富社会の権力統治策としての経済学
ー「経済学」は非富社会になく、富社会固有のもの
我々は、当然ながら、「経済学」は縄文時代になかったことを確認した。これごく当然のことだとは言え、この基礎的事実の確認の意味するところは大きいのである。
それは、「経済学」とは、富社会に固有のものであることを再確認させてくれるからである。「経済学」とは、例えば後述の通り封建社会の支配階級が統治策として「経世済民」(経済の語源)を推進したように、資産階級・権力者(経済的、政治的支配階級)が、資産、権力を維持するために案出したものであり、「賢人」らから批判されるようなものであったのである。また、その批判的産物として「新経済学」が提唱されることがあっても、根源的批判を行っていないので、実際には既存経済学の「装飾」にすぎず、「新経済学」の態をなしているものはほとんどないといってよい。因みに、マルクス経済学ですら、「社会主義国家の権力統治策」であった。
権力の統治策が学問たりえないのは、「財政学」にせよ「経済学」にせよ、いかなるものであるにせよ、権力統治を至上の目的として、国民の安寧幸福の実現などの大義名分をうたっていても、それは結局政治的、経済的支配階級の利益を最優先したものだからである。その結果、権力維持に不都合なことは研究しないばかりでなく、長期的解決策は根源的洞察にもとづかねばならないにも拘らず、短期的な目先の時務論に終始して、宇宙万物の真実を根源的に解き明かし得ないからにほかならない。そうなのである。既存経済学は、長期的には「人間の生きる自然」を破壊しつつも、短期的には「経済問題」に対処する頼もしい「実学」になるのである。後者が人々に「既存経済学の正体」を看破するのを困難にしている。政治家、権力者、御用学者はここにつけこみ、支配階級や有権者などのために「目先の問題」に終始し、真の学者はこれを見抜いて子孫のために長期的視野にたって「根源的・永遠的問題」の解明に腐心するのである。
富と権力という一大虚構=虚仮にかかわる「自称学問」、つまり「富(経済学、経営学、国際経済学、貿易、など)と権力(財政学、法律学、政治学、外交など)にかかわる自称学問」は、真の学問ではないのである。そこには、その担い手を学問的緊張のうちに根源的・総合的学問に立ち向かわせる内在的力などはないのである。その証拠にこれに携わる者どもの中から根源的・総合的学問の必要を提唱し、それを実践するものが何人いるであろうか。
では、根源的学問とはなにか。それは、自然、宇宙の事物の本質を根源的に追究する物理学=自然哲学、それと照応する仏教哲学からする研究である(委しくは拙稿「仏教経済学方法論」『駒沢・仏教経済学研究』平成19年、「物理学とと仏教」『同上』平成20年など参照)。物理学と仏教哲学とが科学的に照応し、共鳴しあうのは、いずれも宇宙・自然及びそれを構成する事物の本質(分子、原子、量子など)を根源的に掘り下げて究めようとするからである。この点を物理の側から捕捉すれば、@物理学は事物は極小のミクロからなる極大の宇宙を科学的(理論と実験など)に解明しようとするが、究極の所では「科学では説明しえない自然の叡智」に触れて、哲学世界に説明を求めざるを得なくなり、A故に自然の摂理に対して哲学的畏敬と宗教的敬虔さをもった物理学者のみが「偉大な業績」を人類に残しうるということ(ただし、そこに権力に悪用されぬ知恵の努力が伴わないと、人類に不幸にもたらすことになるが)などが指摘されよう。
この点、キリスト教はどうであろうか。キリスト教では、神が天地を創造し、神の判断が最高とされているから、基本的には科学とかかる宗教とは対立的であるといえよう。だが、ジョン・ポーキングホーン(物理学者から英国国教会司祭になった人物)は、「真理の探究という意味で、科学と宗教は従兄弟のように似ている。・・・科学と宗教は友好関係にある」(小野寺一清訳『科学者は神を信じられるか』講談社、2007年、156頁)と指摘する。彼は、「宇宙は神によって創られたのだから、これを理解することは価値があ」り、「創造はそれ自体、神聖なものではないのだから、詳細に調べることは何ら神に対する不敬にはならない」(34頁)とした。ここでは、物理学者の中には、神による天地創造を科学的研究を触発し、宇宙創造の奇跡に敬虔な念を抱かせるものととらえ、自然の摂理を創造者の摂理とみて、キリスト教との学問相補性を主張する見解もあることを触れておこう。
物理学の重要性に関して留意すべきことは、物理学は、宇宙、宇宙の一部たる地球・人間にある事実、真実を事物の本質(分子、原子、量子など)にまで掘り下げて解き明かしてくれるが、物理学者らは、その真実を見出すだけであり、彼ら自らが造り出すのでは決してないということである。造ったのは、或いは造っているのは、物理学者ではなく自然だということなのである。
さらに留意すべきことは、権力者・資産家(政治的・経済的支配階級)は、欲望の為に、その自然の真実を権力維持・資産拡大のために「悪用」しようとしていることである。その最たるものが、戦争への物理学応用などである。この自然摂理の悪用を抑止するものは、哲学、倫理である。仏教哲学もまたそうしたものの一つであるが、仏教哲学のみが根源的批判力になっているのは、仏教哲学もまた物理学と同様に宇宙、自然の摂理・法則・真実を根源的に解明したからであろう。特に仏教哲学は人間もまた自然の一部として人間考察を極めたのである。
この観点から見ても、「既存経済学」が宇宙・自然の哲理にのっとり、自然の摂理、真実を発見するものとは程遠いものであることが指摘されるのだが、以下、従来の「経済学」の欺瞞性、非学問性を改めて確認してみよう。
「経済学」の再検討
そこで、「新しい経済学」構築するための序論的な作業として、既存の経済学が、いかに「農富」時代に生まれ、どのように「工富」時代に展開していったのかを見ておこう。
第一 欧州における「経済学」の誕生
経済行為とは「最低限で人間の生命=生活維持と、文明の発展とともに文化活動のために必要な物質を所得する行為」とみれば、人類誕生と同時にあった。それは、倫理、宗教の成立の以前よりあったのである。
この経済行為は、生命科学、量子力学的には、大脳辺縁系の司る行為であり、基本的には「宇宙の分子配列の変化」があるのみで、新しい価値を生む創造的行為ではない。
日本生物物理学会編『生物物理の最前線』(講談社、2001年18頁以下)によると、@生物は「情報、物質、エネルギ−」の三つからできていること、A情報には遺伝情報(DNA分子[人は30億の塩基配列。物質をつくるための設計図)と「脳神経系の情報」(神経細胞の細胞膜で電気信号だ発生し、それが伝達)があり、B生物の物質は分子(DNAや蛋白質)で立体的に構成され、その分子は「炭素、水素、酸素、窒素など」の元素でできており、C地球上に生まれた生物は、エネルギ−を太陽から得ているが、エネルギ−は常に宇宙に流れ出て」ゆくものである。
そして、人間が「一日活動するために消費されるATP(アデノシン三リン酸。食物を分解してつくる化学結合のエンルギ−を利用してつくるエネルギ−物質。ミトコンドリアで製造)の総重量はほとんど体重と同じ」である。さらに、太陽エネルギ−は「地球の表面に滞在した後、宇宙空間へと放出」され、基本的にエネルギ−の流れの増減はない。
また、「生物を構成する物質はほとんど地球を離れて出ていくことは」なく、「生命の誕生以降無数の生物体が生まれ、死んでいき」、まさに「地球上の同じ原子を何回も使いまわして生きてきたことは間違い」ないのである。従って、物質においても基本的に増減はないことになる(質量不変の原則)。
最後に、「生物を作るための遺伝情報は地球上でどんどん湧き出してた」が、それはゲノム(遺伝子)塩基配列が変更しただけであって、基本的には増減はない。つまり、宇宙において、人間の生命維持活動は「情報、物質、エネルギ−」において不変であるということになろう。
こうして「生命現象は基本的に遺伝子とその産物の相互作用として説明可能」だが、なお「その背後に生命全体を流れるような原理が見つかる可能性」があるとする。
やがて、集中形態が家族から数家族、その数家族から共同体(部族、村、小国家、国家)が成立してくると、家族の生活経済、共同体の経済と、それぞれの部面で「経済行為」が成立してくる。
経済がまだ小さい段階では、経済は倫理、宗教に従属、規制されていたが、経済が大きくなるにつれて、経済の肥大化が見られ始め、「経済問題」も深刻化して、権力側は其れへの対処策として経済学を標榜してくる。
宗教が「信仰」を根幹としているのに対して、経済は「欲望」を根幹としており、宗教、倫理(大脳新皮質)が欲望(=大脳辺縁系)を規制している間は「経済の暴走」は抑えられていたが、宗教、倫理が「無力化」すると、「経済の暴走」が始まり、経済問題はますます深刻化してくる。
こうして、経済行為は原始古代からあったが、経済学は18世紀頃に発生したのであった。以下、この点に焦点を絞って見てゆこう。
1 自然社会の経済
クヌート・ボルヒャルトは、原始・古代の経済に関して、「人間生活の最初の痕跡は、五十万年から六十年前と見られる。何十万年もの間、原人・原始人・遂には完全に完成したホモ・サピエンスが、自然物採集者・狩猟人・漁労人として生活した。彼らは、自然が提供するものを取得した。時が経つにつれて、骨製・石製の武器製作といった若干の完成品と技術が開発されるようになったが、生活に必要なものは、まだ、土地耕作・原料加工によって得られたわけではなかった」(酒井昌美訳『ドイツ経済史入門』中央大学出版部、1988年)とした。
ルドルフ・シュタイナーは、「スズメたちの経済、ツバメたちの経済・・・それも一種の経済です。しかし、動物界の経済は人間の域に達することはありません。・・・『動物経済』の本質は、『自然は産品を提供し、個々の動物は、ただそれを受け取る』という点につきます」とした上で、「人間は動物的経済のなかを突き進んできましたが、そこから抜け出さなくてはなりません」(西川隆範訳『シュタイナー経済学講座 国民経済から世界経済へ』筑摩書房、1998年、19−20頁)とする。自然社会の経済の位置づけがまったくなされていないのである。
「経済学者」の「自然社会」の扱いはこの程度である。それは、そこには「単純な経済」、「動物に近い経済」しかないと錯覚したからである。ここで検討したようには、彼らは「自然社会」の自然採集経済の根源的・哲学的意義の考察を全く行わなかったのである。
2 古代哲学と経済
クヌート・ボルヒャルトは、「西暦前四千年から二千年にかけて、植物栽培・家畜飼育への移行が行なわれた。この移行は、すでに西暦前九千年に近東において達成され、そこからアジア・アフリカ・ヨーロッパへと拡まっていったのである。農業と家畜飼育への移行は、経済史における最初の<革命>である。さらに小規模な発達が無数になされたものの、この移行は産業革命にいたるまで、人間生活を規定したのである」(前掲書、3頁)と指摘した。
日本に即して言うならば、経済行為が、縄文時代の自然採集=移動から弥生時代以降の農業労働=定住に転換してゆくのである。
古代ギリシャにおいて、都市国家が成立して、戦争で捕虜にした者を奴隷にした。自営者は農業生産から農工生産・商業へと展開した。
雨宮健「古典期アテネの経済思想」(2004年12月の京都大学での高田保馬記念講演)によると、紀元前5、4世紀のギリシャ経済に関して、@アテネ経済は奴隷と外国人居住者によって支えられ、A穀物を輸入し、工業製品・銀を輸出し、「製造過程、市場、金融等の面において経済はかなり発達していた」とした。
だが、奴隷制経済には「経済‥発達」の可能性は低いと言うべきであり、結局、ギリシャは欧州資本主義の拠点とはなれなかった。
古代ギリシャでは、奴隷制経済のうえに商業、工業が展開し、奴隷主の経済行為は奴隷管理となり、奴隷は全ての時間を奴隷主に拘束され、自営者は一日の一定部分が「労働」として拘束されはじめた。
ヘラクレトス ヘラクレトス(501B.C〜)は、奴隷制に関して、「戦いが万物の父であり、万物の王なのだ。すなわちそれはあるものを神として示し、他のものを人間として示した。またあるものを奴隷となし、他のものを自由市民となした」(田中美知太郎『古代哲学史』204頁)と述べている。
そして、彼は、「万物は火の代りにあり、火は万物の代りにある。それはまさに貨物が黄金の代りにあり、黄金が貨物の代りにあるのと同じようなものだ」(215頁)と、生産力が低く貨幣と貨物は同じと見ている。
さらに、富に関しては、「富から諸君が見捨てられことのないように祈るよ、エペソスの諸君、つまり自分たちがやくざな人間だということを、それで思い知ることにもなるだろうからね」(226)と、資産増殖の不安定を指摘する。彼は、共同体成員の貧富差への懸念を表明した。奴隷制のもとで、絶えず転落の可能性を帯びつつ、資産家(奴隷制大農場経営者)が形成されたいたことを示している。
プラトン プラトン(紀元前427〜347年)の学問には経済学などはなかった。つまり、「プラトンは人間の‥精神能力によって学問を分類した。彼は我々の心の働きに、理性と感性と意志の三つを区別し、それぞれに対して弁証法、物理学、倫理学を配当した」(西田幾多郎『哲学概論』p47〜8)のである。
奴隷制農場などの経済は、とても学問対象とはなりえなかったのであろう。
アリストテレス また、アリストテレス(紀元前384〜322年)は、「学問の目的」を基準に、「理論の学と実践の学」にわけているが、やはり経済学は学問として扱われていない。これは充分に留意する必要がある。それは「こういう経済は学問の対象にはならない」ことを示唆しているかである。
ただ、周知の通り、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』(高田三郎訳、岩波文庫)では共同体内の分業経済に言及している。彼は、次の様に労力相応の対価=互酬的な「等価交換」を指摘するのである。
「比例的な対応給付が行なわれるのは対角線的な組み合わせによる。
Aは大工、Bは靴工、Cは家屋、Dは靴。
この場合、大工は靴工から靴工の所産を獲得し、それにたいする報償として自分は靴工に自分の所産を給付しなくてはならない。それゆえ、まず両者の所産のあいだに比例 にそくしての均等があたえられ、そのうえで取引の応報が行なわれることによって、い うところの事態ははじめて実現されるであろう。も しそうでないならば、取引は均等ではなく、維持されもしない」。
これに対する各人の解釈を検討してみよう。
玉野井氏は、「両者の所産のあいだの比例にそくしての均等」とは、「経済学における『市場価格』の概念とははるかに遠い」ものだとし、「アリストテレスの思考行程では、最高のフィリア(善意)の実現をめざす共同体の人間関係の身分または地位を前提してはじめて成立してはじめて成立した等式であった」(235頁)と解釈する。
ここでは、交換は「互酬性の行動の一部」(236頁)と考えられているのである。これは、我々が理解している「通俗的経済」とは大違いである。
ポラニ−は、アリストテレス価格論を次のように解釈している、
@「近代経済学者が市場における価格の形成の記述を目的としていたのに対して、そのような考えが、アリストテレスの考 えるところとはまったく無縁であった」事、
Aアリストテレスは、価格が設定されるべき公式を探すということとまったく無縁であった事、
Bアリストテレスの一連の思考には、交易の媒介手段としての市場が否定され、「市場の機能としての価格形成の否定、自給自足性にたいする寄与以外の交易のすべての機能の否定、市場で形成される価格が設定価格とちがわなければならない理由の否定、市場価格は当然変動するものとされる理由に否定、最後に市場経済の役割をはたし、したがって唯一の自然な交換比率とみなしうる特徴をもった価格を生み出す装置としての競争の否定、が含まれる」事、
C「そこではその代わりに、市場と交易が別々に分離した制度と考えられ」、
D「価格は習慣や法律や布告によって生み出されるものであり、もうけを生む交易は 不自然であり、設定価格は自然であり、価格の変動は望ましくないものであり、そし て自然な価格は、交換される財の非人格的な評価などではなくて、生産者の地位の相 互評価を表現するものである」事(玉野井ら訳『経済の文明史』219−22頁)。
以上の先学が的確に指摘しているように、アリストテレスの説く価格とは、利潤を取得するためのものではなく、共同体成員の生活に必要な物の自給自足的「物々交換」の目安である。我々が構築しようとしている仏教経済学の労働論、市場論、価格論には多いに参考になる。
アリストレスがこういう互酬的・互恵的交換を説いたのは、当時の共同体が市場生産、通商によって、貧富差拡大で、秩序を乱してきたからであろう。つまり、彼は「共同体秩序を乱す経済」を批判したのである。
