人間は自然社会から生きるために殺しあってきたが、「富と権力」システムのもとでは、戦争の規模と悲惨さは著しいものとなった。この点を古代三大戦争(トロイエ戦争・ペルシア戦争・ペロポネソス戦争)に探ってみよう。 一 トロイエ戦争 ホメロス(英語ではホーマー)の『イリアス』(田中秀央訳[『世界文学大系』1、河出書房新社、昭和55年などから、トロイエ戦争を考察し、さらにホメロス叙事詩の帝国主義的性格を見ておこう。 1、まず、トロイエ戦争は、単なる神話上のフィクションではなく、当時語り継がれてきたギリシァ国家の存亡に関わる関わる大戦争だった。トロイエには9層の遺跡が重なっているが、トロイエ戦争は第7層A(紀元前1300−1100年)のミケーネ文明の末期に起こったことが確認されており、故にトロイエ戦争はホメロスらの生きた時代から4−500年前に実際に起こったのであり、神話『イリアス』は事実の上に築かれたものである。 前8世紀に始まる「大植民活動の先触れ」として、前11世紀頃に「小アジア西岸」にギリシァ植民地が建設された(岡田泰生『東地中海のなかの古代ギリシァ』山川出版社、2008年、34頁)。神話はそこを舞台とし、トロイエ王家の祖ダルダノスは、エレクトラ(プレイアデス[アトラスとプレイオネの七人の娘]の1人)とゼウスの息子であり、サモトラケ島からテウクロス(ニュンペーのイダイア(妖精)の子)が王として治めていたイリオスのある地域にやってきた。ダルダノスはテウクロスの客となり、彼の娘バティエイアと領地の一部をもらい、彼はそこにダルダノスという都市を築き、ダルダノスの後はエリクトニオス、トロスと王位を継承し、トロスの時に、自分の名にちなんでダルダニアの地をトロイエと呼んだのである。ギリシァ本土から海を隔てたこの地もまた、ゼウスの子孫が統治していたのである(アポロドーロス『ギリシァ神話』岩波文庫、2003年、151−2頁)。 プリアモス王の頃、トロイエが肥沃である上に、「海峡を通る商人たちから通行税を取り立て」たりして、トロイエは、「マカルの王宮のあるレズボスと、山のかなたのブリュギエと、果てしないヘレスポントス海とが囲む地方」で最も豊かになった(『イリアス』(田中秀央訳[『世界文学大系』1、河出書房新社、昭和55年、123頁)。プリアモスは、「トロイア側のすべての諸侯の頭」となった(永江良一訳『トロイア物語:都市の略奪者ユリシーズ』Andrew Lang : Tales of Troy :Ulysses The Sacker of Cities[プロジェクト杉田玄白参加翻訳テキスト])。ここに、ギリシァ本土の王アガメムノンらが、通行税などを賦課する植民地側と、覇権をめぐって対立したのであろう。 ギリシァ本土側の軍事力は、多くの都市国家の連合軍であった。ペロポネソス半島のボイオティア地方アウリスの港にアカイア勢(ギリシア方)の軍船1000隻(今のギリシア本土とペロポネソス半島全域、クレタ、ロードスといった東南の島々からも駆けつけた約30国のギリシア諸国連合軍、総勢10万人)が集結した。一方、トロイエ軍事力はトロイエ、リュキエ、トラケ、ダルダノイなどの「寄合勢」(『イリアス』[田中秀央訳、34頁])であった。 いわば、ここに、ギリシァ本土とギリシァ植民地とが、ゼウスらギリシァ諸神の見守る中で武力決着をはかったのであろう。この権力者にとっての「国運」をかけた戦争を神々をからませて、悲哀をおりまぜながら、民衆うけするように書き上げたものが『イリアス』であった。 2、だから、『イリアス』では、トロイエ戦争は、ゼウス神を信仰する同じギリシァ民族間の戦争であり、ゼウスら神々が戦争の行方に関わるものとして描かれている。 ここでは、トロイエ戦争勃発の「神話」的事情は語れていないが、アポロドーロス『ギリシァ神話』(岩波文庫、2003年、181頁)によると、ゼウスはトロイエ王子アレクサンドロスに、妻ヘラとアフロデティとアテナイのうちから、美人を選ぶように命じた事が発端である。アレクサンドロスは、ヘラからは「全人類の王」にするとされ、アテナからは「戦における勝利」を約され、アプロディテーからはギリシァ一の美人・スパルタ王女ヘレネとの結婚を提示された。アレキサンドロスは、アフロデティを選んだために、スパルタに赴き、ヘレネーに出奔を説き伏せ、フェニキア・キュプロス・エジプトを経由してトロイエに赴いた。アガメムノンは、これを「ギリシァに対する侮辱」として、トロイエ出征が決定された。 ゼウスは原則中立であったが、なりゆきでトロイエ側についた。だから、ゼウスは、アカイエ側のアガメムノンについては、「ゼウス神に育てられた君主たちのうちで、おまえはわたしには最も厭わしい者だ。なぜっておまえは、口論、戦争、戦闘が四六時中好きときているからだ」(7頁)とする。 その他神々の一部は、ギリシァ本土(アカイエ、、アルゴス、ダナオイなどと称された)とトロイエ側に分れた。アカイエ側には、ヘラ、アテネ、ポセイドン、へパイストスが味方(117頁)した。女神アテネは、アルゴス(ギリシァ本土)人の名声を得るために、ディオメデス(ペロポネス半島のティーリュンスの領主)に「力量と勇気とを授けた」(35頁)りした。 他方、トロイエ側には、軍神アレス、銀弓神アポロン、その妹アルテミス、アプロディテ、河神クサントスらが味方した(117頁)。そして、トロイエもまた、「ゼウスの思し召しに従おう。われわれの祖国のために戦うこと、これが最善の予兆だ」(ヘクトル、85頁)と、ゼウスを信仰した。 こうした神々の両軍加担で、神々が戦場で武将の生死を左右し、戦況はめまぐるしく推移する。『イリアス』の巻別に戦況推移を要約すると、@アカイエの英雄ディオメデスは、アテナに支援されて、トロイエの武将アイネイアスを殺そうとし、アプロディテ・アポロン・アレス神と戦い、アプロディテを負傷させ(5巻)、Aだが、ゼウスはトロイエに加担し、アテネ、ヘラはアカイア軍を引き立てるが、トロイエが優勢となり(6−12巻)、Bやがて、ポセイドン、ヘラらが劣勢のアカイエ軍を激励支援し続けたことで、トロイエは劣勢となり(13、14巻)、Cそこで、ゼウスはトロイエ支援のためにポセイドンを戦争から排除し、ヘクトルを助勢し、アキレウスの戦友パトロクスを殺害し(15−17巻)、Dここに、ヘラがアキレウスを鼓舞し、アカイアが優勢となり、トロイエは劣勢となり、ゼウスはトロイエ英雄ヘクトル死亡を決断し、ヘクトルが殺害されると、憐れな父プリアモスが「救援の神」ヘルメイアスに導かれつつ苦難のすえにヘクトル葬式をあげたのであった(18−24巻)。 こうして、神々は、人間の権力闘争に巻き込まれてしまったことについて、ディオネは、「われわれオリュンポスの宮殿に住んでいる神々のうち多くのものが、人間のために、互いに残酷な禍いをかけ合って苦しんで来たのです」(45頁)とする。また、「工匠へパイストス」(ゼウスとヘラの長男)はヘラに、「もしもあなた方二柱の神(ゼウスとヘレ)が、人間どものために、そんなに争い、神々の間に葛藤を引き起こすようなことになれば、これは、誠に由々しき騒動になり、さらに堪え難いものとなりましょう」(19頁)とした。 逆に、権力者に言わせれば、神々の方こそ戦争をそそのかしたとする。例えば、トロイア王プリアモスは、ヘレネに「おまえが悪いとは思っていない」とし、「アカイア人たちとのいたましい戦争をわたしの上にもたらした神々こそ悪いのだ」(25頁)とする。 3、こうした神々と権力者の絡みあった戦いにおいて注目すべきことは、権力者の多くがゼウスの末裔であるということである。つまり、@勇将アキレウスは、父ペレウス(プテイーア王=人間。「ゼウスの末裔」[16頁])、母「海の女神テティス」(父はネレウス[海と大地ガイアの息子]、母は女神ドリス)との息子であり、A「英雄」・「人民の王」(7頁)アガメムノンの場合、曽祖父はタンタロス(父はクロノス[ウーラノスとガイアの息子でティタンの末弟]、母はレアの娘プルートー。ゼウスの兄弟)、祖父はクロノス[ウーラノスとガイアの息子でティタンの末弟]、祖母はレアの娘プルートー。ゼウスの兄弟)、父はギリシァ軍総大将アトレウスであり、Bトロイエ王プリアモスは、ダルダノス(エーレクトラーとゼウスの息子)の子孫(138頁)であり、子福者で、正妻の子は17人(長男へクトル[英雄]、次男アレキサンドロス(パリス)。ヘレネ(実父はゼウス)の夫)、その他含めて50人余の子(リュカオン、エケムモン、クロミオスなど)がおり(135頁)、Cアカイエ・トロイエ両軍が戦いに疲弊した時、サルペドン(ゼウスの子、「リュキエ人の隊長」、トロイエ側)とトレポレモス(ヘラクレス[ゼウスとアルクメーネーの子]の子)という「ゼウス大神の息子と孫」(52頁)とが対峙することになったりした。 こうして、ゼウスの末裔らが、覇権をめぐって争ったのである。Dの場合、互いに槍を投げあい、サルペドンはトレポレモスの頸を刺し、トレポレモスはサルペドンの大腿を刺したが、ゼウスがサルペドンの「死滅」を防いだのであった(52頁)。 4、本書では、神々も権力者もほとんど民衆を考慮してはいなかったが、だからといって、民衆的配慮が全くないわけではない。例えば、アガメムノンは、「おれは(クリュセイスの方を)おれの娶った妻クリュタイメスよりも好きなんだ」が、「民衆がつつがなくある」ならば、「あの娘を返しもしよう」、「(その代わり)諸君はただちに戦利品をわたしのために用意してもらいたい」(5頁)として、民衆的配慮をしている。だが、民衆を考慮した決断はこれだけである。 その他は、アキレウスはアガメムノンの侮辱に怒りを静めることはできず、アガメムノンを「酒乱の男」、「民衆を食い物にする王」(9頁)と毒づいたり、アイネイアス(母は女神アプロディテ)はトロイエの「民衆の王」(44頁)と称されるとあるぐらいである。権力者には、反民衆的なものと、民衆的なものとがいるというのであるが、民衆的王についての掘り下げは一切ない。 また、ホメロスは、ゼウスは「神々と人間の父」(18頁)としていて、ゼウスは民衆の父でもあるとしているが、ここではそういう民衆的な側面は現れてこない。ゼウスのもとには、「災禍の贈物」と「祝福の贈物」という「二つの壷」があり、人間の禍福はこれに左右されるとした程度である(136頁)。