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                                          原田直次郎

                                       一 内外での洋画修業

 洋画修業 文久3(1863)年、直次郎は、原田一道と妻あいの次男として、江戸小石川の母の実家で誕生した。この時、父一道は「欧羅巴に在」(『原田先生記念帖』明治美術学会、学芸書院、2015年、1頁[明治43年発行、非売品、復刻])った。

 慶応2年麻布市兵衛町に移転し、明治元年浅草鳥越池田侯の邸に引っ越した。明治3年(8歳)には、大阪東区島町に移り、兄豊吉と一緒に、大阪開成学校に入り、仏蘭西語を学んだ(『原田先生記念帖』1頁)。この頃、一道は、語学が身を助けることを痛感していたので、豊吉、直次郎兄弟にフランス語を学ばせている。これは、当時普仏戦争は開始したばかりで、いずれが勝つともわからぬから、まだ世界最強陸軍はフランスであるとされてきたこと、民法・商法などはフランスを範とした事、ヨーロッパではフランス語が話せる事が一目置かれていた事などと関わりがあるかもしれない。一道が、豊吉・直次郎兄弟に大阪でフランス語を学ばせたのは、当時の東京は、攘夷派が跋扈していて、洋学修業は危険と判断したからであろう。いずれにしても、一道は、、今後はフランス語に将来性があると見込んだのである。6年東京に戻って、10月外国語学校に入り、ここでも仏蘭西語を学んだ(『原田先生記念帖』2頁)。

 7年(12歳)に、深川富岡町門前町に移転し、洋画家山岡成章に画を学び始めた(『原田先生記念帖』2頁)。山岡成章は、明治5年に『図法階梯』(同5年東京開成学校版)、6年には「西欧の図画教科書を翻刻し」て『小学画学書』(文部省文書局発行)を刊行していた。明治7年以降の各府県の小学教則によれば、「上等小学(10−13歳・第8級〜1級)の第3・2級で図画入門用に『小学画学書』を使用し、第1級で上級者用に『図法階梯』を用いることを定めた所が多く、当時の西洋画指向の図画教育に大きく影響を及ぼし」ていた(玉川大学教育博物館HP)。直次郎は、東京外国語学校に通いつつ、年齢に相応しい洋画師匠について洋画修業をしたのである。

 14年(19歳)に、「外国語学校の行を卒」えて、8月3日大久保政親の次女さだを娶った(『原田先生記念帖』2頁)。16年(21歳)に、長女壽(ひさ)が生まれる。今度は、天絵学舎で「高橋由一に画を学」(『原田先生記念帖』2頁)んだ。当時「欧風美術の先頭に立つ」高橋由一は、山岡成章の師匠であり、明治2年以来由一門下は150人に及び、明治初頭から「油絵が衆目を集め」(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)ていたのである。明治8年から12年にかけて、「自然科学的観察と迫真的な描写」で「鮭」を連作して、「近代の出発点ともいうべき新たな造形の眼」を開拓していた(文化庁「文化遺産オンライン」)。一道らは、直次郎年齢に相応しい洋画師匠を新たに選定していたのであり、結婚から師匠選定まで、父一道らが決めていたようだ。

 留学 次には、直次郎の留学が検討されたが、高橋由一は、国内でイギリス人ワーグマン、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事し、留学経験はなかったので、留学先の師匠については的確な助言はできなかったようだ。そこで、一道は、滞欧中の兄豊吉に相談し、兄の友人画家ガブリエル・マックス(Gabrier Max)に師事することになった。当時のドイツ画壇は、@歴史画系・アカデミー派(K.v.Pilotyピロティ、マックスら)、A自然主義系、B理想主義系の三つあり、直次郎は@の下で洋画を学んだことになる(高阪一治「靴屋の阿爺ー原田直次郎と19世紀末絵画」『鳥取大学教育地域科学部紀要』3−1、平成13年)。この「マックスらのミュンヘン官学派は、主として歴史画・風俗画を描き、透徹したドイツ・リアリズムをもってまだ画壇の主流をなしてい」たという(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)。

 マックスを師とした経緯について、洋画家松岡壽(工部美術学校でアントニオ・フォンタネージに師事し、明治13年ローマに留学)は、「或時豊吉君が羅馬へ来て、私の画室を尋ねて、『弟を欧羅巴へ来させたいと思ふのだが、誰の処へ来させよう』とさう云ったのです。其頃私の隣室には、金属彫刻をする独逸人でWiddmannといふ人がいました。それが平生私に大相ミュンヘンの画風を褒めている。中にもマックスに敬服している。そこで、私は豊吉君に答へて云ふのに、『いっそあなたの心やすいマックスさんの処へお頼みなさい』と云ひました。さういふわけで、其頃高橋由一君の処で油絵を修行していた直次郎君が、ミュンヘンのマックス先生の処に来ることに極まったのです」([『原田先生記念帖』52頁])と述べている。松岡は、「直次郎君の兄さんが独逸のミュンヘンにいまして、Gbariel Maxといふ先生と大相心安くしていた」事を知っていて、マックスを推薦したのである。兄が、マックスと友人になったのは弟が洋画修業中であったからであり、かつ弟の絵画師匠の選定にわざわざローマ迄赴いている所に、原田一家の教育にかける熱意や結束の強さが改めて確認される。