だから、アリストテレスは、@家族、部族、都市国家など「コイノニアと呼ばれるあらゆる種類の精神共同体」のメンバ−は、成員の間の互酬行動(アンティペポントス)」として表現されるフィリア(善意の絆)によって結ばれている事、Aこの共同体は「経済の自立性」を特徴とし、基本物資が共同体の根底をなしている事などを指摘するのである。現実の矛盾にみちた共同体経済をふさわしいものに転換させようと主張したのである。
そして、アリストテレスは、「交易も共同体の存続に役立ち、経済の自立性を回復するのに役立つかぎりにおいて自然に合致する」ものとみなすのである。だから、「自己目的化した商業的交易」が非難の対象となる。
アリストテレスは、この共同体では「稀少性の原理」が作用することを否定し、「市場の商業的な交易を通して財を入手することが生活物資の獲得に金もうけの要素をもちこむ」とする(玉野井芳郎『エコノミ−とエコロジ−』239頁)。共同体の「経済行為」は、明らかに利潤、市場、商品の論理に貫かれたものではなく、共同体内生活を享受するために互恵的・互助的精神に基づいたものである。こうして、アリストテレスは人間欲望=利潤動機を規制して、共同体の経済は、「人間の欲望の無限性と財の一般的稀少性」という「今日の狭義の経済学の公準」とは異なるものとしたのである。
当時の共同体が市場経済で危機に直面していたから、彼はこうした共同体論を説いたのである。共同体の危機が、アリストテレスに「共同体経済論」を提唱させたとも言えるが、彼自身はこういうものは学問とは見なかったのである。アリストテレスにおいて経済は学問の対象にはならなかったということは、いかに強調してもし過ぎることはないのである。
それにも拘らず、こうした共同体のあり方をオイコノミコスといい、これが西欧のEconomicsの語源になったと言われることは注目されよう。ここで留意すべきことは、経済学の語源は、国家の統治ではなく、それの批判的精神を帯びた共同体内生活という「人間の生活」に発すものだったということである。
3 中世学問と経済学
中世でも、経済学はまだ学問とは認められなかった。西田幾多郎『哲学概論』によると、近世にベーコンによって「対象による学」の新しい分類が始まる。歴史は人間の歴史(政治史、教会史など)と自然の歴史であり、想像力は詩、悟性は哲学(自然神学、宇宙論、人間学)となる。
さらに、コントは、単純なものから複雑なものへと分類しており、学問とは数学、力学、天文学、物理学、化学、生物学、社会学であって、経済学は含まれなかったのである。
また、ヴィンデルバンド、リッケルトは、法により学問を分類する。つまり、彼らは、「学問の相違は‥方法の相違に基づく」(50頁)と把握し、下記の様に学問を把握しており、経済学はドロップしている。
1、個性を捨てて普遍的なものに着目=普遍化的把握=法則定立的ー自然科学
2、普遍的なものより個性に着目=個別化方向=個性記述的ー歴史学、文化科学
そして、西田は、「歴史学は時代や文化の個性を明らかにしようとする」(51頁)ものとした。さらに、彼は、 「精神現象と云はれるものも、それを普遍化的に考へるなら、それは歴史学にではなく、 自然科学に属さすべきである」とした。
しかし、歴史学の場合には、簡単にそう云へるかどうか。歴史学の場合には、対象それ自身によって方法が規定されているという面もありはしないか。
中世では、農奴制、農奴制商業や都市が展開しつつ、法王と王権の対立の深刻化、キリスト教世界とイスラム世界の深刻化(十字軍の遠征)などに直面して、経済が固有の問題になることは押さえ込まれていた。その結果、権力側が経済学を打ち出す切迫した課題はなかったのである。
4 近代における経済学
a マニュ期
@ 絶対主義の「経済学」
絶対主義は、封建社会における支配階級であった領主=貴族が没落し、市民社会の担い手であるブルジョワジーが勃興する中で、国王が両階級の対立を利用して絶対的権力を発揮する過渡的国家形態である。イングランドのテューダー朝(1485−1603年)、フランスのブルボン朝(1589−1792年)などがその代表である。、
絶対王政は、固有の支持基盤を持たなかったので、自ら常備軍と官僚をも雇わざるを得ず、その財源確保が国富増強として重要な課題となってきた。ここに、この絶対主義官僚のなかから、王政の物資的基礎に関して、財政学や重金主義・重商主義などの「御用学問」が編み出されることになった。
重金主義 重金主義者たちは、地金銀こそが国富であるという考えにたち、地金銀を確保するため、@為替統制などによって貿易差額をプラスならしめ、A金・銀鉱を開発したり、植民地の経営に乗り出し、B金銀貨、貴金属の輸出を制限、禁止する政策を提唱した。だが、これは、国内の貨幣価値の下落(物価の騰貴)を引き起こし、国内産業の発達をかえって妨げため重金主義は廃棄され、輸出超過による地金銀獲得を目的とする重商主義が新たに登場することになった。
特に金は、富社会の登場以来、酸化しにくく美しく輝き、密度高く、打ち伸ばし易く、かつ希少性をもっていたから(例えば、現在、南アフリカでは7000万トンの鉱石・土砂から500トンの金しかとれないし、これまでの産金総量は僅か12万5000トン)、富貯蔵手段であった。その金が絶対王政の官僚・常備軍などの物資的基礎になったのである。16世紀には大量の金銀がアメリカ大陸からヨーロッパに運び込まれ、金銀総量は16世紀末には15世紀末の5倍に増加した(ピーター・バーンスタイン、鈴木主税訳『ゴールド』日本経済新聞社、2001年、163頁など)。
貨幣数量説創始者ボーダン アダム・スミスは、ジャン・ボーダン(1531−96年)の研究に基づいて、「アメリカの金の導入が価格革命に大きく影響した」とした。バーンスタインは「ボーダンはマネタリズムの思想上の父」(前掲『ゴールド』182頁)とした。ボーダンのマネタリズム=貨幣数量説は、絶対王政が富構築のために大陸から大量に金銀を持ち込んだ結果たる経済混乱を説明する一理論だった。では、ボーダンはいかなる意見を展開して、最初の貨幣数量論者になったのであろうか(以下、清末尊大『ジャン・ボーダンと危機の時代のフランス』木鐸社、1990年に依拠)。
1568年、パリ高等法院弁護士ボーダンは同院第五長官プレヴォに、『物価騰貴とその治療法』を提出して、会計検査官マレストロワの逆説に反論を加えたのであった。絶対王政官僚などから王政実務遂行面から「経世家」が出ていることが留意される。御用学問として絶対主義の「経済学」がでてきたのである。
16世紀前半まで緩やかだった物価上昇が、同後半に急騰して、「社会の全般的な不満を引き起こして、王権にとっても破産状態の財政や不安定な貨幣制度の問題と結合して重要な政策の問題になった」のであった。だが、マレストロワは、「人間の富は最初は家畜からなっていたが、金銀に変わった」が、貴金属量で見れば物価は少しも騰貴していないと主張した。
これに対して、ボーダンは、「貴金属量の増加を国の富の増加」と見て「フランスが豊かになったことを貴金属主義の立場から全面的に肯定」(137頁)しつつも、「(物価騰貴の)主要な、ほとんど唯一の原因は、今日わが王国に満ち溢れている金銀の量の豊富さにある」と反論したのである。彼は、金銀が豊富になれば、その「軽視」をもたらして「物価は上がる」としたのである。人口急増、急速な都市化、凶作、戦乱なども考慮すべきという批判もあったが、この主張で、「貴金属量と物価騰貴の関係がヨーロッパ中で常識になってゆき、貨幣数量説として確立してゆく」(135頁)と言われる。
造幣局長官ニュートン ボーダン死後100年、あの物理学者アイザック・ニュートン(1642-
1727年)が英国通貨問題を担当することになった。
当時の英国は金貨(高騰)銀貨の比価の格差増大して、金輸入・銀輸出が行われるという通貨問題に直面していた。ニュートンはこの問題に興味をもって英国通貨問題に取り組もうとしたのではなかった。彼は、@1687年『プリンキピア』刊行後に「月の理論」で失敗して、かつ『プリンキピア』の仕上げの熱意も冷め、A元々ケンブリッジ大学での同僚との交わりもなく「意識的に遠ざかって」居て、ケ大を学問空間と見ておらず、B当時のケ大フェロウ・教授は収税吏・検査官になって「かなりの収入」を得ることが一般化していたので(リチャード・S・ウェストフォール、田中一郎ら訳『アイザック・ニュートン』平凡社、1993年)、1696年友人の大蔵大臣チャールズ・モンターギュの勧めで造幣局監事になった。
それでも、ケ大フェロウ・教授を兼任したままとはいえ、ロンドンに移転して、造幣局の仕事に没頭したのは、上記理由だけでは説明できない。造幣局にすれば物理学大家を迎えて喜んだろうが、なんでまた宇宙の法則を研究してきたニュートンが貨幣などの「俗事」に打ち込んだのであろうか。それは、ニュートンが「錬金術に深く傾倒」していて(バーンスタイン前掲『ゴールド』231頁)、貨幣改鋳などには大いに興味があったからである。「天体は、地上界、さらにはその一部である鉱石や金属に対して、天体の力=神秘的な力を及ぼし」、この自然の働きで「卑金属は変成、完成され」(鶴岡前掲『黄金と生命』287頁)るとすれば、ニュートンにとって、錬金術もまた宇宙に関わる科学だったのである。彼は、「真理が多くの要素からなっている」とみて、「数学や物理学だけでなく、錬金術、光学、あるいは古代の神学や予言のなかにさえ見つけられる」(前掲『ゴールド』233頁)と考えていたらしい。彼は、「貨幣数量説」ではなく、貨幣鋳造に科学的興味をもっていたのである。
しかし、彼は貨幣鋳造だけに関わるのではなく、造幣局監事として1日16時間労働をこなしつつ、「経済学に関する本は見つけるそばからすべて読んだ」(前掲『ゴールド』236頁)のだった。物理学の大家がどのように「経済学」を読み込んだのかを知ることはできない。だが、「そののち、経済、商業、通貨管理の歴史に関するリポートを書き始めた」所を見ると、物理学と切り離したところで、「俗物」的に経済・通貨レポートを作成したのだった。1699年、造幣局長官トマス・ニールが死去すると、ニュートンが後任に就任した。
当時英国は銀本位制であり、「金は商品」とみなされていた(1698年通商評議会の臨時報告書)。金輸入、銀輸出を押さえようとして、1699年大蔵省はギニー金貨の「容認しうる価格」を21シリング6ペンスに設定した。だが、これでも奏功しなかった。
これに対するニュートンの提言は、「俗物的」であり、「偉大な科学者の知性」を「ほとんど必要」としないものだった(前掲『ゴールド』238頁)。明らかに彼の「俗物的」提言は徒労であった。物理学と当時の「経済学」が対象・方法などが根本的に異質なので、ニュートンは物理学を方法的にも「経済学」に応用できなかったというのが本音であろう。
ニュートンは、1717年、「名誉ある国王陛下の歳入監督委員会への提言」で、ギニー金貨を10−12ペンス減らして切り下げれば、「金はイギリス国内で銀貨と同じ比率を保てるかもしれない」とした。英国大蔵省はこれを容れて、ギニー金貨を21シリングと定めた。だが、経済の現実はニュートン予測どおりにはならなかった。それは、金貨21シリングでもまだ高すぎたからであり、「銀貨は額面金額よりも高い値段で交換されはじめた」(前掲『ゴールド』240頁)のだった。ニュートンの実例は、「政策決定者による経済予測はかならず跡で間違っていたとわかる」ことの先例となったといわれる(前掲『ゴールド』242頁)。
このことは、現実の経済は「自然の法則」で動いていないので、物理学の方法はあてはまらないことを示している。卓越せる美術史家鶴岡氏も、「ニュートンは彼の考える『絶対空間・絶対時間』と、絶対ではありえない『人間の世界=経済の世界』が、根本的に違うことに気付いていなかったと指摘するのである。経済の世界=人間の世界では、単なる過去の延長線上に、『同一の』未来が来るわけではない。これは、彼以降の経済学者の多くが陥り、そして、現在も犯し続けている過ちである」(前掲『黄金と生命』334頁)と鋭く核心をついている。これを、もっと正確にすれば、「権力に癒着した御用経済学者が、『国を豊かにする』『国民を豊かにする』などとと称して、間違った政策を実施する先例の一つだった」ということになろう。
絶対君主の「欲望」に基づく「経済」が「魔物」のように社会に極めて深刻な影響を与え始めてから、ようやく「経済」が「俗物」的に「学問」の対象になったのであった。金銀増加、人口増加、技術展開、工業生産力増加によって、国家の経済力(国富)が肥大化して、国家間の関係が経済的に緊張してきて、国富の源泉とはなにか、国家間の対立の根本的原因とはなにか、金銀比価はどうあるべきか、富が不平等(貧民の増加)に創られるのはなぜかなどが深刻な問題になってきて、ここに「経済学」が誕生したのである。
その場合、視点を貧民=生活者におくか、富民=国家支配者におくかで、「経済学」は「批判の学問」と「体制維持の御用学問」に分化してくる。だが、いずれにも共通していることは、人間の経済行為の動機として「欲望」をそのまま認めたことが留意される。
A 絶対主義批判の経済学
「批判の学」(重商主義国家批判)かつ「国富の学」としての経済学が成立したのは、一般に18世紀にアダム・スミスが著わした『国富論』以後だとされている。
だが、マルクスは、経済学はスミス直前に誕生したとし、経済学は「マニュ時代に初めて独自の科学として成立」したと主張する(『資本論』第12章「分業とマニュ」)。マルクスは、最初の経済学はマニュ時代の分業の資本制的性格を取り扱って誕生したというのである。彼は、『資本論』注で、「ペティや『東インド貿易の諸利益』の匿名著者などのような昔の著述家たちは、マニュ的分業の資本制的性格をA.スミスよりもよく見ている」と指摘する。なお、独創的研究者でもある鶴岡真弓氏は、絶対王政下の重商主義思想を「黄金」獲得政策とし、「経済学は、その王(絶対君主)が統べる国家の富国強兵のために研究された」(『黄金と生命』講談社、2007年、324頁)とした。だが、スミス、、マルクスは、「近代経済学」は重商主義ではなく、その批判から生まれたとするのである。だが、重商主義批判の経済学が市民革命政府を支える経済学になったように、いずれにしても、それは権力に関わる「御用学問」であった。
さて、マルクス指摘にもどれば、「ペティや『東インド貿易の諸利益』の匿名著者」は、以後の経済学には影響を与えなかった。
b 産業革命期
マニュ期に生まれた「経済学」は、国内外に市場をはりめぐらし始めた産業革命期にアダム・スミスによって「重商主義」批判、「国富」学として本格的に推進される。だが、これは市民革命、産業革命以後のブルジョア国家を容認するものとなる。
一方、マルクス経済学は、スミスら古典派経済学をブルジョア経済学だとして批判することから始まるのである。ただし、マルクス経済学も近代経済学も、欲望を是認し、資本主義の経済活動を考察するという点では同根なのである。
@ 18世紀の特徴
産業革命の展開した18世紀とは、人口が増加し、工業経済が突出した社会が成立した世紀である。機械制工場の出現で、経済行為は基本的に24時間(昼夜2交代制)可能となり、人間労働が拘束されてくる。
人口増加 クヌ−ト・ボルヒャルトは、経済学の誕生した18世紀の特徴を的確に叙述している。
彼は、「やっと十八〜九世紀になって、生活の可能性は、今一度、決定的に拡大されたのである。原始時代的な農業革命から十九世紀にいたるまで、人間のほぼ大部分は農業に従事していた。ヨーロッパでは、一八00年頃、平均してまだ五分の四がそうであった。商・工業はいうまでもなく重要であった。しかし、人口数・生活水準・社会秩序に対して、農業の生産条件は決定的なものであった」と、指摘する。
そして、「最初の農業革命の当時、せいぜい二千万人が地球に住んでいたと考えられる。おそらく、もっと少なかったかも知れない。西暦十八世紀には六億五千万人から八億五千万人の間であった。人口はヨーロッパでは一七五0年頃には、おおよそ一億二千万から一億四千万人位であった。明確に理解しなければならないことは、地球の人口増加に対して用いられるこれらの数値が数千年にわたり、年間平均一%という全く小さな人口増加に見合うものに過ぎないということである。しかしながら、技術・経済的進歩は、人間大衆に飢餓貧困をのりこえて保障された生活を可能にするほど十分ではなかったのである。十八世紀においてもなお国民多数の所得は肉体的な最低生活費のあたりを浮沈していた。人口が大きな時空間にわたって、均等に増加することはめったになかったのである」と、人口増加と進歩の連関を指摘する。
さらに、「十五世紀末、農耕面積の新拡張と連携する新たな人口成長が始まった。‥おそくとも十八世紀中葉から、全ヨーロッパで、従来の限界を突破する激しい人口増加が見られたのであった。この増加は、産業革命が生活の諸前提を全く完全に変えてしまった後、十九世紀に入っても妨げられることなく続行できたのであった」(酒井昌美訳『ドイツ経済史入門』中央大学出版部、1988年、4〜7頁)と述べる。