ゼウスと民衆とのかかわりは、このホメロス『イリアス』ではなくて、次述のごとくヘシオドス『神統記』、『仕事と日』で展開されたのである。 5、このように、『イリアス』は、ゼウスを中心とする神々と権力者の権力闘争との絡み合いを取りあげたものであり、ゆえにこそアリストテレスがアレキサンドロスの帝王教育として『イリアス』を教え、後にこれが同大王の愛読書の一つになったのである。 アレキサンドロスの家庭教育とは、兵法については父フィリッポス2世、リシマコス将軍から学び、哲学、弁論術、医学、博物学、科学、倫理学、文学、地理天文などはアリストテレスから学ぶというものだった。そして、アリストテスの文芸講義は「アレクサンドロスをしてホメロスの英雄へ傾倒せしめ、彼の世界制覇の巨大な情念を燃焼せるに与かって力あ」ったようであり、「アレクサンドロスのうちにあったやみがたき大望と情念とが彼を駆ってアリストテレスの考えていた限られた世界の統合という理念を乗り超えさせたというべき」(川田殖氏編『アリストテレス』世界の思想家2、平凡社、昭和52年、12頁)だったといわれる。重要なことは、アリストテレスが、『イリアス』などを教材にして、王家に生れた王子の義務として、アジア支配の正当性などをアレキサンドロスに教え込んだということであろう。 アリストテレスの著作を読むと、アリストテレスが、アジア・東方侵略を当然としていて、ギリシア帝国主義者であることが鮮明になるのである。アリストテレスはアレキサンドロス王子に、こうした帝王教育を施したのであろう。アリステレスは、従来の主人的支配=奴隷制を認め、ギリシア人のアジア支配を容認して、マケドニアの東方遠征・支配を肯定する考えをアレクサンダーに教え込んだと思われる。 例えば、『王たることについて』(『アリストテレス全集』17、岩波書店、1977年)という作品は、マケドニアのアレクサンドロス大王の、王たることについての質問や、植民地は如何に建設すべきであるかについての質問に応えて、アリストテレスが書いたものと同じようなもの」(607頁)であり、「アリストレスは、アレクサンドロス大王に、王たることについてもまた、一巻の書物を書き、如何に統治すべきであるかを彼に教えている」(607頁)のである。 アリストテレス、アレキサンドロスは、ペルシァ戦争の危機に直面して、トロイエ戦争をゼウスを信仰しあうギリシァ民族間の戦争としてではなく、ギリシァ対アジアの戦争と見て、ギリシァのアジア侵略を「美化」「鼓舞」し始めたようなのである。従って、紀元前1世紀頃のアポロドートス『ギリシァ神話』(岩波文庫、2003年、181頁)では、トロイエ戦争の原因として、「ヨーロッパとアジアが戦いに入って、自分の娘が有名になるようにというゼウスの意によっている」などと記されている。 二 ペルシア戦争 人間が最初に記した戦争史はホメロスがトロイエ戦争を題材にした『イリアス』であろうが、それは上述の通り、権力者が神々とともに戦争を行い、権力者の戦争を鼓舞するようなものであった。その意味では、事実・見聞などに基づきペルシァ戦争についてヘロドトスが記述した『ヒストリエ』は、最初の本格的な戦争史である。ヘロドトスは、欧米では「歴史の父」と称されており、ゆえに彼の記した史上初めての本格的戦史『ヒストリエ』(松平千秋訳『歴史』[『世界の名著』5、中央公論社、昭和51年])において、我々の問題提起即ち「なぜ人間は戦争をするか」が考察されているか否かなどを吟味することは非常に興味深いこととなる。 1、まず、ヘロドトスの問題意識と方法から探ってみよう。 ヘロドトスは、自らの誕生・成長・晩年の過程(前485年頃 - 前420年頃)で勃発したペルシァ戦争(前492年ー前450年)を「ギリシァ人や異民族の果した偉大な驚嘆すべき事蹟の数々ーとりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情」について、「やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、みずから研究調査したところを書き述べた」(67頁)のである。恐らくトロイエ戦争について、ホメロス叙事詩や断片的な語り継がれてきたことなどがある程度であって、ヘロドトスに生きた時代にはなぜトロイエ戦争が起ったのかについては、ほとんどわからなくなってきたということもあったかもしれない。或いは、ホメロスは「トロイア戦争よりもはるかに後世(ホメロスらの生きた時代から4−500年前ー筆者)の人」(トゥキュディデス『戦史』[久保正彰訳、『世界の名著』5、中央公論社、昭和51年、318頁])であり、故に長い年月が経つと、事実探究や見聞聴取も不可能となって、『イリアス』の如く詩的想像が強くなって、詳細な史実に基づいて叙述できなくなることに気づいていたのかもしれない。 ヘロドトスは、ペルシァ戦争の原因については、戦場となった現地などを調査し、体験者・目撃者・関係者らに聞き書きして、言い伝えなどをも含めて事実を広く探究して記したのである。さらに、彼は、現在のみならず、ペルシァ側とギリシァ側の対立の淵源を過去に遡って考察しており、故に過去も必要な限りで見聞などに基づき探究していた。後の人々が、『ヒストリエ』を『歴史』と受け止めてゆく所以である。こうした実証的態度は、ホメロスが、『イリアス』で、神々と権力者との絡み合いでトロイエ戦争を詩歌で表現したのとは大きく異なり、基本的に権力者がいかに戦争を決定し、遂行したかを中心にすえてペルシァ戦争の淵源・原因・展開を解き明かし、神々などはその限りで扱われるということに留めたのである。 だが、民衆がこの戦争でいかに苦しんだかという視点はここでも欠落していた。戦争に動員され重い負担に苦しんだ一般兵は農民・漁民だったはずであり、業火に苛まれて生活を破壊されたのも農民・漁民だったはずであるが、「歴史の父」と称されるヘロドトスはこの民衆が戦争に苦しむ観点を欠落させていたのである。戦史には、「偉大な驚嘆すべき事蹟」などだけではないにもかかわらず、民衆の蒙った惨害については叙述されることはなかったのである。 それでも、ヘロドトスが、「権力と富」のシステムのもとでの史上最初の大規模国家間戦争について、開戦に至る権力者の判断を初めて明確に示したことは、極めて貴重であり画期的だといわねばならない。彼は、初めて「なぜ人間は戦争をするか」を考察し記録したのである。彼は、ペルシァの権力者が開戦を決意した理由として、国威発揚、国富増大、報復の大義名分のもとに、「やるかやられるか」という瀬戸際に直面していたことを初めて明らかにしたのである。 一方、ギリシァ側については、ギリシァ側が、自由の危機、ギリシァの危機として、諸都市国家に団結を呼びかけ、「これに負ければ、ギリシァは隷従身分になる」と危機感を強調して立ち上がることなどが触れられる。ギリシアにとっても、「やるかやられるか」という切迫した事態にまで追い込まれていたのである。ただし、ここでは、ペルシァ戦争について、自由を脅かすアジア専制権力ペルシァと自由・独立を守るギリシァ都市国家連合との対決として描かれ、これに打ち勝った西洋のギリシァ側が美化される。ヘロドトスは、アテナイ人は「ギリシァの自由を保全」し、ペルシァ王を撃退したと高く評価したのである。ヘロドトスは、アテナイ、ギリシァ、ヨーロッパ優越史観に立脚していたのである。 しかし、ペルシァ戦争以前にも大小様々な戦争が行なわれたが、その開戦理由を事実に基づいて本格的に記したものはなかったのであり、これについてのヘロドトスの業績は十分に評価されなければならない。ここでヘロドトスが明らかにした、国家が開戦に踏み切る理由とは、直接的誘因は各時代に応じて多様であろうが、究極的には「やるか、やられるか」という切実な事態、動物の生命防衛本能の発動を余儀なくされる事態にまで追い詰められたからだということであり、これは、「祖国の興廃はこの一戦にあり」などとして各戦闘場面でも絶えず繰り返されたのである。そして、これは、現代にいたるまで国家が開戦に踏み切る上でほぼ共通的理由となっているのである。「富と権力」のシステムのもとでは、こうした国家間戦争は構造的に避けがたいのであり、何度も何度も国家間戦争が繰り返されることになるのである。例えば、近現代の日米戦争などもそうだ。日露戦争以後、中国利権をめぐって、日米両国は「対立状態」に突入し、アメリカが海軍力で日本海軍力には負けないという状況になると、アメリカは資源などで日本を締め上げ、日本側を「やるか、やられるか」という切迫状況に追い込み、開戦させていったのである(詳しくは、拙著『日本外債史論』、拙著『国際財政金融家 高橋是清』を参照)。 こうした権力者の国家間戦争の開戦阻止の原動力は、民衆である。時には愚かだが、基本的には平和志向の民衆こそが、こうした愚かな国家間戦争を抑止するのである。戦争を抑止する真の力は、核兵器でも先進武器ではないのである。「富と権力」のシステムのもとでの国家間戦争を阻止する原動力は、権力者や政治家・官僚の思い上がった「専門」的判断でも、軍事的威嚇でもなく、国境を越えた、平和志向でごく普通の生活感覚をもった民衆の連帯なのである。世界の民衆が連帯するシステム(第二次世界戦の秩序の基づく古臭い、権力者中心の国政連合にとってかわる、世界の民衆中心の国際民衆連合のごときもの)を構築すること、これこそが重要なのである。 2、本書の構成について見ると、巻一ではペルシァ側とギリシァ側の対立の淵源が考察され、キュロス王がいかにアジアの支配者になったかが探究され、巻二ではカンピュセスの統治、巻三・四・五ではダレイオス1世の統治期における「ペルシァとギリシァの対立」が取りあげられ、巻六から巻九まででペルシャ戦争が記述されている。 