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自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
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                                   § 自然と社会ーあるべき社会とは何か §
      

                                                 文明論 

                                     一 人文・社会系の文明論

 近代市民革命と文明用語 civilize、civilizationという語は、後のヨーロッパの時代の要請に基づく造語とされる。フランスから見てみよう。西川長夫氏によると、動詞civiliser(開花する、文明化する)は16世紀の後半から使われて、ここから名詞形(civilisation)が生まれた。1756年にフランスのミラボウMirabeau(重農学派の侯爵)が「civilisationをこの意味で用いて」(『英語語源辞典』)、1757年出版の『人間の友、あるいは人口論』が「『文明』の初出文献」(西川長夫『国境の越え方』平凡社、2001年、163頁)とされる。ここで、「宗教は・・文明の第一の原動力」とされ、「社会や国家の側」から文明を問題にし、「文明が美徳の内容と形式を社会に与えるものでなければ、文明は社会にとって無意味である」(西川長夫『国境の越え方』164−5頁)と、よりよき社会・国家をもたらすのが文明とした。ミラボウら重農主義者は、絶対王政の危機に直面して、「革命ではなく体制の内部において実現すべき改革のプログラムを提示することに専念」(西川長夫『国境の越え方』166頁)したのである。以後、1770年代には、フランスで「文明」用語が「広く使われるようにな」(西川長夫『国境の越え方』166頁)り、「『文明』は、『理性』『進歩』『幸福』などとともに啓蒙主義哲学の中軸とな」(西川長夫『国境の越え方』168頁)って、理想とすべき国家を提示して、間接的に時の絶対王政を批判することになった。
 
 一方、イギリスでは、形容詞civilが14世紀から使用され(西川前掲書。 『英語語源辞典』研究社、235頁によると、civilは1533年初出)、動詞civilizeは1601年に初出とされ(『英語語源辞典』研究社、235頁)、ここから名詞civilizationが生まれた。市民革命の展開で「17、8世紀にはおそらくフランスにおけるよりも重要な意味内容をも」(西川長夫『国境の越え方』168頁)ちはじめ、1767年アダム・ファーガソン『市民社会の歴史にかんする試論』、1771年ジョン・ミラー『社会における身分の区別にかんする考察』では、文明の語は「頻繁に繰り返され」(西川長夫『国境の越え方』170頁)た。1772年には、サミュエル・ジョンソンがDictionary第4版(1773年刊行、「ジョンソン博士の『英語辞典』」[ヘンリー・ヒッチングズ著、田中京子訳 みすず書房])を準備する過程の1772年に、文明用語が「この語義の採録の可否につきJames Boswellと交わした会話の中で言及され」た。つまり、ボズウェルは、ジョンソンが『英語辞典』第四版の執筆に際して「civilityという語で充分」なので、civilizationを認めなかったので、「civilize(教化する)という語の派生語であるこのcivilizationという形の方がbarbarity(野蛮)に対照する意味ではcivility(丁寧さ)よりもよい」、「語義ごとに別の言葉があったほうがよい」(169頁)としたのである(中野義之訳『サミュエル・ジョンソン伝』[西川前掲書、169頁])。

 こうして、時間差を伴いつつ、絶対王政の腐朽、市民革命の展開に前後して、英仏では新しい国家・社会の「見方」が求められ、「文明」用語が使用され始めたのである。さらに、「18世紀の後半から19世紀の初頭にかけて、近代的な国民国家の成立とほぼ時を同じくして」(西川長夫『国境の越え方』、154頁)、国民国家の対外的拡張の正当化のために進化論に支えられて文明論が提唱された。Encyclopedia69.comによると、「18、19世紀の進化論者の間で、文明は人間の偉業の頂点、西洋文化の特権と考えられ」、「進化論者は、野蛮という観念とともに始まった発展過程の最終結果として文明を述べ」、「西洋文明の『文明化力』という含蓄は、植民地諸国の民衆の幸福の正当化のように、他者に対する文化的・政治的優越を正当化するために都合良く使用され」(ヘンリー・モーガン『古代社会』1877年)だしたのである。これは、ヨーロッパ文明こそが進歩の到達点であり、ゆえに非ヨーロッパ諸国の植民地化は文明化につながるということを導いていった。

 シュペングラー、トインビー しかし、第一次世界大戦などでヨーロッパの停滞・退潮が懸念されだすと、非ヨーロッパ文明が注目され、ヨーロッパ文明と非ヨーロッパ文明の対立という側面が強調されだした。第一次世界大戦後の1917年、ドイツの哲学者オスヴァルト・シュペングラーは、『西洋の没落ー世界史の形態論要綱』(林書店、1967年)を刊行し、世界の文明圏を、エジプト、バビロニア、インド、中国、ギリシア・ローマ、アラビア、西洋、メキシコの8つに分類した。そして、当時、「世界史はもっぱら西欧の立場から考察され、歴史は進化論的楽観論のために人類の進歩を例証するものであると考えられていた」ことに疑問を提起し、「偉大な文明は相互に関係を持」たず、それぞれは「きわめて明確な個性をもつ独立の有機体」であり相互に「別の有機体の業績や思考様式を理解できない」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』5頁)とした。

 だが、彼は、「文明を『最高位の生物』」とし、「異なった文明の中に相似体(analogues、機能上の類似)を発見する事はできないが、相同体(homologues、形体上の類似)を発見することができ」、「各文明の生命周期が、若年期、成熟期、老衰期という同じ段階を通過する」と主張し、「偉大な詩と生きた宗教は若年期の文明固有の特色」とした。彼は、「植物が枯れる」ように「文明が滅びる」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』8頁)としたのである。また、彼は、「帝国主義的・社会主義的秩序は伝統的・階級的社会につづくものであり、ちょうど一年生植物が成熟しきってからその種子をまき散らすように、偉大な芸術、音楽、文学の後にはかならず技術や貿易が発達」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』8頁)すると、事実と脈絡のない「神話」「信仰」的指摘もする。シュペングラーには 「歴史を進化論的過程として見る見方の貧困さ」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』9頁)があった。 

 一方、アーノルド・J・トインビーは、1911年、海を支配していたミノス帝国の廃墟を見て、イギリス帝国の衰亡に危機感を覚え(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』15頁)、1934年(1−3)、1939年(4−6)に『歴史の研究』(歴史の研究刊行会、第1−24巻、1966年)を刊行した。文明を「属社会」(genus society)の部類に入る21の「種の見本」に分類し、現存する8文明(西欧、正教キリスト教[ロシア、主体]、イラン、アラビア、ヒンズー、極東[朝鮮及び日本、主体])、消滅した13文明(シュメル、エジプト、ミノス、インド、マヤ、アンデス、ヘレニック、シリア、、ヒッタイト、シナ、バビロニア、メキシコ、ユカタン)に分けた(『歴史の研究』265頁など)

 彼は、西欧の衰退という現実を背景に、西欧の非西欧社会を見る皮相的な見方を批判する。つまり、彼は、西洋人は、「現在の世界が、経済面において多かれ少なかれ、西欧を基盤として単一化し・・政治面において同じ基盤の上に立つ単一化がかなり達成」(『歴史の研究』233頁)されるとすることに対して、彼は、これは「すべての面に完全な単一化がおこなわれている」のではなく、「単一化と統一は同じもの」ではないと批判する。さらに、彼は、「西欧社会を基盤とする現在の世界の統一性は、人類の全歴史を説明する一つの連続的過程の完成であるという命題」(『歴史の研究』234頁)について、事実を歪曲すると批判し、「われわれは西欧人が、人々を土人と呼ぶとき、暗黙のうちに、彼らには文化がないものと決め」、「原野に出没する野獣とみなす」(235頁)ことを批判する。或いは、彼は、西欧人は、「今日の西欧社会は人類史の局地であり、それは唯一の『文明』と同義語」とみるが、「正教キリスト教、イスラム、ヒンズーおよび極東の諸社会には、それぞれ彼ら自身の社会を、人類歴史の極致であり、『文明』は彼ら自身の社会と同義語であるとみなし、かつ同時代の西欧社会の人々に劣らないほどの強い確信をもって、その相容れない信念をいだいている者が少なくない」(『歴史の研究』245頁)と批判する。こうした批判は、何とも西洋人の歴史観の低劣さを語るに落ちるものだといえよう。レベルが余りにも低すぎるのである。

 また、トインビーは、文明の存続期間は途方もなく長い」ので、衰退・消滅を測定できないなどともするが、成長・衰退・消滅するのは、文明ではなく、その根幹が「富と権力」システムであるということに気づいていない。彼においては、文明概念の定義もなく、文明に国家、宗教、地域などが混在していて曖昧な文明論なのである。だから、彼は、半獣的人間が人間に進化」した「人類の歴史」を約30万年として、「その2%にも及ばない」「二十一文明」とは「同時代に存在しているとみなければならない」(『歴史の研究』268−9頁)とする。だが、期間が僅かだから同時代とするのは実におかしい。いずれの文明にも共通する根幹、即ち「富と権力」システムという点で同一だということが把握されていないのである。

 そして、トインビーもシュペングラーと同様に 生物学的方法をとり、「『種』と『属』の概念を用いて、科学は、個々の存在の特徴を無視してはじめてそれらを種の構成単位として研究できる」としたために、「基本的な事実を不明瞭」にし、「古典古代とその西洋における後裔」のみが「あらゆる歴史的現象を理解できる概念装置を提供」するとし、「証拠資料を曲解し、各文明を前もって考えられた分類体系の範疇にむりやりはめこん」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』20ー21頁)だのであった。トインビーは、「ときおり神話をつくったり、文明と生物を現実にひとしいものとして考えたり、歴史的結論を確証するために生物学的見解に援助を求めたりする点」は、「シュペングラーと同じ」(H.フランクフォートら『古代オリエント文明の誕生』20頁)であった。明らかに、トインビーは「道徳上の偏見」・「進化論者の偏見」をもち、非西欧世界を「公平」に評価することができないのであった(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』17頁)。、

 このように、メソポタミア研究者フランクフォートによれば、シュペングラーとトインビーは「古典古代とその西欧における後裔だけに精通」(H.フランクフォートら『古代オリエント文明の誕生』12頁)しているという限界をもち、「切迫する世界大戦の暗雲の下で」、「文明の衰退を身近に感じ取りながら」文明論に取組み、「彼らの著書は衰亡に心を奪われている」(H.フランクフォート『古代オリエント文明の誕生』5頁)ものとなった。

 ハンチントン サミュエル・P・ハンチントンは、『文明の衝突』(集英社、鈴木主税訳、1998年)を刊行し、世界的に大きな反響をよび起こした。

 彼は、「世界について真剣に考え、効果的に行動しようとするのであれば、現実をある程度単純化した地図なり、なんらかの学説、概念、モデル、パラダイムが必要である」(33頁)として、現実の一般化、現象の因果関係理解、将来予想、重要と非重要の見きわめ、目標の達成方向などを示すとした。問題はこの方法論が対象に的確に適用され、正しい成果を上げたか否かである。