農業疲弊 農耕地拡張、人口増加が、封建支配階級(国王、領主)の経費支弁のための貢租増徴に直面すれば、農民は疲弊することになる。フランスの場合がそうであった。
フランスでは、ルイ絶対王朝の収奪によって農村は疲弊を深めていたのである。フランソア・ケネ−(1694〜1774)らによれば、「当代の病弊は農業人口のいやます困窮であった。大貴族や徴税請負人や独占業者は大いに富んでいる。しかし国民の大部分をなす農民は、絶望的な貧窮の淵に沈んでいる。これは十分一税、重い軍事税、徴税請負人の搾取、高率の小作料、‥そういうもの全部のために、農業の純生産物、すなわち入費がすべて支払われたのちに耕作者の手に残るものが、年々少なくなってゆくからであった。しかし農民の破滅は国民の破滅を意味する」(J.レ−、大内兵衛ら訳『アジア・スミス伝』岩波書店、昭和47年、269〜270頁)と見ていた。国家と商業高利貸しの収奪で農民はすっかり疲弊していたのである。
そこで、貴族にして国王侍医のケネ−は、「国民の使用に供される手工業および工業の商品の労働は、不経済な一項目にすぎず、所得の源泉ではない」(戸田正雄ら訳『経済表』1758年諸版、岩波文庫、昭和48年、34頁)として、「国家とあらゆる民」にとって富の源泉は農村にあるので、農村を重視すべきことを提唱した。彼は、「農業国の経済的統治の一般原則」で、「主権者および国民は。土地こそ富の唯一の源泉であり、富を増加するのは農業であることを、決して忘るべからざること」とした。
彼は、一方で、種々の規制(「富める小作人の子供」には農業継承義務化、最大収穫物の耕作、富農大農経営の奨励、農産物価格の下落防止)をうちだしつつ、絶対王政の重商主義政策批判(「国民は外国との相互貿易において損失を蒙る事のないこと」、「商業の完全な自由を保つべきこと」、「財務行政は、租税の徴収においてにもせよ、政府の支出においてもせよ、金融財産を生ぜしめないこと」=金融商人批判)を伴っていた。
これは、当時としては、思い切った主張であった。絶対王朝の侍医が、その絶対王朝を批判するのだから、大胆な提言であった。彼の主張で注目すべきことは、もうひとつあった。それは、富の源泉を農民ととらえて、その富が地主階級、不生産階級の間にどのように流通するかを「一つの自然法則」として解明しようとしたことであった。なぜこれが注目すべきかというと、富の流通は「自然の摂理」などではなく、法則化などできないにも拘わらず、「自然の摂理」として法則化しようと試みた最初のものとなったからである。
経済社会 田村正勝氏は、「経済学に限らずおよそ学問の運命は、それが対象とする領域や現象が、世界史の展開の中でどこに位置づけられ、またどのような意味をもつかによって規定される。近代社会は何よりもまず『経済社会』として出発し発展するほかはなかった。それゆえ経済学は近代社会の誕生とともに成立し、この社会が発展するにつれて他のいずれの社会科学にもまして進展してきた」(『世界システムの「ゆらぎ」の構造』早稲田大学出版部、1998年、4頁)と指摘する。
増田四郎氏も、イギリス産業革命による「十八世紀における『社会』の発見は、同時にブルジョア社会の基本的なからくりとしての『経済』の発見をもたらし」、「ここから‥経済学が成立した」(『歴史学入門』112〜3頁)とするのである。
そして、権力が統治策の一環としてこれに食指をのばさざるをえなかったということである。権力にとって、経済学は必需品になったということである。
産業革命後の経済社会の登場が経済学を生み出したのである。では、なぜ経済社会の成立が経済学を生んだのか。
A スミスの「経済学」
アダム・スミスは1723年にスコットランドに生まれ、1751年にグラスゴ−大学の倫理学教授となった。
1760年頃から、イギリスで本源的蓄積がほぼ終了して産業革命が進展し、商品経済が局地的市場圏を越えて大きな比重を占めてくる一方、重商主義批判の動きがでてアメリカ独立戦争(1775-1783年。英国植民地アメリカは本国の重商主義的搾取からの脱却をめざす)をもたらした。
道徳重視 スミスは、1759年に『道徳的諸感情の理論』(水田洋訳、岩波文庫、2003年)を刊行した。
第一、二部で「他の人々の諸感情と行動にかんするわれわれの諸判断の、起源と基礎」(公平な観察者の立場から他人を眺めて、自身を他人の立場に置く共感を重視)を考察し、第三部では「われわれ自身のそれらのものにかんする、われわれの諸判断の起源」を考察する。
第一部第一篇「同感について」で、「人間がどんなに利己的なものと想定されうるとしても、あきらかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、かれに他の人びととの運不運に関心をもたせ、かれらの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、かれはそれからひきだせないのに、かれにとって必要なものとするのである」とした。有徳の士のみならず、「最大の悪人」でも「同胞感情」として「哀れみ」「同情」をもっているとするのである。
資本主義が共同体の同胞と云う絆を破壊する以前の「牧歌的」状況(マニュ段階)の「道徳」論である。
そして、スミスは、法と経済学の方法的基礎として、「同感の原理」、「正義に関する自然な感情の漸次的発展」、「行為の動機と、同種の行為が織りなして作りあげる客観的な結果とは区別せねばならぬ」などの視点を提出した。
また、経済に関しては、「経済人の行為を同感の原理をもって主体的に追求しつつ、経済人の利己的な行為が<見えざる手>に導かれて自ら企図せざる結果を生む」(内田慶彦[『経済学辞典』661頁]と見たと評価するものもあった。
さらに、スミスは「さまざまな義務のすべてを遂行するにあたって、われわれの行為の唯一の原理と動機は、神がわれわれにそれらを遂行せよと命令したという感覚でなければならない」(360頁)と、「行動の唯一の原理」は宗教であるとした。
次の通り、こういうスミスの宗教、道徳重視は積極的に評価されていった。
この積極的評価 セン(『経済学の再生』41頁以下)によれば、@スミスは「ストア派によれば、人間は自分自身を切り離された存在ではなく、世界の一市民として、自然という広大な共同体の一員とみなすべき」であり、「この大いなる共同体のために、いつの時も自らの小さな利益を犠牲にすることをも少しもいとわぬべき」だとし、スミス道徳哲学の根底にストア哲学をおいていた事、A「経済の内外には単純な自己利益の追求だけでは説明しきれない多くの活動があり、スミスはその著作において自己利益の追求を他よりも上に位置するものとはしなかった」事、B「スミスは確かに取引を抑制することには反対しただろうが、失業と低賃金を飢饉の原因とする見方に対しては種々の公共政策による対応の必要性を示唆する」事を指摘し、「現代経済学においてスミス流の幅広い人間観を狭めてしまったことこそ、現在の経済理論の大きな欠陥の一つにほかならない」と鋭く指摘する。
田村信一氏は、「スミスの『経済人』は、自然的衝動のままの利己心の追求をむしろ抑制し、『徳と富』とのバランスを指向する『有徳の士』に他ならない。スミスは、人々が『自然的自由』のなかで『共感獲得本能』によって導かれつつ行為すること、しかもこの『有徳の士』が、当時の『中等および下層階級』に広汎に見いだされることに支えられて、『経済人』を構成したのであった(大河内一男「スミスとリスト」日本評論社、1943年;船越経三「アダム・スミスの世界」東洋経済、1973年)」と、スミスが「有徳の士」論を提唱していたとする(田村信一『ドイツ経済政策思想史研究』未来社、1985年に依拠)p171)。
井上信一氏は、「『国富論』の自由競争論の前提には、人間は道徳的存在であるということが当然踏まえられていた」(前掲『峰島旭雄対談集』122頁)とした。その道徳的存在に関して、彼は、『地球を救う経済学』(すずき出版、1994年)においては、「自分には、他人の幸福が必要」という同類感情が「他人の身になって喜びや悲しみを感じると言う同感」を呼び起こし、これが「内なる人」(第三者として行動する自分を観察[裁判]する自分)と「外なる人」(「観察される自分」)の掛け橋となって、「内なる人の冷静な感情と外なる人の感情とが一致したとき、その感情は適正になる」(49頁)とした。内なる己が自分の利益を求めようとするとき、外なる人がそれを規制するというのである。
だが、井上氏も指摘されるように、「スミスは‥新しい経済人の道徳性を信頼していたし、労働者は政府の力で教育すれば人間的な向上を図ることは充分可能であると楽観していたから、競争によるさまざまな弊害は除けるものと信じていたのであろう」(53頁)ということになった。だが、その競争の弊害(失業、貧困、不況)は是正されず、弊害を助長させた。
スミスは、法学や経済学はこうして道徳哲学に基づいて構築されるべきと考えていた。そこで、まず経済学を構築する構想をもって、当時重農主義経済学さかんなフランスを訪問することにしたのである。
道徳軽視 1764年、スミスはグラスグゴ−大学の倫理学教授をやめて、彼を雇ってくれたバックル−侯爵(義父はタウンゼンド蔵相で、彼がスミスに終身年金300ポンドなどを提示)とともに渡仏して、フランス絶対王政の衰退を観察したり、重農主義者ケネ−らと学術交流した。スミスは、ケネ−ら経済学は「おそらくは真理にもっとも近いもの」とし、「ケネ−を世界の経済学者の首位にある人」(J.レ−、大内兵衛ら訳『アジア・スミス伝』岩波書店、昭和47年、268〜9頁)とみた。
スミスは「一国の富は土地の生産物ではかられる」という考えやレッセフェ−ル(自由放任)を学び、「経済の循環=再生産」構想を練り始め、「独立生産者の目」、道徳哲学を後退させて、「価値論と再生産論」という純経済的性格を強めていった。表面的にせよ経済学から道徳倫理を後退させたのは、スミス自身であったことに留意しなければならない。この点、モロウは、すでにスミスは「社会科学の概念を作りだし」、「フランスの思想家やの影響を過大に評価」できないとした(鈴木信雄ら訳『アダム・スミスにおける倫理と経済』128頁)。
このブルジョア経済の展開、市民社会の展開を踏まえ、スコットランドのイングランドによる植民地収奪への危機感から、富国の源泉は重商主義的貿易や農業という産業部門ではなく、労働にあるとして、重商主義の根本的批判を目指して、1776年に『国富論』を刊行したのであった。おりしもアメリカ独立戦争が展開していた。
彼は、「あらゆる国の政治経済学の大目的はその国の富と力を増進させることであ」り、「政治家または立法者の科学の一部門と考えられる政治経済学」の二目的は、「人民に豊富収入または生活資料を供給すること、‥国家すなわち公共社会に、公共の職務を遂行するのに十分な収入を供給すること」であるとした。
第一篇で、彼は、国民が「猟師や漁夫からなる野蛮な諸国民」と「文明開化して繁栄している諸国民」とに分かれるのは、後者では「有用な労働(まだ機械労働が未熟であった)に年々使用される人々の数」が非常に多いからだとして、価格事象が検討される(労働基軸の先進後進比較)。「有用な労働」が文明国を生み出すというのである。
第二篇で、彼は分業は資本蓄積に補完されねばならないとして、資本の性質と特質を考察する(再生産論的把握)。この分業と資本蓄積で富を増加させるとした。
第三篇で、彼は、「繁栄している諸国民」においても「労働の一般的な運営または指導」は一様ではないとして、ヨ−ロッパの文明化の歴史が考察される(経済史。英国植民地政策批判=米国独立支持)。歴史的考察で自論の的確さを論証しようというのである。
第四篇で、重農的政策、重商主義的政策が考察され、重商主義的政策の結果が批判的に考察される(経済政策)。自論の観点から既存経済学説を批判する。
第五篇で、国家財政がとりあげられる。
第一篇から第四篇は、人民に富を提供する政治経済学第一目的を扱い、第五篇は国家に収入をもたらす第二目的を扱っている。スミスは富が増加すれば貧困も無くなり、公共政策を実行する財政的基礎も確保されるというのだが、その富が貧困を生んだのだという認識が欠落していた。
道徳哲学を基礎としつつも、現実の経済叙述の性格が濃厚となり、「国富論」では、「人類社会あるいは宇宙体系の調和的発展が、慈愛深い神の手によってではなく、すべての個人の自己保存活動によって、可能になる」(水田洋「解説」[『国富論』下、河出書房、昭和40年、413頁])とした。だから、「神の手」は「第四篇 政治経済学の諸体系」において、各個人の勤労が「公共の利益」を考慮せずに「生産物が最大の価値をもつように方向」づけても、「みえない手にみちびかれて、かれの意図のどこにもなかったひとつの目的(「社会の利益」)を、促進するようになる」(上、376頁)とするにとどまった。道徳家が経済を探求してゆくうちに、「経済」の本質を根源的に見ることなく、あたかもミイラ取りがミイラにとりこまれるように、「経済」現象に取り込まれる大失敗を起こしてしまったのである。おおきな間違いを犯したのである。 スミスは、道徳の専門家ではあっても、「経済」は素人だったのである。それは、前述の通り、大物理学者ニュートンが、宇宙自然の物理的法則とは別に、それを活かすこともできずに、生の現実経済に取り込まれてしまったのとそっくりである。
スミス「経済学」の評価 にもかかわらず、アダム・スミスがはじめて「本格的な経済学」を構築し、それが以後の「経済学」に影響を与えてゆくことになってしまったのである。その結果、スミスが近代経済学の始祖と言われてゆく。これは、多くの人々によって認められているが、下記にいくつかの具体例を挙げて見よう。
まず、田中壽雄氏は、@「経済学は決して歴史的に古くからの学問ではな」く、「むしろ比較的に新しい方の学問であ」り、A「初めての経済学がアダム・スミスの国富論だとしても、その時代は中世ではなく近世後であ」り、「その後、理論経済学として、一方は近代経済学として、他方はマルクス経済学としてそれぞれ発展した」と的確に指摘する。 そして、氏はスミス以後の経済学に関して、@「そもそも経済学が政治経済学からはじまったように、理論的発展のほかに政策としての発展を見た」事、A「さらに‥経済学とその他にまたがる中間的研究が次第に盛んにな」り、「時代の推移による実体経済の著しい発展で、社会生活の充実化が必要になってくる一方、いまだその段階にとどかず経済発展の遅れている発展途上国において、経済発展を目指して先進国からの援助、かつ先進国との貿易を促進している」事、B「こうした事情から、厚生経済学とか、開発経済学といった様な経済学とその他とにまたがる中間的な経済研究がどんどんいろんな形で発生する様になった」事(『世界経済の再編成』葛゚代セールス社、平成三年、十六〜七頁)などを指摘する。
この点は、玉野井芳郎氏も、@「スミス以後の経済学のさまざまな理論は、どれもスミスから出発し」、「マルクス経済学も、近代経済学も、いずれも商品経済または市場経済を対象に、それを細胞ないし核とする生産と消費の理論体系を築き上げてきて」おり、A故に「経済学という学問は、市場をとおして商品経済の<秩序>を発見し、資本主義と呼ばれる統一的な経済秩序の性質とその変化の方向を解明する学問として発展してきた」のであるとする。
ただし、氏は、「スミスの体系を評価する従来の接近法は、その体系のなかに商品経済または市場経済を構成する諸概念−たとえば商品、価値、貨幣、賃金、利潤、利子、地代など−を手がかりとしながら、スミスの分析的思惟や思惟の全体像を問題としてきた」(『エコノミ−とエコロジー』98頁)と、スミスを体系的に「思惟の全体像」で把握しようとするのである。
鈴木涼一氏も、「経済学が独立した学問として成立したのは、1776年スコットランド人アダム・スミスの著わした『国富論』にはじまるといってよい」(『経済学序説』泉文堂、昭和50年、8頁)と的確に指摘する。
そして、氏も、スミスは文字通り国富の形成を対象としていたが、以後の古典派経済学は、これを自明前提として、演繹法による価格理論を中心に据えていったと認める。つまり、氏は、@「スミスにはじまるリカ−ド、マルサス、ミル等のイギリス正統学派の理論は、この歴史的背景を反映して自由競争を謳歌し、価格理論を中心とした普遍妥当的な原理を樹立しようとした」事、A「彼らのとった研究法は演繹法で、抽象的な一般理論を構成し」、その「理論の中心たる価値論においては、生産費価値説を主張し、貿易政策においては自由貿易を唱えた」事を指摘する。
