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                                「『懐風藻』の歴史的特徴」

                                              はじめに

 周知の通り、懐風藻は文学史上で重要な意義をもつ日本最初の漢詩集として多くの人々が取り上げてきた。そのほとんどが、懐風藻が、観念的・論理的、散文的であることを克服して、詩としての文学的価値をもつかどうか(詩趣・詩雅・詩意、平仄[漢詩で重視される発音規則で、平声、仄<上声・去声・入声>・韻・修辞、構成バランス)などを論じている(例えば、吉田幸一「懷風藻の修辭に關する一考察」『国学院雑誌』40−2、1934年、津田潔「『懐風藻』の平仄について」『国学院雑誌』82−1、昭和56年、八木毅「懐風藻の押韻について」・月野文子「『懐風藻』の押韻ー韻の偏りの意味するもの」[『上代文学と漢文学 』汲古書院、1986年]、辰巳 正明「懐風藻と中国文学」『古代文学 』25、1985年、高 潤生「『懐風藻』と中国文学--釈弁正「与朝主人」詩考」『皇學館大學』27−5、1994年など)。

 だが、掲載詩の作者は文才、詩才のある文人らのみではないのである。この点は、江口孝夫氏も、「この時代の作詩は詩人の作ではなく、漢学者や一部の教養人たちの社交上の余技」なので、「詩情が乏しいのはやむをえない」とし、「一篇のまとまり」、「秀句、対句の出来栄え」を互いに「楽しみ、ほめあうところで充分な役割をはたしえた」(江口孝夫『懐風藻』講談社、2000年、269頁)と評価する。これが文学的観点から見た場合の最大公約数的評価であろう。

 だが、この漢詩集は純然たる文学作品にとどまらず、何よりも特定集団による、特定意図を帯びた「政治的」文書でもあるのである。しかし、従来こういう観点からアプローチする研究は皆無であった。その結果、『懐風藻』がいかなる人々により、いかなる目的で編纂されたのかが、これまで解明されてこなかった。従って、本稿の課題は、懐風藻は極めて当時の政治的状況に深い関連をもつ作品であるという観点から、『懐風藻』の歴史的特徴を解明することである。つまり、本稿は、懐風藻の歴史的位置を作者の出自、題材・内容から学問的に把握することを目的としている。

 そのためには、まずもって、『懐風藻』編纂当時の権力者聖武天皇が、この時期いかなる仏教政策を打ち出していたかを正確に把握することが重要となる。これは、別稿で「文武・元明・元正天皇の仏教政策」、「聖武天皇の仏教政策」として考察している。これらで解明したように、、天平勝宝3年11月に懐風藻が編集されたのは、聖武天皇の譲位・出家、孝謙天皇即位のもとで、東大寺大仏が完成まじかとなり、国分寺・国分尼寺で仏教浄土が築かれるという「仏教統治絶頂期」でありつつも、そうした仏教偏重策によって皇位が極めて危い状態に陥っていた時期であったことが確認されたのである。時に左大臣は橘諸兄、右大臣は藤原の氏長者藤原豊成(藤原武智麻呂長男)であり、藤原仲麻呂(藤原武智麻呂次男)は大納言兼近江守であった。仲麻呂は、藤原出身の光明皇后を背景に着々と藤原挽回の機会をうかがいつつ、仏教偏重路線に危機感を抱き、その修正を企てていた一人であった。彼にとって、自分を引き立ててくれる天皇に対してはこれを皇恩として感謝しつつも、皇位継承を危くさせている事態を諌め、或いは是正することが喫緊の課題の一つになっていたといえよう。

 これを踏まえた上で、第一に、序文と伝記がこれを解き明かす上で重要な位置を占めているということが留意される。序文の内容、及び特定の個人にのみ伝記を付した理由と内容の考察から、この漢詩集の政治的性格が明らかとなるであろう。

 第二に、ここに掲載された「詩人」については、仏教如何で区別することが重要となる。この点は、従来は前期・後期などという時期区分がなされている。例えば、小島憲之氏は、「長屋王時代(養老頃ー天平元年)を中心として前期と後期とに大別」し、前期を第一期(壬申乱[672年]まで。「近江朝においては、文学の士を招き、酒宴の遊楽を開き、数多の君臣唱和や侍宴応詔の詩が詠ぜられた」が、朝鮮半島問題は未解決であり、序のように平和ではなかったが、「琴酒の公宴に詩歌が生まれたことは明らかであ」り、大友皇子の侍宴のように「近江の聖徳を目近かに讃美し、泰平の世をたたえる、うわすべりの詩が多かったものと思われる」)と第二期(壬申乱以降から和銅[715年]まで。この時期には、大津皇子・文武天皇・大神高市麻呂・藤原史などの詩が佳作として登場。道公首名あたりまでの50首が掲載され、詩が宮廷中心に作られたので、詩題は「侍宴や応詔(侍宴応詔・従駕応詔)の詩が最も多」く、「文選・玉台新詠、或は漢・六朝・隋代までの文学の精髄を類聚した類書『芸文類聚』」などが日本に伝来していて、「この期は六朝詩の模倣がかなり目立つ」こと)にわける。さらに、後期については、第三期(長屋王時代[養老期より天平初年長屋王自害頃まで]であり、初唐四傑の王勃『王勃集』『詩序』、駱賓王『駱賓王集一巻』などの影響下に、佐保邸(作宝[さほ]楼)には「数多の官人・文人」、新羅使節が参集して詩作)と、第四期(天平初年頃より天平勝宝3年まであり、特に「表面的」に初唐の影響が強く。王渤などの詩句を利用)に分けられている(小島憲之校注「懐風藻」『日本古典文学大系』69、岩波書店、1985年、12−4頁)。だが、この詩集の歴史的特徴を学問的に理解する上では、単なる時期区分ではなく、何よりも詩人の出自・身分と仏教関係の視点をからめた時期区分が決定的に重要である。そこで、本稿では、出自・身分と仏教関係を基準に詩人を分類している。

 まずは、大きく仏教関係者(現・元僧侶の釈智蔵、釈弁正、釋道慈、釋道融など)と非仏教関係者に区分している。これは、序文の内容、及び特定個人にのみ付せられた伝記とともに、『懐風藻』の仏教に対する基本的態度を確認する上で重要だからである。その上で、非仏教関係者の漢詩が考察される。その非仏教関係者としては、「三 天智天皇・藤原派」、「四 天武天皇系その他」、「五 律令・儒学関係者」、「六 官人」、「七 隠士」、などに分けて考察している。これから見るだけでも、天智・藤原一族、律令編纂者、大学(儒学者)関係者、官人が少なくないのであり、仏教に「深く」影響された者はあまり見られないということがわかる。

 以上の考察によって、本稿は、懐風藻を聖徳太子以来の百年余にわたる<神祇と仏教との対立・軋轢>の過程に位置づけて、その歴史的特徴を明らかにすることを課題としている。

                                一 『懐風藻』の「序」と「伝記

                                   1 『懐風藻』の「序」

 文字の導入 まず、『懐風藻』の「序」では、日本における無文字時代から文字・書物・儒教の始まりへの移行の歴史が述べられている。当時の「文化人」にとっては、文字は数千年来続けられてきた「語り言葉文化」を「文字文化」に転換させた点で「文化革命」とも称すべき大事件だったに違いない。そうした文化の最先端の文字を修得した人々は、縄文文化の素晴らしさを評価することなく、それ以前の無文字文化への「優越感」を抱き、「開化」の無上の充足感を抱いたはずである。それは、明治人が、明治維新で欧米から近代機械文明を導入して、文明開化の充足感に浸りきっていたのと似ている。いや、それ以上だったかもしれない。

 つまり、『懐風藻』は、日本における文字導入に関して、@「逖に(はるか昔の)前修(先哲、君子)を聽き、遐く(はるか昔の)載籍(古い書物、古事記・日本書紀)を觀るに、襲山(日向の山、高千穂)に蹕(車の先払い、邇邇芸命(ににぎのみこと)を降す世(天孫降臨し時)、橿原に邦を建てし時に、天造(造化の神)艸創(万物を造り始めたばかりで)、人文(人間の文化)未だ作らず」、A「神后(神宮皇后が)坎(韓)を征し品帝(応神大王が)乾に乘ずる(大王の位につく)に至りて、百濟入朝して龍編(経典)を馬厩(韓献上馬を飼うために造った厩が軽にあった。その厩)に啓き(教えて)」、B「高麗上表して烏冊(烏の羽で書いた本、書物)に鳥文(烏の足跡を見習って作った文字、そういう文字)を図しき(描いた)。王仁(応神大王の御代)始めて蒙(知識にくらい者)を輕島(都のあった奈良の軽島)に導き(教え導き)、辰爾(王辰爾)終に(具体的には敏達大王の御代に)教へ(文字の教え)を譯田(敏達大王の奈良に置いた都)に敷く(広めた)。遂に俗をして洙泗(孔子の学)の風に漸(すす)み、人をして齊魯(孔子)の學に趨かしむ」というのである。

 ABを敷衍すると、ここでは、王辰爾が王仁より先に活動したことになって居るが、実際は王仁が王辰爾より先に来日していた。つまり、まず、応神天皇16年(285年)、百済から王仁が来日し、「太子菟道稚郎子」は彼を「師」とし、「諸の典籍」を学習した。やがて王仁は「書首等の始祖」となる(『日本書紀』上、岩波書店、昭和51年、372頁)。こうして大陸の漢字文字が朝鮮経由で日本にもたらされても、日本ではなかなか文字は定着しなかった。それでも、外交文書などで、日本の権力者が漢字で外交関係を表現しはじめ、権力者の人名などに漢字が当てられ始めた。これと並行して、5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣(辛亥年[471年]の製作、第21代雄略天皇と推定される「獲加多支鹵(わかたける)大王」、彼の王宮「斯鬼(しき)宮」、神話の大彦命と推定される「意富比?(おほひこ)」を始祖とする系譜などが刻印)や、5世紀頃の江田船山古墳出土銀錯銘大刀(「獲加多支鹵(わかたける)大王」、「无利弖(むりて)」、「伊太和(いたわ)」という字音表記)などに、漢字の音を借りて権力者及びその関係者をも表記し始めた。こうして漢字の音を借りて固有語を表記する方法は5世紀には一部権力者間に見られはじめた。

 以後、厩戸仏教法王・蘇我の統治期には仏教経典などを通して、及び天智大王・中臣の統治期には漢詩・律令などを通して、漢字が普及していった。従来の漢字導入・普及については膨大な研究蓄積があるが、こういう観点からの核心に迫る研究は皆無である。懐風藻の撰者は、前者ではなく、後者を重視することになるが、文字普及の世界史的特徴を考慮し、且つこの時期の「心というポイントを踏まえた漢字普及」などについては、別稿「古代における文字普及」を参照されたい。
 
 そして、懐風藻は、『日本書紀』や漢詩(藤原宇合『宇合集』[最古の詩集]、石上乙麻呂「銜悲藻」)・和歌などの編纂・刊行機運に乗じて、次に見るように仏教統治批判を目的に編纂されたのである。


 聖徳太子批判 『懐風藻』の「序」では、「聖コ太子に逮みて(及んで)、爵を設け官を分ち、肇めて禮義を制す。然れども、專ら釋教を崇めて、未だ篇章(漢詩)に遑あらず」と、「聖徳太子」の仏教偏重統治を冷ややかに見て、それに批判的態度を見せるのである。

 すでに『日本書紀』でまだ別々ながらも聖徳、太子という語が使われていたが、厩戸仏教法王などが一般的表現であり、『懐風藻』の「序」で初めて聖徳太子という用語がでてきた。なぜか。神祇・藤原側らは、仏教法王大王厩戸の仏教統治と推古祭祀大王の神祇統治を整合的に把握するために、厩戸を天皇制に抵触しない存在として聖徳太子と命名し始めたのではないか。推古は大王で、厩戸は「推古天皇の摂政である聖徳太子」とすることによって、厩戸の仏教統治を天皇制にふさわしいものにできるのである。

 既に聖武天皇は仏教偏重策の中で厩戸王子に着目し、仏教法王大王厩戸の仏教統治と推古祭祀大王の神祇統治を整合的に推進したことを再現しようとして、733年4月聖武天皇は遣唐使多治比真人広成に、戒師を求める興福寺榮叡・大安寺普照を同行させた。た。8世紀後半に刊行された『唐大和上東征伝』では、天平14(742)年に、唐で仏教を学んでいた栄叡、普照は鑑真に会って、「本国には昔、聖徳太子という方がおられて、『二百年ののち、この聖教は日本に興隆するであろう』とおっしゃいました。いまがこの運に当たる時です」といって、訪日して「教化」にあたることを求めたとしている(宝亀10年[779年]刊『唐大和上東征伝』[前掲『日本の名著 聖徳太子』432頁])。聖武天皇は、仏教関係者などから聖徳太子が200年後に仏教興隆すると指摘していたことを聞かされ、自分こそがその聖徳太子の遺業を引き継ぎ成し遂げる使命をもつと自覚したことが確認される。聖武天皇は、「仏教国家の範を聖徳太子に仰」(中西進『聖武天皇・巨大な夢を生きる』PHP研究所、1998年)ごうとしたのである。

 天平宝字2(758)年8月9日、孝謙女帝が、こうした聖武天皇と聖徳太子との緊密な関係を踏まえて、藤原仲麻呂らをして聖武に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号を送った(『続日本紀』)。或いは、聖武天皇は、聖徳太子と連関して、生前から自ら聖武と称していたのかもしれない。

 以後、聖武天皇と「聖徳太子」とは、当時から仏教統治を推進した指導者として並び称されることになる。例えば、薬師寺僧の景戒(きょうかい)の書いた『日本霊異記』(822年刊行説もあり)では、仏法・仏典を尊んだ人々として、「或る(聖徳太子)は生まれながらにして高弁、兼ねて末事をしり、一たびに十の訴えを聞きて一言も漏らさず。生年二十五にして、天皇の請を受けて大乗経を説き、造れる経疏長につたはる。或る(聖武天皇)は弘誓の願を発し、敬みて仏像を造り、天、願ふ所に随い、地、宝蔵(黄金)をひらく」(前掲板橋倫行校注『日本霊異記』15頁)と述べられる。聖徳太子の「聖徳」・大乗仏教普及と、聖武天皇の天神地祇の支持した仏教統治とを並べ述べる。これに関して、倉西裕子氏は、「奈良時代の政治的状況の反映として聖武天皇の事蹟を飛鳥時代に投影させるため、『聖徳太子』が考案され」た可能性があると指摘する(『聖徳太子と法隆寺の謎』平凡社、2005年、243頁)。氏は、「聖武天皇は厩戸皇子に憧れを抱いていたのかもしれません」(255頁)とする。いや、聖武天皇にとり聖徳太子は憬れなどではなく、当時の深刻な天変地異への対処の切実な協力者であった。聖武天皇・孝謙天皇の父娘は、厩戸の目指した「神祇祭祀と両立する仏教法王統治―仏教浄土」の実現をめざした。

 やがて聖武天皇は聖徳太子の生まれ変わりとする説まで唱えられ、12世紀に成立した『東大寺要録』は、「聖武天皇は、聖徳太子の後身にして、救世観音の垂迹(すいじゃく)なり」とした(吉村武彦『聖徳太子』162頁)。

 『懐風藻』序は、聖徳太子の仏教偏重策を批判的に受け取ることは、とりもなおさず聖武天皇の仏教偏重策の批判にもつながるのである。

 近江帝讃美 こうして聖徳太子の仏教偏重政策を批判した上で、近江での天智天皇の天徳統治が讃美されるのである。

  「淡海(近江)先帝(天智天皇)の命を受くるに至るに及びや、帝業を恢開(大きく広め)し、皇猷(天子のはかりごと)を弘闡(開き広める)して、道(天子の道)乾 坤(天地)に格り(至り達し)、功(天子の功業)宇宙に光れり。既して以為らく、風(風俗)を調へ俗(俗人)を化することは、文より尚きは莫く、コに潤ひ身を光らす ことは、孰れか學より先ならんと、爰に則ち、庠序(学校)を建て、茂才(秀才)を?して、五禮(祭祀・喪葬・賓客・軍旅・冠婚)を定め、百度(多くの法度)を興す。憲 章法則、規模弘遠なること、夐古(遠い昔)以來、未だこれ有らざるなり。是に於いて、三階(宮殿)は平煥(治まって光り輝き)し、四海(国内)は殷昌(繁栄)、旒 \(りゅうこう、天子の冠に用いる玉と綿)は無為にして、巖廊(高く険しい廊下、宮殿)暇(いとま)多し、文學の士を旋招し、時に置醴(酒宴)の遊びを開く。此の  際に当りて、宸瀚(天子が詩文をつくること、天子)文を垂れ、賢臣頌(讃美の詞)を獻ず。雕章(ちょうしょう、美しい文章)麗筆、唯百篇のみにあらず。但し時、亂 離を經て、悉く?燼(わいじん、燃えかす)に從ふ。言(ここ)に湮滅を念じ、軫悼(痛み嘆く)して懷ひを傷む(心を痛める)」

 天智6年(667)3月に天智は鎌足とともに都を近江に遷し、藤原家もまたこの天智の開いた近江と深い関係を持った。つまり、@不比等は幼少時から山科の田辺史大隅等の家に養われ(『尊卑分脈』不比等伝)、A宝字4年(760)8月勅で「近江国十二郡」の淡海公に封ぜられ(『続日本紀』)、B鎌足は近江に隣接する山階の「山階之舎」に火葬され(『家伝』上巻「鎌足伝」)、C和銅5年(712)6月に武智麻呂は近江守となり善政を敷き、D天平17年(745)9月7日には仲麻呂が近江守となり、その没年まで近江との関係が続いて(川上富吉「麻田連陽春の和歌と漢詩 : 「麻田連陽春伝考」続」『大妻国文』巻43、2012年3月)、極めて密接であったのである。近江帝賛美は藤原讃美にもつながるのである。

 ここでは、「風(風俗)を調へ俗(俗人)を化することは、文より尚きは莫く、コに潤ひ身を光らすことは、孰れか學より先ならん」と、風俗を「調」「化」するものは、仏教ではなく、「文」「学」とされていることが注目されるのである。天智天皇の徳治統治の基軸とは、近江に於いて展開した、こうした「文」と「学」だというのである。

 文武天皇・藤原不比等漢詩の賞賛 壬申の乱以後、大津皇子、文武天皇、大神中納言、藤原不比等も、名編の漢詩を作ったとする。長屋王など王族の詩をものせて、吉野仙境を訪問することもなければ、詩にかかわる酒宴を開くこともなく、仏教偏重統治を推進する聖武天皇・称徳父娘を暗に批判するのである。

  「茲より以降、詞人(詩人)間出す(時々でた)。龍潛(淵に潜む龍。皇位についていないこと)の王子(大津皇子)、雲鶴を風筆に翔らし、鳳?(ほうしょ、鳳凰が飛 び立つ様、それだけ気品高い)の天皇(文武天皇)、月舟を霧渚に泛ぶ。神納言(大神高市麻呂)が白鬢を悲しみ、藤太政(藤原不比等)が玄造を詠ぜる。茂實( ぼうじつ、名編の詩が多く作られたこと)を前朝に騰せ(前の近江朝より多く)、英聲(詩人の名声)を後代に飛ばす」

 この聖武天皇の父(文武)・母(元明)・伯母(元正)の仏教政策については、拙稿「文武・元明・元正天皇の仏教政策」を参照されたい。これによると、文武・元明・元正天皇は廃仏的態度をとっていたのではないが、仏教の役割を低め、その弊害を指摘し始め、特に元正天皇は改めて仏教を改善し、統制して、平城京の守護として再び仏教を興隆させようとしたということである。つまり、文武天皇は神道を重視し、天変地異対策としての仏教利用の度合いを急減させ、仏教を統制的に扱う側面が強くなり、国家が鎮護仏教を維持するために、僧尼令で仏教教団の組織や活動について規制した。元明天皇はこれといった仏教統治を実行しなかったが、京内に西大寺・唐招提寺・薬師寺・東大寺・法華寺・興福寺・紀寺・大安寺を配し、仏教を利用しなかったのではない。元正天皇は、仏教の弊害を是正して、仏法を再び興隆させようとしたが、行基らの民間布教活動を「徒党を組」むと批判して、あくまで権力宗教としての仏教の興隆をめざした。しかし、この時期には、仏教と皇位との関係については、神祇による皇位正当化・維持が重視され、まだまだ仏教と皇位の関係は俎上にのぼってこなかった。仏教が皇位を奪わずに、その継承・維持に明確に関わろうとするには至っていなかった。特に、元正は、「平凡でおろそかなまま皇位を承け継いだ」として「自分にきびしくし、自ら勉め」て、富国策を打ち出し、民富が肝要としたり、道教的天地観に立脚した政策を打ち出した。にもかかわらず、即位5年目頃から凶作に直面し、「天の咎めの徴」が現れ、神祇(及び道教的)統治は行き詰まり、かなり仏教を重視し始めた。これは、次の聖武天皇が、神祇統治より仏教統治を重視するようになった背景を理解する上で重要である。

 懐風藻がメインに取り上げたのは、このようにまだ仏教偏重政策の行なわれなかった文武・元明・元正天皇の時期なのである。

 撰者の問題 そこで、「余」はこれらの詩文が散逸し忘れられないように、この詩集を編纂したとした。露骨に仏教統治批判のためにこの詩集を編纂したと公言すれば、仏教統治推進中の聖武天皇らの譴責か処分を受けかねないであろう。

 「余、薄官の餘間(暇があること)を以て、心を文囿(詩文の世界)に遊ばしむ。古人の遺跡を?し、風月の舊遊(昔の人々が風月で遊んでいたこと)を想ふ。音塵(故人の消息)眇焉たり(はるかに遠くなっている)といへども、餘翰(残された詩文)ここに在り。芳題(立派な詩題)を撫して(いつくしんで大事に)遙かに憶ひ、?の?然(げんぜん、はらはらと流れ落ちる)たるを覺へず(気がつかない)。縟藻(じょくそう、美しい詩文)を攀(よ)ぢて(探して)遐(とお、遠)く尋ね、風聲(詩人の名声)の空しく墜る(失う)ことを惜しむ。遂に乃ち魯壁(ろへき、孔子らが住み弟子が住んでいた場所で、紀元前213年、秦の始皇帝が「焚書」の厳命を発したので、孔家は重要書籍を壁の中に残したという故事)の餘磊(よと、故人の残した多くの書籍)を收め、秦灰(秦の始皇帝が燃やしそこねた書籍)の逸文を綜(す)ぶ(集める)。遠く淡海(近江)より、平都(平城京)におよぶと云う。凡そ一百二十篇、勒(ろく)して一卷と成す。作者六十四人、具さに姓名を題し、并せて爵里(官職と出身地)を顯はして、篇首に冠らしむ(詩の初めにおいた)。余此の文を撰する意は、將に先哲の遺風を忘れざらむとするが為なり。故に懷風の名を以つて、これを云ふことしかり。時に天平勝寶三年歳辛卯に在る冬十一月なり。」(以上、江口孝夫『懐風藻』25−36頁)

 この「余」とは誰か。江戸時代、「林羅山の第三子林鵞峰(がほう)が、その『本朝一人一首』に、淡海三船と称して以来」、それが追随されてきたが、水戸彰考館の一学者がこれに疑問を呈し、「明治以後の刊本にも、この説が主流」(山岸徳平『日本漢文学研究』有精堂、昭和47年、70頁)となった。淡海三船(722−785年)撰者説については、撰者と見られる根拠(@仏教と漢詩文を両立させ、かつ彼の漢詩と懐風藻に類似した用法が見られる事、A天智近江朝系の末端の王子である事)より、撰者と見られない根拠(@聖武天皇から還俗・入唐を命じられた三船が、将来自分を引き立てる可能性のある聖武天皇の仏教政策を批判することはありえないこと、Aもし三船が撰者ならば名前を秘する必要はないこと、B出家期間が長く、聖武天皇の仏教偏重政策が皇位継承に重大な問題を投げかけていることなどは知る事はできなかったろう事、C還俗後も式部少丞に任じられるが、入唐準備で多忙だったはずであり、「薄官の餘間」など該当しない事、Dそもそも「薄官」は右大臣・左大臣とか卿クラスの高官が謙遜して用いているものであり、薄官とはあっても、「必ずしも文字通り薄官と解すべきでない」(小島憲之校注「懐風藻」『日本古典文学大系』69、岩波書店、1985年、9頁)のであり、故に式部少丞などは文字通りの「微官」であること、E仮にこの漢詩編纂が入唐準備の一環だとしても、遣唐使随行命令から10ヵ月間という短期間で、近江から奈良まで80年間という長期間の漢詩編纂は個人には困難であろうこと)の方が優勢であるが(王 勇「淡海三船をめぐる東アジアの詩文交流」[『中国の日本研究』浙江工商大学日本文化研究所所収、デジタル論文]なども参照)、三船撰者説を完全に否定し去ることはできない。