 シュペングラーやトインビーらの文明論がヨーロッパの衰退を背景としていたとすれば、このハンチントンの文明論はアメリカの衰退を背景としていた。1980年代に、ハンチントンは、東アジア、インドなどが経済的に成長する中、西欧は「経済成長の鈍化」、「頭打ちとなった人口増」、「政府の巨大な債務」、「低下する労働倫理」、「のび悩む貯蓄率」・「国民同士の団結力の弱まり」、「薬物乱用」、「犯罪多発」などで(117頁)「政治的、経済的、軍事的」影響力を低下させ(116頁)、特に「アメリカ衰退論」(117頁)の台頭に直面したのであった。そして、「ヨーロッパの植民地主義は終わり、アメリカの覇権も色あせ」、「欧米文化が侵食されはじめ、それに応じて各地域固有の伝統的な価値観、言語、思想、社会制度がふたたび頭をもたげ」、「世界のいたるところで非西欧文化が復興しようとし」(132頁)、「西欧の力が衰退すれば、人権や自由主義、民主主義のような西欧の概念を他の文明に強要する力もまた弱まるだろう」(133頁)と危惧しだした。彼は、東アジアの人々が力強い経済発展は「みずからの文化」により、「成功したのは自分たちが西欧とは異なるからである」(134頁)とした。ここには、非西欧世界の成長で脅かされる西欧優越論者の焦慮・憂慮が看取される。

 そこで、彼は、西欧的観点から対応策を模索しだした。それは「社会科学の研究」としてではなく、あくまで「政策決定者」らに「世界政治を眺めるための枠組み」を提示するものであり、1992年に彼は「文明の衝突」という発想をアメリカ企業研究所で講演し、「オリン研究所の『変化する安全保障の環境およびアメリカの国益』に関するプロジェクトのために準備した特別論文」でこれを発表した(14−5頁)。彼は、アメリカの権力・企業の政策決定に資するために、「冷戦後の世界政治の変化をどう解釈すればよいか」(14頁)を示唆したのである。

 では、彼は、肝腎の文明の定義を的確に行なっているか。彼によれば、文明とは、@18−19世紀ヨーロッパの非西欧社会の支配を正当化するものであり(別の箇所では、19世紀には「『白人の義務』として未開発国を指導するべきだという考え方に助けられて、西欧が政治的かつ経済的な支配を非西欧社会に広げてゆくことが正当化され」、20世紀末には「普遍的文明という概念に助けられて、西欧文化が他の社会を文化的に支配することや、非西欧社会が西欧に生活習慣や制度を見習うことの必要性が正当化」[91頁]されたとする)、A「文明と文化は、いずれも人びとの生活様式全般を言い、文明は文化を拡大したもの」53頁)であり、B「文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方」で、「文明は包括的であ」り、C「帝国は興隆し、滅亡」し、「政府は移り変わ」るが、「文明は長命であ」り(56頁)、D「現代の主要文明」は中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明(59ー62頁)とする。@Dは従来の見解の踏襲に近いが、ABの文明・文化の同一論は不正確である。これは、文明用語の根源であるメソポタミア・ギリシア都市国家文明論が考察されておらず、文明の根幹が後述の通り「富と権力」システムであることが的確にとらえられていないことによる。その結果、「国民国家は現在も今後も国際問題における最も重要な主役であるが、その利益や協力関係、対立は、ますます文化と文明という要因によって方向づけられるようになる」として、文明とは「富と権力」システムを根幹とすることに気づかぬ文明定義の曖昧さに基づく謬見に陥ることになる。

 つまり、彼は、陳腐な西欧的観点に立脚して非西欧世界を見る。彼は、「冷戦後の世界において、歴史上初めて世界政治が多極化し、多文明化した」(22頁)として、@人類の誕生以来文明間の接触は断続的であるか、皆無であり、A西暦1500年ごろの近代の幕開けとともに世界政治は多面的にな」り、「それから400年以上ものあいだ、西欧の国民国家は、西欧文明のなかだけ多極的な国際関係を築き、相互に影響しあい、競いあい、また戦」い、「同時に、西欧諸国は他の文明にまで領土を拡大し、よその土地を征服して植民地化し、すべての異文明に決定的な影響をおよぼした」(22頁)として、明らかに間違った西欧中心史観を露呈したのである。そして、冷戦後でも「文化は分裂を生み出す力であり、また統合をうながす力」(31頁)であり、「この新しい世界で最も幅をきかせているきわめて重要かつ危険な対立は、社会の階層や貧富などをはじめとする経済的な身分の異なる者同士のあいだで起こるのではなく、異なる文化的な統一体に属する人びとのあいだで起こるだろう」(30頁)とした。だが、戦後の世界は「新しい世界」ではないし、基本的対立要因は依然として富をめぐる国家間対立であり、貧富差であり、「文化」差ではないとした。

 こうして、彼は、21世紀初頭、「世界では非西欧諸国が国力と文化的影響力を増大させつづけ、非西欧文明圏の諸民族がおたがい同士、あるいは西欧とのあいだで衝突を繰り返す」(181頁)と、文明衝突論を展開したのである。しかし、彼の列挙する文明衝突例の中には文明衝突ではないもの(「コソボおよび中国の新疆ウィグル自治区」の独立戦争、APECの進展、イスラム諸国家の連帯行動、欧州・北米の移民軋轢、中国とイランおよびパキスタンのあいだの儒教ーイスラム・コネクションが強化、南ア・ナイジェリア・ブラジルの興隆など)が少なからず含まれている。このように、彼の導いた結論は的確ではなかったといえよう。、
 

 また、川勝平太氏は、「湾岸戦争もイラク戦争も、その淵源はレパントの海戦(1571年のスペインとオスマン・トルコとの海戦)にあり」(『近代文明の誕生』日経ビジネス文庫、2011年、75頁)とするが、これなども、聡明な氏らしからず、文明概念の厳密定義を怠った見解と言えよう。古今東西、戦争とは、キリスト教文明諸国内でも国家間戦争があるように、あいまいな「文明の衝突」としてではなく、あくまで国家(或いは国家連合)と国家の衝突として生起するとみるべきなのである。

                                   二 自然科学系の文明論

 近年、「測定・実験・実証などを伴う自然科学の側から文明を捉える」ようになり、歴史地球科学の研究が大いに推進され、『講座 文明と環境』第1巻地球と文明の周期(朝倉書店、1995年)、稲盛和夫編『地球文明の危機』(東洋経済、2010年)などが刊行されている。

 小泉格 まず、我々人類が住む宇宙、地球については、その周期性が自然科学的に解明されている所から確認してみよう。

 即ち、小泉格氏(理学部卒)は、「地球史に見られるすべてのリズムの周期構造」(太陽黒点周期[11年周期]、太陽黒点ヘール周期[22年]、太陽大周期[太陽黒点の200年周期説]、地球磁場の周期性[黒点周期の影響]、ブリュックナー周期[海洋変動の35年周期]、ダンスガード周期[氷床の酸素同位体比の変化周期が1000年と100年]、ハインリッヒ周期[大西洋北部の海底堆積物の漂流岩屑量の周期的変動]、ミランコビッチ周期[地表上の日射量の変化周期で1.9万年から41万年。氷期と間氷期=温暖期を形成]、火山活動・地震の周期性など)から、「人間を含めた生物は、地球環境が内在している多様な周期的変動の影響を受けながら進化してきたので、生体は多くの生理機能に固有の生物リズムをもっている」とする。

 次に、この周期性をもつ地球・生体と文明との関係をみれば、小泉氏は、まず文明を「人類が環境ー気候変動に対して新しい技術革新の方法をもって抵抗すること」と定義する。この「環境・気候」への人間「抵抗」という文明定義は他には見られない自然科学者らしい歴史貫通的な定義であるが、「社会科学」的アプローチが欠如していて文明の実体が曖昧なものとなっている。ともあれ、そういう文明定義のもとに、彼は、「地球環境ー気候の周期的変動を受けて、文明が700年から800年の周期で盛衰を繰り返しているという歴史観」が生まれるのは「納得的」(『講座 文明と環境』第1巻、3頁)とする。つまり、彼は、「文明が気候変動の影響を受けて、周期的に盛衰することは、これまで多くの人々が指摘」(『講座 文明と環境』第1巻、9頁)してきたとする。この「人々」とは鈴木秀雄氏(気候研究)、伊東俊太郎氏(科学史)、安田喜憲氏であるが、これとは別系列で村山節氏・岸根卓郎氏らもまた800年周期説を提唱している。

 村山節 既に戦前から、地理研究者E.Huntington(Civikization and Climate,453p.,Yale Univ.Press,1915)が「気候が脈動的に変化することによって、文明の盛衰や歴史にも脈動的な変動が現れる」(「地球のリズムと文明の周期性」『講座 文明と環境』第1巻、248頁)と指摘し、日本では戦後すぐに西岡秀雄氏(慶應文学部史学科卒)が気候700年周期説を展開していた。

 これらをも踏まえて、「歴史学者」村山氏(村山節『文明の研究ー歴史の法則と未来予測』光林推古書院、1984年)は、「人類文明は有史以来、東西両文明に分かれ、これまでに800年の周期で7回も正確に交代し、今回(2000年以降、東洋文明の大波)が8回目の周期交代期に当たる(『講座 文明と環境』第1巻、258頁)とする。そして、氏は、@前2800年から同2000年に外国人侵入でエジプト衰退し、古代メソポタミア文明が陽の時代となり(東)、エジプト中世的時代が陰の時代となり(西)、A前2000年から同1200年にアーリア族大移動でインド侵入し、エジプト・エーゲ文明は陽の時代(西)、アジア未開時代が陰の時代(東)となり、B前1200年から同400年にドーリア(バルカン)人の民族大移動で、古代アジア文明(メソポタミア・中国・インド)は陽の時代(東)、欧州暗黒時代が陰の時代(西)となり、C前400年〜後400年にフン族反乱と民族大移動やアレキサンドロス大帝の東征で、ギリシャ・ローマ時代は陽の時代(西)、中央アジア(クーシャン王朝)は陰の時代(東)になり、D400年〜1200年にゲルマン民族大移動や乱世で、アジア極東文(中国・古代インド・中央アジア文明は陽の時代(東)、欧州暗黒の中世時代の陰の時代(西)になり、E1200年〜2000年にチンギス・ハーンの跳梁と民族大移動で、 ルネッサンスに始まり、大航海時代を頂点とする西洋文明の時代は陽の時代(西)、アジア没落の時代は陰の時代(東)となると、提唱した。
 
 岸根卓郎 岸根氏(京大農学部卒、文明論の学際的研究者)は、この村山説を踏まえて、「従来の文明論のとる『文明興亡の人為説』に対する『文明興亡の宇宙法則説』」(『文明論ー文明興亡の法則』東洋経済新報社、1996年、増補版はしがき)、「文明の周期交代は宇宙法則によるという文明時計説」(『講座 文明と環境』第1巻、258頁)を提唱する。

 彼は、「従来の文明論では、西洋科学史観にたって、人類文明は見える世界の人為によって興亡するとの、いわば文明興亡の人為説をとってきた」が、「人類文明は、見えない世界の宇宙法則によって興亡するとの宇宙法則説をとる」(『講座 文明と環境』第1巻、258頁)とする。岸根氏は、内山氏の800年周期説を「史実に立証」(実際は立証されていない)されたものと評価して(『文明論ー文明興亡の法則』8頁)、「2極対立・周期交代の宇宙法則による」(『講座 文明と環境』第1巻、259頁)とする。2極対立の宇宙法則とは、「陽と陰、男と女、東と西、生と死、有と無、物と心」のごとく、「この世のすべては、対立する存在があって、はじめて存在する」とするが、これが、宇宙となんの関係があるというのか。岸根氏は「文明もまた、東西文明の2極対立があってはじめて存在でき、そのいずれか一方になればただちに消滅する」(『講座 文明と環境』第1巻、259頁)とするが、これには科学的根拠がなく、さすがに科学者小泉氏も内山・岸根説を引用しないのみならず、後述の通り批判する。人為は、宇宙法則に則った側面と、それに逸脱した側面があり、これらの後者が大きな問題を引き起こしているのであり、人為に厳密な周期性があるなどはありえないのであるる。

