世界唯一                世界学問研究所の公式HP                  世界水準
    Only in the world               World  Academic Institute              Top in the world

自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
     古今東西   千年視野                                          日本学問   世界光輝


                文武と二女帝の神祇・仏教統治 

 懐風藻に掲載されている漢詩の多くは天智・天武・持統・文武・元明・元正天皇治下に作成されたものである。天智天皇は大化改新で厩戸仏教法王・推古祭祀大王の仏教偏重政策を是正しようとしたものであった。ここでは、懐風藻の歴史的特徴を把握するための前提作業として、仏教偏重政策を遂行する聖武天皇を取り巻く天皇である文武(父)・元明(祖母)・元正天皇(伯母)治下の仏教政策を考察しておこう。

 既に筆者は、神祇統治が、豪族の仏教法王統治への道を遮断するべく中大兄=天智により斎明期から積極的に推進され、壬申乱以後は皇位継承の正当性のために天武・持統によってますますその方針が推進され、にもかかわらず、権力は仏教を重視して大いに利用したことなどを明らかにし、仏教の役割が大きくなれば、この神仏習合の関係も単純に推移するというわけにはゆかずに、大事件が起こっても不思議ではないと見通しておいた。

だが、文武と二女帝(元明・元正天皇)の治期にこの「大事件」はまだおきない。それは、大宝律令が制定・施行され、藤原不比等が登場したことと関係があるのではないかと思われる。そこで、ここでは、懐風藻の歴史的特徴の把握の前提作業として、この治下で仏教統治はどのように推進されていたのかについて、第一に神祇統治はどう扱われ、二女帝と藤原不比等はこれに如何に関わりがあったのか、第二に天武期に役割を大きくした仏教は以後どうなったのか、第三に天智天皇の定めた不改常典がどのように利用されたのかなどにも留意しつつ考察しよう。

             一 文武天皇の神祇・仏教統治

           1 神祇統治

 即位と皇祖 文武天皇(在位697−707年)は、天武・持統の神祇政策を継承する。

持統10年(696年)7月太政大臣高市皇子(天武天皇の第一皇子。皇太子説もあり)が死去すると、持統天皇は皇太子選定会議(王・臣が結集)で故皇太子草壁皇子(天武天皇と女帝持統天皇の皇子。持統3年死去)の子軽皇子を選定した。天智天皇の定めた「不改常典」は皇太子による皇位継承という基本原則を定めたもので、具体的な詳細後継規定があったのではないようだ。そこで、皇族からの皇太子選定をめぐって、故皇太子草壁の兄弟か子孫のいずれから選ぶかが問題となり、前者ならば長皇子・弓削皇子らが候補となったが、結局、持統の望む後者子孫で草壁の嫡男軽皇子が選定されたのである。文武元(697)年8月1日に15歳の軽皇子は持統天皇から譲位され、文武天皇となった。持統は太上天皇となって、史上最初の後見役となった。

注目すべきことは、文武は即位正当化のために、文武元年8月17日、即位宣命で、「皇祖以来歴代の天皇が今日にいたるまで、天つ神の委託をうけて行使してきた統治権を、いま先帝(持統)からうけついで、国家を整え、公民を愛撫してゆくという新帝の命を承れ」(青木和夫ら校注『続日本紀』一、新日本古典文学大系12、岩波書店、1989年、3頁の注。以下、文武・元明天皇はこれに依拠。原文[『国史大系』吉川弘文館、第2巻、1966年]も参考にした)と、先帝の持統から合法的に「天照大神から委託された統治権」を引き継いだとしたことである。

さらに、大宝2(702)年末持統天皇が死去すると、翌年「大倭根子天之広野日女尊」という諡号が持統に贈られた。日女とは天照大神であり、天照大神を重視した天武天皇の妻に相応しく、先帝持統を天照大神になぞらえ、文武即位の正当化を強めようとした(田村円澄『伊勢神宮の成立』吉川弘文館、2009年、77頁)。さらに、この傾向が鮮明となり、養老4(720)年成立の『日本書紀』(下、484頁)では「高天原広野姫天皇」という諡号に改定された。

 即位儀式 文武2年9月10日、文武は、当耆(たき)皇女(天武天皇の皇女)を伊勢斎宮(いつきのみや)に仕えさせた(『続日本紀』一、13頁)。同年11月7日、文武は使者を全国に派遣して大嘗祭に備えて大祓いを行わせ、同月23日、文武天皇即位の大嘗祭を行った(『続日本紀』一、13頁)。そして、同2年12月に、伊勢神宮が、律令制下で「天照大神」を祭神とする伊勢神宮として「正式に発足」した(田村円澄前掲『伊勢神宮の成立』78頁、202頁)。

 出雲の位置付け 文武2年(698年)、筑前の宗像郡(宗像神社がある)と出雲国の意宇郡(後に杵築大社がある)の郡司には「三等已上の親が連任することを聴(ゆる)すべし」(梅原猛『神々の流竄』集英社、1981年、92頁)という特例措置を認めた。梅原氏は、大和の諸豪族から掌握した神々を「流す場所」として出雲と宗像が検討されたが、「天孫族の故郷」である九州は不適当なので、前者の出雲が選定され、出雲大社が設立されたとする(梅原猛同上書、94頁)。出雲大社は、日の出る伊勢神宮に対して、日の沈む場所に位置していたのでもある。

一方、従来の神道の継承者たちは、地下に潜り、新たな潮流を模索していく。関氏は、その一大センターが葛城であり、太古の宗教観は、「修験道」となって実を結んでいったものだとする(関裕二『古代史の秘密を握る人たち』PHP研究所、2001年)。

天変地異と神祇 権力者にとって、天変地異は防ぎようのない脅威であった。それは、百姓に苦しい生活を強い、国家財政に打撃を与えた。権力者は、時には神祇、時には仏教に助を求めた。

