§ 自然と国家ー国家とは何か § 一 天皇論ー日本の場合 1 天皇制研究の意義 確かに天皇には他国の権力者とは異なる特殊性があるが、同時に権力指導者の一般性をも帯びており、かつ一王朝としては世界最古であり、故にそれは、他国家の研究以上に、端的に国家一般の諸問題(国家と生活者生命のいずれが大事なのか、国家統治秩序と生活者自治秩序のいずれが重要か、そういう国家が生活者にはたして必要なのか、そういう国家の正当化・権威付けに宗教が関わること[つまり、私の言う権力宗教]は本来の宗教と言えるのか、国家存続のためにどのような装置を構築したかなど)を我々に問いかけてくるのである。天皇制の研究は、多くの普遍的な国家諸問題を端的に提起するということだ。 第一に、天皇制誕生の実態の考察である。よく「天皇は元首である」とか、「日本の国柄は天皇制である」という声を聞くが、天皇家の一族、或いはその臣下ならまだしも、そうではないものまでがそう発言するのは適切と言えるであろうか。彼らが、天皇制誕生過程を学問的に考察した上でそう発言しているかというと、日本国の象徴として、国事行為を行う天皇という現実を踏まえて、現状追認的に発言している場合が多いのである。まずは、学問的に天皇の誕生・成立過程の特質を解明することが必要になろう。 第ニに、天皇制の展開過程の特徴の考察である。封建社会・資本制社会でも、天皇制は生き残ったのはなぜなのかが学問的に解明されねばならない。封建社会と天皇の関係では、武家権力(鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府)と天皇との関係が問題となろう。資本制社会と天皇の関係では、その起点たる明治維新が焦点となろう。 第三に、なぜ第二次世界大戦で敗北したにも拘らず、天皇制が生き残り、現在に至っているのかの考察である。既に戦時中から天皇を頂点とした国家体制の犠牲者は、天皇の批判を始めていた。昭和18年9月分の『特高月報』では、19歳の青年が、「何が天皇陛下の赤子だ。赤子だったら天皇陛下はこのあわれな不幸な子供をたすけようとはしないのだ。それは天皇の赤子だとうそをいって、自分の下におこうとするのにほかならないのだ。何が天皇だ。天皇が何が現人神だ。よくまあこしらえたものだ」(ジョン・W・ダワー『昭和』114頁)と批判した。その他、天皇は、「馬鹿・・坊ちゃん、飾り物、穀潰し、偶像」などと「侮辱」されていた。昭和18年12月の『特高月報』では、翼賛壮年団の会合で若い農民が「皇室の経費も我々国民から出す税金から四百万円も費って居る、皇族は吾々が養って居るようなものだ」(ジョン・W・ダワー『昭和』116頁)と皇室の寄生性を批判した。実はこうした天皇の批判はそれ以前からもあった。 こうした批判にも拘らず、戦後、天皇制は、戦争責任を追及されることなく再編存続された。それは、国民不在の日米国家間取引として行われたのであった。今こそ、こういう批判を踏まえて、その誕生・成立・展開過程を国民レベルから再検証して、「そもそも君主制、国家とは一体何なのか、本当に必要なのか、必要ならばどのように生活者自治秩序と国家統治秩序を調整するか、もし不要ならば世界同時にそれを廃棄する方法・順序とはいかなるものか」などを学問的に考えるべきであろう。 なお、ブルジョア国家論のほかに、マルクス主義国家論というものがある。マルクス主義は天皇制やブルジョア国家を科学的と称して批判するが、ではマルクス主義に基づいた国家、つまり共産主義国家でまともな国家があったであろうか。共産主義国家もまた資本主義国家と同じく、特権集団が労働者を収奪し、人権を侵害し、民族解放などの名分で侵略戦争を行なって領土を拡張するなど、同じ穴の狢ではなかったのか。