇の日々の行動記録を記載した文書によって初めて具体的に解明されよう。まさに占領米軍は、一方で占領直後から天皇大権、その補佐機関(貴族院、枢密院など)をも活用しつつ、他方でその天皇大権を削減し、天皇の「政治的無力化」を図ったのである。そして、その効果が日本国憲法施行後の翌年頃から現れてきたかであるが、実体は天皇の権威は相変わらず国民の間に深く浸透していたということである。 マッカーサーらGHQ当局も当然日本国憲法下の天皇制ということを考慮して、天皇補佐機関の廃止、宮内省改革、神祇諸儀式改正などを推進させる過程で、天皇権威・衆望のみが突出する地方巡幸は金がかかり過ぎると批判して一時中止に追い込んではみたが、天皇とマッカーサーとの会見については中止することはなかった。もはや天皇はかつての大権者ではないから天皇・マッカーサー会見は中止すべきか否かが考慮されたに違いないが、最高司令官マッカーサーはまだまだ国民の間に権威と人気を保ち続ける天皇には利用価値ありとしてこの会見の継続を決めていたのであろう。今目前にあるのは、いわば自分たちが作り出した民主的な「天皇」であるが、その天皇は依然として国民や政治家の畏敬の対象であり、その天皇がマッカーサーと会いたいと言って来れば、拒む理由はなかったのであろう。 この『昭和天皇実録』巻33ー巻38の精査の結果、多くの重要な事実が判明した。全ては本論で生かされるが、そのいくつかをここに要約しておけば、下記のとおりである。 なお、天皇の行為の「敬語」については、資料をそのまま使用した場合もあれば(これはこれで資料に忠実という意味で学問的である)、学問的に客観的に扱った場合もある。 一 「国体」存亡の危機 @ 退位論 @ 退位論の推移 天皇の退位論は終戦直後から昭和24年初頭まで見られたが、時期によってそれぞれの退位論の動機などが異なってくる。 戦争責任 元老西園寺公望の元秘書原田熊雄は、終戦で退位は必至となり、責任をとって木戸が自殺すると思ってか、8月17日、原田熊雄は木戸幸一に、「陛下も老兄の輔弼無くしては到底御勇断も六ヶ敷い」から、「死する事は必ずしも忠節を尽す所以に非ず。何分充分御自重何処迄も生きて、至尊の為尽され度い」とした。そして、「殊に御退位後は更に老兄の如き仁を要する故、仮令官を辞しても、至尊の御話相手として新帝の影の力となり、又補導の宮等の御相談相手として影ながら尽さるる事が今日の我国に必要なのである」(『木戸幸一関係文書』東大出版会、1966年、635頁)とした。原田は、終戦で天皇の戦争責任は明白なので、退位は当然としていた。 しかし、9月18日、東久邇首相は、約百名の外国通信・新聞記者に向かって、「特に天皇に戦争責任はない」こと、「天皇は真珠湾攻撃を事前に御承知なかりしと思う」と表明している。『昭和天皇実録』は、原田熊雄意見は載せずに。この東久邇表明を記載している。 国体護持ー近衛の天皇退位論 当時、近衛は、憲法改正で国体を維持するには、天皇は退位するべきだと考えていた。彼は、「御上は大元帥陛下として、戦争に対する責任がある。敗戦の責任をおって御退位になるべきで、それでないと連合国の一部から戦犯指定の声も出ないとは限らぬ。天皇が在位のままで戦犯指定を受けては、国体護持とはいえぬ。いまのうちに退位されて京都にでも隠居なさった方がよい」(藤田尚徳『侍従長の回想』180頁)とした。20年10月11日、近衛はアメリカの放送局記者に、天皇退位問題に言及し、NBC放送がそれを流し、AP通信がそれを東京に打ち返した。 10月13日、日本の各新聞は近衛・佐々木の宮中主導の憲法草案作成を公にし、後述のような反応が起こった。14日新聞では、11日近衛・米国放送記者との会見内容を掲載した。近衛は「日本憲法は天皇からほとんどすべての大権を取り離す、そして立憲君主制を確立することを明らかにすようになるかもしれない」と語ると、米国記者は「憲法の改正で天皇が御退位なさらねばならぬことになるのではないか」と問うた。すると、近衛は、「陛下はこの問題について重大な御関心を払っておられる」(原秀成『日本国憲法制定の系譜―戦後日本で』日本評論社、平成18年、467頁)と語った。 外国側の退位論 この頃、そのAP通信社ドウイット・マッケンジーは、神道にも言及しつつ、天皇退位論を次のように取り上げていた。彼は、「従来日本の軍国主義どもが、よく民衆を抑えきったゆえんのものは、彼らが言わんと欲するところを、国民信仰の対象たる神道の言葉をもって語った」ので、米国政府は「日本における国教としての神道を廃止すべし」とした。米国政府は、これによって、「信教と政府統制の害を峻別し、日本人に対しその好むところのものを信ずる権限を与えんとする」ものだから、これはなんら「信仰の自由を阻害するものではない」とした。 軍国主義者、独占資本家は、元首であるとともに「神道の大宗」であるという天皇の二重性を利用してきたが、「神道が国家政治から分離され、いわゆる祭政一致が破れた時」、天皇は「祭政二つながらの大宗としての地位」を保てず、「退位は避けがたい」ものとなる。 もし天皇が「現世の元首たる地位を棄てる」としても、「二千年以上にわたる国民信仰の対象たる尊厳は投げ出すことは出来ないから」、結局、天皇は退位して、「今後は国民信仰の最高指導者として専念されるであろう」とされている。 しかし、連合国の中には、天皇を「戦争犯罪人として裁判すべしという要求が少なからずあ」り、この場合、「現人神としての天皇の地位」は崩れるであろう。こういう情勢で天皇が退位すれば、「天皇制は恐らく日本において、ついに終焉を告げ」、「神代より続いたとされる日本独特の君主制はここに消滅するであろう」(藤田尚徳『侍従長の回想』203頁)とした。 これによれば、天皇制を維持するには、@天皇は、祭政分離して神でなく、人間となること、A天皇の戦犯訴追は避けることとなろう。侍従長藤田は、この論文に天皇制維持に「有益な示唆」を見出している(藤田尚徳『侍従長の回想』204頁)。 公職追放と退位論 21年1月4日に公職追放令が出ると、天皇は藤田侍従長に、「これは私にも退位せよというナゾではないだろうか」と尋ねた。そして、天皇は「思いつめた表情」で、「マッカーサー元帥が、どう考えているか、幣原総理大臣に聞かせてみようか」と付け加えた。 藤田は緊張しつつ、「それはなさらぬ方がよろしいと存じます。もしも幣原首相が、マッカーサー元帥に陛下の御退位のことを聞けば、元帥の返事はイエスかノーか二つしかございません。御退位の可能性が二分の一はございます。マ元帥が意見を明らかにすれば、占領下においては引きこみがつきませぬ。また幣原首相としても、御退位の可能性が二分の一あることに対して乗出すことはできませぬ」と諭した。天皇は、「国のため」、「国民のため」に「戦争の責任をとって退位する覚悟」はできていた(藤田尚徳『侍従長の回想』216−7頁)。 2月4日には、マーク・ゲイン(米国ジャーナリスト)、小野(東京の記者)、鷲見(小作人。農民組合指導者)、平井(実業家)、林(知識人)らは湯田中温泉で天皇をも議論し、鷲見は退位・天皇制廃止、他の農民組合指導者も天皇制廃止を主張した。しかし、詔勅に強迫などはないのだが、小野は、「開戦の詔勅にしろ降伏の詔勅にしろ、天皇の行動は一切強迫されてやらされた」と反論した。他の小作人は、「強迫されてにしろそうでないにしろ、戦争の責任はある。廃止だ!」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』109頁)と叫んだ。退位論と廃止論は紙一重であり、退位の勢いで廃止まで突き進みかねなかったことが確認される。 2月28日夕刻、天皇は木下次長に、昨27日付『読売報知』掲載のAP通信社東京特派員ラッセル・ブラインズ記事(宮内省高官[後に東久邇宮稔彦王と判明]の談として、天皇御自身が退位の御意思を持たれていること、皇族の多くも退位に賛成しているが、側近等には賛否があること、もし天皇が退位される場合には宣仁親王[高松宮]が摂政を務められるであろう事などが報道)について、「御会話」になった(『昭和天皇実録』巻三十五、46頁、『側近日誌』160頁)。軍籍にあった皇族が公職追放になり、天皇自らが退位を懸念する状況下では、皇族は天皇退位は当然とみたのであろう。 3月5日、この2月27日付『読売報知』の退位報道中の宮内省高官が東久邇宮稔彦であることが判明し、宮相松平慶民は天皇に「詳細につき御聴取」するとした。翌6日、天皇は木下次長に、「自らの御退位につき、新聞報道に関連して現状ではその御意志のない旨」や、「この度の稔彦王の挙動を残念に思われる旨」(『昭和天皇実録』巻三十五、53頁)を語った。 3月19日、木下次長は天皇に、「天皇の御退位に関して、皇太后(沼津御用邸に滞在中)は然るべき時期をみて決行されるを可とする御意向と推察される旨」を言上した(『昭和天皇実録』巻三十五、59頁、『側近日誌』174頁)。 天皇にすれば、皇太后までからも退位を説かれて、相当に悩んだことであろう。問題はGHQの意向である。GHQも退位論ならば、天皇は直ちに退位に向けて動き出すだけである。思案した天皇は、『独白録』作成で御文庫に来ていた侍従次長木下に、GHQ意向を確かめて欲しいと頼んだのであろう。そこで、木下は、寺崎に「お上は(退位問題で)腐って居らるる」ので、「(GHQに)御退位の問題聞けぬか」と尋ねた。夜、寺崎はマッカーサーの軍事秘書官フェラーズに会って、天皇退位問題を尋ねた(『寺崎英成御用掛日記』208頁)。 3月22日、寺崎は木下にこの時のフェラーズとの問答の報告書(『側近日誌』222−4頁、『昭和天皇実録』巻三十五、61頁)を提出した。それによると、寺崎がフェラーズに、「『マックアーサー』元帥は陛下の御退位を希望さらるるや否や真意を承知いたしたし」と質問すると、フェラーズは、@マッカーサーは「天皇を戦犯」とすれば「日本は混乱に陥り、占領軍の数は多量に増強されるるを要すべしと華府に報告し」ていることから考えれば、A退位の場合も「誰が後継者となるかに付き種々困難なる問題を生ずべく、戦犯の場合と同じく日本は混乱に陥る」だろうから、マッカーサー元帥は「退位を希望せずと信ず」と答えた。そこで、寺崎は、新聞報道などの退位論を退け国民の迷いを払拭するために「『マ』元帥は御退位を希望せずとの意思表明は出来ざるや」と尋ねた。もちろん、フェラーズは「そは甚だ困難なるべし」とした。これが木下に報告され、天皇にも伝えられた。4月1日、吉田外相が寺崎に、「陛下が総理にいい人を紹介してくれて有難う」(『寺崎英成御用掛日記』212頁)といったのも、こういう寺崎の活躍の故であろう。 22年正月20日、天皇は御用掛寺崎英成に、正月4日に「公職追放令が改正され、追放範囲が拡大され」たことを踏まえ、「戦争犯罪や公職追放等につき種々お話があり、米国の恩赦の特徴を話題」とした(『昭和天皇実録』巻三十六、9頁)。天皇には、自らも関与した戦争に関わる「処罰」「制裁」行為には無関心ではいられなかったのである。 22年9月22日に中央公職者適否審査委員会が追加公職追放者を発表すると、9月26日、内廷庁舎御政務室で、天皇は宮内府御用掛寺崎英成から、「枢密院関係者が該当者になった事」を聞いて、「枢密院議長・同副議長を務めた鈴木貫太郎などが対象となることを憂慮」を表明した(『昭和天皇実録』巻三十六、160頁)。『寺崎英成御用日記』(334頁)によれば、天皇は、「鈴木のパシフィスト(平和主義)の部分がよくわかっていないのじゃないか」と批判していた。 新憲法と退位論 22年正月4日、天皇は宮相松平慶民と、「皇室令及び御退位問題な関し話題とされ」ている(『昭和天皇実録』巻三十六、3頁)。 22年5月新憲法施行に呼応して、尾崎咢堂は芦田均に、「陛下が憲法実施を機会に御退位になるのが本筋だと考へる。この点を陛下に奏上したいと考へているが、陛下は果たして戦争の道義的責任を感じているのであろうか」(『芦田均日記』第一巻、190頁)とした。芦田が「陛下が道義的責任について充分御考へになっていると信じます」と答えるまでもなく、天皇は終戦直後から痛切に感じていた。 極東国際軍事裁判所結審と退位論 戦犯裁判は、終始天皇の心配し懸念の対象であった。21年4月29日、聯合国最高司令部が東条英機ら28人の起訴状発表を受けて、宮内省御用掛沢田廉三は天皇に「インド国における戦争犯罪人弁護の経験を踏まえて、今般の戦争犯罪人の弁護方法につき言上」した。5月2日、沢田は天皇に、「さらに詳細を申し上げ」(『昭和天皇実録』巻三十五、88−9頁)ている。『側近日誌』(198頁)によると、天皇が「印度流にては、日本にては成功し難かるべし」と心配していたからであったようだ。それだけ、天皇は「かつての臣下」の裁判に気懸かりだったということである。 21年8月16日、極東国際軍事裁判は元満州国皇帝溥儀の尋問を開始した。22日、19日の溥儀証言に関連して、宮相松平慶民、次官加藤進、宗秩寮総裁松平康昌、侍従次長稲田周一は終戦連絡中央事務局政治部太田三郎と満州国建国神廟に着き話し合った。23日、宮相松平は天皇にこの話し合いを報告した。天皇は、溥儀の尋問自体が自分への尋問の可能性を想起させ、さらには尋問内容が天皇への尋問を必要とする懸念を抱いたであろう。24日にも、宮相股平は天皇に、「極東国際軍事裁判における元満州国皇帝溥儀の証言に関係し、同人に対する外務省の方針」を言上した(『昭和天皇実録』巻三十五、148頁)。8月27日には、天皇は宮相松平に、「極東国際軍事裁判における元満州国皇帝溥儀の証言についてお聞きにな」(『昭和天皇実録』巻三十五、149頁)った。 23年4月16日、極東国際軍事裁判は審理を終えて、半年の休廷に入った。その直後の5月頃から退位論が内外で沸きあがってきた。最高裁判所長官三淵忠彦と参議院議員佐々木惣一との対談内容が23年5月16日号『週間朝日』に掲載され、これが誤って外国新聞に紹介されたことが発端であった。この誤報を受けて、外国各紙誌は、「極東国際軍事裁判の判決に合わせて、あるいは来る8月15日を期して、天皇の退位が行われるであろう」と報じたのであった(『昭和天皇実録』巻三十七、62頁)。 しかし、天皇は退位は考えていなかった。23年6月22日、衆議院予算委員会で、芦田首相は、「日本国憲法では天皇の存在を認めており、天皇の退位は考えたことはない」(『昭和天皇実録』巻三十七、63頁)とした。23年7月9日午前、内廷庁舎御政務室で、天皇は参議院議長松平恒雄と一時間会見した。松平は天皇から、「御退位問題につき確認を受けられ」、「天皇として留まり責任を取られる旨の御意向を示され」た(『昭和天皇実録』巻三十七、62頁)。 だが、外国側が退位問題を持ち出してくると、天皇は慎重になった。23年8月24日、表拝謁の間で、天皇は、ジョン・C・ウォーターズ(オーストラリア国のメルボルン・サン・ニューズ・ピクトーリアル主筆)を引見して、「退位問題」、「皇室におけるキリスト教帰依」につての質問を受けた。天皇は、後者には「外来宗教については敬意を払っているが、自分は自分自身の宗教を体していった方が良い」と明確に答えたが、前者についてはまだ公表する態度が決まっていなかったのか、「回答をお控えにな」った(『昭和天皇実録』巻三十七、76頁)。 23年9月22日、宮内府長官田島道治は芦田首相を訪ねると、芦田から「近く自らが連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと天皇の御退位問題に関して協議するため、天皇は退位されないという方向で検討を行うように依頼」した。9月27日、田島は、侍従長三谷隆信、式部頭松平康昌、元内大臣牧野伸顕らと協議して、外務大臣官邸に芦田首相を訪問して、「マッカーサーとの応対振り、及び公表の可否・具体的方法」などを打ち合わせした(『昭和天皇実録』巻三十七、87頁)。しかし、芦田・マッカーサー協議が実現する前、10月7日、芦田内閣は総辞職し、10月15日吉田内閣が組閣された。 23年10月26日、GHQ政治顧問代理シーボルトはベニングホフ米国務省極東局次長に、@退位問題は「国際軍事裁判所の判決が発表される頃」におこる事、A天皇は芦田に「軍事裁判所の判決を知り得るまでは東京を離れるつもりはない」としたこと、B芦田はシーボルトに、「判決が発表される時期に総理大臣でなくて大変幸いであ」り、天皇退位の場合の摂政には「国民の信頼を得ていない」秩父宮・高松宮は不適であるとしたことを報告した(『資料日本占領1 天皇制』[徳川義寛『侍従長の遺言』165頁])。 10月28日、シーボルトはマッカーサーに天皇退位問題を話すと、マッカーサーは「天皇退位または自決は『政治的に完全な破綻状態』を招来する」(フィン『マッカーサーと吉田茂』292頁)と、深刻な懸念を表明した。この日、吉田茂首相もマッカーサーに会い、マッカーサーから天皇は退位すべきでないとされた。 10月29日、シーボルトはベニングホフに、@判決が天皇に与える影響について、マッカーサーは、天皇退位・天皇自殺の可能性があるが、現実には「天皇が退位を考えているという徴候はいささかもな」く、新聞・雑誌の報道は「作り話」とし、Aマッカーサーは「天皇の退位は政治的に不幸であり、したがって、それを防ぐためにできるかぎりのこと」をするとした(『資料日本占領1 天皇制』[徳川義寛『侍従長の遺言』166頁])。この10月29日、表拝謁の間で、天皇は吉田首相から「文化勲章受章者についての内奏」を受け、ついで、「御退位等は決してされるべきではないとのマッカーサーの意見」(昨日吉田は彼に会見)を言上した(『昭和天皇実録』巻三十七、103頁)。 11月1日、読売新聞は、「吉田首相がたびたび天皇と秩父宮を訪問したのは、退位と直接関係がある」(『寺崎英成御用日記』377頁の注)と報じた。23年11月11日午前、表御座所で、天皇は宮内府長官田島道治から、「翌日の極東国際軍事裁判判決後に発表予定の内閣総理大臣の謹話案を御聴取」した。この謹話案は、「宮内府長官田島道治・侍従長三谷隆信以下七名が協議したもの」であり、そこでは「天皇が戦争によって生じた不幸を深く御軫念になり、世界の平和と国民の幸福を願う旨の御心事が述べられ」ていた(『昭和天皇実録』巻三十七、109頁)。 11月11日午前、表御座所で、天皇は宮内府長官田島道治から、「翌日の極東国際軍事裁判判決後に発表予定の内閣総理大臣の謹話案を御聴取」した。この謹話案は、「宮内府長官田島道治・侍従長三谷隆信以下七名が協議したもの」であり、そこでは「天皇が戦争によって生じた不幸を深く御軫念になり、世界の平和と国民の幸福を願う旨の御心事が述べられ」ていた(『昭和天皇実録』巻三十七、109頁)。これは退位を否定するものであった。 11月12日、裁判の開廷前に、田島は首相兼外相吉田茂を訪ねて、その謹話案を手渡した。しかし、以後の推移の中で、この謹話案を発表する必要はないとされた(『昭和天皇実録』巻三十七、109頁。恐らく、この日に極東国際軍事裁判の裁判長ウッブが次のような発言をしていて、余計な発表をして天皇の戦争責任問題に火を注ぎかねなかったからであろう。 つまり、11月12日、ウェッブ裁判長は、A級戦犯25人の判決(絞首刑7人、終身禁固刑16人)を公表し、検察は「戦争を遂行するに当たって・・顕著な役割」を演じた天皇を起訴しないとした。そこには、マッカーサーと君主制英国の強い政治指導があったかであった。これに不満を抱いて、ウェッブは、天皇は開戦を押し止めることができたこと(「戦争開始には天皇の権威が必要であり、もし天皇が戦争を欲しなかったのであれば、天皇は当然その権威を保留すべきであった」)、天皇は単なる操り人形ではなかったこと(「天皇が常に周囲の進言に基づいて行動しなければならなかったという意見は、証拠に反するが、またかりにそうだとしても天皇の責任を軽減するものではない」)(23年11月3日付朝日新聞[荒敬『日本占領史研究序説』225頁])などを指摘していた。なお、これに対して後日、マッカーサーは、ウェッブは「オーストラリアの国民を意識して」「安っぽい芝居」(フィン『マッカーサーと吉田茂』282頁)をしたと批判したが、ウェッブは、近代天皇の持つ専制君主と立憲君主という「矛盾」した二側面を的確に指摘したに過ぎなかった。 マッカーサーの退位否定 23年11月初旬、マッカーサーは上記シーボルト報告に不安を抱き、吉田に会って、「東京裁判の決定がどうであろうと、天皇が退位する必要はない」(フィン『マッカーサーと吉田茂』292頁)と申しれていたようだ。 11月12日、天皇は田島長官・吉田首相を通じてマッカーサーに、「一層の決意をもって、万難を排し、日本の国家再建を速やかならしめるため、国民と力を合わせ、最善を尽くす」として、退位を否定するメッセージを届けた(マッカーサー記念館所蔵資料[徳川義寛『侍従長の遺言』167頁])。11月13日、表御座所で、天皇は宮内府長官田島道治・侍従長三谷隆信から、「極東国際軍事裁判の判決について天機奉伺をお受けにな」った。午後には、天皇は皇太后御使の皇太后大夫坊城俊良から、「御見舞いをお受けにな」っているから(『昭和天皇実録』巻三十七、111頁)、かつての臣下を絞首刑に処されることへの天皇の心情に御見舞いを申し上げたのであろう。 11月24日、帰国を前にキーナンは皇居に招かれ、天皇はキーナンに、「平和を強く希望し、とくに日本と米国が世界平和のために協力することを要望する」(23年11月25日付朝日新聞[荒敬『日本占領史研究序説』226頁])とした。さらに、トルーマン大統領への伝言として、「占領軍の寛大な態度と日本人民に対する寛容な待遇につき感謝の意を表され、さらに日本においても民主主義が育成されることを希望する旨を仰せにな」った(『昭和天皇実録』巻三十七、113頁)。世界平和のために日米協力したいと言っても、占領米軍が進駐している状況下では、対米従属的にならざるをえないであろう。今後の日米関係発展のために、占領米軍に謝意を表するのではなく、迅速に主権侵害的な米軍占領軍を引き上げてほしいと要望するべきであった。 森田草平が『文藝春秋』23年11月号に「天皇退位説に因んで」を発表して、「古来天皇家といふものは他から利用される以外に、何の意味も取柄もな」く、「それ自身の意志を持たないで、ただ他から利用されるに止まる天皇制といふものは、人民の側から見て、一体これを何う考へたらよかろうか」と、天皇が権力に利用される側面を批判した。そして、GHQが撤退した場合、再び天皇が政治利用される恐れがあるとしたが(徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』228頁)、現在は天皇がGHQに政治利用されていることをドロップした。 これは駐日カナダ代表のE.H.ノーマンに翻訳され、連合国間で回覧された。ノーマンは、現在の天皇は「無能、神経質かつ内気」であり、「無節操な政治家、官僚、廷臣に取り込まれ」る恐れがあるというコメントを付していた。これに対して、英国外務省は、ノーマンは明治天皇の役割を軽視し、昭和天皇の2.26事件時の対応を無視していると批判した(1949年1月25日付英国外務省報告[徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』229−230頁])。 24年1月8日、ノーマンはマッカーサーと会見すると、マッカーサーは、天皇裕仁が彼に「自分はどうすればよいかと尋ね、連合国が望むなら退位してもよい。退位を望まないなら、最後まで留まる」と示唆したことを告げられた。はたして、再び天皇は退位を考えていたことが確認される。しかし、マッカーサーは、「退位問題は人為的なもので、その必要がない」とした。マッカーサーはノーマンに、天皇との会談内容を伝えた後に、マッカーサーは「天皇は高松宮よりはるかに優れた統治者」であり、「日本人にはシンボルとしての天皇が必要」であり、「天皇制を廃止すれば、日本人の誇りに大きな打撃を与える」などと天皇制の意義などを弁明した(1949年1月13日付英国外務省報告[徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』231−232頁])。この時には占領軍の間では、後継天皇に高松宮が検討されていたことが確認される。そして、極東軍事裁判の終了で、天皇退位論は影を薄めてゆくことになる。 A 三笠宮優遇 、皇室典範第五章の摂政規定で、天皇が未成年の時、「久しきに亘るの故障」ある時には、「皇太子皇太孫在ラサルカ又ハ未タ成年ニ達セサルトキハ」、「親王及王」、「皇后」、「皇太后」、「太皇太后」、「内親王及女王」の順で摂政になるとある。天皇は、退位した場合、だれを皇太子の摂政にするかについても考慮していたようだ。当時の弟(親王)は、秩父宮、高松宮、三笠宮の三人であったが、『昭和天皇実録』によって、この時期、天皇が三笠宮と最も頻繁に接触していたことが判明した。 三笠宮の動向 戦争直後の三笠宮の動向については、『昭和天皇実録』では詳しく書かれていない。そこで、他の資料で、戦争直後の三笠宮の動向を浮かび上がらせてみよう。 終戦直後の三笠宮は、「天皇退位の問題や戦争責任の論議」などもあり、「皇族という身分に止まるかどうか」、「どちらが社会のためになるのだろうか」などを「幾夜も、幾月も熟考」しているところであった(三笠宮崇仁「わが思い出の記」[三笠宮『古代オリエント史と私』学生社、昭和59年、31頁])。21年2月27日枢密院本会議での公職追放令討議で、三笠宮が立ち上がって、「現在天皇の問題について、又皇族の問題について、種々の論議が行われている。今にして政府が断然たる処置を執られなければ悔いを後に残す虞ありと思ふ。旧来の考へに支配されて不徹底な措置をとる事は極めて不幸である」(『芦田均日記』第一巻、82頁)と発言していた。21年6月8日枢密院本会議で、三笠宮が「意見を述べ」たが、「採用せられざるや、表決には加はらず、退場」した。入江は「心あるもの」で憲法改正で「満足している」者は一人といないとしつつ、「かかる態度」で天皇を悩ますことは「申し訳ない」と、三笠宮を批判している(『入江相政日記』第二巻、64頁)。枢密院では、6月8日に可決した。 21年5月8日、天皇は宮相松平慶民に、「この日の『朝日新聞』朝刊の記事『皇族の人間的解放』の中で、新皇室典範の制定に当たり、崇仁親王が気楽になる旨の気持ちを吐露する内容が掲載され、併せて、盛厚王(天皇長女成子の夫)及び邦寿王(賀陽宮恒憲王の第1王子で京都大学経済学部に入学)が学級の途に進んでいる近況も報道され」、天皇は「三方の輔導に関してお話し」になった(『昭和天皇実録』巻三十五、93頁)。 22年1月29日の大宮・天皇・皇后と皇族との会食、同日5時宮内大臣官邸で宮内省幹部らは三笠宮をもてなすための夕食会を催した。夕食会では、「三笠宮様に一同で苦言を呈する」予定でもあったようだが、「宮内省とお親しく願へば御ひがみも無くなるだろう」という大臣方針に沿って、歌を歌うは、「大変にぎやかな」ものとなった(『入江相政日記』第二巻、120頁)。さらに、同年2月10日は、入江侍従は三笠宮夫妻を自宅に招いて、侍従長、宮内次官、3侍従らともてなしている(『入江相政日記』第二巻、122頁)。宮内省は、三笠宮「懐柔」に相当の努力をしていたことがわかる。 この頃、三笠宮もようやく学問の道に進むことを決めていたようだ。皇族も三家となれば、宮家にも宮家としての公務が生じてこようが、三笠宮は、税金で「無為徒食するのは申しわけない」とし、「暗中模索の状態で、各方面から誘いのあるのにしたがって、いろいろの場所に顔を出して」いるうちに、「学問の道にすすむ決心を固め」たのであった。三笠宮は、「過去のあらゆるものに失望し、信頼をなくしていた」ので、「何から何まですべてを新しいもののなかから探しもとめ」(三笠宮崇仁「わが思い出の記」[三笠宮前掲書、31―2頁])ようとし、戦時中の精神体験(中国奥地で一生を捧げるキリスト教宣教師、軍紀遵守する八路軍兵士)から、宗教に興味をもっていたのである。そこで、22年4月、三笠宮はヨーロッパ宗教改革を研究するために、東京大学文学部西洋史学科の研究生となった。彼は、「旧約原典購読」演習に出たり、英語家庭教師E.H.ノーマン(カナダ外務省からGHQに出向し、後に駐日カナダ代表部主席になる)からC.H.Cornill,“History of the People of Israel”を教えられた(三笠宮崇仁『古代オリエントと私』学生社、昭和59年、40−47頁)。 天皇の三笠宮優遇 この頃、世間では、天皇退位問題に絡んで、摂政候補として、皇后や高松宮などがのぼっていたが、天皇は退位後の摂政として、誰を考えていたであろうか。これに関して、『昭和天皇実録』は大きな示唆を与えてくれる。 天皇の弟の秩父宮(陸軍少将)、高松宮(海軍大佐)、三笠宮(陸軍少佐)は、21年正月17日新聞で「公職追放対象の皇族」と報道された(『昭和天皇実録』巻三十五、7頁)。実際には、元皇族11宮家のみが22年10月14日に公職追放者に指定されたが、それまではこれは三直宮の摂政就任適否に一定の影響を与えたであろう。 さらに、各直宮ごとに見てみよう。戦前親「陸軍」的行動をとっていた秩父宮雍仁親王は肺結核で療養中であったから、、まず健康面で摂政職務を遂行できなかった。次に、高松宮は開戦論者であり、後に和平派と東条内閣打倒を画策したが、戦争直後は大安組長の右翼「ゴロツキ」で、GHQ軍諜報部に逮捕された安藤明などと付き合っていた(マーク・ゲイン『ニッポン日記』234頁、236頁)。安藤は、国体護持のために「大安クラブ」を作り、GHQ要人を接待して情報を収集していたのである(『側近日誌』94頁の脚注)。しかも、天皇は高松宮とは口論したりしたこともあったし、高松宮が次期天皇に擁立される動きもあった(「皇族輔佐の危険性と限界」[拙稿「天皇の行動原理」])。また、21年5月30日、天皇と高松宮・三笠宮夫妻ら皇族との歓談で、高松宮は「新憲法草案は主権在民がはっきりしすぎており賛成しかねるため、来る六月八日開催の帝国憲法改正についての枢密院会議には出席しない」と発言したりしていた(『昭和天皇実録』巻三十五、105頁)。なお、この枢密院会議には、上述の通り、三笠宮は出席したが、帝国憲法改正に訂正意見を表明していた。 最後に、三笠宮には、秩父宮のような健康問題、高松宮のような政治的問題はなかった。この点、21年3月6日、天皇は木下に、「退位した方が自分は楽になるであろう。今日の様の苦境を味わわぬですむであろうが、秩父宮は病気であり、高松宮は開戦論者でかつ当時軍の中枢部に居た関係上摂政には不向き。三笠宮は若くて経験に乏しい」(『側近日誌』165頁)とした。しかし、これは、秩父宮、高松宮は摂政にはまずなれないが、三笠宮は教育を施し経験を積めば摂政になれる可能性が高いということを示唆しているのである。 こういうこともあってか、『昭和天皇実録』によると、この時期、天皇は退位に備えて、弟宮の中では三笠宮と最も頻繁に接触していたのである。 22年正月23日、夕食後、天皇・皇后は三笠宮・同妃百合子と「ニュース映画を御覧の上、種々御歓談」した(『昭和天皇実録』巻三十六、10頁)。この時に、天皇は三笠宮に葉山から東京への移転を示唆したのではなかろうか。4月5日、三笠宮は葉山から品川区大崎長者丸に転居した。転居に際して、天皇・皇后は、三笠宮に三種交魚(三種類の鮮魚をまぜた祝儀)代料・油絵(諏訪の春図、永池秀太筆)などを贈った(『昭和天皇実録』巻三十六、224頁)。7月28日夕食後にも、御文庫で、天皇・皇后は、高松宮夫婦・三笠宮夫婦と共に、6月関西巡幸映画を見た(『昭和天皇実録』巻三十六、97頁)。 9月25日には、天皇は、三笠宮を連れて、水害地視察として、東京都下に行幸した(『昭和天皇実録』巻三十六、159頁)。10月3日、天皇は、内廷庁舎御政務室で、岩手・宮城両県の水害地視察より帰京した三笠宮と対面した(『昭和天皇実録』巻三十六、165頁)。10月6日、天皇は、水害地視察から帰京した三笠宮を慰労するために、三笠宮夫婦を招いて、御文庫で夕餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十六、167頁)。 11月15日午後、表拝謁の間で、天皇は三笠宮、高松宮と対面し、16日に殿邸資金補助金を下賜した。病気療養中の秩父宮には15日に支給した(『昭和天皇実録』巻三十六、221頁)。11月20日午後1時、天皇・皇后は、品川区大崎長者丸の三笠宮邸に行幸し、三笠宮夫婦・ィ子内親王と「種々歓談」した(『昭和天皇実録』巻三十六、224頁)。ある所では、三人の弟宮を平等に扱いつつも、三笠宮には特に優遇しているのである。自分が東京転居を促したので、わざわざ三笠宮邸に行幸したのであろう。 12月23日、天皇・皇后・皇太子は、表拝謁の間で、三笠宮夫婦、伏見朝子ほか元皇族・元王族11名から皇太子誕生日の拝賀を受けた(『昭和天皇実録』巻三十六、263頁)。 23年1月14日、三笠宮妃百合子の「着帯」(妊婦が岩田帯を着用すること)につき、天皇・皇后は三笠宮・同妃に三種交魚代料を与えた(『昭和天皇実録』巻三十七、6頁)。2月11日、三笠宮妃百合子が第二男子を出産し、三笠宮は天皇・皇后からそれぞれ三種交魚代料、皇太后から五種交魚代料を受け取った(『昭和天皇実録』巻三十七、15頁)。 1月26日、天皇・皇后は、三笠宮と一緒にニュース映画を見た。以後、月に一、二回の割合で、三笠宮を中心に、同妃、高松宮夫婦、秩父宮妃も加えてニュース映画を見た(『昭和天皇実録』巻三十七、10頁)。 2月16日、天皇は文化委員との懇談の後に、夕方三笠宮に対面している(『昭和天皇実録』巻三十七、16頁)。天皇は、誕生したばかりの第二子の様子を尋ねながら、文化委員との懇談を踏まえて、今後の天皇の姿などについて話し合ったのではなかろうか。6月10日午前l、天皇・皇后は、表拝謁の間で、三笠宮夫妻、初参内の宣仁親王と会った。この日は、宣仁の箸初なので、天皇・皇后は三笠宮に五種交魚代料、宣仁親王に鮮鯛代料を贈った(『昭和天皇実録』巻三十七、52頁)。 6月13日、天皇・皇后は、那須御用邸を訪ねた三笠宮と昼餐をともにし、食後「一緒に付属邸嚶鳴亭方面を御散策」した。天皇・皇后は、夕餐も三笠宮と一緒にした(『昭和天皇実録』巻三十七、55頁)。 7月2日午後、内廷庁舎御政務室で、天皇は三笠宮崇仁と会い、福井地震(23年6月28日発生)による被災地福井・石川両県に差遣する旨を沙汰した。三笠宮は、4日に出発し、「両県において天皇・皇后よりの御救恤金を伝達」して、8日に帰京した(『昭和天皇実録』巻三十七、60頁)。7月8日夕刻、御文庫で、天皇は三笠宮に対面し、「福井地震による被災地御差遣の復命」を受けた。その後、天皇は皇后を加えて、三笠宮と夕餐を一緒にした(『昭和天皇実録』巻三十七、62頁)。 7月26日、葉山御用邸で、天皇・皇后は三笠宮に対面し、菊栄親睦会幹事の三笠宮・竹田恒徳に先導されて、皇族休所に入った。高松宮宣仁夫妻、三笠宮ら菊栄親睦会員20人及びその家族・親戚と対面した(『昭和天皇実録』巻三十七、70頁)。 9月13日夕餐後、御文庫で、天皇は、三笠宮と一緒に一時間にわたって「昨年の中国地方巡幸に関する映画」を見た(『昭和天皇実録』巻三十七、81頁)。 9月25日、御文庫で、天皇は、三笠宮に会い、「台風21号で甚大な被害を受けた岩手・宮城両県下」に差遣することを下命した。29日、三笠宮は出発し、両県に「天皇の思召し及び天皇・皇后よりの御救恤金を伝達」して、10月6日に帰京し、8日に復命した(『昭和天皇実録』巻三十七、86頁)。 10月13日天皇は医学・哲学・農学関係の日本学士院会員11人との昼食会に三笠宮を陪席させ、10月27日天皇・皇后は社会事業功労者15人との昼食会にも三笠宮を陪席させていた(『昭和天皇実録』巻三十七、97頁、102頁)。 11月8日、三笠宮妃百合子の父高木正得の葬儀に、天皇・皇后は「御使として非公式に侍従徳川義寛を高木邸に差遣」した(『昭和天皇実録』巻三十七、108頁)。皇族出身でない親王妃の実父死去に非公式ながら「勅使」派遣するのは、異例であったろう。 このように、天皇は三笠宮を水害地に派遣したり、種々の午餐会に陪席させたり、菊栄親睦会にも参加させたり、自宅を訪問したり、引越し費用も補助するなどしているのは、天皇が、国体護持のために、自ら退位して、皇太子を即位させ、三笠宮を摂政宮に据えようとしたからだとも想定できるのである。 高松宮も厚遇、三笠宮待遇の平準化 しかし、23年11月に天皇退位問題が最終的に否定されると、三笠宮だけ突出して優遇されるということはなくなってくる。また、三笠宮も持論の皇室批判を展開し始める。 23年12月17日の検察関係者16人の午餐、23年12月21日首相・閣僚・衆参両院議長・最高裁判所長官の午餐に高松宮を陪席させ(『昭和天皇実録』巻三十七、122頁、123頁)、23年12月23日午前、表拝謁の間で、天皇・皇后は、皇太子誕生日につき、高松宮夫妻、三笠宮ら皇族・元皇族・元王族15人の拝賀を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、124頁)。23年12月25日、大正天皇祭に、秩父宮、三笠宮、北白川房子が参列した(『昭和天皇実録』巻三十七、125頁)。23年12月28日午前、御文庫で、天皇は歳末挨拶のために高松宮夫妻、三笠宮と対面した(『昭和天皇実録』巻三十七、127頁)。 三笠宮は、24年正月元日の東京タイムスに「人間としての東宮様」という一文を寄稿した。ここで、三笠宮は、東宮は「お付の人の檻の中にいる籠の鳥という感じ」で「お気の毒」であるとし、「両陛下がお子様方と今までと同じ形で別居せられているのが残念」(『入江相政日記』第二巻、注解、352頁)とした。これは、皇太子教育への身内からの批判であった。これが原因で天皇は三笠宮と距離をとり始める。 1月3日、表拝謁の間で、高松宮(この日が誕生日)と元皇族北白川房子(明治天皇第七皇女)と「しばし御歓談」した(『昭和天皇実録』巻三十八、3頁)。24年1月10日夕餐後、御文庫で、天皇・皇后は、正仁、厚子・貴子、高松宮と、「昨年英国ロンドン市で開かれた第十回オリンピック競技大会の天然無声映画などを見た。三笠宮は欠席した(『昭和天皇実録』巻三十八、6頁)。 1月24日、歌開始で、和子内親王・高松宮妃が陪席したが、三笠宮妃は欠席した(『昭和天皇実録』巻三十八、10頁)。24年2月4日午前、表餐の間で、天皇はローマ法王使節パウロ・マレラ大司教と午餐を会食し、高松宮、首相吉田らを陪席させたが、三笠宮は欠席している(『昭和天皇実録』巻三十八、14頁)。 2月8日以降、天皇は東大教授和辻哲郎の連続進講「倫理学の一環としての世界史」を10回受け、三笠宮が8回陪席した(『昭和天皇実録』巻三十八、16頁)。2月11日、天皇・皇后は、三笠宮次男の宜仁の最初の誕生日を祝って、三笠宮に五種交魚代料、宜仁に鮮鯛代料を賜った(『昭和天皇実録』巻三十八、17頁)。 2月21日午後2時頃、常磐松御用邸で、「三笠宮様がつまらない事を新聞におしゃべりにならないように」、林次長が高松宮、三笠宮に、「ウィンザー公(1936年に結婚問題で退位)の教育について」」(『入江相政日記』第二巻、303頁)話した。皇太子が個人的理由で退位などならないように、しっかりとした教育が必要であるということであろう。引き続いて、田島道治宮内府長官、式部頭、林敬三宮内府次長、鈴木一侍従次長、栄木、三井、松村、入江侍従が出て、「皇子御教育論」を主題について話す。皇居に戻ったのは午後6時である。 2月22日午後4時前から、天皇から「高松宮、三笠宮の問題につき色々御話をうかが」(『入江相政日記』第二巻、303頁)った。23日にも、田島長官と入江侍従は「三笠宮の事」で「色々話」をした。その後、天皇が入江を御文庫に呼び出して、「栄木さんの高松宮、三笠宮と東宮様とを御親しみ願はうといふことについて色々思召」(『入江相政日記』第二巻、303頁)を示した。 2月22日、天皇は「彫塑及び洋画部門の日本芸術院会員14名」との午餐会で高松宮、文相高瀬荘太郎が陪席させたが(『昭和天皇実録』巻三十八、18頁)、三笠宮は招かれなかった。しかし、以後、三笠宮は各種会合に出席している。3月31日の「芸能関係の日本芸術院会員14名」との午餐に三笠宮が陪席した(『昭和天皇実録』巻三十八、35頁)。4月11日、日本学士院の人文系会員10人との午餐に、三笠宮、吉田首相が陪席した(『昭和天皇実録』巻三十八、39頁)。4月26日、天皇・皇后は、ィ子内親王着袴につき、五種交魚代料を三笠宮に、鮮鯛代料及び御台人形代料をィ子内親王に「賜」った(『昭和天皇実録』巻三十八、45頁)。5月3日、天皇・皇后は、日本国憲法施行二周年記念式典に臨席し、三笠宮夫妻も陪席した(『昭和天皇実録』巻三十八、47頁)。6月16日、天皇と日本学士院受賞者との午餐会食に三笠宮が陪席した(『昭和天皇実録』巻三十八、102頁)。6月27日、天皇・皇后は、三笠宮・高松宮妃と共に、夕餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、106頁)。 だが、10月に三笠宮は又問題発言をした。10月6日午餐に、天皇らが各新聞社幹部(馬場恒吾読売新聞社長など)を御陪食に招待した(『昭和天皇実録』巻三十八、127頁)。開かれた皇室を報道してもらうために招待したのであろう。だが、この席でも三笠宮が、「今の新聞に自由があるか」という微妙な発言をした。毎日新聞社長の本田親男は、「占領されているのだから勿論多少の拘束はあるが、大した事は無い」と答えた。天皇が退室され、記者一同が談笑しているところに、また三笠宮が現れて、「さっきの続きをやりたい」と言い出した。田島宮内庁長官は、「困った」と思い、「皆さん忙しいから」と制止しようとした。すると、共同通信社常任理事の松方義三郎が「いいぢゃありませんか」としたので、また新聞自由如何の議論が始まった。 これに対して、侍従入江は、「内容は悪用されれば、占領政策の批判といふことにもな」り、「後ジテ(能狂言の後仕手)となって現れ、又むしかへして、かういふことを仰有るといふことそれ自体が少し非常識」であるなどと批判した(『入江相政日記』第二巻、340頁)。 しかし、10月25日各社会事業団体との代表との午餐(『昭和天皇実録』巻三十八、136頁)、11月11日日本学士院新会員8人との午餐(『昭和天皇実録』巻三十八、145頁)、12月26日各閣僚、衆参両院議長、最高裁判所長官らとの午餐(『昭和天皇実録』巻三十八、161頁)には欠席したが、三笠宮は各種会合に出席している。例えば、10月13日午後、表一の間で、天皇は菊栄親睦会に出席した。秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮夫妻5人、元皇族・元王公族20人に対面した(『昭和天皇実録』巻三十八、131頁)。10月13日菊栄親睦会では、秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮夫妻5人が出席した(『昭和天皇実録』巻三十八、131頁)。11月3日文化勲章授賞者との午餐の会食に三笠宮が陪席した(『昭和天皇実録』巻三十八、141頁)。11月4日財団法人日本体育協会会長東龍太郎・各種競技会団体会長ら30人とのお茶会に三笠宮が陪席した(『昭和天皇実録』巻三十八、141頁)。11月7日、大宮御所で、天皇・皇后、高松宮夫妻・三笠宮妃、東久邇成子らは、皇太后と昼餐を会食した。三笠宮は欠席した(『昭和天皇実録』巻三十八、143頁)。11月11日、天皇は、東京都美術館で開催された第五回日本美術展覧会で三笠宮が一緒に巡覧した(『昭和天皇実録』巻三十八、144−5頁)。12月21日、菊栄親睦会会員との午餐会に高松宮夫妻、三笠宮夫妻が出席した(『昭和天皇実録』巻三十八、154頁)。12月30日、天皇・皇后は、大宮御所に行幸し、午後4時に高松宮夫妻、三笠宮夫妻と対面した(『昭和天皇実録』巻三十八、162頁)。 国体問題 なお、三笠宮は、民主主義の観点から、日本の神話的な国体については批判的になったようである。摂政などになる必要もなくなって、生来の批判精神がまたもや発揮されたようだ。 25年9月23日毎日新聞に、三笠宮は「レクリエーション」を発表して、民主化とは、「親子・主従・師弟などの間の縦の倫理」だけでなく、「夫婦・朋友・隣人・同胞などの横の道徳」も重要なことであるとした。そして、「男女一組の心と心とが通じあって社会構成の最小単位」となり、「それがニ組、三組、そして四組へとだんだんにおよぼし・・満場の心と心とが楽しく結ばれ」でば、「明るい希望に満ちた」社会となろうとした(三笠宮崇仁『古代オリエントと私』224−230頁)。 26年正月『新潮』別巻新年号では、三笠宮は、「一つの感想―水害につながるもの」を発表し、「風水害地には終戦後、東北へ二度と、関西に一度慰問にい」ったが、いずれも戦争が要因(戦争で木を切ったり、戦争で防潮堤の増強ができなかったこと)になっていたとする。そして、「生めよ、ふやせよ」という「民族的な闘争を予期した場合の標語」で人口増加して「止むを得ず危険区域にまで住」み洪水等の被害を受けたとする。さらに、震災など「自然の権力に対する被支配感」は「人間的権力に対する盲従にも通じ」るとして、暗に日本の専制的支配を批判した。よって、「日本の民主化の前提条件として災害対策というものが大きな役割を担っている」とした。 最後に、三笠宮は、ある会合の「食後の話題」を紹介し、「今では主権者は国民なのですから、君が代は歴史的の遺物」であり「新しい日本には合わない」としたことに関連して、三笠宮が3年前に地方新聞に「国家は新しく作って、君が代は天皇歌として残したいらいい」と答えていたことが紹介された。これに対して、M(三笠宮であろう)は、「そのときの意見は決して進歩的ではないので、むしろ日和見的」であり、「明治の黄金時代を体験した人と、昭和の暗黒時代に苦しんだ人」の意見を折衷した「妥協案」にすぎなかったとした。そして、国歌は重要問題だが、「今は占領下で独立国歌としての主権を持たない時代」なので、「今後冷静にあらゆる方面の人の意見をよく聞いて慎重協議を重ね、講和条約の締結の機会に結論を出したらよい」とした。 国旗については、三笠宮は、「日本人が国旗を大切にしないのは、ひとつには天皇があるためではないでしょうか。もしも天皇制が廃止になったら、おそらく日本人も国旗をもっと大切にするようになる」という大胆な意見まで紹介している。最後に、三笠宮は、皇室は従来は国旗を掲げることはなかったが、三笠宮が「成年になって一家を創立」した後に「つむじまがり」の自分が「皇族らしからぬこと」をしたくて家に国旗をたてたのが最初だとした(三笠宮崇仁『古代オリエントと私』、231−246頁)。 また、三笠宮は、27年4月には「独立国の新聞」において、天皇等の権力者の考察のみならず、国民、農民からのアプローチの必要性を提唱し、「真の農民の姿」の解明の重要性を指摘した(三笠宮崇仁『古代オリエントと私』257頁)。 こうした、民主的な三笠宮に対して、27年に日本国体学会主宰者の里見岸雄は「三笠宮に対する公開状」を書いて、これを反駁していたようだ。同年3月4日、入江侍従はこれを読み、「実によく書けていて我々のいはむとすることを全部いってい」て、「これは相当にきくだらう」(『入江相政日記』第三巻、39頁)と同感を覚えている。 A 天皇制護持論・廃止論 21年2月頃には、憲法改正が議論され、かつ「天皇制の存廃問題が新聞、ラジオの論議を沸騰」させていた(藤樫準二『陛下の人間宣言』同和書房、昭和21年、6−7頁)。 日本側の天皇制護持根拠 外務省調査局第一課長の三宅喜ニ郎は、天皇制護持に腐心する吉田外相の意を受けたか、或いはその意にそって、「日本の天皇制は、その初期においてはいはゆる神話や伝説を重要な根拠としたのであろうが、その後幾多の変遷を経て、時代とともに進化を遂げて」、「天皇制は合理的な根拠をもつに至っているはず」だから、「そういう合理的根拠を究明し、それを内外に明らかにすることが天皇制を護持するために必要」とした。そこで、三宅は、高木八尺・津田左右吉・矢部貞治・高山岩男・田中耕太郎ら「哲学、政治学、法学、社会学、歴史学等の分野において、それぞれ権威ある学者十名ほどを選んで」、天皇制存続根拠の研究を委嘱した。 21年2月前後、彼らは、「みな、天皇制はこれを維持する合理的根拠あり」とした。三宅は、「それらの報告を総合し、自分なりに、一つの研究報告をまとめあげ」、「それらの報告ができるごとに順次、吉田外相にも提出」した。それらの諸研究の「要点」は、@「皇室は歴史上(事実上)日本民族の宗家であり、日本国家という協同体の枢要な支柱」であり、A「長き時代の変遷を経て、天皇制は進化、発展を遂げ、皇室はその使命観と責任観、その伝統と歴史的事績の基礎の上に、公的性格を深めてこられ」、B「また世襲制であるがゆえに、天皇は、御生まれながらにして、憲法の定めるところに従って、国家最高の栄誉ある地位に就かれるのであるから、一般俗人の如く、私利私欲を図ったり、権力欲を燃やしたり、権力闘争をしたりされる必要はなく、従って天皇は日本国中で、最も私利私欲のない方であり、国家を代表し、また、国家や国民の利益と幸福の増進に専念する、国家最高の地位に就かれるのに、最もふさわしい方」ということになった。約言すれば、「天皇は日本の国家、社会における最高の善を実現せんとする共同意思の権化ないし擁護者たることに、その存在の意義がある」(三宅喜ニ郎「国敗れて現れた忠臣」[霞会館『劇的外交』成甲書房、2001年、92−5頁])ということであった。 21年4月29日は、天皇誕生日であるとともに、聯合国最高司令部が戦犯27人の起訴状を発表した日でもあった。その日に、東京帝大総長南原繁は「天長節に際して」を講演し、@「今次の大戦において、天皇には政治上、法律上の責任ないことは明白であるが、道徳的、精神的な責任があり、そのことを最も強く感じておられるのは天皇御自身であ」り、「この責任観念の表明により今後の皇室のあり方を基礎づける」事、A「天皇は、自ら自由の原理に基づき率先して国民の規範となるような日本国民統合の象徴として、永久に維持されなければならない」事などを述べた。天皇もこれに目を通し、宮相松平慶民とこれを話題にした(『昭和天皇実録』巻三十五、92頁)。天皇の意見などは述べられてはいないが、天皇に感じるところがあったからこそ、宮相を呼んだのであろう。戦争責任を払拭して、新しい天皇を目指すという所に一定の「共感」はあったであろう。しかし、前途にはまだまだ試練が待ち受けていた。 21年11月3日、東大総長南原繁は「東京帝大での日本国憲法公布記念式典」で、「新憲法により『君主主権』から『主権在民』へと国体の観念が変革された」が、「天皇を『日本国の象徴』『日本国民統合の象徴』として規定して、否定を越えて永遠に肯定したところに、新たな天皇制の不動の基礎が確立され」、「新たな意義を有する国体の生誕を祝し、これを育成すべきである旨を述べ」た。天皇もこれを読んで、6日、東宮大夫穂積重遠にこれを下問した。内容は不明だが、その日のうちに穂積は南原に会って、下問内容を伝えた。天皇にすれば、国体護持した積りであったはずだから、「新たな意義を有する国体」とは何かなどを問い質したのではなかろうか。13日、穂積は天皇にこの南原回答を伝えている(『昭和天皇実録』巻三十五、191頁)。 アメリカの天皇制存続論 20年10月18日、ワシントンからのAP電報は、トルーマン大統領が、「天皇制の運命は、日本人民が自由なる選挙で、その運命を決定する機会を与えられるのはよいことだ」(藤田尚徳『侍従長の回想』、178頁)と述べたことを報じた。 これを契機に、「前国務次官グルー氏の天皇制支持論、あるいはワード・プライス氏の一定期間の空位論、ラッセル上院議員のマ元帥一任論など」が伝わってきた。グルーは、「天皇は欧州におけるローマ法皇のごとく、日本にとっては不可欠の存在である」(ニューズウィ−ク)としたが、プライスは「天皇は戦争を信じずして、しかも戦争政策に加担されたのであるから、ある意味で軍閥以上に戦争に責任がある。この点から日本に一種の空位時代を設定すべきであって、日本占領期間中少なくとも二十年くらいは、この状態におくべきだ。ただし、それには日本国民自身が自己の結論に従って、君主制を廃止するか否かを決定するという条件を付することにする。それによって、この期間中に天皇に関する神話は取り壊され、日本人の民主制に向かう自然本能が目覚めて、共和制をとるか、立憲君主制をとるか、自ら決定せしめることができるであろう」(ヘラルド・トリビューン)と主張したのである(藤田尚徳『侍従長の回想』197−8頁)。 ニューヨーク・タイムズの東京支局長リンゼイ・バロットは、「天皇に関する限り事態はかなり明確になった。日本人自身で何らか他の政体を決定するか、あるいは天皇自身で退位を決定され皇位を譲られるか、あるいは当地でしきりに取沙汰されているごとき同じような方法を採られるのでない限り、天皇は依然統治を続けられるであろう。連合国側では天皇の疑うべくもない広大な勢力を有する、いわゆる神格を、日本再生の手段として利用するために、天皇の統治を存続することを利益とするとの見解をとっている。しかしながら、天皇の神聖については、従来のごとく触れずにおかれることはなくなろう」(藤田尚徳『侍従長の回想』198−9頁)とした。 天皇も当然深い関心をもって「新聞電報にも詳細に眼を通」(藤田尚徳『侍従長の回想』、178頁)していた。しかし、天皇は、「一言も天皇制や戦争責任論について、・・側近にも仰せにならなかった」(藤田尚徳『侍従長の回想』197頁)のである。 20年11月2日、天皇は米国「空軍司令官」(航空機製造会社社長、500万部のベストセラーThrough Air Powerの著者、米国空軍参謀長への特別なコンサルタントであり、空軍司令官ではない)アレキサンダー・P・セベルスキーに会い、「空軍について御質問」した(徳川義寛『侍従長の遺言』132−3頁)。