文武2年(698年)5月1日、諸国は旱害に苦しんでいるとして、「幣帛(みてぐら)を諸社に奉」(『続日本紀』一、11頁)った。同月5日には、使いを京畿に派遣して、臨時祭式で祈雨神たる山川に祈った。慶雲元年(704年)、干天のゆえに、「使を遣して雨を諸社に祈(こ)はしめ」た(『続日本紀』一、81頁)。慶雲3年(706年)閏正月20日、天皇は、「天下の疫病」蔓延して「神祇に?(いの)り祈(こ)はしめ」(『続日本紀』一、97頁)るように命じた。同年7月諸国に飢饉が見られ、8月越前国の山災に対して、「幣を部内の神に奉りて救はし」(『続日本紀』一、107頁)めた。慶雲4年2月6日、諸国の疫病蔓延に対して、天皇は「使を遣わして大祓せし」(『続日本紀』一、109頁)めた。

辺境征圧 天皇徳化に浴さない辺境地域の教化は、神祇統治の重要な課題の一つであった。

大宝2年8月薩摩国隼人が天皇教化に逆らって蜂起したので、征討軍を発した(『続日本紀』一、59頁)。この際、「太宰の所部の神」に祈願して「実に神威に頼りて遂に荒ぶる賊を平げ」た。そこで、10月3日、「幣帛を奉」ったのである(『続日本紀』一、61頁)。同年10月3日、持統太上天皇の東国行幸に際しては、「諸神を鎮め祭」(『続日本紀』一、61頁)っている。

        2 藤原と神祇 

藤原不比等の生い立ち 藤原鎌足(藤原姓は中臣鎌足が大化改新の功で、天智7年[668年]天智天皇より賜る。翌年死去)の後を継いだのは、長男定慧(じょうえ)ではなかった。定慧は「孝徳と小足媛(有間皇子の母)の子の可能性」があり、「中大兄皇子と孝徳帝との間」が決定的に対立する状況下では身に危険があったので(梅原猛『隠された十字架』集英社、1982年、136−7頁。馬場朗『天皇制の原点を探る』光陽出版社、1989年、21頁以下も参照)、藤原鎌足は彼を出家させ、藤原家は次男の不比等に継がせた。

彼は、父と天智との親密な関係から天智系と判断されて天武系からにらまれることを「避ける」様に、当初は史(ふひと)と称して帰化人の田辺史大隈のもとで律令などを学んだようだ。この時に培った知識などが評価されて、持統3年(689年)、持統天皇は彼を判事に任命した。今度は不比等の父鎌足が天智天皇の寵臣だったことが幸いして、天智天皇娘の持統天皇に重用されたのである。

興福寺縁起などは不比等は天智天皇の子であったとしており、これが重用の理由かもしれない。智略家の不比等は、自らを「天智天皇のご落胤」とほのめかして、事態を有利に展開していったのかもしれない。

藤原の政務担当 不比等は妹や娘を天皇家に入れて、天皇の皇位存続を努めた。不比等の異母妹の五百重娘(いおえのいらつめ)が天武夫人となって新田部親王を生んだ。また、不比等は文武帝乳母で後宮に影響力ある橘三千代と結婚し、文武元年(697)年、この三千代の画策で、不比等は娘宮子を文武帝の後宮に入れ、大宝元(701)年その後宮から首皇子(後の聖武)が生まれた。

この文武帝のもとで、不比等は大いに勢力を広げた。文武2(698)年8月19日、天皇は、「藤原の朝臣賜はりし姓は、その子不比等をして承(う)けしむ」が、「意美麻呂(おみまろ。叔父藤原鎌足の娘と結婚し、鎌足実子の不比等が成人するまで藤原氏を継ぐ)らは、神事(かみわざ)に供るによりて、旧(もと)の姓(中臣)に復(かへ)すべし」と詔した(前掲『続日本紀』一、13頁)。

不比等の系統をのぞく藤原氏が中臣に改姓したことは、中臣祭祀と藤原政治という分担関係を通して、中臣と藤原氏が祭祀・政治のもとに権力を独占しようとしたことを示す(朧谷寿『藤原氏千年』講談社、1996年、22頁も参照)。豪族藤原不比等にとり、神祇利用には限界があるので、仏教もまた政治に必要として、中臣が神道、藤原が仏教政治を担当するという一族内分担をはかったのであろう。

中臣厚遇 不比等は神道を中臣にゆだね、この中臣神道と律令を結合してそれに相応しい神道をつくろうとした。持統4(690)年正月1日、持統天皇の即位式において石上麻呂(いそのかみまろ)が大盾をたて、神祇伯中臣大嶋が天神寿詞(あまつかみのよごと)を読み、忌部色夫知(いんべのしこふち)が剣・鏡を奉り(『日本書紀』下、500頁)、この頃に中臣神道が出来上がりつつあった(梅原猛前掲『神々の流竄』、216頁)。この中臣神道が、持統天皇のもとで、仏教の権力宗教化にも対応してより権力宗教として精緻化されてきた。

大宝元年(701年)4月3日、天皇は中臣氏に、「山背国葛野郡の月神(つくよみのかみ)・樺井(かにはい)神・木島(このしま)神・波都賀志(はつかし)神の神稲(かむしね)」(前掲『続日本紀』一、39頁)を支給した。

 大宝2年(702年)年3月11日、中臣意美麻呂、忌部子首(こびと。壬申の乱で大海人皇子側から挙兵)ら7人が位一階を進められ(前掲『続日本紀』一、53−4頁)、同年8月1日出雲狛(こま)が従五位下を授かった(前掲『続日本紀』一、59頁)。