 さらに、岸根氏の所説をみれば、氏は、「周期交代の宇宙法則とは、エネルギー移動の法則(「宇宙エネルギーは元は同じエネルギーでありながら、つぎつぎと姿を変えて移動するという法則」)とエネルギー不変の法則(「エネルギーはどのように姿を変えても、そのエネルギー量は不変である」)およびエントロピー増大の法則(「自然界ではエネルギーは拡散化の方向に進み低レベル化するという法則」、ゆえに「エントロピーが最大になった状態では、エネルギーは完全に拡散し低レベルになるから物質の運動は何も起こらないことにな」り、「停止の世界ないしは衰退の世界」に突入する)の綜合作用をさ」す(『講座 文明と環境』第1巻、259頁)としてこれらの諸法則を文明交代に適用する。つまり、氏は、「人類文明は2極対立周期交代の宇宙法則によって、東西文明の2極に分かれ、そのいずれか一方の文明が、エントロピー増大の法則によってエネルギーを拡散し衰退すると、その衰退した文明のエネルギーが、エネルギー移動の法則とエネルギー不変の法則によって、そのまま他の文明に移動するから、その繰り返しによって東西文明は時計仕掛けのように正確に周期交代し、永続できる」(『講座 文明と環境』第1巻、260頁)とする。しかし、@文明を「東西文明」と明確に対立的に区分できないこと、A文明のエネルギーの実体が不明であり、文明間のエネルギー移動の実体も不明であること、B東西文明対立の繰り返しの実体が不明であること、C生命・人間が宇宙周期性に影響されてバイオリズムをもったとしても、それと文明の「周期性」とは関連はないことなどから、人為に宇宙法則を適用することは妥当性に欠けると言えよう。

 Cに関して、岸根氏は、「2極対立周期交代の宇宙法則が、生体の生命リズムを変えたのがバイオリズムすなわち生体時計であり、人類文明の興亡リズムに姿を変えたのがカルチュアリズムすなわち文明時計である」故に、「東西文明は、この文明時計に従い、昼と夜が間違いなく交代するように、かくも正確に時を刻んで交代する」(261頁)とする。同じ時計ではあるが、生体時計と文明時計との内容が異なり、両者の連関が不明である。そして、「人類文明の周期交代は、人為をはるかに超えた宇宙の法則すなわち宇宙の意思によるということになろう」となり、「文明論とは、人類文明に秘められた宇宙の法則(宇宙の意思)の発見の史学である」(『文明論ー文明興亡の法則』11頁、『講座 文明と環境』第1巻、261頁)ということになるとするが、「宇宙の法則」が「人為をはるかに超え」ているとしているように、宇宙法則と人為は別物なのである。
 
 次いで、彼は、今度は文明遺伝子説を説き、「物質が原子の種類によって違い、その原子が原子核を回る電子の数とエネルギーの大きさによって違うように、文明もまた人種によって違い、その人種も地域を取り巻く環境の違い(気象条件や資源の有無や国土の広さなどの自然環境の差、および宗教や政治や経済などの社会環境の差)と、人口の大きさ(エネルギーの大きさ)によって違うことになり、それが文明遺伝子となって、生物の系統遺伝と同様な形で社会遺伝し、その結果、各文明に個性の違いが生じ、それぞれ異なった文明を形成」(261頁)し、「東西文明の交代は・・・エネルギーの交換によるものであり、東西文明の不等価性(優劣)によるものでは決してない」(『講座 文明と環境』第1巻、263頁)とし、文明の実体が抑えられていないから、文明の「違い」を物質と同じ原子になぞらえて文明遺伝子などとしている。しかし、物質の構成要素と文明の構成要素は本質的に異なることは言うまでもなかろう。

 にも拘らず、氏は、東西文明遺伝子について、「2極対立の宇宙法則が、地球の自然環境をしてヒマラヤ山脈を境に、森の東洋と草原の西洋に2極対立させ、さらにそのような自然環境の違いが、人類の調節遺伝子に作用して、人類をして森の民の東洋人と草原の民の西洋人に2極対立させ、その結果、安田によって解明されたように、東洋からは森の文明が、西洋からは草原の文明がそれぞれ生まれ、それらがやがて東洋文明と西洋文明へと発展」(『講座 文明と環境』第1巻、261頁)したとする。つまり、「2極対立の宇宙法則が、・・人類文明をして東洋の自然随順型自然共生型文明と、西洋の自然対決型自然支配型文明に2極対立させ」、「この2極対立によって、東西文明にエネルギー交換がおこり『人類文明に周期性』が生じた」(262頁)とするのである。だが、この「東西文明のエネルギー交換」などは何ら実証されていないし、出来ないのである。
 
 岸根氏は、この文明は寿命をもつと説き、文明800年周期説を導き出す。氏は、文明寿命とは、「文明が宇宙エネルギーを使い果たす期間」であり、「文明耐用年数」(『講座 文明と環境』第1巻、262頁)とし、この文明寿命によって「人類文明に800年の周期性が生じ」、「その周期は宇宙の呼吸ともいうべき宇宙の基本エネルギーリズムの800年周期とも完全に一致」(『講座 文明と環境』第1巻、262ー3頁)するというのである。岸根氏によれば、現在は、「これまでの800年間活動してきた西洋文明のエネルギーが、エネルギー移動の法則によってしだいに東洋文明へと移行し、東西文明の周期交代が今まさに起ころうとしている」とする。しかし、800年周期交代説は、その導出過程が非科学的であり、厳密に800年とはいえないし、それ以前の人類史や南北アメリカ文明などを説明できない。もともと西洋(古代エジプト系統・ヨーロッパ系統)対東洋(西アジア系統・インド系統・中国系統・日本系統など )という発想自体が、西洋的であり、西洋内部、東洋内部にも対立があるのである。 

 では、氏は文明をどう定義するのか。氏は、「文明とは、言葉や文字が論理化され、それらが個人によって認知され、記憶され、蓄積され、特定の個人から他の個人へと伝達され、客観的な知の体系へと発展し、生活が物心ともに豊かになり快適であること」(『文明論ー文明興亡の法則』30頁)と、もっぱら知的側面から文明を定義する。「文明の本質は・・他者に自分の意志を伝える言葉にはじまる」(『文明論ー文明興亡の法則』31頁)ともして、言葉を重視する。しかし、これだと、無文字社会には文明がなかったということになり、文明の実体を正しく把握できないことになる。また、こうした文明定義から文明遺伝子・文明寿命・文明周期が立論されることもなく、両者の連関が曖昧なのである。

 ここでは、文明や文明論の定義こそあるものの、総じて文明の実体が把握されていないのである。文明の根幹が「富と権力」システムであるこがしっかりとおさえられていれば、文明のどこがが宇宙法則と関連があり、それ以外は文明と宇宙法則は関連がないことがはっきりすたであろう。つまり、文明の根幹たる「富と権力」システムの富の側面(天候と深く関わる農業、地球鉱物に関わる鉱業、エネルギー交換に関わる工業)、及びそれを担う人間の生体活動側面(自然の一部である生物の一部として宇宙の法則に従い、人間は食料をエネルギーに転換して廃棄物を捨てる化学工場)は、気候変動に左右されるから、この面では富という人為は宇宙に規定されることになる。しかし、文明全体が宇宙の法則にかかわることはないのである。

 なお、小泉氏は科学者らしくこうした800年周期説を容認せずに、「最初の文明が成立した都市革命以降、改革期が1500−2000年の間隔で周期的に起こっている」(『講座 文明と環境』第1巻、10頁)とした。

 甘利俊一 甘利氏は脳科学の立場から文明を考察する。

 甘利氏は、36−8億年前に生物が誕生し、この生物は「物質の法則に従って時空に展開」するが、「この物質には自分の構造をちゃんと記録する仕掛けがあって、自分と同じものをつくりだす」(甘利俊一「脳科学の立場から見た人間・文明・環境」稲森和夫編『地球文明の危機』108頁)とする。そして、氏は、物質にはない生物の特徴(甘利俊一「脳科学の立場から見た人間・文明・環境」稲森和夫編『地球文明の危機』109頁)として、@「物質の法則を越えて情報が主役を演ずる舞台」=DNAがあること、A「進化の法則」が登場し「環境との相互作用によって・・自分の構造がより環境に対して強いものに変わると、そちらの強いものが生き残」ったことをあげる。その後、6億年前には、「環境の変動に対して強く、生きていく」ために多細胞生物が誕生し(稲森和夫編『地球文明の危機』109頁)、センサーとアクチュエーターとかいう多細胞の役割分担のもとに、情報変換が「積み上がって」「動物の脳」ができるとした(甘利俊一「脳科学の立場から見た人間・文明・環境」稲盛和夫編『地球文明の危機』122頁)。

 そして、700万年前には「人間の原型」ができ、「猿人、原人、旧人」を経て、15万年前に現生人類が誕生し(稲盛和夫編『地球文明の危機』110頁、125頁)、「心というものが我々の脳に生まれた」とする。言うまでもなく、心は人間だけではく、甘利氏も「動物にも心はある」(122頁)と認めているから、「人間、さらに文明を総体的に理解する一つの要が心の働きの理解」(稲森和夫編『地球文明の危機』111頁)とはならない。しかし、甘利氏は、「心は人間以前からあ」り「一種の情動系が動物に共通にある」が(134頁)、人間だけは「その心の働きを自分で見ることができる」(甘利俊一「脳科学の立場から見た人間・文明・環境」稲森和夫編『地球文明の危機』135頁)とする。人間は「内部でシミュレーションができ」、かつ「それをシミュレーションとして意識できる」(稲盛和夫編『地球文明の危機』124頁)とする。そして、「物質の基本法則」の中から「生命という物質」がでてきて、生命は進化と心をもたらし、これが「同時に社会や文明などの源になった」(稲森和夫編『地球文明の危機』111頁)とし、「物質の発展、生命の発展(遺伝情報と脳)、文明の発展」の三段階が「独自の発展原理」をもつとする。

 そして、「遺伝子決定性の脳の設計図」をもつことで、寒冷化などの環境変動、「他の勢力」との軋轢に直面しても幾つかの「危機管理モデルを組み」生き残り、最終的に稲作漁労文明と畑作牧畜文明のニ系譜を形成したとする(稲盛和夫編『地球文明の危機』229頁)。脳の主務は危機管理のためなのである。食料を確保するための行動と危機管理こそが、動物に脳を必要とさせたのである。

 では、脳科学の観点からどのように文明を定義するのか。甘利氏は、「環境との関係で条件が熟さなければ、文明というものは誕生しなかったであろう」(稲森和夫編『地球文明の危機』113頁)とし、「人類が氷河期や乾燥期、また暖かくなる時期を通り抜け、いろいろ苦しい時代を経る」ことで、「苦しさが源となって、結局は知識の伝承」となり、「それがある一定のところまで高まっていくと、本格的な文明がおこる」(稲森和夫編『地球文明の危機』113頁)とする。また、 「マネーが一元的価値を持つに至った文明の暴走」(稲森和夫編『地球文明の危機』115頁)については、脳科学ではこの暴走はおさえられないから、「脳科学を踏まえ、これを越えた、大きな『人間学』をつくっていかなければ解明できない」(稲盛和夫編『地球文明の危機』116頁)とする。このように、甘利氏にあっては、文明の根幹が問われることもなく、文明の定義がなされrぬまま、脳科学と文明の関係が考察されるにとどまる。