天皇はGHQの紹介で彼にあったのは、国体護持のためであったろう。 21年2月19日、天皇は神奈川巡幸に着手し、国民から熱い支持をうけた。 4月3日、極東委員会は、天皇が「直接的権限のない」という理由で「戦争犯罪人の訴追リスト」から除外することを条件に「戦争犯罪人に関する政策」に合意した(フィン『マッカーサーと吉田茂』121頁)。4月13日、アメリカ政府はマッカーサーに、日本側が「天皇制のもっとも好ましからざる側面を進んで排除する意思を示している」として、天皇制廃止につながる措置をとらない決定を通達した(フィン『マッカーサーと吉田茂』122頁)。つまり、1年4月、SWINCC(国務、陸軍、海軍三省調整委員会)はマッカーサーに、「日本国民自身は明白に天皇制を支持」しているので、「マッカーサー元帥は、立憲君主制の発展並に天皇制の維持について日本国民を援助」せよと指示したのである。そして、天皇制に打撃を加えることは、「民主的要素を弱め、反対に共産主義並に軍国主義の両極端を強化」するから、マッカーサー総司令官は「天皇の世望をひろめかつ人間化することを極秘裡に援助」せよと命じた(マーク・ゲイン『ニッポン日記』242―3頁)。 5月3日から東京裁判が開廷され、GHQの天皇訴追免除肯定論(21年3月4日付ライフ誌記事、5月5日NHKラジオ番組など[豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見、18−19頁])や、天皇側の国民的影響の大きさの強調がなされた。6月17日、ワシントンでの会見で、キーナン首席検事が、「天皇を東京裁判で、戦犯として指名しない」と正式公表した。7月頃、GHQ民間情報局将校は、「一般国民が投獄されるおそれなしに天皇を批判できるような状態を創り出す指令」を検討した。しかし、同局長はその草案を却下し、「半神格の絶対君主」にとどめようとした(マーク・ゲイン『ニッポン日記』242頁) その上で、GHQは、宮内庁は人間天皇を国民に広くアッピールするべきだとした。例えば、GHQの一将官は宮内庁に、「広告をしなければいけない。天皇を人民に売りつけなければいけない」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』243頁)と提唱していた。マーク・ゲインは、天皇の位置に関して、占領直後の天皇の方便としての利用から、この頃には「方便の領域をはるかに超え、長期にわたる最高政策の性格をもつ」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』243頁)ようになったと的確に指摘している。 キーナン検事の天皇訴追回避工作 天皇は戦争責任を自ら認めており、「ウェッブ裁判長は有罪論者であった」から、天皇が裁判にかけられれば、有罪となるので、マッカーサーはキーナンに天皇を出廷させるなと指示した。 22年10月20日、キーナン首席検事は三井倶楽部に和平派リーダーだった岡田啓介、若槻礼次郎、米内光政と元陸軍省兵務局長田中隆吉少将を招いた。キーナンは報道陣を前に、「我々は人道的見地から日本国民、アメリカ国民、その他アジアの諸国民等を苦しめた人たちの犯罪について裁判を進めている。しかし、同じ日本人の中にも、一日も早い戦争終結を願っていた人たちがいた。きょうここにお招きした四人の人物である。彼らの努力により、戦争は終了し、今や民主的な平和が誕生しようとしている」(上坂紀夫『宰相 岡田圭介の生涯』335頁)と演説した。岡田は「なぜこの時期に自分たちを招いたか不思議」であり、上坂氏は「検察側が、戦争終結に尽力した人物のいたことを国民に知らせることによって、裁判中の被告たちの行為がいかに国民の意志を無視したものであり、極刑もありうるということを示したものかもしれない」と推定している。 何よりも不思議なのは、陸軍策士田中隆吉(第一次上海事変主謀者)を和平派重鎮と同列に扱ったことである。キーナンは、天皇の訴追免除、戦犯訴追のために田中の活用を考えており、故にこの会見は田中お披露目が目的ではなかったであろうか。実際、22年10月29日、キーナン首席検事と田中隆吉が、天皇の戦争責任、訴追免除等について語り、芦田外相がその時の会談についての情報を日記に書き残している(『芦田均日記』)。また、田中の手記によると、@「天皇を無罪にするために」、「恩人板垣大将、また知人であり先輩である土肥原大将」らに「不利な証言」を行なった事、A「日本側の弁護人は、私の証言の価値を減殺しようと、あらゆる妨害を行なったが、無駄であった」事、B「大東亜戦争の開始には、東条首相より武藤の方が積極的であった」ので、軍務局長武藤章を「極力攻撃」した事、C弁護した軍人は、「東条陸相の次官として、ほとんど権力のなかった木村大将」、「武藤軍務局長のために陸軍大臣の職を無理に去らしめられた」畑元帥、」、「東条内閣打倒のために共に行動した東郷外相」、「大東亜戦争に反対であった梅津大将」であった事などが分かる(田中隆吉「かくて天皇は無罪になった」『「文藝春秋」にみる昭和史』第二巻、文藝春秋、1988年、88頁)。 木戸幸一の供述書に「陛下の御考として『独蘇衝突前に英米と戦ふ方が有利なるべし』」とあったことから、コミンズ・カー英国代表検事ら英・蘭両国は「陛下の訴追を頑強に主張」した。しかし、キーナンは「当初の了解に反す」とこれを拒否した。次いで、キーナンはマッカーサーと会談し、「陛下が引き合いに出される、木戸、東条、東郷の反対訊問は絶対に他に譲らず、Keenanが之を引うけることに決定」した。そして、キーナンは、天皇、皇后、皇太子の「人目につく行動」を控えてほしいとしていた。キーナンらの努力を「無にする危険」があるというにである。 キーナンは、この頃から、「裁判終了後、帰国前に陛下に拝謁し、退位問題等にふれる意向の如く」であり、摂政は皇后がつとめるという独自な人事構想をもっていた。 もとより、この頃のマッカーサ−は「日本国内の安定のためにも共産党を抑へるにも帝制が必要である」と「確信」していた(『芦田均日記』第二巻、27頁)。 天皇有罪危機の回避 22年12月31日、木戸幸一被告の弁護人ローガンは東條英機に、「天皇が平和を御希望しているのに反して、木戸は行動したり進言したことがあるか」と問うと、東条は、「そういうことはない。日本国の臣民が陛下の御意思に反して、あれこれすることはあり得ない。いわんや日本の文官においておや」と答えた。これは、日本の文武官の行動は「天皇の御意思にもとづいて行われたこと」を示すことになった。来日していた外国新聞記者は、「天皇有罪を東条被告がのべた」と打電された。 31日夜、キーナン検事の日本人秘書山崎晴一が、山中湖畔滞在中の田中隆吉に、「至急上京」の電報を打った。23年正月1日、田中は小石川のキーナン邸を訪ねると、キーナンは、@昨日の東条返答は、「天皇が有罪であることを証拠だてる」事、Aソ連のゴルンスキー首席検事は「天皇をただちに裁判に付すべし」とした事、Bこれでは「マッカーサー元帥の意思」に反するから「すぐに東条に面会して、この答弁を取り消してもらいたい」事を告げた。 23年正月2日、田中は、キーナン要請を受けて東条に面会して、31日発言の取消をもとめたが、東条は、「あの事は、自分の皇室に対する信念であるから、取り消すわけにはいかん」と、頑なに拒否した。3日、田中はキーナン秘書山崎晴一とともに、松平康昌を訪ねて、「キーナン検事の意向を伝え、尽力を願い出た」のであった。田中とともに「天皇の無罪に努力してきた」松平は即諾した(以上、田中隆吉「かくて天皇は無罪になった」『「文藝春秋」にみる昭和史』第二巻、89−90頁)。当時、「松平は東京裁判の裏で天皇が戦争犯罪を問われないように死に物狂いの活動をしてい」て、「キーナンほか占領軍高官を自宅へ招待するなど、さまざまな工作を手がけ」(青木『昭和天皇とワシントンを結んだ男』65頁)ていた。 4日、松平は木戸被告にキーナン要請を伝えて、「木戸氏の尽力」を請うた。木戸は東条説得にかかったが、東条は「なかなか承知しなかった」が、「木戸被告の熱心な説得に、ついにシブシブ同意した」(以上、田中隆吉「かくて天皇は無罪になった」『「文藝春秋」にみる昭和史』第二巻、90頁)のであった。 1月6日、キーナン検事と東条との訂正問答が繰り広げられることになった。今度は、キーナンの巧みな誘導で、東条は、開戦については天皇意思と軍部とは反していたと証言したのである。つまり、キーナンが東条に、「その戦争を行わなければならない、行え、というのは、裕仁天皇の意思であったか」と問うと、東条は、@天皇は「御意思とは反し」、「私の進言、統帥部その他の責任者の進言によって、シブシブ御同意になった」事、Aしかし、天皇は「平和愛好の御精神は最後の一瞬にいたるまで・・御希望を持って」いた事、B天皇の平和意思は「開戦の御詔勅の中に・・朕の意思に非ず」とあることからも確認されることなどを答えた。この問答で、「天皇の無罪は確定」したのであった。6日夜、キーナンは、秘書山崎と田中に、「もし天皇が国際裁判に出廷すれば、一切の責任を一人で負うだろう。そうなれば、裁判は成立しない。そうなれば、私も、マッカーサー元帥も政治的生命は終ることになり、連合国の占領政策は失敗となるであろう」とし、今日の天皇無罪確定の意義を評価した。 1月7日、キーナンはマッカーサーに結果を報告すると、マッカーサーは、「米国の占領政策は天皇を中心として進めることにする」(田中隆吉「かくて天皇は無罪になった」『「文藝春秋」にみる昭和史』第二巻、90−1頁)と述べた。 共産側の天皇制廃止論 これに対して、当時の共産側は、天皇廃止論を提唱していた。 日本共産党は、終戦の20年から天皇制廃止論を唱えていた。当時の共産党員は1200人、機関紙アカハタ発行部数は1万9千部、「運輸および炭鉱関係の労働組合に多い」同調数は約10万人と見られていた(マーク・ゲイン『ニッポン日記』11頁)。 20年10月30日、侍従入江相政は新聞で「常磐炭田で坑夫の罷業に共産党員が乗り込み、演説会を開」き、「弁士は皆それ(天皇制の廃止)を叫んだ」ので、アメリカの中佐が演説会を中止させたという記事を読み、それを日記に記した(『入江相政日記』第二巻、16頁)。まさに当初から駐留米軍は天皇制護持を実践していたのである。 『昭和天皇実録』巻三十三(156頁)によると、11月25日、皇太子が天皇に、「新聞を閲読した結果として、共産党取締の必要、不良警察官の存在、帝国議会における共産党勢力の有力化等につき質問」すると、天皇は「共産党については取り締まりなくとも有力化する恐れはなき旨」を述べた。天皇・皇太子が、天皇制打倒を標榜する共産党の勢力拡大如何について話題にしていたのである。 12月8日、東京の共立講堂で共産党大会が開かれた。志賀義雄はゲインに、綱領の一つとして「天皇を含む寄生的不在地主」の所有している土地の没収をあげた。登壇すると、志賀は、戦争「犯罪者」は1300人だとし、最後に天皇を挙げた。これを聞いて、「聴衆は、歓呼し、怒号し、足をふみならした」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』12−3頁)のであった。 21年1月14日、東京代々木の共産党本部において、志賀義雄は共同声明を発表し、「上は天皇から、軍国主義者、官僚、さらに財閥および寄生地主に至るまでの一切の封建的、専制的な帝国主義前体制が、犯罪的戦争を強行し、日本の国土、民族とその文化を破滅に陥れ、周辺の諸民族と連合諸国民とに加えた残虐と荒廃の責任者である」とし、「それを存続すれば、必ずや世界の恒久的平和の建設と、日本民族の復興とを妨害する危険があるので、天皇制打倒という方針の正しさを認めることにわれわれの意見は完全に一致した」(日本ニュース 戦後編 第2号)とした。 21年6月29日、日本共産党は、人民憲法草案(国会図書館HP「日本国憲法の誕生」所収)を発表した。 前文で、「天皇制支配体制によつてもたらされたものは、無謀な帝国主義侵略戦争、人類の生命と財産の大規模な破壊、人民大衆の悲惨にみちた窮乏と飢餓とであつた。この天皇制は欽定憲法によつて法制化されてゐた様に、天皇が絶対権力を握り人民の権利を徹底的に剥奪した。それは特権身分である天皇を頂点として、軍閥と官僚によつて武装され、資本家地主のための搾取と抑圧の体制として、勤労人民に君臨し、政治的には奴隷的無権利状態を、経済的には植民地的に低い生活水準を、文化的には蒙昧と偏見と迷信と盲従とを強制し、無限の苦痛をあたへてきた。これに反対する人民の声は、死と牢獄とをもつて威嚇され弾圧された。この専制的政治制度は日本民族の自由と福祉とに決定的に相反する。同時にそれは近隣植民地・半植民地諸国の解放にたいする最大の障害であつた」と、従来の天皇制支配を批判し、「このやうな汚辱と苦痛にみちた専制政治を廃棄し、人民に主権をおく民主主義的制度を建設することが急務である」とし、「天皇制はそれがどんな形をとらうとも、人民の民主主義体制とは絶対に相容れない」と主張し、人民共和制国家の建設を提唱した。 7月16日、吉田は大村清一内相に、「例の共産退治の一案 先方も大分気乗の此際、是非共其希望に応じ兎も角組織に着手、一日も速やかに事業開始致度」(『吉田茂書簡』、161頁)としている。 なお、進歩党、自由党はもとより、社会民主党の多数は、天皇制の「保持に傾いてい」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』17頁)た。 二 天皇の諸改革 天皇は、天皇家の家長の義務として、千年以上の歴史ある国体護持のために、天皇制存続を盛り込んだ方向での憲法改正に終始熱心であり、マッカーサー作成原案で天皇制「護持」が打ち出されると、この実現に積極的になり、かつこれに伴う皇室典範改正にも関心を示し、皇室財産問題などにも積極的に意見を表明していた。 『昭和天皇実録』巻三十三巻(188頁)では、終戦直後の国体護持に関する体系的意見が取り上げられている。即ち、昭和20年12月26日、元宮内次官関屋貞三郎は天皇に、@「帝国の将来は終戦の詔書の御趣旨(世界平和への貢献)を実行することにより、軍国主義・独善主義を一掃し、外国の信頼を得る以外に途なきこと」、A「憲法改正は外国の信頼回復のためにも已むを得ないこと」、B「天皇の日常生活の明確化、御研究への御精励、御進講と皇太子教育のあり方への提言」、C「在外同胞援護・食糧供出・石炭増産が焦眉の急であること」、D「御料地を労働者階級のために開放すること」を提言している。これは、『側近日誌』『入江相政日記』などには載っていないが、当時の天皇改革の基本的方向を体系的に述べたものとして注目されよう。 @ 天皇の改革決意ー先例としての白村江大敗 天皇は、こうした「国体」存亡危機を白村江大敗以来のものと極めて深刻に受け止め、白村江大敗以後にこの「敗戦を機に改革が行われ、日本文化発展の転機となった」(昭和21年8月14日の終戦一周年座談会での天皇発言)と把握し、今後も国体護持のために、なお一層の積極的な諸改革に従事してゆくことになる。 天皇がこうした決意を発した終戦一周年記念座談会は、『入江相政日記』『昭和天皇実録』巻三十五などで取り上げられている。21年8月14日午後7時15分、天皇は「終戦一周年」に因んで、鈴木貫太郎、東久邇稔彦、幣原喜重郎ら元首相、吉田茂首相、大村清一内相、石橋湛山蔵相、和田博雄農相、星島二郎商工相、河合良成厚相、膳桂之助安本長官ら現職閣僚、石渡荘太郎(元蔵相・元宮相)、大金益次郎(侍従長)、広幡忠隆(元侍従次長)ら元宮内幹部、松平慶民(宮相)など、「当時以後の首相と現内閣の所謂経済閣僚等」を花蔭亭(吹上御苑)に招待して茶会を催した。 天皇は、最初に、「朝鮮半島に於ける敗戦(663年)の後、国内体勢整備の為、天智天皇は大化の改新(646年)を断行され、その際思ひ切った唐制(近江令―筆者)の採用があった」(『入江相政日記』第二巻、72頁)と話した。天皇は、「白村江の戦いでの敗戦を機に改革が行われ、日本文化発展の転機となった」(『昭和天皇実録』巻三十五、144頁)ことを具体的に話したのである。今次敗戦を今から千年以上も前の大敗の深刻さとの比較のうちの痛切に認識できたのは天皇ぐらいであろう。臣下には、こういう長期的視野で現在の天皇制危機を把握するものはいなかったであろう。 そして、天皇は「これを範として今後大いに努力してもらひたし」(『入江相政日記』第二巻、72頁)と表明した。天皇は、唐・新羅連合軍への敗北と、米国を主力とする連合国への敗北を重ね合わせて、「思い切った唐制の採用」にならって、国体護持のために「思い切った米国民主制の採用」を呼びかけたのであろう。天皇に続いて、東久邇稔彦以下が「この一年の回想及び今後の抱負等」(『昭和天皇実録』巻三十五、144頁)を表明した。終ったのは、午後9時5分であった。 こうして、天皇は、現在の危機を古代天皇制の危機に照らし合わせて把握し、吉田茂を含む現職閣僚らに「改革努力」の檄をとばしていたことが確認される。「臣茂」以下臣下らは、この天皇「檄」を体して占領期政治を実践してゆくことになる。 一方、この「一周年を迎えた日」、マッカーサーは、「(日本国民は)2000年におよぶ歴史と伝統を引きずった生活の理論と実践を完膚なきまでに打ち破ってしまう」ような「精神革命」を成し遂げたと賞賛した。そして、今後も「民主主義という崇高な中道」を歩めば、「力強い平和の守護者」(ジョン・W・ダワー、明田川融訳『昭和』みすず書房、133頁)になるだろうとした。マッカーサー指令通りに天皇が改革を実践してきた事を評価することは、とりもなおさずマッカーサー改革の「成功」を意味するのである。 天皇、マッカーサーは、期せずして、終戦一周年に際して、二千年という長期的視野で戦後改革をそれぞれなりに把握したことになる。これは、この占領改革が天皇、マッカーサーの「両トップ」の指導で行われていることを示しいる。ている。問題は、両トップが、敗者・勝者を超越して主権国家としての対等な関係にあるか、或いは敗者と勝者の関係に基づいた、主権国家としての「不当」な関係にあるかということである。 A 憲法改正 天皇の指示 20年9月21日、第一回マッカーサー会見の下準備過程で、天皇が指示したのであろう、木戸は松平秘書官長に憲法問題について調査を依頼した(『木戸幸一日記』下巻、1236頁)。9月25日、米国国務省は憲法改正の示唆をマッカーサーにさせることを決定していた(1989年ワシントン日米協会主催シンポジウムでのR,フィリー発言[竹前栄治『日本占領』中央公論社、昭和63年、294頁])。 10月4日、近衛は今度は通訳奥村勝蔵を連れて第一相互ビルのマッカーサーを訪問したが、しばし待たされた。三井本社ビルにいたアチソン政治顧問を呼び寄せる時間を稼いだようだ。マッカーサーはアチソン、サザランド参謀長を伴って近衛文麿に再び会うと、、国粋主義、軍国主義を一掃し、それと結びついた天皇制を改正するには、まずもって憲法改正が必要だとみて、彼に「明治憲法の改正を示唆」した(1989年ワシントン日米協会主催シンポジウムでのR,フィリー発言)。その時、マッカーサーは「近衛公は世界を知り、コスモポリタンで、年齢も若いのだから、自由主義者を集めて帝国憲法を改正するべきでしょう」(北『白洲次郎』110頁)と、近衛を褒め上げた。 10月8日、近衛は高木八尺(アメリカ研究の東大教授、近衛の学習院同窓生)、松本重治(共同通信記者)、牛場友彦(近衛秘書兼通訳)を引き連れて、アチソン(George Atcheson Jr.)を訪問した(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』382頁)。高木は米国憲法などの専門家であり、GHQのエマーソンらとも知人であり、近衛の「憲法改正顧問」(エマーソン発言[竹前『日本占領』127頁])であった。 アチソンは、総司令部の憲法改正の留意点として、@衆議院の権限拡大、A貴族院の拒否権の削除、B議会の責任原理の確立、C貴族院の民主化、D天皇の拒否権の廃止、E詔勅・勅令などの天皇立法権の縮小、F基本的人権条項の設定、G独立した司法府設置、H官吏の弾劾・リコールの設定、I軍人影響力の政府内からの排除、J枢密院の廃止、K国民投票による憲法改正条項の設定などである(総司令部民政局『日本政治の再編成』[蝋山政道『日本の歴史』26、58−9頁])。これによれば、天皇制は残すが、貴族院民主化、天皇立法権縮小、天皇拒否権廃止、枢密院廃止や民主化を条件としていたことになる。 10月9日、閣僚親任式までの間、木戸は幣原と憲法改正問題を協議した。幣原は、「此の問題については極めて消極にして、運用次第にて目的を達す」と、現行憲法の柔軟運用でよいとした。しかし、木戸は、「米国は其説明にては満足せず。何となれば彼は自己の手にて日本の憲法を自由主義化せりとの政治的意図を有するが故に、結局、改正を強要さらるべし」と説いた。幣原は、「右に対し武力にて敵する能はず。其の場合、之を記録に留めて屈服するの外なし」と、対米服従態度を示した。 これに対して、木戸は、「之(対米服従での憲法改正―筆者)は憲法の欽定なる点より見て由々敷問題となる故、充分更に考慮を希望す」と、欽定憲法の原則に考慮を求めた。そして、木戸は、これまで天皇がしばしば憲法問題で木戸に下問してきたと述べ、「何分憲法実施以来始めての問題にて、内大臣としても只大体の見透にて奉答も致し兼ぬる故、近衛公を中心に調査を進むる考へなる」旨を説明した(『木戸幸一日記』下巻、1241頁)。天皇は、既に内大臣木戸には憲法改正問題では度々発言してきたのである。 木戸は、午後3時に来室した近衛に、「憲法改正問題の経緯」について話した。木戸は近衛を内大臣府御用掛の憲法問題担当にしようとしていた。その後、木戸は「マ司令部」に連絡すると、「先方の気持は相当積極的にして切迫せる趣き」を語ったので、木戸は憲法問題に「至極対策を講ずるの要を痛感」(『木戸幸一日記』下巻、1242頁)した。 『昭和天皇実録』巻三十四によれば、天皇の憲法改正関与は20年10月10日頃である。実際にはそれ以前から天皇は憲法改正不可避とみて、その改正の調査に着手していた。同書によると、この日、天皇は木戸に「憲法改正問題の経緯をお聞きになる」とあり、この頃に天皇は幣原喜重郎新首相に「公爵近衛文麿に憲法改正の下準備を命じるべき旨を述べられる」とある。 憲法改正の根拠 10月11日10時頃、天皇は近衛に、「ポツダム宣言の受諾に伴ひ大日本帝国憲法改正の要否、若し要ありとすれば其の範囲如何」という命を下した。まだ、帝国憲法改正方針を決めたわけではなかったのである。GHQでは、「ポツダム宣言が日本政府に平和的にして責任ある政府の樹立を要求し、日本政府はそれを受諾したのだから当然そのような法的権限がそこから出てくる」(ケーディス発言[竹前『日本占領』52頁])としていた。GHQは、国際法学、憲法学の観点から帝国憲法を改正する権限があるかどうかという法律的検討は加えることはなく、ただポツダム宣言に憲法改正根拠を見たのである。天皇は鋭いポイントをついた質問をしたのである。 周知の通り、これに関しては、ハーグ陸戦条約、極東委員会に根拠を求める見解もある。 前者は諸書で指摘されてきたところである。つまり、「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」(ハーグ陸戦条約。1899年5月18日にハーグで開かれた第一回万国平和会議で採択)の第43條に、「國ノ權力カ事實上占領者ノ手ニ移リタル上ハ占領者ハ絶對的ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ囘復確保スル爲施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘシ」とある所から、占領者=戦勝国は「占領地ノ現行法律ヲ尊重」するべきであり、憲法改正はできないというのである。しかし、「支障なき限」「成るべく」という規定であって、禁止規定でないから、歯切れがよくない。 次に後者は、極東委員会の設置を定めた1945年12月28日「モスクワ外相会議コミュニケ」の第二「極東委員会及び連合国日本理事会」の「3 合衆国政府の任務」の第3節に「・・・但し日本の憲政機構、若くは管理制度の根本的変更を規定し、又は全体としての日本政府の変更を規定する指令は、極東委員会の協議及び合意の達成のあった後に於てのみ発せられるべきである」とあることから、当時の憲法改正権限は極東委員会にあるのではないかという考え方である。だが、これは、ただ憲法改正には「極東委員会の協議及び合意の達成」が必要だという手続きを言っているだけであり、憲法改正の合理的根拠を明らかにしたものではない。だから、マッカーサーは早く改正しないと極東委員会に横槍を入れられると、これを恫喝材料にして、日本側に迅速な憲法制定をうながしたのである。 しかし、天皇も気づいていたように、いずれも外国が主権を侵害してまで一国の憲法改正をする根拠が合理的に説明しておらず、そもそも戦勝国が敗戦国の憲法改正をする法理、法的権限はないのである。これは、日本国憲法前文に、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」と、明確にうたわれている所である。戦勝国といえども、戦勝国の利益を専ら重視して、敗戦国の主権を侵害することが許されないのは、「普遍的」法理なのである。天皇はもっとここを掘り下げて、マッカーサーに食い下がるべきであった。 当面の憲法改正 当初は、宮中と内閣で憲法改正の役割の調整に手間取った。11日昼には、木戸、近衛、石渡が憲法問題で「種々打合」せた。途中で、石渡は内閣を訪ね、宮中による憲法改正主導に幣原首相、池田大三郎書記官長が同意した。しかし、首相が午後の閣議でこれを説明すると、「憲法改正は国務なるが故に内閣にて着手すべきものなりとの論」が強かった。幣原は石渡に電話して、「宮中にての調査には異存ある訳にはあらず」だが、内閣でも着手する旨を告げた。そこで、石渡はこれを木戸に話したので、木戸は近衛を呼び出し、木戸の部屋で、近衛、石渡、牛場、松平、高木が参集して、「政府の意向如何に拘らず、当方の調査は常時輔弼の一翼として進むる」ことを決定した(『木戸幸一日記』下巻、1242頁)。 以下、天皇は憲法改正に熱心であったが、長文となるので、『昭和天皇実録』との比較吟味は省略する。 B 人間宣言 起草過程 米軍は、天皇の神道・神社関与に制約を加え、人間宣言起草にも関わった。この点は『昭和天皇実録』には日時までも記載されていて、関係者各人関与の経緯が一層明確になっている。 憲法改正や民主化の過程で、天皇をどうとらえるかが一論点になっていったようだ。特に、天皇が神とみるか否かが問題になったようだ。 昭和20年晩秋、天皇は、後水尾天皇の例(内容は後述)を挙げて、この神格化を「とんでもないこと」と批判した。幣原は、「あまり神格化」したので軍部が悪用して戦争をやったと答えた(『幣原喜重郎』幣原平和財団、昭和30年、667頁)。 同年12月9日には、国会では、「天皇は神なりや」という議論が展開している。幣原首相は、「天皇は西洋流の言葉の概念での神格ではない。かといって、天皇は人格ではない」などと答弁していた。こういう答弁を聞いて、「総司令部の政治局の連中」は、「マッカーサー元帥も、我慢がなりかねて、現内閣を叩き潰そうとしている」とした。ジャーナリストのゲインも、「貴重な時間が、空費されている」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』15頁)と批判した。 同年12月15日神道指令を出した民間情報教育局長ダイク准将、同宗教課長バンス大尉らは、天皇神格を否定し、天皇の人間宣言を画策していった。大金益次郎宮内次官がGHQ意向を受けて五項目の「大金試案」を作り、学習院英語教師プライスを通してGHQに提出された。だが、内容が、「国土、民族に対する偏狭固陋なる独善的態度を一先し、列邦諸民族の伝統と文化とを尊重し、謙虚を以て信義を四海に高むへし」など保守的であって、GHQから意に沿わぬとして拒否された(木下道雄『側近日誌』文藝春秋、1990年、84頁)。そこで、人間宣言原案が「ダイク准将の事務室で調理」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』91頁)されて、起草され、プライスに示されたようだ。 ここに、日本側でも、天皇と神との関わりについて検討し始めた。20年12月22日午後4時半、板沢武雄が「マッカーサー司令部の神道に関する指令について」という進講をした。 12月23日日曜日、人間宣言の案文の作成が開始された。この経緯は各人に回想記が残っていて、脈絡が複雑ではっきりしない。『昭和天皇実録』巻三十三巻(186頁)によると、23日、木下は午前11時頃、宮内次官大金益次郎に面会して、「詔書の渙発」を「懇談」し、大金は「五項目からなる詔書私案」をレジナルド・H・ブライス(学習院教師)を通して連合国最高司令部に提出したが、「内容が消極的である」として拒絶された。この時刻がはっきりしないが、この大金私案の拒絶を発端として、新しい「詔書」案作成が動き出したのである。この過程は『昭和天皇実録』はドロップしているが、各資料を検討すると、おおよそ次のようなものであり、幣原が中心となって動き始めた。 天皇は幣原を御文庫に呼び、昼食をともにしつつ、「詔書渙発」を相談し、「天皇と国民の関係について、神話や伝説によらず信頼と敬愛に結ばれていること、自らの地位については現人神ではないこと、国民については他の民族に優越しているとふが如き架空の観念を捨つるべきこと、その他次々と二時間以上にわたり新事態に対処しての信念を披瀝」(藤樫準二『陛下の人間宣言』同和書房、昭和21年、6−7頁)したのであった。 幣原首相は、既に山梨勝之進学習院長・同教師プライスらから天皇の人間宣言を詔勅として煥発することを促されていた。人間宣言の大詔煥発については、大金益次郎宮内次官・木下道雄侍従次長も「種々懇談」して、天皇制維持のために、「新年早々思い切った大詔を拝し、国内の思想に光明を与うべし」(木下道雄『側近日誌』84頁)としていた。 一方、幣原は天皇から相談を受けて、23日のうちに前田文相に電話して、首相官邸に呼び出した。前田が首相官邸に着くと、幣原は、「このあいだうちから、学習院の英語の先生のプライス」が、「内外にわだかまっている幾多の疑惑を解いて、今後日本の進路を開いていくのに非常に具合がいい」事から、「天皇は別に神ではな」く「敬愛関係によって国民と結び付けられておる」事を新年「お年玉」として発言してはどうかと提案していたことを述べた(以上、前田多門「『人間宣言』のうちそと」[『「文藝春秋」にみる昭和史』第二巻、1988年、18−19頁])。 そして、幣原は前田に、「見事」な「筆跡」の「書簡紙に書いた文章」を指し示した。そして、幣原は、文相として賛成ならば、「こういうことを骨子にして陛下が新年のお言葉をたまわるというようなことを、ひとつ立案してみてくれないか」と語った。前田は大いに賛成して、@「終戦直後、全国民がみんな虚脱状態に陥っておって、今後日本がどうなるかということについて、みんな迷っておるときでありますから、天皇がみずからそういう態度をとられて、神秘的な雲霧を排し、みずから一個の人格として人民とともに進もうと言われることは非常にいいことだと思」う事、Aさらに「新しく日本人として行くべき道を、この際陛下のお言葉として積極的に付け加えたなら、いっそうよかろう」事を提案した。すると、幣原は前田文相に極秘に草案を起草することを求めた。前田は「補佐役」(学校教育局長田中耕太郎、社会教育局長関口泰、科学教育局長山崎匡輔ら)に相談せずに極秘に起草せよということに当惑したが、草案執筆時に国務大臣内閣書記官長次田大三郎にだけは「万事を打ち明けて事を進める」了解を得た(以上、前田多門「『人間宣言』のうちそと」[『「文藝春秋」にみる昭和史』19−20頁])。 前田は、幣原の英文「書簡紙」を参照して、@第ニ節の原文に「国民の奮発によって、必ずや立派に再建ができ、やがて世界人類の福祉に貢献なし得る時が来るだろう」という意味があった事、A第三節に「国家を愛する心がひいては人類愛にまで発展する」という意味があった事、B第五節の「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依り結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を現人神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものに非ず」が詔書の核心である事、C第六節の「公民生活に於て団結し、相倚り相扶け、寛容相許すの気風を作興」すは「メモとは全然関係なく起草せられたもの」である事などとした(以上、前田多門「『人間宣言』のうちそと」[『「文藝春秋」にみる昭和史』20−21頁])。 第六節は前田が新規に付け加えたものになる。彼は、文相に就任当時、マッカーサー副官フェラーズ准将から文相としての施政方針を聞かれ、「教育の要務」は日本で「シビックス」の精神を樹立することだと答えていた。彼は、従来の日本では「人民がひとりひとりの力を合わせて、盛り上げた公共生活・・が欠けていた」から、「その事を中心に教育を進めていきたい」とした。彼は、「公共生活への日本人の開眼」を盛り込みたいとした。その後、前田は次田大三郎内閣書記官長と「表現の方法、辞句の選択排列等」について「ああでもない、こうでもない」と相談して、「素案」を作った(以上、前田多門「『人間宣言』のうちそと」[『「文藝春秋」にみる昭和史』、21−22頁])。 12月25日、石渡宮内大臣が天皇に、「大詔煥発のことは、幣原がこれは国務につき是非内閣に御任せを願う」と希望しているが、マッカーサーはこれを希望していないとした。そこで、天皇は早速幣原を呼び、マッカーサーらは、「外界に洩れるのを恐れる為」に、「内閣の手を経ることを希望せぬ」(木下道雄『側近日誌』文藝春秋、1990年、86頁)ことを伝えた。天皇神格否定は、事前に漏洩すれば、国内に大きな議論を呼び起こし頓挫しかねないので、マッカーサーらは内閣審議を避けたのである。 草案の上奏過程 さて、草案を天皇に上奏する経緯については、幣原側と前田側とでは異なっている。 幣原によると、12月25日、英語力のある幣原は英文の人間宣言詔勅案をまとめた。彼は、「日本より寧ろ外国の人達に印象を与えたいという気持ちが強かったもんだから、まづ英文で起草し、約半日かかってできた」(『幣原喜重郎』668頁)という。東京日日新聞記者藤樫準二によると、幣原はこれを天皇に提出したが、その後12月末頃に、幣原は風邪で病床についていたので、天皇はそれに目を通すと、首相代理の前田多門文相らに下げ渡したことになる(藤樫準二『陛下の人間宣言』同和書房、昭和21年、7頁)。 だが、文相前田によると、「素案が出来たので、これを陛下のご覧に入れなければならない段取りになったが、困ったことには、幣原さんが急性肺炎になって床につかれたため、ご自身が宮中に行くわけにはいかなくなった。やむを得ず、私が代わりに陛下のところに伺って、案文をご覧に入れた」(以上、前田多門「『人間宣言』のうちそと」[前掲書、22頁])となっている。この上奏日時がこれまで不明であったが、『昭和天皇実録』巻三十四(183頁)によってはっきりとなった。12月27日午後2時8分、前田が天皇に、「内閣において作成の詔書案」を奏上したのであった。 前田記憶によると、天皇は、「平然たる御態度でこれをお受け取りになり、むしろこれを待ちもうけておられたというような積極的なご様子で、早速案分をご点検になり、ある部分は低い御声で発声して朗読された」のであった。そして、天皇は前田に前記進講で知った後水尾上皇の話(「後水尾上皇がまだ天皇の位におられたときに水疱瘡を患われた。ところが水疱瘡を治すには、おきゅうがいいということであったのだが、現人神たる玉体におきゅうをすえるということは許されないという異議が出たために、ついに譲位をなさって、おきゅうの治療を受けられた」)をあげて、天皇現人神説は「まことに不自由」(前田多門「『人間宣言』のうちそと」[前掲書、22頁])と批判した。この天皇の話は、『昭和天皇実録』巻三十四に収載されているものとと同じである。 なお、12月25日、朝日新聞社の新旧政治経済部長(岸勇夫、田畑政治)が高松宮邸を訪問して、21年正月1日に天皇が人間宣言を発表予定なので、弟宮としての意見の表明を打診されている。29日、高松宮は木下侍従次長を訪ねて「朝日に談話の件」を相談している(『高松宮日記』第八巻、中央公論社、1997年)。21年正月1日、高松宮は、朝日新聞紙上に「御兄君、天皇陛下」を発表し、@天皇の行動では「正しいこと」と「ご慈愛の深いこと」の二つが「色々な風に総合されて出て来る」こと、A「曲がったことがお嫌い」で「正しい」ことを重視することが、天皇に組織と責任を重んじさせる事、B「正しい」ということが暴力を「いけない」とし、「平和的なお気持ち」をもたらす事、C「正しいという面における強い」ことの現れとして「今度の終戦のご処置」のような「一種の捨て身」ということがある事などを指摘した。 次に、五箇条の御誓文の挿入経緯についても、一致していない。幣原・吉田側によると、12月28日に邦訳ができあがり、これを天皇に見せた所、「ことのほかにお喜び」(『幣原喜重郎』673頁)になったが、吉田茂の提言で五箇条の御誓文が挿入されたという(『評伝吉田茂』下巻、読売新聞社、昭和56年、100−2頁)。だが、前田記憶によると、28日、天皇が草案を見ると、「一応ご満足になったご様子」であったが、「静かな口調」で前田に次のように提言した。つまり、天皇は、こうした「進歩的な方向」は「突然に湧き上がったというわけでなく」、「明治天皇が示された五箇条の御誓文」の中に「民意を大いに暢達させるとか、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づく」などの思想があり、これが「築き上げる新日本の伏線」になるから、これを「詔書のなかに含ませてもらえないだろうか」(前田多門「『人間宣言』のうちそと」[前掲書、23頁])とした。この時の天皇提言が、吉田に触発されたのか否かは確かめようはないが、天皇が五箇条御誓文を挿入せよと前田に提言したのは事実であるようだ。 前田は、天皇に「再考の旨」を言上して退出すると、次田書記官長と相談した。二人は、「五箇条御誓文の内容の一部を詔書の文句のなかに取り入れる方法」を検討したが、「うまくいかな」かった。そこで、旧知の木下道雄侍従次長と「種々相談」して、「五箇条の御誓文を冒頭に引用した方が陛下のご趣旨に添う」として、第一節目にもってきた(前田多門「『人間宣言』のうちそと」[前掲書、23頁])。 12月29日、木下『側近日誌』によると、木下は五箇条御誓文ではなく、天皇現人神説について批判を試みている。木下は、詔書案について、午後2時に「前田文部大臣と面談」し、午後3時に上奏前の吉田外相と面談した。午後3時15分、木下は内邸庁舎で天皇に拝謁した(これは『昭和天皇実録』巻三十三によって明らかになった)。次いで、吉田が天皇に拝謁した。午後4時、木下は、上奏後の吉田に会って話すと、「大臣が現神(あきつかみ)と云ふ言葉(木下は、奈良朝頃の宣命では現御神、現神、明神の字の下に必ず「と」をつけてよむことになっている事から、天皇=現神ではなかったと主張ー筆者)も知らぬ程国体については低能である」と吉田を批判した。木下は、「詔書案中気に入らぬことは沢山ある。殊に文体が英語の翻訳であるから、徹頭徹尾気に入らぬ」とした。彼が「彼我の間に要点」となることは、原文で、「日本人が神の裔なることを架空と云」うことは許容できるが、天皇を「神の裔とすることを架空とすることは断じて許し難い」事であった。そこで、木下は、架空なのは、「神の裔」ではなく、「現御神とする事」だとした(以上のことは、『昭和天皇実録』より、この『側近日誌』の方が詳しい)。 そこで、木下は、「民族の神話伝説を尊重し、これについては別段議論せず、只この神話伝説をかざして他民族に優越感をもって臨むのを誤り」という観点から、「凡そ民族には其の民族特有の神話伝説の存するありと雖、朕を以て現神とし、爾等臣民を以て神の裔とし、依って以て他民族に臨み、其の優越を誇り、世界を支配すべき運命を有するが如く思惟するは誤れるの甚たしきものたるを覚らざるへからず」という文章を作った。こう改正しなければ、「国内の深刻なる議論を引き起こす虞れ」(木下『側近日誌』)があると懸念したのである。 夕方、木下は石渡宮相にこれを見せて、持論を述べた。石渡宮相も「英文和訳的の文体にはホトホト閉口の態」であり、木下改正に賛成した。二人は前田文相を訪問して、「もし改めなければ深刻なる国内議論の抗争に遭うべき」事を警告した。明日午前10時に詔書の閣議が開かれるので、前田は「案文を貰いたい」としたので、修正案文を手渡した(木下道雄『側近日誌』89−90頁)。 12月30日朝、木下が藤田侍従長に電話すると、「昨夜予の前田文相訪問と引き違いに、内閣の案文が侍従長及び大臣の手元に届けられた」ことを知った。内閣案文は前田・次田らによって練り上げられ、木下意向が次田書記官長に伝えられる前に、藤田侍従長、宮内大臣に届けられてしまったのである。 午前9時半に木下は登庁して、侍従長に面会して、内閣原案を見せてもらった。もとよりそこには昨日の改正案は反映されていない。そこで、木下は閣議開催前に前田文相に電話して、「昨夜予が与えた文案は採用されぬか」と尋ねると、「次田書記官長に渡して置いたが、原案で閣議に上される故、今からは自分は手を引くから、大臣(宮内大臣)から次田官長に交渉して貰いたい」と答えた。そこで、木下次長は藤田侍従長と協議して、宮内大臣・次官を至急登庁させて、「この問題を協議」し、「閣議が決定されぬ内に談じ込む」ことになった。 そこで、午前10時35分(これは『昭和天皇実録』で明示)、木下は天皇に謁見した後、自動車で首相官邸に行き、「閣議中の次田書記官長を呼び出し、訂正方を促し、かつ石渡大臣が筆を入れた数箇所の写しを手交」した。 午後2時、内閣書記官から電話があり、「四時半頃閣議決定案を持参するから、これを検討して貰いたい」とした。幣原はまだ病臥中なので、前田文相がそれから一時間後に参内・内奏するとした(木下道雄『側近日誌』91−92頁)。午後3時半(これは『昭和天皇実録』で明示)、木下は内廷庁舎御座所で天皇に一時間ほど「拝謁」して報告した。 午後4時半、岩倉書記官が閣議決定案を持参したが、ほぼ木下の修正通りになっていた。木下は「これはこれでよい」としたが、次の箇所は気に入らないとした。それらは、趣旨の改正ではなく、枝葉末節的な文章改正であった(木下道雄『側近日誌』92−3頁)。 午後5時半、前田文相が参内してきたので、木下らは「さらに詔書等の修正を申し入れ、その同意を得」(『昭和天皇実録』巻三十四、193頁)た。午後6時、表拝謁の間で、天皇は前田に謁見して、前田から「詔書案につき内奏を受け」た。午後9時、天皇は「内閣より奏呈の詔書に御署名」(『昭和天皇実録』巻三十四、193頁)になった。 しかし、12月31日午前11時半、前田文相が木下を訪ねて、裁可決定案を「今朝首相の病床に秘書官が報告」すると、「例のむずけしき神の裔の一項は是非Macに示したる原案の通りにして貰いたい」とした。木下は藤田侍従長と相談して、幣原に同意し、正午過ぎ」(『昭和天皇実録』巻三十四、194頁)、食事中の天皇に、「首相の意は、Macに示したる文意を変ずるは、信義にもとるにつき、是非原案通りにしたき意見の由、申し上げた」所、天皇は「承知の上、首相の信義を重んずるを御嘉賞の御言葉あ」(木下道雄『側近日誌』95−6頁)った。午後3時50分、天皇は「改めて内閣より提出の詔書(昭和21年1月1日付)に御署名にな」(『昭和天皇実録』巻三十四、194頁)った。 以上の通り、『昭和天皇実録』巻三十四によって、従来一部不明であった時刻が明らかになった。 人間宣言案の決定 こうして、12月中下旬に人間宣言方針は日本側に十分な暇を与えることなく迅速に決定された。従来詔勅は漢学者の手によって推敲されていた。だが、今回は、これを「宮内省や内閣」の「特別の文章家」に見せたところ、彼らは「かようなものは今まで全然手掛けた事がないから、直すことができぬ」ということになった。古典に探って推敲するには時間的余裕もなかったのであろう。その結果、これは最初の「平易」な詔勅となった(前田多門「『人間宣言』のうちそと」[前掲書、24頁])。 後に前田は軽井沢でヴァイニングに、「神格否定の詔書が文部省の役人によって書かれ、英訳されるにあたってはプライス氏の助言があった」(ヴァイニング『天皇とわたし』99頁)と告げたが、これは人間宣言起草過程(@天皇・国会での言及、宮内官僚作成した案文のGHQ批判、AGHQの原案作成、Bそれを土台に文部省などで日本案作成、C学習院教員プライスの英訳、幣原の推敲、D前田・次田の邦訳、天皇の提言加味して詔勅作成)の一部を言及したものであろう。 前田はクエーカー教徒らしく、日本人は天皇に「神性」があるなどとは思っておらず、「口先だけの形式的な忠誠を払っていただけ」であり、日本の「知識人の大半はこの詔書に苦笑」したとした。しかし、国民一般は、これ以後は明らかに天皇に対して「畏れ多い」という態度を払拭してゆくきっかけにはなった。例えば、ヴァイニング秘書のたねは、天皇にプレゼントするチョコを包装する際、「昔だったら畏れ多くて体中が震え上がっていた」(ヴァイニング『天皇とわたし』102頁)と、ヴァイニングに吐露している。 これは、こうして「日本国民に告げ知らせる」というよりはまずもって「総司令部を安心」させることが目的であり、「軍国主義者たちが天皇を二度と利用しないようにするためのもの」(ヴァイニング『天皇とわたし』101頁)であった。天皇側は、五箇条御誓文などで戦前天皇制のもっていた民主的側面を浮かび上がらせて、そうした天皇の「民主」性を強調して、民主化の方向での天皇制の意義を説いて、国体護持をはかろうとしたのである。 こうして、21年1月1日午後4時半に天皇は「人間宣言」を「報道関係」に公表した(1945年12月31日付マッカーサー宛吉田書簡[『吉田茂=マッカーサー往復書簡集』218頁])。ここで、明治天皇の「五箇条ノ御誓文」を引用して、「須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ」とした。天皇が人間宣言で強調したかったことはこの五箇条の御誓文であり、「民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあった」(『昭和天皇発言録』186頁[中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、496頁])という。 そして、戦禍、困窮に立ち向かうことは「全人類ノ為」であり、「人類愛ノ完成」に向かうことだとした。さらに、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」と、天皇と国民の紐帯の根拠は架空な神話ではなく、「相互の信頼と敬愛」にあるとし、「人類ノ福祉ト向上トノ為」に「朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就セン」とした。これは、来るべき全国巡幸の目的を披瀝するものであった。 マッカーサー評価 この日、マッカーサーは、「天皇の新年の宣言は、私を非常に満足させた。それによって、天皇は、日本国民の民主化の指導的役割を引き受ける。彼は、がっちりと自由化路線に沿って態度をとったのである。彼の行動は、健全な考えの抑えがたい影響を反映している。健全な考えは、止められれない」(国会図書館所蔵、『日本占領重要文書』第2巻、100−101頁)という声明を表明した。これは、マッカーサーが、日本での至上権威たる天皇のイメージを軍事シンボルから民主化シンボルに転換させ、自らの権力を補完させようとしたともいえよう。 一方、この昭和21年1月1日、マッカーサーは念頭メッセージ(『日本占領重要文書』第2巻、日本図書センター、1990年、15−6頁)をも発表した。彼は、ここで、「軍国主義、封建主義、心身の統制の束縛が除去された。思想統制、教育悪用はもはやない。現在全ての者は、不適切な規制なしに、宗教的自由や言論の権利を享受している。自由な議会が保証されている。この国家的奴隷制(束縛)の排除は国民にとっての自由を意味するが、同時にそれは国民に自ら考え行動するための個人的義務を課した。日本の大衆は、自分たちは統治力をもち、なされる事は彼ら自身によってなされなければならないという事実に覚醒しなければならない。新年が、日本大衆にとって、『方法、真実、光明』の始まりとなるように祈る」とした。 こうした封建制廃止については、マッカーサーの信任の厚いハーバート・ノーマン(『日本政治における封建的背景』などの著者)の影響があったとも言われる(竹前発言[竹前『日本占領』65頁])。 こうして、元日に、マッカーサーは、民主化のシンボルとしての天皇を打ち出させ、日本国民が軍国主義・封建主義打破の主体であるとしたのである。これをともに実現するものこそ、憲法改正であった。 以後の天皇像 これ以後の天皇像は、「民主的」に修正されてゆく。 21年1月1日午前、天皇は側近者、皇族、親任官の順に謁見した(『入江相政日記』第二巻、35頁)。これについて、芦田均厚相は、「この儘であっては天皇は今尚現御神(あきつみかみ)であるに過ぎずして、君も人なりしにhumanな感覚が湧き出ない」と批判して、「宮内省の旧態制を今少し民衆化」し、「君臣の間に温かい一脈を通はせる必要がある」(『芦田均日記』第一巻、61頁)とした。 21年1月17日に聴許、策定された「御写真取扱に関する基本要綱」では、今後の「天皇の御写真に対する国民の基本的態度」は、「現人神の御影として宗教的礼拝の対象」ではなく、「日本国の元首、国民の精神的指導者、国民教養の典型、国民大家族の慈父、祖宗列聖の表現者」として「敬愛の至情を捧げて仰ぎ奉るもの」(『昭和天皇実録』巻三十五。15頁)だとした。 23年3月3日、天皇は引見時の服装を「通常服(モーニングコート)」から「平服(背広服)」に改正された(『昭和天皇実録』巻三十七、19頁)。 C 宮内省改革 @ 人員削減 宮内官制縮減 『昭和天皇実録』巻三十三によれば、最初の宮内省改革は20年10月5日になされている。この日、「事務の簡捷を図るため内匠寮・主馬寮を廃止して新たに主殿寮を設置するとともに、総務局を廃止してその所管事項を大臣官房の所掌とする」(同上書111頁)とされた。10月24日には、天皇は木下道雄侍従次長に、「女官を減員する場合における慣例上の留意すべき点を述べ」(『昭和天皇実録』巻三十四、120頁)た。 天皇は、国体護持のために内大臣の廃止を検討する。11月1日、石渡宮相が木戸内大臣のもとに来て、「内大臣府廃止、之に伴ひ宮相奏請者の問題等につき協議」した(『木戸幸一日記』下巻、1247頁)。11月2日、天皇は木下道雄侍従次長に、「皇室が政治的権力を有すると見られることは不道徳につき、内大臣府を廃止することが望ましい」旨を述べ、「万一存置を要するとすれば、侍従長又は宮内大臣をして内大臣を兼任せしめることにつき、宮内大臣と検討するよう」(『昭和天皇実録』巻三十三、131頁)に下命した。木下侍従次長はこの旨を石渡宮相に伝え、石渡が木戸を訪れ、木戸と「内大臣府廃止に伴う諸般の問題につき相談」した(『木戸幸一日記』下巻、1247頁)。6日、石渡が来て、「内大臣府廃止は枢府議長、首相何れも同意なる旨」を木戸に伝えた(『木戸幸一日記』下巻、1248頁)。 11月24日、宮内省の人員削減がなされ、「侍従長に大膳、侍医寮を包含する官制改正」がなされた(『入江相政日記』第二巻、19頁)。また、内大臣府は天皇の政治活動を輔佐し天皇意思を受けて憲法改正を推進してきたが、GHQ指令で廃止された。廃止,木戸は「室に庁員を集め挨拶をなし、乾杯」した。次いで、 天皇に拝謁して、「慰労の御言葉」を受けた(『木戸幸一日記』下巻、1252頁)。この時に削減されて内大臣府職員らは、千葉県の御料牧場などに一時移住した。例えば、内大臣秘書官だった野上秀晴は三里塚の下総牧場で落花生等を栽培し、後に成田市議会議長になっている(徳川義寛『侍従長の遺言』119頁)。 宮内省幹部退陣 21年1月9日、侍従入江は宮内省参事官高尾亮一に、「一月四日のマックアーサー旋風(公職追放対象の拡大)の宮内省の処すべき道」として、「石渡宮相(荘太郎、元大蔵官僚。21年1月辞任)、藤田(尚徳、海軍大将)侍従長(21年5月辞任)、山梨(勝之進、海軍大将)学習院長(21年10月辞任)、桑折(英三郎、海軍中将)傅育官、その外元武官等指令に該当するものはよろしく退陣、以て君側には軍国主義の残滓すらなしということを中外に声明すべき」旨を提唱して、同意を得た(『入江相政日記』第二巻、36頁)。1月15日には、入江は大金益二郎宮内次官(元内務官僚)に、「マックアーサー旋風によって退陣すべきものは須らく退陣するのが国体護持の所以である」と述べて、概ね同意された(『入江相政日記』第二巻、37頁)。1月25日には、禁衛府(20年9月に近衛師団と皇宮警察部を合併して新設)の衛士(約3千の近衞兵が残留)を解散し、長官(長官は前近衛第一師団長後藤光蔵中将)を更迭し、次官菊池盛登を昇格させ、二人は揃って天皇に謁見した(『入江相政日記』第二巻、37頁)。マッカーサーから皇室を守るために、戦前からの軍人・官僚らを宮中から排除しようとしていた。 幣原、吉田はこれに抗議して内閣総辞職をしようとして、吉田はマッカーサーに会って談判したが、マッカーサーは「天皇が再組閣を命じても、自分が許さん」(北『白洲次郎』129頁)などと命じて総辞職させなかった。 