神社整備 藤原は神祇を重視し、氏神の神社を権力中枢に移した。藤原氏(中臣氏)は、既に河内国の生駒山麓にある枚岡(ひらおか)神社(東大阪市)に祖先神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っていた。和銅2(709)年、平城宮造営に際しては、右大臣藤原不比等は、崇敬していた武神たる武甕槌神(たけみかづきのかみ)を常陸国鹿島より遷座した。後には経津主神(ふつぬしのかみ)を下総国香取より三笠山(春日山)に遷して祀った。以前から、不比等は神の宿る山として笠置山系の春日山に着目していた。

さらに、河内国枚岡より天児屋根命(天照大神が天岩戸に隠れたとき、天児屋根命は岩戸の前で太祝詞を唱えた)と比売神(ひめがみ。武甕槌神の姫で、天児屋根命の妻神)を遷して合祀し、四柱併殿として祀る官社となった。神護景雲2(768)年には春日神社が完成する。こうして、春日社は、藤原氏が、みずからの氏神・守護神であった鹿島、香取の両武神を勧請合祀し、天皇家や信徒を守護する武神を祀る神社ともなった。

こうして、春日の祭神は、天孫降臨に際して随従した「武事と祭事を担う」武甕槌神と経津主神と、祭事を担う天児屋根命となった。春日社は、武と祭の神により国家的秩序を支え、伊勢、八幡と共に、「三社」とされた。当初は社殿がなく、そこには祭祀にあたり臨時の神籬(ひもろぎ)が設けられるだけの野原(春日野)で、常陸国をはるかに望む遥拝所の形態であったといわれる。 

梅原氏は、768年の春日神社の完成について、「鎌足以来の藤原氏の宗教政策は完了」(前掲梅原『神々の流竄』172頁)し、藤原はこれで「朝廷の軍事権、宗教権の独占に成功」したとする。ただし、藤原が掌握したのは、宗教権ではなく、神祇儀式の主宰にとどまり、祭祀権を独占するのはあくまでも天皇である。

            3 律令と神祇・仏教

律令の整備 天武元(672)−大宝元(701)年まで、日本は唐との外交交渉を持たずに、藤原不比等らは大宝律令を日本「独自」に制定した。この間、頻繁に交流したのが、唐の属国化した新羅であり、天智7(668)−持統10(696)年間に日本は9回の遣羅使を派し、新羅はそれ以上の遣日使を派遣してきた。

文武3年6月17日、不比等は、大化の改新で打ち出された公地公民・班田収受など王土王民思想が結実した大宝律令を制定し、その功で禄を下賜された(『続日本紀』一、29頁)。大宝元年正月元日、天皇は大極殿で朝賀を受け、「文物の儀」がここに「備わった」(『続日本紀』一、33頁)とした。同年3月21日大宝令によって官名・位号を改正し(『続日本紀』一、37頁)、6月8日天皇は使節を七道に派遣して、「新令で政」をせよと命じた(『続日本紀』一、41頁)。不比等は、大宝元年大納言に昇進し、同4年従二位に進んだ。梅原氏は、不比等は「日本の国家」を作り出した「隠れたる大政治家」(『隠された十字架』[『梅原猛著作集』第10巻、1982年、84頁])とする。

律令と神祇・仏教 大宝律令で初めて律令のもとに神祇と仏教が位置づけられた。つまり、太政官の頭部に、唐にはない神祇官が定められ、諸国の神々が「律令制天皇権威下に大編成」(馬場前掲『天皇制の原点を探る』171頁)された。大宝律令で初めて、日本にしかない神祇と仏教とが位置づけられ、神祇令が定められ、天皇が行う祭祀が規定されたのである。

不比等は、この神祇官を重視した。だからこそ、持統、不比等らが、文武天皇の統治を制度面から補完するものとして律令制定を急いだのであろう。この結果、持統、藤原不比等は、仏教ではなく、神祇と律令で文武の統治を指導してゆき、仏教の役割が急減したのである。

律令制と藤原 大宝律令制定の功、天皇の外戚、仏教利用などをてこに藤原は成り上がって、新たな支配的豪族となる。「天皇の外戚となって天皇の権威を笠に改革事業をリードした」点、仏教を利用した点では、「藤原氏の行動パターンは、六世紀後半から七世紀』前半にかけての蘇我氏のそれとそっくり」(関裕二『「天皇家」誕生の地』208頁)である。

だが、両者には決定的な相違がある。関氏は、それは、藤原氏は「一つの氏から一人の議政官」という不文律を破って、藤原一族で廟堂を掌握したことだという(関裕二同上書209頁)。しかし、根本的相違としては「律令と仏教」の利用の相違を考慮すべきだろう。つまり、蘇我は、自らを規制する律令を嫌い、仏教の利用を優先し、仏教で皇位簒奪を企てたのに対して、藤原は、自らを巧みに律令例外とした上で(後述の幼帝摂政もまたこの一つ)、律令利用を優先しつつ仏教を利用したにとどまり、皇位簒奪する仏教覇権を求めず、あくまで皇位維持に徹したということである。

そして、蘇我の場合、究極的には皇位簒奪をめざして娘を大王にとつがせるが、「皇后」ではなかったのに対して、藤原の場合、皇位簒奪しない前提下で、娘を「皇后」にし、最大の勢力を求めたということも留意される。まさに「藤原氏が皇后の冊立権を独占」(梅原猛『飛鳥とは何か』集英社、1986年、315頁)し、天皇との接近性を遺憾なく勢力拡大に利用しえたということである。さらに、不比等が天智天皇のご落胤という噂をも巧みに利用していたに違いない。後に、摂政を令外官として臣従に徹しつつ、巧みに権力を掌握するのである。 