さらに、共産主義は、緊張・対立するブルジョア国家を反共産主義の大義名分のもとに団結させすらし、好戦的な国が外国に軍事基地をおくことを正当化させたり、真面目な人々を間違った考え方にまきんだりして、多大な迷惑を民衆に与えているのである。 第一の課題については季刊誌『日本主義』、第二の課題の一部はとりあえず拙著『維新政権の秩禄処分』を参照して頂き、以下、ここでは皇位継承について、明治維新期に明示された男系男子継承法の依拠史実の誤り、最近でてきた女帝論の歴史的・学問的考察に限定して取り上げ、第三の課題については「天皇の国体護持活動」として終戦期・占領期について学問的検討を行なっておこう。 2 天皇制の成立(別稿) 3 天皇制の展開 A 皇位男系男子継承論ー明治維新期 女帝が皇位継承上で問題があるところから、長州閥の伊藤博文は皇室典範を制定して、男系男子皇統継承法を明確化していった。だが、それを打ち出すに際して依拠した史実に重大な誤りがあるので、筆者の最新の研究成果に基づいて、それを指摘し、修正しておこう。 伊藤は憲法制定過程で天皇の継承法などをも制定し、明治22年制定皇室典範の「第一章 皇位継承」の第一条で「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とした。これに関して、伊藤博文は、『皇室典範義解』(国家学会、明治22年4月)で、「皇位の継承は祖宗以来既に明訓あり」として道鏡事件渦中の和気清麻呂還奏の言(「我国家開闢以来君臣分定矣、以臣為君未有之也。天之日嗣、必立皇緒」)を引用した。これは、言うまでもなく『続日本紀』にある言葉である。伊藤博文は、憲法草案・皇室典範の作成実務に従事させていた井上毅らからこれを教えられたのであろうが、実は、彼らとても、神祇と仏教との鋭い軋轢という、この和気清麻呂の還奏経緯を知らなかったのである。これを簡単にみておこう。 神護景雲3年(769年)7月、称徳天皇が仏教法王道鏡の仏教統治の本格的推進に動き始めようとして、道鏡と皇位との関係が問題になってきた折に、大宰帥の弓削浄人(道鏡の弟)と太宰府の主神の習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」との宇佐八幡の託宣を伝えた。称徳はこれを聞いて、疑問に思ったはずだ。彼女は推古大王同様に皇位を守り引き継いでゆこうとしており、道鏡を皇位につけるなどはいささかも考えていなかったからだ。早速側近の尼法均の弟和気清麻呂を勅使として宇佐八幡に派遣して、「神の教えを聞いてほしい」(森田悌訳『日本後記』講談社、2006年、195頁)と命じた。これ以前に、道鏡師匠の路(みち)豊永が和気清麻呂に、「道鏡が皇位に着くようなことがあれば、自分は何の面目があって臣下として天皇にお仕えすることができよう」(『日本後記』、195頁)と懸念を表明していた。こうした道鏡皇位即位への懸念は、道鏡師匠のみならず藤原一族が抱いていたことであった。和気は、この懸念を共有していたから、称徳天皇の指示通りに冷静に「神の教え」を聞くつもりなどなく、恐らく藤原らと結託してはじめから宇佐八幡託宣に批判を抱いていたのであろう。或いは、弓削浄人と習宜阿曾麻呂の託宣伝奏から藤原の策謀があったのもかもしれない。 和気は宇佐八幡に着くと、「このたび伺った宇佐八幡の教命は朝廷の大事であり、信じがたい内容です」と、称徳の勅命にもかかわらず、問題の宇佐八幡託宣に疑問を呈した。そして、「願わくは、格別の神の意思を示せ」と求めると、「突如として神が長さ三尺ほどの満月のような形をして現れた」という。だが、これはかなり捏造臭い。神は和気に、「我が国では君臣の身分が定まっているにもかかわらず、道鏡は人の道に悖り、皇位につこうとの野望を抱いている。神は激怒して、その野望を聞き届けるようなことはしない。・・・汝は道鏡の怨みを恐れてはいけない。