 三船の外に、「葛井蓮広成や、長屋王や、石上宅嗣や、大職冠伝撰者恵美押勝の子藤原刷雄」などが撰者に推定されている(山岸徳平『日本漢文学研究』有精堂、昭和47年、71頁)。長屋王は既に729年に自尽させられているから、751年に彼が『懐風藻』を編集したということはありえない。ただし、小島憲之氏は、天武天皇の皇孫長屋王「関係の詩を多く収集」している事に着目し、撰者は天智系ではなく、天武系であるとしているが(『日本古典文学大系』69、11頁)、問題は長屋王の漢詩の内容である。そこには、近江朝系が掲載するに足る価値があると認めるものがあったに違いないということである。だとすれば、撰者は天武系だとは言えなくなる。

 撰者は仏教偏重に批判的な天智天皇・藤原側の人物であることは明らかである。もとより、藤原一族とて仏教菩提寺をもち、廃仏を主張するのではなかったが、皇位を脅かしかねない仏教偏重には批判的であったという統治大局観を持っている。この観点から見ると、葛井蓮広成(五言律詩「奉和藤太政佳野之作」の作者)、石上宅嗣(漢詩掲載者石上乙麻呂の子。729−781年)撰者説は否定はできないが、積極的根拠が弱い。

 最後の「大職冠伝撰者恵美押勝の子藤原刷雄」は一考に値する。藤原刷雄とは、藤原仲麻呂6男で、若い時から禅行を修めて、天平勝宝4年(752年)遣唐使の留学生として藤原清河に随行することになり、還俗させられ、渡航前に無位から従五位下に昇叙される。彼は脱俗的に仏教修学してきた青年僧から還俗した点で淡海三船に似ているが、淡海三船が病気で入唐できなかったのと異なり、彼は実際に乗船して入唐している。仲麻呂は、刷雄と三船には統治に深く関わる仏教ではなく、脱俗的な学問仏教を日本にもたらすことを期待して、還俗させるように画策したのではないか。その様な藤原刷雄が懐風藻を編纂したとは、ほぼ上記三船理由と同様に考えがたいが、三船同様に完全に否定し去ることもできない。

 従って、懐風藻撰者としては、淡海三船、藤原刷雄、葛井広成を完全に否定し去ることはできないが、統治大局観をもち仏教偏重政策に批判的な人物という点に着目すれば、彼らは撰者候補から除かれることになる。そうした最有力候補の一人は、藤原四兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)死後、頭角をあらわしつつあった人物、藤原仲麻呂その人だということである。彼は、藤原不比等の長男藤原武智麻呂の次男であり、長男藤原豊成が当時の藤原氏の長であった。しかし、仲麻呂は、光明皇后の引き立てを受けて、天平13年(741年)民部卿、天平15年(743年)参議、天平18年(746年)式部卿を経て、天平20年(748年)正三位、天平勝宝元年(749年)7月2日に大納言、天平勝宝2年(750)従二位へと昇進・昇叙する。既に仲麻呂は僧正玄ム(717年遣唐使に学問僧として随行し、法相を学んで在唐18年に及び、735年の遣唐使船で帰国し、聖武天皇の仏教偏重策に加担)を排除しようとし、745年(天平17年)筑紫観世音寺別当に彼を左遷し、封物も没収したりしていた。だが、左大臣橘諸兄(757年死去)との対抗上からも、露骨な仏教批判ができる立場にはなかった。

 そこで、藤原仲麻呂らが編み出したのが、遣唐使派遣の機に乗じて、唐に持参するという口実で漢詩集を編纂し、その漢詩によって、聖武太政天皇・光明皇后・孝謙天皇の仏教偏重政策を諌めることではなかったか。遣唐大使は藤原清河(藤原北家の祖である参議・藤原房前の四男)、遣唐副使は大伴宿禰古麻呂、吉備真備であり、天智系の淡海三船(天平勝宝3年[751]正月27日に敕して淡海三船を還俗させ、2月17日に随行員113名の一人としてに叙位)や仲麻呂子息の刷雄(天平勝宝4年[752]閏3月入唐理由に従五位下に叙す)や随行させようと画策した。この遣唐使は仲麻呂らによって推進され、聖武天皇の仏教政策に沿うという大義名分を持たせるべく、唐の戒律僧鑑真の招聘、阿部仲麻呂の連れ戻し、東大寺大仏に塗る黄金の取得などを口実にしつつも、実は仲麻呂は「この遣唐使に最新の唐国の政治制度に関する情報収集と調査を命じていた」(木本好信『藤原仲麻呂』ミネルヴァ書房、2011年、69頁)のであった。当時の唐五代皇帝玄宗(712−756年)は、@教僧達の度牒(僧尼資格の国家認証)の見直しを行ない、A老子(本名は李耳で唐皇帝と同姓)を宗祖とする唐朝で就中道教を尊重し、自ら『老子』注釈書の『開元御注道徳経』を撰していたから、仏教偏重批判側としては好都合でもあったろう。

 こうした推定は、@藤原仲麻呂が天平17年(745年)に近江守を兼任して以来、天平宝字元年(757年)紫微内相に転任しても、近江守を兼任しており(この近江守は仲麻呂には「鎌足から不比等・武智麻呂、そして自身へとうけつぐべき藤原氏の嫡流とそての存在を誇示する政治的意味」をもつ[木本好信『藤原仲麻呂』ミネルヴァ書房、2011年、46頁])、この漢詩の母胎の近江朝と密接な関係があること、A父の不比等長男の藤原武智麻呂(南家初代)は天平元年大納言、6年右大臣となり、習宜(すげ)別邸で「毎秋九月の文学の集会」で漢詩を作り(小島憲之校注「懐風藻」『日本古典文学大系』69、岩波書店、1985年、14頁)、不比等3男の藤原宇合にも漢詩才があって『宇合集』を編纂していて、既に藤原一族が漢詩集を編纂していた事、B『続日本紀』の天平宝字8年9月18日藤原仲麻呂「薨伝」に「率性聡敏にして、略書記に渉る」(多くの書物を読んでいた)とあるように、仲麻呂は「当代屈指の漢学者である淡海三船にも匹敵する」(木本好信『藤原仲麻呂』2頁)文学者でもある事、C懐風藻掲載の麻田陽春漢詩によって仲麻呂自らも漢詩を作っていたことが確認され、麻田「和」詩としてそれを懐風藻で発表したこと、D仲麻呂が大職冠伝(家伝上[藤原鎌足と定恵と藤原不比等の伝記]、家伝下[「武智麻呂伝」僧延慶が編纂])の編纂上でも主導権を発揮していたこと、E懐風藻の構成・内容から見て、当時の聖武天皇・孝謙天皇の仏教偏重政策による皇位継承問題の深刻化に直面して、それに対処しようとする天智天皇系・藤原側の意向を受けて編纂されたと見ることができる事、F懐風藻に天子を諌める漢詩・伝記などが含まれていること(藤原万里「過神納言墟」・律師釈道慈「伝記」・三輪高市麻呂)、G藤原四兄弟のうち父藤原武智麻呂のみ漢詩を掲載していない理由は、仲麻呂が謙虚さを発揮して、他の藤原3家に配慮し、藤原一族の結束に留意したと言えなくもない事、H大納言という身分も左大臣・右大臣などの高官からみればまだ「薄官」といえること、I仲麻呂腹心の石上乙麻呂の伝記・漢詩4首が収載されていることなどからも傍証されよう。

 もし撰者が藤原仲麻呂だとすれば、天平勝宝2年(749)に孝謙天皇が即位し、藤原仲麻呂が大納言に昇任し、東大寺盧舎那仏像の鋳造なるという事態が重要となろう。なぜなら、仲麻呂は昇進には恩を感じつつも、こうした「皇位存続に重大問題をもつ独身女帝の即位と仏教偏重策の推進」には大きな危機感を抱いたはずだからである。だとすれば、『懐風藻』の編集は聖武太上天皇、孝謙天皇を諌める目的でこの頃から始めたとも推定されよう。そして、最新の唐の情報を得ようとして、仲麻呂が遣唐使派遣を検討し始めると、この機会に乗じて、子供の刷雄や天智系の淡海三船を還俗させるように画策して、唐の「学問」仏教研究のために随行させ、かつ編纂に一部協力させるようなことがあったかもしれない。さらには、仲麻呂の名前が懐風藻に記載されなかった事情も、仲麻呂はこうして懐風藻で諌めたり、対応したにも拘らず、孝謙上皇が仏教偏重策を是正せずに、ここに皇位存続をめぐって仲麻呂と孝謙が武力対決し、仲麻呂が敗れた結果、藤原一族から除名され、懐風藻からも撰者名が削除されたと合理的に理解されるということである。

 藤原仲麻呂と和歌 万葉集は、当時「政敵」橘諸兄と彼の委嘱を受けた大伴家持が編纂していたが、漢詩を重視した藤原仲麻呂も万葉集に和歌2首を残している。

 天平18年(746)正月平城京に「数寸の積雪」があり、橘諸兄は大臣・参議ら(藤原豊成、巨勢奈弖麻呂、大伴牛養、藤原仲麻呂、穂積老、小田諸人、小野綱手、高橋国足、太徳太理、高岳河内、秦朝元[彼のみは唐の生まれで和歌は読めなかった]、楢原東人ら)や諸王(三原王、智奴王、船王、邑知王、小田王、林王ら)を率いて、朝賀を兼ねて元正太上天皇の御所(中宮の西院)に赴き、雪のお見舞いをした。元正は、酒を賜い宴会を催し、「この雪を歌に作って献上せよ」(『万葉集』下、筑摩書房、昭和50年、219−220頁)とした。この時22人が歌をつくったが、大伴家持(従五位下)は諸兄、紀清人、紀男梶、葛井諸会、家持の5人の和歌のみを書き残し、「書かずにおいた歌」を「なくなってしまった」のであった。この時、藤原仲麻呂は宴会の歌といえば、和歌より漢詩であろうと思い、大伴家持中心に編纂される和歌集には「不快」と「対抗心」を抱いたかもしれない。

 その後天平勝宝4年(752)、藤原仲麻呂は、大納言の時、自邸で「入唐使(藤原清河)らを餞別した宴」で、「天雲の 往き還りなむ ものゆえに 思ひぞわがする 別れ悲しみ」と歌っている(『万葉集』下、277−8頁)。この時、漢詩も読んだであろうが、この和歌が万葉集に載せられた。

 また、橘奈良麻呂変後の天平宝字元年(757)11月18日に「内裏で宴」を催した時、大炊王皇太子と内相仲麻呂が和歌をうたっている。大炊王は、「(天地を 照らす月日の)きはみなく あるべきものを 何をか思はむ」と歌った。即位は決まっていると歌った。仲麻呂は天地を受けて、「いざ子ども たは(狂)わざ勿為(なせ)そ(ふざけるな) 天地の 固めし国ぞ 大和島根は」(『万葉集』下、310−1頁)と、乱や変を起こしても、日本は天地の神々によって決まっていると奏上している。仲麻呂は「群臣の妄動を戒め」、「橘奈良麻呂の変を鎮圧し、政治権力を掌中にして、他を圧倒するような自信と威圧に満ち」(木本好信『藤原仲麻呂』ミネルヴァ書房、2011年、108頁)ている。

 このように、やはり日本人には即興詩と言えば和歌であり、漢詩を即興で作ることは困難であったようだ。、藤原仲麻呂といえども、事前に題を与えられていなければ、適切に韻を踏んだ漢詩を作ることは至難であったであろう。藤原仲麻呂は三回和歌を即興で詠み、うち二首が万葉集に収載されたということである。我々は和歌をも嗜む仲麻呂文才を確認しておこう。


 『藤原家伝』 この家伝は、@職員令にいう功臣「家伝」に該当する性格をもつものとして名付けられたものであるが、A「仲麻呂は、現『続日本紀』のもととなった、文武元年(697)から天平宝字元年(757)までの61年分の記録である『曹案三十巻』(『類聚国史』巻一四七)の編纂を進めたことが推測され、祖父不比等の時に完成した『日本書紀』にならって続編の国史の編纂を図ってもい」て、「『家伝』の諸伝は、仲麻呂がもった中国文化への憧憬や歴史編纂への意欲を背景としつつ、功臣が連続して仲麻呂にまで続くという家系の主張として編纂されたという史料的性格をもつものととれられ」、「『家伝』の内容をみると、中国正史の列伝にあたるような性格がうかがえる」(佐藤 信「『家伝』と藤原仲麻呂」[沖森卓也ら『藤原家伝 注釈と研究』吉川弘文館、平成11年、401頁])ものである。

 ただし、これには補足が必要であろう。つまり、758年孝謙天皇が光明皇太后看護の為と称し譲位し、淳仁天皇を即位させ、孝謙上皇が淳仁天皇を祭祀天皇として仏教統治をしようとする動きを見せてくると、藤原仲麻呂は一層深刻な危機感を抱いて、太師(太政大臣に相当)に就任しつつ、『藤原家伝』を編纂して藤原氏の神祇統治・皇位継承にかかわることを正当化しようとしたということである。単純な功臣家伝ではないということだ。『藤原家伝』下では、僧延慶が父藤原武智麻呂の敬虔な仏教修行・信仰をのべているように、もとより藤原氏は廃仏的ではなく、あくまで仏教偏重した仏教統治に強く反対するということである。

 だから、『藤原家伝』上では『懐風藻』と同様な神祇的な王化思想・忠孝に徹した君臣関係の重視方針などで貫かれているのである。つまり、中臣鎌足について、@推古天皇22年に生まれる時、外祖母が母に、鎌足「懐妊の月は常の人と異」なり、「神功」ある「非凡の子」になるだろうと予言した事、A鎌足の「性は仁孝」で、「人となり偉雅」であり、兵書「太公六韜」を愛読した事、B鎌足の「神識・奇相」は当時の権力者蘇我入鹿に比べて「勝れ」ること、C鎌足は、「軽皇子の器量は與に大事を謀るに足らず」として、別の「君を擇(えら)ばんと欲し、王宗を歴見するに、唯(ただ)中大兄は雄略英徹。與(とも)に亂を撥(おさ)むべし」とすること、D鎌足は山田臣に「臣子の行は、惟(ただ)忠と孝なり。忠孝の道は國を全くし、宗(もとい)を興こす」と、忠孝道を説く事などが語られている。大化改新で蘇我を排除したことについては、@中大兄は天皇に「「鞍作、盡く王宗を滅し、將に天位を傾むけんとす。豈(あに)帝子を以って鞍作に代えんや」と、鞍作(蘇我入鹿)の皇位簒奪が蘇我入鹿誅殺の根拠としたこと、A蘇我蝦夷も自宅で自尽して、敵を掃蕩すると、中大兄は「絶えたる綱 更に振い、頽運(けいうん)また興るは、實に公の力なり」と、鎌足を賞賛するが、鎌足は、「これは聖コに依れり。臣の功にあらず」とし、天皇聖徳を強調した事が述べられている。

 皇位継承について、皇極天皇が「位を中大兄に傳えんと欲(おもお)したまう」ので、中大兄が大臣鎌足に諮るに、鎌足は「古人大兄は殿下の兄なり。輕萬コ王は殿下の舅(おじ)」であるから、「人の弟の恭遜の心に違(たが)う。且つは舅を立てて以って民の望に答うるは、また可(よろ)しからずや」とし、ここに中大兄は密に帝に言うと、「帝、策書を以って位を輕皇子に禪(ゆず)」った。孝徳大王は、「中大兄をもって、皇太子と爲し、改元して大化と爲し、「詔して曰く、「社稷安きを獲るは、まことに公(鎌足)の力に頼る。車書、軌を同じうするは抑(そもそも)またこの擧なり。仍りて大錦冠を拝し、内臣を授け、二千戸を封ず。軍國の機要、公が處分に任ず」とした。

 中大兄の王化統治について、@「時に中大兄皇太子は侍臣に傳え聞く、『大唐に魏徴有り、高麗に蓋金有り、百濟に善仲有り、新羅に淳有り』と。各一方を守り、名は萬里に振う。これ皆當土の俊傑にして智略は人に過ぎたり。この數子を以って、朕が内臣に比ぶれば當(まさ)に跨下に出ず。何ぞ抗衡(こうこう)を得ん」と、中国朝鮮の重臣に優る内臣を賞賛し、A十四年から「皇太子政を攝(と)り」、「政は簡寛を尚び、化は仁慧を存し、遂にコは寰中(かんちゅう)に被り、威は海外を懐(なつ)けしむ。これを以って三韓事に服し萬姓安寧たり」。故に、高麗王が鎌足に書を贈り、「惟みるに大臣が仁風を遠く扇(あお)ぎ、威コは遐に覃(およ)ぶ。王化を千年に宣(の)べ、芳風を萬里に揚げ、國の棟梁と爲す。民は船橋を作り、一國の瞻仰(せんぎょう)する所、百姓の企望なり。遙かに聞きて喜抃(きべん)し、馳慶(ちけい)良深(りょうしん)たり」とし、J天智天皇の御代は、「朝廷に事なく、遊覧これを好み、人に菜色なく、家に餘蓄有り。 民は咸(みな)太平の代(みよ)と稱す。帝、群臣を召し、酒を濱樓に置き、酒酣(たけなわ)に歡を極わむ」とした。

 こうして、鎌足は王土王民論に立脚していて、「七年の秋九月。新羅調を進む。大臣、即ち使の金東嚴に付し、新羅の上卿信に船一隻を賜う。或人これを諌めるに、大臣對えて曰く、「普く天の下に王土にあらざるは莫く、率土の濱に王臣にあらざるは莫し」としたりした。そして、近江朝での天皇・鎌足の君臣関係は、「古より帝王の隆恩、宰相の極寵、未だ今日の若き盛有らざるなり」とした。 

 また、近江令に関して、「これより先に、帝大臣をして禮儀を撰述し、律令を刊定し、天人の性に通じ、朝廷の訓を作らしむ。大臣と時の賢人、舊章を損益し、略條例を爲す。 一(もは)ら敬愛の道を祟い、同じく奸邪の路を止め、理(ことわり)折獄(せつごく)を愼しみ、コは好生を洽(うるお)し、周の三典・漢の九篇に至るまで以って加うるなし」とした。

 一方で、鎌足は仏教を篤く大事にした。つまり、「大臣、性は三寶を崇(あが)め、四弘(しこう)を欽尚し、毎年十月、法筵を荘嚴にし、唯摩の景行を仰ぎ、不二の妙理を説く。また家財を割き取りて元興寺に入れ、五宗學問の分を儲け置く。この由に、賢僧絶えず。 聖道稍く隆たり。盖しその徴なるか。百濟の人、小紫沙昭明、才思穎抜(えいはつ)にして文章世に冠せり」であった。鎌足は仏教を大事にしたが、仏教を偏重して皇位を危くさせるようなことはなかったということである。

                                           2 伝記

 伝記は、編纂者が皇位継承問題啓発と仏教偏重批判・脱俗仏教主張を歴史的を浮き彫りにする目的で懐風藻を編纂した意図を明らかにしている。前者の皇位継承問題啓発は太政大臣大友皇子、河島皇子、大津皇子、葛野王の伝記で語られ、仏教偏重批判・脱俗仏教主張は釈智蔵、弁正、釈道慈、釈道融の伝記で述べられている。異質なのは石上乙麻呂の伝記であり、これは漢詩の精神的作用が「純文学的」に語られている。

 こうした「伝記」で重要な歴史的特徴を把握するという『懐風藻』の手法は、実は『藤原家伝』の鎌足伝(大織冠伝)・貞慧伝・武智麻呂伝の手法と基本的に変らないものである。つまり、@家伝には仲麻呂の人物に対する「歴史評論的叙述」が見られ、「積極的に人物・歴史の価値判断・評価を盛り込もうとする姿勢」が示され(佐藤 信「『家伝』と藤原仲麻呂」[沖森卓也ら『藤原家伝 注釈と研究』吉川弘文館、平成11年、412頁])、A後者の延慶も仲麻呂の「家僧」と推定され、「巻末の仲麻呂への賛辞(553行〜)などをみても、やはり仲麻呂の意向のもとで『家伝』に収められる諸伝が撰修されたと考えてよい」(同上論文399頁)のである。仲麻呂は自分の主張を歴史的に明示するために「伝記」手法の重要性を認識していたということである。このことも、『懐風藻』撰者が藤原仲麻呂とみる有力傍証の一つとなろう。
 
                                @ 太政大臣大友皇子(1番、648−672年) 

 大友皇子は天智天皇の長子であり、次期天皇となるべき皇太子であった。彼の漢詩が最初に掲げられている。人名に付した()内の数字は『懐風藻』での掲載順序である。

 「伝記」では大友皇子が夢(「天中」が抜けて「朱衣の老翁」が太陽を捧げて、皇子に授けたが、誰かが現れて、その太陽を奪い取った)を内大臣藤原鎌足に話すと、「恐らく天智天皇崩御ののちに、悪賢い者が皇位の隙をねらうでしょう」が、「わたしが普段申し上げて」いたように「こんな事が起りえま」せん。私の聞いている所では、「天道 親なし」(天の道は親疎を設けず公平であり)、「ただ善をこれ輔く」(善である者だけを助ける)からであり、故に「大王 勤めて徳を修め」れば「災異憂ふるに足らざるなり」とした。そして、重要なことは、皇位簒奪を防止するために、藤原鎌足は、「息女」を「願はくは後庭に納れて」「箕帚(きそう、掃除)の妾」(身の回りの世話をする妻)にされたいとして、藤原は帝室と「姻戚を結」んで、帝室と「親愛」の仲になった(江口孝夫『懐風藻』講談社、2000年、42頁)。

 大友皇子は、太政大臣、皇太子となったが、@「広く学者沙宅紹明(百済帰化人、法律に詳しい)、塔本春初(百済帰化人、兵法に詳しい)、吉太尚(百済帰化人、医学に詳しい)、許率母(百済帰化人、五経に詳しい)、木素貴子(百済帰化人、兵法に詳しい)などを招いて顧問の客員」とし、A「天性明悟」で「古事に興味」を持ち、B「筆を執れば文章となり、ことばを出すとすぐれた論」となり、「文藻(詩文の才能)」は「日に新た」である(江口孝夫『懐風藻』43−4頁)。

 こうして、天智天皇皇太子の大友皇子は、藤原鎌足の指導で、娘を嫁がせ皇位を繋ぎ、かつ仏教を学ぶのではなく、百済帰化人の学者から法律・兵法・五経などを学び、大王としての「徳」を積み、古事に興味を抱き、文藻を日々磨いていた。だが、壬申乱で叔父天武天皇に破れ「天命」を遂行できずに逝去した。

 彼を最初にもってきたことの重要性は、次の二つの漢詩にあきらかである。いずれも神祇的・道教的な天智天皇の徳化統治が謳われている。まず、「宴に侍す」と題する詩では、「皇明 日月と光(て)り 帝徳(天智天皇の聖徳) 天地に載(み)つ。三才(天地人) ならびに泰昌(太平に栄え) 万国 臣義(臣下として仕える礼儀)を表す」(江口孝夫『懐風藻』45頁)と、五言絶句で天智天皇の徳治が賞賛されている。

 「懐を述ぶ」と題する詩では、「道徳 天訓(天法)を承け 塩梅(程よい政治) 真宰(天)に寄す。羞づらくは監撫の術(監国[本国に残って国を治める]撫軍[従軍すること]の術=太政大臣としての政務)なきことを 安んぞ 能く四海に臨まん」(江口孝夫『懐風藻』47頁)と、太政大臣としての大友皇子が天法を受けて程よい政治をしようとしているが、自分には太政大臣の統治能力がないから、どのように天下の統治に臨もうか悩むという謙虚さを謳った。

 こうして、『懐風藻』冒頭で、天智天皇・大友皇子の徳治統治が述べられ、これこそが天皇統治の原点であり、理想なのであって、仏教統治などではそれから程遠いことを示したのである。

