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第三 遺伝子医療ー人間生命科学の応用
以下では、上述の分子生物学・遺伝子工学・ヒトゲノム計画など「人間生命の解明」作業の進展と連関して、遺伝子分析により病気や性別を予見すること、医療への応用(臨床)が展開する事を述べる。
一 遺伝子診断
1 アメリカの遺伝子診断
@ 遺伝病診断
病気と遺伝 一般的に、人間は、@「まず、特殊な武器をもっていない好中球(白血球の一種)が、侵入してきた病原菌と戦」い、A次に、「好中球だけでは手に負えないとなると、好中球より一回り大きいマクロファージ(白血球の一種)が、戦い挑」み、B「マクロファージからの情報を受けた司令官のヘルパーT細胞(リンパ球の一種)は、早速、敵の分析に取り掛かり」、C「ヘルパーT細胞からの指令を受けたB細胞(リンパ球の一種)は、免疫細胞中で唯一飛び道具である抗体を持」ち、「B細胞は、病原菌目掛けて、抗体を発射」し、細菌を死滅させ、D「ヘルパーT細胞は、もう一つ別の攻撃細胞であるキラーT細胞にも指令を出し」、「これらの免疫攻撃細胞によって、病原菌やウィルスとの戦いはほとんど終盤に向か」い、E「マクロファージは、侵入者である病原菌の死骸を整理している頃に、サプレッサーT細胞は、戦いの終了を告げ」る(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、13−4頁)。この免疫システムが故障すると、人間は病気になるのである。
こうした人間病気には、「感染病、生活習慣病(成人病)、遺伝病の三つ」ある(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』192頁)。そして、近年、「心疾患、糖尿病、がんのような主な生活習慣」病、「脳異常の疾病であるハンチントン病、パーキンソン病やアルツハイマー病」などは遺伝子に基因していることが分かって来たのである(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、BーC頁)。つまり、「科学者はいまや、癌や心臓病、糖尿病、アルツハイマー病、統合失調症、自閉症その他あらゆる病態を、単に経験にたよったり表面を観察したりするだけでなく、分子のレベルで読み解き」、「医学や生物学の原則の多くを大きく改変しようとしている」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』31頁)のである。
さらに、「疾病の本質的欠陥のうち、ますます多くのものが遺伝的であること」が分かるにつれて、「ヒトの分子遺伝学の急速な発達によって遺伝病の定義が広がり、以前には遺伝性とは考えられなかった主要な一般的な病気も、遺伝病に含まれるようにな」ったのである(T.フリードマン『遺伝子治療』81−2頁)。「私たちはみな、いくつもの病気のリスクを有しており、実際に病気になることもあれば、ならないこともあ」り、「病気になるかどうかは、遺伝子に刻まれたリスク因子の組み合わせと、その病気を発症させる環境に出会うかどうかできま」り、「遺伝子が関与しない病気はない」のである(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』97頁)。
こうして、「ほとんどの病気の遺伝的要因はDNAのミススペルのせいだとわかるようにな」ったうにな」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』31頁)ってきた。このDNAミススペルとは、「タンパク質は、遺伝子(DNA)の指令にもとづいてつくられ」、「その時に3つの塩基がひとつのアミノ酸を指定する暗号となってい」るので、「塩基の文字のどれかに変化が生じたり、一部がぬけ落ちたりすると、正常なタンパク質をつくることができなく」なり、病気になるという事である(田沼靖一『生命科学の大研究ー遺伝子からiPS細胞、死生観まで』28頁)。そして、ミススペルが特定されたDNAの数はヒトゲノム・プロジェクト完成とともに増え」、その結果「健康な個人でも自分の体内にひそむ病気の可能性を知り、それに対して予防策が取られるようにな」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』31頁)るのである。
また、「ヒトの疾病に関係する遺伝子」の研究深化からは、「疾病(発症)遺伝子、および疾病抑制遺伝子の二つに分けることができ」るようになる。つまり、ヒトの癌遺伝子には「ガンを発症させるガン遺伝子」と「ガンを予防したり、発症を防ぐガン抑制遺伝子」の二種類があり、「ガンは、一部分のヒトの胃や白血球などの細胞が、この遺伝子のプログラムの指示を無視して、勝って気ままに無制限的な細胞増殖を開始して、体のすべての部位方向にも拡がって行く」のである(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、120頁)。
「今日、遺伝子疾病を引き起こしたDNA、すなわち遺伝子ハッカーは、一つの混乱された遺伝子情報を、紡いでいる状態」であり、ヒトゲノム計画は「これらの遺伝子病を引き起こすDNAの中の塩基配列を読み取り、解明して、遺伝子病の苦しみから開放する目的で開始」された(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、BーC頁)。つまり、「DNA塩基配列の決定は現在の遺伝子操作の基本的技術であ」り、「DNA領域の塩基配列を知ることは、おそらくヒトの遺伝病を理解する上でそれ自体が最終目的となる」(R.W.オールド、S.B.フリムローズ『遺伝子操作の原理』166頁)といってもよいのである。
変異・異常 1988年には、ヒトゲノム計画についての国立研究機構委員会の報告書で、「DNAの塩基配列」には、「学習、言語、記憶などの知的能力を決定する因子の情報」のみならず、「数多くのヒトの疾患の原因あるいは誘因となる変異」も存在しているとする。だから、「疾患の診断並びに治療」のために「ヒトの遺伝子のマッピングや配列決定を遂行」する必要があるとする。ワトソンは、これを強調して、「ヒトゲノム計画は『疾患克服への最善の策」とする。こうして、「診断、治療、予防などの遺伝学の応用によって、個人の生来の権利、健康な人生を送る権利を保証することを強調するようにな」り、1988年、技術評価委員会は、報告書で、古典的優生学と区別して、改めて「遺伝特質を解析したり、改善する新しい技術によって・・(正常人の)優生学的目標を目指すことが可能になった」とした(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』365−6頁])。
分子生物学者シルヴァーは、遺伝子診断は、すでに「鎌状赤血球性貧血、嚢胞性線維症、テイ・サックス病、ハンティントン舞踏病といった、対立遺伝子の突然変異によって起きる病気を対象に実施」され、さらに、「よりよい健康状態や気質や才能に結び付く好ましい特徴をもたらす対立遺伝子の発見のために利用できるようになるのも、時間の問題」だとする(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』248頁)。
その後の遺伝学は、「正常なヒト」ではなく、「ヒトの異常」を明らかにしつつあり、分子遺伝学者も「正常と見なす性質の遺伝子を探求することはない」のである(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』370頁])。正常という概念は曖昧であり、「平均としての正常」なのか、「目標とすべき完全状態としての正常」なのか、はっきりしないのであるが、「このあいまいさのおかげで、われわれはみな『正常への優生学』に希望を持ち、期待する余裕をもつことがで」き、「完全に非遺伝的な概念的な力が及ぶ範囲を明快にすることになる」(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』371頁])とする。
これに関して、コリンズは、「DNAの塩基配列の違い」は、変異(mutation、「病気など明らかに悪い結果をもたらすミススペル」)とバリアント(variant、「良くも悪くも中立にもなるあらゆるスペル違いのこと」)があるとする。彼は、「バリアントがヒト集団の1%以上に出現頻度を持つ場合、多型とい」い、「DNAの一文字だけ違うものは一塩基多型、概してSNPと呼ばれてい」て、バリエーションとは、「このような個人のゲノムに出るさまざまな多様性をひっくるめて表現している」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』58頁)と指摘する。
遺伝子病 遺伝子治療に際して、我々は、こうした変異を理解し、「願わくばそれを治療するために、遺伝子の異常な構造や機能に精通」する事が必要となる(T.フリードマン『遺伝子治療』73頁)。遺伝子病は、「遺伝子の変異(変更)、あるいは突然変異によって発症するひとつの疾病」である。「遺伝子病では、一つの特定な遺伝子DNA上にある塩基配列が、生まれつき変異している」ので、「この変異遺伝子は、正常な代謝酵素を合成でき」ず、「代謝異常に陥る」のである(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、61頁)。染色体とは、「親の細胞から子の細胞へと伝わっていく」遺伝情報=塩基配列の書き込まれるDNAの保管庫であり、「細胞の中心部にある核にまとまって存在している」(小長谷正明『難病にいどむ遺伝子治療』岩波書店、2016年、30頁)。遺伝子病とは、この染色体に異常があるという事なのである。
マクージック(医者)によれば、遺伝子病は、@単一遺伝子型あるいはメンデル型遺伝病、A多因子型、B染色体異常(複雑な奇形となりがちで「通常、脳障害と知能の発達遅滞を起す)の三種に分けられるとする(T.フリードマン『遺伝子治療』73−5頁)。この三遺伝子分類が一般的である。
第一番目の単一遺伝子型あるいはメンデル型遺伝病は、「嚢胞性線維症(劣性遺伝子疾患)や、鎌状赤血球貧血、ハンチントン病(優性遺伝)などのように、特定の遺伝子に変異があれば予知できる病気」である。この単一遺伝病は「DNAレベルで簡単に理解できる病気であり、これらの病因が何百も見つかったことがゲノム革命第一波」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』55頁)となる。
なお、T.フリードマンは五つの遺伝子病があるとする。「多くの刺激に対する通常の免疫応答は、免疫応答領域と呼ばれるゲノムの一部によって支配されてい」て、「この領域は、ヒト白血球抗原、あるいはHLA抗原と呼ばれる一連のタンパク質をコードする、互いに連鎖した多数の遺伝子を含んでい」て、「HAL抗原をコードするA、B、C、Dと呼ばれる四つの主なHAL遺伝子が存在」する。体内にあるもの異なる「表面上のHAL抗原」が移植されれば、「体内の免疫系はそれらに向かって免疫的攻撃をしかけ」てくる。また、「関節リウマチや糖尿病などの疾病は、HALのある特定の形をもった人に特によく見られ」、「これらの遺伝子はこれらの疾病に対して高い感受性を生じさせ」「自己の免疫防御システムをだま」すのである。これと「似通った機構が紅班性狼瘡や重症筋無力症等の自己免疫病の原因となってい」る(T.フリードマン『遺伝子治療』83−4頁)。
フリードマンは、コウシタ四つの遺伝子病の他に、「第五番目の遺伝病のカテゴリー」として、「ヒトの正常遺伝子の一つが細胞の発生や分化の途中で間違った時期に発現したり、あるいは全く発現しなかったりする病気で、普通は正常な遺伝子が不適切な発現をすることによって害を及ぼ」し、癌化するものがある。「我々が今まで学んだことは、以前には遺伝的基礎をもっているとは思われなかった癌や幾つかの変性疾病、自己免疫病、多くの感染症等が、すべて潜在的な遺伝的要因をもっているかもしれない」ので、「診断や治療のための遺伝子を扱う技術は、我々がこれらの病気を理解することを助けてくれると考えることは大切なこと」である(T.フリードマン『遺伝子治療』84−6頁)。
こうした遺伝子病の数は、1966年400−500種、1978年2811種、1982年3000種以上となる(T.フリードマン『遺伝子治療』79頁)。そして、「しばしば、細かい家系分析、すなわち家族における疾病パターンが、ある病気が遺伝情報の欠陥によって起きるということを証明する、最初でそしてたぶん唯一のものとな」る(T.フリードマン『遺伝子治療』80頁)。遺伝病にはプライバシーが深く関わってくるのである。
染色体の異常 上記第三種の遺伝子病である染色体異常について掘り下げてみよう。
ヒトの全DNA(ゲノム)には約30億の塩基があり、そのうち1.3%の4000万塩基が「タンパクのため」のもので、遺伝子のタンパクのアミノ酸配列について、「連続して」書かれている部分(エキソン)と「タンパク情報が書かれていない」「エキソンとエキソンの間の部分」(イントロン)からなっている(小長谷正明『難病にいどむ遺伝子治療』岩波書店、2016年、43−4頁)。このイントロンには、「ショートタンデムリピート(STR)と呼ばれる同じ塩基配列の繰り返し部分が多数存在」し、「その繰り返し回数は個人によって違うため、それを何か所か調べることで個人を識別できる」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』126頁)。そして、「突然変異(塩基配列の変化によって新たな対立遺伝子ができること)は、必ずしも悪いこととは限ら」ず、「私たちはみな、突然変異体」であり、「実際、私たちの遺伝子はどれも、次々に起こる突然変異を含んだ進化のプロセスをたどってつくられてきた」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』248頁)のである。
1967年には「初の染色体検査による染色体異常の診断」が報告され、1968年「ダウン症と診断され妊娠中絶が施行された症例」が報告された。1972年、ブロック(D.J.H.Brock、エディンバラ)は、「二分脊椎症などの神経質の先天異常の一部は羊水のαーフェトプロテインの増加で診断できること」を報告した。1975年、アメリカ政府は、アメリカ小児科アカデミー総会で、「NIHの研究の結果、出生前診断の羊水穿刺は妊婦および胎児両者に取って安全であり、また非常に正確なものである」事を報告した(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』315頁])。
染色体上の位置を決定された疾病遺伝子 「遺伝子から病気の研究を進めるには、染色体(細胞分裂の時にDNAが集まってできる棒状のもので、ヒトは23対、46本)のどこにどのような遺伝子が存在するのかを正確に知る必要があ」る(田沼靖一『生命科学の大研究ー遺伝子からiPS細胞、死生観まで』17頁)。それによって、疾病遺伝子の各染色位置が明らかにされる。
「染色体上の位置を決定された疾病遺伝子の数は、すでに6千を超え」、「遺伝子治療に比べれば、遺伝子診断は技術化がはるかに簡単な分だけ、そのスピードは速」い(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』現代書館、2002年、8−9頁)。「遺伝子診断の対象疾患は、とくに遺伝性疾患から、エイズや癌や心臓病その他の成人病にまで広がっており、いずれは外傷を除くほとんどの病気がその対象範囲にはいってくるとされる」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』現代書館、2002年、9頁)。
実際、前述のヒトゲノム計画の進展で、遺伝子異常の解明が推進された。例えば、精神遅滞と自己咬傷をもたらすオレシュ・ナイハン症候群」、「若年での神経変性と死をもたらすオテイ=サックス病」、「小児期の老化という症候をともなうウェルナー症候群」などは「単一の異常遺伝子から生じる病気」である(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』64頁)。 「おおざっぱな計算では、私たち一人ひとりは、ある種の条件のもとでは問題を生じる遺伝的変異を半ダース以上もっている」から、「遺伝子が、個性、知能、運動能力、音楽的才能、記憶、気性、性的指向などをどこまで形づくっているかを考慮しなければならない」(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』64−5頁)のである。その進展は「私たちにきわめて大きな利益をもたらす」から、「ヒトの生殖系列テクノロジーの出現が事実上避けられない」のである(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』69頁)。
遺伝子疾患は、@「遺伝子の塩基配列」の増幅・欠損(これで正常なタンパク質が作れなくなる)、A染色体(22対の常染色体、1対の性染色体)が多い事(1組に3本ある状態をトリソミーといい、21番目の染色体が3本あるとダウン症患者になる。18番目の染色体が3本あると、エドワーズ症候群患者になる」)、B染色体が少ない事(X染色体が1本しかない」ターナー症候群患者)などによって生じる(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』学研、2013年、92−3頁)。また、筋ジストロフイー(「X染色体にあるジストロフィン遺伝子が欠損すること」に基因し、「基本的にはX染色体が一つしかない男性に発生する病気」)、白皮病(「メラニンという色素を生産する遺伝子が欠損している」事に基因)、色素性乾皮症(「紫外線によって傷ついたDNAを修復する遺伝子が機能しない病気」)などがある(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』92−5頁)。
代表的な染色体(「染色体1から染色体23、染色体1−22番は常染色体、23番は性染色体と呼ばれる)の疾病を整理すると、下記のようになる。
@染色体1疾病(第1染色体の上の領域に在る疾病)としてジュン・ガン遺伝子で発症するガン、
A染色体2疾病として家族性大腸ガン抑制遺伝子の欠乏で発症する遺伝性非腺腫大腸ガン、
B染色体4疾病としてキットガン遺伝子で発症するガン、ハンチントン病の原因となる遺伝子、
C染色体7疾病としてCFTR遺伝子と呼ばれる遺伝子の変異でおこる嚢胞性線維症、エーラース・ダンロス症候群遺伝子で発症する代謝異常、
D染色体9疾病としてサイクリン依存性キナーゼ・インヒビター‐2A(p16)ガン抑制遺伝子の欠乏で発症する悪性(皮膚)黒色腫‐2、C9ORF72遺伝子の発症による家族性ALS、
E染色体10疾病として多発性内分泌2A型ガン遺伝子と多発性分泌2B型ガン遺伝子で発症するガン、
F染色体11疾病として多発性内分泌T型ガン抑制遺伝子欠如・ウィルムス腫瘍抑制遺伝子欠如で発症する腫瘍、
G染色体12疾病として家族性アルツハイマー病5型・サイクリン(細胞周期)依存性キナーゼ4で発症する疾病、
H染色体13疾病として家族性網膜芽細胞腫T型・接着タンパク質粒子性白内障3型で発症する疾病、
I染色体14疾病としてアルツハイマー病3型・フォスガン遺伝子で発症する疾病、
J染色体15疾病としてプラダ―・ウィリ―症候群(OWS、低身長症)、テイ・サックス病(TSD)で発症する疾病、アンジェルマン症候群の疾病、
K染色体16疾病としてα型タラセミア・クローン病で発症する疾病、
L染色体17疾病として腫瘍抑制遺伝子TP53の「障害」(リ・フラウメ二症候群関連遺伝子)、乳癌遺伝子BRCA1で発症する乳癌、神経線維腫症T型(NF1)で発症する疾病、
M染色体18疾病として家族性大腸ガン(DCC)で発症する疾病、エドワーズ症候群遺伝子で発症する疾病、
N染色体19疾病としてマンノシドーシス遺伝子・アルツハーマー病連鎖アポE型遺伝子・筋強直性ジストロフィー遺伝子で発症する疾病、
O染色体20疾病としてアデノシンデアミナーゼ遺伝子・プリオンタンパク質遺伝子で発症する疾病、
P染色体21疾病としてアルツハイマー病遺伝子T型・ダウン症候群遺伝子で発症する疾病・筋委縮性側索硬化症や急性骨髄性白血病の「発症にかかわる遺伝子」、
Q染色体22疾病としてディジョージ症候群遺伝子・異染性ロイコジストロフィー遺伝子で発症する疾病、
R染色体(XY)23疾病として「染色体X上の遺伝子の異常」で発症するX連鎖遺伝病・血友病など。
(以上、本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、122−175頁、フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』59−61頁、田沼靖一『生命科学の大研究ー遺伝子からiPS細胞、死生観まで』PHP、2012年、小林雅一『ゲノム編集とは何か』講談社、2016年、科学技術振興機構「iPS
TREND」などに依拠)。
そして、典型的な病気の染色体形式は、@常染色体優生遺伝(Autosomal Recessiveペアをつくる常染色体のどちらか一方に特定の形質や病的遺伝子Aaがあれば、50%の確率でそれが現れ、いずれも病的遺伝子を持つ場合には75%の確率で発現する)、A常染色体劣性遺伝(「だれにでも、少なくとも三つくらいは致死的な常染色体劣性の病的遺伝子がある」異常遺伝子aが2個で発症)、BX染色体の変異が遺伝するX連鎖性劣性遺伝の三種類がある(小長谷正明『難病にいどむ遺伝子治療』岩波書店、2016年、30ー36頁)。
今後、「染色体異常をもつ患者は、疾患遺伝子の位置について重要な情報を提供」し、大きな染色体異常は、「従来の細胞遺伝学によって認識でき」るが、小さな染色体異常は、「比較ゲノムハイブリダイゼ―ション(CGH)法や、SNPアレイの利用によって判明する」のであり、これらのアプローチは、「ほとんどの患者が新しい変異によるものであり連鎖解析を行なうのが不可能な、重篤な優性遺伝性疾患に特に有用である」(トム・ストラッチャン、アンドリュー・リード著『ヒトの分子遺伝学』571頁)とされている。
嚢胞性線維症が染色体異常研究先駆 こうした染色体異常研究の先駆になったのが、ヒトゲノム計画の責任者の一人であったコリンズの嚢胞性線維症研究であった。
1980年代に、コリンズのラボは、「嚢胞性線維症の変異遺伝子を突き止めるのに中心的な役割を果たし」、この病気に「侵された子供が複数名いる家族」を大量に調べると、「七番染色体上の長いDNA領域に嚢胞性線維症遺伝子が含まれている」可能性が明らかになった。だが、当時では、「そのDNA領域にはおよそ200万の塩基対があり、そこまで長いDNA鎖を調べる方法は・・とてつもなく時間がかかり、又不完全だった」のである。1987年、彼らは、漸く「「未知の機能をもつ遺伝子の中間あたりに位置する塩基配列の三文字『C、T、T』の欠失が、嚢胞性線維症の存在とかみ合っている」事に気付いた。嚢胞性線維症の原因遺伝子であるCFTR遺伝子は、「さまざまな臓器の細胞膜を通して塩分と水分を運ぶ蛋白質をコードする」が、「両遺伝子のコピーが△F508(CTTの欠失)やG551D(GのかわりにAになる)になっていると、嚢胞性線維症になる」のである。これが、「その後15年以上にわたって2000種類近くの病態の原因遺伝子を暴いていく時代の幕開けとな」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』59−61頁)るのである。
コリンズらは、1989年9月『サイエンス』誌に「この遺伝子についての情報を公表」した。嚢胞性線維症は、「30億文字のうち、たった3文字がこの特定の場所から抜け落ちているだけのことが、北ヨーロッパ出身の3000人に1人に多臓器不全(胚、膵臓、小腸、肝臓の機能が損傷)をもたらし、その個人と家族に苦しみを与えてきた事を公に明らかにしたのである(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』61−2頁)。
さらに、「過去20年でさらにいろいろなことがわかってき」て、三文字欠失が嚢胞性線維症の原因として「一番多い」が、嚢胞性線維症の原因として「ほかにもさまざまなパターンがあり」、現在世界中で「1000種類もの遺伝子変異」が特定されている。つまり、嚢胞性線維症の単一遺伝子の劣性疾患でも、「まったく同じ変異を保有しているにもかかわらず」、「病気の進路は個人によって違う」のである。「この差を生んでいる原因」は、@ゲノム内にある別の遺伝子が『修飾』という作用をしている」事であり、「他の生化学的経路にはたらく遺伝子の『正常な範囲の』バリアントが、嚢胞性線維症のような遺伝疾患を(修飾して)重症化させるかどうかのカギとなる場合があ」り、Aタバコの煙で「嚢胞性線維症の肺疾患が進行」したり、医学介入(栄養不良改善のための膵酵素カプセル剤の投与、「粘性の分泌物を除去するための集中的な胸部理学療法」実施、抗生物質の攻撃的投与、「胚の分泌物中にある粘性DNAを分解する噴霧酵素治療」、気道確保のための塩水噴霧治療、最後の「切り札」とも言える両胚移植など)という環境が嚢胞性線維の生存率を「劇的に向上」させているように、環境が「重症度に影響」している事などがあきらかになった(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』62−3頁)。
DNA検査産業 オールドらは、「内在的な原因によっておこる病気(遺伝子病)と感染性の診断のための試薬の生産は一つの巨大な産業であ」り、「世界中の販売量を合わせると数十億ドルになると推測」され、伝統的な診断薬は「特定の酵素をアッセイ(assay、分析、評価)する生化学的な試薬」と「免疫蛍光法、放射免疫法そして酵素免疫法」(「すべての産業、たとえば健康管理、食品、それに農業」などで応用)の二つがあるとする(R.W.オールド、S.B.フリムローズ『遺伝子操作の原理』362−3頁)。遺伝子診断ビジネスも小さくないのである。
また、アメリカでは「DNA検査サービスを直接、市民に売り込み始め」た民間企業として23andMe,Navigenics,deCODEなどがあり、「遺伝子検査が、ハイリスクとされる個人のみに適用される医療行為だった時代から、事実上だれでも受けようと思えば受けられる時代に入った」のである。「現在、これらの会社でできる検査は全DNA分子の0.1%未満に関するものにすぎないが、そこから得られる情報は数十種類の病気や病態に及んでいる」。上記三社の「DNA分析はたいへん高品質」である(フランシス・S・コリンズ、矢野真千子訳『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』NHK出版、2011、16−21頁[Francis
S.Collins,"The Language of Life."Free Press,2006])。そして、5−7年後(2012−4年頃)には、「1000ドル未満の費用で自身の全DNA配列、30億塩基対の暗号情報を容易に得られるようにな」り、「将来の病気のリスクを予測」し、「病気予防の計画を立てる事ができる」ともされたのである(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』24頁)。
このDNA検査産業には賛否両論がある。「遺伝学を医学の主流にすべく25年間尽力してきた人間の一人」コリンズは、「この情報を、いちばん利害関係のある人、つまり消費者個人に届けなくては意味がないと信じている」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』129頁)。米国人類遺伝学会(遺伝学者の中核団体)も、「検査の限界を消費者に適切に伝える事ができるのであれば、基本的には消費者直販を支持するという姿勢をとっている」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』130頁)のである。しかし、米国臨床遺伝学会(遺伝子治療をする医者の中核団体)は、「私とは意見を異にして」、「この種の検査は医療機関を通してのみ実施すべきで、消費者直販は全面禁止にすべきである」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』129頁)と宣言した。消費者直販の遺伝子検査の賛否のポイントは、DNA検査でリスク情報を得れば、その人は本当に予防医学につながる行動をとるのか」ということ、つまり、「遺伝子情報がすぐに行動を起こすきっかけにな」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』127ー9頁)るかどうかである。
人間病気の微生物遺伝子的側面 これは、人の遺伝子研究のさらに先を行く研究に関わり、人に寄生している微生物の遺伝子もまた病因になっているのではないかという問題である。