私が助けるであろう」(『日本後記』、196頁)と託宣したというのであった。彼は帰京すると、称徳天皇に、「わが国家は開闢以来君臣の分定まれり。臣を以て君とすることは、未だ有らず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人(道鏡)は早(すみやか)に掃(はら)ひ除くべし」という大神の託宣を報告した。伊藤博文も引用した上述の言葉である。称徳はこれを聞いて「怒った」とされている。称徳は、自分の命令を忠実に履行せずに、託宣内容に誰でも見破れるような作為・嘘を加え、道鏡排除を企てたことに怒ったのである。もし、和気が、「神は、道鏡即位論のような託宣をしていたことは確認できなかった」という偽りなき真実の報告をしていれば、称徳も怒ることはないし、彼を近衛将監の本官を解いて因幡員外介として左遷することもなかったであろう。なお、和気左遷後に、同年藤原百川が彼に封20戸を贈っているから、和気は策士藤原百川の描いたシナリオ通りに動いていたのではないか。 神護景雲3年(769年)10月1日、称徳天皇は皇族や諸臣らに、「朕を君と念はむ人は、光明皇太后によく仕えよ」、「朕が子阿倍内親王(後の称徳天皇)に明らかに浄く二心なくして仕えまつれ」という聖武天皇の勅語を引用し、また「天下の政事は慈悲(うつくしび)を以て治めよ。また上(かみ)は三宝の御法を隆(さか)えしめ出家せし道人(ひと)を治めまつり、次は諸の天神・地祇の祭祀を絶たず、下は天下の諸人民をあはれみたまえ」(『続日本紀』四、259頁)という、仏教が主・神祇が次という序列を説いた聖武天皇勅語を伝えた。聖武天皇時代から、統治の主根拠が仏法になっているのである。また、皇位は謀で得ようとしても、「諸聖(盧舎那如来、観世音菩薩、護法の梵天・帝釈・四大天王)・天神・地祇の御霊のゆるしたまわぬ」(『続日本紀』四、261頁)ものだから、結局「身を滅ぼす」とした。そして、称徳が「深く・・尊び拝み読誦」している最勝王経の「王法正論品」に、「もし善悪の所業をなしたら、現在の中に諸天と共にこれを護り、善悪それぞれのむくいをさし示させよう。その国の人が悪の所業をするのに、王がこれを法によって禁制しないのは、道理に沿ったものではない。当然しかるべく法によって処置せよ」(『続日本紀』四、263頁)とあることを告げ、群臣を教え導いた。さらに、同経を踏まえて、「この世には世間の栄福を蒙り忠しく清き名を顕し、後世には人天(人界、天界)とのすぐれた楽しみを受け、遂にはさとりを得て仏となれ」(前掲『続日本紀』四、263頁)と、神祇よりも仏教のほうが具体的に目標を指し示しているとした。そして、称徳は、「紫の綾」で8尺の帯を作り、「二つの端に金泥を以て恕の字」を書いて、五位以上の臣下に配った。この仏教的な恕(許す)で臣下は乱れず一致結束しようというのであろう(『続日本紀』四、263頁)。 このように、伊藤引用の言葉とは、仏教法王道鏡の皇位即位を阻止するために、和気(さらには藤原ら)が作ったものだったのである。かつて天智天皇が、神祇に基づく皇位継承が不改常典だという方針を打ち出さざるを得ないような切迫した事態が、この称徳天皇治期にも再出したのである。 続いて、伊藤は、「皇統は男系に限り女系の所出に及ばさるは、皇家の成法なり。上代独女系を取らざるのみならず、神武天皇より崇峻天皇にいたるまで三十二世曾て女帝を立てるの例あらず。故に神功皇后は国に当たること六十九年、終に摂位をもって終へたまへり。飯豊尊、政を摂し清寧天皇の後を受けしも、亦未だ皇位につきたまわず。清寧天皇、崩して皇子なし、亦近親の皇族男なし。而して皇妹春日大姫あり。然るに皇妹位に即かすして、群臣、従祖・履中天皇の孫顕宗天皇を推挙す。