 しかし、マックスは当時ミュンヘンのアカデミー教授を辞めていた。そこで、豊吉は「ミュンヘンのアカデミー」での勉強と並行して、「元アカデミー教授(1879−83年)のガブリエル・マックスの私塾にも籍を置」(新関公子『森鴎外と原田直次郎』東京芸術大学出版会、平成20年、14頁)くという形をとった。

 こうして、専門外の金属彫刻家の知人好評価と豊吉親友というだけで、松岡はマックスを推薦したことになる。マックスは美術アカデミーの「歴史画の教授」だが、実は「オカルトや心霊主義」を信奉していた(安松みゆき「原田直次郎のミュンヘン」『原田先生記念帖』34−6頁)。しかし、師マックスのオカルト傾向が直次郎に与えた影響は軽微乃至ほとんどなかったであろう。そのように推定する根拠は、@一般に芸術家が経験する「神秘的経験」・「霊的経験」はオカルト降霊とは全く別のものであり、A美術教師としての職業意識は美術を教えてもオカルトなどは教えるはずはなく、それを自己抑制するはずであり、故にこそ、兄はマックスのオカルト志向までは見抜けなかったのであり、まして遠い日本から私費で留学した自然児に自分の「癖」を教え込むはずはなく、B一道の兵学、豊吉の地理学など原田一家の「学問的精神」はオカルトなどを受け入れる家族環境ではなかったことによる。

 17年2月、直次郎は、絵を学ぶため、妻子を残してドイツ・ミュンヘンに留学し、マックスに師事しつつ、兄友人のドイツ人画学生ユリウス・エクステルと親交を結ぶ。

 鴎外との出会い 19年3月には、森鴎外がミュンヘンを訪問し、直次郎と知り合いになる。ミュンヘンで「原田はアカデミイに入って、一軒の業房を借りて、熱心に画を学んで居た」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』5頁])。ここに直次郎と鴎外との「8ヶ月の交流」が始まった(高阪一治「靴屋の阿爺ー原田直次郎と19世紀末絵画」『鳥取大学教育地域科学部紀要』3−1、平成13年)。

 鴎外は、原田の外見について、「原田は小男であって、顔は狭く長くて、太だ黄に見え」、「其顔に鋭い目を持っていた」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』5頁])とする。そして、「原田の目の鋭いのは、技術上の鋭さとでも謂って好からう」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』6頁])とした。

 鴎外は、ミュンヘンでの直次郎の生活の一側面として、彼は「技倆を愛」されていたというより、「自然児」として好かれたのであり、チェチリィ・フィックという「才貌兼備」の少女につきまとわれた事を明かしている。しかし、「故郷に妻」がいたので、「逃げ回」り、「原田は妻のつの字を語るのも気はづかしいので、親しく交わった己にすら、妻の上を語った事がなかった」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』8−9頁])とする。実際、二人は、「ガブリエル・フォン・マックスに就いて絵を学んでい」(安松みゆき「原田直次郎のミュンヘン」『原田先生記念帖』34頁)て、チェチリィハ直次郎を好きになったようだ。日本人は年より幼くみられるから、彼女には直次郎は文字通り自然「児童」に見えて可愛かったのであろう。直次郎にすれば、その「児童」が親のすすめで妻帯していたことを彼女らに説明するのが気恥ずかしかったということであろう。

 さらに、鴎外によると、彼女だけではなく、珈琲店の店主の娘も「原田を慕って居た」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』9頁])。後に鴎外が彼をモデルに巨勢を主人公に『うたかたの記』を執筆した事は周知である。

 また、直次郎、鴎外は、ミュンヘンで画家エキステル(Julius Exter、1863-1939年)と交友している。彼は、「裕福で社会的地位の高い家庭に生まれ、理解の深い母親に育て」られた(生熊文「原田直次郎像の友人・画家エキステルの系図・出生届などについて」『鴎外』73、鴎外記念館、平成15年11月)。エキステルは、「ある日本人の肖像」として、羽織袴で手に煙管を持つた直次郎を描いていた。