                               A 河島皇子(天智天皇次男)(2番、657−691年) 

 「伝記」では、河島皇子は大津皇子とは「莫逆の契り」をなしていたが、「逆を謀る」を知って、持統天皇朝廷への「忠正」からそれを密告した。「朝廷その忠正を嘉し、朋友その才情を薄んず」と見るが、余は「私好を忘れて公に奉ずる者は忠臣の雅事、君親に背きて交を厚うする者は悖徳の流(者)のみ」と評価する。ただし、親友に忠告せずに「塗炭」の苦境に追い込んだことには「疑う」ものであるとした(江口孝夫『懐風藻』49頁)。このように、一方的に河島皇子の友人謀反密告を賞賛せずに疑問を表明しているところに、編者の「温容」「弘雅」さを示したと言えよう。

 河島皇子は、五言絶句「山斎」(山中の書斎)と題して、「塵外(俗世の外の山中) 年光(春の光)満ち 林間 物候(風物と気候)明らかなリ。風月 遊席(酒宴の席)に澄み 松桂(常緑樹の松や桂のように変らぬ) 交情を期す」(江口孝夫『懐風藻』50−1頁)と、歌った。こういう風潮を身に受けて、神祇派皇族らしく、出家などして仏教に助けをもとめるのではなく、神仙郷の如き山中で幽雅風流な生活を続けて、今後は変らぬ友情の大切さを期したいとしたのである。

 神仙郷の如き山中で漢詩の如き文物で自己を磨きあげている姿が浮かび上がる。仏教に救いを求めていないということである。

                              B 大津皇子(天武天皇三男)(3番、663−686年) 

 大津皇子は、天智天皇の皇子ではなく、天武天皇の皇子であるが、なぜそういう彼の漢詩を載せたのか。それは、河島皇子の親友の大津皇子もまた、河島皇子のように詩文をよくしたが、仏僧の悪影響で謀反を起こしたことを強調するためである。仏教とは皇位を脅かす危険なものだということを強調するためである。

 まず、彼の「伝記」で、大津皇子は、「状貌(身体容貌)魁梧(すぐれて逞しく)、器宇(度量)峻遠(非常に大きく)、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す(詩文を作る)。荘なるにおよびて(成人して)武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。」と文武両道にすぐれ、かつ「性すこぶる放蕩にして(のびのびとして)、法度に拘らず(規則に縛られず)、節を降して(高貴なのに身分を低く謙虚にして)士を糺す(人士を厚く遇した)。」のであった。立派な皇子である。だから、皇子には「人多く付託(付き従う)」したのであった。

 これほどの人品学識ある皇子がなぜ謀反などを起こしたのか。問題はここである。「伝記」は、「天文卜筮(星座占い)」をよくする「新羅の僧行心」が大津皇子に、「太子の骨法 これ人臣の相にあらず。これをもつて久しく下位に在るは恐らくは身を全うせざらん」と告げたことに惑わされて、大津皇子は「逆謀を進」めたことになっている。大津皇子の謀反のきっかけは仏教だというのである。大津皇子が、「この?誤(欺いて身の処し方を誤らせる行為)に迷いて遂に不軌(謀反)を図」ったことは、「嗚呼惜しい」ことだというのである。結局、「良才」を持ちつつ、「忠孝を以て身を保たず」、この「?豎」(悪賢い小人)に近づいて死罪に処された。これに対して、撰者は、仏教的戒めではなく、「古人交友を慎しむの意」ということを「おもんみれば」、深い意味があるとしたのである(江口孝夫『懐風藻』53−4頁)。

 まさに、仏教批判のために、わざわざ「逆臣」大津皇子をあげ、仏僧の接近さえなければ、実に立派な人物であったことを強調するために、異例にも4篇の詩(五言律詩「春苑言宴」・「遊猟」七言絶句「述志」、五言絶句「臨終」)を掲げたのである(江口孝夫『懐風藻』55−63頁)。

                           C 釈智蔵(4番、没年73歳[600年前後ー670年前後と推定]) 2首

 釈とは「釈迦の門弟」の意味である。釈智蔵は篤学の僧侶であり、三蔵を唐から伝えた事によって、持統天皇から僧正に任じられた。なぜ、そういう高僧を載せたのか。それは、僧でありつつも漢詩を作って修養に努め、僧としての修行の醜さや奇行、僧侶仲間の人間的下劣さを明らかにしつつ、僧正になっても政治的野心をもたず、隠者のように行動したからである。神祇派が理想とする仏教僧は、政治に介入する僧侶ではなく、山野で脱俗して修行する隠者僧なのである。

 「伝記」によると、釈智蔵は、天智天皇の頃に唐に留学し、呉・越地方の「高学」の法師尼のもとで修行し、6、7年で「学業頴秀(抜きん出ること)」して、「同伴の僧」が嫉妬して「忌害」を加えようした。そこで、智蔵は、身の安全をはかるために、「髪を被りて(振り乱して)陽り狂し(偽って狂人となり)、道路に奔蕩(走り廻って乱行する)」した。そうしながら、智蔵は、「密かに三蔵の要義を写し」木筒に入れ、「漆を著けて秘封」して背負って「遊行」した。同僚は、「軽蔑して以て鬼狂」として危害を加えなかった。

 唐から帰国後、帰国僧らは各自が持参した経書を日にさらして虫干したが、智蔵は「経典の奥義を日にさらす」と言うと、衆人は「嗤笑」して「妖言」とした。だが、智蔵が「業を試みら」れ「座に昇り」て経義を敷衍すると、「辞義峻遠にして音詞雅麗」であり、反論・異論が「蜂」のように起こっても「応対」は「流るるごと」くであった。人々は智蔵の「言に従」い、驚き、持統天皇はこれを賞賛して僧正にした(江口孝夫『懐風藻』64−6頁)。

 竹林の風を受けて山野を逍遥することを歌った五言律詩「翫花鶯」、秋の山川の風情の変化に「竹林の友」に心を乱すなと歌った五言律詩「秋日言志」には、仏教者の姿と言うより、俗事を離れて山野山川で心を研ぎ澄ます「隠士」の姿がうかがえる。

                            D 正四位上葛野王(5番目、669?ー706年) 2首

 葛野王は、大友皇子の長子、天智天皇の孫である。編纂者が葛野王を取り上げたのは、皇位継承法について、仏教などに関りのなく行なわれるという古来からの方針を述べ、文武天皇を立てる上で功績があったからである。皇位の正しいあり方を示したのは、仏教ではなく、仙境で遊び有徳の葛野王だったことを示そうとしたのである。

 伝記によれば、葛野王は、「器範(器量と法度)宏?(広くはるか遠い)、風鑑(風采と鑑識)秀遠」であり、材は「棟幹(根幹)」に堪え、門地は「帝籍」を兼ねている。さらに、才能も豊かであり、「少くして学を好み、博く経史に渉」り、「すこぶる文を属することを愛し、兼ねて書画を能く」した。

 そして、伝記は、この葛野王が、持統天皇の皇位継承候補の選定会議で混乱を収拾することを取り上げるが、この時期の皇位継承の複雑さを理解するには、伝記では触れていない吉野盟約から見ておく必要があろう。679年に天武天皇は、天智の子(川島皇子、芝基皇子)と天武の子(草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子)との間で締結された吉野盟約で、諸皇子は天武天皇に協力することを約束させられ、以後、「天皇制」は天武系皇子と天智系皇子の協力のもとに営まれてゆくことになった。681年天武天皇は草壁皇子(天武天皇の次男)を皇太子に指名した。この事は、@後継天皇は、天智系皇子と天武系皇子から今上天皇の指名で選ぶ事となり、A天武天皇が天武系皇子を後継に指名したことから、原則天武系皇子が皇位を継承することになり、B天武系皇子が途切れた場合には、時の天皇の指名で天智系皇子が即位する可能性もあることを意味するのである。天智系が天武系に反旗をひるがえすことができなかったのは、天武天皇の指示というより、その軍事力であろう。もし農業生産力が増加し在地兵力が成長していれば、天智系がそれを背景に天武系に抵抗したり、二王朝を打ち立てる可能性があったということである。武力基盤を持たない天智系のできる事は、神祇・藤原系は前例のない天武系独身女性天皇を迎えて、皇位継承問題の深刻化を懸念するなかで、こうした懐風藻などを編纂したりして、天智系こそが皇位「原点」であり、皇位「正嫡」とみて、虎視眈々と天武系皇子が消滅することを期してゆくのがせいぜいであったろう。正に懐風藻は、仏教偏重を批判し、その仏教偏重が皇位継承を危くさせることに警鐘を鳴らし、聖武上皇・孝謙天皇を諌める書だったのである。

 686年天武天皇が死去すると、有力候補(天武天皇の三男の大津皇子)もあって、?野讃良皇女(天武天皇の皇后)が草壁皇子即位までの中継ぎとしてとりあえず「称制」として統治した。しかし、689年草壁皇子が死去したために、690年に?野讃良が持統天皇に即位して、高市皇子(天武天皇の長男)を太政大臣にして後継天皇に即位させることを図った。伝記が書き出す箇所は、696年に高市皇子が死去した所からである。即ち、持統天皇は、「王公卿士」(皇族諸公百官)を宮中に召し出して、「日嗣を立てる」ことを協議させた。伝記はこの協議に触れて、群臣は「おのおの私好を挟んで祝儀紛紜」となったとする。この時、葛野王が、「わが国家の法たるや、神代よりこの典を以て仰いで天心(天意)を論」じた。この典とは、「従来子孫相承して以て天位を襲」いでいるというものであり、「もし兄弟相及ぼさば、すなはち乱れん」とした。天皇ー皇太子の系統を「聖嗣(天皇の後継)」にする事が「自然に定まってい」て、「この方」以外に「たれか敢へて間然せんや」とした。恐らくこれが藤原鎌足、中大兄皇子の定めた不改常典の一部であろう。しかし、弓削皇子(天武天皇第9皇子)が子孫継承に「言うことあらん」としたので、葛野王は「これを叱し」たのであった。葛野王は、天武天皇と后の?野讃良皇女の間に生まれた草壁皇子を皇太子に立てて次期天皇に定めていたが、持統天皇3年(689)に死去したので、その草壁皇子の子である軽皇子に皇位継承させるべきと主張したのである。持統天皇はわが孫軽皇子に皇位継承させたかったから、「その一言」で皇嗣軽皇子(文武天皇)がきまったことを賞して、葛野王を式部卿に抜擢したのであった(江口孝夫『懐風藻』71−4頁)。

 この伝記の次に、葛野王が園で梅と鶯で愁いと老を忘れると歌った五言律詩「春日翫鶯梅」、吉野の東北の竜門山に遊び官務の煩いから脱し仙人の境地にたどり着きたいと歌った五言絶句「遊竜門山」(江口孝夫『懐風藻』74−7頁)の二首が載せられている。

                            E 弁正法師(15番、702年遣唐使随行、生没年不明) 2首

 6番目に記載された神祇伯中臣大島「以降の諸人、いまだ伝記をえず」となるが、実際には下記のように4人には「伝記」が付されている。それには、各人ごとに理由がある。

 まず、なぜ仏教僧「弁正法師」を「伝記」を付しているのかから考察してみよう。伝記では、「弁正法師」は、性格は「滑稽」で、「談論」をよくし、かつ「玄学」(魏・晋時代に盛行した老荘哲学)に詳しく、大宝年間に唐に留学し、李隆基(後に玄宗皇帝)に会い、囲碁がうまかったので「賞遇」され、唐で死去したと述べられている(江口孝夫『懐風藻』117−118頁)。つまり、彼は、出家しつつも、玄学を大いに学び、唐に留学し、道教を重視する唐皇帝玄宗帝に寵愛されたからでもある。

 まず、五言律詩「与朝主人」で、唐宮廷に出勤する様子を歌い、「漢(中国)の皇帝」よろしく「神明」(神のような明徳)で遠方の胡国まで「柔遠」(服従)させていると歌う(江口孝夫『懐風藻』118−120頁)。漢詩で唐皇帝の徳を賞賛したのである。次に、五言絶句「在唐憶本郷」では、唐の地から故郷日本を思う気持ちを「同音畳用」して楽しんでもいる(江口孝夫『懐風藻』121−122頁)。

                                F 律師釈道慈(57番、生年不明−744年) 2首

 ここからは、冒頭から離れて、50番台・60番台の3人に「伝記」が付されている。二人は僧侶であり、一人は高官である。

 道慈は、若くして出家し、大宝2年(702)入唐し、三論宗を修行した。唐遊学17年後の養老2年(718)に帰朝し、天平元年律師となり、当時の俊秀僧と称された。天平9年(737)大極殿で金光明最勝王経を講じ、天平14年(742)天皇に厳導七処九会図像を造って、大安寺に施入した。天平16年死去したが、伝記では、なぜそのように聖武天皇に重用された俊秀高僧の漢詩などを載せるのかが説明されている。

 「伝記」によると、@添下(奈良県生駒郡)で額田氏に生まれ、若い頃出家し、「聡敏にして、学を好」み、「英材明悟」で「衆」が賞賛し、A大宝元年に入唐し、「明哲」を歴訪して講義を長く聞き、「三蔵(経・律・論)の玄宗(玄妙な宗旨)」に通じ、広く「五明」(古代インドの学問で、声明[音韻・文法・文学]、因明[論理学]、内明[教理学]、工巧明[工芸・数学・暦学]、医方明[医学])の「微旨」(微妙で奥深い宗旨)を談じ、B唐皇帝に仁王般若経を講ずる高僧百人の一人に選ばれ、「優賞」(充分に賞する)し、C16年間の留学を終えて養老2年に帰国すると、「帝」(聖武天皇)はこれを賞賛して「僧綱律師」に登用したが、B性格が非常に「骨?(こうこう、骨?之臣[主君を諌める直言が容易に主君に入れられないことのたとえ])」で、「時のために(仏教法王として政治に介入しようとする時勢のためにか)容れられず」、律師を辞して「山野に遊」び、やがて「京師」(奈良)に出て、70歳の時に大安寺を建立したことを述べるのである(江口孝夫『懐風藻』329−332頁)。

 では、道慈は聖武天皇にいつ諫言したのか。道慈は、天平元年律師となり、『続日本紀』によると、天平9年(737)4月8日律師道慈が、「天勅を奉って、此大安寺に住み、修造以来、此伽藍に於いて、災事あるを恐れ、私に浄行僧等を請い、毎年、大般若経一部六百巻を転ぜしむ。これによって、雷声があると雖も、災害の所はない。請う、自今以後。諸国進調庸各三段物を取って、布施に充てることを。請う、僧百五十人も、令転此経を転ぜしめんことを。伏して願う、護寺鎮国、平安聖朝。此功徳を以て、永く恒例となすことを」と請うた。天皇はこれを勅許した。さらに、同年10月26日、律師道慈を講師となし、堅蔵を読師となし、聴衆一百、沙弥一百に大極殿で金光明最勝王経を講じた。

 天平14年(742)には天皇に厳導七処九会図像を造って、大安寺に施入しているから(江口孝夫編『懐風藻』講談社、329頁)、諫言して下野したのは少なくとも天平14年以後であろう。また『愚志』で経典に従わない僧尼を批判し、僧尼の資質向上のために戒師を唐から招請することを提案し、これは聖武天皇に容れられ、大安寺の僧侶普照・栄叡が派遣されているが、これもまた聖武天皇に諌める前のことであろう。道慈は天平16年に死去しているから、諫言の時期は天平14−6年となろう。いずれにしても、道慈は晩年には聖武天皇・称徳天皇父子の仏教統治の反対者になったのである。これが道慈漢詩が『懐風藻』に掲載された理由であろう。この道慈諫言は神祇派の諫言と相通じるものがあったのであろう。

 さらに、いつ大安寺を建立したのか。上記「伝記」では大安寺建立は彼の下野後となっているが、実際には帰国後に行なわれていたようだ。「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」(天平19年[747年]作成)によれば、@大安寺の起源は今の奈良県大和郡山市にあった熊凝精舎であり、Aこの熊凝精舎は大和郡山市額田部に現存する額安寺(額田寺)がその跡ともいわれ、道慈実家の額田氏と関わりがあり、B聖徳仏教法王が田村王子(のちの舒明大王)に、この熊凝精舎を本格的な寺院にすべきことを告げ、この意思を受けた田村王子が舒明天皇に即位後の639年に百済川辺に百済大寺を建立したという(木下正史『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』角川書店、2005年、21ー2頁)。後に、この百済大寺が高市大寺・大官大寺を経て、710年平城京遷都とともに716年に大安寺となったようであり、大安寺建立は道慈下野後ではないのである。聖武天皇が、聖徳法王ゆかりの寺院建立を額田氏出身の道慈に与らせたということであろう。道慈が聖武天皇に諫言する前には、聖武天皇から相当に厚遇されていたということである。藤原仲麻呂らに似ているのである。

 次に、彼の漢詩から道慈を『懐風藻』に掲載した理由を考えてみよう。入唐中に作成した五言律詩「在唐奉本国皇太子」で、@「三宝」(仏法僧)は皇太子(後の聖武天皇)の「聖徳」を「持し」て(護持して)、「百霊」(百神)は皇太子の「仙寿」(仙人としての寿命)を「扶」け、A皇太子の「寿」命は「日月と共に長く」、皇太子の「徳」は「天地と与(とも)に「久し」いと歌う(332−3頁)。和銅7年(714)に首皇子14歳は立太子式を迎えているので、入唐中の道慈がこれを祝して漢詩を寄せたのであろう。ここでは、@道慈が仏教振興に努めた仏教法王聖徳王子と首皇太子を考慮してか、仏教が皇太子の「聖徳」を護持するとし、A神々や仙人思想にも配慮していたことがわかる。天皇を仏教一色でとらえていないのである。

 帰国後には、道慈は長屋王から邸宅での詩酒宴に招待され、それを辞退する時に作った漢詩「初春竹渓山寺に在り。長王の宅において宴す。追って辞を致す」(「初春在竹渓山寺於長王宅)の「序」が掲載されている。この「序」で、@「嘉会」(めでたい宴会)に招かれたが、「旨」を知って「驚惶」(驚きおそれ)し身の置き所を知らず、Aなぜなら道慈は少年の時に「落飾」し、常に寺に住み、「族詞吐談」(詩文をつくり談笑すること)は未熟であり、「道機」(仏道での悟り)と「俗情」とは「まったく異」なり、「香盞」(こうさん、寺院用の盃)と「酒盃」とは同じではないからであり、Bこの「庸才」が長屋王の「高会」に赴くことは理に背き、「心に迫る」(心に迫って苦しい)し、魚(俗人の食べ物)と麻(僧の食べ物)が居場所を変え、方と円とが形を改めれば、本性を養うことができず、「任物の用」背くので、謹んで次の「韻」(詩)を作って、「高席」を辞すとした(江口孝夫『懐風藻』333−336頁)。仏教側が、仏道と仙境・老荘に基づく漢詩とは異なるということを自ら明らかにしてるのである。だとすれば、道慈のように、仏教が政治に介入することなどは恥じ入るべきことであるという批判につながる。

 その漢詩では、@「緇素」(しそ、黒衣と白衣、僧侶と俗人)ははるかに異なり、金と漆のように同じにできないものであり、A僧侶とは、「納衣」(僧衣)に「寒体」(卑しい体)を蔽い、「綴鉢」(てつはち、つぎあわす鉢)に受けた施しで「飢?」(きろう、飢えたのど)を潤し、「蘿」(ら、つた)を編んで「垂幕」(すいばく、簾)とし、石を枕にして岩の中で寝泊りするものであり、B身を「抽んでて」(引き出して)「俗累を離れ」、「心を滌(すす)いで」色欲を脱した「真空」を守り、杖をついて「峻嶺」(しゅんれい、険しい峰)に登り、襟を開いて「和風」(穏やかな風)を受け、C僧は、寒さの身にしみる「単躬」(独り身)であり、「方外の士」(世捨て人)であるとし、最後の行で「何ぞ煩はしく宴宮(宴席の宮殿)に入らん」と歌った(江口孝夫『懐風藻』336−9頁)。この脱俗の修行僧こそが、神祇派の要求する僧侶なのである。聖武上皇・孝謙天皇に、僧侶とはかくあるべきものと諌めたのである。

                                    G 釈道融(62番、生没年不明) 5首

 次の釈道融でも、政治に介入する僧侶ではなく、隠者僧侶の漢詩が紹介される。

 「伝記」では、僧侶道融漢詩を掲載する理由として、釈道融もまた神祇派が求める僧であることが語られている。彼の身に付けた仏教は、過度に統治に介入する仏教ではなく、隠者の仏教なのである。漢詩5首とあるが、漢詩1首あるのみである。ほかの4首は神祇派には不都合なものか、不要であったのであろう。作者64人、掲載漢詩約120篇とあるが、実際には漢詩は116篇しかないから、この欠落した4篇とはほぼこの釈道融の詩と見てよいであろう。

 つまり、「伝記」では、@若い頃から「博学多才」で特に文才があり、A母の死で「山寺に寄住」し、法華経を知って、「われ久しく貧苦」でいまだ「宝珠」(仏性)が「衣中」(体内)にあることに気づかなかったが、気づいた今では、仏教に比べ、「周孔(周公旦や孔子)の糟粕(教えのかす)」などは私が留意するに足るものではなく、「俗累を脱し」て出家し、B「精進苦行」し、仏教の戒律を守り、当時の仏教徒が誰も「披覧」することのなかった宣律師著『六帖鈔』に着目し、これを敷衍して講義し、これを機に世間もこれを読み始め、C光明皇后はこれを賞して、糸・絹帛3百匹を施与したが、道融は「菩提(仏教の真髄を窮めること)のために「法施」(仏法を説いて教えること)をしただけであり、これによって報酬を望むのは市井俗人の事のみ」と言って、遁世したとある(江口孝夫『懐風藻』353−5頁)。

 七言絶句「我所思兮在無漏」(わが思ふ所は無漏にあり)では、楚辞法(句ごとに兮を使用)、荊軻の成語(ただし、この成語は秦王の刺客となって出発する時の決意であるから、脱俗世捨ての決意とはことなるものであるが)を駆使して、A自分の思いは「無漏」(解脱)にあるが、「貪瞋」(貪欲で愚か)を絶つのは困難であり、A修行の道の「険易」は自分の思い如何によるので、壮士が去って二度と戻らない決意であると歌った(江口孝夫『懐風藻』353−6頁)。神祇派にとって、こうした脱俗修行にかける強い決意は大いに歓迎するところなのである。

                            H 従三位中納言石上乙麻呂(63番、生年不明ー750年) 4首

 石上乙麻呂は左大臣石上麻呂の第三子であるが、天平11年久米若売(藤原宇合[天平9年死去]の妻)を奸した罪で土佐に配流された。当時、@「雑律」によれば、「姦」は徒(懲役)1年、配偶者がいる場合は徒2年であり、A「名例律」「獄令」によれば、従四位の石上には減刑特権があったのに、遠流とは明らかに重罰と言うべきであった。それは、石上の姉妹国守が式家藤原宇合に嫁ぎ、広嗣を生み、その広嗣が橘諸兄の「強硬な反対派」となっていたので、天平10年12月に橘諸兄は広嗣を太宰少弐に左遷していたように(木本好信『藤原仲麻呂』ミネルヴァ書房、2011年、21ー2頁)、橘諸兄は、藤原仲麻呂腹心の石上もまた「姦」を口実に都から追放しようとしたのであった。

 彼は、天平15年に赦され、西海道巡察使、治部卿に復帰し、中務卿、中納言にまで昇進した。彼は、仲麻呂らの画策と漢詩の才で呼び戻され、仲麻呂の太政官掌握画策で、天平20年には石上乙麻呂が多治比広足、石川年足、藤原八束とともに参議に新任し、天平勝宝元年(749)7月2日には石上乙麻呂は多治比広足、紀麻呂とともに中納言に就任した(木本好信『藤原仲麻呂』55、59頁)。彼の復活は、橘諸兄派に対する藤原派の反撃であるとともに、漢詩の教化作用に関する最適事例でもあり、故に懐風藻の題名もこれに負うと言われているほどなのである(江口孝夫『懐風藻』360頁)。