感染症には、@「皮膚、鼻、口、消化管、膣」の中のバリア機能、A「さまざまな免疫細胞や蛋白質が共同作業」して、侵入を阻止する。「私達の生物学的機能はすべてゲノムによって指示されて」、「2万個の遺伝子のかなりの部分が免疫反応に関与している」。また、「遺伝子バリーエーションは事実上身体すべての遺伝子にある事を考えると、個人個人で特定の病気に感染しやすい、感染しにくいという違いが出る」のである(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』213−4頁)。
しかし、人は、体内外の「無数の微生物」と共存している。従って、ヒトゲノムだけではなく、「私達の皮膚や体内に棲息している微生物のゲノム」の研究もまた「将来のパーソナルゲノム医療に大きな影響を与える」事になるのである(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』226頁)。人の「体はおよそ400兆個の細胞でできているが、そこに皮膚、口や鼻や消化管の中にいる微生物の細胞の数を足すと、合計1000兆個にな」り、こうした「微生物が有する遺伝子の総数」と比べると、「私たちの遺伝子数2万個など微々たるもの」となるのである。コリンズは、それ故に、「ヒトはこれら微生物と共生関係を結んで存在している『超個体』だと考えるのが正しい」事になるとする。数百万年間、「微生物はヒトに適応し、ヒトは微生物に適応してきた」のである(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』227頁)。
だとすれば、「病気の多くは、微生物との共生関係の崩壊によって生じている」かもしれず、「多くの微生物が健やかに生きていけるの宿主であるヒトの中にいる時だけのよう」であるから、外に取り出して微生物を研究できないので、「ヒト体内に構築された微生物群系(マイクロバイオーム)の崩壊がどんな病気の原因となるかについては、ごくわずかなことしかわかっていない」のである(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』227頁)。
胃潰瘍も、ストレスによる胃酸過多ではなく、「ヘリコバクター・ピロリ(ピロリ菌)」が惹起している事が判明した。コリンズは、「他の原因不明の病気の多くも実はマイクロバイオームの崩壊が主な原因」だとする(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』228頁)。
従って、人間遺伝子治療と同時に微生物遺伝子治療もまた重要な研究課題になろう。だが、こうした微生物は体外に持ち出せないものとすれば、次述のナノテクノロジー応用によって体内で微生物遺伝子の解明作業がなされる事によって、ヒトゲノム・微生物ゲノムからなる人間体内ゲノムの解明が完了するということになろう。人間の遺伝子分析、遺伝子治療は、この体内微生物遺伝子研究の完了を以て完成するということだ。
A 胎児の出生前診断・着床前診断
@ 出生前診断
出生前診断による性別判定 遺伝子による出生前診断が問題になる前から、妊娠中絶が行なわれていた。しかし、遺伝子工学などの進展で、出生前遺伝子診断によって、胎児の性別や病気を把握して、それを妊娠中絶の判断材料にしようとするのである。
即ち、「出生前診断が最初に応用されたのは、皮肉なことに性別であった」のである。1949年カナダの組織学者バー(M.L.Barr)、バートラム(E.G.Bertram)は、一般的に哺乳類の雌の細胞にのみ見られる「特異的な構造」(バー小体)を発見した。1955年、四つの研究グループが、「羊水の浮遊細胞の性クロマチンを観察することによって胎児の性を判別できること」を報告した。1966年ごろまでには「羊水細胞を培養して染色体の数や形状を検査する染色体検査が可能になった」(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』314-5頁])のである。
1973年に「女性解放運動」で「妊娠第二期(6カ月)まで、その理由の如何を問わず妊娠中絶する権利が法律によって認められた」が、そういうこととは無関係に、両親は、この検査で性別を知ると、「すでに同性の子どもを多数持っている妊婦など」は妊娠中絶を選ぶようになった。ここに「厳しい状況に置かれた」産科医は、「患者に胎児の性だけを理由とする妊娠中絶を思いととどまらせるように説得を試みた」。これは、「無意味な処置を禁じる」原則、「患者の自主性の尊重」原則という「医学倫理学の二つの基本原則」に矛盾した(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』316−7頁])。1977年、「協調会議」で、臨床医、生物倫理学者は、こう言う理由での妊娠中絶は拒否すべきだが、「法律で禁止すべき問題とも考えない」(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』17頁])とした。
結局、「臨床の分野では、胎児の性別による妊娠中絶の是非に関して意見の統一は見られていない」(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』318−9頁])。ウェンディ・ルースは、胎児・新生児は「世話(「女権主義の倫理原則」)を必要」とし、「『世話の問題』の原則は、道徳的選択をするのはその世話をする人である」という観点から、「妊娠中絶の決定権は全て胎児を妊娠している妊婦がもつ」ということになるとした(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』322−4頁])。
「ゲノム情報が増大」するにつれて、アメリカ妊娠中絶禁止運動が「胎児の性を理由とする妊娠中絶」禁止を提唱し、12州以上で可決された(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』324−5頁])。
ドロシーは、両親が「生まれてくる子供の特質を全て決定する」事を回避するべく、「臨床医療を権威主義的なものにかえ」、「女性の妊娠中絶を制限する必要がある」と主張する。そして、「妊娠中絶が法律で認められている以上、その両親はどこかで妊娠中絶を実行することができる」から、「このような妊娠中絶を防ぐためには、妊娠中絶の施行に対して法律的な制限を設定せざるをえない」とする。つまり、妊娠中絶は、母親が「子供を適切に世話することができない」とか、「その子どもが適切に世話されないだろうと判断された」時にのみ、「妊娠中絶は行われる」べきだとする(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』325−8頁])。
出生前診断の問題点 胎児については、異常があるかどうかを調べる」出生前診断として、@「エコーと呼ばれている超音波を使って胎児の様子を目で見る検査」であり、「妊娠10週くらいから」、頭・首の異常がると識別でき、「ダウン症である可能性を発見でき」、さらに「胎児が成長すれば、心臓に穴が開いているなどの疾患も発見でき」、Aトリプルマーカーテストという血液検査では「胎児のダウン症の可能性」が検査でき、Bこうしたダウン症可能性は、「羊水検査(「羊水に放出された胎児の代謝物や細胞から染色体を抽出して調べる」、精度100%)によって確定診断」できるとされてきた(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』134頁)。この様に、「出生前診断はすでに臨床応用が開始されてい」て、産科や医学遺伝学では「実際のところ、先進諸国では出生前診断は20年以上も前(1970年頃)から行われ」、「妊娠九週や十週では絨毛組織が用いられ、14週から16週になると羊水穿刺によって採取される羊水中に浮かんだ胎児の細胞が用いられ」(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』309−310頁])ている。
そして、遺伝子診断で個人に要求されることは、「自分自身のために行われる選択」ではなく、「子孫のため」であり、医療費節減で国家のためなのである(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』367頁])。次に、「これらの新しい選択肢は、見かけは個人によって行われるようになっているが、すでに意志決定権がゆだねられた疾患として分類されており、その根拠も実は胡散臭い」のであり、「精神疾患の原因を単一の遺伝子座に求めることはできない」(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』367頁])のであった。
さらに、こうした出生前診断を遺伝子で行なう事の問題点として、@「遺伝子診断は、遺伝情報という人のプライバシーの根幹に踏み込んで、これをあばき出」し、「病気についての不利な情報」が知られる事、A「遺伝診断によってある疾病遺伝子が発見された時・・その情報を家族にも伝えるべきかどうか」」と言う問題が生じ、「遺伝子診断がプライバシーの概念そのものを崩壊させている」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』現代書館、2002年、10頁)事が指摘されている。
しかも、「遺伝性疾患のほとんどは、今のところ予防する方法」も「治療法のない病気」であ。これは、「ハンチントン舞踏病など渙発性遺伝病の場合に特に深刻で、大きな人道上の問題を引き起こしている」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』現代書館、2002年、10−1頁)。つまり、我々は「ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ、そしてパプアニューギニア」などの「100を越える(ハンチントン病)家族を調べ」ると、「すべてのHD(ハンチントン病)遺伝子は第4番染色体の先端にあ」(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』279頁])り、ここに原因遺伝子が確認できても、「治療法はないし、病状を緩和する方法すらな」く(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』279−280頁])、未だに根本的治療法はないのである。
治療法がないということは、「診断結果を提供して、それを何年も放置」すれば、「まるで当て逃げの運転手のようなもの」(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』299頁])でもある。「病気がいつ発症するかということを、われわれは患者に伝えることができ」ずに、「ただ、HD遺伝子を持っていそうだ」としか言えない(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』300頁])。「生前診断が可能な疾患や障害のうち治療可能なもの」は「全くな」く、「できることは妊娠中絶だけ」である。そこで、「私を含めた検査を行うことを許されている人々は、テストを確かな同意を得られる人や18才かそれ以上の年齢の人に制限することに決めた」(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』291頁])。
一般的に、「兆候が出る前の診断」を行えば、「多くの個人もしくは家族が、健康保険や社会的保障を失うことになる」から、「予言的な情報は、個人や社会にとって危険をはらんでいる」ので、「国立ヒトゲノム解析センター、国立衛生研究所、エネルギー省ヒトゲノムプログラムは、ヒト染色体のマッピングやシークエンシングに伴う道徳的、法的、社会的問題に関する合同ワーキンググループを設立した」(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』306頁])。
A 着床前診断
出生前診断の問題点 上述の出生前診断とは、「妊娠中の胎児の異常を調べる検査」であるが、「染色体異常を診断するために、最近、国内で最も頻繁に行われている出生前診断は、NIPTと呼ばれる母体の血液で胎児の染色体の異常を調べる検査」である。この検査で異常が疑われた場合には、「確定診断の目的で、妊娠15週前後に胎児の周りを包む羊水に針を刺して吸引して、その中に含まれる胎児の細胞の遺伝情報を検査」する。その他、「絨毛検査、超音波検査なども出生前診断に含まれ」、「また、遺伝疾患の診断の目的では羊水検査が最も多く行われてい」る(「着床前診断ネットワーク」のHP)。
従って、出生前診断では、@「胎児の病気を早期に発見し、胎児期に治療を行なったり(体内治療)、A「必要に応じて高度な医療機関で分娩できるように医療連携したり」して、「胎児を、治療を要する一人の『患者』と見なして対処」し、Bカップルは「生むか生まないか」の選択に必要な情報を受ける。だから、ダウン症の場合、着床前診断では「その選択肢」はないが、出生前診断であれば、まだ「生むという選択肢」(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』127頁)がある。
それに対して、着床前診断では、@「最初から受精卵(胚)の選別が目的となり、子供への『治療』という意味合いは含まれ」ず、A「正常胚だけを子宮に戻し、『異常』胚は子宮に戻されずに廃棄されてしまうため、・・選択の余地」はないのである(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』127頁)。着床前診断は「妊娠が成立する前に受精卵の段階で異常の有無を調べる」から、「出生前診断のように産むべきか、それとも中絶するべきかと、夫婦が苦渋の選択を迫られること」はないし、「羊水検査のように検査をすることによって発生する恐れのある流産の危険ももちろんない」(「着床前診断ネットワーク」のHP)のである。
着床前診断 この着床前診断(PGD、Pre-implantation Genetic Daignosis)とは受精卵診断とも呼ばれ、「体外受精の技術と遺伝子解析技術とが結びついたもの」であり、体外受精によってできた「受精卵の段階で子供の病気や性別、白血球の型などを診断できる技術」であり、「診断に基づいて子宮に移植する胚(受精卵)を選べば、重篤な遺伝性疾患をもつ子供の出生を回避したり、性別の希望を叶えたり(男女生み分け)、移植の必要な長子のドナーとなれる子供を誕生させたりする事ができ」(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』117−8頁)るのである。
着床前の受精卵の検査には、@夫婦のどちらかが遺伝性の病気の保因者である場合に受ける着床前診断と、A着床前スクリーニングの2種類がある(「着床前診断ネットワーク」のHP)。後者の着床前スクリーニング(PGS)とは、加齢などで「染色体分離がうまく行かない場合が増えて、排卵される卵子の染色体数が多かったり、少なかったり」して、「何度体外受精胚移植などの治療を受けても妊娠成立に至らない女性や流産を繰り返す女性に対して、移植する胚の染色体数をチェックして、正常な胚を移植することにより、妊娠する確率を上昇させようとする」方法である。つまり、「染色体数に問題がないことを確認できた胚のみを移植することで、最終的に子供を得る確率を上昇させようという取り組みである」が、「着床前スクリーニングを実施しても、正常な妊娠・分娩ができるようになるのはごく少数で、胚移植に至らない女性が増えるだけで終わる可能性がかなりある」(石原理『生殖医療の衝撃』188−190頁)。
取り出した細胞について、「着床前診断の検査について訓練をうけた胚培養士や臨床検査技師など」が「遺伝的な性質を調べる検査」をする。検査には、「遺伝子を調べる検査(遺伝子検査)と染色体を調べる検査(染色体検査)の2種類」がある(京都大学「着床前診断の話」)。しかし、この着床前診断は「高度な技術が必要な研究段階の検査方法であり、一般的では」ない(京都大学「着床前診断の話」)。
内閣府の総合科学技術会議の一組織である生命倫理専門委員会の最終報告では、着床前診断の利点として、
@母親の負担を軽減する事、A遺伝病の子を持つ可能性のある両親が実子を断念しなくてすむ事、B着床後の出生前診断の結果として行われる中絶手術を回避できる事を挙げている。着床前診断は、羊水検査よりもずっと早い段階での検査を可能にして、女性の負担を減らそうという医学界の努力によって開発された技術である(「着床前診断ネットワーク」のHP)。
1989年英国ロンドンのハマースミス病院のチームが、「I染色体上にその原因遺伝子がある副腎白質ジストロフィ―という重篤な疾患に注目」した。「この病気は、胎児がX染色体を一つしか持たない男児である場合に限り発症する」から、着床前診断で、「X染色体を2つ持つ女児となる胚を子宮に移植できれば、健康な子供が生まれてくる」として、これに成功し、「世界初の着床前診断の成功例」となった。引き続き、彼らは、「単一遺伝子疾患の一つである嚢胞性線維症の着床前診断にも、世界で初めて成功した」(石原理『生殖医療の衝撃』183−4頁)。
1990年代には、「デュシェンヌ型筋ジストロフィーをはじめとする多くの遺伝性疾患の着床前診断」がなされた。1998年、「染色体均衡型転座をもつ習慣流産に対する『流産の予防』を目的とする着床前診断が報告「されると、それまで遺伝性疾患をもつ子の出生を避けるために実施されてきたこの技術が、その適応を大きく広げていくことにな」った。しかし、スイス、オーストラリア、アイルランドなどでは、「この技術は、文字通りの『命の選別』につながる」として禁止し、英国、フランス、スペイン、スウェーデンでは「重篤な遺伝性疾患に限定した(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』118−9頁)。
日本では「着床前診断を用いた男女の生み分けは認められていない」が、「着床前診断についての法規制が存在しないアメリカや、規制の緩いタイなどでは、・・親の性別のニーズを満たすために、この技術を使って、男女の生み分けが行われて」いる。その結果、タイで男女生み分けを行なった日本人は、2009年50組、2010年61組、2011年103組である。「男女生み分けは『医療ではなく親の身勝手』との批判が強く、倫理面での議論を呼んで」いる。
1998年10月、日本産科婦人科学会から「医学的に重篤な遺伝性疾患を適用とした着床前診断を、臨床研究として認める」という会告が出て(京都大学「着床前診断の話」、日本産科婦人科学会のHP)、漸く2004年から特定の着床前診断が始まる(京都大学「着床前診断の話」)。2006年には、「染色体転座に起因する反復・習慣流産」も対象に含まれるようにな」る(京都大学「着床前診断の話」)。こうして、日本では、「対象となる疾患は『重篤な遺伝性疾患』および『均衡型染色体構造異常に起因すると考えられる習慣流産』に限られ」(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』119−121頁)つつも、「遺伝子解析技術が日進月歩で進展するなか、『診断』の精度も向上し、『診断』の対象となる『疾患』の範囲も拡大していくことが容易に予想」できる(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』119−121頁)。
1990年以降、「体外受精卵を人為的に選んで移植したり、廃棄したりする『生命操作』は、どこまで認められる」かについて様々に議論され、「障害者や女性たち」から、@「優生思想を肯定・助長」しているという批判のみならず、A不妊でない女性に「体外受精という身体への侵襲を加え」ていいのか、B「自然に授かっていた生命(受精卵)を人為的に操作してよいのか」などという批判が浴びせられている(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』125頁)。欧米のカトリック教会では、「受精卵(胚)も私達と同じく尊厳や生存権を持つ人であると考える立場からは、体外受精で胚を作製したり、廃棄したり、選別したりすることを容認できないため、受精卵の診断にも反対の声が挙げられてい」る(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』126頁)。
アメリカのプロチョイス(人工妊娠中絶に関して胎児の生命よりも女性の選択を優先する立場)の中には、「着床前診断は、中絶を希望するカップルに新しい選択肢を与える技術であると肯定する人たち」もいて、彼らは、「初期胚のレベルで選択できれば、中絶によって女性が負うことになる身体的・精神的苦痛が軽減され、障害児の中絶も、胚の段階での『選別』であれば、生命倫理の観点からも容認されやすい」と主張する(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』126頁)。
英国では、「筋ジストロフィ―の患者団体」、「多くの遺伝性疾患の患者家族団体」は「治療困難な先天性疾患の患児の出生を阻止する」着床前診断を強く支持した。英国研究者らは「ESHRE(ヨーロッパヒト生殖会議)のPGDコンソ−シアム」を設置して、62施設の着床前診断のデータを収集し、2010年では1万6768個の胚が着床前診断され、567人が出生した。この時までに「着床前診断の適用となった疾患」には、染色体構造異常、デュシェンヌ型筋ジストロフィー・血友病などX連鎖性疾患、ハンチントン病・嚢胞性線維症など単一遺伝子疾患が含まれる。「長期にわたる検討作業によって、どのような疾患に対して着床前診断を行うことが、一定の合理性を持つかという論点は、ほぼ今日までに解決したと言える」(石原理『生殖医療の衝撃』185−6頁)。
着床前遺伝子診断と幹細胞移植 「ファンコーニ貧血という劣性遺伝疾患」など重い障害で骨髄移植でのみ生きられる子を持つ親が着床前遺伝子診断を適用する場合、妊娠している胎児に「ファンコー二貧血が出ないように着床前遺伝子を受ける」と、既に出産した最初のファンコーニ患者の子に「新生児の臍帯血に含まれる幹細胞が骨髄移植に使え」ることになり、「大きな倫理論争」を引き起こしたが、夫妻は着床前診断を選択した。この結果、ファンコーニ貧血がなく、モリ―のドナーになり得る」胚をもった子を出産し、その子からとった幹細胞は6歳上の姉に移植され、弟姉は「いまも元気」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』93頁)である。
B 新型着床前診断・出生前診断
新型着床前診断 2011年、12年、神戸の産婦人科医(大谷徹郎院長)が、97組の夫婦(女性は28−45歳)に、着床前診断(「遺伝性疾患の家系の人や染色体異常[転座]による習慣流産の可能性のある人を対象に、特定の遺伝子[染色体]に絞って検査をする」)ではなく、着床前遺伝子スクリーニング=新型着床前診断(「原因不明の習慣流産や胎児の染色体異常の確率が高まる高齢女性を対象に、すべての染色体数の異常を調べる検査」)を行なった。後者の場合、「正常な染色体をもつ胚を選んで移植することで、妊娠率の向上」をはかろうとするのである(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』129頁)。
大谷氏は、「染色体異常のある受精卵は着床しにくく、着床しても流産に終わるのが現実」であり、「染色体異常の増える高齢の方にとっては画期的な技術」であり、「命の選別という批判もあるが、命をつくるための技術であり、除外するものではない」とした。そして、彼は、「この新型着床前診断は妊娠率を上げ、流産率を下げる有効な方法」であり、「今後の不妊治療のスタンダードになるべきだ」とした(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』130頁)。
しかし、「国際的には、必ずしも妊娠率の向上にはつながらない、あるいはむしろ、診断によって妊娠率が低下する可能性があるとの報告も出され、その有効性が疑問視されてい」る。さらに、新型に対して、「従来の着床前診断と同様、『優生思想に基づいた生命の選別である』」と言う批判もある(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』131頁)。
2015年6月に、日本産科婦人科学会は、「着床前診断」に関する見解を会告し、「本会倫理委員会は、「着床前診断」に関する見解(2010年6月)について平成26年度(2014年度)より綿密な協議を重ね」、「総会(2015年6月20日)はこれを承認し」、会告の改定としてここに会員にお知らせするとした。つまり、「受精卵(胚)の着床前診断に対し、ヒトの体外受精・胚移植技術の適用を認め、実施にあたり遵守すべき条件」として、@「着床前診断は極めて高度な技術を要する医療行為であり、臨床研究として行われる」事、A「本法の実施者は、生殖医学・遺伝性疾患の専門家で、遺伝子・染色体診断の技術に関する業績を有する」こと、B日本産科婦人科学会が審査し、「原則として重篤な遺伝性疾患児を出産する可能性のある、遺伝子ならびに染色体異常を保因する場合に限り適用される」事、C「
診断する遺伝情報は、疾患の発症に関わる遺伝子・染色体の遺伝学的情報に限られ、スクリーニングを目的としない」事などを定めたのである(日本産科婦人科学会のHP)。
2016年3月、日本産婦人科学会は大谷氏に譴責処分を行い、受精卵検査の中止を求めたが、大谷氏が従わなかったため、2017年5月に「さらに重い処分を検討する」と通告した。2017年6月24日、日本産科婦人科学会は、大谷氏が「体外受精させた受精卵の染色体異常を全て検査する『着床前(遺伝子)スクリーニング』を、学会の禁止に反して行っている」として、「3年間の会員資格停止処分にした」と発表した(「神戸の医師、会員資格停止=受精卵検査で―産婦人科学会」[2017年6月24日時事通信])。
新型出生前診断 2013年4月から、新型出生前診断が検査可能となり、「妊婦が血液検査をすることで、胎児に染色体異常があるかどうかが分かる」ことになった。この新型出生前診断は、「無侵襲的出生前遺伝学的検査(NIPT)や母体血胎児染色体検査とも呼ばれ」、「妊婦の血液中に胎児のDNAの一部が漂っていること」から、「そのDNAを最新の技術で検査するというもの」で、アメリカ、中国、フランスなどの数か国でも実施されている(株式会社TFCのHP)。従来の出生前診断では羊水検査や絨毛検査などの穿刺針で母体を傷付けて流産のリスクを高めてしまう懸念があったが、この新型出生前診断ではないのである。
ただし、この新型出生前診断では、相変わらず、「すでに胎児がいる状態で行う為、やはり結果次第では『生む・生まない』という辛い選択を迫られることにな」る。つまり、「近年は、ダウン症などの胎児の染色体変異を高確率で診断できるという新型出生前診断が登場し、『この子の親になるかどうか』という『選択』に苦悩する人達の心情もクローズアップされるようにな」(小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか』203頁)った。この点、「着床前診断では、まだ移植する前に検査を行うので、そのような辛い選択を迫られることは」ないのである。「一般的に、染色体異常のある受精卵は未着床や流産を起こしやすい」から、「染色体異常のある受精卵の移植を避けることで、流産の確率を下げることが可能にな」るのである(株式会社TFCのHP)。
B 今後の遺伝子検査の諸問題
DNA解析の限界 コリンズは、2006年頃から5年以内に、「DNA解析技術の精度と速度が上がるにともない、この種の解析はゲノム内の100万個のバリエーションを検出する段階から、個人の全DNA配列を1000ドル未満で査定する段階に入るだろう」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』133頁)とする。
コリンズは、費用が安くなってDNA検査が普及し、「遺伝性についての未知領域(暗黒物質)のほとんどもやがて特定され、将来の病気リスク予測は精度と信頼度をどんどん増すようになるだろう」が、「それ以上に、『よくある病気』への環境要因をもっと研究しなければならない」のであり、「ゲノムはすぐさま変わらない」から、「環境リスク因子のほうをはっきりさせ、その環境因子の情報収集にはもっと技術を投入すべき」であると主張する(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』134頁)。
世界の環境因子研究 こうした「環境要因の分析と評価」の研究は、米国のみならず、日本、ドイツ、エストニアでもはじまっている(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』134頁)。