まず、巻一から要点を指摘すると、@「ペルシァ側の学者の説では、争いの因を成したのはフェニキア人であった」(67頁)として、フェニキア人がエジプト、アッシリア、アルゴス(ギリシァの強大国)との外国貿易に従事する時、アルゴスで「イナコスの娘イオ」王女らを拉致してエジプトに向かったこと(67頁)をきっかけに、ギリシァ人も「数々の暴挙」(フェニキアのチェロスの王女エウロペ、コルキス地方の王女メデイアを拉致)を行なったので、コルキス王はギリシアに王女返還・賠償を求めたが、アルゴス王女拉致の例を挙げて、返還・賠償を求めたこと、A「次の世代」では、「プリアモスの子アレキサンドロスが、右の話を知って、ギリシァ人も補償しなかったのだから、自分もせずにすむだろうと考えたのであろうか、ギリシァから自分の妻たるべき女を掠奪してこようと思い立」(68頁)ち、ギリシァ側は返還・賠償を求めたが、アレクサンドロス側は「メディア掠奪の先例を楯」にこれを非難したので、ギリシァ側は、「大軍を集め、アジアに進攻してプリアモスの国を滅ぼし」たことから、「以後はギリシァ人の側に大いに罪があることにな」り、ペルシァは「ギリシァを自分らの敵であると考えている」(67ー8頁)とし始めたとされる。ペルシァ人には、このギリシァのイリオス(トロイエ)攻略が原因となって、「ギリシア人に対する敵意」(68頁)が生じたとする。ここでは、トロイエ戦争がギリシァとアジアの戦争(後に再術)と見て、ペルシァのギリシァへの敵意の淵源としたことが注目される。 次いで、リュディア国(前7世紀から8世紀にアナトリアにさかえた王国、首都はサルディス)王のクロイソス(前595年ー前547年頃)が取りあげられ、@「このクロイソスが、・・ギリシァ人をあるいは征服して朝貢を強い、あるいはこれと友好関係を結んだ、最初の非ギリシァ人(バルバロス)」(68頁)であり、「殷賑の頂点」(74頁)に達し、Aアテナイのソロン(前639年頃ー前559年頃)が訪問して、クロイソスはソロンに「そなたは世界一しあわせな人間であったか」と訊ねた所(74頁)、ソロンが、一番目は「アテナイのテロス」、二番目に「クレオビスとビトンの兄弟」だとして、クロイソスをあげなかったので、クロイソスはその理由を尋ねると、ソロンは、クロイソスが「莫大な富」をもち「多数の民」を統治しているが、「万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日暮しの者より幸福であるとは決して申せ」(76頁)ないとし、富と幸福の関連について、ソロンは、「腐るほど金があても不幸な者もたくさんおれば、富はなくても良き運に恵まれる者もたくさんおります」(76頁)とし、B「ペルシァの国勢が日に日に増大」すると、クロイソスの脅威となり、「ペルシァが強大になる前に・・勢力を抑え」ようとし(77頁)、クロイソスは、ギリシァの神託所に使者を送り(77頁)、「リビュアではアンモン(エジプトの神)のもとへ別の者を派遣」(78頁)して、現在の自分についての神託を求めた所、デルポイの神託が正しいとして、具体的に「ペルシァ征伐について神託を伺った」所、ペルシァ帝国を滅ぼすこと、ギリシァ最強国を同盟国にすることなどとされ(78頁)、C、当時のギリシァ強大国アテナイ、スパルタのうち、アテナイは、「非ギリシァ系」のベラスゴイ民族の一部であり、「ベラスゴイ人は、どの部族も強大になった例はないこと」、「僭主であったペイシストラトスの治下にあって、内に苦しみ分裂していること」などを知り、一方、「ラケダイモン(スパルタ)のほうは、非常な苦難を切り抜けたところで、今やテゲアをも制圧せんとする勢いにあること」を知り、スパルタと同盟することにし(88頁)、Dしかし、前547年、ペルシァのキュロス大王(前600年頃ー前529年)に敗れ征圧され、キュロスが、クロイソスノの火刑を免じ、ペルシァとの開戦を仕向けたのは何ものかと訊ねると、「私に出兵を促した」のは「ギリシァの神の仕業」(91頁)とし、Eクロイソスは仕えることになったキュロスに、リュディアの首都で掠奪し財宝を運び去るペルシァ兵に、「ゼウスに十分の一のお供えをせねばならぬ」(91頁)と言い渡せと助言し、Fデルポイに使いを立て、「ギリシァの神」を「どの神よりも一番に崇敬しておった」のに、なぜペルシァ戦争をそそのかしたのかを責めた所(92頁)、デルポイの巫女は、「クロイソスは4代前の先祖の罪」(主君を殺したギュゲスの罪)をあがなわされたこと、それでも「宿命の女神」のおかげで「サルディスの陥落」を3年遅らせ火あぶりのクロイソスを救ったこと、「クロイソスがペルシァに出兵いたせば、大帝国を滅ぼすとのみ予言された」ことなどと告げたので(93頁)、クロイソスは、「あやまちの責めは自分にあり、神にはないことを悟」(94頁)ったことなどが述べられる。Aで展開された議論は、今でも繰り返される「富と幸福」の原理的論点であり、Bはリュディアがペルシアに「やられる」前に開戦を決意し始めたことが簡単に指摘されていて、注目すべきである。 こうして「キュロスはクロイソスを征服することによって全アジアの支配者とな」(96頁)り、ここにアケメネス朝ペルシァが築かれた。そして、キュロスは「大陸をことごとく自分の支配下に収めると、今度はアッシリアの攻撃に向か」(101頁)い、さらに「アテナイを除いてイオニア(アナトリア半島南西部)の全土を平定」し「ペルシァの朝貢国」(クセルクセス1世の叔父アルタバノス言[250頁])とした。だが、キュロスは、バビロン攻略後のマッサゲタイ攻略戦で戦死した。 巻二では、キュロスの後を継いだカンピュセス(在位前539−前550年頃)が、「イオニア人およびアイオリス人を父からゆずられた奴隷のごとく見なしていた」(114頁)事が触れられる。この隷従ギリシァ人もエイプト遠征軍に加えられた。ここで、ヘロドトスはエジプトについて、プサンメティコス王(在位は前663−609年、第26王朝の祖)の「実験」(エジプト人が最古の民族であるか否かについての)、エジプト人最初の発明(暦、12神の呼称、初代の人間王)、地勢、健康法、旧慣墨守の習性、年長者尊敬の慣習、服装、予兆・占い、医術、葬儀、ミイラ加工法、河川魚の生態、蚊の対策、貨物運搬船、エジプト氾濫時の運行、ケオプス王(第四王朝)の圧制とピラミッド建造への国民苦役、次のミュケリノス王の善政と彼の不幸、次のアシュキス王のミイラ担保金融やレンガ・ピラミッドの建設などが述べられる。これは、ペルシァのエジプト侵略前の前史のつもりであろうが、枝葉末節的叙述が多い。エジプトで、祭司などから聞き書きする過程で多くの「逸話」的収穫があったので、これを付加したのであろうが、本論から見れば、ほとんど関係ない部分であり、省略すべき部分であったろう。 巻三では、興味深いダレイオスの即位過程が明かされる。まず、ペルシァ王カンピュセスが外征(エジプト、アンモンを攻略したが、カルタゴ、エチオピア征圧は失敗[135頁])し、その帰途、怪我で死期を悟って、「王位はアカイメネ家が継ぎ、祖母方のメディア家(97頁)に継がせてはならぬ」と遺言したことが触れられる(139頁)。 このカンビュセスの死後、一時期マゴス僧がペルシァを謀略で支配してきたが、7人のペルシァ要人がこれを打倒し、今後の国家運営について国制会議を開催した。ここでは、実に注目すべき国制論が展開される。オタネスは、独裁制は「秩序ある国制」ではないと批判し、「万事は多数者にかかっているから」、「大衆の主権を確立すべし」と主張したのである(148頁)。これに対して、メガビュゾスは、「なんの用にも立たぬ大衆ほど愚劣でしかも横着なものはない」として、「最も優れた政策が最も優れた人間によって行なわれることは当然の理なのだ」とし、「国事を少数者の統治(寡頭政治)にゆだねるべき」(148頁)だと主張した。一方、ダレイオスは、寡頭政治の弊害(指導者間に「敵対関係が生じやすい」)、民主政の弊害(「公共のことに悪がはにこる」)をあげて、「最も優れたただ一人の人物による統治」が最善だと主張した(148−9頁)。結局、7人中4人が最後の独裁制に賛成し、従来の国制がそんぞくすることになった。ギリシァの影響であろうが、ギリシァの都市国家においてのみならず、専制国家ペルシァですら民主政が議論されていたことは興味深いことである。 オタネスは辞退したので、6人のうちから「最も公正な仕方」(「一同騎乗して城外に遠乗りをし、日の出とともに最初にいなないた馬の主が王位がつく」)で国王を選定することになり、ダレイオスは、馬丁の画策で自分の騎乗した馬に最初にいななかせることに成功して、王位についた。即位すると、ダレイオスは、版図を20行政区に分け、各区に総督を任命し、納税額を定めた(152頁)。当時、アジアの東端はインドであり、まだ中国は知られていなかった。南方では、人類の住む最末端はアラビア」(155頁)であり、「子午線が西に傾いている方角では、エチオピアが人の住む世界の涯になる」(158頁)とされていた。やがて、ペルシァ人の通念では、「アジア全土はペルシァ領であり、歴代の王の領土である」(巻九、312頁)とされてゆく。ここに、このダレイオスはサモス攻略・バビロン攻略の外征に着手した。 巻四では、ダレイオスのスキュタイ(ウクライナ南部)遠征と撤退が触れられ(174頁)、スキュタイについて、神々(スキタイが祀る神として最も重んずるのがヘスティア[かまどの神]で、ついでゼウスとゲー[地の神]、さらにアポロン、ウラニア・アプロディテ[天上のアプロディテ]、ヘラクレス、アレスがある。これらは「スキタイ全民族が祀る神」であるが、「王族スキタイはさらにポセイドン[海の神]にも犠牲を供え」る)、肉の煮方、神への生贄、戦争の慣習、首級の扱い、行政区(三つの王国ー各区ごとに長官[169頁])、占い法(169頁)、占い師の死刑、誓約法、王陵(殉死者が多いこと[171頁])、衣類、旧慣墨守(「スキュタイ人も外国の風習を入れることを極度に嫌」い、「ことにギリシァの風習を嫌う」[175頁])、スパルタ依存(スキュタイ王がアナカルシスを「ギリシァの文物を学ぶために派遣」したが、アナカルシスは、「ギリシァ人はラケダイモン人以外はみなあらゆる学芸に余念なく専心しているが、まともな話のやりとりのできるのはラケダイモン人のもである」[17頁])などが述べられる。このスキュタイについても、本論とは無関係な部分が少なくない。 