この結果、百名余の宮内高等官が退職を余儀なくされ、3月30日、天皇は、「今般の宮内省官制改革に伴う人員整理により退官する宮内高等官百三名に、順次謁を賜い、在職中の労をねぎらわられ」(『昭和天皇実録』巻三十五、68頁)た。そして、3月31日、宮内幹部の官制を改正した。つまり、「宮内省官制改正の件(皇室令第10号)並びに宮内官任用叙等令(皇室令第14号)により親任式を以て任じられる官(宮内大臣、侍従長)、並びに宮内次官・宮内大臣秘書官・侍従次長・掌典長・宗秩寮総裁を除く宮内官は出仕とし、従来の勅任官・奏任官・判任官はそれぞれ一等宮内官、二等宮内官、三等宮内官と改められ」たのである(『昭和天皇実録』巻三十五、70頁)。 A 日本国憲法公布と宮内改革 a 皇室典範改正 21年3月初め、宮内省内に皇室典範改正準備委員会(委員長松平康昌)が設置され、しばしば会議を重ね、「女帝を認めることの可否」、「天皇の庶子を認めることの可否」などが論議された。21年6月20日、同委員会は、「問題点の整理案」を作成して、天皇に奏上した。6月21日、松平康昌委員長らは天皇に、「皇室典範改正原案の審議経過」(『昭和天皇実録』巻三十五、125頁)を奏上した。 7月3日、臨時法制調査会官制(会長は吉田茂首相)が公布・施行され、ここで皇室典範改正の要綱立案が進められ、宮内省からは既に皇室典範改正の問題点を整理してきた宮相松平慶民・同次官加藤進・宗総裁松平康昌・侍従長大金益次郎が参加した(『昭和天皇実録』巻三十五、154頁)。7月9日、宮内省整理案は臨時法制調査会に諮られ、8月30日には聯合国最高司令部との折衝が行われた(『昭和天皇実録』巻三十五、154頁)。 以上の過程で、「男女同権の趣旨からこれを認めるべきだ」として、女帝が問題となった。しかし、「女帝については、史上の先例はおおむね一時の摂位であって変則であ」り、「実際問題として、その配偶者についてむずかしい問題を生ずる」として、これも退けられた(吉田茂『回想十年』第二巻、56頁)。GHQも「あまり文句をいわなかった」。 また、「人間天皇の自由意思の尊重」という観点から天皇退位がとりあげられた。だが、政府は、「退位の制度については、かえって弊害が予想され、皇位の御安泰を害するおそれがある」として、これは定められなかった。9月20日、天皇は皇族親睦会で、「皇室改正問題について、退位に関する条項は入らないこと、皇室会議については国政の問題として、内閣総理大臣を議長とし、皇族二名を参加させる方針となったこと」などを話した(『昭和天皇実録』巻三十五、154頁)。 9月23日には宮内省出仕高尾亮一は天皇に皇室典範改正を言上し、9月27日に原案が完成し、10月26日に皇室経済法案要綱などと共に内閣総理大臣に答申された(『昭和天皇実録』巻三十五、155頁)。 21年11月24日の新聞紙上には、新憲法に呼応した新皇室典範・皇室経済法案が発表された。三直宮家以外は臣籍降下された上に、財産税が課されるので、11宮家51名の生活困難が予想された。11月29日午後2時、天皇は皇族19人を召して、「来春臣籍降下の已むを得ざる事態に付」いて説明した(『入江相政日記』第二巻、96頁)。入江侍従は、日記の「年末所感」に、天皇と同様に「已むを得ぬ」こととしたが、同時に「今までが善過ぎたのであり、その殆んど全部が皇室のお徳を上げる程の事をなさらず、汚した方も相当あったのを考へれば寧ろよい」(『入江相政日記』第二巻、100頁)と、皇族を批判した。しかし、入江は、皇族とは、天皇の徳を上げるためにあるのではなく、広く皇位継承者の補給源になるという役割をもつことを見落としていた。皇族削減は、皇位継承候補削減を意味したのである。 21年12月27日天皇は「皇室典範中 改正」のことを「親告」(神前に報告)する(『入江相政日記』第二巻、99頁)。この改正に第四皇女順宮(厚子)が「ショック」を受け、22年正月9日に、皇居内の呉竹寮で、穂積大夫が「新憲法新典範と婦人」という題で孝宮(和子)、順宮に進講している。陪席した侍従入江は、「いい事を申上げているのではあるが、大夫の話には少しも迫力といふものがない」(『入江相政日記』第二巻、115頁)と批判した。 22年正月16日、皇室典範(62条から37条と簡略化)・皇室経済法が「国会の議決により改廃される通常の法律」として公布され、5月3日日本国憲法とともに施行された。この皇室典範では、旧皇室典範で廃止されたものとして、@第一条で「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」とのみ定めて、「立法過程で問題となった内親王及び女王、庶子の皇位継承資格を認めず、退位規定も盛られなかった」こと、A「旧皇室典範にあった、践祚の際に祖宗の神器を承けること、即位の礼・大嘗祭を京都で行なうこと、一世一元の制についての規定等がなくな」った。一方、旧皇室典範にはない規定として、@「年齢十五歳以上の内親王、王及び女王が意思に基づき皇室会議の議により皇族の身分を離れること」、A「皇太子及び皇太孫を除く親王、内親王、王及び女王がやむを得ない特別の事由により皇族会議の議により皇族の身分を離れること」、B議員10人(皇族2人、衆参両院議長・副議長4人、首相・宮相、最高裁判所長官ら裁判官2人)で皇室会議が新設されることなどがあった(『昭和天皇実録』巻三十六、7−9頁)。 宮内省の宮内府への改組 22年3月12日に、宮内府法が連合国最高司令部の了解を得て(日本国憲法公布を受けて、GHQは宮内改革を促してきたのであろう)、3月15日に帝国議会に上呈され、同月30日に貴族院・衆議院で可決された。第一条で、宮内府は、「皇室関係の国家事務」、及び「政令で定める天皇の国事に関するに係る事務」を掌るとされた(『昭和天皇実録』巻三十六、38−9頁)。 23年4月30日、宮内府施行令の一部を改正する政令が公布・施行され、@「御用掛及び内蔵寮が廃止され、式部官・事務官・技官の定員が縮減」され、A宮内府事務分掌規程も改正され、B宮内府分課規程が全部改正されて長官官房・図書寮・主殿寮に改めら、C長官官房に皇室経済主管(「皇室の経済並びに宮内府の会計に関する事務を掌る」)が置かれ、侍従職・皇太后職・東宮職・式部寮に「各部局の庶務を掌る」事務主管が置かれた(『昭和天皇実録』巻三十七、35頁)。 b 片山内閣の宮内改革 22年9月2、3日、天皇は侍従次長木下道雄に、那須御用邸で「片山首相に連絡すべき旨」を下命した。まず、天皇は一般的に片山の天皇理解を批判する。天皇は、片山は「誠に良き人物」だが、「面識浅き為、予の意見をいまだ良く呑み込みおらざる」ので、「木下から友人の間柄をもって良く諒解させよ」とした。天皇は、すでに松平恒雄参議院議長に片山説得を頼んだようだが、「松平はどうも先入主があり、彼自身の意見が混じって徹底しない所がある」としていた。 天皇は、@「公私の別を立てる」事、A「公を先にし私を後にすること」、B「物事を改革するには自ら緩急の順序がある」事という三つの信条をもっていた。Aについて、天皇は、醍醐天皇(「寒夜に衣を脱がせ給」う事)、仁徳天皇(「民の竈の烟の薄きを見て租税を免じ給」った事)の故事を踏まえて、「全国民が艱苦しておる今日、かかることは犠牲にする覚悟」と説明した。Bについては、「振り子の原理」(「静かにこれを動か」せば「滑らかに動く」が、「急激にこれを動かせば必ず狂う」事)を引いて、「改革しても反動が起こるようでは困る」ということである。 天皇は、片山がこうした天皇の信条を理解せずに、天皇の置かれた「環境が予(天皇)を苦しめ、予が困っているであろうと気の毒がって同情」すると批判する。だが、天皇は、「前述の信条のあることを呑み込んでもらいたい」とする。また、天皇は、片山が天皇に「もっと気楽に行動するように」とか、「生活の上でも一家団欒して暮らす」(木下道雄「御言葉の要旨」[『側近日誌』文藝春秋、1990年、218ー9頁])ことなどを良いと思っていることを批判する。 次いで、天皇は具体的に片山の宮内改革論を批判する。天皇は、「片山の宮内府人事改革意見」について、@片山は松平長官・大金侍従長は天皇「革新思想」を「阻止」していると見ているが、「実際大金の如きは革新派」であり「振り子の原理に順ってこれを急がない」だけである事、A宮内人事で天皇・首相の意見が異なる場合には昔の内大臣のような「調節」役が必要だが、「今はこの役目の人物がおらぬからやりにくい」事、B「宮内府の下僚や外部」には改革で「首切」りにあって「恨み」反発する者がでてくるから、「淘汰もやはり振り子の原理によるを可」とする事、C「日本と英国とは国情を異にするから色々考えねばならぬ点」があるが、天皇は「英国の皇室に学ぶ点が多い」(木下道雄「御言葉の要旨」[『側近日誌』文藝春秋、1990年、219頁])事などとした。 さらに、天皇は、「片山の東宮職廃止意見」について、「片山は皇太子が予の膝下で教育されないことを人間味の欠如として心配」していることを批判する。天皇は、「予の親としての真情から云えば(東宮を)手許に置きたい」が、そのためには宮城内に家をたてたり「目白の学習院に中等科の校舎を建てねばなら」なくなり、不用の財政負担を強いることになるし、「予等の側近者、殊に女官達の皇太子に対する追従や迎合が教育上好ましからず」ということから、「東宮職は現状のまま置くより外に途はない」(木下道雄「御言葉の要旨」[『側近日誌』文藝春秋、1990年、219ー220頁])とした。 22年12月19日、GHQ民政局長は内閣官房長官に、新憲法に応じた一層の宮内府改革を指令してきた。同19日、これを懸念して、内廷政務庁舎で、天皇は宮内府御用掛寺崎英成に、「宮内府長官の人事、宮内府の会計と政府との関係」を述べた(『昭和天皇実録』巻三十六、263頁)。寺崎は、「国会(50万円でも)よりある程度の独立なければ政府の圧力を受ける、政治に超然たる能はず」(『寺崎英成御用掛日記』357頁)などと答えた。「政治に超然たる」位置とは、天皇が政治を上回る位置にあることであり、日本国憲法施行後でもこういう意見があったのである。 22年12月24日には、内廷庁舎御座所で、天皇は、宮内府長官松平慶民から、「片山首相の宮内府改革意見をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、264頁)。12月27日、片山哲内閣は、旧皇室苑地の一部(宮城外苑、新宿御苑、京都御苑、白金御料地)を「国民公園」・「国民庭園」・「国立自然園」んどとして国民に開放することを閣議決定した(『昭和天皇実録』巻三十六、266−7頁)。12月29日、「日本国憲法の施行を機に、皇族と宮内官を除き、この年よりこれ(「歳末祝詞言上のため、有位有爵者・二級官待遇以上の官吏・有爵者など宮中席次を有する者が参賀する慣例」)を廃止」した(『昭和天皇実録』巻三十六、267頁)。 23年2月3日には、片山内閣は、宮内府改革を閣議決定して、@「宮内府を他の総理府外局と同様に総理大臣の管理に属する官庁とすること」(これは、24年6月1日「総理大臣の管理に属する」宮内庁となる)、A「新憲法の精神に基づく天皇の地位について正しい認識を有する人物を首脳部に据えることによって、宮内府の一部に残存すると思われる旧来の考え方の一掃を図る」(以上、『入江相政日記』第二巻、281―2頁、『昭和天皇実録』巻三十七、14頁)とした。 片山内閣は、こうして「日本国憲法の精神に基づく天皇の地位について正しい認識」という問題意識にまで到達したが、2月10日に総辞職してしまうのである。これに対して、戦前からの侍従入江は、「宮内府に対して無理解の干渉をしたものの当然の末路」(『入江相政日記』第二巻、210頁)と、GHQ―片山内閣の宮内府改革に反発している。2月28日、侍従次長が侍従会議で「昨日の部局長会議」で「主として宮内府の機構いぢりと行政政府の話」がでていたことを報告した(『入江相政日記』第二巻、213頁)。保守的な宮内官僚による改革とは、「宮内府の機構いぢり」にとどまらざるを得ず、抜本的改革が阻止されていたのである。こうした宮内府の守旧的勢力が、天皇が「政治的に行動」する温床にもなっていたのである。やはり宮内トップを「日本国憲法の精神に基づく天皇の地位について正しい認識」をもつものに変える必要があったのである。 この「日本国憲法の精神に基づく天皇の地位について正しい認識」という問題意識は、次の首相の芦田均に受け継がれてゆく。 c 芦田内閣(23年3月−10月)の宮内改革 天皇の関心 芦田内閣は片山内閣から宮内府幹部更迭問題を引き継いだ。組閣渦中の23年2月18日、内定庁舎御政務室で、天皇は、宮内府長官松平慶民、侍従長大金益次郎、宮内府次長加藤進から「宮内府の機構改革」について聞いた(『昭和天皇実録』巻三十七、17頁)。2月20日、内定庁舎御政務室で、天皇は、宮内府長官松平慶民、侍従長大金益次郎、宮内府次長加藤進に、「皇室経済会議や赤坂離宮について話題」とした(『昭和天皇実録』巻三十七、17頁)。2月24日、表拝謁の間で、天皇は、「衆議院議長松岡駒吉より、衆議院における後継内閣の内閣総理大臣の指名結果(芦田均指名)についての奏上」を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十七、18頁)。 3月2日、内廷庁舎御政務室で、天皇は宮内府長官松平慶民から「宮内府の人事問題についての言上」を受けた。以後、天皇は、5月に次期宮内府長官らが決まるまで、しばしば宮内府長官松平らを召して、「宮内府人事及び機構改革」を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十七、18頁)。その上で、天皇も人事に注文をつけたのである。天皇は、機構と人事の急激な改革は望まなかった。芦田は、皇室とは関係のない「民主的」人物を登用してGHQ承認のもとに宮内改革を推進しようとするが、天皇は、改革期ゆえにこそ、宮務に通ずる人物を残したいと考えていたのである。 片山・芦田方針 23年3月12日午後2時半、芦田は片山前首相と事務引き継ぎをしたが、片山は、10日認証式の日に天皇から「長官と侍従長は自分の秘書であるから、自分の信頼する者を任用したいと思ふが、何とかGHQでも認めてくれないだろうか」と相談された事を話した。 芦田も片山に、「此件についてGeneral Whitneyの談、及び10日の拝謁の際の経緯」を話した。そして、芦田は片山に「誰か宮内府長官の適任者は無いか」と尋ねると、片山は「東大英文学教授斉藤勇君がよからう」(『芦田均日記』第二巻、75頁)と助言した。実際には斎藤は任官されなかったが、ここに、宮内府長官・侍従長の更迭がはかられてゆく。 宮内府長官人選迷走 23年3月23日夜7時半、宮内府長官松平慶民が芦田のもとに来訪し、「宮内府人事の更新と行政整理の話」(『芦田均日記』第二巻、80頁)をした。芦田は は侍従次長は残すが、宮内府長官の後任候補を誰にするか、式部頭松平康昌をどうするか、 決めかねていた。澤田節蔵(元国際連盟代表、平和主義者)なら「お上もお喜びだらう」などと話した(『芦田均日記』第二巻、80頁)。 3月30日、芦田は金森徳次郎(第一次吉田内閣の憲法担当国務大臣)に会い宮内府長官を打診し、「受けて呉れそうだが、明日返事する約束で別れた」(『芦田均日記』第二巻、84頁)のであった。この30日、内廷庁舎御座所で、天皇は参議院議長松平恒雄の拝謁を受けたが(『昭和天皇実録』巻三十七、28頁)、ここではこうした金森長官候補画策についての天皇の反対などが表明されたのであろう。31日、金森が芦田に、「両院の空気が円満に治まるなら、自信はないが、宮内府長官を受けよう」と表明した。そこで、芦田は、「近々宮内府の松平長官に話し、内奏した上、GHQと相談して、それでよければ両院議長に了承を得よう」(『芦田均日記』第二巻、85頁)と計画をたてた。 4月2日午後、芦田は松平慶民宮内府長官・加藤進次官に、金森候補を打診した。松平は小泉信三を提案したが、芦田が「内情」を話すと、「仕方ない」(『芦田均日記』第二巻、86頁)と諦めた。内情とはGHQであろう。同月5日、ケーディスが来て、芦田に、「実は吉田茂君がMacArthurに直接親展書を送って松平慶民を宮内府長官より去らしむ可らずと言って来たので、金森君の件は同意だが、念の為に申し上げる」(『芦田均日記』第二巻、88頁)と告げた。まさに吉田がマッカーサーに申し入れてきたといことは、宮廷改革の命令者はGHQだということを示唆していよう。 4月7日午後3時、芦田は宮中を訪ね、御文庫で天皇に、「長官には金森徳次郎、侍従長には鈴木次長の昇任」を提案した。天皇は「政府の変る毎に宮内府の長官が交替するのは面白くない」と言ったので、芦田は「その通りで御座います。芦田は決して宮内府が政治に影響せられないことを念願し、金森の如き公平にして透明な人物を御奨め致して居ります」と釈明した。天皇は「現在の長官、侍従長共によく気が合ふ」ともしたが、芦田は「内外の情勢から見て、一応の改組は皇室の御為めであり、又日本の為め」とした。ようやく、1時間半かけて、天皇は「嘉納」した(『芦田均日記』第二巻、90頁、『昭和天皇実録』巻三十七、30頁)。 しかし、4月8日、芦田は、松岡駒吉衆院議長に金森長官人事を話したところ、同席していた参議院議長松平恒雄(元宮内大臣・秩父宮の岳父)が「強硬に反対」した。芦田は、これは「敵本主義」(『芦田均日記』第二巻、91頁)、つまり反対している張本人は松平ではなく、別にいると判断して引き下がる。 4月10日午前、御文庫御政務室で、天皇は「仮床中」でガウンを着て、牧野伸顕の拝謁を受け(『昭和天皇実録』巻三十七、31頁)、宮内府人事は現状維持を助言されたようだ。 4月13日午後4時、芦田は南原東大総長を官邸に招いて、「是非共宮内府長官を引き受けられたし」と頼んでいるから、金森長官は消えたようだ。天皇の嘉納を得た人事が覆ったことになる。天皇が松平恒雄に諮問したのであろう。南原自身は「学園に終始する」といって断った。芦田が適任者を訪ねると、南原は「侍従長ならば高木八尺がよい」(『芦田均日記』第二巻、95頁)とされる。一方、この日、天皇は宮内府長官松平慶民を御文庫寝室に召して、「芦田に対し、長官の交代延期のことを話すように」と命じた(『昭和天皇実録』巻三十七、32頁)。そこで、天皇の意を受けて、松平宮内府長官が芦田を訪問して、「お上は当分現状維持で行きたい御考へで、更迭を延期する訳には行かぬと仰せられる」と申し入れてきた。松平は、最近牧野伸顕が天皇に「現状維持を奏上した」ともいった。しかし、芦田は、「それは宮中のためによくない。自分が悪者になります」とした。GHQが、新憲法に呼応した宮廷改革を命じていたのである。今度は芦田が松平に「堀内君(元外務次官堀内謙介)はどうであろうか」と尋ね、宮内庁長官は代えねばならない方針を再確認している。松平は「よいと思う」と答えている。 4月14日午前11時、ケーディスが芦田を訪れ、ホイットニー意見は「宮内府長官に堀内(謙介、元駐米大使)の件は松平と余り変りはない」というものだと告げた。芦田はこれに反論して、@「松平氏は貴族、堀内は単なるCommoner(一般人)」、A「松平氏は三十年間court(宮廷)にいたが、堀内は今日迄無関係」、B「堀内は曾て在米大使であったが、松岡に首を切られた男で、Anglo-American-phobe(英米を恐れる者)である」と堀内の特徴を明示した。ケーディスは「それでは今一度相談しよう」と話した。さらに、ケーディスは「寺崎太郎(吉田外相に解任された元外務次官、寺崎英成の兄)はどうか」と提案した。「何とか彼を拾ってやって貰ひたい」とまで告げた。芦田は「何とか考えよう」(『芦田均日記』第二巻、96頁)と約束した。 4月21日夕方、芦田は目黒の堀内宅に向かって、「宮内府長官に就任を乞」い、「一時間余に亘って懇請した」が、受諾を得られなかった(『芦田均日記』第二巻、96頁)。4月22日午後1時、堀内が芦田を訪ねて、「宮内長官の候補は何としても辞退する」とした。そして、堀内は田島道治(元日銀参与・大日本育英会会長でクリスチャン[クェーカー])を提案した。田島は安倍能成も推薦していた。芦田は、「よいと思ふが、受諾に難色がある」(『芦田均日記』第二巻、97頁)とした。 同22日午後4時、芦田は田島を外務省に招き、宮内庁長官を打診した。田島は「意外の話。生まれてから考へても見ない事で」と面食らうばかりであった。それでも、田島は、「新しき天皇のあり方」や「退位の然るべきこと」(これは南原、堀内も同様)を話し、「即答は六ケ敷い」と答えた。24日、田島は芦田に、「自信がないから受けられない」と報告した。芦田も」彼が最後として、「最後まで頑張」って、田島は「今一度考える」と答えた。芦田は目に涙をためて、「必死に頼んでいる」と告げて別れた(『芦田均日記』第二巻、99頁)。 4月29日午前10時、天長節で芦田が皇居を訪ねて、松平長官・加藤次長らと話し、「陛下は小泉信三君を是非と申される」と告げた。芦田は「明日、小泉に当たってみようか」(『芦田均日記』第二巻、102頁)と思い直している。 田島信道の受諾 5月6日芦田は田島と三回目の会見をして、「再考を求めた」。5月7日、安倍能成が芦田を訪問し、芦田に「田島君の受諾のために尽力」すると申し出た。安倍も、「宮内府の考方は・・時代との開に案外無関心」(『芦田均日記』第二巻、106頁)としていた。安倍の尽力でついに田島も受諾したようだ。5月10日午前9時、閣議で「宮内府長官に田島君承諾」を報告し、宮中午餐の終了後に、芦田は天皇に「金森の後に田島道治を推薦」すると申し上げると、天皇は「明後日森戸文部大臣と田島とが来る筈だから、其時によく話した上で自分の考を述べよう」(『芦田均日記』第二巻、106頁)とした。 また、芦田は、「新憲法によって(天皇の)国務の範囲が限定され、旧来のように各大臣が所掌政務を奏上致さないことになりましたが、然し陛下に対する閣僚の心持には毫末も変りはありません」と、新憲法下では奏上はできなくなったと天皇を諌めた(『芦田均日記』第二巻、107頁)。 5月11日、小倉庫次元侍従が入江を訪ねて、「新宮内府長官とは面識ある」ので、「何か聞いて、心得に伝へることはないか」(『入江相政日記』第二巻、227頁)としている。その後、小倉は田島を連れて、御文庫で天皇・皇后に拝謁した(『昭和天皇実録』巻三十七、39頁)。 この午後5時から、侍従長、次長、侍従らが一人300円の会費を出し合って、花蔭亭で天皇と山田侍従が将棋をしたり、アメリカのビールを飲んだり、牛鍋中心に食事会を催している。これは天皇と宮内府職員との懇親会であり、「始めての試みであったが大成功」(『入江相政日記』第二巻、227頁)だったようだ。宮内府職員は、マッカーサー宮内府改革指令を意識して、自ら改革しようとしたのであろう。しかし、改革の方向を見誤っている。 5月12日、天皇は田島から、大日本育英会(昭和18年設立)の育英事業に関する説明を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、40頁)。その後に、天皇は、「田島君について御意見を決定され、候補者として御嘉納」(『芦田均日記』第二巻、109頁)した。翌13日加藤宮内府次長が芦田首相にこれを報告した(『芦田均日記』第二巻、109頁)。14日、芦田は外務省で田島と面談した(『芦田均日記』第二巻、110頁)。18日午後、田島が芦田を来訪し、「侍従長に三谷隆信君を推すことに内定」(『芦田均日記』第二巻、111頁)した。19日に、外務省で松平長官・田島と会談して、「侍従長に三谷君を推すことに内定」(『芦田均日記』第二巻、112頁)した。 5月21日、芦田は葉山御用邸に天皇を訪ね、田島を宮内府長官に嘉納された事に礼を言った。天皇は、侍従長は現任の据え置きを望んだが、芦田は「この際とりかへることが内外に好印象を与へる」ので三谷侍従長を嘉納されたいと要請した。これに対して、天皇は、「三谷は知っている。然し大金は当分御用掛りとして残したい。又宮内府長官と同時でないことを望む。少し遅れて発表したい」と話した。芦田はこれを了承し、「式部寮長の松平は留任させたい」とした。 さらに、芦田は、天皇家の団欒、皇太子教育などで意見を交わした。ここでは、後者を見ておくと、芦田は「皇室に於ても一家団欒の御出来になるよう御住居を御考へ願度い。赤坂離宮へ御移り願へないでしょうか」と求めると、天皇は「赤坂離宮については生活に不自由だし、且つ費用がかかるので矢張り当分は現在の御文庫が住心地がよい。慾を言へばもうニ部屋もあると便利だ」と反論した(『芦田均日記』第二巻、113頁)。 5月26日午前、田島が芦田を訪ね、21日の「内謁見」の経過を報告した。彼によれば、「加藤次長なるものが色々と策動する模様」があり、二人は「心外」に思った。芦田は「宮内省の改造の益々急なる」(『芦田均日記』第二巻、116頁)を痛感した。 6月1日午後4時、松平宮内府長官が来て、「月曜日(5月10日)の拝謁以来の話をして、認証式は3日にして貰ひたい」(『芦田均日記』第二巻、120頁)とした。 このように宮内府長官に田島信道が決定したが、彼に決まるまで、候補として外務官僚(澤田節蔵・堀内謙介・寺崎太郎)、金森徳次郎・小泉信三・南原繁など次々と上がっては消えたのは、各候補者は、重責もさることながら、GHQ意向と天皇意向との鬩ぎ合いで複雑な立場に陥ることを躊躇したからであろう。 侍従長 23年5月23日日曜日、宮内府当直中の入江侍従は、鈴木侍従と「役所の人事について色々語り合」(『入江相政日記』第二巻、228頁)っている。5月28日、入江、三井、鈴木侍従は加藤侍従長の家に行き、「酒を飲みながら今度の宮内府の人事について色々聞き、皆で嘆」(『入江相政日記』第二巻、229頁)いた。当時、天皇は小泉信三の侍従長就任を望んだが(徳川義寛『侍従長の遺言』142頁)、田島宮内府長官は改革推進のために気心の知れた三谷隆信学習院次長を侍従長にすることを推薦していた。侍従らは、この人事を慨嘆していたのである。 5月29日、芦田総理が天皇に「拝謁」し、三谷侍従長就任を内奏し、入江侍従らには「いよいよ最悪の事態」(『入江相政日記』第二巻、229頁)となった。天皇は忠誠を尽くす松平慶民宮内府長官のみならず、大金益次郎侍従長二人の同時更迭に悩み、芦田に「色々苦情」をいった。『昭和天皇実録』巻三十七(48頁)には、天皇は、「侍従長大金益次郎の更迭を含む宮内府改革案につき、批判的な御心情を述べられる」とある。芦田は、「政府をやめようかと一瞬考へ」るくらいに苦情を言われた。一旦官邸に戻ると、天皇使者として加藤宮内府次長が来て、「政府は今回の更迭を前例としないことにして、更迭してもよろしい」(『芦田均日記』第二巻、118頁)とした。天皇も今回の宮内改革には相当の抵抗を覚えていたのであるが、背後にGHQの意向があって、それには逆らえなかったということであろう。 5月31日、大金侍従長が官邸に来たので、芦田首相は大金に「宮内省改革の止むなき事情」を話したら、「案外に快く辞表を出し」(『芦田均日記』第二巻、119頁)た。 6月2日、三谷が芦田を訪ね、「侍従長を引き受ける」としたので、閣議で承認を得て、正午にこれを発表した(『芦田均日記』第二巻、120頁)。6月3日午前10時、芦田首相は天皇の求めで参内すると、天皇から「どうすれば旧来の宮内省に対する世評を転換しうるか」とたずね、「それがため政府も努力を望む」とした。さらに、天皇は「時々参内して食糧事情や経済状況を奏上して貰ひたい」(『芦田均日記』第二巻、121頁)と要請した。天皇もようやく今回の人事が宮内省改革になることを理解したようで、「上機嫌」であった。 6月5日午前11時、天皇は田島宮内府長官、三谷侍従長の認証式を行い、ついで新旧宮内府長官、新旧侍従長を謁見した。その後、天皇は新長官、新侍従長を政務室で12時半まで謁見して、「随分お長く」(『入江相政日記』第二巻、231頁)話し合ったようだ。天皇は二人に今後の宮内府の方向について熱心に説いたのであろう。その際、『昭和天皇実録』巻三十七(51頁)にとると、天皇は、二人に「側近等に御談話になった御回顧録をお貸し下げにな」っている。 6月14日夕方、芦田は新旧宮内府長官、新旧侍従長、式部頭、宮内府次長を夕食に招待して、宮内改革への態勢を固めようとした。しかし、旧宮内府長官松平慶民は病欠し、新侍従長三谷、侍従次長鈴木は那須出張で不在だった(『芦田均日記』第二巻、129頁)。 田島は、大金侍従長の再就職先を世話して宮内省での立場をよくしようとした。天皇からも指示されたのかもしれない。7月31日、芦田は蔵相と、「大金元侍従長を日銀の監査役に任命の可能性等」を話した。蔵相は「大金君の件は日銀も大蔵省も反対」(『芦田均日記』第二巻、163頁)だとした。8月3日、田島長官が芦田を訪ね、大金日銀監事に「大蔵省が反対するのは困る」と申し入れた。芦田は蔵相説得を約束した。 宮内府次長 23年6月25日、今度は次長人事が大きな問題となっている。宗秩寮分室で、城、鈴木、犬丸、三井、入江侍従らは、「最近の宮内府の人事の動向について」話し合い、宮内府総務課長犬丸は経済査察庁部長が内定しているが、加藤進宮内府次長の動向が未だにはっきりしないことに困惑する。彼らは、「加藤さんが(次長に)残れば三井さんが総務課長に、石川忠君が秘書課長に、筧君が監理課長に、小畑さんが大宮御所位で済む」が、鈴木一が宮内府次長になれば、侍従次長に城、図書頭に三井、総務課長に鈴木となろうともしていた。 芦田は、「加藤次長なるものが色々と策動する模様」と批判していたこともあって(『芦田日記』第三巻)、7月24日田島長官が芦田を訪ね、加藤次長更迭を決定し(『芦田均日記』第二巻、158頁)、7月29日に加藤宮内府次長は退任し、後任は林敬三(内務官僚)に内定した(『入江相政日記』第二巻、243頁)。 宮廷経費 23年4月9日、宮中で皇室会議が開かれ、23年度内帑費1600万(昨年800万円の2倍)を討議した。松本治一郎は、「国民は凡て筍生活を営んでいるから、皇室も亦食費其他を節約せらるべきこと、皇室御所蔵品が莫大の額に上る」として、内帑費倍増に反対した。松本治一郎とは部落解放全国委員会委員長で天皇制反対論者であった。日本社会党左派の領袖として知られ、昭和23年1月21日参議院初代副議長時代に天皇への「カニの横ばい」式拝謁を拒否したりしていた。しかし、彼のほかに反対者はなかった(『芦田均日記』第二巻、92頁、『昭和天皇実録』巻三十七、31頁)。 4月13日午後8時、芦田は田園調布の民政局Hussey中佐を訪ねて、宮中経費是正論を聴いた。ハッシーは、「宮中の経費が公私混合している。皇太后、両陛下、皇子皇女の侍者は30人だけ内帑費で、残余は役人になっている。侍医が30人、料理人が60人といふ数だ。どうみても人数が多過ぎる」と批判した。さらに、ハッシーは、「宮内省改革はGHQの意嚮だとふれて歩くものもある。これは困る」とした。芦田は、「国民と雖、上述のやうなやり方には賛成しまい」(『芦田均日記』第二巻、95頁)としていたが、それはGHQのみならず、それに呼応した芦田もまた批判の対象となろう。 6月14日、宮内府で皇室経済会議(議長は芦田均首相)が開かれ、松本治一郎のみが宮廷予算に反対した。彼は、廊下を歩きながら芦田に、「大きな予算が出る方がよい。それは天皇制廃止運動の大きな理由になるから」(『芦田均日記』第二巻、129頁)とした。しかし、皇室経済会議で、「経済情勢の推移に鑑み、内廷費の定額1600万円を2000万円に、皇族費の定額30万円を36万円にそれぞれ増額することが可決」された(『昭和天皇実録』巻三十七、55頁)。 24年3月16日には、表二のの間で、皇室経済会議が開かれ、「経済情勢の推移に顧み、内廷費の定額を2千万円から2千8百万円に、皇族費の定額を36万円から65万円に変更すること」を可決した(『昭和天皇実録』巻三十八、29頁)。 宮内改革の動向 芦田は天皇への奏上は控えていたが、23年7月8日、天皇は田島長官を芦田のもとに派遣して、参内を求めた。新憲法を考慮すれば、天皇への政治的対応では法理では控えつつも、心情では請われれば即座に応じるというのが、平均的な政治家と天皇との関係であろう。翌9日午後5時、芦田は宮中を訪ね、@「議会の状況と食糧、衣料等の大体」、Aアイゼンバーガー帰国前の会見、B那須行幸は7月下旬等を話し、天皇は皇族の公職問題を話した。芦田は、「早速にGHQと交渉して決定致します」(『芦田均日記』第二巻、153頁)と返答した。 また、8月29日田島訪問時に天皇から芦田奏上の要請があったのか、9月1日芦田は参内して、@豊作で配給が増加する事(労務加配)、A「公務員法修正に伴ひ各地の国鉄、全逓の職場離脱の問題」、B「阿波丸事件の交渉と最近の経過」、C「張群と会談の件」、D「政局に対するMacArthurの意見」、E解散への芦田・片山の意見などを奏上した。天皇は聞くだけでなく、各項目に質問し、Dに関して、芦田がマッカーサーは「民自党の政権を喜んでいない」とすると、天皇は「意外らしい顔色」(『芦田均日記』第二巻、184−5頁)をしたというから、天皇は民自党政権を望んでいたのかもしれない。 皇居に改称 23年7月1日、「皇居を宮城と称する告示(明治21年10月27日宮内省告示第六号)が廃止」され、新たに皇居と称することになった。宮内改革の一環として、宮城を皇居と改称したのであろう(『昭和天皇実録』巻三十七、59頁)。ただし、明治元年に江戸城が皇居となり、明治21年に宮城と改称されていたから、宮内改革の一環というよりは、実は復古であったとも言える。 d 吉田内閣(23年10月以降)の宮内改革 芦田の任命した田島宮内庁長官は以後も留任したが、吉田政権のもとで改革ペースは鈍化したようだ。田島は保守的宮内官僚の抵抗に直面した。 残った宮務官僚の待遇はよくなっていった。例えば、24年3月28日、入江侍従は「一級官に陞叙するといふ辞令」を受け取り、「早速お上に御礼を申し上げ」ている。天皇はもちろん此の陞叙を知っていて、「御満足の御様子」であった。同僚の侍従村井に聞くと、天皇は村井に「入江を一級にする書類をもう一度持って来い」と指示していた。村井が天皇に辞令を見せると、「もし一級にして罷めさせるといふやうなことだったら大変だから、もう一度よく見たかった」と告げた。宮内官僚が削減されるなか、戦前から侍従を勤める入江は数少ない古参侍従であり、それだけ天皇は強く信頼して手放したくなかったということであろう。入江は、「つくづく思召の難有きを思ひ、奉公の足らざるを思ふ」(『入江相政日記』第二巻、307頁)とした。 機構改革も名称改革にとどまっていた。例えば、24年6月1日には、「国家行政組織法の施行に伴ない、宮内府法及び宮内府法施行令等が改正」され、宮内府は総理大臣の管理下の宮内庁となり、式部寮・図書寮・主殿寮・京都地方事務所は式部職・書陵部・管理部・京都事務所と改正された(『昭和天皇実録』巻三十八、81頁)。6月24日夜、侍従三井は天皇らに、「宮内省から宮内庁迄の機構の変遷」について説明した(『入江相政日記』第二巻、330頁)。 24年5月8日、芦田のもとに田島が訪問して、「退位問題が事無く解消」あいたことを「祝った」後に、田島は侍従職改革について言及した。田島によると、天皇は、「改革は漸進的に行い」、「松平定信は大奥に手をつけようとして失脚したね」と話したという。芦田は、「これは意味の深い御言葉」(『芦田均日記』第三巻、99頁)だとした。 D 皇室財産改革 天皇の皇室財産削減 天皇の皇室財産処分は、国内的配慮というより、対米的配慮から始まった。 『昭和天皇実録』によれば、天皇が最初に皇室財産処分に言及したのは、昭和20年10月4日である。この日、天皇は宮内大臣石渡荘太郎に、「米国の短波放送により、天皇が飢餓に瀕する日本国民を尻目に莫大な財産を所有して安楽に暮らしている旨が報道されていることに対して、下総御料牧場の廃止を仰せられ」ている。これに対して、石渡は「この種の報道を気に留められる必要なき旨」を述べている。 10月17日、宮内大臣官房主管加藤進はGHQ経済科学部に出頭し、「宮内省の一般的組織機構及び皇室財産等に関する質問に回答」(『昭和天皇実録』巻三十三、120頁)した。 また、天皇は、「皇室御所蔵の宝石類の御供出」を木下侍従長に指示し、11月11日に、木下は首相にこれを相談した。そこで、首相が連合国最高司令官に打診すると、「司令官は皇室の人気取り策である」と反対した(『昭和天皇実録』巻三十四、139頁)。 皇室財産凍結 20年11月18日、総司令部から皇室財産凍結に関する覚書(『日本占領重要文書』第2巻、99−100頁)がだされ、「貴国は、皇室財産を含むいかなる取引も総司令部の事前諒解なしに行われないということを確認することを求められているような行動をすぐにとる」事、「貴国は、8月15日以降になされ、皇室家計の通常操作に付随するようなものでない皇室財産の移転は無効にする」事、土地・株券・建物・芸術品などの資産の売却・購入、皇室家計の所有する株券の株主権利の行使、投資先企業の管理、皇室の物や金の下賜などは総司令部の事前了解が必要だとされた。皇室財産の隠匿が禁止されたのである。 この結果、11月3日に元武庫離宮の土地建物を神戸市に下賜したことが「一旦無効」とされた。しかし、12月28日、連合国最高司令部から容認されて、「改めて同離宮の土地建物をその付属地と併せて神戸市に下賜」(『昭和天皇実録』巻三十四、190頁)された。 20年12月5日、24日、宮内省はGHQに「それまで凍結されていたものを改めて申請」し、21年1月18日、「元内大臣木戸幸一への同人退官の際の賜を除き、すべて承認され」(『昭和天皇実録』巻三十五、16頁)た。 政府への皇室財産下賜 天皇はGHQに皇室財産を処理される前にその有効活用を図って国有化しようとしたようだ。昭和21年1月25日、天皇は幣原首相から、「昨日、聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと会見し、天皇制維持の必要、及び戦争放棄等につき談話した旨」の奏上を受けた。すると、天皇は幣原に、「国家再建のために皇室財産を政府に下賜したい旨」を発言し、また「このことにつき近く自らマッカーサーを訪問して、その意向を伝えるため、準備を整えるよう御希望を示され」た。 これに対して、幣原は、「思召しは誠に有り難いが、かつて食糧輸入の見返り物資として、皇室の宝石類を下付されたいとした天皇のお考えを、マッカーサーが皇室の人気取り策と誤解した前例もあるため、熟考を要する」(『昭和天皇実録』巻三十五、19頁)と注意した。 皇室財産開放 天皇は、今後の皇室の基礎として、皇室財産の一部の確保を考えつつ、残りを国民・国庫に移そうとする。 21年2月2日、木下次長は天皇に、「皇室財産中、御料地の処分に関し、この日宮内省としての大体の案を決した旨」を奏上した(『昭和天皇実録』巻三十五、25頁)。しかし、天皇は細部に意見があったようで、2月5日、天皇は木下に、「皇室財産処分に関し、その細目につき種々お気付きの点を伝えられ」た(『昭和天皇実録』巻三十五、26頁)。 2月27日午後、木下侍従次長、宮内次官大金益次郎、帝室林野局長官岡本愛祐は、首相官邸で首相幣原喜重郎、外相吉田茂、蔵相渋沢敬三、内閣書記官長楢橋渡、法制局長官石黒武重、終戦連絡事務局長加納久朗と協議して、「皇室財産を課税目的外の公的な財産と理解することを前提として、加納が中心となって聯合国最高司令官及び同司令部の承認を得るべく努力すること」を決定した。これは、翌28日夕刻、木下によって天皇に奏上された(『昭和天皇実録』巻三十五、46頁、『側近日誌』160頁)。3月1日夕刻、木下は天皇に「皇室財産の取り扱いの経過等につき言上」(『昭和天皇実録』巻三十五、48頁、『側近日誌』161頁)した。 3月4日、幣原首相は天皇に「聯合国最高司令部原案を基礎としてまとめられた日本国憲法草案」を提出した。天皇は木下に、「同案第八条の皇室財産の収受・収支は国会の承認を要するとの規定(皇室に対し又は皇室よりする財産の授受及収支は承諾なくして之を為すことを得ず)につき、幣原に確認するように」と指示した。これだと、皇室財産は国会承認下で存続されることになる。木下は幣原にこの点を確認すると、幣原は、「同案は閣議を経ていない松本個人の試案であり、マッカーサーが同案を承認したとしても、今後改正される余地が残されている旨を確認し、追って奏上する」(『昭和天皇実録』巻三十五、50−51頁、『側近日誌』163頁)とした。3月29日、天皇は宮内次官大金益次郎から「皇室財産処分案について・・説明」(『昭和天皇実録』巻三十五、67頁)を聴取した。 4月10日、宮相松平慶民、宮内次官大金益次郎は、「昨年来より皇室財産の大部を開放して、これを民生の安定並びに生産の振興のために使用したい」という天皇意向を踏まえて、幣原首相を訪問して、協力を求めた。これを受けて、11日、葉山御用邸で、天皇は宮相松平慶民から「皇室財産の開放」について、「内閣総理大臣幣原喜重郎に対し聯合国最高司令部の公式の認許を得るべく交渉を願う書簡を発すること」を容認してほしい旨の奏上を受け、これを許した。この時に開放を予定されている皇室財産は、東京・奈良帝室博物館の土地・建物・設備、学習院・女子学習院などである(『昭和天皇実録』巻三十五、76頁)。 世襲財産 21年7月1日、宮内省(宮相松平、次官加藤、帝室林野局長官岡本愛祐、主殿頭鈴木一、内蔵頭塚越虎男ら)と内閣(国務大臣金森徳次郎、法制局長官入江俊郎、同次長佐藤達夫)は、皇室財産に関して会議を開催し、「世襲財産として残される皇室財産より生じる収益について議論が交わされ」た(『昭和天皇実録』巻三十五、127頁)。 8月6日、法制局長官入江俊郎はGHQ民生局長コートニー・ホイットニーと会談して、ホイットニーから「衆議院に提出された帝国憲法改正案の第84条「世襲財産以外の皇室の財産は、すべて国に属する。皇室財産から生ずる収益は、すべて国庫の議決を経なければならない」を、「一切の皇室財産は国に属する。皇室の支出は国会の議決を経なければならない」と修正を指示された。天皇に世襲財産すら認めないというのである。 当時、自由党・改進党は、皇室財産の国庫帰属に関する規定(現行第88条)は、世襲財産を存置しながら、その収入をすべて国庫に帰属することは不合理であると批判し、自由党・改進党は「せめて世襲財産の収入だけは皇室の御手元金として残そう」(『芦田均日記』第一巻、註、353頁)とした。8月7日、吉田茂首相は議会に来た民政局国会政党課長ウィリアムズに、「皇室財産の問題は政府と宮内省とGHQとの間の協議で解決しうる問題であって之を憲法に記入することは必要なしと思ふ。憲法に書くには皇室の支出は毎年国会の議決を必要とすと規定すれば足る」(『芦田均日記』第一巻、121頁)と主張した。ウィリアムズは「上司に話して何分の返事をする」と答えた。芦田は終戦連絡局を通してこの問題をGHQと交渉しようとしたが、「皆弱腰でどうにもならぬ」状態であった。 8月12日、次官加藤、宮内省出仕高尾亮一(兼法制局事務官)は天皇に、84条の「皇室財産に関する規定の修正問題、及び皇室典範改正」を説明した(『昭和天皇実録』巻三十五、143頁)。8月26日午前、宮内大臣会議室で「関係部局長が出席」し「皇室財産に関する会議」が開かれ、夕刻に松平は天皇に「同会議の模様」を報告した(『昭和天皇実録』巻三十五、148頁)。世襲財産が否定されたことの対応策が検討されたのであろう。 結局、総司令部側からは、むしろ「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」(『芦田均日記』第一巻、121頁)とすべきとの提案があり、皇室御手元金はみとめられなかった。吉田によると、GHQは、これでは世襲財産以外については「皇室は如何に財産を持っても、名義だけで収入は入らない」が、GHQ案だと「一旦は財産を失っても、今後、予算から得る収入を節約し、また献上された財産を積み上げて」「私的財産」を構築する道があるから、このほうが皇室には有利だとした(吉田茂『回想十年』第二巻、45頁)。吉田はGHQ説明に丸め込まれたかである。こうして、世襲財産規定は廃棄されて、第88条は「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」とされたのであった。 皇室御料の解体 22年2月19日、枢密院会議で「財産税法及付属法令を御料に関し準用する等の件」・「租税に関する法令を皇族に適用するの件」などが全会一致で可決され、21日に公布・施行された。これによって、「御料並びに皇族・王公族の財産に対しても戦時利得税の没収を目的とした財産税が課され、御料に対しては総額37億円余の資産中、約九割に当たる33億4千万相当が財産税として物納」された(『昭和天皇実録』巻三十六、17頁)。 22年3月12日、枢密院会議で、憲法88条で皇室財産はすべて国有財産となったことから、「宮城其の他の世伝・御料の解除の件」が全会一致で可決された。これに基づき、翌13日、宮内省は、宮城、赤坂離宮・青山御所、京都皇宮、桂離宮、修学院離宮、正倉院宝庫、高輪御料地、上野御料地、南豊島御料地、畝傍山御料地(奈良)、千頭御料地(静岡)、丹沢御料地(神奈川)、瀬尻御料地(静岡)、木曽御料地(長野・岐阜)、七宗御料地(岐阜)、段戸御料地(愛知)を解除して、国有化することを告示した(『昭和天皇実録』巻三十六、23頁)。 なお、青山御所については、24年11月1日には、御文庫で、天皇は宮内庁長官田島道治に、青山御所を無償払下げすることの可否について談話した(『昭和天皇実録』巻三十八、140頁)。結局、これは払下げられることはなかった。 皇族諸費の議会承認問題 こうして、皇室財産は解体され、皇室諸費は税金で支弁されることになり、国会の議決が必要になる。しかし、皇室経済法では国会の議決なく、皇室諸費が決められていた。 22年3月22日、天皇は吉田首相から、一時間以上にわたって、「皇室経済法の施行に関する法律案への、連合国最高司令部からの修正要求についての奏上をお聞きにな」った。つまり、20日になって、「司令部側から、議会を経ない譲渡・譲受・賜与の限度額、皇族費及び皇族費における皇族が身分を離れる際の一時金額、並びにそれらの取り扱いを定めるのは、帝国議会ではなく、日本国憲法施行後の最初の国会で取り決めるべきであるとの修正要求があ」り、これに対して、司令部と折衝の結果、@「相当の対価による売買等通常の私的経済行為に係る場合のほか、通計50万円を超えない範囲において、その度毎に議決を経なくても皇室に財産を譲り渡し、皇室が譲り受け、もしくは賜与することができるとし」、A「また皇室費は15万円とするが、皇族が身分を離れる際の一時金額については通用しないとする旨の規定を置くならば、これを承認する旨の回答を得」たのであり、こうした経緯を吉田は奏上したのである(『昭和天皇実録』巻三十六、28頁)。皇室経済法は、3月31日に衆議院で可決され、4月18日に公布され、「日本国憲法施行後の最初の国会」で「具体的な定額」が定められるまで暫定的金額が定めらる。 このように、皇室経済法、その施行法は、GHQは「神経過敏」で「なかなか話がまとまらず」、「皇室経済法施行法はとりあえず、暫定法でまかない、本格的な立法は新憲法下の国会に持ち越される結果」(吉田茂『回想十年』第二巻、56頁)となったのである。 E 神道改革 @ 日本国憲法施行前 昭和21年正月4日、宮相石渡荘太郎は天皇に、「昭和20年中の宮中御祭典の滞りなく行われたこと、並びに昭和二十一年を迎え、皇室の祭祀その他皇室諸般の事務につき、万全の方途を講じる旨」を奏上した(『昭和天皇実録』巻三十五、190頁)。人間宣言、憲法改正を実のあるものにするには、天皇の神的存在を規定している神道の改革が不可欠なのである。しかし、前途には多くの「試練」が控えていた。 神道改革 終戦後に進駐してきたGHQでは、神道問題は「早く片付けなくてはいかない」、「これをまず片付けてから、ほかの問題をやろう」(バンス発言[竹前『日本占領』204頁])という気持ちがあったのは、米国のための天皇制の政治的利用のためには神道を「無害」化しておく必要があったからである。 こうした空気は日本政府にも伝わっていた。『昭和天皇実録』巻三十四(177頁)によると、20年12月12日に内閣は伊勢神宮の式年遷宮は「連合国最高司令官の同意を得難き形勢に苦慮している旨」を奏上すると、天皇は「御造営中止の方向にて内務大臣と協議するよう」指示した。12月14日、首相は、「天皇が国民の現状を御軫念になり、神宮式年遷宮の延期と、目下施行中の御造営を中止すべき旨の御言葉を下された」という談話を発表した。 一方、GHQの民間情報教育局(CIE)宗教課課長W.バンス海軍大尉は、SWNCC文書にある「宗教の自由」、上記国務省文書にある「信教の自由」に基づいて、日本の神道を調査して、神社仏閣を見学して、指令案文を作成して、宗教課で討議した上で、20年12月15日に日本政府に国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督、及び弘布の廃止を命じた(神道指令)。つまり、「国家によって公に指示された宗教あるいはカルトを信じるか、信じるように振舞うように直接・間接に強制することから日本国民を開放」すること、「戦争の罪、敗北、苦難、窮乏や現在の惨めな状態をもたらしたイデオロギーを金銭的に支援することの負担から日本国民を引き上げる」こと、「日本国民が恒久的平和と民主主義に基づく新日本を築き上げるのを支援する」ことなどのために、「日本国家、府県、地方政府、公的資格で行動する公務員、属官、使用人などによる神道の資金提供・支援・永久化・管理・普及は禁止され、直ちに停止される」とした。そして、「この指令の目的は、宗教を政治的目的のために誤用することを防ぎ、全ての宗教、信仰、信条を同じ法律的基礎の上におくために、宗教を国家(state)から分離することである」(『日本占領重要文書』第2巻、175−8頁)とされた。 これに対する天皇側の対応が、『昭和天皇実録』巻三十四(185頁)、『側近日誌 木下道雄』(83頁)などから看取することができる。前者が資料を咀嚼して文章化しているので、分かりやすい。12月22日午後7時45分、天皇・皇后は東京帝大教授板沢武雄から「神道指令を主題として・・意見」を聴取した後に「一同と御懇談」した。衆議は、「Mac司令部指令は、顕語をもって幽事を付して取扱わんとするものにして、例えば鋏をもって煙を切るもの」ということに一致したらしい。翌23日朝、天皇は木下に昨夜の進講は興味深かったので、本日の鴨猟に宮内大臣が板沢を派遣して、招待した「Mac司令部高等幕僚」に「板垣の説を聞かしては如何」と提案する。しかし、既に宮内大臣は出発して、この提案は実施をみなかった。木下が天皇に何が興味深かったのかを尋ねると、天皇は、@現神のままでは灸治療が受けられぬので御水尾天皇は灸を受けるために譲位したこと、A「徳川家康の神格化のため徳川幕府の改革が停滞し、遂に破局」したこと、B「君臣の濃情を表現した謡曲が皇室衰微の時代に発達したこと」などと答えた。天皇は、脈絡のない「神」「神格化」と現実との関連の逸話を話したことに興味を覚えたというが、GHQの云う神道問題の核心はそういうことではないのである。そもそも、問題の根源は、的外れな進講をした東京帝大教授なのである。 米国人記者らは、日本人が「その宗教を根底から覆されてもなおかつ反逆しない」ならば、「日本人はもう絶対に反逆しないだろう」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』27頁)と見ていた。これは、米国の日本改革の勢いと方向を見る上で試金石となるものだった。ゲインは、これを発表した民間情報教育局長ダイク准将に、「神道の終焉は、はたして天皇の人間化を意味するものか」と尋ねた。ダイクは、目下のところは回答できないとし、「天皇は依然日本の精神的首長である」とした。 ゲインは、「このあいだ天皇が戦争終了を天照大神に奉告したような、伊勢神宮参拝は将来とも許されるのか」と尋ねた。ダイクは、古来からの宗教祭祀は認めていたから、「その通り」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』29頁)と答えた。 この動きを察知した日本政府は、「天皇が個人的に神社に参拝できなくなるのではないか、伊勢神宮を閉鎖するのではないか」などを心配して、13日、曾禰益をバンスのもとに派遣して、「神道指令を出さないよう」に申し入れた。曾禰はバンス海軍中尉に、「内閣が宗教に関して自主的にやろうとしている事柄のリスト」を差し出したが、「その大部分は神道指令の中味と変わり」がなかった(バンス発言[竹前『日本占領』207頁])。 ダイクの天皇制改革意見 また、『側近日誌』(94頁)によると、20年12月頃ののダイク局長の天皇制改革意見(木下道雄侍従次長がダイクと交友関係ある須知要塞から聞いた意見)は、@「政治に遠ざかる意味」で「京都御移転」、A京都移転後に衣食「潤沢」にした後に「天皇制につき国民投票を行う」事、B「皇太子の米国留学」である。 20年12月30日、木下道雄は、須知要塞などとの会見で「注意すべきこと」として、@「Dykeの意見は宮内省を縮小して省でないものにする」、Aダイクは石渡宮相は「表裏ある人物」として「大臣の位置に居る」を好まない事、Bダイクは「枢密院廃止の意見」をもっていること、C「総選挙を無期延期」して「天皇制について一般投票を行わしめん」としていることを挙げている(『側近日誌』95頁)。 驚くべきことは、木下侍従次長という天皇側近幹部が、須知要塞などの「右翼」と関係があったということである。国体護持の危機にあって、それを深刻に受け止める官僚と「右翼」大物が手を結びだしたということであろう。