アメリカでは、「これまでずっと生物医学研究への投資額が世界一だったにもかかわらず、『よくある病気』への遺伝子と環境の寄与度を数値化するような大規模研究を現時点でまだはじめていない」し、5年前から準備されていた「米国遺伝・環境研究という同種の計画」は、「少なくとも50万人の参加者を登録し、少なくとも50万人の参加者を登録し、少なくとも4年間追跡調査し、その医療記録をすべて電子化し、全ゲノム配列を含む各種ラボ検査を行う」という「史上最大の規模」であった。しかし、年4億ドル(2007年米国総医療費2兆4千億ドルの僅か0.017%に過ぎないが)という巨費の捻出を決められないのである(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』134−5頁)。
遺伝子検査の監督問題 コリンズは、「一般市民の遺伝子検査を監督する必要性については10年も審議してきたにも拘らず、この種の検査が信用できるものだという安心を市民に与える形にはほとんどなっていない」のであり、ここに、「関連諸組織が連繋し、綿密に監督する全国的な仕組み」が必要になるとする。「そのために重要な第一歩は、消費者に直接市販されている総ての遺伝子検査についての情報を公開討論する場を設けること」である(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』135頁)。
コリンズは、遺伝子検査を受けて、「自身のDNAの謎を知ることは、自由意思を減じることにはなら」ず、「よりよい選択をするための力を与えてくれる」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』136頁)と、遺伝子検査を評価するのである。
遺伝子検査差別の法規制 従来、多くの人は、遺伝子検査で差別を受けるのではないかと心配したり、遺伝子検査で「将来病気になりやすいとわかると医療保険や雇用で不利になるのではないか」と懸念した(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』158頁)。
そこで、1990年、「遺伝情報による差別の問題に対応する必要性が指摘されるようにな」り、コリンズらも「DNA検査を推進する乳癌患者支援団体や人権擁護団体」とともに、「医療保険や職場での差別を防止する連邦法の制定を求める」ことを公表し、1996年下院に持ち込まれた。しかし、「医療保険業界やさまざまな事業者団体(商工会議所など)が法制化を妨げ」たので、法性化は遅れたが、ようやく2007年4月に「遺伝情報差別禁止法」が下院を通過し、2008年4月に上院を通り、同6月公布された(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』158−9頁)。
2 日本の遺伝子診断
日本・鹿大における出生前診断問題 1983年10月に日本産科婦人科学会は『「体外受精・胚移植」に関する見解』を公表し、「生殖補助医療の適用を婚姻関係にある夫婦に限定したことを尊重し、体外受精・胚移植における第三者配偶子の使用は施行しない」として自主規制してきた(一般社団法人『日本生殖医学会』のHP)。
1993年7月8日、鹿児島大学医学部の産婦人科教室が同大倫理委員会に、「日本初の臨床計画」として、デュシャンヌ型筋ジストロフィー、血友病、脆弱X症候群(「すべて母親から受け継いだ遺伝子によって、主に男児に発症する伴性劣性遺伝性疾患」)を対象とする「着床前遺伝子診断の性別判定による女児産み分け」を申請した。1995年3月9日に倫理委員会はこれを承認するが、翌10日、全国紙がこれを大きく報道すると、「全国から問い合わせや抗議や承認見送りを要望する声が次々に大学に寄せられた」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』50−1頁)。
1995年3月24日、倫理委員会は、「反響に驚」き、「9日の合意を反故にし、承認を見送り、さらに審議を続ける事を決めた」が、問題は放置された。8月末、鹿児島大学医学部の産婦人科教室は日産婦学会に、「臨床実施に問題はないか、検討してほしい」と要請した。10月、日産婦学会は、「83年10月に出した『体外受精・胚移植に関する見解』を遵守するように」と回答し、「これは大学の倫理委員会がいいと言えば、学会の『見解』を守ってやればいいということで、事実上の容認、あるいは黙認であ」った。しかし、「学会のこの判断は、着床前診断に危惧をいだく一般の人々の認識と、明らかにずれていた」。日産婦学会と市民グループとのやりとりに「危機感」を抱いた人々は、「日産婦学会に抗議や質問状を送り、鹿児島大学にも再度慎重な対応をするように申し入れ」た。1996年5月、日産婦学会は、「この問題を学会の検討課題に乗せ、倫理委員会が再検討を始め」、「やがて倫理委員会は臨床応用を認める方向で、今のガイドラインの原型になる『見解』案をまとめてしまう」のである(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』51−2頁)。
1997年、この倫理委員会案は「常務理事会で承認」された。「対象疾患を特定しながら、前もって当事者である患者会の意見を聞くこともしていなかった」ので、「当然学会に批判が集中し、説明を求める人が相つ」ぎ、「患者団体、障害者団体、女性団体、医療被害者団体」らが「激しく抗議」した。1997年2月、「優生思想を問うネットワーク」などが定例理事会に一緒に出向いて抗議した。理事会は、「情報公開が不充分であり、広く意見を聞いて練り直す必要がある」として、これを却下した(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』52−3頁)。
1998年1月、倫理委員会の「見解」案の修正がなり、3月31日に倫理委員会は「最後の仕上げ」を行なった。4月18日、「仙台市の(日産婦学会の)総会に大勢の市民が押しかけ」、個々に理事会は再び承認を見送り、「臨床応用承認問題はもう一度ふり出しに戻」った。6月10日、学会は「障害者団体と患者会の代表」を加えて2回目の公開討論会を開いた(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』54頁)。
こうして市民団体の反対にあって、日本産婦人科学会は、「臨床応用の承認をたびたび先送りしてきた」が、急に方針を一変して、1998年6月27日、学会が各大学の倫理委員会の申請をガイドライン(秋に完成予定)に基づいて審査して「着床前診断の臨床応用を認める」とした。ガイドラインも定める前の見切り発車であるが、「この学会としてはかつてなかった厳しい自主規制」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』49−50頁、54頁)ではあった。
「優生思想を問うネットワーク」(95年9月に鹿児島大学の着床前診断に反対して設立去れた各市民団体のネットワーク)は、着床前診断を「かつてない尖鋭な生命選別の技術」であり、「受精卵に手が加えられ」、「それらの操作が女性の体で行なわれる」と批判した。ネットワークは、「受精卵による遺伝子診断は、障害者や病気をもつ人への差別で、対象はそれ以外にも広がっていく可能性があり、女性の心身に大きな負担を強いるものだから、情報の公開も社会的議論もしないまま学会が認めるべきものではない」として、@「医学的社会的議論が尽くされるまで、臨床応用を凍結すること」、A「技術及び診断の内容と学会内の審議の中身を公開する事」、B「着床前診断の受け手当事者である障害者、患者、女性との話し合いの場を早急に持つこと」の三点を要望したのである。しかし、「日産婦学会は市民の要望にほとんど応え」ず、「学会はかまわず臨床応用を認める方針をたてて、倫理委員会がそのための『見解』案作りや関連学会との調整作業を進めていった」のである。「学会は情報を徹底的に隠し、時に事実を曲げ、議論を意味のないセレモニーにした」のであった。学会の関心は、着床前診断が、1983年に発表した「体外受精・胚移植に関する見解」(体外受精は不妊治療に限って使う)に抵触する事態を打開することにあっただけである(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』55−8頁)。
「体外受精という技術が、その能力を『不妊治療』の限界いっぱいまで開発されて、はっきり生命操作の領域に入り込んだ」事を示すから、「この技術を認知するために『見解』を変えるというのは、そのことを学会が認める」ことになる。1998年5月、学会は修正見解を公表し、第1項で「ヒトの体外受精・胚移植を不妊治療以外に臨床応用する事を認める」として、「日本の生命・生殖操作医療史を書き換える」事となった(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』59頁)。
日本の遺伝子診断の現状と規制 1990年代後半、日本でも「遺伝子診断が爆発的に普及」し、「遺伝子診断の対象疾患は、がんや遺伝病や感染症、多因子病にまで広がっていて、目的も発症後の確定診断から発症前予知診断、出生前診断、保因者診断まで多様」である。1997年7月18日『日経新聞』記事によると、「日本に附属病院をもつ医系の大学」80のうち「9割近くが複数の診療科で遺伝子診断を行っている」のである。さらに、遺伝子診断は「一般病院でも行っている」から、遺伝子診断を行なっている所はもっと多くなり、実際、民間の遺伝子検査会社としてはSRL(1984年以降開始し、95年には遺伝子・染色体解析センターを開設)、MBC(三菱化学子会社)、宝酒造、東洋紡などがある。SRL(1970年設立、資本金110億円)は、1996年、総売上高609億円で、うち遺伝子検査事業43億円であり、「SRLのここ数年の遺伝子診断事業の急成長は、ほとんどC型肝炎の急増による」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』21−9頁)。
1994年、厚生省は、こうして「増える民間会社の遺伝子検査に対応」するべく「法整備のための準備」に着手した。1996年、「健康政策局長の懇談会である医療関連サービス基本問題検討会の下に『検体検査の精度管理等に関する委員会』をつくって検討を行ない」、1997年6月に報告書を作成した。これによると、「遺伝子検査の登録の問題は後退し、「厚生省の範囲でできる施行細則の手直しだけで間に合わせることにしたようだ」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』27頁)。
1996年5月、信州大学医学部付属病院が文部省承認を得ずに、院内措置で遺伝子診療部を開設した。1997年3月までに遺伝外来受診者65人、うち30人が出生前診断や子供の先天性異常の次の子に与える危険性診断である(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』31−2頁)。
こうして「遺伝子診断は確かに猛烈に進んでいる」が、現在は規制で「閉塞した空気がある」。だが、福本氏は、「このブレーキが解かれたとき、遺伝子診断というこの人間の品質管理技術はなだれを打って医療に流れ込むだろう」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』33頁)とする。
3 胚選択テクノロジー
「いつの日か私たちは、先端的な胚選択テクノロジーを用いたもっと洗練された方法で、自分の子供の遺伝子を操作するようになるだろう」とされている。親は、胎児について、超音波で性、羊水穿刺でダウン症候群を示す21番染色体、着床前診断で嚢胞性線維症を判定する。多くの人は「こうしたテクノロジーがもたらす潜在的な利益はその危険をしのぐと信じているが、この信念を共有しない人も多」く、遺伝子差別、暴君悪用、金持子息の利用などが懸念されている(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』169−174頁)。
1997年欧州議会調印「人間の権利と医用工学に関する協定」で、「ヒトゲノムの改変を目指す遺伝的介入は、予防、診断、あるいは治療の目的のためにのみ、そしてその目標がいかなる子孫のゲノムにも改変をもつことではない場合にのみ、実施されるだろう」とした(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』174−5頁)。
1998年5月には、上述のように、日本でも産婦人科学会が、「ヒトの体外受精・胚移植を不妊治療以外に臨床応用する事を認める」とした。
こうした胚選択テクノロジーをめぐる論争では「人間とは何か、人間とは何を評価するのか」という「私たちの最も根本的な信念」に関わっている(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』175頁)。シルヴァーは、「胚の選択」は、「両親が・・疾患の因子のない遺伝子型を一つ作りだせる場合に限」って、「将来、嚢胞性線維症、テイ・サックス病、ハンティントン舞踏病、鎌状赤血球性貧血症、フェニルケトン尿症などの代謝性疾患を引き起こす遺伝子型の遺伝を防ぐうえで、きわめて効果的な手段となるだろう」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』279頁)とする。ストックは、「胚選択テクノロジーが重大な恩恵を・・もたらし」、「それを獲得するためにこのテクノロジーを使う」とする(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』240頁)。
二 遺伝子治療
我々は、上述の様に「人類の病気を遺伝子レベルで診断し」た後に、それを「解明し、治療し始め」、「これからの医療を少しずつ変えて行く」のである。「遺伝子を操作するということは、我々の宿命を変えることであり」、遺伝子治療とは「我々人類の遺伝子を再構築するという」、「引き返すことのできない旅を踏み出した壮大な歴史」とも言える「米国政府の支援による最も大胆不敵な医学実験プログラム」である(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、松浦秀明訳『遺伝子治療の誕生』ゼスト、1998年、7頁[Jeff
Lyon and Peter Gorner,"Altered Fates."W.W.Norton & Company,Inc.,1995])。
@ 遺伝子治療の濫觴
@ 遺伝子治療の目的・基本
遺伝子治療の定義 島田隆氏(日本医大)は、「20年前に日本の遺伝子治療のガイドラインを最初に作ったときに我々が考えた定義」は、「疾病の治療を目的として遺伝子又は遺伝子を導入した細胞を人の体内に投与すること」というもので、これが「現在の日本の遺伝子治療の定義となっ」たとする。これは、「遺伝子の異常によって起こる遺伝病」の治療法として「正常な遺伝子を導入して遺伝子異常を修復しようという」、「狭義の遺伝子治療だった」。だが、以後、「技術的な進歩」があり、遺伝子導入で「いろいろな疾患の治療ができる」ということになり、現在では「遺伝子を導入して行う治療」という広義の定義がなされているとする(島田隆談[厚生労働省大臣官房厚生科学課「第1回遺伝子治療臨床研究に関する指針の見直しに関する専門委員会議事録」2013年6月4日])。
遺伝子治療の目的 「一つのDNAテクノロジー(DNA革命)である遺伝子治療法の主な目的は、・・ヒトの遺伝子病の治療や予防を行ない、疾病のない健康な状態で、それぞれのヒトの寿命を全うさせる事」である。しかし、「もっと広く考えると」、遺伝子治療とは「ヒトの根本的なDNAを扱い、制御、および調節することなので、私達の子孫にまで関わる重大な一つの手法」であり、「おのおのの種の生命体が、遺伝治療された遺伝子のすべて、あるいは少なくとも一部を次世代に、その本質的な性質、すなわち莫大でしかも複雑なDNA機構を遺伝すること」である。これは、「人類が経験しなかった全く新規な治療法」である故に、遺伝子治療は、@「多くの細胞を使った試験管中での実験、あるいは実験動物を使った生体実験によって、ヒトにとって、完全に安全で、有益でなければ」ならず、A「ヒトの尊厳に関わるので、社会的や倫理的なコンセンサスなど十分に行われなくてはならない」(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、D頁)。
遺伝子治療の基本 まず、ヒトの遺伝子数3−4万個の働きを知る事が遺伝子治療の基本となる。それには、@DNAを制限酵素で細切れにして断片化し、A電気泳動法で各DNA断片の「配列標識部位」(STS)の成分を分析する必要がある。そして、「もしある疾病の遺伝子が見つかれば、遺伝子の中にあるこの疾病を引き起こさせる遺伝子部分・・だけを攻撃する薬を投与すれば、効率よく、確実に、しかも副作用も最小限に抑えて治療を施すことが期待」できるから、「3−4万個のすべての遺伝子の働きが、解明される必要がある」(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、6頁)のである。「DNAの塩基配列を集めたデータベース」は、1982年60万ー100万塩基から1985年末500万から600万塩基に増加する(1986年1月座談会「遺伝子治療ーその可能性を探る」での榊佳之発現[T.フリードマン『遺伝子治療』144頁])。
その上で、疾病遺伝子を除去し、正常遺伝子を移入するという事が、遺伝子治療の基本となる。以下、この点を各遺伝子治療者の発言に確認してみよう。
トム・ストラッチャンらは、一般的に、疾患治療への遺伝学的アプローチとして、「遺伝子治療では、遺伝子やRNAやオリゴヌクレオチドを患者の細胞に移入して、疾病に対抗したり病勢を弱めたりするように遺伝子発現を変更」し、「患者の細胞は、培養して遺伝的に修飾して体内に戻される場合もある」とする。彼らは、遺伝子治療の戦略としては「重要な遺伝子産物の生産低下を補うことが求められ」、ほかの戦略としては「有害な遺伝子産物を生産する遺伝子の発現を阻害したり、有害な変異がmRNAに入り込まないように選択的スプライシング(一次転写産物RNA[mRNA]からイントロンを切り出し、エキソンどうしをつなぎ合わせる機構)を誘導するような工夫や、がん原遺伝子のような細胞の遺伝子を異常に活性化したりすることもある」(トム・ストラッチャン、アンドリュー・リード著『ヒトの分子遺伝学』777頁)とする。
榊佳之氏は、遺伝子治療には、この「遺伝子を分離するという作業」と分析の次に、@「それを細胞の中に入れるという作業」、A「それを細胞の中で実際に発現させる」という手順が続くことになるとする(1986年1月座談会での榊佳之「遺伝子治療ーその可能性を探る」[T.フリードマン『遺伝子治療』143頁])。@においては、細胞内に遺伝子を運搬するために「レトロウィルスをもとにしたベクターが開発され」、「遺伝子治療に使われる可能性の高い骨髄細胞の場合には、その中に非常にわずかしか幹細胞がないので、強力なベクターが必要」であり、「それになんとか応えることができるようにな」った。Aにおいては、(a)「ステロイドホルモンなどの外的な因子に応答する特別のDNA配列があること」、(b)「胚の中に遺伝子を外から入れてやって、新しい形質を持ったマウスを生み出す」技術が「非常に一般的に使えるいうにな」った結果、「単純に遺伝子を入れてやるだけでは、必ずしも生体の中では十分ではない、例えば染色体のどの場所に入れるのかによって随分遺伝子の働きが違う」事などが分かって来た(1986年1月座談会「遺伝子治療ーその可能性を探る」での榊佳之発現[T.フリードマン『遺伝子治療』144−5頁])。
島田隆氏は、遺伝子治療の方法として、「体内での遺伝子治療」=「in vivo遺伝子治療」(「1つは患者さんに直接遺伝子を投与して治療をするいわゆる体内での遺伝子治療)と、「体外での遺伝子治療」=「ex
vivo遺伝子治療」(「患者さんから組織、細胞を一旦外へ取り出してこれに遺伝子を入れて治してやってそれをまた戻すという)の二つがあり、「遺伝子を我々の身体の細胞に入れる」方法としては、物理的な方法、化学的な方法、針を刺す方法、電気的なショック方法などがあり、最終的には1980年代に開発された「ウイルスベクターという技術」が開発されたことで遺伝子治療が今のように進んできた」とする(島田隆談[厚生労働省大臣官房厚生科学課「第1回遺伝子治療臨床研究に関する指針の見直しに関する専門委員会議事録」2013年6月4日])。
坂田洋一氏は、「遺伝子治療は、遺伝子または遺伝子を導入した細胞をヒトの体内に投与し、その遺伝子が作り出すタンパクの生理作用によって疾病を治療する方法」(「血友病遺伝子治療の最新情報と展望」バイエル薬品株式会社、2007年9月発行)とする。
中川晋作氏は、「遺伝子治療は、本来の遺伝子が悪いのであればその遺伝子を取り払い、正常な遺伝子に置き換えようというもの」で、「正常な細胞ではAという遺伝子からAというタンパク質がつくられますが、遺伝子Aに異常があるとタンパク質Aがつくられなかったり異常なタンパク質Aがつくられ」る事に対して、「異常がある細胞に外から正常な遺伝子Aを入れ、その遺伝子を発現してタンパク質Aをつくって正常な機能を営むようにしようというのが、遺伝子治療の基本的な考え方」(中川晋作「遺伝子治療」[平成25年5月17日講演])とする。
A 遺伝子治療の着手
アンダーソンの遺伝子治療への関心 1954年、ウィリアム・フレンチ・アンダーソンはケンブリッジ大学の分子生物学者クリックとワトソンの遺伝子実像(二重螺旋)の発表に魅せられた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』16頁)。彼は、分子生物学者として研究人生を始めたのである。この1950年代中頃、分子生物学者(微生物の遺伝学)ジョシュア・レダーバーグ(Joshua
Lederberg)が、「遺伝子治療を唱え」ており(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』71頁)、やがてアンダーソンも遺伝子治療に関心を向けていったようだ。
1968年、アンダーソンは、「遺伝子治療は、すぐ近くまで来ている」と予言していた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』344頁)。1968年夏、アンダーソンは、「遺伝子治療の到来が、早い時期に来る」として、鎌状赤血球症やベータ・サラセミアの治療がなされようと予測して、『イングランド医学ジャーナル』に論文「遺伝的欠陥是正の可能性」を投稿したが、「余りにも推論過ぎる」として、却下された。1967年生化学者・医者スタンフィールド・ロジャーの遺伝子治療の可能性についての指摘が、ニューズウィーク誌に取り上げられた。ロジャーは、「人間に遺伝子を運ぶウィルスがおり、酵素の血中レベルを下げる遺伝子があり、かつそれが安全に行える」という事を発見し、ニューズウイーク誌記者に「ウィルスを使っての遺伝子治療は当然現実となる」、「この治療法は近い将来、応用可能なものにな」ると話したのである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』51−3頁)。
ロジャーのアルギナーゼ欠損症治療 1969年、ロジャーは、レダバークから、「ドイツのコローンという町に住む若い二人の姉妹の血中のアルギニン(有毒なアンモニアを処理する過程で重要な役目を果たす)のレベルが、異常に高い(これではアルギニンを作らなくなる)という情報」を得て、「丁度その治療法を発見したばかり」だから、「これは又とない機会であった」。ロジャーは、担当医と連絡をとり、「先ず前段階として彼女たちの細胞を入れた培養基にウィルスを入れた」所、「細胞のアルギナーゼの量は通常値近くまで」なり、治療に着手したが、「ウィルスを遺伝的に去勢する技術もなく」、「余りにも少ない量のウィルスであったためか」、「治療は失敗した」。1971年、この治療法が公開されると、「医師仲間の非難が集中」した。この結果、ロジャーは、「遺伝子治療の夢を捨て、植物ウィルスの研究に方向転換」した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』53−4頁)。
1971年、「ロジャーの失敗が明らかになった」後でも、NIHのカール・メリルらは「遺伝子治療の可能性を強調」し、「乳糖を分解する酵素が欠けている、ガラクトース血症(この病気を持った新生児は「ミルクを中止しなければ脳障害を起こし、最悪の場合は死ぬ」)という遺伝的奇病の患者から取った細胞を治療した」と主張した。彼らは、「先ず培養された細胞を、乳糖を分解できる大腸菌の遺伝子を持ったラムダ・ファージに接触」させ、「ウィルスが遺伝子を人間の細胞に運び込み、細胞が乳糖分解酵素を生産できるようにな」り、「この実験は遺伝子操作の可能性を実証したように見えた」。しかし、遺伝子治療の前途には「未だに多くの障壁が立ちはだかっていた」。つまり、「ショーブ良性イボ・ウィルスは気紛れ屋」であるから、「先ず、4千以上もある人間の遺伝病のそれぞれを直してくれる、正しい遺伝子の運び屋のウィルスを探さねばなら」ず、又、ファージも「バクテリアの遺伝子だけ、・・より好みをして運ぶ気むずかし屋」であり、故に真の遺伝子治療のには「健全な人間の遺伝子を取り入れ、安全かつ効果的に患者へ運び込むウィルスを育てる、遺伝子工学の確立」が必要であった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』55頁)。
T.フリードマン(Theodore Friedmann、カリフォルニア大学の分子生物学者・小児科医)は、1972年にリチャード・ロブリン(Richard
Roblin、ジェネックス社の分子生物学者)と、「ロジャーの行為を性急過ぎた」と批判し、「我々の見解では、遺伝子治療は将来人間の遺伝病を軽減できるようになるかもしれない。それには、遺伝子治療の技術を確立するための研究を続けなければならぬ」とした(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』54頁)。彼らは、「染色体に組み込まれる型のウィルスは、機能的な新しい遺伝情報を、欠陥のある細胞や遺伝的に目印をつけた細胞に導入するのに利用できる」と推測した。その頃は、「組換えDNA技術はまだ完成してはい」なかったが、「その後、幾種類かの」腫瘍ウィルスの遺伝子伝達の機構についての理解が急速に深ま」り、「それらは、ウィルス由来でない遺伝子を細胞に入れるのに役立つだろうと考えられるようにな」った。つまり、「強力な組換えDNA技術の発達や、腫瘍ウィルスの遺伝子発現や染色体への組込みの機構についての理解の深まりに伴い、ヒトや他の培養細胞だけでなく、動物個体や、究極的には、患者に新しい遺伝子を導入し機能させるためのウィルスベクターが開発され、使われるいうになってき」たのである(T.フリードマン『遺伝子治療』141頁)。
この他、1970年代から、疾病治療のために既に二回の遺伝子操作(@フェニルケトン尿症[アミノ酸代謝に遺伝性の異常が発生]の治療、A1978年ベータ・ゼロ・サラセミア患者に「正常なヒト・グロビン遺伝子を挿入する事」が試みられた(T.フリードマン『遺伝子治療』30頁)。
アンダーソンの遺伝子治療研究 1970年代中頃、フレンチ・アンダーソンは、「既に分子生物学を病気治療へ応用しようと計画」していた。彼は、血液学者であり、「ヘモグロビンの重要な蛋白質であるグロビン」の「誕生から死亡までの秘密を、分子レベルで解き明かすことに心血を注いでいた」。1977年、彼のチームは、「人間のアルファ・グロビン遺伝子を確認し、16番目の染色体に乗っているのを突きとめた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』60頁)。
一方、同じ1977年、マニアチス(ハーバード大学)は、「鎌状赤血球症と地中海貧血症の患者に欠けている蛋白質の鎖、ベータ・クロビンの遺伝子を捕えていた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』61頁)。
アンダーソンは、「分子研究者でありながら、臨床医として二足のわらじを履いていて」、「地中海貧血症を患っている子供たちへの特効薬となる、鉄キレート化剤開発の中心人物」でもあった。しかし、これには視力・聴力に「恐ろしい副作用」があり、しかも「医療費は年間1万5千ドル以上」もかかった。ここに、彼は、「小児科医として、何としても遺伝子治療医になろうと決心をし」、「研究室の4分3を研究仲間に開放し、・・遺伝子治療という、これまで世界の何処にも存在していない分野の旗揚げを宣言した」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』61−2頁)のであった。