巻五では、@メガバゾス(ダレイオスからヨーロッパ駐留を命じられた)は、ぺリントス、トラキアを攻略し、マケドニアを従属させようとして、頓挫し(176頁)、Aミレトスの僭主アリスタゴラス(ミレトス[現在のトルコの南西部]の僣主代行をペルシア帝国から委任されていたが、ナスソス島反乱で追われてきた富裕層から兵力提供を申し込まれ、時のペルシア王ダレイオス1世の許可を得て、ナクソス島に派兵するが、遠征に失敗し、ここにペルシア帝国の責任追及を恐れて、ペルシア帝国に反乱を起こす)はスパルタ王クレオメネスに、同じギリシァ人として、ペルシァ隷従からの解放を嘆願し(188頁)、ペルシアと開戦して、「アジア全土を支配」し「ゼウスとでもその富を競う」ことを提案したが(189頁)、クレオメネスは、イオニア海岸からペルシァ大王まで進軍するのに3カ月かかることを知って、これを断り(190頁)、Bアルクメオン一族は、アテナイの僭主ヒッピアス(ペイシストラトス一族)を失脚させるべくスパルタを味方に引き入れて、奏功するが(192頁)、スパルタは、アテナイが「日に日に強大」となると、これに危機感を覚え、同盟諸国やヒッピアスを召集して、ヒッピアスのアテナイ復帰を画策する(193頁)が、同盟諸国の多くはこれに反対し、Cヒッピアスは、アテナイを「自分およびダレイオス王」の支配下におくために、策謀をめぐらしたのであった(199頁)。アテナイは、ペルシァ側に使者を送り、ヒッピアスを牽制するが、ペルシァ側は、あくまでヒッピアス復帰を要求した。アテナイはこれを拒絶し、「公然とペルシァに敵対する決意」を表明した(200頁)。Aでは、スパルタに対ペルシァ開戦を提唱するに際して、ペルシァの富が戦争の利益に据えられていることが注目される。 そして、ギリシァとペルシァにとっての「不幸な事件の発端」としてイオニア事件が語られる。アリスタゴラス(ミレトス[イオニアの中心]僭主)は、アテナイに来て、「アジアの資源の豊富なこと」や「対ペルシァ戦術」の要諦を説き、かつ「ミレトスはアテナイの植民地」だからアテナイ保護は当然として、ペルシァ開戦を提唱した。ここでも、アテナイに対ペルシァ戦争を促す理由として、アジア=ペルシァの富が据えられている。アテナイは同意し、20隻の軍船を派遣した(200頁)。これに乗じて、イオニア軍はサルディス(元リディア王国の首都)を占領し、町を炎上させ、「土地の氏神キュぺぺ(アジアで崇拝された大母神)の神殿」も焼失させた(203頁)。しかし、ペルシァ軍に追撃されて、イオニア軍は敗走したが、アテナイはイオニア救援を断念した。 以下、巻六から巻九までで、ようやくペルシャ戦争が記述される。 巻六では、前494年にミレトスはペルシァ軍に陥落し(204頁)、前492年ペルシァはマルドニアス司令官のもとに大軍でアテナイ、エレトリアを攻略するが、大暴雨で失敗し、前490年にペルシァは新司令官のもとにアテナイ、エレトリア攻略を企図することが述べられる(205頁)。つまり、@アテナイは、「ギリシァ最古の・・アテナイが、異民族によって隷従」されぬように、スパルタに救援を要請し、A一方、元アテナイ僭主ヒッピアスは、ペルシァ「騎兵の行動に最も好都合」で「エレトリアにも至近」(208頁)だとして、ペルシァ軍をマラトンに誘導したが、Bアテナイ軍は「ペルシァ風の服装」にも恐怖せず初めて「駆け足で敵に攻撃を試み」、マラトンの戦いで勇猛果敢な動きを見せて、アテネ(戦死者192人)はペルシァ(戦死者6400人)に勝利した(215頁)。ペルシァは、ギリシァ本土での戦闘で最初の敗北を味わったのである。 巻七では、ペルシァ大王ダレイオス1世は、このマラソン敗戦に「憤激」して「ギリシア侵攻にいよいよ気負い立」(224頁)ち3年間「最精鋭の兵士」を育成し遠征準備に従事した。だが、前486年にこのダレイオス1世が死去し、クセルクセスが即位すると、彼はまずエジプトを征圧し、エジプトを「ダレイオス時代よりもいっそう苛酷な条件で隷従」(228頁)させた。 これに勢いを得て、クセルクセスは、「ペルシァの国威の増強」と「産物に恵まれた領土」を加え、「アテナイ人どもが・・働いた数々の悪業の報いを思い知らしめる」ために、ギリシァ遠征に着手するとした(228頁)。さらに、彼は「ヨーロッパ全土を席捲し、これらの諸国をことごとく併呑」(229頁)するとした。国威と国土拡張=富増大と報復のために開戦を決意した。クセルクセスは独断を危惧して、一応重臣らに開戦是非を審議させると、叔父アルタバノスのみが慎重論を述べる。しかし、クセルクセスは「腰抜けの臆病者」(234頁)と断罪し、「われらが行動をおこさずとも、・・かならずやわが国に兵を進めてくる」、「今や双方とも後へは引けぬ。問題はこちらから仕掛けるか仕掛けられるかじゃ」(234頁)、「わが国土がことごとくギリシァ人の支配下に入るか、あるいは彼らの領土をすべてペルシァの版図に加えるかはそれによって定まる。われわれと彼らとの敵対関係には中途半端な解決はない」(235頁)とした。ここには、権力者が追い詰められえて開戦を決意したことが余すところなく語られている。 翌日、クセルクセスは、アルタバノスの意見は「もっとも」としてギリシァ遠征をいったんは中止した。だが、クセルクセス、アルタバノスは遠征中止を非難する夢を見て(236−8頁)、ギリシァ遠征は「神意に基づく」(アルタバノス、238頁)として、前480年遠征が決定された。 「遠征軍は有史以来桁はずれに大規模なもの」(239頁)であり、「さまざまな民族の混成部隊」(251頁)、騎兵隊、「槍を下方に向けて構えた部隊」、「神馬と神車」などからなる陸上部隊は170万人以上に及び、海上部隊は主力艦1207隻、各種船舶3千(253頁)に達した。さらに、「路々諸民族を強制的に従軍させ」(256頁)、陸上部隊規模はさらに膨れ上がった。 クセルクセスは、元スパルタ王デマラトス(在位前515年-前491年。ペルシァに亡命)にギリシァ遠征を諮問した。クセルクセスが、「全ギリシァ人のみならず、西方に住む他の民族が束になってこようとも、彼らが団結しておらぬかぎり、わしの攻撃を支えるに足る戦力は彼らにはない」から、「はたしてギリシァ人どもがあえてわしに刃向かい抵抗するであろうか」(253頁)と問うと、デマラトスは、「わがギリシァの国にとっては昔から貧困は生まれながらの伴侶のごときものでありました。しかしながらわれわれは叡知ときびしい法(ノモス)の力によって勇気の徳を身につけたのであります。この勇気があればこそ、ギリシァは貧困にもくじけず、専制に屈服することもなくまいったのでございます」、だから「ギリシァに隷従を強いるごとき殿のご提案は、絶対に彼らの受諾するところとはなりませぬ」(254頁)、特にスパルタ人は敵の兵力などに頓着せずに戦うと答えたのであった。 クセルクセスは、「一千の兵がこれほどの大軍を相手に戦う」などは「笑止」(254頁)であり、ましてや、「一人の指揮官の采配のもとに」なければ、たとえ5万人でも、「これほどの大軍に向かって対抗しえようか」(255頁)とする。デマラトスは、「(スパルタ兵は)自由」ではあるが、「法と申す主人」をいただき、「団結した場合には世界最強の軍隊」(256頁)だと反論する。 アテネ、スパルタを除いて、多くのギリシァ諸都市はクセルクセスの降伏勧告を受諾した。つまり、@「ペルシァ王の出兵は、名目上はアテナイを討つことになっていたが、その実は全ギリシァの征服を目指すものであ」り、ギリシア人は早くからそのことを知っていたが、この事件をギリシァ人全部が一様に受け取ったわけではな」(256頁)く、Aヘロドトスは、アテネ海軍がなく、海上でペルシァ海軍をおさえるものがなく、「ペルシア海軍によって都市を次から次に占領されてゆけば」、「ラケダイモンは孤立無援の状態に陥り」、「玉砕するのほかはなかった」(257頁)として、「アテナイがギリシァの救世主であ」(257頁)り、アテナイ人は「ギリシァの自由を保全する道を選び、ペルシァに服さず残ったあらゆるギリシア人を覚醒させ、神々の驥尾に付してペルシァ王を撃退し」(257頁)たと高く評価し、Bアテナイへのデルポイ神託は「町は悉く火に焼かれ、滅びる」というものであり、これではまずいと、改めてアテナイ神託使は巫女に神託を願うと、アクロポリスと土地が敵の手に落ちても、ゼウスは、「不落の砦」として「木の砦」を賜うこと、敵の大軍に退避しても「反撃に立ち向かうときもあ」ること、サラミスは「女らの子らを滅ぼす」とした(258−9頁)。 アテナイ・アルコンのテミストクレス(彼の提言で、ラウレイオン銀山の収益を国民に分配せずに、2百隻の船を建造;彼は、アテネ海軍国の立役者)は、「女らの子らを滅ぼす」とは「敵をさしたもの」(260頁)とし、ひるむことなく海戦の準備をせよとした。これに基づき、「アテナイと志を同じくする他のギリシァ人との協力のもとに国の総力を挙げ」、ペルシア海軍を迎え撃つことにした。ギリシァ諸都市は、コリントスの会議で、「同族間の争いをやめ、ギリシァ諸都市が一丸となって敵にあたる」(260頁)ことを決議した。 しかし、ペルシァ海軍はセピアス岬で大暴雨風にあい、艦船4百隻を失ったが、テルモピュライでの戦闘ではペルシァ陸軍300万人(墓碑銘、273頁)のペルシァ陸軍に向かうアテナイ側の「先陣」は僅か5千人余(スパルタ3百人、ラゲア・マンティネイア千人、アルカディア各地千人、コリントス4百人、プレイウス2百人、ミュケナイ80人、ボイオテア1100人、ポーキス千人など)に過ぎなかった。クセルクセスはこれに勝機があるとみたであろう。この小規模軍事力は、当時、ギリシァ諸国はオリンピック祭礼直前で、派兵は禁止されていたので、先遣部隊だけしか出動できなかったことによる。「国ごとにそれぞれの指揮官」がいたが、全軍の指揮に当たったのはスパルタ王のレオニダスであり、彼は、精選された親衛隊「三百人隊」を率いていた(262頁)。 クセルクセスは、「ラケダイモンの部隊」が「体育の練習」をしたり「頭髪に櫛を当てたり」しているとの斥候の報告を受け、この動きを「笑止」とみて安堵した。だが、デマラトスは、この「頭髪の手入れ」とは「生死を賭した」仕事の前の慣習であり、「進入路を賭して」ペルシァ軍と戦う準備をしているのだと警告した。だが、クセルクセスは、「こればかりの兵力で、いかにして自分の軍勢と戦うのであろうか」として、納得しなかった(264−5頁)。