                                 二 日本画壇との戦い

 帰国当時の日本画壇 明治20年7月に、直次郎が帰国した頃の日本は、フェノロサや岡倉天心らによる日本画復興を唱える国粋主義運動が勃興しており、第一回(15年)、第二回(17年)内国絵画共進会では洋画の出品が拒否され、明治20年に設立された東京美術学校には洋画科が除外された。洋画家の不満は募り、明治22年、松岡寿、原田直次郎は、浅井忠、小山正太郎、山本芳翠らとともに日本最初の洋画団体「明治美術会」を結成し、直次郎はその中心となって活動した(児島薫「解題」5頁[『原田先生記念帖』])。

 さらに、27年頃からは洋画にも新旧の軋轢が生じだした。これについて、鴎外は、「黒田清輝(26年帰国)、久米桂一郎が仏蘭西から帰ってから、一派の批評家は新旧二派の目を立てて在来の油画家を(旧派として)攻撃した」とする。「当時の所謂旧派は皆久しく辛酸を甞めて居たのに、世間が少し油絵に目を注けかかった頃になるや否や、早くも交代者が来て、(27年に両人は洋画研究所「天心道場」を開設したりしてー筆者)後から押し退けに掛かったやうなものである」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』11頁])とした。「黒田清輝、久米桂一郎らは「外光派」で明るいが、旧派は暗いとされ、後述の通り黒田は原田には技倆がないとしたのである。だが、筆者は黒田の洋画を数点所持しているが、必ずしもそうとも思われず、この時には後述の通り直次郎は病床にあったりして、ただ「勢い」「流れ」にのっただけかもしれない。
 
 美術学校の建設 当時の東京美術学校の反洋画的傾向に対して、明治20年11月19日、華族会館での龍池会(九鬼龍一が日本美術保護のために設立)例会で、フェノロサの絵画改良論(洋画排斥論)と狩野派を批判する講演をした(「絵画改良論」として『龍池会報告』第31号、に収録)。

 以後、龍池会の改組された日本美術協会にあって、美術展覧会に油彩を出品した。21年2、3月には、直次郎は「横浜パブリックホールで油絵展覧会を開き」、22年、23年には「横浜のヘラルドの二階で同社のブルック(John Henry Brooke、主筆兼経営者)主催による外人向の展覧会を開催、・・国内価格の二三培で売って、「かなり売れたという」(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)。だとすれば、少なからざる直次郎絵画が海外に流出し、未発見の絵画が海外に眠っている可能性もある。

 一方、東京美術学校が学生を受け入れる1ヶ月前の22年1月には、直次郎は洋画美術学校「鐘美舘」を開き、そこで洋画普及をはかろうとした。直次郎は、明治21(1888)年5月11日付マックス宛書簡で、「日本にいながらも、私を理解しようとしない人たちに囲まれておりますので、絶えず悲しい思いをさせられます。しかしながら、私たちの街では、芸術のための小さな学校を建てようとしており、今年の九月一日から勉強が始められるでしょう」(安松みゆき「原田直次郎のミュンヘン」『原田先生記念帖』40頁)と述べている。直次郎は、「ミュンヘンで、美術教育施設の視察にやってきた浜尾新と各地をめぐり、おそらく東京美術学校の教授にになるのだろうと噂されていた」が、20年創設された東京美術学校は「洋画科は未設で、日本画科もフェノロサ・天心一派によって独占され」(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)ていた。直次郎は、この偏向した美校設置に、小規模ながら、鐘美舘で対抗したのである。

 高橋由一甥の洋画家安藤仲太郎も、「原田が帰国してから画家として活動した数年間は、国内において洋画家たちが冷遇された居た時期」(東京美術学校が洋画家を無視して開校された)であり、「その逆風に立ち向うように原田が起こした行動が、私立の画学校、鍾美館の設立と<騎龍観音>の第三回内国勧業博覧会への出品である」(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」『美術評論』25号、画報社、1900年)としている。では、直次郎はこの建設資金をどのように調達したのであろうか。直次郎には、本郷に学校を設置し得るほどの財力はなく、高田商会をバックとする一道、豊吉(20年頃に高田慎蔵養女の照子と結婚)ら原田一家の財力が必要であった。

 久保田米斎(明治24年12月7日入塾)によると、学校の置かれた環境は、「本郷三丁目の帝国大学、赤門前の煙草屋と憲兵屯所の間を、大通りから横へ折れて、少し傾斜下小路を降って行くと、直ぐ右側の一搆の家が、先生のお宅」であり、「平家で白茶色ペンキ塗の西洋館と、茶褐色に錆びた茅葺の家と併行に並んでい」て、「其和洋の家の間に車井戸があって、傍に柿の大木が植えてあり」、「門は丁度車井戸の前あたりにあった」([『原田先生記念帖』22−3頁])というものである。