是れ以て上代既に不文の常典がありて、簡単に易ふべからざるの家法をなしたることを見るべし」と、上代には既に「不文の常典」があったとした。だが、はたして、これは上代から明確な不文皇位継承法だったのであろうか。 事実として、あるいは結果として、「神代」からの権力闘争の過程で大王男子が大王位を継いで来たようだ。それは、未婚長女が大王位を継ぎ、豪族男子らが婿入りすれば、長男なら大王位の乗っ取りという深刻な事態が起こりかねないし、さりとて婿をとらずに未婚を通せば後継者問題で王権は絶えず不安定を余儀なくされるが、豪族娘を大王男子の嫁とすれば土地財産の持参金がついてくるから、これ自体が大王財産形成には必須のことであったという現実的な諸問題があったからであろう。大王位の男系男子継承とは、常典というよりは、切実な諸問題に基づくことだったに違いないのである。仏教と神祇との権力闘争の過程で、神祇側(つまり、藤原側)がこうした事実を仏教派を挫折せしめるものと受け止めて、神祇にもとづく正当な皇位継承「常典」だと明確化していったのであろう。 そして、伊藤は、以後、「推古天皇以来、皇后皇女即位の例なきに非ざるも、当時の事情を推原するに、一時国に当り、幼帝の歳長するを待ちて、位を伝えたまわむとする権宣に外ならず。これを要するに祖宗の常憲にあらず。而して後世の模範と為すべからざるなり。本条皇位の継承をもって、男系の男子に限り、而してまた二十一条に於て皇后皇女の摂政を掲ぐる者は、蓋し皆先王の遺意を紹述する者にして、苟も新例を創むるに非ざるなり」と、女性天皇は便宜的なものとした。この見解は、次に簡単に触れる当時の神祇・仏教間の権力闘争を知らぬことを露呈したものと言えよう。 なお、伊藤は、天智天皇の「天に双日(二つの太陽)無く、国に二王は無い」という言葉を、「皇統にして皇位を継ぐは必ず一系に限る。而して二三に分割すべからず」と、南北二朝の批判に援用しているが、これまた、当時の彼らが直面した神祇上の危機、つまり推古祭祀大王、厩戸仏教法王という二王体制を批判したものであったことに気づいていないというべきである。もとよりこうした二王体制は「外部」にそう見えるだけで、当事者には、統治者は仏教法王大王であり、祭祀者は祭祀大王という分担が「合理的」に把握されていたのである。例えば、厩戸仏教法王大王は、十七条憲法の第十二条で「国に二君非(な)く、民に両主無し、率土の兆民、王を以て主と為す。所任官司は皆是れ王臣なり。何ぞ敢て公と与に百姓に賦斂(をさめと)らむ」と、朝税のほかに官司が百姓を過度に収奪することを禁止しつつ、「国に二君非」しとしている。外見上は二君制の様相を呈していたにもかかわらず、厩戸は仏教法王として仏教統治をして、自分こそが統治上の君主であり、推古は祭祀大王ととらえていたから、このように「国に二君非」しと言えたのである。 日本の天皇制とは、天皇が宗教的権威という存在であることにより、平安時代以降、政治担当者=権力者として上皇・法皇(院政)、征夷大将軍(鎌倉・室町・江戸時代の幕府政治)などが登場して、外見的に二君的性格を帯びざるを得なかったともいえる。だから、幕末に来日した外国人は、天皇と将軍のいずれが「元首」なのか戸惑ったりした。しかし、当事者は、天皇は祭祀を担い、位階をさずけ、将軍が統治を担うという内在的分担がなされていて、決して二君制とは認識していなかったのである B 女帝の歴史と皇位継承問題 現在女性天皇、女系天皇、或いは女性宮家等の議論が盛んである。それは、第二次大戦後のGHQの天皇制弱体策(皇族削減、華族廃止、宮内省の宮内庁への格下げ、皇室財産・世襲財産廃止、貴族院・枢密院廃止、内大臣府廃止、大元帥統帥権廃止、臣民廃止、現人神否定)によって、皇位の男子相続者が少なくなってきたために、皇位の安定的維持が困難になってきたことから生じたものである。