         4 仏教統治

仏教統制 文武天皇は神道を重視し、『続日本紀』には仏教法斎の記事こそないが、やはり廃仏的態度をとっていたのではない。ただし、仏教を統制的に扱う側面が強くなった。僧尼令では、国家が鎮護仏教を維持するために、仏教教団の組織や活動について規制した。これについては養老律令のみが残存しているが、飛鳥浄御原令、大宝律令にも同様のものが編纂されていた。これは、中国における道士や僧尼を規制する法律「道僧格(どうそうきゃく)」を範とし、仏教教団の法律集「律蔵」の一つたる『四分律(しぶんりつ)』や、大乗菩薩戒を説く『梵網経(ぼんもうきょう)』を参照して作られた。僧尼犯罪に対する処罰(還俗[徒罪相当以上]もしくは苦使([罪・笞罪相当])、国家任命の僧綱(僧正、僧都、律師)による寺院及び僧尼への自治的統制、民衆教化の禁止及び山林修行や乞食行為の制限などが中心である。こうした仏教統制は早くできたが、神祇に関しては唐にないだけにいかに位置づけるかで時間がかかったのであろう。おそらく、養老律令、飛鳥浄御原令と大宝律令の大きな違いの一つは、この神祇の位置づけではなかったろうか。

また、僧職人事も引き継いで実施した。文武2年(698年)3月22日、文武天皇は、恵施法師を僧正とし、智淵法師を少僧都、善往法師を律師とした(『続日本紀』一、9頁)。大宝元年6月1日道君首名に大安寺で僧尼令を説かせた(前掲『続日本紀』一、41頁)。大宝2年正月25日、詔で智淵法師を僧正、善往法師を大僧都、弁照法師を少僧都、僧照法師を律師とした(『続日本紀』一、53頁)。同年10月3日、薬師寺の構作がほぼ終了したので、文武天皇は衆僧に薬師寺に住むように詔した(『続日本紀』一、13頁)。3年6月15日には、山田寺に封3百戸を施した(『続日本紀』一、17頁)。

平癒祈願・葬祭 平癒祈願・葬式などは相変わらず仏教に則ってなされ、これまた仏教持続の主要根拠となった。大宝2年12月13日、持統太上天皇が病気になり、平癒祈願の為に、大赦したり、百人を出家させ、四畿内に金光明経を講(と)かせた(『続日本紀』一、63頁)。22日に死去すると、神道の殯宮を造ると同時に、25日、翌年正月5日に四大寺(大安・薬師・元興・弘福)に設斎(せがみ)した(『続日本紀』一、63、65頁)。正月10日四大寺に大般若経を読ませる。

慶雲元年(704年)11月11日、持統没後700日にあたり、諸寺に百七斎を設けた(『続日本紀』一、83頁)。慶雲4年6月15日文武天皇が死去し、神道の殯宮を造ると同時に、初七日から四十九日まで「四大寺に設斎」(『続日本紀』一、115頁)させた

天変地異 慶雲2年4月3日、文武天皇は不徳の為に旱害で凶作になったと慨嘆して、「五大寺(前記四大寺に四天王寺か山田寺が加わる)をして金光明経を読み、民の苦しみを救ふことを為さむべし」(前掲『続日本紀』一、85頁)とした。だが、仏教斎会などの仏教利用の度合いは減少した。

           二 元明天皇

 慶雲4年(707年)文武天皇が死去すると、息子首(おびと)皇子(第一皇子)がまだ幼少だったので、天智天皇の第4皇女で文武天皇の母(草壁皇子の妻)が中継ぎとして元明天皇として即位した。元明は、大宝律令を整備し運用していくために実務に長けた藤原不比等を重用した。

           1 神祇統治

 神道と即位 慶雲4年7月17日元明天皇が即位の詔で、天智の定めた「不改常典」の法で持統・文武・元明と皇位が継承されてきたとする。これは、「天地と共に日月と共に遠く改(かは)るましじき」法典であり、ここでは、天皇統治が「国を食(やしな[初穂を食する儀礼などに起原])う天下(あめのした)の業(わざ)」(『続日本紀』一、121頁)とされる。元明は、外孫の首皇太子の即位を望む不比等助言もあってか、天智が皇位継承法として「不改常典」法を定めたことを初めて明かした。皇太子が幼少なので母がつなぎ的に即位することを正当化するためにこれをもちだしたのであろう。

 そして、元明は、天地の心で統治するとした。和銅元年(708年)正月11日、元明天皇は、「(初代天皇から)今に至るまで、天皇が御世御世、天つ日嗣高御座(たかみくら)に坐して治め賜ひ来」たとし、現在、「天地の心を労しみ重(いか)しみ辱(かたじけな)も恐(かしこみ)ま」(『続日本紀』一、127頁)し、武蔵国に銅が発見されると、これは、「天に坐(ま)す神、地坐祇(くににますかみ)の相うづなひ(よしとし)奉り、福(さき)はへ奉る事によりて、顕(うつ)しく出でたる宝」と思われるとした。こうして「天地の神の顕し奉れる瑞宝」として、年号を和銅と変えたのであった。

 和銅元年7月15日、元明は五位以上の文武官に、「臣子の道」こそ重要だとし、「これ、天地の恒理、君臣の明鏡」(『続日本紀』一、141頁)とした。和銅元年11月21日遠江・但馬二国の担当で践祚大嘗祭を行う(前掲『続日本紀』一、145頁)。

 遷都と神社 和銅元年(708年)2月15日、元明は、「日を揆(はか)り星を瞻(み)て、宮室の基を起し、世を卜い土を相(み)て、帝室の邑(さと)を建つ」という王公大臣の言を参考に、「平城の地、四禽(しきむ)図に叶ひ、三山(東の春日山、北の奈良山脈、西の生駒山脈)鎮(しづめ)を作し、亀(亀卜)筮(筮占)並に従う」(『続日本紀』一、131頁)として、平城京への遷都方針の詔を打ち出した。