20年12月31日、午後3時、「人間宣言」起草に危機感を覚えてか、須知要塞が、安藤明、「大石某」(岩村司法大臣の秘書」)を連れて宮城の木下を訪問し、「安藤の計画及び見通し」を伝え、木下に「決死の行動に出でんこと」を求めた。その要点は、「天皇制護持の為、Macに信用なき現内閣(幣原内閣)を倒し、議会を無期延期とし、その間に食糧を輸入して民口を潤し、しこうして天皇制可否の一般投票を行わん」ということであった。そして、「Dykeの意見書及び賠償に関する意見書(米文)等」を手渡した(『側近日誌』96頁)。 21年2月1日、木下次長は天皇に、ブライスが「ダイクの最近の考え」をまとめて英文覚書を説明した。そこでは、「天皇は地方巡幸に先立ち、国民の食糧・農業問題等を御研究になり、同時に国民の住宅問題・健康問題・教育問題等についても関心を持たれ、聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと定期的に御会見になって、意見交換すべき」などとあった。ダイクは、天皇は国民の直面する諸問題に具体的に対処すべきだとしているが、天皇は、「ダイク局長の意見には、日本の元首と米国風の大統領との混同がある」旨を指摘した(『昭和天皇実録』巻三十五、25頁)。 2月14日、ブライスが天皇に進講して、「聯合国最高司令部における教育勅語改正の議論、並びに成人教育策について申しあげたほか、米国人には直接的表現を用いるべきこと、聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと協定して統治に当たり、マッカーサーの為し得ぬことを天皇御自身が行われ、マッカーサーを驚嘆させることが重要である旨」(『昭和天皇実録』巻三十五、31頁)を主張した。これは、天皇・マッカーサー共同統治論の提唱であり、天皇は、ダイク同様、「米国風の大統領との混同」があると思ったであろう。 A 日本国憲法施行後 勅旨奉幣形式の簡略化 22年7月19日、GHQ民間情報教育局宗教文化資源課長ウィリアム・ケネス・バンスは式部官黒田実・掌典矢尾板敦に、「この年5月2日の旧皇室典範廃止についての賢所・皇霊殿・神殿への御親告が宮内省告示として官報(5月1日付)に掲載されたこと」の説明を求め、さらに「宮中の祭祀並びに勅使の性質は変化したものの、神社及び参列形式等が従前と変わりがないため、国家と神社神道の分離が徹底さを欠くように見受けられる」と指摘した。そこで、7月24日、バンスと黒田・矢尾板との第二回会合で、矢尾板は「勅使参向の際の祭式をなるべく簡略化するなど種々考慮する」と答えた。8月1日、旧官幣大社氷川神社(埼玉県大宮市)例祭に際して、奉幣のために、掌典長矢尾板敦を簡略化された形式で参向させた。即ち、事前に掌典職と同社宮司が打ち合わせ、「勅使参向については仰々しさを避けるため、参道・境内の人員整理は最小限に止め、勅使斎館の幕張などの装飾をせず」と、勅使奉送迎を簡略化したのである。さらに、「奉幣の次第」の簡略化(勅使は「従来祭典の開始から終了まで列席した」が、「宮司の祝詞後に参進し、奉幣・祭文奏上・拝礼の後、直ちに退下」する事)、「玉串奉奠」中止も定めた(ただし、これは「当日宮司の強い希望」で実施)。8月2日、黒田式武官はバンスに「簡略化して実施した氷川神社例祭の勅使奉幣形式を報告」し、同意を得たのであった(『昭和天皇実録』巻三十六、98−9頁)。 明治節の廃止 次に、22年11月3日の明治節(明治天皇誕生日)の改正がなされた。 従来は、明治節には「皇族及び元皇族の拝賀を皇后とともに受け」たが、「日本国憲法施行後の諸事情に鑑み(参賀)資格を限定するは適当ではない」として、従来「宮中席次を有する者始め一定の資格者が参内」してきた慣行を廃止した(『昭和天皇実録』巻三十六、217頁)。 新年儀式簡素化 23年1月1日、「昨年五月日本国憲法の施行に伴い、皇室祭祀令が廃止されたため、この年より四方拝と歳旦祭は、従来のように新年式の中で行われず、内廷の行事として行われ」、新嘉殿南庭で四方拝、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で歳旦祭が行われた(『昭和天皇実録』巻三十七、1頁)。次いで、宮内府長官・即金二級官以上、大勲位・内閣総理大臣・最高裁判所長官・認証官・衆参両院議長・同副議長・国務大臣などの新年拝賀を受けた後に、「日本国憲法施行後には国民一般から等しく参賀を受けるべきである」として、正午から午後四時まで「一般の新年参賀」が始められた。参賀者総数は、6、7万人に上って、天皇は「御満足の旨の思召しを示され」た(『昭和天皇実録』巻三十七、2頁)。 1月3日、元始祭は、「昨年の日本国憲法施行に従う皇室祭祀令廃止のため、従来のように新年式の中で行われず、内廷の行事として行われ」た(『昭和天皇実録』巻三十七、3頁)。 1月4日には、「日本国憲法の趣旨に基づき、政始の儀を廃し、奏事始の儀を内廷の儀式として行なうことにな」り、「掌典長から神官及び皇室祭祀についてのみ奏上を受けられる行事とな」った(『昭和天皇実録』巻三十七、4頁)。 講書始・歌会始は従来通り 23年1月28日の講書始は、「皇室儀制令においては、天皇出御の後、皇后が出御される規定であったが、この度より天皇・皇后御同列にて出御されることに改めた」ぐらいで、この講書始は学者・文化奨励者としての天皇の方向とは照応するものであった。この時は、安藤正次(元台北帝大総長)が「東京語の源流」、倉石武四郎(京大・東大兼任教授)が「朱子語類『為学之方』」、安倍能成(国立博物館長、学習院長)が「西洋文化の特質」を進講した(『昭和天皇実録』巻三十七、11頁)。 23年1月29日の歌会始もまた、従来は天皇出御の後、皇后が出御する規定であったが、皇室儀廃止後に「講書始と同様、この度より天皇・皇后御同列で出御されることに改めた」のであった。なお、歌開始の改革は既になされていて、21年10月御歌所が廃止され、図書寮、後に式部寮が主管することになり、22年9月には歌会始詠進歌委員会が設置されていた(『昭和天皇実録』巻三十七、12頁)。 紀元節・天長節の改正 23年2月11日、この日は「従前の皇室儀制令」によれば紀元節であったが、「日本国憲法施行後に一定の有資格者のみに参賀資格を限定することは適当でない」として、今回から廃止された(『昭和天皇実録』巻三十七、15頁)。 23年4月29日は天皇誕生日であったが、「日本国憲法の施行に伴い、拝賀の範囲は、一月一日の新年拝賀者から夫人を除いたもの」とされた。さらに、新年の一般参賀に倣って、「初めて一般の天長節参賀」が行われ、午前8時から午後4時まで30万人以上の参賀者があった(『昭和天皇実録』巻三十七、35頁)。 新「国民の祝日」制定 23年7月20日、従来、「皇室の祭祀と国家の祝祭日とは密接な連関であった」が、「国民の祝日」法を施行して、祝日を「皇室の祭祀と切り離して制定」した(『昭和天皇実録』巻三十七、67頁)。 23年9月14日、連合国最高司令部は、「7月20日制定の国民の祝日に関する法律に基づき、国民の祝日に日章旗を掲揚することを承認する旨」を通知してきた(『昭和天皇実録』巻三十七、87頁)。連合国最高司令部は、既に23年3月1日には、「国家の祝祭日」に日章旗掲揚を許可するとしていたが、今回の国民祝日制定に呼応して改めてこの通知がなされたのである。因みに、日章旗の無制限掲揚が許されるのは、翌24年1月1日である。 神社奉幣の簡略化 23年10月2日、御文庫で、天皇は宮内庁長官田島道治から、「宮中並びに山陵の恒例諸祭及び神官・各神社等に対する幣帛料・神饌料等の変更について説明」を受けた。この変更は、「現下の経済情勢などに鑑みて行われ」、10月5日から「神宮に対する幣物等について神嘗祭・祈年祭・新嘗祭の現品は半減」、「新嘗祭は金幣」、「神嘗祭に際しての荷前調絹50巻は22巻」とした。そのほか、勅使参向も縮小され、宇佐神宮、香椎宮、香取神宮、鹿島神社(以上勅祭社)への勅使参向は「当分の間停止」し、靖国神社への勅使参向も「引き続き停止」(昭和21年度より停止)された(『昭和天皇実録』巻三十七、90頁)。 11月17日からは、新嘗祭における神宮への勅使参向を停止した。24年1月1日よりは、勅祭社以外の元官幣社例祭の幣帛料等や、勅祭社はじめ元官幣社の祈年祭・新嘗祭の幣帛料等の奉納を停止した(『昭和天皇実録』巻三十七、90頁)。 皇室祭祀の改変 23年10月6日、田島宮内庁長官は、「去る7月20日公布・施行の国民の祝日に関する法律が皇室の祭祀と切り離して制定されてことに伴い、明治節祭を取り止めることにつき言上」した(『昭和天皇実録』巻三十七、91頁)。 23年10月11日、「国民の祝日に関する法律」(23年7月20日)が「皇室の祭祀と切り離して制定されたこと」に応じて、皇室祭祀等が改訂され、@歳旦祭(1月1日)、元始祭(1月3日)、孝明天皇例祭(1月30日)、祈年祭(2月17日)、仁孝天皇祭(2月21日)、春季皇霊祭(春分日)、神武天皇祭(4月3日)、天長祭(4月29日)、明治天皇例祭(7月30日)、秋季皇霊祭(秋分日)、神嘗祭(10月17日)、新嘗祭(11月23日)、賢所御神楽(12月中旬)、大正天皇祭(12月25日)は従来通り行う祭祀とするが、「春季皇霊祭・同神殿祭及び新嘗祭には祝日の新趣旨」、「神武天皇祭には紀元節祭の趣旨」、「明治天皇祭には明治節祭の趣旨」を加え、「天長節祭は天長節と改称」すること、A紀元節祭・明治節祭の「皇室祭祀・新制定祝日は祭祀は行わないが、御拝は行なうこと」、B成人の日(1月15日)、憲法記念日(5月3日)、こどもの日(5月5日)の祝日は、「祭祀・御拝共に行わないが、祝意を表すること」、C「天皇式年祭などの臨時祭は従来通り行」ない、「春季皇霊祭・秋季皇霊祭・新嘗祭には、従来どおり認証官以上、及び認証官の次に特に宮中席次を定められた者に案内状を出す」が、元始祭・神武天皇祭・神嘗祭・大正天皇祭には、宮内府長官及び侍従長を除く認証官以上及び認証官の次に宮中席次を定められた者に参列の案内状を出さないこと」、D神嘗祭の前の16日の参列範囲は皇族・元皇族・元王公族・宮内府長官・同次長などとすることと定めた(『昭和天皇実録』巻三十七、94−7頁)。 23年10月17日午前、新嘗祭が行われたが、従来のように認証官以上の参列はなく、10月11日治定で「参列範囲外の認証官の参列」はなかった(『昭和天皇実録』巻三十七、98頁)。 23年11月3日午前、「10月11日の皇室祭祀等に関する御治定」によって「明治節祭を行わない」ことになって、天皇は、「旬祭と同じ形」で「賢所・皇霊殿・神殿において拝礼」した(『昭和天皇実録』巻三十七、105頁)。 24年2月11日午前、「23年10月11日の伺定に基づき、紀元節のお取り止めに代わるもの」として、「賢所皇霊殿神殿臨時御拝」が行われた(『昭和天皇実録』巻三十八、16頁)。4月3日午前、今年から「紀元節際を取り止めたため、そこでの御神楽の儀を神武天皇祭に移して行われることとな」って、「神武天皇祭皇霊殿の儀を行」った(『昭和天皇実録』巻三十八、36頁)。 恩賜財団の改正 24年11月16日、恩賜財団済生会は、「日本国憲法の精神、連合国最高司令部の官民分離令、戦後の社会情勢の変動等への考慮」から、「直接に天皇の勅許、御裁可を仰いで」単なる財団法人となった。これによって、「皇室との関係条項を廃し」(「役職員の任免」に「総裁宮の承認」などは不要となる)、「独立自営を基本方針」とした(『昭和天皇実録』巻三十八、148頁)。 三 華族・皇族解体と温存 天皇は、憲法での天皇制存続を評価し安堵してか、華族制度廃止・直宮以外皇族廃止を苦渋のうちに容認した。 @ 華族廃止 華族制度廃止論 21年10月12日、東久邇宮が木戸に、「臣籍降下の御希望にて御相談」がなされた。木戸はこれは「国を混乱に陥るるの公算も尠少ならず」と思いとどまらせ、「他日全体的に此種問題の考慮せらるる時期に御決行ありて遅からず」(『木戸幸一日記』下巻、1243頁)とした。11月3日、石渡宮相が来て、「東久邇宮殿下 臣籍降下の御希望其他を同盟記者に御談じありたる件」について木戸に話している(『木戸幸一日記』下巻、1247頁)。 10月20日、同盟記者が加藤官房主管を訪れ、「近衛公が、一、内大臣府御用掛を拝辞、二、栄爵拝辞、三、宮内省の徹底的改組(縮小)、四、皇族は御直宮以外臣籍降下、五、華族制度の廃止等の声明を出すとの情報」をもたらしたという。加藤がこれを木戸に伝え、木戸は近衛に電話で確かめると、「全く無根なること」(『木戸幸一日記』下巻、1244−5頁)が判明した。 10月26日、天皇は木戸に、「近衛公の行動、華族制度等の問題」を下問した(『木戸幸一日記』下巻、1246頁)。『昭和天皇実録』巻三十三(126頁)で初めて華族制度問題に言及したのは、この時の下問である。10月29日、石渡宮相が木戸に、「華族制度改正に着手の腹案」を話し「相談」した(『木戸幸一日記』下巻、1246頁)。10月30日柳原伯爵が木戸に「華族制度につき話」をした(『木戸幸一日記』下巻、1247頁)。天皇は、華族制度の廃止ではなく、あくまで華族制度の改正にとどめていた。 華族廃止と一部重視 21年3月5日夕刻、天皇は、幣原首相・松本烝治国務大臣から「憲法改正草案要綱」の奏上を受け、「内閣に一任する」と発言しつつ、「皇室典範改正の発議権留保、並びに華族廃止に際し堂上華族残置の可否」を下問した。早速、この日の夜、閣議でこれが検討され、「議論」となる。結局、司法大臣岩田宙造が、「このような大変革の際に、天皇の思召しによる提案が出ること自体が問題になる」と主張して、「修正が断念され」(『昭和天皇実録』巻三十五、52頁)たのであった。 これまで天皇制が藤原一族、その末裔たる近衛家などとの緊密な連携で維持されてきた事実を想起する時、この元堂上公家華族の存続否認とは天皇制護持には深刻な問題であったのである。故にこそ、天皇は、国体護持には最低限の華族が必要だとして、元堂上華族の存続を企図したのだが、岩田はこの事を理解できなかったのである。しかし、仮に閣議が岩田意見を退けて元堂上華族のみを残す決定をしても、GHQは、暫定的に一代華族のみを残して(後述)、華族全体を廃止する方針(これは憲法案で明示されていた)であったから、この閣議決定を認めなかったであろう。 22年5月15日、天皇は、日本国憲法施行で廃止された元公爵島津久光ら華族173名と会って、「華族制度は廃止となったが、先祖の名を辱めぬよう益々日本再建のために努力することを望む」(『昭和天皇実録』巻三十六、52頁、『入江相政日記』第二巻、134頁)と要望した。天皇は、一般華族にはこういう別離の言葉をかけることしか出来なかったのである。 しかし、元堂上華族は、自分たちの存続を願っていた天皇意向を知ってか、華族廃止後にまとまって行動して、天皇と接触していた。例えば、22年5月16日午後、天皇は旧堂上華族代表の元公爵鷹司信輔以下10名の「拝謁」を受け、「川合玉堂筆の絵画」を献上された(『昭和天皇実録』巻三十六、53頁)。23年11月17日午前、表拝謁の間で、天皇は、京都在住の元堂上華族総代清岡長言より御機嫌奉伺を受け、清岡に酒肴料・反物料等を賜った(『昭和天皇実録』巻三十七、111頁)。 その後の旧堂上華族の動向をみると、旧堂上会という組織と、京都在住旧堂上華族という組織があったようだ。即ち、24年10月20日、表拝謁の間で、天皇・皇后は、「天機並びに御機嫌伺のため参内した旧堂上会理事長鷹司信輔ほか同会役員9人の「拝謁」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十八、134頁)。24年10月27日には、表拝謁の間で、天皇は、「天機並びに御機嫌奉伺」のため京都より参内の京都在住旧堂上華族総代梅園篤彦の「拝謁」を受けている(『昭和天皇実録』巻三十八、137頁)。 この他、旧堂上華族には旧五摂家・御縁故者(明治天皇・大正天皇の縁故者)があって、天皇と定期的にあっていたが、華族廃止後は、天皇は縁故者とのみ定期的に会うことになった。つまり、24年6月24日、「旧五摂家・御縁故者は、かつてこの時期に御陪食等を賜っていた」が、本日から「これらのことが行われなくなり、拝謁の機会も失われた」のであった。そこで、この日、天皇は、表拝謁の間で、縁故者一条実孝(昭憲皇太后[明治天皇皇后]の異母兄一条実良、その実良の子の良子と一条実輝との次女経子の養子が実孝)・柳原博光(明治天皇の皇后愛子の兄が柳原前光、その前光の長男義光の長女福子の養子が博光)の拝謁をお受けにな」った。以後、一条は昭和34年死去まで、柳原は昭和41年死去まで行われた(『昭和天皇実録』巻三十八、104−5頁)。例えば、24年12月22日、表拝謁の間で、天皇は「御縁故者一条実孝・柳原博光」より「歳末の天機奉伺」を受けている(『昭和天皇実録』巻三十八、159頁)。 華族廃止と一院制 3月4日案の憲法13条で華族が廃止されるとされた。マッカーサーは「華族の特権は認められない」とはしていたが、華族制度を即時廃止までは考えていなかった。マッカーサー、ケーディスらは華族即時廃止は検討せず、「華族となっている人たちの地位は一代限りで認めようとした」とするのである。過渡的な緩和策をとって、漸次的に華族を廃止しようとしたのである。 所が、日本側にこの緩和措置に反対するものがいたので、「日本側が一挙に華族制度をも廃止したい」と提案してきたので、マッカーサーらは「一院(衆議院)だけでよい」(ケーディス発言[竹前『日本占領』65頁])ということになった。「民政局のスタッフもみな一院制に賛成」した(ケーディス発言[竹前『日本占領』66頁])。 マッカーサーはホイットニー局長に「ネブラスカの例を話しておられた」ので、「ネブラスカ州議会の一院制」(ケーディス発言[竹前『日本占領』66頁])を参考にしていたようだ。 学習院の独立 22年3月25日には、学習院卒業式が行われた。同時に、長く宮内省管下の官立学校として皇室子弟の教育を担当してきた学習院が、「宮内省の手を離れ」る日でもあり、天皇が出御して、「何卒従来の伝統と誇りを失ふことなく立派な成績が上るやう努力してもらいたい。なほ皇太子始の教育については何分よろしく頼む」(『入江相政日記』第二巻、127頁)と発言した。 学習院が宮内省から独立以後も、天皇・皇后の思召しで多額資金が援助されていた。例えば、23年3月27日、皇室経済会議で、「天皇・皇后より財団法人学習院に対し、昭和22年8月1日より23年3月31日までの期間において金三十万を賜与すること」が可決された(『昭和天皇実録』巻三十七、25頁)。24年3月16日午前、表二のの間で、皇室経済会議が開かれ、「天皇・皇后より財団法人学習院に対し、経営維持のために昭和23年度に20万円を賜与すること」を可決した(『昭和天皇実録』巻三十八、29頁)。 A 皇族解体と保護 皇族削減・弱体化 21年5月21日、聯合国最高司令部が「皇族殿下並妃殿下に関する件」(皇族特権廃止に関する覚書[『日本占領重要文書』第2巻、102−3頁])を指令して、@「宮内省保管の各皇族の総ての証券類を各皇族に返還して課税対象とすること」、A「宮内省より各皇族に対する金員もしくは当該宮家への奉仕を禁じること」、B「宮内省が所有もしくは保管するあらゆる財産に対するすべての権利・権限・利益関与を各皇族から除去すること」を命じた。 5月23日、宗秩寮総裁松平康昌は天皇にこれを報告し、対象皇族は秩父宮・高松宮・三笠宮を含む14宮家だとした。この指令に基づき、宮内省は、@秩父宮・高松宮・三笠宮及び朝融王(皇后の兄)の国債・株式等を7月20日付で各宮家に返還する」こと、A「従来皇族へ贈物の歳費・補助金等を五月分までで打ち切ること」とした(『昭和天皇実録』巻三十五、99−100頁)。 5月23日、天皇は皇族15人(秩父宮・高松宮・三笠宮、博恭王・武彦王・恒憲王・邦寿王・朝融王・守正王・鳩彦王・孚彦王・稔彦王・盛厚王・恒徳王・春彦王)が提出した貴族院議員辞表を聴許した。 こうした皇族の特権廃止に皇族から不満がでてきたようだ。5月29日、天皇は宮内省御用掛木下道雄(5月3日に侍従次長免官となり、宮内省御用掛になる)に、「皇族間において天皇・皇后が皇族に冷淡であるとの評判」に関して下問した(『昭和天皇実録』巻三十五、104頁)。6月8日、枢密院で「帝国憲法改正案を帝国議会の議に付するの件」が取り上げられ、三笠宮は「皇室財産及び皇室典範改正・増補への皇族の参与につき再考を願う旨の意見を表明」して、採決を棄権して退席した(『昭和天皇実録』巻三十五、113頁)。高松宮は初めから出席しなかった。 皇族不満対策 21年5月10日正午過ぎ、天皇・皇后は、枢密院会議室で高松宮はじめとする皇族・王公族27人と会食し、ついで内廷庁舎参殿者休所で茶菓を食べる。以後、「皇族親族会は、天皇・皇后出御の上で、毎日一回お茶の会、三箇月毎に午餐会食が催される」(『昭和天皇実録』巻三十五、93頁)事となる。21年中には、皇族親睦会は6月4日(16皇族・王公族[107頁])、7月1日、9月20日(154頁)、10月8日(161頁)、12月20日(209頁)、22年4月8日(34頁)、9月16日(19皇族、154頁)などに開催された。 7月1日の場合は、天皇発意で皇族親睦会を開催し、「皇族の今後の職業、及び皇族の取るべき態度」を討論し始めた。朝香宮鳩彦王(妻は明治天皇皇女允子、陸軍大将)が皇族のあるべき姿を質問したらしく、天皇は鳩彦王に「徳を磨き徳を以て仁慈の態度を備えるべき旨」を答えた。また、天皇は、皇族弱体化策に批判な高松宮宣仁親王には、「皇族の特権剥奪に対する批評の如き言辞は慎むように」と注意し、この点に関して「同親王と御討論」になっている(『昭和天皇実録』巻三十五、129頁)。 天皇も皇族不満をなだめるために、GHQの皇族改革の是正を直訴した。6月26日夕刻、宮相松平慶民は天皇親書をマッカーサーに手渡し、「去月二十一日付の『皇族殿下並妃殿下に関する件』に関して、皇族の死活問題であり、天皇にも御懸念ある旨を談じ」た(『昭和天皇実録』巻三十五、126頁)。皇居に戻ると、松平は天皇に「マッカーサーの理解を得た旨」を復命した。6月29日、聯合国最高司令部は、「本年度の皇族に対する宮内省予算の支出を認め、宮内省においては六月分以降、毎月贈賜のことに定め」た(『昭和天皇実録』巻三十五、127頁)。 7月18日、夕食後、天皇・皇后は、弟皇族との関係修復を兼ねて、秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子、三笠宮と対面して、「一緒にニュース映画等を御覧」になった(『昭和天皇実録』巻三十五、136頁)。 22年にも、皇族親睦会が正月29日(『昭和天皇実録』巻三十六、11頁)、5月6日(同上書49頁)に開催されている。 皇族の臣籍降下 21年9月5日、宮相松平は天皇に、「皇族の臣籍降下問題ほかにつき」奏上した(『昭和天皇実録』巻三十五、151頁)。元堂上華族を華族として残せなかったことによって、さしあたっての天皇制「人材」供給源は元皇族のみとなっていたから、天皇らは直宮以外の臣籍降下を阻止しようとする。 『寺崎英成御用日記』(239ー240頁)によると、9月7日、寺崎はバンカー大佐、民生局長ホイトニー、参謀第二部長ウィロビー少将らと会い、ウィロビーは「いつでもいい、強制ではない」と言った。これが臣籍降下か否かは不明だが、侍従長が寺崎に「何か改良の余地なきや」と告げているところから判断して、臣籍降下問題の緩和に向けて寺崎がGHQに働きかけを始めたことが推定される。9月9日、「会議 降下問題 拝謁 侍従長と話す バンカーに会ふ話」と、明らかに皇族臣籍降下問題が焦点になっている。 『昭和天皇実録』巻三十五(152頁)によると、21年9月10日、宮相松平は天皇に、「近く宮内省御用掛寺崎英成を聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーに面会させる旨」を奏上して、天皇はこれを聴許した。同日午後、天皇は寺崎を内廷庁舎に召して、この点を話し合った。しかし、GHQは直宮以外の皇族の臣籍降下方針は確定していたようで、マッカーサーは寺崎に会おうとはしなかった。その結果、9月14日、寺崎は天皇に会った後に、「天皇の命により聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと面会する予定なるも 会うことが叶わ」なかったのである。『寺崎英成御用日記』(240頁)によると、寺崎は、バンカー、ウィラーなどの「感じよからぬ」態度に不愉快になっている。彼らがマッカーサーに会わせないようにしていたようだ。午後、寺崎は参内して、この旨を天皇に報告した。15日、宮相松平・次官加藤・宗総裁松平・侍従長大金は天皇に会い、「皇族の臣籍降下につき奏上」している(『昭和天皇実録』巻三十五、153頁)。天皇は、皇族降下問題に対するGHQの強硬態度を理解したようだ。 しかし、21年9月25日、天皇は吉田茂首相に、「皇族の臣籍降下問題につき御沙汰を下され」た。 寺崎ラインが頓挫したので、天皇は改めて吉田首相を介して再考を促したのであろうか。翌26日、吉田は宮相松平慶民に「皇族の臣籍降下問題について説明」した。やはり降下再考は困難ということであろう。同日午後、松平は天皇に、「吉田の説明につき言上」した(『昭和天皇実録』巻三十五、156頁)。 10月11日午後、天皇は宮相松平慶民に、16日マッカーサー第三回会見を控えて、「皇族の臣籍降下問題、及び巡幸問題等につき御会話にな」(『昭和天皇実録』巻三十五、162頁)った。しかし、後述の通り、皇族臣籍降下問題は第三回天皇・マッカーサー会見では問題にのぼらなかったようだ。 11月25日、宮相松平・侍従長大金は天皇に、「皇族の臣籍降下のことにつき、天皇より皇族十一宮家に対しお話を願う旨」を奏上し、天皇は29日に「皇族をお召し」になる(『昭和天皇実録』巻三十五、199頁)。11月29日、天皇は皇族19人(直宮を除く)に、「皇室典範の改正に伴い、翌年以降、直宮を除き臣籍降下のやむを得ざる事態につき御説明にな」った(『昭和天皇実録』巻三十五、202頁)。 降下皇族への一時金支給 22年3月14日、天皇は宮相松平慶民に、「臣籍降下皇族に対する補助金等につき話題」としており(『昭和天皇実録』巻三十六、24頁)、この頃には皇族降下に一時金支給が決まったようだ。22年3月26日夕刻には、天皇は「近く臣籍降下する宮家に対する降下後の宮中における取扱方針」を裁可した。それによると、「降下後の宮家の拝賀、祭典、拝謁、御陪食・賜茶、一般賜謁、婚儀・葬儀その他慶弔に際しての優遇等に関する取扱方針」である(『昭和天皇実録』巻三十六、18頁)。 22年10月13日、内廷庁舎で最初の皇室会議(議長片山首相)が開催され、「博明王始め内親王・王・女王」14方が皇族身分を離れる件、これに伴う「王妃並びに直系尊属の王・王妃・女王」32方の皇族離脱の件、寡妃5方の皇族身分離脱の件が審議された。皇族廃止への経済援助がなされ、軍籍にあった11方を除く40旧皇族に当主には210万円、それ以外には一人144万9千円、計4747万5千円の巨額資金が「一時金」として支給された(『昭和天皇実録』巻三十六、184頁)。 軍籍にあった皇族11人の生活困窮が想定されたが、妃・子供への支給でそれが緩和されることになるようになっていたのである。 10月14日、皇族離脱した11宮家51方が発表された。これによると、内親王1人(故成久王妃房子内親王)・王10人(博明・武彦・恒憲・朝融・守正・鳩彦・稔彦・道久・恒徳・春仁)・女王3人(光子・章子・肇子)・王妃5人(恒憲王妃敏子[九条道孝四女節子が大正天皇の皇后で、道孝長男道実が大谷光瑩の次女と結婚して生んだ四女敏子が賀陽宮恒憲王に嫁ぎ、昭和天皇は従兄]・稔彦王妃聡子内親王[明治天皇第九皇女]・盛厚王妃成子内親王[昭和天皇第一皇女]・恒徳王妃光子・春仁王妃直子)が皇族を離脱した。これに伴い、彼らの子供、王16人(邦寿・治憲・章憲・文憲・守憲・健憲・邦昭・朝建・朝宏・孚彦・誠彦・盛厚・信彦・俊彦・恒正・恒治)・王妃2人(守正王妃伊都子、孚彦王妃千賀子)・女子9人(朝子・通子・英子・典子・富久子・美乃子・文子・素子・紀子)が皇族を離脱した(『昭和天皇実録』巻三十六、188−9頁)。 元皇族の公職追放 昭和21年1月4日の連合国最高司令部による日本政府宛覚書「公職従事に適せざる者の公職よりの除去に関する件」(昭和21年1月30日官報告示)において、罷免及び排除すべき者として職業陸海軍職員が指定された。この結果、「帝国正規陸海軍将校」であった皇族・元皇族が「公職追放の対象」となった(『昭和天皇実録』巻三十七、62頁)。 22年10月14日、11宮家の皇籍離脱に伴い、同日、軍職にあった元皇族11名が公職追放指定を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、62頁)。 菊英親睦会 22年10月14日、皇族親睦会の菊栄親睦会改組により、元皇族の親睦継続を図った。菊栄親睦会では、天皇・皇后は名誉会員であり、「名誉会員以外の成年以上の皇族」、「昭和22年1月1日以降皇族・王族・公族の身分を離れた成年者(ただし、当主の子女はその家を将来相続する者並びにその配偶者に限る)」が会員となる。ここでは、直宮如何の区別はなく、皇族と元皇族は平等に会員なのである。そして、目的は「会員の親睦・知識の増進及び人格の修養を図り、必要に応じ、相互扶助を行うこと」とされた。また、「毎月一回の例会、並びに概ね春秋二季の大会が開かれる」とした(『昭和天皇実録』巻三十六、189頁)。 早速22年10月26日、天皇は北陸行幸中であったので、皇后・皇太后主催で、皇籍離脱した元皇族を赤坂離宮の茶会に招いた。同会には、皇太子・正仁、和子・厚子・貴子内親王、三笠宮夫婦も臨席した(『昭和天皇実録』巻三十六、189頁)。 10月18日には、天皇は皇族離脱者32人と「朝見の儀」を行ない、東伏見周子が「謝恩の辞」を述べた。天皇はこれを受けて、「永く皇族として誠衷を尽くされたことを満足に思います。今後困難なことも多いと思われますが、いよいよ自重自愛せらることを望みます」と、「勅語を賜」った。さらに、天皇・皇后は、「皇籍離脱の各宮家に・・美術工芸品の御物並びに鮮鯛代料を賜」った(『昭和天皇実録』巻三十六、194頁)。続いて、場所を赤坂離宮に移して、天皇・皇后・皇太后は、秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮夫妻とともに、元皇族21人、元王公族4人と食事を共にした。天皇は、「従来の縁故と云ふものは今後に於ても何等変るところはないのであって、将来愈々お互いに親しく御交際を致したい」と述べ、「皆さんもよく私の気持ちを御了解になって機会ある毎に遠慮なく親しい気持ちでお出でなさるように希望致します」として、盃を挙げて「健康と幸福」を祝った(『昭和天皇実録』巻三十六、195頁)。 11月15日土曜日、天皇・皇后は、皇太后、高松宮、三笠宮夫婦を臨席させて、第一回菊栄親睦会大会を開いた。21人の元皇族・元王公族が参加した。余興として下位春吉の口演「天国と地獄」を鑑賞して、天皇・皇族・元皇族が「一体感」「連帯感」を確認した。しかし、国家的保護を受ける天皇・皇族と、庶民生活を余儀なくされた元皇族との間の「亀裂」はじわりじわりと大きくなってゆかざるを得ない。 12月24日、天皇・皇后は、菊栄親睦会会員24人を召して、午餐の会食をした(『昭和天皇実録』巻三十六、265頁)。さらに、天皇が菊栄親睦会基金を自ら出費して元皇族親睦会の恒久化を企図している。こうした元皇族部分の持続が皇太子妃美智子への「旧勢力」批判の温床の一つともなったのかもしれない。 23年5月16日午後、菊栄親睦会会員は、天皇一家とともに、花蔭亭で奇術などを観覧した(『昭和天皇実録』巻三十七、41頁)。23年5月27日、二の間で、天皇・皇后・皇太后は、菊栄親睦会員20人(三笠宮夫婦も含む)と午餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十七、47頁)。23年10月28日正午、表一の間、天皇・皇后・皇太后は、菊栄親睦会会員13人(高松宮、三笠宮夫婦、東久邇成子ら)に「午餐の御陪食を賜」った(『昭和天皇実録』巻三十七、102−3頁)。 24年1月26日、天皇・皇后結婚25周年の祝いについて、昨年式部寮は「大正天皇の例の調査」をしたが、天皇は「目下の情勢により特段の御祝行事は行われない」としていて、側近奉仕者・旧奉仕者・宮内府職員など内輪から「拝賀」を受けるにとどめた。その際、表拝謁の間で、常磐会(学習院同窓会)代表松平信子(元宮内大臣、初代参議院議長松平恒雄の妻、秩父宮雍仁親王妃の母)、菊栄親睦会会員の拝賀も受けていたことが留意される。午後には、表一の間で、天皇・皇后・皇太后は、菊栄親睦会会員である皇族・元皇族・元王公族25人を招いて内宴を開いた(『昭和天皇実録』巻三十八、12頁)。 6月26日午後、表三の間で、天皇・皇后は、皇太子・和子・厚子とともに、菊栄親睦会に出席した。余興として石田貞次郎(天海)などの奇術を見た(『昭和天皇実録』巻三十八、105頁)。10月13日午後、表一の間で、天皇は菊栄親睦会に出席した。秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮夫妻5人、元皇族・元王公族20人に対面した(『昭和天皇実録』巻三十八、131頁)。24年12月21日、表一の間で、天皇・皇后・皇太后は、皇太子・正仁、和子・厚子・貴子とともに、「歳末につき菊栄親睦会会員に午餐の御陪食を賜」った。高松宮夫妻、三笠宮夫妻、元皇族・元王族25人が出席した(『昭和天皇実録』巻三十八、154頁)。 東久邇盛厚・成子夫婦の寵愛 天皇・皇后は、長女成子と東久邇盛厚の夫婦を寵愛していた。天皇・皇后は、宮城のみならず、葉山・那須の御用邸に招いた。例えば、23年3月22日、葉山御用邸で、天皇・皇后は、東久邇盛厚・成子、子息信彦、娘文子と「種々歓談」し、皇太子も加わって、昼食を会食した(『昭和天皇実録』巻三十七、24頁)。 以後、天皇・皇后は長女夫妻と8回も会っている。例えば、3月30日、御文庫で、天皇・皇后は、東久邇盛厚・成子夫妻より「正仁親王の初等科卒業のお悦びの挨拶」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、28頁)。5月8日、天皇・皇后は、東久邇盛厚・成子夫婦が明日港区鳥居坂に転居するにあたり、三種交魚代料・清酒等を贈った(『昭和天皇実録』巻三十七、38頁)。7月14日午後、御文庫で、天皇は、「中元につき参殿の東久邇盛厚・成子・信彦に対面」し、鯉料・御品料を与えた(『昭和天皇実録』巻三十七、64頁)。8月18日、葉山御用邸で、天皇は、御機嫌奉伺のために参邸した和子内親王、東久邇盛厚・成子と対面し、昼餐、夕餐を一緒に食べた(『昭和天皇実録』巻三七、75頁)。10月1日午後、天皇は、「御機嫌奉伺のため参殿した東久邇盛厚・成子と対面」して、三時間にわたって「種々御歓談」した(『昭和天皇実録』巻三十七、89頁)。11月20日午前、御文庫で、天皇・皇后は、東久邇盛厚・成子・信彦・文子と対面し、文子の「七五三の御祝」をした(『昭和天皇実録』巻三十七、112頁)。12月25日午後、御文庫で、天皇・皇后は、東久邇聡子(明治天皇第九皇女)・成子より御機嫌伺を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、125頁)。12月26日、天皇・皇后は、和子、秩父宮妃、東久邇盛厚・成子・信彦・文子と昼餐をともにした(『昭和天皇実録』巻三十七、125頁)。 24年には、天皇・皇后は成子・盛厚夫妻の二男秀彦誕生を祝っている。例えば、24年4月2日、東久邇成子の内着帯につき、天皇・皇后は、皇太后(成子の祖母)に五種交魚代料、東久邇稔彦・聡子(明治天皇皇女)に三種交魚代料を与え、天皇は東久邇盛厚・成子に三種交魚代料を与えた(『昭和天皇実録』巻三十八、36頁)。24年7月29日、天皇・皇后は、東久邇成子が宮内庁病院で出産した第二男子を祝って、三種交魚代料・菓子を「賜」った(『昭和天皇実録』巻三十八、114頁)。24年9月26日、表拝謁の間で、天皇・皇后は、東久邇盛厚・成子、二男秀彦と対面し、秀彦初参内につき五種交魚料を与えた(『昭和天皇実録』巻三十八、124頁)。 王公族特別扱いの停止 朝鮮王族出身の元王公族(李・方子夫婦、桃山虔一・佳子夫婦)には、皇族・王公族廃止後も、天皇は特別に皇室から資金を下賜していた。 しかし、23年9月24日、皇室経済会議で、@赤坂離宮の建物・土地、下総御料牧場・修学院離宮・桂離宮の一部土地を「皇室用財産として使用することを廃止する」事が決議され、A連合国最高司令部の意向により、元王公族に資金賜与する審議が取りやめとなった(『昭和天皇実録』巻三十七、85頁)。 G 旧将軍謁見の抑制 華族・皇族以上に旧勢力の代表者といえば、軍部指導者たる将軍であろう。天皇は、戦前・戦中では親補職(原則中将以上)についた将軍とは頻繁に接見していたが、終戦後もその何人かに単独接見している。終戦後はもとより、日本国憲法公布・施行後も、占領米軍を考慮すれば公職追放されていた旧将軍などとは会わないほうがよかったろう。だが、任命責任者として慰労しようとしてか、天皇は、帰国した旧陸海軍の元将軍らと謁見して、奏上などを受けているのである。 20年12月5日、表拝謁の間で、天皇は、元十七方面軍司令官兼朝鮮軍管区司令官上月良夫(陸軍中将、後に第一復員次官・厚生省復員局長)を引見し、「所管区域における終戦の状況につき奏上を受け」た(『昭和天皇実録』巻三十三、170頁)。 21年11月15日、天皇は、スマトラより帰還の元近衛第二師団長久野村桃代陸軍中将に会って、「師団の最後の状況につき奏上」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十五、193頁)。11月16日には、天皇は、復員司令官9人に会っている(『入江相政日記』第一巻、17頁)。 22年においても、5人の元将軍(小林躋造以外は復員元将軍)と会っている。22年2月4日、天皇は、表拝謁の間で、「今般復員の元南西方面艦隊司令長官大川内伝(捕虜虐待等容疑のB級戦犯だったが、証拠不十分で復員)七元海軍中将」に会った(『昭和天皇実録』巻三十六、12ー3頁)。2月24日午前、天皇は、表拝謁の間で、「今般ラバウルより帰還の元南東方面艦隊司令長官草鹿仕一(元海軍中将)に謁を賜」(『昭和天皇実録』巻三十六、17頁)わった。 22年9月15日、表拝謁の間で、天皇は、「ビルマ国より先月帰還した元陸軍中将本多政材(元第三十三軍司令官)より奏上をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、153頁)。9月26日、天皇は、表拝謁の間で、元海軍大将小林躋造(海軍内部の条約派=平和派・親米派)の拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十六、160頁)。12月24日にも、表拝謁の間で、元南馬来軍司令官木下敏元陸軍中将(大正14年5月航空兵少佐となって以降、昭和11年8月第2飛行団長、昭和18年12月第3航空軍司令官と陸軍航空畑を歩んできた)に単独で会っていた。こういう行動に占領米軍は一切注意することはなかった。 なお、昭和23年7月16日に天皇は元陸軍中将原口初太郎(彼は、陸軍砲兵畑を歩み、陸軍野戦砲兵学校長にまで昇任する傍ら、アメリカ大使館附武官・衆議院議員などを通して対米非戦論・大政翼賛会批判をした反東条派であった)と単独で会っているが、この時には彼は近々離日する米国第八軍司令官ロバート・ロレンス・アイケルバーガー(Robert Lawrence Eichelberger)陸軍中将と「親しい」ということで、天皇のアイケルバーガー慰労の際の「材料」を把握するという名分があった(『昭和天皇実録』巻三十七、64頁)。 また、昭和24年5月11日元陸軍大将下村定に単独謁見しているが、彼は、終戦内閣最後の陸相であり、昭和20年11月28日衆議院本会議での反戦議員斉藤孝夫の軍国主義批判演説には自己批判と謝罪をした人物であった。従って、この二つの謁見は例外的行為とするべきであろう。 四 寺崎英成の活躍ー天皇の対GHQ対策 こうした天皇のGHQを考慮した対策推進過程で、特に宮内省・宮内府御用掛寺崎英成はGHQ関係情報を収集する事を通して大きな役割を発揮した。寺崎自身が外務官僚(駐米日本大使館の一等書記官)としての人脈をもっていたのみならず、寺崎の妻グエンドレン・ハロルド(Gwendolyn Harold)は米国人であり、幅広い在日米国人情報網(グエンドレン・ハロルドは、例えばマッカーサーの高級副官ボナー・F・フェラーズ]の祖母ベッツィー・ハロルドの叔母でもあり、ベーン空軍中佐は「グエンの親友の息子」[『寺崎英成御用日記』212頁、225頁]であった)をもっていて、大いに利用価値があった。なお、娘マリコ(Mariko Terasaki Miller)が戦後『昭和天皇独白録』を文芸春秋に発表したのであった。 @ フェラーズとのパイプ 21年1月24日、吉田茂外相は寺崎に、「宮中のGHQとの連絡係」として松本・沢田節蔵より寺崎が最適だと幣原首相の了解を得たとした。松平慶民宮内大臣は寺崎に、「陛下の『スポークスマン』となり、天皇制擁護に全力を尽くしてくれ玉へ」と告げた。寺崎は、この職務への就任を承諾した(『寺崎英成御用掛日記』文芸春秋、1991年、189頁)。1月30日、寺崎は外務次官松島鹿夫に、この職務は「陛下の身代わり故 高くなければならぬ 大いに気合を掛けている」と覚悟を語っている(『寺崎英成御用掛日記』191頁)。 『寺崎英成御用日記』(『昭和天皇独白録』に収載)によると、21年3月中旬頃から寺崎はGHQの軍人、とくにマッカーサーの軍事秘書フェラーズ准将と頻繁に会うようになる。フェラーズは、GHQの重要情報を寺崎のもたらし、それが寺崎から天皇らに伝えられた。天皇は寺崎の活躍を評価しており、21年4月2日に寺崎は宮内大臣官房特別渉外事項担任を命じられている(『昭和天皇実録』巻三十五、71頁)。後述の通り、第二回天皇・マッカーサー会見のお膳立てにも尽力している。 天皇は、こうした寺崎活躍を支えていた妻グレンのことも評価していた。21年8月27日、天皇・皇后はグレンに会い、「日本滞在中の国民の反対や日常生活等」について下問した(『昭和天皇実録』巻三十五、148頁)。『寺崎英成御用日記』(235頁)には、「うちとけた感激すべきもの」とある。グエン『太陽にかける橋』(『寺崎英成御用日記』に所収)では詳細な記述がなされていて、最後に天皇はやはり重要情報をもたらす「フェラースのことについてご質問をし」、彼の功績を評価しようとしたのであった。 なお、フェラーズは21年11月に軍を退職しているから( Webpage‘ Bonner Fellers’ maintained by the family of Bonner Fellersなど)、フェラーズは終戦後1年間においてGHQと天皇との一仲介として重要な役割を演じたことになる。22年9月12日、寺崎は天皇に「軍事秘書ボナー・フランク・フェラーズのこと」を報告している。フェラーズは、7月に帰米すると、雑誌Reader's DigesにtHiroshito's Struggle to Surrenderを発表して、「天皇あるいは日本政府を通じて知った降伏の事実として、昭和20年8月14日の御前会議で、天皇が軍の反対を押し切り降伏を決定したことを記述」していた。この情報の有力源泉の一人が寺崎であったことは言うまでもない。『寺崎英成御用掛日記』(330頁)では、「拝謁、フェラーズの事」と記述されているのみである。 A 天皇のGHQ意向把握要請 寺崎は、フェラーズ退職後には、GHQのバンカー大佐を中心としつつ、ホイットニー、アチソン、コーエンなどとも幅広く接触して、天皇に必要情報をもたらしてゆく。 22年2月3日、天皇は寺崎にゼネラルストライキ・総選挙へのGHQ意向を探るように指示した。そこで、寺崎は副官ロレンス・エリオット・バンカーに会い、「マッカーサーの指令により中止された去る1日のゼネラル・ストライキへの政府の対応」、「今後実施予定の総選挙の日程」に対する意見を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十六、12頁)。『寺崎英成御用日記』(292頁)によると、バンカーは寺崎に、「公安、公共の利益を侵害する『スト』は鎮圧すべき法律を吉田内閣は出すべきだった」のであり、「司令部はOKすべ」き事、A「総選挙の日取りを何故発表しないか、ストにも好影響ありたるならん」事などを答えた。寺崎は参内して、内廷庁舎で天皇に報告した。5日午前にも、天皇は寺崎を召して、「再びバンカーの意見を話題」にした(『昭和天皇実録』巻三十六、12頁)。 2月14日、天皇は寺崎に、「民政局長コートニー・ホイットニーと寺崎が会うことについて話題」とした(『昭和天皇実録』巻三十六、16頁)。 寺崎は、22年4月中旬から5月中旬まで病床にあり、天皇は心配して西野侍医(4月12日、5月31日)を差遣し、野菜などを下賜してきた(『寺崎英成御用日記』312−頁)。5月27日、寺崎は、中野から、牧野伸顕が「天皇陛下の御信任厚き寺崎君の快くなるを一日も早く祈り居る」旨を言っていたことを聞かされた(『寺崎英成御用日記』315頁)。 22年6月27日、天皇は内廷庁舎御政務室で侍従長大金益次郎とともに寺崎の拝謁を受けた。天皇は寺崎と「昨日寺崎が連合国最高司令部参謀第二部民間情報局ポール・ラッシュらと会談した」ことを話題とし、「宮内府御用掛奥村勝蔵の後任通訳候補」について聞いてきた(『昭和天皇実録』巻三十六、88頁)。 寺崎は、第二回以降の天皇・マッカーサー会見のお膳立て、天皇の安全保障の伝達などにも尽力するが、これは後述される。 B 天皇の寺崎評価 このように、寺崎は天皇の対GHQ対策面で積極的に働いたことから、天皇からは終始評価され、頼りにされていた。就任当初から、天皇は幣原に、21年4月1日、5月18日の二度にわたって、「いい人を紹介・推薦してくれて有難う」と謝意を表明していた(『寺崎英成御用日記』212頁、224頁)。 『寺崎英成御用掛日記』(文芸春秋、1991年)では、昭和24年以降の日記は欠落している。そこで、『昭和天皇実録』によって、24年の寺崎動向を瞥見してみよう。 24年1月4日、表御座所で、天皇は侍従職御用掛寺崎英成の拝謁を受け」た。寺崎は本年6月24日に辞任するが、それまで天皇は「しばしば拝謁を受け」て、「マッカーサーとの御会見関係を始めとする」連合国最高司令部側の情報などを聞いた(『昭和天皇実録』巻三十八、3頁)。 6月24日には、表拝謁の間で、天皇は侍従職御用掛を退く寺崎英成に「拝謁」した(『昭和天皇実録』巻三十八、104頁)。天皇は寺崎に、御紋付銀製花瓶及び金員を与えた(『昭和天皇実録』巻三十八、104頁)。7月4日、花蔭亭で、天皇・皇后は寺崎英成・同夫人を招いて、昼餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、107−8頁)。夫人のグエンを招いたのは、寺崎を支えた「内助の功」を評価したからでもあったろう。 7月5日午前、表御座所で、天皇は田島長官から、「寺崎英成の侍従職御用掛退任につき説明をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十八、108頁)。天皇は寺崎辞任には納得がいかなかったようだ。10月31日午後、表御座所で、天皇は宮内庁長官田島道治に「寺崎英成のことにつき話題」とした(『昭和天皇実録』巻三十八、139頁)。天皇は、まだまだ寺崎を留任させておきたかったのである。 五 天皇独白録の作成ー天皇の戦犯対策 天皇は、戦犯になって戦争責任を追及されることをなかば想定して、腹をくくって、GHQの動向、極東軍事裁判などに対応して、天皇側近の意見を統一するとして、側近らと想定解答集の「回答篇」の如きもの(これが昭和天皇独白録である)を作成したり、数回補訂したりしていた。 天皇・木下侍従次長との記憶整理 天皇は独白録作成に先立ち、数回、木下道雄侍従次長と開戦経緯などの記憶を整理しはじめていた。これは『側近日誌 木下道雄』(文芸春秋、1990年)にも述べられているが、『昭和天皇実録』の方が詳しい部分もある。 昭和20年11月2日には、初めて「昭和16年9月6日の御前会議」・東条内閣組閣時の白紙還元・米国最後通牒到来経緯などの記憶整理がなされるが、これは両資料ともにほぼ同じである(『昭和天皇実録』巻三十三、131頁、『側近日誌 木下道雄』23−4頁)。20年12月5日の第二回記憶整理では、東条内閣組閣時の白紙還元について木下から質問がなされ、天皇が「東条に対する直接の言葉はなきも、内大臣より東条に敷衍して説明したはずである」と、「御記憶」を述べている(『昭和天皇実録』巻三十三、170頁、『側近日誌 木下道雄』72頁)。12月11日には、天皇は木下に、日独伊三国同盟・陸軍海軍の開戦上の齟齬・海相吉田善吾の苦衷・軍部内部の下克上について語っている(『昭和天皇実録』巻三十三、176頁、『側近日誌 木下道雄』74−5頁)。 天皇の苦衷 極東委員会の憲法改正機運、GHQの議論に対しては、天皇は、終戦を主導できたのに、なぜ開戦を抑えられなかったのかなどを追及され、天皇制廃止論議を誘発するのを懸念し始めた。そして、天皇が戦争を止めたとした有名になるにつれて、ではなぜ天皇は開戦したのかが喧しくなってきた。こうして、21年2月頃には、天皇は、「この戦争は私が止めさせたので終わった。それが出来たくらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのかという議論」が「一般」で問題になってきたことを気にし始めたのである(藤田尚徳『侍従長の回想』205頁)。国体を護持するために、天皇はこの問題に追い詰められて、これに答えることが必要になっていた。 21年2月、藤田尚徳侍従長が奏上のために天皇に会った際、天皇が藤田に椅子をすすめて語り始めた。天皇は、「苦しみがあってもうったえるべき人のな」く、「グチのやり場もない」存在であった。天皇が「心境を他人に表明なさったことなど」これまでの一生で一度もなかったろうが、天皇は藤田に「この大戦争についての陛下の積りに積った苦悩の告白」をはじめたのであった(藤田尚徳『侍従長の回想』204頁)。 天皇独白録の発端 21年2月25日、天皇は、今度は木下道雄侍従次長に、「戦犯審判開始が漸次遅るる訳は、M司令部に甲乙に議論のある由、・・側近としても、陛下の御行動につき、手記的なものを用意する必要なきや」と「御下問」した(木下道雄『側近日誌』文芸春秋、『昭和天皇実録』巻三十五もほぼ同じ)。藤田侍従長の場合とは異なって、天皇は手記の必要如何を問うてきたのである。その際、天皇は、「昭和十六年十二月八日の外務大臣東郷茂徳が米国大統領の親書を持って拝謁した時の御言葉及び奉答」、「十二月六日、我潜艦二隻撃沈のこと」、「米大統領の親書に関する毎日新聞の十一月か十二月の記事」などにつきお話になった。天皇は、この手記によって、記憶の整理による見解の要約をしようというのであろう。 21年2月20日、寺崎は宮内省御用掛に就任した(『寺崎英成御用掛日記』196頁)。2月28日、木下次長は天皇に「寺崎御用掛の事」を報告する(『側近日誌』160頁)。3月9日午前、天皇は御文庫で新たに宮内省御用掛に任じられた寺崎英成に謁見した(『昭和天皇実録』巻三十五、54頁)。この時が寺崎が天皇に会った最初であった。御用掛就任から天皇接見まで約二十日も要したのである。フェラーズは寺崎に「寺崎が容易に拝謁出来ぬ」のは「側近に未だ妙な人間が居るのではないか」と告げた(『側近日誌』167頁)。3月13日、寺崎は木下に連れられて天皇に会うと、天皇は「戦争の原因や事情等、種々御心境を述べられ」(『昭和天皇実録』巻三十五、55頁、『側近日誌』168頁)た。この心境吐露は二時間近くに及び、寺崎は「疲れた」とのみ記して、内容の記述を控えた(『寺崎英成御用掛日記』203頁)。 天皇独白録の作成 21年3月18日午前10時半から12時頃まで、天皇は御文庫政務室に寝台を入れ、宮相松平慶民、侍従次長木下道雄、宗秩寮総裁松平康昌、内記部長稲田周一、宮内省御用掛寺崎英成を前に「田中義一内閣以降の事変・国政ほか、今般の戦犯裁判に関係ある事項を、御記憶の中より御談話にな」(『昭和天皇実録』巻三十五、58頁)った。寺崎は「お文庫にて陛下の話を聞く」とあるのみだが(『寺崎英成御用掛日記』205頁)、木下は、@天皇が田中義一首相の上奏を拒否した理由、A「倫敦会議、末次(信正海軍大将、軍令部次長)の宮中府中混同。加藤(寛治)軍令部長の辞表提出」、B満州事件において奉勅命令で「軍が長城線を超えんとすること」を止めたこと、C上海事件で天皇は派遣軍司令官白川義則陸軍大将に進軍停止命令を出したこと、D二・二六事件において「首相所在不明の為、自ら討伐命令を出し」、「反徒を優遇」しかねぬ「主犯三人の自殺の検死使派遣」を拒否した事、E「広田内閣のとき、勅令を変更して大臣を現役の者の限定」した事、F第一次近衛内閣の時に、天皇は対支和平を推進した参謀本部の次長多田毅陸軍中将に親しい板垣征四郎陸軍中将を陸軍大臣にして、対支和平を試みたが、「好機を逸した」事、G板垣陸相の三国同盟論は「国民の心を英米に向けさし、始末に困る対支問題から心を外に向けさせる策」(『側近日誌』172−3頁)だった事など、天皇がいかに陸軍を抑えて和平に留意したかについて詳細に述べている。 