以後、経済学はスミスに影響されて、「市民社会では、その富の配分が絶対主義国家に搾取されずに市民にもたらされるからいいことなんだ」ということを自明の前提として、富の研究を扱うものとされてしまった。国家が、産業保護などに経費を費やさず、自由放任政策を打ち出す上では、格好の「御用学問」であった。おそろしい「学問」が一人歩きしはじめたのである。
J.S.ミル ミル(1806〜73)は『経済学原理』(1849年、末永茂喜訳、岩波新書、昭和45年、31頁)において、「経済学の研究題目は、いつの時代にも必ず人類の主要なる実際的関心事の一」であり、「その題目というのは富である」とした。富を研究する学問とは、権力にとっては必要不可欠なものである。そして、ミルは、「経済学の著述家たちは、富の性質、その生産および分配の法則を教えること、または研究することを職とする」とした。
さらに、彼は、経済学は「人類またはどの人間社会かが、人間の欲望の普遍的対象であるこの富においていかなる原因によって栄えたり衰えたりするか、直接間接にそのすべての原因を研究することを含んでいる」とした。
アルフレッド・マ−シャル マ−シャル(1842〜1925)は、数学、形而上学、倫理学、心理学などを学んでから、1867年に経済学に足を踏み入れた。その動機は、イースト・エンドの貧民窟での悲惨な生活を目撃して、社会的貧困を除去しようとしたことにあった(伊藤宣広『現代経済学の誕生』中公新書、2006年、14頁)。だが、貧困問題は経済学だけでは解決できないのだが、彼としてはとりあえず試みてみようとしたのであろう。
1879年、彼は『産業経済学』を刊行して、「経済学の主題は富である」、経済学は「人間行動のうち、物的富の獲得に向かっている部分、および人間福利のうち直接物的富に依存している諸条件」を扱うとする(橋本昭一訳『産業経済学』1881年、関西大学出版部、昭和60年、6〜7頁)。富によって福利を実現しようとしたのである。形而上学、倫理学、心理学等を学んだ者でさえ、結局、経済学をやると、こういう凡庸な考えになってしまうのである。
ただし、彼は、「誠実さと相互信頼は、富を増大させるための不可欠の条件である」、「一国民の性格はその国民の母たちのそれ、すなわち母たちの意志、礼節、誠実に主として依存する。労働者が正直、信頼性、潔癖、細心、活動性、誠実、敬意、自尊心を身につけなければならないのは、子供時代しかも家庭においてである」(14頁)と、道徳的資質を強調していた。
1885年、彼は教授就任講演で、「冷静な頭脳」(科学としての経済学)と「温かい心情」(生活態度、道徳哲学、宗教など)を説いた。マーシャルは歴史研究も重視して、明らかに凡庸な経済学者とは異なっていた。1898年、マーシャルは、経済分析の初期段階は「物理学の動学の方法」が有益だが、「経済学のメッカは経済動学であるよりはむしろ経済生物学である」(伊藤前掲書、20頁)とし、既存経済学とは根本的に異なる方法を提示した。だが、生物的方法とは、「ダーウィンの最適者生存の法則の読み替え」(=「代替の原理」)とか、産業組織論(「分化と総合のアナロジーを用いた有機体」)などであり(伊藤前掲書、21頁、44頁)、マーシャルはそれを具体的に展開することはなかった。初動に物理学、以後に生物学を適用して「新経済学」を構築しようとすれば、既存経済学の根本的否定になるので、彼にはそこまでできなかったのであろう。物理学、生物学という自然の真実の方法と、「既存経済」の人為的・虚構的方法は本質的に相容れなかったのである。
このマーシャルやピグー(厚生経済学)らをケンブリッジ学派と称する。因みに、ピグーも、「社会的情熱こそ経済科学の始まり」(伊藤前掲書、58頁)とした。だが、ピグーは、理想主義的熱意も失い、マーシャル死後は「数学を積極的に用い」、きわめて抽象的議論に落ち込んだのであった。
B 批判の始まり
こうした古典派経済学の自由競争や富研究偏向などを批判する動きは当時からあった。
自由競争批判 ドイツにおけるアダム・スミス紹介者のザルトーリウスは、やがて「無条件の経済闘争を是認するアダム・スミスの学説が、実際の社会にもたらした結果を目にしてスミスの信奉者ではなくなった」のである。その酷い結果とは、「人間が自分の利益だけを自由に追求し・・・労働者の不幸や貧困による悲劇が、社会に増大し」田ということであり、「アダム・スミスの主張する予定調和の世界は、現実には現れなかった」(鶴岡前掲『黄金と生命』343頁)のである。スミス経済学には倫理が欠如していることに気付いたのである。
一方、フランスの古典派経済学者シスモンデー(1773−1842年)もまた、「労働者の困窮、小農民の没落、社会的不平等、経済的不況等の産業革命による諸弊害」を目撃して、「結果的にアダム・スミスの批判者」(鶴岡前掲『黄金と生命』344頁)となったのである。シスモンデーは、「多くの『富』を所有」しても、「『機械』に象徴される近代経済システムは、社会の『生産力の増大』を可能にしたが、この『近代経済という魔法』は・・生産と消費の『過剰さ』を呼び」、不況に陥るとしたのである。
富研究偏向の批判 クリフ・レスリ−は、富の虚構性・幻想性をこそ指摘してはいないが、「古典派経済学の演繹的方法論が、富それ自体の異質性や人間の動機の多様性を考慮せず、社会の状態や条件如何にかかわりなく、富の追求をあまりに一面的に取り扱っている」(「経済学の哲学的方法について」1876年[根井『21世紀の経済学』127頁])と、古典派経済学の「富」研究偏向を批判したのである。
彼は、「すべての国の経済は、両性の職業と仕事に関しても、富の性質・量・分配・消費に関しても、長い進化の結果であり、その過程においては、連続性と変化がともに存在し、それらのうち経済的側面はほんの特定の局面ないし位相に過ぎない」と言うのである。だが、こういう批判はいかされなかった。
我々は、スミスの犯した根本的間違いに気づくべき時がきた。
財政責任者ゲーテ スミス経済学の批判をしているのではないが、当時の経済学への根本的批判がゲーテによってなされていたことを見ておこう。そうなのである、あのドイツ文豪ゲーテなのである。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann
Wolfgang von
Goethe)は、1749年にフランクフルトで「帝室顧問官」の資産家の父と名門の母(フランクフルト大法官の娘)の間に生まれた(小塩節『愛の詩人・ゲーテ』NHK出版、1999年、18頁)。後に、ゲーテは、ワイマール公国の御用経済学者になっているが、彼は総合的知力によって資本主義の富造出の本質を鋭く抉り出す「稀有の学者政治家」なのであって、単なる御用学者ではなかった。ここで取り上げる所以である。
1775年11月7日、当時26歳のゲーテが、ザクセン・ワイマール・アイゼナハ公国(人口10万人)という小領邦国家の首都ワイマールへ着いた。皇后が、若いカール・アウグスト公爵の教育のために、『若きウェルテルの悩み』などを刊行していたゲーテを招いたのであった。しかし、ゲーテは文学ではなくて、ワイマール公国の政務を果たすようになり、1776年枢密院参事官(閣僚)になって、初めて年額1200タ−ラーの給与を貰うようになった。1780年には枢密院長となり、やがて財政を担当した。1782年には、アウグスト公爵が神聖ローマ皇帝に「ゲーテを貴族に列する」旨を申請していたことが受け入れられて、ヴォルフガング・フォン・ゲーテとなったのであった(小塩前掲書、65頁)。「フォン」とは貴族の称号である。
当時の公国の歳入は僅か20万ターラーに過ぎず、深刻な財政窮乏に陥っていた。そこで、ゲーテは、「十八世紀後半のヨーロッパの経済学の世界『重金主義』=『重商主義』と『重農主義』に関するもの」(鶴岡前掲『黄金と生命』339頁)などを学んだのであった。それは、「初期の重商主義者のように、金銀の国外への流出を禁止」して「単純に蓄積」するよりは、「それを運用して」「多くの商品を輸出することによって、『金銀の獲得』を目指す」(同上書339頁)ものであり、あるいは富の源泉を農業にみるものであった。
詩人・文学者ゲーテは「みごと以上に職務をはたした」(小塩前掲書、65頁)のであった。例えば、ゲーテは、近衛部隊・歩兵部隊6百人を半減して、3万ターラーを削減した。ゲーテは富の源泉である農業の改善につとめ、租税制度の不公正を是正し、「農民の利益」になるように「農地改革、放牧権と賦役の調整」をし、「放牧地にクローバーの栽培」を行った(小塩前掲書、67頁)。ゲーテは、農民が領主的収奪を受けることを十分承知していた。彼はシュタイン夫人(公爵母堂付き女官)に、「私は農民が土地から僅かなものを得るのを見ている。もし農民が自分だけのために汗を流しているのならば、その僅かな物も楽しい糊口となるだろう。しかしあぶらむしが薔薇の枝にとまって木の汁を吸ってよく太ると、蟻が来てあぶらむしの体から濾化されたその汁を吸うのだ。そのやうなことが進行する。そして下で一日のうちに作られ得るよりも沢山のものが、上では一日のうちに消費されるように我々はしてしまったのだ」(1782年4月17日付書簡[舟木前掲書、141頁])と、過酷な農民収奪と領主の浪費に触れている。マルクスも、このゲーテの悩み、つまり「周囲の惨めさを嫌悪する天才的な詩人」という聖なる事と「自ら社会と妥協し、社会に追従しなければならない」という「ワイマールの顧問官」という俗なる事との「不断の争い」に悩んだことを的確に指摘している(マルクス「ゲーテについて」[舟木前掲書、10頁])。
だからこそ、ゲーテは、公務以外の自由な時間に、詩作、絵画、徒歩旅行などをおこなって悩みを癒していた。特にゲーテは徒歩旅行を好んだが、それは、彼が「自然の息吹に触れ、自然の中に身を置いて、自己と自然との調和を得よう願う」(小塩前掲書、140頁)からであった。ゲーテは森、山、湖畔を旅して、自然の中で人間らしく生き返って、富社会にもどってくるのであった。富社会とは、人間が人間らしく生きることの出来ない社会であることを知っていたのである。
ゲーテは、他のヨーロッパ人とは異なって、自然への畏敬の念があった。ゲーテにとって、「身のまわりの石や木や水や雲ばかりか、自らの生命をも含め、月や星や宇宙までのすべて」が、「宗教性に裏打ち」された自然なのであった。彼には、「神が造り、我ら人間をその中へ造りこんでくれた自然への愛と畏敬」(小塩前掲書、192−202頁)があったのである。ゲーテにとって、「人は総て自然のうちにあり、自然は総ての人のうちにある」(ゲーテ『自然論』1782年[舟木重信『ゲーテ・生活と作品』創芸社、昭和21年、58頁])と、人間と自然は一つであった。
しかし、1786年、37歳のゲーテは、農民的な立場に立脚した財政政策の実施の困難などに直面して、公務をすべて投げ出して、一応主君カール・アウグストの理解を得て有給休暇扱いで憧れの国イタリアに旅立った(小塩前掲書、158頁、舟木前掲書、142頁)。イタリアでは芸術に触れて「自己自身を見出」(小塩前掲書、168頁)して、2年後にワイマールに帰国し、以後文化文教行政に重点をおきつつも、枢密参事会構成員・元老として、「国民の『福祉』と自然尊重に基づく改良改革主義」(小塩前掲書、190頁)を発揮した。因みに、彼が1832年に死去した時の「称号」は「ザクセン(ワイマール)大公国枢密顧問官、国務大臣」(舟木前掲書、293頁)である。
1797年、ゲーテは『魔法使いの弟子』を書いて、シスモンデーと同様に、「近代経済社会や近代経済人の本質を、『魔法』や『魔術師』という姿で捕らえていた」(鶴岡前掲『黄金と生命』346頁)のであった。「世界の本質を見抜く『芸術的直観』」をもつゲーテは、「この世界を支配する、経済と国家という魔術と魔法使いの姿」を看破し、「『近代経済社会の本質』とは、『錬金術師の魔法』、つまり『錬金術』そのものである」と認識していたのである。そして、ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー(スイス生まれの経済学者)は、「ゲーテが、近代経済の世界で展開している『史上最強・世界最大の錬金術』の秘密の扉を、開けるカギをもたらしたと考えられるのは、まさにこの点(「近代社会における『紙幣』の役割を、必須の『本質的存在』とみな」すこと)においてである」(鶴岡前掲『黄金と生命』348頁)と鋭く指摘した。
さらに、1831年、ゲーテは、錬金術に興味をもっていて、50年来執筆してきた『ファウスト』を完成させた。彼は、第二部で、ファウスト(実在した人文学者・錬金術師だが、悪魔と手を組むという伝説が流布)は、16世紀神聖ローマ皇帝の財政窮乏の打開のために、大地中の金銀を担保に紙幣を発行させることを提案した。ゲーテは、「『紙幣』に基づく『近代経済システム』」の「錬金術」的本質を喝破していたのである。この点は、ビンスヴァンガーが、「(ゲーテは)『ファウスト』を題材に、『資本主義と錬金術の関係』について、明確に説明」(鶴岡前掲『黄金と生命』378頁)したと鋭く指摘していた。ゲーテはスミス批判こそしてはいなかったが、紙幣の上に立つ国富の「錬金術」的正体を看破していたのである。
ゲーテは、「科学的真理とは、単なる数学的法則でも分析的知識でもな」く、「『真』なる科学的真理に加え、善(倫理的真理)、美(芸術的真理)が一体となった総合的真理」(鶴岡前掲『黄金と生命』402頁)と見たのである。
ここに、鶴岡「経済学史」は、資本主義の本質を見抜いた最高の学史に昇華したのである。鶴岡氏は、「『紙幣』によって成り立つ近代経済の世界は、本質的に現実の世界ではなく、『想像によって生み出され、イメージに」よって保証される錬金の世界』なのである」(鶴岡前掲『黄金と生命』402頁)とするのである。もっと奥深いところには、「人間と人間の対立」、「人間と自然の対立」があるのだが、多面的真実を芸術的に解き明かそうとするならば、これはこれで素晴らしい手法なのである。富は人間の想像的産物であり、その想像が停止し、従来の『経済観』が根源的に転換されれば、「人間には無価値」なものとなるのである。そうである、富は人間だけに「価値」あるようにみえるだけで、自然にとっては無価値なものであり、いつでも無価値になるはかないものなのである。こういう愚かではかないことを追い求めなかった人間が生活していた時代、それこそが自然社会だったのである。
鶴岡氏は、「本来は計りしれない可能性を持つ壮大な『自然の世界の富』を、一面的で浅薄な使用価値として『人間の世界の富』へ一部変換して富を得る、これが人間の、無から有への創造の秘密(本質)なのである」(鶴岡前掲『黄金と生命』412頁)と、真本主義の富の源泉について的確に把握していた。本質を見る慧眼をもつ鶴岡氏は、スミス、マルクスの主張するように、富の源泉は労働などではなく、自然であるこを見抜いていた。鶴岡氏は、ゲーテ(「永遠の創造とは・・・初めからなかった」[『ファウスト』])と同様に、人間の労働は価値を創造したり、富を生み出したりしないことを見抜いていた。
従って、鶴岡氏によれば、経済学者、エコノミストらとは、「『経済という幻想の世界』を説明するため、経済学的概念や政治用語を多様化・複雑化することによって、現実の世界の『金』を増加させ、現実の貧困や不幸を解決できると信じる人々」(鶴岡前掲『黄金と生命』418頁)となるのである。愚か者というより、世界を惑わす危険人物ではなかろうか。だから、経済学者は何もしないほうが世のため人のためになるのである。いみじくもケインズが言ったことがあるように、「経済学者にいえることは、ただ、嵐が遠く過ぎ去れば波はまた静まるであろう、ということだけならば、彼らの仕事は無用である」(伊藤前掲書、183頁)ということになるのである。まさに無用そのものなのである。
根井雅弘氏は、スミス、マルクス、ケインズとの対話をとくが、彼らに対話するだけの価値があるというのであろうか。例えば、根井氏は、私も知っている置塩信雄氏を「頭の中でマルクスとの『対話』を重ねながら一つ一つ徹底的に考え抜いた」(『経済学の教養』NTT出版、2006年、33頁)人物として評価しているが、問題は置塩氏がマルクス経済学の根本的問題点を看破して、新しい経済学を構築するに至ったかどうかということであろう。対話などは、専心すれば、誰にでもできるのである。なお、根井氏は、シュンペーターの発展理論、企業者論(有名な創造的破壊)を古典、古典と評価するのだが、その発展が地球環境の破壊をもたらしているという厳然たる事実を捨象しているのである。
第三 日本における「経済学」の誕生
経済学が権力の必需品であったということは、日本でも大いに当てはまることであった。ヨ−ッロッパでは、絶対王政が財政的基礎の確立から必要としたとすれば、日本では何が経済学を必要としていたのであろうか。
1 江戸時代