 なお、甘利氏は、「遺伝子の仕組みと脳の神経細胞の発生」など「還元したミクロなところでの物質的な仕組み」は「非常によくわかってきて」(稲盛和夫編『地球文明の危機』121頁)いるが、「認識の仕組み」や「その上の心」はよくわかっていないとする。「心の基本的な原理、心のあり方、こういったものは脳科学を超えていて、もっと総合的な人間学が、脳科学と共同してつくっていかなければな」(稲盛和夫編『地球文明の危機』121頁)らないとする。だが、文明の限界を心のレベルで対応するには限界があり、これは文明の根幹が「富と権力」システムにあることを把握できないことによろう。

 大橋力 分子生物学・情報環境学などを幅広く研究される大橋氏は、「分子生物学と情報科学を軸にした知識空間をプラットフォームにする形で学問の枠組みを構築する」(大橋力「利他的遺伝子の優越する生命文明の地平に向かった」稲盛和夫編『地球文明の危機』144頁)として、この情報環境学から「文明の問題」にアプローチし、「利他的遺伝子の優越する生命文明」を提唱する。


 大橋氏は、「文明とは、遺伝子に約束された本来の棲み場所と生き方からやむなく、あるいは自ら求めて乖離し、産業化に転じた人類たちが、そのために生じた環境条件や生存様式と遺伝子設計との不適合から導かれる生存内容の低下を、本来のそれに近づけようとして行なう、居住の固定集積化を伴う高度に適応的な社会行動の体系」(稲盛和夫編『地球文明の危機』145頁)と、遺伝子と環境の観点から文明を定義する。そして、氏は、「産業化」を「遺伝子に約束された本来の棲み場所と生き方」からの乖離とみて、その乖離を調整するのが文明だとし、「生命科学的な概念を骨子」として「自然科学的アプローチ」をして、文明とは、「本来の生存を離れた人類たちが行なう高度に適応的な社会行動」(稲盛和夫編『地球文明の危機』145頁)とする。しかし、文明が実体において把握されるのではなく、本来からの乖離への適応だと外形的に捉えられ、しかもそれが「高度に適応的」などというのは的外れというべきであろう。

 では、大橋氏にとって、「本来」とはなにか。氏は、「文明は環境とのかかわりの中で生まれ」、「文明は大地と人間とのかかわりの中で誕生し、そして発達してきた」とし、「寒冷化にともなう気候の乾燥化が人々を大河のほとりに集中させ、この人口の集中が都市文明を誕生させる一つのきっかけとなった」(稲盛和夫編『地球文明の危機』144頁)が、原点は、「人類の遺伝子と脳の鋳型になった環境」たる熱帯雨林であり、「遺伝子と脳に約束された人類本来の生存様式」たる「狩猟採集生活」だとする。氏は、「人類が起源した環境」は「アフリカ熱帯雨林」(稲盛和夫編『地球文明の危機』169頁)であり、これこそが「本来」だというのである。氏は、「オラウータンの先祖に始まる大型類人猿が脳を特別に発達させつつ歩んできた二千万年になんなんとする進化のハイウェイは、ずっと熱帯雨林の中にあり、私たち現生人類もその例外ではない」(稲盛和夫編『地球文明の危機』169頁)として、「私たちは、祖先たちとほとんど変わらず、熱帯雨林に棲む『森の狩猟民』として設計された遺伝子と脳をもって生きている可能性が高い」とする。

 そして、この「エデンの園」たる熱帯雨林の環境から離れた人類は、「『一次産業』を起こして食べる物を生産」して、「文明に向かっての第一歩」であり、「本来から適応への転換」(稲森和夫編『地球文明の危機』180頁)をし、「畑作牧畜文明」(これは本来を「未開・野蛮」として否定し、それから離れる傾向が顕著。環境世界を無限と見て、人類優位のもとに自然を不可逆的に侵食)、「長江流域起源の稲作漁労文明」(自然回帰の向性を失うことなく抱いている。環境世界を限定的に見て、侵略せず、安定的系。自然回復力を維持しつつ自然共生)が登場するとする。こうして「人類の文明のあり方に、互いに大きく異なる二つの方向性」(稲盛和夫編『地球文明の危機』180頁)が出てきたが、大橋氏は、あくまで「熱帯雨林の狩猟採集生活」が「本来」であり、稲作漁労と畑作牧畜は適応だとする(稲盛和夫編『地球文明の危機』181ー2頁)。大橋氏は、「二つの文明の系譜の間に見られるこの落差は、甚だしい」(稲盛和夫編『地球文明の危機』183頁)としつつも、「畑作の牧畜と稲作漁労という対峙構造が、人類の初期設定としてア・プリオリに存在していたともいえ」ないとする(228頁)。畑作牧畜文明、稲作漁労文明各々にも自然侵食性はあったのであり、両文明の差異のみ強調していては、根幹において両文明が共通して帯びていたもの、つまり「富と権力」システムがドロップされることになろう。

 氏は、「生物としての人類の群れの在り方」の観点からこの二文明を比較して、@「本来の最適な群れの規模と構造」は、「生物の種類ごとに遺伝子で決定」され、「それらの最適な状態で群れ同士が棲み分け」(稲盛和夫編『地球文明の危機』183頁)、ピグミー族の群れ規模は「数家族からなる十数人程度の<バンド>と呼ばれる群れを形成」し、A「稲作文明の中でも本来指向が強い社会」では、日本の字、バリ島のバンジャールのように、「ピグミーに近い最適の規模」に向かい、B「メソポタミア起源の畑作牧畜文明の系譜を踏む大型の適応指向性社会」では、社会規模は大きく、内部構造は「均質で一元的に制御できるのが良い」とされ、「必然的に、群れ同士がぶつかりあって覇権争いを始める」とする。だが、稲作文明でも覇権争いは起こるから、これもまたあまり説得力がない。

 大橋氏は、以上の自らの生命科学的文明史観と安田喜憲『文明の環境史観』とを連帯させて「生命文明科学」(稲盛和夫編『地球文明の危機』179ー180頁)の構築を提唱する。既に2009年9月26日に、大橋・安田は「生命文明科学創設宣言」を発していて、「近現代物質文明の限界を克服し危機を好機に転じつつ生命文明の実現を図る「決め手」として、〈生命文明科学〉を創設する。〈文明の環境史観〉と〈情報環境学〉とを源流とし、現代生命科学を知的プラットフォームとしつつ、あらゆる自然・社会・人文諸科学を自在に包摂しうる学術体制と、同様の芸術・技術体制とを混然一体に融合して、有効、適切、快適に新しい文明の地平を拓いていくことを宣言する」としていた。

 ここでは、大橋氏においては文明が遺伝子学の観点から定義されたのだが、では、大橋氏が連携を標榜した安田氏の文明論とはいかなるものであろうか。
 
 安田喜憲 安田氏は文明盛衰と地球気候の周期性との関係を堆積物を通して科学的に解明した。気候は農業に深い影響を与えるから、文明盛衰と気候周期とは一定の関連があるのは当然であり、氏はこれを堆積物分析で実証的に考察したのである。さらに、氏は科学者らしく文明周期性と気候周期性の直接的関係を問うことはなかった。

 安田氏は、「気候が脈動的に変化することによって、文明の盛衰や歴史にも脈動的な変動が現れる」という先行の気候脈動研究(E.Huntington,西岡秀雄、岸根卓郎、村山節)を踏まえて、「700−800年」周期の検証はまだなされていないが、「気候が宇宙の摂理のもと、永劫循環的に周期性を繰り返し、人類の文明もまた宇宙の摂理のもとに永劫循環的に周期性をもつという歴史観のほうが、よほど人類とこの地球環境の危機の現代を救済する歴史観としてはふさわしい」(『講座 文明と環境』第1巻、249頁)とした。つまり、安田氏は、「人類の歴史がかぎりない未来に向かって直線的に発展するという発展史観のもとでは、歴史を発展させる原動力は生産力の向上と階級闘争」だったが、「気候と人類史のかかわりをみたとき、この歴史発展の常識はまったく当てはまらないことがわか」り、「文明を誕生させ」「新時代を切り開く」時は「気候変動期に相当していること」が解明されたとした(『講座 文明と環境』第1巻、249頁)。

 こうして安田氏は文明の周期説には与せずに、「地球は約10万年の周期で寒冷な氷河時代と温暖な間氷期を交互に繰り返す」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)という10万年周期を説き、安田らが「福井県三方湖の花粉分析の結果」、「間氷期と呼ばれる温暖期は、わずか1万5000年ー2万年の長さしかな」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁く、これは2500−2000年の周期で気候を悪化させるとした。

 具体的には、1万3000−1万2500年前は「長かった氷河時代が終わり新たな後氷期の温暖期に移り変わる移行期」(『講座 文明と環境』第1巻、249頁)だとし、@「晩氷期の気候の温暖化と湿潤化は、旧石器時代の人類の主要食料であったマンモスやバイソンなどの大型哺乳動物の生息に適した草原を縮小させ」、「旧石器時代の人口の増加と人類のオーバーキリングも大型哺乳動物の絶滅に拍車をかけた」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)、A1万3000年前、ヨーロッパでマンモスが絶滅し、ここで、「人類は、大型哺乳動物に代わる新たな食料として植物栽培を開始」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)したとした。そして、1万500年ー1万年前、「後氷期と呼ばれる間氷期」に突入し、「海面は急上昇し、日本列島では縄文人たちが貝塚を残すようになり、森の分化とともに海の分化が発展を開始」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)したとした。

 前8000−前7500年には、「温暖化して安定した後氷期の気候」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)が確立し、@「西アジアでは灌漑による大規模な農耕村落が出現し、神殿が建築され」、「神殿を核とする農耕社会の宗教体系が誕生」し、A「東アジアでは揚子江下流域の河姆渡(かぼと)遺跡、中流域の彭頭山(ぼうとうざん)遺跡などで稲作が始まり、農耕を生産の基盤においた後氷期の文明の骨格が確立」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)し、B前8000年、縄文時代早期後半、日本列島で「対馬暖流が本格的に流入し海洋的な日本の風土が確立」し、「縄文時代の生業に必要な狩猟・漁労・採集の道具がすべて出揃い、日本の海洋的な風土に適応した生活の体系が確立」(『講座 文明と環境』第1巻、250頁)するとする。前5500年ー前5000年には、気候変動で都市文明が誕生し、@「気候最適期と呼ばれる高温期が終わり、気候は寒冷期に突入」し、この寒冷化は「大河の下流域を乾燥させ」、「人々を大河のほとりに集中させ」(『講座 文明と環境』第1巻、251頁)、Aさらに、「気候の乾燥化で砂漠化が起こり、ステップ地帯で牧畜を主体に生活していた人々が水を求めて大河のほとりに集中」させ、先住の農耕民との混合をもたらし、都市文明(エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明)を誕生させ、「王と神殿を頂点とする巨大な宗教体系が確立」され(『講座 文明と環境』第1巻、251頁)、B中国では、黄河文明(1500年以上も遅れて、前3500年に誕生、『講座 文明と環境』第1巻、251頁)ではなく、揚子江中下流で稲作で「都市文明に匹敵する文明」が存在した(『講座 文明と環境』第1巻、252頁)。 
      