 直次郎の教え方は、教師ぶることなく、非常に丁寧で親密なものであった。伊藤快彦は、「先生の門人を教育する事は至極親切でした。日々研究室に来て、モデルに就いて一々これがいけない、此所はかうかくのであると、実に丁寧に教示せられました」(『原田先生記念帖』30頁)としている。

 鴎外は、「原田の性質として著しきものは恬淡無欲といふ一字であらう」とする。直次郎は、しっかりと父一道の無欲を受け継いでいた。そして、本郷にアトリエ鍾美館を構え絵を指導しても「一銭の謝金をだに受けなかった」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』9−10頁])のである。弟子伊藤快彦は、鍾美館では「月謝や束修と云ふ物は決して取らない」(『原田先生記念帖』29頁)のみならず、下宿代を払えぬ病身の水野正英には、直次郎は三宅克己を派して延滞下宿代、友人からの借金を全て肩代わりしたと回想している(『原田先生記念帖』31−2頁)。高田商会、原田家の財力があったからこそ、こういう殿様商売も可能だったのである。
  
                                     三 洋画の製作

 神仏画ー大作 22年(27歳)に、「日本美術協会に、已に晩しと題して、病人の図を出」(『原田先生記念帖』3頁)した。この「病人の図」とは、この年に発病した兄豊吉と関連しているのであろうか。仲の良かった兄豊吉の発病は、東京美術学校に対抗していた直次郎には深刻な問題であったろう。こういう状況で、23年(28歳)に第三回内国勧業博覧会の審査官となりつつも、自らも騎龍観音と毛利敬親公肖像とを出した(『原田先生記念帖』3頁)。直次郎らが、この一種の「官展」にこの二つの作品を提出した意義は後述されよう。

 この騎龍観音は、縦274.2cm、横181.1cmの大作である(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)。鴎外は、「原田はモニュメンタルな大作を志して居たけれども、日本にはその腕を揮ふ程の壁面がない。責めてはパノラマを真意匠を擬して居たこともある」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』10頁])と、直次郎の大作構想を明らかにする。明治28年頃には、後述のように、今度は自分が結核を発症しつつ、直次郎は、素戔嗚尊八岐大蛇退治(後に関東大震災で焼失、画稿[縦77cm、横53cm]が岡山県立美術館所蔵)の大作をかいている。彼は、ひたすら神仏の国家加護を大作として描く構想をもっていたようだ。

 そして、こういう大作は鑑賞場所が限られていたから、売れなかった。これに関して、鴎外は、「素戔鳴尊(明治28年頃。後に関東大震災で焼失、画稿が岡山美術館所蔵)はどうなったか知らぬが、売れた話は聞かぬやうだ」と、売れるような絵画を作成しなかったとする。だから、鴎外は、「己は徳富猪一郎君や賀古鶴所君が、質素な生活をする人でありながら、原田の小作を買ったのを多とするものである」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』11頁])と、直次郎に「小作」作成を依頼した人に感謝した。しかし、直次郎は、小作は売ったとしても、神仏関連の大作は初めから売るつもりはなかったのである。

 肖像画 ここで鴎外が「原田の小作」というのは、肖像画や風景画である。

 直次郎は、留学時代に名品の肖像画「靴屋の阿爺」を描いている。これは、ミュンヘンで生まれた「原田の滞欧作」であり、「代表作」「明治洋画が生んだ傑作」(三輪英夫『明治の洋画ー明治の渡欧画家』71頁)とされている。直次郎が靴職人という下層職人の肖像画を描いたのは、「19世紀中頃からフランスを中心に広まって来たレアリスム運動」が影響していた(馬淵明子「原田直次郎 靴屋の阿爺」『国華』1150号、1991年)。高阪一治氏は、靴屋の阿爺には、歴史画系のA.v.Menzel(メンツェル)、或いはライブルとの関連が認められるとする(高阪一治「靴屋の阿爺ー原田直次郎と19世紀末絵画」『鳥取大学教育地域科学部紀要』3−1、平成13年)。

 直次郎は、帰国後明治20年に発表した『絵画改良論』で、「ヨーロッパの美術教育において生徒は技術がある段階まで進めば、『自ら歴史画工と成るか或いは肖像画工になる』」としていて、「帰国を決意した時点で自らの専門が肖像画であるという意識をもっていた」(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」『美術評論』25号、画報社、1900年)のである。だから、帰国後、原田は肖像画を「最も数多く手掛けた」(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」)のである。実際、彼は、毛利敬親(明治23年)、徳富猪一郎(明治23年)新島襄(明治23年)、高橋由一(明治23年)、横井小楠(明治24年)、西山惣吉(明治27年)、「近衛老公」、島津久光、伊藤快彦、賀古鶴所、安藤信光(明治31年、絶筆)などの肖像画を描いている。
 