そこで、クセルクセスは、まず「メディア人およびキッシア人部隊」に襲撃させたが、ギリシァ側の巧みな「後退戦術」で「メディア人部隊が手痛い目にあわされ」、今度はペルシァ人部隊の「不死隊」(アタナトイ)が攻撃に駆り出された。だが、槍が短く、「メディア人部隊以上の戦果を挙げることはでき」なかった。 さらに、「ギリシァ方は隊列を敷き国別に陣形を整え、入れ替わり立ち替りして戦」い、この巧みな戦術にペルシァ軍は戦況好転させえず、ついに引き上げ退却した(266頁)。だが、「莫大な恩賞」をめあてに「テルモピュライに通じる間道」を王に教える者がでて、ここにギリシァ軍は不利な激戦を強いられ、レオニダスらスパルタ軍は戦死した。 巻八では、ペルシァ大敗北に追い込まれたサラミス海戦が叙述される。 総指揮官のスパルタ提督エウリュビアデスのもとにギリシア連合艦隊の主力艦271隻がアルテミオンを目指した(276頁)。アテナイ指揮官テミストクレスは、「同盟諸国の中にアテナイに反感を抱く者が多」いので、総指揮官にはなれなかった。 ペルシァ陸軍はアテナイに進入し、アクロポリスを焼き払ったので(276頁)、サラミスのギリシァ海軍は、逡巡してか、「地峡の前面」に移動して、海戦をおこなうことになった。これを聞いて、ギリシァ海軍のムネシピロスはテミストクレスに、「艦隊をサラミスから引き揚げれば・・各部隊はそれぞれ自国へむかう」ので、水軍四散を防止するために、総指揮官エウリュビアデスに艦隊をサラミスにとどめるように説得することを要請した(277頁)。早速指揮官会議を招集して、テミスクレスはサラミス海戦の有利性を説き、自説が入れられなければ、アタナィ艦船2百隻を引き揚げると恫喝したので、エウリュビアデスはサラミス海戦に同意した(280頁)。 こうした「危機に瀕したギリシァの運命を憂い」、「ラケダイモン人とアルカディアの全兵力、エリス人、コリントス人、シキュオン人、エピダウロス人、プレイウス人、トロイゼン人、ヘルミオネ人」(284頁)が来援した。彼ら「地峡の部隊」は「祖国の興廃を賭した勝負を争っていることを自覚」し、「水軍による成功には期待すること」はなかった(285頁)。それでも、「サラミスに在るギリシァ軍指揮官たちの間では激しい論争がつづけられてい」(288頁)て、アテナイ人のアリステイデスは、会議場で、「ギリシァ軍の陣地はクセルクセスの水軍によって完全に包囲されているから・・抗戦の準備にかかるべきである」(289頁)と主張した。まだこれを信じる者は少なかったが、テノス人の軍船が「敵方から脱走」して、「この船が真相を余すことなく伝えた」(289頁)ことが判明したのである。380隻からなるギリシア艦隊は、このテノス情報を信じて、「海戦の準備」に入った。 一方、新たに「マリス人、ドーリス人、ロクリス人、・・ボイオティア人(テスピアイとプラタイアを除く)の各部隊、さらにカリュストス人、アンドロス人、テノス人」などがペルシァ陸軍に加わり、「暴風雨による被害、テルモピュライおよびアルテミシオン海戦における損失を補」った(281−2頁)。ペルシァ船団にはクセルクセス自ら訪問して、「シドンの王、テュロスの王」など「各国の僭主と部隊長」を招集し、海戦の是非を問う会議を開催した。「いずれも海戦を行なうべし」と主張したが、ハリカルナッソス女王のアルテミシアだけは「水軍を温存し海戦はなさらぬように」(282頁)と慎重論を唱えた。クセルクセスは、一人堂々と少数意見を開陳したアルテミシアを賞賛したが、サラミス海戦を中止することはなかった。だが、事態はアルテミシアの主張するように動いた。大王自らが海戦を観戦していたので、表面ではペルシァ海軍は「大いに戦意を燃や」さざるをえなかったが、「ペルシァ軍はすでに戦列も乱れ何一つ計画的に行動することができぬ状態」であったから、「ペルシァ軍艦船の大部分」は「整然と戦列も乱さずに戦った」ギリシア海軍に「航行不能」にさせられた(290頁)。しかも、「前線の艦船が逃亡を始めるに至って、ペルシァ艦隊の大半は撃滅の憂き目にあ」(292頁)った。「この海戦でギリシァ人中最も名をあげた」のはアイギナ人で、次はアテナイ人であった(294頁)。 かくして「この海戦に関してバキス(「軍神は血潮にて海を紅に染めべく・・勝利の女神が、ヘラスの国に自由の日をもたらしたもう」[287頁]という託宣)やムサイオスの告げた託宣がことごとく成就した」(295頁)のであった。ギリシァ軍は、神々の託宣に一定度鼓舞されながら戦っていたのである。神々が大きな影響力を持っている時代の戦争は、どこの国でも同じであり、日本でも、神武天皇の東征はもとより、内外の戦争でも天照大神らの神々が影響力を発揮していた(『日本書紀』上[『日本古典文学大系』67、岩波書店、昭和42年])。 だが、クセルクセスは本国に引き上げたが、ペルシァの将軍(陸軍司令官)マルドニオスは「なおもギリシァ征服の野心を捨てず」、30万人の軍勢とともにギリシァに残留した。テッサリアで冬営中のマルドニオスは、マケドニアのアレクサンドロスを使者に立て、アテナイに「和平の提案を試みた」が、アテナイに和平受諾の意思なく、アテナイはスパルタとともに協力してペルシァに対応することになる(295頁)。 巻九では、プラタイア、ミュカレの陸上戦でペルシァがギリシァ軍に敗北することが取り上げられる。 ペルシァ陸軍司令官マルドニアスがアテナイに進駐したが、@スパルタ軍の進発したとの報を受け、マルドニアスはアテナイを焼き払って、アッティカを引き上げ(298頁)、Aスパルタ軍にペロポネス諸国部隊、アテナイ部隊(サラミスからの)が加わり、総兵力11万人でプラタイアに戦列を敷き、ボイオティアのアソポス河畔に陣取ったペルシァ軍30万人、ペルシァ側に加担したギリシァ軍5万人と対決した。11日目、マルドニアスは我慢できずに攻撃に着手したが、「かねてからギリシァに好意を寄せていたマケドニアのアレクサンドロスは、ひそかにアテナイの陣営を訪れて、翌日ペルシァ軍が攻撃に出ることを知らせて激励し」ていた。12日目に戦端が開かれ、ギリシァ側は初めは敗走したが、アテナイ軍のパウサニアスが「はるかにヘラの神殿を望んで神助を祈る」と、戦局が好転し、スパルタ軍がマルドニオスを倒し、ペルシァ軍を壊滅し、生存者は僅か3千人に過ぎず、Aこのプラタイア敗戦と同じ日に、ペルシァ軍は、イオニアのミュカレで痛撃を蒙った。 ギリシァ水軍(司令官はスパルタ人レウテュキデス)がデロスに停泊している時、サモスからペルシア軍とそれが擁立した僭主に内密に三人のギリシァ人が来て、「彼らが共通して尊崇している神々の名を呼び、同じギリシァ人である自分たちを隷属の状態から救い出し、ペルシァ人を撃退してほしい」(300頁)とした。そして、「生贄がギリシァ軍に吉兆を現わすと、ギリシァ水軍はデロスを発ってサモスに向かった」(302頁)のである。 ペルシァ軍は評議して「海戦を避けるのが得策」だとして、本土に去った。これを知ったギリシア水軍はミュカレに向かい(303頁)、ミュカレに着くと、ギリシァ軍はペルシァ軍に進撃を開始し、「ギリシァ軍がマルドニオス軍とボイティアで戦い、これを破った」という風説が伝わった。「プラタイアにおけるペルシァ軍の敗戦と、ミュカレでまさに起らんとしていた惨劇とが奇しくも日を同じくし、風説がミュカレのギリシァ軍に伝わった結果、軍勢の士気がにわかに揚がり、いよいよ危険をものともせぬ気概が高まった事実」を踏まえて、ヘロドトスは、「人間界の出来事に霊妙な力が働く」(304頁)とした。プラタイアの戦場とミュカレの戦場にも「付近にエレシウス(アテナイ近郊)のデメテル(オリュンポス十二神の一つ、豊穣神)の社」があったということである。この二つの戦いが「同じ月の同じ日に起った」(305頁)ことも神妙とした。 こうしたペルシァ劣勢で、イオニアはついにペルシァ軍を殺戮し、「イオニアはまたしてもペルシァに反乱を起こした」(306頁)のである。こうした状況にも拘らず、クセルクセスは弟マシステスの妻に横恋慕して、結局、マシステスの反乱を招き、彼を殺害し(307−310頁)、末期的症状を呈していた。 一方、アテナイ軍は、「苛酷で無法な男」アルタユクテスの支配する「堅固な城壁」のあるセストスを包囲した。包囲戦が長引くと、アテナイ軍は士気を阻喪したが、籠城するペルシァ側は食糧を失い、夜陰に乗じて逃亡した(312頁)。ギリシア軍は追撃して彼らを生け捕り、「捕虜を数珠繋ぎにしてセストスに送」り、アルタユクテスとその子供を処刑した(313頁)。 ヘロドトスは、最後に、処刑されたアルタユクテスの祖先アルテンバレスとキュロスの対話でペルシァの好戦性の源泉を明かして、本書を終える。ペルシァ人に取り上げられ、キュロスに伝えられたアルテンバレスの意見とは、「ゼウス(ペルシァの主神でギリシァの主神ではない)はペルシァ人に、個人としてはキュロスさま・・に、・・(アジアの)覇権を与えようとのお志」なので、「狭い荒地」から「もっと良い土地に移り住もう」という提案であった。これに対して、キュロスは、「柔らかい土地からは柔らかい人間が出るのが通例」だから、「そのようにする場合には、自分たちがもはや支配者とはなれず他の支配をこうむることを覚悟しておけ」とした。これを聞いて、ペルシァ人は、「平坦な土地を耕して他国に隷従するよりも、貧しい土地に住んで他を支配する道のほうを選んだ」(314頁)のである。ペルシァ人は、平和でなく、戦争をえらんだとしたのである。 3、最後に、既述部分は除いて、このペルシァ戦争にも神々がかかわっていたことをまとめておこう。トロイエ戦争もペルシァ戦争も神々が深く関わっていたが、ホメロス『イリアス』が根拠のない叙事詩であったのに対して、このヘロドトス『ヒストリエ』は探究・見聞に基づき、神々と戦争との係わり合いもそうした探究・見聞に基づいていた。 例えば、ヘロドトスは、ギリシァのサラミス海戦に際して、@サラミス海戦を説くアテナイ指揮官テミストクレスは、「理にかなわぬ計画を立てるときは、神も人間の思惑に同調してくださらぬのが常なのだ」(279頁)とし、Aサラミス海戦に備え、「よろずの神々に祈願した後、サラミスからはアイアス(サラミス島の王テラモンの子で、トロイア戦争に参戦した英雄)およびテラモン(アイアスの父)の加護を請」(280頁)い、Bディカイオス(ペルシァA亡命したアテナイ人)は、「無人となったアッティカの地」で「砂煙」を見て、エレシウスの秘儀の「イアッコスの叫び」と見て、「大王の軍勢に一大災厄」がふりかかるとし(280頁)、「この砂煙と声はやがて雲に変じ、空高く上ってサラミスのギリシァ軍の陣営にむか」い、「クセルクセスの水軍が滅亡する運命にあることを悟った」(281頁)のであると叙述している。 