和銅元年10月2日、犬上王を伊勢大神宮に遣わして、幣帛を奉り、「平城京を営む状」を告げた(『続日本紀』一、145頁)。和銅元年12月5日には、「平城京の地を鎮め祭」(『続日本紀』一、145頁)った。

祈雨 和銅3年4月22日「雨を名山(めいさん)大山に祈う」ために「幣帛を諸社に奉」(『続日本紀』一、161頁)った。和銅5年9月3日、今年の豊作は「天地祐を垂れ」たからだとした(前掲『続日本紀』一、185頁)。

                                          2 仏教統治 

和銅元年6月28日、元明天皇は、「百姓安寧の為」に都下の寺々に転経させた(『続日本紀』一、139頁)。和銅5年9月15日、観成(かんじょう)法師を大僧都、弁通法師を少僧都、観智法師を律師とした(『続日本紀』一、187頁)。仏教を無視してはいないが、『続日本紀』ではこの時期にも仏教法斎などの仏教記事がないのである。

            3 辺境統治 

この時期にも陸奥・越後の蝦夷が「野心ありて馴れ難く、屡良民を害」していたので、和銅2年6日3月、東国諸国から徴兵して征討した(『続日本紀』一、149頁)。翌7月、上毛野朝臣安麻呂を陸奥守として、諸国兵器を出羽柵に運送させ、蝦狄(えみし)を征討した(『続日本紀』一、153頁)。和銅3年4月21日陸奥の蝦夷らが「君の姓を賜りて編戸(50戸1里制の戸の編成)に同じくせんこと」、つまり公民となることを願い出た(『続日本紀』一、161頁)。

           4 藤原興隆

藤原重用 元明元年(707年)元明が即位して、不比等に5千戸を与える宣命がでて、不比等は3千戸の職封を受領した。和銅元年3月13日、一連の人事を発令し、藤原不比等を右大臣、中臣意美麻呂を神祇伯とした。

平城京と藤原支配 和銅3年(710年)、元明は、できたばかりの藤原京を出て、面積では3倍の平城京に遷都した。これは、飛鳥旧勢力から脱却し、律令制支配の諸問題に対処して官人層を再統制し、何よりも藤原支配力の強化のためであった。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、平城京では右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になったのである。

この平城京の造営・整備過程においても、「寺院は京内に神社は京外に」のルールが適用されたが、仏寺が圧倒的である。右京の西大寺(765年創建)・唐招提寺(759年創建)・薬師寺(藤原京から移転)、左京の東大寺(左京範域からはずれ京外に建立。733年創建金鐘寺が起源)・法華寺(747年皇后宮が宮寺としたのが起源)・興福寺(669年藤原鎌足夫人が京都に創建した山階寺が起源。672年藤原京、710年平城京に移転)・紀寺(藤原京から移転)・大安寺を配したのである。前の藤原京ではまだ藤原支配は隠されていたが、平城京こそは藤原が公然と支配する「藤原京」であった。

この興福寺と春日社は藤原氏の氏寺と氏神であり、春日社は興福寺の守護神であった。そして東大寺は藤原不比等(鎌足の子)の孫かつ婿である聖武天皇の発願寺であり、不比等の娘光明子が深く関わる寺院であった。

       三 元正天皇

      1 即位と統治策

即位と皇位 霊亀元年(715年)9月2日、元正天皇は、母元明天皇から自身の老いと首皇子がまだ若いと言う理由で禅譲されて大極殿で即位した。元正もまた仏教より神祇を重視していた。詔して、左京識が「めでたい印の亀」を献上したので、「天地の賜物」に報いるために元号を和銅から霊亀に改正し、大赦し、諸寺の僧尼、諸神社の祝部らに物を授けるとした(直木孝次郎訳注『続日本紀』1、平凡社、174頁。以下、元正天皇についてはこの直木訳注に依拠)。

 さらに、養老3(719)年10月17日詔して、@開闢から中古までの統治について、「法令」があって「君臣の地位を定めて世が移」ってきたが、その法令は「まだ整った法文にあらわすまでに至らなかった」が、A天智天皇の世になって、「弛張(緩やかにすることも厳しくすること)も(成文法として)具備され」、B文武天皇の時に「大幅な(条文・内容の)増減があ」り、以後「これに基づいて施行し(根本を)改めず、恒法とし」たとする。これによると、天智天皇が「開闢から中古」の「君臣の地位」に関する法令を整備して骨子を作り、文武が大きく加訂増補し、「恒法」にしたことになる。これが「天智天皇の定めた不常改典法の内容」であろう。

これは、本来ならば天皇家内部の皇位継承・維持法であり、臣下らに公開するものではなかったのだが、これを具体的に明示したのは、元正天皇の皇位継承の正当性を説明する必要がでてきたからであろう。つまり、こうした「遠い先祖の正しい法典」・「列代の皇綱(歴代天皇の大いなる法則)」からすると、「洪緒(大きな事業)を継承」するのは、本来ならば元正ではなく、皇太子(首皇子、後の聖武天皇)となる、このことを示すことによって、元正は、自分はそういう首皇子への皇位継承使命を帯びた天皇として、皇位維持の観点から即位を正当化できたのである。そして、元正は長老の舎人親王・新田部親王を首皇太子の輔佐に任じ(『続日本紀』1、211頁)、首養育を重視した。こうした事を示唆したのは、右大臣藤原不比等であったであろう。