 毛利敬親肖像画は、明治23年4月開催の第三回内国勧業博覧会に騎龍観音とともに出品され、妙技三等賞を受けたものである。宮本久宣氏は、フェノロサ・岡倉天心の鑑画会が東京美術学校開校に成功したのは長州藩閥の伊藤博文らに接近したからであり、「毛利敬親は・・伊藤らにとっては旧主君であった」ので、彼らに対抗して敬親を描いたとする(宮本久宣「原田直次郎の第三回内国勧業博覧会出品について」『第54回美術史学会全国大会』2001年)。だとすれば、こういう政治的判断は自然児の直次郎にはできない。直次郎は、絵画にはあくまで絵画で対抗するのである。政治ではない。

 この毛利敬親肖像画については、歴史画騎龍観音に込められた仏教が日本の伝統的精神の一つだとすれば、この肖像画に描かれた毛利敬親は藩政改革を主導し大村益次郎に洋式兵制を導入させて長州藩を明治維新に導いた「名君」であり、明治維新の立役者の一人であることが指摘されるであろう。そこには、毛利敬親らが切り開いた新生日本を古き日本の象徴の一つたる仏教が護るという願いもこめられていたであろう。従って、直次郎は、こうした「古き日本」の象徴と「新しき日本」の象徴を最新洋画技法で歴史画・肖像画という二種の絵画として精魂込めて描いて、内国勧業博覧会に出品した事になるのである。この毛利敬親肖像画についても、父一道は、大村益次郎とともに幕末維新期の軍事を担当したのであるから、直次郎の語学教育・洋画修業・留学・鐘美舘建築などに深く関与してきた父として、仏教護国思想とともに毛利敬親の明治維新に果たした意義について助言した事は十分考えられるのである。
 
 徳富蘇峰肖像画については、直次郎は20年創刊「国民新聞」挿絵や23年創刊「国民之友」表紙画を描く事などで蘇峰と交流があって、その過程で作成したものである(宮本久宣「原田直次郎と徳富蘇峰」『フィロカリア』第20巻など)。

 新島襄肖像画については、9年−13年に徳富蘇峰が熊本バンドの仲間新島の開いた同志社英学校で学び、23年7月に新島が蘇峰を介して肖像画作成を依頼したことに基づいている(宮本久宣「原田直次郎と徳富蘇峰」『フィロカリア』第20巻)。

 横井小楠肖像画については、徳富蘇峰の父淇水は小楠が熊本に開いた私塾の門弟で間接的に影響を受け、明治2年正月に明治新政府参与の時に小楠は暗殺された。「蘇峰と淇水親子による依頼という意味合いが強」く、24年作成と推定されている(宮本久宣「原田直次郎と徳富蘇峰」)。

 「近衛老公肖像画」については、近衛篤麿が1886年(明治19年)7月27日から31日までミュンヘンに滞在し、鴎外と原田から接待を受けた際に、「原田は・・近衛から肖像画の製作を依頼され」、鴎外『独逸日記』によると、鴎外が原田のアトリエを訪ねたときに、近衛老公(篤麿祖父の忠煕か)の肖像を半ば仕上げていたが、現存していない(宮本久宣「近衛篤麿の『蛍雪余聞』に見るミュンヘンの原田直次郎」『待兼山論叢』38号、2004年)。

 島津久光肖像画については、「久光は近衛の母光子の父で、近衛にとっては祖父にあたる。1887年になくなっており、肖像画はその死を偲び1888年に描かれたもの」とされ、尚古集成館に所蔵されている(宮本久宣「近衛篤麿の『蛍雪余聞』に見るミュンヘンの原田直次郎」)。島津久光は、薩摩の封建派で、廃藩置県は大久保利通に騙されたものだと批判し、長州藩主毛利敬親の対極とも言うべき存在であったから、父原田一道が直次郎に彼を描くように示唆したということはありえず、やはり近衛篤麿の依頼と言う推定は妥当であろう。

 西山惣吉肖像画については、26年6月吾妻山噴火調査中に地質調査所技師三浦宗次郎、西山惣吉が殉職し、その顕彰行事の一環として、「三浦宗次郎の肖像は浅井忠が、西山惣吉の肖像は・・直次郎がそれぞれ担当し」たという事情があり、「27年2月に完成し上野の帝国博物館に保存された」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)のであった。ここには兄豊吉の配慮もあったであろう。