こうしたことはペルシァ側にも看取され、ヘロドトスは、@ヘレスポンテスでの架橋(アジアとヨーロッパを結ぶ)が「猛烈な嵐」で破壊されると、クセルクセスは、「野蛮不遜の言葉」とともに、海に三百の鞭打ちの刑を加え」(244頁)たり、A架橋が完成し、遠征軍が進発すると、日食となり、「ペルシァでは未来のことを示してくれるのは月であるが、ギリシァでは太陽であるから、これは神がギリシァ人に対してその町々の消滅を予示されたものである」(246頁)とし、B、渡海の朝、クセルクセスは、「日が昇ると、クセルクセスは黄金の大盃で海中に献酒をそそぎ太陽に祈願」して「ヨーロッパ征服を妨げるような事故が一つも起らぬようにと祈った」(251頁)た。そのほかにも、クセルクセスはペルシァ重臣に、「この戦いに懸命の努力を致」せとし、「今や、ペルシァの国土をしろしめす神々に祈願を籠めた後、かの地へ渡ろうではないか」(251頁)と鼓舞したと記している。 三 ペロポネソス戦争 当時において、上記ペルシァ戦争が史上最大の国家間大規模戦争だったとすれば、ペロポネソス戦争(前431年 - 前404年)は史上最大の都市国家間戦争であった。上述の通り、前者はヘロドトスによって取りあげられ、後者はトゥキュディデス(前460年頃 - 前395年)によって考察された。 1、トゥキュディデスとペロポネソス戦争との関わりを初めに見ておくと、前444−3年に、へロトドスは、「サモス逗留ののち、黒海沿岸、スキュティア、マケドニアなどの北方諸地域、バビロン、テュロスなどの東方文明の都、さらにエジプトからリビュアの史跡探訪の旅を終わり」、「ペリクレスの治めるアテナイにやってき」(トゥキュディデス『戦史』[久保正彰訳、『世界の名著』5、中央公論社、昭和51年、訳注515頁])た。この時、「若いトゥキュディデスはヘロドトスの歴史朗読を聞いて大いに感動」したらしいといわれる。だが、そう単純ではあるまい。確かに、ヘロドトスがペルシァ戦争の淵源を過去に探ったり、事実に基づいて実証的に考察する方法には感銘したであろうが、戦争に無関係な逸話を挟んだり、根拠となる見聞などにかなり疑義があり、何よりも戦争の悲惨さの叙述が弱く、こういう民衆に惨害を与える戦争を二度と起してはならないという姿勢が希薄であることなどには疑問と批判を覚えたであろう。だから、前者の感銘というより、後者の疑問と批判のほうが、トゥキュディデスの執筆意欲を刺激したと思われる。 やがて、トゥキュディデスはアテナイの将軍に任命された。前424年には、トゥキュディデス将軍は、守備していたトラキア地方のアンピポリスをペロポネソス側に奪われ、アテナイは彼を追放刑に処した。彼は、以後「20年の生涯を亡命生活に過ごすことになり、その間に両陣営の動きを観察し、とりわけ、亡命者たることが幸いしてペロポネソス側の実情にも接して、経過の一々をいっそう冷静に知る機会にめぐまれた」(トゥキュディデス『戦史』448頁)と記している。彼は、「この全期間を通じて、成年に達していたので分別もあり、また、正確に事実を知ることに心を用いつつ、体験を重ねてきた」(トゥキュディデス『戦史』448頁)のである。前404年、追放解除令が出て、トゥキュディデスは20年ぶりにアテナイに戻ってきた。だが、彼の『戦史』は前411年のシキリア大遠征の記述で終わり、終戦の前404年まで及んでいない。なぜであろうか。 前405年、ペロポネソス戦争最後の海戦アイゴスポタモイの戦いで、名将リュサンドロス率いるラケダイモン(スパルタ)軍に完敗し、前404年にはラケダイモン軍の進駐と監視のもとに「三十人僭主」が誕生し、前403年に崩壊して民主政が復活するも、もはやアテナイに勢力はなかった。この海戦や三十人僭主制を叙述しなかったのは、彼は前411年までの記述で本書執筆の目的は達成されたと考えたからではないか。そもそも彼はどういう叙述目的をもっていたのか。 2、「古人はペルシァ戦争とペロポネソス戦争の作者二人を表裏一体の像として刻んでいる」(久保正彰「トゥキュディデスとペルシァ戦争」[『西洋古典学研究』19、1971年])といわれるが、ヘロドトスとトゥキュディデスとの間には大きな相違がある。第一は、トゥキュディデスが初めて端緒的ながら民衆の視点を導入し、戦争が民衆・市民・兵士らに与えた悲惨さを叙述したということである。 トゥキュディデスは、「開戦劈頭いらい、この戦乱が史上特筆に値する大事件に展開することを予測して、ただちに記述をはじめた。当初、両陣営ともに戦備万端満潮に達して戦闘状態に突入したこと、また残余のギリシァ世界もあるいはただちに、あるいは参戦の時機をうかがいながら、敵味方の陣営に分れていくのを見たこと、この二つが筆者の予測を強めたのである。じじつ、この争いはギリシァ世界にはかつてなき大動乱と化し、そして広範囲にわたる異民族諸国、極言すればほとんどすべての人間社会をその渦中におとしいれることにさえなった」(317頁)と、ペロポネソス戦争を「ほとんどすべての人間社会をその渦中」の陥れた「大動乱」と評価したのである。そして、「今次大戦では、その期間も長きにわたり、またそのため、これに匹敵する期間にかつてギリシァがなめたこともないほどの惨害が全土に襲いかかった。じじつ、これほど多数の都市が、異民族やギリシァ人自身の攻撃をうけ、はては奪われ荒廃に帰した例はかってなかった。この戦争や内乱のために、未曾有の数の亡命者、多量の流血がくりかえされた」(332頁)としたのである。 戦争が民衆(史料的限界からか、実際には兵士らにかたよりがちになったが))に与える悲惨な影響を叙述すること、これが、彼の叙述目的の一つだったのであり、故にそのペロポネソス戦争の悲惨さの掉尾を飾るものこそシケリア大遠征の敗北だったということになるのではなかろうか。 3、こうした歴史叙述に信憑性をたかめるために、トゥキュディデスはヘロドトスとは異なり、論旨展開をペロポネソス戦争に絞込むのみならず(ヘロドトスの叙述には論旨に無関係なものが少なくなかった)、次のように何よりも史上初めて史料批判を行なったのであった。 まず、伝承史料について、@「誤伝はじつに多く・・現在の出来事についてすら誤報がひんぱんに生」(330頁)じているのに、「人間は、古事にまつわる聞き伝え」を「無批判な態度」で受け入れ、「大多数の人間は真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳をかたむける」(330頁)と批判し、A「論証を重ねて解明」するという態度に基づけば、「古事を歌った詩人らの修飾と誇張にみちた言葉にたいした信憑性を認めることはできない」(330頁)と詩歌戦史(例えば、ホメロス『イリアス』)を批判し、B「伝承作者のように、あまりに古きにさかのぼるために論証もできない事件や、おうおうにして信ずべきよすがもない、たんなる神話的主題をつづった、真実探究というよりも聴衆の興味本位の作文に甘んじることも許されない」(330頁)とする。こうした史料批判によって、彼は、「いずれをも排し、もっとも明白な事実のみを手掛りとして、おぼろな古事とはいえ充分史実に近い輪郭を究明した結果は、当然みとめられてよい」としたのである。 そして、彼は、「おうおうにして人間は、自分がその渦中にあっていま戦いつつある戦争こそ前代未聞の大事件であると誤信する。そして戦争が終り、直接の印象が遠のくと、古い事績にたいする驚嘆をふたたびあらたにするものである。しかし印象ではなく結果的な事実のみを考察する人々には、今次大戦の規模がまさに史上に前例のない大きいものであったことがおのずと判明するだろう」(331頁)と、事実としての戦史によってこそ、ペロポネソス戦争の「史上前例のない」大規模性が明らかになるとした。だが、100万人以上のペルシァ軍が加わったペルシァ戦争の方が大規模であったにもかかわらず、彼がペロポネソス戦争の大規模性を強調するのは、その戦争被害の悲惨さを強調するためであろう。実際にはペルシァ戦争のほうが悲惨であったろうが、ヘロドトスはペルシァ戦争の悲惨さを記録として残さなかったので、それについて知ることはできない。 次に、トゥキュディデスは、演説記録を重視し、多くの演説を引用している。ここでも、彼は、「戦闘状態にすでにある人やまさにその状態に陥ろうとする人が、おのおのの立場をふまえておこなった発言について、筆者自身がその場で聞いた演説でさえ、その一字一句を正確に思い出すことは不可能であったし、またよそでなされた演説の内容を私に伝えた人々にも正確な記憶を期待することはできなかった」と、この演説史料の限界を明確に指摘した上で、「政見の記録は、事実表明された政見の全体としての主旨を、できうるかぎり忠実に、筆者の目でたどりながら、おのおのの発言者がその場で直面した事態について、もっとも適切と判断して述べたにちがいない、と思われる論旨をもってこれをつづった」(331頁)と、彼が自己判断で演説史料を適切に処理したと言明した。 最後に、「「戦争をつうじて実際になされた事績」の扱いについて、彼は、@「たんなる通りすがりの目撃者からの情報」を「無批判に記述すること」を慎み、A「主観的な類推」は排除し、B私自身の「目撃」や「人からの情報」の場合には、「敵味方の感情に支配され、ことの半面しか記憶にとどめないことが多」いので、「個々の事件についての検証は、できうるかぎりの正確さを期」し、C「読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産」となることを期して、「伝説的な要素」を排除するとした(331頁)。 4、ヘロドトスがギリシァとペルシァの対立の淵源を過去に遡ったように、トゥキュディデスもまたこれを受け継いで、アテナイとスパルタの対立の淵源を過去にさぐり、「往古の事績」(329頁)を究明し、今次大戦に比べて、過去の戦争は大規模なものでなかったとした。 