 富国策 元正は中継ぎ的な天皇ながらも、根本を据えた内治策を打ち出した。即位1カ月後の霊亀元年10月7日天皇は始めて富国策を打ち出し、人民の富が肝要とした。つまり、「国家が大いに栄えおさまるためには、人民を富ませることが肝要であ」ると、国富の基礎が民富にあることを初めて指摘したのである。そして、「人民を富ませるための根本は、つとめて貨食(貨殖)に専念させることにある」として、「男は農耕につとめ、女は機織りを修め、家では衣食が豊かになり、人民には無欲で恥を知る心が生じるようになれば、ここに刑罰を必要としなくなる政治がさかんになる」とした。さらに、元正天皇は、「湿地で稲をつくる」だけでなく、麦・粟などを植えて「陸田」を活用し、「生業の技術」を極めよと提案した(『続日本紀』1、175頁)。

道教的統治策 養老2年12月7日、詔して、即位以後「天のしくみを仰いで頼り」として、この4年間、「上は天を規範とし、下は人民を養ってきたが」、「平凡で愚かな人民」は法に違反してきたので、今後は、悪人を「朕の深い仁慈に感じて善人に改心」させたいとし、大赦を行った(『続日本紀』1、206頁)。元正天皇が、仏教ではなく、道教的境地から天道観に立脚しているところが留意される。

即位4年目で、日本の西端の九州では隼人、東端の陸奥では蝦夷が反乱を起こし、変異を天罰と見る元正に大きな衝撃を与えていった。養老4年6月17日詔して、「今、西の辺境の小賊(隼人)が反乱を起こし・・・良民に害を加えている」ので、持節将軍大伴旅人を派遣して、「隼人の拠点」を一掃した(『続日本紀』1、218頁)。8月12日勅して、副将軍は残して、大伴旅人を入京させよと命じた(『続日本紀』1、220頁)。同年9月28日、陸奥国が天皇に、「蝦夷が反乱を起こして、按察使・・を殺害した」と奏上した(『続日本紀』1、221頁)。 

即位5年目頃からは凶作に直面した。養老5年2月17日詔して、同4年「洪水と旱魃」で農民は「没落」し、さらには同4年8月に「朝廷の模範であった右大臣の藤原不比等」が死去し、「天の咎めの徴(しるし)」が現れたが、今年も「去年の災異の余波」が続いていて、「朕の心は恐懼」しているとした。そして、元正は、「古い典籍に尋ねてみると、王者の政令が事にそぐわない時に、天地がきびしく戒め責めて、咎めのしるしを示すのだとある」として、これを古い時代の天神地祇ではなく、中国の道教的天地論で説明しようとした。だから、「高位にあり任務も重大」な汝ら臣下は、「(朕の)政令に不都合なことがあれば、総て上申」せよとした(『続日本紀』1、226−7頁)。

養老6年7月7日、詔して、「(このごろ)陰陽が乱れ誤り、災害や旱魃がしきりにおこっている。そのために、幣帛を名山に奉って天神地祇をまつったが、めぐみの雨はまだ降らず人民は業(なりわい)を失ってしまった。朕の徳が薄いためにこうなったのであろうか」として、大赦、飲酒禁止・屠殺禁止、高齢者救恤などを打ち出した(『続日本紀』1、250頁)。同年7月19日詔して、「朕は、平凡でおろそかなまま皇位を承け継いだので、自分にきびしくし、自ら勉めてきたが、(朕の誠意は)未だに天の心にとどいていない。そのため、今年の夏は雨が降らず稲の苗は実らなかった」と反省して、収穫物の貯蓄を命じた(『続日本紀』1、252頁)。

養老7年2月14日詔して、「天と地が互いにより合って力を合わせるときに、天が普く覆い地が万物を載せる徳はより深くなり、天子がきわめて公平なときには養い恵む仁徳は広く行きわたる」と天地論にたちつつ、春の草木の芽生え、畑仕事の着手、降雨などに感動して、「どうして、心ひろい恵みを与えて人々を安んじ、教化して心をすなおにさせ、万物を済(すく)わずにおられようか」とした。そこで、農民に種籾、麻布、鍬を与えよとした(『続日本紀』1、255頁)。同年9月23日、詔して、「朕の不徳」にもかかわらず、「国家の大瑞」である白亀が京でみつかったので、大赦を行うとした(『続日本紀』1、259頁)。

道教的技術官人重視 こうした凶作に直面して、元正は自分の手足となって動く官人の活用を打ち出した。養老5年正月27日、天皇は、公平無私、忠義の臣下を通して天下安寧の統治を実施しようとしたのである。つまり、詔して、「至極公平で少しも私がないのは、一国の中で秀れた人物の常にもっている習慣であり、忠をもって君主に仕えるのは、君主の子ともいうべき臣下の常道であ」り、「各々が職務に勤め」ることが「天下が安らかに治まる基本」だとした。そうすれば、「天から災異が降されることもなく、吉徴は地上に呼応して現れてこよう」とした(『続日本紀』1、224頁)。そして、官人について、「文人と武士は、国家の重んずるところ」であり、医術・卜筮(ぼくぜい)・方術(陰陽・天文・医術など方士[道教を信じる道士]の行う術)などを行う者は尊重されるとした。厩戸が仏教で官人の質的向上をはかったとすれば、元正天皇は道教で持術官人の育成を重視したのである。そこで、こうした学業に秀でた役人39人(明経博士5人、明法2人、文章4人、算術3人、陰陽6人、医術4人、工事技術者5人、和琴師1人、唱歌師5人、武芸4人)に物を与えて褒章した(『続日本紀』1、226頁)。

養老5年2月16日、「太陽に暈がかかって白い虹が貫通したように」見え、元正は、「左右の大弁及び八省の卿」らを呼び出して、「朕は徳が少なく、民を導く充分な才能もない。早朝から起きて(方策を)求め、夜寝についても思い続けている。身体は宮中の奥深い中にあっても、心は人民のもとにある」としつつ、「汝らに(政治を)任せなければ、どうして天下を導いてゆくことができようか」と、官人依存を打ち出した。凶作、藤原不比等死去に衝撃をうけつつも、官人を励ましつつ、政務遂行しようとしていた。