 伊藤快彦肖像は、伊藤が明治21年に京都府画学校を卒業して上京し、鍾美館で直次郎の指導を受ける中で描かれたものであろう。因みに、25年には伊藤は京都で家塾・鍾美会を開いた(京都市立芸術大学解説)。

 賀古鶴所肖像画については、賀古鶴所は、森鴎外と同じ東大医学部卒の軍医という事から、鴎外の親友となった人物を描いたものである。直次郎は鴎外を描きたいと言った所、鴎外は気恥ずかしかったのか、或いは直次郎が報酬を受け取らないことを知っていたからか、これを固辞して、代わりに親友を紹介し、報酬が得られるように配慮したのではなかろうか。そこには、友情と友情の「美しき駆け引き」があったのである。鴎外は、直次郎が発症して病床にある時、「原田は己に向って、若し足が立つやうになったら、君の洋室の壁に画をかいてやる、鮮画ではない、油顔料でかくといった。己は此契の徒なるを知りながらも、深く其好意を謝して、心の中に原田が猶恢復の望を繋いで居るのを喜んだ」(『原田先生記念帖』13頁)と記している。直次郎が、「君の絵」ではなく、「鴎外の部屋の壁画」を「かいてやる」としているところが意味深である。

 安藤信光肖像は、31年に直次郎が病床で、安藤仲太郎(直次郎の師高橋由一の甥)の父信光を描いた絶筆である。

 風景画 直次郎は、ミュンヘン滞在中から、風景画を描いている。スケッチ版の板面油彩画「風景」は「褐色を主調とした重厚な画面」で「後年、脂色派とよばれる明治美術会の中心的存在となって行く原田の資質を垣間みせている」(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)と言われる。

 ミュンヘン郊外の農家の庭を描いた」郊外風景(高松宮家蔵)は「明るい陽ざしの緑が主調」で「印象派風の処理」がみられるという(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)。

 大下藤次郎は、「先生は臥床の上で製作せられました。その絵はスサノウノミコトの大蛇退治の大作、それから明治美術館に出された海岸の大きな絵、中川あたりの朝の景色を欠いた小品」、「全くの想像で画かれたものでして、景色画の如き、よほど中川辺の景をよく記憶せられていまし」て、「想像とは思はれぬほどの出来」であったとおする(『原田先生記念帖』37頁)。

 
 騎龍観音の評価
 洋画家の間でも、直次郎の初期の「靴屋の阿爺」(明治19年)などは秀作と評価する者が多いが、「騎龍観音」(明治23年)は空想の作品として批判するものがいる。

 『騎龍観音』は、明治23年第三回内国勧業博覧会に出品したもので、これを展示している東京国立近代美術館は「ヨーロッパの宗教画や日本の観音図の図像等を参考に、この作品を制作し」、「油彩のもつ迫真的な描写を日本の伝統的な画題に適用しようと描いた意欲作」だが、「その主題や生々しい描写をめぐって、発表当時、大きな議論を巻き起こし」たとしている。鴎外は、「騎龍の観音は徒らに外山正一君(東京帝国大学文学科教授、明治美術会賛助会員)の冷罵に逢ったのみとしているが、一般の反応は小さくなかったようだ。騎龍観音は、縦274.2cm、横181.1cmの大作に、「観衆は、その龍をみて、生けるがごとしと眼を見張り、黒山の人だかりだったと伝えられる」(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)。新奇好み・斬新性好みの江戸っ子の気質を思う時、この伝聞はほぼ事実であろう。江戸っ子の新奇好みが浮世絵を育てたといっても過言ではない。筆者も、ここでこれを十数回鑑賞しているが、描写の壮大さ、生々しさには圧倒されるが、主題までは解説などを読まないと分からない。

 騎龍観音の発想の土台として、宮本久宣氏は、ミュンヘン凱旋門の上には「バヴァリア王国の象徴でもある(獅子が引く戦車に乗る)女神バヴァリアの像が屹立」しており、「この強い獣を従えた神のイメージは、原田の<騎龍観音>を想起させる」とともに、「観音のさまざまな変相を描いた鶴洲霊?の<普門品三十三身図屏風>の中の一図』と一致する」(宮本久宣「近衛篤麿の『蛍雪余聞』に見るミュンヘンの原田直次郎」『待兼山論叢』38号、2004年)と、内外の影響のもとに作成されたとする。新関公子氏は「鴎外の『うたかたの記』中の画家巨勢が描く絵画「ローレライ」の構想と、原田が帰国後に描<騎龍観音>の構想は、共に独逸・ロマン派絵画を出発点にしている」(新関公子『森鴎外と原田直次郎』東京芸術大学出版会、平成20年、26頁)とする。