 まず、伝記では、@彼の「地望」(家柄・名声)は「精華」(尊い家柄、華族)であり、才能は「頴秀」(えいしゅう、すぐれて秀でる)で、「雍容」(ようよう、温和な容貌)で風雅であり、非常に風儀(振る舞い)が良く、「典墳」(古書)も耽溺したが、非常に「篇翰」(詩篇文章)を作ることを愛し、A以前「朝譴」(朝廷の譴責)で「南荒」(南の果て、土佐)に「飄寓」(ひょうぐう、故郷を離れて他国にさまよう)し、淵に臨み沢に詩を吟じ、「文藻」(文章)を書き上げ、「銜悲藻」(かんぴそう)二巻をまとめ、「今世に伝わ」っていて、B天平年間、聖武天皇が彼の才能を評価して遣唐使に任命し、「衆みな悦」んたが、結局行くことはなく、Cその後、従三位中納言を授けられ、「台位」(大臣の位)に昇進して、「風采」は上がり、「芳猷」(立派な事蹟)は遠大といえども、「遺列」(死後に残った仕事)は「蕩然」(あとかたもないこと)であるとした(358−360頁)。宇合は天平9年に死去しているから、知られている中では『宇合集』が最古の詩集であり、乙麻呂の「銜悲藻」は天平11−15年間の土佐配流の経験を詠っているから、日本で二番目に古い詩集となろう。それに対して、『懐風藻』とは、残存する漢詩集の中では日本最古ということになる。

 漢詩というと型や故事に拘泥する肩苦しいイメージを持ちがちだが、ここに掲載された漢詩では、流された土佐での友を思う悲しみや愛人を思う切なさが卓抜に表現されて居る。

 最初の五言律詩「飄寓南荒 贈在京故友」(南荒に飄寓して京に在る故友に贈る)では、京から遠く離れた土佐に遊び、徘徊してわが心をいとおしみ、蘭・桂・雁・蝉などの自然に癒されるが、京の友との「相思」は「別れの慟(かなし)み」に直面し、白雲に向けて琴を徒にひくしかないと(江口孝夫『懐風藻』361−2頁)、在京の友との友情が詠われている。

 次の五言律詩「贈掾公之遷任入京」(掾[三等官]公の任に遷[うつ]り京に入るに贈る)では、「南裔の怨み」をもつ自分を残して、君は「北征(北方の京に行く)の詩」を詠じ、自分は秋の哀感を詩にし、琴を弾じて夕景を眺め、月光を受けて散策し、別離後も長く友情に「違う」ことのないようにしたいと歌う(江口孝夫『懐風藻』363−4頁)。京に向かう友との友情を大事に思う気持ちが表白されている。

 三番目の五言律詩「贈旧識」(旧識に贈る)では、寒い冬に京都から遠く離れた地で寂しく白髪の増えた地方官として勤め、胸襟を開いて話そうにも友もなく、「ほとり愁傷」すると悲しみを歌う(江口孝夫『懐風藻』365−7頁)。京にいる友と話すことができない悲しさが表現される。

 最後の五言律詩「秋夜閨情(寝室での心情)」では、異郷の地で「麗人」と談笑する夢をしきりに見て、寝室で歓んでいたのに、夢から覚めて「恨んで」空しく泣き、「展転」(寝室で寝返りをうって)して「閨中」(ねやのうち)のことを思い出すと歌う(江口孝夫『懐風藻』367−9頁)。異郷で京都に残してきた美しい愛人を寂しく思う気持ちが描写される。

                                    3 文武天皇(8番、683−707年) 3首

 懐風藻では、一人の天皇の漢詩が掲載されている。文武天皇の漢詩三首である。文武天皇は草壁皇子の子であり、天武天皇の孫であり、葛野王の一言で皇位継承が決まった。その正統な手続きで皇位を継承した文武天皇もまた、漢詩的世界で統治態度を磨き上げていた。彼は仏教を偏重することはなかったのである。文武天皇は聖武天皇の父であるから、これは、仏教漢詩しか書き写さない聖武天皇(「聖武天皇宸翰雑集」[小杉榲邨写本が国会図書館所蔵、デジタル化])に対する批判ともなろう。

 五言律詩「詠月」では、中国の「月と桂」の故事(中国故事では、@呉剛は仙人修行をしていたが、妻が炎帝の孫と姦通して子供を産み、怒って相手を殺してしまったとか、天帝の桂の木を切り倒してしまったとかの罪で、炎帝によって月中の桂樹を切り倒す仕事を命じられた事、A月人男が月舟を桂の櫂で操って、天の原を漕いで行く[『西陽雑俎』])を踏まえて、「月舟」が霧のたなびく渚に移り、桂で作った楫が浜辺に浮かぶと歌い、秋の月光のもとでの酒宴を描いている(江口孝夫『懐風藻』86−7頁)。万葉集に(「秋風の清きゆふへ天の川舟漕こぎ渡る月人壮子」[10巻2043] 、「天の海に月の船浮け桂楫かけて漕ぐ見ゆ月人壮子」[10巻2223] にある月人壮子は食の国(夜)を治める月読命)とある月人壮子との連想も可能であろうか。

 五言律詩「述懐」では、天皇としての統治への謙虚な態度(年齢は「冕[大夫以上が被る冠]を戴く」に足るが、「智」は「裳を垂れる」[官服を飾る]に値しない。朕は深夜までどうして「拙心」を匡そうかと考えている)と往古「元首」を師とする姿勢(「往古を師とせずんば なんぞ元首の望みを救はむ」)が歌われている。そして、「三絶(画・詩・書)の務」に精励していないので、しばらくは「短章」(短い詩、五言律詩)で臨もうとした。一切、仏教統治などは言及されていない(江口孝夫『懐風藻』88−9頁)。

 五言律詩「詠雪」では、ただ雪について、「雲羅」(薄絹のような雪)、雪花(花のような雪)、「柳絮」(柳の綿のような雪)、「歌塵」(「歌に舞う塵」のような雪)、「霄篆(しょうてん、夜に読む書)」の灯り、「洛浜」をめぐるもの(洛水の辺の神女)、「冬条」(冬枯れした枝)は「春を帯ぶ」花などと、雪の豊かな姿態を表現している(江口孝夫『懐風藻』90−1頁)。この雪を詠うことで、天皇の徳治が磨かれ麗しくなるというのであろう。

                                            二 仏教関係者

 『懐風藻』では、上記四人の僧侶(釈智蔵、釈弁正、釋道慈、釋道融、釈弁正)以外に、元僧侶4人の漢詩が取り上げられている。還俗の五位の中堅官人で
あるから、「伝記」などの説明を加えてはいない。

                                     @ 山田三方(33番、生没年不明) 3首

 山田三方は僧として新羅に留学し、のち還俗して持統6年(692)に務広肆(冠位)を授けられる。和銅3年(710)周防守となる。養老4年(720)正月11日従五位下を授けられ、同年完成した日本書紀の編集にも関わったという意見もある(森博達『日本書紀の謎を解く〜述作者は誰か〜』中公新書、平成11年 )。養老5年(721)正月23日、従五位下山上臣憶良らとともに東宮(聖武)に侍さしめる。

 しかし、養老6年(722)には、周防守在任中の不正が露見する。同年4月20日、元正天皇は、「周防国の前守の従五位上山田史御方は、監に臨み盗を犯し、法理に合して、(籍を)除き(職を)免ずべきだが、先を経て(既に)恩を降らし、赦罪を已に行なった。然し、法に依り贓(盗品)に充てようとしたが、家には一尺の布もない。朕は念うに、御方は笈[書物の入れ物]を負って遠方に行き、蕃国に遊学し、帰朝之後には生徒に伝授した。而して文館(大学)の学士は頗る文を解し綴るようになった。誠び以て若しこういう人を憐れまなければ、蓋し斯の文の道はすたれる歟。宜しく特に恩寵を加え、贓を徴収せしむることなかれ」(続日本紀 巻第九[直木孝次郎ら訳注『続日本紀』1、平凡社、1986年、246頁も参照])として、文章の功績で罪を赦したのであった。仏教ではなく、文章の才が山田の身をたすけたというのである。本来なら、これも伝記に書くべきであったが、省略された。彼は、後述の「律令・儒学関係者」の一人でもあった。

 長屋王宅での新羅大使歓迎宴については、漢詩五行律詩「秋日於長王宅宴新羅客」のみならず「序文」を寄せている。序文は四六駢儷体で書かれた名文であり、ここでは、@長屋王は、「琴樽の賞」(琴と酒の宴)を開き、新羅大使は長屋王を「鳳鸞(至徳の瑞応として現れる神鳥。ここでは長屋王)の儀(容儀)」として喜び仰ぎ、A宴では、「琳瑯」(美玉、俊才)、「蘿薜」(らへい、低い身分)が参集し、花模様のある「玉俎」(玉製の器)、「珍羞」(珍しいご馳走)、取り交わす「羽爵」(雀の形をして頭尾に翼のある酒盃)が備えられ、B主客の区別なく「清談」(高尚な話)が盛り上がり、貴賎を忘れて清談にふけり、歌台」(楼台での歌)はすぐれ、俗曲俗歌も入り交じり、この談と歌は玉と霞の複合した美しさを持ち、C中国故事(赤い木犀に離別の情を歌う淮南王[漢の高祖の七男]、紫蘭に心を同じくする思いを述べた曹子建[詩文の才ある魏の王族])に言及しつつ、この宴で老子の「五千の文」(老子道徳経の五千余言)が私を酔わせ、詩経「三百の什」がこの「飽徳」の庭園で舞い躍らせ、「われを博むる」とし、Dそこで、私は、「西園の遊」(魏の武帝が築いた園)を描写し、あわせて「南浦の送」(戦国時代の楚地方に於いて謡われた詩の様式である楚辞にある歌)を読みたいとする(江口孝夫『懐風藻』184−187頁)。

 そうして詠んだ五言律詩「秋日於長王宅宴新羅客」では、秋の朝、「三朝」(朝鮮)の大使を迎え、「九秋の韶」(秋のよき日の「虞舜」の楽)を奏で尽し、「牙水」(琴の名手の牙の水)が「琴の調べ」を含んで激しくなり、「虞葵」(虞美人草の花)が舞扇に振りかかり、「霊台」(周の霊王の台、長屋王の邸宅)を去るにあたり、及ばずながら「瓊瑶」(けいよう、美しい玉、長屋王)に報いるようにすると歌う。卓越した文章家として、中国故事をちりばめて、長屋王宅での新羅大使歓迎宴会を歌っている。

 五言律詩「七夕」では、中国故事の牽牛織女の話が歌われる(江口孝夫『懐風藻』191−2頁)。五言絶句「三月三日曲水宴」では、周の幽王が三月三日曲水の宴を設けた故事にならって開いた日本の宴を歌う。
                          
                              A 従五位下常陸介春日蔵老(38番、52歳で没) 1絶

 彼は、大宝元年(701)に僧から還俗し、和銅7年(714)従五位下に叙される。彼は、五言絶句「述懐」で、仙境(花は枝を染めるように咲き誇り、鶯の囀りは谷に新鮮である)で、水辺で「良宴」を開き、杯を流れに浮かべて「芳春」を賞賛すると歌う(江口孝夫『懐風藻』205−6頁)。

                              B 正五位下図書頭吉田宜(49番、生没年不明) 2首

 吉田は、帰化人系の医者であり、文武4年(700)に僧から還俗した、養老5年医術師範として糸・布・鍬を賜り、天平5年(733)に図書頭、天平9年典薬頭に任じられる。

 五言律詩「秋日於長王宅宴新羅客」では、長屋王邸での宴会の模様は一行で軽く触れ、新羅大使の別離の模様・旅行の厳しさ・「愁い」を歌う(江口孝夫『懐風藻』259−260頁)。次の五言律詩「従駕吉野宮」で、「神居」(神仙のいる所、吉野宮)は「深亦静」であり、「勝地」は「寂復幽」であり、吉野川は千年の「遺響」(残っている昔の響き)を伝えていると歌う(江口孝夫『懐風藻』262−3頁)。還俗して、酒宴を詠い、吉野従駕を詠む当時の典型的な中堅官人になりきっている。

                              C 従五位下陰陽頭大津首(51番、生没年不明) 2首

 僧義法は新羅にわたり、慶雲4年(707)に帰国し、和銅7年(714)に還俗し、養老5年(721)医卜方術の功労で、糸・布・鍬を賜る。

 五言律詩「和藤原大政遊吉野川之作」(「藤原の大政が吉野川に遊ぶ之作に和す)では、地は「幽居の宅」にふさわしく、山は「帝者の仁」(天子の仁徳)であり、川浪が「石を浸」し、川魚が琴に応じて集まり、心が「虚」となり「陶冶」され、酒客は「満酌」(満足に飲む)し俗塵を忘れると、吉野の仙境を語る(江口孝夫『懐風藻』270−1頁)。こうした吉野仙境の恩恵で藤原大政が順調になされるというのであろう。

 次の五言律詩「春日於左僕射長王宅宴」では、長屋王邸の自然(水、石庭、庭梅、門柳)と酒宴の様子(琴と酒、酌み交わす盃)を描き、客は「徳に飽きて」(充分な徳の恩恵を受けて)「まことに酔い」をなしたと歌う(江口孝夫『懐風藻』272−3頁)。

 ここでは、還俗して、吉野仙境を詠い、長屋王酒宴を詠む当時の典型的な中堅官人が看取される。藤原政治に支えられた天皇徳治政治が礼賛されるのである


                                        三 天智天皇・藤原派

 天智派皇族・諸王である大友皇子、河島皇子、葛野王は冒頭の「伝記」で既に述べているので、ここでは藤原一族についてみてみよう。 

                              @ 神祇伯中臣大島(6番、生年不明ー693年) 2首
 
 中臣大島は天武・持統天皇の廷臣であり、神祇を家務とする中臣=藤原家の代表である。藤原家としては、最も早く掲載されている。

 中臣大島と中臣鎌足との関係を探るには、中臣可多能祐(なかとみのかたのすけ、天児屋根尊二 十一世)まで遡る必要がある。中臣可多能祐の長男が糠手子(以下が金・許米ー大島)であり、中臣可多能祐の次男が国人(以下、国足ー意美麻呂)、中臣可多能祐の3男が御食子(彼の長男が鎌足)である。長幼的には、中臣大島、中島意美麻呂の方が中臣鎌足よりも上の家系となる。従って、中臣大嶋や中臣意美麻呂(鎌足の娘婿でもある)が「氏上」に就いていたとみられ(高島正人「藤原朝臣氏の成立」『政治経済史学』第164号、1980年1月、高島正人『奈良時代の藤原氏と朝政』吉川弘文館、1999年)、不比等が成長し政治的影響力を持つに及んで、不比等が氏上となる。

 そして、中臣氏の中でも鎌足の子供「不比等」の流れのみが「藤原氏」を称することになったのである。669年中臣鎌足の死去に際して藤原姓が与えられ、685年(天武天皇14年)に、鎌足遺族に対してあらためて藤原朝臣が与えられた。698年、不比等が成長して頭角を現すと、藤原氏が政治を担い、中臣氏が神祇官を領掌する分担となり、不比等の家系以外は元の中臣姓に統一された。それまで、中臣大島は、『日本書紀』で、大山上中臣連大島(681年)、小錦下中臣連大島(683年)、藤原朝臣大島(685年)、直大肆藤原朝臣大島(686年)、政府代表藤原朝臣大島(688年)、神祇伯中臣大島朝臣(690年)、直大弐葛原朝臣大島(693年)と称されている。

 この中臣大島は、681年(天武10年)に「帝紀や上古の諸事を筆録」し、これが『古事記』の編纂事業であったようだ。

 五言律詩「詠孤松」では、松で「心もと明らか」な様子、根で「貞質」、中国晋の高潔人士の孫楚で「貞節」や隠居の喜びなどを歌い上げる(78−9頁)。五言律詩「山斎」では、山荘での「攀桂(はんけい、俗世間を避けて隠者の生活をすること)」の生活を歌っている。いずれも、仏教的境地ではなく、仙人的境地なのである(江口孝夫『懐風藻』80−1頁)。        

                                 A 従四位下神祇伯中臣人足(29番、生没年不明) 2首

 中臣人足は、「御食子ー垂目(8男、長男が中臣鎌足)ー島麿ー島麿ー人足」の系列であり、傍流ながらも、中臣大島を補佐する形で中臣家本来の神祇を担っている。元明天皇治下の708年9月30日に造平城京司次官となり、元正天皇治下の716年2月神祇大副として出雲国の国造の出雲果安の神賀事(かんよごと)を天皇に奏上し(直木孝次郎訳注『続日本紀』1、177頁)、717年正月正五位下から正五位上に昇叙し、後に神祇伯となる。中臣可多能祐の3人の息子の系列(大島、意美麻呂[彼の子の東足]、人足)が神祇伯となっている。人足については、大島同様に2首の漢詩を載せている。
  
 五言律詩「遊吉野宮」では、吉野山・吉野川は「智者と仁者」の求めるものであり、吉野は「万代 埃のな」い清浄な地であり、ある時に美稲が仙女柘姫にあった所であり、風波は「音曲」となり、「魚鳥」は仲間となり、この吉野こそ「方丈」(神仙の住むという海中の山)であり、桃源郷に行く必要などないと歌う(江口孝夫『懐風藻』169−170頁)。これは、美稲(うましね)と柘姫(つみひめ)伝説(美稲が吉野川で簗漁法で魚をとっていると、吉野川上流からヤマボウシ[柘:ツミ]の枝が流れ着き、その枝を家に持ち帰ると、美女に変わり、若者は彼女と結婚して幸せに暮らした。しかし、ある日仙女柘姫は常世の国に旅立ったという伝説)に基づいている。

 五言絶句「遊吉野宮」では、「仁山」(仁者の楽しむ山)は「鳳閣」(立派な御殿の離宮)と相応しく、「智水」(智者の楽しむ川)は「竜楼」(離宮)を明るく浮かび上がらせ、花鳥は「沈翫」(深く鑑賞する事)に堪え、誰もがここに滞在しようとすると歌った(江口孝夫『懐風藻』171−172頁)。吉野仙境を道教的に歌い上げている。
                
                             B 贈正一位太政大臣藤原史(不比等)(17番、659−720年) 5首

 周知の如く、藤原不比等(658−720)は中臣鎌足次男で、大宝律令・養老律令制定に功のあった大政治家である。彼は天皇の恩徳に基づく調和のとれた政治を旨とし、天智天皇とともに、近江系・神祇系の中核的人物である。

 最初の二首では、理想的な調和した徳治が歌われる。五言12行「元日 応詔」では、仏教などで汚されない朝廷の模様(「斉政」[天皇の政治]で「玄造」[自然のままである人倫の道]を行ない、政務をとる紫宸殿には「新たな」「淑気」[春の温和な気]と五色の鮮やかな「鮮雲」が輝き、「穆々」[和らぎ敬う]たる良臣が多く、天徳に感じて「天沢」[天子の恩沢]の宴に臨み、「和」らいで[天皇の愛撫で和らいで]、「聖塵」[天子の仁愛]を思う)を歌い上げる(江口孝夫『懐風藻』125−127頁)。天皇の徳沢には仏教影響が微塵もないのである。

 次の五言律詩「春日侍宴」では、古くから続く調和の取れた政治(「淑気 天下に漲り、薫風 海浜に吹き、春日は鳥を鳴かせ、蘭を高雅に人士が手折り、こうした「塩梅」のとれた政治の道は古くからある)と不比等の政治関与(こうした朝廷政治なので、「隠者」だった私も「幽藪」を去り、「没賢」ながら紫宸殿に陪している)が歌われる(江口孝夫『懐風藻』128−130頁)。

 続けて、天皇・官人らが心となるを清らかに潔白にする吉野の詩が二首詠まれる。五言律詩「遊吉野」では、吉野の故事(漆姫が仙草を摘み、鶴に乗って天

に飛んでいった話、漁師の釣った柘の枝が仙女に変わって、女と契りを結んだ話)、秋の吉野の風景(「山水の地」で、「煙光」[もや]が岩上に立ちこみ、「薜蘿」[へいら、葛かずら]の中で酒宴を催し、日の光が水際に紅に映える)、ここは「玄圃」(中国崑崙山にある仙人のいる所)に近い場所とする(江口孝夫『懐風藻』130−132頁)。

 同じ五言律詩「遊吉野」では、夏秋の吉野の風景(「夏景色」の「夏身」、「秋の気配」が立つ「秋津」)、中国天帝の仙境との比較(尭皇帝が汾の地に籠もったのと同じく、現在は吉野に賓[客]を迎える)、この客と故事との関連(鶴に乗って去った「雲仙」、筏に乗って行った「星客」[張騫])、吉野卿と潔白な仁者との関係(「清性」[清らかな性情]は清らかに振る舞い、「素心」[潔白な心]は「静仁」」[落ち着いた仁]を開く)が歌われる(江口孝夫『懐風藻』133−135頁)。

 この不比等の二首の吉野遊覧詩は「吉野詩の中では最も早い時期の作品」であり、前者に関しては、「この文雅の酒宴を命じるのは、もちろん不比等である。天皇ではない。この冒頭は極めて大事なことを意味しているのではないか。すなわち、これは不比等主催の私宴の開宴宣言なのである。醇羅に覆われた仙境玄圃の如き深山吉野、そんな超俗の地で風流の宴を不比等が開き、参加した人々は松風の清き音色に聴き入ると言う。つまりは風流を好む者同士の集いが実現されたことを主張しているのだ。天皇を意識するどころではない。むしろ、天皇は排除されているのである」(井実充史「『懐風藻』吉野詩について」『福島大学教育学部論集』第65号、1998年12月)という評価がある。天皇排除ということではなく、天皇を支える臣下が吉野で心洗われるということであろう。不比等にとって、皇位持続という点では天皇とはいわば一心同体なのである。天皇を意識するとか、排除するとかの関係ではないということだ。

 最後の五言律詩「七夕」では、七夕の織女(天帝の娘)と牽牛の出会いと別れが詠われる。不比等は、織女は天帝の命に背いて機織をやめた理由(機織をやめたのは、殺人をした曹子の故ではなく、威猷[天帝の威厳ある謀]のゆえである)、二人の出会いの危さ(鳳蓋[天帝の乗り物]が風に翻弄され、かささぎのかけた橋は波に揺られて浮かぶ)、二人の嘆き(短い逢瀬を楽しむが、別れると、「長い愁い」に悲しむ)を歌っている(江口孝夫『懐風藻』135−136頁)。藤原不比等娘の宮子は文武天皇夫人(聖武天皇母)、安宿媛(光明子)は 首皇子夫人=聖武天皇皇后(光明皇后)と、聖武天皇の母・妻ともに藤原不比等の娘である。謀略家の不比等でも、娘を天皇・皇太子に差し出して複雑な思いをし、それを七夕に托して歌ったのではないかとも思われる。

                  C 正五位下中務少輔葛井広成(64番、生没年不明だが、751年前後に存命可能性あり●) 2首

 葛井広成は帰化人系であり、当初は白猪史(しらいのふひと)を称した。養老3年(719)閏7月大外記・従六位下の白猪史広成は遣新羅使に任じられ、8月に新羅に向けて出発した(『続日本紀』1、210頁)。養老4年5月葛井(ふじい)姓を賜った(『続日本紀』1、217頁)。天平3年(731)正月に正六位から外従五位下に昇叙し、天平勝宝元年(749)8月に正五位上中務少輔に任じられた。

 万葉集に短歌3首があり、文才が知られていたようだ。その彼が、藤原不比等の吉野詩に和して詩作するように求められたようだ。それが、下記2首の漢詩のうち、前者のものである。

 五言律詩「奉和藤太政佳野之作」(藤太政[藤原不比等]の佳野[吉野]の作に和し奉る)では、藤原不比等の五言律詩「遊吉野」に和して、「物外」(世事の外)にあって「囂塵」(やかましい俗世界)から遠く、吉野山中に「幽隠」して、浦には「丹鳳」(天子の御殿、不老不死の鳳凰)を住ませ、淵には「錦鱗」(魚)を躍らしめ、山路を歩いて仁を開き、川を愛でて智を猟す(論語故事)と歌う(370−2頁)。

 五言絶句「月夜坐河浜」(月夜河浜に坐す)では、雲が流れて「玉柯」(ぎょくか、美しい枝)にかかり、月は上って「金波」(川面の金色の波)を動かし、「落照」(落日)が「曹王の苑」(魏の曹王が文士らと毎夜遊んだ西園の故事)を照らし、「流光」(流れ移る月光)は「織女の河」(天の川)を映し出すと歌う(372−3頁)。