確かにマッカーサーは天皇制を残しはしたが、それはあくまで短期的に占領行政を効率的に遂行するのに必要だったからであり、中長期的に天皇制が円滑に存続しうることなどは配慮していなかった。あくまで、主として新憲法押し付けで武装解除と天皇制弱体化を同時に行い、二度と天皇を大元帥とする強大な陸海軍と戦うことのないようにしたのである。マッカーサーの幕僚たちは吉田茂に、日本軍ほど精強な軍はないとよく言っていた(吉田茂『回想十年』第一巻)。こうした徹底的な天皇制弱体策に対して、天皇はこれまた国体護持のためと隠忍自重してしたたかにこれを受け入れた。だが、さすがに天皇は憲法改正過程で侍従・女官・嫁婿補給源ともいうべき堂上華族だけでも残してくれと望んだが、それすらも受け入れられなかったのである。 終戦直後の女帝論 この天皇制弱体策の一環とも言うべき第二次世界大戦直後のGHQの憲法改正押し付けの過程で、民主主義の観点から、退位論、女帝論が問題となったことがある。憲法改正に伴い、伊藤博文の定めた皇室典範や皇室経済法などの民主的改正が問題となってきたからである。ここに、昭和21年7月、憲法改正審議と並行して、臨時法制調査会(会長は吉田茂首相)が設置され、皇室典範も審議されることになった。 この臨時法制調査会では、新たに「人間天皇の自由意思の尊重」という観点から天皇退位がとりあげられた。しかし、政府は、「退位の制度については、かえって弊害が予想され、皇位の御安泰を害するおそれがある」として、これを定めなかった(吉田茂『回想十年』第二巻、56頁)。その予想される弊害とは何か。当時、天皇の戦争責任の観点から、退位、天皇制廃止論が提唱されており、しかも「退位、廃止」が同時に提唱される傾向もあって、皇室典範で退位規定を設けることは、これに拍車をかけかねなかったということであろう。 また、「男女同権の趣旨からこれを認めるべきだ」として、女帝が問題となった。男女平等の民主主義社会の君主制のあり方の一つとして、女帝があってもよいというのであろう。しかし、「女帝については、史上の先例はおおむね一時の摂位(仮の即位)であって変則であ」り、「実際問題として、その配偶者についてむずかしい問題を生ずる」として、これも退けられた(吉田茂『回想十年』第二巻、56頁)。女帝で最大の問題は配偶者なのである。男帝の場合、平民から妻を迎えても、男系の血が継がれるという言い訳がたつ。だが、女帝の場合、元皇族から夫を迎えれば、内部的には問題は生じないが、民主的観点からは時代逆行的とか非民主的と非難されかねない。では、平民から夫を迎えれば民主的でいいではないかというと、これはこれでもっと深刻な問題を生じてこよう。つまり、男系の血が薄れて貴種性が希薄化してゆき、貴種性希薄化した天皇が正当性をもって存続しにくくなるのみならず、天皇に見合う夫の地位・品格を維持ができるかどうか、当然予想される社会からの厳しい批判に堪えうる強靭な神経をもっているかどうかなどの諸問題が生じることになろう。 天照大神は女性だから女系の血こそ尊いという新しい貴種性をつくりだすことも可能かもしれない。そもそも貴種性とは後付けの考え方だからだ。だが、果たして血統貴種性そのものがいつまでも天皇畏敬の保証となるのかという問題もあろう。天皇から「親任」されたり「叙勲」されて一定の臣従関係が生み出されている人々ならば、天皇に一定意義を見出すのは容易であろう。だが、そういう縁のない人々、特に若い人々は、貴種性などに理解を示す所か、なぜ天皇が都心の一等地に税金で優雅な生活を送れるのかという批判を浴びせがちである。そういうご時世なのである。その上に、平民の夫が加わるとなれば、批判はますます強くなりかねない。 なお、天皇家に世襲財産があれば税金云々などの批判をかわすことができたであろう。英国女王は一大資産家であり、王室費をほぼ自ら賄えるから、英国王室には税金云々の批判はない。