 黒田清輝(法律研究で渡仏したが19−23年フランス画家ラファエル・コランに洋画家師事)は、「私は黒田君に対しては至っての後輩である」と謙遜しつつも、「独逸留学中の稽古画は中々深みがあるもので、技術も頗る非凡である。その割に先生の得意とせられる製作物では、技術がそれ程にないやうに思はれる。これは想と云ふことに重きを措かれて、モデルなどを使用せずに、それ迄に習得した所の技倆を利用して、人物風景、総てのものを想像して作られたからである。」([『原田先生記念帖』57−8頁])と批判する。

 直次郎師匠高橋由一の甥の安藤仲太郎によれば、直次郎自身は、狩野芳崖「仁王捉鬼」、橋本雅邦「弁天」などを「狩野派の技術を用いて仏教由来の画題を描きつつ、遠近法を取り入れたり、ヨーロッパから取り寄せた顔料を使ったり」することを安易な和洋折衷と批判し、「自らが西洋で学んだ技術を大画面で堂々と発揮」して騎龍観音を描いたのであった(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」)。直次郎は、彼を冷遇した「フェノロサ庇護の近代日本画家」狩野芳崖、橋本雅邦らの批判を意図したのである。原田直次郎は、「又饒舌」(『国民新聞』明治23年4月11日)で、「我邦人の西洋画に入るや恰も昔時の文人が漢詩を学びそめしをりの如く和習、余りありて欧州の趣味、足らざりしが今や漸く其歩を進めて和習の陋を捨て闖(ちん)然として西洋作家の室に入らむとするものに似たり」と、自らの内国博覧会出品作は洋画レベルに達していると自負しつつ、一方、「東洋画家は近時に至りて僅かに微しく欧州の趣味を帯び来たりしか故に、其面目に一種不了の処ありて却りて昔時の純然たる東洋趣味を存じたるものに劣れるかと思はれる」と、日本画を批判した。
 
 安松みゆき氏は、「キリストの奇跡が実際に認められ、幻視を見る女性の存在に注目したマックスは、その神秘性を、美しい女性と死といった眼に見えない要素に結びつけて、明暗を強調した劇的な描法で表現し」、「そのようなマックスの神秘性と描法は、当時の絵画界の流行とともに原田にも影響を与え、原田にとっては日本の宗教である仏教に置き換えられて、《騎龍観音》への制作につながったと推察しえる」( 安松みゆき「原田直次郎筆《騎龍観音》の制作過程における師ガブリエル・フォン・マックスの影響をめぐって」『別府大学紀要』第57号 2016年)とする。

 だが、直次郎サイドの安藤仲太郎が的確に指摘するように、そうしたマックス神秘主義の影響というよりも、あくまで洋式仏教画による従来近代日本仏教画への批判が濃厚なのである。直次郎はもともと父一道の仏教による無欲論・社会改良論などの影響を強く受けていて、マックス影響如何に関係なく、観音による衆生救済・鎮護国家などの願いをこめて騎龍観音を描いたとみるほうが妥当であろう。これが明治24年に護国寺(「護国寺略縁起によれば本尊は天然琥珀如意輪観世音菩薩像)に寄贈されたのも(三宅克己「十年後の追懐」『原田先生記念帖』15頁)、直次郎一存でできる筈はなく、この年に僧園設立を提唱していた一道の采配がかなり作用したであろう。

 騎龍観音の護国寺布施 三宅克己によると、24年に、彼が護国寺で写生して居た時、大勢の人足が騎龍観音を担いできて、「茶色の古い野暮な服を来た痩せた人」である直次郎(これは後で判明するのだが)が、「後から一緒にくっついてきて、大勢を指揮して、絵を掛けてしまうまで周旋して」(三宅克己「十年後の追懐」『原田先生記念帖』15−6頁)いたとしている。指揮は直次郎だが、一道は観衆とともに見守っていたか、或いは別室で絵画の配置完了の報告をまちつつ大僧正らと仏教鎮護国家論を話していたのかもしれない。一道がここに不在だったとしても、兄豊吉の渡欧治療を自ら佐々木政吉に懇請したように、この騎龍観音の護国寺布施でも仏教に詳しい一道が指導していた可能性は高い。なお、この騎龍観音の布施には、24年4月にドイツに出立する兄豊吉の快癒祈願も少しは込められていたかもしれない。

 このように三宅は騎龍観音の護国寺布施時期が明治24年であるとするが、そこには記憶違いがないことは、彼は明治23年に大野幸彦の画塾に入門し、彼の弟子時代に護国寺で原田直次郎の騎龍観布施に遭遇し、その翌年の明治25年に大野が死去して、原田直次郎の鍾美館に移っているからである(東京文化財研究所のHP)。騎龍観音の護国寺布施時期についての記憶が、これら重要な諸事実の連関に具体的に位置づけられているから、ほぼ正確とみてよいのである。