経済という用語は一般に中国の権力統治・民衆救済に由来するとされている。つまり、東晋(265〜419年)の葛洪が著わした『抱朴子』に、経世済民(国を治め民の苦しみを救う)という言葉がある。これが「経世済民」の初出であり、これが省略されて経済になったというのである。随(581〜619年)の学者王通の著書『文中子』には「皆経済之道有り」とあり、宋の王安石の『伝論中』には「道徳経済を以て己の任となす」とあって、「経済」が登場してくる。
日本では、この経済用語は江戸時代から使用されていたが、典拠は上記とは異なるようだ。そして、日本も中国と同様に同じ権力者の統治策であったが、日本では使用が遅くて封建制の危機との関連で提唱されはじめた。
荻生徂徠 医家(父は将軍綱吉の奥医師)儒家荻生(1666〜1728)は周知の通り朱子学(「道学的合理主義」)を批判して、独自の古文辞学(40歳台−「古代中国の文体に習熟する学問」、50歳台−「儒学古典の経書の解釈、応用」)を開拓し、社会秩序の起源を天、聖人に求めたが、人間が主体的に社会秩序を作為し変革できるとした。
彼は、経書の解釈、その道徳、政治、学問の適用の一環として経済を考えていった。彼の漢学に対する高い学識が評価され、元禄9年に柳沢吉保に召し抱えられ、享保7年には8代将軍吉宗らに認められ御隠密御用(将軍への内密諮問役)に登用された。
『政談』(享保7年、徳川吉宗の諮問へ答えたもの)の巻二に「経済政策の重要性」があり、そこでは、現状の経済危機の打開策として、古代の聖人の道が説かれ、国家統治策としての経済が提唱されたのである。日本では封建危機が経済学らしいものを必要としたのである。
『政談』では、「平和な時代から乱世へ移行する原因が、みな(上下)生活の困窮にあるとい うことは、歴史をふり返ってみれば明らかである。だから国や天下を治めるためには、まず経済を豊かにすることが根本である」(『日本の名著』16巻、 411頁)とされたのである。この上下の困窮を救う方法は、「古代の聖人たてた法制の基本」(=「上下万民をみな土地に着けて生活させ」、「その上で礼法の制度を立てる」こと)に従うことだとする。
そこで、商人だけが儲けている現状を打破して、徳川幕府は「日本国中はみなご自身の領地であるから、何もかも日本国中で産出するものはご自分の物である」と、徳川幕府の「生産物独占」論を提唱した。これは幕府に封建危機への対応を絶対国家の建設で実施しようとしたものとして注目される。彼の「経済」には、民の視点に立脚した対策はなく、あくまで国家統治策としての経済困窮対策である。もとより自然への畏敬などは提唱されてはいない。
この様に、土地はすべて幕領としつつも、「百姓の田地は、それぞれが金を出して買ったものであるから、これを売るのは当然の道理である」として、農民の私的土地所有権を容認している。土地領有制、売買禁止は封建社会の基本であるから、その売買を容認することは封建制否定となるものである。彼らは、徳川幕府の危機打開策を助言しながらも、もはや封建社会はよくないと考えていたのかもしれない。
江戸時代の後半、「支配体制の危機を克服するために唱えられた各種の政治論や経済政策論、すなわちいわゆる経世論の多くに『政談』などに示された徂徠の制度改革論の影響が認められる」(尾藤正英「国家主義の祖型としての徂徠」『日本の名著』16、54〜5頁)ことになった。日本の「経済学」は、封建危機の克服策として打ち出されたのであった。
太宰春台 徂徠弟子の太宰春台(1680〜1747)は、享保14(1729)年に著わした『経済録』(「日本経済大典」第9巻、昭和3年)を刊行して、日本で最初の経済を題名にした書物を刊行した。当時の日本には、商工業展開による本百姓衰退で、封建危機が芽生え始めていたから、幕府は享保の改革を行なわねばならなかった。
ここで、彼は、「凡天下国家を治むるを経済と云う、世を経め民を済ふと云ふ義也、経は経綸也」とし、漢籍典拠を『周易』(「君子以経綸す」)、『中庸』(「経綸天下の大経」)、『尚書』(「弘済于艱難、康済小民」。済は救済の義)などとした。
そして、彼は、尭舜以降の聖賢が「皆経済の一事」に「心を盡して言を立て教を垂たまう」とした。彼は、聖人の道は「天下国家を治より外には所用なし」とし、孔子(紀元前551-479年)の門人72人以降の学者は「皆この事を学」んできたと説いた。
この様に、太宰は漢籍に依拠して、経済を「理世安眠の術」とみたのである。だから、太宰にとって、『経済録』の第1巻のみ「経済総論」であって、以下「礼楽」、「官職」、「天文 地理 律暦」、「食貨」、「祭祀 学政」、「章服儀仗 武備」、「法令 刑罰」、「制度」、「無為 易道」など、およそ経済とは関係ない無いものであった。
第一巻「経済総論」を見てみても、中国の各王朝の富国強兵策、統治策を述べて、例えば漢の歴史家司馬遷(紀元前145−86年)を「経済を言(はかる)る者の首とす」としている。
太宰は「経済を論ずる者」は、「時を知るべし」(中国では 周以前の封建治、秦以後の郡県治。しかし、日本では「古は郡県にて、今は封建」。この時の違いを知れというのである)、「理を知べし」(物に理があるように、「天下の事にも必ず理」あるので、「理に逆ひたる政」をしてはならないこと)、「勢を知るべし」(勢とは「事の上に在て、常理の外なる者」であり、「天下の事に。理と勢と二つあ」る事をしれというのである)、「人情を知るべし」(「天下の人の人情を知る」こと)と主張した。
要するに、太宰は、単なる仁義・道徳のみの政治を排して、封建的支配階級の統治論として経済論を展開したのである。だから、彼は、「農業衰退・商工業興隆を国家の大害として憂え、重農論・貴穀賎金論」(島崎隆夫[『国史大辞典』25頁])を主張したのであった。
彼もまた、封建危機に農業支配再編・強化で対応しようとしたのであった。
佐藤信淵 佐藤(1769〜1850)は『経済要録』(文政10年=1827年)を著わして、「経済学」という封建的学問を提唱した。
農民的商品経済、本百姓衰退で封建危機はいっそう深まって、幕府は寛政の改革(1787=天明6月〜1793年=寛政5年)、天保の改革(1830〜1843年)を行なわねばならなかった。では、佐藤は、こうした封建危機深化に対応して、如何なる「経済学」を提唱したのであろうか。
佐藤信淵によると、家業は出羽(秋田)の医者だが、不昧軒(信景)翁の代に「飢饉屡行はれて」、この祖父が「医業事小さく、広く衆を救に足」らざることに不満を覚えて、「経済之学」に志したとした。彼は、40年間諸国を行脚して、「高名大家」「老農老圃」や数十の職人などを訪ねて、経済で「農政を精(ただ)し、物産を興し、其製造を巧みにすべきの諸法を明にせん」とした。彼は『開国新書』12巻を著わした後、享保18年(1733年)に出羽の阿仁銅山で死去した。
これが、以後、佐藤家の「家学」となり、その大意は「荒曠たる国土を新に開発して物産を採出し、境内を富貴せしむるの論」であり、「蝦夷地を開拓するの策に似たり」とし、また山相学(「種々貨物を含蔵する山の形容より土石の色相と性質とを観て、即何物を含有す」かを判定)を普及させようとした。
だが、「国家を経済するの大道術」を聞きにくる諸侯卿大夫はひとりもいなかった。やがて弟子ら6、7人が遊歴して経済を諸侯卿大夫に説いて以来、経済総録の抜粋を欲するものがでてきたので、これを要約して『経済要録』を刊行したのであった。封建支配者に経済の要録を伝えようとした様に、彼の経済学もまた支配者の統治のための経済学であって、これが日本の「経済学の伝統」になっているかである。
佐藤は、本書で、「経済とは国土を経緯し、蒼生を済救するの義なり」とし、経の意味については、「所謂国土を経緯するとは、先其国の城下より東西の領分界に至る迄の度数を測量するを経と云ひ、又其南界より北界に至る迄の度数を測量するを緯と云ふ。凡此経緯を審にし、気候を察し、土性を辯じ、地力を尽すは、食物・衣類の大本なり」と、土地生産力を研究することであり、済とは、「其境内の人民をして、水旱の患なく、居處安寧なるを楽しむるを済と云ひ、各自に産業を勉励せしめて、食物・衣類の余裕あらしむるを救と云ふ」と、人民生活を安定させることとする。
佐藤は、「是 経済の要旨にして、国家に主たる者の一日も怠るべからざるの急務」とした。彼は、「国君の要務は、経済道を修めて邦内を富豊にするより要なるは無く、小民の専務は、各々其家業を励みて、衣食を充足するより要なるはなし」とした。
また、彼は本居宣長、平田篤胤の国学、神道の影響をうけており、「我家の経済学は、天地の神意を奉行し、世界の蒼生を済救すべきの大道なる」とし、封建君主は神意を受けてきたものとした。神意をもちだして、権力統治策を肯定させようとした。
「一境の国土を領して、此に君臨する人は、皆前世に能上天の命に率ひ仁義礼 智の性を存養し、篤く道徳を修め、人の艱難を救ひ、人の過失を補ひ、天に事 (つかえ)るの功業甚広大なるを以て、上天の寵遇し給ふこと極めて篤く、八 百万神の最も尊敬する所なり。
故に今此現世に人君と生来りては、富は一境の国土を有ち、貴きこと数万の 蒼生に君主と仰がれ、気焔世を蓋ひ、勢力山を倒す。上天の人君を寵幸するこ と盛なりと謂ふべし。
且又人目には見得ずと雖も、数多の鬼神ありて、恒に其前後左右を擁護し、 以て其威霊を冥助す。故に人君に無礼を行ふときは、暗中人の見ざる所と雖ど も神罰必至る、皆是上天の寵遇甚篤く、百神擁護する天禄の極大なるが故なり。 ‥(故に)卿等能此天理を熟察して、無礼を行ひ冥罰を蒙ることなかれ」(16頁) 「(本書は)倭漢神聖の経典を淘汰したる精粋にして、国家衰微の病根を除き、 万民貧窮の苦痛を去るには、此上も無き良薬なり。唯だ其味ひの極て苦がきを 以て、能此を服用する者の無からんのみ。
若し能く此れを用る者あらば、境内の元気を盛んにし、国体の疲労を補ひ、 其勢威を強壮にすることは、五年を俟ざる可し。
茲に創業・開物・富国の三篇を筆し、以て経済の大要を示す。卿等能く熟読 して、先づ天地の神意を推察すべし。天地の神意を能く知り得て、然して後に 有土の君の聘すること有らば、此れを補佐して一境の人民を救ひ、以て天恩の 万一に報ぜよ。
若し夫れ天に事(つかえ)るの本心も無くして、唯だ妄りに其国を富すの策 を立る者は、皆是経済道の妖魔なり」(19頁)
そして、「貧国を挽回して、富国と為さんことを欲せば、泉(磐城平藩)の城主本多忠 籌君(寛政改革に功あり、老中に抜擢)を模範とするに如はなし」とした。
最後に、彼は、「急務」18カ条をあげて、@百姓を勧める、A農業を教える、B都居を減らす(士族帰農)、C衣服を正す(華美衣服の禁止)、D百工を興す、E市場を立てる、F村商を止める、G造醸を管す、H貧窮を周くす(救う)、I病者を救う、J小児を育てる、K堕胎を禁ず、L駅亭を立てる(交通円滑化)、M海港を修める、N漁村を轄、O塩やきば(製塩)を設ける、P山沢を設ける、Q交易を通ず、というものである。
ここには、崩れ始めた封建的な本百姓体制の維持を基軸とした「神道的経済道」が説かれていると言えよう。神意ではなく、「自然の摂理」にこそ気付くべきであったろう。
天保9年には、彼は『物価余論』を著わして、「日本の悲惨な現実は‥『開物』の業が不充分であることと、富家の兼併がはなはだしいことにもとづく」(塚谷晃弘[『国史大辞典』423頁])とし、「開物」法(地力を尽くし、海外通商)と「復古法」(本百姓復帰)を提唱したのである。
『垂統秘録』では、@士農工商を廃止して、国民を国家8部局(本事、開物、製造、融通、陸軍、水軍)の官吏か労働民(草、樹、礦、匠、賈[あきんど]、傭、舟、漁)とし、A一切の売買・貸借・雇傭の私営を禁じて、公営とし、B租税を廃止して、国家費用は事業公営の利潤の一部によってまかない、C生産資本、土地の国有を提唱した(塚谷晃弘[『国史大辞典』423〜4頁])。
この革新的意見には、同じ秋田出身の安藤昌益(1700年頃生まれ)が宝暦8(1758)年に『自然真営道』を刊行して、封建社会を廃止して「自然世」としていたから、それが影響しているかもしれない。因みに、このE・H・ノーマンによって「忘れらた思想家」とした発掘された安藤昌益にあっては、農民を搾取する封建制を批判して、その打破を提唱していたから、「御用学問的な経済学」などを提唱することはなかった。
欧州では、封建体制を突き崩す農民的商品経済=中産的生産者のブルジョア的発展を基盤とした動きを認め、助長する自由放任主義の経済学が誕生したのとは対照的である。
小括 日本では、経済学は封建危機対応の「国家経済学」として誕生したのであり、それは封建的為政者の内治徳目であり、領内富国、農民窮乏救済が目的であったのである。日本では、封建社会の危機打開策=富国策として「神道的経済学」が江戸時代に誕生していたことが注目されよう。
ただし、二宮尊徳(1787〜1856)は、論語、仏教などに基づきつつ、「経済には、天下の経済があり、一国一藩の経済があり、一家もまた同じである。各々別のもので、同日に論ずるわけにはいかない」(福住正兄『二宮翁夜話』明治17年、314頁)と見ていた。彼は武家、村、藩の財政窮乏を打開した経験を踏まえて、家、藩、国の経済を指摘していた。
だから、尊徳は、「『自然における人間』という志向よりも、『自然を超える人間』という志向をもっていたようで」(R.N.ベラー、池田昭訳『徳川時代の宗教』岩波文庫、1996年、252頁)ある。自然の農業では窮乏打開できないので、窮乏を打開するために、農業生産力を増加させるための努力(雑草駆除、不毛地開墾など)を重視したのである。
ただし、尊徳は、経済が道徳を基礎とすべきことを提唱した。上述の様に、「家々、村々を助けるものは、彼が天、地、人から受けた恩に報いている」(Armstrong,Just
Before the
Dawn,p.177[ベラー同上書、252頁])と見るのである。
そして、明治21年、福住正兄は「『夜話』あとがき」において、「報徳学」は「実行学」であって、「実徳を尊んで実理を講明し、実行をもって実地に施し、天地造化の功徳に報ずるのを勤めとして、安心立命の地とする教え」(『日本の名著』26、354頁)とした。そして、福住は、これは「道徳と経済」の関係であり、「道徳を土台とし、経済を働きとし、この二つを至誠の一つで貫くのを道」とすることとした。
『夜話』あとがきで、尊徳は、「仏は諸行無常という。世の中で行なわれるすべてのものは、みな常にないものだ。それを有るとみるのは迷いだ。おまえたちの命も、おまえたちのの身体ももなそうだ。長短・遅速はあっても、みな有るのではない。有ると思うのが迷いだ。本来は長短もなく、遅速もなく、遠近もなく、生死もない。‥諸行無常と悟れば、世界全体は空となって、恨むのも、ねたむのも、憎むのも、憤るのも、ばかばかしくなるのだ。そこの所に到達すれば、自然に怨念も死霊も退散する」(373〜4頁)とした。
こうして、尊徳は、「(農業において)資本の活用と蓄積をストレートに要請」(ベラー同上書、257頁)しつつ、子孫、両親、天、地などから受けた恩に報いる義務を提唱したのである。これが、幕藩権力や絶対天皇制権力崩壊後も、報徳運動が展開し続けた所以であろう。
2 明治時代
近代経済学(Political Economy)は19世紀中葉に日本に導入されて、『経済学』と訳されてゆく。在来日本の封建統治的経済学ではなく、欧米から経済学が輸入されて、それに「経済学」の訳語があてられたのであった。
福沢諭吉 福沢は『学問のすすめ』(明治5−9年。『日本の名著』33、52頁)において、「もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」として、習字、算盤、地理、窮理(物理)、歴史、経済、修身(「天然の道理」)とする。その経済学とは、「一身一家の所帯より天下の所帯を説きたるもの」とした。
そして、彼は、「これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便」ずとした。ちなみに、諭吉が用いた経済学教科書はWayland著TheElementofPoliticalEconomyである。
明治10年には『民間経済論』を刊行した。諭吉は、欧米経済学者と同様に、国家経済ではなく、民間経済に着目した。
西周 西は、『百学連環』において、「近来津田(真道)氏、世に之を訳して経済学といへり」とした。津田らは、江戸時代に佐藤等が使用していた「経済学」を援用したのである。
こうして明治以降、民間経済、国家経済などとして経済用語が使用されてきたが、古くは中山伊知郎から新しい所では竹中平蔵まで、経世済民の理想に燃えて経済を志したという場合、それが「統治者経済」であることに留意すべきであろう。