3月20日午後3時10分から5時まで、天皇は御文庫に寝台を入れて仮床のまま五人に、「阿部内閣・米内内閣倒壊の原因、三国同盟、昭和十六年九月六日の御前会議、東条英機の人物論、真珠湾攻撃の計画等について御談論」(『昭和天皇実録』巻三十五、59頁)した。『寺崎英成御用掛日記』にはこの時の記述はないが、木下『側近日誌』には項目のみが書かれ、「詳細は目下多忙につき、葉山に供奉の際まとめる」予定だとした。 3月22日、天皇は上記5人に、「東条内閣の成立、開戦防止の努力、開戦の詔書、詔書渙発の拒否、陸海軍の不一致等について御談話」(『昭和天皇実録』巻三十五、61頁)した。4月8日、午後4時半から6時頃、8時から9時、葉山御用邸で、天皇は五人に、「戦争中の諸件について御談話」(『昭和天皇実録』巻三十五、74頁)になった。翌9日にも、天皇は五人に、「回顧談をお話しにな」(『昭和天皇実録』巻三十五、74頁)った。 これは訴追などいざという時に備えて作成されたものだが、松平康昌がこれをもとに「天皇陛下と終戦」というメモを作成して、GHQ参謀第二部の部長ウィロビーに渡していた(勝田龍雄研究[徳川義寛『侍従長の遺言』214頁])。これは、天皇免責根拠となった終戦功績を当たり障りのないように強調して再確認させたものであろう。 以後、稲田記録を基に木下道雄を中心としてまとめる。「記録上不明瞭な点」について「木下が時々天皇に伺って添削を加え」、これに五名が目を通して、7月17日、天皇は侍従次長稲田周一から「大東亜戦争に関する御回顧録」を受け取った(『昭和天皇実録』巻三十五、135頁)。 極東国際軍事裁判推移と独白録補訂 これ以後、天皇は、「これに自ら添削を加えられ、また極東国際軍事裁判での議論なども考慮されながら、・・しばしば木下及び稲田をお召しになり、種々の御意見を述べられ、また追加して御談話になり、時には修正を命じされ」たのであった(『昭和天皇実録』巻三十五、135頁)。 21年7月中下旬頃、フェラーズは穂積重威、ウィリアム・ローガン(木戸幸一弁護人)に、「降伏の際に天皇が果たした役割を示す記録の有無」、「米国のビラを天皇が最初に読んだ時期」、「天皇が和平を決断した時期」、「真珠湾攻撃に関しての天皇の反応及び発言」、「宣戦布告を阻止するための努力の有無」について回答するように要求してきた。極東国際軍事裁判で天皇の戦争との関わり合いが問題になってきたのである。穂積らは、独白録作成者らと会って、回答書を作成した。8月2日午前、侍従次長稲田周一はこの回答書を天皇に提出した。同日午後、天皇は、稲田を召し出して、「回答書に・・異議なき旨」を答えた(『昭和天皇実録』巻三十五、141頁)。 10月1日には、天皇は宮内省御用掛木下道雄・前侍従次長稲田周一から、御回顧録の奉呈を受けた。天皇はこれに目を通して、夕刻に彼らに下げ渡した(『昭和天皇実録』巻三十五、158頁)。 10月7日午後1時45分から3時10分、「10月1日奉呈の御回顧録の追加」として、天皇は内廷庁舎御座所で侍従長大金益次郎、御用掛木下道雄、前侍従次長稲田周一に、統帥事項等の回顧談を述べた。10月15日、11月5日(木下欠席)にも、天皇は、「満州事変・上海事変・大東亜戦争などの作戦用兵、また戦後の国家・国民などへの想い」を話した(『昭和天皇実録』巻三十五、160頁)。極東国際軍事裁判で天皇の戦争との関わり合いが問題になってきて、天皇が各戦争に絞り込んで回顧したのであろう。 11月12日、21日に、木下・稲田・大金は天皇から「お話を伺った上で、去る三月以降拝聴した御談をまとめて」、11月30日に侍従を通じて天皇に提出した。12月3日、木下・稲田・大金は、天皇から「訂正御意見を承」った(『昭和天皇実録』巻三十五、160頁)。 22年正月7日、天皇は「昨今極東国際軍事裁判において、戦中捕虜虐待その他非人道的な行為に関する軍命令があったといわれることに関して憂慮」されて、侍従長大金益次郎・元侍従次長稲田周一・宮内省御用掛木下道雄に、「昨年まとめられた御回顧録のうち、作戦用兵に関わる内容の補足として、軍命令と大本営令(奉勅命令)の性質についてお話しにな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、3ー4頁)。 22年11月7日にも、キーナン首席検事らの動向に対応して、22年11月7日、天皇は、午前中2回、内邸庁舎御座所で、宮内府長官松平慶民、侍従長大金益次郎、侍従次長鈴木一、宮内府次長加藤進、式部頭松平康昌、内記課長高尾亮一に、「御回顧録作成」のため、戦時中のことをお話しにな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、219頁)。松平慶民、松平康昌は第一回以来のメンバーはであり、大金は以後の補訂メンバーであり、残り二人は職掌上で今回初めて参加している。 23年1月6日、天皇が宮内省御用掛寺崎英成に、「昭和16年の米国及び英国に対する宣戦布告についてお話にな」った。以後も、天皇はしばしば寺崎に会い、「戦争犯罪に関する連合国最高司令部側の情報などをお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十七、4頁)。 23年2月26日午前、御書斎で、一時間半にわたって、天皇は、宮内府長官松平慶民、宮内府次長加藤進、侍従長大金益次郎、侍従次長鈴木一、長官官房文書課長高尾亮一、式部頭松平康昌に、戦争経緯などについて話した。以後、極東国際軍事時裁判が23年11月に判決を下すまで、この年には、3月25日、5月3日、6月2日、10月27日、12月1日(この日は「岡田内閣について回顧され」た)にも「談話の機会」を設けている(『昭和天皇実録』巻三十七、18頁)。 このように、天皇は、国際極東裁判所の推移に応じて、国体護持の訴追対策として、2年間にわたって、天皇独白録の作成・補訂・追加などに従事していたのである。 六 皇太子教育ー退位対策・存続対策 天皇は、退位にも備えて、後継者の皇太子教育にも終始熱心であり、皇太子教育会議を催すのみならず、ヴァイニング夫人を家庭教師につけたり、東宮侍従長らから成績などしばしば聴取していた。 @ 東宮大夫穂積重遠らの皇太子教育 @ ヴァイニング訪日前 21年1月31日、天皇は東宮大夫穂積重遠に、「昨年十二月三十一日聯合国最高司令部より発せられた『修身・日本歴史及地理の学科課程停止に関する覚書』の皇太子教育への関わりについて御下問」(『昭和天皇実録』巻三十五、23頁)した。天皇は、GHQの教育方針の皇太子への影響にも真剣に考慮していたのである。 東宮御学問所設置問題 21年2月7日、侍従次長室で、皇太子進学に関して、宮内次官大金益次郎、宮内大臣官房主管加藤進・東宮侍従長穂積重遠・東宮侍従角倉志朗・同栄木忠常・宮内省御用掛野村行一・学習院院長山梨勝之進らが会議を開催した。東宮職原案では、「学習院中等科への進学という形式をとりつつ御学問所を東宮職に付置する」とあったが、宮内(大金・加藤)や侍従長(木下)は「東宮御学問所を制度として規定する必要なし」と反対し、宮内大臣松平慶民の決裁を求めることになった。松平は「東宮御学問所を制度として規定する必要なし」ということを決裁した。 13日、東宮大夫穂積は天皇に、「皇太子の学習院中等科への進学、及び東宮御学問所を制度として設置しない件」を内奏して、天皇の「お許し」を得た(『昭和天皇実録』巻三十五、31頁)。宮内側の勝利とはなったが、これは、皇太子教育をめぐる東宮職と宮内職との最初の対立であろう。 成績の不振 21年7月10日、天皇・皇后は、東宮侍従長穂積重遠から「皇太子の第一学期の成績」の奏上を受けた(『昭和天皇実録』巻三十五、132頁)。3月24日、天皇は東宮大夫穂積重遠から、「皇太子が去る七日より昨23日まで関西方面を旅行した件についての報告並びに学年成績についての奏上を受けられ」た。午後には、天皇は御文庫で皇太子と会った しかし、皇太子成績には問題もあったようだ。21年9月18日、入江は侍従長に、「この間佐藤久氏から聞いた東宮様のこの夏以来の御傾向は誠に憂ふべきものである」と話した。侍従長も同意し、「東宮職の現状は深憂に堪えない」とした(『入江相政日記』第二巻、166頁)。21年12月9日、入江は「皇后様の御進講全般を考へなほし」、「ついては穂積大夫のは年内で一旦御打切り」(『入江相政日記』第二巻、187頁)としている。穂積とは木戸幸一とは妻同士が姉妹である東京帝大名誉教授であり、20年8月10日に東宮職が設置されると同時に、東宮大夫に就任していた。しかし、彼は家族法研究者にすぎず、東宮教育の新識見をもたないとされていたようだ。 A ヴァイニング訪日(21年10月)後 穂積更迭問題 22年6月3日、天皇は、宮城内紅葉山の御養蚕所前庭で宮内記者会の10人と会見して、「皇太子始めお子様方の教育に関する質問」を受けたた。天皇は、「立派な傅育官に任せており、それで良いと思う旨。こども達が国民の期待にそうよう立派な人格の人間として成長してくれれば良い」と答えた(『昭和天皇実録』巻三十六、59頁)。 22年7月18日、天皇は東宮大夫穂積重遠から、「皇太子の第一学期学事成績」を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十六、95頁)。この頃、宮内側による穂積更迭が画策されていた。穂積を最高裁判所長官に「栄転」させる形にして、更迭しようとしたのである。 7月24日、東宮大夫穂積重遠は内閣に最高裁判所長官に就任することを辞退する書を提出した。穂積にとって、東宮大夫は最高裁長官より意義ある重職だったようだ。そこで、参議院議長松平恒雄は穂積に「上聞に達するを以て辞退書を撤回すべき旨」を勧告した。そこで、7月26日、天皇は宮内府長官松平慶民から、「参議院議長松平恒雄が東宮大夫穂積重遠を最高裁判所長官に推挙する旨」を聞いたのである。その上で、「内閣総理大臣片山哲の意を伝え、之を要請」したが、穂積の意は固く、27日、松平議長に辞退の旨を申し入れた。この固い決意の前に、松平はこれを了承せざるを得なかったようだ(『昭和天皇実録』巻三十六、96頁)。 教育方針 22年12月18日には、天皇は参与3人(前学習院院長山梨勝之進、日本学士院会員小泉信三、東大教授坪井忠二)、宮内府御用掛7人(野村行一、諸橋轍次、杉村欽次郎、武内義雄、久松潜一、小谷正雄、児玉幸多)、元宮内府御用掛1人(山本達郎)、宮内府高官4人(長官松平慶民、侍従長大金益次郎、侍従次長鈴木一、侍従山田康彦)、東宮大夫・侍従の2人(東宮大夫穂積重遠、東宮侍従栄木忠常)の計17人を招いて、「二の間」で午餐会を催し、「三の間」でお茶を飲みながら「それぞれより皇太子教育に関する所見等をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、262頁)。 この後、内邸庁舎御政務室で、天皇は、元東宮御学問所(大正3年4月1日ー大正10年3月1日)御用掛加藤真一の拝謁を受けた。自分の教育掛まで呼んで皇太子教育の意見を聴取しようとしたのである。夕方には、天皇はヴァイニングを夕餐に招き、皇太子、正仁、和子・厚子・貴子らと会食した(『昭和天皇実録』巻三十六、262頁)。「世界は子供(皇太子)を好」むのであり、その皇太子を教育するヴァイニングは、「最善のプロパガンダ、ウィニング キャラクター」(GHQポール・ラッシ発言[『寺崎英成御用掛日記』358頁])であった。彼女は、皇太子の国際的認知の上では最上の効果を発揮する人物となっていた。天皇は18日一日を皇太子教育に充てたのであり、こういうことはこれまでになかったことである。極東国際軍事法廷の推移で退位問題が浮上する中、それだけ天皇にとって皇太子教育は重要になっていたのである。 穂積の教育 22年12月23日、御文庫で、天皇・皇后は、東宮大夫穂積重遠から「皇太子の第二学期成績につき」報告を受けた(『昭和天皇実録』巻三十六、264頁)。 23年1月4日、皇太子は「千葉県内各地の戦災復興状況を視察して」、10日に帰京した。天皇は地方巡幸の延期をさせられていたから、皇太子が天皇に代わって巡幸に赴いたとも言えなくはないし、天皇退位に備えた動きとも言える。1月10日夕刻、天皇は、東宮大夫穂積重遠から、「皇太子が千葉県下の視察旅行より還啓した旨の報告」を聞き、皇太子の土産を受け取った(『昭和天皇実録』巻三十七、6頁)。翌11日、天皇・皇后は、御文庫で皇太子に対面し、千葉県行幸の成果を聞いて、目を細めたことであろう。4月2日には、内廷庁舎御座所で、天皇・皇后は、東宮大夫穂積重遠から、「皇太子の成績についての報告を受け」た(『昭和天皇実録』巻三十七、28頁)。天皇・皇后は、穂積の皇太子教育には不満を抱かなかったようだ。 しかし、5月21日、芦田首相は葉山御用邸で天皇に、「皇太子殿下の御教育も昔風をすてて自由奔放な教育を御願いしたい」と要請した。天皇が「具体的にどうすればよいのか」と質問した。芦田は、「詳しいことは承知致しませぬ。然し穂積(重遠。東宮大夫兼東宮侍従長)は更迭させることを希望致します」(『芦田均日記』第二巻、113頁)と述べた。だが、まだ天皇・皇后は穂積解任に動こうとはしなかった。 7月19日午前、表御座所で、天皇・皇后は、東宮大夫穂積重遠から「皇太子の第一学期の成績についての報告」を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十七、66頁)。8月9日、葉山御用邸の御書斎で、天皇・皇后は、穂積から「(沼津御用邸での)皇太子の動静をお聞きになり、また皇太子・正仁親王からの書簡をお受けにな」った(『昭和天皇実録』巻三十七、74頁)。8月24日、表御座所で、天皇・皇后は、東宮大夫穂積重遠より沼津御用邸の皇太子の動静について聞いた(『昭和天皇実録』巻三十七、76頁)。 12月6日、侍従次長の室で、入江ら侍従連中が、「この間の東宮の呉竹寮にお泊りのことから始まり、実に様々の話が出」(『入江相政日記』第二巻、272頁)た。12月12日、入江が早朝に出勤して、入浴斎戒してる際、山田、東園が加わって、「東宮職の問題が話題になり、山田が夢中になって話」(『入江相政日記』第二巻、272頁)した。この日、天皇は東宮大夫・東宮侍従長穂積重遠から「皇太子の近情に関する奏上」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十三、177頁)。12月19日、天皇・皇后は穂積から、「皇太子の学業につき奏上を受けられ、成績表を御覧にな」った。続けて、穂積から、「側近一同が皇太子に注意した事項等につき詳細な言上を受け」、天皇は彼に「皇太子への御嘉賞・御激励の思召し」(『昭和天皇実録』巻三十三、181頁)を示した。成績がよかったのであろう。天皇は穂積を信頼し、評価していたのである。 それからほぼ1年後の23年12月13日午前、表拝謁の間で、天皇は、宮内幹部(長官田島道治・次長林敬三、侍従長三谷隆信、侍従次長鈴木一)・東宮職幹部(東宮大夫穂積重遠・女官長保科武子・東宮侍従角倉志朗・同栄木忠常・東宮職御用掛野村行一)を同席させ、東宮御学問所顧問(安倍能成、小泉信三、坪井忠二)から「今後の皇太子の教育方針につき、それぞれの言上」を聴いた。東宮御学問所顧問がいるということは、いまだに東宮側がこの設置を試みていたのであろが、今度はGHQの反対で東宮御学問所設置の実現は困難である。さらに、天皇は、「皇太子は来年度学習院高等科に進学し、毎週四日学習院で勉学し、二日東宮御所で勉学するなどの報告」を受けた。正午、「表一の間」で、天皇は一同に「昼餐の御陪食」を賜った(『昭和天皇実録』巻三十七、120頁)。 12月22日午前、表御座所で、天皇は東宮大夫穂積重遠より皇太子の成績について報告を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、124頁)。 穂積の転任 天皇は、24年3月の皇太子の学習院中等科卒業に合わせて、穂積退任を決めたようだ。 24年2月21日、常盤松御用邸で宮内府長官田島・宮内府次長林敬三・式部頭松平康昌・侍従次長鈴木一・東宮職事務主管栄木忠常・秘書課長三井安弥・侍従入江相政等が皇太子教育論を議論して、夕餐前にその内容が長官田島から天皇に報告された(『昭和天皇実録』巻三十八、20頁)。2月26日、表拝謁の間で、天皇・皇后は、小泉信三に「皇太子の教育につき常時参与を仰せ付け」た。小泉は、「東宮大夫野村行一と共に謹んで奉公し、併せて皇太子の教育につき遠慮なき意見を申し上げることのお許しを賜りたい」と言上した。天皇はこれを「聞き入れ」た(『昭和天皇実録』巻三十八、23頁)。穂積の後任は東宮大夫野村行一だが、皇太子教育は野村と参与小泉信三体制であたるということになる。 2月25日午後、御文庫で、天皇は、「翌日転任となる東宮大夫穂積重遠の拝謁」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十八、22頁)。2月26日午前、表拝謁の間で、天皇は、最高裁判所判事穂積重遠の認証官任命式に臨み、続いて、新任の東宮大夫野村行一、前任の東宮大夫穂積重遠の拝謁を受けた。天皇・皇后は穂積に七宝焼(御紋付菖蒲鷺文様)花瓶及び金員を与えた(『昭和天皇実録』巻三十八、23頁)。3月3日、表一の間で、天皇・皇后は、新東宮大夫野村行一・前東宮大夫穂積重遠・東宮教育担当参与小泉信三らと昼餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、25頁)。 新体制の皇太子教育 ヴァイニングによれば、「この人事異動の後では、すべてに変化が起」り、「侍従ぬき」で「殿下は毎週一回午後をわたしの家でお過ごしになるようになったし、夏の休暇には軽井沢にわたしを訪ね、ご滞在され」るようになった。また、東宮教育について、ヴァイニングも「顧問会の参与」と「両陛下との先例のない、有益な懇談の機会」(ヴァイニング『天皇とわたし』70−1頁)に参加できるようになった。小泉の影響であろうか。既に23年10月6日に、天皇は小泉進講を聞いた後に、表御座所に召して、「皇太子の教育に関して御談話にな」ったりしていた(『昭和天皇実録』巻三十七、91頁)。 24年3月25日正午過ぎ、御文庫で、天皇・皇后は、皇太子の学業に関して東宮大夫野村行一の説明を聴いた(『昭和天皇実録』巻三十八、32頁)。翌26日に、皇太子は学習院中等科を卒業した。ここまでは、穂積教育の「締め括り」であろう。 以後の野村・小泉体制を瞥見してみよう。3月29日、表一の間で、天皇は皇太子教育に関与した参与(安倍能成・小泉信三・坪井忠二)・東宮職御用掛(武内義雄・杉村欣次郎・諸橋轍次・久松潜一・小谷正雄・児玉幸多・猿木恭経)と午餐を会食した。食後、表三の間で、天皇は彼らに「皇太子の教育につき種々お聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十八、34頁)。6月16日、天皇は、小泉信三に「皇太子教育への功」によってホームスパン・金員を与えた(『昭和天皇実録』巻三十八、102頁)。これは、天皇の小泉のこれまでの尽力への謝意と今後の協力への期待の表明であろう。 7月22日正午前、天皇は、東宮教育担当参与の小泉信三、東宮大夫野村行一から「皇太子の学業」について聴いた(『昭和天皇実録』巻三十八、112頁)。10月1日、東宮侍従長は東宮傅育官長、東宮侍従は東宮傅育官と改正され、東宮大夫野村行一は東宮傅育官長事務取扱に任じられた(『昭和天皇実録』巻三十八、125頁)。小泉は従来通りである。12月20日、表一の間で、東宮教育参与(小泉信三・安倍能成・松平信子)、東宮職御用掛(天野貞祐・山中謙二・杉村欣次郎、小谷正雄、久松潜一・諸橋轍次)、学習院教授(鍋島能弘・渡辺末吾)と午餐を会食した。食後、天皇は小泉、天野や宮内庁長官田島信道から「皇太子の成績」について聴いた。夕刻、花蔭亭で、天皇・皇后は、皇太子・正仁、和子・厚子・貴子とともに夕餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、158頁)。 A 天皇・皇太子の交流 @ ヴァイニング進言前 天皇は皇太子は将来の国民の天皇になると考えて、家族一緒に生活するべきではないと考えていた。女官の過剰待遇に溺れるなどの宮廷内部の事情もあって、皇太子らは宮廷外で教育されていた。しかし、一家団欒に相当する天皇・皇太子の交流は重視していた。天皇は子供に対しては子煩悩であり、出来れば天皇は子供たちと一緒に生活したかったであろう。だから、ヴァイニングらが、天皇は家族一緒に生活するべきだと進言するまえから、天皇は家族団欒は大事にしていた。 例えば、21年8月29日午後、天皇・皇后は皇太子と宮城内のプールで水泳を楽しんだり(『昭和天皇実録』巻三十五、149頁)、9月8日には天皇は皇太子から「持参の植物標本12点の名称につき質問」をうけたり(『昭和天皇実録』巻三十五、151頁)、9月19日土曜日には、天皇は皇太子・正仁親王と乗馬し、旧主馬寮覆馬場で下馬して、皇后とともに「皇太子の乗馬の練習」を見た(『昭和天皇実録』巻三十五、167頁)。 22年4月19日、天皇は大正天皇多摩陵に行幸し、途次、北多摩郡小金井町の東宮仮寓所に立ち寄り、皇太子に対面した。昼食後、天皇は東宮大夫穂積重遠から「同所の概況につき説明を聞」いた。その後、天皇・皇后は皇太子と一緒に「付近の栗林で野草を御採集になり、光華殿南方の小金井堤にて桜を鑑賞」した。東宮仮寓所に戻ると、「付近の畑で取れたジャガイモをふかしたものを召し上った」りした(『昭和天皇実録』巻三十六、38頁)。 22年7月12日、皇太子は、学習院夏季休暇のため参殿し、15日まで宮城内の霞錦亭に滞在した。この日夕方、天皇、皇后は、皇太子と吹上コートでテニスをし、夕食を一緒に食べた(『昭和天皇実録』巻三十六、92頁)。13日には、宮城内主馬寮覆馬場で、天皇は皇太子と一緒に乗馬を楽しむ。14日には、天皇・皇后は。宮城内観瀑亭でヴァイニングを茶会でもてなした。15日、天皇、皇后は、皇太子、正仁親王、和子・厚子・貴子内親王らと昼餐を会食し、午後も団欒の時を過ごした(『昭和天皇実録』巻三十六、93頁)。 以後も、ヴァイニングは天皇一家同居論を提唱した。23年6月に宮廷改革のために芦田首相にによって宮内府長官に任命された田島道治(無教会主義キリスト教徒)も天皇一家同居論に賛同していた。後にヴァイニングがこの同居論を天皇に直接提言した時、三谷侍従長が「田島氏に逐一報告」した。田島は宮内庁にヴァイニングを呼び、話し合い、「反感」をもつことなく、「正確に理解しているかを確かめ」(ヴァイニング『天皇とわたし』123頁)ようとした。前向きなのである。その後も、田島は「正直・・率直」で「好意的」であり、ヴァイニングは「田島氏に対してはいつも本当に楽な気持ちでいられた」のであった。ヴァイニング帰国後も「田島氏との友情」(ヴァイニング『天皇とわたし』124頁)は続いた。 A ヴァイニング進言後 22年初夏、ヴァイニングは宮内府長官・東宮侍従に、「夏休み期間中だけでも皇太子と正仁親王など御家族が一緒に生活すべきである旨」を強く進言した。これを受けて、天皇は長官らに、「夏の休暇中に過ごす沼津御用邸は、家族が一緒に生活するには設備等が不充分であり、一緒に生活するには適当でない」と述べた。7月16日、侍従長大金益次郎は宮内府御用掛寺崎英成に「ヴァイニングへの天皇の御回答」が伝えられた(『昭和天皇実録』巻三十六、94頁)。7月19日、寺崎夫人グエンがヴァイニングを訪ねて、回答を伝えた所、ヴァイニングは「内容はどうであろうと」「速やかなる回答ありたることに対し満足なり」と答えた(『寺崎英成御用日記』322頁)。この進言後、家族同居こそ実現しなかったが、家族団欒の時間は増えた。 22年8月24日、天皇・皇后は、皇太子・正仁とともに、那須の鹿島別邸を訪ね、和子・厚子・貴子の「手料理の御昼食」を食べた。25日には、天皇は、皇太子・正仁と嚶鳴亭方面に乗馬したり、プールで水泳を楽しんだ。26日には、天皇は皇太子・正仁と御用邸内で乗馬を楽しみ、途中で、皇后・貴子と合流して、ワサビ沢養鱒場で釣りをした(『昭和天皇実録』巻三十六、138頁)。8月29日、天皇・皇后は、皇太子・正仁・貴子とともに、那須黒磯町の栃木県水産指導所に向かった。この29日、和子・厚子がヴァイニングを誘って那須御用邸に参邸し、天皇・皇后・皇太子・正仁・貴子とともに、夕餐を会食した。30日、朝食前に、天皇、皇太子、正仁は、乗馬して、鹿島別邸方面に出かけた(『昭和天皇実録』巻三十六、140頁)。ヴァイニングは31日まで滞在し、天皇一家の団欒に少なからず貢献したようだ。 23年1月11日正午過ぎ、天皇・皇后は、皇太子、正仁、和子・厚子・貴子と昼餐を会食した。以後も、天皇・皇后は、皇太子・正仁親王、和子・厚子・貴子内親王と「しばしば御対面、また御会食」した(『昭和天皇実録』巻三十七、6頁)。3月23日、天皇・皇后・皇太子は、ヴァイニングを葉山御用邸に招いて、昼餐を会食し、ついで展望室でコーヒーを一緒に飲んだ(『昭和天皇実録』巻三十七、25頁)。5月16日、花蔭亭で、天皇・皇后は、皇太子・正仁、和子・厚子・貴子、東久邇盛厚・成子、子息信彦、娘文子らと昼餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十七、41頁)。 7月4日には、天皇・皇后、貴子は、北多摩郡小金井町の東宮仮寓所に行幸し、皇太子、正仁、和子の出迎えを受けた。天皇は、一緒に庭に出たり、皇太子愛用のスクーターに試乗したりした。昼食後、皇太子の案内で、光華殿北側雑木林を散策した(『昭和天皇実録』巻三十七、61頁)。 7月17日土曜日、花蔭亭で、天皇・皇后は、ヴァイニングを招いて、皇太子、正仁、和子・厚子・貴子と一緒に夕餐を食べた(『昭和天皇実録』巻三十七、65頁)。8月18日日曜日早朝、天皇は、皇太子・正仁らと御文庫と主馬寮覆馬場との間を乗馬して往復した。以後、8月と12月を除き、月2回程度、皇居内で乗馬して運動した(『昭和天皇実録』巻三十七、65頁)。9月3日、御文庫で、天皇は、皇太子・正仁(沼津御用邸より帰京)と昼餐、夕餐を一緒に食べた(『昭和天皇実録』巻三十七、78頁)。 10月24日、日曜日、天皇・皇后は、小金井の東宮仮寓所に行幸し、皇太子、正仁、和子・厚子・貴子、東久邇盛厚・成子一家とジンギスカン料理を食べたり、ピンポンをして、「御団欒の一時をお過し」になった(『昭和天皇実録』巻三十七、101頁)。11月7日、天皇・皇后・皇太后や皇太子・正仁は、和子・厚子・貴子内親王に呉竹寮に招かれ、「一緒に御昼餐を取られ」、「ピンポンなどをして団欒の時を過ご」した(『昭和天皇実録』巻三十七、107頁)。11月21日、日曜日、御文庫で、天皇・皇后は、皇太子・正仁、和子・厚子・貴子と一緒に昼餐を食べた。食後、天皇一家は呉竹寮にゆき、ピンポン、羽根突きなどをして「団欒の時」を過ごした(『昭和天皇実録』巻三十七、113頁)。11月27日夕刻、天皇・皇后は、皇太子、正仁、和子・厚子・貴子、河井弥八(元皇后宮大夫、侍従次長)とともに、映画「ターザンの冒険」を見た(『昭和天皇実録』巻三十七、114頁)。 24年も、天皇は一家団欒のひとときを過ごした。例えば、24年1月9日日曜日、御文庫で、天皇・皇后は、皇太子・正仁、和子・厚子・貴子、東久邇盛厚・成子・信彦・文子と昼餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、5頁)。1月30日、天皇は、皇居内のパレスコートで、皇太子、正仁や学友らのテニス練習を見た(『昭和天皇実録』巻三十八、14頁)。2月5日夕刻、天皇・皇后は、皇太子、正仁ともに呉竹寮に行き、東久邇盛厚・成子も加わって、天皇・皇后結婚25周年内宴として和子・厚子・貴子による手料理を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、15頁)。2月9日、御文庫で、天皇・皇后・皇太后は、皇太子、和子・厚子・貴子、東久邇盛厚・成子とともに、米国映画「愛の調べ」を鑑賞し、終わって夕食を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、16頁)。2月27日、天皇・皇后は、皇太子・正仁、和子・厚子・貴子と昼餐を会食した。食後、一緒に呉竹寮に行き、卓球などをして楽しんだ。夕方、天皇・皇后は、皇太子・正仁とともに義宮(常陸宮正仁親王の称号)御殿に立ち寄り、御文庫で夕餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、23頁)。 天皇・皇后の結婚25周年記念に際しては、家族のみならず、親族・元皇族らが祝ってくれた。24年4月15日午後、花蔭亭で、天皇・皇后は、久邇家(皇后の実家)主催の結婚満25年奉祝音楽会に臨席した。皇太子・正仁、和子・厚子・貴子、久邇倶子(皇后母)・久邇融(皇后兄)、東久邇成子(元天皇家長女)、大谷光暢(皇后妹智子の夫)ほか元皇族・親族が出席した(『昭和天皇実録』巻三十八、41頁)。4月24日、天皇・皇后は、高松宮邸に行幸して、菊栄親睦会主催の銀婚式奉祝春季大会に臨席した。昼餐後、天皇・皇后は光輪閣(高松宮邸内にあり)に移り、皇太子・和子・厚子・貴子らと対面し、「会員及びその家族らの拝謁」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十八、43−4頁)。 24年5月1日午前、皇居内の旧本丸馬場で、天皇は皇太子と共に乗馬した。以後、この年は8月を除き、月に1、2回の割合で、皇太子、時には正仁も加えて、「皇居内において乗馬を行われ」た(『昭和天皇実録』巻三十八、46−7頁)。6月27日、御文庫で、天皇・皇后は、三笠宮・高松宮妃と共に、夕餐を会食した。食後、九州巡幸のニュースを見た(『昭和天皇実録』巻三十八、106頁)。8月31日、御文庫で、天皇・皇后は、皇太子・正仁(沼津御用邸からこの日に帰京)、和子・厚子・貴子と夕餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、118頁)。10月9日、日曜日、天皇は皇太子とともに皇居内の覆馬場で乗馬した(『昭和天皇実録』巻三十八、128頁)。11月6日、日曜日、御文庫で、天皇・皇后は、皇太子・正仁、和子・厚子・貴子と昼餐を会食した。食後、元主馬寮馬場で、第三回宮内職員懇親運動会を見た(『昭和天皇実録』巻三十八、142頁)。12月4日、日曜日、御文庫で、天皇・皇后は、皇太子・正仁、和子・厚子・貴子と昼餐を会食した。食後、天皇、皇太子・正仁は乗馬した(『昭和天皇実録』巻三十八、155頁)。12月18日午前、天皇・皇后は、呉竹寮で和子・厚子・貴子と対面し、次いで先着の皇太子とともに覆馬場に向かい、乗馬した(『昭和天皇実録』巻三十八、158頁)。 皇太子盲腸とGHQ 23年12月3日午後9時半、皇太子は盲腸で宮内府互助会病院に入院した(『昭和天皇実録』巻三十七、116頁)。これは、当時の皇室とGHQとの関係を見る上で興味深いものである。 4日午後、天皇・皇后は病院に皇太子を見舞ったが、GHQも皇太子の利用価値に着目していて、見舞いを行ってゆくのである。6日に、連合国最高司令部副官ロレンス・エリオット・バンカー陸軍大佐は、皇太子に御見舞いの花束を献上した。7日は、バンカーは、マッカーサー代理として宮内府長官田島道治に、「天皇・皇后・皇太子に対する御見解の言葉を伝えた」のであった(『昭和天皇実録』巻三十七、117頁)。この日午後2時、皇太子は退院して、庁舎御書斎で静養した。天皇・皇后は、この日から11日まで毎日皇太子を見舞った。 一方、この7日、田島長官は、最高司令部にバンカーを訪ね、天皇・皇后・皇太子からの「御礼の御言葉」を伝えた(『昭和天皇実録』巻三十七、117頁)。12日、皇太子は床払いして、小金井の東宮御仮寓所に戻った(『昭和天皇実録』巻三十七、119頁)。 B ヴァイニング夫人 ここで、皇太子教育に少なからざる影響を与えたヴァイニングについて見てみよう。 天皇要請 21年3月27日、天皇は、「マッカーサーの日本教育制度改革の要請に基づいて来日した」米国教育使節団に謁見して、団長ジョージ・D・スタッダード(ニューヨーク州教育長官)に「皇太子の家庭教師の推薦」(『昭和天皇実録』巻三十五、65頁、130頁)を依頼した。 ストッ ダードは、帰国後、21年6月6日、クェーカー教徒のフレンズ奉仕団から推薦されたヴァイニングと面談した。21年6月19日、スタッダードは、ヴァイニング夫人(クェーカー教徒)とチャップリン夫人(ハワイ大学博士)の推薦状をGHQ民間情報教育局長ドナルド・ロス・ニュージェントと宮内省御用掛寺崎英成に送付した。7月5日には宮内省に「推薦状及び履歴書」が届いた。選考を任された学習院院長山梨勝之進はヴァイニングを「選出」し、8日には東宮侍従長穂積重遠・東宮侍従角倉志朗・東宮御学問主管野村行一は「ヴァイニングを可とする旨に意見が一致」し、天皇に奏上した。寺崎もヴァイニングを強く推薦しており、9日には、宮相松平は天皇にヴァイニングを奏上した。大勢はヴァイニング選定であり、ここにヴァイニングに決定して、8月7日に本人に決定が通知された(『昭和天皇実録』巻三十五、130−1頁、ヴァイニング『天皇とわたし』14−24頁)。 21年10月2日午後、天皇は寺崎に、「皇太子の家庭教師エリザベス・グレイ・ヴァイニングにつき御談話にな」り(『昭和天皇実録』巻三十五、159頁)、天皇は気に入って、「大成功」だった(『寺崎英成御用日記』245頁)。10月15日、宮相松平は天皇に、「17日に予定される皇太子の家庭教師ヴァイニング・・謁見の際の次第策につき言上」(『昭和天皇実録』巻三十五、164頁)した。 来日 ヴァイニングは21年10月1日離米し、同月15日に横浜に着いた。10月17日午後3時、天皇(45歳)・皇后・皇太子(12歳)は、表拝謁の間でヴァイニング(44歳)と会った。天皇は、「皇太子のための来訪を謝し」、選出に関与した米国教育使節団長スタッダード・ララ(アジア救援公認団体)物資委員会代表エスター・ヒードル・ローズなど尋ね、米国政府の食糧援助を謝し、最後に「これまで米国を訪問する機会を得られなかったことを残念に思う」と述べた。皇后も「種々お話」があり、「御栽培のコスモスを賜」った(『昭和天皇実録』巻三十五、166頁)。 彼女には、秘書としてクエーカー教徒でアメリカ留学経験のある高橋たねが用意されていた(ヴァイニング『天皇とわたし』41−2頁)。たねは、「あざやかで、機転がき」き、「まっ正直で、落ち着いていて、明るく、直感にたけ・・心の広い」人で、ヴァイニングは「妹のように彼女を愛する」(ヴァイニング『天皇とわたし』46頁)ようになった。 教育方針 着任早々、松平宮内庁長官はヴァイニングに、「わたしどもは、皇太子殿下のために、より広い世界へ向けていくつかの窓を明け広げていただきたい」と要望した。ヴァイニングは、これを「英語を媒体として、皇太子に日本の外の世界について話し、当時の日本人が性急に困惑させられるような熱心さで自分たちのものにしようとしていた民主主義の理念や原則を彼らに語って聞かせる」(ヴァイニング『天皇とわたし』71頁)ことと解釈した。英語の上達につれて、話題は国連・日本国憲法・「軍事以外のことで世界に貢献した人たちの生涯」・冒険物語・美術・平和・自然にまで広がった(ヴァイニング『天皇とわたし』72頁)。これについて、日本側は「授業細目」や指定教科書などの制約を一切課す事はなかった(ヴァイニング『天皇とわたし』73頁)。 彼女は平和教育を熱心に行い、「日本の鳥に興味を持っていた」ので、「平和と小鳥たちについて話」をした。日本の小鳥は「法律によって十分に保護されておらず、しばしば食用のために捕獲」(ヴァイニング『天皇とわたし』72頁)されていたことから、こういう小鳥を保護することが平和につながるなどと話したのであろう。 授業時間問題 21年12月に、ヴァイニングは皇太子の授業時間増加を求めてきた。ヴァイニングは、最初の2年間は、「週に三回、東京の西の郊外にある小金井まで車で40分ほどかけて通い、皇太子殿下の個人教授と殿下のクラスの授業」(ヴァイニング『天皇とわたし』64頁)を実施したと回顧しているから、回数ではなく、個人授業時間の増加を提案してきたのである。 12月18日、天皇は寺崎から、「ヴァイニングの教授時間の増加についてお聞きにな」り、「聴許」している(『昭和天皇実録』巻三十五、207頁)。20日、天皇は寺崎に、「ヴァイニングの授業時間につき、御談話にな」っている(『昭和天皇実録』巻三十五、209頁)。『寺崎英成御用日記』(273頁)には、「バイニングの問題」とあり、授業時間の増加が反対に直面していたようだ。12月29日、天皇は東宮大夫穂積重遠から皇太子成績の言上を受ける際、「ヴァイニングによる皇太子の英語個人指導の時間増加につき御下問にな」っている(『昭和天皇実録』巻三十五、216頁)。保守的な東宮職が反対していたようだ。 東宮侍従批判 彼女は、侍従に取り巻かれた東宮教育に批判的であった。 彼女は、「殿下がたえず侍従たちの顔色を伺い、どんな些細なことにも意見を求められ、昼間の行動のすべてを決めてもらおうとただ受身の姿勢で待っておられる姿」に疑問を抱いた。彼女は、これでは「殿下が予期せぬ事態に直面されたとき進んで決断できず、そのときその場で必要な力をご発揮できないのではないかと不安」に思い、「よく殿下に『なぜご自分でお決めにならないのですか。あなたの午後なのですよ』と言って励まし」たり、侍従に「殿下が級友とくつがろられる楽しいお時間を設けてはと勧めた」(ヴァイニング『天皇とわたし』69頁)りした。これには、「殿下にはわたしどもがついている」と反駁したが、個人授業に友人二入を同席させてはという提案は容認された(ヴァイニング『天皇とわたし』74頁)。 また、彼女は、皇太子が天皇・皇后・弟宮と一緒に生活しないことは「不自然」「無慈悲」と批判していたが、侍従らは「旧套になじみ、それが既得権」としてこれに「抵抗」した。後に田島宮内庁長官ともこの問題を話し合い(ヴァイニング『天皇とわたし』120−2頁)、同じ宮内改革者同士として理解はしてくれた。 東宮大夫穂積は、ヴァイニングの皇太子教育の提言を聞こうとしなかった(バイニング夫人『皇太子の窓』56−7頁)。彼女は彼が木戸幸一内大臣の妹を妻として、その縁故で東宮太夫についたらしいことは理解していた。穂積は彼女に「和歌や、哲学、旅行、歴史などについては楽しそうに話」したが、皇太子教育について話そうとすると、「軽く笑って話題をすりかえ」、「とことんイライラさせられた」(ヴァイニング『天皇とわたし』70頁)のであった。 クエーカー教育 では、彼女はキリスト教教育は行なったのであろうか。 キリスト教側では、東宮の人間形成にキリスト教の影響を与える事を望んだであろうが、ヴァイニングは皇太子の人間「形成」に関わることなどを「考えたことは一度もな」かった。彼女が東宮に「何よりもして差し上げたかったことは、あるがままのご自分であるために、殿下をご自由にして差し上げること」(ヴァイニング『天皇とわたし』68頁)にすぎなかった。彼女は「宗教(クエーカー教)だけを取り上げてそれを語るようなことは一度もしなかった」のである。 ただし、彼女は、「生涯において宗教が大きな役割を果たした人物についてはお話し」、「それについての質問があれば、最善を尽くしてお答えし」、「求められれば、そういうことがときに会ったのだが、クエーカーとその哲学について喜んでお話」(ヴァイニング『天皇とわたし』72頁)をしたのであった。 では、クェーカーの特徴とは何か。クエーカー教徒は、毎年一回の礼拝で「集まりは聖なるものの導きを心持ちする思いでもたれていますか」と問いかける。ヴァイニングは、この「聖なるものの導き」を「『内に存在する(自己を)越えるもの』からの光の流れにわたしの自己をあえて置くこと」と理解していた。クエーカー教徒は、誰もが、「あなたのもっている光に応じて生きなさい。そうすればもっと多くの光が与えられる」という教えを知っていた。そして、「永遠の善」、「真実」、「内なるキリスト」、「神」などの「霊」が、こうした「光」に「少しばかり感応」(ヴァイニング『天皇とわたし』76−8頁)すると見ていた。 こうした内なる光の心的感応は、日本人の心性にも訴え易いものであったろう。 契約延長 天皇・皇后らは、ヴァイニングの人柄・指導法などを気に入ったようであり、22年5月19日、宮内府長官松平慶民は天皇に、「皇太子家庭教師ヴァイニングの契約延長の件を話題」とし、21日、東宮顧問会議に学習院院長安陪能成ら10人が参集して、ヴァイニング契約延長が承認された(『昭和天皇実録』巻三十六、53ー4頁)。 22年9月12日、ヴァイニングは宮内府長官松平慶民と、「10月15日契約満了となるに当たり、10月16日から1年間期間を更新する契約書」を取り交わした(『昭和天皇実録』巻三十六、153頁)。ついで、天皇は花蔭亭昼餐にヴァイニングを招いて、皇后、正仁、和子と会食した。9月15日、ヴァイニングは休暇で本国に一時帰国した。 ヴァイニングのマッカーサー対面 22年5月3日、ヴァイニングは、マッカーサーにアメリカ大使館昼食会に招かれて、初めて対面した。マッカーサー夫人とは既に二三度会っていたが、マッカーサーとはまだ一度も会っていなかった。昼食後、マッカーサーはヴァイニングに、皇太子、天皇を話題にしながら(ヴァイニング『天皇とわたし』131−3頁)、「皇太子の家庭教師探しが日本側の『姑息な政治工作』と考えたか」と質問した。マッカーサーがこれまでヴァイニングに会おうとしなかったのはこの故であろう。ヴァイニングは、「たとえそんなことがあったとしても、今は変わりました。あなたがあなたのお力ですべてをお変えになったからです」(ヴァイニング『天皇とわたし』136―7頁)と巧みに答えた。 また、「元帥は宗教についてさりげなく話され」、やがてマッカーサーとヴァイニングは「民主主義の根底にある個々の人間の尊重について信ずるところを述べ合った」のである。マッカーサーは、「キリストが十字架にはりつけにされる物語」は「残酷」で好きになれなかったが、三カ月前に「真に偉大な思想は肉体を抹殺されても抹殺できないことを示すために物語が語られている」事に気づいたという。マッカーサーは「その思想は日本に根をおろさねばならない」と強調し、「来日を奨励されていたキリスト教宣教師」(ヴァイニング『天皇とわたし』139―140頁)も言及した。 以後、ヴァイニングはマッカーサーとは第一ビルの執務室で7回会った。宮内庁の人々は、「わたしが元帥に皇太子についてよく語るのを知っていたから」、ヴァイニングが「元帥と会うのを歓迎」(ヴァイニング『天皇とわたし』135頁)した。 そして、ヴァイニングは、マッカーサーを「近寄りがたく、威厳を感じさせ、畏怖の念を起こさせるような、すべての権力を一身に集めた存在」であり、「日本人の多くにとっては解放者」(ヴァイニング『天皇とわたし』129頁)であったとした。また、マッカーサーの「日本占領管理の目的」については、非武装化・飢餓救済(当初)から、「戦争と軍備の放棄、婦人参政権、労働組合の組織化、教育の自由化、経済体系の民主化、言論や思想、宗教、集会の自由などを確立」することだとした。その方法は、「日本の統治機構を使って『日本の国民のために、現実主義と正義にもとづく未来を築くこと』」(ヴァイニング『天皇とわたし』130頁)だった。 秘書の天皇引見 23年9月30日午後、天皇・皇后は、ヴァイニングの秘書高橋ために「御会釈を賜い、労いのお言葉を賜」った(『昭和天皇実録』巻三十七、89頁)。天皇は、家庭教師の秘書に会うなどということは前例はなかったが、それだけ天皇・皇后はヴァイニングの意義・役割を評価していたということである。 23年10月21日、生物学研究所で、天皇は、ヴァイニング、同秘書高橋たねの拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、100頁)。 歌開始 入江侍従らは、ヴァイニングを歌会始に招待し、日本皇室の伝統とも言うべき和歌に理解をもとめようとしている。これは、皇太子教育を担うヴァイニングの教育とも言える。 22年1月28日午後、入江侍従と高木多都雄(皇后の御用掛、女性)はヴァイニングのもとに赴き、「歌会始の説明」をした。高橋が通訳し、同夫人は「熱心に聞き 色々と説明」した。皇居に戻ると、午後8時頃、入江は御文庫に天皇を訪ね、「ヴァイニングの所へ行ったことにつき申し」(『入江相政日記』第二巻、206頁)上げている。翌日の歌会始にはヴァイニング夫人も出席している。2月29日日曜日には、入江はヴァイニングを能楽に招待している。皇居濠端で落ち合い、ヴァイニングの運転する自動車で多摩川能楽堂に行き、「縄綯の狂言」、「道成寺」などを観覧し、「ヴァイニング夫人も非常に喜ん」だ(『入江相政日記』第二巻、213頁)。 24年も1月24日の歌会始にヴァイニング夫人を招待した(『入江相政日記』第二巻、296頁)。 雇用再延長 24年1月8日夕刻、花蔭亭で、天皇・皇后は、和子・厚子・貴子、正仁と夕餐を会食し、ヴァイニング、同人姉ヴァイオレット・ゴールドン・グレイも同席した(『昭和天皇実録』巻三十八、3頁)。1月18日、葉山御用邸で、天皇・皇后はヴァイニングに「昼餐の相伴を仰せ付け」、食後、「皇太子の教育等につきお話しにな」った(『昭和天皇実録』巻三十八、8頁)。皇太子が学習院中等科を卒業するので、高等科ではどういう方針で教えるかなどを話し合ったのであろう。 翌19日、天皇は侍従長三谷を召して、皇太子教育について指示したようだ。直後に、三谷は東京に行き、宮内庁長官田島道治に会い、「皇太子教育と皇太子家庭教師エリザベス・グレイ・ヴァイニングのこと、及び参与小泉信三のことを談」じたのであった(『昭和天皇実録』巻三十八、9頁)。天皇は契約延長を提案したのであろう。1月21日午後、天皇は田島長官に、「皇太子教育問題に関する皇太子家庭教師エリザベス・グレイ・ヴァイニング及び宮内府講師野村行一の見解について話題とさ」れた(『昭和天皇実録』巻三十八、9頁)。1月24日午後、東宮大夫穂積重遠・宮内府講師野村行一はヴァイニングに、「皇太子の学習院中等科卒業以降の教育方針について、週四日を学校にて、残り二日を家庭教師より学ぶこと等の最終決定を伝え」た(『昭和天皇実録』巻三十八、10頁)。彼らは彼女に今後の皇太子指導内容を告げて、雇用契約の延長の決定を示したのである。 4月12日正午過ぎ、表御座所で、天皇は宮内府長官田島道治から、「ヴァイニングの雇用期間を一年延長する件」で説明を受けた。ついで、表一の間に移って、天皇・皇后はヴァイニング、ブライス(学習院講師の英国人)、小泉信三・野村行一・松平信子(元皇后職御用掛)らと午餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、39頁)。 皇太子とマッカーサーとの会見 24年6月21日午後、表御座所で、天皇は宮内庁長官田島道治から、「ヴァイニングの意向として、皇太子が・・マッカーサーを訪問することを希望している旨をお聞きになり」、これを許した(『昭和天皇実録』巻三十八、103頁)。 6月27日、ヴァイニング夫人は東宮を車に乗せて、第一生命のGHQでマッカーサーに会わせている。東宮留学生問題(後述)の中で、マッカーサーがヴァイニング夫人に東宮の学力、資質等を問い合わせ、直接会わせることになったのであろう。学習院での生活、クラブ活動、特にテニス活動などを話題にして、天皇とは週二回会い、3日は寄宿舎で友人と生活していることなどを話した。マッカーサーは「皇太子はバランスの取れた魅力的なお方」(『皇太子の窓』小泉一郎訳、文芸春秋新社、1953年)と評価した。同日夜、御文庫で、天皇は皇太子から「顛末をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十八、104頁)。 プライス 彼女以外にも英国人レジナルド・ブライスも皇太子に週6時間英語を教えていた。彼は、天皇の「人間宣言」宣言起草の英訳に関わり、俳句、禅を理解する親日家で、ヴァイニング婦人の指導開始以前から教えていた。 なお、彼は、英国流儀に「無知」で、ガスコインから「宮中で英国を代表するのに不適格」(1949年3月11日付英国外務省報告書[徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』237頁])と批判されてゆく。 C 東宮留学 米国留学計画 24年6月1日、松平がコンプトン・パケナム( ニューズウィーク東京支局長)邸を訪ね、「天皇は、何が起ころうが、たとえ死ぬことがあっても、(第3次大戦を前にして)日本に残る決意」であり、「第3次世界大戦の可能性を視野に入れて」「皇太子が1950年1月頃に留学する」などと、天皇や側近らが第三次世界大戦を危惧していることをパケナムに報じた。そして、松平は、東宮留学について、@英国のオックスフォード大学か、ケンブリッジ大学への留学をメインにしつつ、そこでの学位修了後にアメリカの大学へゆくか、Aすべてアメリカの大学のみにするか、Bすべて英国の大学のみにするか、などを質問した。天皇は、「天皇としての神聖な責任を感じながらも、外国にはじめて出かけた経験のある皇太子として、自分の息子が外国に行くべきだと意を固めている」(青木『昭和天皇とワシントンを結んだ男』88頁)と、天皇史上始めて東宮の長期外国留学を決意したとした。 しかし、英国が絡んでくることに米側では不満を抱いたようだ。8月12日、松平は東宮留学問題でパケナムを訪問した(青木『昭和天皇とワシントンを結んだ男』99頁)。松平は、天皇・側近は東宮留学に全員賛成しているが、占領軍高官はこれに反対しているので、留学は延期せざるをえないと告げた(青木『昭和天皇とワシントンを結んだ男』100頁)。 英国側の反発 皇太子が米国ペースで皇太子教育されることに対して、英国は批判的であった。 24年3月11日、駐日英国代表ガスコインは本国外務省に、日本の皇室は「適切な民主主義の基盤」を持つべきだが、「天皇と皇室には立憲君主制の教育を受けさせるべきで、これは米国人でなく、われわれ英国人のみが行える」と報告した(徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』239頁)。これは、米国主導で進められることへの日本の皇室の意見でもあったであろう。 24年には、英国外務省は、英国の流儀に合わないブライスとは別に、ヴァイニング夫人に匹敵する皇太子家庭教師を派遣しようとする。ヴァイニング夫人の待遇などを調査した上で、英国外務省は、3−5年間派遣して、年給1千ポンドの手当てを支給するとし、同国大蔵省も同意した(1949年6月30日付英国大蔵省報告[徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』239頁])。恐らくマッカーサーへの遠慮からか、妨害があったのか、これが実現するのは26年を待たねばならなかった。 七 天皇・マッカーサー会見ー国体護持策 天皇がマッカーサー会見を強く望んだのは、直面する「国体」存亡危機を深刻に懸念して、米国と共産主義国を分断して、ひとまず米国を国体護持の路線に組み込もうとしたからである。こうした認識は米国側も同じであり、日本側を資本主義陣営にとどめるためには日本を共産主義諸国から分断する必要があった。ゆえに憲法を日本側に押し付けるとき、米国側は、遅延すると、共産主義諸国の影響力が強まり、天皇制は廃止されかねないと恫喝したりしたのである。 21年4月、SWINCC(国務、陸軍、海軍三省調整委員会)はマッカーサーに、「日本国民自身は明白に天皇制を支持」しているので、「マッカーサー元帥は、立憲君主制の発展並に天皇制の維持について日本国民を援助」せよと指示した。そして、天皇制に打撃を加えることは、「民主的要素を弱め、反対に共産主義並に軍国主義の両極端を強化」するから、マッカーサー総司令官は「天皇の世望をひろめかつ人間化することを極秘裡に援助」せよと命じた(マーク・ゲイン『ニッポン日記』242―3頁)。 日本国憲法施行以前には、三回の天皇・マッカーサー会見が行われている。この会見は、憲法的には日本の大権者たる天皇と、占領軍最高司令官との政治的首脳会談である。 @ 第一回会見 『昭和天皇実録』巻三十三は、第一回会見のみは詳細に記述しているが、この会見に至るまでの準備は10日前からなされていたことまでは言及されていない。 吉田の下準備 20年9月17日吉田茂が外相に就任した「ばかりの時」、天皇から「(マ)元帥に会いたい」と言われた。吉田は、「いろいろ考えたが、やはりお会いして頂いた方がよい」と思って、9月20日にマッカーサーを訪ねて、天皇の会見意欲を「元帥に伝え」た。マッカーサーは、「私の方から宮中へお伺いするわけには参らないが、陛下がお出で下さるならば、何時でも喜んでお会いする」(吉田茂『回想十年』新潮社、昭和32年、97頁)と答え、会見場所としてアメリカ大使館を指定した(リチャード・B・フィン『マッカーサーと吉田茂』49頁)。 要件が済むと、マッカーサーは、「短いスピーチ」、日本側が「説教」とよんでいたものを始めた。彼は吉田に、@日本軍部の戦略の「おそまつ」さ、A復員兵問題、B普通選挙論、C良き指導者の必要などを演説した。吉田は、日本の大正デモクラシーを指摘して、それが29年大恐慌以後抑えられ、民主主義には時間がかかると一席ぶった(リチャード・B・フィン『マッカーサーと吉田茂』50頁)。日本にも民主主義の伝統があることを言いたかったのである。 天皇とマッカーサーとの会見準備は、米国記者と天皇との会見と相前後して進められたようだ。これは、マッカーサーとの会見前に、天皇が対米世論でいい印象を作っておくことを意味した。 