アンダーソンの「初期の遺伝子治療研究」は、「技術は余りにも新しいものばかりで、理論だけが先行し、実技が着いて行けず、新分野を切り拓く準備が不足していた」ので、彼は、これを補完するために、@コールド・スプリング・ハーバー研究所所長ジム・ワトソンから「遺伝子工学の授業」を受け、A1976年ロックフェラー大学のダイアクマカス(「人髪よりも細いガラス針を使い、細胞の中へ直接少量の分子物質を注入する技術を完成)の技術から「更に細かい針を作」ってDNAに応用するヒントを得てマイクロインジェクション技術を発明した。しかし、「マイクロインジェクションは遺伝子を移植するには不可能といえるほど非効率的で、臨床に使えるものではな」く、しかも「針は細胞を破壊する傾向があ」り、ここに「アンダーソンの希望であった血液不全による遺伝病の治療は、壁に突き当た」った。1979年末には「アンダーソンの夢は完全に破れ去った」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』62−3頁)。
ムリガンの遺伝子治療研究 上述のようにアンダーソンは針注入法をとっていたのに対して、MITの分子生物学者リチャード・ムリガン(Richard
Mulliganmマリガンとも書かれる)は「病んだ細胞の核へ、遺伝子を運び入れる極小の運搬車の集団、即ち、ベクター(運び屋)と言われるものを設計」し「遺伝子治療の前途」を切り拓こうとした(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』64頁)。
ムリガンは、MITで数学から生物学に関心を移し、「生き物が成長し、進化し、体の分子がごのように働き、どのように悪くなって行くのかに興味を感じ」、特に「どのようにして伝令RNAが細胞にタンパク質を作れと伝達するのか」を知りたがり、18歳のムリガンは生物物理学のアレキサンダー・リッチの研究室に入ったのである。「この時期、誕生したばかりの遺伝工学は極めて基礎的な研究が主体で、ムリガンも他の研究者もウィルスの遺伝子の地図作りに携わっていた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』75−7頁)。
ムリガンは、、MIT卒業後、スタンフォード大学アーサー・コーンバーグ(生化学者)のDNA解明グループに参加した。1979年、ムリガン25歳は、「組換えDNA(生物から抽出したDNAを試験管内で組換えて得たDNA)は、これまで考えて来たものの中で最もやり甲斐があ」るものであった。ムリガンは、コーンバーグの指導教官ポール・バーグに接近し、バーグ研究室で頭角を現し、1979年、「ウサギのグロビンの遺伝子を切り取り、猿の持つウィルスに移植し、それを猿の腎臓の細胞に届け」ると、「細胞は移植されたウサギの遺伝子の命令に従い、尿の代りに大量のグロビン分子を作り出した」のである。こうして、ムリガンは「猿の持つウィルスを捕らえ、彼らを奴隷のようにしつけ」、「ウィルスの有害な中央部分を科学的に切り取り、そこにヘモグロビン遺伝子を差し込」み、史上初めて「一つの高等生命体から他の高等生命体へ医学的に重要な遺伝子を、無理やり受け渡させた」のである。それは、「最も基本的なところで自然を克服し、病気を起こす根源の分子を見分け、操作する手段を科学者に与え、宿命を変える能力を手にした事」を意味した。ムリガンは「いかなる病気をも治癒できる」と思った(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』64−6頁)。
ムリガンは、アシロマ会議に出席できなかったが、「法的に許された範囲内で、新しい方法を用いてウィルスの遺伝子を切断し、つなぎあわせ、ウィルスがメッセージを伝えるのに、どのような信号を出しているのか突き止め、ウィルスが他の細胞へ遺伝子を運び易くするには、どうしたら良いかを追求し」、1980年博士論文「動物細胞への遺伝子の形質導入(バクテリオファージなどの仲介で、遺伝的形質がある細菌から他の細菌へ移行すること)」を作成した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』68頁)。
分子生物学者ムリガンは、「アンダーソンのように眼前の死と闘っている患者と接している臨床研究者と違い」、「人体の無数にある未知の分子の海図を作っていればよかった」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』69頁)。「ウィルス・ベクター(運び屋)研究室でのムリガンのような上級科学者の役目は、分子を概念として説明し、研究生にやる気を起こさせ、彼等の努力を評価し、大きな発見を促し、予算を引き出すことであった」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』70頁)。
1970年代半ば、ムリガンは、研究規制で、SV40は「細胞を恐るべき力で襲」い、「数百万個の自分のコピーを作り、細胞を食い荒らし、次の細胞を攻撃していく」ので、「これまでSV40に集中した研究」に罪悪感を覚えるようになり、「遺伝子の宅配屋として適した資格」をもったレトロウィルスに注目した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』90頁)。
クラインの鎌状貧血症・地中海貧血症治療ークライン事件 1980年、「ムリガンがスタンフォード大学で・・博士課程を終えようとしていた時、遺伝子治療全体の将来を危うくするような出来事」として、マーチン・クライン(UCLAの血液学・腫瘍学者)が「生きた人間に新しい遺伝子を注入」した事があった。既に1970年代半ば、クラインは「これからの医療は遺伝子操作が主体になる」とみて、「次の私の研究は、分子生物学の分野にな」るとみていた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』78頁)。
クラインは、1976年からウインストン・サルサー(UCLAの生物学者で「DNAの組換え」が専門)の指導を受け始め、すぐに「遺伝子工学をマスター」した。彼は、最初に「白血病の一種を引き起こす遺伝子を探し出」そうとし、「新しい遺伝子を分離」し、「それを正常な細胞に移植し、細胞が白血病になるのを見届け」ようとした。やがて、彼は、「細胞に遺伝子を挿入する多種多様な方法」(マイクロインジェクション、「細胞の膜に微量な電流を流し、侵入して行くDNAを受け入れ易くさせるエレクトロポレーション」、「塩酸カリシウムを使いDNAが滑り込めるような窓を細胞膜に開けるカルシウム沈殿法」など)を習得した。クラインは、サルサーに、次にやろうとしている事は「鎌状貧血症か地中海貧血症の患者の骨髄に、正常な遺伝子を注入すること」と答えて、すぐに実行に移した。これは、「分子生物学者としての有益な使命」と「医師としてのキャリア」に汚点を残すことになった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』78−9頁)。
この鎌状赤血球貧血は「劣性遺伝疾患として最初に認定された」ものであり、「昔からマラリアが流行していた地域(地中海沿岸やアフリカ、東南アジア)に祖先をもつ人々によくあらわれ」、「鎌状赤血球をつくる変異遺伝子」を「一つだけ有する保因者は、マラリアにかかりにくく幼少期に命を落とさずにす」んだが、「二つ保有していると貧血、溶血、激痛をともなう発作に繰り返し見舞われ、あまり長生きできない」のである。既に50年前に鎌状赤血球貧血を引き起こす変異が「ヘモグロビン遺伝子の一つ」にある事はわかっていたが、「その情報から画期的な治療法が生まれたわけではなかった」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』64頁)のである。
クラインとサルサーは、「マウスの骨髄細胞へ遺伝子を挿入する実験」に取り掛り、「二人はマウスから骨髄を取り、その細胞を燐酸カルシウムで処理した後、チミジン・キナーゼ(TK)酵素を作る遺伝子に晒し」、次いで「マウスに戻した」。しかし、「遺伝子が多くの幹細胞入り込め」ず、「充分な数の幹細胞に遺伝子を届けられなかった」ために、「効果が激減」し、「この実験に暗い影を投げかけ」ることになった。1979年、クラインは、「人体実験の時は熟している」として、クリン、サルサーはUCLA学内審議委員会に「遺伝子治療を人体に施したい」という許可申請を出した。これは、「アシロマーの会議から5年たった後」でも、「組換え遺伝子をバクテリアに入れることの安全性にも、評論家の多くが危惧の念を発し」、「DNA組換え研究に対する反対が強く残っている事を考えると、大胆な提案であった」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』80−2頁)。
UCLA学審委は、ナチス優生学への反省から、「アシロマ―会議が心配していた以上に、道徳的な面の審査に重きを置いてい」て、クライン提案に結論が出せず、数ヵ月放置した。「治療には多くの遺伝子が必要で、実験に取りかかる前に、血縁のないDNA、即ち、人間のグロビン遺伝子、ヘルペスTK遺伝子、プラスミドと言われるバクテリア遺伝子の環を結合させる必要があった」が、「患者へ投与する前に、この結合物を制限酵素を使って細かく切っておくと誓」い、「これは最早組換えDNAとは言えぬもの」であり、1979年9月、クリンは学審委要請に屈して、「実験計画を変更し、組換え遺伝子は使用しない」とした(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』83頁)。
鎌状赤血球は、「鎌状になった角がついた赤血球は互いに絡み合い、血管を詰まらせ、痛みを伴って腫れ上がり、重要な組織に酸素を送り込めなくなる」病気で、「黒人特有の血液病」であった。多くの黒人は、「黒人だけを対象にしているこの実験」に反発しだした。黒人活動家は、「医学の名を借りて、黒人の人口を低下させようとする政府の策略」と批判し、クリンは「遺伝子治療という極めて実験的な色彩の強いものに、黒人をモルモットにする事が良いのかどうか」と追い詰められ、ここに地中海貧血症に実験対象を変えた。しかし、「ロスアンゼルス地域には、多くの臨床試験を支えるだけの地中海貧血症患者がいなかった」のである。1980年、クラインは、イタリア、ギリシャの医者に接触しだしたところ、多くの同患者を抱えるイスラエル、イタリアの医者から協力受諾書が届いた。クラインは、エルサレムで「厳しい質問」を受けた後に「組換え遺伝子は使わない」と誓約して、1980年7月10日に認可された。エルサレムで手術した後に、イタリアに飛んで「二番目の患者」の治療にあたった。しかし、クラインは誓約を破って、組換え遺伝子を使ったが、「クラインがマリア(患者)を治療した翌日の7月16日、UCLA学審委は彼の提案した遺伝子治療を拒否」した。クラインは、「この二カ国の実験を、・・(今後の)遺伝子治療の最初のもの」と位置づけたが、帰国後にクラインはこの拒否を知った。「二人には何の変化もな」く、遺伝子治療は「プラスにもマイナスにも作用しなかった」が、科学界は、クライン遺伝子治療を「無分別で不道徳な行為」と批判した。医学界は、「歴史的な臨床実験をする時、一人の臨床研究者がそれを裁定すべきでない」とした。クラインは追い詰められ、「遺伝子治療の分野から身を引くことを余儀なくされた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』82−9頁)のであった。
宗教団体等の規制要請 このクライン事件を契機に「アメリカでは遺伝子治療に対する議論が大変盛んに行われるようにな」(島田隆発言[厚生労働省大臣官房厚生科学課「第1回遺伝子治療臨床研究に関する指針の見直しに関する専門委員会議事録」2013年6月4日])った。
このクライン事件後に、まず、「『医療の倫理問題を考える大統領委員会』の勧告に従い、NIHは遺伝子治療の今後の進め方に、厳しい連邦規制を課する方向に動いた」のである。こうして、「1980年代に入るや、遺伝子研究者は外部からの非難に飽き飽きとしていたが」、今では「内部からの非難を心配しなければならなかった」のであり、ポール・バーグは「実験は、次の実験には何を為すべきかを語ってくれるものだ」が、クラインの実験は「それを語ってくれない」から「非難される」とした(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』89−90頁)。
特に、この1980年には、「米国の宗教団体」がカーター大統領に、「人間のDNA操作について包括的にチェックするところをつくれ」と要請してきた(1986年1月座談会「遺伝子治療ーその可能性を探る」での米本昌平氏発現[T.フリードマン『遺伝子治療』150頁])。
A バンベリー会議ー1980年代初期の遺伝子治療
1975年2月のアロシマ会議が「分子生物学という遺伝子基礎学を遺伝子組換えに応用する事」をめぐる会議だったとすれば、1982年2月のバンベリー会議は、「そうした遺伝子組換えという応用成果をさらに遺伝子診断・治療という医療行為に応用する事」を検討する会議であり、ポール・バーグ(スタンフォード大学の分子生物学者)が両会議の中心人物の一人であった。そこで、以下では、このバンベリー会議を瞥見する事にしよう。
@ 遺伝学進展と遺伝子治療
遺伝学進展 1970年代における遺伝学の発展は、「実際に遺伝子を置き換えたり、変化させたりすることで、病気を治すことができるという見通しを大いに実現性の高いものにし」(T.フリードマン、榊佳之ら訳『遺伝子治療』秀潤社、1986年[T.Freedman,"GENE
THEREPY."Cold Spring Harbor Laboratory,1983]、1頁)た。つまり、「医学・生物学が、・・生命の基礎をなす機構の多くをはっきりさせ、さらにその機構を改変させる力をもつようにな」り、「我々は・・遺伝子やその機能をかなり操作できるようになってき」た。しかし、我々の多くはこの遺伝子操作に対してすら「本能的に根強い恐れを抱いてい」るのである(T.フリードマン、榊佳之ら訳『遺伝子治療』4−5頁)。「現代の遺伝学研究の分野では、その技術は非常な速さで進歩しており、人間の健康の緊急の問題に対して、その知識を応用してみようという抵抗し難い期待感がある」(T.フリードマン『遺伝子治療』39頁)のである。
バーグは、「ほとんどの遺伝子は、ほとんど分離することができるようにな」り、「遺伝病の同定はより簡単になり」、さらに遺伝子が保存され「ある遺伝病をなおすために、遺伝子移植を計画できる」ようになると発言した。デービッド・バルティモア(MITの分子生物学者)は、「遺伝子治療の必要性については、疑問の余地」はないとし、「遺伝子治療が我々の考えているような形で働くなら、正常な制御の下で、正常な働きをする正常細胞をつくり出すような治療法を生み出す」とした(T.フリードマン『遺伝子治療』41−2頁)。遺伝学の進展で「研究者達は遺伝病を分子のレベルで治療することを考えるようにな」った(T.フリードマン『遺伝子治療』9頁)。遺伝病については、「欠陥遺伝子を取り換えたり、直接的に修飾して、永久的に、遺伝的な“治療”をしようとすることがますます望まれる」ようになる(T.フリードマン『遺伝子治療』30頁)。
後の1980年には、バーグはノーベル賞授賞式で、将来の医療には「遺伝子や染色体の分子解剖学に精通している医者が必要になる」と、遺伝子治療医学を見通していた(T.フリードマン『遺伝子治療』38頁)。
遺伝子治療 多くの遺伝治療の研究者達によって行われている「一般的な方法」は、「高度に人為的な修飾・加工をされたウィルスを使って、ある遺伝子の欠陥のために機能障害をもつ患者の細胞に、正常な遺伝子を導入すること」であり、「今、一般的なモデルとして最もよく研究されている受容細胞は、骨髄幹細胞」である(T.フリードマン『遺伝子治療』141頁)である。だが、このウィルスベクターは理想的なものではなく、「その効果や長期的な安全性というものは、今でも研究され開発され」、「この種のベクターを使って細胞内に入れられた遺伝子を制御」することについては、我々はまだ十分に理解して」はいないし、「特定の細胞や器官にベクターを向かわせる方法を知」らないが、「そのような知識はだんだん増えてきてい」る。「医学は、分子生物学とむすびつくことによって、病気の予防や治療で大きな飛躍が約束され」、「人間の遺伝への理解を深め、治療として人間の遺伝子を修飾したり置換したりする事ができれば、現在十分な治療ができない多くの種類の疾病に対して有効な手段となり、全く新しい治療の時代を開くことにつなが」ると期待されていた(T.フリードマン『遺伝子治療』141−2頁)。
こうした機運の起り始めた1982年頃に、「分子生物学者や医学者達は、遺伝子を分離して研究したり、異常遺伝子や欠陥遺伝子がどのように病気を引き起こすかを詳しく理解するための強力な方法を強いている」が、「遺伝情報を直接患者の血管細胞に導入する方法を発展させ、人間の疾病に対する新しい治療法の道をひらくことはもっと重要」であるということになってきたのである(T.フリードマン『遺伝子治療』30頁)。
「ほとんどの分子生物学者や臨床医は、人間の遺伝病の治療における将来のゴールとして、遺伝子治療の役割を受け止め、結局は、成功するだろうと認めてい」るが、「それと同時にそのゴールへ向かう時期や道順については、はっきりとした、そしてあれこれ気を配った条件をつけてい」(T.フリードマン『遺伝子治療』44頁)る。
ただし、ビクター・マクージック(ジョンズ・ホプキンス大学の心臓病専門医)は、「当分の間は、分子遺伝学の貢献は、遺伝子治療へ対してよりも遺伝子診断に対しての方が、ずっと大きいでしょう」(T.フリードマン『遺伝子治療』41頁)とした。ロバート・ウィリアムソン(ロンドンの聖マリー病院、臨床医)は、「危険性をもった夫婦のようなまれな場合を除いては、遺伝子治療はもちろん出生前診断さえも使わないでしょう」(T.フリードマン『遺伝子治療』43頁)とした。
A バンベリー会議の特徴
会議の画期性 1982年2月、コールド・スプリング・ハーバー研究所(「一世紀以上にわたる研究の歴史をもつ、世界的に名高い分子生物学のセンター」で、DNA大学、世界のゲノム研究の聖地とも称される)は、ポール・バーグ(スタンフォード大学分子生物学者)、W.フレンチ・アンダーソン(NIH、小児科医・分子生物学者)、フリードマン(小児科医・分子生物学者)をオーガナイザーとして、ジェームズ.D.ワトソン(コールド・スプリング・ハーバー研究所長)らの支援で「遺伝子治療に関するバンベリー会議」を開催した(T.フリードマン『遺伝子治療』秀潤社、1986年、バンベリーセンター所長マイケル・ショーデル序)。
この会議の画期性は、参加者47人のうち、遺伝学者、分子生物学者のみならず、17人の医者(リチャード・アクセル[コロンビア大学内科医]、ハーヴェイ・オザー[ニューヨーク市立大学内科医]、トーマス・キャスキー[ベイラー医科大学内科医]、ロバート・グッド[オクラホマ医学研究財団内科医]、ローレンス・ケデス[スタンフォード大学内科医・分子生物学者]、アラン・シェヒター[内科医]、ステファン・シーダーバウム[UCLA内科医]、ウィリアム・スライ[ワシントン大学小児科医]、ロバート・デズニック[臨床医・小児科医]、ウィリアム・ナイハン[カリフォルニア大学小児科医・遺伝学者]、アーネスト・ビュートラー[内科医]、ウルフ・ピーターソン[スウェーデンのウプサラ大学内科医]、レロイ・フード[カリフォルニア工科大学内科医・分子生物学者]、ウタ・フランケ[エール大学内科医]、セオドア・フリードマン[小児科医・分子生物学者]、マイケル・ブラウン[テキサス大学内科医]、ヴィクター・マクージック[ジョンズホプキンス大学の心臓専門医])もまたバンベリー・センターに集り、「分子遺伝学のの現状と将来の方向性、特に臨床への応用の可能性」を議論したことであった。それは、「独創的な、非公開の」会議で、「遺伝子治療について徹底的に何の制約もなく科学的評価を下す」会議であった(T.フリードマン『遺伝子治療』1−2頁)。
このように少なからざる医者がこの会議に参加していたのは、遺伝子診断・治療は、「分子遺伝学者などの医者ではない人達」と「臨床医」とが結びつかないと出来ないからである。分子生物学者が「いくら遺伝子の研究をやっても、、臨床医が無関心なら遺伝子診断・治療は「全然だめ」なのである(1986年1月座談会「遺伝子治療ーその可能性を探る」での榊佳之談[T.フリードマン『遺伝子治療』159頁])。ただし、分子生物学者にすれば、臨床医学の「主導」には警戒があったであろうし、ムリガンがこれに欠席したのも(或いは招待されなかったのも知れないが)、そういうことかもしれない。
以下、オーガナイザーの一人フリードマンが、この「バンベリー会議の速記録」を執筆した『遺伝子治療』に基づいて、この会議を瞥見してみよう。「三日間のバンベリー会議は、速記者によって完全に記録され」、参加した「著名な権威者達の中にも、遺伝子治療とその成功への可能性について、互いに矛盾する感情や軋轢があることが、はっきり読みと」(T.フリードマン『遺伝子治療』45頁)れたのであった。
遺伝子治療と倫理 「本書では、人間の遺伝学における新しい型の治療法の明らかな必要性と、いかに分子遺伝学がその要求に答えられるか、を考慮する討議の部分に力点が置かれれてい」(T.フリードマン『遺伝子治療』5頁)て、倫理的問題は検討されなかった。
つまり、「会議では、遺伝子操作を考えるときによく起こる多くの倫理的事柄を深く考察し」なかったので、本書でも「倫理的事柄についての十分な解説は書いて」いない。これは、バンベリー会議の考えは、「議論の第一の焦点は科学的疑問についてであり、道徳的・倫理的関心事が正式の議題としては含まれるべきではない」というものであったからである。まず、「遺伝子治療の考えに対して科学的な実体があるかどうかを考える」ことが第一であり、それを踏まえて「将来の会合で倫理的、道徳的なこと考える」というのである(T.フリードマン『遺伝子治療』6頁)。
会議の課題 フリードマンは、 バンベリー会議での「三つの根本的な疑問」は、@「ヒトの疾病を理解し治療するのに、我々は、遺伝子レベルで実際に何ができると思われるか?」、A「これらの方法に関して、我々の現在の科学的知識の程度はどのくらいで、さらに何を見出す必要があるのか?」、B「遺伝病で苦しむ患者にこれらの新しい治療の試みは、いつ許されるようになるのだろうか?」だとする(T.フリードマン『遺伝子治療』104頁)。
主催者の一人バーグは、「会議の目的」について、@「組換えDNA技術の発達、年々増大してゆく分離に成功したヒト遺伝子のリスト、ヒト遺伝子構造およびゲノムの構築への我々の理解の高度化、そして細胞や生体へ遺伝子を再導入する可能性の高まりは、遺伝子治療に対する期待や関心を新しい段階まで引きあげ」、A故に「この会議の目的は、人間の遺伝病の問題を現在の分子生物学の知識や技術に照らして検討し、遺伝子治療は架空の事なのか現実なのか」ということの見込みについて短期・中期・長期で「何らかの評価」を下すことになり、B臨床医、分子生物学者、遺伝学者、発生生物学者が「人間の疾病がヒトゲノムへの遺伝子の修飾・置換、あるいは付加により治療され得るか否か評価すべき」となり、Cまた「人間の遺伝病に対する他の治療法の問題点を検討」し、「遺伝病の臨床での治療に対して、食事療法や薬物療法、肝臓や脊髄の移植などの」ように現在あるいは将来可能なアプロ―チがどんな役割を果たすかを決めること」も重要になり、D「出生前診断と確実な中絶法も遺伝病に対してある程度の貢献をする」事も考慮すべきであり、病院の遺伝病診断・治療と、細胞の遺伝子操作(挿入、分離、機能分析)に従事する人々が「一緒」になって、「遺伝子治療への現実的な戦略があるかどうかを判断することを可能」することを期待することだと詳述するのである(T.フリードマン『遺伝子治療』7頁)。
B 会議の展開
(a) 会議一日目
遺伝子導入の方法 アンダーソン(米国NHLBIの小児科出身の分子生物学者)は、遺伝子治療の判定基準として、動物を使って、@「新しい遺伝子を適当な目標の細胞に入れることができ、遺伝子はその中に留まること」、A「新しい遺伝子は有効かつ適切に制御されること」、B「新しい遺伝子は細胞に害を与えないこと」をあげる。そして、遺伝子導入の方法として、@「袋の中にものを入れ、それを目的の細胞と融合」する方法、Aリン酸カルシウム法など「化学的に遺伝子を挿入する方法」、B「遺伝子を細胞へ物理的に入れる方法」があるとするが、いずれも「遺伝物質を取り出して、それをこのブラックボックスの中にほうり込んでいるだけ」なので、「明らかに生理的でないことが起こ」り、その系が機能しなくなる(T.フリードマン『遺伝子治療』45−7頁)。
バルチモア(MITの分子生物学者)は、「ウィルスを使う」という「古くから行なわれていて効果的」な第四の方法があるとする(T.フリードマン『遺伝子治療』47−8頁)。しかし、アンダーソンは、「現在の技術をもってすると、ウィルスを使うやり方もまだブラックボックス」であり、「これらのどの技術を使っても、人に適用するのに必要とされる、ある種の正確さをもってやれるだけの十分な知識はまだ」ないと反論する。「進むべき道のすべての段階に疑問が存在してい」るので、慎重にやるべきだとする(T.フリードマン『遺伝子治療』48−9頁)。
骨髄移植の問題 ウィリアムソン(ロンドン大学の分子生物学者)は、「サラセミアの骨髄移植について何か成果があ」るかと問うと、ビュートラー(スクリップス診療研究財団の内科医・血液学者)は、「あまり症状の出ていない人に骨髄移植をしたときの死亡率が約40%」であり、「もし死亡率が5−10%に下がったら、道理にかなったアプローチ」だが、「今は危険が高すぎる」とする(T.フリードマン『遺伝子治療』49−50頁)。
クライン(UCLAの血液・腫瘍学者)は、「組織の適合した骨髄を使った場合」でもGVH反応(移植に伴う移植片宿生反応)で死亡するので、「生存率は最も良くて60%」だから、「不適合の骨髄が使えるようになるまでは、多くのサラセミア患者(グロビン遺伝子の欠損か突然変異で起きる貧血症)にとってこの方法は解決とはな」らないとする(T.フリードマン『遺伝子治療』50頁)。
グッド(オクラホマ医学研究財団の内科医)は、「GVH反応は克服できる」のであり、「骨髄移植をしなければ、高い致死率を示す20以上の症例を、既に、我々は移植によって効果的に治療して」おり、「次の問題は、それほど致死率の高くない病気に対してもやってみるかどうか」だとする(T.フリードマン『遺伝子治療』50−1頁)。
アンダーソンは、こうした第一日の議論を締め括って、「我々は難しい論点について話してきた」が、「核心」、「真実」が見えてきたとし、80年代末には骨髄移植のような技術は「使えるようになる」と展望する(T.フリードマン『遺伝子治療』51頁)。
(b) 会議の最終日
「最終日のセッションになっても、科学者達は肯定的であれ否定的であれ、遺伝子治療に対して一つの絶対的な声明があるということを確信してい」(T.フリードマン『遺伝子治療』51頁)なかった。
分子生物学成果の治療応用 フリードマンは、分子生物学の積極的意義を述べる。「分子生物学の分野の大きな成功」が「人間の病気と結びついたことから生まれ」たが、我々の中には「分子生物学の成果の治療への応用は他の人にとって以上に抵抗し難いもの」だとする。だが、「分子生物学の大きな成功から生まれた一つの事実は、遺伝病と考えられるものの範囲が広がったこと」であり、「遺伝的再構成が、少なくともある種の癌の原因となっている」ことも気づき始め、遺伝病は「国民の健康にかかわる大きな問題」になっているとする。現代分子遺伝学の顕著な進展で、「伝統的なやり方で、何年も、あるいは何世紀もかかって成し遂げられなかった病気の治療を、新しい遺伝子操作技術は短期間でやってしまうかもしれない」(T.フリードマン『遺伝子治療』104頁)とする。
そして、フリードマンは、@遺伝病には「従来の薬理的治療や酵素治療」では「失敗が多く成功は少ない」が、では「人間の遺伝病の治療は欠陥レベルでのアプローチを必要としているか」、また「そのようなアプローチは、本当により簡単で、より効果的で、一般に広まるような治療法を生み出すことができるのであろうか」、A「遠くない将来に、多くの種類の遺伝子操作が可能にな」り、「遺伝子が操作され」、遺伝病の「遺伝物質の構成」が明らかになり、「遺伝子は、どのように欠陥細胞の変異ゲノムへ導入される」かが解明され、遺伝子治療の可能性がいかに大きいか、B人間の知識や理解には限界があり、「病因やその病気に関与している物質について、十分に知識を得る前に臨床実験が行われる」こともあるのであり、故に「不完全な知識にもかかわらず、臨床的に病気を治療」する責任があるのかなど、三問題があるとする(T.フリードマン『遺伝子治療』52−6頁)。