だからといって、吉田和男氏(『日本財政論』、『解明 日本型経済システム』)が「陽明学」を持ち出すのも、「時代錯誤」であろう。氏は、@「経済学の目的は孟子が言うように『恒産ありて恒心あり』、まさに『経世済民』」だったが、A「貧困問題がかなり解決でき、経済学にやるべきことがなくなって、『理論のための理論』に傾いているのが現状」だから、B「学問も実践を通じてこそ意味があ」り、「多様な価値観の中でもっと議論をし、社会に向かって行動」する必要があり、「その基本的な認識を学ぶのが陽明学である」(1997年2月1日付「朝日新聞」)とする。環境問題、南北問題、累積債務問題などを想起すれば、Aの認識のおかしさは誰にでも理解できよう。Aの認識が浅薄なので、Bがなぜか唐突である。
総じて、「経済」の根元的意味が歴史的に把握されてはいないのである。
第四 経済学の展開
1 新古典派経済学(限界革命)
アダム・スミスは哲学を重視していたが、経済学を構築するに際して、哲学を後景においやった。彼の後継者とも言うべき新古典派経済学もまた「価値の哲学性」を放擲して、人間効用前提の主観的価値論、価格中心理論を構築したのであった。つまり、彼らは、「(客観的)価値論を形而上学として拒否し、価格論こそ経済学の本命」(石渡貞雄『経済学の危機』273頁)だとしたのである。彼らは、「市場機構に全般的な信頼を置」き、「市場における『稀少資源の配分』に焦点を合わせた」(根井雅裕『21世紀の経済学』講談社、58頁)のである。人間にとっての資源の希少性という観点が露骨であって、自然に対する畏敬の念などさらさらも示さなかった。
宇沢弘文氏は、経済人を想定するのは新古典派経済学だとする。氏によれば、新古典派は、「経済社会を構成する個々人の人間を経済人としてとらえ、それぞれ社会的、制度的、歴史的条件から独立した主観的価値基準をもち、市場的交換の場に直面して常に最適な行動を選択するという合理主義的経済社会を想定しようとする」(『近代経済学の転換』岩波書店1986年、8頁)とする。
つまり、新古典派は、「絶えず自己の利益の最大化を求めて行動する経済人という概念を導入することによって、‥市場経済を、それを包含する全体的な社会体系から切り離して、純粋経済学的な分析を適用できるようにした」(22頁)のである。ここでは、経済人は制度的制約とは無関係に合理的に行動するとされている。
限界効用拡大理論は一見すると、まことに合理的な理論に思える。有限の資源を無駄に使うよりは、有効に活用し、利益が極大になるようにすることは、いかにも合理的なように見えるのである。
だが、この理論の最大の欠陥は、あくまでそれは「人間にとっての効用」であって、「自然」の観点が欠落していることである。資源が有限であり、その人間の資源使用が「害」(人間の住環境としての地球自然破壊)を生むならば、基本的に資源を使わないことが最もよい。だが、どうしても人間はその資源を使わねば生きて行けないならば、「畏敬の念をもって使わせて頂く」ことこそが重要なのである。自然への畏敬の念をもって使わせていただくならば、自ずと「無駄」は省けるし、「自然、人間の双方にとって最適な状態」がもたらされるのである。
だが、限界効用学派は、こうした自然のへ観点を欠落させていたのである。
ジェボンズ ジェボンズ(1835〜82)は、スミス価値論は間違っているとして、人は快楽と苦痛との計算に基づいて行動するというベンサム仮説と微分積分とで限界効用という虚構をつくりだした。
この考えを『経済学の理論』(寺尾琢磨ら訳、日本経済評論社、1981年)から探ってみよう。彼は、「効用および利己心の力学」として、快楽・苦痛の計量から限界効用を算定するという数量的心理主義をとった。そして、彼は、「最小の努力をもって我々の欲望を最大限に満たす。‥効用と利己心の力学−望ましいものの最大量を望ましくないものの最小量をもって取得すること−言い換えれば、快楽を極大化することが経済学の問題である」とした。実にくだらないことを課題に設定したのである。
効用の測定に数学を導入して、いかにも科学的であるような外装をほどこしただけであったのである。
メンガ− メンガーはウィーナー・ツァイトゥング新聞の市況欄を担当しているうちに、大学で学んだスミス経済学は現実を反映していないと思うようになった(山崎好裕『おもしろ経済学史』ナカニシヤ出版、2004年、24頁)。つまり、「市場を知り尽くした専門家が価格に決定的な影響を与えるとみる諸事象が、学問として教えられている価格理論とまったく一致していない」(八木紀一郎『ウィーンの経済思想』ミネルヴァ書房、2004年、37頁)ことに気付いたのである。経済学では、専門知は役立たず、世間知のほうが真実を反映しているのである。
そこで、メンガーは、スミスの客観的な労働価値学説とは異なり、人が財を消費した時に感じる主観的価値を根幹とする学説を提唱する。メンガ−は、経済学の考察対象を「生産者側の欲望」ではなく、「消費者側の欲望」に転換したのであった。はっきり言おう、経済学とはこの程度のレベルでも通用する低水準なものだということを。落ち着いて考えれば、「消費者側の欲望」などを偏重することはおかしいのである。
メンガ−は、価値とは消費者側の主観が対象に付与するものであり、対象の量が増加するに従って、価値は逓減するという限界効用論であるとした。従って、ここから、経済学とは「有限な資源の効用を最大化するための選択」(後藤隆一前掲書)だという定義が導出される。
ここでは、自然への観点が完全に欠落しており、さらに、@人間は効用を求めて行動し、A限界効用は逓減し、計量が可能であり、B全ての用途で限界効用が均等化した点で資源は最適配分されることなどが前提されている。その意味でメンガ−限界効用論は主観主義的価値論なのである。だが、この主観主義的価値論は、限界効用分析に数式を導入することによって、その限りでは自然科学的性格を帯びることになる。
それでも、この限界理論が、限界生産力説をうみ、価格分析を展開させる。
限界革命 この点を強調するのが、安井琢磨、熊谷尚夫、福岡正夫『近代経済学の理論構造』(筑摩書房、1977年)である。彼らは、近代経済学を限定して、「『限界革命』の洗礼を経たのちの、均衡分析を基盤とした経済理論」だとする。自然への観点を欠落した理論が、「欠陥を帯びたまま独走」を始めた。
それは、「1870年代のはじめにジェヴォンズ、メンガ−およびワルラスの三人の学者がそれぞれ独立に限界効用学説を提唱し、やがて同じ分析方法が1890年代に限界生産力説をも生み出すにいたって、経済理論は古典派の労働価値説あるいは生産費説の制約を脱却し、新しく画期的な進展をなすべき機運を与えられた」からだとする。つまり、ワルラスとマ−シャルの均衡分析によって、「市場現象の奥に価値の実体を探る哲学的思弁を惜しみなく抛擲し、その代りに一方では限界原理にもとづく主体の経済行動の分析と、他方では市場における需給整合のメカニックス(価格作用−筆者)の上に経済理論を築きあげようとするまったく一致した立場が成立」したとするのである。我々は、これが「哲学的思弁を惜しみなく抛擲」したものであることを確認しておこう。
均衡理論 アルフレッド・アイクナ−は、「今日、古典派経済学と呼ばれている学説の中心的な構想は、数学の素養のあった二人の工学研究者、レオン・ワルラス(1834−1910)とブィルフレッド・パレ−ト(1848−1923)の関心をひ」き、「彼らはその構想を、代数と解析という簡潔な言語へ置き換えることによって、かなり精緻で明晰な体系にし、その理論を一般均衡理論と称し」たとする。
つまり、この一般均衡理論とは、@経済体系を構成している諸変数(特に消費財の需要関数、生産用役の供給関数など)は相互に関連し、Aその相関は連立方程式体系で表現され、Bすべての財の価格と需給量が同時均衡する条件(需要関数と供給関数の均等条件、各財の生産費と価格の均等条件)を考えるというものである。これは、ある財の価格は、ほかのあらゆる財の価格の影響を受けるということを前提としている。だが、実際には「市場全体で需要と供給が一致しないままに個々の取り引きが行われてしまう」(山崎前掲書、35頁)など、現実を反映した理論ではなかった。
ワルラス『純粋経済学要論』には、「社会的富の理論」という副題がついており、「社会的富」とは「稀少であるために、いい換えれば効用をもつとともに量が限られているために価格を持つことができる物質的、非物質的なすべての物の総体」(久米雅夫訳、岩波書店、1983年、X頁)と定義している。希少性、効用と、相変わらず、人間中心の自然観であって、自然を畏敬の念で眺め、「自然の摂理」「宇宙・物理学の動き」をみるという観点が欠落している。
また、パレ−トは、完全競争の状態で、「他のいかなる人の状態を悪化させずには、もはや何人の経済的状態も改善される余地がない様な状態」が「社会的に望ましい状態」であり、資源配分上で最適(パレ−ト最適)とする。そして、彼は、エッジワ−スの箱を利用して、二財への二人の消費の無差別曲線、二財を生産する企業の等量曲線(効率性曲線を導出)、生産可能性曲線と接線(X財とY財の限界費用の等しい点)から消費者と企業との最適点を算出する。だが、こういう最適は多様な実態をいささかも反映していないし、自然との関係が欠落している。「人と人との最適な状態」は「人と自然との最適な状態」ではないのである。
それに対して、マ−シャル、ピグ−は、ある財の価格に関して、他の全ての財の価格を所与として分析して、部分均衡分析の道を開いた。これは、特定市場に視野を限定するために、分析上の制約を免れない。
そして、アイクナ−によると、1980年代には、この一般均衡理論は、「新古典派経済学という名の下に、アメリカの経済学部および大学院教育の中核」(『なぜ経済学は科学ではないのか』日本経済評論社、1986年)になったという。
なお、この均衡に関して、均衡点は一つだけではなく、複数点あるという見解(ナッシュ均衡)が提起されているが、これはもともとこの均衡自体が実態を反映したものではないからである。だが、これは末梢的なことだ。
物理学の影響 こうした均衡理論に影響を与えたのが、ニュ−トン力学、スミスの「神の見えざる手」論であると言われている。もともとニュ−トン力学は物理的世界における神の秩序の証明として出発したのだが、やがて神から離れて機械論的モデルの力の均衡による世界像を発展させていったのである。
これが、「自然法則と同じような経済法則が働いている」という事になって、経済学の均衡理論モデルとなるとされたのである。つまり、「古典物理学の方法の二本柱」を要素還元、数量還元の方法とらえて「経済に馴染」み、「物理現象と経済現象とのあいだには、きわめて緊密な類似性が認められる」ので、「新古典派経済学の基本的枠組みは‥古典物理学の『模倣』として構想」(佐和隆光『これからの経済学』15頁)されたのである。それは、物理学の形式を踏襲したにすぎぬものであった。
こうして見ると、ニュートンは、自らは物理学法則を離れて御用学的に貨幣論を構築したり、後に均衡理論に物理学的方法を「悪用」されてしまったのである。
そして、スミスの「神の見えざる手」は均衡を実現する価格メカニズムに繰り込まれ、利用されるることになる。人間の欲望の対価たる価格が、神の意によって均衡させるというのは、いかにも権力者が神意を持ち出して正当化することに似ている。
2 ケインズ革命
ケインズは当初は数学を学んだが、やがてマーシャル、ピグーの個人指導を受けて経済学を学ぶようになった。
1930年代の大不況の克服策として世に「ケインズ革命」と称されるが、それは決して「経済学上の根本的革命」ではなく、ただ「古典派経済学とは大きく異なる発想にたつ」ぐらいのことであった。絶対主義の御用学者が物価騰貴問題に対処するために貨幣数量説を提唱したように、大不況に対処するために新たな経済学を提起しただけのことである。その革命は「マーシャル的伝統の支配下にあるケンブリッジ文化圏内部での事件」(伊藤前掲書、174頁)でしかなかったのである。然し、ケインズは、マーシャルの道徳論を「ばかげた」ものとして軽視した(伊藤前掲書、181頁)。ケインズには、「貧困の克服のために経済学を研究しようという倫理的動機は・・存在しなかった」(伊藤前掲書、182頁)のである。
資本主義論 ケインズは資本主義の将来に対しては悲観的であった。シュンペターは、「マルクスにおいては、資本主義的発展は結局破滅に突入することになっている。J.S.ミルにあっては、それは支障なく運行する静態的状態にいたるとなしている。これに対して、ケインズにおいては、それはたえず破滅に脅かされる静態的状態に進むのである」(ケインズ追悼論文[浅野栄一編『ケインズ経済学』有斐閣、昭和48年、2頁])と指摘した。
確かに、第一次大戦後、ケインズは最早神はなくなっているとして、資本主義の将来に対して「不安」を抱き始めていた。それは、「神のない社会に対するビクトリア朝時代人の不安」に似ていた。ケインズらは、「経済的資本の蓄積を支えた倫理的な資本のはなはだしく枯渇させられてしまった」(ロバート・ステルスキー、宮崎義一監訳『ケインズ』U、東洋経済新報社、1992年こ)とを感じていたのであった。
新しい因果論 古典派経済学は、合理的経済人を前提とし、自由な市場メカニズムのもとでは、神の見えざる手によって、@労働の需給の不均衡は賃金の変動によって、A資本需給を示す貯蓄・投資の不均衡は利子率の変動によって、B生産物の需給の不均衡は商品価格の変動によって、自律的に需給が均衡するとした。そして、「供給(貯蓄)はそれ自身に対する需要(投資)をつくる」(セイ法則)と、信じられていた。
だが、ケインズは、1926年「自由放任の終焉」で、「現代における最大の経済悪は、危険、不確実性、無知に原因するところが多い。富のはなはだしい不平等が生ずるのも、境遇ないし能力に恵まれている特定の個人が、不確実性および無知につけ込んで利益を手に入れることが可能だからである」(伊藤前掲書、182頁)としている。ケインズは、欲望の問題まで掘り下げることはできずに、「無知、不確実性、危険」などの現象的要因を指摘している。特定個人が「不確実性および無知に付け込む」のは、その特定個人の富欲望である。この欲望さえなければ、こういう所につけこむ輩もでてこないのである。ケインズはこの点の理解に到達していないのである。
ところで、ケインズの不確実性とは、、伊東光晴氏の洞察(「20世紀の古典 ケインズ」[1996年10月11日付朝日新聞])によると、次のようものである。ケインズは合理的な経済人を前提することに疑問を抱き、多様な経済的行動を想定した。ケインズはインドに滞在していたこと(1906〜08年)が影響してか、@因果科学(過去が現在をつくりだすという原因・結果の科学)とは逆に、「過去の(現在への)影響は人により多様であり、現在の行動はそれを逃れることができない」し、A将来は不確実であり、この不確実な将来も現在に影響するとする。だから、予想収益を推定する上で依拠する知識もあてにならないことになる。この不確実を「無常」と置き換えれば、ケインズは、「仏教的」因果論をもって、近代科学的因果論を放擲したとも言えるかもしれない。
伊東氏によれば、@上記このような「思想をもったケインズは、従来の経済学の基礎前提を批判し、人々がどのような行動をとろうとも、社会全体の所得水準を決定する客観的メカニズムを明らかに」し、A「この考えは、経済学の革命をもたらし、1930年代の大量失業現象発生のメカニズムの解明とそれへの政策を提起」してゆくのである。いわゆるミクロ経済学的アプロ−チからマクロ経済学的アプロ−チへの転換である。
つまり、ケインズは、1930年『貨幣論』(貯蓄・投資アプローチの提出)、1936年『雇用・利子および貨幣の一般理論』を刊行し、資本主義経済の中に占める貨幣の重要性に着目した。人間はこの貨幣を投資して、富を形成し、蓄積するというのである。特に後者で、ケインズは、消費性向、資本の限界効率、流動性選好を主軸概念して、自分の理論は大不況でも通用する一般理論を構築しようとしたのだった。だが、これは、
「国民所得・雇用量は有効需要で決まる」、「有効需要は消費需要と投資需要からなる」、「所得は投資の乗数倍だけ増大する」、「利子率は流動性選好で決まる」など、「虚構」世界に構築された理論であった。なぜ「虚構」というかと言うと、その「根本には『金利生活者の貨幣愛』があった」(伊藤前掲書、191頁)からである。
伊東氏は、「ケインズの一生は、衰えゆくイギリスを支えるための経済政策と政治を求めての苦闘だった」とも言う。ともあれ、ケインズは、古典派経済学の自動調整論、人間観、因果科学論をマクロ的観点から批判したのであった。
だが、ケインズの思想がインド的影響を受けていたとしても、自然に対する根元的思想をかたちづくるものにまではいたっていなかった。とうてい「東洋哲学・思想」の域に達するものではなかったし、マーシャルの物理学的・生物学的方法を開拓することもなかった。