 前3000−前2500年には、再び寒冷化して、@「ミケーネ文明やヒッタイト帝国を崩壊させ、地中海世界をはじめユーラシア大陸は民族移動の嵐に飲み込まれた」(252頁)、A「この時代は鉄器時代の形成・確立期」であり、「人間による自然の支配」が強化され(『講座 文明と環境』第1巻、252頁)、「ソクラテスが人間の理性を、孔子が人間の道徳を説くことができるようになったのは、人間が自然からの自由を獲得できたため」で、「自然からの自由を獲得した人々は、人間の幸福を考えるゆとりが生まれた」(『講座 文明と環境』第1巻、252頁)とした。前3000−前2500年、「気候の寒冷化によって大陸で政変や社会的動乱が引き起こされ、そのために大量の気候難民」が海上に押し出され、その一部が来日し、稲作が伝播された(『講座 文明と環境』第1巻、253頁)。前539年、ペルシァのキュロス2世が新バビロニア王国を亡ぼし、捕囚イスラエル人を解放。エルサレムに唯一神ヤハウェの神殿を建築し、ユダヤ教を確立し(『講座 文明と環境』第1巻、252頁)、@同じ頃、インドでジャイナ教、仏教が誕生。北インドでは「インダス川からガンジス川流域へと開拓が急速に広ま」る(『講座 文明と環境』第1巻、253頁)、Aまだ「気候寒冷期」で「飢餓や疫病が多発」し、戦争が多発して(MS)、ここに「慈悲と博愛に裏付けられた巨大宗教が誕生」した。

 1500−2000年には、小氷期(温暖な間氷期の終末期)とよばれる寒冷期に直面し、近代ヨーロッパ文明の世界拡散の開始され(『講座 文明と環境』第1巻、254頁)、「現代は紀元1500年に始まった人類文明史の大転換期・激動の時代の末期に位置」するとした。

 このよう、安田氏は、「2500−2000年ごとに周期的にやってくる気候の悪化が人類に危機をもたらし、その危機を克服する人類の叡智が、新たな文明を生み出したといえるかもしれない」(253頁)とし、大橋氏と同様に文明を危機対応の産物とした。文明の定義はないが、文明の歴史的意義を危機対応にもとめたのである。人類は、危機に直面して、「新たな技術革新や社会システムや思想などを誕生させ、危機をのりきった」(『講座 文明と環境』第1巻、254頁)とするのである。安田氏は、文明の800年周期説を説くのではなく、文明と気候変化との関連を説いていて、それなりの説得力がある。食料は気候と深い関連があり、凶作が農民の租税負担力を殺ぎ、権力に大きな影響を与えることは周知の事実だからである。しかし、安田氏においても、大橋氏と同様に、文明の実体に即した定義がなされてはいないのである。

 松井孝典 松井孝典氏は、宇宙(137億年の歴史)の視点から地球(46億年の歴史)の歴史を見て、こうした周期性とは異なって、「分化」という法則を提起している。

 松井氏は、地球史は「基本的に、分化(均質だった状態から異質なものが分かれてくるということ)が本質」(松井孝典「限界に近づいている地球システムの中の『人間圏』」稲森和夫編『地球文明の危機』22頁)であり、ビッグバン時の「混沌と無秩序状態」の「均質状態」が「宇宙が膨張することによって冷え、冷えた結果、構造が生まれ、分化が起こ」(稲森和夫編『地球文明の危機』22頁)り、10億年ぐらいで銀河、星が生まれ、90億年頃に惑星、生命が生まれたとする(稲盛和夫編『地球文明の危機』22ー3頁)。  
 
 このように地球は冷えるから、地球はサブシステムを分化させて、地球システム(大気、海、生物圏、地殻、マントル、コア、プラズマ圏などからなる)を形成するとした。つまり、氏は、、@原始大気が冷えて、マグマの海が冷えて原始地殻、外核が冷えて内核ができ、内核の分化により形成される磁場が「地球を太陽風から守る磁気圏の形成」(『講座 文明と環境』第1巻、19頁)を導き、A地表温度が上昇せず低下したことで、「地表付近の地球システムの構成に、海・生物圏・人間圏」などのサブシステムを生むとした(『講座 文明と環境』第1巻、20頁)。松井氏は、「生物の存在を、地球という惑星のエネルギー散逸過程に伴う物質循環という視点から位置づけると、生物圏とでも称せられるべき、独自の物質滞留時間を有する物質圏として定義」(『講座 文明と環境』第1巻、15頁)し、「個々の物質圏はそれぞれその内部にそのスケールによって異なるさまざまなエネルギー散逸過程それに伴う物質循環を有する」とした。

 そして、20億年前生物圏が誕生し、「大気が汚染され海洋が汚染され・・酸素が蓄積し」、1万8000年前(最終氷期最寒期)以降の7000年間の地球軌道要素(公転軌道の離心率、軌道上での地球の位置、および軌道平面に対する地軸の傾き)の周期的変動がうまく組み合わさり」、「太陽日射量が増加して、氷期の氷と雪を溶解」し、温暖化し(『講座 文明と環境』第1巻、62頁)、これで「狩猟・採集ができなくなり、農耕や飼育を始めざるをえなかった」(75頁)とした。1万年前に「農耕・牧畜を始めた人類は、そのときから地球史のうえでまったく新しい段階(人間圏の分化)に入った」(『講座 文明と環境』第1巻、15頁)とし、人間の文明とは、「人類が生物圏から分かれ、人間圏をつくって生きる生き方」(稲盛和夫編『地球文明の危機』、13頁、21頁)とした。この「人間圏」は、生物圏とは違う生き方なので、「我々とは何か、何のために生きるか」を考えるようになる(稲盛和夫編『地球文明の危機』44頁)。この見方は卓抜である。こうして、氏は、文明とは「人間圏」をつくることだとして、文明固有の実体を掘り下げる事はなかった。

 さらに、20世紀の人口増加率は、4倍であり、この割合で人口増加すれば、3000年で「全人間の重さと地球の重さが同じにな」(松井孝典「限界に近いている地球システムの中の『人間圏』」稲森和夫編『地球文明の危機』19頁)り、この人間圏で「生じる現象はすべて右肩上がりを前提とし」(稲盛和夫編『地球文明の危機』29頁)、いずれは有限な資源を食いつぶして崩壊するとした。

 これだけではない。現在は「第四紀氷河時代の中の一時的な温暖期である間氷期」(小泉格「日本近海の海流系は脈動していた」『講座 文明と環境』第1巻、62頁)にあるが、松井氏は、「地表温度は太陽からの入射光とその結果暖められた地表からの熱放射が釣り合う形で決まる」から、地球の未来は太陽の「進化」如何にかかっているとして(『講座 文明と環境』第1巻、20頁)、@太陽は「主として水素とヘリウムのガス」からなり、水素燃焼は100億年続くから、太陽はあと50億年くらい燃え続け、A赤色巨星段階になると、「地球はその強烈な放射にあぶられ・・蒸発してガス」(『講座 文明と環境』第1巻、21頁)になり、B太陽光度の上昇で地表温度が上昇すると、それを緩和するべく、二酸化炭素量を減少させる結果、光合成生物は存在しえなくなり、人間圏は消失し、あと5億年で「生物圏」は崩壊し、10億年で海が消失し、あと50億年で地球が太陽に飲み込まれるとするとした(『講座 文明と環境』第1巻、21頁、稲盛和夫編『地球文明の危機』87頁)。

 小括 安田・小泉氏は『講座 文明と環境』第1巻の「あとがき」で自然科学の文明考察の成果を大いに強調する。つまり、彼らは、、@「ここ10年間(1995年ー筆者)の歴史地球科学の長足の進歩」で「太陽活動や火山・地震活動さらには海洋環境や気候変動、それらの影響を受けた生物相の変遷には周期性が存在することが明らかにな」(『講座 文明と環境』第1巻、264頁)り、「直線的な発展史観に根本的な見直しをせまり」、A「地球の自転や公転の周期性、太陽活動の周期性、それらの影響を受けた気候変動の周期性は、地球上の生命体の周期的変化を引き起こし、生物リズムとして生物の進化をもたらした可能性が大きくな」り、B「人間もまた生物の一種である以上、この宇宙的・地球的リズムの影響から自由であるはずがな」く、「分析技術の進歩によって、高精度の周期性が明らかになればなるほど、人間の歴史や文明の盛衰は、宇宙的・地球的リズムと密接にかかわってきた可能性がますます大きくな」(『講座 文明と環境』第1巻、264頁)り、Cこの「人間の歴史は宇宙や地球の周期性に支配され周期的に変動するという歴史観は、根本的に異なった世界観を生」(264頁)み、「人文・社会科学の研究者には新たな歴史観や世界観を生み出す多くの示唆を内包」(『講座 文明と環境』第1巻、265頁)すると総括したのである。しかし、人為に自然科学法則を即自的に適用することには限界と問題があることに留意しなければならない。

 この点を松井孝典氏の所説の吟味から確認してみよう。氏は、「自然とは、ビッグバン以来の宇宙の歴史的産物」(『講座 文明と環境』第1巻、14頁)であり、「科学とは自然というビッグバン以来の宇宙の歴史が記録された古文書を読み解く作業」で、「物理学や化学の法則とは、自然に生じるさまざまな現象の因果関係を簡潔明瞭な形で表現したもの」(『講座 文明と環境』第1巻、14頁)であり、「人文科学や社会科学がヒトの歴史を解読しそこにヒトの営みの普遍性を探る学問」であるとする。ヒトは自然の一部であるから、「ヒトの営みの歴史」が「自然の歴史」の一部であるのだが、両者がいかに関連するかは言及しない。そして、「技術とは宇宙という時空スケールで生じる現象とその因果関係を、ヒトの営みの時空スケールに効率化すること」とする。しかし、宇宙の因果関係をそのままヒトの営みの効率化に適用することが当然であるように述べることは問題である。さらに、松井氏は、人間圏を地球分化活動の一部として他の物質圏と同等に扱うが、これもまた適切ではない。人間圏とは「地球の分化」としては異質な存在だからである。

 実は、この点については、松井氏自ら、@数百万年間人類は「狩猟・採集」という「基本的には動物」のライフスタイルであり、Aしかし、「農耕・牧畜というライフスタイルは地球システムの中の物質循環という視点からみると狩猟・採集とはまったく異な」り、森林伐採・地下水利用などで「地球システムのエネルギーの流れ、物質循環に攪乱をもたらす」(『講座 文明と環境』第1巻、18頁)とし、B「産業革命や近代高等技術文明」による「鉱物資源やエネルギー資源の発掘と利用」は「地球システムの物質移動という視点でみると、もはや攪乱といった程度ではない」(『講座 文明と環境』第1巻、19頁)としているのである。だとすれば、人類が、自然を改造し、エネルギー循環を「富と権力」システムに組み込み始めだしてからは、自然の一部であった生物から離れた「突然変異」種、しかも悪性の「突然変異」種に転換していたことになることが鮮明になるのである。