                 D 外従五位下石見守麻田陽春(58番、生没年不明だが、751年前後に存命可能性あり●) 1首

 不比等長男で仲麻呂亡父の藤原武智麻呂は漢詩の宴会を催したといわれるが、武智麻呂・仲麻呂の漢詩は一篇も懐風藻には掲載されていない。しかし、懐風藻は、麻田陽春が、「藤原仲麻呂が亡父藤原武智麻呂の近江神山での仏教修行を歌った漢詩」に和した漢詩を掲載している。麻田は帰化人系官人であり、天平2年に太宰大弐、天平11年に外従五位下となる。不比等の漢詩が残っているのに、その長男の漢詩を載せずに、麻田のそれに和した漢詩を載せたのは、恐らく当時の南家長者豊成も承知の上で仲麻呂が中心となって漢詩選定を行なっていたことから、氏の長者南家として他三家へ配慮したからであろう。

 題は「藤江守(藤原近江守、仲麻呂)裨叡山(比叡山)先考(藤原武智麻呂)の旧禅処(武智麻呂の比叡山での修禅場)の柳樹(となったこと)を詠ずるの作に和す」とあり、麻田陽春が、藤原仲麻呂が亡父武智麻呂の比叡山修禅場の跡地の柳を詩に歌うのに「和して」(答えて調子を合わせて)漢詩五言18行を作ったことになっている。この頃陽春は太宰大弐であり、藤原武智麻呂は天平3−4年の太宰帥であるから、職務上で武智麻呂と陽春は緊密な関係を築いたようだ。その際、陽春は「仲麻呂との知遇を得る機会もあったのであろう。

 その仲麻呂が近江守在任中に亡父を詠んだというのであるから、この詩は天平17年(745)参議・民部卿のまま近江守を兼任して以降の作ということになろう。この天平17年には、仲麻は40歳で、陽春は48歳であり、武智麻呂の七回忌の年に当っていた(川上富吉「麻田連陽春の和歌と漢詩 : 「麻田連陽春伝考」続」『大妻国文』巻43、2012年3月)。だとすれば、麻田がこの時に詠めば、十分懐風藻に掲載することが可能だったことになる。

 麻田は、近江の地を仏教と古くからの教えとの相関のうちに巧みに把握した。つまり、そこでは、@「近江」は「帝里」(帝の居所)で、比叡山は「神山」であり、山は静寂で「俗塵」は少なく、谷は静かで「真理」(神の真実の道理)が溢れ、A亡父はここで悟って「芳縁」(芳しい縁)を開き、「宝殿」は空高く構え、「梵鐘」(寺の鐘)が風に乗って聞え、B「烟雲」は「万古の色」を帯び、「松柏」は「九冬」(九十日の冬)にも枯れずに堅く生き続け、月日は早く過ぎ去るが、亡父の「慈範」(慈悲深い軌範)はこの地を離れず、C「寂寞」たる「精禅」の建物もにわかに「積草」の地となり、「古樹」は秋に落葉し、「寒花」(勢いを失った花)は秋に枯れ、ただ二本の「楊(よう、柳)樹」のみが残り、「孝鳥」(親に餌を与えて孝行する鳥、カラスのこと)が朝夕に悲しくなくと歌った(江口孝夫『懐風藻』340−1頁)。

 この詩については、古くから麻田一首説と仲麻呂・麻田二首説(@ABの10行とCの8行)がある。後者は少数説であり、林古溪氏が、「これは二首にしてしかも別人の作と見なければならぬ」「即ち仲麻呂一首、陽春一首」「恐らく仲麻呂には、先考之旧禅盧を詠ずる作が数首あったのであらう。その中の柳樹の作に陽春の和したのがこれである。(数首の和詩があったかも知れぬ。)」(「懐風藻 陽春の作・作者と撰者」『国語と国文学』25巻6号、1948年6月)としたにとどまる。これに対して、前者が現在の大勢的見解であり、今田哲夫氏(「懐風藻に関する一考察ー篇数を論じて撰者に及ぶ」[『国語・国文』3巻9号、1933年8月])はあくまで一首とし、杉本行夫『懐風藻』(1943年3月)は「一首の換韻の和韻の作」とし、大系本『懐風藻、文華秀麗集、本朝文粋』(1964年)も「前十句を仲麻呂の作、後八句を陽春の作とみる説もあるが、目録・題詞の如くすべて陽春の一首とみる」とし、江口孝夫『懐風藻』(講談社、2000年)も「麻田陽春一人の作で、先半、後半立場を変えて詠じたもの」とした。川上富吉氏は、前半十句は仲麻呂の思いを詠じ、後半八句は仲麻呂と陽春合体の情を表しているとも読めるとする(「麻田連陽春の和歌と漢詩 : 「麻田連陽春伝考」続」『大妻国文』43、2012年3月)。

 しかし、麻田と藤原武智麻呂・仲麻呂との長い付き合いを考慮するとき、前10行では仲麻呂が近江の神仙的自然、亡父の脱俗的仏教修行と慈範を詠い、後8行では麻田が武智麻呂死後の比叡山修禅場の跡地の柳を読み、前10行に和したことにしたのではないか。仲麻呂が編纂者ならば、他の藤原一族に配慮して、或いはあくまで「先哲の遺風」を守るという「故人の漢詩掲載」方針から、前任太宰卒大伴旅人から和歌・漢詩をならっていた麻田陽春に自作漢詩を提示して、「藤原仲麻呂が藤原武智麻呂の修禅場が柳樹となったことを詠ずるの作に和す」漢詩の作成を求めることはいとも容易にできたはずである。

 こうして、仲麻呂は、亡父武智麻呂と亡父部下麻田を通して、近江神山で脱俗的に修行する仏教を取り上げ、権力に癒着し皇位を脅かし始めた都の大伽藍仏教を暗に批判したのである。

                             E 贈正一位左大臣藤原総前(52番、681−737年) 3首

 藤原総前は、不比等次男であり、養老5年に従三位となり、元明上皇不予の際、長屋王とともに後事を託される。

 五言律詩「七夕」では、「金閣」(金の楼閣、宮殿)で「雅藻を振」う天子の七夕宴を描き、牽牛と織女の会合は、「青鳥」(七月七日に東方朔[神仙家]のもとに西王母の使として青鳥が来た故事)が「瓊楼」(けいろう、玉のように美しい楼閣)に来る趣と歌う(江口孝夫『懐風藻』275−6頁)。七夕の詩は懐風藻では6篇あるが、基本的には「七夕を詠むのは余技」(277)とする意見もあるが、天子の七夕宴を賞し神仙境を詠う心で清澄になもなったり、不比等のように嫁がせた娘を思って哀れを覚えたりするのである。

 五言律詩「秋日於長王宅宴新羅客」(10篇ある最後)では、「職貢」(貢物)を持参した新羅大使との離別の苦しさ、悲しさを歌う(江口孝夫『懐風藻』278−9頁)。

 五言俳律(12行)「侍宴」で、「聖教」(天子の教え)千年を越え、「英声」(天子の名声)は「九垠」(きゅうごん、天地のはて)まで満ち、天下は太平で、何もせずに「労塵」(苦しめる塵)なく治まると、天皇の徳治統治を歌い、この徳治の恩恵を受けた自然を描き、日本の天皇には「殷湯の網」(湯王が網を四方に張りめぐらしている者を見て、三方の網を取り除かせて逃げ場を作り、徳を禽獣までおよぼしたという故事)や「周池の蘋(ひん、浮き草)」(周の文王の池には太平の浮き草を食べる禽獣が多くいたので、浮き草が乱れていたという故事)など及ばない徳があると歌う(江口孝夫『懐風藻』280−2頁)。天皇の徳治が賞賛されるのである。

                               F 正三位式部卿藤原宇合(53番、694−737年) 6首

 懐風藻以前の代表的漢詩として二つが知られていて、一つは石上乙麻呂「銜悲藻」であり、もう一つが藤原宇合「宇合集」である。いずれも、悲しみ、辛さを漢詩で癒そうとするものであり、切実で純粋な心の叫びを発する純文学の香りが漂う。

 宇合は、家長となる可能性の低い不比等三男であり、若くして入唐したり(717年)、帰朝後には常陸守などの地方官(719年)や辺境派遣の節度使(724年)として地方廻りを経て、式部卿(726年)、参議(732年)、大宰帥となり、737年に死去した。藤原一族でありつつ、凡そ名門貴族らしからぬ地方廻りの「苦労人」であった。苦労人だけに、人情がよくわかり、謙虚に友情を大切にしたり、三男らしい「率直」な声が溢れ出ている。と同時に、藤原一族らしく、仙境での琴樽宴、吉野幽境も歌われている。

 最初の漢詩の序「常陸に在りて倭判官が留まりて京に在るに贈る」では、古くからの親友は同日に任官し、学識が深いのに、彼より先に常陸守に昇任したことについて、逆境にあってその節義が知られ、大器は晩成であるなどと、親友の立場をいたわる。そして、七言古詩(18行)「在常陸贈倭判官留在京」で、その気持ちを漢詩にした。江口氏は、「月並みな讃辞ではなく、平素の心境を述べたもの、ようやく個性的な作品に接する思い」とし、林古渓氏は「友を懐ふの情、緬々として尽きざるもの」があり、「立派な作」(江口孝夫『懐風藻』296頁)と賞賛するが、その通りである。

 五言俳律(12行)「悲不遇」では、出世の遅れた親友の立場にたって、多くの故事を引用して、「周占」(周の文王が占)で「逸老」(優れた人物、太公望)を得たり、「殷夢」(殷の高宗が夢告げ)で「伊人」(良い臣下、宰相傅説[ふせつ])を得たように、自分で羽ばたいても浮上できないが、「南冠」(捕虜)が「楚奏」し(楚の音楽を奏し(晋君を感動させたり、「北節」が「胡塵」に倦んでも手離さず(前漢・武帝の時、匈奴征伐に派遣された蘇武は、捕虜となって19年間抑留されたが、片時も2メートル程の旗竿の「節」を 手離さなかったという故事)、「学は東方朔(前漢武帝時代の博学仙人)に類し」て、「年(年齢)は朱買臣(貧乏人の朱は50歳には貴になると見通し、実際50才過ぎに貴になったという故事)に余(越え)」るなどと、在野に埋もれる才人親友を励ました(江口孝夫『懐風藻』299−300頁)。

 五言絶句「奉西海道節度使之作」では、前は東山道節度使に任命され(神亀元年(724年)式部卿兼任で持節大将軍として蝦夷に出兵)、今度は西海道節度使になり(天平4年(732年)参議・式部卿兼任で西海道節度使)、「行人」(修行者)の自分は「一生の裏」で幾度「辺兵」(辺境の兵)になって悩めばいいのかと率直に歌う(江口孝夫『懐風藻』305−306頁)。

 この三詩が率直な心情の吐露とすれば、次の三誌は曲宴・長王宅宴・吉野詩という「仙境」詩である。

 「暮春曲宴南池」には序「暮春南池に曲宴す」が付せられていて、そこでは、都の近傍には「勝地」はほとんどないが、小池の南池は「金谷」(晋の石崇の別荘金谷園)にも劣らず、「翰(ふで)を染る」(詩文を作る)友人が7人ほどいて、晩春ここで詩友らと音楽と酒を楽しみ、筆をとって喜びをのべるとする。そうして出来た五言絶句「暮春曲宴南池」では、芳月(うららかな春月)、池、落暉(夕日)、琴樽(琴と酒)などの中で、何ものもこの良き交わりを絶つことができないと歌う(江口孝夫『懐風藻』286−7頁)。仙境での曲宴ではなく、友情を深める曲宴という所が宇合らしい。

 七言律詩「秋日於左僕射長王宅宴」では、長屋王宅の自然を愛で、王宴席に列したことを「竜鳳(天子)に攀づる」と、宇合が天武直系の長屋王をまるで天子に譬えていることが留意される。最後に、「大隠」(真の隠者)はいまさら「仙場」(仙人の住居)を求める必要はないと、長屋王宅を仙場ともとらえている(江口孝夫『懐風藻』297−8頁)。

 五言12行「遊吉野川」では、仙境吉野の風景、「朝隠」(朝廷官吏の隠士)の吉野での行為が描写され、清風は「阮嘯」(竹林七賢人の一人阮が嘯くこと)のようであり、流水は「?琴」(けいきん、竹林七賢人の一人?のひく琴)のようだとし、吉野を深い「桃源」(世俗を超越した仙境)、かくあるべき「幽居」と歌った(江口孝夫『懐風藻』302−304頁)。

                            G 従三位兵武卿藤原万里(麻呂、54番、695−737年) 5首

 藤原万里は京家の祖とはなるが、宇合と同様に、家長可能性の低い4男である。そして、彼もまた、宇合と似て、養老元年従五位下、美濃介、天平9年持節大使として陸奥蝦夷征伐に向かうなど、地方廻りの苦労を味わっている。

 序「暮春弟の園池において置酒す」では、@自分は「風月をもって情となし、魚鳥を翫びとなす」「聖代の狂生」であり、「名を貪り利を?(もと)むる」ことは「沖襟」(虚しくする心)には適わず、A晩春に「昆弟(兄弟)の芳筵(よい宴会)」で吟詠して「逸気」(高雅な気持ち)をほしいままにし、わが友の?康(魏の老荘哲学者で竹林七賢人の一人)、わが師の伯倫(三国時代の魏および西晋の文人で、竹林七賢の一人)のように、「軒冕(けんべん、高位高官)の身を栄えしむる」などとは思いもしないとし、B「荒茫」(こうぼう、荒れて広がる)宇宙のもとにこの園池に霞が立ち、太陽で明るく輝き、桃季の花が開き、夜には酒で酔い、「陶然」となって老に至らんことに気づかず、C「大夫の才」で風物に体して詩情を歌い、四韻八句の漢詩を作ろうとしたと語る(江口孝夫『懐風藻』307ー310頁)。

 その五言律詩「暮春於弟園池置酒」では、「城市」には好しとするものはなく、「林園」には「余りあ」る「賞する」ものがあり、そこでは?康の境地で琴を弾き、伯英(後漢の書家張芝)の書にならって筆を運ぶが、「礼法の士」が「我に?疎(そそ、疎漏)ある」ことを知ってほしいと歌う(江口孝夫『懐風藻』310−312頁)。

 五言律詩「過神納言墟」(神納言[中納言直大弐三輪高市麻呂]の墟[今は主なき廃墟]を過ぐ)で、@千年にも伝えられるべき諌言をして、一たぴ栄誉のある高官の地位を辞退し去り、A松や竹は春彩を含んではいるが、月光が中納言旧居に寂しく、清夜にももはや琴酒もやんでしまい、くずれ傾きかかった門には訪れる車馬もまばらであり、B天のあまねく覆うころ皆王土であるから、自分は去って何処に行こうかと、藤原麻呂(持統天皇9年[695年] ー天平9年[737年])が三輪高市麻呂(斉明天皇3年[657年] ー 慶雲3年[706年])の気持ちになって歌う(江口孝夫『懐風藻』312−314頁)。諫言とは、中納言直大弐三輪高市麻呂が、持統天皇6年(692年)2月19日に、農事を妨るとして天皇が伊勢に行幸してことを中止するよう上表したことである。3月3日に行幸留守官が任命されると、高市麻呂は冠位を脱いで再度、「農作の節に車駕を動かすべきではない」と諫めた。しかし天皇は聞き入れず、6日に伊勢に行った。高市麻呂は辞職して下野した。藤原万里が生まれた年は、諫言事件から3年後の695年であるから、成人してから追想したのであろう。

 彼は、同じ題名の五言律詩「過神納言墟」を書き、今度はあるべき君臣論を歌っている。つまり、彼は、@「君道」は容易ではなく、「臣義」はそれ以上に難しく、A「規」(規諌)を奉じても用いられず、故郷に帰って辞官し、?康、屈原(楚の忠諌)のように自然の中で生きるが、B「天?」(てんこん、宮門)を開かれれば、「水魚の歓び」(親密な君臣の歓び)がえられたであろうに、と君道をも歌ったのである(江口孝夫『懐風藻』314−316頁)。天皇を天徳などと称揚せずに、天皇の徳治に要望しているのであり、藤原らしい発言といえよう。藤原の特殊位置を再確認させるものと言えよう。

 五言律詩「仲秋釈奠(しゃくてん、種々の供物をささげて祭る孔子の祭)」では、@孔子は「運」が冷ややかで陳・蔡両軍に包囲されて「窮」し、自分は「衰へ」て孔子が理想の聖人と崇めて夢に見続けた周を久しく夢に見なくなり、A「図」も出ず(伝説上の帝王伏羲の治世、黄河から瑞祥の図も現れず)、行く水も留めがたく無常であるが、B遠い昔に天が孔子の神化を認めて以来、万代にわたって「芳猷」(立派な道)を仰いでいると歌った(江口孝夫『懐風藻』316−318頁)。

 五言律詩「遊吉野川」では、これまでのように故事を踏まえて仙境像を歌うのではなく、「禄(俸禄)を干(もと)」めず「霞を喰」らう超俗的友人を登場させる。彼は、「水智」に臨んで心のままに歌い、「山仁を楽し」んで長く口ずさみ、昔は梁前で柘姫が美稲に答えて歌ったが、今は「峡」(谷間)では「簧声」(こうせい、笙の声)が新たであり、「琴樽」(音楽と酒)の宴は尽きることなく、明月は「河浜」を照らしていると歌う(江口孝夫『懐風藻』318−320頁)。

 このように、序・漢詩でも、彼は、仙境・儒教倫理を歌う漢詩を作るとともに、昇進など意に介さずに園池で酒を飲むとか、天皇に諫言して高官を辞任することを歌ったりとか、名利にとらわれぬ側面を表現している。仲麻呂らの聖武太上天皇・孝謙天皇への諫言の意向が藤原一族にまで行き渡り、既に作っていたそういう趣旨の漢詩を差し出したか、或いは新に作ったのであろう。

                                          四 天武天皇系その他

                                           @ 天武天応系

 大津皇子(天武天皇の第三皇子)は冒頭「伝記」で取り上げたので、ここでは省略する。以下では、天武天皇系の王が仏教統治などではなく、道教的・仙境的な天皇徳治統治を歌う漢詩が取り上げられる。

                                   @ 右大臣正二位長屋王(44番、684−729年) 3首

 なぜ729年2月に国家転覆密告で自尽を強いられた長屋王の漢詩が取り上げられたのか。それは、@『続日本紀』天平10年(738)7月の記事にこの密告が「誣告」であったと明記して、長屋王の無罪が明らかとなった事、A724−729年聖武天皇の左大臣時代にはかなり聖武天皇の仏教偏重策を担っていたが、721−4年元正天皇の右大臣時代には佐保の長屋王邸は詩宴の場となり、養老3年(719年)には新羅大使をに迎えて盛大な宴会が催され、それが天皇徳治統治と合致し、それを歌う漢詩が少なからず作られていたからであろう。まだ仏教偏重の弊害が長屋王施政に発現しない時期を扱っていたということである。

 五言律詩「元日宴 応詔」で、新年元日に光輝く「仙?」(御所)に招かれ、「玄圃」(崑崙山にある仙地、ここでは御所)に梅が咲き、「紫庭」(紫宸殿の庭)に桃が咲きつつあり、「柳糸」(柳の枝)が歌曲と和し、「蘭香」(蘭の芳しい香り)が「舞巾」(舞踊する婦人の領巾)に浸み込み、「望雲の徳」(天子の仁徳が雲のように広大だとした故事)を「共に悦ぶ」と、道教的仙境で歌い上げた(江口孝夫『懐風藻』230−1頁)。

 五言律詩「於宝宅(長屋王の楼閣、作宝楼)宴新羅客」で、秋の風景を描き、「金蘭」(貴重で香り高い交友)の賞(賜物)を愛し、「風月の莚」(風月をめでる宴席)に疲れることなく、「壮思の篇」(力強く盛んな思いの詩)を作るから、新羅と日本とは「滄波」で隔てられていると言うことなかれと、自らの楼閣での新羅大使らとの酒詩交流を歌う(江口孝夫『懐風藻』232−3頁)。

 五言律詩「初春於作宝楼置酒」で、「金谷の室」(晋の資産家の石崇が金谷に別荘を持ち、詩会を催し、詩のできない者は罰として酒三斗を飲ませたという故事)ともいうべき「作宝楼」の春景色を歌う(江口孝夫『懐風藻』234−5頁)。

                                A 従四位下刑部卿山前王(25番、生年不明ー723年) 1首

 山前王は、天武天皇の皇子忍部皇子の子で、文武天皇治下の705年に刑部卿となり、元明・元正天皇治下を経て723年に死去した。

 五言律詩「侍宴」で、天皇の「至徳」が広く行き渡り、この「清化」(清らかな徳化)で晴朗となり、「四海」(天下)は「無為」に治まり、「九域」(天下)は「清淳」であり、ここに、天皇は「千歳」を寿ぎ、臣下は「三春」(春の三ヶ月)を頌し、恩に浴して、「芳塵」(皇恩)を仰ぎ見ると歌う(江口孝夫『懐風藻』158−9頁)。この様に、山前王は天皇の徳化統治を礼賛するのである。仏教統治ではないのである。

                                       B 従五位下大伴王(30) 2首

 大伴王は、天武天皇玄孫(第3皇子舎人親王ー三原王ー和気王[ー765年]の子)である。『続日本紀』巻六によると、元明天皇の治下の和銅7年(714)正月5日、無位大伴王は従五位下を授けられる。

 大伴王の二首の漢詩はともに吉野詩である。吉野行幸は、持統朝は30回余と非常に多いが、文武朝は3回(701年2月20日ー2月27日、6月29−7月10日[持統上皇]、702年7月11日)、元明朝はなく、元正朝は1回(723年5月9−13日、聖武即位の準備、報告か)、聖武朝は3回(724年3月1−5日、725年5月、736年6月27日ー7月13日)しかない。恐らく、次の漢詩は大伴王が文武天皇の吉野行幸に随行した時のものであろう。

 五言律詩「従駕吉野宮」で、吉野を「張騫」(漢代の外交官、筏で黄河の河源を探った)が「跡」を尋ね、黄河の源の風を追ったように、吉野川の離宮を訪れ、南北を指し示す「朝雲」、西東を示す夕霧、険しい峰に響き渡る「糸響」(弦楽器の音)、広い谷に鳴り響く「竹鳴」(管楽器の音)の中で、「造化の趣」を歌おうとして、「不工」(下手)に恥じ入ると歌う(江口孝夫『懐風藻』173−174頁)。天地創造の妙趣を歌おうとして詩箋を手に才の拙いのを愧ずると謙虚な姿勢を示した。

 五言絶句「従駕吉野宮」で、吉野の道教的自然(幽玄で「仁趣」の広大な山、浄らかで智懐の深い川)の中に、「神仙の迹」を訪ねようとして天皇の車に追従すると歌う(江口孝夫『懐風藻』175−176頁)。

 なぜ、藤原側は大伴王の吉野詩を掲載したのであろうか。まず第一に、舎人親王は735年まで長屋王とともに皇親勢力の代表として活躍し、天平元年(729年)長屋王の変では新田部親王(天武天皇第6男)らと共に長屋王を死に追いやり、藤原側を支えていたということである。この舎人親王・新田部親王の系統から、皇太子・天皇が出てゆく点でも、大伴王は天武直系の由緒ある王の末裔である。

 第二に、吉野が天武系の聖地であり、原点であったということである。大海人皇子(後の天武天皇)は近江朝(天智天皇)と決別し、水銀(霊力、財力の象徴)産地吉野の宮滝に后の?野讃良皇女(天智天皇の娘、後の持統天皇)とともに隠遁した。彼は、ここで兵備を整えて、尾張にむけて脱出し、近江朝を打倒しようとした。だから、吉野は天武朝の原点であり、故に持統天皇が30回余も訪問したのである。また、後述の通り、吉野詩が多いのは、「間接的にはそこを政権の出発点とした天武およびその再来である文武を神仙として讃える」(月野文子「懐風藻ー大宝二年秋の行幸と『吉野詩』ー」『歌謡』(古代文学講座9、勉誠社、平成8年、182−3頁)ためでもあった。仏教偏重策などとは全く関係ないのである。聖武天皇の吉野行幸が即位前後の2回、天然痘の蔓延しだした735年の計3回のみとどまったのは、吉野が天武系「聖地」ではあっても、仏教聖地ではなかったからであろう。道教的な仙境などには興味がなかったということである。