遺伝子導入の困難 バーグは、@「トム・マニアティスの発表は、我々はどんなヒト遺伝子でも、特にヒトの疾病に関係している遺伝子を、まもなく分離出来る」と確信させ、「科学技術が短期間に進歩し、かつ医学的な方向を目指す科学者達が実験手順を覚えるなら、莫大な数のクローン化されたヒト遺伝子が使えるようにな」り、「もしそうなれば、疾病の出生前診断は日常茶飯事とな」るが、A「正常なヒト・クローン遺伝子」利用は、「単細胞ではうまくいっても、生殖細胞を変化させることなく多細胞生物へ適用するのはひどく難し」く、「染色体上の特定の位置に遺伝子を狙って入れる能力と、それが将来予想通り正常に機能することを保証する能力が、我々に欠けている」とする(T.フリードマン『遺伝子治療』57−9頁)。
フリードマンがバーグに、「あなたはそれらの可能性について悲観的ではないですね」と語りかけると、バーグは「制御された遺伝子の導入法が見つけられるような気がします」と答えた。しかし、彼は、「大変に難しい仕事」であり、「遺伝子移植によって遺伝子欠陥を治療しようとする試みは、今日までの我々の経験からしてまだ未熟であり、今の時点では無分別なことです」と、慎重である。バーグは、その理由として、@遺伝子の初期胚への導入実験が「治療の手段として認められるまでには、我々は細胞が外来性のDNAをどう扱うのか、制御された発現のためには何が必要かを、もっともっと知る必要があ」る事、A数多くの遺伝病の各々は「ほんの少人数」に該当するのみで「人力、時間、金銭等の投資」の割りがあわない事、B「出生前診断が簡単にでき普及したら、最も重症な病気のホモ接合体の胎児の多くは、中絶される」事をあげる(T.フリードマン『遺伝子治療』59−60頁)。
ウィリアムソン(ロンドン大学の臨床医)は、分子生物学に焦点を合わせた遺伝子治療より、「ヘモグロビン異常症の場合ですら、薬理的な、あるいは他の治療法に貢献するような研究をするべき」と主張する。彼は、「現在の治療で患者を救う望みは非常にうすく、害を与えるかもしれないという程度の知識しかなくて、患者を実験材料のように扱うことは、非倫理的だ」と批判する(T.フリードマン『遺伝子治療』61−2頁)。
会議趣旨の議論 ベックウィズ(ハーバード大学の分子生物学者)は、「遺伝学と社会との間の相互作用にはとても長い複雑な歴史があること、多くの色々な遺伝的スクリーニングで最近起こった問題があること」の二点から、「法律的、社会的、倫理的な疑問が十分にまとまっていないのに、会議を開くことは重大な間違いだ」と批判し、この問題に関心があり、それを討議する沢山の人々を出席させるべき」とする(T.フリードマン『遺伝子治療』63頁)。
アンダーソンは、「この会議を開いた理由の一つは、NIHで行なった会議が動機」であり、その「公開された倫理学者、法律家を含んだ会議」(1975年アシロマ会議以降の会議であろう)では「ものすごい圧力があり」「多くの人々がこのような会議を開くには時期尚早」だということであった。だから、「遺伝子治療が現実のものとなる時に、世論会議とでも呼ぶものを開く」べきだとする。
すると、バーグが口をはさんで、「この会の目的は科学的な疑問とその可能性を調べ、社会的、道徳的、倫理的疑問に関連して、それを取り扱おうとすること」であり、「今は科学に焦点をあわせようとする事が最も大切だ」とする。バルティモア(MITの分子生物学者)も、「こういう議論のすべてを入れることはせずに」、この会議の成果として、「遺伝子治療の必要性については疑問の余地な」い事、「多くの重症の病気」の治療には遺伝子治療以外では望みがない事という二点だけを公表すべきとする。彼は、確かにまだ「いかなる種類の遺伝子治療にも、我々は何一つ処方を見出して」いないが、遺伝子治療は「正常な制御機構の下で正常な働きをする正常細胞を生み出すという治療法」であり、「我々が想像するような形で作用するなら、ちょうど医学の望み通りの治療法」であり、「この分野での“ロゼッタ石”(突破口)」だとみる。ただし、バルティモアは、治療が「人間に対して行なわれることについては絶対注意深くなければならない」とし、「いかなる実験も人間に行われる前には、先に進んでもよいという、しっかりした意見の一致がある」べきだと、倫理的検討の重要性を指摘する。特に「すべての遺伝子治療は、一般の人にはあの非人道的なナチスの優生学を思い起こさせ」るとし、「これから長期にわたって、生殖細胞の修飾をすることはありそうにない」ことが「この会議でわかった」とした(T.フリードマン『遺伝子治療』63−8頁)。
デービス(ハーバード大学の微生物学者・遺伝学者)は、バルティモア支持を表明しつつ、一般人は優生学への懸念のみならず、「別の目的のため、つまり個人的理想の達成のような非医学的目的のために遺伝的操作が行われる可能性も気にしてい」るので、「我々は遺伝子治療と他の遺伝子操作の違いを強調し、広めることが大切」だとする(T.フリードマン『遺伝子治療』69頁)。
デズニック(臨床医・小児科医)は、バルティモアに同意しつつ、「内科医、遺伝学者、分子生物学者等」が参加した「この会議の要旨」を『サイエンス』誌、『ニューイングランド・ジャーナル』誌(医者向け)に発表する事を提案した。彼は、これで医者は医学的奇跡を期待する患者に応えることができるとする(T.フリードマン『遺伝子治療』69−70頁)。
会議の成果 この会議で、分子生物学者は「遺伝的形質の解析と分離のみごとな成功」を見せたが、臨床では「遺伝病の治療は、望ましい状態には程遠い」事を知ったのである(T.フリードマン『遺伝子治療』53頁)。だから、ビクター・マクージック(心臓専門医)は、「この会議でわかったことは、当分の間は、分子遺伝学の遺伝子診断に対する貢献の度合が、遺伝子治療への貢献よりもずっと大きいということ」であり、「すべてのメンデルの遺伝形式をとる病気は理論的には遺伝学の手法により診断が可能」であり、「ヘテロ接合体の検出や出生前診断等も可能」であり、予防が治療より重要だということだとする(T.フリードマン『遺伝子治療』70頁)。
バーグは、「会議での一致した意見は、治療への遺伝的アプローチはおそらく最終的には受け入れられるが、まだ多くの技術的・社会的問題があり、これらの問題は理想としては遺伝子治療が起こる前に解決されるべきであること」だとし、「種々なジレンマは、我々がより先へ進む前に解決される」べきだとした(T.フリードマン『遺伝子治療』70−1頁)。
C 遺伝子治療の諸問題
フリードマンは、遺伝子治療は、@「何が可能であるか」、A「従来の治療を超えるような改善された治療を約束できるのか」、B社会的、倫理的、道徳的に正当化できるか、とい問題をはらんでいるとする(T.フリードマン『遺伝子治療』40頁)。そして、バンベリーセンター所長マイケル・ショーデルは、遺伝子治療の技術上の問題点としては、@「どんな病気に対して遺伝子治療を行ない、どんな病気に対して行なわないかを明瞭に定義づけるための客観的な基準は存在する」か、A「はっきりしたガイドラインがあっても、ある遺伝子を“修正”したために、以前には表面に出てこなたったような別の遺伝的な問題が表面化するのではないか」と言う事があるとする(T.フリードマン、榊佳之ら訳『遺伝子治療』秀潤社、1986年[T.Freedman,"GENE THEREPY."Cold Spring Harbor Laboratory,1983]、バンベリーセンター所長マイケル・ショーデル序)。
理想的な遺伝子治療法 大部分の遺伝学者達は、「人間の疾病を治癒する最も可能性の高い遺伝学的方法は、失われた機能に対応する遺伝子を分離し、患者の異常細胞にその“良い”遺伝子を挿入してやることだろうと思ってい」る。そして、彼らは、「理想的には、新しい遺伝子は正しい染色体部位で異常細胞の欠損遺伝子にとって代わり、その結果、置換された遺伝子の正常なコピーは、通常本来の遺伝子の発現を支配する調節機構の支配下に入」ることだとする(T.フリードマン『遺伝子治療』106頁)。
「新しい分子遺伝学の強い自信」は、「正常細胞中であらゆるヒトの遺伝子を分離し、その構造を決定し、そして、どのようにその遺伝子がコントロールされているかを詳しく理解することが現在可能である、あるいは、まもなく可能になるであろうという予測や事実から生まれてい」(T.フリードマン『遺伝子治療』107頁)る。
トム・マニアティス(ハーバード大の分子生物学者)は「遺伝子の分離に関する最新の方法」を取り上げた。彼は、@「当初、遺伝子とは、タンパク質をコードとするDNA配列」であり、A次いで「メッセンジャーRNA(mRNA)配列が5´と3´の非コード配列をもつことが発見され」、「遺伝子はmRNAをコードとするDNA配列」となり、Bその後、「介在配列(イントロン)が見つかり、遺伝子はすべての転写単位をコードとする配列」となったとする。この転写単位は、「本質的にどの配列がその遺伝子の発現を制御するのに必要であるかによって、再定義され」ねばならず、「我々が遺伝子治療とか遺伝子の細胞内導入について考えるとき、制御系を含めた単位こそ注目される配列」である。彼は、「遺伝子や転写単位の発現をコントロールしている領域に対する我々の知識はいまだに全くつたない」事を言おうとした。我々は、「これらの遺伝子を分離し、特色を明らかにする」必要があり、「すべてのmRNAのコピー集団である、いわゆるcDNA(相補DNA)ライブラリーと呼ばれるものから遺伝子を分離する事が可能」である。この方法で、「ウィルス、バクテリア、酵母、藻類、植物、人間、そして他の哺乳類等を含む、色々な種類の生物から多くの遺伝子が既に分離」された(T.フリードマン『遺伝子治療』107−8頁)。
問題は、その分離した遺伝子をいかに「欠損細胞中へ挿入」するかである。ここ15年間「ある種のDNAは細胞内へ入ることができ、宿主ゲノムへ直接、かつ永久的に組み込まれ、細胞内で代々受け継がれる遺伝情報の一部になることがわかり」、1960年代、「simianウィルス40(SV40)やポリオーマ等のDNAウィルスが、どのようにして細胞の悪性腫瘍化の要因となるのか、を知るための格好の実験材料」となった(T.フリードマン『遺伝子治療』109頁)。
1960年代末から1970年代にかけ、ウィルス学者は、「SV40やポリオーマ等のウィルスは、ある種の細胞に感染し、その細胞に制御できないほどに成長するという癌細胞特有の性質を起させ」るのは、「ウィルスのゲノムの一部が受容細胞のゲノムに挿入された結果」だという事に気づいた。「これらのウィルスのDNAは、その一部に細胞DNAの複製に影響を与える遺伝子を含」み、「その遺伝子が感染細胞内で表現すると、細胞の増殖制御が損なわれ」るのである(T.フリードマン『遺伝子治療』109頁)。ほぼ同時に「同じような恒久的な遺伝的変化は、RNA腫瘍ウィルスの感染によっても起こる」事が判明し、「RNAの腫瘍ウィルスはより複雑な形質転換機構を持ってい」ることが分かった(T.フリードマン『遺伝子治療』109−110頁)。
1978年、リチャード・アクセル(コロンビア大学の医学者)らは、「リン酸カルシウムの小さな結晶の浮遊物とDNAを混ぜて普通の細胞遺伝子を受容細胞に導入」し(DNAトランスフェクション法)、「非腫瘍性遺伝子を使って、哺乳類細胞の遺伝的構築に修飾を加えることが可能である」事を証明した。アクセルは、バンベリー会議で、「DNAの細胞内導入に成功した方法に共通して見られる四つの要素」として、@伝達システム、A「いくつかの選択可能なDNAの供給」、B「適当な受容細胞」(「供与DNAによってコードされたマーカーに欠陥があり、かつ形質転換しやすいような細胞」)、C選択システムが必要だとする。「DNAを細胞に入れる現在の方法は、概して効果的では」ないが、「ウィルスのような膜で(DNAを)おおって、どんな遺伝子も非常に効果的な方法で細胞へ導入することが間もなく可能にな」(T.フリードマン『遺伝子治療』110−2頁)ろうとした。
遺伝子挿入上の諸問題 遺伝子挿入上の諸問題としては、@「遺伝子は一度細胞に入ると、染色体上の決められた位置へ向わなければならない」が、「哺乳類の細胞では全く成功」せず、「遺伝子や配列の転座は腫瘍遺伝子を発現させる危険な要因」である事、Aルドルフ・ジェニッシュ(西ドイツのハインリッヒ・ベッテ研究所)が指摘するように、「ウィルスは新しい遺伝子の細胞内への導入に有用」だが、これは「非常に初期の胚にウィルスを感染」させているので、「どの細胞型にも感染」する可能性がある事、Bフランク・コンスタティニ(コロンビア大学)が指摘するように、「遺伝子を直接胚の細胞に注入」する技術、「この方法を人間の疾病治療に適用」する技術は、「生物の発生の過程」での「遺伝子制御を研究するのに使われる」事などである(T.フリードマン『遺伝子治療』113−8頁)。
Bに関連して、フランク・コンスタティニは、この会議で、「ヒトの遺伝子治療を考える一方で、胚の段階での遺伝子の導入が遺伝的欠損を修正するためのアプローチとなるかどうか、について考えるのは興味深い」とするが、こうした「マウスの実験で用いた技術をヒトに同じように適用できるか」という問題があるとする。だから、「初期の段階でスクリーニングと中絶が選択できる場合には、もし胚に対する遺伝子導入の成功率が高くなければ、その選択は明らかに望ましいものとなる」(T.フリードマン『遺伝子治療』118−122頁)とした。
トム・キャスキー(ベイラー大学の「内科医・分子遺伝学者)はこれに賛同し、「胚に対する遺伝子導入は、遺伝子置換としては最も可能性の低い戦略」とし、「病気の子供を生み出す家族の遺伝子操作ではなく、既に遺伝病になってしまった子供の治療法の方に焦点をあわせるべ」しとした(122頁)。フランク・ラドル(エ−ル大学の細胞生物学者)は、「インターフェロン遺伝子を挿入した胚から育てたマウスの実験の結果を詳しく発表し」、「一匹のオスのマウスには精子が完全にな」く、「インターフェロン遺伝子が突然変異種であること」を示唆するとした(T.フリードマン『遺伝子治療』123頁)。ラルフ・ブリンスター(ペンシルバニア大学の分子生物学者)は、「胚での遺伝子治療のより重要な使い方は、ヒトの疾病治療のためというより、ヒトのために役立つ動物に適用することだ」とした(T.フリードマン『遺伝子治療』123頁)。
一方、フリードマンは、「細胞内に既に存在しているもう一つの遺伝子の活性化もある程度は可能である」(T.フリードマン『遺伝子治療』124頁)とする。これに関連して、アーサー・ニーンハイス(NIH)らは、「ガンマ・グロビン(胎児性ヘモグロビン)という別の休止している遺伝子のスイッチを入れ直すことで、欠陥ベータ・グロビンを持っているサラセミアの患者を治療した」事を明らかにした(T.フリードマン『遺伝子治療』124頁)。しかし、「発生の各段階で各遺伝子が蘇生する遺伝的産物は、細胞内にほとんど残らず、再活性もほとんどできないから」、この実験が成功したと言っても「すぐには多くの疾患の治療というわけにはいかない」とする(T.フリードマン『遺伝子治療』125頁)。
我々は、遺伝子治療について、「新しい遺伝子を細胞内に入れることができること」、「その遺伝子が需要細胞内に、多少でたらめだが通常ごく少数の部位に組み込まれること」、「それは他の細胞遺伝子と同様に遺伝すること」などを知ったが、「まだ我々は、ゲノムの中の正常な特定の位置に遺伝子を入れることはでき」ないし、「もとからある欠陥遺伝子を取り去り、その部位を正常なコピーで置き換えることや、体内で特定の細胞や器官に遺伝子を向かわせることもでき」ないのである。しかし、「遺伝子に初期胚を導入する事はでき」るが、「あらかじめ存在する遺伝子を新しいDNA断片で置換する良い方法は今までのところは」ないのである(T.フリードマン『遺伝子治療』125−6頁)。
遺伝子治療の必要性 「人間の疾病治療への遺伝的アプローチの可能性を強調しすぎること」は問題だが、「遺伝子操作や遺伝子治療の問題は、可能性があるからだけでなく、必要とされているからこそ起こっ」たとする(T.フリードマン『遺伝子治療』140頁)。
「人間の疾病の治療に向けた、強力な新しい遺伝的アプローチについて決定が下される前に、解決しておかなければならない二つの一般的な問題」は、@「ヒトの遺伝学における新しい技術や方法が、臨床の問題にどのように応用されるかを理解」し、「現在の治療の長所と短所を分析」出来るために、「医学的治療を改善するための必要条件は何か」、A「新しい科学的手法にどのような可能性があるかを正確に」理解し、「新しい方法の現在の技術的可能性や、将来の発展の方向性について、できるだけ明確な考えをもつ」ために「何が可能となるか」ということであるとする(T.フリードマン『遺伝子治療』127−8頁)。
この「何が必要とされ、何が可能になる」かという二問題は、「バンベリー会議であらゆる角度から取り上げられ検討された」ものであり、フリードマンは、本書で「人間の疾病の遺伝子治療に対する科学的可能性、および医学的必要性に関して、その会議で得られたコンセンサスを紹介する」のである(T.フリードマン『遺伝子治療』128頁)。
「遺伝病の治療をしようという我々の成果はまだ不十分」であり、「非常に多くの遺伝病における生化学的・細胞的欠陥の解析は、ほんの一握りの病気を除いては、理にかなった、効果的な治療法を導き出すに至ってい」ないが、「ある程度遺伝的だと見られる重要な疾病の数は増え続け」、「遺伝病の本当の医学的な比重は、二、三十年ほど前に考えられていたのとは比べものにならないくらい大きい」(T.フリードマン『遺伝子治療』128頁)のである。
多くの臨床医は、「遺伝病の治療の主な突破口は古典的アプローチで行なわれるに違いないという点で一致」し、古典的アプローチは「根本的な遺伝的欠陥よりもむしろ症状とか生化学的な異常の影響という面に目を向け」、「組換えDNA技術は、既に医学的に重要なホルモンやその他の産物の合成に使われ」、ヒトインシュリン、「子供の成長の欠陥を治療する成長ホルモン」、インターフェロンなどの産物が遺伝病の伝統的治療に使われ」、「組換えDNAによる生産法は、ある場合には薬物やワクチンの現在の生産法にとってかわる」。しかし、これは、「遺伝子治療ではなく、むしろ遺伝子産物を産生するための遺伝的道具の利用、すなわち古典的治療のための薬剤をつくる新しい方法」である(T.フリードマン『遺伝子治療』128−9頁)。
「バンベリー会議後間もなく」、「シアトルのドンネル・トーマスと彼のグループによって」「サイクロスポリンという非常に強力で新しい抗拒絶反応薬の発見で」、「サラセミアの患者をその姉の骨髄細胞と取り換え」、「初めての明らかな遺伝病の“治癒”」が行われた。「移植に伴う拒絶過程の免疫的調節の進歩は、遺伝病によって傷ついた臓器を取り換えたり、患者が自分でつくりだすことができないヘモクロビンなどのタンパク質をつくるために、組織という形で患者に遺伝子を与えたりすることをより容易にし」た。しかし、「ある種の病気には、直接遺伝子を操作して治療ができる可能性があるという」事を無視する事はできない。「今日でも、一般的技術では治らない病気があり、、「そのような病気にとって遺伝子操作や治療は大変理にかなってい」るから、「遺伝子治療の医学的必要性は、かなり確か」である(T.フリードマン『遺伝子治療』129−130頁)。
遺伝子技術の進歩・改善可能性 「ヒトの疾病の遺伝子操作や遺伝子治療の方法を発展させる前に、正常ならびに異常遺伝子の構造と機能、およびその発現機構を理解」する事が必要である。バンベリー会議では、「少なくとも、ほとんどすべての遺伝子を分離したり、特徴づけることが可能だと考えるのに十分な、強力な技術が既に存在すること」が明らかになり、「遺伝的性質をもつとされる疾病の数は増える一方」だが、「最終的には解明され、それに対応する突然変異遺伝子が分離され、特徴づけられることは明らかだ」とする。また、「多くの新しい遺伝子が発見され、分離され、特徴づけられ」、「正常および異常な体内の機能における遺伝子の役割も研究され、明らかになる」のである(T.フリードマン『遺伝子治療』130−1頁)。
現在は、「効率の悪い非特異的な遺伝子導入技術、つまり受容細胞のゲノム中にバラバラに外来遺伝子を与え、組み込無用な技術に限られてい」るが、まだまだ「新しい遺伝子が属すべきゲノム内の正確な部位に、その遺伝子をごのようにして向かわせるのか」、或いは「欠陥のある望ましくないDNAの断片を、どうやって取り除き、別の断片で置き換えるのか」などは分からないのである。しかし、今後、「種々のウィルス様粒子に遺伝子を取り込ませる方法の発達によって、効果的な遺伝子のより効率的な導入が可能になり」、「欠陥細胞に分離した遺伝子を挿入する方法」が改善され続けるとする(T.フリードマン『遺伝子治療』131頁)。
そして、「受け入れ側のゲノム内の置きたい所にちょうど遺伝子を置く方法」や、「一つの遺伝子を別のものと置き換える方法」が明らかになり、「我々はほとんど染色体全体に匹敵するくらいの非常に大きいDNA領域の構築を理解」し、「大量の完全な核酸配列」が明らかになるとするが、「全染色体の核酸配列を決定する仕事は、非常に大変で、近い将来には完成しないかもしれ」ないともした(T.フリードマン『遺伝子治療』132頁)。
現在、確かに「遺伝子発現がどのように制御されているかについての我々の知識は全く初歩的」だが、「分化や発生の過程で遺伝子の発現の成否がどのように決まるのか」、「メチル化等の化学変化が遺伝子の活性にどのような影響を与えるのか」、「その活性は薬によってどのように変えられるのか」などを学びつつあり、故に「サラセミア患者の致死グロビン遺伝子を再発現させる、5−アザチジンの薬の使用は将来へ向けての重要なステップ」であるとする(T.フリードマン『遺伝子治療』132頁)。
故に、「我々は遺伝子やゲノムの広い領域の構造と機能について、もっと学び続け」、「遺伝子を効果的に特定の部位に導入させる方法」、「ゲノム内の正常遺伝子、あるいは欠陥遺伝子の発現を変える方法」、「遺伝子発現が正確かつ効果的に調節されていることを確かめる方法」などを研究し続けるとする(T.フリードマン『遺伝子治療』132−3頁)。
それでも、やはり、遺伝子治療には、次のような不安・懸念・疑問があるのである。
遺伝子治療の不安 「我々は、遺伝子治療は他の医学的治療とは大いに違うと感じ、絶えず遺伝学とは何かについて頭を悩ませ」、「一般の関心は混乱」し「深刻」であり、その結果、「遺伝子操作の医学利用は、科学史上で最も大きな論争を呼んでい」る(T.フリードマン『遺伝子治療』135頁)。
「遺伝的物質を直接操作するということは、人間という存在の概念を脅かし、さらに我々の種の自然な発達を脅かす例」となり、「人類は自らの遺伝的運命をデザインする重荷を引き受けられる程に十分賢い」かという問題があり、かつ人類が「自然の英知やその進化に人類が干渉することの恐怖」から「人類が“神を冒涜している”」という懸念が生じた(T.フリードマン『遺伝子治療』135−6頁)。
1982年11月、遺伝子操作に対する世論と宗教界(米国教会協議会、アメリカ・ユダヤ教会、合衆国カトリック会議)の関心の高さから作成された「レーガン大統領委員会「医学行動研究における倫理問題研究会」報告は、「科学と医学は生命の機構を理解し、そして人間は病気や人の苦しみが引き起こされたときのみ自然に干渉するという基盤に立」ち、遺伝子治療は「疾病や苦しみを防ぐために使用される限り、道徳的かつ正統的だ」とされ、「新しい効果的な方法が使えるのに、それらを使うことを見合わせることは倫理的には受け入れられない」とする(T.フリードマン『遺伝子治療』137頁)。
生殖細胞操作の懸念 「遺伝子治療は、すべての治療がそうであるように、その目的が病気を防ぎ、それが患者個々人や次の世代にまで及ぼす影響を取り除くためであるならば、道徳的に受け入れられる」から、この点では、「遺伝子治療は他のすべての治療法と似てい」る。故に、遺伝子治療は「何も新しいユニークな倫理問題を引き起こすものではな」く、「唯一の考え得る例外は生殖細胞の操作」である(T.フリードマン『遺伝子治療』138頁)。
生殖細胞操作は、「将来の世代での病気の発生を抑制することはできる」が、「このやり方は、それがもはや単に病気という“害悪”を防ぐという目的だけに限定されにくいという点で、現存する患者個人の体細胞ゲノムを操作するのとは異なってい」たのである。「危険にも、それは一部の人が認めた“善”を求める方向に近づくこと」であり、その善とは、「特定の病気を起こす遺伝子をゲノムから取り除くこと」、「ヒトのゲノムを“改良”すること」、「その質を高めること」を意味した(T.フリードマン『遺伝子治療』138頁)。
より良い遺伝子操作の疑問 バーナード・ガード(ダートマス大学の哲学者)は、「道徳的行動とは悪や害を避けようとすること」とする。「ガードが指摘するように、“善”なるものをおし進めようとすれば、倫理問題に関わって」くるとする(T.フリードマン『遺伝子治療』137−8頁)。
しかし、突然変異種は「病気を起こす」のみならず、鎌型グロビン遺伝子のように、「保因者をマラリアから防」ぐのである。また、「遺伝病に関連している遺伝子(たぶん、特に劣性のもの)」は「保因者にある意味で有益」である事もある。まだ我々は「遺伝子間の相互作用の知識」が不十分であるから、「“治療”した後の遺伝的影響をまず知らないうちは、あまり容易にこれらの遺伝子を操作したくない」とする(T.フリードマン『遺伝子治療』138−9頁)。
「“より良い”ヒトゲノムの構築や“欠陥”遺伝子の除去についての議論」は、まだ遺伝子操作に社会的合意のないまま推進するには疑問がある(T.フリードマン『遺伝子治療』139頁)。「ナチの遺伝的原理の乱用は政治的に科学を悪用した有名な例」であり、「人間の種を改善しようとして遺伝的な技術を使用することは、選択の自由や個人の自由という民主主義思想に有害な影響を与えてき」た(T.フリードマン『遺伝子治療』139−140頁)。
従って、遺伝子治療は規制されるべきということになる。
遺伝子治療の規制 「説得力のある医学的必要性」と「非常に強力な操作技術や遺伝子発現についての総合的な理解」とが組み合わされば、「幾つかの遺伝病に対しての遺伝子治療」は不可逆的な流れとなるが、遺伝子治療には議論があり、「ヒトの疾病の問題に遺伝子操作を応用することは、人体実験についての複雑な疑問を生み出」す。(T.フリードマン『遺伝子治療』133頁)。
「医学的人体実験の乱用の結果、医学的試みや研究の倫理的基準が過去数十年に決められ」、「この基準は、実験や治療が人間を対象として行われる場合の幾つかの条件を詳しく記して」いる。1946年ニュールンベルグ法、1948年ジェノヴァ宣言(世界医学協会)、1964年ヘルシンキ宣言・NIHガイドラインでは「人間に対する実験は、確実に安全かつ倫理的に受け入れられる状況下で行なわれなければならない」と指示し、「研究者達に課せられた制限とは、被験者は自発的に事情をよくわかった上で同意しなければならない」、「実験のやり方の選択権を与えられなければならない」、「被験者をやめたい時にやめる自由が与えられなければならない」、「実験手順はまず初めに動物系で行われた上で十分理解されていなければならない」、「実験の目的が大きな医学知識を得ることであっても、そのやりかた被験者のためにもなるものでなければならない」などと規制した。遺伝子治療の試みも、こうした「道徳的・科学的基準」に従うべきだとした(T.フリードマン『遺伝子治療』134頁)。
「遺伝子治療の将来の見込み」は、「これ以上特に新しい倫理的問題を何も提起していない」が、「遺伝子操作は他の非外科的治療より、もっと取り返しのきかないもの」だから、「普通以上の注意が実験計画に払われ」、「他の医学実験と同様に科学的厳密さの必要性と臨床的緊急性が注意深く検討されなければな」らないということになる(T.フリードマン『遺伝子治療』134−5頁)。
B 遺伝子治療の展開
@ アメリカの遺伝子治療
以下では、前記1982年バンベリー会議以降の遺伝子治療の展開を考察する。
a 遺伝子治療に対する二立場
遺伝子治療の展開 1980年「米国の宗教団体」要請に基づいて、1982年11月に『スプライシング・ライフ』(Splicing
Life、生命のつなぎ合わせ)という大統領委員会報告書が出された。これは、「遺伝子治療、人間の遺伝子を操作するということで最初に皆が思ったのは、これはフランケンシュタインを作ってしまうのではないか、そういう危険性が言われた」のだが、「冷静に考えてみると、生殖細胞(精子、卵子)の遺伝子・・を操作するということであればそれは非常に危険な遺伝子改変」だが、細胞を「遺伝子を使って治療するというのは、特別な倫理的な難しい基準はないというような結論を出」したのである。その結果、「これは世界的に納得する議論」となり、「これ以降遺伝子治療は大変進ん」(島田隆発言[厚生労働省大臣官房厚生科学課「第1回遺伝子治療臨床研究に関する指針の見直しに関する専門委員会議事録」2013年6月4日])でゆくことになる。
1984年には議会技術評価局から「『遺伝子治療』という報告書」が出された。両報告書は、@「基本的には、体細胞を対象にする限り」は従来の治療方針を継承してよいが、生殖細胞の遺伝的改変は止禁し、A遺伝子治療は人体実験だから、「これまでの人体実験の規制」に準拠することとした(1986年1月座談会「遺伝子治療ーその可能性を探る」での米本昌平氏発現[T.フリードマン『遺伝子治療』150頁]など)。