 生物は「化学反応が上手くオーガナイズされ自己増殖を持った物質装置」(大橋力、稲盛和夫編『地球文明の危機』42頁)とされる。そもそも、生物は、地球物質のエネルギー循環から生まれたものであり、植物は自己生殖・成長ができる自己完結体であったが、食物を周辺から幅広く獲得する動物は、植物・動物からエネルギーを獲得する他律体であり、ここに動物のみが、食料獲得行動を指示する中枢脳を身につけ、その過程で危険に対処し、協調・和を育み、苦悩を和らげるために感情・心が生み出された。人類がこうした生物に一部にとどまっている限り、人類は長い地球エネルギー史=「分化」運動に沿うものであったが、人類が自然改造し、地球資源を取り出し、地球を改変しだしたことで、悪性「突然変異」種に転換していったのである。松井氏の「人間圏」の孕む問題点が、このことを明解に把握させた点で、人間圏という考え方はその重要性が増してきたと言えよう。人類はこの不条理を自覚し、この傲慢さに不安・危惧を覚え、一方で宗教、他方で哲学・倫理を生み出してゆき、世俗の憂いを発散させるために種々の娯楽・芸能を創り出していったのである。

 以上、自然科学系の文明論では、従来の人文・社会系の文明論では明らかにし得ないものを解明してくれた。しかし、自然科学系の文明論では、文明の実体の分析が欠如しており、文明の根幹が把握されていない。安田氏は、「中心文明だとみなされていた文明も、いずれは周辺文明へと没落」し「永遠不滅の文明は存在しない」のは、「人類史を牽引したその文明の原理が、いつかは人類の要求に合わなくなるため」(安田喜憲「新たな文明原理は危機の時代に生まれた」稲森和夫編『地球文明の危機』301頁)とするが、その文明原理の実体が不明なのである。

 しかし、
これは従来の人文・社会系の文明論でも明らかにされなかったことであるから、この点では、自然科学系も人文・社会系も同じだといえよう。それでも、自然科学は、従来の人文・社会系ではできなかった重要な事実、つまりその人為たる文明が悪性突然変異種であることを明らかにした。だが、自然科学をそのまま適用するだけでは文明の実体把握には不十分なのである。ここに従来の人文・社会系の出番があるなどという縄張りを声高に主張するのではなく、総合的・根源的学問論に立脚して、ひたすら学問的に文明の実体に即してその「悪性突然変異種」の普遍的特徴をあきらかにしなければならないということになるのである。
 
 ここに、我々は、文明の原点メソポタミアに立ち返って、文明概念を厳密に定義しなければならないことになる。

 

                                   三 メソポタミアの文明論ー原点

 「富と権力」という富社会の文明 自然社会と長く共存した後に自然改造農法が生み出したこの「富と権力」という富社会の文明とは、人類は、それがいかなる結果を人類にもたらすかなどもわからぬままに、周辺の集団・村・都市国家・領域国家とせめぎあって生き残るためにその構築・整備を余儀よぎなくされたものであった。人類は、周辺の集団・村・都市国家・領域国家からの侵略の危機に防衛するには、同じレベルの「富と権力」のシステムを構築しなければ、攻め滅ぼされ、奴隷にされてしまうのである。人類は、富社会で生き残るためには、いちはやく軍事力、さらには宗教と法とに支えられた「富と権力」システムを構築しなければならなかったのである。

 確かにメソポタミアで最初の古代文明が起きはしたが、メソポタミ研究者が指摘しがちなように、それがが直線的に「後の人類の文明・文化の基本」(月本照男『古代メソポタミアの神話と儀礼』岩波書店、2010年、はしがき)になったというわけではない。つまり、メソポタミアと接触がない地域でも、「富と権力」の文明システムは周辺集団・村・都市国家・領域国家とのせめぎあいのなかから絶えずうまれるということである。この点に関して、ロバーツは、「最初にひとつの中心的な文明が起こり、それが各地に広まっていったのか。それとも世界各地に、ばらばらに文明が発生したのか。あまりにも複雑な問題のため、これを真剣に議論するのはおそらく時間と労力の無駄となるでしょう」し、「どちらの説も説得力に欠けています」(J.M.ロバーツ、青柳正規監訳『世界の歴史』1、「歴史の始まり」と古代文明、創元社、2002年、84頁)とするが、彼は文明システムの骨格を明確に押さえていないので、「富と権力」システムについて今ひとつポイントが鮮明ではないのである。

 この点、マイケル・クックは、文明を農耕と同義語として使用するが、「この(文明という)用語は明白ではない」(マイケル・クック、千葉喜久枝訳『世界文明の一万年の歴史』柏書房、2005年、70頁)と指摘し、文明の定義を試みた。彼は、メソポタミアのシュメール文明、エジプト文明、インダス文明、クレタ文明(前2000年紀)、メソアメリカ文明(前1000年紀)の共通点は、「高度に複雑な社会」であり、具体的に、「文字の発展と、高度に発達した王制」(クック前掲書、1頁)だとする。彼は、諸文明の共通点を見出そうとして、曖昧に使用される文明用語に明確な定義を与えようとしたのである。これは十分に評価できる。だが、「初期の文字は力強い国家を前提にしていたのだが、たいていの人間社会に関していえば、それは王制という国家体制を意味した」(クック前掲書、75頁)として、彼は、文字は付随的としつつも、国家と文字を共に文明指標としたのである。

 我々にとって、国家が文明の指標になるということはわかりにくいことだが、当時の人々にとって、国家(具体的には都市国家)は、中心に神殿を築き、城塞によって敵の侵入を防ぎ、華やかな女性と音楽に満たされた「文明」空間だったのである。このことは、シュメル初期王朝第V期(紀元前2600年)の都市国家ウルクの王として存在したギルガメッシュ(月本昭男『古代メソポタミアの神話と儀礼』岩波書店、2010年、213頁)の叙事詩(月本昭男訳『ギルガメシュ』岩波書店、1996年)からも確認される。それによると、ギルガメッシュは、自然人エンキドゥを恐れる狩人に聖娼(神殿付きの娼婦)シャムハトをエンキドゥのもとに連れて行き、「奥処を開かせ」エンキドゥを誘惑すれば、動物が離れると助言した(12ー3頁)。そこで、狩人は聖娼シャムハトに水場で「未開の男」「凶悪な若者」エンキドゥに「奥処を開」かせ、誘惑せよと命じた(13−4頁)。この通りにシャムハトがエンキドゥに「女の業」を行い、エンキドゥは6日7夜「愛の行為」を行った。すると、それまでエンキドゥと行動を共にしていた動物たちは彼から遠ざかり、エンキドゥは「力弱くな」った。ここに、シャムハトはエンキドゥに、あなたは「賢く、神のようになった」からとして、ギルガメッシュが「野牛のように人々に権力をふるってい」る都市国家ウルクに「お連れしましょう」と告げた(14−5頁)。

 では、今から約4500年前のウルクとはどのような所であったのであろうか。『ギルガメシュ』によると、そのウルクの面積は「一シャル」(約1300ha)であり、近接して果樹園・「粘土をとる低地」が各「一シャル」あり、これに「イシュタル神殿の未耕地」(5頁)があった。城の周りは壁で囲まれ、ウルクの住民は動物や敵からまもられていた。そして、その防御のもとに、支配階級として「諸王、貴族、諸侯ら」(68頁)が君臨し、すでに「鍛冶工」、「銅細工人」・「銀細工人」、「彫刻師」(100頁)、大工・石工(136頁)、指物師(158頁)など多様な「手職人」(78頁)が住んでいた。こうした一定の社会的分業の展開のもとに、上級ビール(シラシュ・ビール、クルンヌ・ビール)、油、ぶどう酒、吸物(140頁)など、それなりに豊かな食生活があった。さらに、「人々は腰帯を締め、日ごとに・・祝祭が催され」、「箱琴や太鼓がいつも奏でられ」、容姿美しい遊女らが「生の歓び」を与えていた(17頁)。これが、当時の人々にとっては、獣の支配する野生世界とは大いに異なる文明だったのである。この叙事詩は、四主題(「死すべき人間」、「友情」、「太陽神シャマシュ信仰」、ギルガメッシュの精神形成)をもっていたといわれるが、都市国家をこのような文明空間としてとらえらており、以後この叙事詩は「古代西アジアにおいて・・1500年間にわたって書き継がれ」(月本前掲書、214頁)ていったのである。

 この都市国家文明論はアリストテレスによって完成されたとも言えよう。彼は、「何びとどいえども独りぼっちであらゆる善をし所有しているということは、これを選ばないに相違ない。人間はポリス的・社会的なもの(ポリティコン)であり、生を他と共にすることを本性としているからである」((高田三郎訳『二コマコス倫理学』下、1998年、137頁)とする。そして、もちろん遊女は未だいたが、ギルガメッシュ叙事詩ではまだ「野鄙」な男女の営みの空間だった都市国家が、「夫婦のあいだに愛の存するのは本性に即したものと考えられる。けだし人間は、本性的に、国家社会的(ポリティコン)なものたる以上に配偶的なものだからであって、それというのも、家は国に先だつところのより不可欠的なものであり、生殖はもろもろの動物に通ずるより共通的なことがらだからである。ただし、他の動物との共通性はそこまでであって、人間が家を営むのは単に生殖の目的のためのみではく、生活の要求する万般のことがらを目的とする」(99−100頁)とされたのである。

 文明指標としての国家はこれでよいのだが、クックが、付随的な文字まで文明メルクマールの一つとすることは問題である。文字よりももっと重要なものがないのであろうか。文字などより、当初の権力である「王制」を支えた重要なものがあるではないか。文字などなくても「王制」は維持できるが、それがなければ、「王制」を存続させえないものがあるではないか。王族を維持し、役人・兵を養い、武器を備え、周辺諸王国を威圧し、或は武力制圧させるのに必要なものがあるではないか。それが、富なのである。富があってこそ、初めて「王制」という権力も存続できるのである。富は権力を支え維持するのである。

 メソポタミ神話の文明論 この「富と権力」の連関が文明の根幹になることは、メソポタミア神話からも裏付けられる。メソポタミアには、エンキ(セム語)=エア(シュメール語)という神がいて、この神は、都市エリドゥの守護神であるとともに、深淵の水(地下淡水)、知性、技術、創造という富生産に関わるシステムを司る神であった。この神は、アン=アヌ(天・星の神、神々の集団[アヌンナキ]の父、玉座占有)、エンリル(「世界の事実上の君主」、あらゆる支配権を掌握する権力者)と並び三体神の一つであった。エンキという富に関わる神が、アヌ、エンリルという権力神に次ぐ第三位の神だったのである。

 この神エンキが守護する都市エリドゥは、「ティグリスとユーフラテスの河口をペルシア湾で結んでいる潟にずっと接近した位置」にあり、地下水が豊富であり、これが地表を支えている「基盤部」と見られ、当初はエンキは「この地のセム人に固有の神格」(ジャン・ボテロ前掲書、351頁)となっていた。このエンキが、灌漑で地下水を農耕に活用する技術を駆使して富をもたらす神とされる。実際には、エリドゥで生活する人々が、地下水を使って農耕をを行うのだが、彼らにとって、それは自然を傷つける恐ろしいことであり、地下水の怒り、たたりを恐れたに違いない。ここに、技術、水の神が灌漑農法を始めたという神話を生み出し、自らの農耕を神認sじてもらい、安堵したのであろう。