しかし、憲法作成過程で日本側は皇室財産廃止に同意しつつも、天皇に世襲財産を皇室費支弁財源にすること求めたのだが、GHQはそれを認めなかったのだ。貯金し献金を受けて、私有財産をつくれというのである。では、現在、天皇家に数百億円の皇室費を支弁できる資産ができたであろうか。 また、英国では、貴族制度が残り、かつヨーロッパ諸王室が一つの親戚関係にあることが、王制を支えている。例えば、チャールズ皇太子(ウェールズ公)の元妃ダイアナがスペンサー伯爵家の出身であり、エリザベス女王の夫(王配、prince consort)は、ギリシャ国王コンスタンティノス1世の弟アンドレオスの末子であるが、ヴィクトリア英女王(次女アリス系統)の血をひく。彼は1947年に英国に帰化し、「ギリシァ王子及びデンマーク王子の地位」(Prince of Greece and Denmark)を放棄し、国王ジョージ6世長女エリザベスと結婚し、あらたにエディンバラ公爵(Duke of Edinburgh )位などが授けられている。エリザベスが女王に即位してからは、貴族爵位、諸王室縁戚関係が、女王夫の地位を維持しているのである。日本では、王配に匹敵する皇配という称号こそあれ、はたして縁戚関係の王室がアジアにあり、華族制度がないにも拘らず公爵位に叙すことができるであろうか。皇配殿下と呼ぶのがせいぜいではないか。とにかく日本では未婚女帝に配偶者を迎えた経験は皆無なのである。憲法改正にしたたかに隠忍自重し国体護持をはかっていた昭和天皇が堂上華族だけでも残してくれと望んだことの切実なる理由が改めて理解されよう。 女帝の歴史 そもそも、日本では、未婚女帝が、夫を迎えるということは一度もなかったのである。配偶者問題から、そういう経験がなかったのである。つまり、女帝としては、33代推古大王(敏達大王の后)、35代皇極大王=36代斎明大王(舒明大王の后)、41代持統天皇(天武天皇の皇后)、43代元明天皇(草壁皇子の后)、44代元正天皇(未婚)、46代孝謙天皇=48代称徳天皇(未婚)、109代明正天皇(未婚)、117代後桜町天皇(未婚)と、10代8人の存在が知られ、44代元正天皇以降の4人が未婚女帝である。同じ未婚女帝でも、奈良時代の二人と、江戸時代の二人とでは趣がかなり異なる。 6世紀末に登場し8世紀の称徳天皇を最後に見られなくなった古代女帝は、権力者であった。彼女らの過半は皇后であった。彼女らは既に配偶者は天皇であるから、彼女らにおいては配偶者問題はおこらない。基本的には、なんら問題を起こさずに我が子の成人・即位までの中継ぎという役割に甘んじていたであろう。しかし、そのような場合でも、即位を予定していた皇子が死去したり、相応しくないとされた場合、やはり後継者問題が起きよう。そして、厩戸仏教法王と組んだ推古祭祀大王には、後継者問題など以上にもっと大きな積極的理由があったはずである。他の皇后女帝にも同じような事が指摘されるかもしれない(詳しくは、『仏教経済研究』『日本主義』に発表した一連論稿を参照)。 次に、未婚女帝が即位した場合には、彼女らは配偶者問題で結婚せずに未婚を貫いているから、この未婚女帝には子供ができないので、基本的には絶えず後継者問題がつきまとうことになる。彼女らは権力者であり、彼女らの中継ぎ機能の管理が行き届かない場合には、大きな問題を生み出す可能性もあった。元正天皇については、一時的な「摂位」とは言いがたい女帝だという研究もある(渡部育子『元明天皇・元正天皇』ミネルヴァ書房、2010年)。しかも、女帝が、皇太子と想定されていた皇族が天皇に相応しくないと言い出せば、後継者をどうするかという問題が生じる。況や、未婚女帝が本格的に天皇位にとどまり始めた場合、後継者問題は一層深刻になってこよう。これが称徳天皇の場合である。 