彼は、ペロポネソス戦争の大規模性を強調するために、「今次大戦以前に起った諸事件や、さらに古きにさかのぼる出来事については、時の隔たりも大きく、厳密に事実を確かめることは不可能であった。しかし及ぶかぎりの古きにさかのぼって筆者がなしたもろもろの考証から、信ずるにいたった推論の帰結を述べるなら、戦争をはじめとする往時の諸事績は、けっして大規模なものであったとはいいがたい」(317頁)とする。 彼は、以前の諸事績が大規模でなかった理由として、「現在『ヘラス』の名で呼ばれる土地に住民が定着するようになったのは、比較的に新しい時代のことであ」り、「これより古くは、住居は転々として移り、個々の集団は、より強大な集団によって圧迫されると、そのつどそれまで住んでいた土地を未練なく捨てて、次の地に移」り、「交易もおこなわれ」ず、「また陸路や海上の便によってたがいに安全に往来することもな」く、「かれらは各集団ごとに、ただ生活をいとなむに足りるだけの土地を領有していた」(318頁)ことなどをあげる。 さらに、アテナイ海軍が強大になったのは最近のことだとする。トロイエ戦争後にギリシァ海軍が増強され、@貿易が発展し、「諸都市で僭主が台頭」し、「ギリシァ各地には海軍が組織」(326頁)され、A前700年頃、コリントスが三段櫂船を始めて建造し、コリントスは「陸狭地帯に都市を営み、きわめて古くから通商の中心を占め」、「富み豊かなる地」となり、貿易に進出して「海陸両面における商業活動の中心」(326頁)となり、Bペルシァ王キュロス、カンビュセス時代、「イオニア人も強力な海軍をも」ち、サモス島僭主ポリュクラテスも「海軍力を充実」(326頁)し、Cアテナイでは、アイギナとの戦いと「ペルシァ勢の侵入が目前に迫」り、テミクレトスが軍艦建造を提唱し、これでようやく海軍国となり、こうした海軍増強で、「物質的な収益や版図の拡張を得て、侮り難い勢力」(327頁)になったとした。 陸軍については、ギリシァでは、陸上戦は「隣国間の争い」にとどまり、遠征をすることはなかった。ギリシァの諸都市は現状維持をはかり、「為政者はいずれも、自分や一族の発展を望む私欲のみにあけくれていた」(328頁)から、「自国領の周辺の住民らを攻める以外には、けっして領地をはなれて兵をすすめ、大きな成果をあげたものはなかった」とする。ただラケダイモンだけは例外であり、@ラケダイモンは、アテナイなど「ギリシァほとんどの地方」の僭主の「大多数」を「追放」(328頁)し、A「ラケダイモン人は、今次大戦(ペロポネソス戦争)が終わるまでの四百余年にも及んで同一の政治形態を固執しており、これによって自国の力を充実させ、また他の国々の秩序回復のために干渉することができた」(328頁)とする。 では、トゥキュディデスは、海軍国アテナイ、陸軍国ラケダイモンが参加したペルシァ戦争の規模をどう見たのか。トゥキュディデスは、@マラトンの戦いから10年目、ペルシァは再びギリシアを「従える」ために、「大軍を率いて侵攻」(328頁)したが、スパルタ、アテネを中心に「全ギリシァ人は一致協力してペルシァ勢撃退に成功」し、Aペルシァ戦争後、ギリシァ諸国は、陸軍で覇を唱えるラケダイモン陣営と、海軍で覇を唱えるアテナイ陣営にわかれ(328頁)、B「わずか二度の海戦(アルテミシオン、サラミス)と二度の陸戦(テルモピュライ、プラタイア)によって、すみやかに勝敗が決した」(332頁)と、大規模性を控えめに評価する。なぜ、トゥキュディデスは、ペルシァ戦争の規模を過小評価するのか。 5、トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争が勃発した理由ついて、過去のラケダイモン陣営とアテナイ陣営の対立を探った後に、ペルシァ戦後の複雑な関係を考察する。まず、彼は、@ペルシァ戦後、アテナイはあくまでペルシァ対決を第一義としていて、「ギリシァ同盟財務官」となり、前477年にデロス島に同盟財務局を置き、「第一段階としてペルシァ人追討のために、どの加盟国が軍資金、どの国が軍船を供給するべきかを決め」(339頁)、同盟諸国に義務履行を苛酷に要求し、「年賦金や軍船の滞納、・・全面的な参戦拒否」などを経て、同盟国が離脱すると、アテナイはこれを「城攻め」し「隷属国」とし(340頁)、Aさらに、アテナイは、反ペルシァ作戦に従事し、例えば、前459年にイナロス(リュビア王)がペルシァに反乱し、「エジプトの過半を離反」させ、アテナイに助勢を求め、アテナイはこれに応えて、キュプロス攻撃を中止して、ナイル川を遡上した(344頁)が、前454年ギリシァ勢はペルシァ反撃で壊滅し(347頁)、「沼沢地」を除いてエジプトは再びペルシァ支配となった。 しかし、ラケダイモンは、「ペルシァ戦におけるアテナイ人の勇敢さを高く買っていた」から、まだアテナイとラケダイモンの友好関係は維持されていた。前462年、スパルタは、「攻城戦」に得意なアテナイに自らの「国有奴隷」反乱の鎮圧に助勢を求めてきたので、アテナイはキモン指揮下に援軍を派遣したが(343頁)、アテナイ勢はこれを攻略できず、ラケダイモンはアテナイ勢は信頼できずとしてこれを帰還させた。これで「ラケダイモン人とアテナイ人との友好関係にはっきりとした裂け目が入ることとなった」(343頁)とし、アテナイはこれを屈辱として、「ペルシァ戦役にさいして両国間にむすばれていた同盟条約を破棄」し、「ラケダイモンと交戦状態にあるアルゴス」と同盟を締結した(343頁)。 前451年、ペロポネス同盟とアテナイとの5年間の休戦条約を締結し、これでアテナイは、ペロポネソス同盟を気にせず戦争できることになり、@前450年アテナイはキモンを指揮官としてキュプロス島を船2百隻で攻撃し、キモンは殺されたが、アテナイ側は勝利し(348頁)、A一部60隻は「エジプトの沼沢地の王アミュルタイオス」の支援に向かい、B「神聖戦争」(デルポイの支配をめぐる)では、アテナイ、ラケダイモンの正面衝突が回避され、Cアテナイ、デロス同盟国は、ボイオティア数箇所に籠城したボイオティア亡命者を征圧しようとしたが、敗北し、「ボイオティアの亡命者たちは故国に復帰し、残りのボイオティア諸地方もふたたび独立自治権を回復」(349頁)し、Dこれを機にか、前446年にエウボイア、メガラが離反し、ラケダイモンらペロポネス勢のアッティカ侵入計画が露見したが(349頁)、ペロポネス勢は「深入り」せず「本国へ引きあげ」ると、アテナイ勢はペリクレス指揮官のもとにエウボイアに派兵して、「全島を屈服」(350頁)させた。 前446年、アテナイは、「エウボイアから手を引い」た後、「ラケダイモンとその同盟諸国とのあいだに、三十年間休戦の和約をむす」(350頁)び、アテナイは、「ニサイア、ペーガイ、トロイゼン、アカイア」をペロポネソス側に返還したが、和平後の6年目のサモス事件後、「ケルキュラ紛争(前433年)、ポテイダイア紛争(前432年)」など「今次大戦の直接的原因となったもろもろの事変」が勃発したとする(351頁)。トゥキュディデスは、今次大戦は、「アテナイ人とペロポネソス人が、エウボイア島攻略ののち両者のあいだに発効した和約(前451年)を破棄したときに、はじまった」とした。 このように、トゥキュディデスは、アテナイは、クセルクセス撤兵(前479年)からペロポネソス戦争勃発(前431年)までの50年間に、こうした幾つものの事変が起り、この過程でアテナイは「その支配圏をますます強固な組織となし、・・いちじるしい勢力拡張をとげ」(352頁)たにもかかわらず、ラケダイモンは、「自国の内乱」に釘付けにされ、「万やむをえざる場合を除いて、急いで戦いにおもむくことを好まぬ」ので、終始「静観」していたとする(352頁)。そして、トゥキュディデスは、開戦の究極的理由として「アテナイ人の勢力が拡大し、ラケダイモン人に恐怖をあたえたので、やむなくラケダイモン人は開戦に踏み切った」とし、開戦決定の「直接の誘因」としては前記和約解消のほかに、アテナイとコリントスがコリントス植民地(ケルキュラ、ポテイダイア)をめぐって交戦状態に入り、前432年7月頃、「両事変において苦杯を喫したコリントスは、スパルタにおけるペロポネソス同盟参加国開催を要求」し、「近年のアテナイの侵略行為に関してアイギナ、メガラ、コリントスらの被害者国が非難の演説」をし、その後、ラケダイモンだけの会議を催し、老王アルキダモスは慎重論を唱えたが、監督官ステネライダスは開戦即決主義を唱え、同年8月頃、同盟国参加国全員の代表を招集して、対アテナイ戦を決定したとした(333頁)。 ラケダイモンは、こうした和約破棄・アテナイ侵略主義を受けて、「デルポイに使者を送り、開戦するべきか否かを神に尋ねた」所、「神はもしかれらが全力をつくすなら勝つであろう、そして神みずから、かれらが祈れば力をかす、祈らずとも加護を与える、という神託を与え」(352頁)、ここに、@ラケダイモンが、「アテナイがすでにひろくギリシァ各地を支配下にしたがえているのをみて、それ以上のかれらの勢力拡大を恐れ」(333ー4頁)て、「やるかやられるか」という切迫した状況で開戦を決定し、前432年夏、ペロポネソス同盟諸国は、対アテナイ戦決行を票決し、戦争準備に着手しつつ、B同盟盟主国ラケダイモン(その首都がスパルタ)はアテナイに使節を派遣して、政治的譲歩をアテナイに迫り、ポテイダイアからの撤退、アイギナ自治権返還、メガラ禁令解除などを要求し、最後のラケダイモン使節は、「諸君がギリシァ人に自由を返してやるならば、まだ平和の可能性がある」(352頁)と、アテナイを自由侵犯者とし、これが対アテナイ戦争の大義名分であることを明示した。 アテナイでは、戦争回避論もあったが、ペリクレスは、「アテナイの国是を守るためには戦いを辞すべきではない」、「今回の大戦は武器と武器の衝突ではなく、海洋貿易、年賦金、海軍力に拠って立つアテナイと、農業本位のペロポネソス同盟諸国との、経済的持久力の争いとなるであろう」(352頁)とし、経済力のあるアテナイに勝ち目があるとみていた。