 シュメール語神話『エンキとニンフルサグ』(前2千年紀初頭)によると、まだエンキは「三体神」の一つになっていないが(ジャン・ボテロ、松島英子訳『メシポタミア』法政大学出版局、1998年、353頁)、エンキは、井戸を掘り、地下淡水で麦の農耕に着手し(ジャン・ボテロ前掲書、354頁)、「荒れた地味の乏しい地に、彼は農耕を『蘇生させ』、植物を取り扱うことを教えた」(ジャン・ボテロ前掲書、354ー5頁)のであった。この農業の展開によって、エリドゥ内外に産業が起こってくると、これもエンキ神が定めたことだとし始める。シュメール語神話『エンキと世界秩序の確立』によると、エンキは、各地域経済を「運命」として位置づけ、まず、シュメールを「最も偉大で、最も豊かで、最も開け、文明が普及しているという運命を定め」(ジャン・ボテロ前掲書、355頁)、次に、ウルを「海を介して外国とつながる」拠点とし、「大きな港」を開き、その後、メルッハ(インド大陸の西端)には「金と錫のおかげで繁栄するという運命を定め」、次に、シュメールに隣接する地域について、ティルムン(南東)を「ナツメヤシの実と麦類」の供給地、エラム、マルハシ(東方のイラン高原)を「貴石と銀の生産」地、マルトゥ族を「多数の家畜の供給」役と位置づけて、「シュメールの国は自分たちが生産しない、あるいは十分に保有していない消費物資を外国から入手し、代わりに近隣にその栄光と文化とを分かち与え」(ジャン・ボテロ前掲書、355−6頁)たのであった。こうして、エンキは、「全体として、自分が委託されている領域内部における労働と物資交換が、均衡を保ちながら遂行されるように計画を立てる、マネージャーの役割を演じ」(ジャン・ボテロ前掲書、356頁)、灌漑農耕を起動力とする社会的分業を定めたというのである。

 そして、エンキは、この社会的分業の編成に神々を関わらせる。つまり、エンキはこの「領域内部における労働と物資交換」の役割を「シュメールの内部で遂行」し「文化の基本的な部位の機能」を下位の神々に割り当てたのである(ジャン・ボテロ前掲書、356頁)。まず、エンビルルには「ティグリスとユーフラテスの機能を割り当て」、ついで、ナンナには「南部の魚の多い沼沢地」、クッラに「煉瓦の製造」、ムシュダンマに「建物の建築」、スムカンに「野生動物」、ドゥムジに「家畜の飼育」、ウトゥ(太陽の神)に「国の行政司法の円滑な運営」、ウットゥに「衣服に関するすべての領域」、アルルには「人類を制作すること」、ニンイシンナには「売春」=「自由恋愛」、ニンムグに「木工と金工」、二ダバに「出産」、ナンシュには「文字と、それに依存するすべての領域」をそれぞれ割り当てたのである。この社会的分業に従事し富を生み出したのは、いうまでもなく人間であるが、神話では当初は下級の神々がこの富生産を担って、この大きな地域変化の神認を受けたのである。これは、当時人間が周囲との緊張・軋轢・競合から余儀なくされていった「富と権力」システムのもとは、一部の支配階級以外は苦役の日々を味わい、なんでこういう境遇に陥ったのかに呻吟していた事態を、権力者はそれは神が定めた運命だとする伏線である。

 では、権力神話は、この地域的分業の担い手が、下級神々から人間に代わった経緯をどのように述べるのであろうか。前1500年頃作成のシュメール語神話「エンキとニンマフ」によると、「原初の海(ナンム)から出現した神々」は、「世界の諸処に・・小さな場所」を見つけ住み着き、「結婚」して「生計をまかなう必要に迫られ」、「運河を掘」り、「二流以下」の神々が「仕事に駆り出され」たが、厳しい労働に疲労しきって、不満を持つようになった。ナンムはエンキにこれを知らせ、神々の身代わりをつくることを助言し、エンキは粘土から身代わりつくることをナンムに教えた。そこで、ナンムは8人の女神の助けを借りて「十分成熟した人間」を創り出した(ジャン・ボテロ前掲書、360ー1頁)。この人間が神々の「経済的問題と技術的問題」を同時に解決したのみならず、エンキは、「虚弱」者には「王宮付の士官」、「盲人には吟遊詩人」、「不妊の女には売春婦」、同性愛者は「王宮」職(道化役者)などと(ジャン・ボテロ前掲書、361頁)、「素材をあらゆる用途に駆使する能力のある技術者」(ジャン・ボテロ前掲書、362頁)のように、「不具の人間」にも役割を見つけだした(ジャン・ボテロ前掲書、361頁)。富社会では、神々は、人間の健常者だけでなく、非健常者にまで労働を強いたのである。

 さらに、前1600年頃作成のアッカド語神話『アトラ・ハシース』によると、「二流の神々」が労働で疲れ果て、エア(エンキ)が上記解決策で「神々を苦しみから解放」した後に、エアは、殺した一人の神の血を粘土に混ぜて「新しい生き物」をつくることを提案し、ここに、死後も存続する「幽霊」という「神々の特権」(不死性)をもつ人間がつくられた。エアの人間創造の目論見は、「巧妙で、複雑で、正確」なのであった(ジャン・ボテロ前掲書、363頁)。

 こうして、エア=エンキは、人類の「創造主」にして「熱心な保護者」(ジャン・ボテロ前掲書、364頁)となった。以後、人々が「労働に従事し、生来の務めを熱心によく遂行したために繁栄し、驚くほど数が増えた」ので、エンリルは、「増えすぎた厄介者」を減らすために「疫病」を蔓延させた。エアは自分が作った人間を生き残らせようとして、寵愛する「最高賢者」(人間の)に災禍を食い止めるように指示した。エンリルは、「愚弄」されていると激怒し、大洪水を送りこむことを決意した。そこで、エアは、「彼らの王の意志」に背いて、さりとて告げ口はできないので、最高賢者に夢を見させ、間接的に洪水対策として方舟をつくらせた。これによって人間は生き延びたが、エアは「王の意志」を一部生かすために、不妊の女性、「子供を持つことを禁じられている宗教身分の女」、幼児を死なせる女などを創り出した(ジャン・ボテロ前掲書、365頁)。

 こうして、メソポタミア人が、「技術を統御する神」を重視したのは、「この地の文明全体、彼らの生活すべてと彼らの生き方すべてが、歴史の黎明期以来、なによりもまず共同の労働、生産と有用な財の粗放的加工に基盤を置いてきたから」(ジャン・ボテロ前掲書、377頁)である。権力が自らの基礎たる富生産のための技術を重視し、王の側近には技術にたけた「宰相」などを登用していた(ジャン・ボテロ前掲書、373頁)。これは、現在の権力も同じであり、経済・財政技術に通暁した官僚などを重用している。富社会誕生以来、権力は自らを支える技術を重視し、余すところなくそれを駆使し、国富増大に邁進してきたのである。これが、古今東西変わらぬ権力者の国家運営方式なのである。

 このように、メソポタミア神話からも、文明とは、「富と権力」のシステムを根幹とするものなのであり、宗教と法などに支えられたものなのであることが確認された。

 この「富と権力」システムを根幹とする文明が、農業文明・商業文明・工業文明とも称されるのは、国家のよって立つ富の源泉を表したものであり、開墾政策(古代・中世・近世農業政策)・商業政策(絶対王政の重商主義政策など)・工業政策(産業革命後の経済政策)などはその富の増加に関わる権力政策だとといえよう。そして、この文明を支える国家がその富を租税として強制的に徴収して、王族を維持し、役人・兵を養い、武器を備えることを可能としたのである。近世以降には、戦争・景気刺激などの臨時費調達の必要が迫られと、将来の租税を担保にして国債を発行し始める。国家は、国家経営のために絶えず経費を膨張させたことによって財政危機に直面し続けてきた。この間、富(生産力)の増加と専制・民主の相関によって国家形態は多様な姿態を取り、古代国家(奴隷制国家)・中世国家(荘園制国家)・近世国家(封建制国家、その最後の国家としての絶対王政)・近代国家(ブルジョア国家)などとなるが、一貫して国家を物質的に支えたのは富を強制的に収奪した成果たる租税であった。

 なお、『朝日新聞』(平成23年12月4日付朝刊)は、「借金が民主主義を支配する」という記事を一段冒頭に掲げていて、そのスケールの大きさと意気の高さは大いに評価できる。しかし、各地の研究者の貧弱な学問水準・能力という現状に制約されて、総合的・根源的な学問方法論がないために、個人の借金(個人の格差・貧富さ)と国家の借金を混同し、帝国主義との関連からみたアテネ古代民主主義や近代民主主義の意義(言うまでもなく民衆意見を反映しようとすること)と限界(奴隷主、支配的資本の「帝国主義」的支配・収奪のために民衆意見・利益が歪曲されること)の言及もなく、既存の個別研究者の断片的知識をつなぎあわせるだけにとどまっているかである。元来、「富と権力」システムのもとでは、民主制ですら帝国主義的搾取などのために民衆の声は制約されるものであり、支配的資本の利益に規定された国家経営の諸経費は不可避的に膨張し、国家借金もまた増加する構造になっているのである(近代については、拙著『日本外債史論』など参照)。換言すれば、重要なことは、民主制という形態ではなく(つまり、民主制という形態の美名のもとに、権力や支配的資本によって民衆の労働成果が公然とあるいは巧妙に収奪されるということである。例えば、アテネ古代民主制[強大な海軍をバックに内に奴隷制、外に植民地を擁して内外民衆を収奪]や現代アメリカ資本主義[強大な軍事力をバックに、ドル紙幣を世界に散布し、特に金融工学を駆使した金融資本が「無知」な各国民衆を「歪み」是正などと称して収奪]のように、民主制は他国民の収奪に好都合でもあったということを想起されよ)、民衆の利益のための民主的決定のシステムであるかどうかということである。

 文明と文化 さらに、国家を支える「宗教と法と軍事力」のうち、法と軍事力は秩序維持のための強圧的か物質的な国家装置であり、権力宗教は国家威厳・正当性などを補完する国家装置となる。因みに、その文明の波及過程で独自に各地に持続する固有な宗教(自然宗教)・言語・芸術(ここで特に重要なものが自然社会の文学[その典型が日本の『万葉集』]などである)・建築などが文化ということになり、故に文明の侵入或は導入に際しては各地の文化との抵抗と妥協が多様に生じることになろう。文明は文化をとりこみ、時に文化で補完されつつ、時に文化に批判され、崩壊させられることにもなり、文明と文化の関係は複雑多様なものとなろう

 文明と文化の関係が多様になるのは、文明の側に原因があるというより、文化それ自体が多様で広汎であることによろう。その結果、文化の定義はまちまちとなり、文化に関わる専門研究の数だけあるということになる。しかもその多くは文明概念の定義を視野に入れていないので、一面的なのである。ここでは、文明との関連で文化について最大公約数的な定義をしておくと、「文化とは、『富と権力』システムの下で人間がある地域社会成員として生活する過程で獲得する『衣食住、娯楽、学芸、宗教』など多様な生活習俗の総体」ということなる。それは、高邁な芸術・思想・精神のみならず低俗で濁ったものも併せ持つ精神活動・価値観ということであり、一言でいえば、文化とは高邁で美しい精神的なものだけではないということである。