それに対して、江戸時代の二未婚女帝は文字通り従順な中継ぎ天皇である。その一人明正天皇は御水尾天皇と徳川和子(二代将軍徳川秀忠の5女)の子であり、御水尾天皇が彼女を天皇寛永6年(1629年)7歳で即位させ、徳川の面子をたてつつ、寛永20年(1643年)21歳で退位させて、徳川の血が皇室に入らぬように、異母弟の紹仁親王(後光明天皇)に譲位させた。もう一人は後桜町天皇である。彼女は桜町天皇と藤原舎子の子であり、五摂家の申し合わせで異母弟桃園天皇の遺詔ということにして、5歳の英仁親王の即位までの中継ぎとして、22歳の宝暦12年(1762年)に即位させ、 明和7年(1770年)に英仁親王(後桃園天皇)に譲位させた。このように、彼女らは、当初から配偶者をめとることなく、ただ古代女帝の中継ぎ機能だけを担わされ、それに甘んじていると言えよう。その点では、二人とも中継ぎ管理の行き届いていた女帝だといえよう。 歴史的に見れば、女帝とはこのように本来的に「後継者問題」を内在化しているものなのだが、現在の女帝論、女性宮家論は、そうした「後継者問題」を内在する女帝論がGHQの天皇制弱体策に基づく男系後継者不足問題から生じてきたということに事態の深刻性がある。第二次大戦直後から早々と憲法の民主的改正問題との関連で女帝が問題となっていたが、この時はまだまだ男系後継者がかなり揃っていたから、女帝問題と本格的に向き合う必要はなかった。しかし、現在の女帝問題は、GHQの天皇制弱体策が背景にあるだけにかなり深刻なのである。 女帝集中の事情 このように女性天皇がある時期に集中し、以後登場しなくなったのは、当時の権力闘争とも密接な関連がある。上述の如く、通説は全ての女帝が摂位であったかのように見ているが、少なくとも、推古大王、称徳天皇の場合は明らかに摂位ではないのである。 筆者は40年余天皇制もまた研究の一環としてきたが、この問題への答えを簡単にいえば、この時期には、神祇派と仏教王国派との間に権力闘争があった。古来女性は宗教的祭祀者としては最適の皇統であることから、仏教が渡来すると、権力者がこの流れと仏教とを権力掌握に利用しだした。つまり、蘇我氏が仏教王国樹立を構想し、推古大王を祭祀大王、厩戸王子(後の聖徳太子)を仏教法王大王として権力を掌握しようとした。かかる仏教に基づく権力掌握の流れを神祇に基づく大化改新として阻止したのが、中大兄皇子と中臣鎌足であり、内々に神祇に基づく皇位継承法ともいうべき「不改常典」を定めたのである。 以後中臣は天智天皇から藤原姓を賜って、天皇の忠実な近臣として仏教法王の権力掌握を阻止して神祇による皇位継承を実現してゆく。藤原はこの皇位継承を維持するために、娘を天皇に嫁がせ、男子を生んで、皇位継承を確実にしてゆくのである。この神祇に基づく皇位継承方針と仏教法王樹立方針が再び衝突したのが、道鏡事件である。聖武天皇の娘孝謙天皇=称徳天皇は、厩戸皇子(この頃に聖徳太子と改名されたと推定)らの仏教王国再現を目指して、道鏡を仏教法王、自らを祭祀天皇とした。これを危機と受け止めた藤原一族はこれを頓挫させ、再び神祇に基づく男性天皇を擁立し、藤原娘を婚嫁させることを可能にすることにより摂関権力体制を軌道にのせ、天皇家存続と藤原一族繁栄を緊密に連関させてゆくのである。神祇に基づく男性天皇の「皇位継承法」は、藤原という権力者らが皇室・自家隆盛のために確立されたものである。 それに対して、35代皇極天皇=36代斎明天皇、41代持統天皇、43代元明天皇、44代元正天皇は、明らかに推古大王をきっかけに登場した女帝だったが、後継皇子が幼少になるまでの「摂位」であった。明らかに彼女らは一時的な女帝であった。しかし、推古大王、称徳天皇は仏教王国を構築するための「本格」的な女帝であったのである。 