                                       C 境部王(32番、生没年不明) 2首

 境部王は、天武天皇孫(第五皇子穂積親王の子)であり、717年無位から従四位下を叙位され、養老5年(721)に治部卿となる。聖武天皇即位頃まで、境部王は天武系王として、天皇徳治の推進者の一人であった。彼は、中国古代王朝的な宴席(長屋王)、道教的な宴会う漢詩にしている。

 五言律詩「宴長王宅」では、長屋王宅での新年会の宴で、「淑光」(清い光)、「梅花」、「竹葉」の中、「飛塵の曲」(音楽名家の虞公が歌うと、梁の上の塵が動くと表現)、「激流の声」(琴の名手伯芽が流水を心に浮かべながら弾いた心境として、鍾子期が江河の流れの如しと表現)という故事を踏まえ、この素晴らしい宴席から誰も帰宅できないと歌う(江口孝夫『懐風藻』179−181頁)。

 五言絶句「秋夜宴山池」では、「秋夜宴山池」で、「菊酒」(中国に古くからある延命長寿の菊酒)など中国故事を踏まえつつ、宴会を去りがたいと歌いあげる(江口孝夫『懐風藻』181−182頁)。

                                           Aその他の王族

                              @ 正四位下治部卿犬上王(11番、生年不明ー709年) 1首

 犬上王は、出自や系譜が一切不明である。702年従四位上として持統太上天皇の殯宮造営司を務め、707年に正四位下として文武天皇の殯宮に供奉している。『続日本紀』(国史大系版 巻第四)によると、和銅元年(708)3月13日正四位下犬上王は宮内卿となり、和銅元年(708)10月宮内卿正四位下犬上王は遣わされて、伊勢太神宮に幣帛を奉り、平城宮を営むことを報告している。翌年病でか宮内卿を辞めて、709年6月には散位正四位下として死去する。天皇には信頼されていたようであり、仏教を偏重することなき「忠臣」の一人である。そうした彼の歌う漢詩も御苑山水を愛でるものである。

 つまり、五言俳律(12行)「遊覧山水」では、休暇を得て御苑のほとりを遊覧し、「林池の楽しみ」を尽すが、なかなかこの「芳春」を言い尽くせないと、朝廷庭園を賞賛する(江口孝夫『懐風藻』101−103頁)。

                                A 従四位下播磨守大石王(21番、生没年不明) 1首

 大石王についても出自や系譜が不明である。懐風藻には、従四位下播磨守とある。『続日本紀』(国史大系版 巻第四)では、和銅元年(708)3月13日に正五位下大石王を弾正尹になすとあり、『続日本紀』(国史大系版 巻第六)に、和銅6年(713)4月23日正五位下大石王に従四位下を授け、和銅6年(713)8月26日には従四位下大石王を摂津大夫となすとある。犬上王と同じように、元明天皇のもとで宮廷に仕えた忠臣の一人であったようだ。

 五言律詩「侍宴」では、梅の花咲く春、天皇は御苑の堤に立って「群臣」に「神沢」を施し、御苑の中で「琴瑟」(きんしつ、ともに弦楽器)をかなで、水辺で「文酒」(詩文の宴)を開き、群臣は「無限の寿」を祝い、「皇恩の均しき」を頌すと歌った(江口孝夫『懐風藻』147−9頁)。


                                        五 律令・儒学関係者 18首

 ここでは、仏教統治ではなく、律令・儒教などによる統治に関わる学者らが、(A)「従駕応召」詩(3首)、(B)「侍宴」詩(9首)、(C)春日「長屋王」詩(2首)、秋日「長屋王」詩(3首)などを歌う。文武天皇を中心に宴会が多いのは、@官人が宴で天皇の徳治・皇恩を感謝し、A新羅使節歓送迎宴では「蕃国」から天皇徳治を慕って来日したということが前提になっている。

 この点、聖武天皇は、当初は「鳥池の堤」で五位以上の官人、文人を招いて「曲水の宴」を催し、「詩を作らせ」たり(例えば、神亀5年[728]3月3日[直木孝次郎訳注『続日本紀』1、292頁])、「松林苑」で「群臣を宴」に招いているが(例えば、天平元年[729]3月3日、天平2年3月3日[直木孝次郎訳注『続日本紀』1、301頁、312頁])、以後は定例宮中行事の一環にとどまり、文宴を重視していた形跡はない。実際、宴は正月元旦の宴会ぐらいにとどまり、天平4年3月3日以降「松林苑」での曲水宴は中止され、時々7月7日に宴会が催されるにとどまり(天平6年[734]7月7日天皇は相撲を観て戯れ、是夕、南苑に徙御し、文人に賦七夕之詩を作ることを命ず」、天平勝宝3年[751]7月7日「天皇が南院に御し、大臣已下諸司主典已上に宴を賜う」)、時々宴会(天平12年[740]5月10日「天皇は右大臣相楽別業に行幸し、宴飲酣暢。授大臣男無位奈良麻呂従五位」、天平14年[742]4月20日「天皇は皇后宮に御し、五位以上に宴す」、天平14年[742]2月1日皇后宮に行幸し、宴群臣に宴し。天皇は甚だ歓ぶ」)があるるくらいで、天平9年(737)3月3日には「詔して曰く、毎国、釈迦仏像一躯を造り、挟侍菩薩二躯を挟み侍し、兼ねて大般若経一部を写さしむ」と、仏教行事にとってかわっているように、仏教行事が多くなる。以後も『続日本紀』を見る限り、元旦宴会、唐大使・新羅大使・渤海大使の外交宴会などを除いて、官人・文人の宴を催し漢詩を作ったという記事はみられない。漢詩文を作る宴は、聖武天皇治世の以前のものだということである。

                                           @ 大宝律令編纂者

 『続日本紀』の文武四年(700)6月17日に、大宝律令を選定した功により禄を賜うとして、刑部親王、藤原不比等、粟田真人、下毛野古麻呂、伊岐博得、伊余部馬養、薩弘恪、土部甥、坂合部唐、白猪骨、黄文備、田辺百枝、道君首名、狭井尺麻呂、鍜造大角、額田部林、田辺首名、山口伊美伎大麻呂、調伊美伎老人の19人が記載されている(直木孝次郎訳注『続日本紀』1、17頁)。懐風藻では、藤原不比等、調伊美伎老人、伊余部馬養、道首名、田辺百枝、黄文備、鍜造大角(神亀4年[727]に鍛造大隅に守部の姓を賜い、守部大隅[大角は大隅とも書く]となる)の漢詩が載せられている。

 天智・藤原系(天智天皇の命で藤原不比等が近江令を制定『[藤原家伝』])にとって、律令統治は国家統治の根幹である。仏教統治などではないのである。ここでは、大宝律令制定時頃の文武天皇の徳治統治が賞賛されている。

                                  @ 調忌寸老人(16番、生年不明ー701年?) 1首

 調忌寸老人(つきのいみき おきな)は、『「続日本紀』によると、689年持統天皇の撰善言司となる。撰善言司とは、@「中国の南朝の宋の范泰が編纂したといわれる、『古今善言』三十巻にならって、わが国の物語や、中国古典の中から、古来の『善言』を集成」したもので、A「皇太子に対する帝王学教育のテキスト」(水野祐氏の『古代社会と浦島伝説』上下二巻、雄山閣出版、1975年、68−70)とし、さらには皇族・貴族の子弟の修養書になるものと推定される。689年に持統天皇は調忌寸老人のほかに珂瑠(軽)皇子(後の文武天皇)教育を主目的に施基皇子、佐味朝臣宿那麿、羽田朝臣齊、伊余部連馬飼、大伴宿禰手拍、巨勢朝臣多益須の6人を撰善言司に任じている。

 この懐風藻では、撰善言司として、この調忌寸老人のほかに、伊予部馬養、巨勢多益須が取り上げられている。懐風藻撰者にすれば、聖武天皇もまたこうした『善言』によって教育されるべきであったのであり、かつ聖武天皇は仏教ではなくこの善言で皇太子らを教育すべきであったという思いもあったであろう。
 
 次いで、調忌寸老人は、刑部親王・藤原不比等のもとで律令選定に従事した。大宝元年(701)にその功で正五位上を授けられ、大宝3年(703)には、調忌寸老人の息子に田十町と封戸百戸が与えられている。

 五言10行「三月三日 応詔」(A)では、天皇から随行を命じられ、離宮(吉野であろう)周辺の景色をめぐり、「寂絶」な「勝境」(景勝地)、無窮の「雅趣」を歌い、梅園で花を折り、「碧瀾」(青い流れ)に盃を浮かべて「醴(れい、一夜で作った濃い酒)」を酌み交わし、「神仙」境地を思うのではなく、「広済」(広く一般人を救う)を思い、「太平の日」、「太平の風」を謳歌するとした(江口孝夫『懐風藻』122−124頁)。文武天皇は、大宝元年(701)2月20日ー2月27日 、6月29−7月10日(持統上皇)、大宝2(702)年7月11日の3回吉野に行幸しているから、この時の行幸に随行を命じられたのであろう。調忌寸老人は、このように吉野神仙郷で人民救済・平安の徳治統治を歌うのである。

                                     A 伊予部馬養(20番、生年不明ー702年) 1首

 伊予部馬養は漢学に通達した学者であり、689年6月(持統天皇3年)撰善言司となり(『日本書紀』「持統紀」3年)、691年頃皇太子学士に任命される。文武天皇の命で大宝律令撰定にも従事し、700年(文武天皇4年)大宝律令撰定の功で禄をさずけられる。

 5言俳律(12行)「従駕 応詔」(A)では、天皇行幸(尭帝の如き仁智を持つ天皇が車駕で山川を遊覧する)、遠近の風景、酒宴(瑞光に包まれた「仙槎」[仙人の乗る筏、天子の船]、「祥煙」[めでたい煙のように、響き渡る]を帯びる「鳳笙」[天子の笙])が歌われる(江口孝夫『懐風藻』144−6頁)。漢学者らしく、天皇を尭や仙人になぞらえて権威づけ、臣下として天皇を賛歌している。

                                       B 道首名(31番、663−718年) 1首

 道首名は、上述の通り文武天皇の4年(700)に刑部親王、藤原不比等などとともに律令選定に関与し、その功で禄を賜る。新羅大使となって、718年に死去した。

 五言律詩「秋宴」(B)で、秋宴に招かれ、唐武帝の故事、荘子の故事を重ねながら、「芳筵」(立派な宴席)で「僚友」と音楽の節に合せて「雅声」を上げると歌い上げた(江口孝夫『懐風藻』177−178頁)。恐らく文武天皇の「秋宴」に招かれ、文武徳治を歌い上げたのであろう。

                                        C 黄文備(36番、生没年不明) 1首

 黄文備は、大宝律令選定に従事し、文武天皇4年(700)に禄を賜り、和銅4年(711)従五位下、主税頭になる。

 五言律詩「春日侍宴」(B)では、春の夕方の「玉殿」(宮殿)、「金?」(きんち、御所の庭)では、「歌響」に「雕雲」(ちょううん、めでたい雲)がとどまり、「鳴琴」に「流水」がほとばしり散り、「聖に則る日」(聖徳に基づく治世)に喜び、「束帯」(正装して)して「詔音」(虞舜の作った音楽と、天皇の声)を聞くと歌い上げる(江口孝夫『懐風藻』201−2頁)。黄文備は、仏教偏重のなかった文武聖徳治世を賞賛するのである。

                                       D 田辺百枝(22番、生没年不明) 1首

 田辺百枝は、不比等とともに律令選定に従事し、文武天皇4年(700)に禄を賜り、大学博士になる。

 5言10行「春苑」(B)で、天皇の「聖情」、「汎愛」(普く人民を愛する)、「神功」(神のような業績)に触れ、中国古代の理想的な治世をした帝王尭(功業で鳳凰が飛び上がった)や周(盛徳が魚にまで及び、水辺に跳ね上がる)で権威付け、天皇の御苑の松風・梅花の中で「琴酒」の宴会に招かれ、臣下として天皇「万年」の春を寿ぐ(江口孝夫『懐風藻』150−2頁)。ここでも仏教などに関わりのない天皇徳治が礼賛される。

                                      E 守部大隅(48番、生没年不明) 1首

 守部大隅も、文武天皇4年(700)藤原不比等らと律令選定に関与して褒賞される。養老5年(721)明経第一博士となり、学業師範として糸・布・鍬を賜う。

 五言律詩「侍宴」(B)では、天皇の春の自然の遊覧、雪解け風景、春季宴会などを描写し、「撃壌の民」(太平を悦び土壌を踏み踊るという中国故事)を「かへって笑ふ」(江口孝夫『懐風藻』256−7頁)と、日本天皇徳治を礼賛した。中国とは異なる日本独自の天皇徳治を賞賛している所は注目されよう。しかし、現実は民衆は重い負担に苦しみ、困窮化して、礼賛できつような徳治の実態ではない。だからこそ、聖武天皇は神祇統治ではなく、仏教統治を推進しようとしたのである。

                                          A 養老律令編纂者

 大宝律令の制定後に藤原不比等はそれを改修するべく、箭集蟲麻呂、塩屋古麻呂、陽胡真身、大倭小東人、百済人成らに養老律令編纂に従事させた。この懐風藻では、箭集蟲麻呂、塩屋古麻呂の漢詩が掲載されている。720年(養老4年)の藤原不比等の死で養老律令撰修は中止されたが、756年聖武天皇死去で757年に藤原仲麻呂の主導で養老律令が実行された。藤原仲麻呂は「律令を順守しての国家運営を強く意識し」、故に「養老律令編纂の責任者であった祖父の不比等を称揚しようとする意図」をもち、天平宝字元年(757)5月20日紫微内相に任官したのと同日、大宝律令にかえて養老律令を施行した(木本好信『藤原仲麻呂』88−90頁)。仲麻呂は孝謙天皇の仏教偏重策の独走に危機感を抱き、それを抑えようとして、改めて律令を根幹とする国家運営を再確認したのであろう。
 
                           @ 箭集(やずめ)虫麻呂(50番、生年不明ー没年は聖武天皇治下) 2首

 箭集虫麻呂は、元正天皇治下の養老5年(721)に正6位上を授けられ、養老6年2月27日養老律令撰修の功で田五町を授けられる。この時、従六位下陽胡史真身に4町、従七位上大倭忌寸小東人に4町、従七位下塩屋連吉麻呂に5町、正八位下百済人成に4町を授けられている。いずれも六位以下の下級官人である。聖武天皇治下の天平3年(730)正月外従五位下に昇叙され、天平4年(732)10月には大学頭となる(『続日本紀』巻第十一)。

 五言律詩「侍讌(えん、酒宴)」(B)では、「皇恩」で「品生」(万物)に行き渡り、紫宸殿には「連珠」(連ねた珠玉)があり、「丹?(たんち、赤漆で塗りこめた庭)」には「?草」(めいそう、尭帝の庭に生じた瑞草)が生え、まるで「槎(いかだ)に乗ずる客」(筏に乗って河源をつきとめた張騫の故事を踏まえる)のように「天上の情」をよろこぶと歌う(江口孝夫『懐風藻』265頁)。現実を離れて、虫麻呂は天皇徳治ですっかり天下の統治はうまくいっていると歌う。時の天皇が元正が聖武かは定かではないが、いずれにしても仏教統治への批判となる。

 五言律詩「於左僕射長王宅宴」(C)で、前半に「霊台」(周の文王の台閣。長屋王の作宝楼をさす)で「広宴」を開き、酒盃を酌み交わしつつ音楽と詩作を楽しみ、「趙」(漢武帝の趙。美人の舞人が多い)の「青鸞の舞」(霊鳥である鸞の舞いの一つ)を踊り、「夏」(殷に滅ぼされた中国最古の王朝)の「赤鱗の魚」(巧みな音楽で淵の鯉が出て踊った)を踊らすなど故事をちりばめ、まだ「柳条」(柳の枝)はまだ緑葉をつけていないが、「梅蕊」(梅花)は咲き誇り、客を帰らせたくなるほどに「芳辰」(よい時節)と歌う(江口孝夫『懐風藻』267−8頁)。長屋王は神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同日に正二位左大臣になっているから、聖武天皇即位後の漢詩となるが、まだ長屋王が聖武天皇の仏教偏重策の影響を受ける前の作宝楼の景観を中国故事を踏まえて歌っている。

                        A 外従五位大学頭塩屋古麻呂(59番、生年不明ー没年は聖武天皇治下) 1首
 
 塩屋古麻呂は、養老5(721)年1月東宮(後の聖武天皇)に持し、養老6年に養老律令撰修の功で田五町を授けられる。神亀年間には「宿儒」となる。天平11年外従五位下となり、大学頭となる。

 五言律詩「春日於左僕射長王宅宴」(C)では、@長屋王は御所の近傍に邸宅を構え、「興に乗じて」「朝冠」(朝臣)を招き、「繁弦」(豊かな弦の調べ)が山水を演奏し、「妙舞」が「斉?」(さいがん、斉の国で産出した細かくて光沢のある白いねり絹)の服を広げ、A「柳条」に吹く風は「いまだ暖かならず」、梅花に落ちる雪はなお寒いが、「放情」(気ままな心情)は「所をえて」、主客の交わりは「金蘭(蘭の香りのごとく心が溶け合った交際)のごとく」あってほしいと歌った(江口孝夫『懐風藻』345−6頁)。やはり、ここでも、仏教的影響とは程遠い、中国王朝さながらの長屋王宅での上下隔てなき官人交流が歌われている。

                                         B 儒学者

 当時儒教は明経道(儒教経典の『詩経』・『書経』・『礼経』・『楽経』・『易経』・『春秋経』を明らかにする学問)と称され、官人の勤務道徳を定め、官人の秩序の維持には不可欠であった。故に、明経道は大学寮で主要教科として教えられ、当初は大学博士、後に明経博士がこれをを担った。彼らが、官僚秩序の頂点たる天皇の徳治を歌い上げるのは当然のことではあった。養老5年正月27日、「すべての官人のなかから学業を深く修得し模範とするに足る者」として上述の守部大隅・箭集虫麻呂・塩屋古麻呂・山田御方、次述の越智広江・背奈王行文・下毛野虫麻呂などを選抜して、?(あしぎぬ)・絹糸・麻布・鍬を与えている(直木孝次郎訳注『続日本紀』1、224−5頁)。

 この明経道の教科の一つである詩経は、もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であった漢詩の祖型を扱っている。故に、儒学者の漢詩は宴会(天皇、長屋王主催)での歌舞音曲の様を取り上げているのが非常に多い。左大臣長屋王の宅は佐保の地にあり、佐保宅、作宝楼などと称され、しばしば宴が催され、多くの漢詩が読まれた。

                            @ 正六位上調古麻呂(40番、生没年不明) 1首

 調古麻呂は、養老5年(721)に正7位となり、明経第二博士、皇太子学士(首皇太子)になる。

 五言律詩「初秋於長王宅宴新羅客」(C)では、宴席は「幽賞」(幽玄な眺め)に叶い、「文華」(華やかな詩文)は「離思」(離別の思い)を述べ、長屋王は「大王」の徳を持ち、王邸は「小山の基」(漢の淮南王の小山の麓)の如くであり、新羅大使は「波潮」静かな「江海」(玄界灘)を航海して無事帰国されようと歌う(江口孝夫『懐風藻』212−214頁)。

                            A 従五位下美努浄麻呂(13番、生没年不明) 1首

 美努浄麻呂は、慶雲2年(705)12月従五位下に昇叙され、慶雲3年(706)8月に新羅大使となる(『続日本紀』国史大系版、巻第三)。同4年5月美努連浄麻呂は新羅学問僧義法、義基、惣集、慈定、浄達等を連れて帰国したが、自らは仏教に関わりのない大学博士となる。天川田奈命の裔ともいう。
 
 五言俳律(12行)「春日 応詔」(A)で、宮殿に「玉燭」(宝玉と蝋燭の輝きとも言うべき天子聖徳)が「凝り」、宮中の庭園(魚の鱗のきらめく池、階段前に照り映える桃花、霞が流れ込む松林、囀る鳥)を描写し、「糸竹」(管弦の調べ)は「広楽」(天上界の音楽)のようであり、「率舞」(全ての舞)は「往塵」(昔演じた舞踊)のように行き渡り、皆がこれを楽しみ、「普天」(国内津々浦々まで)「厚仁」(皇恩)を享受していると歌った(江口孝夫『懐風藻』110−111頁)。恐らく文武天皇から宮中庭園の宴会に招かれ、聖徳皇恩を賞賛する歌うのである。

                             B 従五位下刀利康嗣(19番、生没年不明) 1首

 刀利康嗣は、和銅3年(710)正月にに正六位から従五位下に昇叙される(『続日本紀』国史大系版、巻第五)。釈奠(孔子および儒教の先哲を先聖として祀る儀式)の文を作成し、大学博士となる。

 五言俳律(12行)「侍宴」(B)では、天皇の催した豊楽殿での詩文の宴を漢武帝の催した仁に満ち溢れた「柏梁台」宴になぞらえ、天皇の徳に俯仰し、天皇の「万歳」を寿ぐとした(江口孝夫『懐風藻』141−2頁)。

                             C 従五位刑部少輔越智広江(37番、生没年不明) 1絶
 
 養老4年(720)大学明法博士、養老5年(721)東宮(聖武)に侍し、明法第一博士となる、養老7年(723)に従五位下に叙される。

 五言絶句「述懐」で、「文藻」(文や詩)は苦手だが、「荘老」は「好む所」であり、50歳を過ぎた自分に「今更何の為に労せんや」と歌う(江口孝夫『懐風藻』203−4頁)。文藻の才はないにも拘らず、書けといわれて書いたという珍しく本音を表出した短詩である。

                            D 従五位下背奈王行文(39番、生年不明ー聖武天皇治下に没) 2首

 背奈王行文は、高句麗王家の渡来帰化人系であり、養老5年(721)正月27日に正七位上で明経第二博士の彼は絹糸・麻布・鍬などが褒賞として与えられる(直木孝次郎訳注『続日本紀』1、224−5頁)。神亀4年(727)12月20日従五位下を授けられる(直木孝次郎訳注『続日本紀』1、290頁)。

 五言律詩「秋日於長王宅宴新羅客」(C)では、詩経の故事(新羅の客のために小雅[詩経の篇名の一つ]を歌い)を踏まえ、流水を見ながら「筆海」(豊富な詩文)を作り、高官の席に加わって「談叢」(盛んな談論)に加わり、新羅大使にも談論に加わってほしいと歌う(江口孝夫『懐風藻』207−8頁)。

 五言律詩「上巳(三月三日の節句)禊飲(酒を飲んで穢れを払いのける) 応詔」(B)では、「皇慈」と「帝道」は天下の民衆に及び、「竹葉」と「桃花」が庭や池に散り、雲は園を覆い木が園に茂り、詩作を試みたが「庸短」(凡庸短才)で「聖慮」に副えないと歌う(江口孝夫『懐風藻』209−210頁)。

 こうして、背奈王行文は、長屋王宅での新羅大使宴、節句酒宴で徳治統治を賞賛している。

                             E 従五位上下毛野虫麻呂(42番、生没年不明、36歳死去) 1首

 元正天皇は、養老4年正月11日正六位上から従五位下に昇叙し、養老5年(721)正月5日従五位上に昇叙した。文章の才能が評価され、、同年6月26日式部員外少輔に任じられた(直木孝次郎訳注『続日本紀』1、231−2頁)。

 五言律詩「秋日於長王宅宴新羅客」の序文を書いている。ここでは、@「良地」(景勝地)の遊覧は訪問者に帰ることを忘れさせるのであり、「皇明」(天皇の明徳)が世運を撫して(世の中をうまく治めて)、「無為に属」している(無為自然のまま教化される)。だから、この天皇の「文軌」(文化の軌道)が通じて中国や蛮夷をして「欣戴(喜んで奉戴する)の心」をひきつけ、礼楽を整わせ朝野ともに「歓娯の極致」に至り、A長屋王が「鳳閣」(王の邸宅)を開放して宴会を開き、新羅大使が来日し、長屋王の「雁池」(梁の孝王の兎園の中にある池の名)に俯いて「恩?」(恩顧)に浴し、B「芝蘭」(香草、君子)が「四座」(四方の座席)に満ち、三尺離れた所にも「君子の風」が漂い、「琴書」を左右に持ち、縦横に談笑し、「物我」双方を忘れて、「宇宙の表」に抜き出し世塵を離れ、C長屋王庭園では「山水」が仁智を助長し、風月は「息肩の地」(疲れを休める地)を必要とせず、Dそこで、この思い、離別の悲しみを詩作し、「北梁の芳韵」(北梁の別離の詩)の後を継ごうと呼びかけた(江口孝夫『懐風藻』220−4頁)。彼の詩作呼びかけで、こうした長屋王邸での新羅使節送別の漢詩がつくられたことになる。