 この文明と文化の関係について、メソポタミア神話は興味深い示唆をあたえる。メソポタミア人は文明の恵みに「メ」という概念を与えた。この「メ」は、「ある文化領域の全体であると同時に、組織化され文明化された生活が獲得し、その本質的特性にまで還元された知識・経験」である。この「メ」という獲得物は、「神の『発明』や決定の結果ともみなされ」、ゆえに「神々の立てるプラン、神々が生物・無生物を問わずすべての存在に付与する運命の、それぞれの内容」ともなる(ジャン・ボテロ前掲書、357頁)。後者のプラン論については、クレマーも、「メ」は「宇宙の実在と文化現象にそれぞれ内在する一定の法則や規則を指しているらしい」(S,N.クレマー『歴史はスメールに始まる』新潮社、昭和34年、80頁)としている。

 ジャン・ボテロによると、メソポタミア神学者は、この「メ」について、「百あまりの項目を挙げて一編のカタログ」を作っている。S,N.クレマーもこれを取り上げ、「<文明(厳密に言えば「文明と文化」というべきであったろう)とその要素>という名にふさわしい、文明分類の最初の記録」(S,N.クレマー前掲書、94頁)として、順番に番号を付して68のリストを挙げている。(1)−(17)番のリストは、権力宗教と権力にかかわるものであり、やはりこれが筆頭におかれていたことがわかる。そこで両者を参考に、この「メ」について、「富と権力」システム(文明)とそれを支える、あるいはそれと関わる文化という視点より筆者なりにまとめてみると、下記のようになる。

  権力ー(1)主権、(3)崇高にして恒久的な王冠、(4)王位(「平和な状態と王位の安定」)、(5)尊き笏(「高貴なる王笏」)、(6)宝祚、(9)王権(王権を規定する    「牧者であること」)、(18)クルガルウ(宦)、(19)ギルバダラ(宦官)、(20)サグルサグ(宦官)、(33)長老職、(34)英雄、(35)権力、
  掟・法ー(26)掟、(63)審き、(64)判決、
  軍事ー「軍事生活」、(21)軍旗、(23)武器」、被征服者の「哀歌」、(38)都市の破壊、(42)外国の反乱」

  職ー「商業」、「技術」、「家畜飼育」、「灌漑」、「火の起こし方」、消化術、(45)「木工」、(46)「金属の鋳造」、(47)写字家、(48)鍛冶職、(49)革職、(50)大     工職、(51)かご編み職、「助言を行なう能力、公正に裁く感覚、決断」、「義務労働」、
  住ー「家造り」、「集合家族、」
  娯楽ー(25)「売春」の男女の専門家とこれに関わる「性的な商売」、
  学芸ー(28)芸術、(31)グシリィーム(楽器)、(32)音楽、(65)リリス(楽器)、(66)ウブ(楽器)、(67)メシィ(楽器)、(68)アラ(楽器)
  宗教ー(2)神権(世界全体を要約する「神性」)、(7)聖なる神殿、(8)聖職、(10)永遠の女権、(11)斎(いつ)き女(神殿)、(12)イシブ(神殿の宦官)、(13)    ルマア(神官)、(14)グトゥグ(神官)、(15)真理、(16)冥府降り、(17)冥府脱出、(29)祭室、(30)神殿の僕、

  人事・感情ー(24)性交、(27)侮辱(誹謗中傷)、(36)憎悪、(37)正直、(39)哀悼、(40)心の喜び、(41)虚偽、(43)善、( 44)正義、(52)知恵、(53)   看護、(54)潔斎、(55)畏れ、(56)恐怖、(57)闘争、(58)平和、(59)敗北、(60)勝利、(61)評議、(62)苦悩

  最後に、「これら全体あるいはさらに多くの分野を統括し、技術の取得と実践を主導」する「知性と知識」(ジャン・ボテロ前掲書、357頁)。

 メソポタミア人、世界で最初に富社会を経験したメソポタミア人は、富社会という文明がもたらした多様な文化総体をこのように概括したのである。彼らは、自然社会とは異なり富社会の「獲得物」を性商売まで含めて見事に要約したのである。ここには「文明と文化」の総体的相関図が的確に語られているのである。

 こうした総体的相関図からみれば、前述のエンキ神は、「文明生活の創造者」「唯一の先導者」であるのみならず、「万能技師」としても、こうした「国の複合的で精緻な存在のメカニズム」=「文明と文化」の複雑なメカニズムの調整者でもあったことになるのである。エンキ神は、具体的には、前述の様に、ウトゥ(行政司法)、エンビルル(「ティグリスとユーフラテスの機能」)、ウットゥ(衣服)、ナンナ(「魚の多い沼沢地」)、スムカ(野生動物)、ドゥム(家畜の飼育」)、クッラ(煉瓦)、ムシュダン(建物)、ニンムグ(木工と金工)、ニンイシンナ(「売春」)、アルル(人類制作)、二ダバ(出産)、ナンシュ(文字)などの下級神に割り当てたのである。エンキ神と配下の下級神によって、「文明と文化」の総体の秩序が維持されるとしたのである。権力者は、こうしたエンキ神の「知性と知識」で文明と文化の相関的な「獲得物」を調整しようとしたのである。

 だが、現実には、文明が各地多様に生み出した文化は、その多様性の故に権力を支えるだけではなく、それを批判し、突き崩そうとするものともなったのである。人々は、日常的に「争い、勝利、誹謗中傷、へつらい」、屈辱、虚言などの社会的ストレスにさらされ、それが権力の民衆収奪批判のエネルギーを増幅させるのである。だから、権力者は、こうしたエンキ神の「メ」をほしがるであろう。シュメール神話『イナンナ女神のエリドゥ詣で』によると、ウルクの守護損イナンナ女神は、「エンキ神の都エリドゥへ出かけ」、「世界秩序の根源となる律法『メ』を掌握」していたエンキ神に「メ」を求めた。エンキは酒宴ですっかり酔い、つい「請われるまま文明の源である『メ』を全部やってしまい」、イナンナはこれを船に積み込んで自分の都ウルクに漕ぎ出したという話がのっている(岡田明子・小林登志子『古代メソポタミアの神々』集英社、2000年、67頁)。これなどは、ウルクの権力者が富社会の乱れた秩序をエンキ神のもつ「メ」に助けを求めようとした現れであろう。以後の権力者もまた、基本的にはこうした「メ」装置を求めてゆくのである。古今東西、権力は、物理的には軍事力・警察力で強制的秩序を維持しようとし、宗教が「メ」装置の中核ともいうべものであるが、宗教の影響力の希薄化した現代ではそれにかわるものとしては情報ぐらいしかなく、政治はますます混迷して民衆の支持を得られず、経済も先進国ほどますます停滞するであろう。だからこそ、総合的・根源的学問によって、富社会の始発点たるメソポタミアまで含めた現在の総体的把握が必要になっているのである。

 また、よく文明の特徴としてその高度・複雑さが指摘されるが、文明が高度・複雑であるか否かは、それ自体は枝葉末節的なことである。なぜなら、人間の細胞組織を初めとする自然のつくり・営みは、初めから高度・複雑であり、人為的な高度・複雑さなどはとうてい自然の高度・複雑さの足元には及ばないからである。文明の高度・複雑さ如何自体は文明のメルクマールにはならないということだ。そして、欧米で案出されたこの「文明」用語は、自然を野蛮とみなし、「富と権力」という人工物を進歩・開明とするという一面的見方に基づいており、それが内包する諸問題を軽視するものだということにも留意しておこう。


                                四 諸革命と人間運命の岐路 

 文明の定義において、富=経済を欠落させると、国家の変革、異文化交流などの非経済的側面のみが問題になりがちである。例えば、西川長夫氏『国境の越え方』(平凡社、2001年)などは、経済的アプローチが希薄であり、文化・文明レベルでの国境の越え方のみを取り上げ、多国籍企業の展開・外国人労働力などは「国家崩壊」の徴候であるなどと、的外れな捉え方をしている。これなどは、文明概念をその根幹たる「富と権力」システムにおいてとらえきれていないことに基因している。

 このように文明の定義の重要性を再確認した上で、諸革命と人間運命の岐路との関わりの問題に戻れば、航海革命、産業革命、情報革命などは、「富と権力」システムに変容を強いるものではなく、あくまで「富と権力」システム下での富生産面での「大きな変化」でしかなかったということになる。それは、生産技術の工夫で富の生産を増加させ、人類に「我々は豊かになった、進歩している」という錯覚を与えたにすぎなかった。国富、所得、地価など数値でその「進歩」を証明しようと試みるものもいるが、だが、それは、大きな矛盾・問題を絶えず随伴させつつ、この「富と権力」システムを動揺させ、いずれは崩壊させる危険(大恐慌・金融恐慌、財政危機、公害、地球環境危機、食糧危機、貧富格差問題の深刻化など)を生み続けてきたのであった。これが、経済の成長というものの正体であった。こうした「富と権力」のシステムのもとで、GNP・GDPに代わる指標としてGNH(この本質については、GNHを歴史的に論じた拙稿[『仏教経済研究』所収]参照)などを提案したところで、本末転倒の試みだというほかはないのである。不幸な状況があるから幸福が問題になるのであり、即自的に幸福な状態にあるならば、幸福度などはまったく問題にならないからである。目ざすべきは、幸福度の上昇などではなく、幸福度如何などが不要になる社会の実現なのである。

 ただし、こうした民衆本位のシステムが世界的に実現する過程は、従来の「富と権力」システム転換の過程なのであり、故に環境革命などというレベルではなく、文明革命という高いレベルで把握するべきことになろう。そこでは情報革命が大きな役割を発揮する事が期待されており、その期待通りになるならば、この情報革命は文明革命という農業革命と並ぶ大画期を推進し実現するものとなりうるであろう。その意味で、人類は今まさに第二の大きな岐路、しかも今度は第一の岐路とは異なって明確な意図と決意をもって踏み出すことの可能な大きな岐路にさしかかっているのである。

 こうした展望は「千年視野」・「古今東西」の視点の導入によって初めて可能となるのである。確かに多くの論者が今後の展望について多くの意見を述べている。中でも、良心的意見の最大公約数的なものは、「がむしゃらに成長を求める時代は終わった。多くの経済大国は、成長の副産物として貧富の格差や環境破壊を生み出してきた。わが国は、それとは異なる『脱成長』の経済モデルを示し、エネルギー消費を抑制しながら、安定した社会基盤と豊かな自然環境を備えた成熟した国造りを目指すべきあろう」(小原克博「安全神話とは何だったのか」『京都新聞』2011年5月10日)というものである。だが、ここには根源と総体がなく、ゆえに「安定した社会基盤と豊かな自然環境を備えた成熟した国造り」という展望が空疎なのである。ありきたりの見通しで、何か肝腎なものが欠けているのである。「千年視野」・「古今東西」の視点が欠落しているのである。

 本物の学問のささやかな課題の一つは、こうした「千年視野」・「古今東西」に立脚して、人類がこの「自然社会」と「富社会」という二つの社会をいかに辿ってきたかを解明して、「富と権力」システムの諸問題と行き詰まりを明らかにして、それに代わるものとして即自的に幸福な社会と、それを実現するためにの新国際システムを根源的・総合的に人類に提示することとなる。学問は基本的方向のみを示し、具体的な処方箋とプログラムは、ごく普通の生活人が真剣な討議を幾度も幾度も積み重ねてつくりだしてゆくであろう。EUが既存システムを残しつつ推進するのでさえ百年、二百年かかると見通しているように、それには、最低でも百年、二百年の期間が必要になるであろう。だが、生活人は、愚かであるかもしれないが、賢く逞しいのでもあるから、その期間は短くなるかもしれない。

             

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