ぺリクレスの有名な「葬送演説」(前431−0年にかけての冬)では、「従う属国も盟主(アテナイー筆者)の徳を認めて非をならさない」とし、「祖国のために戦ってあっぱれの勇士の振舞いをとげれば、この徳は何にもまさるものとしてみとめられてよい。善の輝きによって悪を消し、公に益することによって私の害をつぐなったからである」としたが、独善的で空しい響きがある。 はやくも開戦2年目に、アテナイは、「内には人が死に外では耕地を破壊され」内憂外患に襲われ(368頁)、ペリクレスへの非難が強まり、ラケダイモンでは、「開戦の是非」に関するデルポイ神託と「合致」するとした(369頁)。これに対して、ペリクレスは、「もとより、事なくして平和と幸福の道をえらべる立場にあれば、戦するほど愚かな考えはない。しかし、屈してただちに他国に隷属するか、危険を賭して勝利を得るか、この二者択一を余儀なくされたとき、危険を逃げるものはこれを耐えるものに劣」(370頁)り、「もしいったん他国に隷属すれば、われらがすでにかち得た所有すら失うことになりかねない」(371頁)のであり、しかも、アテナイが「同盟独裁者の地位」についている以上、敗戦で「これを手放すことは身の破滅に等しい」(372頁)とし、ラケダイモンへの隷属の危機を指摘した。 こうして、寡頭政のラケダイモンが、民主政のアテナイに、対ペルシァ戦のためのデロス同盟国を隷従から解放するという大義名分を掲げるという「奇妙な内乱」が勃発した。本来ならば、共通の敵ペルシァの前に両国は一致団結するべきだが、アテナイがあくまで帝国主義的方向に向かったために、ラケダイモンはアテナイ帝国主義に呑み込まれるという危機感から、やむにやまれず開戦を決定したのである。だから、ラケダイモンとしては、アテナイとは戦いたくなかったのであり、前425年ピュロス、スパクテリアの戦いではアテナイが勝利し、ラケダイモン兵が籠城を余儀なくされると、ラケダイモン側はアテナイ側に休戦を申し入れ(424頁)、「相互のあいだに平和と同盟、広く友情と親交を回復することを約し、そして代償として島にいる兵士らの返還を要請」し、「われら両国にとって今こそ争いを収べき無二の好機」(427頁)とし、「この戦いはいずれがはじめたともなく戦闘状態に入って今日にいたるが、今もし諸君が現戦況の優勢を善用して和平をとりもどすならば、諸国はこぞって諸君に感謝をささげるだろう」(427頁)としたのである。ラケダイモンは、やむなく開戦したが、「和平」両面の方針は維持していたのである。 6、トゥキュディデスは、ヘロドトストは異なって、この戦争が、兵士はもとより、市民らにも与えた残酷さ、悲惨さを具体的に述べた。つまり、彼は、@前428年レスボス島の諸市(ミュティレネ市)がアテナイに離反すると、アテナイはレスボスに派兵し、前427年に反乱を鎮圧し、ミュレネ成年男子を全員死刑にし、婦女子は奴隷にする事を決議し、「令状伝達の船」が出発したが(378頁)、民会でこの中止が急遽決議され、全員処刑は中止されたが、それでも結局謀反首謀者千人が処刑され、A前427年夏、プラタイアは籠城2年目になり、疲弊してペロポネス側に降服すると、プラタイア人200人、アテナイ人25人が処刑され、B前427年ケルキュラの内乱で、アテナイ軍艦の増派(60隻)を知って、ペロポネス勢は帰航すると、これに勢いを得た民衆派は、「手あたり次第に市内の寡頭派を捕らえて殺害」したり、乗艦させていた反対派を処刑し(410頁)、ヘラ神殿に立てこもっていた反対派の50人には死刑判決を下し、残りの「大部分」は絶望して「互いに刺しちがえて生命を絶ち、あるものたちは木の枝にかかって縊死し、残るものらもみなそれぞれのかなう手段で自殺をとげ」(411頁)、これ以後、「処々の都市」で親ラケダイモン派=寡頭派と親アテナイ派=民衆派の対立が生じ、全ギリシァ世界が動乱の渦中に陥」(411頁)り、C以後の諸都市では、「はるかに過激な意図や計画」、「老獪きわまる攻撃手段」、「非常識もはなはだしい復讐手段」が練られ、「無思慮な暴勇」、「きまぐれな知謀」が評価され、「人の先を越して悪をなすものが誉められ」(412頁)るようになり、D前416年冬、メロスは降服すると、アテナイは「逮捕されたメロス人成年男子全員を死刑に処し、婦女子子供らを奴隷」にし、E前415年初めアテナイ民会でアルキビアデスが(食糧確保のために[岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』341−3頁])領土拡大をめざして遠路シキリア(シチリア)に大遠征軍派遣を提唱し、前415年夏出航したが、アテナイは敗勢色を強め、「総勢そろって撤退」(496頁)を計画するに至ったが、総数4万人(498頁)の撤退戦は「酸鼻をきわめ」(498頁)、「ギリシァの軍勢が喫した敗北としてはまさに空前の規模」(499頁)となり、採石場に押し込まれた捕虜の扱いも悲惨を極めることになったのであった(508頁)。 ここで、もう一度、トゥキュディデスがなぜ前411年で記述を終えたのかを考えてみよう。トゥキュディデスは、「私自身、戦いが3・9(3×9、筆者)、27カ年の日月を要するであろうと、開戦以来終わるときまでつねづね一般に言い広められていたのを記憶している」(トゥキュディデス『戦史』448頁)と書いているから、同戦争が、前431年3月にラケダイモン側のテーベ軍がアテナイ側のプラタイアに侵入して以後、前404年まで27年間続いた事は十分知っていたのである。にも拘らず、前411年で筆を擱いたり、ペルシァ戦争の規模を過小評価したのは、トゥキュディデスにはヘロドトストとは異なる叙述目的があったからであろう。それは、言うまでもなく、大規模戦争たるペロポネソス戦争がいかにギリシァの民衆に悲惨な影響を与えたかを叙述することである。だから、トゥキュディデスは、戦争惨状が前412年シケリア大遠征で頂点を極め、それが戦争の悲惨さの掉尾を飾ったと見て、前404年にアテナイはラケダイモンに降服してペロポネソス戦争が終わる以後の過程は、本論の課題の外と考えたのではなかろうか(或いは、ただ病気や怪我でで筆をとれなくなったのかもしれないが)。彼は、前411年の「四百人体制」、「五千人体制」、同年秋のキュノスセマ海戦での久しぶりのアテナイ勝利までは執筆したが、以後、海戦で一時アテナイ勝利が続いた後に、前405年ラケダイモンがペルシァの資金援助を得て海軍を再編強化して、アテナイを再起不能の敗北に追い込んだ過程は叙述する必要もなければ、叙述する意欲もわかなかったのではあるまいか。あの誉り高いラケダイモンがアテナイ海軍に飲み込まれそうになった危機的状況に直面して、こともあろうにペルシアの資金援助に頼ってアテナイ海軍を打破するなどは、トゥキュディデスにはギリシァ人としては許しがたいことではなかったか。しかも、これをペルシァの観点から見れば、ラケダイモンに資金援助してアテナイにペルシァ戦争での敗北の報復を果たしたともいえるのであるから、ペロポネソス戦争はいつしかラケダイモンを表に立てたペルシァ代理戦争になったともいえるのであるから、ますますトゥキュディデスには論外の事態となってしまったのではないか。 もとより、我々は、今となってはトゥキュディデスの擱筆の真意を知ることは出来ないが、彼がヘロドトスとは異なって、戦争の民衆に与えた惨害を初めて重視した「歴史家」であったことは十分注目しなければならず、史上初めて史料批判をし、論旨展開を課題に収斂させたことをも併せて考慮すれば、欧米人はヘロドトスではなく、このトゥキュディデスをこそ「歴史の父」とすべきであったということにならないでろうか。 こうして、彼は、「内乱を契機として諸都市を襲った種々の災厄は数知れ」ず、「戦争は日々の円滑な暮らしを足もとから奪いとり、強食弱肉を説く師となって、ほとんどの人間の感情をただ目前の安危という一点に釘づけにするから」、「このとき生じたごとき実例(残酷な殺戮と悲惨な自殺など)は、人間の性情が変らないかぎり、個々の事件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にもくりかえされ」(411頁)ると、警告したのである。その警告から約2500年、我々は懲りずに何千何万の戦争を繰り返してきた。その都度、肉親、知人、友人の死を哀悼して、悲惨な戦争はもうこりごりだ、二度と戦争はするまいと反省してきたことか。にも拘らず戦争が繰り返されてきたということは、戦争を抑止し平和を維持するには、もはや哀悼や反省などだけでは不充分であり、「富と権力」のシステムを根本的に変えなくてはならない事を示している。この「富と権力」のシステムは、その歴史が雄弁に物語っているように、平和のシステムではなく、基本的には戦争(防衛と侵略)に関わるシステムだからである。それゆえ、この「富と権力」システムのもとでは、たとい憲法を制定して、戦争放棄などを規定しても、それは必ず骨抜きにされる危険に直面せざるをえなくなるのである。 平成23年11月5日、近年脅威を増しつつある中国海軍を牽制すると称して、憲法で戦力・戦争放棄を定めた日本の海上自衛隊と、実戦にたけた海兵・海軍・陸軍・空軍を擁して各地で戦争する米国の海軍が、両国艦船の共同演習を行って、両国の軍事的連携の緊密さを「威風堂々」と内外に見せ付けたかである。だが、中国にしてみれば、中国の海軍増強は、アメリカが日本に強大な基地を構えていることへの防衛対応であろう。どっちにも言い分があるのである。いつの世も軍拡は相手への脅威、その防衛からとめどなくおこるものである。この無益な軍事駆け引きを排除するには、米国が日本から基地を撤去して、アジアの防衛はアジアの民衆が話し合いを何度も積み重ねて決めることにする以外にはないのである。学問はあくまで基本的方向のみを示すにとどまり、以後の具体的な処方箋とプログラムは堅実で賢いアジアの民衆が真剣で誠実な討議を重ねることにゆだねることになる。彼らは、真剣なる討議の末に、「アジア防衛大綱」の如きをまとめあげるであろう。軍事専門家は既存軍事情勢に制約されるが、生活人はそれに制約されることなく自分たちの子供や親のために的確に具体的に防衛の意義と目的を定めるであろう。 |
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