 そうして彼が作った五言律詩「秋日於長王宅宴新羅客」(C)では、「聖時(天子の御世)」は7百年に及び、「祚運」(皇位の盛運)は千年に達し、ここを訪れた新羅大使に「飛鸞の曲」(歌舞する別離の歌)を演奏して別離のはなむけとしようと歌われる(江口孝夫『懐風藻』224−5頁)。

 こうして、下毛野虫麻呂は徳治賞賛、長屋王宴席の仙境を歌い上げたのである。

                             F 従四位式部卿巨勢多益須(10番、生年不明ー710年) 2首

 武内宿禰の子孫であり、朱鳥元年(686)に大津皇子謀反に連座したが、後に赦された。持統3(689)年2月には藤原不比等らと共に刑部省判事となり(『日本書紀』下、岩波書店、494頁)、また『善言』の編纂にもたずさわる。慶雲3年(706)7月11日には文武天皇は彼を式部卿に任じ、和銅元年(708)3月13日従四位上の多益須を大弐に任じた(直木孝次郎訳注『続日本紀』1、102頁)。

 五言律詩「春日 応詔」(B)で、上と同じく「応詔、従駕」の詩であり、春の「禁園」(宮中庭園)で「玉管」(玉製の笛)が陽気な調べを「吐き」、山には「智趣」(智者の情緒)が広く、水には「仁懐」が敦く(論語雍也篇にある「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」に依拠)、「松風」は「雅曲」をかなで、囀る鶯は談論」の興を添え、本日天子の「徳」に酔った感激を「湛露の恩」(深い恩)などという月並みな言葉で言い表せようかと歌い、天皇の徳に浴した感激を表わした(江口孝夫『懐風藻』95−7頁)。恐らくこの天皇は文武天皇であろう。

 五言俳律(16行)「春日 応詔」(B)では、「姑射(こや、仙人が住むとされる山)」に「太賓」(賓客)として招かれ、「?巌」(こうがん、険しい岩のそば立つ山)の「神仙」の趣を求め、「神衿(しんきん、天子の胸のうち)」は「春色」を賞美し、「清蹕(せいしつ、行幸)」は「林泉」を経巡り、「?翼(しゅうよく、鳥)の径(みち)」と「錦鱗(きんりん、魚)の淵」を見たり、管弦を奏でたり詩文の宴会を催し、こうして「瀛州(えいしゅう、海上にある仙山)」に陪従し、「上林の篇」(漢の司馬相如が作った上林賦をさしている)など論ずる必要はないと、「秘境」「仙境」に随従したと思われる時の心境を歌っている(江口孝夫『懐風藻』97−100頁。

                                            六 官 人 29首

 官人の漢詩は、(A)侍宴会が8首、(B)長屋王宅宴会が7首(うち、秋日3首)、(C)吉野が5首、(D)七夕が4首であり、天皇らに仕える官人が宴会に招かれて作った漢詩が少なくない。

 元明天皇は、708年(和銅元年)7月15日神祇官の大福、太政官の少弁、8省の少輔以上、侍従、弾正弼、及び「武官で定まった職掌をもつ五位」を召し出して、@五位以上の「汝ら(上級の)王臣ら」は、「諸官司の本となり、汝らの力を合わせて(仕えて)いるから、諸官司の人らが整然と勤めにはげんでいる」事、A「(臣下が)忠義で浄らかで、臣下として子のように君主に仕えるという業を守れば、遂には栄誉と貴い地位を受けることにな」り、「もし貪る心があり濁っていて、臣下でありながら子のように君主に仕えるという道を失ったならば、必ず罪や辱しめをこうむる」こと、B「これは天地の不変の道理であり、君臣関係を明らかにに写しだす鏡である」ので、「汝らはこの心を承知して、各々その職とするところを守り、怠ったり緩せにするようなことがあってはならない」事、C「よく時々の政務を処理してゆく能力のある者は、必ず抜擢して地位を進める」(直木孝次郎ら訳注『続日本紀』1、平凡社、104−5頁)ことなどを勅した。ここには、天皇が上中級官人を基軸として依拠し、彼らの忠勤を求める姿がよく述べられている。

 宴会、吉野についての漢詩は、まさにこうして官人の天皇に対する忠勤行為に関わるものであった。そかし、文才もないのに、漢詩を作れと言われて、中国六朝漢詩を土台にしてかなり苦労して模倣するものもいたようだ。
                          
                                            @ 三位以上(卿)

                               @ 従二位大納言大伴旅人(28番、665−731年) 1首

 大伴家は軍事の名門であり、長屋王盟友として反藤原の急先鋒であり、藤原とは鋭い緊張関係にあった。霊亀元年(715)に中務卿、養老2年(718)に中納言、神亀5年(728)に太宰帥、天平2年(730)には大納言に上った。

 五言律詩「初春侍宴」(A)で、「政情に寛大である事」は遠い昔からあり、「古道」に基づいて政治は日々「惟新」であり、多くの臣下は「三徳」(智・仁・勇)を持ち、「聖主の恩沢」を受けて宴会で遊び、「撃壌(天下太平を楽しむ)の仁徳」を賀すと歌う(江口孝夫『懐風藻』166−7頁)。天皇の徳治と言う古来からの神祇統治で天下は太平とし、歌風は、中国の風雅心・老荘思想と位置付けられている。もしこの天皇が聖武天皇だとすれば、これは痛烈な皮肉とも言える。

                               A 正三位大納言紀麻呂(7番、659−705年) 1首

 紀麻呂は「近江朝の御史大夫」正三位の紀大人の子であり(直木孝次郎ら訳注『続日本紀』1、平凡社、68頁)、持統天皇593年に直広肆(のちの従五位下に相当)に叙せられる。701年3月21日直広貳(従四位下に相当)から従三位に昇叙され、正冠正三位の中納言石上麻呂・藤原不比等とともに正冠従三位の紀麻呂を大納言に任ぜらた(直木孝次郎ら訳注『続日本紀』1、平凡社、30頁)。705年7月19日に大納言・正三位の紀麻呂が死去した。

 五言排律(10行)「春日 応詔」(C)では、「恵気」(春の温和な気)と重なって「重光」(天子の明徳)が充満し、仁智の御心で宴会が開かれ、多くの詩人を招き、「天徳 尭舜(徳をもって仁政を行った中国古代の伝説上の帝王)を十にし、皇恩 万民を霑す」(江口孝夫『懐風藻』81−4頁)とした。近江朝以来の高官家として、天皇の徳は尭舜の徳の十倍として、中国に対する日本の独自性を打ち出し、恩が統治の主軸だとした。吉野を中国古代の神仙郷と比較し、「日本にもある」というレベルから、「日本の仙境は中国にない独自性がある」とか「日本の仙境は中国以上である」と主張し始めてゆくと、日本天皇の「民族的」独自性が強調されはじめることになる。そういう萌しが既にこの漢詩に現れていることは注目されよう。

                            B 従三位中納言大神(大三輪)高市麻呂(9番、657−706年) 1首

 高市麻呂は、「大花上(正四位)の(三輪)利金の子」(『続日本紀』1、平凡社、72頁)であり、672年壬申の乱に際して大海人皇子(天武天皇)側で戦い、箸陵と中つ道の戦いで活躍して、大海人側の勝利に貢献する。この戦功で天武天皇か大神姓を賜った。藤原万里が五言律詩「過神納言墟」でこの忠臣を取り上げていたように、692年2月には持統天皇が伊勢に行幸しようとすると・中納言大三輪高市麻呂は、それは「農時を妨げる」と諫めた。しかし、これが聞き入られず、3月持統天皇が留守官を定めて伊勢に向かおうとすると、改めて高市麻呂は「冠位を脱」いで(職を賭して)、「農作の節、車駕、未だ以て動きたまふべからず」(『日本書紀』下、岩波書店、昭和51年、513−4頁)と諫言した。やがて文武天皇の702年長門守に任じられて復帰し、703年従四位上・左京大夫に昇り、706年死去の後に「壬申の年の功績」で従三位を追贈された(『続日本紀』1、平凡社、72頁)。

 五言律詩「従駕応詔」(A)で、「病に臥して」死ぬのを待つ身の高市麻呂に、天皇の「恩詔」があり、駕に随従して「上林」(宮中庭園)の「松巌」(松のそそり立つ巖)「鳴泉」(鳴り響く滝)「竹浦」(竹藪の水辺)「笑花」(咲きほこる花)を観賞した(江口孝夫『懐風藻』93−4頁)。この時の天皇は文武天皇であろう。天皇は戦功ある忠臣にしかるべき対応をしたということであろう。

                            C 従三位権参議石川石足(24番、667−729年) 1首

 石川石足は「淡海朝の大臣であった大柴(冠位五等、正三位)の連子の孫」、「少納言で少花下(冠位十等、従五位下)」蘇我安麻呂の子であり(『続日本紀』1、307頁)、蘇我馬子ー蘇我倉麻呂ー蘇我連子ー蘇我安麻呂)の家系に位置し、伯母の蘇我媼子(蘇我安麻呂の姉妹)が藤原不比等に嫁いで武智麻呂、房前、宇合を生んだ。天武天皇治下の684年11月1日石川臣ら52氏に朝臣という姓が与えられる(『日本書紀』下、465頁)。元明天皇治下の708年(和銅元)3月13日、従五位下の石足を河内守に任じた(『続日本紀』1、101頁)。

 729年(天平元)2月11日長屋王の変の取り調べをするために急遽左大弁・正四位上の石川石足を権参議に任じた(『続日本紀』1、299頁)。2月18日、天皇は石足を長屋王弟の鈴鹿王の邸宅に派遣して、「連座して罰せられるべき者たちは、男女を問わずすべて赦免する」と勅を告げさせた(『続日本紀』1、300頁)。3月4日、今回の長屋王の変の対応への功績を評価して、石足らを従三位に昇叙した。

 五言俳律(12行)「春苑」(A)で、春に天皇は「仁趣」(仁愛の心)で芳春を動かし御苑での宴を催し、「英才」「雅人」を招き、苑の池水・花・鳥を歌い、「仙舟」(仙人の乗る舟、天皇の乗る船)が水際の石にそって巡り、「舞袖」・「歌声」を称揚し、尭帝の徳が忘れられたのと同様に天皇統治がよくなされていると歌い上げた(江口孝夫『懐風藻』155−7頁)。天皇徳治の理想境を歌うのである。

                            D 従三位中納言安倍広庭(45番、659−732年) 2首

 文武天皇治下の慶雲元年(704)7月に右大臣・従二位の阿倍朝臣御主人(広庭の父)の功封百戸の4分1を従五位上の広庭に授け(『続日本紀』1、65頁)、伊予守(709年)・宮内卿(715年5月)・左大弁(721年)などを歴任し、養老6年(722)2月、正四位下の時に朝政に参議することになった(『続日本紀』1、243頁)。神亀4年(727)10月中納言となる。天平元年(729)には、藤原氏の悲願でもあった藤原夫人(光明子)の立后に際し、聖武天皇の詔勅を読み上げる等、重要な立場を演じることになる。天平4年(732)2月に中納言・従三位・催造宮長官の阿倍朝臣広庭が死去した。万葉にも歌四首があり、文才があったようだが、和歌とは異なり、六朝・初唐の漢詩から漢語を導入したりした。

 五言俳律(10行)「春日侍宴」(A)で、「聖衿」(せいきん、天皇)の開く「高会」(雅やかな宴会)の模様を描写し、「濫吹」(らんすい、無能)である我は「毫」(筆)を手に詩才の貧しさを恥じると歌う(江口孝夫『懐風藻』237−8頁)。この「濫吹」漢語は、六朝の『文選雑体詩』や初唐の虞世南詩の用例を取り入れたものであった(欒 竹民「漢語の意味変化についてー「濫吹」を中心に」『鎌倉時代語研究 』18号、1995年)。

 五言律詩「秋日於長王宅宴新羅客」(B)で、風景、新羅大使宴席での「文遊」、「浮菊の酒」(不老長寿のものとして菊花を浮かべた酒を飲む)という故事を揚げ、別離の慰めなどを歌う(江口孝夫『懐風藻』239−240頁)。

                             E 従三位中納言丹?広成(55番、生年不明ー739年) 3首

 丹?広成は左大臣多治比嶋の五男であり、和銅元年(708)に正五位下のまま下野守に任じられる(『続日本紀』1、101頁)。天平4年(732)遣唐大使に任じられ、天平7年帰朝後に参議・中納言となり、天平10年式部卿に任命される。

 五言律詩「遊吉野山」(C)で、吉野の山水風景、渓谷、鳥と魚との交わりを歌い、「幽趣」多く、「俗塵」の少ない景色の中で、「心を佳野(吉野)の域に栖(す、住)」ましめ、「美稲の津」(美稲が梁を仕掛けた場所)を尋ねると歌う(江口孝夫『懐風藻』321−322頁)。

 七言絶句「吉野之作」(C)では、吉野の他の地域とは「ことなる「奇勝」(「嵯峨」として聳える「高嶺」、「渺漫」[はるかに遠く]として「廻流」する「長河」)と故事(「「鐘池」[呉の鐘山などにある池]・「越潭」[越の越水]のごときもあって、凡類に異」なり、「美稲」が「仙」[仙女の柘姫]に逢うことは「洛洲」[洛水の中洲で曹植が神女にあった故事]と同じ)を歌う(江口孝夫『懐風藻』323−324頁)。

 五言絶句「述懐」(E)では、少年期から「蛍雪の志」(学問精励の志)がなく、成人しても「錦綺の工」(詩文を美しく飾る才能)もなく、たまたま「文酒の会」(酒を飲みながら詩文を作る)に出ても、「不才の風」を恥じると歌った(江口孝夫『懐風藻』325−326頁)。

 広成が仙境吉野を中国故事を織り交ぜながら歌う。「述懐」では、詩才のなさを慨嘆して、人間性豊かな境地を吐露した。 

                                          A 四位・五位(通貴)

                              @ 従四位下兵部卿大神安麻呂(23番、生年不明ー714年) 1首

 大三輪ともいい、高市麻呂の弟である。 慶雲3年(706)2月に高市麻呂が死去すると、慶雲4年9月12日正五位下の大神朝臣安麻呂を氏長とした。和銅7年(714)正月5日従四位下大神朝臣安麻呂を従四位上とし、同年正月27日兵部卿従四位上大神朝臣安麻呂が卒した(『続日本紀』1、153頁)。

 五言律詩「山斎言志」(E)で、「間居」(山家の住居)を求めて「山水の幽」を訪ね、「仁智の賞」(山水の美を鑑賞)をしたと歌う(152−4頁)。吉野に従駕して歌うというのではなく、山水の幽境を訪ねているというのだから、自ら脱俗の生活を求めたということか。

                              A 正四位太宰大弐紀男人(46番、682−738年) 3首

 紀男人は、大納言紀大人の孫、紀麻呂の子である。妹の奈賀岐娘は藤原仲麻呂の室となる。慶雲2年(705)12月従六位上から従五位下に昇叙し(『続日本紀』1、70頁)、養老2年正月に正五位上を授けた。和銅4年(711)9月平城宮造営の際、造営に「徴発された力役の民」が逃亡して「宮の垣は未完成で、防備は不十分」なので、将軍として、「兵器庫を固く守」らせた(『続日本紀』1、127頁)。養老7年(723)従四位上となり、天平2年(730)太宰大弐となり、天平10年(738)正四位下「太宰大弐」として卒した。

 七言絶句「遊吉野川」(C)で、吉野川の仙景(「万丈の崇巌」、「千尋の素濤」)を描き、故事(「鍾池」[呉の国にある鍾山の池]「越潭」[越の国の越水の潭]の跡を訪問しようとして、美稲が槎[仙女の柘枝姫]に逢う島に留まる)に重ね合わせる(江口孝夫『懐風藻』242−3頁)。

 五言律詩「扈従吉野宮」(C)で、吉野の仙境を天皇が求めて赴き、孫・許(晋時代の詩人)のような詩人と語ったり親しみ、「姑射」(中国で仙人が住む山)に仙人に会いに行く必要なく、ここ吉野には離宮周辺に「仙霊の宅」(仙人や神人の住居)があると歌う(244−5頁)。中臣人足「遊従吉野宮」と韻が同じで、結句が似ていると指摘されている(江口孝夫『懐風藻』245頁)。

 五言律詩「七夕」(D)では、七月七日の故事風習(晋の阮咸が衣装を虫干しする風習をふまえて褌を竿にほしたり、?隆が腹の中の書物をさらすために裸になった故事)を重ねつつ、「鳳亭」(貴人の豪邸)では「仙会」(牽牛・織女の会合)を悦び、「針閣」(高楼)では「神遊」(牽牛・織女の会合)を賞賛し、別離の悲しみを歌う(江口孝夫『懐風藻』246−7頁)。

                             B 正五位騎兵大将軍紀古麻呂(12番、646−705年) 2首

 紀古麻呂は紀大人(うし)の子にして、紀朝臣麻呂の弟である。慶雲2年(705)11月に、「新羅からの使者を迎える」ために「諸国から騎兵を徴発」し、正五位上の紀朝臣古麻呂を騎兵大将軍に任じた(『続日本紀』1、69頁)。後に式部大輔となり、59歳で死去した。

 7言俳律(12行)「望雪」(E)で、「無為の聖徳」は寸陰を惜しみ、道を守る「神功(功業ある賢君)」は「球琳(美玉)」などには目もとめないとし、帝と冬景色の関わりを歌う(105−107頁)。

 5言律詩「秋宴」(A)では、秋の太陽・大空・雷・爽快大気・蜩などが描写され、最後に「文雅の席」に出席して、「七歩の情」(即席に読む詩)の才能がないのを恥じるとした(江口孝夫『懐風藻』108−109頁)。

 このように、文武天皇の聖徳や聖道を歌い、漢詩の宴にでて自らの即席詩作の才能のなさを恥じる謙虚さを歌った。官人の行動規範(天皇畏敬、自己謙遜)の基本を歌っている。

                             C 正五位近江守采女比良夫(26番、生没年不明) 1首

 采女氏(采女朝臣)は物部氏系の氏族で、饒速日(ニギハヤヒ)六世孫の大水口宿禰の子孫である(『日本書紀』下、596頁)。天武天皇13年(684)11月に采女は姓を賜いて朝臣となった(『日本書紀』下、465頁)。大宝4年(704)正月に従六位上から従五位下に昇叙した(『続日本紀』1、60頁)。慶雲4年(707)10月枚夫(比良夫)は文武天皇の崩御の「葬儀の装束を整える司」の一人に任じられた(『続日本紀』1、83頁)。和銅2年(709)3月に初めて造雑物法用司(新都造営に関わりある臨時官司)が置かれ、枚夫(比良夫)はこれに任ぜられ(『続日本紀』1、108−9頁)、和銅3年4月に近江守に転じた(『続日本紀』1、122頁)。

 五言俳律(12行)「春日侍宴 応詔」(A)では、天皇は、道では尭、徳では舜と同じであり、周の文王の愛、殷の湯王の仁を凌駕し、淑景(温和な景色)と「嘉気」(めでたい気)が溢れ、臣下として「皇沢」(皇恩)を頌し、「芳塵」(芳しい塵、聖恩)に浴し、「千年」にわたって「北辰」(北極星、天皇)を護ると歌う(江口孝夫『懐風藻』160−2頁)。天皇が仁愛では周の文王・殷の湯王を凌駕すると、日本の天徳の独自性を指摘している。

                             D 正五位兵部卿安倍首名(27番、664−727年) 1首

 安倍首名(おびとな)は、天智天皇3年(664)に生まれた。和銅7年(714)正月に正五位下から従五位下に昇叙した。霊亀元年(715)5月従四位下阿倍首名は兵部卿に任じられる。養老5年(721)3月27日に兵部卿阿倍首名は、衛士たちは「苦しみは大変深く」「しばしば語り合って逃亡」するので、今後は3年交代にして負担を軽減したいと奏言し、養老6年(722)2月23日、元正天皇は兵役期間を3年に短縮すると詔した(『続日本紀』1、2434頁)。養老7年(723)正月には従四位上から四位に昇叙した。神亀4年(727)2月13日兵部卿・正四位下の阿倍朝臣首名が死去した(『続日本紀』1、285頁)。

 五言律詩「春日 応詔」(A)では、天皇の催した宴において、天皇の「隆平の徳」を頌し、「交泰の春」を謡い、歌舞音曲、「湛露」(君恩が広く及ぶこと)「流霞」(天皇の漂う気)を語り、群臣と天皇が周遊すると、花月は一段と新鮮になると歌う(江口孝夫『懐風藻』163−5頁)。中堅官人として天皇の徳化を礼賛した。

                             E 従五位下備前守田中浄足(43番、生没年不明) 1首

 田中浄足は、天平6年(734)正月17日に正六位上から従五位下に昇叙した。

 五言律詩「晩秋於長王宅宴」(B)で、晩秋の長屋王宅での宴会について、「西園」(西の御園)では曲水の宴をもうけ、「東閣」(東の高楼)では「珪璋」(美玉、俊秀の士)を招き、「霞色」は「鸞觴」(立派な杯)に映っていると歌う(江口孝夫『懐風藻』227−8頁)。

                             F 従五位下出雲守息長臣足(34番、生没年不明) 1首

 719年(養老3年)7月13日息長臣足(おみたり、出雲国守、従五位下)は伯耆国、石見国の2国を管する按察使に任じられ、「管轄する国司に、もし違法行為や一般の人々のものを侵し掠めとるようなことがあれば、直ちに按察使が自ら巡察して、犯罪の状況を量って、官位を降格せよ」(『続日本紀』1、209頁)とされた。神亀元年(724)10月29日、散位従五位下息長真人臣足は出雲按察使に任じられていた時、「贖貨狼籍」したので、其景迹を咎めて、位禄を取り上げた(『続日本紀』1、269頁)。

 五言律詩「春日侍宴」(A)では、天皇は春の「淑気」に心を寄せて、「?紳」(シャクを持つ高位の貴顕の人々)を招いて、「天子の仁徳」は「千古」から続き、「皇恩」は「万民」に普く注ぎ、「広宴」に列する幸福を思い、天皇の「湛露の仁」(普くゆきわたる仁徳)に喜ぶと歌う(江口孝夫『懐風藻』196−7頁)。酒宴を道教的に把握し、天徳・皇恩を賞賛している。「贖貨狼籍」事件を起こしていたのに、彼の詩を掲載したのは、死によってその罪を相殺する評価がなされたか、或いは臣足の天徳・皇恩賞賛が評価されたのであろう。


                            G 従五位下吉智首(35番、生没年不明) 1首

 吉智(きち)首は、養老3年(719)正六位上から従五位下に昇叙した(『続日本紀』1、207頁)。神亀元年(724)従五位下の吉智首に吉田連という氏の姓を賜わった(『続日本紀』1、266頁)。

 五言俳律(10行)「七夕」(D)で、時節の移ろいの速さ、秋の訪れ、織女の仙車・神輿での移動、「天庭」での織女と牽牛の出会い、次の出会いの「悠かなること」を嘆くと歌う(江口孝夫『懐風藻』198−9頁)。首は仙境世界としての七夕を歌い上げた。

                            H 従五位下鋳銭長官高向諸足(56番、生没年不明) 1首

 天平5年(733)3月14日、高向諸足は正六位上から外従五位下に昇叙した。『続日本紀』では確認できなかったが、『懐風藻』によれば、鋳銭長官に就任している。

 五言律詩「従駕吉野宮」(C)で、吉野は以前は「魚を釣りし士」がいただけだが、今は「鳳(天子の乗り物)を留むる公(公卿)」がいて、「琴を弾じて仙と戯れ 江に投じて(吉野川に面して)神と通」じ、「柘歌」(柘姫が美稲に与えた歌)は「寒渚」(寂しい川辺)に響き、「霞景」は秋風につむじのように巻き上がり、「姑射(こや)の嶺」(仙人が住むという山)などより勝れた仙境であり、吉野こそ御者のとどまる「望仙の宮」(漢武帝の建てた宮殿)だと歌う(江口孝夫『懐風藻』327−328頁)。高向諸足は、ここで中国仙境より吉野仙境がすぐれていると、日本独自性を発揮している所が注目される。