藤田の下準備 9月20日、吉田外相がマッカーサーと天皇会見を話し合って、ほっとしながら、「この会見をどう実現したらよいか」としきりに考えつつ、エレベーターを出た。藤田侍従長は、黙考する吉田に気づいたが、吉田は一階ロビーで待つ藤田に気づかなかった(藤田尚徳『侍従長の回想』、172頁)。 その藤田尚徳侍従長もまた、通訳一人を連れて、天皇・マッカーサー会見のお膳立てのためにマッカーサーを訪ねていたのであった。藤田はマッカーサーに会うと、天皇の言葉として、「元帥は開戦以来、方々の戦場で戦われ、日本に進駐されたが、ご健康はどうであろうか。炎熱の南方諸島で健康をそこなわれるようなことはなかったろうか。また日本の夏は残暑が厳しいので十分に健康にはご注意ありたい」旨を伝えた。マッカーサーは、「私のことを種々御心配下さって感謝にたえない。どうか陛下によろしくお伝え願いたい」と謝意を表明した。藤田は、「占領軍を指揮するマ元帥が陛下に対してどう出るかは、私たちにとって推量しかねる重大問題であった」ので、マッカーサーの「丁重な応対」に、これまでの心配が「取り越し苦労」だとして安堵した(藤田尚徳『侍従長の回想』、171−2頁)。 マッカーサーが藤田侍従長が海軍大将だったことを知っており、「アドミラル・フジタ、プリーズ」と言いつつ、葉巻をすすめてきた。藤田は緊張がとけて壁の地図をながめたりしたが、会見などについて話し合うこともなく、15分で辞去した。皇居に戻ると、藤田は宮相、内大臣に会見模様を知らせた後に、吉田外相から連絡があった。吉田は藤田に、GHQで気づかなかった非礼を詫びた上で、会見模様を伝え、「侍従長におかれても、会見問題を至急ご研究願いたい」(藤田尚徳『侍従長の回想』、172頁)と要請した。藤田はこれでマッカーサーに天皇と会見する意向があることはっきりしたとして、宮内省は9月27日に天皇がアメリカ大使館を訪問する方針を決めた。会見場所をGHQではなく、アメリカ大使館にしたのは、アメリカ政府の代表に会うという意味をこめたからであろう。 それに伴い、日本側の随行員、大使館での接迎方法(幕僚二名が玄関で出迎え)、会見方法(藤田侍従長・石渡宮相は書斎で控え、応接間で天皇・元帥が会見)などを決めた(奥村勝蔵「陛下とマ元帥」[吉田茂『回想十年』第一巻、新潮社、昭和32年、104頁])。 天皇の準備 21日には吉田は天皇に会って、1時間10分打ち合わせをした(『入江相政日記』第二巻、9頁、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見、36頁)。4時30分には天皇は東久邇首相と1時間会談した(『入江相政日記』第二巻、10頁)。 9月26日午前10時前後、天皇は式部長官に約30分会って、「明日の御訪問」の打合せをした。その後、天皇は、宮内大臣、内大臣と各々2回会っていて(『入江相政日記』第二巻、11頁)、明日の会談を綿密に話し合ったようだ。同26日、筧侍従も、運転手を連れて米大使館に「下検分」(週刊文春編集部「天皇の庶民体験」[『目撃者が語る昭和史』第1巻、昭和天皇、新人物往来社、1989年、268頁])に赴いた。 天皇は御文庫で内大臣木戸に会うと、天皇は開戦当時を回顧して、開戦の詔書を発布するに当り、東条に、「此の詔書を発するは実に断腸の思である、殊に多年親交ある英国の皇室と仮令一時たりとも敵対するは真に遺憾に堪えない」(『木戸幸一日記』下巻、1237頁)と話したことを告げた。明日のマッカーサーとの会見を前に、天皇は木戸に、改めて開戦詔書渙発は天皇には「断腸」の思いでおこなった「遺憾」なものだということを確認した。 こうして、事前の周到な準備のもとに、天皇はマッカーサーに会見することになった。9月27日午前9時50分、天皇は「小豆色の御料車」ではなく、黒塗りの自動車4台で、「宮相(石渡荘太郎)、侍従長(藤田寛徳)、徳大寺、村山、筧」らを引き連れて、極秘のうちに「途中の交通整理もなく」アメリカ大使館に向い(『入江相政日記』第二巻、11頁)、桜田門交差点で赤信号につかまった。 天皇の戦争責任 天皇は警視庁、虎ノ門を経て、午前10時に駐日アメリカ大使館内の大使公邸に着いた。マッカーサー副官のボナー・フェラーズ准将、パワーズ少佐が出迎え、予ての打ち合わせ通り、天皇は書斎に迎え入れられた。天皇は、外務省参事官奥村勝蔵の通訳のもとにマッカーサーと35分間会見した。 これは、打ち合わせにはなかったようだが、天皇が書斎にはいると、元帥が「ここにお立ちください」と告げ、天皇の右側に並んだ。天皇が何事かと考える遑なく、すぐに『陸軍写真班』の腕章をつけた米兵が来て、2、3枚写真をとって、すみやかに出て行った(奥村勝蔵「陛下とマ元帥」[吉田茂『回想十年』第一巻、新潮社、昭和32年、104−5頁])。正装した天皇は手を伸ばして緊張しているかだが、背の高いマッカーサーは腕を組んで立ち、連合国最高司令官の権威・権限が天皇に勝っていることを示そうとした。これは『ライフ』に掲載され、この歴史的会見の宣伝効果を十分意識した配置構成の写真となった。 マッカーサーは、「天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか」と不安に襲われた。マッカーサーが天皇に、「戦争にたいする責任を取る気があるのか」とずばり聞いた。 天皇は既に終戦活動期から国体護持のために身を捨てており、天皇制存続のためなら廃位、処刑何でも甘受する覚悟はできていた。マッカーサー回顧記では、天皇は、「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」(津島一夫訳『 マッカーサー回顧記』朝日新聞社、1964年[豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』、2頁])と告げ、マッカーサーを大いに感動させたという。 この点を内外の回想録で傍証してみよう。まず日本側侍従回想から見れば、侍従長藤田尚徳の『侍従長の回想』(174−5頁)では、「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」とある。侍従小池の回想録でも、「戦争の責任は全部私にあります。私は如何様になっても宜しいです。国民を救助せられますようお願い致します」(『小池龍二回想録』(中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、419頁)と述べられている。松平康昌式部官長が田中隆吉元陸軍少将に話した所では、「ポツダム宣言によると、日本人は戦犯として裁判されるとのことであるが、彼らはことごとく自分の命令で戦争に従事した者であるから、この人達を釈放して自分を処刑してもらいたい」(田中隆吉「かくて天皇は無罪になった」『「文藝春秋」にみる昭和史』第二巻、文藝春秋、1988年、88頁)と発言している。 次に、マッカーサー側の回想記を検討すると、マッカーサー副官のフォービアン・バワーズ少佐は、マッカーサーから聞いた話として、天皇は「(戦争は)私の名のもとで行われたことですから」、「私には責任があります」、「私の身を捧げるから好きなようにしてください」(バワーズ談[青木『昭和天皇とワシントンを結んだ男』147頁])と告げたことになる。マッカーサーはバワーズに、「位を極めたあれほどの人物がかくも落ちぶれているのを見ると、心が痛み苦しくなる」とも述べていた。 ヴァイニング夫人も、マッカーサーから聞いた話として、「天皇はこう言われた、『お答えする前に一言いわせていただきたい。閣下がわたしをどう扱おうとそれは構わない。わたしはそれを甘んじて受ける。絞首刑にしても構わない。ただしわたしは戦争を望んだことは一度もなかった。一つにはわれわれが勝てるなどとわたしが考えなかったからだ。それにもましてわたしは軍拡派を好まなかったし、信用していなかった。戦争を阻止するためにわたしはできることはした』」(ヴァイニング『天皇とわたし』141頁)としている。この後の記述はないが、彼女の記憶によると、いかなる責任もとるが、自分は戦争を望まなかったし、勝利も信じなかったし、開戦回避に極力努力したというのである。 内容については問題もあろうが、天皇が身を捨てて、戦争責任を自ら痛感していたのはほぼ事実であろう。この点は、侍従次長木下道雄「聖断拝聴原稿」(木下道雄『側近日誌』文藝春秋、1990年、215頁)に、天皇が「私自身としては、不可抗力とはいいながらこの戦争によって世界人類の幸福を害い、又我が国民に物心両面に多大な損失を与えて国の発展を阻止し、又、股肱と頼んだ多くの忠勇なる軍人を戦場に失い、かつ多年教育整備した軍を武装解除に至らしめたのみならず、国家の為粉骨努力した多くの忠誠の人々を戦争犯罪人たらしめたことに付ては、我が祖先に対して誠に申し訳なく、衷心陳謝するところである」としている。天皇は深く責任を感じて、祖先に「陳謝」していることからも確認できるのである。 東条への戦争責任転嫁 しかし、奥村勝蔵手記では、こうした天皇責任引受け発言はなく、東条への責任転嫁発言が残っている。『昭和天皇実録』はこの奥村手記をそのまま引用している。 豊下楢彦氏は、この奥村手記が最も妥当として、上記の如き「天皇の戦争責任肯定、処分一任」発言は実際にはなかったと主張する(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見、30−31頁)。2002年10月17日に外務省は第一回会見記を公開したが、作家児島襄が1975年11月号『文藝春秋』に発表した「奥村手記」(天皇の宣戦弁明、遺憾表明しつつも、「全責任を負う」発言はない)と同じであり(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』29頁、71頁)、クルックホーン向け正式回答とも同一であった。 この相違はどう理解すればよいのか。奥村としては、天皇が全責任を負うとか、どんな罪でも甘受するなどということは、とても臣民には「大きすぎて」書けなかったということではなかろうか。後でこれが言質となって天皇の身に重大事が起こった場合、とても一臣民の手に負えるものではない。不敬罪に相当するかもしれない。だから、奥村はこれを削除したのである。このことは、「松井明手記」(2002年8月5日付『朝日新聞』10面が公表)に、松井は奥村から直接聞いた話として、「天皇が一切の戦争責任を負われる」旨の発言は、元帥が「滔々と戦争哲学を語った直後に述べられた」が、「余りの重大さを顧慮し記録から削除」したとあることによって確認される。 しかし、天皇の戦争責任表明とマッカーサーの戦争哲学「演説」の順序については、事実は奥村の主張とは逆であったろう。だから、奥村手記を掲載した『昭和天皇実録』では、昭和30年9月2日にニューヨークを訪問した外相重光葵に対するマッカーサー発言(「天皇と会見した際、天皇が冒頭に戦争責任を負い、自身の運命を聨合国最高司令官の判断に委ねる旨を発言されたことを告げる」)をも掲載し、かつ前記マッカーサー回想をも引用して、この部分に対する奥村手記の問題性を示唆し、客観的事実の叙述に努めている。 ただし、東条ら「軍国主義者」に戦争責任を転嫁する方向にかかわる議論もまた実際に行われたようだ。米国人ジャーナリストのジョン・ガンサーはマッカーサーに取材して、第一回会見で、天皇は「こんどの戦争に遺憾の意を表明し、自分はこれを防止したいと思った」と発言した。マッカーサーは、「もしそれがほんとうだとするならば、なぜその希望を実行に移すことができなかったのか」と尋ねた。すると、天皇は、「国民はわたしが非常に好きである」から、「もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をしたならば」、国民は天皇を幽閉し、「また国民がわたしを愛していなかったならば、かれらは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう」(木下秀夫ら訳『マッカーサーの謎』時事通信社)とした。 『昭和天皇独白録』(119−120頁)でも、「私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云ふので、国内の輿論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろう」とした。また、16年11月30日、天皇は高松宮と戦争勝敗を見通して、高松宮は「統帥部の予想は五分五分の無勝負か、うまく行っても、六分四分で辛うじて勝てる」としたが、天皇は「敗けはせぬか」と不安を表明した。そこで、高松宮が「それなら今止めてはどうか」と言うと、天皇は「立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ。若し認めなければ、東条は辞職し、大きな『クーデタ』が起こり、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるだろう」と考えて、開戦中止を唱えなかったとした。 天皇が和平工作すれば、東条ら軍強硬派がそれを阻止するためにクーデターを起こし、天皇暗殺もしかねないというのである。実際、終戦時の陸軍中堅は、強硬に戦争継続、本土決戦を説いて、クーデターを起こして、ポツダム宣言受諾、終戦には反対していた。故に、天皇が開戦反対を唱えれば、クーデターが起きて、天皇は幽閉され、軍部独裁政権が国民をもっと悲惨な戦争に巻き込んだことであろう。天皇が回線に積極的に賛成したのではなかったのである。 マッカーサーの長「陳述」 次いで、マッカーサーは「約二十分に亘り滔滔と陳述」しはじめたのである(奥村手記に依拠した『昭和天皇実録』巻三十四)。 マッカーサーは、「若し日本が戦争を戦争を継続することによって蒙るべき惨害と較ぶれば(日本再建の困難はー筆者)何でも無いであらう。若し日本が更に抗戦を続けて居たならば、日本全土は文字通り殲滅し何百万とも知れぬ人民が犠牲になったであろう」とした。また、「終戦に当っての陛下の御決意は国民と人民をして測り知れざる痛苦を免らしめられた点に於て誠に御英断であった」などと、天皇を賞賛した。それは、天皇が身を捨てた戦争責任引受表明があったからである。それが無ければ、「「親日家」のマッカーサーといえども、敵国最高司令官をほめあげる事はありえなかったであろう。 さらに、マッカーサーは天皇に世論対策の重要性を助言した。つまり、マッカーサーは、「世界の輿論の問題であるが、将兵は一旦終戦となれば普通の善い人間になり終るのである」が、「幾百万の人民」は「憎悪や復讐の感情で動いて居る」とし、「その尖端を行くものが新聞であ」り、「其の取扱は中々困難である」とした。 今後の連絡方法 最後に、二人は今後の連絡方法を確認しあった。 奥村手記によると、マッカーサーが天皇に、「陛下程日本を知り日本国民を知る者は他に御座いませぬ。従て今後陛下に於かれ何等御意見乃至御気付の点、opinions and agvice も御座いますれば、侍従長其他然るべき人を通じ御申聞下さる様願ひ致します」と要請したとあり、これは『昭和天皇実録』も収載している。 この点は、『木戸幸一日記』(1237頁)では、「マッカーサー元帥は陛下が終始平和の為めに努力せられたるは充分判り居る旨」を話し、「マッカーサー元帥は『国民及び政界の要人等につき一番御承知なるは陛下なりと信ず。就ては今後も種々御助言を得たい』との意味の話」があり、マッカーサーは「侍従長を以てと云ひ居たる」が、天皇は木戸に「之は都合によりては自分が会ひてもよし、又内大臣が使ひしても宜しからんと思ふから、其積りで考へて置く様に」と告げたとある。これは、天皇がマッカーサーから要請されたことを内大臣木戸幸一に伝えたものであり、これに関する限り奥村手記は正確であることが傍証されよう。また、藤田回想によると、この天皇発言に、マッカーサーは、「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(藤田尚徳『侍従長の回想』、175頁)としたとある。 こうして、天皇は「上位」のマッカーサーに天皇自らか侍従長・内大臣を通して今後も助言するという関係が構築されたことになる。9月30日吉田外相は木戸内大臣に、「過日御訪問の砌マッカーサー将軍より『侍従長を以て御助言云々』の義に付、奥村参事官御通訳の際の感触は閣下御解釈の通、仮令へば侍従長でもの意に了解致候由に御座候」(『木戸幸一関係文書』637頁)とした。マッカーサーの天皇利用について天皇から了解を得て、その方法まで指示されていたということである。 そして、奥村手記では、別れ際に、マッカーサーは天皇に、「今後何か御意見なり御気付の点も御座いましたならば、何時でも御遠慮無く御申聞け願ひ度く存じます」と告げたとある。これも、侍従小池回想によると、見送り時に、マッカーサーは天皇に、「若し今後ご心配な事がおきましたなら、何時にても私にご相談下さい。お力になりましょう」(『小池龍二回想録』(中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、419頁)とも言っていることから、これも傍証されよう。 『入江相政日記』では、「マッカーサー始め一同に非常によい印象をお与へ遊ばれた」と記している(『入江相政日記』第一巻、11頁)。車中で入江が耳にした一般的印象であろう。実際、マッカーサーは天皇に敬意を抱き、予定になかったことだが、「わざわざ陛下と一緒に玄関口まで出てお見送り」(奥村勝蔵「陛下とマ元帥」[吉田茂『回想十年』第一巻、新潮社、昭和32年、106頁])したのであった。後日、マッカーサーは吉田外相に、「陛下ほど自然そのままの純真な、かつ善良な方を見たことがない。実に立派なお人柄である」(吉田茂『回想十年』第一巻、97頁)と賞賛した。 こうして、この第一回会見では、天皇のマッカーサー占領権力への積極協力とマッカーサーの天皇権威の全面依存を相互確認し、そのための上下関係と命令指揮の具体的手続きまで定めたのであった。マッカーサーは、ここで、上下関係・権力構造では、「実権をもたない天皇にかわり、日本のショーグンとなる」(シドニー・メイヤー『日本占領』31頁)ことを宣言したともいえる。決して天皇は「マッカーサーとは対等の立場だという確認」(保阪正康『昭和天皇、敗戦からの戦い』毎日新聞社、2007年、22頁)などはしていない。そして、マッカーサーは、「東アジアの民衆を知り、尊敬し、愛し、また同地域に何年も住みついていた人物」であり、時に本国大統領とも対立する「勇気」「率直」さをもつ「家父長」であり、故に彼の「温情主義」は民衆を引きつけたとも言える(シドニー・メイヤー『日本占領』33頁)。その意味で、吉田も言うように、「皇室に対して、元帥の執った態度と方針こそ、占領改革が全体として歴史的成功を収めた最大の原因だった」(吉田茂『回想十年』第一巻、98頁)のである。 天皇訴追免除措置 20年10月1日、マッカーサーは軍事秘書官ボナー・フェラーズ准将に、天皇訴追、天皇処刑の要求(アメリカ世論、中国、オーストラリア、ニュージーランド)を退けるための意見を集約することを命じた。同時に、「日本占領を円滑に進めるために天皇の力を借りる方針」(青木『昭和天皇とワシントンを結んだ男』148頁)を決定した。10月2日、ボナー・F・フェラーズ准将は旧知の元宮内次官関屋貞三郎らと協議して、天皇の戦犯訴追免除のために、天皇は真珠湾攻撃の意思はなかったこと、訴追すれば重大事態を招くことなどを骨子とする覚書を提出した(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見、13−5頁)。 11月29日、アメリカ統合参謀本部は、マッカーサーに、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集せよと指令した(WX 85811)。21年1月21日、オーストラリアの国連戦争犯罪委員会代表が、ロンドンで「天皇を戦争犯罪人として告発する」と訴えた。同日、ワシントンはマッカーサーにこれを速報した(フィン『マッカーサーと吉田茂』120頁)。 1月25日、マッカーサーは本国統合参謀本部に、「過去10年間の日本帝国の政治的決定に様々に関与させたであろう諸行動に関連して明白な証拠は摘発されていない」とした。彼は、かなり調査した結果、「終戦までの国事行為への関与は相当程度大臣らによるものであり、顧問らの助言に応じたものだ」という印象をえたとした。そして、@彼を訴追していれば、「有力な軍閥によって支配され代表される意見の流れを妨害しようとする天皇の努力を危険なものとしていたであろう」こと、A訴追には「大きな変化が占領計画に施され、しかるべき準備がなされねばならないこと」、B訴追は「日本国民の間に深刻な激震をもたらし、その影響はいかに過大評価してもしきれないほど大きいこと」を指摘した。最後に、マッカサーは、「彼をやっつければ、日本国民は分裂する」と警告したのであった(アメリカ国立公文書館所蔵文書、State Department Records Decimal File,1945-1949"894.001 HIROHITO/1-2546" <Sheet No. SDDF(B)00065>[国会図書館所蔵])。「天皇の存在はマッカーサー元帥にとって二十個師団にも匹敵する」(1948年米国ニュース報道)のであった。これは、「ワシントンにおける天皇訴追論議に実質的な終止符をう」(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見、17頁)った。 21年1月31日、マッカーサーは極東諮問委員会英国代表ジョージ・サムソム(後述)に、「日本がこのまま順調に進めば立憲君主制の方向に向か」(フィン『マッカーサーと吉田茂』122頁)い、「(天皇は)最初から最後まで操り人形、すなわち『完全なチャーリー・マッカーシー』(腹話術師の人形)で、戦争をはじめたわけでも、終わらせたわけでもなかった。あらゆる時点で、彼は助言にもとづいて自動的に行動し、それ以外のことはできなかった」(ジョン・W・ダワー『昭和』280頁)としていた。サムソムは英国政府に、「最高司令官の判断は正しい」と報告した(フィン『マッカーサーと吉田茂』122頁)。この意味で、「天皇をめぐる戦後の論争にマッカーサーが果たした役割は決定的だった」(フィン『マッカーサーと吉田茂』123頁)のである。 天皇・マッカーサー会見についてのCIE見解 木下道雄侍従次長はブライスに、天皇・マッカーサー「相互訪問」についてのCIE(民間情報教育局)局長ケネス・リード・ダイクを探るように要請し、ブライスはダイクのみならず同局特別顧問ハロルド・G・ヘンダーソンとも懇談した。ブライスはそれを覚書としてまとめて木下に提出し、21年正月13日に木下ははこの訳文を天皇に報告した(原文、訳文は『側近日誌』111−115頁に掲載、『昭和天皇実録』巻三十五には訳文大意が所載)。 それによると、「天皇のマッカーサー訪問は、単なる儀礼的なものであれば、実施の必要はな」く、「マッカーサーは、日本国政府の確固たる政策と、天皇の御行動の一貫した方針を承ることを望んでいる」と、あくまで日本最高指導者として「実のある」会談にしたいとした。そこで、天皇の国民指導について、「天皇は精神的に国民を統率すべきであり、親しく国民に接し、国民の誇りと愛国心とを鼓舞激励されるべきである」とした。 さらに、地方巡幸に関して、「今こそ天皇は国内を広く巡幸し、国民の声に耳を傾けられるべきである、還幸後は、国民胸中の真心を覚醒すべく諭されるべきこと」と奨励し、「またこうした新しい御方策を携え、マッカーサーを御訪問になり、彼の援助や批評を受けられることが良策である」とした。天皇は国民を統率しつつ、地方巡幸で国民の声を聞き、国民覚醒を促し、そのことにマッカーサーの援助・批評を得るために会見をするというのである。重要なことは、あくまでマッカーサーが日本最高指導者(まだ天皇は大日本国憲法で規定された大権者である)を助言するという「上米下日」という上下関係で会うということである。憲法改正で大権者である位置が否定されればどうするかまでは検討されていない。 天皇はこれに「賛意」を示され、「地方巡幸について研究をお命じにな」り、「巡幸は皇后と同列にても宜しきこと」、「形式は簡易とすべきこと」などを付言した。翌14日には、天皇は木下に、「地方巡幸の時期び関して、総選挙・石炭欠乏・交通事情等の問題を含め、宮内大臣石渡荘太郎と協議するよう仰せ」になった『昭和天皇実録』巻三十五、12頁。 以後、日本側とマッカーサー側との間で、天皇制存続を前提として、天皇巡行、民主的改革、人間宣言などの手がうち出されていった。 A 第二回会見 会見日の設定 天皇は、上記3月20日寺崎英成・フェラーズ会談でマッカーサーが退位に反対していることを確認した上で、対日理事会や天皇戦犯問題などをマッカーサーと話し合うべく、第二回会見を画策する。当初は、21年3月29日(1946年3月26日付マッカーサー宛吉田書簡[『吉田茂=マッカーサー往復書簡集』218―9頁])か4月に第二回会見が予定されていたが、天皇が葉山から行くのは「呼びつけられる」印象を与えるからとか、マッカーサーが対日理事会の演説準備に忙殺されて、延期されたと言われている(徳川義寛『侍従長の遺言』129頁)。 4月3日、天皇は木下次官・御用掛寺崎英成から、「マッカーサーとの第二回目の御会見を、御帰京後に(天皇は4月1日から11日まで葉山御用邸に滞在中)願いたき旨」の奏上を受けた。その際、天皇は「最高司令官軍事秘書ボナー・フランク・フェラーズよりの情報として、近く開かれる米国・英連邦・ソ連邦・中国より構成される対日理事会(第一回会合は4月5日開催)の性質、並びにマッカーサーは現在その演説準備に忙殺されている事」などを聞いた。4月16日、天皇は寺崎英成に、「聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの第二回目の御会見の手続きを進めるよう」(『昭和天皇実録』巻三十五、180頁)に下命した。 4月9日寺崎は宮内大臣にマッカーサー会見は「十五日の希望」を申し入れた。しかし、4月11日、鴨猟の現場で寺崎は宮内大臣から「マック病気なり」と告げられ、4月16日寺崎はフェラーズに病状を確認した(『寺崎英成御用日記』215ー6頁)。快方に向かっていることを確認しようとしたのであろう、同日に寺崎は天皇に会うと、天皇は寺崎に、「聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの第二回目の御会見の手続きを進めるよう」(『昭和天皇実録』巻三十五、180頁)に下命した。4月18日、寺崎はフェラーズに会見を申し入れると、「驚くべ」き「早さ」で(『寺崎英成御用日記』216頁)、「来る4月23日午前10時30分、米国大使館に行幸を願う旨」を回答してきた(『昭和天皇実録』巻三十五、80頁、『側近日誌』192頁)。寺崎は、これを宮内大臣・次官・侍従次長・外務大臣に報告して、相当に「疲れ」た(『寺崎英成御用日記』216頁)。19日、天皇は、宮相松平慶民、寺崎に、「二回目の御会見に関して、思召しをお話しにな」(『昭和天皇実録』巻三十五、80頁)り、寺崎は「陛下の腹案」(『寺崎英成御用日記』216頁)を聞いたと記した。22日、午前、天皇は会見を明日に控えて、木下、寺崎を召して、「会話資料」を持ち出して「マッカーサーとの御会見につき研究」(『昭和天皇実録』巻三十五、82頁、『側近日誌』193頁)した。 所が、同日午後5時25分、幣原内閣総辞職の報が内記部長稲田周一に入り、天皇は内廷庁舎御政務に宮相松平慶民、侍従長藤田尚徳、同次長木下道雄、宗秩寮総裁松平康昌を召して、「総辞職に対する処置」を検討し、「後継内閣成立まで国務をとり、政局の安定を図る」事となった。7時25分、幣原首相が参内して、天皇に「内閣総辞職の辞表」を提出し、「去る四月十日の衆議院議員選挙以降の政局の経緯」を奏上した。この幣原内閣総辞職の「政変」で、明日の会見は中止となり、寺崎に聯合国最高司令部に連絡させた(『昭和天皇実録』巻三十五、83頁、『側近日誌』193頁)。寺崎は、この日既に二回フェラーズに会っていて、中止の件で三度目の接触をもった(『寺崎英成御用日記』218頁)。 5月16日後継内閣は吉田茂が組閣することになり、5月22日に組閣され、これで会見の条件が整った。5月27日午前、宮相松平康民は天皇に、「皇室財産問題、皇族の特権廃止問題」とともに「聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの御会見」を奏上した。同日午後、寺崎が天皇に「マッカーサーとの御会見」(『昭和天皇実録』巻三十五、103頁)を奏上し、この頃に31日会見が決まったと思われる。5月29日、宮相松平康民・侍従長大金益次郎・御用掛寺崎英成は天皇に、「来る三十一日の聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの会見での御言葉につき奏上」(『昭和天皇実録』巻三十五、104頁)した。5月30日、宮相松平・侍従長大金・御用掛寺崎は天皇に、「翌日の聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの御会見における御言葉等を変更すること」を言上した(『昭和天皇実録』巻三十五、105頁)。 会見 5月31日午前10時、天皇は松平慶民宮内大臣、大金益次郎侍従長、寺崎英成御用掛3人のみを連れて、マッカーサーを訪問した(『入江相政日記』第二巻、62頁)。 この第2回天皇・マッカーサー会見は寺崎英成の通訳でなされ、「天皇より食糧援助に対する感謝と更なる援助の御要請、満州・朝鮮半島の残留邦人への配慮に対する御礼、民生安定・生産奨励・文化発展の御希望、皇室財産を政府で役立てたいこと、地方巡幸への協力及び新憲法作成への助力に対する謝意などについての御発言」があった(『昭和天皇実録』巻三十五、105頁)。 「後の話」として、徳川侍従は、@「食料援助、満鮮在留の邦人への配慮」・「憲法作成ご助力」への御礼、A「民政安定と生産奨励、文化発展」・皇室財産の供出・巡幸継続なども話し合われたようだとした(徳川義寛『侍従長の遺言』130頁)。入江侍従は、「お話も大変順調で非常に御工合もおよろしかった由、祖国の為非常な御奮闘で何よりも難有い」(『入江相政日記』第二巻、62頁)とした。このうち、いずれにポイントがおかれたかに関して、豊下氏は「天皇の戦争責任をめぐる東京裁判問題」(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』94頁)を挙げている。天皇のマッカーサーへの謝意の表明の中で、この問題が扱われていることが留意されよう。既に天皇を戦犯として訴追しないことは知っていたので、このことへの謝意も表明されてのであろう。 6月6日に、寺崎は「御会見録原稿」を提出した(『寺崎英成御用掛日記』229頁)。 同年7月、マニラでマッカーサーは英国外交官マイルス・キラーンと会い、「天皇は今の日本で最も民主的考えを持ち、極めて扱いやすい男だ」(1946年7月11日付英国外務省報告[徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』220頁])と告げている。天皇が国体護持のためにマッカーサーの「いいなり」状態になっていたことが確認される。 パケナムらは、1946年8月12日付ニューズウィークで、「天皇を廃位せず民主化したことは、占領当局の業績のひとつである。しかし、その業績も、マッカーサー元帥を新たな神に仕立て上げたことで、影がうすくなったしまった。日本の天皇の伝統をまねて、マッカーサーは依然として超然たる存在である」(青木『昭和天皇とワシントンを結んだ男』35頁)とした。占領一年で、マッカーサーは天皇を傘下におさめた事実上の最高権力者としての地位を固めたとしたのである。 B 第三回会見 会見設定準備 21年9月30日、寺崎は天皇に「マッカーサーとの三回目の御会見につき言上」した(『昭和天皇実録』巻三十五、157頁)。10月11日午前、天皇は寺崎に、「マッカーサーとの会見を申し入れるようにお話しにな」った。午後、天皇は寺崎に、「地方巡幸につき、最高司令官の意向を調査するよう」に下命した(『昭和天皇実録』巻三十五、161頁)。 10月12日、寺崎は軍事秘書ボナ・フェラーズを訪問して、「次回のマッカーサーとの御会見は16日午前10時15分と決定」した。今回は迅速に決まった。10月14日午後、天皇は宮相松平・侍従長大金・寺崎に、「16日の聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの御会見における御言葉につき御相談にな」った(『昭和天皇実録』巻三十五、163頁)。 第三回会見 21年10月16日、天皇は、新憲法が国会で成立したことを受けて、寺崎通訳のもとにマッカーサーと第3回会談をもち、「食料問題、米国の対日世論問題、憲法問題、ストライキの問題、天皇の巡行問題、シベリア抑留者問題など」(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』95頁)を議論した。 食料問題について、マッカーサーは天皇に、「アメリカ政府が援助してくれなければ、自分は辞任するとまでトルーマン大統領に言ってやった」(Naganuma Setuo「天皇・マッカーサー第3回会談の全貌」27-30pp[フィン『マッカーサーと吉田茂』211頁])と打ち明けた。 米国世論について、天皇は「アメリカの世論は日本に好意的ではないようにみえる」と指摘した。マッカーサーはこれに同意した。そして、マッカーサーは、「来日するアメリカ人に、天皇の民主的な態度が日本の再建に大いに役立っていると言っても、ほとんどの人が信用してくれない」とこぼすと、二人は笑いあった(Naganuma Setuo「天皇・マッカーサー第3回会談の全貌」27-30pp[フィン『マッカーサーと吉田茂』211頁])。 成立した新憲法で象徴天皇になったにも拘らず、いまだ施行されていないからか、天皇は、憲法問題では、「戦争放棄の大理想を掲げた新憲法に日本は何処までも忠実であ」るが、「戦争放棄を決意実行する日本が危険にさらされる事のない様な世界の到来を、一日も早く見られる様に念願せずには居れません」と、憲法第9条に懸念を表明した。すると、マッカーサーは、「最も驚くべきことは、世界の人々が、戦争は世界を破滅に導くといふ事を、充分認識して居らぬことであります。戦争は最早不可能であります。戦争を無くするには、戦争を抛棄する以外には方法はありませぬ。それを日本が実行されました」と返答した。ならば、日本のみならず、米国も同時に戦争放棄すべきなのである。日本だけ戦争放棄すれば、天皇も懸念したように「日本が危険にさらされる」のである。 しかし、マッカーサーは、「五十年後に於て、私は予言致します。日本が道徳的に勇敢且賢明であった事が立証されませう。百年後に日本は世界の道徳的指導者となった事が悟られるでありませう」(国立国会図書館憲政資料室資料[徳川義寛『侍従長の遺言』155−6頁])と、道徳的予言のもとにこの非常識・非現実的な戦争放棄を日本だけにおしつけたことを不確かな未来の予言で正当化したのである。このことは、この条項が、マッカーサーによって押し付けられたことを再確認させる。もしそれだけ道徳的にすばらしいものならば、米国も日本と同時に戦争放棄するので、日米協力一致して世界戦争放棄・戦力不保持のために戦おうぐらいのことをいうべきであったろう。それでも、『昭和天皇実録』巻三十五(164頁)では、天皇は、「憲法により、民主的新日本建設の基礎が確立された旨の御認識を示され、憲法改正に際しての最高司令官の指導に感謝の意を示され」たとある。換言すれば、天皇は、憲法によって国体護持された以上、民主であれ、戦争放棄であれ、マッカーサーには感謝の念で一杯だということである。 また徳川侍従によると、巡幸については、GHQ民政局などでは「反対論も出ていた」が、マッカーサーが「陛下の思し召しのままなさる」ようにと助言され、また天皇は「食糧危機突破は元帥の力」と謝意を表明した(徳川義寛『侍従長の遺言』131頁)。これは、当時の資料からも裏付けられる。天皇が、「巡幸は私の強く希望するもの」だが、「憲法成立迄は特に差控へた方」がいいと言う者があるとして、マッカサーの意見を求めたのであった。マッカーサーは、「米国も英国も陛下が民衆の中に入られるのを歓迎」するとし、「司令部に関する限り、陛下は何事も為し得る自由を持っている」(国会図書館憲政資料室資料[徳川義寛『侍従長の遺言』131頁])とした。GHQの指令に従属している限り、天皇は自由だというのである。 そのほか、天皇は、「ストライキについてのお考えを述べられ、また在外将兵ほか日本人の内地帰還、特にソ連邦よりの引揚民に対する最高司令部の多大の配慮に感謝の意を表」した(『昭和天皇実録』巻三十五、164頁)。 入江侍従の総評を見ると、「正味二時間の御会談。終始御順調で元帥は悉く敬愛し奉り、信服し奉って居り、今日なども徹頭徹尾お上の礼賛であった由」(『入江相政日記』第二巻、91頁)とした。寺崎は、「御会見 満点なり」(『寺崎英成御用日記』250頁)とした。マッカーサーは、天皇が憲法改正に大きな役割を果たした事を承知しており、自分の課した基本方針が実現したことに天皇に深く感謝したのであり、それだけに天皇も強気で第9条問題について疑問を質すこともできたのである。まさに、今回は、天皇(国体護持)、マッカーサー(象徴天皇・戦争放棄・封建制撤廃の三原則)各自の思惑が見事に一致した日本国憲法公布を目前とした中で、天皇がマッカーサーの恩恵・便宜にに感謝し、お願いする会見だったのである。 以後も天皇の意思で会見を持続し、原則的にこの会談を非公開密談としたことによって、米軍による天皇の抱きこみに利用されたし、米軍は日本政府に重要事項の密談を持ち掛けやすくなったであろう。 英国報告書 22年1月21日、初代の駐日英国代表アルバリー・ガスコインはマッカーサーから昼食に招待され、昭和天皇の近況や戦争責任を話題にした。この時までマッカーサーは天皇と三回会談しているから、第一回会見のみの会談を踏まえていたのではない。22日付英国外務省宛ガスコイン報告書(徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』189−190頁)によると、マッカーサーが天皇に「そこまであなたが戦争に反対していたなら、なぜマイクの前に立ち、その旨を宣言しなかったのか」と尋ねると、天皇は「歴代の天皇で、側近の意見に反して行動した者はいません。1941年の時点で、もし私がそんな行動を取れば、間違いなく首をかき切られていました」と答えた。英国側には天皇無力論が伝えられていたことになる。 そして、上記英国外務省報告書では、マッカーサーは「裕仁自身は、戦争の立案、実行に関わっておらず、西園寺(公望)や牧野(伸顕)ら側近や軍国主義者の完全な支配下にあった」としたのである。マッカーサーは、軍国主義者東条英機の開戦責任論に立脚していたのである。 こうして、マッカーサーは英国側には、天皇無力論、東条の戦争責任論のみを伝えていたことになる。天皇が、戦争責任を引き受けるとしたことは伝えていなかったことになる。 これは、天皇のみならず、マッカーサーもまた、天皇訴追に直接・間接に関わる者(極東諮問委員会や米国報道機関などには)には自分は戦争に反対であったが軍閥の開戦意思に抵抗することはできなかったとし、天皇引責論を伝えることはなかったことを示している。 八 日本国憲法下の天皇ー国体護持策 周知の通り、日本国憲法「第一章天皇」で、天皇が憲法的に規定されている。 第一条で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされた。 天皇は「日本国」と「日本国民統合」の二つの象徴とされている。象徴とは、「形をもたない抽象的な事物・思惟・情調などの観念内容を、それとは独立した意味を持つ実在的な事物によって、具象的に表現すること」(『新国語中辞典』三省堂、昭和42年、978頁)である。従って、天皇は、「日本国」の観念と「日本国民統合」の観念を具体的・集約的に体現するものとなる。 そして、この天皇は、第二条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とされた。皇室典範は国会が議決するとしたことによって、初めて皇位継承に「間接的」ながら民意が反映するものとなった。 天皇にすれば、この二条によって「敵国」から天皇制の存続、国体の護持が認知保証されたものとなったのである。 第四条で、天皇は、憲法規定の国事行為のみを行ない、「国政に関する権能を有しない」とされた。 第三条で、国事行為は単独ではできず、「内閣の助言と承認を必要」としており、ゆえに「内閣が、その責任を負う」とされた。天皇以外の者が国事行為を行なう場合として、第四条第二項で「天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる」とし、第五条で「皇室典範 の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ」とされた。 では、国事行為とはなにか。第六条で「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」、同条第二項で「天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する」とされた。そして、 第七条で、「 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」とされた。内閣総理大臣と最高裁判所裁判官の任命は「内閣の助言と承認」行為ではないから、第六条行為は第七条国事行為から除かれたのであろう。しかし、実体的には、これも天皇の「国事行為」である。 第七条国事行為とは、「一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること」、「二 国会を召集すること」、「三 衆議院を解散すること」、四「 国会議員の総選挙の施行を公示すること」、「五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること、「六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること」、「七 栄典を授与すること」、「八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること」、「九 外国の大使及び公使を接受すること」、「十 儀式を行ふこと」である。 天皇はこれ以外の国事行為をできないし、「国政に関する権能を有しない」とされた。しかし、 天皇は「日本国」と「日本国民統合」の二つの象徴とされたために、第六条・第七条規定は最小国事行為を定めたものとすれば、平和と民主と文化などで日本国民統合をはかる行為は許されることになる。さらに、天皇の行為が、日本国と日本国民統合の象徴の行為であって、「国政に関する権能」の発現と看做さなければ、天皇の国事行為と政治行為の境界は非常に曖昧なものとなり、天皇の行為は広がってゆく。実際、日本国憲法施行後の天皇は、国体護持のために、そういう動きを示したのである。以下、この点を見てみよう。 なお、前文では、@主権者国民は不戦を決意し(「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」)、A国政の主人公は国民であり、国政権威は国民に由来し、権力は国民代表者が行使し(「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」)、B平和を追求し(「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」)、C自国利益で他国無視を禁止し、他国と対等関係を樹立する(「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」)と、一切天皇の行為についての言及はない。しかし、上述の通り、天皇が「日本国民統合」の象徴だとすれば、天皇は国民に向けて、不戦、平和を謳いあげることは可能になる。 1 天皇の「学問・文化」奨励ー行動「革命」 天皇は数年単位の時間をかけて、専制と軍事と神秘の存在から、民主と平和と人間の存在へと、「革命的」に自己を変容させててゆくのである。 さらには、文化・学芸・スポーツなどの奨励者、社会事業の支援者となり、キリスト教の理解者ともなって、戦前・戦中の軍人との接触が多かった天皇を一変させるのである。特に学芸面での天皇の行動は多くなる。 @ 昭和21年・22年 21年進講 昭和21年進講は、5月3日京都帝大教授小西重直「広瀬淡窓に就て」(90頁)、6月11日柳田国男「国語について」(116頁)、6月14日東京帝大教授東畑精一「我が国食糧生産の需給状況、食糧生産の基本等」(116頁)、7月3日元東京帝大教授那須浩進講(129頁)、10月1日元図書寮編集課長芝葛盛「木戸家文書について」(158頁)、12月13日日本銀行総裁一万田尚登「現下の金融状況」(206頁)、12月18日宮内省御用掛加藤虎之亮「大正天皇の御詩について」(207頁)と、余り多くはなかった。 22年進講 昭和22年進講は正月16日外務省情報部長奥村勝蔵(以後、5月8日まで7回の外交事情進講)(『昭和天皇実録』巻三十六、7頁)・2月13日宮内省御用掛武内義雄(昨年来の天皇の「東洋・西洋の倫理」にかんする進講を聞きたいという要望を最初に実現したもので、まず仏教を進講)(『昭和天皇実録』巻三十六、15頁)、3月31日元台北大教授足立仁(応用微生物学・応用菌学)・7月31日外務次官岡崎勝男(外交事情進講、以後8回の進講)と、この年もまたそれほど多くはなかった。 A 昭和22年5月以降 @ 生物学研究 天皇自身、戦前から御用邸・宮城にある植物を研究する生物学研究者であったが、資料1によれば、戦中は一時中断し、戦後は土曜日に生物学研究所で研究対象を葉山御用邸の海岸に生息するヒロドゾアに設定した生物研究を再開していた。資料1によれば、23年以降は、生物学研究者を広く生物学研究所に招いて、24年には『相模湾産後鰓類図鑑』を岩波書店から刊行するほどであった。 西園寺公望は、近代ヨーロッパの王侯貴族が博物学・生物学を学んでいる事を踏まえ、天皇がそれを修得することが皇室外交手段になるとして、生物学を学ぶように進言したという(丁宗鐵『天皇はなぜ生物学を研究するのか』講談社、2011年)。しかし、そもそも御用邸・宮城には研究材料たる植物が豊富にあり、かつ動物分類学では未開拓の分野が少なくなく、研究環境が恵まれ、競合研究者の少ない領域であったから、天皇は、戦時中という非常時期を除いて、長く研究を持続できたのである。それが、日本国憲法で天皇が象徴とされ、次に見るように学問・文化・芸術などの奨励者として位置づけられた事に対応て、象徴天皇に相応しい要件として天皇の生物学研究は一層相応しいものとなったのである。 資料1 天皇の生物学研究
A 天皇と文化・学問 日本国憲法で天皇が象徴とされ、学問・文化・芸術の奨励者となる方向が打ちだされたことに対応して、資料2によれば、昭和23年以降、天皇は、頻繁に科学委員・文化委員や日本学士院(人文系・科学系)、日本芸術院の会員と懇談したり、食事している。 既に、22年5月27日午後2時半、日本国憲法施行に対応して、天皇は「突然」「文化人グループの連中」(安倍能成、和辻哲郎、田中耕太郎、志賀直哉、谷川徹三)を呼び出した。彼らは、「突然のことであったので、特にお話申上げるだけの用意もなく、主としてお上からお話をうかがった」(『入江相政日記』第二巻、136頁)だけだったようだ。天皇は「文化及び生物学の話題につき御歓談」になったようだ(『昭和天皇実録』巻三十六、57頁)。彼らは、「苦難に堪えて平和な国家を建設するための修養に努めたい」という天皇思召しで文化委員と言われ、天皇に進講することとされた(『昭和天皇実録』巻三十六、57頁)。 23年12月には、生物学者でもある天皇と学問・文化・芸術との関連について、興味深い懇談会がもたれている。つまり、23年12月20日夕方、常磐松御用邸で、田島道治宮内府長官、林敬三次長、三谷隆信侍従長、鈴木次長、入江・高尾侍従らが、安倍能成(東宮顧問)、和辻哲郎、小泉信三(東宮顧問)、渋沢敬三、坪井忠二、田中耕太郎を招いて、「来年以降の御進講」について意見を徴した。ここで彼等文化人が述べた意見は、天皇と文化の関係を見る上で興味深い。 天皇の専門研究との関係として、安倍・和辻は、「陛下の御専門の生物学と文化科学との接触面から段々お引込するとすれば、考古学などが適当ではないか」とする。渋沢・坪井は、「陛下の御研究を一節抜くこと、単に分類学だけでなく発生学等を加味すること、深き研究的な基礎をお持ちになれば、即ち他の科学の分野に対して御理解が深くなるであらう」とした。 世界的に活躍する日本人とか世界文化と日本文化の比較などを、天皇の国際感覚を涵養するという意見として、渋沢敬三は、「日本民族の世界に於ける地位といふやうなものを色々な面から論じたらどうか」、「世界人としての感覚をお持ちになることが必要だ」などした。小泉は、「儒教の教養とか武士道といふやうなものがあった」明治時代について「世界文化を明治が如何にとり入れたか、それを現代から回顧、比較するといふやうなことは如何」と提案した。 天皇は学芸・文化の理解者になればいいという意見として、小泉信三は、「陛下は学芸に対するよき理解者におなりになればよいのだから、さういふ御理解をお助けすることにつき考へればよい」とした。坪井は、「一対一の御進講は・・エッセンスだけを申し上げることとなり、非常にむづかしい」ので「サロンをお催しになるに限る」とした。渋沢は、巡幸などではなく、実験施設での実験などで「陛下がつとめて民衆にお接しにな」り、「一般民衆もこの催しに参加して陛下と共に研究し一日を楽しむ」ことを提案した(『入江相政日記』第二巻、276−7頁)。 以上をうけて、侍従は、「日本文化と世界文化の交流」という主題で、世界的に活躍した日本人(新渡戸稲造、野口英世、岡倉天心ら)、「日本文化に貢献した日本人」(タウト、ケーベル、ベルツ、ハーンら)、「両文化の交流」の題を提案し、小泉がこれを明治に限定することを提案して、散会となる。 24年3月31日の芸術院会員との会合を『入江日記』で補完すれば、、天皇は、芸術院会員の小説家(谷崎潤一郎)、歌舞伎役者(尾上菊五郎、中村吉右衛門、坂東三津五郎)、俳優(喜多村緑郎)、音楽家(信時潔、安藤こう、近衛文麿)、邦楽(稀音家浄観、宮城道雄、宮崎春昇、山城少掾)、雅楽(豊時義)、狂言(野村小三郎)らを招いて、食事会でもてなした。「食卓でも相当賑やか」で、引き続き「御茶の席は思ったよりお話が非常にはづん」だ。会員は「こんな難有いことになったのも全く戦争の御蔭」(『入江相政日記』第二巻、310頁)として、天皇に呼ばれたことを感謝していた。結局、彼らは天皇に呼ばれて嬉しいということであるが、それが芸術精進を促すというわけでもなかろう。日々の精進が国民に理解され評価されるというのが、芸術の本道であろう。 このほか、回数こそ多くはないが、天皇・皇后は博物館・美術館にもでかけるようになっている。例えば、天皇・皇后は、23年には5月25日には国立博物館で開催の日本美術史総合展覧会に行幸し(『昭和天皇実録』巻三十七、46頁)、6月8日には上野の東京都美術館に行幸啓して、毎日新聞主催の第二回美術団体連合展覧会を見たり(『昭和天皇実録』巻三十七、51頁)、7月1日には東京都美術館で開催の日本輸出工芸展覧会(貿易庁・日本輸出工芸協会主催)に行幸していた(『昭和天皇実録』巻三十七、59頁)。 24年にも、天皇・皇后は、5月13日には東京都美術館に行幸して毎日新聞社主催の第三回美術団体連合展覧会を見たり(『昭和天皇実録』巻三十八、50頁)、11月11日には第五回日本美術展覧会を観るために東京都美術館へ行幸したり(『昭和天皇実録』巻三十八、144−5頁)m11月14日には正倉院特別展を見るため国立博物館に行幸している(『昭和天皇実録』巻三十八、145ー6頁)。 資料2 天皇と文化・科学委員、学士院・芸術院会員との交流
因みに、25年以降を別資料で見ておけば、25年11月28日、天皇は、科学委員(岡田、カビ研究の大槻虎男、林、植物研究の原寛、植物学の篠遠喜人、坪井、宇田、地質学の藤本治義、気象学の正野重方、辻)、文化委員(中山、西洋史の上原専禄、東洋史の和田清、丸山、日本古代史の坂本太郎)と陪食する(『入江相政日記』第二巻、403頁)。12月20日午後2時から5時まで、花蔭亭で和辻哲郎、安倍能成、小泉信三、長与善郎、谷川徹三が「鎖国の進講」を行なう(『入江相政日記』第二巻、407頁)。26年9月28日、天皇は芸術院受賞者(三宅克己、小川未明、寺内萬治郎、小林秀雄、尾山篤二郎)と陪食する(『入江相政日記』第三巻、25頁)。11月3日、天皇は文化勲章受賞者(斎藤茂吉、中村吉右衛門、光田健輔、武者小路実篤、柳田国男、西川正治)と陪食する(『入江相政日記』第三巻、27頁)。 27年3月22日午前10時、分子構造論専攻の東大教授水島三一郎が、「欧米帰朝朝の進講」を天皇・皇后らにした(『入江相政日記』第三巻、38頁)。4月8日正午、天皇は「歴史の進講者」ら(安倍能成、志賀直哉、武者小路実篤、長与善郎、小宮豊隆、田中耕太郎、小泉信三、谷川徹三、和辻哲郎、児玉幸多、村川堅太郎、三上次男、家永三郎)と食事して、午後2時から「御所の桜拝見」をした(『入江相政日記』第三巻、43頁)。5月13日正午、天皇は学士院賞受賞者と昼食会をもつ。お茶の席では「なかなかおもしろ」い会話がかわされた(『入江相政日記』第三巻、47頁)。6月26日昼、天皇は芸術員賞受賞者(白滝幾之助・中山巍・加藤顕清・山鹿清華・吉田五十八・川端康成・日夏耿之介・猿之助・井上八千代)・新会員(武者小路実篤・観世華雪)と食事を共にした(『入江相政日記』第三巻、49頁)。 こうした天皇の文化・学問奨励の動きは、『入江相政日記』などでも明らかになっていたが、『昭和天皇実録』によって体系的にあきらかになった。 B 進講 天皇と科学・文化委員、日本学士院・日本芸術院会員との懇談・交流を一歩進めて、彼らが天皇に一時間ぐらいで自分の専門分野を講義するのが進講である。この進講も、日本国憲法の天皇象徴化に対応して、23年以降著しく増加している。ただし、外交官、財界人、キリスト教伝道者、言論人などの進講も含まれ、天皇の内外情勢の現実的知識の向上をも図っている。 資料3 天皇の講義受講状況