             2 神祇統治

 伊勢神宮 養老元年4月6日、新天皇即位に伴い、久勢女王を伊勢神宮の斎王として遣わした(前掲直木『続日本紀』1、186頁)。

養老5年9月11日、天皇は内安殿に出御し、伊勢神宮に使者を派して幣帛を奉り、皇太子の娘井上王を斎王にした。

改元 養老元年11月17日には、天皇は美濃国不破の行宮滞在中に多度山で大瑞の「美泉」を発見し、これを「天の賜物」として、霊亀を養老に改元した(『続日本紀』1、192頁)。

             3 仏教統治 

 この頃、仏法の教えは衰え始め、『続日本紀』には仏教法斎の記事はない。しかし、元正天皇は、仏教の諸弊害を指摘してその改善を唱え、仏法を再び興隆させようとした。

寺院の衰退・腐敗 霊亀2年5月15日、詔して、@「諸国の寺は多く法に従わず、」、A「みすぼらしい堂」を建てて、立派な寺名を記した額を賜ろうとしたり、寺田の施入を訴え、B建物を整備せず、馬牛が寺内に群れ、門や庭が荒れ、仏像が塵を被っていて、現在の寺は「仏の教えを崇め敬うことに極めてそむいている」と批判して、貧弱な数寺を併合し、「もう一度衰えた仏法を興隆する」ことを命じた。

同時に、元正は、@「堂や塔が完成してもそこに住む僧侶がおらず、仏の礼拝さえ行われ」ず、A檀越(だんおつ。寺院を経営的に助ける在地有力者)の子孫が寺院の田畑を私的に支配し、僧と訴訟沙汰になっていることを取り上げて、今後はこれを禁止し、寺院財産を調査して檀越に勝手にさせてはならぬとした(『続日本紀』1、180頁)。

霊亀2年5月15日、近江守藤原武智麻呂は、「菅内の諸寺は、多くの場合、境域を分けるだけで、造営をせず、進上する僧侶名籍も、虚偽」であり、これは寺田の「利益をひとり占めしよう」とするものであり、これを糺さなければ「仏法を滅ぼす」と懸念を表明した。現在「人情はしだいに薄くなり、仏の教えは衰えて」いるので、「広く諸国に命令を下して、悪い点を改め素直な状態にもどし、緩んだ綱紀をいっそうひきしめて、天皇の願いをかなうようにしていただきたい」と奏上した。天皇はこれを許した(『続日本紀』1、180頁)。

養老5年5月5日七道の按察使及び大宰府に命じて諸寺を巡察させ、便宜に応じて併合させた(前掲直木『続日本紀』1、228頁)。

仏教の弊害 養老元年4月23日、詔して、仏教の弊害として、@「近ころ、人民は法律に違犯し、かって気ままに自分の気持どおり髪を切り鬢(びん)を剃って、たやすく僧服を着て」、「心によこしまな盗人の気持ちを秘め」、A寺外で乞食は三綱に従うべきだが、行基らは「みだりに罪業と福徳のことを説き、徒党を組んでよくないことをたくらみ、指を焼いたり、ひじの皮をはいで(経を写したり)」、「人民を惑わ」し、「各階層の人民は生業をすて」、釈迦の教えと法令に反し、B現在の僧尼は病人に怪しげな祈、違法まじない、僧尼令違反の吉凶占いなどをして報酬を求めることをあげ、この弊害の除去を命じた(『続日本紀』1、187−8頁)。

僧侶規制 養老2年10月10日、太政官は元正天皇の僧尼改善の意向を受けて、僧綱(僧正・僧都・律師)に僧侶規制を指示した。つまり、@高徳の僧の顕彰、A指導力ある僧侶の報告、B五宗の「師」の報告、C僧侶の仏道修行などによって、傑僧の心が僧に影響し、「朝廷の聴く」所となり、「僧侶が仏法を誹謗」することもなくなるとした(『続日本紀』1、204−5頁)。

養老3年11月1日、元正は徳のある神叡・道慈法師という高僧二人を顕彰することもあったが(『続日本紀』1、212−3頁)、仏教に対しては規制を打ち出す比重が大きかった。養老6年には仏僧トップの僧綱を批判して、規制する。同年7月10日太政官は天皇に、僧綱の居所が不明で法務が滞っていることを指摘する。まず、太政官は、「内典(仏教)と外教(儒教)とでは、その教えのおもむきは異な」るが、「才能をおしはかり、職務を考えることでは、道理をつきつめると、帰するところは同じ」と、仏教・儒教の異同を述べる。ついで、「最近、僧綱(「智と徳が十分に備わった者であり、僧侶と俗人の両方を支える棟梁」)らは、都座(僧綱の座)にいることはまれで、ほしいままに巡りあるいているので、(職務を)公平に治めることは困難になってき」たので、「薬師寺を常に居住するところにしたい」と奏上して、認められた(『続日本紀』1、250−1頁)。

さらに、僧侶の堕落・腐敗が批判された。養老4年8月3日詔して、僧尼の公験(身分証明書)には誤り・偽りに基づいているので、今後は15人だけに公験を与えると、人数を制限した(『続日本紀』1、221頁)。10月25日詔して、「仏教の道は教義が非常に深遠である」から、僧尼が「自分で自分の方法を考え出したり、みだりに別の読み方を」することは「仏法を汚す」と批判して、「唐僧道栄、学問僧の勝暁らによって転経し唱礼」(『続日本紀』1、223頁)せよとした。また、同日、太政官は天皇に、@「最近、在京の僧尼らは、浅い知識と軽薄な智慧をもって罪と福の因果関係を巧みに説き、戒律を充分守ることなく、京内の民衆を詐り迷わせ」たり、A僧侶が仏法と称して妻子を剃髪出家させて、妻子らは「法規をおそれることなく、両親や夫を顧みなくな」り、B「ある者は、経を背に負い鉢を捧げてちまたに食を乞い、ある者は、偽って邪説を唱えて村々に寄宿し」、「あやしいことを言いふらす」ので、これらを「禁断すべき」と奏上し、許された(『続日本紀』1、251頁)。