有効需要の不足と造出 ケインズは、大量失業発生のメカニズムに関してどう見ていたかというと、彼は、資本蓄積が進展し、経済が発展してゆくと、@資本蓄積と経済発展の均衡が破れ、A既に多くの投資機会が実現されて、少しの投資機会しか残らなくなると、投資需要は実物貯蓄よりはるかに小さくなり(有効需要の不足)、大量失業が発生し(富分配の不平等)、資本主義が危機に直面すると、「経済的」にしか見れなかったのである。
そこで、ケインズは、この「危機を救済する経済学」をつくろうとした。彼もまた「目先の経済危機」を糊塗する「経済学」に甘んじることになった。つまり、彼は、1936年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著わして、危機に無力な古典派経済学を批判した。大量の失業者が生じ、価格の調整機構が硬直化する危機においては、こうした古典派の自動調整メカニズムは有効に作用しないとしたのである。
そして、彼は、貯蓄と投資の関係について、セイ法則を批判して、@投資増加が結局において、それと同額の貯蓄増加をもたらし、あたらしい水準を成立させ、A経済発展も基本は貯蓄ではなく、投資であるとした。ケインズは、投資が国民経済の規模を決定すると主張したのである。そして、この投資を決定するのは、予想利潤を最大化する点であるとした。
だが、この生産面での利潤を最大化する点は、需要の不足によって限定されている。その理由は、状況如何では消費者は貨幣で蓄積することをも好むので、所得はすべて需要=消費に向けられないからである。貯蓄者は消費者であり、投資家は生産者であって、各々異なった関心をもつから、貯蓄と投資は一致しないのが普通なのである。この結果、@需要不足、過剰生産が生じ、A投資が縮小化に向かい、B失業と不況をもたらすとする。
ケインズ理論の特徴の一つは、あくまで「人間経済の枠内」で有効需要不足とその対策を指摘したことであった。「浅はかな人智」の一時的な彌縫策でしかないのである。彼は、有効需要創出の理論を主張して、@不況の原因は投資・消費からなる有効需要の不足であるとし、Aその解決策は賃金切下げではなく、金融・財政政策による有効需要の創出にあるとした。つまり、この需要不足を補うこと、つまり有効需要を創造することが重要となるが、企業にはこれはできないので、結局政府が財政金融で有効需要創出の役割を担うことになるというのである。つまり、自由市場経済では需給不均衡が常態であるから、これを均衡させるのは、政府の役割だとするのである。
この政府の経済干渉をもって、鶴岡氏は、「『重商主義』は・・・一九二九年に始まった世界恐慌の克服のため、・・・『ケインズ革命』で復権した」(前掲『黄金と生命』326頁)とするのである。ケインズは、危機を政府の総需要管理で乗り切ることを提唱し、経済学を再び御用学問化してしまったのである。
では、ケインズがいなければ、1929年危機を彌縫できなかったかというと、実はそうではないのである。ケインズなどがいなくとも危機克服のための需要造出は、危機克服担当者なら思いつくことであった。その証拠に、日本では高橋是清が登場していることがあげられよう(詳細は、拙著『国際財政金融家 高橋是清』教育総合出版、参照)。
ケインズ理論に戻ると、彼は、投資が増加すると、乗数倍の所得ないし有効需要が生み出されるとした(乗数理論)。ケインズは、労働と資本が富をつくるのではなくて、有効需要(=投資+消費+政府支出)が富を生み出すとしたのである。投資という「虚構」が、富という「虚構」をつくりだすのである。つまり、ケインズは、民所得水準は、基礎消費と独立投資の和に乗数を乗じて算定されることを示したのである。こうした数学的論証が、所論に自然科学的な厳密さの印象を与えるのである。これは、投資のみならず、借金による消費も生産になるという「奇妙」な考えを生み、GDP(国内総生産)に受け継がれている。
ケインズは経済学それ自体を根本的に論じたのではなく、目前の失業者、経済危機の対策として政府の有効需要創出を提唱したのであった。だが、それも所詮一時的に危機を緩和して、問題を後に引き伸ばしただけであった。政府の財政負担を大きくして、赤字財政を深刻化させていったのである。
3 新古典派総合
ヒックスやサミュエルソンは、新古典派経済学にこのケインズ理論のマクロ経済学を付け加えることによって「新古典派総合」を構築する。
サムエルソン(1915〜)は新古典派の極大原理を数学で明快に整理して新古典派経済学を彫琢しつつも、ケインズ経済学(自由放任のもとでは経済が大量失業を伴いながら均衡してしまうので、政府が財政金融政策で有効需要を造り出して、完全雇用になるようにすれば、市場機構が有効性を取り戻す)を新古典派復活のために取り入れたのであった。
1948年初版の『経済学』は版を改めて近経教科書として広く読まれている。彼は、第3版で、@不況時に公共投資を実施する有効性を主張し、Aこれで景気の過熱、過度の後退を避けられると主張した。
これは1960年代の民主党ケネディ政権に大きな影響を与えた。マネタリズムに言わせれば、「1960年代から1970年代初めにかけては、左派の思想が米国の政策に対して最も大きな影響を与えた時期」であり、ジョンソン政権の老齢者医療保険制度、公的住宅政策、教育助成プログラムや、ニクソン政権の労働安全衛生庁設立、環境保護庁設立、絶滅危惧種保護法の制定、社会保障制度の拡充などは「不幸な政府機能の拡充」(ロバ−ト・J・バロ−、中村康治訳『バロ−教授の経済学でここまでできる!』東洋経済新報社、2003年、9頁)に過ぎなかった。当時は、「政府が絶え間なく民間経済に介入することにより、景気循環を平準化し、長期的な経済成長を刺激することは良いことである」と見られていた。
4 新古典派=マネタリズム
1970年代にスタフグレ−ションに新古典派総合は有効性を発揮できなくなると、ケインズ経済学は退潮して、権力は、新古典派=シカゴ学派(フリ−ドマン、スティングラ−ら)を取り込んでいった。
彼らの主張は「自由な市場は、ほとんどの場合うまく機能するので、政府の民間経済への介入は限定されるべきもの」であり、「経済分析は‥さまざまな社会的な現象を説明するうえで非常に有益である」というものである(ロバ−ト・J・バロ−、中村康治訳『バロ−教授の経済学でここまでできる!』東洋経済新報社、2003年、17頁)。
フリードマン ミルトン・フリ−ドマン(1912〜)は、『資本主義と自由』(原書1962年刊行、熊谷尚夫,西山千明,白井孝昌共訳は1975年マグロウヒル好学社より刊行)において、「競争的資本主義ーすなわち、大半の経済活動が、自由市場において活動する民間企業を通じてなされる組織ーを、経済的自由の体制として、また政治的自由を実現するための一つの必要条件として把握し、その役割」を考察した。彼は政治組織も経済組織も自由な市場とみて、その観点から政府の小さな役割を論じたのであり、アダム・スミスの「小さな政府」論と相通じていた。いやいや、通じていたどころではなく、それを金科玉条としていた。
彼は、「アダム・スミスは、自由市場の礼賛と政府活動の制限を唱えたことで評価さ れる。とくに有名なのは、各個人が自らの私欲を追求することによって、まるで『 神の見えざる手』によって導かれるがごとく、社会全体でみると効率的な結果を生み出すという考え方である」(バロー前掲書)と、自分に都合よくスミスを受け止めたのである。
のみならず、フリードマンの「経済学における目的は、アダム・スミスや自由市場経済を礼賛すること」(14頁)にまでなったのである。フリードマンらは、アダム・スミスの「経済的自由」「小さな政府」の「デ−タ」武装された信奉者なのであり、まさに新古典派そのものであった。バロ−は、「新古典派経済学は、単にイデオロギ−のみに基づいているのではなく、実際のデ−タ(1960年以降の100カ国)によって検証をおこな」い、次の諸点が明らかになっているという。つまり、@「法のル−ルの遵守度合いが高いこと、国内外市場の開放度が高いこと、非生産的な政府支出が少ないこと、高い経済成長や設備投資を支えていること」、 A「教育や医療への投資が多いこと、低い出生率、低いインフレ率も、高い経済成長を支えていること」などが明らかになっているというのである。
ついで、フリードマンは、『選択の自由』(原書1980年刊、西山千明訳は2002年に日経ビジネス文庫刊)で、「個人の自由と経済的自由というふたつの理想は、手を携えてその威力を発揮することによって、アメリカにおいてもっとも大きな実りをもたらした」(666頁)とする。従って、「過去一世紀において、自由市場的資本主義は、・・不平等を増大させ、富裕な者が貧困者を搾取する体制だとする神話が広がってきた。これほど真理ほど遠い考え方はない」(340頁)と批判するのである。そして、彼は、「自由市場の運営を許されているところや、『機会の平等』へと近づいていることが許されているところではどこでも、通常の人がかっては夢みることさえできなかったような生活水準を、次から次へと達成することができている」(340頁)と、自由主義を賞賛するのである。
だが、賢明な読者は、実際には、この自由の恩恵に浴した者は一部にとどまり、少なからざるものが貧困で苦しんでいることを知っているであろう。そうである、こうした自由市場での競争によって経済的弱者は切り捨てられたのである。それは、まるでフランス政治学者・貨幣数量論者ジャン・ボーダン(1530−1596年)の「悪魔狩り」
=「社会的不適応者」淘汰に比肩されるものでもあった(ピーター・バーンスタイン、鈴木主税訳『ゴールド』日本経済新聞社、2001年、鶴岡前掲『黄金と生命』326頁)。そして、こうした「社会的不適応者」を「負け組」とも称して、これをごく当然のことにしようとしたのであった。さすがに、これに対しては、心ある「識者」から厳しい批判を浴びているのは周知といってよかろう。
次に、彼らが自由競争、小さな政府を重視する以上に、貨幣的要素を重視し、マネタリズムといわれる所に進もう。だが、マネタリズムには、フリードマン、サイキンズ、ミンツ、ナイト、ヴァイナーらシカゴ大学教授陣(シカゴ学派)のみならず、非シカゴ学派(ウォーバートン、カリー、エンジェルら)もいることはいうまでもない(安部大佳『アメリカ貨幣需要経済論の研究』晃洋書房、1999年、381頁)。アメリカでのマネタリズムの裾野は広いということを確認しておこう。
彼らマネタリズムの特徴は、経済成長の役割として、政府ではなく、あくまでも貨幣を重視することにある。レイドラーは、「マネタリズムは根本的には『マクロ経済分析の貨幣数量的アプローチ』」(久保田哲夫ら訳『現代マネタリズムの潮流』春秋社、1987年、3頁)とした。フリードマンは、『貨幣の悪戯』(斉藤精一郎訳、三田出版会、1993年)において、「数十年の長い歳月、わたしは貨幣的現象の研究に取り組んできたが、その間、幾度となく痛感したことがある。それは、一見、通貨の動向の些細な変化と思われたことが、実は経済全体に思いもよらない影響を広範に与えたという事実だ」(はしがき)と、貨幣の役割を重視する。ウォバートンらは、マネタリズムとは、不況は「貨幣の収縮に起因」し、貨幣システムの攪乱が「景気変動の要因」(安部前掲書、384−5頁)と見るものだとした。
フリードマンは、具体的には、@「長期的にも、短期的にも、貨幣量の増加率と名目所得の増加率は完全な相関があると葉いわないまでも、一定の関連を持つ」のであり(バロ−前掲『バロ−教授の経済学でここまでできる!』69頁)、A「インフレーションが生産量の増加を上回る貨幣量の増加によってのみ引き起こされるという意味で、『インフレーションはいつ、いかなる場合でも貨幣的現象である』という命題が成り立つ」(72頁)のである。
そして、フリードマンは、「今日、世界の主要な通貨は、直接的にも、間接的にも兌換性がない紙幣を本位貨幣とする制度に基づいている」(バロー前掲書312頁)として、現在貨幣は金銀裏づけを失った銀行券となっていることを指摘する。彼は、我々がいつ「貨幣の悪戯」に巻き込まれてもおかしくない情況にある危険性を十分承知していたのである。
さらに、フリードマンは、「貨幣はあまりにも重大な問題」だから、中央銀行や連邦準備銀行に任せるべきではなく、政府も確固たる金融政策をもつべきだと主張する。彼によれば、景気循環は、政府の財政政策ではなくて、通貨供給量と利子率で決まるのであった。ケインズは、「大恐慌のときに民間経済が非常に悪いパフォ−マンスを示していたのを見て、政府の民間経済への積極的な介入を提唱した」が、フリ−ドマンは、「大恐慌の主たる原因は、政府の政策の失敗、なかでも金融政策の失敗が原因である」として「大恐慌時にデフレ−ションを回避することに失敗した連邦準備制度の経験を踏まえて、一定の金融政策ル−ルを採用することが望ましい」(バロ−前掲『バロ−教授の経済学でここまでできる!』、4頁)と提案した。
自然環境無視 この様に、フリードマンは、富社会における「人間と人間の対立」を見過ごしたのみならず、「人間と自然との対立」も看過したのであった。彼には、自然への畏敬の念などなかったのである。
従って、フリードマンは、自然環境破壊問題を深刻に受け止めることはなかった。彼は、一応は自然破壊問題は市場経済に内部化して解決すると称してはいたのである(前掲『選択の自由』訳者はしがき、)。しかし、実際にはそうならなかったことは現実が示しているのである。彼は、ただ数量的な経済成長のみを指標とするだけで、地球の環境悪化に関してはまったく視野にないのである。
概して、マネタリズムでは、経済成長策に関しても、「ハ−ドな政策」(低インフレを目指す規律のきいた金融政策、抑制的な財政政策、効率的な税制、低い限界税率、効果的な国債管理政策、経済成長を促進する政策[国際貿易に対する開放度、市場メカニズムに基づいた規制政策、軍事的衝突の回避、財産権や法や秩序を保護する法律体系の維持])を重視して、「ソフトな政策」(環境保護のみならず、民主主義、女性向け教育、所得水準の不平等の解消、多数の市民団体組織、社会資本の促進)は軽視するのであった(バロ−前掲書、126頁以下)。
御用学問化 ジャン・ボーダンの貨幣数量説が絶対王政の御用学問だったように、以上のミルトン・フリードマンの貨幣数量説も形を変えて、米英政権の御用学問化した。フリードマンらは、金融政策面では「インフレは常に‥貨幣的現象である」から、貨幣供給量さえコントロ−ルできれば、インフレは退治できる」などと提唱し、これが1980年代にケインズ政策で行き詰まっていたイギリスのサッチャ−政権、アメリカのレ−ガン政権の「経済政策」になったのである。
サッチャー首相(1979年英国首相就任)は、「市場原理を導入し、すべてを競争に委ねるべき」というマネタリズム理論を導入し、@国有企業の民営化、A規制緩和、B税制改革などを打ち出した(2006年2月8日毎日新聞)。彼女は、「政府の公共支出増大は経済を政府任せにしかねず、本来自由で独立自尊であるべき企業が政府に寄りかかっていれば、企業の活力が失われる」(1990年11月26日付毎日新聞)と考えたのである。
一方、レーガン大統領(1981年米国大統領就任)は、@歳出削減による財政収支の改善、Aサプライサイド・エコノミックス=大幅減税による貯蓄・投資の刺激、B規制緩和、C通貨供給量の管理を重視した安定的金融政策を打ち出した。この政策の推進で、80年代後半以降、アメリカでは「上層階層はますます富み、下層階層が拡大」(2005年9月7日付毎日新聞)するという事態をもたらしたのであった。マネタリズムは、ガルブレイスが予言したとおり、アメリカ上層階層を満足させる政策だったのである(2005年9月7日付毎日新聞)。また、スティグリッツは、『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店,
鈴木主税訳、2002年)において、IMFとアメリカ財務省の「偽善」を批判し、マネタリズムの市場原理主義・民営化・自由化などを非難した。彼は、これが失業、貧困を増大させ、不平等を拡げたとしたのである。
それに対して、シカゴ学派バロ−は、税率引下げによる持続的成長と、インフレ率の大幅な低下は「レ−ガン政権時代における大いなる経済政策の成功」であり、膨れ上がった財政赤字に対しては「経済に対して害のないもの」とし、貿易赤字は言及すらしないのであった(前掲書、167頁)。
アメリカでは、経済学者が大統領経済諮問委員会(CEA)などを通して政府の経済政策に関与すること、つまり御用経済学者であることが当然とされており、こうした「政府の経済政策」の失敗への対応策、特効薬として「場当たり的に」古典派経済学の修正が行なわれてきただけであった。にもかかわらず、1969年、このアメリカ経済学の「賞賛」と「正当化」のためにノ−ベル経済学賞が設けられ、1976年フリードマンがノーベル経済学賞を受賞したのであった。