こうして、天皇は、従来とは非常に異なる「天皇」に転換したのであり、その漸進的にして劇的なる転換はまさに天皇史上で類を見ないものであった。それはまさに天皇にとっては、天皇史上の「革命」であったろう。こうした大変化・転換は『昭和天皇実録』を読み込めばはっきりと看取することができる。 2 天皇の「政治的」行動 日本国憲法の公布・施行前では、天皇は大日本帝国憲法の定める大権者として、憲法改正、対GHQ対策(マッカーサーとの会見)などに従事してきたことは、既述した通りである。ここでは、日本国憲法施行後も、天皇が、内治に強い関心を寄せ政治的行為を行なった過程を見てみよう。天皇は従来通り首相・大臣らから奏上を受けたり、国民生活に関わる戦後食料問題や水害問題などには絶えず深い関心を示し、その解決に向けて積極的に発言し、農業各県知事に食料増産を指示したり、水害対策を指示し、担当大臣などから奏上を受けていたのである。以下、この点を実証してみよう。 @ 日本国憲法の公布(21年11月3日)・施行(22年5月3日)前 食料危機対策 食料問題の深刻化に対して、21年5月18日、宮相松平慶民は天皇懸念を受けて、農林次官小浜八弥・食料管理局長官楠見義男・東京都長官藤沼庄平・内務次官大村清一から「聴取した状況」を奏上した(『昭和天皇実録』巻三十五、96頁)。その後、天皇はラジオ放送で食料危機乗り切りを国民に訴えようとした。終戦詔勅以来で二度目のラジオ放送である。5月23日、天皇は皇族休所で翌日放送予定の「食料問題に関する・・御言葉」を録音した。それによると、@「戦争の前後を通じて、地方農民は、あらゆる生産の障害とたたか」ったが、「主として都市における食料事情は、いまだ例を見ないほど窮迫」している事、Aこれに対して、政府が直ちに適切な施策を施すべきだが、国民も「乏しきを分かち苦しみを共にするの覚悟」が必要である事、Bこれがなされなければ、「終戦以来全国民のつづけて来た一切の経営はむなしくなり、平和な文化国家を再建して、世界の進運に参与」するという念願も望めない事、C「この際にあたって、国民が華族国家のうるわしい伝統に生き、区々の利害をこえて現在の難局にうちかち、祖国再建の道をふみ進むことを切望」するとした(『昭和天皇実録』巻三十五、101頁)。 21年5月24日、昨日の録音が放送され、天皇もこれを聞いた。28日、天皇は侍従次長稲田周一に、「食料問題に関するラジオ放送の反響等につき」下問した(『昭和天皇実録』巻三十五、103頁)。前述の通り、5月31日第二回マッカーサー会見でも、天皇は今後の食料援助を要請した。 戦災復興策ー地方巡幸 天皇は戦争被害の見舞い、復興の奨励を「大義名分」として地方巡幸も積極的に画策しており、巡幸細部も具体的に指示する場合があり、占領米軍に対する一大政治ショー的要素があったことも否めず、故にこそGHQは日本国憲法下の天皇権限逸脱とみてか、金がかかりすぎると巡幸を批判すると、天皇はそれに対してもGHQ真意を探るように指示したりしており、戦後の天皇制批判・改革過程で天皇が巡幸に天皇制維持に有利な効果を見込んでいたという側面があったことをも否めなかった。 21年中には、2月19日神奈川行幸、2月28日ー3月1日東京行幸、3月25日群馬行幸、3月28日埼玉行幸、6月6ー7日に千葉県行幸、17ー18日に静岡行幸、10月21−23日愛知県行幸、10月24−26日岐阜県行幸、11月18ー19日茨城県行幸がなされた。 千葉県行幸が終ると、21年7月16日、宮内次官室に次官加藤進・宮内大臣官房総務課長犬丸実らが参集して「今後の各地行幸に関する会議」が開催された。この会議で、@「行幸はどこまでも思召しによって行われる建前」として「政府の行幸願い出によるものではないこと」(行幸の政治的性格の否定)を確認し、「随時率直に新聞などに発表すること」、A「皇后及び皇族を同伴されることはお避け願うこと」、B「議会開催中には議会尊重の思召しにより行幸はないものとすること」(国会優先)などが話し合われ、併せて「この秋及び来年の行幸予定地などが議論」された(『昭和天皇実録』巻三十五、135頁)。 『寺崎英成御用日記』(246頁)によれば、21年10月11日、「御旅行(地方巡幸)吉田反対せし由、司令部も一部は反対の由」とあって、地方巡幸には司令部の内部に反対論があり、吉田茂首相も反対していた。しかし、上述の通り、21年10月16日第三回会見で、天皇は、マッカーサーから「天皇が民衆と接する機会を増やすことには賛成であり、積極的に協力したい旨」の回答を得ていた(『昭和天皇実録』巻三十五、164頁)。 A 日本国憲法公布・施行後 @ 日本国憲法と天皇 昭和22年正月4日、まだ内廷庁舎に政務室は維持されていたが、日本国憲法に対応して、明治2年1月4日に始められた「政治」(『明治天皇紀』[第二、吉川校分館、昭和44年、4頁]に、「四日、小御所に於て政治の儀を行はせらる」とある)が廃止された。吉田茂首相は天皇に、「昭和22年を迎え、新憲法の施行その他諸政務の企画実施に万全を期し、民主主義に基づく平和国家の建設に努力する旨」を奏上した。しかし、宮相松平慶民が天皇に、「皇室の祭典その他の事務につき、万全の方途を講じる旨」を奏上した(『昭和天皇実録』巻三十六、3頁)。 こうして、正月4日には、旧来天皇の「政治的変容」という「政治的」奏上と、旧来皇室祭祀の維持という「祭祀的」奏上が同時になされたのである。天皇史上で最初の異例な奏上であった。 しかし、22年5月3日、日本国憲法施行の日、天皇は、「うれしくも 国の掟の さだまりて あけゆく空の ごとくあるかな」(『昭和天皇実録』巻三十六、47頁)と読んだ。天皇にとって、憲法とは、国体に関わる「国の掟」なのであった。 天皇は日本国憲法発布まで恰も戦前天皇権限者として行動し(戦前の行動原理は拙稿「天皇の行動原理」を参照)、日本国憲法発布・施行後にも、新憲法は天皇の最低権限を定めたものであり、それを基礎に天皇活動を積極化しても憲法に抵触しないと判断してか、平和・民主国家建設の大義名分のもとに新生日本を生み出す改革を指導するかのように積極的に行動して、しばしば首相・大臣・府県知事らから奏上を受けている。 A 政治家の上奏ー吉田内閣(21年5月ー22年5月) 憲法発布後の吉田内閣での政治家の奏上の状況を見てみよう。、 21年11月7日、文部大臣田中耕太郎が天皇に「教育の理念、教育勅語に対する措置及びにこれに関する教育者の心構え、教員養成、殊に師範教育改革、地方教育行政の刷新、戦災学校の復旧、教職員の待遇」を奏上し、天皇が「種々御下問」した(『昭和天皇実録』巻三十五、192頁)。以後も、11月に、天皇は、国務大臣金森徳次郎(8日)、内務大臣大村清一・総理大臣吉田茂(14日)らに「謁を賜」わっているが、当然奏上していたであろう(『昭和天皇実録』巻三十五、192頁)。 12月にに入っても、政治家との接触は途切れることがなかった。12月10日、天皇は吉田首相から、GHQ経済科学局長ウィリアム・フレデリック・マーカット「十二月七日付の覚書」(鋼船建造への米国援助)の奏上を受け、吉田に「マッカーサーに謝意を伝えるように仰せられ」(『昭和天皇実録』巻三十五、204頁)た。12月14日、国務大臣膳桂之助(経済安定本部総務長官、物価庁長官)は天皇に、「聯合国賠償委員会米国代表エドウィン・W・ポーレー(大使)等による対日賠償案の最終報告」を奏上している(『昭和天皇実録』巻三十五、206頁)。12月20日、天皇は一時間に渡って衆議院議長山崎猛に「謁を賜」った(『昭和天皇実録』巻三十五、209頁)。 また、天皇は政治家に具体的な政治行動を指示していた。例えば、21年12月16日、天皇は御用掛寺崎英成から、GHQ外交局長ジョージ・アチソンとの会見を「言上」した際、天皇は寺崎に、「吉田首相が鳩山一郎など公職追放中の者と首相官邸で会うことは避けるべき旨を仰せにな」った(『昭和天皇実録』巻三十五、206頁)。 22年になっても、同様に政治家の奏上がなされていた。正月7日、天皇は吉田首相から、「人事内奏と政務奏上」を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十六、5頁)。正月15日、吉田首相は天皇に「一時間以上にわたり奏上」した(『昭和天皇実録』巻三十六、5頁)。正月27日、吉田首相は天皇に「一時間以上」奏上した(『昭和天皇実録』巻三十六、10頁)。30日にも吉田は天皇に奏上し、31日には、吉田首相は天皇に「内閣改造の奏上並びに人事内奏」を行なった(『昭和天皇実録』巻三十六、12頁)。 吉田は、2月には、5日(『昭和天皇実録』巻三十六、14頁)、8日(一時間半、14頁)、13日(一時間半、16頁)、17日(一時間、16頁)、19日(一時間、17頁)に奏上し、吉田内閣の閣僚においても、2月28日運輸大臣増田甲子七(19頁)した。3月には、、3月には、吉田は、3日に「政府と聯合国最高司令部との間で協議中の宮内府法を奏上し(20頁)、奏上し、吉田内閣の閣僚においても、11日文相高橋誠一郎が日本国憲法に対応して制定された教育基本法について奏上し(22頁)、3月13日には、天皇は、表拝謁の間で、吉田首相、その閣僚(司法大臣木村篤太郎、逓信大臣一松定吉、厚生大臣河合良成、大蔵大臣石橋湛山、運輸大臣増田甲子七、文部大臣高橋誠一郎、国務大臣田中万逸)を召して、「茶果を賜い、奏上を受けられ」た(『昭和天皇実録』巻三十六、23頁)。20日午後。天皇は、表拝謁の間で、残りの閣僚(国務大臣幣原喜重郎、同金森徳次郎、内務大臣植原悦二郎、農林大臣木村小左門)を召して、「茶果を賜い、奏上を受けられ」た(『昭和天皇実録』巻三十六、23頁)。14日には、天皇は参議院議長山崎猛に「謁を賜」わった(『昭和天皇実録』巻三十六、24頁)。 3月15日、天皇は吉田から奏上を受け、「この日が財産税納付の期日に当たることから、納税執行が話題とな」り、かつ、「宮内府発足を前に、宮内大臣松平慶民・侍従長大金益次郎の進退等が話題とな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、24頁)。3月22日には前述の通り吉田は天皇にGHQの皇室経済法修正に関する奏上をし、31日にも吉田は天皇に謁見した(32頁)。 4月においても、吉田は天皇に、4日(34頁)に、会ったり奏上していた。閣僚も、14日に国務大臣幣原・司法大臣木村・内務大臣植原・国務大臣田中は天皇に奏上をし(36頁)、18日には吉田首相・国務大臣金森・文部大臣高橋が天皇に奏上した(36頁)。4月28日夕刻には、表拝謁の間で、天皇は吉田首相から一時間奏上を受けた(『昭和天皇実録』巻三十六、41頁)。 22年5月10日、吉田首相は天皇に、日本国憲法施行後最初の奏上をした(『昭和天皇実録』巻三十六、51頁)。5月14日、天皇は、吉田内閣の商工大臣石井光次郎に「表拝謁の間」で会っている(『昭和天皇実録』巻三十六、52頁)。 こうして、日本国憲法の公布・施行前後の首相が、忠臣吉田茂であったことも、天皇に日本国憲法下のあるべき姿を考える機会に恵まれないこととなったのである。 B 政治的行為ー片山内閣(22年5月ー23年3月) 政治家の上奏 こうして奏上などは、片山内閣も同様であった。22年6月14日、京都大宮御所の謁見所で、天皇はまず片山哲首相の拝謁を受け、続いて厚生大臣一松定吉、大蔵大臣矢野庄太郎、商工大臣水谷長三郎、国務大臣和田博雄(経済安定本部長官兼物価庁長官)の拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十六、81−2頁)。 22年6月26日、天皇は、宮城参殿者第一休所で、片山首相、各閣僚に「午餐の御陪食を賜」り、、次いで隣室の元枢密院会議室に移って、天皇は「各大臣よりそれぞれの国務についての奏上をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、88頁)。 22年7月21日、天皇は外相芦田均から、一時間にわたって、「米国政府による対日平和予備会議及びマーシャルプラン(欧州復興計画)など外交問題についての説明をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、95頁)。7月27日午後、花蔭亭で、天皇は首相片山、参議院議長松平恒雄の「拝謁」を受けて、「種々御談話」している(『昭和天皇実録』巻三十六、96頁)。 閣僚の単独奏上もなされている。7月31日午後、表拝謁の間で、天皇は文相森戸辰男から、「新学制並びに学術体制の刷新など現下の教育情勢」を聴取した(『昭和天皇実録』巻三十六、97頁)。 御用邸にまで、拝謁、奏上がなされていた。22年8月23日、那須御用邸で、天皇は内務大臣木村小左衛門、首相片山哲の「拝謁」を受け、24日には参議院議長松平恒雄の「拝謁」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十六、137−8頁)。 22年9月19日、表拝謁の間で、天皇は外相芦田、運輸相苫米地義三、文相森戸辰男、厚相一松定吉、国務大臣斉藤隆夫(行政調査部総裁)、国務大臣林平馬と茶を飲みながら、「御談話にな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、156−7頁)。9月22日正午、表拝謁の間で、天皇は衆議院議長松岡駒吉、参議院議長松平恒雄に「午餐の御陪食を仰せ付け」た。同日午後、表拝謁の間、天皇は首相片山哲、閣僚10名(蔵相来栖赳夫、内相木村小左衛門、逓相三木武夫、商工相水谷長三郎、農相平野力三、労相米窪満亮、法相鈴木義男、国務大臣西尾末広、同笹森順造、同和田博雄)に「茶を賜い、御談話にな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、158頁)。 11月19日午後、表拝謁の間で、天皇は、内務大臣木村小左衛門、厚生大臣一松定吉、司法大臣鈴木義男、文部大臣森戸辰男、労働大臣米窪満亮、国務大臣斉藤隆夫(行政調査部総裁)を召して「お茶の席」を設けた。11月21日午後には、19日に欠席した運輸大臣苫米地義三、国務大臣笹森順蔵(無任所)、国務大臣和田博雄、逓信大臣三木武夫がお茶会に招かれた(『昭和天皇実録』巻三十六、224頁)。内容は不明だが、大臣との茶会であるから、当然、天皇への政務奏上、天皇の下問などがあったと見るのが妥当であろう。 12月13日、表拝謁の間で、天皇は参議院議長松平恒雄の拝謁を受け、18日午前には衆議院議長松岡駒吉の拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十六、260ー1頁)。12月9日に第一回国会が閉会したことへの挨拶を兼ねたものであろうが、単なる挨拶のみではなかったろう。 12月26日、天皇は、首相以下全閣僚、衆参両院議長を「二の間」午餐に招いて、食後に「二の間」で「茶菓を共にされ」た(『昭和天皇実録』巻三十六、265頁)。 なお、官僚の認証は、日本国憲法第七条五項(「国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること」)でさだめられた国事行為の一つである。これは、首相が認証官任命について「内奏」して、天皇は首相侍立のもとに認証式を行う形式的行為である。だが、天皇は、彼らに一言発して、官僚機構の頂点に位置するかのように振舞ってしまうのである。例えば、22年8月4日、最高裁判所判事ら14人・検事総長ら9人の認証式が終ると、天皇は、「公正な態度を望む」旨を発言している(『昭和天皇実録』巻三十六、100頁)。 国会開会時の勅語 大日本帝国憲法下では、天皇臨席の開院式・閉院式はいずれも貴族院本会議場で行なわれ、天皇から勅語が下されていたが、日本国憲法下でも踏襲しようとした。しかし、日本国憲法では議会開会式に天皇が出席して「おことば」を発するという条項はないから、GHQではこれを却下したかったであろう。にもかわらず、これが実現できたのは、一に勅語の内容であったろう。ここに、大権者時代の慣例踏襲が認められて、22年6月23日、第一回国会特別会開会式に天皇は出席した。GHQは、占領統治に利する限りでは、「天皇の政治的行為」は容認したのである。 日本国憲法下の国会出席の手続きを見ると、確かに行幸手順(「従来の開院式は皇室儀制令で朝儀と定められていたため、内閣からの連絡により行幸された」が、「日本国憲法施行後初となるこの度の開会式からは国会が行う儀式となったため、衆参両院議長から宮内府長官に行幸を願い出るという手順を経て行幸される」)、勅語書上奏手順(従来は政府が勅語書を上奏していたが、今回からは「閣議を経た案を宮内府においてお伺いするもの」となった)、服装(従来の天皇服からモーニングコートに変更)に変更はあったが、天皇が行政機関作成の勅語を読み上げる行為は不変である。どうみても象徴天皇が大権者天皇と重なり合って登場してくるのである。 問題は勅語の内容である。この第一回の勅語は、国会の重要性(「日本国憲法に明らかであるように、国会は、国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関である。したがって、わが国今後の発展の基礎は、一に国会の正しい運営に存する」)、直面する危機克服(「今や、わが国はかつてない深刻な経済危機に直面している。この時にあたり、われわれ日本国民が一体となって、この危機を克服し、民主主義に基づく平和国家・文化国家の建設に成功することを、切に望むものである」)がかなり具体的に触れられている。こうした勅語(後に「おことば」)は、GHQの意向に沿うものであったから、天皇の国会開会時の勅語がみちめられたのである。 23年1月21日、第二回国会の開会式で、天皇は、「現下の深刻な経済危機を打開し、文化国家にふさわしい国民道徳の高揚をはかり、民主的、平和的国家を再建し、信を世界に求めることは、われわれ日本国民が果たさなければならない最も重大な責務である」とし、「国会が国権の最高機関としての使命を果すとともに、国民もまた時局を認識し、力をあわせて祖国復興のために各自の最善を尽すことを切に望んでやまない」(『昭和天皇実録』巻三十七、9頁)と、民主的・平和的国家の建設と祖国復興が国民の義務と提唱したのである。確かに憲法で天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされたが、国民の具体的義務を指し示すことまでは定められていない。にも拘らず、GHQがこれを認めたのは、天皇がGHQ意向を最大限に表明していたからである。しかし、こうした「国家目標」提唱は、憲法に準拠するならば政治家が行うべきことであろう。 戦災復興策ー地方巡幸 22年3月31日、内廷庁舎政務室で、天皇は寺崎から、「連合国最高司令部外交部長ジョージ・アチソンからの情報として、・・マッカーサーがアチソンに対し、天皇は地方巡幸を止めて宮城に留まるべきか、という趣旨の問いかけを行なった旨」を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十六、31頁)。アチソンは、「宮城に留ま」り、政治的行為をするなというのである。21年10月16日第三回会見で天皇はマッカーサーから地方行幸への賛成を得たが、GHQ内部では天皇の途方行幸への反対論が根強くあった事が分かる。 22年5月1日に、天皇は、来たる3日の日本国憲法施行を前に、花蔭亭付近で宮内記者会の7人と質疑応答した。天皇は「国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とされたにも拘らず、「地方巡幸に関する質問に対して、引き続き行ない」、「戦災者・引揚者・遺族は戦争の犠牲者で気の毒に思っているので、できるだけ救助し」、「復興のためには石炭が重要であるから炭鉱に行きたい」と答えた(『昭和天皇実録』巻三十六、44頁)。こうした戦争犠牲者の救助とか、戦災復興とかは、国事行為をはるかに越えた「国政」行為である。故にこそ、GHQの一部は地方巡幸に反対し、天皇がマッカーサーを籠絡してまでも地方巡幸を続行しようとしたのである。 22年6月4日から地方巡幸再開された。新憲法が施行された、この時期も、天皇は、関西・東北・中部への本格的行幸を行ない、GHQに天皇が国民的人望のある存在であることを見せつけてゆく。しかし、新憲法には、天皇制存続を保証するという側面と、天皇活動を制約するという二側面があり、ここに天皇巡幸も多様な側面を帯びてゆくであろう。 第一に、地方巡幸は新憲法で天皇の国事行為として決められたものではなかったが、天皇側が敢えてそれを実施することで、米国圧力で定めた新憲法の天皇規制条項に拘束されないという意気込みを発揮しようとしたともいえる。第二に、それと関連して、地方巡幸とは、領地・征服地において天皇の徳を遍く民衆に垂れるという伝統的な天皇行為ものであったということである。第三に、確かに天皇は引揚者・戦争犠牲者などに言葉をかけて慰めたいたが、それだけではなく、国民の側も、単に戦前教育の天皇崇拝に基づくというより、戦争に敗北して人間宣言したり、新憲法で制約されて、何かと米軍に屈服を余儀なくされている天皇を慰労・鼓舞・激励するという側面もあったということである。一部労働組合も含めて、国民は、米軍に負けずに頑張っている天皇を激励して、苦しい生活をおくる自らを鼓舞するという側面もあったであろう。 22年7月12日、天皇は、「来たる8月5日からの東北地方巡幸における炭鉱御視察に先立」って、「商工大臣水谷長三郎の拝謁」を受けて、「戦後の石炭生産の概況や昭和22年度石炭三千万トン生産計画の経緯など、石炭事情についての奏上を御聴取」した(『昭和天皇実録』巻三十六、92頁)。 22年8月5日から19日までの東北(福島・宮城・岩手・秋田・山形)巡幸では、批判を考慮して、従来の行幸の問題点を是正した。『昭和天皇実録』(巻三十六、135頁)によると、この東北巡幸の「従前とは異なる」諸点は、@東北水害に配慮して「行幸先の変更が生じ、各泊所における催物の天覧も差し控え」た事、A従前行幸が宿舎を「活動中の官公署及び学校」を選定して問題が生じたので、今回は「休暇中の学校や公会堂」、個人宅・旅館を宿所にあてたこと、B大膳課主厨長秋山徳蔵を事前に各地に派遣して「夕食にしばしば郷土食を取り入れたこと」、C各地出身の国務大臣が「交代で扈従」したことを挙げる。重要な改正というより、微修正というものであろう。地方巡幸批判者を納得させるような改正ではない。 10月23日から11月2日、天皇は福井・石川・富山に行幸した(『昭和天皇実録』巻三十六、195頁以下)。 11月26日から12月12日、鳥取・島根・山口・広島・岡山各県に行幸した。この行幸では、GHQ意向に配慮して、「供奉員は大幅に削減」され、「食事・宿泊料の官給も取り止め目られ」、「行幸先の知事による事前参内の奏上」も廃止され「行幸先の適当な場所で行う」とされた。なお、この行幸には「原子爆弾の被爆地の広島市御視察も含まれるため、外国通信記者十数名も同行」した(『昭和天皇実録』巻三十六、225ー7頁)。 今回の巡幸では、@12月11日に岡山・兵庫県堺で、その使用にはGHQの事前許可が必要であった日章旗掲揚による奉迎がなされ、「指令違反であると民生局の不興を買う事態が生じた」事、Aやはり「巡幸に際し多大な経費を要」した事、B「極東国際軍事裁判の進展に伴い天皇の御退任問題が浮上していること」などから、天皇の地方巡幸は一時中止された(『昭和天皇実録』巻三十六、260頁)。再開は一年半近く後の24年5月となる。 23年1月6日、「片山巡幸反対の由、葉山行きもこの問題とキーナンの問題に引懸り宙にういてい」たのである(『寺崎英成御用掛日記』364頁)。片山の巡幸反対で葉山御用邸への行幸まで影響されていたのである。しかし、葉山御用邸への行幸については、1月13日から20日、3月15日から28日に実現している(『昭和天皇実録』巻三十七、7頁以下、22頁以下)。 知事の指導 22年7月6日、天皇は、都道府県知事会議に参集した44知事の「単独拝謁」を受け、一同に、「地方民の輿望を担って知事の重責に就き、誠に苦労に思う旨」、「今や非常に困難な時に遭遇して、苦心を要することが多いと思うが、一致協力して難局打開の為に努力することを切望する旨」と発言した(『昭和天皇実録』巻三十六、92頁)。これは、明らかに地方政治への具体的指示である。これは国政ではなく、地方政治だから、「国政に関する権能を有しない」くとも、問題はないとすれば、地方政治は国政とは異なりつつも、国政の一基盤であるから、それは屁理屈というものであろう。国政、地方政治に、相変わらず天皇は政治的行動していたのである。 石炭増産奨励 22年8月5日、福島県常磐炭鉱株ヨ城鉱業所で、天皇は、「優良坑員、三代勤続の坑夫、及び労働組合幹部」を激励した(『昭和天皇実録』巻三十六、101頁)。 23年5月31日、旧北車寄門内で、天皇は、「政府から表彰された全国優良炭鉱従業員のうち、九州・宇部・常磐・北海道の各炭鉱代表者等約30名」に「御会釈を賜」い、「石炭増産の成果を喜ぶ」とともに、「石炭は基本産業ゆえに、今後も増産に努力し、種々不便の克服を望む旨の御言葉を賜」った(『昭和天皇実録』巻三十七、48頁)。11月19日には、旧北御車寄御門で、天皇は「昭和23年度石炭三千六百万噸上期目標突破優良炭鉱表彰代表者及び同従業員表彰者、保安優良表彰者等約3百名」に「御会釈を賜い」、「代表の山口県長伸炭鉱山田新松より概況言上をう受け」になり、「お言葉を賜」った(『昭和天皇実録』巻三十七、112頁)。 食料危機対策 22年6月30日、天皇は、「表拝謁の間」で、片山内閣の農林大臣平野力三から「現下の食糧事情について御聴取にな」った。そして、天皇は平野に「食糧危機打開のための粉食、肥料の生産状況、農業の将来に関して種々御質問にな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、89頁)。12月11日、天皇は新聞記者団から山陽巡幸の感想を聞かれ、「気候に恵まれている環境を生かして生産増強に勉め、各方面に努力発展して、日本再建のため有力な働きを希望する旨」を述べた(『昭和天皇実録』巻三十六、229頁)。 23年5月14日、天皇は、日本国憲法施行一周年、地方自治法施行一周年に際し、全国町村会長生田和平の昨日の挨拶を受けて、「町村は日本再建の基礎せあるから努力をしてほしいこと、特に食料増産は益々大切であるから努力を望む旨」を述べた(『昭和天皇実録』巻三十七、40頁)。 自然災害対策 天皇が自然災害被害者に救恤金を支給することは、古代から天皇の仁徳を示す行為としてなされてきた。だから、これは純然たる政治的行為とは言えないが、状況次第では政治的色彩を帯びることもある。 既に21年12月28日、南海地震(12月21日発生)被災地に、恒徳王(兵庫・和歌山)・春仁王(香川・徳島・高知県)を派遣し、「皇室財産中より厚生大臣に御救恤として金20万円を下賜」した(『昭和天皇実録』巻三十五、215頁)。 22年5月17日、各地の大火災(4月18日青森県青森市、4月20日長野県飯田市、4月29日茨城県那珂湊町)で生じた「甚大な被害」に対して、天応皇后は救恤金を支給した。この支給には、当初連合国最高司令部は憲法などとの関連から難色を示していたが、宮内府は「日本国憲法施行後、内廷費(この支出は司令部に連絡する必要はない)から支出」するとして、ここに至ったのである(『昭和天皇実録』巻三十六、53頁)。5月26日にも、天皇・皇后は「甚大な火災」の被害を受けた北海道空知郡三笠町に救恤金を下付した(『昭和天皇実録』巻三十六、57頁)。 22年8月5日、天皇は行幸先の東北(6月21日からの豪雨で東北地方一帯は水害被害を受けた)で、「水害による被害状況」を聞き、「被害に応じて御救恤金」を下賜した(『昭和天皇実録』巻三十六、102頁)。8月19日には、福島県の翁島高松宮別邸で、天皇は新聞記者に、「食糧その他苦しいことが多いだろうが、しっかりやってもらいたい」としつつ、「再三の水害・天候の不順で努力が無駄になることは忍びない気持ちがする」、「根本的な治水が大切である」、「水害と闘う農民等の真面目な気持ちと働きぶりに心を打たれた」旨を発言した(『昭和天皇実録』巻三十六、133頁)。 22年9月18日、天皇は宮内府長官松平慶民に、「台風9号による関東地方の水害地を御視察になりたい旨の思し旨」(『昭和天皇実録』巻三十六、155頁)を示された。ここには、憲法国事行為規定に制約されない「行動する天皇」の姿がある。9月19日、表拝謁の間で、天皇は厚生大臣一松定吉から、「台風九号による関東地方の水害救済状況につき奏上をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、156頁)。9月21日、天皇は水害地視察で埼玉県北埼玉郡に行幸し、知事室で「県知事西村実造より水害状況についての説明」を受けた。次いで、利根川堤防の決壊箇所で「水害状況を視察中の内閣総理大臣片山哲の奉迎をお受けにな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、157−8頁)。9月25日には、天皇は、三笠宮を連れて、水害地視察として、東京都下に行幸した。天皇は江戸川区東小松川で下車して、「道端において被災者が飲料水確保のため堵列する中、濁水に御靴がつかった村の状態で、安井長官の先導にて江戸川区長小久保松保より災害状況をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十六、159頁)。 22年11月30日、巡幸先の鳥取県で、天皇は、「山陰地方は、戦災を受けなかったものの、しばしば風水害や震災を受け、県民の苦労は同情に堪えないが、日本再建のため努力することを希望する」とし、かつ「風水害の防止策については一層の研究と努力を尽くして欲しい」と要請した(『昭和天皇実録』巻三十六、236頁)。地方政治に対するかなり踏み込んだ発言である。しかし、11月7日、広島市民奉迎場で、天皇は、「広島市の受けた災禍に対しては同情に堪えない。またこの犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなkればならい」(『昭和天皇実録』巻三十六、249頁)と述べるだけであって、原爆という非人道的兵器を使用を批判することはなかった。 C 政治的行為 ー芦田内閣(23年3月ー10月) 政治家奏上抑制 23年3月10日、芦田内閣組閣の日、拝謁の間で、天皇は法務総裁鈴木義男(片山内閣・芦田内閣の法務総裁)から、3月2日片山内閣の閣議了解を得た「内閣総辞職の際の手続並慣行について」という意見書に基づいて、「片山内閣の総辞職及び芦田内閣の成立について法律面からの説明」を受けた。同意見書によれば、「日本国憲法上の地位に鑑み、辞意を表明した首相の参内・拝謁等は行うべきではなく、今後天皇に対する儀礼上の慣行として、新首相の親任式及び閣僚の認証官任命式前或いは式後に、適宜御挨拶を申し上げることが適当とされた」のであった(『昭和天皇実録』巻三十七、21頁)。つまり、辞意を表明した首相は、「新首相の親任式及び閣僚の認証官任命式前或いは式後に、適宜御挨拶」するのが適当としたのである。ここで重要なことは、日本国憲法で規定された天皇と首相・閣僚らとの関係は、「政治家の法解釈」で、適宜つくられてゆくということである。 そこで、3月10日午後、「新首相の親任式」前、「内閣総理大臣片山哲より内閣の総辞職及び新内閣の成立」について天皇に奏上した後、午後2時半、天皇は「内閣総理大臣芦田均の親任式を行」われた(『昭和天皇実録』巻三十七、21頁)。式後に、芦田は天皇に、「共産党への対策」、「宮内府に対する連合国最高司令部の意見」などを説明した。 さらに、今回から、天皇は、「内閣総理大臣から官記を受領した各任官者」(各国務大臣)に対して、「それぞれお言葉を賜う」こととされた(『昭和天皇実録』巻三十七、22頁)。まさに、天皇の「行動」は、適宜政治家によって作られていっているのである。 3月30日、内廷庁舎御座所で、天皇は参議院議長松平恒雄の拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、28頁)。 5月10日正午、天皇は、「二の間」で、「芦田首相以下新旧閣僚をお召しになり、御陪食を賜」った。前述の通り、 午後、表拝謁の間で、天皇は芦田首相から、@新宮内府長官候補として長田島道治を推薦し、A新憲法により国務範囲が限定され、従来通り大臣より政務奏上が出来ない事を申し上げた(『昭和天皇実録』巻三十七、39頁)。特に、後者は、日本国憲法下の天皇のあるべき姿を始めて指摘したものとして重要である。。しかし、天皇は、「それにしても芦田は直接に宮内府を監督する権限をもっているから、時々来て話して呉れなくては」と催促された。一応芦田は「左様致します」(『芦田均日記』第二巻、107頁)と答えた。芦田といえども、天皇から今後も話を聞かせてほしいと頼まれれば、断りきれなかったのである。 政務室改称 しかし、芦田意向が反映してか、23年7月10日、「内廷庁舎御政務室」を「表御座所」、「御文庫御政務室」を「御書斎」と改称した。これに伴い、「三階の御書斎」が「庁舎御書斎」とされて、「御書斎」と区別された(『昭和天皇実録』巻三十七、63頁)。 日本国憲法施行後も、1年以上、「内廷庁舎御政務室」「御文庫御政務室」が存続したことは、天皇側にも憲法国事規定に敏感に対応しようという態度が十分ではなかったことを示している。 政治家奏上 その芦田首相自らも、結局は政治家奏上を持続していたのである。それは、政治家の側にも、天皇を利用できるものなら、今後も利用したいという願望があったからである。そして、GHQ側でも、憲法遵守して政治的行為を抑えるために、天皇を宮城・皇居に押し込めたいと考えていたから、皇居内での政治家の奏上については規制しようとはしなかった。規制しようとしても、内容まではチェックできなかったというのが実情であろう。 23年7月12日午前、表拝謁の間で、天皇は、第二回国会(常会)が閉会したので、衆参両院議長の拝謁を受けた。同日午後には、天皇は、大蔵大臣北村徳太郎の拝謁を受け、一時間にわたって奏上を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、63頁)。7月16日午後、表拝謁の間で、天皇は福井県知事尾小幡治和から「先般の福井地震による震災情況について奏上」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、64頁)。8月6日午前、葉山御用邸の拝謁の間で、天皇は元首相吉田茂の拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、70頁)。 9月1日午前、表拝謁の間で、約一時間にわたって、芦田首相は天皇に、「豊作対策としての労務者加配米増加、公務員の団体交渉権を否定する政令(7月31日公布)に伴う職場離脱防止の必要性、政局に対するマッカーサーの意見、衆議院解散に関する芦田及び前内閣総理大臣片山哲の意見など」について「申し上げ」(これは事実上の奏上だが、実録編纂者は「申し上げる」としている)た(『昭和天皇実録』巻三十七、78頁)。9月2日、天皇は表御座所に宮内府長官田島道治を召して、「昨日の内閣総理大臣芦田均参内の経緯」の説明を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十七、78頁)。 9月8日午後、表拝謁の間、天皇は、約一時間にわたって、文部大臣森戸辰男の「拝謁」を受け、「昨年四月に施行された学校教育法の実施状況についてお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十七、78頁)。9月14日午後、表拝謁の間で、天皇は、元大蔵大臣池田成彬(元日本銀行総裁)の拝謁を受け、約一時間、「現下の経済問題につき奏上をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十七、82頁)。9月27日午前、表拝謁の間で、天皇は約一時間元文相前田多門の拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、86頁)。 10月にも、天皇は現・元大臣や知事らから奏上を受けている。例えば、10月1日、表拝謁の間で、天皇は福井県知事小幡治和の奏上を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十七、89頁)。10月4日には、芦田内閣の建設大臣一松定吉・大蔵大臣北村徳太郎・運輸大臣岡田勢一・内閣官房長官苫米地義三・法務総裁鈴木義男ら5大臣が天皇に「奏上」するに至っている(『昭和天皇実録』巻三十七、90頁)。10月6日、天皇は、表拝謁の間で芦田首相・8閣僚に「茶菓を賜」い、表御座所で芦田から「内閣総辞職の決意」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、92頁)。10月11日、表拝謁の間で、天皇は約一時間元大蔵大臣渋沢敬三の拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、94頁)。10月12日午前、表拝謁の間で、天皇は元農林大臣和田博雄の拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、97頁)。 10月15日午前には、表拝謁の間で、天皇は首相芦田均より次期首相の親任についての内奏を聞き、次いで、衆議院議長松岡駒吉、参議院議長松平恒雄と個別に会い、「それぞれより国会における次期首班指名の経過等に関し奏上を受け」た。最後に、天皇は、新任の吉田茂首相の拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、98頁)。 天皇は、神祇面では皇室諸祭祀・儀式を変容させつつ基本的には維持し、政治的「性格」においては法律的には無力化しつつも、「成り行き的」(例えば、天皇が、日本国憲法下の天皇のあるべき姿を真剣に説く政治家に向かって、時々来て話を聞かせてくれと言うならば、そうした政治家すらも憲法制約など忘れて従来どおり奏上してしまうということ)に従前の姿勢を維持する一方で、国体護持のために天皇が自ら率先し自覚してまさに「革命」を推進していたのである。 前述の通り芦田均のみが「日本国憲法下での天皇」のあるべき姿を指摘したり、宮内改革に対して天皇に「注文」をつけていたが、日本国憲法公布・施行後も、こうした天皇の政治的行為を注意する政治家はほとんどいなかったのである。それは、政治家の側に天皇権威を利用し依存しようという意図があったからである。政治家らは最高権威の天皇に奏上して、現在推進中の政策への理解を頂き、さらには「暗黙の承認」を受けたと「勝手」に了解し、省庁や選挙区などで天皇に奏上したなどと吹聴するのである。ただし、これが日本国憲法に抵触しない措置として、奏上内容を明かさずに、政策・方針などへの天皇の政治的利用を排除する不文律が出来上がってゆく。 巡幸中止中の天皇「抵抗」 23年3月4日、花蔭亭で、天皇は、全国地方自治協議会連合会に出席中の知事のうち、京都府知事木村惇、兵庫県知事岸田幸雄、和歌山県知事小野真次、岩手県知事国分謙吉、山形県知事村山道雄、新潟県知事岡田正平、長野県副知事伊藤富雄ら、巡幸した県知事らを招いて「昨年の巡幸中の労を謝」した。ついで、天皇は、「各府県の近状等について言上を受け」た(『昭和天皇実録』巻三十七、19ー20頁)。 23年5月17日から24日、天皇は葉山御用邸への行幸に赴くが、葉山への行幸途中で止められている地方行幸の縮小版のごときものをする。つまり、17日、まず、神奈川県中郡高部屋村の愛育保健館で「母子愛育の実績・事業内容について奏上」を受け、玄関前に堵列の戦災遺族等にお言葉をかけた。次に、愛甲郡厚木町の神奈川県立繭検定所で、所長小川多喜夫・県立蚕業試験場長尾崎貞徳より、「繭検定の現状及び県蚕糸業の概況について奏上を受け」た。その後、高座郡有馬村の神奈川県種畜場の場内を通過して、車中から、ララ(アジア救援公認団体)より寄贈の種牛2頭などを見た。茅ヶ崎浜之郷の篤農家渡辺明の庭先で「自己の農作の実情及び増産の条件等について奏上」を受けた。最後に、浜之郷部落共同組合数十名に会釈して、午後3時42分に葉山御用邸に到着した(『昭和天皇実録』巻三十七、42−3頁)。24日の還幸においては、品川区の東京地方専売局直轄工場に立ち寄り、工場内にある迎賓館(参考館)で大蔵大臣北村徳太郎の拝謁を受け、専売局長官原田富一が「煙草、塩、樟脳の専売事業の概要」を説明し、東京地方専売局長秋元順朝が「煙草製造に携わる同工場の概要」を奏上した。最後に、「労働組合代表、職員組合代表、特製煙草室従業員等にお言葉を賜」わった(『昭和天皇実録』巻三十七、45頁)。 23年6月3日から7日まで、大日本蚕糸会総裁皇太后は、埼玉・群馬に行啓して、「蚕糸絹業御奨励のため・・・養蚕業地、秩父織物商工業協同組合、片倉鉱業兜x岡製糸所等」を視察した(『昭和天皇実録』巻三十七、49ー50頁)。 23年6月12日から21日、天皇・皇后は那須御用邸に行幸した。12日、自動車で那須に向かう途中、天皇は、「昨年五月の台風九号(カスリーン台風)による水害地の復興状況を御視察のため、埼玉県へお立ち寄りにな」った。まず、「幸手町々長栗田亀造より復旧の現況につき言上をお聞きになり」、次いで「北埼玉郡東村の利根川堤防の決壊現場に向か」った。現場で建設院総裁一松定吉の会釈し、工事関係者、罹災者、関係町村長に言葉をかけ、建設局長加藤伴平、埼玉県知事西村実造の奏上を受けた。終わって、栗橋駅で御召列車に乗った。6月16日、那須御用邸謁見所で、天皇は、栃木県公安委員会後藤建介、同公安委員鈴木峰三郎・江部朝子の拝謁を受け、17日午後には、御用邸正門前で大田原村長益子万吉以下の那須郡北部地方の町長・村長等14名に会釈し、「この年の作柄や食料事情、衛生状態等について」下問した。益子大田原村長、伊王野村長後藤夏蔵は、「麦は風害、病害のため収穫は半減したが、食糧事情も好転し、衛生状態も良い旨」を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十七、55ー6頁)。6月18日、天皇は、散策の途中、那須村の村長・助役・議会議長・議会議員ら18人に会釈し、「労いのお言葉をかけ」た。6月19日には、那須御用邸の謁見所で、天皇は宇都宮市長・同市議会議長から「御機嫌奉伺」を受け、「市の復興状況について御下問」した。6月20日正午過ぎには、御車寄で、天皇は、那須郡南部町村会会長・向田村村長・七合村村長に会釈し、「地方事情に関して御質問にな」った。同日午後、御用邸謁見所で、栃木県知事小平重吉の拝謁を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、56頁)。 警察幹部引見 23年6月1日、表拝謁の間で、天皇は、新任の「国家公安委員長辻二郎、同委員植村環・金正米吉・生方誠の拝謁」を受けた。その際、天皇は、「治安の維持は特に重要であるから、新制度の下で種々困難なこともあるだろうが、努力を希望する旨のお言葉を賜」わった。さらに、天皇は、「新任の国家地方警察本部長官斉藤昇、皇宮警察府警備部長湯下理一の拝謁」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十七、49頁)。 自然災害対策 23年9月27日、表拝謁の間で、天皇は、宮城県知事千葉三郎、岩手県知事国分謙吉に各々会い、「21号の台風水害状況をお聞きにな」った(『昭和天皇実録』巻三十七、86頁)。 D 政治的行為ー第二・三次吉田内閣(23年10月ー) 政治家奏上 吉田内閣では首相・大臣・元首相・元大臣、衆参両院議長、高級官僚らの「奏上」・「拝謁」、或いは彼らとの会食などが頻繁になされている。資料4によると、吉田首相のみでも、単独・複数で、23年10月以降年末まで少なくとも4回、24年中に少なくとも11回(すべて単独拝謁)会っている。片山首相・芦田首相が天皇の政治的行為に対して憲法的観点から厳しく見ていたのに対して、「忠臣」を任ずる吉田首相は天皇の政治的行為に対して柔軟にかつ曖昧に取り扱っていたといえる。 資料4 政治家奏上
警察・司法 24年には、国内治安が問題となって、天皇は警察・司法関係者と会うようになっている。芦田内閣時でも、天皇は新任の国家公安委員長辻二郎、同委員植村環・金正米吉・生方誠を接見していたが、吉田内閣時には警察中堅とも会釈などするようになる。軍事力のない当時、当面の国体護持維持力は警察のみである。こういう事情から、政治家に比べれば頻繁ではないが、天皇は警察幹部と会うようになったのである。 例えば、24年3月5日午前、内苑門外で、天皇は、東京都公安委員長児玉九一ほか一都十県の公安委員970余名に会釈した(『昭和天皇実録』巻三十八、26頁)。4月15日午前、賢所通用門脇で、天皇は警察大学校本科・高等科卒業生250名に会釈し、お言葉を述べた(『昭和天皇実録』巻三十八、41頁)。10月8日午前にも、賢所通用門前で、天皇は警察大学校本科第三期卒業生200余名に会釈した(『昭和天皇実録』巻三十八、128頁)。10月27日には、内廷庁舎廊下で、警視総監田中栄一以下十大都市警察長ら10名に会釈した。田中は、「自治体警察の概要及び管下の状況について言上」した(『昭和天皇実録』巻三十八、137頁)。12月6日午前、賢所通用門外で、天皇は警視庁警察学校教官と生徒約4百名に会釈した。 また、天皇は治安の一端を担う法関係者とも会っている。例えば、24年5月6日、表一の間で、天皇は最高裁判所判事・高等裁判所長官22人そのほかと午餐を会食した。食後、表三の間に移って、各高等裁判所長官より各地の裁判状況につき言上を受けた(『昭和天皇実録』巻三十八、49頁)。6月17日には、表一の間で、天皇は、法務総裁殖田俊吉以下検事総長・検事長等15人と午餐を会食した(『昭和天皇実録』巻三十八、102頁)。11月28日午後には、表拝謁の間で、天皇は最高裁判所長官三淵忠彦の「拝謁」を受けた(『昭和天皇実録』巻三十八、153頁)。 地方指導者らへの会釈・鼓舞 資料5によると、天皇は、23年末から24年にかけて、地方自治などの代表者(全国優良公民館代表者・全日本市区選挙管理委員会当事者・全国町村長・全国市長・全国町村議会議長・各地教育長・全国連合小学校長・貯蓄組合表彰代表者)や政府機関の地方責任者(地方専売局長・逓信大臣表彰された永年勤続者・運輸省地方局部長・全国特定郵便局長会・地方鉄道局長)と会釈したり、接見したりしている。これは、天皇が、「日本国民統合」の象徴として、地方の幹部を激励したりするということを意味しているようだ。このあたりは、象徴天皇の「発現形態」の模索の現れの一端といえるかもしれない。 資料5 地方指導者らへの会釈・鼓舞
国会演説 23年11月8日、天皇は、第三回国会(臨時会)開会式に臨席した。前回参議院副議長が「拝謁を辞退した問題」(参議院副議長松本治一郎が国会開会式に来場した昭和天皇への拝謁[カニの横ばい]を拒否した事件)を考慮して、「今回より拝謁することを天皇の所与的儀礼として式次第に載せず、任意的な挨拶とする形式が採られ」た(『昭和天皇実録』巻三十七、107頁)。天皇は、参議院議場に臨み、衆議院議長の式辞の次に、「次の勅語を賜」った。即ち、天皇は、「連合国の好意と援助を受けて、国民が苦難に屈せず努力を続けて来たため、今日、わが国には、ようやく復興のきざしが見え、国民生活が物心両面において、安定に近づく希望を持てるようになってきたことは、諸君とともにまことに喜びに堪えません」と、親米的態度を示し、「しかし、わが国が、真に文化国家としての実質を備え、国際社会の一員として復帰し、全世界の信頼をうるのには、今後もなお、たゆみない努力が必要であると思います」と、文化立国方針を表明した。上述のように天皇の文化・学問面での活動が活発化するのは、こうした方針にも基づいていた。天皇の学問・文化・芸術の振興は、象徴天皇としての行為であるのだが、当時にあっては日本が国際社会の一員として信頼を得るのに必要だというのである。最後に、「この時に当り、わたくしは、国会が国権の最高機関としての使命を、真に遺憾なく果すことを望んでやみません。また、国民が互いに励まし、互いに戒め、平和国家の実現に向って進むことを、切に望みます」とした(『昭和天皇実録』巻三十七、108頁)。まだ「勅語」という言葉が使用されていたが、文末表現が「である」から「であります」に変更された。 23年12月2日、天皇は第四回(常会)開会式に臨席し、参議院議場で、衆議院議長式辞の後に、次の「勅語」を述べた。即ち、天皇は、「日本国憲法が施行せられて以来、日本国民は、新憲法の精神に基づき、その理想とする民主的文化国家の建設に向って、たゆみない努力を続けて来ました」が、「わが国が、真に自由を愛する民主国家として、国際社会において名誉ある地位を占めるのには、わたくしたちはますます努力を続け、その成果を明確な事実として、全世界に示さなければならない」とし、「国会が、国権の最高機関としての責務を自覚し、その権威を高め、日本国永遠の理想を達成するために、その最善を尽くされることを切に望む」とした(『昭和天皇実録』巻三十七、116頁)。 24年3月19日、天皇は第5回国会(特別会)開会式に臨席し、参議院議場で、幣原喜重郎衆議院議長の式辞の後、次の「勅語」を述べた。即ち、@「世界永遠の平和を念願する日本国憲法の理想を心とし、民主主義に基く文化国家建設の目的に向って、わたくしたちは、着々歩みを進め」、A「連合国の好意と援助を受けて、国民が幾多の苦難に屈せず努力を続けて来たために、今日、国民生活もようやく充実するきざしを見せるようになりましたことは、諸君とともに感謝と喜びに堪えない」が、B「わが国が、国際社会において名誉ある地位を占めるためには、わたくしたちの間に、民主主義が正しく理解され運用されるとともに、わが国経済が完全に自立し、物心両面において、世界的な水準に達しなければならない」と述べた(『昭和天皇実録』巻三十八、30頁)。占領米軍が日本におしつけたキーワードともいうべき「平和、民主主義、文化国家」がうたわれ、連合国軍好意で国民生活充実し経済的自立に歩みだしたとした。これでは、米軍占領長期化への批判は生じてこないのである。 24年11月1日、天皇は第6回国会(臨時会)開会式に臨席し、参議院議場で、幣原喜重郎衆議院議長の式辞の後、次の「勅語」を述べた。即ち、@「今日わが国が、日本国憲法の理想に基き、連合国の好意と援助とにより、着々、民主的文化国家の建設にその実をあげつつあることは、諸君とともにまことに感謝と喜びに堪えません」としつつ、A「わが国が、現在なお直面している幾多の社会的経済的困難を打開して、真にその目的を達成し、世界の信頼を得るためには、われわれ日本国民は、今後、更にいっそうの努力をしなければならない」と述べた(『昭和天皇実録』巻三十八、139頁)。 24年12月15日、天皇は第7回国会(常会)開会式に行幸し、、参議院議場で、幣原喜重郎衆議院議長の式辞の後、次の「勅語」を述べた。即ち、@「世界永遠の平和を念願する日本国憲法が施行されて以来、わたくしたちは、連合国の好意と援助とを受け、幾多の苦難をのりこえて、民主的文化国家の建設のために努力を続けてき」て、A「その結果、今日、わが国復興のきざしもいちじるしく、真に世界の信頼を得て、国際社会の一員として復帰する希望がもてるようになったことは、諸君とともにまことに喜びに堪え」ず、B「この時に当り、わたくしは、国会が国権の最高機関としての使命を遺憾なく果すことを望んでや」まず、Cまた「国民のすべてが、たがいに協力して、祖国復興のため、いっそうの努力を続けることを望む」とした(『昭和天皇実録』巻三十八、157頁)。 産業奨励 23年12月3日午前、表拝謁の間で、天皇は地方経済調査庁長会議への参列者10名の拝謁を受け、「経済の秩序をたて国民生活を安定させることは、日本再建の基礎であるから、一層努力して効果をあげることを希望する旨のお言葉を賜」った(『昭和天皇実録』巻三十七、116頁)。 24年5月14日午前9時、天皇・皇后は、日本貿易博覧会視察のため、横浜市野毛山会場に行幸した。博覧会会長石河京一(横浜市長)より「同博覧会の概要」を聴いた(『昭和天皇実録』巻三十八、51頁)。10月20日、天皇・皇后は、日本橋三越に行幸し、「日本の資源計画展示会」(連合国最高司令部天然資源局、経済安定本部資源調査会、朝日新聞社共済)を視察した。そして、各出品(資源調査会・GHQ天然資源局森林部・運輸省観光部)、各図表(農作物作付計画図表・土地利用表・洪水予報対策図表・足尾鉱山ガス利用計画表・国鉄電化の効果表など)を展覧した(『昭和天皇実録』巻三十八、133ー4頁)。 11月17日には、天皇・皇后は、「東京都主催の東京都産業振興共進会」を視察するために立川市富士見町の東京都農業試験場に行幸した。天皇は、便殿で都知事安井誠一郎から「第一会場の概況」の説明を受けた。廊下で、連合国最高司令部関東地区民事部長F.A.フォリングシェドに会釈した。午後、天皇・皇后は、第二会場の八王子市明神町の東京都繊維工業試験場に到着し、安井知事から「概況」の説明を受けた(『昭和天皇実録』巻三十八、149−150頁)。 自然災害見舞 この時期にも、天皇・皇后は地方大火の被害者に救恤金を支給している。例えば、24年2月24日、天皇・皇后は、火災で約三百戸焼失した山梨県南都留郡小立村に救恤金を下賜した(『昭和天皇実録』巻三十八、21−2頁)。3月2日、天皇・皇后は、秋田県能代火災(2月20日)の「甚大な被害」(被災民1612戸)に救恤金を支給した(『昭和天皇実録』巻三十八、25頁)。 また、天皇・皇后は台風被害者に救恤金を支給している。24年8月4日午前、葉山御用邸の拝謁の間で、天皇は賠償庁長官山口喜久一郎から「台風二号(デラ台風)の被害調査」を聴いた(『昭和天皇実録』巻三十八、115頁)。9月1日、天皇・皇后は、台風(8月15日ジュディス台風)で甚大被害を受けた佐賀・鹿児島・宮崎・福岡・長崎県に救恤金を与えた(『昭和天皇実録』巻三十八、118頁)。 社会事業 この時期、「日本国民統合の象徴」に関わる行為の一つとして、天皇は東京・神奈川の社会事業の視察をして、激励している。つまり、資料6によれば、天皇は東京などの盲学校・聾唖学校・孤児収容施設・養育院・高齢者・児島相談所収容施設・救世軍光寮・傷痍者保護寮・生活扶助施設・医療保護施設・児童養護施設を視察し、激励した。また、天皇は、各社会事業団体の代表との会食・激励、社会事業功労者への会釈、優良私設社会事業団体代表の激励などもした。これもまた、象徴天皇の「発現形態」の模索の現れの一端とも言えよう。 資料6 天皇の社会事業の視察・激励