 なお、筆者が護国寺に確認した所、騎龍観音の寄贈に関わる書類などは残っていないという事であり、故に三宅克己の追想が唯一の資料であるようだ。一道、直次郎が仏心から布施し、護国寺側が合掌してこれを受け取ったということであり、書類などは介さないということであろう。絵を掛けて、ここに一道、直次郎の布施が終わったのである。

                                      四 発病・死去 

 発病 鴎外は、「原田の製作した月日は実に短いものであった。一日散歩に誘ひに、原田が足が痛いから止めると云った。その容体を問うて見たが、神経症の痛らしいから、まあそろそろ歩いて見給へと云って、本郷から上野辺まで行った。何ぞ図らん、これが他日の大患の初発であらうとは」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』12頁])とする。これは、鴎外が本郷の鐘美舘に行った時の感想だが、正確な時期は分からない。恐らく26年9月以前ではあろう。

 26年9月(31歳)に、直次郎は、はっきりと脊椎カリエス(結核性脊椎炎)を発症して、「思うように製作ができなくな」る(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」『美術評論』25号、画報社、1900年)。発病後も、万国博覧会の審査官はつとめた(『原田先生記念帖』3頁)。27年12月には、兄豊吉が結核で死去した。

 28年(33歳)に、病をおして、京都の第四回博覧会に素戔鳴尊を出した(『原田先生記念帖』3頁)。しだいに病状悪化し、31年(36歳)9月に、相模国橘樹郡子安村に転地療養した(『原田先生記念帖』4頁)。

 鴎外は直次郎との最後の別れについて、「原田が神奈川県橘樹郡子安村の草盧に移って病を養ふといふことになった時、己はその出発の前晩におとづれて、夜の更けるまで別を惜しんだ。間もなく(32年)己も九州に下ることになって、久しく原田の消息を聞かずに居ると、この頃家人が原田の東京に出て入院したことを報じて呉た。そして、数日の後に、己は忽ち其訃に接した」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』13頁])とした。

 死去 32年、直次郎は東大病院で没した。直次郎は、病弱ではあったが、3男(24年長男大作[翌年死去]、26年次男龍蔵、28年三男一三)2女(16年長女壽、21年次女福)をもうけた。

 鴎外は、人間としての直次郎について、「己の友人にも女房持のものは少く無いが、その家庭を覗つて見て、実に温かに感じたのは、原田の家庭である。鍾美館がまだ学校であった時、原田はその奥の古屋に住んで居た。その一室は煤に染んで真黒になって居て、天井には籠を被せた犬張子、水引を掛けた飯匙などが挿してある。原田と細君と子供四人と、そこに睦まじく暮して居て、己が往けば子供は左右から、をじさんと呼んで取り付いた。細君はいつも晴々した顔色で居られて、原田が病気になってからも、永の年月の間撓なく看護せられた。殊に感じたのは、原田が神奈川に移る前に、細君が末の子を負って、終日子安村付近の家を捜して歩かれたといふ一事である。想ふに原田は必ずしも不幸な人では無かった」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』14頁])と評価する。鴎外は、「原田は・・頗る師友に愛されて居た。それは主に一の自然児として愛されて居た」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』7頁])ともする。

 また、鴎外は、画家としての直次郎について、「明治の油絵が一の歴史をなすに足るものであるならば、原田の如きは必ずや特筆して伝ふべきタイプ」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」32年[『原田先生記念帖』4頁])であり、「原田は日本人であ」り、「彼の技術を取り、彼の形象を写して居ながら、その思想は欧羅巴臭味を帯びて居なかった」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』7頁])とする。

 さらに、鴎外は直次郎の自然に対する態度として、「観察は自然の一面に対して、いつも極めて公平であった」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』7頁])とする。

 33年白馬会講演会で、安藤仲太郎は画風の変化を起こした人物として、フォンタネージ、原田直次郎、黒田清輝をあげている(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」『美術評論』25号、画報社、1900年)。

 42年11月、東京美術学校で、学習院高等科二年の原田熊雄が、森鴎外らに呼びかけ、『原田直次郎没後十周年記念遺作展覧会』を開催した。43年11月11日熊雄の妹信子が有島生馬と結婚したが、生馬が直次郎絵画で原田邸を訪問しているうちに信子と知り合ったのである。


 平成28年、100年ぶりの直次郎大規模展が、埼玉県立近代美術館、神奈川県立近代美術館 葉山、岡山県立美術館、島根県立石見美術館で開催されていて、今でも直次郎の洋画は大いに注目されている。
                          



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