1986年、T.フリードマンは、『遺伝子治療』の「日本の読者へ」において、1982年バンベリー会議以降、「数年間」、「変異をもった遺伝子に直接手を加えることによって、人間の遺伝的な病気を治療しようという概念的に新しいやり方」が発達して、遺伝子治療は「理論的によく考えられ、技術的にも実行可能で実現性の高いものとなってき」たと書いた(T.フリードマン『遺伝子治療』140頁)。
こうして、1980年代半ばから、シカゴ・トリビューン紙記者ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナーは、「遺伝子治療の連載報道」に従事しつつ遺伝子治療の影響の功罪に注目した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー『遺伝子治療の誕生』8頁)。
ムリガンら批判派 しかし、この頃の米国遺伝子治療の「学派」は、相変わらず二つあって、リチャード・ムリガンら(東海岸)とフレンチ・アンダーソンやT.フリードマンら(西海岸)に代表され、バンベリー会議で試みられた「科学=分子生物学と応用=遺伝子医療」との調整は容易でなかったのである。
1980年、ムリガンは、MITで「レトロウィルスの一族を研究」していた腫瘍細胞学者ディビッド・バルチモアと共同研究を始めた。1983年、ムリガンは、「目的の遺伝子を抱え込み、増殖してくれるだけでなく、どのような遺伝子の並び方で取り入れたのかを彼に教えてくれる宅配屋」を見つけることをめざし、「SV40よりも更に優秀な運び屋を見つけ」た(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』91−2頁)。
そして、MITグループは、「先ずレトロウィルス(ベクター)からその有害な遺伝子を抜き出」す事、「その場所に自分達のの移植したい遺伝子を詰め込」み「任務完了と同時に死ぬ」という二つからなる遺伝子治療システムを構築した。「またたく間にこのシステムは、遺伝子治療に興味を抱いている世界中の研究室で取り上げられ」た。ムリガンの課題は、「遺伝病の多さ」と「この新しい治療方法が応用できるもの」の少なさという矛盾の解決であった。実際、「この新しい治療方法が使える疾患は、血液システムトその製造の中心地、骨髄による遺伝病」であり、「正常骨髄にレトロウィルスのベクターを使って正常な遺伝子を入れ、患者に戻」し、「新しい骨髄は骨格の中に入り、そこで新しい遺伝子を入れ、そこで新しい遺伝子のコロニイを作り、健康な血液細胞を生産」してくれるのである。「多くの場所に固定された組織、即ち、筋肉や肝臓、胚、脳のような器官を犯している病気の治療」には、「治療すべき細胞の数が厖大過ぎ、充分な数を治療できない」からであり、それに比べて、血液病では「ムリガンのベクターに乗った遺伝子が骨髄の造血幹細胞に入り、自由奔放、気ままに分裂してくれる」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』93−4頁)。
こうして、1980年代初め、遺伝子治療の研究分野は血液病に「厳しく制限」されていたが、「不治のヘモクロビン障害による疾患は3百余りもあり、理論的にはそのどれもが正当なDNAを挿入する事で、完治可能」となるので、「遺伝子治療医は先ず鎌状赤血球症、地中海貧血症などの血液病に鉾先が向けられ」、「先ずクロビンを造る遺伝子を患者の骨髄細胞を入れ、患者に戻せば、以後の作業を骨髄細胞がしてくれる」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』94−5頁)。
しかし、研究者は、@鎌状赤血球症では「ベータグロビンの遺伝子が突然変異し、遺伝記号がGTCであるべき所がGTGとなっており、ここがアミノ酸バリンで置き換えられ」、「574個の内の僅か1個のアミノ酸が間違っている」だけで「人間の生命を崩壊させ」、A地中海貧血症は、理論上は「患者の造血幹細胞へ正常な遺伝子を入れ、強制すればいい」のだが、実際には、遺伝子治療研究者は「試験管の中でも、完全なズボン(ヘモグロビンは「16番目の染色体」にあるアルファ鎖と「11番目の染色体」にあるベータ鎖で出来た立方体)が作れず」、かつ「幹細胞」と「血液および骨髄の中で漂っている、他の無数の血液細胞タイプのもの」との区別がつかず、研究規制で「散弾銃戦略」も用いられず、「遺伝子を挿入できな」かったのであり、B「幹細胞へ遺伝子を届けた後」でも、まだ「移植した遺伝子を細胞の中で長い期間一定量で存続させるのは、非常に困難」であり、1980年代半ばでは「遺伝子治療では多くの病気を直せない」と思われていた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』96−7頁)。
アンダーソンのような医者は「瀕死の患者」と向き合っているから「いきなり二段跳び」をするが、「基礎研究者」ムリガンは、「何故遺伝子が長く存続できないのか、原因の追求に没頭」した。ムリガンは、「手っ取り早く治療して、遺伝子治療の第一先駆者にな」ろうとはせずに、「ヘモグロビン不整に対する遺伝子の基礎研究」、「医療の基礎」研究を続けた。1984年半ば、ムリガンは「遺伝子宅配システムを完成していた」が、「血液病、その他の病気に対し敢えて何も手を出さなかった」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』97−8頁)。
その後、ムリガンは、MITのホワイトヘッド研究所(1984年設置)の遺伝子治療研究者、つまり「悪性腫瘍とウィルスの神秘を解明した」ディビッド・バルチモア、「癌遺伝子の研究」の世界的リーダーたるロバート・ウェインバーグ、「遺伝的に人間の疾患を植え込んだ実験動物を作る専門家」ルドルフ・ジェニシュ、「世界で最初に人間のゲノム地図を描き上げた第一人者」エリック・ランダ―らを束ねていた。ムリガンは、「25歳の時、遺伝子治療を技術的に可能なものにし、生きた細胞の遺伝子を組み入れるシステムを作り上げた最初の分子研究者」であった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』33頁)。
ムリガンは、科学を優先する「純粋な研究者で、気高き終身在職権をも」ち、アンダーソンとは遺伝子治療で「彼我の優劣を競い合い、支配的立場を得ようと、個人の場でも、印刷物でも互いに非難を繰り返して」いた。つまり、ムリガンは、医師として患者救済を優先する「フレンチ・アンダーソンの研究スタイルに最も批判的な立場」をとり、「明瞭な科学的根拠のある、正確で純正な遺伝子治療を主張」し、アンダーソンらに「彼の周囲で行なわれた最初の不純な遺伝子治療を、誇大広告のまがいもの」と批判していた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』34−5頁)。
ムリガンは、F.アンダーソンは「一般大衆に遺伝子治療の考えを受け入れさせた」が「技術的な面では・・何ら良い業績を残していない」し、遺伝子治療の安全さ如何も分かっていないのであり、「臨床的には一歩も先に進んでいない」と批判する。ムリガンの仲間のスチュワート・オーキンは「最初の遺伝子治療を『スタント技のようなもの』」と揶揄していたが、「アンダーソンのチームが治療を始めるや、これまで不治の病に悩んでいた多くの患者から、遺伝子治療を受けたいという申し出が殺到し」た(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』36頁)。
なお、後にムリガンは、スチュアート・オーキン(ハーバード大学医学部)とともに、ADA研究に従事しようとするが、彼らはアンダーソンとは違い、「アンダーソンのやり方に苛立ちを覚え」ていた。そして、オーキン、ムリガンは、「単に遺伝子とその特質を完全に理解し、しかる後に、人への応用を考え」ていただけで、「遺伝子治療の第一番手になろう」とは思っていなかった。1993年、「ムリガンが遂に遺伝子治療に踏み切った時、初めて彼等の倫理綱領を発表し」、これを境に、アンダーソンとの関係は、「恨み恨まれる関係」から「故意に満ちた対立するもの」、つまり、試験管内の細胞、マウス細胞に先にADA遺伝子をいれるかという「競争関係」に変わった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』131−2頁)。
アンダーソン、フリードマンら推進派 アメリカ東海岸ではムリガンら「遺伝子治療に反対する人間でむせ返」っていたのに対して、「切羽詰まった患者の家族が多」い西海岸では「この治療を行なえという断固とした声が上がっていた」。1980年代半ば、「レッシュ/ナイハン症候群(「子供の生化学的不整によるものの中で、最も複雑にして不可解な病気」)が最初に遺伝子治療の対象になる病気と広く思われるようになった」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』99−102頁)。
フリードマンは「自分こそが全西海岸の遺伝子学を、その細い双肩で担っている」と過信し、一方、「東部のフレンチ・アンダーソン、リチャード・ムリガン」らは「血液病のグロビン遺伝子に対する研究規制で足踏みしてい」た。西部のフリードマンとレッシュ/ナイハン(ウィリアム・ナイハンはカリフォルニア医師、マイケル・レッシュは「ナイハンの医学生徒」)は、東部研究者の「裏をかき、治療遺伝子をどの器官に向けるべきかの問題の取り組んでいた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』102頁)。
我々は全員が「正常なレッシュ/ナイハン遺伝子を、百兆個もある細胞の総てに持」ち、それは、「体のあらゆる所で活動」して、「家政婦遺伝子とも呼ばれ」、HGPRT(Hはヒポキサン、Gはグアニン、PRはホスホリボシル、Tは移転酵素のトランスファラーゼ)として知られている。「我々が持つ百兆個の細胞の一つ一つが、ある種のHGPRTを生産している」が、これが不足すると「不溶生の脂肪が溜り、それが関節炎や腎臓病の原因とな」り、HGPRTが脳に「殆ど存在しな」くなると、「知的障害、全身麻痺、、凶暴な行動」を惹起する(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』102頁)。「生化学的不整が脳を犯し、肉体的障害と自己破壊を引き起こす」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』109頁)。
レッシュとナイハンは、既に1960年代から通風などの研究に従事し、2年以上、「通常の通風患者の十倍の量」の尿酸を出す患者の少年兄弟に「ありとあらゆる医学、遺伝子学、生化学の知識を使って治療を試み」、『アメリカン・ジャーナル・オブ・メデシン』1964年4月号に「新しい病気」「レッシュ/ナイハン症候群」として公表した。すると、世界中から同様患者の報告が寄せられ、「遺伝は母から伝えられ」「男性だけが発病」することが分かった。1960年代に、ナイハンは、東部のジョンホプキンス大学から西海岸のカリフォルニア大学サンデイエゴ校に移り、1969年小児科部長になる。そして、研究者は、「マウスとヒトの染色体を取り出し、それらを生化学の秘技を使い、強制的に結婚(接合)させ、ハイブリッド(混成)細胞を作る手法」を案出し、この細胞が分裂する時に、「マウスの全染色体と一個のヒト染色体を残すが、他のヒトDNAを総て追い出す傾向があ」り、「研究者は、この傾向を利用し、ヒトDNAからHGPRT遺伝子だけを取り出せるようにした」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』110−115頁)。
1984年、フリードマンのチームは、「インダ―・ベルマのレトロウィルスを使い、健康なHGPRT遺伝子を新しい細胞へ運び入れる事に成功」し、次いで、「マウスから骨髄を取り、それにヒトのHGPRT遺伝子を感染させ、それをマウスに戻せば、マウスはヒト遺伝子でヒトHGPRTを作り出せる事になる」。これは、「ウィルスをベクター年て使い、マウスの骨髄にヒト遺伝子の挿入を成功させた、最初の偉業」であり、「遺伝子治療研究の初期に果たした、最も重要な実験の一つ」である(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』116頁)。
1985年、レッシュ、ナイハンらは「人間の骨髄にHGPRT遺伝子を移植できるウィルスを、設計できるようにな」り、UCSDチーム(フリードマン)も「培養基の中」だけだが、体から取り出しても自己補充でき「遺伝子的に修理でき、元に戻すのできる唯一の物質」である骨髄に「研究を絞った」。後者研究を進めて行けば、「やがてレッシュ/ナイハン症候群の患者から骨髄サンプルを取り、そこに遺伝子を挿入し、患者に戻すという過程に繋がって行く」見込みがある(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』116頁)。
こうしてレッシュ/ナイハン症候群の原因(「総ての細胞にHGPRT酵素が無くなった時に起こり、レッシュ/ナイハン症候群患者の凶暴な振舞い、精神遅滞、麻痺は、正常な脳の作用が乱される事」による)は分かったが、脳を解剖しても「脳に欠陥がない」のであった。ナイハンのチームは、「脳が原因でない事は、多分この病気は永久的なものではな」く、「科学者が患者の体に新鮮なHGPRT遺伝子を入れることができれば、この新しい遺伝子が彼等の代謝作用を安定させ、病気を直してくれるかもしれない」のである。だが、「この見方もそう単純なものではな」く、「レッシュ/ナイハン症候群の問題は尿酸自体ではな」かったが、ナイハンは、「患者の少年に新鮮なHGPRT遺伝子を与える方法が発見されれば、神経系の『出来事』が何であれ、それを抑えられるかも知れない」と信じていた。こうした考えは、「特に東海岸のライバルの間に思わぬ批判を巻き起こし」、東海岸研究者も「骨髄に遺伝子を注入する事」は試みていることであり、「西海岸の奴等は、どのように新しい遺伝子を脳まで送り込もうとしているのか」と問題視するのである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』116−118頁)。
1980年代中頃、遺伝子組換え研究者十数人が、「骨髄と血液細胞に新しい遺伝子を入れようと努力」していたが、脳に新遺伝子を入れようとしても、「血脳関門(BBB)という器官」が新遺伝子を異物として侵入を阻止するから、「体の欠陥を治療できる薬も、脳には全く効果がな」く、しかも「脳細胞は一度小成長するや増殖」しないから、仮に「一つの脳細胞に遺伝子物質を注入できても、それが通常の細胞分裂のように他の細胞へ広がらない」のである。こうしたレッシュ/ナイハン症候群などの「大きな問題点」は、「その原因となる生化学のメカニズムが分かっていない事」であり、これについては、テッド・フリードマンも、「中枢神経系の病気は、本当は肝臓障害が原因になっている事が多い」が、「脳の欠陥がどんな性格のものであるのかも分からない」としていた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』118頁)。
ナイハンとフリードマンは、「PKU(ヘルニルケトン尿症という小児遺伝病)をレッシュ/ナイハン症候群と関連づけて研究し」、ナイハンは、「PKUと同じ治療法が、レッシュ/ナイハン症候群にも応用できる」と体感し、「HGPRTの遺伝子は、遺伝子学の研究全般にとって有用」であり「この酵素を研究している人は他の酵素の研究者よりも、私の知る限り一番多い」とし、フリードマンは「レッシュ/ナイハン症候群は、遺伝子治療に適したモデル」であり「生化学的に見ても、HGPRT酵素は大変有効」とした。そして、二人は「レッシュ/ナイハン症候群患者の骨髄細胞を直す事ができれば、脳がその話を聞く可能性もある」とした。そこで、二人は「レッシュ/ナイハン症候群の患者に骨髄移植を試み」ようとした(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』119頁)。
1985年、ナイハンは患者に骨髄移植を試みた所、「当初の間、患者の造血システムは、注入された通常のHGPRT遺伝子を維持していた」が、「この病気に屡々起こる結石」になり、結局患者には「永続的な変化」をもたらさず、ナイハンは「脳の欠陥の本質が解明されるまで、骨髄移植は何らの解決策にもならない」事を知らされた。しかし、ナイハンは、「患者の症状が現れない前」の「生後二週間以内なら」に、HGPRTを与えれば、治せるかもしれないと見て、そして「もしその原因が脳にあると分かれば、将来、遺伝子治療技術が取って代わるかも知れない」とした。1993年、ナイハンは、「この症候群が、家族の中に一人でもいれば、胎児診断でその危険性を告げる事ができ、家族は中絶を選べる」としたが、患者を見つけることはできなかった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』120−122頁)。
b ADA欠損症治療ー最初の遺伝子治療
(ィ) アンダーソンらのADA欠損症治療の選択
アンダーソンらのADA欠損症治療の選択 「レッシュ/ナイハン症候群の治療は、誕生したばかりの遺伝子治療の技術では、とても手に負えないというニュース」は遺伝子治療研究者に衝撃を与えたが、「遺伝子治療が罵声を浴びて忘れ去られる事なく、これからも尊敬と信用を得て生き延びて行くためには、治療モデルとなる他の病気を捜す事だった」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』123−4頁)。それがアデノシン・デアミナーゼ(ADA)欠損症であった。
「レッシュ/ナイハン症候群と同様、ADA欠損症は非常に稀な病気」で、「ADA欠損症の原因は明確に分かっていない」。「20番目の染色体に載っている遺伝子の一つ」は、「骨髄へ、いかにアデノシン・デアミナーゼという酵素を作るかの、その製法を知らせる」ものである。「この酵素の仕事は、細胞が出すデオキシアデノシンという老廃物を、無害な物質イノシンに変える事であ」り、「もしここで老廃物の無害化ができなければ、我々はデオキシアデノシンという有害な物質に犯されて死んでしまう」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』126−7頁)のである。
「色々な遺伝子に突然変異が起こり、必要な酵素のいくつかが、充分に作り出せなくなったり、時として全く作れない事も起きる」。「極く極く僅かなミスも、細胞分裂で一兆倍に拡大されると、彼女たちの体は必要不可欠な蛋白質を充分に作れず、有害なデオキシアデノシンを中和できないという結果に陥ってしまう」と、「ミスで作られた酵素は、体の中にある燐と化合して三燐酸塩デオキシアデノシンという物質」になり、T細胞(免疫細胞、特に免疫白血球の主体)には「致命的な有毒物質」となり、「T細胞は体に外敵が侵入してきた時、警報ベルを鳴らし、免疫システムに外敵を食う細胞と抗体の出動を促す」が、{ADA欠損症の子はこのシステムのスイッチが切られ」、「外敵からの防衛力を奪ってしまう」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』128頁)のである。
フレンチ・アンダーソンは、マイクロインジェクションで挫折した後、「遺伝子治療の発展に対して寄与する事もなく、ただ参入の機会を伺」い、このADA欠損症の研究で「再起」を図ろうとした。1984年初め、アンダーソンは、『サイエンス』誌に、「遺伝子治療の最初の対象は、彼がそれまで長い間先駆者となっていた免疫不全症であろうと予測し」、既に病因遺伝子「特にアデノシン・デアミナーゼ(ADA)欠損症が第一番目の者であろう」とも書いた。この時、リチャード・ムリガンは、「それまで長い時間をかけて追求してきたレトロウィルスが、ベクターとして使用可能な状態にまで教育できた事を分子生物学界に報告していた」事もあり、アンダ−ソンはこれに触発されたのであった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』129−130頁)。
アンダーソンは、「ADA遺伝子のクローンが欲しい」と研究所などに打診したが、どこも受諾せず、友人ハットン(シンシナテイ大学)だけが遺伝子を分けてくれることになり、こうしてアンダーソン研究室も「ADAに参加することになった」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』131頁)。
「レッシュ/ナイハン症候群と違い、ADA欠損症は問題なく骨髄を通じて治療ができる」事は初めから分かっていたから、「ADA欠損症は遺伝子治療にとって、極めて魅力的な疾患モデル」であったのである。ADA欠損症では、「患者の免疫システムに提供者の完全な免疫システムを譲り渡せる」のであり、「ドナーの造血幹細胞は患者の体に入ると、そこで数を増やして患者の体全体を健康な血液細胞で包み込み、それぞれの造血幹細胞は、ADA酵素を作る二つの正常な遺伝子を含んでおり、それから分裂した細胞も同じ健康な遺伝子を受け継」ぎ、「こうして次々と生まれたT細胞が有害物質を中和し、病気の治療にあたってくれる」のである。しかし、「非合致の骨髄移植は現在でも高い死亡率を生み出し」、「骨髄移植は費用のかかる、つらい、時として危険なもの」である。「遺伝子治療医が直面している乗り越えられない問題は、ドナーの骨髄に含まれる造血幹細胞が完全なものであるかどうかを、今の化学では判定できない事である」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』132−4頁)。
当時のADA欠損症遺伝子治療のやり方 1984年、「ADA欠損症の遺伝子治療には、造血幹細胞を捕らえ、そこに正常なADAの遺伝子を届けなければならない」が、「当時のやり方は、あたかも広い太平洋に漂っている幽霊船に、郵便物を届けるのに似てい」て、「造血幹細胞は未だ生理学上の幻影であった」。「この芽生えたばかりの治療技術にとって・・倫理規制に引っ掛かる事がないADA欠損症は、最適の治療対象と見られるようになっていた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』135頁)。
1985年、ビートリース・ミンツ(フォックス・チェース・癌センター)は、「遺伝的にT細胞に欠陥のあるマウスの胎児を作り、それに健康なT細胞を移植してこれを治療」し、「忍耐強く移植するT細胞の数を少しずつ減らして行き、遂に僅か一個の健康な造血幹細胞でも、良い血液を作り出せる事を発見した」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』134−5頁)。
1985年末、マイケル・ハーシュフィールド(小児科医で生化学者)は、「ADA酵素をワックスの被膜で包み、摩滅から守る方法」を発明し、PGE(ポリエチレン・グリコール)ADAとして知られる事になった。ハーシュフィールドは「PGE−ADAは総てのT細胞を活性化させるらしく、人工透析と同じように血液を正常化する」が、「これは僅か30日で半減するので、毎週注射しなければならない」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』138頁)とする。
1988年、アーヴィング・ワイズマン(スタンフォード大学の病理学者)らは、「マウスの造血幹細胞を突き止めるのに成功」し、1989年には「ミンツのマウスに使った方法を人に応用するのにほぼ成功」し、「失望感に打ちのめされていた骨髄遺伝子治療の全分野に、カンフル剤を打ち込んだ」。1991年、ワイズマンは、「ヒト造血幹細胞を、純粋な形で取り出した」と意気揚々と報告した。1994年には、彼は、「その複製を生み出せるまでの偉業を樹立」し、「この分野の発展に大きな基礎を築いた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』135頁)。
1988年8月、PGE−ADA治療が開始された。当初患者は免疫不全症と診断され、毎月免疫グロブリンを注射していたが、規則的にこれを注射していないと、・・免疫力ゼロの体に戻ってしまう」のである。その少女がPGE−ADA治療によって「毎日生存記録を更新」しているが、やがて成長に伴って胸腺機能が衰えてゆくと、「PGE−ADAの助けだけでは不充分な日がやって来」て、「遺伝子治療こそが理想的な解決法」となる。もともとPGE−ADA治療には、「子供に応じて薬効に相違があり、費用がかかるし、注射が痛いという諸問題をも」ち、ADA欠損症患者を治療する多くの医者は「遺伝子治療こそが理想的な解決法であるという点で、一致していた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』138−140頁)のである。
アンダーソンのADA欠損症治療着手 1986年12月、デューク大学が、「ADA欠損症の子供をPGE−ADAで治療し、成功した」というニュースが流れる。これを聞いて、アンダーソンはチーム全員に、「このまま遺伝子治療の研究を続けるべきか否か」を問うと、「殆どが継続に賛成した」のである。アンダーソンは、「データを本当によく知っている」仲間にのみ「患者が自分の子供であったら、この治療法を施すか」と問うと、3分2が躊躇を表明したので、「実験を一度は断念」したが、「免疫不全患者の家族」は「何が何でもやってくれ」と要請してきたので、患者に「何もしなくても、彼等はどのみち死ぬ」と思い始め、迷いつつもADA欠損治療に従事する事にしたのであった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』159頁)。
キャシィ(小児科外科医、アンダーソン妻)の紹介したウィスコット/アルドリッチ症候群(「X染色体の不全が原因」で男子だけに発病する、慢性湿疹、白血病、血小板減少症などを伴う遺伝病)研究者マイク・ブレーズ(NIHノ小児科医)はアンダーソンに、「T細胞生物学のAからZまで説明し、ADA欠損症の遺伝子治療の手順を協力して確立する事」を約束した。エリ・ギルボア(プリンストン大学)は、アンダーソンを「レトロウィルス・遺伝子治療の良き指導者」とみた。このアンダーソン・チーム(NIHグループ)は、「一年のたたぬうちに・・オーキン、ムリガンのボストン・グループが達成した領域にまで辿り着いた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』143−4頁)。
ボストンでは、「ムリガン/オーキンのチームがADA遺伝子を切断し、ウィルスに載せ、あらゆる手段を講じてマウスのシステムに遺伝子を届けるべく、この問題解決に専念し」、一方、「NIHのアンダーソン/ブレーズのチームは、人の治療にマウスでの研究は余り役に立たないものと決め」ていた。本来なら、「先ず、組織培養からマウスへ、次いで霊長類へ、その後、人間へ」という手順となるが、アンダーソン/ブレーズのチームは途中手順を省こうとした。NIHグループは、「マウスで失敗したにも拘わらず」、「動物にはADA欠損症のモデルがなく、唯一の方法は患者を使」わざるを得ないと主張し始め、マウス実験を放棄し類人猿実験に着手した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』147−8頁)。
1987年、ニュージャージーの生化学ベンチャー企業会長ウォーレス・スタインバーグはアンダーソンに遺伝子治療会社ジェネティック・セラピイ社(GTI)社長に就任することを打診したが、アンダーソンはこれを断った。1987年秋、アンダーソンはGTI(1987年7月資本金250万ドルで設立)と契約を結び、「GTIが総てのリスクを負い、総てのプロジェクトが将来(生む可能性のある)利益」を独占するというものだった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』151−3頁)。
アンダーソン・チームは、「骨髄サンプルを猿から取った後」に、放射線で「体内に残った骨髄を完全に殺し」た後に、「レトロウィルス・ベクターのSAX」を運び屋としてヒトADA遺伝子」を猿の造血細胞に至らせようとしたが、4匹のサルは死亡し、10匹の猿からADAが消え、「悲惨な結果」となった。「猿は猿としての独自のADA遺伝子を持ち、独自の蛋白質を作り、初めから人間のような病気にはならない」ために、「ヒトADA遺伝子を移植しても、選択的有利要因(健康な有利細胞が増殖成長し、病気の細胞は死んでゆく)が猿の細胞にはない」のであった。「猿は自分のADAを充分持っているので、人間のADAを必要としない」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』155−9頁)。