だが、世論はこの不当性を看破していた。授賞式で場内の聴衆一人が立ち上がって、「チリ人民に自由を」(ビノチェット独裁政権がマネタリズムを導入して貧困層を犠牲にした)と書いたものを掲げ、「資本主義とフリードマン打倒」と叫び、場外には4000人のデモ隊がフリードマン非難を叫んでいた(『フリードマンとサミュエルソンの英文経済コラムを読み取る』グロビュー社、1981年、42頁)。
また、こうしたアメリカ経済学者の「正体」はテロに対する態度に端的に現れている。バロ−は、@テロ対策費用の乗数効果で景気後退を防ぎ(「9月11日の同時多発テロの後、国家の安全に対する不安が高ま」り、「国防費用は構造的に増加」して、「軍事支出ならびにその乗数効果を考慮すると、2002年まで景気後退が続くのを食い止める」)、A「テロに対する戦争がもたらすメリットの一つは、社会保障基金の余剰資金には手を付けないという議会が課した無意味な制約を取り払うことができる」(つまり、危機だ軍事費に転用可能になった)などと言うのである(前掲書、174〜5頁)。バロ−は、「テロに対する戦争のための国防支出拡大によって、他の政府支出は抑制される傾向になるであろう。こうした支出のなかには、教育への補助金、調剤薬に対する補助金、さまざまな社会保障支出が含まれる。私はこうした支出は間違いであると考えていたのいで、国防費用の拡大によって無駄な支出が抑制されることは望ましい」(176頁)とするが、無駄な支出が国防費とは関係なくなされなければならない。
小 括
以上、我々は、「経済学」とは、富社会に固有のものであり、権力と富裕階級にかかわりの深いものであることを再確認してきた。最後に、要約しておこう。
第一に、「既存経済学」は、自然社会から富社会への移行に際して、「自然と人間の対立」、「人間と人間の対立」という富社会の二大特質が富社会成立当初からあった事を的確に指摘することはできなかったということである。しっかりと歴史を研究していれば、この富社会の根源的な二大特徴を見落とすことはなかったのだが、「既存経済学」はこれを怠っているのである。
確かにスミスは歴史研究をしてはいるが、それはあくまで自説の補強という観点からのものであって、歴史から法則などを見出そうという姿勢はみられないものであった。
第二に、「既存経済学」では、「自然の摂理」に反して、人間の欲望、国家の欲望、企業の欲望のおりなす富社会を追認することを前提として、各時期諸問題への目先的対応などを主眼とするものが大部分であったということである。
従って、そこには、自然哲学に裏付けられた科学的方法は適用されることはなかったのである。そういう中で、マーシャルは経済初動に物理学、以後に生物学を適用して「新経済学」を構築しようとはしていた。然し、実際にそうすれば、既存経済学の根本的否定になるので、彼にはそこまでできなかったのである。もともと物理学、生物学という自然の真実の方法と、「既存経済」の人為的・虚構的方法は本質的に相容れないのである。
第三に、「既存経済学」は、封建社会・絶対主義の支配階級が統治策として「経世済民」・王政維持を目的に推進し、市民社会の国民国家がブルジョア的国富策を推進したように、資産階級・権力者(経済的、政治的支配階級)が、資産、権力を維持するために案出したものであったということである。ガルブレイスも言うように、「各時代の主流となった経済学は満足している人々(上層階級)に都合のいいものだった」(2005年9月7日毎日新聞朝刊)のである。我々は、自称「主流」経済学の「たぶらかし」に気付かねばならない。
紀元前、権力が、人民から税を収奪し、貨幣を発行して以来、財政と金融とは権力とは切っても切り離せないものとなっていた。やがて、国民国家が形成され、人民の間に剰余が成立し、商人・地主が成長し、国富が国家的課題となると、経済が権力統治策の根幹となっていった。
しかし、そのような権力べったりの「御用学問」的経済学は、「賢人」らから鋭く批判されてきたのでもあった。その場合、賢人とはニュートン的分析的知性ではなく、ゲーテ的総合的知性の持ち主だということが留意される。鶴岡氏も言うとおり、「単なる数学的法則でも分析的知識でもな」く、真(科学的真理)、善(倫理的真理)、美(芸術的真理)を併せ持った「総合的真理」、私の言う総合的学力を持った賢者なのである。ゲーテが、「個別の背後に普遍的根元的な関連を見つめていく眼の力を鋭くとがらせて」(小塩前掲書、169−170頁)いたように、賢者とは総合的・根源的考察をなしうる者なのである。だから、ゲーテは、富社会では、国家という「魔法使い」が「経済」という「魔法」を使って、国民をたぶらかしていることを明らかにできたのであった。アリストテレスもまた、ゲーテと同じ総合知の賢者であり、経済の「反共同体性」を批判していた。
私は、多くの人々から「経済学」なるものを学んだが、当時から「経済学はおかしい、学問としては水準が低い、否、学問じゃないのではないか」という念を常にもっていたし、彼らに学問的緊張が希薄であることを覚えて、かれらを学問的に率直に批判してきた。一方で西順蔵氏の中国哲学講義などを聞きつつも、他方で経済関係講義はなおのこと最前列で一日も休まず聴き、担当者の論文・著作を熱心に読み、彼らの主張を十分学んだ上で彼らを厳正に批判したものである。批判する以上は、総てを把握した上で厳正公平に批判したということだ。これで教授・博士というものが一文の価値無いことを改めて確認し、教授になることは堕落以外のなにものでもないことを悟った。一橋大学教授などは「堕落」以外のなにものでもないということである。「俺は教授で偉い」と思い込んでいる者には、「学問という中身で偉くなれ」ということを指摘してやったものだ。学問水準と自覚の高い学徒ではあったからか、おもしろいことに、校内で出くわすと、向うのほうから挨拶する教授も何人かいた。分っているなら、いつまでも大学などに拘泥せずに、自由に学問したらどうだ、まともな人は大学などにいるわけがないというのが、私の考えであった。丁度その頃大学紛争が勃発して、「教授以上に研究に専念」する私が逆説的意味で「教授らのホープ」になってしまった。大学俗物性に批判的であった私にはまことに迷惑なことであり、それが「全共闘に批判される」教授どもの「避難術」であることを見抜いていたので、それに乗じることは一切なかった。
専門的知識など誰でも身につけられるが、学問には総合知が要求されるのであり、専門知のみしか持っていないものには学問は展開できないのである。その意味で専門知の縄張り機関である大学とは、反学機関以外の何物でもなかった。それでも、かすかな望みを託して、抜き刷りを謹呈する際などに、「ファウストの学問論」などをほのめかしたりもしたものである。大学院講義ではゲーテ原書講読などをとったりした。だが、ファウストに限らず、学問論にのってこれる者は経済では皆無であった。以来40年、「国際経済史研究所」などを経て世界学問研究所をも設置して、「経済という狭い分野は学問とは無縁な場である」と改めて痛感しつつ、自由に厳密に総合的・根源的学問の構築に従事しつつ現在にいたっている。この間、「教授」にもなったが、実際に「日本の経済学部従事者」の非学問的態度をも目の当りにして、「経済研究と学問は逆比例する」という念を改めて確認したものである。
そう、「既存経済学」とはとうてい学問などといえるものではないのである。それは、何よりも富社会の総合的・根源的考察を欠いたものであり、その結果、錬金術的に富を増大させ、GDPなどの経済用語でたぶらかすことによって、目先の貧困問題、格差問題を解消するなどと称して、ますますそうした問題を深刻化させるものとなっているのである。これは、富社会の現実の人間経済そのものが自然の摂理、真善美に反したものであることを如実に示している。
また、その批判的産物として「マルクス経済学」などが提唱されることがあっても、「人間と自然の対立」ということに関して根源的考察を行っていないので、実際には既存経済学の「一装飾」にすぎないものになっているといってよいのである。近代経済学もマルクス経済学も所詮同根なのである。
第四に、「既存経済学」は、「人間居住に相応しい地球自然」の破壊の「先兵」のようなものとなっているということである。「経済学」は、人間は自然を克服した存在であって、自然を利用しても当然と考えて、有限資源の極大効用による富増加・貧困削減などという「大義名分」を唱えて、その大義名分のもとに人類は「人間欲望本位」に「人間居住に相応しい地球自然」の破壊を行ってきたのである。
この「経済学」では、「人間の自然克服・利用」に関して、自然は単純で低次元なもので、人間経済は複雑で高度なものとうぬぼれている。例えば、シュタイナーは、「自然現象について概念を形成することは、比較的容易です。非常に<複雑>な自然現象でも、経済学よりは単純です。国民経済の現象は、自然現象よりもはるかに<複雑>なものであり、不安定で、変動するものです。自然現象よりもずっと、変動してやまないものであり、一定の概念でとらえることができないものなのです」(前掲『シュタイナー経済学講座』34−5頁)と、自然は単純、経済は複雑として、両者を区別するのである。読者の多くは、自然、及びその一部としての人間こそが高度な複雑系であり、人間経済などはいささかも高度で複雑などではないばかりか、いつでも一瞬にして崩壊するはかないものでしかないこと(例えば、ドルが最早単なる紙切れであることが確認されたり、デリバティブとか各種ローン連鎖が破綻し世界信用恐慌が勃発したりして)を理解しているであろう。総合的知性=総合的学力が看破するように、経済それ自体はきわめて単純なのに、それを複雑なように虚飾化するのは、そこにたえずより以上に富を得ようとする欲望があるからである。
40年間、私はこの「経済学」の本質をも総合的に究明してきたが、最近「『経済学』ほど学問の名を詐称して、人類に有害な作用をしてきたものはなかった」とつくづく思うのである。研究細分化の弊害が叫ばれて久しいが、こうした専門化の弊害が端的に現れているのがこの「経済学」だと思うこの頃なのである。総合的学力をもっていれば、「経済学」専門化がおかしいものだということは一目瞭然なのである。
最後に、「経済学者」と称する人々が「自然社会」の存在に気付かないどころか、自然克服論に立脚して「自然と人間との関係」を正しくとらえることができずに「人間に都合よく前向きに」みようとしたことを「経済発展段階論」で改めて確認して、この章を終えることにしよう。
第五 経済発展段階論の再検討
我々は、経済学をこのように見る時、当然「経済は発展する」「社会は経済力で進化する」という皮相的発展段階論もまた厳しく批判されねばならないことになろう。
一 ドイツ歴史学派
経済発展段階論は、イギリスでなくてドイツで起こった。産業革命を経たイギリスが廉価商品を大量に販売するためにドイツ市場に怒涛のように侵入してきた。
そこで、ドイツでは、我が国は英国より遅れているから、国家の関税政策・保護産業政策によって保護されるのは当然であることを立証するために、イギリス古典学派の「抽象的・普遍妥当的な理論の立て方」に反対して、ドイツの歴史的現実=後進性を明らかにするために経済発展段階論が提唱されたのである。
リスト この学派の代表的な一人として、フリードリヒ・リスト(1789−1846年)がいる。彼は、1841年に主著『政治経済学の国民的体系Das
nationale System der politischen
Oekonomie』を完成した。板垣与一などはしきりにリスト政策論などを現代政策論の基礎に据えようとしていた。
リストは温帯地方の国は、「未開状態→牧畜状態→農業状態→農工状態→農工商状態」という発展段階をたどるとした。彼は、その国民がどの発展段階にいるかによって、国家が果たすべき役割は異なり、未開国民を文明化し、弱小国民を強大化するのがすべての国家の使命であるとした。
リストは、「国家は人間が基本的に必要とする一つのものであるのみならず、人間が必要とする至上最高のものである」という見解をもっていた。国家は国民を保護しなければならないだけではなく、国民性のあらわれそのものであった。「全世界をわがものとするも、国民性にして損なわれることあらば何の得るところがあろうか」とした。
だが、リストは、「自然社会」の理解に欠落しており、国家がなぜ発生し、どのように支配階級の致富手段になってきたかの分析がない。国民を保護するのは、「国家」だけではないし、自然社会は未開社会ではないのである。
旧歴史学派 ロッシャー、ヒルデブランド、クニースらは、立ち遅れたドイツ産業資本の自立のためには、イギリス商品の流入を阻止し、ドイツ統一を基礎として、国内産業を保護育成することを主張して、古典学派と自由貿易主義に反対した。
彼らは、ドイツ経済の過去と現状とを実証的に把握し、国家の経済政策を打ち出し、それを遂行する経済官僚を育成しようとした。
そこで、ヒルデブランドは、「自然経済→貨幣経済→信用経済」という段階論を提唱した。自然経済を最初に措定して、そこから経済が「発展」すると把握して、自然社会と以後の「富社会」との根源的相違に気がつかなかった。
新歴史学派 シュモラー、ブレンターノ、ワグナー、ビュッヒャーらは、ドイツ産業資本の成長で労働者階級と社会主義の攻撃が激化し、こうした社会的弊害を解決してドイツ資本主義を擁護することが、国民経済学としての歴史学派の重要課題となったとしたのである。この解決を社会政策に求めて、新歴史学派が登場した。
シュモラーは「村落経済→領邦経済→国民経済→世界経済」、ビュッヒャーは「封鎖的家内工業→都市経済→国民経済」という経済発展段階論を提唱した。いずれも、「富社会」での発展段階論である。
二 マルクス
マルクスはこの歴史学派を批判して、唯物弁証法で経済発展段階を打ち出したのである。彼は、社会は、「アジア的生産様式→古代的生産様式→封建的生産様式→近代的ブルジョア的生産様式→共産主義社会」へと「発展」するという「単純発展史観」に立脚していた。
彼は、「人間は、自分達の生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係のなかにいる。すなわち、もろもろの生産関係にはいるのであって、これらの関係は人間の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応するものである。これらの生産関係の総体は、社会の経済的構造を形成する」(岡崎次郎訳『経済学批判序言』[『マルクス経済学・哲学論集』河出書房、昭和42年、476頁])として、富社会の「生産力ー生産関係」の推移を開明して、富社会の収奪構造の推移を解明した。
小原秀雄氏は、農耕によって「社会科学のカテゴリーの社会構成体」が出現するとしたが(『人類は絶滅を選択するのか』明石書店、2005年、66頁)、実は自然社会もまた「人と人の平等」、「人と自然の一体化」という意味では一つの「社会構成体」なのである。しかし、マルクスはこの考察を捨象し、自然社会の分析が不十分だった。確かにマルクスには『資本制生産に先行する諸形態』があるが、これは共同体分析論にとどまっているのである。結局、マルクスは自然社会を十分に考察せずに、富社会の矛盾の打開策を労働者による共産主義権力の実現を目標としたにとどまったのである。マルクスは国家権力も揚棄することはできなかった。
三 ロストウ
このマルクス発展段階論に対抗して生み出されたのがウォルト・ロストウの段階論である。彼は1952年に、The Process
of Economic Growth, (Norton, 1952)[木村健康,久保まち子,村上泰亮訳『経済成長の過程 一つの非共産主義宣言』ダイヤモンド社、1974年])を刊行し、、「伝統的社会→離陸の準備段階→離陸(テイク・オフ)→成熟への前進段階→大量消費社会」という経済段階論を提唱して、離陸を重視した。
これは、米ソ対立の中で、資本主義の優位を主張するために、イデオロギー的使命を持って生み出されたものであり、自然社会の理解など全く欠落したものである。
以上、我々は、「経済段階論」では、それぞれ一定意図のもとに富社会の「推移・展開」のみに問題関心が集中しつつも、「富社会」固有の特質たる「人と人との対立」と「人と自然との対立」という内在的連関構造が十分検討されてこなかったことを確認した。
それでも経済、歴史は、人間の経済的営みで「発展」するものと前提されていた。しかし、「自然は歴史の進歩などというものは、求めていない」(哲学者内山節「文明が滅ぶとき」[平成9年5月2日付朝日新聞])のである。自然は、人間に収奪され、進歩どころか、退歩を余儀なくされている。人間だけが勝手に「進歩」と思い込んでいるだけである。
こうした富社会の問題性を根源的・総合的に把握するにはこのマルクス発展段階論に対抗して生み出されたのがウォルト・ロストウの段階論である。
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