このように、仏教統治と神祇統治との軋轢が、女性天皇が6−8世紀に一時的と本格的との相違をともないつつ集中的に登場した理由であり、仏教王国路線が頓挫せしめられた称徳天皇以後は原則として女帝が登場しなくなった理由である。これは、ブータン仏教王国の権力構造(仏教経済研究所で発表、後に『仏教経済研究』に発表)の比較研究の内に鮮明となった、「富と権力」の総合的・根源的研究のほんのささやかな成果の僅かなる一部である(詳細は年刊『仏教経済研究』・季刊『日本主義』の一連論文参照)。 仏教統治・神祇統治 その後の文徳・清和・陽成天皇の治期は、仏教統治・神祇統治との関係と、天皇と臣下との関係において、画期的な時期であった(これは仏教経済研究例会で発表したもの、それに関連したもののほんの一部の小括を補訂したものである。なお、この研究会の学問的自由の空気と水準には無比の素晴らしさがある)。 第一に、天智天皇の不常改典「法」で天照大神を皇祖とする皇位の継承・維持は天皇・臣下の義務となり、それを正当化する伊勢神宮を頂点として神社が整備され、仏教も皇位継承・維持方針をうちだすことによって、皇位継承・維持については仏教統治と神祇統治の軋轢はなくなり、@嘉祥3(850)年に円仁が皇位を祈る道場として比叡山に総持院という大講堂を建てたり、A藤原良房が僧正真雅(真言宗)と謀って、「真言の秘密」を修める道場を造った結果、嘉祥3年3月25日に惟仁(良房娘の明子と文徳天皇の子、後の清和天皇)が生れ、貞観元(859)年に眞雅が天皇の皇位継承を過去の「良因」を引き継ぎ、仁の普及と仏の普及を連関的に把握し、仏教は具体的に皇位を受け継いだり、守るものとなったのである。 第二に、これを臣下の側から保証する装置として、臣下実力者が皇位を簒奪しないという仕組みとして「万機摂行」する摂政が登場し(つまり、功なり名とげた貴族にとって、摂政は到達点であるとともに、それ以上は立身できないという限界ともなるということだ)、仏教の側から保証する装置として、仏教僧侶が仏教法王などになって皇位簒奪しない仕組として僧綱位階(貞観6年)を制定したことである。 既に、神祇・仏教的に皇位が継承・維持されることを物質的に裏付けるものとして、天皇の先祖神が国土を造り、国土は天皇のものであり(27代安閑大王の王土論)、公地公民制で全国土は王土となり、聖武天皇は「夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり」(15年10月15日盧舎那仏造営の詔)としていた。だから、以後、最強最大領主が登場しても、日本全国土の領主になれるものは一人もおらず、名分論的に天皇が日本全国の所有者という思想は生き続けて、明治維新で息を吹き返して、版籍奉還の思想的根拠にもなっていったのである。つまり、鎌倉時代以降(初期・前期・後期封建社会、近世)は、天照大神を皇祖とする天皇の権威は最上権威となり、それが最強最大の権力者に利用価値ありとされて今日まで存続しえたのである。 皇位が長く継承されて、天皇の権威が増す過程で、最強最大領主は天皇を打倒して取って代わるより、征夷大将軍(或いは大臣)として天皇に臣従を表しつつ、武士最高の権威を得て、天照大神を皇祖とする天皇の至上価値を自己の正当化や統治円滑化に利用したほうがよいとしてゆくのである。仮に最強最大領主が皇位簒奪(例えば足利義満にこの意図を推定する者がいる)したところで、朝敵とされて、とても安定政権は維持できないであろう。権力者にとって、天皇権威は侵しがたい至上価値であり、それなるがゆえにいかなる権威よりも最大の利用価値があったのであろう。故にこそ、戦国時代に成り上がりの豊臣秀吉が諸大名統制に後陽成天皇を大いに利用したりした。 |
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