養老5年にはまた名僧を褒章した。同年6月3日、天皇は、法蓮は、「心が禅定の境地に達し、行いは仏法にかな」い、「医術に精通し、民衆の苦しみを救済」しているとして、褒賞すべきとして、「三等以上の親族」に「宇佐君」の姓を与えた(『続日本紀』1、229頁)。同年6月23日、詔して、僧行善(難行のすえ、三五の術を会得)、百済僧道蔵(80歳余の仏門指導者)を褒章した(『続日本紀』1、231頁)。

 天皇法要 こうして仏教を批判、改善しつつも、母元明天皇の一周忌を迎えると、養老6年11月19日「太上天皇のおんため、つつしんで華厳経八十巻・大集経六十巻・涅槃経四十巻・大菩薩経二十巻・観世音経二百巻を写し」、京内・畿内の諸寺に僧尼二千六百三十八人を招いて食事を供する」(『続日本紀』1、253頁)とした。

 養老6年12月13日勅して、天武天皇のために弥勒像、持統天皇のために釈迦像を造らせた(『続日本紀』1、253頁)。

平癒祈願 藤原不比等が病気になると、仏教で平癒祈願する。養老4年8月1日、天皇は、得度する人30人を与え、大赦した(『続日本紀』1、220頁)。同月2日、京の四十八寺に一昼夜薬師経を読ませた。3日不比等は死去した。

元明太上天皇が病気になると、仏教で平癒祈願した。つまり、養老5年5月6日、詔して、「行いの清浄な男女百人を選び出し、出家させて仏道を修行させよ。年長者で師として充分な資質のある者は、出家の条件を備えていない者でも得度を許可する」(『続日本紀』1、229頁)とした。

                                          小  括

以上、文武・元明・元正天皇の神祇統治・仏教統治の考察から、次の三点を要約的に指摘することができよう。

第一に、文武・元明・元正天皇と藤原不比等は、皇位継承の正当性のために神祇を益々重視し、天照大神を重じた天武天皇の妻である先帝持統を天照大神になぞらえ、文武の皇位継承の正当化を強め、大宝律令で日本にしかない神祇と仏教とが位置づけられ、太政官の頭部に唐にはない神祇官が定められたということである。

そして、藤原不比等らは神祇官を重視し、平城宮造営に氏神をまつりつつ、文武天皇の統治を制度面から補完するものとして律令制定を急ぎ、ここに仏教ではなく神祇と律令で文武天皇の統治を指導し、この結果、仏教の役割が低減するのである。それは、大化改新の原点でもあり、以後、藤原が、皇位簒奪をめざした蘇我とは異なり、あくまで臣下として皇位の継承・維持に徹するという基本的方向を示すとも言えよう。

第二に、文武・元明・元正天皇は廃仏的態度をとっていたのではないが、仏教の役割を低め、その弊害を指摘し始め、特に元正天皇は改めて仏教を改善し、統制して、平城京の守護として再び仏教を興隆させようとしたということである。

つまり、文武天皇は神道を重視し、天変地異対策としての仏教利用の度合いを急減させ、仏教を統制的に扱う側面が強くなり、国家が鎮護仏教を維持するために、僧尼令で仏教教団の組織や活動について規制した。元明天皇はこれといった仏教統治を実行しなかったが、京内に西大寺・唐招提寺・薬師寺・東大寺・法華寺・興福寺・紀寺・大安寺を配し、仏教を利用しなかったのではない。元正天皇は、仏教の弊害を是正して、仏法を再び興隆させようとしたが、行基らの民間布教活動を「徒党を組」むと批判して、あくまで権力宗教としての仏教の興隆をめざした。

しかし、この時期には、仏教と皇位との関係については、神祇による皇位正当化・維持が重視され、まだまだ仏教と皇位の関係は俎上にのぼってこなかった。仏教が皇位を奪わずに、その継承・維持に明確に関わろうとするまでにはまだ時間がかかりそうである。

第三に、元明天皇が、即位詔で天智天皇が「不改常典」法を定めたことを初めて明かし、次の元正天皇は、天智天皇が「開闢から中古」の「君臣の地位」に関する法令を整備して骨子を作り、文武天皇が大きく加訂増補し、「恒法」にしたとしたことである。

これは中継ぎ天皇の即位の正当化のために必要であったという通説を何ら修正するものではないが、元明より元正のほうが即位根拠が弱くなっただけに、「不改常典」の説明が精しくなり、それへの依存もより強くなったことが指摘できよう。しかも、元正は、「平凡でおろそかなまま皇位を承け継いだ」として「自分にきびしくし、自ら勉め」て、富国策を打ち出し、民富が肝要としたり、道教的天地観に立脚した政策を打ち出した。

 にもかかわらず、即位5年目頃から凶作に直面し、「天の咎めの徴」が現れ、神祇(及び道教的)統治は行き詰まった。これは、次の聖武天皇が、神祇統治より仏教統治を重視するようになった背景を理解する上で留意されよう。聖武天皇は、まだ仏教偏重策ではないが、神祇統治の限界から、仏教の是正による統治補完利用の動きの中で育ち、厩戸仏教法王・推古祭祀大王の仏教王国・仏教浄土の権力構想にも触れていったと思われる。




   

                            World  Academic  Institute
        自然社会と富社会           世界学問研究所の公式HP                 富と権力      
               Copyright(C) All Rights Reserved. Never reproduce or replicate without written permission.