3 天皇の対米従属 占領軍撤退条件 20年12月5日、吉田は伊沢多喜男宛書簡(『吉田茂書簡』、96頁)で、「ポツダム宣言には民意により平和的責任内閣出来ぬ迄は進駐軍 我国より撤退せずと有之。撤退せぬ限、我独立、主権は回復せず。主権回復が第一とせば責任内閣の成立を急速にせざるべからず」とした。そこで、吉田は幣原首相には「専ら之を力説」したが、「直ちに其快諾を不能得」に、「甚だ焦心苦慮」していた。そこで、吉田は伊沢多喜男(元内務官僚、貴族院議員)のような「政界之通人」に、幣原に「是非に為国家 更に御勧説相煩度」とした。 ポツダム宣言十二条に「前記諸目的(「無責任ナル軍国主義」排除、「日本国ノ戦争遂行能力ガ破碎」、戦争犯罪者の処罰、「民主主義的傾向ノ復活強化」、軍事産業排除)ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」とある。 天皇訴追免除 既に20年11月29日、アメリカ統合参謀本部は、マッカーサーに、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集せよと指令した(WX 85811)。 21年1月21日、オーストラリアの国連戦争犯罪委員会代表が、ロンドンで「天皇を戦争犯罪人として告発する」と訴えた。同日、ワシントンはマッカーサーにこれを速報した(フィン『マッカーサーと吉田茂』120頁)。 21年1月25日、マッカーサーは本国統合参謀本部に、「過去10年間の日本帝国の政治的決定に様々に関与させたであろう諸行動に関連して明白な証拠は摘発されていない」とした。彼は、かなり調査して、「終戦までの国事行為への関与は相当程度大臣らによるものであり、顧問らの助言に応じたものだ」という印象をえたとした。そして、@彼を訴追していれば、「有力な軍閥によって支配され代表される意見の流れを妨害しようとする天皇の努力を危険なものとしていたであろう」こと、A訴追には「大きな変化が占領計画に施され、しかるべき準備がなされねばならないこと」、B訴追は「日本国民の間に深刻な激震をもたらし、その影響はいかに過大評価してもしきれないほど大きいこと」を指摘した。最後に、マッカサーは、「彼をやっつければ、日本国民は分裂する」と警告したのであった(アメリカ国立公文書館所蔵文書、State Department Records Decimal File,1945-1949"894.001 HIROHITO/1-2546" <Sheet No. SDDF(B)00065>[国会図書館所蔵])。「天皇の存在はマッカーサー元帥にとって二十個師団にも匹敵する」(1948年米国ニュース報道)のであった。これは、「ワシントンにおける天皇訴追論議に実質的な終止符をう」(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見、17頁)った。 21年1月31日、マッカーサーは極東諮問委員会英国代表ジョージ・サムソム(後述)に、「日本がこのまま順調に進めば立憲君主制の方向に向か」(フィン『マッカーサーと吉田茂』122頁)い、「(天皇は)最初から最後まで操り人形、すなわち『完全なチャーリー・マッカーシー』(腹話術師の人形)で、戦争をはじめたわけでも、終わらせたわけでもなかった。あらゆる時点で、彼は助言にもとづいて自動的に行動し、それ以外のことはできなかった」(ジョン・W・ダワー『昭和』280頁)としていた。サムソムは英国政府に、「最高司令官の判断は正しい」と報告した(フィン『マッカーサーと吉田茂』122頁)。この意味で、「天皇をめぐる戦後の論争にマッカーサーが果たした役割は決定的だった」(フィン『マッカーサーと吉田茂』123頁)のである。 そして、前述の通り、4月13日、アメリカ政府はマッカーサーに、天皇制廃止につながる措置をとらない決定を通達した 米国依存の日本安全保障の萌芽 21年7月に、終連中央事務局総務部長の朝海浩一郎は、GHQ外交局長アチソンに、国連が早急に理想的な機構になりそうではないので、外国侵略には「第三国との連携」で独立保持せざるをえないとした。アチソンから米国提携を引き出そうというのである。果たしてアチソンは「太平洋に深い利害関係をもつ米国やオーストラリアなどの国が日本への侵略に無関心であるはずがない」(楠『吉田茂と安全保障政策の形成』150頁)と答えている。 11月、外務省条約局は、国連憲章第51条(集団的自衛権の行使を容認)を利用して、日本が米国と援助条約を締結すれば、ソ連攻撃を受けても、「安全保障理事会が行動を執るに至るまで・・日米の集団的自衛権を行使し得る」(楠『吉田茂と安全保障政策の形成』150頁)と提案した。 米ソ関係 天皇は、天皇制廃止を企図するソ連と米国との関係については大きな関心を抱いた。例えば、21年9月5日、天皇は寺崎から、「聯合国最高司令官副官ロレンス・エリオット・バンカーの米ソ関係に関する意見」を聴取した(『昭和天皇実録』巻三十五、151頁)。『寺崎英成御用日記』(238頁)によると、寺崎は天皇に、バンカーは「米蘇関係は『デスペレート』ではないと思う」と言ったが、「共産党員を使」って準備し、「占領軍が引揚げたら、日本に入り込む」とした。後者がバンカー意見か、寺崎判断かは不明だが、こういう寺崎意見が天皇に米軍依存を深め、米軍駐留継続が必要と認識させていった。 21年9月25日、天皇は寺崎に、「聯合国最高司令部の近況」、「米国大統領ハリー・S・トルーマンが米国商務長官ヘンリー・アガード・ウォーレスを罷免し」た事情を下問した。トルーマンのウォーレス罷免理由は、「対ソ協調協調を主張」し、同盟国の英国の外交政策を帝国主義と批判したためである(『昭和天皇実録』巻三十五、156頁)。天皇は米ソが緊張関係にあることを改めて知った。 こうした対ソ危機認識が後述の22年9月19日付シーボルト宛天皇沖縄占領統治容認の伝言となってゆくのである。 対米従属 しかし、こうした天皇の「革命」的変化の過程は、天皇と米軍は、天皇の国体護持のための米軍の利用と、米軍の占領統治のための天皇の利用という点では利害はぴたり一致しつつも、米軍が主、天皇が従となったものであったのであった。マッカーサー最高司令官が一切宮城・皇居を訪問せずに、会見場所を米国大使館に設定したのも、こうした「上下関係」の堅持の結果である。 この結果、天皇の戦前の終戦工作推進が天皇の戦争責任を緩和していたのとは異なって、戦後は、天皇家の家長の義務として、終戦工作以上に熱心に国体護持活動に携われば携わるほど、その結果として、米国側が一部それを文書化して「これは天皇も認めていることである」などと迫られる事態を生み出しかねず、骨のある健全な政治家・官僚(概して彼らは「忠臣」でもあった)までも天皇がそういうなら致し方ないと、対米密約、対米従属などの路線に組み込まれてしまった。そういう点では実はこれは天皇の「戦争責任」以上に大きな「戦後責任」問題を提起しているのである。 4 天皇・マッカーサー会見 @ 第四回会見 下準備 22年正月6日、天皇は宮相松平に、「マッカーサーとの今度の御会見につき話題とされ」(『昭和天皇実録』巻三十六、3頁)た。第三回会見からまだ二ヶ月も経っていないのに、天皇はマッカーサー会見を話題としているのである。天皇は、日本国憲法の公布を受け、その施行を前に確かめたいことがあるようだ。 マッカーサーの占領終結後の日本防衛論 22年3月17日、マッカーサーは、外国人記者クラブの昼食会で、占領終結、対日講和条約締結を提唱し、国連の安全保障で「日本人は世界の進歩的精神にとよることによって、自分を不当な侵略から守ろうとしている」(昭和22年3月18日付朝日新聞[楠綾子『吉田茂と安全保障政策の形成』ミネルヴァ書房、2009年、52頁])。彼は、「第一段階である非軍事化はすでに終了し」、「第二の政治の面では、GHQのなしうる指導はほぼ終ろうとし」、「第三段階は経済の面であるが、これは占領軍では処理できない問題」であるとし、「日本の軍事的占領を早く終らせ、正式の対日講和条約を結んでGHQを解消すべきである」とした。だが、「われわれが撤退すると日本人は無防備状態に陥るであろう」として、@「わずかな軍事施設を許可」するか、A国連によって「世界の進歩的精神」で「不当な侵略から守ろう」とするか、いずれかの方法で対処するしかないとした。マッカーサーのような「責任ある人から再軍備云々は初めて聞く」(『寺崎英成御用掛日記』[『昭和天皇独白録』文芸春秋、1991年、304頁所収])ものだった。 彼は、後者について、「国連による管理は、日本人によって受け入れられ、抑圧的というよりは防護的なものとみなされるであろう」(『寺崎英成御用掛日記』[『昭和天皇独白録』305頁所収])とした。これは、持論の国連による「東洋のスイス構想」を強調した。だが、これは米ソ協調の国連としている点でトルーマン・ドクトリンとは異なっていた。しかも、スイスは武装中立であり、非現実的なマッカーサーの平和理想が天皇利用を巻き込んで独断先行していたかである。来年秋の大統領の予備選に睨んで「ヨーロッパに対するトルーマン・ドクトリンの公式発表にタイミングを合わせ」「大見得を切って」(ジョン・W・ダワー『昭和』133―4頁)、日本の民主化、非武装化をはかって、日本講和をいそいだようだ(楠綾子『吉田茂と安全保障政策の形成』52頁)。 一方、22年5月、米本土の統合参謀本部は、「沖縄とこれに隣接する島々を戦略地域に指定する、または戦略的信託統治の下に置く必要がある」(楠綾子『吉田茂と安全保障政策の形成』53頁)と勧告した。 会談リーク 22年5月3日に日本国憲法が施行されたことを受け、5月6日、天皇は奥村勝蔵通訳でマッカーサーと第4回会談を行なった。侍従入江は、この日は三番町への引越しのために会見に供奉することはなかった(『入江相政日記』第二巻、132頁)。 翌7日付AP電は、日本の複数の権威筋によれば、天皇がマッカーサーに「憲法が軍備の禁止と戦争の放棄を規定しているので、日本国民は不安を感じている」と告げると、マッカーサーは「米国が日本の防衛を保障する旨を確言した」(児島襄『日本占領 3』文藝春秋、1987年、24頁)のであった。8日、マッカーサーは、「私は、私が米国による日本の将来の防衛を約束した旨の報道を読んでいない。だが、そのような言明を私がしたというのは、真面目な論評に値しないほどバカげたことである」とこれを否定し、「日本の安全保障は、平和条約が調印されるまでは連合国とその占領軍に課せられた義務である。講和後の日本の安全は、平和条約に規定された条項にゆだねられるはずである」(児島襄『日本占領 3』24頁)と言明した。 会談の内容 児島襄『日本占領(3)』(文藝春秋)はこの会談の記録を掲載している。これによると、天皇とマッカーサーは時候の挨拶、新憲法と選挙について意義を確認した後に、天皇は、冒頭から第9条をめぐって、「日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に期待せねばなりませぬ。先般、元帥の記者会見に於て、成るべく速に日本に平和をもたらすこと及び国連の下に日本に対する安全保障の機構を定めねばならぬと述べられれた点は、私の感銘する所であ」るが、「国連が極東委員会の如きものであることは困る」とした。すると、マッカーサーは、「近代科学の発達の結果、強力なる爆弾、其の他非常なる破壊的武器、又次の戦争には予期せらるる細菌戦の結果、若し再び戦争が起れば、そこには勝者も無く敗者も無い、唯破壊あるのみである。この様な戦争に於て日本を守ることは不可能であ」るとし、「日本が完全に軍備を持たないこと自身が日本の為には最大の安全保障であって、これこそ日本の生きる唯一の道である」とした。 すると、天皇は、「日本の安全保障を図る為には、アングロサクソンの代表者である米国が其のイニシアチブを執ることを要するのでありまして、此の為元帥の御支援を期待しております」と、具体的に米国支援を求めた。マッカーサーは、「米国の根本観念は日本の安全保障を確保することである。この点については十分御安心ありたい。日本の安全を侵す為には、戦術上に最も困難なる水陸両用作戦によらなければならない。此れは、アメリカが現在の海軍力及び空軍力を持つ限り絶対に為し得」と、米国の対日支援を約束した(児島襄『日本占領(3)』文藝春秋、28−31頁)。 奥村記録はここで終わっていたが、『松井手記』によると、この後にマッカーサーが「日本を守る最もよい武器は・・平和に対する世界の輿論であ」り、ゆえに「日本がなるべく速やかに国際連合の一員とな」って、「日本が国際連合において平和の声をあげ世界の平和の声をあげ世界の平和に対する心を導いて行くべきである」(2002年8月5日付朝日新聞10面、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』101頁)という主張が続いていたことが判明した。ここでは、マッカーサーが、国際連合軍による日本平和の維持という持論を繰り返しており、これは天皇要請に応えた米国支援の日本防衛論とは矛盾するかであるので、奥村らが削除したのであろう。 会談リークの意図 松井によると、「奥村氏がオフレコを条件に会談内容を記者に流し、それが米国から打ち返された」ということになっている。マッカーサーは、国際連合軍による日本平和の維持という持論を捨象して、日本の安全保障を米国が保証する事だけを暴露したことに驚いた。なぜなら、米国が日本の安全保障を保証することは、米国大統領の権限であり、一司令官の権限を越えていたからである。マッカーサーは、翌日に記事を全面的に否定した。GHQ渉外部長ベーカー准将は日本政府に責任を取るように求め、奥村は懲戒免官となった。 では、なぜ奥村は、このような大それたことしたのか。松井は、奥村部下の法眼晋作が、「当時日本で一番大事なことであり、元帥が天皇会見で日本を守る決意を語ったと、奥村氏は口コミで日本人に知らせたかったのではないか」(2002年8月5日付朝日新聞10面)と説明したことを紹介している。 しかし、一通訳の奥村が単独でここまでするとは思えない。もっと大きな視野をもつ策士が絡んでいたのでなかろうか。侍従徳川義寛によると、奥村が上司の白洲次郎終戦連絡部中央事務局次長に話し、それを白洲が記者に話したらしい(徳川義寛『侍従長の遺言』135頁)。こちらのほうが説得力があろう。なぜなら、白州には、非武装を認めた憲法起草に関わった一人として、非武装下での日本の安全保障をどうするかを国民に示す責任があったからである。 だが、もし天皇が米軍駐留継続による日本防衛を要請し、マッカーサーがこれを保証していたのであれば、白洲はこれを国民にリークする必要はなかったろう。なぜなら白州は米軍駐留継続には反対していたからである。白州次郎は、恒常的な米軍駐留、米軍の沖縄支配に強く反対しており、米軍駐留を許容する天皇とは「水と油の関係」になりつつあり、天皇は、かかる白州に「吉田が引っ張られることを危惧」したようだ(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』104−5頁)。マッカーサーが、非武装こそ日本防衛手段であり、それを米国が保証するということだから、白州はこれを日本国民に紹介しようとしたのであろう。5月9日、『ニューヨーク・タイムズ』紙の特派員L・パロットは、「一部の日本人は、東京の総司令部が軍隊を“永久”に放棄する旨を規定した新しい日本国憲法を書いたがゆえに、米国は日本が侵略から守られることを見守る道徳的義務を負っている」(児島襄『日本占領 3』25頁)としたが、この一部の日本人にはまさに白州が含まれていただろう。 マッカーサー持論の国連軍防衛を削除したのも、奥村だけの判断ではなかったろう。白州の判断も働いていたであろう。この第四回会見のリークと内容加工には、白洲が少なからず関与していたでろう。昭和27年に吉田首相が奥村を外務省に呼び戻し、外務次官に抜擢したのも、吉田が白州から事情を知らされていたからであろう。 外務省の対米依存論 このマッカーサーの早期講和論を受けて、6月に日本外務省は「平和条約締結に関する問題の所在と日本の立場」を作成し、@講和条約で加えられる主権制限を最小限にし、「能う限り完全に近い自主独立の国家」とし、A日本国民自立の経済環境の整備、B安全保障の整備(永世中立国・一国か数国の保障・国際連合の保障は「考慮の余地がない」とし、国連加盟とほぼ同時に国連保障をうけることが最善)を目標とした。Bにおいて、外務省は、「戦争放棄条項は、国連の存在を前提」としたものであり、国連加盟が遅延すれば、「非武装化、民主化の体制に甚大な支障を来たす」(楠『吉田茂と安全保障政策の形成』144−6頁)とした。 また、外務省が連合国に提出予定の6月12日付「安全保障問題に関する意見」では、国連との関連から永世中立国論は排され、「日本は新憲法の理想から言っても積極的に国際連合の機構に参加し、仮令武力は持たなくとも、他の手段によってその義務を果し、国際平和の維持増進に寄与したい」とされた。国連が旧敵国に差別的措置を予定しているなどの現実を踏まえれば、これは、「理念的色彩がきわめて濃い方式」であり、「実現可能性や実効性を無視した議論になる危険性が高」(楠『吉田茂と安全保障政策の形成』147頁)いものだった。 しかし、マッカーサーのいう国連軍とは、米ソ協調したものというより、核兵器を独占する圧倒的優位のアメリカ軍が主体としたものを想定していたようである(1947年6月米極東軍[司令官はマッカーサー]策定の戦争計画「ベーカー65」[楠綾子『吉田茂と安全保障政策の形成』53頁])。 マッカーサーは、日本には非武装を納得させるために理想論をふりかざす一方で、現実には圧倒的軍事力で極東を制圧する作戦をたてていたのである。こうした「二枚舌」が、マッカーサーの政策矛盾となっていたのであろうが、「他者からの批判を病的に嫌うマッカーサーは、占領政策との整合性を欠く安全保障方針が巻き起こす非難に耐えられなかった」(楠綾子『吉田茂と安全保障政策の形成』56頁)ようだ。 幣原も国連をあてにしていなかった。9月3日、吉田茂、幣原喜重郎、佐藤尚武元外相と松平恒雄元駐米大使らが参議院議長官舎で、日本の安全保障を議論した。その際、幣原は、@「国際連合加盟に余り多大の期待をかけることは賛成できない。日本が外国から侵略されるというような場合に、何れの国にしても自国の将兵を犠牲にして、日本を守ってくれるということは期待できない」事、A「米国は日本の援助に来てくれることがあるかもしれぬが、それは米国自身の利害に基づいてすることで、必ずしも国際連合があるから、援助に来てくれる」(吉田茂『回想十年』第三巻、113頁)のではないことなどを指摘した。 天皇と同様、有事の際、国連ではなく、米国をあてにしているのである。白州も同様であった。しかし、外務省は、対米依存しつつも、米軍への基地提供までは考えていなかったようで(楠『吉田茂と安全保障政策の形成』152頁)、この点では白州と同じ考えであった。白州と外務省一部は、米軍基地継続には反対していたのである。 こうして、外務省内で「永世中立国化案」から「国連と地域的安全保障機構」へと転換している頃に、外務省内外で国連防衛への疑問と対米依存が提起されていたが(楠『吉田茂と安全保障政策の形成』151頁)、米軍基地の継続何如では意見は一致していなかったのである。 外務省の駐日米軍基地提供論 22年7月26日、外相芦田均が対日理事会議長兼総司令部外交局長ジョージ・アチソン(8月17日事故死)に「講和条約の準備」として「日本側の希望条項を記したメモ」を提出した(『昭和天皇実録』巻三十六、156頁)。 9月4日には、横浜連絡調整事務局長鈴木九万(外務省官吏)が米第八軍司令官ロバート・ローレンス・アイケルバーガー陸軍中将に、「日本の安全保障を米国に依頼する代わりに日本本土の一部を米国に軍事基地として提供し、日本も警察力を増強したい旨の書面を手渡した」のであった(『昭和天皇実録』巻三十六、156頁)。 9月19日、芦田外相は天皇に、以上の「講和条約の準備並びに日本の安全保障問題」を奏上した(『昭和天皇実録』巻三十六、156頁)。恐らく、これは芦田が自ら奏上したのではなく、天皇の求めで外務省見解として説明したものであったのであろう。 シーボルト宛天皇「沖縄占領統治容認」伝言 22年9月19日、天皇はこの芦田説明を踏まえて、米国政府に、上記のマッカーサー防衛論というより、前記米国参謀本部防衛論に対応した沖縄基地継続の方針を伝達してゆく。 つまり、22年9月19日、天皇がマッカーサー政治顧問のシーボルトに沖縄占領統治容認を伝えた。9月20日、シーボルト外交局長は、天皇の「沖縄メッセージ」(米軍への沖縄占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与」が継続されること)を覚書にまとめ(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』、54頁)、22日に国務省に送付した(進藤榮一「分割された領土」『世界』402号、1979年4月、同「『天皇メッセージ』再論」『世界』407号、1979年10月[荒敬『日本占領史研究序説』290頁])。 この点、『昭和天皇実録』では、こうして研究を踏まえて、かなり詳述されている、22年9月19日、寺崎は天皇に会い、日本の安全保障方針について話題にした。この日午後、寺崎は対日理事会議長兼連合国最高司令部外交部長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問して、@「天皇が米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである旨」、A「米国による沖縄県等の軍事占領は日本に主権を残しつつ、長期貸与の形をとるべきであると感じておられる旨」、B「この占領方式であれば、米国が琉球諸島に対する恒久的な意図を何ら持たず、また他の諸国、とりわけソ連と中国が類似の権利を要求しえないことを日本国民に確信させるであろうとのお考えに基づくものである旨」(連合国最高司令官宛シーボルト報告[20日付覚書]、米国国務長官宛シーボルト報告[22日付書簡])という天皇の意向を伝えていた。これは、昭和22年5月6日第四回会見で米国が天皇に日本防衛を保証したこと(マッカーサーは公には否定)の「見返り」であったのであろう。ダワーは、これは、「日本政府と皇室がともに、早い段階から日本本土の占領の早期終結と引き換えに沖縄の主権を売り渡す」(ジョン・W・ダワー『昭和』135頁)ものであったとする。 なお、『寺崎英成御用掛日記』(文芸春秋、1991年、332頁)では、「拝謁 沖縄島」とあるのみだが、シーベルトとの会談については、「元帥に今日話すべし」とあり、寺崎の意見を聞かれ、「平和条約にいれず、日米間の条約にすべし」と答えていることが注目されよう。日本外務官僚が、米国の意に沿うかのように、講和条約と日米安保条約を分けて結ぶべきとしていたのである。 米国占領政策批判 もとより、天皇は、GHQ占領統治政策を無批判に受容したわけではなく、皇族・華族政策などには一定の抵抗を示した。この時期には、GHQ民政局長ホイットニーの警察改革を批判している。22年9月26日、天皇は宮内府御用掛寺崎英成から、「ホイットニーによる警察の地方分権に関する提案もお聞きな」って、「州と県と同一視」しており(『寺崎英成御用日記』334頁)、地方自治警察は「財政的に困難である」と批判している(『昭和天皇実録』巻三十六、160頁)。 A 第五回会見 下準備 奥村事件以来、米側は通訳には神経質になる。22年9月30日、寺崎はバンカー大佐に会うと、マッカーサー、バンカーらは「蘇(ソ連)は今戦ふ予猶(余裕)なし」としたが、日本側は安心できなかったであろう。また、バンカーは、「元帥との御会見の点に言及し、通訳は小生といふ事を三度再確認した」のであった(『寺崎英成御用日記』336頁)。 10月3日午前、「萩原」(21年2月1日ー22年10月28日外務省条約局長萩原徹か)が寺崎のもとに来て、会見に関連して、@「食糧、回転資金、洪水等」のことは「話しズミ」である事、A講和条約に言及してもしなくても、「新聞は平和条約に関係ありと書く」だろう事、B「新憲法下に於る天皇の立場」を考慮すれば、「政治問題なら返事すべきに非ず、内閣がやるべき問題と答ふる事」とした(『寺崎英成御用日記』337頁)。天皇がマッカーサーと政治会談をすることは憲法違反になるということが問題になっていることが留意される。 10月3日午後、寺崎はシーボルト会い、シーボルトから、@米国陸軍省「輿論の意見」は「沖縄はアメリカが自由にす、信託かリースかその方法は定まっていない」事、A沖縄問題では「国務省の意見は定まっていない」事、B天皇がマッカーサーに「定期的に会見するは片山や芦田に憚りあ」るので、「止めて不定期にする」事、C「米国の意思決定に誰でも影響を与へようとするのは間違ひ」である事などを告げられた(『寺崎英成御用日記』337頁)。Bは、米国内部のみならず、社会党党首の片山首相、民主党総裁の芦田外相らも、天皇・マッカーサー定期会談に憲法上の疑義を抱いていたことを想定させる。寺崎は「割り切れぬ、変な気持」になって、シーボルトを「永らく訪問しまい」としている。 一方 、この頃、対日講和問題で米国に登場した「新しい国家安全保障問題の専門家」は、「日本との早期講和など問題外」(ジョン・W・ダワー『昭和』135頁)としていた。つまり、22年10月に国務省ケナンと側近の作成した「国務省政策企画室のために用意した講和条約問題に関する報告書(PPS10)」で、「日本の不安定な経済状態では共産主義の浸透を許しかねない」として、「占領の早期終結」(ジョン・W・ダワー『昭和』136頁)に反対していた。 10月7日から15日、天皇は、新潟・長野・山梨の地方巡幸に出かけた(『昭和天皇実録』巻三十六、167頁以下)。巡幸中の10月10日、寺崎はバンカーに会うと、「御会見O・K、寺崎通訳O・K」となって、ここで、第五回会見が決定したようだ(『寺崎英成御用日記』341頁)。 11月4日、寺崎は「御会見10、11、12,13がよろし」(『寺崎英成御用日記』346頁)と、会見日時は11月中旬に絞り込まれた。しかし、11月5日、片山首相は「会見申入の件 取止め」(『寺崎英成御用日記』347頁)と言った。キーナンの巡幸反対論が問題となったのである。一方、この11月5日、天皇は、シカゴ・トリビューン紙の社主・主筆ロバート・ラザフォード・マッコーミックを引見して、「マッカーサーが連合国最高司令官であることは日本にとって幸いである旨」を述べた(『昭和天皇実録』巻三十六、219頁)。まさに、会見問題の渦中にあって、天皇にとっては、これが本音であった。ただし、このことを正確に言うならば、「マッカーサーが連合国最高司令官であることは日本国天皇にとって幸いである」という事であった。 11月7日、天皇は寺崎を呼び、前日外相芦田均が「巡幸以外のお出ましを慎まれるべきとする極東国際軍事裁判国際検事団首席検事ジョセフ・ベリー・キーナンの意見」について「マッカーサーに確認するべき旨」を要請した(『昭和天皇実録』巻三十六、219頁)。寺崎は天皇に「書類」を見せた。天皇は、@「宮中御都合」「御巡幸」などは「事実に反する」から、芦田には言わず、「内閣の責任においてことわれ」としつつ、「今会ふ理由は亡くなったが、元帥が欲すれば別なり」とし、A芦田は、「キーナン(が)、広瀬に・・『御巡幸はよきも運動会に行くのは反対なり』」と言ったというが、この点を元帥に「たしかめて欲しい」事と指示した。寺崎は、「これは容易ならぬ事なれば時期は御任せ願ひ度し、何しろ芦田はボス(寺崎の上司)なれば」と告げると、天皇は「時期は一任する」とした。この時期とは、元帥に会って確認する時期であろう。宮内府次官鈴木一は会見時期(天皇の都合のいいのは8−11日)のことを頼まれた(『寺崎英成御用日記』348頁)。 早速、この日12時半に寺崎はバンカーに会った。すると、バンカーは、元帥の意見として、@「閣僚が陛下に影響するはけいからぬ」とし、そういう時代は過ぎ去ったこと、A「キーナンがそんな事云ったとは思はぬ」が、「自分は陛下が大衆のいる処、運動会等に出られるのは賛成なり」と告げた(『寺崎英成御用日記』348頁)。 11月8日、寺崎は、「陛下、芦田は三十分位激論」したと、「宮中御都合」「御巡幸」などがキーナン弁護を台無しにしかねないなどと、激論したようだ。寺崎は大金益次郎侍従長に、「何か余にすべきことありや」と尋ねると、大金はないと答えた。ただ、寺崎は大金に、「陛下より(会見実行のー筆者)命令ありたる時、時局の実行の時機は御一任ありたし」とし、@「大臣に気の毒なるも」、あくまで「陛下の命令なること」、A会見時期は「8(土曜日)−11日(火曜日)よしとたのまれた事」、B「ノロノロする」と、バンカーは「休み」をとって、「命令実行は火以降」となって天皇意向と異なることなどと述べた(『寺崎英成御用日記』349頁)。 この後、バンカーより寺崎に電話があり、@7日夜キーナンに会って確かめたが、「そんな事云ひたる覚えなし」とし、「芦田又は広瀬のミスコーテーション(misquotation。誤引用 )也」とした事、A「岡崎(勝男、外務次官)ケサ、メモランダムを持ち、御会見にオブジェクション(objection 反対)ないか」と尋ねてkたので、「オブジェクションなし」と答えた事などを話した(『寺崎英成御用日記』349頁)。 11月10日、寺崎は宮内府に出ると、「御会見OK」ということであり、直ちに「バンカーに会」うと、「いつでもよろし」としたので、寺崎は「十四日にきめ」た。そして、寺崎は大金と、「会見録は二部」つくり、「片山、芦田要求する時に口頭でしらす事」に決めた(『寺崎英成御用日記』351頁)。 11月12日、会見時の「御詞振りを二通書き 一通を陛下」に差し出した。寺崎は大金と「御前会議」を開き、「外ム省(芦田外相らー筆者)の悪口」を言う。その日、念のためにバンカーに会うと、彼は、御記録を大金侍従長・松平宮内府長官に見せることは「天皇陛下の御自由」だが、「閣僚が(会見録閲覧を)要求せば拒ってよろしい」とした。元帥の詞として、「『コート』(court、この場合は「閣僚の歓心を得ようとする」こと)させるを欲せず」と伝えた(『寺崎英成御用日記』351頁)。 会見 新憲法施行後の関西・東北・北陸行幸が終了して、第五回天皇・マッカーサー会談が持たれた。22年11月14日午前10時、天皇は、「大宮様の御使の緑色のリンカーン」に乗り、宮内庁長官、侍従長、寺崎通訳を連れて、マッカーサーを訪問した(『入江相政日記』第二巻、182頁)。 『昭和天皇実録』では、上記随行者を記し、マッカーサーと副官が玄関で出迎え、寺崎通訳と二人で二時間談話して、午後零時18分に還幸したとするのみで、会談内容の記述はない。11月17日、内廷庁舎政務質で、天皇は、宮内府御用掛寺崎英成の作成した「マッカーサーとの御会見記録」に目を通した(『昭和天皇実録』巻三十六、223頁)。このように会見記録は作成されたが、四月会見リーク事件に懲りて、極秘に扱われたのである。 B 第六回会見 下準備 第六回会見については、23年1月12日、寺崎英成が宮内府に出て、その工作を指示されたようだ。それから、寺崎は「塩田同行」させて、ナンカーに会い、「仮定的な事なるが、元帥会見の事をい」った。すると、バンカーは、「元帥 テンペラメンタル(神経過敏)にて今何んとも云へず」、「何もなかりし事として忘れくるべし」とされた(『寺崎英成御用日記』369頁)。マッカーサーは、大統領選出馬の噂の中で神経質になっているのであろう。 23年2月27日、寺崎はシーボルトを訪問して、寺崎は、@「米国が国府軍を立て直そうと、無制限の資金と物資を注ぎこ」んで、「底なし沼」の状態に陥っている事、A「現実的政策として、南朝鮮、日本、沖縄、フィリピン、それに可能なら台湾を連ねた線を、アメリカの極東における外部防衛線とすべき」事を話した。シーボルトは、ワシントンに電報を送り、@「寺崎は個人的見解だと念を押したが、以上は天皇を含む宮中高官の見解だと信ずべき理由がある」事、A「この意見には日本の利己的立場(占領が長引いてもよいから、米国が日本をソ連から守ってほしいという強い要請、さらに中国が日本に強くでられないような弱体のまま推移することを望む)が反映している」事などを報告した(『寺崎英成御用日記』376頁の注)。この防衛線は、米国の防衛線に配慮したものであり、防衛線に南朝鮮、台湾を含むかどうかは米国側の問題である。なお、25年1月、米国はこの防衛線から南朝鮮、台湾をはずしたために、朝鮮戦争を誘発することになった。 会見 23年5月6日午前10時、天皇は皇居を出て、マッカーサーを訪問した。12時20分頃に天皇は還幸した。随行者は「侍従長と寺崎」のみであり、「御料車一台といふ極めて簡素」(『入江相政日記』第二巻、226頁)なものとなった。首相芦田均の日記にも一切この会談の記載はない。 『昭和天皇実録』では、「宮内庁長官は供奉せず、御料車一台という前例のない簡素な行幸」であり、玄関にマッカーサーが出迎え、二時間の会談後、午後零時15分に還幸したとして、会談内容は一切明らかにしていない。奥村の漏洩以後、GHQは第5回(22年11月14日)、6回(23年5月6日)の天皇・マッカーサー会談の通訳はGHQ側が用意しており、厳重な秘密管理が行われたのであろう。 この頃、マッカーサーは、本国での大統領選で「屈辱的な敗北」をしており、「アメリカの政治状況における彼の重要性を減じたばかりでなく、日本における権威をも弱め」、「占領政策の周辺部に追いやられ」(ショーンバーガー『占領』102頁)ていった。トルーマン政権は、特に財政経済で実効をあげるために、強大な権限をもつラルフ・ヤング、ドッジ、シャープなどを送り込んでいった。 さらに、「大統領選の賭けに失敗」した後、マッカーサーは、「日本の労働運動や左翼に対し、ますます、公然と敵対」し、この面では「ワシントンの政策立案者やほとんどのアメリカの新聞は拍手喝采」(ショーンバーガー『占領』104頁)した。 対米感謝 極東国際軍事裁判の結審以後、退位問題が騒がれる一方で、天皇は占領米軍への感謝を表明してゆく。 23年7月19日正午過ぎ、表拝謁の間で、天皇・皇后はアイケルバーガー陸軍中将夫妻を引見した。天皇はアイケルバーガーに、「感謝の言葉」を述べ、また、「占領軍からの援助について感謝の意」を表明した。そして、天皇は、「平和維持のために努力したにも関わらず、戦争を阻止出来なかったことに対し遺憾の意を表せられ、今後、日本国民がポツダム宣言を忠実に実行して民主主義を樹立することを確信する旨を仰せにな」った。引き続き、第一食堂で、天皇・皇后は、アイケルバーガー夫妻、随行者の第八軍軍政局副官ジェイムズ・J・ギボンス陸軍少佐、及び横浜連絡調整事務局長鈴木九万とともに午餐を共に食した(『昭和天皇実録』巻三十七、66頁)。昭和19年以来、「外国人の御陪食」は中止されていたが、今回は「アイケルバーガーが日本占領の陸上部隊総指揮官であることを考慮」して、特別に行われたものであり、陪食者も限定され、皇族や外務大臣などを招かなかった。 C 第七回会見 第七回会見 天皇は、23年秋に会見を望んでいたが、マッカーサーは、会見を延期していた。24年1月10日、天皇は供奉4人(田島道治長官、三谷隆信侍従長、寺崎英成御用掛ら)を従えて、アメリカ大使館に向かった。 『昭和天皇実録』では、会談内容は一切記述されず、寺崎が通訳し、午後零時五分に還幸したとあるのみである。ただし、同書によると、「後刻、田島を表御座所にお召しになり、マッカーサーより巡幸等につき発言のあった旨を仰せになる」とも記述されているから、天皇の地方巡幸の再開が主要議題の一つであったことがわかる。 24年1月12日午後、葉山御用邸で、天皇は宮内府長官田島道治に、「現情勢下に葉山に行幸することが適当かどうか」を尋ね、「対日理事会議長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトに関すること」、「皇太子家庭教師エリザベス・クレイ・ヴァイニングの皇太子教育に関する意見」を聞いた(『昭和天皇実録』巻三十八、7頁)。この天皇質問が会見二日後になされていることを考慮すると、天皇・マッカーサー会見では巡幸是非問題・対日理事会議長シーボルト(天皇との引見問題)・ヴァイニングのこと(皇太子教育方針)が話題にのぼったと推定される。 24年1月20日午後、拝謁の間で、天皇・皇后は対日理事会議長ウィリアム・ジョセフ・シーボルト及び夫人を引見し、天皇希望で日本語で「アジアの新興諸国や日本の経済復興につき御会話にな」った。『昭和天皇実録』によると、この引見は、「式部官黒田実が連合国最高司令官と交渉し、実現した」とあるが(『昭和天皇実録』巻三十八、9頁)、天皇が事前にマッカーサーと了解していたからスムーズに実現できたのであろう。仮にマッカーサーが躊躇したとすれば、政治的権能のない天皇が自分と会うことに関しては秘密にできるが、対日理事会議長となると、問題になることを懸念したのではないか。アジア・日本の経済復興という問題化しにくい非政治的話題のみをリークしたのではないか。 地方巡幸再開 24年2月18日、「戦後の諸改革の進行に伴い検討されてきた行幸・行啓の簡素化の最初の試み」として、葉山行幸簡素化が実施された。改革点は、@「従前と比較して大幅な人員削減とな」った事(供奉員が侍従長・侍従2名・侍医1名・女官長・女官1名・事務官2名・殿部仕人4名・内舎人1名と変更)、A「天機奉伺のための参邸者も範囲は縮小され」た事、B「御用邸到着時に神奈川県知事以下の県庁職員、葉山町の町関係者は除かれ、葉山町公安委員2名・葉山署長1名の計3名のみに御会釈を賜うこと」などである(『昭和天皇実録』巻三十八、20頁)。 24年4月1日、内閣は、「地方巡幸の御趣旨並び現下の時勢に顧み、宮内府次長・地方財政委員会事務局長・国家警察本部長官・総理庁官房自治課長に対し」、@「地方への行幸は国民のありのままの接せられることを本旨とするので、諸事簡素を第一にお迎えすること、A「行幸のために特に工事営繕は行わないこと」、B「道府県・市町村その他団体等は行幸に関する経費を原則として計上しないこと」、C「御泊所となる一般旅館において調度・設備等の新調は差し控え、御食事は各地方において容易に調整しうる簡素なものとすること」、D「現地の随従者等は必要不可欠の範囲とすること」、E「献上は差し控えること」、F「警衛は国民との節度のある円滑な接触に意を用いて行うこと」と通達した(『昭和天皇実録』巻三十八、53頁)。ここには、GHQの行幸簡素化の趣旨が徹底されている。 GHQは、1年間の中止、宮内府の改革などを考慮して、国内巡幸の再会を許した。当時、GHQの民政局(ホイットニー准将、ケーディス大佐ら)が巡幸に反対していたが、マッカーサー、副官バンカー中将、経済科学局ベーカー准将、外交局長シーボルトらは巡幸に賛成していたのである(徳川義寛『侍従長の遺言』134頁)。未実施の県民達が宮内庁に熱心に巡幸再開を陳情し続けた(鈴木正男『昭和天皇の御巡幸』41頁)。 宮内官僚は、GHQ民政局の指摘などに配慮しつつ、それに「対応」するべく、国民の天皇を「演出」しようとして周到な準備をしてゆく。 周到な準備 天皇側は、今回の九州行幸は第12代景行天皇が熊襲退治で九州行幸して以来の行幸とも見ていたようだ(『入江相政日記』第二巻、328頁)。 24年4月9日に侍従入江らは天皇に「明日から九州へ打ち合わせにいってまいります」と言うと、天皇は、@「復興はまだ不十分だし、国民生活は苦しいのだから、私の旅行について、すべてむだがないように、くれぐれもよく話してきてくれ」、A「また私が生物学をいくらか専門的に勉強しているということは周知の事実なので、そのためか、どうも生物学偏重になりやすい。もちろん生物学関係のものが、一番よく分りはするが、ほかの学問の分野でも、その研究をきかせてくれることがもしよろこびであるのなら、一所懸命にわかろうと努力する」、B「私に来てほしいという所があったら、どんな所へでもいく、そのためいくら日程がかさんでも、そんなことはかまはないから、みんな引き受けてこい」(入江相政随筆選『昭和天皇とともに』136頁)とした。 入江らは24年4月10日から5月7日まで28日間も現地で巡幸場所を丹念に調査し、5月8日に帰京した。入江は、帰宅して就寝すると、寝言で「一生懸命に九州の人に今度の御主旨を説いていた」(『入江相政日記』第二巻、314頁)ぐらいに、GHQを意識して、巡幸趣旨を徹底しようとしたようだ。 5月13日午後1時、部局長会議で長官・次長らが、「九州行幸について」訓示した(『入江相政日記』第二巻、314頁)。14日には、巡幸に供奉する侍従(入江、山田、梅沢、依田、勝島、河合、後閑、斎藤、田中、五十嵐、菅原、大平、佐土原ら)と「打合せ」をして、「皆元気で御供しようと誓ひ合」(『入江相政日記』第二巻、314頁)った。 24年4月4日、天皇は沼津御用邸に行幸する途中、愛林記念植樹式(神奈川県足柄郡仙石原村で挙行)に臨席した(『昭和天皇実録』巻三十八、37頁)。5日には還幸した。 24年5月17日から6月12日、九州行幸が再開される。 D 第八回会見 24年7月8日の第8回会談から、外務省政務局総務課長松井明が通訳となったが、マッカーサー副官バンカー大佐から、「ノートもとらず報告もするな」(青木『昭和天皇とワシントンを結んだ男』148頁)と命じられた。松井は記録はとらなかったが、「陛下が国内の治安について深い憂慮の念を示されたことだけが脳裏に焼きついている」ということだけを記憶している(2002年8月5日付朝日新聞10面)。これは、下山事件など国内で共産党の動きが懸念されてきたので、天皇は国体護持のために反共対策を話題の一つにしたからであろう。 この点について、『昭和天皇実録』では、「国内の治安問題」が取り上げられたと、簡単に記述されている。 24年9月1日午前10時に、天皇は松井明から「御進講」を受けていた(『入江相政日記』第二巻、336頁)。ここで、松井は、天皇が国際共産主義勢力の動向などについて深い関心をもっていることなどに改めて気づいたであろう。 E 第九回会見 こうした共産主義勢力の拡大の中、松井は、第9回天皇・マ会見から密かに記録を残すことにした。 24年11月26日、第9回天皇・マッカーサー会談が松井通訳で行われた。入江は日記にこの会見を一切記述しなくなっている(『入江相政日記』第二巻、346頁)。もはや米国による天皇制廃止要求はなくなり、共産主義勢力の天皇制廃止が懸念され、天皇とマッカーサーの共通関心事項として反共対策が論じられる。 まず、マッカーサーは、速やかに講和条約を締結することが望ましいと切り出した。すると、天皇は、「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと、国民が甚だしく動揺するが如き事態となることをおそれます」とした。マッカーサーは、「日本国民はソ連を含めた全面講和が出来るというような間違った希望をいつまでも持ち続けることはできないでありましょう」と、米ソ対立下の全面講和の困難を指摘した。さらに、マッカーサーは、「空白状態に置かれた日本を侵略に任せておくわけにはいきません」とし、さりとて不完全武装では侵略を守れず、かえって侵略を招き、日本の経済を破綻に導くとした。そこで、マッカーサーは、「数年間過渡的な措置として英米軍の駐屯が必要でありましょう。それは独立後のフィリピンにおける米軍や、エジプトにおける英軍や、ギリシァにおける米軍と同様の性格のものとなりましょう」とした。これに対して、天皇は、「講和を早く実現し独立を回復することは日本の強く希望するところであります。その場合国内治安維持を講ずべきであると思います」(2002年8月5日付朝日新聞10面)とした。 さらに、天皇は24年2月ロイヤル国防長官の日本放棄説に言及して、「その後の否定にも拘らず日本の朝野において尚懸念を抱くものがあります」と、米軍撤退への懸念を表明した。 ロイヤルは、東京での記者会見で、「日本の戦略的重要性を疑っている。日本の立場は真剣に見直さなければならない」(フィン『マッカーサーと吉田茂』下巻、89頁)と表明したのであった。米軍駐留を望んだのは天皇らであった。マッカーサーは、「米国は極東を共産主義の侵略から守るために固い決意を致しております。米国は日本に止まり日本及び東亜の平和を擁護するために断乎として戦う」(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』112頁)と、米軍駐留継続方針を表明した。 ソ連脅威の高まりを背景に、マッカーサーは持論(「第九条の理想と国連を結合させる構想」)を変更して、「日本への侵略が米国との全面戦争を意味することをソ連に明確にさせるという目的のために講和後も日本に海空軍基地を保持する」(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』113頁)と表明していた。すでに11月1日、アメリカ国務省は、「対日講和条約の起草を準備中」(鶴見『白洲次郎の日本国憲法』162頁)と公表していた。 また、天皇はマッカーサーに、「ソ連に抑留されている未引き揚げ邦人には常に心を痛めておりますが、何か消息でもありませんか」とも尋ね、戦争処理問題に積極的に関わろうとしていた(2002年8月5日付朝日新聞31面)。この会見記を掲載した朝日新聞も指摘するように、天皇・マッカーサー会見は「儀礼というよりトップ会談」であった。 『昭和天皇実録』(巻三十八、153頁)は、以上の第9回会見について、「早期の講和条約締結」や「日本の安全保障」が取り上げられたと、簡単に記述した。 その後も、25年4月18日第10回会見、26年4月15日第11回会見がもたれたが、ここでは省略する。 そもそも、天皇・マッカーサー会見に関しても、これは、少なくとも日本国憲法施行後には、天皇が、日本の安全保障(第四回会見)、「国内の治安問題」(第八回会見)、「早期の講和条約締結」や「日本の安全保障」(第九回会見)などの高度な政治的事項についてマッカーサーと話し合うことは憲法「違反」行為であったと思われる。だが、そういう憲法作成を強制したマッカーサーらには占領米軍に感謝一辺倒の天皇(例えば、この謝意は、24年3月19日第五回国会特別会、24年11月1日第六回国会臨時会、24年12月15日第七回国会などのの開会の勅語に「連合国の好意と援助」で「幾多の苦難をのりこえ、民主的文化国家の建設」に努力でき「感謝と喜びに堪えません」[これは第六回のみ]などと、はっきりと表明されている)に「憲法上問題があるから今後は会えないなど」と拒絶する必要はなかった所か、天皇は依然として大いに利用価値があったのである。 終わりに 以上、この『昭和天皇実録』巻33ー巻38の精査の結果、多くの重要な事実が判明した。それは、天皇変革、皇室改革、宮内改革、憲法改正、皇族・華族改革などの分野では画期的な重要性を持ちつつ、人間宣言、天皇・マッカーサー会見、退位問題などの分野では一部を補完するにとどまりつつ、全体的に見れば、日本国憲法下で、従来の国家形態・機構がどう変容され、米軍の支配方式・占領方針の決定過程(特にその過程における天皇・マッカーサー会見の意義)がどうなり、いかなる天皇が作り出され、いかなる日本国が誰によって作られていったのかが俯瞰的に把握できることが、本書の画期的意義だといってよいであろう。 そもそも、憲法とは、誰がどのような経緯で誰の利益を優先して定めるかによって、その性格・特徴・意義が異なってくる。つまり、君主が君主制の維持のために定めるか(この最新憲法がブータン憲法である)、君主以外の人々が君主制を制約するために定めるか(例えば、英国憲法の源流ともいうべきマグナ・カルタ)、或いは市民革命政府が国民の権利・利益を確保するために定めるか(例えば、フランスの1791年憲法・1793年憲法=ジャコバン憲法)などによって、その性格・特徴・意義が異なってくるのである。言うまでもなく、日本国憲法は、占領米軍のマッカーサー三原則によって、占領米軍の利益を考慮して定められたものである。そういう意味では、本書は日本国憲法の問題性を天皇の観点から再確認することも可能としてくれよう。 最後に、『昭和天皇実録』とその他の資料の検討より、なぜ日本では米軍の占領統治が成功したのかを天皇の観点から考えておこう。 第一に、終戦は天皇にとって「国体」存亡の危機であり、その危機を及ぼす対象は、当初は米国であったが、次第に共産主義国ソ連となり、天皇と米国は共産主義を共通の敵とするようになったということである。 第二に、日本の占領統治が天皇、マッカーサーの「両首脳」の指導で行われ、両首脳が、敗者・勝者を超越して、主権国家としての対等な関係にあるようにしたのではなく、マッカーサーが、勝者の優越的立場のもとに、主権国家としては「不当」な関係を日本に強い、主権国家としての日本の尊厳を汚すものであったということである。しかし、天皇は国体護持のもとに、これを受け入れたのであった。 第三に、米軍の対日占領統治「成功」の最大要因は、こうした天皇の存続・利用にあるといっても過言ではないということである。天皇は国体護持のためには終戦j時から退位或いは訴追は当然と「腹をくくり」半ば覚悟しており、戦後は自分の任命した旧臣下が戦犯となって、一部死刑に処される中で、本気で退位を検討していった。だが、天皇を退位させたり、戦犯として訴追すれば、日本各地に反米暴動が起こることを懸念して、マッカーサーらはこれを許さなかったのである。上述の通り、吉田茂も言うように、皇室に対するマッカーサー元帥の執った態度と方針こそが、「占領改革が全体として歴史的成功を収めた最大の原因だった」のである。このことは、マッカーサー元帥、フェラーズ准将らもまた気づいていた。 しかし、米国政府・軍部の幹部はこれを記憶にとどめず、或いは気づこうとせずに、「増長」して、戦争は不況を打開しGDPを押し上げることの誘惑にかられて、ヴェトナム戦争・アフガン戦争・イラク戦争など対外戦争を起こした。しかし、その結果は、一方で、地上戦で多くの若者を犠牲にし、少なからぬ戦争廃疾者を生み、他方で、空爆で少なからぬ子供・市民を殺戮したのみならず、戦後にはは軍事的征圧や占領統治にほとんど成功することはなく、混乱を生み出すだけであった。一時的に戦闘に勝利しても、数千万から数億の人民を軍事的統治することなどは所詮出来ないということだ。それが、例外的に一時的に日本で出来たのは、一に天皇が国体護持のために「対米従属」に甘んじたということにつきるのである。 第四に、日本国憲法で天皇は政治的権能を持たぬとされ、日本国・日本国民統合の象徴とされ、文化・学問・芸術などの奨励者として振舞おうとしたが、同時に、依然として、天皇は国体護持のために「政治的行為」を行ない、政治家らの側もそういう天皇を望んでいたということである。米軍も、天皇が対米従属的に米軍利益になるかぎりは、憲法違反濃厚であったとしても、そういう天皇を黙認していたのである。 平成27年(2015年)1月6日脱稿 [備考] お話しを聞いていて改めて確認できたことだが、本書は、学問的に貢献しようなどという意図からではなく、本来的には今上天皇などが昭和天皇の行跡から学び取ることを主目的として編纂されたものである。皇室内部者しか使用できない資料を駆使されて、結果的には非常に高い精度で編集されていて、これが学問的価値を発揮するかいなかは、これを使用する側の学問力如何にかかっているといってよいのである。 最後になったが、本書を編纂された方々の御労苦に謝意と敬意を表明する。 |
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