1987年4月24日、アンダーソンはRACにのヒト遺伝子治療分科委員会に500頁の書類を提出した。アンダーソンは、「不明瞭な計画書をRACに出し」、「大きな試練を迎える事」になった。彼は、「遺伝子治療を自分のやるべき領域」と考え、RAC実力者ウィリアム・ガートランドに、競争相手15人(ムリガン、オーキン、フリードマン、ハワード・チミン、マイケル・ハーシフィールドなど)にも計画書を送るように要請した。「殆ど」がアンダーソンの計画書には「否定的」であり、一人を除きほぼ全員が「未だ時期尚早」とした。しかも、『ネイチャー』誌は、「アンダーソンの猿での実験結果の発表を拒否」した。これは、アンダーソンら「誇り高いNIHチーム」には「ボデイブローに等しい痛手」であった。後に、臨床医学誌が掲載して、「アンダーソンのメンツはようやく保たれた」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』159−160頁)。
1987年12月7日、分科委員会の会合では、全員が「アンダーソンの遺伝子治療」に反対した。しかし、アンダーソンは、ガートランドに、「私たちは識者達が寄せている憂慮に同意」するが、「骨髄移植もPGE−ADAも失敗した時、・・死に直面した患者を前にして、生命を救える可能性を秘めた遺伝子治療の実験を、否定する事が倫理的といえる」かと問題提起した。しかし、RACの委員は一人も「アンダーソンの遺伝子治療に賛成する委員」はいなかった。アンダーソンは、「猿での研究を中止し、研究室から逃げ出し」た(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』161頁)。
フレンチ・アンダーソンは、1980年代末には患者三人の治療を担当して、「急速に遺伝子治療の陰の牽引車」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』141頁)となりつつあった。
(ロ) NIHのTIL実験
NIH遺伝子治療チームの結成 NIHチームメンバーのケン・カルパー、ブレーズは、成果のない「気紛れな造血幹細胞」ではなく、末梢的な「T細胞」(Tリンパ球)に着目し、方向転換した。しかし、アンダーソンは「造血幹細胞に固執してい」て、これは「遺伝子治療ではない」と批判して、こうしたブレーズの方法を受け入れなかった。だが、彼は、チームが「試験管の中で病気のT細胞を、健康にした」報告に興奮し始めた。ブレーズは、定期的な遺伝子注入法は、糖尿病患者のインスリン注射、地中海貧血症のデスフェラル注射と同じであるとしたが、アンダーソンは、「真の永久治療を追求しているムリガン」ら競争相手の批判を気にして、「研究室で成功したからと言って、臨床実験をしなければ、患者に有効だとは言い切れない」としたが、遂にブレーズの説得を受け入れた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』167−170頁)。
ブレーズは、同じNCI研究者で、「T細胞を癌の治療剤」にしようとしてきた癌研究者スチーブ・ローゼンバーグを加えようとし、アンダーソンはこれに同意し、1988年3月17日にローゼンバーグに会った。ローゼンバーグは「遺伝子治療におけるレトロウィルス」に関心を持ち、アンダーソンは「ロゼンバーグの秘蔵っ子TILs(殺菌細胞)」に興味を示し、両者の合体が検討された。つまり、「遺伝子的に調教されたレトロウィルスに、抗生物質ネオマイシンに抵抗力を持つように組換えられたバクテリアの遺伝子を載せ」、「このウィルスをTILsと共に培養すれば、ウィルスは動き回っているTILsの細胞の染色体へ、自分の担いで来た遺伝子をばら撒いてくれる」ということになる。二人は、一時間もたたぬうちに、「最初の遺伝子治療の全体計画」をまとめ上げた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』170−183頁)。
ここにNIH内部でアンダーソン、ブレーズ、ローゼンバーグの遺伝子治療チームが結成されたのである。彼らは、この遺伝子治療計画の「安全性と効能」について、@既に培養してあったTILsの中から「あらゆる血液細胞に働きかける力がある」「T細胞の集合した部分を抜き取」り、「患者への投与前にこれを使って安全性、純粋性、機能性を調べ」、A次に「これに潰瘍と闘う遺伝子を載せて直接潰瘍へ運ばせる」と明らかにした。これは、「健康な細胞をも総て殺してしまうこれまでの治療法と異なる」ものであった。この計画は、「遺伝子研究者にはカルチャー・ショック」だったが、癌研究者には「まだやってなかったのか」(ブレーズ)というものだった。アンダーソンは、「この遺伝子治療は、一度やれば遺伝子が永久に体内に定着してくれ」るし、「この遺伝子が何も直してくれなくとも、TILsが治してくれ」るのである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』183−5頁)。
TIL実験の申請書 1988年6月10日、「このTIL実験の申請書」(@「研究機関の一般レベルと生物安全委員会で検討され」、A次に遺伝子治療が「RACのヒト遺伝子治療分科会で討議された後、RAC本部での認可を待」ち、B最後に「NIHとFDA[食品医薬品局]の理事会で最終検討される」)が「NIHの検討委員会へ正式に提出された」。「殆どの者」は、「遺伝子治療の臨床実験は、ADA欠損症のような免疫不全の遺伝病で行なわれ、癌ではない」とし、さらこれは「診断法であって、治療法ではない」とした。1988年7月29日、ヒト遺伝子治療分科会(ムリガンら)でこれが検討され、「アンダーソンに、実験の安全性に更なるデータを出せ」と要求した。アンダーソン、ローゼンバーグらは「二つの重要な資料」は未完成としてださなかったため、ムリガンは、「患者の体内に入った遺伝子の運び屋のレトロウィルスが、そこで複製をつくらないという実証があるのか、その証拠を出せ」と要求してきたので、アンダーソンは動物実験では「ウィルスの姿は見えず、複製もされなかった」スライドを提出した。だが、ムリガンら分科会はあくまで「スライドではなく、はっきりした研究データを出せ」と要求した。ムリガンは、「アンダーソンの手法は危険なウィルスを充分に探知できるほど、精密なものではない」と批判し、自分が作ったベクターは「アンダーソンやローゼンバーグが使おうとしているものより安全性が高い」と主張した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』185−8頁)。
アンダーソンは、ムリガンのベクターを使いたかったが、それが困難なので、ダスティ・ミラー(フレッド・ハッチンソン癌研究センター)の作ったベクターを使うことにして、分科会には「マウスの白血病ウィルスの遺伝子を全く含まないものにした」と説明した。しかし、分科会は安全性に満足せず、1988年7月29日に分科会は全会一致でこれを否決した。これに対して、アンダーソンは「RACの聴聞会の開催」を要求した。1988年10月3日、RAC会議で、アンダーソンは質問に答え、ローゼンバーグは「この実験の必要性」を説明した。アンダーソンが「安全性についての最新データ」を説明し、ブレーズが「効能」を説明したが、ムリガン、マックアイヴァ―は「このデータは不充分」と批判した。休憩時間に一委員がアンダーソンに「何でそんなに実験を急ぐのか」と問うと、アンダーソンは「後数週間の命を生き長らえている患者に質問されると良い」と答えた。患者の救済という医者の責務である。会議が再開すると、委員は次々と「この計画に条件付きで賛成」しだし、遂に「この分科会のベテラン委員」たるディビス(ハーバード大学の微生物学者)も「この治療実験を真剣に望んでいる患者は、失敗しても失うものは何もない。死が分かっている以上のリスクがどこにあるのか」と、賛同し始めた。弁護士ドナルド・カーナーは、余命90日以内の患者10人に「この治療法を充分理解させ、その合意を得る事」を条件に実験承認のサインをした。この分科会での患者救済優先のもとに、RACは16対5で「実験を承認」した。数日後、アンダーソン、ブレーズ、ロゼンバーグの三研究室には百人の研究員が集まって祝賀パーティを開いたという。そして、ムリガンもアンダーソンに、「最新のレトロウィルスを送り届けて」きて、「対立していた遺伝子治療の両巨頭の関係を和らげるもの」となった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』189−193頁)。
申請容認と患者選定 NIHの要請で「15人の専門家が監視員として選ばれ」、その後「RACの全員25人に電話での聞き取り調査」をしてほとんどから「安全であるとの回答」を得た。しかし、遺伝子工学の「見張り役」を自認する弁護士リフケンのみは、実験可否は電話で決めることではなく、「総て公聴会で決せられるべき」と批判して、「事件阻止の裁判」を起こした。1989年5月16日、NIHはリフケンに「今後は総て公聴会デ決せられるべきもの」と同意したことから、リフケンは訴訟を取り下げ、「人間の体内に異物の遺伝子をいれるという、世界最初の実験であり、この実験によって、ヒト遺伝子治療工学の新しい時代が、今や開かれようとしている」と実験を称賛した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』194頁)。
1989年3月13日、NIHは、余命三ヵ月で、「TIL治療にぴったりの患者(TIL治療は「脳の腫瘍を攻撃できない」ので、脳に癌が転移していないこと)」を見つけた。3月20日、患者は腫瘍を摘出され、3月24日に帰宅した。4月26日「最初の治療」がなされ、5月13日「充分に回復し、帰宅」した。その後の治療の説明の際、NIHの医師たちは患者に「遺伝子治療の事を話し、この治療法はこれまで施した事のないもの」と話した所、患者の快諾を得た。5月20日にTIL治療の認可が出て、5月21日、「第二回目のTIL治療」がなされ、「TIL細胞を注入」した。アンダーソンは」患者に、「マーカーの遺伝子がTILsの後を追いかけ、・・(患者の)潰瘍に集まり、そこで狼の首に付けた電波発振器のように存在場所を教え」ると話した。他に二人の患者がいたが、彼等はTIL治療を辞退していた。彼の治療と同じ頃、「国立癌研究所の末期癌患者10人の内、7人がTIL治療を受けてい」て、「総ての患者が副作用もなく、マーカー遺伝子を受け入れ」、「遺伝子的に変えられたレトロウィルスは、設計されたように着実に自分の役目を果たし」、「彼等は充分な数の遺伝子を運び込み、そして突然動きを止め、次に注入する細胞が入り込む余地を作ってくれていた」。しかも、「マーカー遺伝子を乗せたTILsは、三か月後でも生き残っているのが、超感度のテストで探知でき」、「遺伝子のあるものは新居を構えて生活し」、「異質の遺伝子が、安全に人間に移植された事を示していた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』194−210頁)。
アンダーソンとローゼンバーグが、この一年間の実験で知り得た事は、@「TILsは三週間、血流中に探知でき、その後、忽然と消える。これは消えて無くなるのではなく、潰瘍を取り出して細胞を培養すれば、そこにTILsが存在しているのが分かる。彼等が記憶を持った細胞として漂い、一旦潰瘍が成長すれば、そこに集まってくる」ということ、A免疫細胞が優勢な下では潰瘍にはTILsはほとんど発見できない事であった。「このTILsの最初の実験は、癌と人間の免疫システムの神秘を明るみに出し」、五人の患者には「TIL治療は効果がな」く、十人の患者総ては「一人として九十日以上生き長らえ」ることはなかった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』211頁)。
(ハ) RACの第一回ヒト遺伝子治療分科会(1990年3月30日)
アシロマ会議再現 ブレーズ主唱、アンダーソン、カルパー、ローゼンバーグ賛同で、「ヒトのアデノシン・デアミナーゼ(ADA)遺伝子を使って形質導入された自家組織を用いた、ADA欠損症に起因する極度の複合免疫不全症(SCID)の治療」に着手した。1990年3月30日、ベセスダのNIHで「RACのヒト遺伝子治療分科会の歴史的な会合」が開かれ、アンダーソン、ローゼンバーグ、ブレーズは「RACのヒト遺伝子治療分科会」に「患者を50人に拡大し続行させて貰いたい」と請願した。分科会は12時で30分延長できるが、RAC会議は延長なく午後1時から始まる(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』212−238頁)。
「RACの分科会委員16人が、縦幅6mもある大きな楕円形のテーブルに着くと、光景はかつてのアシロマ―での遺伝子組換え論争の再現を思わせ」、「聴衆は固唾を飲んでこれを見守っていた」。「大きな障害はPEG−ADAとの問題」であり、「これを毎週投与すればADA欠損症の子供の命を救える、奇跡の薬と評されてい」て、ADA患者は遺伝子治療に適していたとしても、「この薬で充分に生存でき」るとい問題があるのである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』213−4頁)。
治療実験方法 この遺伝子治療の実験は、上記の「一日に4千億個の培養T細胞」を注入する点滴治療と違って、「最初に変異させたマウスの遺伝子を持ったレトロウィルスに、ヒトADA遺伝子を刻んで入れ」、次いで「NIHで患者の子供から採血が行われ、この中のT細胞をこのウィルスに接触させ」、ここで「ADA遺伝子の乗り入れがT細胞に完全に行われたのを確認した後、このインタールーキンー2(IL−2)と一週間混ぜ合わせて置」き、その後「更に一週間これを育てると、T細胞の80%が、健康なADA遺伝子に満ち溢れたものとな」り、「これを数回に分けて毎月一回、患者の体に戻してゆく」という方法であり、注入量は「僅か1%」に過ぎないのである。この遺伝子治療実験の「真の目的」は、「注入された細胞が新しい人体環境に耐えられるのか、その期間新しい遺伝子が生存できるのか、試験管で充分成功した細胞が、人体という選択的利点を生かす事が「できるのかを、見極めることであった」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』214−5頁)。
「注入された健全なT細胞」が「補充を繰り返しながら、正常な免疫システムとして機能」して、「正常な免疫が保てるよう」なれば、「次第にPEG−ADAの量を減らしていく」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』216頁)。このNIH治療提案は、「患者とその家族はこのNIHへ20回以上も通う事にな」り、故に既に「効果的なPEG−ADAを毎週注射されている子供にとっては、これは長く、かつ不必要な治療に思えた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』217頁)のであった。
アンダーソンとハーシフイールドの対立 これに対して、RACは、「実績ある改良PEG−ADAによる治療」か「未知の遺伝子による治療」か、判断を求められた。アンダーソンは「遺伝子治療の利点」を「子供たちを完治するため」と主張した。報道が「遺伝子治療の可能性に興奮している反面に、PEG−ADAを軽視していた事」(「サイエンス誌や、ニューヨーク・タイムズ紙でさえ、この救命新薬による治療についての報道を無視」し効用を軽視していた)もあって、このRAC分科会では「研究者間の互いの敵意を表す場」となった。新聞などは、「遺伝子治療のみが、致死的免疫不全の子供に希望を与えるもの」と明るく報道した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』217−8頁)。
以上の捉え方は不正確であり、「PRG−ADAは、この遺伝子治療計画の中に重要な位置を占め」、「致命的有害物の処理の処置をこの薬の能力に頼らなければ、NIHチームが病気の子供からT細胞を抜き取り、それを正常化させている間は、全くT細胞を作れない状態に陥る」から、RACはこの分科会に専門家を招き、「この薬の真髄についての答えが必要であった」のであるが、実際には「ミスターPEG−ADA」と言われたハーシフィールド(デューク大学)を除いて、こう考える者はいなかった。NIH内では、「ハーシフィールドが、この薬を否定させないために、NIHの実験計画を転覆しようと目論んでいる」という噂がかけめぐった。前々から、ハーシフィールドは、「遺伝子治療チームからの接触も誘いもなく、まして彼のPEG−ADAのデータを見たいとの要請もなく、彼の自尊心は傷付けられ、怒りに燃えていた」のである。この薬で「致命的な病気」であるADA欠損症患者の子供が「正常な生活」が送れているのである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』219−9頁)。
アンダーソンは、ハーシフィールドに醸される「不穏な空気」に対処するために、「分科会への対応準備を完璧に整えていた」のである。彼は、ローゼンバーグとともに、戦略として、「知らぬ内に今や大きなものに育ってしまった遺伝子治療を、・・ADA欠損症ではなく、単なる『癌治療研究の前段階』という形で切り出す事にしていた」。開会と同時に、アンダーソンは登壇して、「遺伝子にマークを付けたTILs実験の歴史を、スライドを使って簡潔に説明し、『時間はかかったが、着実にデータを取った』と結論」した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』220頁)。
ロゼンバーグの主張 次に、ロゼンバーグが登壇して、「前回の最初の六人の患者の結果をありのまま正直に報告し」、「今回の遺伝子にマークを付けた実験には、少なくとも50人の患者を許可して貰いたい」と要請した。そして、彼は、「官僚による単なる規制を取り払い、分科会は患者数の制限をこの場で無くせ」と要求し、「このRACの会議が四カ月毎に一度開かれる間に、15万人が癌で死んでいる」と、RAC会議を批判した。さらに、ローゼンバーグは、「関連機関への事前通知、官報での公示、種々の委員会への説明」などのために「臨床実験で、癌治療の重要な手がかりを我々がつかんでも、それを患者に施すのに一年はかかってしまう」と、規制を批判した。彼は、「時間のかかる承認手続きの代りに、癌治療医はRACからの白紙委任状が欲しい」と主張した。最後に、彼は、研究室では既に、「TNFという『制癌作用を持った潰瘍壊死因子』の遺伝子」を「TILSに挿入済み」で、「これらのTILsが『大量のTNF]を作り出している』」と言明した。会場は、既に遺伝子療法でも「癌を爆死させる薬」ができていることに驚愕した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』221頁)。
ローゼンバーグは、「これまでのように癌遺伝子治療の考えに固執」せずに、TNF(免疫システムが作り出す潰瘍壊死因子))による「正確な癌の(遺伝子)療法を提案」したのである。彼は、一カ月以内にTNFを使った「癌への遺伝子治療」を提案するので、「RACの承認を待たずに行いたい」と発言した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』221−3頁)。
しかし、「RACの官僚主義が多くの癌患者を死なせている」というローゼンバーグのRAC批判戦略は、「遥か以前から、遺伝子組み換えの乱用から公衆を守」って来た諮問委員会に通じなかった。しかし、彼は、スライドでTIL細胞で患者の潰瘍が消えて行く過程を示すと、「分科委員会の委員」を驚愕させた。彼は、「遺伝子を改造し、その効果を数倍に高める性質を持たせたものを作り出し、それを使うのが彼の希望である」と説明した。さらに、彼は、「この治療に反応を示した患者からTILsを抽出して調べれば、どれだけの数の特殊な細胞(「癌を殺すTIL細胞」)が体内にあれば、抗癌活動ができるのか、それを見究めたい」とした。彼は、「マーカー遺伝子を使って患者の潰瘍を撰び出させ、そこにTILを集めて抗潰瘍活動をさせ」ると、概要を説明した。もし「より頭の良いTIL細胞を作り、患者に戻す事も可能かも知れない」のであり、「これが成功すれば、ローゼンバーグが20年来追求して来た、究極の生物学的治療が誕生する事になる」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』223−5頁)。
分科会の疑問 このローゼンバーグ発表に対して、分科会の委員は「疑問を抱」き、まずケリー(ペンシルヴァニア大学)は、「正確にどれだけのTILsが腫瘍に辿り着いたのか」、「どの期間、体の中で生存したのか」、「辿り着かなかったTILsはどうなったのか」などを質問した。だが、ローゼンバーグは「いい質問」というだけで、応えるのを避けた。すると、ケリーは、「癌を殺すのに本当に重要なものは何なのですか」と尋ねた。ローゼンバーグは、「TILsがTNFと他の物質を作るのは知ってい」るが、「正確にどのような機能を持っているのか、分かりません」と答えた。ケリーは、「単にどの期間、患者の体にTILsが生存しているかでなく、TILsが何をしているのかを、科学的に解明してくれれば、それは我々に大いなる『助け』となる」とし、「TILsは体のどこかに迷い込み、何%が実際に潰瘍に到達するのか」と尋ねた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』226−7頁)。
ローゼンバーグは、「非常に少ないパーセンテージ」とした。ケリーは、「そんな少ない数のTILsが、潰瘍に何を起こしているのか」と尋ねた。彼は、「科学者は『病気』を治療するが、医師は『患者』を治療する」と見て、科学者ケリーと医師ローゼンバーグとの相違を痛感した。ローゼンバーグにとっては、「患者にはTILsが時として効力を発揮」したのであり、「効くものは効く」と言いたいのである。しかし、最後には、ローゼンバーグは、「潰瘍に辿り着くTILsは、注入した総量の極く僅かなものである」と認めた。そして、彼はケリーに、「動物実験でも、そうした根本的な質問に答えが出せなかったし、成果がなかった」と答えた。ローゼンバーグは、「いかなる運び屋のベクターを使っても、マーカー遺伝子を一貫した方法でマウスのTILsに挿入できなかった」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』227頁)。
これを受けて、委員マックアイヴァ―(ミネソタ大学の遺伝学者)は「TILsが本当に潰瘍を攻撃しているという証拠を握っていますか」と追及した。彼は、「TILsが偶然そこに集まった」に過ぎず、「多分TILsが潰瘍を通り抜けようとして、そこで偶然力尽きてしまったに過ぎない」と言った。彼は、「スライドがあるなしに拘らず、科学的な視点から、実験は何も確かなものを明らかにしていない」とまで断定した。こうしたケリーやマックアイヴァ―の指摘で、アンダーソンらのチームは茫然自失した。アンダーソンは、「TILsのあるものが潰瘍に集まり、患者の中にはそれで病状が良くなった患者がいる」とだけしか答えられなかった。ここで、「事態は元に戻って、再びTIL試験を承認すべきか否かに議論が集中」しだした(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』228−9頁)。
ここで、ムリガン(MIT)は、「この実験を科学の進歩を傷つけるもの」とみていて、「データは、この会議の直前に急いで集められたような、乱雑で非科学的なもの」に思えた。彼は、「先ず科学者によるパネルを結成し、先のTIL試験の安全性に関する安全性の総てを調査し、メラノーマ患者の中で実際に起こった事を、しっかり理解させろ」と提案した。これに対して、アンダーソンは、「安全性のデータは、FDAとNIHの審査委員会で検査済みです。分科会の下に更に分科会を作り、総ての臨床データを調査するのは、研究者に取って耐え難い重荷にな」ると反駁した。しかし、ローゼンバーグは、「安全性の再審査を歓迎」すると、これに賛同した。ここで、ヘンリー・ミラー(この会議のFGA代表)は、アンダーソンに味方して、「FDAはTIL試験の総ての動きを厳格にモニターして来たし、安全性のデータは『極めて印象的』だ」とし、「ローゼンバーグの意図は更に多くの患者を治療したいと願っているもので、『我々は賛成票を投じて、この試験を推し進めるべきだ』」と主張した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』229−231頁)。
分科会議長ウォルターは、午後のRAC会議再開までの三時間で「ムリガンと数名のエキスパートに分厚い患者のデータに目を通して貰いたい」と提案した所、ムリガンは分科会の下の分科会で熟考すべきだとしてこれに反対した。ウォルターは、「分科会の下の分科会の提案を、投票で決めること」を提案し、11対5で「ムリガンの提案は否決」された。午前最後の課題として、「患者の数の制限を撤廃すべきか否か」が二時間議論され、16人全員一致で制限撤廃が決まった。これについては、ムリガン、ケリーは、「ローゼンバーグの治療を受けたいと願う患者を、誰が阻止できようか」として、賛成した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』231頁)。
アンダーソンの反撃 昼食後、分科会では、RAC会議の開催までの40分で「ADAの遺伝子治療」の提案がなされた。アンダーソンは、「彼のキャリアをかけた最も重大なプレゼンテーション」を始めた。彼は、1985年から「どんなにADA欠損症患者へ、遺伝子治療を使いたいか」について話し始め、「かつての古いデータを取り出し、これらを『予行演習』とよび、種々の『考慮すべき点』を検討したものである」とした。この考慮すべきものとは、「RACのガイドライン」であり、これは1985年に「あるグループが遺伝子治療の認可を願い出た時に、作られたもの」である。RACガイドラインは、@研究者が「細胞や生きた動物を使っての研究結果で、遺伝子治療に進める」としても。、「それが患者を苦しめるものでなく、患者を救うものなのか」、A「遺伝子治療を受けた親から生まれた子供に、組換えられた遺伝子が受け継がれるのか、治療患者と接触した人がウィルスに感染しないか」を説明する義務があるというものである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』232頁)。
アンダーソンは、1985年にRACメンバーになって「憂慮すべき点を作成した中心人物の一となり、1987年4月に「遺伝子治療の臨床前の『予行演習』を提出した」。1990年、「実際の遺伝子治療を行ない、まさに有終の美を飾ろうとしていた」。しかし、「臨床前の実験で、アンダーソンはマウスにも、類人猿にも、遺伝子をその骨髄幹細胞に入れられず、失敗したのを彼自身も認め」、その後「彼のチームは一歩下がって、やり直す事にした」のである。つまり、彼は分科会に、「安打を狙い、細胞にマーカーとして遺伝子『即ち、TILs』を入れ、それを取り出して研究」し、対象を「インフォームド・コンセントのできる成人の末期癌患者のボランティア」としたのである。しかし、アンダーソンは、この分科会では、「ローゼンバーグによって引き起こされた遺伝子治療に対する大きな反響、ブレーズの天才的なT細胞戦略、カルパーの研究室における才知、TIL実験の安全性の問題、PEG−ADAの使用」については言及しなかった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』233−4頁)。
ブレーズの加勢 次に、ブレーズが立ち上がって、「今回の試験は、前回の重い遺伝病への遺伝子治療を狙ったものとは、一線を画すもの」とし、「新しい遺伝子には、多分限られた生存時間しかなく、その宿主のT細胞が死ぬと同時に死ぬ」と言った。ブレーズは、自分のチームは、ADA欠損症患者に対して、@「新しく導入した遺伝子は生化学的に欠陥のある細胞を矯正する事ができるのか」、A「移植した細胞は動物の中で生存でき、かつ発現できるのか」、B「治療方法は患者がそのリスクを受け入れられるレベルのものなのか」、C「これは一般市民の健康にリスクを与えないという証拠があるのか」の4項目について実験するとした。しかし、彼は、「PEG−ADAの効力」では「誰一人として免疫が正常になったとは考えられず、彼等は一生を通して流行病感染、悪性の病原体感染、癌のリスクを負っている」とした。しかも、このPEG−ADAの蓋は一人当たり年間6万ドルと大きく、故に、彼は、「PEG−ADAを補助に使い、健康な遺伝子(T細胞)の注入と共にこの薬を順次減らして行く予定である」と説明した。だが、「成熟したT細胞は僅か数ヵ月の命しかなく、定期的な注入を死ぬまで続け」る必要があった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』234−6頁)。