                            I 従五位上上総守伊支古麻呂(60番、生没年不明) 1首

 伊支(吉)古麻呂は帰化人系であり、大宝2年(702)遣唐使に随行して唐にわたった。帰国後の慶雲4年(707)5月15日に、従八位下の古麻呂は、「はるか遠隔に地におもむいた」功労により?・真綿・麻布・鍬などがあたえられる(『続日本紀』1、82頁)。和銅6年(713)正月、正六位上から従五位下となり、以後16年かけて、天平元年(729)3月に従五位上に昇叙した(『続日本紀』1、145頁、301頁)。天平4年(732)10月には下野守に叙任された。帰化人系の叩き上げから、遠方の下野国司に上った苦労人である。

 こういう下級官人の彼が長屋王40歳誕生日に招かれた。長屋王の誕生時期には天武天皇5年(676)説と天武天皇13年(684)説があり、これで誕生祝宴の開催時期を算定すると716年か722年となるが、いずれも元正天皇の治下である。従五位下に10年以上も甘んじていた時期に長屋王邸に招かれたことになり、彼のような下級官人も差別なく遇してくれたことを五言律詩「賀五八年宴」(五八の年[四十歳]を賀する年。B)として歌ったのである。そこでは、@長屋王は「万古」にわたって「貴戚」(高貴な一族)として栄え、四十歳の「遐年」(かねん、長寿)を祝い、A「真卒」(飾らず率直なこと)は貴賎上下なく、「鳴求」(鳴いて友を求めること)に「愚賢」を選ばず、A「令節」(よき日)に「黄地」(大地)は自然を整え、「寒風」は「碧天」のもとに変化し、「螽斯」(しゅうし、いなご)のように子孫繁栄の印に応じているから、もはや「太弦(前漢の揚雄が、老荘哲学の玄に根本原理にし、漢代易学の成果を吸収して宇宙万物の根源を論じた占術書)を顧みる」必要はないと(江口孝夫『懐風藻』347−9頁)、長屋王の身分差別なく交流し、自然に順応し繁栄している仁徳が歌われる。
                         
                                      B 下級官人

                           @ 正六位上伊予掾刀利宣令(41番、生没年不明) 2首

 刀利宣令は帰化人系であり、養老5年(721)正月23日、従七位下の宣令らに、元正天皇が「役所から退出後は皇太子(後の聖武)の宮に伺候させ」(『続日本紀』1、224頁)た。正六位上・伊予掾の時に59歳で死去した。

 五言律詩「秋日於長王宅宴新羅客」(B)では、「鳴鹿(詩経の一篇)の爵(杯)」でもてなし、新羅大使との離別の悲しみを歌う(215−216頁)。

 五言律詩「賀五八年」(B)で、長屋王は40歳で豪邸で賀宴を催し、「楽広」(晋の高潔明朗な人)は雲にも響き、人々は皆「清素」(潔白な心)だから、「子雲(漢の揚雄)の玄(人事から宇宙万物の根源までを論じた本)」を用いる必要はないと、長屋王治世を讃美した(江口孝夫『懐風藻』216−8頁)。この「賀五八年」は、伊支古麻呂の「賀五八年」と同様に、長屋王の誕生四十歳を祝したものといわれる。この開催時期を算定すると、仏教偏重策のとられなかった元正天皇治下の716年か722年となる。

                            A 正六位上左大史荊助仁(18番、生没年不明) 1首

 荊助仁は帰化人系であり、左大史(文筆を掌る律令制四等官の最下位)に任じられたが、詳細は不明である。帰化人系は、中国語か朝鮮語を必要とする文書・外交部門の下級官人に任じられたようだ。

 五言律詩「詠美人」(E)では、帝王(楚も襄王、楚の霊王、漢の武帝)と神女の関係が歌われている(江口孝夫『懐風藻』138−139頁)。日本仙境・天皇との関係は希薄な歌である。

                            B 正六位上但馬守百済和麻呂(47番、生没年不明) 3首

 百済和麻呂は帰化人系の下級官人であり、但馬守に任じられている。当時の官人の典型漢詩ともいうべき長屋王詩・七夕詩を残している。

 五言俳律(10行)「初春於左僕射(左大臣)長王宅讌(酒宴)」(B)で、長屋王の林苑を宮中御苑を示す上林と表現し、長屋王邸の庭園風景を描写し、この「芳舎」では「塵思」(俗念)は消え去り、自分のいる場所は「風響」(風流韻事)で賑わい、「琴樽」(音楽と酒)の興は尽きず、「習池(晋の周氏が持つ名園)の車(将軍の山簡が名園で酔いつぶれて乗る車)」に乗る者はいないと歌う(江口孝夫『懐風藻』249−251頁)。

 五言律詩「七夕」(D)では、織女・牽牛の出会い、出会いの喜び、別離の悲しみ、来年の再会を待つ気持ちなどが歌われる(江口孝夫『懐風藻』252−3頁)。

 五言律詩「秋日於長王宅宴新羅客」(B)では、長屋王宅は「勝地」(景色がよい地)で、酒宴を開いて、「蘭期」(良友と親交を結ぶ時期)を迎え、新羅使節を「鳳楼の詞」(鳳楼での美しい音楽)でもてなし、海を隔てた遠方に思いをはせると歌う(江口孝夫『懐風藻』254−5頁)。

                           C 従七位下判事紀末茂(14番、生没年不明) 1首

 紀末茂は判事に任じられた下級官人であるが、詳細は不明である。

 五言律詩「臨水観魚」(大野保はこれは「陳の張正見の楽府『釣竿篇』の盗作」とした、E)で、釣をしている時、人が来ると、水鳥は水に隠れ、船が渡ると、浮き草は水に沈み、深いために釣り糸が出し尽きて、餌も下に集まる魚に「空しく嘆」き、「貪心あるをみる」と歌った(江口孝夫『懐風藻』114−115頁)。江口氏は、最後の二行は「やや道学的になってしまったのが惜しまれる」とした。

                                       七 隠 士                

                              民黒人(61番、生没年不明) 2首

 民黒人は帰化人系であり、民忌寸は「後漢の霊帝の曾孫、阿智王(応神天皇の御世、朝鮮の漢植民地帯方郡から渡来)の後裔」(江口孝夫『懐風藻』349−350頁)と推定されてもいた。本書目録に「隠士民忌寸黒人」とある。この「隠士」とは「官途から離れた隠遁者」であるが、「播磨国正税帳」に「播磨国大椽従六位上民忌寸黒人」(『武田祐吉著作集』第五巻万葉集篇1、角川書店、1973年)とあるから、隠士となる前は、播磨国の下級官人だったようだ。仙境での清浄な生活の実践者であるのみならず、仏教的浄土とは異なる仙境生活が語られている。

 五言律詩「幽棲」で、@「囂塵」(喧しい俗塵)の場を離れて、「仙桂」(桂の茂る清浄な仙境)を探し求め、Aそこは、「俗事」なき「巌谷」、「樵童」に会うぐらいに寂しい「山路」、歩む度に「異なってゆく」泉石、どこでも変らぬ「風烟」(風にたなびく霞)であり、B「山人の楽しみ」とは「松」の下に吹く「清風」であると、仙界に溶け込んだ清浄生活を歌った(江口孝夫『懐風藻』350−1頁)。

 五言絶句「独坐山中」でも、「烟霧」は俗塵を脱し、山川は居所での精神をさかんにし、この時によい詩ができなければ、風月は自分を軽視するものだと、仙境での風流生活を歌う(江口孝夫『懐風藻』352−3頁)。


                                           ま と め

 以上の考察によって、次の諸点が明らかになった。

 第一に、『懐風藻』が751年に編集されて理由として、『懐風藻』の「序」では「先哲の遺風を忘れざらむ」ためとはしているが、実際はその「遺風」がある観点から見て極めて重要になってきたからである。つまり、@懐風藻が『古事記』『日本書紀』『万葉集』や私家版『漢詩集』などの書物編纂・刊行機運に乗じて、「聖徳太子」の仏教偏重統治を冷ややかに見て、それに批判的態度を見せ、聖武天皇の仏教政策批判をこめて編纂され、A天智天皇が「文」によって「風(風俗)を調へ俗(俗人)を化」し、「学」によって「コに潤ひ身を光ら」す政策を遂行し、学校を創設して「五礼」「百度」を振興した結果、「四海は殷昌」し、天智天皇・賢臣が「百篇」以上の漢詩を作り、B壬申の乱以後、大津皇子、文武天皇、大神中納言、藤原不比等も、名編の漢詩を作ったとして、漢詩をつくることもなく、仏教偏重統治を推進する聖武天皇・称徳父娘を暗に批判し、C『懐風藻』がメインに取り上げたのはこのようにまだ仏教偏重政策の行なわれなかった文武(697−707年)・元明天皇(707−715年、文武天皇の母)・元正天皇(715−726年、文武天皇の姉)の時期に作られた漢詩を通して聖武天皇を諌めようとしたともいえる。

 元来、仏教統治は、従来の神祇統治では耕地増加・人口増加、豪族跋扈、農民の負担過重化などの事態に対応できなくなったという限界のゆえに登場してきたのである。神祇で提唱される徳治、徳化などでは、民衆の苦境は解決できないのである。いわんや、天皇の御苑での歌舞音曲などは民衆の生活から遊離したものであり、そこの酒宴に招待された官人らが天皇の聖徳を歌い上げても、空しいばかりである。

 しかし、神祇側はこうした仏教の偏重策を批判し、仏教導入以前の中国の「文」や「学」の「徳化」作用を論じ、天皇・皇族・高官の漢詩散逸を惜しむのである。撰者がこういう立場にある者となれば、「薄官」の「余」はかなり絞り込まれてこよう。従来は淡海三船、葛井広成、長屋王、石上宅嗣、藤原刷雄などが撰者に推定されてきたが、この観点から見ると、淡海三船、葛井広成、石上宅嗣、藤原刷雄などは積極的根拠が弱い。こういう統治方針の大勢観に立つためには、神祇・藤原側の指導的立場にある事が必要になる。そういう人物とは、749年7月に孝謙天皇即位とともに大納言に昇任した藤原仲麻呂である。

 撰者を彼とすれば、脱俗的に仏教修学してきた青年僧淡海三船・藤原刷雄や葛井広成と懐風藻との関係に新たな照明を当てることが可能になる。淡海三船、藤原刷雄単独では、、わずか1年弱の間に広汎に漢詩を渉猟するのはほとんど困難であり、葛井広成のような下級官人にも『懐風藻』の立脚する統治大局観にたつことなどできない。そもそも、当時の撰者とは、「『日本書紀』は舎人親王撰と記されるが、舎人親王個人が撰述したのではなく、編纂局の学者たちの共同成果で、親王がその責任者にすぎないことは自明であ」り、「『養老律令』における藤原不比等撰も、実際の撰者は諸蕃系法学者集団であった」(速水侑『日本仏教史 古代』吉川弘文館、2005年、62頁)ように、事実上は協力者をまとめる象徴とか、協力者を指導する実力者だったのである。故に、撰者が従二位大納言藤原仲麻呂と見るならば、淡海三船、藤原刷雄を遣唐使に同行させるために還俗させ、唐でさらに学問仏教を修行させようとしたり、葛井広成に藤原不比等への「和詩」作成を依頼したりして(麻田陽春に和詩作成を要請したように)、彼らにも『懐風藻』編纂に一部協力させることが可能となる。特に、前二者の場合は、遣唐使を通して唐皇帝にも懐風藻を献上して、日本の天皇徳治の素晴らしさを誇示するという大義名分にも直接かかわることにもなる。まさに、藤原仲麻呂とは、こういう強力な指導力をもった撰者だったということである。

 これだけを取って見ても、懐風藻の撰者として藤原仲麻呂以上に適当な人物がほかにいるであろうか。

 第二に、伝記は、編纂者が皇位継承問題啓発(太政大臣大友皇子、河島皇子、大津皇子、葛野王の伝記)と仏教偏重批判・脱俗仏教主張(釈智蔵、弁正、釈道慈、釈道融の伝記)との目的で懐風藻を編纂した意図を明らかにしている。これを踏まえて改めて淡海三船、藤原刷雄の単独編纂説を再吟味すれば、一介の青年僧にこうした大局的な既述は頗る困難だということである。皇位持続問題に最も熱心な氏族、つまり藤原氏、その中で最も積極的だった人物となれば、藤原仲麻呂が自然に浮上してくるということだ。

 『懐風藻』筆頭で天智天皇長子の太政大臣大友皇子が最初に取り上げられるが、@伝記によって、その理由が、彼は、壬申乱で叔父天武天皇に破れ「天命」を遂行できずに逝去したが、藤原鎌足の指導で、娘を嫁がせ皇位を繋ぎ、かつ仏教を学ぶのではなく、百済帰化人の学者から法律・兵法・五経などを学び、大王としての「徳」を積み、古事に興味を抱き、文藻を日々磨いていたからであった事がわかり、A彼の作った二漢詩で、神祇的・道教的な天智天皇の徳化統治が謳われ、自分には太政大臣の統治能力がないから、どのように天下の統治に臨もうか悩むという謙虚さが謳われていることがわかり、Bこうした伝記・漢詩によって、天智天皇・大友皇子の徳治統治こそが天皇統治の原点であり、理想であり、藤原鎌足が忠臣として皇位を維持する所以であって、仏教統治などではそれから程遠いことを示すことであったことがあきらかになる。

 次に、天武天皇死後の「政変」が二人の皇子の「伝記」「漢詩」で語られる。まず河島皇子(天智天皇次男)では、@「伝記」では、河島皇子は親友大津皇子の「逆を謀る」を知って、持統天皇朝廷への「忠正」からそれを密告したことを、「余」は「忠臣の雅事」としつつも、「親友に忠告せずに「塗炭」の苦境に追い込んだことには「疑う」」としつつ、A漢詩で、神祇派皇族らしく、事変後に河島は出家などして仏教に助けをもとめるのではなく、神仙郷の如き山中で幽雅風流な生活を続けて、今後は変らぬ友情の大切さを期したいとしたのである。

 三番目に「逆謀」家大津皇子(天武天皇三男)の「伝記」「漢詩」が取り上げられ、@「伝記」では、人品学識ある大津皇子が謀反などを起こしたのは「天文卜筮(星座占い)」をよくする「新羅の僧行心」が大津皇子に皇位継承をそそのかしたからだとし、Aかかる仏教批判のために、仏僧の接近さえばなければ、実に立派な人物であったことを強調するために、異例にも4篇の詩(五言律詩「春苑言宴」・「遊猟」七言絶句「述志」、五言絶句「臨終」)を挙げたのである。

 四番目にまだ存命中の僧侶「釈智蔵」の「伝記」「漢詩」が取り上げられる。@「伝記」では、天智天皇の頃に唐に留学し、帰国後に仏教の深い知識を認められて持統天皇から僧正に任じられたが、A2首の漢詩で俗事を離れて山野山川で心を研ぎ澄ます「隠士」の姿が認められ、神祇派が理想とする「政治に介入する僧侶ではなく、山野で脱俗して修行する隠者僧」が語られている。

 五番目に大友皇子の長子、天智天皇の孫である葛野王の「伝記」「漢詩」が取り上げられ、@「伝記」で仙境で遊び「学を好み、博く経史に渉」り、「すこぶる文を属することを愛し、兼ねて書画を能く」した有徳の葛野王が、持統天皇の皇位継承候補の選定会議で皇位継承法について仏教などに関りのなく行なわれるという古来からの方針を述べ、文武天皇を立てる上で功績があったことが述べられ、A漢詩2首では、葛野王が園で梅と鶯で愁いと老を忘れ、吉野の東北の竜門山に遊び官務の煩いから脱し仙人の境地にたどり着きたいと歌うことが示される。

 この五人の「伝記」「漢詩」には、『懐風藻』撰者の「仏教偏重とそれによる皇位存続困難・歪曲化への批判」の意図が明確に現れている。6番目に記載された神祇伯中臣大島以降の「諸人、いまだ伝記をえず」となるが、実際にはさらに4人に「伝記」が付せられている。撰者が、この四人には「伝記」による説明が必要だと指示したのであろう。その「伝記」を追加された彼らとは、仏教の政治介入に反対する僧侶(「玄学」[魏・晋時代に盛行した老荘哲学]に詳しく漢詩で唐皇帝の徳を賞賛した弁正法師、仏道は仙境・老荘に基づく漢詩とは異なると主張する学問僧であり聖武天皇に諫言した律師釈道慈、隠者僧侶の釈道融)と、漢詩の教化作用に関する最適事例である従三位中納言石上乙麻呂の4人である。仏教を偏重するから3人の僧侶を取り上げるのではなく、仏教偏重をせずに脱俗仏教修行を主張する僧侶だから取り上げたというのである。なお、『懐風藻』では、既述四人の僧侶(釈智蔵、釈弁正、釋道慈、釋道融、釈弁正)以外に、元僧侶4人(山田三方、春日蔵老、吉田宜、大津首)の漢詩が取り上げられている。還俗して、長屋王邸酒宴を詠い、吉野従駕を詠む当時の典型的な中堅官人になりきっている姿が歌われている。既に還俗しているから、彼らには「伝記」での説明などは不要である。

 第三に、八番目に唯一天皇漢詩として文武天皇漢詩が3首掲載されているが、それは彼が聖武天皇の父であり、漢詩的世界で統治態度を磨き上げ、なんら仏教を偏重することはなかったからである。これは、仏教偏重して漢詩一つも作らなかった「聖徳太子」と同様に、漢詩を作らないで仏教を偏重する聖武天皇への暗黙の批判となる。

 第四に、藤原一族については中臣家2人(神祇を家務とする中臣=藤原家の代表である神祇伯中臣大島、神祇伯中臣人足)、藤原家4人(藤原史、藤原総前、藤原宇合、藤原万里)23首も取り上げられ、さらに葛井広成、麻田陽春が藤原漢詩に和した漢詩2首も選ばれている。藤原一族の漢詩が吉野仙境、七夕、長屋王宅宴会、徳治統治などを中心に25首も掲載され、全体の2割を占めているのである。これもまた、『懐風藻』が藤原氏、その事実上の指導者として浮上する藤原仲麻呂が撰者であることを裏付ける有力傍証の一つともなる。

 藤原万里が神納言(中納言直大弐三輪高市麻呂)の諫言を扱っていることから判断しても、藤原仲麻呂らの意向が聖武太上天皇・孝謙天皇への諫言にもあることが藤原一族にまで行き渡っていたとも推定される。また、葛井広成、麻田陽春は751年頃も存命の可能性があり、藤原仲麻呂らが、葛井広成には「藤原不比等の吉野詩に和して」漢詩を作ること、麻田陽春には「藤原仲麻呂が亡父藤原武智麻呂の近江神山での仏教修行を歌った漢詩」に和した漢詩をつくることを要請したとも推定される。特に後者では、@藤原仲麻呂が漢詩を作っていることを確認するうえで重要であるのみならず、Aあくまで懐風藻の編集方針は「故人漢詩」の保存であるのに、存命中の仲麻呂、存命だった可能性がある麻田の漢詩を載せているということが重要になる。後者の事態は、撰者が仲麻呂であったからこそ、編集方針に反して、「藤原仲麻呂が亡父藤原武智麻呂の近江神山での仏教修行を歌った漢詩」に和して作った漢詩として、掲載することも可能になったであろうことを示している。これもまた藤原仲麻呂が撰者であることを裏付ける有力傍証の一つともなる。

 第五に、天武天応系の王(大津皇子[前出]、長屋王、山前王、大伴王、境部王)については、仏教統治などではなく、道教的・仙境的な天皇徳治統治を歌う漢詩が取り上げられる。

 第六に、天智天皇の「文」「学」による「コ潤身光」の重視から、国家統治の根幹である律令制定功労者8人(調忌寸老人、伊予部馬養、道首名、黄文備、田辺百枝、守部大隅、箭集虫麻呂、塩屋古麻呂)と、大学寮で大学博士、後に明経博士として明経道を教えた儒学関係者7人(調古麻呂、美努浄麻呂、刀利康嗣、越智広江、背奈王行文、下毛野虫麻呂、巨勢多益須)の漢詩が18首掲載されている。「侍宴」9首、長屋王詩5首、「従駕応召」詩3首と、文武天皇主催宴会で臣下として侍り徳治を歌い上げる詩が中心である。秋日の長屋王邸での新羅大使の送別漢詩は、従五位上下毛野虫麻呂が「北梁の芳韵」(北梁の別離の詩)の後を継ごうと呼びかけて作られたことがわかる。

 第七に、三位以上の上級官人6人(大伴旅人、紀麻呂、大三輪高市麻呂、石川石足、安倍広庭、丹?広成)、五位以上の中級官人10人(大神安麻呂、紀男人、紀古麻呂、采女比良夫、安倍首名、田中浄足、息長臣足、吉智首、高向諸足、伊支古麻呂)、七位以上の下級官人5人(刀利宣令、荊助仁、紀末茂、百済和麻呂)の漢詩が29首掲載されている。これが一番多い。律令・儒学者と同様に、侍宴会が8首、長屋王宅宴会が7首(うち、秋日3首)、吉野が5首、七夕が4首であり、天皇らに仕える官人が宴会に招かれて作った漢詩が多い。官人と律令・儒学者をあわせると、36人47首と、人数では過半を占めている。彼らの忠勤が、天皇徳治を支えていたのであるから、彼らの漢詩作りも重要となる。それは、近江朝官人の漢詩を掲載できなかっただけに、これが、天智天皇の「文」と「学」、学校と「五礼」「百度」の振興政策の結果の証しともなるからあることはいうまでもない。

 また、中下級官人2人の作った長屋王40歳誕生祝い(元正天皇治下の716年か722年)を歌った漢詩2首から、長屋王が別け隔てなく中下級官人を誕生宴会に招いていたことがわかる。

                  
 以上、神祇・藤原側が、近江朝、聖武天皇の父・祖母・伯母の統治下での徳治漢詩を歌い上げて、仏教偏重策を教化論の観点から婉曲に批判し、諌めようとしたことを明らかにした。だから、詩人には元来は漢詩に不得意な律令・儒教関係官僚が少なくないことになり、且つ題材が普通の自然ではなく、御苑、吉野離宮での自然となり、天皇を仙人、中国の理想的帝王になぞらえ、御所・離宮を道教的な仙境などと把握することが多くなったのである。従って、この漢詩集は、@藤原・天智側が、特定仏教関係者、天智・藤原系、儒学・律令学者、官人らの漢詩を総動員して、聖武天皇・孝謙天皇の仏教偏重政策を批判し、諌めることを目的としたものであり、A自ら漢詩をつくり、一族が書物編纂の重要性(祖父藤原不比等が『日本書紀』編纂に関与し、9年後の760年に藤原仲麻呂[758年恵美押勝に改名]らが『藤原家伝』上を編纂)を認識していた藤原氏、その実質的指導者の藤原仲麻呂が数年前から構想し、遣唐使派遣(実は、この遣唐使自体藤原仲麻呂らが聖武天皇派遣の僧侶榮叡・普照の連れ戻しなどを口実に藤原清河を大使にして積極的に組織した可能性が濃厚である)を大義名分ある好機として、淡海三船・藤原刷雄・葛井広成らにも一部関与させ(彼らが懐風藻撰者とする説がでたのはこの辺りに原因があろう)、出来れば官公認のもとに編集したかったものであろう。藤原仲麻呂をかかる撰者とすることによって、新たな水準で従来の各撰者説が綜合的に把握され、『懐風藻』の編集動機・背景・掲載詩特徴などがすべて合理的に説明されるということである。

 その後、藤原仲麻呂が乱を起こし、藤原一族から除かれて、『懐風藻』撰者名からも削除されたのである。これは『藤原家伝』上も同様であり、太師のみ残して、恵美押勝名は抹消されたのであった。

 藤原・神祇側は、直接的には、これで仏教偏重策を推進する聖武天皇・孝謙天皇らを諌めようとはしたが、その効果が薄いことは半ばわかっていたであろうから、最大の目的は、仏教偏重策に対抗し、諌めることの大義名分を明らかにし、藤原・天智系の連帯強化をはかることであったろう。こうした方向は、藤原仲麻呂が主導権を発揮して纏めた『藤原家伝』の基軸、つまり「脱俗的・学問的仏教の奨励と、従来からの神祇的徳化統治の推進」という基軸の線上に位置して居るものであった。



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