しかし、この注入細胞が免疫記憶細胞に生まれ変われば、「子供の免疫は永久に再建」され、「病気は完治」できるが、「それには人間の患者にこの治療を試みなければ、これは実証できない」とすのである。最後に、ブレーズは、カルパーの実験(ADA欠損症の子供に、T細胞にADA遺伝子を組み込み生き長らえている事)を説明して、「この治療法は安全である」と締めくくったのである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』236−7頁)。
終了時間が迫ってきたので、委員は、ブレーズへの質問を打ち切り、PEG−ADA研究者のハーシフィールドに「免疫反応に関して、どんなデータがありますか」と、質問しだした。彼は、ブレーズの実験計画書を読んでいなかったから、PEG−ADA治療とT細胞治療との連関が分からず、「ここでPEG−ADAの臨床経験を分科会がとやかく言うのは、不公平だ」と不満を漏らした所で、ブレーズが「患者の子供たちは、自分の細胞を体に戻しているだけ」と発言した。ハーシフィールドとブレーズの間に研究疎通ができておらず、ADA欠損症患者の延命がPEG−ADA治療によるのか、T細胞によるのか、一致していない。ブレーズは、「この薬(PEG−ADA)が充分な効果を上げているとは思えず」としたが、「ハーシフィールドのデータはこの薬が非常に効果的だとしていた」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』239頁)。
この問題の核心は、過去のADAは注入しても効果なかったが、「ADAをPEGというカプセルで包んだ事で、ハーフライフ(衰え始める前の盛りの時期)を一週間にする事でき」るが、「遺伝子を変えたT細胞(リンパ球の一種)はいつまで生きていられるのか」ということである。ケリーは「リンパ球がADA蛋白質を充分発現できる」という証拠をみせてほしいといった。ブレーズは、「人体実験のみが、この答えを出せるもの」とし、「新しいリンパ球の僅か1%がADAを発現すれば、子供を治療できる」と答えた。論点がかみ合わず、アンダーソンは「この回での承認を諦め、委員が何を基準にした物差しを使うのかを知り、次回での承認を期待している」ようになった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』241頁)。
次に、ロバートソン・パークマン(UCLA、「遺伝子治療のターゲットをレッシュ/ナイハン症候群に置き、大きな力を及ぼした一人であったが、失敗し、今はADA欠損症にも冷たい目を向けていた」)は、「NIHチームが仮説を支持する動物データはどこにあるのか」、「特に遺伝子治療で細胞核の中のADA発現が、PEG−ADA治療で血流中のADA発現よりも高い事を示す、肝心なデータは何処にあるのか」と質問した。NIH側はこれに「丁重にうなずいた」が、ムリガンは、実験計画書には「PEG−ADAの事は全く書かれて」おらず、「他の委員がハーシフィ―ルド(PEG−ADA研究者)の意見を尊重しなかった」事に疑問を持ち、「なぜこの治療法が必要なのか」、「なぜPEG−ADAより良いと言えるのか」と質問した。彼は、アンダーソン、ブレーズは、不充分なデータを「正しい」と思い込ませ、「リンパ球」培養やPEG−ADA治療を「不正確に伝えて」いると見ていた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』242−4頁)。
午後12時半、「分科会は何も決定せず」、議長ウォルターがブレーズ、アンダーソンに「PEG−ADAがどれほどの効果があるか」など「委員からの質問に回答してくるように」言って、「アンダーソンたちの戦略勝ち」で終わった。次回会合は1990年7月末から6月1日に早まった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』245頁)。
(ニ) RACの第二回ヒト遺伝子治療分科会(1990年6月1日)を中心に
1990年6月1日第二回分科会が開催された(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』247頁)。
ボーデノンとの関係 イタリア・ミラノのラファエル科学研究所のクラウデオ・ボーデノンは、PEG−ADA治療でADA欠損症の少年を生き長らえさせ、少年から「抜き取り、遺伝子操作ができるに充分なT細胞を作」っていたので、「このニュースが流れるやすぐに、彼は大西洋を越えたアンダーソン/ブレーズの救援軍に引きずり込まれ」る事になった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』248頁)。
NIHが、1990年3月の「痛手」から立ち直ろうとしていた頃、アンダーソンらのもとに「ボーデノンの実験成果」が届いた。アンダーソン、ブレーズは、「ボーデノンのデータが、RACの分科会を印象づける」と見ていた。ブレーズは「実験成果をファックスで」送ってくれとボーデノンに電話して、ボーデノンが送ってくると、今度はアンダーソンはボーデノンに「分科会への出席を依頼」した。ボーデノンの渡米を妨害する者もいて、ブレーズは、渡米してくれれば、イタリア遺伝子治療の推進に協力すると申し出た。「世界の遺伝子治療学会」は「その動きを見守っていた」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』251−2頁)。
PEG−ADA治療との関係 NIHチームは、「RACから要求された追加データの作成に明け暮れていた」が、「RACの委員から出された倫理の面からの要求」には屈服し、第三段階で「遺伝子治療の効果を見るために」、ADA欠損症患者の子供をPEG−ADAから引き離す事を断念した。しかし、アンダーソンは、「3月30日のミーティング以来、チームはハーシフィールド(PEG−ADAの権威)に依存すべきではないと決め」ていた。チームは、オハイオ州の二人は遺伝子治療に「適当な患者」であり、6月分科会では「患者の概要」だけを述べた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』252−5頁)。
ローゼンバーグの挑戦 ローゼンバーグは、「カルパーの助けを得ながら、研究室で潰瘍を浸潤させたリンパ球、潰瘍壊死因子(TNF)遺伝子を細胞に挿入しようと苦闘し」、マイケル・クレイグラー(セタス社のTNF専門家)に協力を求め、1990年4月に「TILsが(治療に充分な量の)TNFを分泌している」という「良い知らせ」を電話で受けた。彼は、これに促されて、「6月の分科会に癌の遺伝子治療計画を提出する」と発表した。しかし、「たちまち多くの問題点を指摘され、6月のRACもミーティングの討議の対象にしなかった」し、「最初の関門であるNIHの安全性委員会の公聴会で、全員一致で否決され」、「まだまだ多くの動物実験のデータを集める」事を要求された(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』256−7頁)。
ローゼンバーグが「ジェネテック・セラピィ社(GTI、アンダーソンの会社)でなく、セタス社に協力を要請した」ので、「ADAチームに警戒心を起こさせ」たのである。アンダーソンとブレーズは、「廊下を数十メートル歩いてアンダーソンに頼めば、GTIからLASNのベクターがすぐ手に入るのに」、「なぜローゼンバーグはセタス社からウィルス・ベクターの供給を受けるのか」と疑問に抱いた。アンダーソンは、「数万ドルの金がセタスに行くという問題以上に、もしローゼンバーグの実験が成功すれば、癌治療の生物工学会社としてセタスの名声が絡んでくる」と見ていた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』258頁)。
ローゼンバーグは、ADAチームと「競い合う事で創造的な考えが生まれる」とし、「熾烈な競争が引き起こされた」のである。その結果、1990年6月1日の第二回のRAC分科会で、NIHチームは「不安を憶え」て、内部分裂してゆく。アンダーソンは、「ボーデノンの研究結果を引き合いに出し、PEG−ADAの投与回数を増やせば、遺伝子治療よりも効果的かも知れない」と言うと、ブレーズは、「これまでの研究では、PEG−ADAの投与では、子供の免疫反応は変わらないと繰り返し反論し」たり、「もし投与回数を増やせば、・・拒否反応がいつ出て来るのか、それを予知できる手立てはない」とした。ここで、ウォルターが委員に、「実験計画の第三段階を破棄し、最初の二段階までを審議して欲しい」と提案したが、これは「子供たちは何も失うものはなく・・PEG−ADAの投与を受け続ける」という事を意味した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』258−9頁)。
アンダーソン遺伝子治療の承認 午後の会議で、アンダーソンは、「実験の安全性について触れ、いかなるレトロウィルスのベクターも染色体の間違った所に辿り着き、癌を引き起こす可能性は否定できない」が、「猿での実験でこの事は起き」ず、「この点に関しては分科会から異論はでなかった」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』263頁)のである。
ブレーズは、「遺伝子治療の効能について更に印象付けよう」として「ボーデノンの業績」を述べ、「ボーデノンのデータとNIHの計画書の中のデータの差は「極く僅か」とした。この辺りから、「委員たちのチームに対する態度は、決定的に暖かいもの」になった。委員の数少ない遺伝子治療賛成派のチャールズ・エブスタイン(遺伝子学者、「遺伝子操作をしたマウスを作るエキスパート」、「ダウン症の原因である第21の染色体上の遺伝子」研究者)は、条件付きで1990年5月29日提出「実験計画書」承認するという動議を提出した。これによって、アンダーソンのチームは、ようやく「数年間に及ぶ準備の末、トンネルの先に明かりが見えて来た」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』263−5頁)のである。
ウォルターは、「ヒト遺伝子治療分科会としての賛成を投票に付す」事を命じ、14人全員(ムリガンは欠席)が賛成した。「最終的な承認はこの後になされる」が、ここに「ヒト遺伝子治療が誕生した」のである。アンダーソンは、次のRAC分科会を10月7日分科会ではなく、7月30日分科会に早めることを要請し、ウォルターはこれに同意した。7月30日の会合は、「ボーデノンをゲストに迎え、ムリガンも出席」し、「ADA実験計画の小さな綻びを縫い合わせるだけのもの」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』265−7頁)となった。
「この頃には遺伝子治療に皆の関心が集まり」、「遺伝子治療時代が到来したとの機運はRACの非科学者の委員の間にも、特にこれ以外に望みを託せない患者の両親の間にも大きく広がって行った」。ムリガンは、「CD−4(ヘルパー・リンパ球)とCD−8(キラー・リンパ球)の比率」(当初は41%と33%であったが、培養45日後にはCD−8キラー細胞は僅か1%に減少)を問題視したが、ADA遺伝子治療計画は12対1で承認された(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』261頁、267頁)。
(ホ) 世界最初の遺伝子治療(1990年9月14日)
患者候補 1990年8月初め、アンダーソン、ブレーズ、カルパー三人は、「最初の患者候補」2少女を決めた。担当医メル・バーガーは、「今や画期的な遺伝子技術の発展で、ADA欠損症も直せ、将来は嚢胞性線維症や鎌状赤血球症など、他の病気も直せるようになる可能性を秘めている」とした。マスコミは大きく報道し、患者の家までおしかけた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』268−9頁)。
「NIHではブレーズとカルパーが、精力的に二少女の血液サンプルをテスト、再テストし」、実験を成功させるために「より健康な子」、具体的にはより「TILsに酷似した白血球を多量に注入」するので肺機能のいい子を選ぼうとし、アシャンシ(4才,Ashanthi
DeSilva )が選ばれた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』269ー270頁)。
1990年9月4日アシャンシがNIHに到着し、翌日採血され、「世界で最初の遺伝子治療」が動き出した。一方、FDAは、「チームの提出した分厚い書類」を調査して質問書を出したが、その回答が簡略過ぎると批判し、「23項目の追加質問」をした。アンダーソン、ブレーズ、カルパーは、徹夜して回答書を作成し、翌週12日にFDAは承認したのであった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』270−3頁)。
最初の治療 9月14日金曜日、「最初の治療日」であった。「血液バンク、集中治療室、放射線科、臨床試験室、安全審査室など」百人近くの人が治療に従事した。正午、小児科集中治療室で「世界最初の遺伝子治療」が始まった。午後1時20分、「T細胞の濃縮液の総て」が患者少女の体中に入っていった。以後、「数ヵ月にわたる点滴が続」き、「その度に、T細胞の数を増量し、これまで誰も踏み込んだ事のない領域へ入って行く」のである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』273−284頁)。
こうして、1990年にアメリカで「最初のアデノシン・デアミナーゼ(ADA)欠損症に対する治療」が行われたのである(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』192頁、中川晋作「遺伝子治療」[平成25年5月17日講演])。これが公式に遺伝子治療の臨床の始まりとされたのである(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』84−5頁)。
1990年には、アンダーソンは、専門学会誌『ヒト遺伝子治療』を発刊し、編集長に就任し、これを「この新分野の有力誌」にしていった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』160頁)。
ローゼンバーグの離脱 アンダーソン、ブレーズ、ローゼンバーグ三人は「各自のエゴを抑え」て、遺伝子治療の共通目的に向かって協力してきたが、次第に各自のエゴが顕在化し、ローゼンバーグは、「癌という大きな世界でアンダーソンやブレーズを追い抜こうと活動し始めた」。既に1990年夏、ADAグループは、「RACが、ローゼンバーグのTNF実験計画をすぐに承認した事」、ローゼンバーグが数十万ドルで「ある出版社と自叙伝の執筆契約を交わし」た事などに「震撼」していた。一方、マスコミは、アンダーソンのみ「遺伝子治療の精神的指導者」として取り上げ、ブレーズwp軽視していた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』286−8頁)。
シカゴ遺伝子国際会議 1990年9月、世界最初の遺伝子治療が行われた一方、シカゴで「世界の指導的な人工受精婦人科医や遺伝子学舎250人」が「着床前の遺伝子学」(「精子と卵子が合体する前にその遺伝子を取捨選択し、遺伝的に欠陥のある子供を再生産しないようにするために、そして最終的には人間のクローンを作り出す」事に関する遺伝子学)という最初の国際会議が開かれた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』289頁)。
アーサー・バンク(コロンビア大学、遺伝子学)は、NIH遺伝子治療を紹介して、「遺伝子治療の未来は明るくなった」とし、「遺伝子操作の実際的方法に触れ、しばらくは遺伝子治療の賛美を続け」たが、親友アンダーソンの治療は「彼の野望」から発したもので、「未熟」であり、「科学的、または良き医療という観点」からなされたものではないと批判した。スチュワート・オーキン(ハーバート医科大学、小児科医)は「ムリガン協力者」であり、マスコミには「ADA実験は確実に失敗する」とし、「この分野の研究者の大部分は、人間へ施す前に、もっと多くの類人猿での研究を重ねるべき」だとした。リポーターがムリガン(MIT)に電話すると、ムリガンは「この実験は正に科学の恥」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』290−1頁)と批判した。
アンダーソンは、オーキン、ムリガン批判は受け流したが、親友バンクの批判は頂点にあった名声・栄光を「背後からグサッと刺」したものであった。やがてアンダーソン批判が落ち着くと、アンダーソンが「権威あるアルバート・P・ラスカー賞」候補になり、ブレーズがアンダーソンの名誉独占に不満を持ち始めた。ブレーズにすれば、自分が「アンダーソンの骨髄幹細胞の執着から、T細胞へ転換」をさせたのであり、あくまで今回の遺伝子治療は二人の共同作業であった。結局アンダーソンが候補者から外されてブレーズの「怒りは収まった」が、アンダーソンのみが評価される事には不満は残った(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』292ー3頁)。
遺伝子治療実験の第二幕 1991年1月29日、「遺伝子治療実験の第二陣」が始まり、ローゼンバーグは、「一人で29歳の女性と42歳の男性に、約1億個のTIL細胞(「この中の僅か約5%がTNFの遺伝子と、ネオマイシンに対する抵抗力をもっていた」)を点滴注射」した。ローゼンバーグは、「TNFが癌細胞に栄養を送り込んでいる血管を窒息させ、癌を殺してくれるものとの望みを、この実験に懸けている」と語った。この通りになれば、「この治療法は医学がこれまで望んでいた、最も精密で強力な癌の化学療法に門戸を開く事になる」のである。ローゼンバーグは、「これは数百万人と言われる癌患者に、遺伝子治療を初めて応用する」ものであり、今後「患者へ投与量を数ヵ月かけて順次増量して行き、安全性を確認し」、「その後に、この治療の効果を判定」すると説明した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』295−6頁)。
1991年2月1日、「ムラノーマの二人の転移患者」に第二回目の点滴で3億個を投与し、2月5日に二人に「第三回目のTIL/TNF細胞、約10億個が投与され」、いずれも、副作用はなかった。2月8日には、二人に30億個の細胞を投与した。その後、ローゼンバーグは、患者の一人(ロバート・アントリム)に二回のTILsを注入した所、5月2日注入以後は「潰瘍は再び増大」しだした。結局、癌細胞の繁殖を抑えることはできず、8月5日にこの患者は死去した。他方、もう一人の患者スーザンについては、「普通のTILs治療を受けて7ヵ月の間・・メラノーマは順調に小さくなっていった」が、「TIL/TNF遺伝子治療」に切り変えて一ヵ月後・・事態は悪変」し、結局「死にかけてしまった」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』297−8頁)。
三人目の患者(52歳女性)の場合、「大量の普通のTILs(3千億個の細胞)を・・大量のIL−2と共に注入して」何も効果がないと、前二者患者とは異なって、「遺伝子操作したTIL/TNF」を投与した所、「彼女の細胞は培養基でも、前の二人よりも遥かに良く成長し」、ローゼンバーグは「週に二回、その量を三倍にして治療を進める事ができた」のである。その後の治療で、「彼女の潰瘍は縮小を続け、完全消滅に向かっているように見えた」が、それがTILによるのか、TIL/TNFに拠るのかは分からなかった。1992年12月、NCI(国立癌研究所)の癌治療評価会議でこのTIL/TNF実験が取り上げられ、「成功であり継続すべきものとの証拠が充分あるとは言い難い」とされた。NCIは、「TIL/TNFは実際に潰瘍に集まって来るが、肝臓に入り込み、そこで蓄積され、患者を殺す事にならないか」と懸念していた。1992年10月、NCIの科学顧問会で、議長ロナルド・レヴィ(スタンフォード大学の血液学者)は、「臨床実験前に充分なデータを取らずして、こうした実験を続けるのは、未熟であり、かつ非科学的である」と、ローゼンバーグを批判した。「顧問会はローゼンバーグに実験中止を勧告し、彼は渋々これに従った」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』299−301頁)。
成功のデータ 反対派はアンダーソンの失敗を「確信」していたが、「データは成功を示し」、「総ての事実を総合判断しても、この最初の遺伝子治療は将来を約束」した。アンダーソン、ブレーズは、RACに「正常な人間が作る僅か1%が作り出せれば」アシャシンとシンディ(患者の二少女)を治癒できると明言して、「この実験の当初のゴールは、アシャシンとシンディに適量のADA酵素を作り出させる事」であった。「ADAの点から言えば、この実験は遥かに期待値以上の成果」があり、「アシャンシの細胞は正常人の生産量の20−25%を作り出し」、シンディは2%という「免疫を維持するに充分な量」を作り出した。そして、免疫実験でも効果を示したが、ブレーズ、カスパーは「この結果からだけでは、治療効果の結論を引き出すだけの能力がなかった」。やがて、ブレーズは、「PEG−ADAを中止して、遺伝子治療だけの効果を見たい」と言ったりして、遺伝子治療の効果判定に慎重であった。それに対して、アンダーソンは、「怯む事なく、この遺伝子治療は成功だ」と主張した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』308−313頁)。
一周年記念 1991年7月25日午後7時、NIHで、遺伝子治療関係者2百人を招待して、「遺伝子治療がRACから承認されて一年目」を祝う「盛大な式典」かれた。7月25日以後、アシャンシへの点滴が中止されると、「彼女のT細胞は1cc当たり1240個に下がり始め」「1300個近辺で安定」した。アンダーソンは、「この低下の緩慢さ、それに遺伝子治療実験前のような数に急降下しなかった」事に満足した。これによって、「アシャンシの治療再開を92年初めまで延ばし、その後の治療間隔をこれまでの6週間から13週間に広げた」のであった。シンディも、同様に「92年9月から中断して9ヵ月間、彼女は約1600個のT細胞を維持」した。ADAレベルについても、アシャンシは、遺伝子治療か、「長い間のPEG−ADA治療」か、或いは両者の相互作用によるのか、「高い値」を維持していた。カルパーは「これを遺伝子注入によるもので、PEGではない」としたが、「この問題の結論はだせなかった」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』314−9頁)。
アシャンシのその後については、コリンズは、@「正常なADA遺伝子を受け取った細胞は期待したほど長生きしなかったようだ」が、Aその後「彼女の病態に合う新薬が開発されたため、人道的な見地から彼女にもその薬が試され」、現在元気に回復している。この結果、「彼女への遺伝子治療そのものに効果があったのかどうかは不明」であるとする(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』312頁)。
幹細胞治療 1992年春、アンダーソンのチームは、「それまで数年語っていた、夢の幹細胞治療を行なう」と発表すると、「これまでの遺伝子を組換えたT細胞実験に対する議論が再沸騰した」。「1992年2月11日にRACから承認を受けた実行計画書」では、「チームが新しい技術と呼ぶものは、末梢血管に漂っている幹細胞を嗅ぎ付ける能力のある単一細胞の抗体(CD34)を使い、幹細胞を捕獲するチャンスを、大幅に改善したもの」であり、「直接幹細胞を目標として狙うもの」ではなかった。アンダーソン、ブレーズ、カルパーの戦略は、「患者から採血したCD34の群れに、ADA遺伝子を散弾銃のように打ちまくれば、充分な数の幹細胞にADA遺伝子が入り込め、患者の免疫システムを再生できる」というもので、「CD34治療はT細胞より優れているかもしれないが、これを幹細胞治療と呼ぶのは正確とは言え」ないとする(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』321頁)。
彼らは、「この幹細胞実験の最初の対象患者」を「遺伝子を変換したT細胞で満たされていた」アシャシンではなく、「T細胞はアシャンシよりもADA生産が遥かに少なかった」シンディにした。シンディの方が、CD34治療の効果(「ADA遺伝子の入ったT細胞が、それ以前からあったものか、幹細胞治療によるものか」)の判定が容易だったからである。シンディにおいて、「CD34治療の後でADAのレベルが急上昇すれば、これを幹細胞治療によるものと結論しても良さそう」だったのである。幹細胞実験では、米国では「ベクターの技術的問題で、実験開始は数ヵ月遅れる」事になったが、欧州が「NIHチームを追い抜きつつあった」。「イタリアではクラウデオ・ボーデノンが幹細胞を使い、二人の子供の治療を始め」、「フランスでは二人の子供が、英国では一人の子供がCD34を使っての治療に入っていて」、1993年5月から遺伝子治療にアメリカ以外の「多くの国」が参入し始めた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』321−2頁)。
1993年5月13日、シンディは、「CD34細胞治療を受けるために、NIHに入院」し、ブレーズらは「充分なCD34を採集」するために、「7リットルという大量の血」を採り、15日には「大量の遺伝子が組み換えられた幹細胞が、シンディの腕を通して・・送り込まれた」。同日に、西海岸でも幹細胞治療が始められていた。5月15日、ドナルド・コーン(ロスアンジェルス小児科病院、アンダーソン弟子)が「生後5日の新生児(羊水の遺伝子診断でADA欠損症と判明)に体細胞の遺伝子治療を施した」のであった。つまり、彼は、新生児に「ADA遺伝子をいれられた幹細胞」を注入したのである。5月18日、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の医師団が、新生児にこれと同じ治療を施していた。しかし、「時がたつにつれて、幹細胞治療に抱いていた当初の楽観的希望にも、陰りが出て来」て、両海岸の「子供たちの血流中の新しい遺伝子を持った細胞数を調べて見ると、・・その数が少なく、この治療法の効率の低さが実証された」。1994年7月、NIHのADAチームは、「この実験を中断して」、シンディにはT細胞治療に戻し、カ州の二乳児にはPEG−ADA治療が施され、「幹細胞への命中率を高めるための基礎研究」に入った。カルパーは、一二年かかるかもしれないが、我々が幹細胞治療を成功させるとした(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』322−4頁)。
(ヘ) アンダーソン「記念」シンポジウム
1992年秋、約10年前にバンベリー会議の開催されたコールド・スプリング・ハーバー研究所で、世界中から生物学者・遺伝学者3百人余を集めて、遺伝子治療の第一人者ウィリアム・フレンチ・アンダーソンの「研究成果を発表」すべく、二日間「遺伝子治療と呼ばれる、極めて異色の科学分野を開拓したことに敬意を表する」シンポジウムが開催された。「僅か3年前まで、この分野の研究は欺瞞とか、全くのジョークに過ぎないと陰口を叩かれ、これと真剣に取り組んでいる研究者たちは売名者のように見られていた」のである。アンダーソンは、シンポジウム冒頭で「半世紀を注ぎ込んで開拓した、新分野」をカラースライドを使って発表した(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー『遺伝子治療の誕生』13−5頁)。
この1992年秋、アンダーソンはNIHを辞任し、南カリフォルニア大学(USC)医学部と遺伝子治療研究所に転職した。ここで、アンダーソンは、20人の科学者・技術者を雇い入れ、GTI(Genetic Therapy Incorporation)の仕事もこなし、西海岸での「16件もの(遺伝子治療)臨床実験計画書の作成」に助言を与えた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』327ー9頁)。
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